、 本 誌 前 号 の冒 頭 記 事 に 昭 陽 没年 を 天 保 七 年 五月 十 七 日己 亥 成 刻 ︵み 、 の い oいぬ の こく ︶ 今 の午 後 八 時 、 、 頃 享 年 六 十 で死 去 と す るが これ 。 は筆 者 の誤 り ﹁ 享 年六十 四﹂ であ る 。 よ って訂 正 と お詫 び いた t ます 。 本 文 記事 を続 稿 し ます 文 政十 二 ︵ K 百 年 の二月 五 日赤 星 俊哲 ︵ 南 冥 の弟 子 で儒 医 ︶ が酒 と魚 。 。 を 持 参 新 婢 鶴 入 る ︵新 し く 女 中 。 を 雇 う 名 は つる︶ 。 昭 陽 の二女 で母 方 の実 六日 敬 ︵ 家 ﹁五島 屋 ﹂ を 嗣 ぐ︶ が 三児 と女 中 、 、 一名 を連 れ 新 年 の鮮 鯛 と 酒 鰹 節 、 を持 参 供 の丁稚 ・忠 大 と忠 吉 に酒 。 を出 す 。 。 七 日 女 中 一名 が正 月 帰省 す る 暢 洲 の こと︶ は伊 崎 の叔 父 鉄次 郎 ︵ 。 山 口白 責 方 に出 向 く 。 。 八 日 塾 始 め に尚 書 を講 ず 。 九 日 生 月 の又 右 衛 門 よ り鯨 幽 一 。 巻 と蒸 腸 一籠 が 到 来 長 婿 ︵ 長 女少 乗 の婿 ・雷 首 の こと︶ か ら藷 と芹 届 。 十 日 友也 ︵ 少 栞︶ と紅 児 ︵ 少栞 。 女 子︶来 る 。 。 十 一日 又 兵 大 蛤 の芭 を 持 参 。 。 十 二 日 友 と敬 揃 ひ来 る 鉄 次 郎 当 月分 よ 衣 非 組 頭 よ り月 俸 券 受 領 ︵ り藩 財 政 の節 減 によ り年 二俵 を 控 除 さ れ る︶。 亀 井 家 給 禄 の十 五人 扶 持 ︵一人 扶 、 持 は年 に米 五俵 ︶は 大 の月 は 四俵 一 。 斗 一升 五合 小 の月 は 四俵 六 升 八合 。 ︵一俵 は 三斗 三升 ︶であ る これ に年 。 二俵 の節 減 分 を当月 から差引 かれ る 。 十 三 日 内氏 ︵ 妻 の こと︶ 栗 林 に 、 。 年 賀 茶 包 持 参 これ に昭 陽 も 三百 。 。 文 を 添 え る 栗 林 は妻 の稽 古 師 匠 。 、 十 四 日 元琳 黄 渓 の詩 稿 二十 余 。 枚 を大 い に削 る 安 倍 文 雄 詩 稿 に削 、 除 ︵ 改 訂 指 導 を す る こと︶ を 求 め これ に銀 子 を添 え来 る。 、 此 日 次第大 荘 ︵ 太 宰 府 に住 す ︶ 、 。 の二回 忌 な り 鉄 次 郎 と黄 渓 今 宿 。 少 乗 方 に行 く 写 真 H杉 山 謙 (092)8832887 〒8 1 9 福 岡市西区能古5 2 2 2 奮 館 物 博 古 発 行 財団法人亀陽文庫 能 平成 8年 7月 31日 り よ だ 館 物 博 古 能 (1)第 29号 能古博物館 の一部 「 仮称 ・能古古窯 とその発掘品J3種 。左か ら青磁碗、染付碗蓋、高取茶碗。 (注)本 古窯は諸説あり、未知多 々包蔵する。 平成 8年 7月 31日 修 ) 。 。 十 五 日 黄 渓 帰 り来 る 。 、 十 六 日 安 次 郎 帰 塾 南 金 三分 と 。 、 、 白 糖 一函 持 参 強平 友石も帰塾 。 酒 三升 。 。 十 七 日 伯 子五年 忌 英 作諸 生 と 。 。 撰 具 を 供 え る 強生酒 二升凍腐供進 。 註 =伯子は昭陽甥 の山口刷太郎なり 。 。 十 八 日 千 里来 り鮮魚 ・酒受 ける 。 十 九 日 左 伝 績 考 再 講 五巻 四百 七 。 。 十 頁 を卒 業 友 也 誕 生 日作 を 作 る 。 昭 陽 が 属 す る城 代 甘 日 隊伍 会 ︵ 。 組 の会 合 ︶ 不 参 を こと わ る 。 昭陽 甘 一日 阿 鉄 と伊 八 妻 来 る ︵ 。 家 の旧婢 ︶ 司 ︵つか さ︶ 来 り 詩 稿 。 に改 訂 を 求 め 二朱 金 を 受 け る 。 改 訂を 廿 二 日 司 の文 稿 を 削 る ︵ 。 いう︶ 弥 平 酒 二升 持 参 篠 田荘 太 郎 り よ だ 館 物 藩 医 家 の子 弟 ︶ 南 金 ︵一両 の 四 分 ︵ 。 の 一︶ と海 苔 を 謝 礼 に置 く 。 荘 周 考 二巻 を 了 し製 本 す る 。 万 年 に三歩 金 を貸 す 。 。 甘 三 日 与 八 に二歩 を 貸 す 武 折 。 篇 を修 稿 。 甘 四 日 宮 崎 春 亮 入塾 二分 銀 を束 。 修す る 。 。 廿 五 日 風 雨 迅 雷 寒 疾 によ り机 、 。 を離 れ る 秀 也 清 書 を 以 て来 り こ 。 。 れ に署 名 を 与 う 少 茉 と紅 児来 る 。 。 甘 六 日 岩 国 藩 の三書 生 来 る 宇 、 都 宮 了安 三分 金 を 呈 し 字 書 七 紙 を 博 古 能 。 岩 国藩 主 の こと︶ に 乞 う 吉 川侯 ︵ 。 献 ず る由 な り な お方 金 八片 ︵二両 。 を いう︶ 謝 金 と す 。 唐 人 町成 道 寺 に三百 文 を 呈 す 。 廿 七 日 岩 国 に求 め ら れ る字 書 を 。 。 三生 に交 付 少 栞 又鮮 を作 る 。 。 甘 八 日 少 栞 婿 の源吾松露を持参 、 。 夜 左 氏 会 同 を講 堂 にす る 。 。 甘 九 日 紅 児帰 る 。 晦 日 長 太夫来 る ︵ 長 太 夫 は井 原 。 村 の亀 井 親 戚 ︶ 鵬 漠 が 葱 と 野 蜀 葵 。 を持参 〓一 月 。 昭 陽 二女 で母 実 家 の姪 朔日 敬 ︵ 浜 五島 屋 を 嗣 ぎ上 原 助 次 郎 を夫 に迎 。 、 え る︶ 干 魚 か な ぎ 鍼 魚 を持 参 。 二日 先考 ︵ 父 南 冥 の こと︶ 十 六 。 、 年 忌 な り 午 牌 門 生 と玄 沖 司 と 馬 、 輔 ︵こ の二名 は南 冥 の医弟 子︶線香 。 焼躯 を築 す 外 生 ︵ 通 学 生 ︶ は香 典 。 包 を供 す 肱 臥 ︵ 義 弟 の山 口白 貫 ︶ 、 と博 多 生 民 ︵ 南 冥 医 術 の高 弟 博 多 。 に開業 す る︶ 各 自 箕進 平蔵葱 一束。 、 。 。 、 三 日 僧 鑑 酒来 る 弘景 の 百 。 五 。 。 四 日 早 朝 よ り机 を離 れず 茂 助 。 二方 金 ︵ 半 両︾ を 返 す 京 屋十 両 を 。 借 りる 。 頼 母 子 講 の こと︶ 三 五 日 銀会 ︵ 。 、 銭 を 栄 作 妻 借 る 昭 陽 著 作 中 の績 、 、 考 大 い に進 捗 ︵三十 冊 二 ご 一 七頁 。 補 考 一冊七 八 頁 ︶ 自 筆 清 書 終 わ る 。 内 書 生 ︶ 修 業 を終 え 六 日 友紀 ︵ 。 。 帰 郷 す 金 二分 ︵ 半 両︶謝 金 、 、 妻 今 宿 に行 き 長 石 村 の藤 五母 と会 す 、婚 事 会二女 ・世 の縁談︶な り。 。 、 宮崎 省吾郎 石 橋敬 助 入塾 源吾 。 。 吉 報 を も たらす 夜会 議 す る 。 、 七 日 二生 一方 ︵一分 銀 一両 の 。 、 四分 の 一︶ を束 修 紋 峡持 参 ︵ 欣 は小 さ い瓜 を いう︶。 茂 助 、 今 宿 に 、 走 って五 鯛 餞 頭 を 長 石 の客 に贈 り 。 、 源 吾 は酒 す る 元濤 酒 肴 を 送 り基 。 小学故 と為す ︵ 此行 の意味不明な り︶ 。 、 玄 免 茶 二袋 を送 り潤 ほす 徳 次 白 。 。 蛤 を 送 り 夜 精 を指 く 。 。 、 八 日 大乗寺 糖 蜜 を送 る 後藤 。 、 元常 酒 と大 魚 を送 ら る 。 九 日 内氏 ︵ 妻 の こと︶ 京 佳 文 を ま わ り又 三国 ︵ 団 は円 ・即 ち百 銭 の こと。 こ の場 合 の銭 は 四文 と す る︶ 。 を増 す 。 、 岡野東 次郎 鯛 を送 ら る 。 。 十 日 八重来 る 。 。 十 一日 初 め て門 を出 る 。 。 十 二 日 妻 今 宿 に如 く 衣 非 氏 に 。 。 行 く 人 を 今 宿 に走 らす 。 。 十 三 日 豪 潮 作 め く り来 る 三国 。 喜 六 に貸 す 。 。 十 四 日 長 沢 儀 八 に往き媒 を請 う 。 山 人 走 るな り 。 、 、 十 五 日 忠 吉 伊 平 に考 あ り 友 。 平 帰 り遅 し 、 。 局 香茸 と 十 六 日 春 甫 来 り唐 統 一 。 芥 半切 を始 ら る 。 。 十 七 日 孤 卿 氏 に往 く 良 駿 来 り 。 若 松 二升 を 始 ら る 。 、 十 八 日 鉄次郎 親 事 願状 を卜 り 今 日玄 桂 を 以 てす る に遅 々と し て果 さず。 。 十 九 日 山人 ︵ 雷 首 の こと︶ 書 幹 。 を 持 ち朝 早 く孤 卿 司 城 に往 く 栗 林 。 、 よ り 二人 来 る 元 瑛、 元 琳 来 り 茶 。 二袋 を 祠 堂 に隻 す 酒 三升 と鶏 九 を 。 余 にお く ら れ る 。 、 二十 日 道 也 山 人 を 以 て束 を 回 ら し 帰 り来 る。 詩 賛 三 を作 し書 し て 。 源 左 衛 門 太 夫 に賀 す 。 、 甘 一日 三坂 村 甲 長 来 り 今 日を 。 以 て玄 桂 の願 状 を 郡 役 に赴 け る 、 、 註 =廿 廿 一日記事は 十八日の鉄次 郎 の親事 ︵ 結婚︶願状 にかかわること で ある。 。 。 甘 二 日 願 状 を 司 城 に上 す ︵提 。 出 し た の意 ︶ 二元 過 ︵二旬 を 過 ぎ︶ 。 遊 び が多 く 昭 陽 は案 じ て いる 。 、 廿 三 日 春 亮 塾 に帰 り蜆 を も た らす。 。 、 。 甘 四日 友 紅 児 ︵ 少 乗親娘︶来 る 。 