当日配布資料

2009 年 8 月 28/29 日 オープンリサーチセンター第 9 回研究会大会(第 3 回合同研究会)
12、13 世紀イングランド北部の貴族社会
―イングランドとスコットランド、両王権間における de Vescy 家の事例から―
東北大学大学院博士後期課程 3 年(D3)武蔵 貴弘
報告の意義・主旨
中世イングランドの北部地域の貴族社会研究。プロソポグラフィ。13 世紀初頭の貴族反乱が北部から
発生した原因の一つを示す。
Ⅰ 報告の背景・課題と研究史の整理
(1) 反乱研究
Holt:反乱研究の先駆。中心となった諸侯=北部諸侯について考察。反王の背景の多様性を指摘
Vine:2 人の反乱諸侯に焦点を絞り考察。対英王関係の悪化が反乱参加の背景と考察
Golding:また別の反乱諸侯に絞って考察。父親の代から王への未払い金があったこと、反乱諸侯、
国王派の両方から封を受けていたことを指摘し、故に反乱参加は苦慮の結果だろうと推測
→Holt によって「北部諸侯」の包括的研究がなされたが、個別研究に関しては少ない。特に初期の反
乱集団の 1 人であった Eustce de Vescy についての研究はない。また境界地域の特徴であるスコット
ランドとの関係についてあまり注意が払われず、専ら対英王関係、イングランド国内の視点から考察
(2) 北部地域研究
Barrow:12 世紀までのスコットランドのダラムへの影響を考察。聖人崇拝を通して接近するもダラ
ムは独立性を維持
Dalton(1):Eustace の祖父 Eustace Fitz John について研究。ヘンリ 1 世の恩顧による出世、スコッ
トランドの影響なども受けつつ自家勢力拡大を図った、ことを指摘
Dalton(2):ダラムに対するスコットランドの影響について考察。宗教的・血縁的・封建的諸紐帯など
の複雑なネットワークを形成したが、スコットランド王にとって政治的支持となるほどに
強くはなく、ダラムは政治的独立を維持
Green:12 世紀のイングランドとスコットランドの北部の主権を巡る争いを考察。スコットランド
侵入時、北部諸侯は 2 派に別れていたが、次第に英王支配が強化
→北部地域の研究ではスコットランドの影響力が意識され、その活動が活発であった 12 世紀に集中
して考察されている。12 世紀後半以降になると英王支配が貫徹していくこともあり、ジョン時代を視
野に入れた研究は少ない。
ジョン時代の反乱研究:
「北部諸侯」の役割、性格、反乱集団全体における多様性、が指摘
↔反乱発生の背景として指摘される不安定性、スコットランドの影響を具体的に分析した研究が不足
北部研究:征服以降、イングランド王の支配が強化されていくもスコットランドとの境界にありその
影響をたえず受け、不安定な地域であったことが指摘
↔13 世紀初頭(ジョン時代の反乱)までをも視野に入れた研究が不足
1
○ 報告の内容・目的
北部諸侯、特に Eustace de Vescy の家系が諸権力のなかで置かれていた状況をたどることで、当時の
北部貴族社会を分析し、併せて反乱が北部から発生した原因の 1 つを提示する。
Ⅱ 北部諸侯の紐帯関係
1 先行研究に基づく北部諸侯の同定
ⅰ) Holt の研究による主要反乱者
:Eustace de Vescy ユースタス・ド・ヴェスキ Richard de Percy リチャード・ド・パーシィ
William de Mowbray ウィリアム・ド・モウブリィ Robert de Ros ロバート・ド・ロス
John de Lacy ジョン・ド・レイシィ Nicolas de Stuteville ニコラス・ド・ストゥートヴィル
Gilbert de Gant ギルバート・ド・ガン Roger de Montbegon ロジャー・ド・モントベゴン
ⅱ) Vine, Golding の研究対象となった反乱者
:Peter de Brus ピーター・ド・ブルース
Richard de Percy リチャード・ド・パーシィ
Simon de Kyme サイモン・ド・カイム
2
史料分析による状況の検証 諸侯発給の証書などから諸紐帯関係・対英王関係を整理
Eustace de Vescy:1190 年 1300 マルクで相続、ノーサンバランドのアニックに中心所領。暗殺計
画の主謀者で国外追放→後日恩赦されるも同時に自城が王命によって破壊
・ 史料 1 ピーター・ド・ブルースがラングバーグ郡のナイトに発給したチャーター (1207-9)
(先行研究 Holt、森岡に依拠)
:ユースタス・ド・ヴェスキ、ロバート・ド・ロスらが証人
・ 史料 2 ピーター・ド・ブルースが国王からラングバーグ郡を 400 マルクで購入 (1207)
:史料 1 の前提。購入者はピーターのみ
・ 史料 3 ピーター・ド・ブルースが国王より 1000 ポンドでダンビー所領購入 (1201)
:ユースタス・ド・ヴェスキ、ロバート・ド・ロスらが共に 200 マルクずつを保証
(ウィリアム・ド・ストゥートヴィルも 100 マルクを保証)
・ 史料 4 ヒラリー夫人の国王への提供 (1203)
:ユースタス、ロバートがそれぞれ 100 マルクずつ保証 (ピーターは出てこず)
・ 史料 5 ロジャー・ド・モントベゴンが妻の為に国王へ 500 マルク提供 (1200)
:ユースタスが 300 マルクを保証
・ 史料 6 ピーター・ド・ブルース、ロバート・ド・ロス、共同で国王へ兎を提供 (1211)
:2 人のみ
・ 史料 7 キズバラ参事会員へのウィリアム・ド・ストゥートヴィルがなした寄進、の確認 (1180-90)
:ユースタスの父ウィリアム・ド・ヴェスキが証人として出てくる (父親の代からの仲)
・ 史料 8 ウィリアム・ド・ストゥートヴィルのケルドホーム教会になした寄進、の確認 (1190-1201)
:今度はユースタス本人が証人として出てくる
・ 史料 9 ウィリアム・ド・ヴェスキ発給の証書が真性である事をカーライル助祭長が認める (1190)
:サイモン・ド・カイム、ウィリアム・ド・ストゥートヴィルらが証人として出てくる
→ブルース家、ヴェスキ家、ロス家は証書の証人になったり王への支払いの保証人になったりしてい
2
た。
ヴェスキ家とストゥートヴィル家の関係も同様で封建関係に加えて聖界を介しての関係も伺える。
・ 史料 10 リンカン司教ジェフリ(ジョン王の異母兄弟)がブリングトン修道院にチャーター発給
:サイモン・ド・カイムが証人として出てくる→教会・国王派との関係
・ 史料 11 ジェフリの下僚への言及
:ジェフリの下僚としてのキャリアを有するラルフ・ド・カイム
・ 史料 12 ウィリアム・ド・ヴェスキ発給チャーターが真正である事をカーライル助祭長が認める
:サイモン・ド・カイム、ウィリアム・ストゥートヴィルらが証人として出てくる。
→カイム家はヨーク、リンカンの中小諸侯として反乱側、国王側両方から封を授かっていた。このよ
うな状態は当然で、むしろ 1215 年を念頭に、諸侯の反国王派・親国王派の区別は非建設的。様々な
関係を通じて貴族社会を営んでいたところに、
二者択一を迫る政治危機が起きた、
と考えるのが自然。
3
ヴェスキ家のスコットランドとの関係
ⅰ) ユースタス・ド・ヴェスキ (b. 1169-71, d. 1216.)
