1月 - 主日のミサの朗読配分による

2002 年 1 月(主日 A 年)
1 月 1 日 神の母聖マリア
民 6:22〜27 ガラ 4:4〜7 ルカ 2:16〜21
1.ルカ
おむつにくるまって飼い葉桶の中に寝かされ、天使の知らせで羊飼いたちが探し当てた乳飲み子イエス
は、神の御独り子(ヨハ 1:14)でありました。このイエスはマリアを母として誕生されました。人間が偶然に思
いついて付けたのではなくて、受胎の前に天使から示された通りに、イエスと名付けられました。
「主は ・・・・・ 、神性によればよろず世の前に父より生まれ、人性によれば今、この末の世において我ら
のため、また我らの救いのために神の母(テオトコス)なる処女マリアより生まれたり。」(カルケドン信条)
羊飼いたちはごく一般的な庶民でした。使徒パウロが I コリ 1:26 で 「人間的に見て知恵のある者が多
かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」 と語っているような、
普通の人々でありました。しかし彼らは受肉された神の御独り子イエスの誕生を見たのでした。そしてそこ
にはヨセフと共にマリアがいました。マリアは一人の普通の女としてそこにいて、 「これらの出来事をすべ
て心に納めて、思い巡らしていた」(v.19) のです。マリアは人であって神ではない。しかし神の母(テオトコ
ス)として選ばれ用いられました。マリアによってまことの神はまことの人となって誕生されました。
私たちの救い主イエス・キリストは、空想上の人物ではありません。その十字架上の死と復活が歴史の事
実であるように、その受肉の出来事も歴史上の事実です。 「わたしたちはその栄光を見た」 (ヨハ 1:14) の
です。
2.民
アロンはモーセと共に、レビ族のケハトの氏族に属するアムラム家の子でした(出 6:16-20)。アロンとそ
の子らは油を注がれて祭司とされ、その祭司職は代々にわたりその子孫に受け継がれることとなりました
(出 40:12-16)。レビ族の人々はアロンとその子らに属する者となり、幕屋(後に神殿)の仕事のためにイスラ
エルの民の中から聖別された者となりました(民 3:6-13)。
主なる神はアロンとその子らに、イスラエルの民への祝福のことばを委ねられました。
v.27 「彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。」
アロンとその子らは、神ではなくて人でした。しかし神の祝福がその民の上に訪れるために用いられま
した。神は 「いと高き神」(創 14:19-20) であり、 「全能の神」(創 17:1) であるばかりではなくて、 「彼らの中
に住む」(出 25:8) 神であるために、アロンとその子らを祭司として聖別されたのでした。
3.
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2002 年 1 月(主日 A 年)
神の御業のために特別に選ばれた人々の中に、神の母(テオトコス)マリアがいます。彼女は 「知恵のあ
る者」 「能力のある者」 「家柄のよい者」 としてではなくて、神の御独り子の母(テオトコス)となるために聖
別された女として、そこにいます。彼女は 「恵まれた方」(ルカ 1:28) として、 「今から後、いつの世の人もわ
たしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ 1:48-49) とい
う、神の大いなる御業の証人として、私たちの間にいるのです。
「主は ・・・・・ 、この末の世において我らのため、また我らの救いのために神の母 (テオトコス)なる処女
マリアより生まれたり。」(カルケドン信条)
この方が、私たち教会の希望であります。
「主は栄光のうちに再び来たり、生ける人と死せる人とを裁きたもう。」 (ニケア・コンスタンチノープル
信条)
アーメン、 ハレルヤ。
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2002 年 1 月(主日 A 年)
1 月 6 日 主 の 公 現
イザ 60:1〜6 エフェ 3:2〜6 マタ 2:1〜12
1.マタ
クリスマスの祝いの第一が “主の降誕” であるなら、その祝いの第二は “主の公現” であると言うこと
が出来ます。教会ではクリスマスはこの後 “主の洗礼の祝日” まで続きます。そのようにして主の公現の祭
日を大切にすることは、古代からのキリスト教の伝統なのです。
東の方(の国)の占星術の学者たちが、 「ユダヤ人の王」 を拝みに来ました。 「ユダヤ人の王」 が 「全世
界の王」 となられたということが、公現の祭日の主題であります。
マタイ福音書は、キリスト教がそこから生まれた母体とも言うべきユダヤ教との関係を強く意識して書
かれているのですが、そのユダヤ教が元来期待したユダヤ人の王が、全世界のあらゆる民の王となられた
ということを、この公現の物語りによって語りました。救い主イエスを拒否したユダヤ教は、紀元 70 年のエ
ルサレム神殿の崩壊を経験し、キリスト教とは別の道へと進んで行っていました。初代教会はかつてユダヤ
人の王であった方を、今や 「天と地の一切の」(マタ 28:18) 王であるキリストとして礼拝したのです。
キリストを王として礼拝することは、人間の投票によるのではなくて、神の御業であり、神の恵みに起源
していたのだという初代教会の 「喜び」(v.10) が、 「星が先立って進み」(v.9) という表現に読み取れるので
はないでしょうか。
2.エフェ
キリストの福音とは、キリストによって実現される秘められた計画であります。それは、 「異邦人が福音
によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたち(ユダヤ人)と一緒に受け継ぐ者、同じ体に
属するもの、同じ約束にあずかる者となるということです。」(v.6)
主イエスがユダヤ人によって拒絶されたことは、旧き契約に基づく神の約束が無効になったということ
を意味しませんでした。そうではなくて、これまで神を知らずに生きていた異邦人が、イエス・キリストの
「血によって贖われ、罪を赦され」(エフェ 1:7) て、約束を一緒に受け継ぐ者となったのです。
私たちが共にささげるミサは、キリストの死と復活による新しい契約の記念であり、キリスト者の生活全
体の中心です。 「実に、ミサの中にキリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点があり、また人々が、
神の子キリストによって父にささげる礼拝の頂点がある。」(ミサ典礼書の総則 1) 旧き契約は、キリストの
血による新しい契約によって受け継がれて実現し続けて行きます。
v.5 「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や “霊” によっ
て、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」
イエス・キリストは今や 「天と地の一切の」(マタ 28:18) 王であることを、教会は知っています。しかしこ
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の世界はそれを知らないのです。教会の中では、特にミサを通して、キリストが秘められた計画を実現され
ることが明らかにされていますが、教会がそこに存在しているこの世界には、それは隠さ れています。で
すから公現の祭りは、教会がこの世界に向かって、キリストが 「天と地の一切の」( マタ 28:18) 王となられ
たことを告知する課題を負っていることを、私たちに思い起こさせます。
3.イザ
今朝の最初の朗読は、紀元前 516 年に再建されたユダヤの第二神殿におけるイスラエルの民の礼拝に、
希望を持たせるために語られた預言であります。しかし私たちは今朝、これを過ぎ去った預言としてではな
くて、ここで私たちが共にささげている主日のミサを励ます希望のことばとして新しく聞くのです。
実に私たちのミサは、キリストが 「王の王・主の主」(黙 17:14) として勝利される 「天の都、新しいエルサ
レム」(黙 21:2) を目指しています。公現の祭日はクリスマスの付録のようなものではなくて、むしろ新しい
年にその目標を指し示す祭日なのです。
アーメン、 ハレルヤ。
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2002 年 1 月(主日 A 年)
1 月 13 日 主 の 洗 礼
イザ 42:1〜7 使 10:34〜38 マタ 3:13〜17
主の洗礼の祝日は、降誕節の最後の主日です。その年によっては、主の公現の祭日が 1 月 7 日か 8 日に
来る主日に移されることがあると、主の洗礼の祝日はその翌日の月曜日に移るために、主日ではなくなる
ことがあります。
いずれにしても私たちは、主の洗礼の祝日の主題が、降誕節そのものの主題の一部分であることを、よ
く理解したいと思います。
1.マタ
私たちの主イエスの公生涯は、ヨハネによる洗礼から始まります。父なる神は御子による福音をヨハネ
による洗礼から始められました(使 10:36-37)。ですから後に使徒たちは、このヨハネの洗礼から始まった福
音の証人となりました(使 1:21-22)。
イエスが洗礼を受けるとすぐに、 「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分
の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、 “これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者” と言う
声が、天から聞こえた。」(vv.16-17) この天から聞こえた声の前半は 詩 2:7 から、後半は イザ 42:1 からの
引用です。そこでそれらを順に学んでみましょう。
2.イザ
vv.1-4 は、第二イザヤ(40-55 章)の中で特別に “僕の歌” と呼ばれている四つの歌の第一のものです。
vv.5-7 はこの第一の歌に付属する解説部分でしょう。この歌は既にイスラエルについて語られたことの再
録の形になっています。
v.1 「見よ、わたしの僕」
41:8-10 で呼びかけられたイスラエルが、裁きのために集まる国々 (v.1)の前に姿を現します。それは
40:9-11 に描かれた神の支配を実現する、理想のイスラエルとしての主の僕の姿です。
「わたしの僕」 ← 41:8
「わたしが支える者」 ← 41:10
「わたしが選び」 ← 41:8
「彼の上にわたしの霊は置かれ」 ← 11:2
主の霊は正義を実現するために王に与えられ、 「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人
を公平に弁護する。」(11:4)
理想のイスラエルは主の僕として、世界の国々に対して正義による 「裁きを導き出す」(v.1) のです。こ
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の v.1 の 「(わたしが)喜び迎える者」 と訳されている句が、マタ 3:17 の 「わたしの心に適う者」 なのです。
主イエスは洗礼に続いて聖霊を与えられて、主の僕としての道を歩み始められました。その洗礼は、彼の受
難と死を暗示していました(マタ 20:22-28、ルカ 12:50)。
3.