。 甘 五 日 友 は急 に帰 る 山 人 来 り 内氏 ︵ 昭 陽妻 ︶ と姪 浜 の阿幹 の こと 。 で往 く 。 吉 太 郎 が筍 と蕨 を持 参 左 平 が大 。 蝦 を持参 。 、 。 甘 六 日 内 氏 姪 浜 よ り帰 宅 玄 節 が 回 って来 り字 書を乞 い抄 ︵ 藩し 。 を謝 と す る 。 。 甘 八 日 目 覚 め て机を離 れず 夜下 、 机 に就 き そ のま ま仮 眠 の状 態 で朝 に至 った の であ ら う。 鉄 次 郎 願 書 が 月 番 家 老 に届 いた こと を 組 頭 ︵ 衣非 。 氏 ︶ に報 告 し てお く 。 う こぎ の若 廿 九 日 平 蔵 が独 活 ︵ 。 、 芽 ︶ と芹 を持 参 文 四郎 が蕨 を 金 。 内 氏 姪 浜 に往 り よ だ 四 月 。 朔 日 内 氏 が友 と紅 児 を伴 な い帰 る。 井 原 の茂 助 が銀 廿 銭 く れ る。 。 。 二 日 強 平 が干 鰈 を持 参 。 、 昭 陽 の三女 ︶ と 三 日 内氏 世 ︵ 兵 衛 か ら 酒 肴 が届 く 館 物 博 古 に銀 五銭 を出 す 註 =三女 ﹁ 世﹂ の縁談 に円満進行を祈 。 、 願したのである 左太夫が来り 昭陽 こ れに酒を出す。 。 、 四 日 神頼 ︵ 姓 。か み よ り︶ 生 。 入塾 南 金 ︵一分 銀 を いう︶ と 酒 二 。 升 を 束 修 と す ま た園 と な お塾 中 鏡 。 得信坊 ︵ 修 験者 ・ 香 椎 宮 に詣 り金 一分 ︵一両 の四分 の 。 一︶ を供 進 す る 能 29号 (3)第 山 伏 の こと︾ 来 り蛙 鴎 粉 ︵ 註 =蛙 鴎 。 粉 の意 不 明︾ く れ る 九 霞 楼 の需 め る 二絹 一紙 に寄 題 を 。 、 作 し詩 書 を揮 ふ 光 徳 寺 来 り 茶 と 。 骨を お く ら れ る 仙人 一 。 五 日 土州 ︵ 土 佐 ︶ の生 回十 次 郎 、 見 え 小 銀 ︵二朱 銀 の こと か︶ を 以 。 て字 書 を需 む 。 。 六 日 深 恵 よ り独 活 送 ら れ る 。 註 =深恵は胎土郡辰 ケ橋の瑞梅寺住職 。 亀井 一家 に親しむ 昭陽 ・少乗日誌 によ く登場する。山水画を良くし名作を残す。 。 七 日 去 る五 日 に見 参 の上 州十 次 。 郎 に書 を 揮 い其 帖 を贈 る 註 =其 の帖とするのは書法帖を作 った も のか。 。 鉄 次 郎 と 孤 卿 君 の招 き に応 じ往 く 孤 卿 君 は使 者 を し て酒 二升 と餅 魚 、 。 三を 賜 り 余 を 選 郎 君 に会 せ ら る 。 八 日 孤 卿 君 に拝 謝 し鮮 鯛 三 口を 。 、 呈 す 左太 夫 再 び煤 鰭 を 以 て来 り 。 。 飲 む 只 助 を 呼 び供 に飲 む 。 、 。 、 九 日 敬来 る 玄沖 鯛 二 酒 二 升を送られる。併せて只助にも酒艦 。 二升 送 る 。 、 十 日 黄 渓 拘 杞 茶 に手 紙 を 添 え 。 送 ら れ る 谷 坂 才 右 よ り酒 と鹿 肉 煮 。 。 /が届 く 神 頼 国鏡 入塾 。 、 。 十 一日 退 叔 鹿肉 を送 り来 る 焼 。こ れ に名 碗 を 添 良 才 二分 金 を 返 戻 。 、 え る 安 兵 衛 切 昆 布 一俵 を持 参 し 。 て帰 塾 す 。 十 二 日 音 九 郎 書 幹 を 以 て少 栗書 。 、 を 求 め酒 代 三分 金 を 添 え る 健 吾 。 、 若 松 酒 二升 を持 参 昭 陽 衣 非 組 頭 。 を訪 う 。 、 十 三 日 康 江 吉 蔵 酒 を持 参 し字 。 を 需 め る 威 八 郎 叔 父 海 参 一口送 り 。 、 来 る 月 海 上 人 索 牛 杯 と 洛 酒 を送 。 う リス 0 。 十 四日 紅児 ︵ 少 乗 の 一女 ︶ 来 り 。 後 れ て山 人 ︵ 父 雷 首 ︶ も来 る 。 。 十 五 日 少 乗来 る 。 。 、 十 六 日 友 と紅 児帰 る 大 探 南 。 、 金 を 添 え詩 稿 批 正 を 求 む 大 乗 筍 。 を 送 りく れ る 。 十 七 日 大 疎 と大 乗 詩 稿 を 削 り返 。 。 す 重 左 工門 よ り乾 蕨 を 送 ら る 、 茶 を送 り 珪 蔵 方 金 ︵一分 金 ︾ と 酒 く る。 。 、 十 八 日 大 哲 一朱 を 以 て字 書 を 。 乞う 。 。 、 十 九 日 河村 泰 安 若 松 酒 二升 、 原 井 例 介 南 金 ︵一両 の四分 の 一︶ と 酒 二升 を 送 り来 る。 重 左 工門 来 訪 、 。 あ り 飲 酒 を 供 し て夜 を 徹 す 。 、 二十 日 玄 沖 に薬 を 乞 い 隊 伍 会 、 。 。 出 席 を謝 す 昭 陽 疲 労 を いう 註 ︱十九日の重左 工門酒供 による不眠 のせいであらう。 。 甘 一日 婢 ﹁は る﹂ の母 来 る に六 。 十銭を交す 文 のこと︶を当時 の 註 =この六十銭 ︵ 米価 一升 四十 四文 で勘案す ると米 にし て 。 約 一升 三合六勺 に相当す る 。 。 甘 二 日 長 年 か ら浪 花 酒 二升 届 く 。 。 。 甘 三 日 正 薬 内 氏 伊 崎 に行 く 。 。 。 甘 四 日 鉄 也 孤 卿 氏 に往 く 、 ︱ 註 甘 三 日の内氏伊崎行きと 本 国の 、 鉄也行動 は 本人 の結婚話進行と思われ Z つ。 。 廿 五 日 与 八 が塾 舎 の風 害 修 繕 に 、 遠 地 大 工を備 い そ の仮 泊 さ せ るた 、 。 、 め 書 生 寮 の 一室 使 用 を 認 む 夜 。 司 馬 助 の修 了 に別 離 の小 宴 を 催 す 。 斉 熊 来 って泊 ま る 。 。 廿 六 日 与 八 に酒 二升 を持 参 。 廿 七 日 干 う ど ん 二束 を与 八 の使 。 役 大 工夜 食 に与 え る 大 工平 蔵 持 参 。 の干 小 鯨 を贈 りく れ る 。 干 し も の︶ 廿 八 日 与 八 に鯨 腸 ︵ 。 を与 え る 。 廿 九 日 矢 野 老 太夫 ︵ 家老 の隠居︶ 。 。 来 訪 あ り 玄 桂 来 り茶 を 貰 う 道 祐 。 来 り 一団 一方 ︵ 金額 不詳︶ を貸 す 。 。 、 晦 日 強 平 二団 元良 に三分を貸す 五 月 。 孔子像 を拝 す る こと︶ 朔 日 登拝 ︵ 。 。 明 を感 ず 与 八 が活 鯛 を 供 す 爽 、 。 二 日 福 竹 武 左 工門 鯛 と 酒 を 以 平成 8年 7月 31日 化 ) 。 、 て字 を 乞 う 木 村 治 三郎 大 鯛 を く 。 、 。 れ る 東 紙 一束 浪 花 よ り送 ら る 。 、 三 日 香 江健 吾 鯛 及び酒 を 以 て 。 。 字 書 を 乞 う 強 平 に貸 す 二圏 回 る 、 、 豊 前 本 須 賀 蓮 光 寺 果 一箱 送 来 関 。 洲 書 の借 覧 を 乞 わ る 。 四 日 大 乗 文 稿 の改 削 を求 め ら れ るも 一役 ︵ひと仕 事 ︶ あ り。 。 、 五 日 内書 生十 九人 賀 酒 と南金 。 三片 ︵ 三分 か? ︶ を供 さ る 弘 景 賀 。 抄百五 畳屋 ︵ 生 月 捕 鯨 益 富 氏 の商 、 。 号 ︶ 又 右 よ り長 尾 羽 二 骨 切 甘 鉄 次郎佳 祝 ︵ 結 婚 成 立 の こと か︶ を 賀 。 、 す と これ に己 三郎 よ り鯨 一巻 酒 。 、 一升 を 以 て余 の潤筆 を求 む 友 紅 、 と。 山人 り よ だ 児 来 り鬼 蝶 胡 豆 を 賀 す 館 雷 首 の こと︶ 簡 明 日 録 を 写 し これ ︵ 。 を 装 釘 せ ん と送 り来 る 。 。 六 日 孤 卿 氏 に如 く 玄 沖 が 酒 肴 。 。 、 を送 り来 る ま た友 紅児 に酢作 る 。 。 衣 七 日 友 と紅 児 か え る 牙 城 ︵ 、 非 組 頭 の こと︶ 城 命 あ り 二十 四時 。 終 日を いう︶ 整 列 し て陸 路 を 番 す ︵ 。 八 日 太 郎次 ︵ 姪浜 の石橋氏当主︶ 。 、 家 製 の醤 油 五 升 く れ る 鉄 次 郎 書 。 生 と祖 父 南 冥 の墓 を 洗 う 。 、 九 日 八 木 春 林 魚 に若 松 一升 を 。 。 添 え字 書 を 乞 う 直 ち に揮 う 。 、 十 日 丹 波 司 馬 輔 明 日を 以 て将 、 に帰 ら んと す るを留 ま り 一方 一南 物 博 古 能 ︵二分 金 と 一分 南 錬 銀 の こと か ︶ を 。 、 、 潤 筆 とす 又 内 氏 に 一南 綿 布 を 、 鉄 也 一南 一朱 を 世 と宗 にお き送 別 、 。 詩 と し 二人 の為 に揮 う 。 、 十 一日 石 工 工 考 ︵ 父南 冥︶ 墓 に漆 銘 を 正 し く聖 け る。 友 と紅 児 来 り 供 え る に 三 品 ︵野 菜 類 ︶ を 萩 す 。 ︵つや つやしく飾ること︶ 。 十 二日 祖 父聴 因 の五 王考遠 忌 ︵ 。よ っ て祖 父 位 牌 と 十 年祭︶ を為 す 祖 父 生 前 愛 用 の徳 利 に銘 酒 ﹁若 松 ﹂ 、 を 一升 七 合 余 を詰 め そ の他 所 要 具 と供 物 類 を 、 祖 父 生 前 の親 近 者 強 平 と平 蔵 両 人 の好 意 を受 け崇 福 寺 に運 。 搬 を 頼 んだ 、 崇 福寺 は 昭陽叔 父 ︵ 父南 冥弟 ︶ く 家 し修 行 後 は崇 福 寺 の が 出 曇 栄 早 、 退 任 後 は同 寺 塔 頭 の永 住 持 に出 世 楽 寺 隠 居 と し て物 故 と いう因 縁 が あ り崇 福 寺 か ら は前 住 縁 故 と し て亀 井 家 に聴 因 法 要 は格 別 の配慮 を す る旨 を 以 前 か ら伝 え られ ていた のであ る。 