・ 史料 13 ウィリアム獅子の娘マーガレットとユースタスの結婚 (1193)
:スコットランド王権との関係での最初の記録、年代記と財務府記録の 2 つがある。
・ 史料 14 リチャード王からウィリアム獅子への証書 (1194)
:証人にユースタス登場
・ 史料 15 ジョンからウィリアム獅子への書簡 (1199)
:ユースタスがイングランド側の使節として登場
・ 史料 16 ジョン、ウィリアム獅子のリンカンまでの案内をユースタスらに命じる (1200)
:スコットの王の義理の息子ユースタスとロバート、と表記
(このあと 1200 年 11 月 21 日にウィリアム獅子はリンカンでジョンに臣従し、そこではここで
の案内人らを含めた多数の有力者が証人として登場)
・ 史料 17 ロザラムでの市と Alnmouth での市・港の保有権利をジョンから購入 (1208)
:100 マルクと馬 1 頭で権利購入、父ウィリアムの代から継続する自家勢力拡大の行動
・ 史料 18 ジョンからウィリアム獅子への会談要求書簡 (1209)
:案内人としてチェスター伯、ロバート、ユースタスらが登場
・ 史料 19 スコットランド貴族の、チェスター城主ロジャー・ド・レイシィへの証書 (1210-12)
:ユースタスが証人として登場
・ 史料 20 管理下に置いていたウィリアム・カミンの息子が死亡 (1213)
:ウィリアム・カミンはスコットランドの有力者
→マーガレットとの結婚、外交使節、証書の証人などスコットランドとの関係が存在
それがユースタスが反乱した背景の 1 つと推測
ⅱ) ウィリアム・ド・ヴェスキ (b ?, d. 1183)
・ 史料 21 聖アンドリューズ司教ロバートによる証書 (c. 1150)
:証人として登場
・ 史料 22 伯マルカム (後のマルカム 4 世、伯ヘンリの第 1 子) による Brinkburn 教会への証書
:1153 年。証人として登場、史料 30 との比較
3
・ 史料 23 ヘンリ公 (後の英王ヘンリ 2 世) による証書 (1153-4)
:父ユースタス・フィッツ・ジョンの相続を認める証書
・ 史料 24 伯ウィリアム (後の獅子、伯ヘンリの第 2 子) による証書 (1152-5)
:Alnwick (アニック) で市を有す権利を授与、史料 17 との比較
・ 史料 25 マルカム 4 世がヒュー・ギフォードになした授与、のウィリアム獅子による確認証書
:証人として登場 (c. 1166)
・ 史料 26 ウィリアム獅子の侵入を伝える年代記 (1173-4)
:獅子に抵抗した諸侯の 1 人として登場
→ヘンリ 2 世の恩顧を受け、スコットランドとの関係を有しながら勢力拡大。
政治危機にはイングランド側を支持。
ⅲ) ユースタス・フィッツ・ジョン (b. 1100, d. 1157)
Dalton による研究:ヘンリ 1 世の「新人」で北部地域における国王官吏として活躍、国王支配
の担い手であったがスコットランドの証書にも登場。1130 年代にはスコッ
トランドの侵入によりこれに接近→1138 年のスタンダードの戦いではスコ
ットランド側→敗北後、チェスター伯やスコットランドの後ろ盾から権勢
を回復。その手腕・能力は伯に賞賛される。
・ 史料 27 デイヴィド 1 世の証書 (c. 1124)
:証人として登場
・ 史料 28 ヨーク大司教サースティンによる聖アンドリューズ司教ロバートの叙品 (1128)
:証人として登場
・ 史料 29 チェスター伯ラヌルフによる証書 (1144-53)
:証人として登場(同様の例いくつかあり)
・ 史料 30 伯ヘンリ(デイヴィド 1 世の息子)による Brinkburn 修道院への証書 (1150-2)
:証人として登場、史料 22 との比較
→ヘンリ 1 世の恩顧を受け領主権を確立したが、スコットランド支配が強まるとこれを支持。衰退後
は、スコットランドや他有力諸侯の後ろ盾で権勢回復。
Ⅲ 結論・課題
結論
ⅰ)北部反乱諸侯のなかですら対国王関係は様々で、恩顧を受けていたものもいた。
ⅱ)地域の有力者として封・血・金銭などの繋がりがあり、利害の一致や共通点を有していた。
ⅲ)反乱参加は各家にとって従来からある地域共同体内の諸紐帯の取捨選択で、結果反乱集団が形
成された。その意味で国王との関係からだけでは反乱参加の背景が明らかにならない者もいた。
ⅳ)そもそも北部地域はスコットランドとイングランド王権の間にあって絶えず揺れ動き、しかしそ
の中であっても緒家は自家勢力の維持・拡大・回復に努めていた。
ⅴ) Eustace の家系について、史料 17、24、またスコットランド侵入時に見られるように、両王権
との関係において時勢にあった行動をとる事で勢力の拡大を企図。Eustace de Vescy はスコット
ランド王の娘と結婚し、スコットランドを知る者としてイングランド側の外交使節として活躍
ⅵ) 12 世紀後半以降、スコットランドの北部への影響力は減少し英王支配が強化されるといわれて
4
いるが、スコットランド側は単純な軍事侵入だけでなく、Eustace の結婚に見られるような北部
諸侯の取り込み工作もあり、この地域の英王支配は未だ完全ではなかった。その中で北部諸侯に
とっては、英王支配に対して独立的になりやすい素地があったといえ、それが北部から反乱が発
生した原因の 1 つと指摘することが出来る。
課題
ⅰ)さらなる北部諸侯・地域についての研究
ⅱ)南部・東部諸侯の考察・検討も加えた、具体的な全国の反乱集団の性格 (なぜ全国拡大したか)
一次史料
J. Bain, ed., Calendar of Documents Relating to Scotland 4vols. (Edinburgh, 1881)
J. Barracloigh, ed., The Charters of the Anglo-Norman Earls of Chester, c. 1071-1237 (Chester,
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G. W. S. Barrow and W. W. Scott, eds., The Acts of William I King of Scots 1165-1214 (Regesta
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H. W. C. Davis, ed., Regesta Regum Anglo-Normannorum, 4vols., (Oxford, 1913)
W. Farrer, ed., Early Yorkshire Charters, (Edinburgh, 1915), ii
W. Farrer and C. T. Clay, eds., Early Yorkshire Charters, (The Yorkshire Archaeological Society,
1952), ix
J. Hay and A. Pringle ed., Chronica de Mailros (Edinburgh, 1835)
A. C. Lawrie, ed., Annals of the reigns of Malcolm and William, kings of Scotland (Glasgow, 1910)
A. C. Lawrie, ed., Early Scottish Charters prior to A. D. 1153, (Glasgow, 1905)
M. Lovatt, ed., English Episcopal Acta, xxvii, York, 1189-1212, (London, 2004)
D. M. Smith, ed., English Episcopal Acta, i, Lincoln, 1067-1185, (London, 1986)
D. M. Stenton, ed., The Great Roll of the Pipe for the Second Year of the Reign of King Richard I
(Pipe Roll Society, new series London, 1924)
D. M. Stenton, ed., The Great Roll of the Pipe for the Second Year of the Reign of King John (Pipe
Roll Society, new series London, 1935)
D. M. Stenton, ed., The Great Roll of the Pipe for the Third Year of the Reign of King John (Pipe
Roll Society, new series London, 1936)
D. M. Stenton, ed., The Great Roll of the Pipe for the Fifth Year of the Reign of King John (Pipe
Roll Society, new series London, 1938)
D. M. Stenton, ed., The Great Roll of the Pipe for the Ninth Year of the Reign of King John, (Pipe
Roll Society, new series London, 1944)
D. M. Stenton, ed., The Great Roll of the Pipe for the Tenth Year of the Reign of King John, (Pipe
Roll Society, new series London, 1945)
D. M. Stenton, ed., The Great Roll of the Pipe for the Thirteenth Year of the Reign of King John
(Pipe Roll Society, new series London, 1953)
W. Stubbs, ed., Chronica : Magistri Rogeri de Houedene, 4vols. (Rolls Series, li, 1964)
5
参考文献
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ed., Anglo-Norman Durham 1093-1193 (Woodbridge, 1994), pp. 311-323.
C. R. Cheney, ‘The Twenty Five Barons of Magna Carta’, Bulletin of the John Rylands Library, l
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S. D. Church, ed., King John New Interpretations (Woodbridge, 1999)
M. T. Clancy, ‘Magna Carta, Clause Thirty-Four’, English Historical Review, lxxix, (1964), pp.
542-548.
G. E. Cockayne, The Complete Peerage of England Scotland Ireland Great Britain and
the United Kingdom, 6vols. (Gloucester, repri. edn., 1982)
P. Dalton, ‘Scottish Influence on Durham, 1066-1214’ in D. Rollason ed., Anglo-Norman Durham,
1093-1193 (Woodbridge, 1994), pp. 339-352.
P. Dalton, ‘Eustace Fitz John and Politics of Anglo-Norman England’, Speculum, lxxi (1996)
J. Gillingham, ‘Historians Without Hindsight : Coggeshall, Diceto and Howden on the Early
Years of John’s Reign’, in S. D. Church ed., King John New Interpretations (Woodbridge,
1999), pp.1-26.
