6 イエスとは

6
イエスとは
6-1
イエスの誕生
6-2
イエスの誕生の預言
6-3
イエス誕生の目的
6-4
イエスは人か神か
1
6-1 イエスの誕生
1、
聖書の主人公はイエスです。そして、イエスの登場により、聖書は新約聖書へと移
ります。しかし、新約聖書は旧約聖書の存在なしに成り立たないことも改めて確認しまし
ょう。イエスのこの地上での全期間(生涯)はおよそ33年と言われていますが、その期
間を3つにわけて説明することにしょう。まず、第1の期間は誕生からいわゆる伝道活動
の開始前、通常イエスの公生涯といわれた伝道活動を開始する前までとし、この6章で、
次に第2の期間は伝道活動(公生涯)を中心に、これは第7章から9章まで、最後第3期
間の十字架、復活までを10・11章で説明しょう。
2、ルカの福音書のイエスの誕生の記事です。「御使ガブリエルが、神からつかわされて、
ナザレというガリラヤの町の一処女の下にきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフと
いう人のいいなずけとなっていて、名はマリヤといった。御使がマリヤのところにきて男
の子を産むでしょうその子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者
の子となるでしょう。』
・・・そこでマリヤは御使に言った。
『どうして、そんな事があり得
ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに。』御使は答えていった、「聖霊があなた
に臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なる
者であり、神の子と、となえられるでしょう。」(ルカ1:26~33)
「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストからでた。」
・・・
「人々
はみな登録するために、それぞれ自分の町へ帰っていった。ヨセフもダビデの家系であり、
またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビ
デの町へ上っていった。それはすでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登
録するためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満
ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中にねかせた。」(ルカ2:1~7)
3、マタイの福音書のイエスの誕生の記事です。
「イエス・キリストの誕生は次のようであ
った。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、まだいっしょにならならないうちに、
2
聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさら
し者にしたくはなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らして
いたとき、主の使いが夢で現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリ
ヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みま
す。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる
方です。このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するため
であった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマニエルと
呼ばれる。」
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。
)ヨセフは眠りか
らさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生ま
れるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ1:18か
ら25)
4、イエスの誕生は奇跡です。イエスは、ダビデの家系をひく大工ヨセフの婚約者で同じ