それ でも 昭 陽 は自 分 達 は別 と し て、 、 五十 年 忌 と いう こと も あ り 近 親 に 。 限定 し た法 要 を 考 え て いた それ で 、 、 、 、 助次郎 太 郎次 橋太 甚大夫 大 。 生 の五人 を 招 待 し た 、 衣 非 組 頭 か ら連 絡 が あ り 明 後 日 。 に昭 陽 の出 頭 と命 じ ら れ た 。 十 三 日 王 考 五 十 年 忌 に寺 謝 三分 。 金 を進 呈 ま た書 生 十 八人 に朝 撰 す る。 ま た近 隣 の交 際 は董 食 を 接 待 、 崇 福 寺 か ら の讀 経 二僧 に食 菜 を供 し 。 各 員 に銭 百 文 を 布 施 と し た ま た書 。 生 十 八人 に若 松 酒 を 夕 食 に付 け る ほか に近 親 者 の肱 臥 ︵ 義弟山 口白貫︶ ほか 六名 に夜 食 を 出 す。 これ に少 乗 、 。 夫 の源吾 二女 敬 も 三児同伴 で来 る 。 、 十 四 日 朝 講 後 に 一昨 日 組 頭 の 。 招 請 によ る出 頭 を す る か ね て出 願 し ている鉄 次 郎 結 婚 の允 許 であ る。 、 。 組 頭 に謝 恩 を表 し下 城 帰宅 す る 。 源 吾 来 り祝 意 を 云 う 昭 陽 も 家 名 の 。 継 承 を得 た こと で安 心 であ る 。 十 五 日 実姉 ﹁ 妙 慶 大姉 霊位﹂ 没 、 の六 十 年 を 女 孫 よ り伝 言 あ り 王 考 。 遠 忌 に次 ぐ吉 符 と し て敬 弔 を 表 す 、 天 満 謙 吉 若 松 酒 三升 を 以 て書 字 。 を乞 う 。 、 十 六 日 昭 陽 崇 福 寺 に往 き 先 般 、 の法 要 を謝 し 方 丈 ︵ 住 職 の室︶ に 。 於 て美 酒 を 供 さ れ る 。 書 生 の父 親 ︶ 十 七 日 瀬戸兵 八 ︵ 、 来 り 過般 の祖 父 法 要 に隻 茶 一大 包 。 、 。 を供 す 荘 太 郎 車 香 江 家 を持 参 。 昭 陽 の末 娘 ︶ 微 恙 を 十八日 宗 ︵ 。 。 一 註︶微恙はかるい病 のこと ムう ︵ 。 、 十 九 日 書 生 一同 鉄 次 郎 に酒 を 。 。 祝 う 松 竹 梅 台 に鶴 亀 を 飾 る 最 寄 と す る。 。 二十 日 隊 伍 会 ︵ 鉄 次 郎 が所 属 す る城 代 組 の小 隊 を いう︶ 鉄 次 郎 に賀 。 、 酒 を 送 る 伊 平 二魚 を 以 て字 書 を 。 。 、 乞 う 家 人 花 飾 り籠 を 置 く 。 、 。 甘 一日 宰 吉 郎 賀鯛 に酒を添 う 。 す べ て鉄 次 郎 成 婚 を 祝 す た め な り 人名か?︶束 に二吹 く金 ︵ 国少 高 ︵ 半 、 。 両 を いう︶を 添 え 詩稿 に加序を乞 う 。 鉄次郎 の上 司︶ 母 牛 す 左太 夫 ︵ 。 鉄 次 郎 弔 い に往 く 。 、 、 廿 二 日 寅 太 郎 塾 に回 り 松 島 、 。 酒 を 持 参 与 八 に二分 を 貸 す 御 堂 、 。 方 大 蜜 一口を 供 し字 書 を 乞 う 、 。 廿三日 加 田芽 を 持 参 松 本 道 琢 。 、 ﹂と︶ 月 を 待 する 夜 内人 ︵ 妻 のア 、 。 つ 書 生 大 い に舞 う 。 、 小雨 し ょぼ 廿 四日 梅 雨 空 濠 ︵ 。 し ょぼを いう︶ 書 一 房 に湿 風 漏 る ま 。 た葺 瓦 の重 ね合 いが悪 いため であ る 。 甘 五 日 玄沖 ︵ 南冥と昭陽 の弟子︶ か ら夏 物 の縮 布 と縮 綿 布 を 妻 に送 り 。 来る 。 廿 六 日 澄 心 院 よ り孤 卿 氏 に命 じ ら れ て硲 銘 を 昭 陽 書 を 求 め る よ う要 。 請 し来 る 。 甘 七 日 仲 掘 三年 忌 を 取 越 し 設営 こと を 熊 之 進 よ り伝 百を、少乗云う。 。 、 甘 八 日 熊 之 進 鶴 と 酒 五升 友 紀 。 。 鯛 送 り来 れ る 権 六 の主 大 夫 来 る 次号 に つづく︶ ︵ 一般 に雑 木 林 の山 桜 は横 には張 れ 、 な い の で ま わ り の雑 木 の間 を太 陽 。 を求 め て上 へ上 へと樹 冠 を伸 ば す こんな山 桜 は、 雑 木 林 の上 に咲 く の 。 で下 か ら は見 え な い 山 路 に散 る桜 間 の斜 面 に数 本 の山 桜 が ひ ょろ ひ ょ ろと伸 び、 高 い頂 に赤 い若 葉 と花 を 。 つけ て いた の丘 には孔 子 聖 堂 が見 え るが 以 落花 不尽 、 波 戸 場 か ら渡 船 に乗 ると 能 古 博 、 物 館 の桜 が 朝 日 に白 く輝 や い て い 。 、 た 今 年 は花 冷 え で風 雨 も な く 満 。 開 が十 日余 も つづ い て いる 船 を 下 り て博 物 館 への細 道 を登 ると、 石 段 、 のあ ち こち に藪 椿 が散 って 上 の茂 。 、 み に小 鳥 が囀 る さら に登 ると 頭 、 上 に白 い 少 し薄 緑 を帯 び た八 重 の 。 鬱 金 桜 が咲 く 、 博 物 館 の入 口 に立 つと 受 付 の建 、 物 の上 に染 井 吉 野 が満 開 風 にさ そ 、 わ れ 樹 下 の小 径 や孔 子 聖 堂 の上 に 。 ハラ ハラと散 り初 め ていた いず れ も樹 齢 五十 年 か ら百 年 の大 木 、 館 内 。 の小 径 に十 本 余 が沿 って いた 左 手 、 その よ だ 館 物 博 古 能 (5)第 29号 階 光 正 ﹁ 怨 み に報 いる に徳 を 以 てす れば 、 ﹁ 徳 を 以 て怨 み に報 い る の は如 何 、 でし ょう か﹂ と それ に対 し て孔 子 は、 怨 み に対 し ては怨 みを 以 て報 いる の 、 が常 で 徳 を 以 て報 いる こと はむ つ 。 、 か し い つい で先 生 は ﹃論 語 ︵ 憲 問な 0 ﹄ か ら孔 子 の言 葉 を 紹 介 さ れ 。 た 、 或 人 が言 う に 今 日は ﹃ 老 子﹄ 第 六 十 三章 で ﹁報 、 怨 以徳 ﹂ 怨 み に報 ゆ る に徳 を 以 て 、 、 す 怨 みあ る者 へは徳を以 て報 いよ 。 の説 明 が面 白 か った しかt人 々は、 以直 報 怨 昔 こ こら に共 生 し て いた雑 木 を 切 っ 。 て山 桜 を残 し た のだ ろ うと 思 った 、 あ た り の樹 下 はきれ いに下 刈りされ 、 石 蕗 が若 葉 を広 げ わ ら び が頭 を も 。 、 たげ ていた 今 日 は 四月 十 三 日 の 、 老 荘 講 義 の日 少 し講 義 を 早 め に終 、 わり 館 の庭 で花見をす る こと にな っ 。 て いた 、 の花 び ら によ って それ と気 付 く の 。 、 であ る 館 内 の山 桜 を 仰 ぎ な が ら 安 報 いた が よ い﹂ と答 え ら れ た。 。 徳 に報 いる に何 を 以 て報 いよ う か 、 直 を 以 て怨 み に報 い 徳 を 以 て徳 に に対 処 す るが よ いと考 え る こと が で き よう。 断 でそ の非 道 に担 当 す る報 い﹂ と解 。 釈 し て いる す な わ ち怨 み に軽 重 が 、 あ れば 、 公 平 に判 断 し て それ相 応 ま た諸 橋 轍 次 は、 怨 みを ﹁理 不 尽 、 、 な仕 打 ち 非 道﹂ 直 を ﹁公 平 な 判 老 子 のよ うな ﹁ 報 怨 以徳 ﹂ は 一般 、 、 ﹁以直 報 怨 ﹂ は 、 ﹃目 には目 を 歯 に は歯 を ﹄ と ハム ラビ法 典 によ る同 害 報 復 法 と し 、 て有 名 な 言 葉 であ り 怨 み に報 いる 、 に怨 みを 以 てす る も の で ﹁以 直 報 。 怨 ﹂ に近 い考 え であ ろ う し か し 、 ﹃聖 書 ﹄ では 右 の頬 を 打 た れ た ら 、 他 の頬 を も さし出 せ 下 着 を 取 ろう 、 と す る者 には上 着 を も 与 え よ 求 め か の頬 を も 向 け 。 てや り な さ い﹂ こ の ﹃目 には目 を、歯 には歯を﹄ は、 。 に 手向うな 講 悪人、 印 もし だれかが 紺 効榊た 的琉洵頗 つ 駒 説 r 赫 範 晦 ‰ 一邸 ると 槌 の聞いてい。 し ろである し 批 ヤ 納 靖 的 療 い 歳 ほ 殖 マタ イ 伝 に には困 難 であ るが 直 の解 釈 次 第 では我 々 にも納 得 でき 。 そう であ る 、 キ ご充のV余厭で 怨 ・徳 ・直 の解 、 釈 を 調 べると 、 沢 田紹 清 は 怨 、 みを ﹁仇 恩 の 、 反 対 ﹂ 徳 を 、 ﹁恩 恵 ﹂ 直 を ﹁至 公 至 平 で 私 。 のな い こと 即 。 それ ち義 の意 故 報 いる場 合 も 、 あ り 報 いぬ場 合 も あ る﹂ と い う。 、 藤 堂 明 保 は 怨 みを ﹁他 人 か ら抑 、 え ら れ た つら さ いじ め ら れ た う ら 、 、 み﹂ 徳 を ﹁恩 恵 ﹂ 直 を ﹁む り に恩 、 、 を売 った り 意 地悪をし たりしな い 。 公 明 正 大 な態 度 ﹂ と 説 く ま た直 の 、 意 味 は ﹁ま っす ぐ と 目 の会 意 文 字 、 で ま っす ぐ に目 を 向 け る こと﹂ を 。 