J. Green, ‘Aristocratic Loyalties on the Norman Frontier of England, c. 1100-1174’ in D.Williams,
ed.,England in the Twelfth Century (Woodbridge, 1990), pp. 83-100.
B. Golding, ‘Symon of Kyme : The Making of a Rebel’, Nottingham Medieval Studies, xxvii (1983),
pp. 23-36.
C. W. Hollister, ‘King John and the Historians’, The Journal of British Studies, i, (1961), pp. 1-19.
J. C. Holt, ‘The Barons and the Great Charter’, English Historical Review, lxx (1955), p. 1-24.
J. C. Holt, The Northerners (Oxford, 1961, paper back edn, 1992)
J. C. Holt, Magna Carta (Cambridge, 1965, 2nd edn.,1992)
K. Norgate, John Lackland (London, 1902)
S. Painter, The Reign of King John (Baltimore, 1949)
I. J. Sanders, English Baronies (Oxford, 1960)
W. Stubbs, Constitutional History of England in its Origin and Development,3vols. (Oxford,
1874-78)
R. V. Turner, King John (London, 1994)
C. Valente, The Theory and Practice of Revolt in Medieval England (Ashgate, 2003)
M. J. Vine, ‘Two Yorkshire Rebels : Peter de Brus and Richard de Percy’, Yorkshire
Archaeological Journal xlvii, (1975), pp. 69-79.
青山吉信編『世界歴史体系イギリス史 1 先史-中世』(山川出版社、1991 年)
城戸毅『マグナ・カルタの世紀-中世イギリスの政治と国制 1199-1307』 (東京大学出版会、1980 年)
城戸毅訳 G・R・C・デイヴィス著『マグナ・カルタ』(ほるぷ教育開発研究所、1990 年)
小山貞夫「マグナ・カルタ (1215 年)の歴史的意義」
『法学』第 45 巻第 6 号 (1982 年), pp. 1-36.
6
禿氏好文訳マッケクニ著『マグナ・カルタ』(ミネルヴァ書房、1993 年)
佐藤伊久男「前期プランタジネット朝の歴史的位置-「イングランド国民国家」形成史論覚え書-」吉
岡昭彦編著『政治権力の史的分析』(お茶の水書房、1975 年), pp. 77-104.
都築彰
「
「アンジュー帝国」
の統治と解体」
佐賀大学教育学部
『研究論文集』
第 37 号 (1989 年), pp. 61-75.
中林瑞松、冬木ひろみ、中林正身訳 A・D・ミルズ編『イギリス歴史地名辞典 歴史地名編』(東洋書
林、1996 年)
森岡敬一郎訳ホルト著『マグナ・カルタ』(慶應義塾大学出版会、2000 年)
吉武憲司「アングロ・ノルマン王国と封建諸侯層、1066-1204 年」
『西洋史学』第 177 号 (1995 年), pp.
1-16.
7
2009 年 8 月 28/29 日 オープンリサーチセンター第 9 回研究会大会(第 3 回合同研究会)
武蔵報告 史料
略記:The Great Roll of the pipe (Pipe Roll) →PR
Early Yorkshire Charters→EYC
Chronica de Mailros→CM
Annals of the reigns of Malcolm and William, kings of Scotland→ArMW
Calendar of Documents Relating to Scotland→CDRS
Early Scottish Charters prior to A. D. 1153→ESC
Regesta Regum Anglo-Normannorum→RRAN
The Acts of William I King of Scots 1165-1214→AoW
The Charters of the Anglo-Norman Earls of Chester, c. 1071-1237→CEC
English Episcopal Acta→EEA
1 ピーター・ド・ブルースがラングバーグ郡のナイトに発給した証書 (1207-9)
W. Brown ed., Cartularium prioratus de Gyseburne Ebor. Dioceseos ordinis S. Augustini, 2 vols.
(Surtees Society, 1989-1994), i, pp. 92-94.(J・C・ホゥルト著森岡敬一郎訳『マグナ・カルタ』(慶
應義塾大学出版会、2000 年), 80-83 頁からの引用)
余(ピーター)が余の証書により、クリーヴランドのナイト並びに自由土地保有者並びに彼等の
配下の人々に、ラングバーグ郡において郡[会]の考慮によるか、あるいは然るべき「サクラバー」
によるのでなければ、彼らの何人も召喚されず、起訴されず、また訴訟という口実によって悩まさ
れることがないこと…さらに彼等の誰かが没収の罰を受けたとすれば、その人の持つ動産の額に従
い、またその没収の原因となった非違の程度に従って、割当査定されるべきことを許しかつ認証し
たことを知られたい。…余は上述の諸自由を、余と余の相続人により、この郡内に保有するクリー
ヴランドのナイトと自由土地保有者並びに彼らの相続人に永久に認める。副著人、チェスター城守
ロジャー、ロバート・ド・ロス、ユースタス・ド・ヴェスキ、ロバート・ウォレンシス(ヨークシ
ャー州長官)
、ウォルター・ド・フォーコンバーグ、リッチモンド城守ルアルド、ブライアン・フ
ィッツ・アラン、ジョン・オヴ・バーキン、ウィリアム・フィッツ・ラルフ、ウォルター・オヴ・
ボイントン、その他多数。
2 ピーター・ド・ブルースが国王からラングバーグ郡を 400 マルクで購入 (1207)
PR 9 John, p. 70.
「Nova Oblata」…Petrus de Brus [blank] cccc m. pro habendo wapentac de Langeberge cum
pertinentiis suis in comitatu Ebor’.…
「新たな提供について」…ピーター・ド・ブルースはラングバーグの郡およびヨークシャーに
。
あるそれに関わるものの保有について 400 マルクを[空白]〈負っている〉
3 ピーター・ド・ブルースが国王より 1000 ポンドでダンビー所領購入 (1201)
PR 3 John, p. 159.
「Nova Oblata」…Petrus de Brus r.c. de M li. pro habenda uilla de Danebi et foresta de Danebi
1
cum omnibus pertinentiis suis. que R. reddidit ei et heredibus suis tenendam de eo et heredibus
suis per seruitium feodi j militis in supradictis uillis.…In thes. ccc li. Et debet Dcc li. de quibus W.
de Stuteuill’ est plegius de c m et Robertus de Ros de cc m. Eustacius de Vesci de cc m. Robertus f.
Rogeri de c m. Henricus de Neuill’ de lx m. H. Bard’ de xl m.
「新たな提供について」…ピーター・ド・ブルースはダンビーの所領と森林、そしてそれらに関わ
るもの全てについて、を保有するべくために、1000 ポンドの〈財務府への新たな拠出について〉
、会
計を行う。それらについては王が彼とその相続人に、上述の土地の中の 1 騎士封のために彼らによっ
て保有されるべきものを、与えたものである。…彼は 300 ポンドを支払った。そして 700 ポンドを負
っていて、その内、100 マルクをウィリアム・ド・ストゥートヴィルが、200 マルクをロバート・ド・
ロスが、200 マルクをユースタス・ド・ヴェスキが、100 マルクをロバート・フィッツ・ロジャーが、
60 マルクをヘンリ・ド・ネヴィルが、40 マルクを H・バードが支払いを保証している。
4 ヒラリー夫人の国王への提供 (1203)
PR 5 John, p. 104.
「Nova Oblata in Linc’sir’」…Hyleria quondam uxor Roberti de Bolliers debet ccc m. et ij
palefridos ne distringatur ad se maritandam. plegii. Robert de Ros de c m. et ij palefridis. Eustace
de Vesci c m. et Willelmus de Albenn’ de c m.
「リンカンシャーでの新たな提供について」…ロバート・ド・ボリワーの妻であるヒラリーは自身
の結婚についてなんら乱されることが (強制され) ないように 300 マルクと 2 頭の馬を負っている。
保証人はロバート・ド・ロスが 100 マルクと 2 頭の馬、またユースタス・ド・ヴェスキが 100 マル
ク、ウィリアム・ド・アルビニが 100 マルクである。
5 ロジャー・ド・モントベゴンが妻の為に国王へ 500 マルク提供 (1200)
PR 2 John, p.110.
「Nova Oblata」・・・Rogerus de Mountbegun r. c. de D m. pro habenda in uxorem Oliua quondam
uxore Roberti de Sancto Johanne cum tota hereditate sua. De quibus Eustacius de Vesci est
plegius de ccc m. et Radulfus de Mara de c m. In thes. c et xiij li. et vj s. et viij d. Et debet cc et xx
li.