くダビデの家系の処女のマリヤより生まれました。男女の交わりでなく、聖霊の働きによ
って、奇跡的に生まれたのです。ちなみに、マタイの福音書(1:18から25)は、男
のヨセフの側から、ルカの福音書(2:1から7)は、女のマリヤの側からの、イエス誕
生の記事を載せています。処女懐胎(男女の交わりなしに子供を妊娠する)という奇跡に
ついて、それが事実であったこと、しかし、それが、当時のユダヤ社会では、どんなに、
ある面は不道徳なできごと、ある面ではそれは信仰の面ですが、どんなにすばらしいでき
ごとなのか、驚くほど淡々と記載していますが、ここにも聖書のもつ事実の積み重ねを
描くことに驚嘆せざるを得ません。処女懐胎という、キリスト教に疑問をもつ人達に対し
て、事実はこのようであったことを、1ユダヤ社会の面から、2、イザヤ預言をはじめ、
旧約聖書の預言から、3ここが大切なのですが、信仰の面から、ヨセフとマリヤを通して、
証明しているのです。
5、イエスキリストとは姓名で、姓がイエスで名がキリストと勘違いしている方がいるの
で、ここで確認しておこましょう。イエスが名であって、イエスには姓はありません。「イ
エス」は、ヘブライ語デ「ヨシュア」と言い、「主は救われる」の意味がありますが、それ
をギリシャ語に音訳したものです。キリストとはヘブライ語で「メシヤ」のギリシャ語で
訳した言葉です。メシヤはもともと「油そそがれた者」で「救い主」
「救世主」と言う意味
3
があります。油注がれるとは、神によって選ばれるとの意味もあります。したがって、キ
リスト(救い主)イエスがある意味で正確な呼称ということになります。イエスキリスト
でもいいでしょう。呼び名の前後はここでは問題にしません。また、このイエスは当時の
ユダヤ地方ではごく平凡を名で、日本でいえば、一郎とか太郎とかいう平凡な名です。し
かし、キリスト・イエスとの信仰を持つものには、このイエスの名は特別の意味があり、
特別の感情、特別な力があるのです。とにかく、つけられた名は当時は特別ではなかった。
平凡な名だったのです。しかし、神から「イエス」と名づけなさいと命ぜられてそうする
のです。
6、しかし、誕生そのものは、聖霊という神の力によったのです。ここで、聖書を読む者
にとり、大きな壁が生じます。処女から人間がうまれるか?と。しかし、聖書によれば処
女マリヤより生まれるということは、イエスは人間として生まれたが、罪ある人間の遺伝
子(DNA)は引き継がれなかったことを意味します。ヨセフは「正しい人」でしたが、
やはり人間として持つ罪から逃れなかったのです。ヨセフは罪人でした。もちろんマリヤ
が罪人でなかった訳ではありせんが、聖書によれば、聖霊とマリヤにより、いわば、イエ
スは神の養子という形をとって生まれてきたと見るべきではないでしょうか。
また、これはあとで述べますが、(10章です。)イエスをどう見るかで根本的に判断が
異なるでしょう。難しくはイエスのアイデンテイテイ-といいますがどう見るかです。奇
跡は現在の科学では説明のつかない、超自然的なことがらです。科学的であることは私た
ちの頭脳を納得させますが、しかし、それはその時代という制約があります。たとえば、
ユダヤ人だったアインシュタインが出てくるまでは、光は音速を越えることは出来ないと
言われていました。博士の解明以後、光は音速を越えられないという学者はいません。科
学的でないこと、かならずしも超自然的なことがら自体の発生を否定することにはなりま
せん。それは人間の知識の限界、人間の能力の限界を意味するにほかなりません。ともか
く、イエスが人間マリヤを母として誕生したことは、イエスが人間性をもっていたことを
意味し、それが聖霊によってマリヤに宿ったことは、イエスが神性をもっている、罪を引
きついでいないことを聖書は意味しているでしょう。そして、これらのことが、イエスが
誕生する数百年前に預言されていることなのです。このようになると、だれが言えるでし
ょうか。ただひとり、この世を支配している方しかできないのではないでしょうか。
4
7、ところで、何時、どこでイエスは誕生したか。紀元前と後はイエスの誕生の前と後と
するのは、世界の常識(イエス誕生のちを紀元何年、誕生前を紀元前何年といいますが、
老婆心のため補足します。
)ですが、じつは現在2002年ですが、生誕後2002年たっ
ているので、では誕生は2002年前かというと、歴史家のその後の調査で若干のずれが
あり、およそ4年くらいずれがあると言われています。
したがって、現在2002年からすると1998年くらい前ということになます。また