意 味 す ると いう (6) 平成 8年 7月 31日 れ は ﹁報 怨 以徳 ﹂ の老 子 の考 え に近 。 いと み る こと が でき よ う これ ら中 国 古 典 に つい ては、 著 名 な 専 門 家 が 種 々 に解 釈 し て お ら れ る。 古 典 の受 け取 り方 は、 人 それ ぞ 、 れ でよ いと も いわ れ るか ら 私 は私 。 な り に考 え てみ た 文 字 と し て表 現 、 さ れ る古 典 が 真 実 を ど こま で伝 え ら れ るか、 そ の表 現 には確 か に限 界 、 が あ る が 文 字 によ ってし か後 世 に る者 には与 え、 借 り よう と す る者 を 、 、 断 わ るな ま た敵 を愛 し 迫 害 す る 。 者 のた め に祈 れ と も い っている こ よ 伝 達 す る方 法 が な か った のも事 実 で 。 ある だ 松 日月城 、 月 城 先 生 は 医 師 にし てか つ漢 詩 、 。 作 家 であ った 明 治 十 六 年 十 八 歳 、 にし て医 師 免 許 を え 七 十 歳 ま で福 岡 の開業 医 と し ても地 域 社 会 に貢 献 。 され た 他 方 三十 五 歳 か ら久 留 米 の 、 宮 崎 来 城 に つい て漢 詩 を学 び 一万 、 余 の漢 詩 を残 さ れ た が 昭 和 五十 六 。 、 年 九 十 四歳 の天 寿 を全 う さ れ た 、 私 は昭 和 五十 一年 秋 故 倉 光 正 之 医 、 博 のお 世 話 で 先 生 御 夫 妻 と 料 亭 、 ﹁と り市 ﹂ で 一夕 を 共 にし ﹁以怨 勿 、 報 怨 ﹂ 怨 みを 以 て怨 み に報 ゆ る こ と勿 れ、 のお話 を 聞 く こと が でき た 、 の で 思 い出 す ま ま それ を書 い てみ 館 物 博 古 能 ﹁ 今 日 こ こ に持 参 し た 半 切 に は 。 ﹂ み/ 、 蒋 介 石 総 統 にさ し上 げ た漢 詩 を 書 い 。 て います 以怨 勿 報 怨 戦 文 有 此 言 大哉 蒋総 統 正気 動乾 坤 これ は、 怨 みを 以 て怨 み に報 ゆ る こと勿 れ、 日本 が中 国 でえ ら く悪 い こと を し た か ら と い って、 怨 みを 以 。 て これ に報 いち ゃいけな い 戦 究 こ 、 、 の言 あ り 文 を 収 め これ は刀を 鞘 。 に収 め ると いう字 が これ な ん です 、 戦 に勝 って文 を収 め て こ の 百葉 が 。 。 あ る 実 に偉 大 な も の です 大 な る 、 、 か な蒋 総 統 これ は こ のま ま で 正 、 、 気 乾 坤 を動 かす 総 統 の正 気 は 天 。 地 を動 かす と い った詩 であ りま す 、 昭和 二十 年 敗 戦 の時 中 国 に いた 、 沢山 の日本 軍 将 兵 は 武 装 解 除 され 。 て皆 丸 腰 にな ってお る ほか に長 く 。 中 国 に住 ん で いた民 間人 が お る 帰 。 ろうと思 っても船 がな い 日本 で待 っ 、 てお る出 征 軍 人 の家 族 たち は も し 中 国人 が 日本 人 を 切 ってし ま え と い う よ うな気 持 ち にな ったら、 生 き て 帰 れ るか ど う か わ か ら な いと非 常 に 。 心 配 し た わ し ら も非 常 に心 配 し て 、 、 お ったが そ の時 蒋 総 統 は 日本人 が中国を荒 らしたからとい っ 。 、 て 彼 らを 決 し て いじめ るな 暴 を 。 以 て暴 に報 いち ゃいけ な い 怨 に報 、 いる に怨 を 以 てし ち ゃいけ な いと 。 、 軍 令 を出 し て厳 命 し た そ のた め 沢 山 の人 たち が無 事 に帰 国 す る こと 。 が でき た これ ひと え に蒋 総 統 のお 、 。 、 陰 であ る それ で 自 分 は 総 統 は 実 に太 っ腹 で正 義 感 に富 んだ人 であ ると感 心 し ま し た。 そ の時 の総 統 の 、 精 神 を た た え て こ の漢 詩 を 作 った 、 、 の です が あ と でそれを 大 一 濠公 園 にあ った台 湾 領 事 館 の桂 領 事 が帰 ら 、 れ ると き 総 統 にお渡 し し てく れ と 。 、 依 頼 し ま し た そ の後 聞 く と ころ 、 によ ると 私 のそ の漢 詩 が立 派 な額 、 に入 れ ら れ て 総 統 官 邸 の応 接 間 に 、 か け ら れ て いた と いう こと で 私 は 、 それ を 聞 い て ま た非 常 に感 激 いた し ま し た﹂ 、 先 生 は こ のよ うな 思 い出 話 を さ 。 、 れ そ の半 切 を私 たち にも下 さ った 、 時 に私 は それを床 の間 にか かげ 今 。 に先 生 の御 温容 を し のん で いる 花 廷 、 講 義 を 終 え た私 たち は 館 下 の春 。 草 に花 廷 を広 げ た 館 員 女 性 二人 が 。 手 作 り のご 馳 走 を 運 ん で下 さ る 受 、 講 生 十 二名 は福 田先 生 を 中 心 に 島 君 持 参 の名 酒 ﹁ 上 善 如 水 ﹂ で乾 杯 を 。 、 す る あ た りを 見 廻 わ す と 紫 のキ ラ ン草 が群 が り咲 い て、 あ ち こち に 。 群 落 を作 る こ こ のタ ンポ ポ は黄 色 、 で す で に呆 け て索 を 飛 ば す も のも 。 あ る 石 垣 の下 には カ ラ ス ノ ェンド 、 ウが た く ま し く柄 を伸 し 可愛 い い 。 白 紫 の花 を つら ね て いた 少 年 の日 、 の如 く春 草 に坐 って 広 々と し た青 。 、 空 を 仰 いだ 正 面 の山 腹 に 染 井 吉 。 野 が ら ん ま んと咲 く 花 のト ンネ ル 、 を登 ってく る人 に 落花尽 きずと い っ 。 た風 情 であ る 、 私 たち は難 解 な老荘 の講 義を忘 れ お いし い銘 酒 と館 の御 馳 走 に舌 鼓 を う った。 こと に桜 の下 で採 った と い う石 蕗 の煮 物 が、 春 の香 を た た え て 。 、 いた 花 見 がす ん で立 ち あ が ると 後 の竹 戴 に孟 宗 が地 面 に頭 を出 し て 。 いる 鍬 が あ れば 掘 って帰 り た いく ら い立 派 な 竹 の子 だ った。 、 講義を聞 いている時 老荘 がわか っ 、 た よう な 気 にな るが 帰 り の船 の中 。 ではも う わ か ら な く な る そ の受 け 、 取 り方 は そ の人 の力 量 によ るな ど 。 と いわ れ ると、 もうお手 あげ であ る 、 、 私 は今 能 古 の花廷 のまわり に咲 く 、 車 花 を 思 い出 し つ つ それ こそ無 為 、 、 にし て自 然 求 め る道 は 遠 く にあ ら ず し て脚 下 にあ りな ど と 思 った り も す る。 昭 陽 ﹃空 石 日記﹄ も本 人 年 齢 のせ い で字 に枯 れ が目 立 ち 記 事 も 簡 略 と 。 なる 日記 は文 政 元 企全 杢年 の四十 六 歳 か ら六 十 二歳 の天 保 六 ︵ 丞垂 年 九 月 。 に至 る 昭 陽 には壮 年 期 の﹃峰 山 口記﹄のは 。 か に年 記類 が あ る 以上 は時 に政 道 と民 政 批 判 に及 ぶ記事も見られるが、 。 ﹃ 空 石 日記﹄では これを抑制 し ている 昭 陽 に﹁民 政 在 勤 不積 不厚 ⋮﹂ ︵ 民 。 政 に在勤 す るも積 もらず厚 からず ⋮︶ これ は昭 陽 の藩 下 級 士 と し て の真 情 、 を 吐 露 し た と され るが これ ら は亀 。 井 家 実 学 性 ・佃 傑学 の真骨頂 であ る 日記 の書 体 は、 昭 陽 一流 の雄 渾 な 、 稽 書 体 に始 ま るが 約 五年 こ の書 風 、 。 が つづ く 文 政 六 年 正 月 か ら 昭 陽 。 本 来 の気 取 り のな い自分書体 に移 る 、 天 保 六 年 にな ると字 体 が細 く 枯 。 れ た よ う にな る 記事 も簡 略 に移 っ 。 て行 く いず れ も 昭 陽 の年 齢 によ る 。 思 考 と体 力 に歳 相 応 の変 化 であ る 、 但 し 大 字 の揮 亀 と な ると堂 々 の 。 書体 を見 せ る 、 晩 年 の約 十 年 は よ う やく藩 も 昭 り よ だ 館 物 博 古 能 (n 第 29号 陽 に厚 く 父 南 冥 の藩 罰 に連 累 視 。 す る印 象 は全 く な く な る 、 全 国 的 にも 昭 陽 の学 問抜 群 。 当 時 の儒 学 者 に及 ぶも のな し と ま で評 判 さ れ る に至 る これ でも藩 は昭 陽 を 藩 儒 に直 す 気 、 配 を全 く見 せず 下 級 士 組 の城 代 組 に置 か れ た。 藩 校 ﹁ 修 猷館﹂ を主宰 す る竹 国家 当 主 の学 力 は益 々低 下 し 、 てお り これ は修 猷 館 教 官 等 にも よ く知 ら れ て いた。 竹 国家 の家 禄 三百 。 四十 石 と藩 筆 頭 の儒者職世襲 は固 い それ でも竹 田派 は ただ 昭 陽 の存 在 が 。 お そ ろし か った よ う であ る 。 即 ち学 力 の違 い であ る 、 昭 陽 は書 字 の格 調 も高 く そ の揮 、 皇 は広 く好 評 され 藩 内 はお ろか幕 。 