「新たな提供について」・・・ロジャー・ド・モントベゴンは。妻オリヴィアが、(かつて) ロバート・
ド・セント・ジョンの妻であったことでの財産を、彼女の全ての相続所領と共に保有するべくの為の
500 マルクについて会計報告する。この 500 マルクについてユースタス・ド・ヴェスキが 300 マルク、
ラドルフ・ド・マーラが 100 マルクを保証している。ロジャーは 113 ポンド 6 シリング 8 ペンス支払
った。220 ポンドを負っている。
6 ピーター・ド・ブルース、ロバート・ド・ロス、共同で国王へ兎を提供 (1211)
PR 13 John, p. 29.
「Nova Oblata」…Robertus de Ros et Petrus de Brus debent viij optimos leporarios. et iiij
optimos bereserettos. pro uno dolio uini de Aucerr’.
「新たな提供について」…ピーター・ド・ブルースとロバート・ド・ロスはオーセールのワイン樽
のために良質のウサギ 8 匹と獣 4 匹を、負っている。
2
7 キズバラ参事会員へのウィリアム・ド・ストゥートヴィルがなした寄進、の確認 (1180-90)
EYC, ii, p. 104, no. 765.
Willelmus de Stutevilla omnibus ad quos littere iste pervenerint salutem. Sciatis me
concessisse et hac mea carta confirmasse Deo et ecclesie Sancte Marie de Giseburna et canonicis
ibidem Deo servientibus in liberam, puram et perpetuam elemosinam, donationem illam quam
Johannes de Hasla eis fecit super ecclesia de Hasla. Hiis testibus, Ricardo priore et Nigello et
Bernardo canonicis de Novo Burgo, Willelmo de Cottingham, magistro Rogero Arundel, Bernardo
de Rippeley, Willelmo de Vescy, Rainerio senescallo, Willelmo de Scalis, Willelmo de Karleolo,
Willelmo filio Hugonis, Rogero Cato, Willelmo filio Aldon’.
ウィリアム・ド・ストゥートヴィルがこの証書を手にするもの全員に挨拶する。汝らは、神とギズ
バラの聖マリア教会に、またそこの神に仕えるキャノン(参事会員)たちにヘスラ教会のためにヘスラ
のジョンが自由で公正で永遠の施主としてなしたところの寄進を、私が認め私のこの証書によって確
認したことを知るべし。証人リチャード小修道院長、ノバ・ブルグスのキャノンのナイジェルとベル
ナルド、ウィリアム・ド・コッティンガム、師ロジャー・アランデル、ベルナルド・ド・リップリィ、
ウィリアム・ド・ヴェスキ、セネシャルレイネリオ、ウィリアム・ド・サカリス、ウィリアム・ド・
カレオロ、ウィリアム・フィッツ・ヒュー、ロジャー・カトー、ウィリアム・フィッツ・アールドン。
8 ウィリアム・ド・ストゥートヴィルのケルドホーム教会になした寄進、の確認 (1190-1201)
EYC, ix, no. 26.
Willelmus de Stutevill omnibus hanc cartam visuris vel audituris salutem. Sciatis me
concessisse et hac carta mea confirmasse Deo et ecclesie Beate Marie de Keldholm et monialibus
ibidem Deo servientibus donacionem quam Robertus de Mautebi et Emma uxor ejus et Jordanus
de Boutebi et Sibilla uxor ejus eis fecerunt de duabus bovatis terre cum pertinentiis in Faddemor
que sunt de feodo meo sicut carte illorum quas predicte moniales inde habent testantur. Hiis
testibus, Eustachio de Vesci, Eustachio de Estutteuill’, Roberto fratre suo, Willelmo persona de
Cotinham, Benedicto de Sculecotes, Gaufrido Fossard, Ada de Stauele, Reginaldo de Capetot,
Gaufrido de Bosco Willelmi, Alano filio Turkilli.
ウィリアム・ド・ストゥートヴィルがこの証書を読み聞くもの全てに挨拶する。神とケルドホーム
の天のマリア教会に、とそこで神に仕える修道女に、ロバート・ド・メルトビィ、その妻エマ、ジョ
ーダン・ド・ボルトビィ、その妻シヴィルによって、私から保有するファドモアにある土地と共に
2bovates の寄進がなされたこと、彼らのチャーターは先の修道女が持っているものを証言している如
くにであるが、を私は認め私のチャーターによって確認したことを汝らは知るべし。証人は以下の者
たちである。ユースタス・ド・ヴェスキ、ユースタス・ド・エストゥートヴィル、その兄弟ロバート、
コッティンガムの人ウィリアム、ベネディクトゥス・ド・スクルコテス、ジェフリー・フォサード、
エイダ・ド・ストーヴィル、レジナルド・ド・カペトット、ジェフリー・ド・ボスコ・ウィリアム、
アラン・フィッツ・ターキル。
9 ウィリアム・ド・ヴェスキ発給の証書が真性である事をカーライル助祭長が認める (1190)
EYC, ii, pp. 402-3, no. 1105. [1190]
3
Cunctis Christi fidelibus Petrus de Ros, archidiaconus de Karlel’, salutem. Noverit universitas
vestra me, apud Eboracum ad assisas primo anno coronationis regis Ricardi, justiciario existente,
infortunio quodam in manu mea cartam quandam domus de Wattun, videlicet de xii bovatis in
Hotun de Willelmo de Vesci, ex parte fractam fuisse, dum ad sedandum quandam contumeliam
quorundam satellitum me in turba transferre. Ne igitur in posterum carta ipsa notari ex aliqua
infidelitate valeat propter resarciamentum quod in eadem habentur, testimonium perhibeo
presenti scripto et sigilli mei appositione me cartam predictam domus de Wattun integram ex
omni parte invenisse, et testimonium huic perhibent mecum tunc conjusticiarii mei quorum hic
sigilla apponuntur, videlicet, Simon de Kymba et Hernisius deNouill’ ; et his testibus, Odbert de
Longo Campo, Willelmo de Stutevill’, Gaufrido Haget, magister Rogero Harundel.
全てのキリスト者にカーライルの助祭長ピーター・ド・ロスが挨拶する。あなたたち全員はリチャ
ード王即位初年のヨークでのアサイズにおいて私が裁判官として存在していたときに、私が何人かの
同行者の見苦しい行いを止めるために群衆の中に入った際に、私の手の中にあったウィリアム・ド・
ヴェスキから出されたウォットン Wattun 教会にあるホウトン Hotun の 12bovates に関しての証書
が、とある不運によってばらばらに破れてしまったことを理解している。故に将来、その証書のなか
の、施された縫い目のためになんらかの不誠実によってその証書が非難されることが目指されないよ
うに、前述の証書が全ての点でウォットン Wattun 教会に与えられたものとして真正であることを私
のシールと私の記述によって認める。また、同時に私の同僚の裁判官であるサイモン・ド・カイムと
エルネイス・ド・ネヴィルもそのシールによってこの確かさを認める。以下証人、オスベルト・ド・
ロンシャン、ウィリアム・ド・ストゥートヴィル、ジェフリ・ハゴット、マスター・ロジャー・アラ
ンデル。
10 リンカン司教ジェフリ(ジョン王の異母兄弟)がブリングトン修道院にチャーター発給
EEA, i, no. 286 [1175-1183]
G. Dei gratia Lincolniensis electus universes catholice ecclesie fillis salutem. Universitati vestre
notum fieri volumus nos pietatis intuitu concessisse in perpetuam elemosinam canonicis et
sanctimonialibus de Bulinctona ecclesias de Burc et de Wintorp, et de Prestwald et de Ingam et de
Bulinctona et de Langetun et de Thetford et de Oxecumb et de Ristun et de Tiringt et de
Hamringham et ecclesiam sancti Aibini de Sperlinctona cum capellis et omnibus pertinentiis suis
ad proprios usus eorum perpetuo possidendas et quicquid iuris habent in ecclesiis de Feribi et
Fulletebi et Hachetorn et Freskenei de assensu et donatione eorum qui ius patronatus in ipsis
ecclesiis habere dinoscebantur sicut in eorundem cartis plenius continetur. Et ne hec nostra
concessio processu temporis alicui venire posit in dubium vel aliqua fraudis machinatione
infirmari dignum duximus eam sigilli nostri munimine corroborare salva in omnibus
Lincolniensis ecclesie dignitate. Testibus Adam episcopo de sancto Asaph, magistro Petro de
Melid, Willelmo decano de Braidel, magistro Roberto de Cantebrig, magistro Symone, Roberto
Codice, Gregorio, Philippo de Kmba, et Symone fratre eius et Symone et Willelmo filiis Philippi de
Kymb’ et Willelmo de Polum et pluribus aliis.