当時はロ-マ帝国が世界を支配していた時代で、皇帝はアウグストです。イエスは架空の
人だとする、とんでもない珍説を唱える人も世の中にはいましたが、現在ではほとんどの
人がその実在だけは信じています。しかし、ずっと架空の人物という攻撃がなされていま
した。しかし、ロ-マ皇帝アウグストは歴史の記録にちゃんと残っているのです。
8、どこで、という場所はベツレヘムが誕生地とされています。
(マタイ2:1、ルカ2:
7)出産場所はベツレヘム、エルサレムの南の約10キロ程の一寒村ですが、ナザレとい
う場所でイエスが幼少時代から青年期にかけて育ちましたので、イエスのことを「ナザレ
のイエス」と言われています。ヨセフ夫婦はナザレの人でした。しかし、皇帝アウグスト
の勅令により住民登録が実施されヨセフ夫婦は、その故郷のベツレヘムへ行くことになり
ます。
(ルカ2:1から4)イエスがベツレヘムで誕生しなければならないからです。旧約
聖書の預言には、ちゃんと書かれているからです。
(ミカ書5:2)勅令は皇帝から出され
ましたが、それにしたがってヨセフ夫婦は、ベツレヘムにくることになります。住民登録
これは14年ごとになされていましたが、それはイエスがベツレヘムで生まれるという預
言を成就(完成)するため、ヨセフ夫婦がベツレヘムに帰ってきて、イエスがそこで誕生
することになるのです。なぜ、ベツレヘムへきたのでしょか。まさに神の力(聖書の預言)
としか、いいようがありません。当時のこの世の支配者たるロ-マの皇帝すら動かす力、
住民登録をさせる力は、神をおいてほかにありません。そのことを支配したのは、この聖
書を書かれた神です。イエスはベツレヘムで誕生し、ナザレで育たなければならないこと
が、旧約聖書に、ハッキリと預言されているのです。この、ナザレにしてもベツレヘムに
しても、現在のイスラエルに今もちゃんと地名が残っています。現在のイスラエルとパレ
スチナ人の争いでは、その地名はニュ-スでよく出てきます。ともかく、イエスはこのナ
5
ザレで育ったのです。当時は人口は数百人の小さな村だったそうです。
9、ヨセフは第2章のアブラハム、第4章のダビデでいずれも説明しましたが、その家系
に繋がっています。聖書の新約聖書のはじめ、マタイによる福音書の最初にこの家系の名
前が載っています。この家系の記載を読むことが甚だ手間のかかることで、新約聖書を読
む人はまずここから、つまずく、失敗すると多くの人がいわれています。しかし、この家
系をよんで見ると、「アブラハムの子であるダビデの子、イエスキリストの系図」(マタイ
1:1)とあり、すでにみてきた、あのアブラハム、ダビデの血縁、血がうけつがれてい
ることが分かります。「アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン移住まで
(マタイ1:17)
が14代、バビロン移住からキリストまでが14代になる。」
聖書では7がラッキ-数字なので、14はその倍の祝福を意味し、アブラハムから42
代でイエスが誕生するわけですが、ここにも神の大きな計画が隠されていると感じざるを
得ません。また家系のなかに、当時のユダヤの地では、男女差別の甚だしい時代、女性蔑
視の激しい時代にもかかわらず、その家系図のなかに4人もの女性(タマル、ラハブ、ル
ツ、ウリヤの妻=バテ・シェバ)が載っていることも、聖書が女性に対しても等しく愛と
哀れみをかけていることが、推察できます。
10、イエスの生涯は4つの福音書を中心に記載されていますが、そのマタイの福音書に、
イエスがうまれたとき、東方の博士がやってきて「ユダヤの王としてお生まれになった方
はどこにおいでになりますか。」
(2:2)と当時の支配者ヘロデ王に聞く場面があります。
しかし、実際のイエスは生まれてまもなく「飼葉おけの中にねかせ」
(ルカ2:7)られて
いたのです。馬小屋という解説がありますが、聖書にはその記事はありません。イエスは
十字架の上でも、「ユダヤの王」(マタイ27:37)と書かれた札がのせられますが、イ
エスはユダヤの王として生まれ、ユダヤの王として死んでいくわけです。
しかし、王でなく、事実としての扱いは、家畜小屋の中で生まれ、飼い葉おけの中にに
寝かされていたのです。家畜小屋に一度でも足を入れた経験のある方はあの種々紛々なん
とも言えない臭いと雑然さに驚いたことでしょう。イエスは神として人として、最も低い
底辺に我々のためにこられた事実を忘れてはならないでしょう。神であるならば、宮殿に
