「毒麦のたとえ」 マタイ13章24−30節

2016 年 6 月 13 日(関)
同盟福音基督教会 岐阜キリスト教会
川村
真示
「毒麦のたとえ」 マタイ13章24−30節
イエス・キリストは、たくさんのたとえ話を語られました。今日、お読みいただいたのは、
「毒麦たとえ」と言われるたとえ話です。「たとえ話」と言うからには、何かをたとえてい
るのですが、最初に「天の国は、次のようにたとえられる」とある通り、「天の国」につい
ての、たとえ話です。えっ?「天の国?」「天国こと??」と思うかもしれませんが、これ
は死んだ後に用意されている「天国」のことではなく、もっと別な意味があります。イエス・
キリストは、別の箇所でこう言っています。ルカ福音書17章20−21節「神の国は、見え
る形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの
間にあるのだ。」
つまりこの「天の国」とは、「この世界の只中に存在する」と言われているのです。もと
もと神様は、この世界を良いものとしてお造りになり、「見よ、それは極めて良かった」と
言われました。でも、いつの間にか罪が入ってきて、私たちと神様の関係は壊れ、人は互い
にいがみ合うようになり、土(環境)は汚染されてしまいました。元の状態とは似ても似つ
かない状態になってしまったのです。今日のたとえを用いるなら、神様の造られた、この世
界という畑に、いつの間にか毒麦が増え広がってしまったのです。
ある人々は、このままじゃいけないと思って「一体、どこから、毒麦の種が入ってきたん
だ」「私に何かできることはないか」と考えます。今日のたとえ話の中でも、僕たちはこう
言っています。27節『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒
麦が入ったのでしょう。』すると主人は(神様のことですが)こう言われました。28節『敵の仕
業だ』 敵とは、サタン、悪魔のことです。それを聞いた僕たちは、当然、こう言いました。
『では、行って抜き集めて、おきましょうか』彼らは善意からそう言いました。すると、主人(神
様)はこう答えました。29節と30節『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれな
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い。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』
ある聖書学者は、この毒麦の性質をこう説明します。「この毒麦は、良い麦ととてもよく
似ていて、収穫する間際にならないとどちらかよくわからない。しかも、良い麦に根を絡ま
せて成長していく。つまり、自分の勢力ばかりを広げようとして、他者と共存できない存在
なのだ」と。だから、それを強引に引き抜こうとするならば、良い麦を間違って抜いてしま
うかもしれないし、良い麦も一緒についてきてしまうかもしれないのです。
そこでイエスは、「毒麦を抜くのは、主人すなわち神様にお任せして、私たちには『その
ままにしておきなさい』」と教えられたのです。このことは一体、私たちに当てはめて読む
時、どのように理解すれば良いのでしょうか?
三つのことを教えられたいと思います。
まず、第一に大切なことは「私たちにとって、毒麦は誰のことか?」ということです。なぜだか、いつも自分
のそばにいて、自分からエネルギーを吸い取り、困らせたり、イライラさせたりする…、あ
なたには、そういう人がいるでしょうか?
友人、知人、家族、バイト仲間など。もし、い
るなら、あなたは僕たちと同じように、こう考えるでしょうか?
『では、行って抜き集めて
おきましょうか』
「抜く」とは、きつい一言でも浴びせて、もう関わらないようにするか、相手の存在を、
自分の中から、抜き去ってしまうことです。それは、心の中で、相手のことを抹殺すること
です。聖書では、それを「心の中の殺人だ」と教えています。あなたには、今までに、一体
何人の毒麦を抜いてきたでしょうか?
二番目に大切なことは、「そのままにしておきなさい」です。私たち人間は、正義感から、最も大
きな罪を犯してしまう傾向があります。戦争だって、ある意味、愛国心という、正義感のぶ
つかり合いです。また歴史上のキリスト教会も、正義感から、数々の間違いを犯してきまし
た。
ある人は、相手ことを「毒麦」と決めつけ、正義感から、なんとか抜こうとするのです。
でも、イエスは、今日の箇所で「ちょっと待ちなさい」と教えてくれました。だって、もし
かしたら、相手は「毒麦」ではないのかもしれないのです。自分にとっては、嫌な相手だっ
たり、不都合な存在かもしれませんが、それでも「毒麦」ではないかもしれないのです。な
のに、私たちが偏見から、相手を強引に抜こうとするなら、良い麦を抜いてしまうかもしれ
ない。そうしたら、気づかないうちに、実は自分の方こそが、毒麦になってしまうことだっ
てあるのです。
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何か過激な行動に出る前に、一呼吸おいて、「両方とも育つままにしておきなさい。」と言われ
た、イエスの言葉を、思い出したいものです。そしたら、ずっと後になってから、実はその
毒麦の存在が、自分の人生には必要だったと思える時が来るかもしれません。そういうこと
って、意外とよくあることなのではないでしょうか。
そして、最後、3番目に大切なことは「それでも、愛し続けなさい」です。決して、泣き寝入りをし
ろと言っているのではありません。時には、適正な距離をとり、嫌なことは、嫌だと、はっ
きり言うことも必要でしょう。でも、聖書にはこうともあります。マタイ福音書5章44節
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
今年初めの、各務原キャンパスでも引用した言葉を、もう一度紹介したいと思います。
「置
かれた場所で咲きなさい」を書かれた、シスター渡辺和子さんの言葉です。(子供の頃、自
分の父親を目の前で殺した犯人と、大人になってから再開した時、こう思ったそうです。)
「私にはとうてい、その相手を愛することなんてできない。でも私には愛することはできな
くても、相手の不幸を願わないことはできる。」
感情的に好きになれないかもしれない。でも、相手の不幸を願わず、公平にさばいてくだ
さる、神様に一切をお任せする、それが、毒麦を完全には心から抜いてしまわない、一つの
答えなのではないでしょうか?
ここにいらっしゃる皆さんは、まだ若い。これから、色々
なことを経験するでしょう。そんな中で、過激な行動に出てしまいそうになる時、このイエ
スのたとえ話を思い出すことができますように。ひとこと祈ります。
<祈祷>
天の神様。
「毒麦のたとえ」から語ってくださり、ありがとうございます。私たちは、時
に、自分を正義の立場におき、毒麦を抜くことばかりを考えてしまうことがあります。しか
し、あなたは言われました。「両方とも、育つままにしておきなさい」と。どうか、私たち
を、早まった行動や、過激な言動から、お守りください。
私たち自身が、抜かれてしまわないために、ご自分が、この地上から抜かれ、十字架にか
かって下さった、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー
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