神の恩寵によってリンカンの被選司教ジェフリが全てのカトリック教会の子供に挨拶する。あなた
方全員に私が以下のことを認めたと知られることを望む。永遠にブリングトンのキャノンと女子修道
4
士にバラ・ル・マーシュ、ウィンソープ、プレストウォルド、インガム、ブリングトン、ラングトン、
テトフォード、オクスカム、サウスレストン、ウェストトリングトン、ハマリンガム、スプリドリン
グトンの聖オービン教会に聖職禄と礼拝堂とそれに関わるもの全て、その永遠なる使用の権利を授与
したこと、さらにサウスフェリビィとフルットビィ、ハックソーン、フリスクニィに彼らが有するも
の全てを与えたことである。かくしてこの証書によって完全に保持される。また、私の証書が時の経
過によって誰かの手に渡ったり、疑わしい、もしくは何らかの詐欺行為によって無効とされることが
ないことを、私のシールを付すことによる保護が、全てリンカン教会の権威に守られることで、確認
する。証人。聖アサフ司教アダム、師ピーター・ド・メリド、ブレイドル助祭ウィリアム、師ロバー
ト・ド・カンタベリ、師サイモン、ロバート・コディス、グレゴリウス、フィリップ・ド・カイム、
その兄弟サイモン、フィリップ・ド・カイムの息子のサイモンとウィリアム、ウィリアム・ド・ポラ
ム、他複数。
11 ジェフリ・ド・プランタジネットの下僚への言及
EEA, xxvii, no. 86. [1196]
Gaufridus Dei gratia Eboracensis archiepiscopus et Anglie primas decanis, presbyteris et
universis clericus per archidiaconatum constitutis, salutem et paternam benedictionem. …
Preterea vobis notificamus quod sententiam in Paulinum de Ecburford’ et in alios qui contra
obedientiam nobis debitam veniunt ab officialibus nostris magistro Radulfo de Kima et magistro
Honorio ratam habemus et confirmamus. Valete.
神の恩寵によってヨーク大司教ジェフリが助祭長管区を通じて全ての聖職者とベネディクト修道
士に挨拶する。…加えて私はパウリヌス・ド・エックブルフォードについて、また我々に服従するこ
とに反対しているほかの人々について、私の下僚である師ラルフ・ド・カイムと師ホノリウスによる
意見陳述に裁可を下し、確認する。
12 ピーター・ド・ロスによる証書の確認
EYC, ii, no. 1105. [1190]
Cunctis Christi fidelibus Petrus de Ros, archidiaconus de Karlel’, salutem. Noverit universitas
vestra me, apud Eboracum ad assisas primo anno coronationis regis Ricardi, justiciario existente,
infortunio quodam in manu mea cartam quandam domus de Wattun, videlicet de xii bovatis in
Hotun de Willelmo de Vesci, ex parte fractam fuisse, dum ad sedandum quandam contumeliam
quorundam satellitum me in turba transferre. Ne igitur in posterum carta ipsa notari ex aliqua
infidelitate valeat propter resarciamentum quod in eadem habentur, testimonium perhibeo
presenti scripto et sigilli mei appositione me cartam predictam domus de Wattun integram ex
omni parte invenisse, et testimonium huic perhibent mecum tunc conjusticiarii mei quorum hic
sigilla apponuntur, videlicet, Simon de Kymba et Hernisius deNouill’ ; et his testibus, Odbert de
Longo Campo, Willelmo de Stutevill’, Gaufrido Haget, magister Rogero Harundel.
全てのキリスト者にカーライルの助祭長ピーター・ド・ロスが挨拶する。あなたたち全員はリチャ
ード王即位初年のヨークでのアサイズにおいて私が裁判官として存在していたときに、私が何人かの
同行者の見苦しい行いを止めるために群衆の中に入った際に、私の手の中にあったウィリアム・ド・
ヴェスキから出された Wattun 家にある Hotun の 12bovates に関してのチャーターが、とある不運
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によってばらばらに破れてしまったことを理解している。故に将来、そのチャーターのなかの、施さ
れた縫い目のためになんらかの不誠実によってそのチャーターが非難されることが目指されないよう
に、前述のチャーターが全ての点で Wattun の家在として真正であることを私のシールと私の記述で
認める。また、同時に私の同僚の裁判官であるサイモン・ド・カイムとエルネイス・ド・ネヴィルも
そのシールによってこの確かさを認める。以下証人、オスベルト・ド・ロンシャン、ウィリアム・ド・
ストゥートヴィル、ジェフリ・ハゴット、マスター・ロジャー・アランデル。
13 ウィリアム獅子の娘マーガレットとユースタスの結婚 (1193)
ⅰ) CM, p. 100. [1193] (ArMW, p. 290, no. 136, にも字句そのままの抜粋がある)
Anno mcxiii Williamus rex Scottorum dedit filiam suam Margaretam, Eustatio de Vesci, apud
Rokesburch, quam genuit de filia Adam de Hythusum. Chron. de Mailros, p. 100.
1193 年、スコット人の王ウィリアムは Roxburgh にてその娘マーガレットをユースタス・ド・ヴェ
スキに与えた。彼女は、Adam de Hythus の娘との子供として生まれた。
ⅱ) PR 3 Richard I, p. 68. [1191]
Eustacius de Vesci debet M et ccc m. pro fine terre sue et pro se maritando ubi uoluerint.
ユースタス・ド・ヴェスキはその諸領とそこで彼が望む結婚のためのファインとして 1300 マルク
を負っている。
14 リチャード王からウィリアム獅子への証書 (1194)
ArMW, pp. 294-5, no. 141.
Tamen rex Angliae in praesentia Alienor matris suae et Huberti Cantuariensis archiepiscopi et
Hugonis Dunelmensis episcopi et Gocelini Glascuensis episcopi et aliorum multorum tam
celericorum quam laicorum utriusque regni, concessit, et carta sua confirmavit.
Willielmo illustri regi Scotiae, karissimo amico, et consanguineo, et fideli nostro, et haeredibus
suis, in perpetuum de nobis et haeredibus nostris omnes libertates et rectitudines ita plenarie
quas antecessores sui habere solebant eundo ad curiam antecessorum nostrorum, et stando ad
curiam, et redeundo a curia antecessorum nostrorum. …
Testibus hiis, H. Cantuariensi, archiepiscopo, H. Dunelm’ epis’, R. Londonens’ epis’, H. Lincoln’
epis’, S. Saresb’ epis’, S. Cicestr’ epis’, G. Rovecestr’ epis’, W. Hereford’ epis’, H. Wigorn’ epis’, R.
comite Cestriae, H. comite de Waren’, R. comite de Clare, R. Bigot comite Norf’, Comite David, W.
comite de Ferrariis, W. marescallo, W. de Stutevill’, Eustach’ de Vesci, Gaufr’ filio Petri, Hugone
Bard’, W. Briwer, et multis aliis.
しかしてイングランドの王は、その母アリエノール、カンタベリ大司教ヒューバート、ダラム司教
ヒュー、グロスター司教ゴスリン、そして他の多数の王国の聖俗の者たちの前でその証書によって(以
下のことを)与え、確認する。
輝かしいスコットランド王で親愛なる友人で、血族で、誠実なるウィリアムと、その相続人たちに
永遠に、我々と我々の相続人たちについて彼らの祖先が有した慣わしである、我らの宮廷に来るべき
こと、そしてそこに留まるべきこと、そしてそこから帰国するべきことという全ての権利を(与え、
確認する)
。・・・
以下のものが証人である。カンタベリ大司教 H(ヒューバート)
、ダラム司教 H(ヒュー)
、ロンド
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ン司教 R、リンカン司教 H、ソールズベリ司教 S、チェスター司教 S、ロチェスター司教 G、ヘレフ
ォード司教 W、ウースター司教 H、チェスター伯 R、ウォレン伯 H、クレア伯 R、ノーフォーク伯 R・
バイゴット、伯デイヴィド、フェラーズ伯 W、W・マーシャル、W・ド・ストゥートヴィル、ユース
タス・ド・ヴェスキ、ジェフリー・フィッツ・ピーター、ヒュー・バルドフ、W・ブリウェア、他多
数。
15 ジョンからウィリアム獅子への書簡 (1199)
ArMW, pp. 315-6, no. 163. [1199]
Willelmus vero rex Scottorum misit nuncios suos ad Johannem ducem Normanniae, petens sibi
reddi patrimonium suum, videlicet, Norhimbriam et Cumbriam, cum pertinentiis suis, et ipse
fidelitatem juraret ei, fideliter serviret contra omnes hominess.