詩 2:7 には、次のような句があります。
「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。」
この 「わたしの子」 は、 「わたしの愛する子」 「わたしの独り子」 とも訳すことの出来る言葉で、これが
マタ 3:17 の天からの声の前半です。
詩 2 はいわゆる王の即位の歌と呼ばれるもので、南王国ユダにおけるメシア的な王の到来への期待が
描かれています。 「お前はわたしの(愛する)子」(詩 2:7/マタ 3:17) とは、 「主の油注がれた方」(詩 2:2) を
神が 「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王に即位させた」(詩 2:6) ということを意味する呼びかけなので
す。
主イエスはメシア的な王として、この日に即位されました。マタ 17:1-8(主の変容)は、以上の事実の天
からの再確認の物語りと言うことが出来ます。主の洗礼の物語りの主題は、神の霊がイエスに降って、主イ
エスは主の(苦難の)僕として、またメシア的な王として人々の前に現れたということであり、それは公現の
主題の続きであると言ってよいでしょう。
4.使
教会が使徒継承によって受け継いで来た福音は、ヨハネの洗礼から始まって、主イエスが 「聖霊 と力に
よって」 「油注がれた者(メシア)」 として(v.38)、その道を歩まれたという宣教(ケリュグマ)を土台としていま
す。
この宣教(ケリュグマ)のイエスとは違う別なイエス、別なメシア(マタ 24:23-24)が、21 世紀の教会の中に
も入り込んで来ることでしょう。そのようなサタンの惑わしから私たちを守ってくれるメッセージを、今日の
祝日の主題から聞き取ることは、かけがえもなく大切なことなのです。
アーメン、 ハレルヤ。
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2002 年 1 月(主日 A 年)
1 月 20 日 年間第 2 主日
イザ 49:3〜6 I コリ 1:1〜3 ヨハ 1:29〜34
1.I コリ
v.2 「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」
キリスト教信仰の中心は、 “イエス・キリストは主である” という宣言であります。教会はこの信仰を宣言
する人々の群であって、キリストの祭壇を囲んで共にミサをささげる聖なる民 (聖なる者とされた人々)と呼
ばれています。
イエス・キリストはその死と復活によって天と地の一切の権能を持つ “主” となり (マタ 28:18)、父なる神
の右の座に着かれました(マコ 16:19)。この主キリストがミサを通して聖なる民である私たちと交わり、救い
の恵みを豊かに与えてくださいます。
v.2 の 「聖なる者とされた人々」 という言葉は、この主イエス・キリストの名によって洗礼を受けた人々
のことを意味しています。ローマカトリック教会に属する人々だけではなくて、全世界には他のキリスト教諸
団体に属する多くのキリスト者たちが存在しています。 「信仰によって洗礼において義とされた者は、キリ
ストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主に
おける兄弟として当然認められるのである。」(エキュメニズムに関する教令 3) そして、そのようなキリス
ト者の一致を促進しようとする運動が、エキュメニズムと呼ばれるものなのです。
2.ヨハ
洗礼者ヨハネは、この主イエス・キリストを証しするために神から遣わされました (1:6-7)。彼はヨルダン
川で主イエスに洗礼を授け、天から神の霊がこの方の上に降るのを見ました(vv.32-34)。そして人々に向
かって語ったのでした。
v.29 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
私たちの主イエス・キリストは、その名を信じて洗礼を受ける人々の罪を取り除いて、永遠の命を与えて
くださいます(3:16)。旧約のイスラエルが過越の小羊の血によってエジプトの国、奴隷の家から導き出され
たように、主イエス・キリストは 「世の罪を取り除く神の小羊」 として、洗礼を受ける人々を新たに生まれさ
せてくださって(3:3)、永遠の命を得させ、終わりの日には神の国に復活させてくださるのです(6:39-40)。
教会の主であるイエス・キリストを、今朝も福音書のテキストを通して、洗礼者ヨハネが証ししています。
v.34 「この方こそ神の子である。」
v.29 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
3.イザ
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私たちの主イエス・キリストは、イザヤ書に歌われた “主の僕” でありました。
v.3 「あなたはわたしの僕、イスラエル。あなたによってわたしの輝きは現れる。」
