大久保山 子供のころの遊び場はもっぱら近所の山だった。一番よく遊んだ

大久保山
子供のころの遊び場はもっぱら近所の山だった。一番よく遊んだのが、実家の橋を渡っ
た裏手にあるカイコガミサンだった。大きな石のあるのぼり口から、五分もあれば頂上ら
しき所まで行ってしまう、ごく小さな山だ。途中に養蚕の神様が祭ってあったお宮があり、
それでカイコガミサンなのだ。あったと過去形なのは、ものごころ付いたころにはすでに
お宮はもぬけの空だったからだ。その空っぽのお宮にもぐりこんだりして遊んだものだ。
小さなお宮は子供が、無理をすれば三人くらい入れる、大きさの割りに造りの立派なもの
だった。あのお宮はいまは朽ち果ててしまったのだろうか。
次によくのぼったのがジョーヤマだ。なんでもその昔、武田氏の出城だか狼煙場が頂上
にあったらしい。麓にある吉祥寺でもよく遊ばせてもらった。離れに、大工が作ったらし
い卓球台があり、オショーサンに声をかけてから、持って行った道具を使って遊んだもの
だ。継ぎ合わせた薄っぺらな木は、あちこち反り返っていて、ピンポン玉は微妙に変化し、
よけいに面白かった。夏には学生が泊り込んで勉強していたが、うるさいほどの蝉時雨は
気にならなかったのだろうか。城山は子供たちにとってちょうど良い規模の山だった。あ
ちこちに大きな岩が露出していて、身軽な子供たちはわざと険しいルートを選んで登り、
小さなスリルを味わった。釣竿など買ってもらえない時代だったので、登り口の竹やぶか
らまっすぐで手ごろなの切り出し、仕掛けだけは店で買って、蜂の子をえさにアブラハヤ
をよく釣った。中腹の岩場に生えているツメレンゲを採って帰って、祖父に借りた植木鉢
に植えたりもした。二十数年の後、ぼくら家族はその城山の麓に、小さな水色の家を建て
て引っ越してきた。家から頂上までは、ゆっくり歩いても二十分くらいのものだろう。
大久保山は小さな子には行けない、子供たちにとって特別の山だった。この辺りでは一
番高く、ルートも結構厳しいものだった。入沢のどこからでも見え、雲の垂れ込めた日は
岩の頂は雲の中だった。遠足など待ち焦がれた行事や、友達と遊ぶ予定の日に雨が降ると、
大久保山にかかる雲をうらめしく眺めた。しかしスポーツの苦手なぼくは、運動会のたび
に大久保山に雨雲がかかるのをひたすら願った。現在は雑木や松に覆われてしまったが、
春にはヤマツツジが、山腹をまるで火事のように赤く染めた。秋にはマツタケヤマと成り、
止め山なので登ることはできなかったが、紅葉のシーズンが終わると木々は葉を落とし、
見通しが良くなるので何度も登った。一番好きなルートは城山に登り、あとは幾つもの岩
の峰を越えて、尾根づたいに大久保山に至るものだ。途中にやはり止め山で、いかにも良
いマツタケが出そうな、枝ぶりの良い松が茂り、大きな岩の露出したヤセた尾根がある。
その松の間の岩上に、小さな石のお宮と、小さな碑があるのだ。碑には『心』の一文字が
彫られている。その裏側に数名の寄進者の名前が彫られているのだが、その中に祖父の名
前を見つけたのは驚きだった。祖父はぼくが中学二年のときに、癌で亡くなった。ぼくが
もの心ついたころには、すでに卒中の後遺症で左半身が不自由だった。気難しく、短気で、
大酒呑みで、めったに笑わない祖父だった。しかしぼくら兄弟に、不自由な左手も使いな
がら橇を作ってくれたりした。たぶん桑の木を滑走面に使った橇は、だれのものより格好
良くできていたし、よく滑った。離れが祖父の居室で、たまに入るとタバコ臭かった。花
岡の旧家から事情があって三石家へ養子として迎えられ、新宅に出してもらったのだが、
若いころは結構遊び人で、自分の息子、つまりぼくの父をカモフラージュに連れ、竹の籠
を背負って色町に通ったそうだ。まだ小さかった父は、白粉くさいお姉さん方にずいぶん
可愛がってもらったらしい。卒中で倒れてからも、祖父は畑に出るのが好きで、当時我が
家の野菜類はすべて彼の手によるものだった。畑に行くのにも、まがい物の鼈甲縁の色眼
鏡をかけて行くような、シャイな祖父だった。ぼくが祖父を思うとき、決まって記憶の深
い海から浮かび上がってくるシーンは、大久保山を背景に、月夜平で色眼鏡をかけた祖父
が鍬を振るっているものだ。青いレンズごしに、祖父の目もいつも大久保山を見上げてい
ただろう。
しばらく前のことだが、ぼくはお気に入りのルートへ入った。北斜面には雪が凍りつい
ていたので、ストックをたよりにゆっくり歩いた。南斜面には雪はなかった。尾根を歩い
ているうちに、頂上近くの崩落した場所を超えた。その崩落は、戦時中にマンガン鉱を試
掘したトンネルが崩れ落ちたものだとばかり思っていた。しかしその日に限って、南斜面
のある場所が妙に気になった。小石が、降り積もったように集中していた。ぼくはだれか
に呼ばれるように、斜面を下っていった。やがて真っ黒なトンネルの入り口が現れた。小
学校の六年生のころ、友だちと、懐中電灯を点けてこのトンネルに入ったのだ。10 メート
ルほど進むと、トンネルは左に直角に曲がり、23メートルで終わっているはずだ。そう
だ、トンネルは崩れていなかったのだ。昔はもっと入り口に土がたまっていた。あの土は、
雨で泥だけ流されて、小石だけが降り積もったように残ったのだ。灯りの用意などしてこ
なかったので、中に入ることはできなかった。入り口から数メートルは落ち葉が厚く積も
っていた。あきらめたぼくは再び尾根筋に戻った。目を北斜面にむけると、雑木に覆われ
るようにして、松の巨木が立ち枯れていた。その松はさっきのトンネルの子供たちの目印
で、実家からもはっきりそれとわかる巨木だったはずだ。若い、若い、と思っていたぼく
も、もうじきに五十、
『永久も半ばを過ぎて』だ。あの巨木も、次のものたちに席を譲った
のだ。はるかに見下ろせば、村内は古い家に混じって、しゃれた今風の家があちこちに建
っている。そして古い家は空家も多くなりつつあるのだ。ぼくはゆっくりと頂上をめざし
た。
とっぺんぱらりのプ