閣 の要 人 にも依 頼 を 受 け た これ ら ると ころ で見 ら れ、 昭 陽 は日 の 記 至 。 も根 気 よく 揮 一 亀し ている 、 藩 は 昭陽 に ﹁ 御 書 物 番 頭 ﹂ に就 く こと を要 請 し た が、 こ の職 務 は出 、 仕 を す る ので 要 齢 を事 由 に辞 退 年 し、 後 嗣 の鉄 次 郎 ︵ 号 暢 洲︶ の就 任 に代 え て買 った。 これ で暢 洲 は、 重 用 さ れ家 老 座 の祐 筆役 ︵ 秘書 のこと︶ に就 く こと にな る。 す べ て昭 陽 の隠 。 忍 自 重 の成 果 であ る 、 多 年 亀 井 学 と亀 井 家 各 人 の事 蹟 に関 わ ってき た が、 と く に昭 陽 に関 し ては、 ま った く非 とす る所 がな い。 、 時 に酒 が過 ぎ る失 敗 が あ る が これ も人 に迷 惑 を か け る こと はなか った。 昭 陽 が こわ い のは愛妻 ﹁ 伊智夫人﹂ 。 だ け ではあ るま いか 亀 井 塾 は通学 困 難 な遠 地 の留 学 子 、 弟 のた め の寄 宿 舎 を完備 し ているが 寄 宿 生 の給 食 と舎 内 生 活 は伊 智 夫 人 。 の宰 配 によ る女 中達 の働 きも加 わる こ に亀 井 塾 の筋 向 い の先 住 人 であ れ 。 る ﹁ 染 物 屋 ﹂ 婆 が あ る こ の通 称 婆 さ ん は伊 智 夫 人 の五 歳 年 長 で婆 と 呼 。 ぶ年 頃 ではな い 遠 慮 も あ って本 人 。 が自 称 す る ﹁ 染 婆 ﹂ であ る 染 婆 自 ら伊 智 夫 人 補 佐 と な って亀 井 書 生 の よ ろず 相 談役 を 専 任 のよう にし て、 。 亀 井 塾 裏 方 に常 勤 す る 亀 井 家 も準 家 族 の扱 い で伊 智 夫 人 の別 府 入 湯 一 カ月 にも 同伴 、 そ の他 、 昭 陽 の計 ら い で伊 智 夫 人 の芝 居 見 物 な ど 必 ず 随 。 伴 す る存 在 であ った 、 染 婆 は 亀 井 書 生 にも ゆき 届 いた 、 世 話 を す るが ど う か す ると ピ シ ャ リと説 教 し て遠 慮 はし な い。 。 少 乗 の世 話 も よく し た こ のため 。 今 宿 の好 音 亭 にも姿 を 見 せ て いる と く に少 栞 の紅 児 にも な つか れ てお り、 こ のた め紅 児 の死 後 も 花 と供 物 を 欠 か さず努 め て いる こと が、 少 乗 。 記 録 に見 え る と にか く 昭 陽 一家 に は貴 重 な裏 方 や陰 の支 援 者 が多 い。 次 に昭 陽 ﹃空 石 日記﹄ の書 体 に つ い て当 初 と 最終 ︵四十 六 歳 か ら六 十 二歳 の十 六 年 間 の経 過 が あ る︶ を参 。 、 考 に供 す る 但 し 日記本 文 の二十 。 五 % 衝宏 こに縮 写 ど ち らも 元 旦 で 、 あ り 気 分 を 清 新 にし た新 年 記 事 の 。 書 き出 し であ る 、 上 段 の ﹁乙卯 正 月 ﹂ は 文 政 二年 、 即 ち 西 紀 一八 一九 年 記 事 中 に是 歳 、 幽人 ︵ 昭 陽 の別 号︶ 四十 七 以 下 に 、 、 内 氏 窒曾こ 四十 三 友 也 少秦▼ 一 十二 、 、 敬 也 室喜 二十 義 也 食母十 五 歳 鉄 、 、 也 室尋十 二歳 世 也 全喜九 歳 宗 也 、 一 困女︶六 歳 脩 也 ︵ 轟 〓一 歳 と家 族 全 員 。 の年 齢 を併 せ て記 載 す る 下 段 の天 、 保六 ︵ 丞 垂 年 は 自 分 の年 齢 は 記 入 、 家 族 の名 と年 齢 は省 略 し て す るが 。 いる 字 書 の変 化 は前 記 にし た通 り であ るが、 昭 陽 年 齢 も 六 十 三歳 と な り、 。 家 督 を 相 続 し た鉄 次 郎 が 二十 八歳 、 こ は専 ら塾経営 にとどまり れ で 昭 陽 、 藩 公務 は殆 ど務 め る こと 専 念 でき はな い。 ただ 昭 陽 が属 し た城 代 組 頭 の衣 非 、 氏 か ら は時 々呼 び出 し が あ り 軽 い 、 相 談 を 受 け 或 いは藩 重 役 か ら の昭 。 陽 を 頼 され る 書 依 K 基 年 五月 十 七 日 昭 陽 は天 保 七 ︵ 六 十 四歳 で死 去 す るが、 そ の前 年 の 天保 六年 九月 七 日 に日記 記事 を止 め る。 これ は家 督 相 続した鉄次郎 によ っ て ﹁ 先 考 日記 止 子 九月七 日 ︵ 父 日記 九 月 七 日 に止 む︶ と亀 井 家 譜 に記 入 され て いる。 こ の記 事 によ っ て昭 陽 は死 去 前 の 九 カ月 ま で日記 を つづ け て いる こと 、 が わか り お よ そ 、 ま 死 去 前 の病 臥 た は筆 記 の不自 由 。 が推 察 され る 、 現 存 の日記 は 天保 六年 八月 四日 、 の記事 ま で で 以 後 約 一カ月 の記 事 。 紙 を 欠 い て いる ド擦障猟機協 悔 除 持牲 な るキ糸良ガ ︲︲ 車 A押民 退 斜期釈酬引紳一 記﹄ ◎品招陽白曇手 ﹃力手伯日 ﹁ 5% 巾蜘巾黎蜘荘 十一中一申沖中の各年元旦記事部分。縮写率2 や父も 女t二芋▲養十一 W十←対氏田せへ 懸 L や氏独 駐 や﹂fわれ嵐景わ共武待皆一 角托 衆培≡式もヽ様や蛇究と率岩君洛干拭由串 玉氏☆ホ脩撤q 麻対氏欄腎や二状質ぼ日 く疎 キを 息キ ス終 恭夜 嫌席院ホ森せヤ舷ド 輪く 夜強 私L 攻4 立イ れ 縦能髄 綱辞 癖 梓存 摂 縛鵠 縄称 経嵯 答熊 益巾 鎌舗撫競 戚 理 紳菜強市 , 、 , 升ア 十 キ搭共朱済争率吟声8行代一Rゼ 裾 r │ん iiAl r iぷ ― (働 平成 8年 7月 31日 り よ だ 館 物 博 古 能 ﹃空 石 日 記 ﹂ お 読 み 同年 いた だ いた方 に 、 ﹃空 石 日記 ﹄ も 書 き 始 め は 昭 陽 、 、 の意 気 込 みも あ って 注 目 関 心 を 。 持 つ記 事 内 容 が あ り ま し た と ころが 日記 後 半 の文 政 八年 頃 か 。 ら記 事 に低 調 が感 じ ら れ ます の二月 十 四 日か ら 四月 三 日 のわ ず か 、 ニ カ月 の短 期 間 に 次 弟 の大 壮 ︵ 号 は雲 来 ︶、 さ ら に 三 日後 の同 月 十 七 日 に長 男 の義 一郎 ︵ 号 を蓬 洲 ︶ 甘 一 、 歳 を 失 い 四月 三 日 には甥 の山 口馴 り 太 郎 三十 一歳 が黒 田家 の江 戸 藩 邸 勤 。 地房 を 号 し 歳 で若 死 と は 十 四 年 前 に失 ってお り、 次 い で二年 後 に父南 冥 を 亡 く し ます が、 以後 は身 内 の不幸 はな か っ 。 、 次 弟 の雲 来 は 祖 父 聴 因 弟 二人 で末 弟 ﹁ 大年 ︵ 天 、 文 化 九 年 五月 に三十 六 番 中 に死 去 し ます 、 昭陽 は よ だ 館 物 博 生活 を得 ます が 一児 を 僧 籍 に置 く と いう願 望 を 持 、 ち少 年 時 に臨 済 禅 宗 に就 か せ 京 都 。 の大 徳 寺 系 で雲 水修行し ていました し か し、 々 に強 固 な決 心 がな 元 本 人 く、 つい に還 俗 ︵ 僧 籍 か ら俗 人 にか 、 え る こと︶ し て 専 ら 昭 陽 に頼 り太 。 宰 府 で医 師 を 開業 ど う や ら生 計 の 、 見 込 み が 立 って 亀 井 家 の 苦 提 寺 ﹁浄 満 寺 ﹂ の娘 を 嫁 に貰 って円 満 な 。 医 業 の傍 ら書 道 と漢 29号 た の です 古 能 的)第 、 字 を教 え 学 塾 と し て地 元 はも と よ り、 宇 美 ・須 恵 ・甘 木 な ど近 郷 の子 。 弟 が集 ま り ま し た こう し た医 師 兼 学 塾 経 営 で、 ま だ 、 身 内 の中 でも 良 き 前途 多 分 と さ れ 相 談相 手 と し た唯 一の弟 を 五十 歳 で 、 失 った こと は 昭 陽 にも 強 い痛 手 に 。 な りまし た わず か 二 日お い て長 男 義 一郎 の死 は心 情 を 面 に出 さな い昭 陽 にも激 甚 に過 ぎ る衝 撃 であ った と 思 いま す。 こ の長 男 に、 昭 陽 は父 親 と し て尽 く し難 い悔 悟 が あ り ます 。 そ の事 実 は長 男 の義 一郎 を 同 伴 し た訪 間 先 の 、 材 木 商 で供 応 を 受 け 少 々酒 が ま わ り、 義 一郎 十 三歳 が倒 れ た材 木 に折 脚 し て いる の に即座 の処 置 を 誤 り不 、 具 を招 き これ で長 男 の武 士 家 督 を 。 、 得 な く し た の です し か し 義 一郎 、 の勉 学 成 果 はさ ら に抜 群 を 見 せ こ 、 のた め昭 陽 は た と え家 督 は次 男 鉄 、 家 学 と塾 の継 次 郎 に譲 ると し ても 承 に つい ては長 男 義 一郎 に決 心 を 固 。 め て いま し た 。 、 次 は 山 口馴太 郎 を 述 べま す 、 。 胴 太 郎 の父 親 は 山 口白 責 出 身 。 は佐 賀 藩 領 の巌 木 村 地 方 の名 望 家 、 、 で 代 々医 業 これ に学 徳 信 望 が あ り、 白 貫 も よく実 家 を 見 舞 い、 同家 は現 代 ま で続 い て います 。 