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文字どおり王の子として、誕生することも当然可能でしょう。
イエスは最も臭い、もっとも醜いところへ私たちのために、この地上にこられたのです。
キリスト教が他の宗教のように、人が下(地上)から神のところ(天)に上がってひれ伏
さなければならない宗教でなく、神が上から人間のところまで下りてくる宗教である、と
ある先生が言っていました。上がりでなく、
(たとえば、芥川龍之介の名作、蜘蛛の糸に載
っている悪人カンダケが蜘蛛の糸を上に上ってくる話がありますが、両者の対比として面
白い話です。)神が下がって私たちのところにきてくれる下りの宗教とは、まことに至言だ
と思います。
11、この節の終わりに、イエスの誕生日ですが、12月25日、世界各地でその聖誕祭
が広く行われています。99%の人が聖書を信じない日本でもクリスマスパ-テイとして、
商業ぺ-スで大いに利用されています。しかし、じつは、聖書には、イエス誕生の日につ
いては、はっきりどこにも記載されていません。25日誕生日説におおいに疑問をもつ考
え方もあります。なぜなら、ルカによる福音書には、イエス誕生の日「この土地に、羊飼
いたちが、野宿で野番をしながら羊の群れを見守っていた」
(2:6)と記載されています
が、当時も今も、イスラエルのベツレヘム地方、12月の末、羊を夜放し飼いして、厳寒
のとき野宿し、それを羊飼いが見守ることはありえなかったからです。
また、イエスのすべての活動が聖書に記載されている、お祭りを中心になされ、例えば
イエスは過ぎ越しの祭りのときに十字架にかかられた、聖霊の降臨(聖霊がこの地にきた
日)は5旬節と、など見ると12月25日ユダヤの何の祭りに関係ないときに、イエスが
この世に誕生するのは、不自然で、ユダヤ3大祭りの一つ、仮庵の祭り(収穫祭)のとき
にこられたと見るほうが妥当でないか、と解説している先生もいます。もちろん聖書的な
説明・根拠があるのですが、本書はふれません。
ちなみに、12月25日が降誕祭とされたのは、ロ-マ帝国がキリスト教を受け入れた
のち、ロ-マに当時つたわっていた太陽神を崇拝する宗教、これをミトラ教とよんでいま
したが、その影響のもと、1年でもっとも短いこの日、すなわち冬至これを太陽の日とし
て祝われていた日をもとに、イエスの誕生の日としたとされています。いわば、当時のロ
7
-マのお祝いの日=太陽の神の祝いの一日をイエスの誕生日としたと言われています。し
たがって、その意味から言うと、聖書の記事にはなくいわゆる聖書的でありません。ただ、
12月25日、イエスは私たちのためにこの地にこられた、その意味をかみしめることは
大変意義があり、そのこととは別のことと現在はとらえられています。
この節の最後にイエスの名について、繰返して、まとめておきましょう。イエスの名は
ごくありふれた名と言いましたが、
「イエス」はベブル語「ヨシュア」と言い、ギリシャ語
で「救う」との意味がありました。イエスにはキリストと呼ばれたと述べましたが、それ
以外に聖書では、「人の子」とか「神の子」と言われました。また「主」、
「教師」
「預言者」
「祭司」「王」「救い主」「牧者」「世の光」等さまざまな呼ばれ方をしたことが聖書にでて
きます。キリストが持つ「預言者」、「大祭司」「王」での3つの働きを特に、人間が持つ、
知、情、意の3つの分野に分けて、
「知性への働きかけ」
「感情への働きかけ」「意思への働
きかけ」に対しての働きかけをもつのだ、と説明される方もおられます。ちなみに、旧約
聖書に「ヨシュア記」が、いわゆるモーセ5書の最後「申命記」のあとにきますが、ギリ
シャ語では「イエス記」になるのです。
8
アブラハムから 42 代目にイエスが誕生
新約聖書 マタイに福音書1-17に書かれている
14 代目
イサク
アブラハム
イエス
ヤコブ
ダビデ
バビロン移住
14 代目
14 代目
9
6-2
イエス誕生の預言
1、人間にはどうにもならない、どうにもしようもできないことが、いくつかあります
が、自分の誕生です。いつ、どこへ、だれの下にうまれるかは、誰もどうすることができ
ません。しかし、イエスだけはちがいました。聖書(旧約聖書)の預言にもとづき、イエ
スは生まれました。
(1)生まれるときについて。
「それゆえ、知れ。悟れ。引き上げてエルサレムを再建せよ、との命令がでてから、油
そそがれた者、君主の来るまでが7週、また62週の間、その苦しみの時代に再び広場と
(ダニエル書9:25)
ほりがたてなおされる。」