Sed Cantuariensis archiepiscopus et Willelmus Marescallus et Gaufridus filius Petri non
permiserunt nuncios Regis Scotiae transfretare ad ducem : sed mandaverunt ei per comitem
David fratrem suum quod ipse patienter sustineret, donec dux venisset in Angliam.
Similiter Johannes dux Normanniae mandavit Willelmo regi Scottorum per Eustacium de Vesci,
generum suum quod in reditu suo in Angliam satisfaceret ei de omnibus petitionibus suis, si ei
interim pacem servaverit.
[Hoveden, vol. 4, pp. 88-9.]
しかしてスコット人の王ウィリアムはその相続地、
すなわちノーサンバランド、
カンバーランドを、
それらの付属物とともに自身に返還するよう嘆願しつつ、そして自分はジョンに誠実であることを誓
い、全ての人に対して(ジョンに)仕える(と嘆願しつつ)ノルマンディ公ジョンにその使節を送っ
た。
しかしカンタベリ大司教とウィリアム・マーシャルとジェフリ・フィッツ・ピーターらはスコット
ランドの王の使節が公のもとに渡ることを許さなかった。しかし彼らは(スコットランドの)王の弟
の伯デイヴィドを通じて、公がイングランドに戻るまで忍耐して待つように王に命じたのであった。
同様にノルマンディ公ジョンはスコット人の王ウィリアムにその義理の息子であるユースタス・
ド・ヴェスキを通じて、もし平和を保つのであれば、イングランドに戻った際にその全ての訴えにつ
いて彼(ウィリアム)を(ジョンが)満足させることを、命じたのであった。
16 ジョン、ウィリアム獅子のリンカンまでの案内をユースタスらに命じる (1200)
ArMW, p. 322, no. 174.
Johannes vero rex Angliae, statim post coronationem suam misit Philippum Dunelmensem
episcopum et Rogerum Bigot comitem de [Northfolc] et Henricum de Boum comitem Herefordiae,
nepotem Willelmi Regis Scotiae, et David comitem de Huntendun, fratrem ejusdem Regis Scotiae
et Rogerum de Lasci constabularium Cestriae et [Eustachium] de Vesci et Robertum de Ros
generos ejusdem Regis Scotiae et Robertum filium Rogeri vicecomitem de Northimbria, ad
Willelmum regem Scottorum cum litteris regiis patentibus de salvo conducto ad conducendum
ipsum regem Scottorum ad regem Angliae : et statuit illi diem veniendi ad eum apud Lincolniam
in crastino Sancti Eadmundi.
しかしてイングランドの王ジョンはその即位直後にダラム司教フィリップ、ノーフォーク伯ロジャ
ー・バイゴット、ヘレフォード伯でスコットランド王ウィリアムの甥であるヘンリ・ド・ブーン、同
7
じくスコットランド王ウィリアムの弟でハンティンドン伯のデイヴィド、チェスター城主ロジャー・
ド・レイシィ、また同じくスコットランド王ウィリアムの義理の息子であるユースタス・ド・ヴェス
キとロバート・ド・ロス、そしてノーサンバランドシェリフのロバート・フィッツ・ロジャーを、ス
コット人の王ウィリアムのもとに、そのスコット人の王をイングランド王国に案内するべく、安全な
通行についての王の開封勅許書簡と共に、送った。
:また聖エドマンドの祝日の翌日に、ウィリアム王
をリンカンに案内するべく命じた。
17 ロザラムでの市と Alnmouth での交易と港の保有権利をジョンから購入 (1208)
PR 10 John, p. 154.
「Nova Oblata」…Eustachius de Vesci debet c m. et j palefridum pro habendo j portu et j mercato
apud Auenemuth’ et j feria apud Redenham.
「新たな提供について」・・・ユースタス・ド・ヴェスキは Auenemuth’ (Alnwick) での交易と港、
Redenham (ロザラム) での市を保有するべく 100 マルクと 1 頭の馬を負っている。
18 ジョンからウィリアム獅子への会談要求書簡 (1209)
ArMW, p. 361, no. 229. [1209]
Rex dilecto et fideli suo et consanguineo karissimo Willelmo eadem gratia illustri regi Scotiae
salutem. Sciatis quod gaudium habemus de convalescentia vestra et venimus in occursum … jam
saepe vobis mandavimus.
Mittimus autem ad vos conducendum de fidelibus nostris quos ad praesens habere potuimus
scilicet R. comitem Cestriae, W. comitem de Ferrar P… Rogeri. R. constab. Cestriae, Rob. de Ros,
Eustach. de Vescy. …
王が愛し誠実な親愛なる血族で卓越したスコットランドの王に心から挨拶する。汝の回復について
喜んでいること、また・・・すでに汝にしばしば命じてきた・・・会談に来ることを知るべし。
しかして目下できる限り汝を案内するべく誠実なる臣下、すなわちチェスター伯 R、フェラーズ伯
W、P・・・ロジャー、チェスター城主 R、ロバート・ド・ロス、ユースタス・ド・ヴェスキを送る。
19 スコットランドの貴族のチェスター城主ロジャー・ド・レイシィへの証書 (1210-12)
CDRS, p. 96, no. 553. [1210-12]
Alan son of Rolland lord of Galloway (Galuvath) constable of Scotland, quit claims to Roger de
Lascy constable of Chester and his heirs, the advowson of the church of Kipeis. Witnesses :
Eustace de Vescy, Robert de Welshman (Walensi), William de Bello monte, Hugh Despensar,
Thomas his brother, Gilbert son of Cospatric, Ralf de Campania, Richard clerk of Creveqor the
writer of the letter, and many others.
スコットランドの城主でギャロウェイ領主ロランドの息子アランはチェスター城主ロジャー・ド・
レイシィとその相続人らに対し、Kipeis 教会の聖職推挙権への権利主張を放棄する。証人、ユースタ
ス・ド・ヴェスキ、ロバート・ウェイルズマン、ウィリアム・ド・ベルモン、ヒュー・ディスペンサ
ー、その兄弟トマス、ゴスパトリックの息子ギルバート、ラルフ・ド・カンパニア、書簡の書き手ク
リーヴクオル (クリーヴランド?) の聖職者リチャード、他多数。
オリジナルの史料は Duchy of Lancaster, Cartae Miscell., vol. 1, p. 4.
8
20 管理下に置いていたウィリアム・カミンの息子が死亡 (1213)
ArMW, p. 392, no. 261. [1213]
Et filius Willelmi Cumin qui fuit in custodia Eustachii de Vescy quietus est.
そしてユースタス・ド・ヴェスキの管理下にいたウィリアム・カミンの息子が死んだ。
21 聖アンドリューズ司教ロバートによる証書 (c. 1150)
ESC, pp. 185-6, no. 230. [c. 1150]
Robertus dei gratia Episcopus Sancti Andreae, Omnibus sanctae matris ecclesiae filiis salutem.
Sciant praesentes et futuri nos concessisse et per libram saisisse Herbertum Glasguensem
episcopum de ecclesia de Lohworuora sicut de possessione Glauguensis ecclesiae. Praesentibus et
assensum praestantibus David illustri Scottorum Rege et Henrico filio ejus, ita ut ecclesia Sancti
Andreae habeat omnes consuetudines episcopales in ecclesia de Lohworuara sicut in ceteris
ecclesiis Laudoniae a priore de Scona, quem tradente nobis praefato Herberto episcopo in …
Praesentibus et hiis testibus Gregorio Dunchelden. episcopo, Andrea Chatan. episcopo,
Gaufrido abbate de Dunfermelin, Ernaldo abbate de Calceho, Alfwino abbate de Sancta Cruce,
Willelmo abbate de Striuelin, Robert priore de Sancto Andreae, Osberto priore de Sancta Cruce,
Thoma priore Scone, Thor archidiacono, Ascelino archidiacono, Eyolfo decano, Waltero cancellario
Regis, Ingelleran cancellario comitis, Magistro Laurentio, Jordane Heyrun, Waltero capellano de
Lillesclive, Nicholao clerico, Thoma de Linnithuc, Dunecan comite, Hugone de Moreuilla,
Willelmo de Sumervilla, Cospatrico filio Waltheof, Waltero de Lindeseai, Willelmo fratre ejus,
Bernardo de Boilond, Willelmo de Vesci, Odenel de Unfranuilla, Waltero de Bolebech, Alfwino
Rennere, Eadwardo constabulario, Thor filio Suein, Willelmo de Graham, Artuto Finboga, Rogero
nepote episcopi Sancti Andreae, Uhtred filio Fergus, Radulfo filio Dunegal, Duuenald fratre ejus,
Baldewino flam., Hug. Filio Fresechin.