、 白 責 は 亀 井 南 冥 の医 塾 開 業 す ぐ に父 親 に勧 め ら れ て亀 井 留 学 を し ま 。 こう し た南 冥初 期 の弟 子 には、 す 満 を 持 し て いた よ う に秀 才 と出 色 の 。 人 材 が揃 って いた よう です こ のた め亀 井 三賢 と称 さ れ る弟 子 が早 く 目 さ れ、 これ は長 州 清 末 の国 島 京 山 ・ 天 草 冨 岡 の江 上 苓 洲 ・肥 前 巌 木 の山 。 口白 責 です 、 国 島 京 山 は 長 州 藩 の支 藩 清 末 藩 寄 託 生 と し て留 学 身 分 のた め南 冥 が 塾 教 育 修 了後 も な お亀 井 塾 師 範 と し て カ を 限 って出 藩 の了解 を 得 一 年 身 、し 、 て塾 師 範 にと ど め ▼ の期 限 後 は す ぐ 帰藩 し て清 末 藩 儒 と な り、 以後 は 。 着 々とし て同藩 の学校 教 育 を確 立 こ 、 れ で小 藩 な が ら立派 な藩風を確立 し 。 藩 政 にも良 い効 果 を 及 ぼ し ま し た 、 江 上 苓 洲 ・山 口白 責 に つい ては 。 既 にご 承 知 の通 り です 、 白 責 の長 男 ・側 太 郎 も よく でき これ に昭陽 は篤 い信 頼 を寄 せ て いま し た。 福 岡藩 に出 仕 す ると早 く も 祐 筆 役 に挙 げ ら れ て江 戸 上 屋 敷 勤 番 に 、 な って出 府 し ま す が 着 任 早 々 に痢 。 症 を 患 って死 去 し ま す こ の悲 報 を 、 受 けた昭陽 は絶句 し しば ら く は茫 然 、 自 失 を 呈 し 日を お い て江 戸 か ら詳 報 さ れ る馴太 郎 死 去 前 後 の こと に涙 、 に暮 れ 最 後 に馴太 郎 遺 品 が送 ら れ ると、 そ の書 物 類 と簡 抜 し た自 習 記 。 録 には再 び強 い感 動 を 示 し ま し た こう し た続 く 二人 の死 は、 す べ て 、 前 途 を有 し 昭 陽 も将 来 に期 す る こ と が多 分 にあ った人 物 だ け に、 そ の 。 落 胆 も大 き か ったと推 察 さ れ ます こう し た こと が、 昭 陽年 齢 にも 作 用 し て日記 記 事 に低 調 と され る 一面 にな った と思 う の です。 。 次 に昭 陽 酒 量 の減 退 が見 え ま す 、 昭 陽 は斗 酒 な お辞 せ ず これ に大 言 壮 語 と見 苦 し い酔 態 を 見 せ る こと 、 な ど は絶 対 にな か った の です が 酔 余 そ のま ま寝 込 む と いう こと は 日記 。 前 半 に再 三見 ら れ ます 、 酒好 き で ﹁ 相 手 に酒 す る﹂ は そ 、 の後 も再 三あ りま す が 深 酒 にな る 、 、 傾 向 は段 々減 少 し 例 え ば 妻 伊 智 、 の別 府 入 湯 一カ月 の間 は 夕 食 に浅 、 そ 酌 程 度 はあ った と思 わ れ ま す が のほか の来 客 と の接 待 酒 も殆 ど 見 え ま せ ん。 、 ま た昭 陽 の健 康 状 態 も良 く これ も 節 酒 の効 果 と 見 え ま す。 信 頼 す る 主 治医 ﹁ 博 多 の生 民﹂ か ら飲 酒 制 限 、 を 強 く勧 告 され ています が こ の節 酒 励 行 が自 然 に減 酒 を も た ら し た と 。 さ れ ま す と にか く良 い傾 向 が、 現 在 の昭 陽健 康 と し て日記 に見 え る の は喜 ば し い観 察 と な り ます 。 亀券 開冥と 総 辞め程 を 担 浄一 一遷 熊 ば な ら な いと考 え て いる﹂ と感 想 を 。 の べら れ ま し た 、 金 印 自 体 は ま ぎ れ も な い本 物 で 、 すから 問題 は金印 が本来 ど こにあ っ 。 た のか にし ぼ ら れ ます 、 ﹁以前 あ の金 印 は今 宿 にあ る 神 と 庄 野 先 生 は戦 後 ま も な い頃 、 の思 い出 を 次 の よ う に語 ら れ 。 ました ﹁敗 戦 で陸 軍 省 を 退 職 し 福 岡 市 役 所 の市 史 編 纂 室 の所 てく れ た半 紙 は そ の後 ど うな った か 。 分 か らな い こ の話 か ら私 も 、 同 神 社 と金 印 印 昔 話 な ど され たが 唐 人 町 の私 の家 でお茶 を飲 みな が ら 、 小 野 さ んが 見 せ 雲 神 社 か ら御 神 体 の金 印 を 借 り だ す 時 に神 社 に借 用を 示 す た め にし た金 。 印 の印 影 だ よ﹄ と私 に説 明 さ れ た 、 私 は 糸 島 郡 青 木 の八雲 神 社 の側 に住 ん で昔 か ら同 宮 を お守 りし て い 。 た ﹃ 憶 正 南 ﹄ さ んを よく知 っていた こ の憶 さ ん は福 岡 に出 る時 は、 必 ず 国史 学 を専 攻 し ﹃陸 軍省 戦 史 編 纂 室 、 勤 務 ﹄ か ら戦 後 福 岡市 史 編 纂 を担 。 当 さ れ た 私 は よく話 を 聞 き に行 っ 、 た が あ る時 私 に ﹃ 君 は鼠 は嫌 いか﹄ と、 ご自 分 は弁 当 のお か ず に鼠 料 理 。 を 召 し上 が って いた の には驚 いた 、 本 に埋 ま る よう な部 屋 で よ く見 る と鼠 取 り が 隅 に仕 掛 け てあ る。 あ る 日、 そ の小 野 さ ん が朱 因 を 押 し た半 。 紙 を机 上 に広 げ て腕組 をされ ていた 、 小 野 さ ん は フ しれ は 亀 井 南 冥 が 八 長 を し ていた小 野 有 耶 介 さ んと いう 、 方 は な か な か の変 わ り者 で九 大 で 一 一 4 ≡ 一 ≡ 島, 舜 食養携 総め , F れ る人 も あ って私 も 以前 か ら 関 心 を 、 持 って いたが 福 岡市 が同場 所 に金 、 印 公 園 を 造 成 さ れ る に至 って あ ま りと やか く言 わ な い こと にし な け れ の出 処 と 誤 り が あ ると再 三教 え てく が県 道 設 計 のた め基 盤 調査 を実 施 し たと ころ金 印 発 見 の地 点 は海 であ る こと。 ま た九 大 によ る同 場 所 のボ ー リ ング 調査 でも海 面 で、 金 印 が地 上 に出 る状 況 はな か った と いう調 査 結 。 果 が出 た﹂ と いう こと でし た こ こと に つい て、 博 物 館 の庄 野 の 、 先生 は ﹁ 亀 井 南 冥 の金 印 鑑 定 に そ 印 が発 見 さ れ た場 所 を福 岡 県土 木 課 の ﹁歴 史 読 本 ﹂ を 示 さ れ た のが始 ま り です 。 そ の雑 誌 には ﹁志 賀 島 の金 こ の話 は、 能 古 博 物 館 で秋 田書 店 務 社 の御 神 体 だ った のを南 冥 が持 ち出 し たと いう話 を 聞 いた こと が あ る﹂ ︹福 岡 市 ︺・玉 置 貞 正〇 ・西島道子O ② 天谷 千香 子⑥ ・西 鳴 洋 子⑥ ・岡 部 六 弥 大⑥ ヨ江⑥ 村 上 靖 朝⑥ ・星 野 万 里 子⑥ ・吉 村 品 桑 形 シズ エ⑥ 。国 上 紀 子⑥ ・安 松 勇 一⑥ 上 回 良 一⑥ ・高 田 士ね 二⑥ ・案 野 次 男⑥ 木 戸 龍 一⑥ 。原 重 則⑥ ・石橋七郎 →︶ ⑥ 藤 木 充 子⑥ ・和 田 宏 子⑥ ・板 木 継 生⑥ 一 何 成 静 子⑥ ・鬼 塚 義 弘⑥ ・吉 原 湖 水⑥ 中 畑 孝 信⑥ ・片岡洋 一働⑥ ・石 川 文 之⑥ 橋 本 敏 夫⑥ ・山 内 重 太 郎⑥ 二石下須美 子⑥ 宮 崎 集⑥ ・岡 本 金 蔵⑥ ・都 筑 久 馬⑥ 斎 藤 拓⑥ ・石 橋 観 一⑥ ・三 宅 一石子⑥ 星 野 金 子⑥ ・西 政 憲⑥ ・林 十 九 楼⑥ 有 松 陽 子⑥ ・速 水 忠 兵 衛⑤ ・宮 徹 男⑤ 一澄⑤ ・古 賀 清 子⑤ 西 村 忠 行⑤ 。西 川 首一 青 柳 繁 樹⑤ ・安 永 友 儀⑤ ・薩 崎 啓 子⑤ 織 田喜 代 治⑤ ・横 山 智 一⑤ ・上 回 博⑤ 鶴 田 スミ子⑤ ・伊 藤 康 彦⑤ ・坂 田 泰 溢④ ︺ 石 重 二 郎④ ・桃 崎 悦 子④ ・大 神 敏 子④ 石 橋 清 助④ ・塚 本 美 和 子④ ・寺 岡 秀 賓④ 奥 田 稔④ 。原 田 種 美④ 。大 山 宇 一④ 長 八 重 子④ ・隈 丸 注 月次④ ・井 上 敏 枝④ 葉 山 政 志④ ・川 島 貞 雄④ ・古 野 開 也③ ︺ 序 洋 子③ ・柳 山 美 多 恵③ ・長 尾 茂 穂③ 平 河 渉③ ・久 芳 正 隆③ ・吉 富 とき 代③ 半 田 耕 典③ ・武藤瑞 こ︵ こ③ ・浜 野信 一郎③ 墨 羊 子③ ・荘 山 雅 敏⑤ ・森 本 憲 治③ 神 戸 純 子③ ・吉 田 洋 一③ ・黒 川 松 陽② 野 田 は つ② 。原 敬 道② ・木 原 光 男② 渡 辺美 津 子② ・荒 谷 幸 子② 上副 田 静 子② 山 田 博 子② ・佐 藤 泰 弘② ・矢 菅中謙 治② 神 戸 聡② ・飯 回 晃② ・吉 岡 克 江② ︺ 石 谷 工 子② ・星 野 玄 ・首 藤 卓 哉 浜 崎 信 也 ・小 川 正 幸 ・藤 野 清 春 熊 谷 伸 吾 。永岡喜代大GT 林 野 祥 子 こ ・増 田 義 哉 ・田 里 朝 男 井手俊 一郎︵ 吉 田 一 郎 本 林 法 子 ・江 顕 藤 子 池 田 修 三 ≧ 小田 喜 美 子 ・権 藤 菊 朗 宮 鳴 能小太 郎 ・︹前 原 市 ▼ 由 比 章 祐0 ︹大 野 城 市 ▼ 伊 藤 泰 輔⑥ ・田 代 直 輝⑥ 執 行 敏 彦③ 。