この箇所はすこし解説が必要です。この書をあらわしたダニエルが紀元前457年に預
言したものとされています。油そそがれた者、君主とはイエスをさします。油注がれた者
とは、ヘブル語で「メシヤ」そしてギリシャ語で訳すと油注がれた者となるのです。救い
主とおなじ意味があるとは、既にのべたました。イエスがくる457年前に預言したこと
になります。
この一週はじつは、文字通り1週間の意味と別に1年の意味があるとされています。7
週と62週をたすと69週になります。69週は一週間は7日ですから、69×7=48
3週です。483週は483年とよみます。紀元前457年から483年を数えますと、
紀元26年になります。イエスは30歳のときに、公生涯、伝道活動が開始されます。イ
エスの誕生は現在の西暦では、4年のずれがあるといいましたが、まさに、紀元前457
年から483年を経て、あぶら注がれた者、イエスがくることが預言されていたのです。
したがって、公生涯開始の30年まえ、すなわち紀元前4年にイエスの誕生がある、こと
がわかるのです。
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もっとも、イザヤと言う預言者を通しても、誕生が預言しています。「ひとりのみどりご
が、わたしたちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその
肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の神、平和の君』と呼ばれる」(イ
ザヤ書9:6)
(2)生まれる場所
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたの
うちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者がでる。その出ることは、昔か
ら、永遠の昔からの定めである。」(ミカ書5:2)
イエスがベツレヘムで生まれたことは、先に述べたとおりですが、イスラエルどころか
この全世界人類の魂の支配者になったのです
(3)だれから生まれるか
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしをあたえられる。見よ。処女がみ
ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ書
7:14)
預言者イザヤは730年前にこの預言をしますが、主(神)自らすなわち、聖霊により、
乙女マリヤにイエスを宿します。なお、インマヌエルとは、いつもともにいます、と言う
意味があり、聖書の神はいつもともにいます神、インマヌエルなるイエスと言うのです。
そのほか、イエスはダビデの家系、ユダの部族、そしてイスラエルからうまれることも預
言されています。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根からわか枝が出て実をむすぶ」
(イザヤ書11:
1)エッサイはダビデの父です。ダビデからイエスは28代目にして誕生するのです。
「ヤコブから一つの星が上がり、イスラエルから一本の杖が起こり、・・・ヤコブからで
11
る者が治め」(民数記24:17・19)ヤコブはあの、アブラハム、イサク、ヤコブとつ
づくイスラエル(ユダヤ)民族の祖であり、そのながれのなかでイエスが生まれることが
預言されていたのです。
ちなみに、イエスに関する旧約聖書の預言の箇所は350以上もるといわれ、いかに旧
約聖書と新約聖書が切っても切れない不可分の関係に在るかが分かります。そしてイエス
の誕生により、旧約聖書のイエス誕生の預言350は実現したのです。聖書では成就した
と表現します。
12
6-3 イエス誕生の目的
1、イエスはなぜ、この地に来たのでしょうか。人はそれぞれ目的を持ちこの世で生活を
していますが、いや、目的そのものが分からなくて苦しんでいる人も大勢います。イエス
は何だったでしょうか。
私たちは多くの問題をかかえて生きています。お金の問題、健康の問題、仕事の問題、
人間関係の問題、家族の問題、数えきれない問題をそれぞれ抱えています。現在の今ある
問題、将来くるであろう問題、問題のない人はそれが問題だとも言います。問題のない人
など一人もいません。また、それぞれの問題がやっかいなのは、問題は次から次へとやっ
てくることです。お金のない人はとりあえず、まずお金を求めますが、お金を手にすれば、
解決できると思っていたことが、最終的な解決にいたらず、次の問題を生み出すとは、だ