神の恩寵により聖アンドリューズ司教ロバートが聖母教会の息子たち全員に挨拶する。
ここにいる者と未来の者は我々がその証書によってグラスゴー司教ハーバートにグラスゴー教会の
所有物としてのごとく Lohworuora 教会を授けたことを知るべし。ここにいる者と輝かしいスコット
人の王デイヴィドとその息子ヘンリの面前で聖アンドリューズ教会が Lohworuara 教会に司教の権利
全てを、スコーンについてすでに他のロウジアンの諸教会にある如くに有すこと、それを前述のハー
バートに引き渡しつつ・・・(以下欠損の為か記載なし)
ここにいる者と以下が証人である。ダンチェルド司教グレゴリー、Chatan. 司教アンドリュー、ダ
ンファームリン修道院長ガウフリド、Calceho 修道院長エルナルド、聖 Cruce 修道院長アルフィン、
Striuelin 修道院長ウィリアム、聖アンドリューズ小修道院長ロバート、聖 Cruce 小修道院長オスベ
ルト、スコーン小修道院長トーマス、トール助祭長、アースケリン助祭長、Eyolfo 助祭、王の尚書ウ
ォルター、伯の尚書インゲレラン、師ローレント、ジョーダン・ヘイルン、Lillesclive 助司祭ウォル
ター、聖職者ニコラス、トーマス・ド・リニチュック、伯ドゥネカン、ヒュー・ド・モラヴィア、ウ
ィリアム・ド・スマーヴィル、ゴスパトリック・フィッツ・ウァルゼオフ、ウォルター・ド・リンゼ
イ、その弟ウィリアム、バーナード・ド・ボイロンド、ウィリアム・ド・ヴェスキ、オディネル・ド・
ウムフラヴィル、ウォルター・ド・ボルヴェック、アルフィン・レンル、城主エアドヴァルド、トー
9
ル・フィッツ・スヴェイン、ウィリアム・ド・グラハム、アーチュロ・フィンボーガ、聖アンドリュ
ーズ司教の甥ロジャー、ウートレッド・フィッツ・ファーガス、ラドルフ・フィッツ・ドゥネゲル、
その弟ドナルド、ボールドウィン・フランバード、ヒュー・フィッツ・フレッシュチン。
22 伯マルカム (後のマルカム 4 世) による Brinkburn 修道院への証書 (1153)
ESC, pp. 215-6, no. 271. [1153]
Malcolm’ de Gwarenne comes Northumbriae, Justitiariis suis et baronibus vicecomitibus et
ministries et omnibus probis hominibus tam laicis quam clericis totius Northumberland salutem.
Sciatis me dedisse et concessisse deo et Sanctae Mariae et ecclesiae Sancti Petri de
Brinkeburne et canonicis ibidem deo servientibus et servituris pro anima Henrici comitis
dilectissimi patris mei necnon etiam et pro anima mea et animabus antecessorum meorum
eandem salinamquam pater meus Henricus comes apud Werkewurthe in tempore vitae suae eis
in perpetuam elemosinam dedit et concessit. Concedo etiam et confirmo praedictis fratribus totam
donationem Rogeri Bertram scilicet locum qui dicitur Brinkeburne cum omnibus pertinentiis
suis….
His testibus Gilberto de Umfravilla, Willelmo de Vescy, Rogero de Merlay et aliis.
ノーサンブリアの伯マルカム・ド・Gwarenne がその行政長官、諸伯、聖職者、そしてノーサンバ
ランドの全ての聖俗の善き人々に挨拶する。
Brinkburn の神と聖母マリアと聖ペテロ教会に、そしてそこで私の父である伯ヘンリの魂のために
また私と私の祖先の魂の為に神に仕え、またこれから仕えるだろう参事会員たちに、私の父である伯
ヘンリが Werkewurthe においてその存命中に彼らに、永遠の施しとして与え認めた塩田を、私が与
え確認したことを知るべし。また前述の修道士らへのロジャー・ベルトラムの全ての寄進、すなわち、
その全ての付属物と共に、Brinkburn と呼ばれる土地を、認め確認する。
以下のギルバート・ド・アムフラヴィル、ウィリアム・ド・ヴェスキ、ロジャー・ド・マーレイ、
その他、が証人である。
23 ヘンリ公 (後の英王ヘンリ 2 世) による証書 (1153-4)
RRAN, iii, no. 912. [1153-4]
Henricus dux Normannorum et Aquitanorum et comes Andegavorum archiepiscopis episcopis
abbatibus comitibus justiciis baronibus vicecomitibus ministries et omnibus fidelibus suis Francis
et Anglis totius Anglie salutem. Noveritis me concessisse et confirmasse Willelmo de Vescy
donationem quam pater suus illi fecit, et omnia tenementa [sua] que Normannia juste tenuit die
quo homagium mihi fecit, de quocumque illa teneret, et omnia jura sua in Normannia et in
Anglia…
ノルマンディ公、アキテーヌ侯、アンジュー伯であるヘンリが大司教、司教、大修道院長、伯、裁
判官、バロン、修長官、聖職者、そして全ての誠実なる臣下、フランス人、イングランド人に挨拶す
る。その父がウィリアム・ド・ヴェスキになした寄進、私にオマージュすることでノルマンディで正
しく保有した彼の全ての保有地、そしてノルマンディとイングランドでの彼の全ての諸権利、を私が
与え確認したことを知るべし。
10
24 伯ウィリアム (獅子) による証書 (1152-5)
AoW, pp.124-5, no. 3. [1152-5]
Willelmus Comes Northumb’ justiciis suis, constabularies suis, vicecomitibus suis, ministries
suis omnibus necnon omnibus hominibus suis Francis et Anglicis Northumb’ qui sunt et qui
venturi sunt, salutem. Notum vobis facio quatinus do et concedo Willelmo de Vescy ut habeat
forum suum apud Sanctum Walericium qui vocatur Neubiginge, cum omnibus rebus et
rectitudinibus omnibus que melius et liberius pertineant ulli foro totius Northumbrie, ita libere,
quiete et honorifice sicut aliquis in tota Northumbria hanet et tenet forum suum liberius et
honorabilius. Volo et jubeo quod idem Willelmus de Vescy teneat predictum forum et habeat.
Testibus hiis, Osbert priore de Jeddeworth’, Ada comitissa matre ejus, Gilleberto constabulario,
Odenel Deframvilla, Edmundo Camerario, Hugone Giffard, Willelmo Masculo, Rodberto de
Bailliol, Magistro Ricardo de Deuel’, Waltero de Peletot, Magistro Godfrido, apud Edenburgh.
ノーサンバランド伯ウィリアムがその行政長官、城主、諸伯、聖職者全員に、またノーサンバラン
ドに住みあるいは住むだろうフランス人、イングランド人の全てに挨拶する。汝らに私がウィリアム・
ド・ヴェスキに Neubiginge (Alnmouth) と呼ばれる聖 Walericium において、全ノーサンブリアにお
いて誰かが自由で誠実な市を保有する如くに、かくも自由に全く誠実に、ノーサンブリアにおけるい
かなる市に関わる全ての自由と特権と物とともに、その市を与え認めたことが知られている。このウ
ィリアム・ド・ヴェスキが前述の市を保有することを望み命ずる。以下が証人である、Jeddeworth’
小修道院長オスベルト、その母で女伯のエイダ、城主ギルバート、オディネール・デンフランヴィラ、
エドマンド・カメラリウス、ヒュー・ギフォード、ウィリアム・マーシュ、ロベルト・ド・ベイリオ
ル、師リチャード・ド・デウウェル、ウォルター・ド・ペレトット、師ゴドフリー、エディンバラに
て。
25 マルカム 4 世がヒュー・ギフォードになした授与、のウィリアム獅子による確認証書 (c. 1166)
AoW, pp. 154-5, no. 48. [c. 1166]
W’. Rex Scott’. Omnibus probis hominibus tocius terre sue. Clericis. Laicis. Francis. Anglis.