v.6 「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」
主の僕としてのキリストは、全世界の光であり、教会を通してその救いを地の果てまでもたらされる神の
子です。
私たちの罪のために十字架に死に、死者の中から復活して力ある神の子と定められた (ロマ 1:4)主イエ
ス・キリストは、やがて終わりの日に、生きている者と死んだ者を裁くために来られます(II テモ 4:1)。この方
が今朝も私たちのミサを通して、その恵みと平和(I コリ 1:3)を教会に与えてくださいます。
「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」(I コリ 1:2)
アーメン、 ハレルヤ。
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2002 年 1 月(主日 A 年)
1 月 27 日 年間第 3 主日
イザ 8:23b〜9:3 I コリ 1:10〜17 マタ 4:12〜23
1.マタ
私たちの主イエス・キリストの福音は、 「御国の福音」(v.23) であります。イエスの宣教はガリラヤから始
まりました。それは洗礼者ヨハネが捕えられたときから始まったと、マタイ福音書は述べています。神の救
いの歴史の新しいページが開かれました。 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までであ
る。」(マタ 11:13) 今やイエスの到来によって、新しい出来事(使 10:37)が始まっていました。
v.17 「そのときから、イエスは、 “悔い改めよ。天の国は近づいた” と言って、宣べ伝え始められた。」
“天の国” は “神の国” と同義語で、マタイ福音書が “神” と呼ぶ代わりに “天” と表現するユダヤ教
の慣習に従ったものです。イエスの宣教の中心主題は終始この “天の国” でしたから、私たちはそれが何
を意味しているのかを、福音書を通して正しく知る必要があります。
2.
神の国という言葉を地上の一つの領域である “国” と考えて、聖書は理想的な社会や国の実現を目指
しているかのように、一般に誤解される傾向があります。
しかしこの “国” という語は、聖書では元来、王の支配、統治などを意味する用語であって、神の国とは
神が王である状態、神の支配のことなのです(ルカ 1:32-33 参照)。そしてイエスの宣教は、 “天の国は近づ
いた” でありました。それは来たるべき新しい世(マタ 12:32)であり、今の時代(マタ 11:16)の次に来る別の
世なのです。(マタ 13 章の天の国の譬え話 参照) しかもこの将来の神の国の支配は、イエスの宣教を通
して既にその前兆が現れるほどに “近づいた” のでした。(マタ 12:28 参照)
3.I コリ
私たちの主イエス・キリストの福音は、 “十字架の福音” であります(v.17/1:23 参照) 教会は、イエス
がガリラヤで宣べ伝えた福音が、主の死と復活によって完成したことを信じて救われた人々の群でありま
す。(ヘブ 12:2 参照) “主” とは復活のイエスに神から与えられた称号であって、初代教会はその信仰を
“イエス・キリストは主である” という言葉で宣言しました。(フィリ 2:6-11 参照)
福音とはその昔イエスがガリラヤで宣べ伝えた “教え” のことだと考える人は、御子イエスの十字架の
死も復活も信じていない人です。そのような人は御子が 「天と地の一切の権能を授かった」 (マタ 28:18) 主
であることを理解出来ません。もちろん主イエス・キリストが 「生きている者と死んだ者との審判者として
神から定められた者であること」(使 10:42) を信じることも出来ないのです。
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2002 年 1 月(主日 A 年)
私たちはそのような考え方、そのような聖書理解、そのようなキリスト教のことをよく知っているのでは
ないでしょうか。
4.
「悔い改めよ」 という主イエスの呼びかけが、2 千年の時間を越えて 21 世紀の教会の私たちに向かって、
今朝の福音の朗読を通して語られています。福音書がギリシア語で 「悔い改めよ」 と語ったとき、その背景
にはヘブライ語の “シューブ” という言葉がありました。それは 「立ち帰れ」 という意味の言葉です (エレ
3:14,22, 4:1 他)。
神から離れ、神とは別の道を歩んで来た ・・・・・ 、そのことに気が付いて神に立ち帰る “悔い改め” を、
21 世紀を歩み始めた私たち教会に、主はミサの聖書朗読を通して呼びかけておられるのです。
「二人はすぐに網を捨てて従った。」(マタ 4:20)
「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」(マタ 4:22)
アーメン、 ハレルヤ。
− 10 −