れもが経験することです。
したがって、問題はあること事態にでなく、その最終解決をいかになして行くかにその
方法の道を求めるしか糸口がなさそうです。死がその解決の道でしょうか。聖書は、自殺
「主は与え、主は取られる。」
(ヨブ
=自分を殺す権利は人間に与えられていないとします。
1:21)神のみが、人の生殺与奪の権利をもつと言うのが、聖書の神の立場だからです。
しかし、聖書の神は、人間の問題の解決の決定的な糸口を与えてくれたのです。問題の解
決を、聖書は「救い」と表現しています。全ての問題の鍵は、その問題の中にあるのでな
く、その問題が起こる原因にこそあるのだ、とします。人は神から離れました。つまり、
罪を犯し、罪の人になりました。それが原因です。問題のすべては、罪からくるというの
が、聖書の立場です。したがって、神ともう一度、仲直りをする必要があります。聖書で
は、神との和解といいます。神との和解をとしてすべての問題の根もとである、罪の許し、
すなわち罪からの救いをどのようにするか、だと。
イエスはこのことのためにこの地にきました。すなわち、人の罪からの救いのためです。
13
「神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリストイエスです。」(テモ
テ第1・1:3)「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名
(使徒
のほかには、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです」
の働き4:12)
神の法廷
神
裁判官
告発
とりなし
黙示
みがわり
12-10
サタン
イエス
検事
弁護人
律法
愛
ローマ
3-20
人間・
罪人被告
罪人ローマ 3-23
14
6-4 イエスは人か神か
イエスとはどのような、お方だったのでしょうか?ここで、2つの面からイエスを見て
いきましょう。
1、人としてのイエス。
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うようなみばえ
もない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔
をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)
イエスがどのような姿、形か、現在では実際に誰もその姿にふれていないので、聖書か
ら想像するしかありません。しかし、驚いたことに、イエスのことを書いた4つの福音書
にも、新約聖書の他の箇所にも、実際の姿を記載した箇所はありません。実に不思議と言
わざるをえません。しかし、神は偶像を忌み嫌われたので、もしイエスの実像(姿、形)
を聖書に描くとそれをもとにイエスの像を造り、偶像をつくって、それを信仰の対象とす
るのを恐れたからかもしれません。それでも、マリヤの像を造り、偶像対象にしかねない
のだから、よくよく人間は、見えねば信じることができないのでしょうか。
それにしても、イエスはどんな方なのか思いめぐらすこと、聖書をより深く知り、イエ
スを深く理解することからも許されることだと思います。まず、イエスは黄色人として生
まれたと言うことです。世界には白色、黒色、黄色人の3種類の人間しかありません。ユ
ダヤは東洋の端、現在の中東地方です。よく映画それもハリウッド映画では、イエスは白
人のそれも長身の痩せて白い衣を着られている姿が描かれています。これは、白人社会の
イエス像です。アフリカでつくられたイエスの像は黒人ですが、まさか黒色ではないでし
ょう。
イエスは現在の中東に住むユダヤ人でした。いまのイスラエル人やアラブ人とおなじ目
15
や髪の毛は黒、肌は少し黒みががった白色でなかったでしょうか。イエスは公生涯の活動
(マル
にでるまでは、大工でした。ナザレではイエスは「この人は大工ではありませんか」
コ6:3)と言われていました。大工さんは何処の国の人でも、筋肉隆々のガッチリして
いる人が多いです。イエスもガッチリ筋肉モリモリの人でなかったでしょうか。
次に、イエスは30歳から公の活動に入りますが、紀元0年、いまから2000年程の
前の世界の一般社会の平均寿命は、現在では考えられないほど短かったでしょう。日本の
関が原の戦い(1600年)当時平均寿命は40歳位だったとか。したがって、30歳は、
現在は別として、当時ではいわゆる中年にかかる年齢ではないでしょうか。だとすると、