久 野 敦 子② ・渡 辺 千代 子② 坂 井 幸 子② ・︹春 日 市 ︺・後 藤 和 子⑥ ︹筑 紫 野 市 ︺・脇 山 涌 一郎⑥ ・川浪 由 紀 子⑥ 横 溝 清⑤ ・足 達 輔 治② ・川 田 啓 治② I Ⅲ ⅢⅢ │ │ │ │ = や さ張 姦 章 = 1 本│ │ │ = │ ■ I , │ ││二 l i l まと ギ 荘 茎 薫 奎 線 章= 羊キ = ■ ■ │ ■■│ = │ │ = 査 張 姜 き 察 勢 導 奈棄号 │ │ = │ ■=ボ =会章iぶ==│■ 平成 8年 7月 31日 位0 よ だ 館 物 博 古 能 ︻協 賛 会 会 員 ︵ 個 片桐 寛 子 ︵ 福 岡︶⑥ 笠井 徳 三 ︵ 福 岡︶⑥ 早船 正夫 ︵ 福 岡︶⑥ 永 田 蘇 水 ︵ 福 岡︶⑥ 荒木 靖 邦 ︵ 福 岡︶⑥ 安陪 光 正 ︵ 福 岡︶⑤ 広瀬 中心 ︵ 福 岡︶④ 七熊 出 江子 ︵ 福 岡︶④ 熊谷 雅 子 ︵ 福 岡︶② 滝 栄 二郎 ︵ 福 岡︶② 小 田 一郎 ︵ 福 岡︶0 人こ ・中村 登 ︵ 福 岡︶⑥ ・菅 直 登 ︵ 福 岡︶⑥ ・浄 満 寺 ︵ 福 岡︶⑥ ・奥村 宏 直 ︵ 福 岡︶⑥ ・沖 双葉 ︵ 福 岡︶⑤ ・梅 田 光 治 ︵ 福 岡︶⑤ ・大里 由 豆男 ︵ 福 岡︶④ ・亀 井 准 輔 ︵ 福 岡︶2︶ ③ ・目安 渡 ︵ 福 岡︶② 。上 国 満 ︵ 福 岡︶O ・石橋 観 一 ︵ 福 岡︶O ︹太 宰 府 市 ▼ 中 村 ひろ え⑥ ・佐 々木 謙 ⑥ 古 賀 謹 一一 ⑥ ・西 尾 弘 子⑤ ・平 岡 と︹④ 野 尻 敬 子② ・蔵 日 は つ よ 。尿現 紫 郡 ︺ 結 城 慎 也⑤ ・︹粕 屋 郡 ︺・櫛 田 正 己 ⑥ 櫛 田 猷 子⑥ 圭 同木 良 之 助⑥ ・神 崎 憲 五郎 ⑥ 松 本 雄 一郎⑥ ・友 野 隆④ ・鈴 木 恵 津 子 ④ 酒 井 俊 寿③ ・長崎榮市こ ③ ・井 手 伽 維 子 ③ 上 杉 和 稔▲ 宗 像 市▼ 益 尾 天 獄⑥ 木 村 秀 明④ ・野 上 哲 子 ・︹甘 木 市 ︺ 佐 野 至⑥ ・酒井 カ ツ ヨ⑥ ・黒 川 邦 彦 ⑥ 井 手 太⑥ ・井 上 清⑥ ・宮 崎 春 夫 ⑥ 富 日 英 寿⑥ ・︹朝 倉 郡 ▼ 鬼 丸 雪 山 ⑥ 山崎 エツ子︵ こ ・︹飯 塚 市 ︺・小 山 元 払 伸⑥ ︹浮 羽 郡 ▼ 吉 瀬 宗 雄⑥ ・︹大 牟 田 市 ︺ ︺ 獄 村 魁⑥ ・古賀義朗͡ こ⑥ ・古 賀 邦 靖 ② 西 山 正 昭② ・︹筑 後 市 ▼ 中 島 栄 二郎 ③ ︹苅 田 町 ▼ 木 下 勤⑥ ・︹北 九 州 市 ︺ 片 桐 〓一郎④ 。平 野 巌④ ・市 丸 喜 一郎 ② ︹久 留 米 市 ▼ 庄 野 陽 一⑥ ▲ 柳 川 市 ︺ 樺 島 政 信② ・︹直 方 市 ︺・山 本 利 行 ⑤ 鋤 田 祥 子② ・︹佐 賀 県 ︺・甲 本 達 也 ⑥ ︹大 分 県 ▼ 寺 川 泰 郎⑥ ・日 本 政 宏 ③ 鳥井裕美子͡ こ ・︹長 崎 県 ︺・浦 上 健 ③ ︹熊 本 県 ︺・濱 北 哲 郎⑥ ・︹山 口 県 ︺ 大 塚 博 久⑤ ・︹大 阪 府 ︺・小山富夫→︶⑥ 前 田敏也子④ ・︵滋 賀 県 ︺・辻 本 雅 史 ④ 曇ネ 都 府 ▼ 松 田 清 宏 ▼ 武 内 隆 恭 ︹愛 知 県 ▼ 杉 浦 五 郎⑥ ・庄 野 健 次 ⑥ ︹神 奈 川 県 ︺・中野 晶 子 O⑥ ・野 崎 逸 郎 示 都 ︺・山根ちず子O⑥ 大 谷 英 彦 ・︹東 一 片 桐 淳 二④ ・村 山 吉 慶③ ・田 中 加 代 ③ 大 島 節 子 よ 千 葉 県▼ 森 久 ⑥ ︹埼 玉 県 ︺・間所ひさ長こ④ ・︻石 川 県 ︺ 丸 橋 秀 雄④ ・︹宮 城 県 ︺・田中信彦͡ こ⑥ │“ Ⅲ ク ヽ 鯉 々 燎 │‖ 1韓 協 '念 1単 が ルボ ドど ぶまぶヽ ヽ │ぶ ぶ 章ギ影費 離 折 器 解 出 世 1ホ ‖ │ぶ │1単 お線祭範塔 常 籍濯影籠ど章 々 摺ケ 続 章 料 叢 "群 納 ‖ 料 を 盛 パ単畿塔桜 騨tH 題 湾韓1籍 ,1群 │‖ 耕 母 神 様お 球鰐々 揺,蕊 常■ 静 Ⅲ 域 イ ホ ,お お 深単綿朗器認驚イ 籍,蕊 滋ヽ 影 を実 見 す る ため 現 地 を 訪 ね て事 実 。 、 以来 三十 年 に を 確 認 し て いま す 。 数 人 の名 が あ り ま し た ﹁ 俺 たち は戦 地 に行 って戦 ってき た ぞ﹂ と 胸 を張 っている よ うな 記念 。 碑 でし た 庄 野先 生 の記憶 ど お り神 社 の左 隣 に ﹁ 憶 俊 策 ﹂ と いう表 札 の家 も あ り ま し た。 庭 に御 霊 屋 の社 殿 ま であ り 。 由 緒 を し のば せ ま し た 呼 び鈴 を 押 、 す と上 品 な奥 様 が出 て来 ら れ や は り そう か! と感 じ入 る話 が いく つか 。 聞 け まし た 何 軒 も あ り ま す﹂ 、 南 郷 村 と いえば 百 済 滅 亡 で多 く 、 の貴 族 が亡 命 し て来 て 現在 も そ の 祭 り や風 習 を残 し て いる こと で有 名 。 な村 です 、 ﹁ 福 岡市 役 所 に い た 小 野 は 私 共 、 の 一族 で 親 類 の間 でも有 名 な変 わ り者 でし た﹂ ﹁憶 と いう姓 は 宮 崎 県 の南 郷 村 に 三菱 電 機 の工場 沿 い に南 へ歩 く と目 下 工事 中 の バイ パ スの向 こう は福 岡 。 市 西 区 今 宿 青 木 字 こそ アオキ が登 、 場 し て来 て 近 く に県 の保 存 木 に指 定 さ れ た ﹁も ち の木 ﹂ の巨 木 も あ り ま し た。 ﹁ 私 の祖 父 小 野 鴻 之 助 は玄 洋 社 の 頭 山 満 さ ん のも と で働 いていました﹂ 、 ﹁ 家 が頭 山 さ ん の家 の隣 で 曾 祖 、 母 は頭 山 さ ん が小 さ い時 膝 に抱 い て エ ッキ ー飴 を食 べさ せ たと か話 し 踏 切 を渡 り 八 雲 神 社 の入 日 の石 柱 には天 保 の 、 刻 字 が あ り 神 社 の由 来 を 記 し た絵 馬 によ っても古 い歴 史 を持 つ郷 社 で あ る こと が う か が え ま し た。 珍 し いと思 った のは境 内 の ﹁日露 戦 博 物 館 ← 庄 野 寿 人 に つな が ると 同 じ こ こま で聞 い て私 は思 わず 唸 り ま し た。 亀 井 南 冥 以下 の亀 門 の人 達 が 真 藤 慎 太 郎 を 通 じ て亀 陽文 庫 ・能 古 て いま し た﹂ 役 従 軍 碑 ﹂ と ﹁シベリャ出兵記念碑﹂ 。 でし た 戦 没者 の碑 は各 地 でよ く 見 ます が、 こ こ の石 碑 は出 兵 従 軍 し 帰 、 艦 し た人 達 の勲 位 氏 名 が年 齢 順 に 、 刻 ま れ て い て 最後 部 に亡 く な った 今 宿 を 出 て右 へ行 き 前 の庄 野 先 生 の古 い記 憶 を手 掛 か り に今 宿 に向 か いま し た。 、 三十 年 な り ます ね﹂ 戦 後 間 も な い頃 の若 き庄 野 寿 人 と 。 ″ 変 わ り者 〃 史 家 と の交 流 それ を 。 聞 く私 の胸 にも 感慨 がよぎりました 、 専 門家 によ れば アオ キと いう朝 、 鮮語 は ﹁ 高 貴 な も の 偉 大 な も のを 。 見 る時 に発 す る嘆 声 ﹂ だ そう です と な ると、 ど う や ら金 印 の謎 を 解 く 、 鍵 は八 雲 神 社 にあ りと感 じ り よ だ 館 物 博 古 能 llll 吾 多29 1子 南 誠次 郎 ︵ 春 日︶⑤ ・木原 敬吉 ︵ 飯 塚 ︶⑤ 具嶋 菊 乃 ︵ 甘 木 ︶④ ・坂 田 貞 治 ︵甘 木 ︶① 大久保津智夫 ︵ 嘉 穂︶⑤ ・庄 野 直 彦 ︵ 直 方 ︶④ 原 田 図 雄 ︵ 宗 像 ︶⑥ ・森光 英 子 ︵ 久 留米 ︶③ 西喜代 松 ︵ 北九州市︶⑤ ︰永井 功 ︵ 北 九 州︶③ 花 田加代 子 ︵ 遠 賀 ︶③ 。本村 康 雄 ︵三池 ︶② 中山 重 夫 ︵ 唐 津 ︶④ ・緒方 益 男 ︵ 佐 賀 ︶⑥ 七熊太郎 ︵ 佐 世 保︶⑥ ・七熊 正 ︵ 佐 世 保 ︶④ 浦上 健 ︵ 長崎 ︶② ・田中 貞 輝 ︵ 愛 媛 ︶① 小堀 定 泰 ︵ 滋 賀 ︶③ ・伊藤 茂 ︵ 神 戸 ︶③ 西村 俊 隆 ︵ 東 京 ︶⑤ ・白水 義 晴 ︵ 東 京 ︶⑥ 早船 洋 美 ︵ 東 京 ︶① ・翠川 文 子 ︵ 埼 玉︶② 石野智恵子 ︵ 東京︶こ② ・多 々羅幸 男 ︵千葉 ︶⑤ 江 崎 正 直 ︵東 京 ︶⑤ 会員ご民名 に⑥ は、会費ご継続六年目を いた だ いたし るし です。 ︵ ︶ は多 年 分 のま と め お 払 い込 み、いは増 日数ご負担を示します。 ︻法 人 協 賛 会 員 お よ び 特 別 協 力 法 人 ︼ 九 州 電 力 佃 ・大 野 茂 ︵ 福岡︶ 僻 新 出 光 ・出 光 虫三 ︵ 福岡︶ 出 光 題︵産 福 岡 支 店 ・山 本 繁 弘 ︵ 福岡︶ 佃 福 岡 中 央 銀 一 何 ・山 本 敬 一郎 ︵ 福 岡︶ 。 福 岡︶ 二 ︵ 雄斯 南 川 鵜彬 病 院 南 川 勝 一 日 本 製 粉 佛 福 岡 工 場 ・白 尾 嘉 弘 ︵ 福 岡︶ 福 岡 県 警口備 業 協 会 ・村 上 五 一 ︵ 福 岡︶ 流 通 土︵ 済 佃 ・花 田 積 夫 ︵ 福岡︶ タ イ エ ︵ 社 印 刷 佃 ・安 部 博 満 ︵ 福岡︶ 佛 笠 組 ・笠 中い夫 ︵ 福 岡︶ 博 多 ち く わ ・仰 魚 嘉 ・松 尾 嘉 助 ︵ 福岡︶ 権 藤 税 理 事 務 所 ・権 藤 成 文 ︵ 福 岡︶ 協 通 配 送 爛 ・平 野 孝 司 ︵ 福 岡︶ 大 牟 田 運 送 伸 。