Scottis. Galweiensibus salutem. Sciant presentes futuri me concessisse hac carta mea
confirmasse Hugoni Giffard heredibus suis in fewdo hereditate omnes terras teneuras quas idem
Hugo habet ex donacione Regis M’ fratris mei. …Testibus Nicolao Cancellario, Ricardo de
Moreuill’ constabulario, Dauid Olifard, Willelmo de Vesci, Philippo de Valoniis Camerario,
Willelmo de Veteri Ponte, Bernardo filio Brien, Gilberto filio Richerii, Roberto de Costentin, Apud
Dunelm.
スコット人の王ウィリアムがその土地の全てのよき人々、聖職者、俗人、フランス人、イングラン
ド人、スコット人、ギャロウェイ人に挨拶する。ここにいる者と未来の者は私が自分のこの証書によ
って、私の父マルカム王の授与によってヒュー・ギフォードが有する全ての保有所領を相続封として
そのヒューの相続所領と認めたことを、知るべし。・・・証人、証書ニコラス、城主リチャード・ド・モ
ラヴィル、デイヴィド・オリファード、ウィリアム・ド・ヴェスキ、カメラリウスのフィリップ・ド・
バロニース、ウィリアム・ド・ヴェテリポント、バーナード・フィッツ・ブリアン、ギルバード・フ
ィッツ・リチェーリー、ロバート・ド・コステンティン、ダラムにて。
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26 ウィリアム獅子の侵入を伝える年代記 (1173-4)
ArMW, p. 168, no. 37. [1173-4]
Et Rex Scotiae inde recedens cum exercitu suo obsedit castellum de Prudeau Odenelli de
Dunfranvilla sed illud capere non potuit.
Nam exercitus Eboracensis siriae super eum venire parabat. Duces autem hujus exercitus
errant Rodbertus de Stutevil et Willelmus filius suus et Willelmus de Vesci et Randulfus de Thilli
constabularius familiae Rogeri Eboracensis Archiepiscopi et Bernardus de Baillol, Odenullus de
Dunfranvilla.
そしてスコットランドの王はその軍隊を伴って進み、プルドウのオディヌルス・ド・ドゥンフラン
ヴィルの城を攻囲した、しかしこれを得ることは出来なかった。
今や、スコットランドの王に抵抗するヨークシャーの軍が整ったのである。しかして公のこの軍隊
はロバート・ド・ストゥートヴィル、その息子ウィリアム、ウィリアム・ド・ヴェスキ、ヨーク大司
教ロジャーの家族で城主のランドルフ・ド・ティリィ、バーナド・ド・ベイリオル、オディヌルス・
ド・ドゥンフラヴィルであった。
27 デイヴィド王の証書 (c. 1124)
ESC, pp. 48-9, no. 54. [c. 1124]
David dei gratia Rex Scottorum, omnibus baronibus suis et hominibus et amicis Francis et
Anglis salutem.
Sciatis me dedisse et concessisse Roberto de Brus Estrahanent et totam terram a divisa
Dunegal de Stranit usque ad divisam Randulfi Meschin.
Testibus Eustachio filio Johannis et Hugone de Morvilla et Alano de [Perci] et Willelmo de
Sumervilla et Berengario Engaine et Randulfo de Sules et Willelmo de Morvilla et Henrico filio
Warini et Edmundo Camerario. Apud Sconem.
神の恩寵によってスコット人の王デイヴィドが、そのバロンたち、親愛なる人々、フランス人、イ
ングランド人に挨拶する。
私がロバート・ド・ブルースに Estrahanent と Dunegal de Stranit から Randulfus Meschin (の
所領) に至るまでの全ての土地を与え確認したことを知るべし。
証人、ユースタス・フィッツ・ジョン、ヒュー・ド・モウヴィル、アラン・ド・[パーシィ]、ウィ
リアム・ド・サマーヴィル、ベレンガール・エンギェイン、ランドルフ・ド・スール、ウィリアム・
ド・モウヴィル、ヘンリ・フィッツ・ウァリン、カメラリウスのエドマンド。スコーンにて。
28 ヨーク大司教サースティンによる聖アンドリューズ司教ロバートの叙品 (1128)
ESC, pp. 63-4, no. 75. [1128]
David dei gratia Rex Scottorum, Universis Sanctae Ecclesiae filiis, salutem.
Notum sit tam praesentibus quam futuri, Thurstinum Eboracensis Archiepiscopum
consecrasse sine professione et obedientia pro amore dei et mei, Robertum Sancti Andreae
Episcopum, salva querela Eboracensis Ecclesiae, et salva justitia Sancti Andreae.
Testibus Ranulfo Dunelmensi Episcopo, Johanne Glasguensi, Radulpho Orcadensi, Gaufrido
Eboracensi monasterii abbate, Herebert Rochesburg’ Wold’ de Croyland Adelof priore, Sconensi,
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Gaultero de Gaunt, Eustachio filio Johannis, Hugone Decano et toto Sancti Petri capitulo,
Gaufrido Murdac, Anketino de Bulemer, Roberto de Wanevilla, Rogero de Eummers.
スコットランドの王デイヴィドが全ての聖教会の息子たちに挨拶する。
ここにいる者と未来の者にはヨーク大司教サースティンが私と神の魂のために従順や宣言なしでア
ンドリューズ司教ロバートをヨークの教会の異論なく、また、聖アンドリューズ教会の正しき主張に
よって叙品したことが知られている。
証人、ダラム司教ラヌルフ、ジョン・グラスゴー、ラドルフ・オルカデンス、ヨーク大修道院長ジ
ェフリ、ヘルベルト・ロチェスバーグ、ウォルド・ド・クロウランド、スコーン小修道院長アデロフ、
ガウルトロ・ド・ガン、ユースタス・フィッツ・ジョン、聖ペテロ教会助祭ヒューと全ての参事会員、
ガウフリドゥス・ムルダック、アンケティン・ド・ブルメア、ロバート・ド・ワインヴィル、ロジャ
ー・ド・エマーズ。
29 チェスター伯ラヌルフによる証書 (1144-53)
CEC, p. 115, no. 103. [1144-53]
Rannulfus comes Cestrie omnibus sancta dei ecclesie filiis salutem. Sciatis me concessisse et
pro salute anime mee confirmasse donacionem, quam Willelmus filius Ivonis fecit deo et ecclesie
de Kyrkested de quadam mansura sui dominii et tribus bovatis in Timberlund in perprtuam
elemosinam, salvo meo servitio. Testibus Eustachio filio Iohannis, Hugone aucipitro, Roberto filio
Hugonis, etc.
チェスター伯ラヌルフが聖なる神の教会の全ての息子たちに挨拶する。ウィリアム・フィッツ・イ
ヴォがカークステッド教会にティンバーランドのその直領地のマンスと 3bovatis を永遠なる施し物
として寄進したことを私が与え認めたことを知るべし、証人ユースタス・フィッツ・ジョン、鷹匠ヒ
ュー、ロバート・フィッツ・ヒュー、その他。
30 伯ヘンリによる Brinkbern 教会への証書 (1150-2)
ESC, pp. 199-200, no. 247. [1150-52]
Henricus filius Regis Scotiae, Justitiariis vicecomitibus ministries et omnibus suis fidelibus
totius Honoris sui tam praesentibus quam futuris salutem.
Notum sit omnibus nobis quod ego concedo et confirmo in feudum et elemosinam locum qui
Brinkeburne dicitur, cum silvis et terries et omnibus quae Willelmus Bertram concessit et dedit
priori et fratribus ecclesiae Sanctae Mariae de Insula …
Praesentibus testibus Eustachio filio Johannis, Randulfo de Merlay et aliis.
スコットランドの王の息子ヘンリがシェリフ、聖職者、行政長官、ホノリウスの全ての誠実なる臣
下に、ここにいる者も将来の者も全てに挨拶する。
我々全ての者に、私が Brinkburn とよばれる(修道院に)土地と特権をロジャー・ベルトラムが
Insula の聖マリア教会の小修道院長とその修道士らに与えた土地その他全てのものと共に、認めたこ
とが知られている。・・・
ここにいる以下が証人である、ユースタス・フィッツ・ジョン、ランドルフ・ド・マーレイ、他。
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