人生の後半とも言うべき時、少し黒みががった白色のガッチリした体格の大工出身の男性
が、この世を引っ繰り返すようなメッセージをひっさげて、みんなの前に登場したことに
なります。
2、神としてのイエス
イエスを人としてのみとらえれば、いわゆる世界の聖人となんら異なることのない評価
になってしまうでしょう。
「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によ
れば、死者の中からの復活により,大能によって公に神の御子として示された方、私たち
の主イエスキリストです。」(ローマ1:3~4)イエスを人としてだけでなく、神として
評価するか、これは聖書全体の評価につながることだと思います。世界的宗教の開祖であ
る、釈迦、孔子、マホメットと同じように人としてのみ評価するかどうか。たしかに、仏
教、儒教、イスラム(回教)は現在でも世界に大きな影響をおよぼしていることは事実で
す。しかし、この方々は人間として、素晴らしい道徳、倫理、生きる道を説きました。
しかし、イエスは違っていました。イエスは生きながら、神とよばれ、イエスもそれを
拒否していません。イエスは人であり、神でした。もし、イエスが人間としてのみ、この
世にきたならば神としての礼拝の対象にはならなかったはずです。聖人なら、自分を神と
することがどんなに大きな罪か、わかっていたはずですから。聖人たちは生きているうち
は絶対、神と呼ばれませんでした。また、それだけは弟子にも、信者にもさせなかったの
です。絶対しなかった。あまりにも恐れ多いことだから。
16
イエスだけが違っていました。イエスのみは生きているときから、神と呼ばれました。
もっとも、生きているうちに、自分は神であるなどと、とんでもないことを言いだす、現
代の新興宗教の開祖、パラノイヤで、狂信的自己顕示者もいないではありませんが、その
種の手合いは、神によらずとも、歴史や人間により抹殺されているから問題にする必要は
ありませんが。
」(マタイ16:15・16)イエスは
(1)「あなたは、生ける神の御子キリストです。
弟子ペテロに対し、あなたは、わたしをどう思うかと言う問いに答えたのでした。イエス
はそれを、よしとされました。礼拝は神にのみささげられるものですが、イエスは御自分
にささげられた神としての礼拝を受けられたのでした。
(2)イエスが神であることは、聖書により多くの証言があります。イエスを抹殺しよ
うとしたユダヤ教、その律法学者だった、ニコデモは、
「あなたは神のもとからこられた教
師です。」(ヨハネ3:2)と告白します。イエスが神でなければできない多くの奇跡をな
したからです。
(3)イエスが愛された、2人姉妹のうちのマルタも「あなたは世にこられた神の子キ
リストであることを信じています。」(ヨハネ11:27)と言いました。このあと弟のラ
ザロが死の墓のなかから生還します。
(4)イエスを滅ぼそうした、敵なる悪霊サタン、汚れた悪霊たちにも「あなたは神の
子です。」
(ヨハネ11-27)と言わしめています。敵こそ、もっとも自分の敵の正体をみ
やぶることができるからでしょう。
(5)ロ-マの百人隊長も、その自分のおかれた立場を忘れ、
「この方はまことに神の子
である。」(マタイ27:54)と思わず言ってしまいます。
(6)イエスの弟子でありながら、後世、疑いのトマスと有り難くないニックネ-ムを
あたえられた弟子の一人も「私の主。私の神」(ヨハネ20:28)とイエスに告白しまし
た。
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「キリストは神の御姿であられ
このようにイエスは神でありながら、人でもありました。
る方なのに、神のあり方を捨てることはできないとは考えないで、・・・キリストは人とし
ての性質をもって現われ、」(ピリピ2:6・8)たのです。しかし、神であり、同時に人
間であることを理解することは、われわれ人間の知性や知識では不可能です。
キリスト教では、学問的に(キリスト教では神学といいます)難しくこのような状態を
説明するために、神人両性(しんじんりょせい)
、または二性一体(にせいいったい)とか
二性一人格とか言って説明しています。人間としての性格を人性、神としての性格を神性
と言いますが、この2つの異なった性質が一つの人格のなかにあるとするのですが、これ
から先は、深い学びをしなければならないかもしれません。
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