本 村 康 雄 ︵ 福岡︶ 福岡︶ 伽 〓一島 設 計 事 務 所 ・三 島 庄 一 ︵ 日 西 物 流 伸 ・原 重 則 ︵ 福岡︶ 西 日 本 急 送 佛 ・原 重 則 ︵ 福岡︶ 愛 宕 建 設 工 業 爛 ・野 村 六 郎 ︵ 福岡︶ 福岡︶ 東 洋 特 殊 機 工 佃 ・西 尾 敏 明 ︵ 福岡︶ 西 尾 ト ラ ッ ク 運 送 御 ・西 尾 秀 明 ︵ 働 愛 光 ビ ル サ ー ビ ス ・野 田 和 薦 ︵ 福 岡︶ 0 ク リ ー ン 開 発 ・野 田 和 薦 ︵ 福 岡︶ 延 寿 産 業 0 ・池 田 邦 夫 ︵ 福 岡︶ 九 州 三菱 ふ そ う 自 販 硼 ・宮 崎 慶 一 ︵ 福 岡︶ 働 安 河 内 商 店 ・安 河 内 紀 男 ︵ 福 岡︶ 木 原 税 理 事 務 所 。木 原 敬 士臼 ︵ 飯塚︶ 、 ※新規 の御加入 ︵ 先号以後 平成八年七 、 月 二十 一日現在 は 右 の地区ごと に ︶ 、 記載 いたし ております ので 何卒御芳 。 名を御確認下 さ い ありがとうござ いました。 友 の会 年間 3千円 、 ︵ 館 の活動 館誌購読 と催事企画 に参加︶ 自然と文化 の小天地創造 汚 裾 残 客 協賛会 ︵ 個人︶年間 1万円 〃 ︵ 法人︶年間 3万円 、 の 集 整 備 資 施 設 等 瓢 酬 が 鋼 雛 一 嫌 難 一 納入方法 =郵便振替 ol73019160970 財団法人 能 古 博 物 館 、 、 右 の会費受領 は そ の都度本誌 に掲載 。 以後会費相当期間を名簿 にします ﹃間 秀 亀 井 少 乗 伝 ﹄ 鴎ゲ健耐 で仙屋 の次 に多 いのが同時代 の亀井少乗。 しかも少乗 には艶麗な漢詩 の恋歌まである。 これが同女 の作か否か。 これ に始まる探究 の であ る。 書 B5版 ,表紙布装美本 、 限定 一一 ○○○部 4頁 図録全 カ ラ10 5頁 ・本文 9 、 直売頒価 〓一 ○○○円 ︵ 送料 一 二 〇円︶ ﹃ 江 河 万 里 流 る ﹄ 助験融話醗味 、 大学教授 はじめ 中国哲学専攻又 は愛好同 士 によ ってさらなる孔子学 の歴史と精神 が 集約 された寄稿三十 一名 の論文集大成とし 。 、 て貴重な文献 また 平易 に親 しめる儒学 。 精通書 8 2 B5版 ・本文 3 頁 、 限定 一一 ○○○部 、 一 直売頒価 一一 五〇〇円 ︵ 送料 十 天○円︶ 、 、 よう に 金 印 ← 亀 井南 冥 八雲神社、 、 、 、 棺 正南 頭山 満 小 野鴻 之助 、 真 藤 慎 太 郎 玄 洋 社 ⋮と いう連 環 が 。 見 え る の ではあ りま せ ん か 、 庄 野 先 生 にお 聞 き し ます と 小 野 さ ん の祖 父 で頭 山 満 さ ん のも と で働 い てお ら れ た と いう小 野 鴻 之 、 助 さ ん は 玄 洋 社 が陸 軍 に要 請 され ! ﹁ 植 物! と﹂ 画 の こ! 元! 木 敏 、 、 草花 は 先 ず 病 を 癒 、 、 す ﹁ 薬 ﹂ であ り それは 、 ズ薬︶ 車 で 文字 通り は無 縁 の人 々が多 数 存 在 す ると いう 現実 も忘 れ てはな ら な いと 思 いま す。 、 、 ●さ て ﹁ 植 物 画 ﹂ に話 題 を 進 め ま す と こと の起 こり 、 は 西洋 の薬 、 東洋 の 草学 ! ︵ ︵苦 痛 を ︶ 楽 にす る﹂ た 植物団家 ・講座講母 博! 。 め の モ ノ でし た 、 ●時 代 が進 み 草 花 を ただ 見 て楽 し む だ 、 、 け の肉 体 的 精 神 的 経 済 的 な 余裕 が人 、 間 にも た ら され る時 が来 た のは 人 間 の 、 歴 史 か らす れば ほん の最 近 の こと にし 、 。 か 過 ぎ ま せ ん 未 だ に 花 を 楽 し む こと 0人 間 が 四季 折 々 の花 に関 心 を 寄 せ初 め 、 てか ら ど れ く ら い の時 間 が経 った の で し ょう か。 花 を 美 し いと 思 い、 更 に これ を 絵 画 に留 め お き た いとす る心情 の起 こ 、 り は、 一説 に依 ると そ う驚 く ほど大 昔 、 。 の こと ではな いら し い の です 例 えば 磁 器 の文 様 に草 花 が登 場 す る のは古 代 エ ジ プ ト時 代 か ら であ り、 ア ルタ ミ ラ洞 窟 な ど の壁 画 に 、 は 動 物 は描 か れ て い ても 本 草 学 の挿 絵 に由 来 す る こ 狛 れ 説 樺 か 碇 な 、 、 画 面 に 一種 類 し か描 き ま せ んし バ ッ クも 不 要 です。 ただ、 ひたす ら描 こう と 、 す る植 物 の本 質 に迫 り 結 果 的 に美 し く 。 見 え れば 更 によ い の です 当 然 の こと で 、自 然 の美 し さを 再 現 し よ う とす る すが 人 間 のさ さ やか な目 論 見 が成 功 す るか否 。 か は描 く人 の腕次 第 でし ょう が 、 、 ● 日本 でも 最 近 所 謂 ﹁ボ タ ニカ ル ・ アー ト﹂ が静 か なブ ー ムと な って います 、 、こ 、 れ は国 民全 体 と し て漸 く 精神的 が 経 済 的 余 裕 が出 てき た こと と 無 関係 では 。 、 な さ そう です こう し た中 自 分 で植 物 画 を 描 い て人 生 に潤 いを 与 え た いと す る 人 々が徐 々 に増 え つ つあ る こと は歓 迎 す 。 べき こと です 、 ●当 博 物 館 では 植 物 画 の入 門 か ら指 導 。 す る講 座 を 開 設 致 し ま し た ど う か植 物 、 画 を 楽 し く学 び 能 古 島 の自 然 を 楽 し ん 。 で いただ け れば と 思 いま す 志 撤溜 8811響 千 鍬1盤 :を ﹁花 ﹂ は 描 か れ て いな いよ 。 土 器 にも 同 じ こと が いえ る 。 よう です 千619 福岡市西区能古522-2 ■ 縄文 0 こ のよ う な ラ ス ト レ ー シ のあと起 こ っ た植物学 の分 、 類 研究 に必 イ 要な挿絵 ︵ 交 通 姪浜台 ヒ 古行渡船場→ フェリー(10分 ) →能古 (徒歩 5分 )f博 物館 印 刷 タ イ ム社 印 刷 株 式 会 社 ・ ー ン ン 71 名 古 う です 経 緯 か らす る と、 草 花 が人 開 館 伊 i30∼17:00(入 館16:30まで) 休館 圏 ‐ 毎週月曜 ‐ │‐ ‐ た満 州義 軍 の編 成 に幹 事 を 努 め ら れ 、 た方 で これ に真 藤 慎 太 郎 も参 加 し 。 ま し た 小 野 さ ん は義 軍 の現 地 活 動 、 中 に露 軍 の銃 弾 を 左 膝 関 部 に受 け 。 左 大 腿 部 を切 断 さ れ る な お晩 年 ま で玄 洋 社 幹 部 と し て永 く勤 め ら れ た 。 方 です 、 、 いず れ にせ よ あ の金 印 が 黒 田 、 の殿様 に献 上 さ れ 亀 井 南 冥 が ﹁ 後 、 漢 書 ﹂ に照 ら し て金印 の白来を解明 これ が ﹁筑 前 に亀 井 南 冥 あ り﹂ と全 国 に名 を と ど ろかす こと にな った の は、 歴 史 上 の事 実 です。 そ の顛 末 はま た次 号 に載 せ ていた 。 第 です ねす る こと を 約 し てお宅 を辞 し た次 。 し た と さ え言 わ れ る亀 井 南 冥 の人 間 く さ さ が、 私 にはたまらな いの です。 、 そ の魅 力 を さ ら に追 い求 め て も う 一度 庄 野 先 生 と 一緒 に奥 さ んを お訪 そ の影 に ﹁儒 侠 ﹂ と呼ばれ ﹁ 狂死﹂ 博 、 間 の意 識 の中 に登 場 す る のは や は り 、 ﹁ 衣食足り て⋮﹂ の名言 のよう に 先 ず 、 胃袋 が満 たされ て後 脳味噌を満 たす段 。 、 階 に到達し てから のよう です つまり その時 に至 って突然、人間 の視野 に花 が 。 ﹁ 見 えはじめ﹂ てきた のでした ●その ﹁ 見えはじめ た﹂草花をどう取 り 、 、 扱 うかは 歴史 の中 の人間 の目的意識 、 或 いは時代精神 と でも言 いまし ょうか そうしたも のに従 いながら行われ てきま した。 古 だ き ます ョン︶ でし た。 当 時 は、 写真 のな い時 代 、 、 でも あ り 当 然 間違 い の無 いよ う に細 。 密 な 描 写 が要 求 され た わ け です 、 、 ● こ の こと は 同 時 に 植 物 画 の定 義 に も あ ては ま る こと で、 ① 植物学 会援盤こ 、 、 的 に ﹁正 確 ﹂ でな け れ ば な ら な いし 美 的 ﹂ でな け れ ば な ら な いと いう 二 ② ﹁ 、 、 大 原 則 が あ り さ ら に 一般 の花 の絵 と 、 は異 な り あ る特 定 の植 物 が テ ー マであ り、 それ と は無 関 係 な芸 術 的 技 巧 は不 要 。 、 であ ると いう こと です 具体 的 には 一 案内 ・ │1能古博物館│ご 平成 8年 7月 31日 CD よ だ 館 物 能
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