PDF - 秋田県立秋田高等学校同窓会

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皇雄
寧堅型喝の
料遮聖二.二一一一一一一一一二二二
駈遜
〃オ.J
む如蜘
題字は第六代塩田会長
発 行 者
田 県 立
市手形字中台一番地
高等学校同窓会
L O188(32)9553
印 刷 所
秋田マイクロ写真印刷株式会社
自分なりに一生懸命生きた
三年間でしたが振り返ってみ
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日
嘲辺嗣り
僻メ
7、・1
第37号 ﹁同窓会名簿﹂
作成にさら にご協力を
d g − 1 − 1 − 1 ︽ − 1 ︽ − d ︽ − . 什 g − d g − 1 g − 1 ︽ − d g − d g − 1 ︽ − d g − d ︽ Y d g − d ︽ − d g Y d g − 1 − 4 g − d ︽ − 1 − 4 ︽ − ▲ ル 電 d g − 1 − 4 g − d ︽ − d g − d g − l u d ︽ − d ︽ − d g − 。 塔 。 馬 d g − d g − 1 − 4 g −
;戴藤目口
堂
したことがあ。ま
す。それは幼い頃
菰
豪
に暗唱した﹁漬物
凱aほナナナナ
覗
調
石﹂という詩でし
弧開戦
た。漬物石という
身近な存在を様々
平成10年度は﹁名簿作成
田高等学校同窓会事務
7
田田E
な角度から見、歌
一秋一秋秋T
の年﹂−回収がたいへん遅
局︶ へお出し下さい。
うようなリズムに
れています。﹁郵便番号﹂
卒業年次・氏名フリガ
のせて素朴な言葉
も変わ。ましたので、まだ
ナ︵旧姓︶・名前フリ
で書かれていて、
提出ない方、特に住所変更
ガナ︵旧名︶・郵便番
それを口ずさむこ
とで何か勇気づけ
等の方、平成10年の4月15 号・住所・自宅電話・
られるような気が
最終学歴校名・勤務先
日
︵
水
︶
ま
で
、
是
非
お
出
し
しました。これか
下さい。
名称・役職名・勤務先
ら私たちが飛び出
電話番号・あるいは在
して行く社会は、
一、確認カード回収数
校名。
ものの見方が多様
去る二月二日、母校体育館において、平成九
発送−約二万二千通
三、協賛広告
化し、いろいろな
年度同窓会の入会式が挙行され、428名の卒業生
現
在
回
収
一
八
千
通
募
集
しています。
情報が飛び交って
一頁−8万円
二、確認カードの書き方
が新会員として迎えられた。式では会長の挨拶
います。その中で
なくした方は次の要領
半頁−4万円
自分を見失った。、
の後、先輩を代表して佐々木厚氏︵規秋田大学
で、事務局︵秋田市手
実頁−2万円
自分に寄せられる
学生部長、昭和36年卒︶が﹁秋高生らしい気概
是非ご協力願います。
評価も様々であろ
形字中台一秋田県立秋
妾缶㌫翫うと考えたりする
を持って生きよ﹂と新入会員に励ましの言葉を
るとあっという間でした。年 と不安にかられます。しかし の誇。を持ち、学校生活で培っ 出るように人生を生きていき
贈った。
が明けて次第に不安やあせ。 だからこそ自分にとって大切 た多くのことを生かすために たいと思います。本日はこの
や期待の入。交じった気持ち なものを問い、見極めるしっ も、漬物石のようにどっしり ような会を開いていただき本
式は佐々木亨氏︵S53卒︶ 言葉を引用して、基礎を学び にかられることもあ。ました か。した目を持つことが大事 と腰を下ろし、自分の決意や 当にありがとうございました。
の司会で進められ、最初に会 それを越えてよ。高いものを が、そんなときふっと思い出 だと思います。秋高生として 信念を守。、自分らしい味が
長が挨拶に立った。丸山会長 生み出して行くことの大切な
﹁己を修めて世のため尽くす。﹂ のである。そして、結果的に
はその中で、同窓会の歴史と ことを述べた。そして最後に
東北新幹線で東京に行く途
応援練習で鍛えられたおか
﹁大学受験に際しては必ずし 中、宇都宮を出て少したつと、 げで、秋高の校歌をいまでも 自分は何のために勉強し、何 新しい伝統が作られていく。
現状についてふれた後、ドイ
同窓会について、もし私な
ツの法律学者イエーリングの もうまくゆかないこともある 東側車窓から自治医科大学が 何とかそらんじることができ のために働いているのか。
が、その場合でも長い目で見 見えてくる。ここの8階病棟 る。これは秋高に在学した最
﹁わが生わが世の天職いかに。﹂ りに定義するとすれば、秋高
れば人生にとってプラスにな が現在の私の勤務先である。
も簡単な証であるかも知れな この職業は私の天職なのだろ 卒業生の親睦をはかり、後輩
日野
ることの方が多い。前向きに その窓から ﹁こまち﹂ を見る い。1番だけではどこの校歌 うか。などなど、風呂の中で たちを支援する組織、と言え
生きていって欲しい。﹂と餞 たびに、自分が﹁秋田人﹂ で かわからない、校歌らしくな 歌いながら、とりとめもなく るのではないかと思う。在校
口田、
あることを思い出す。
い歌である。5番まで歌って 思いを巡らしている。
生に伝統をただ押しっけても
の言葉を贈った。
無意味である。卒業
続いて佐々木厚氏︵S36卒︶ 大学を卒業し、秋
生の心の拠り所の一
が先輩激励の言葉を述べた。
田を離れて8年が経っ
つとして、また、在
︵要旨は2ページに掲載︶
た。根無し草のよう
校生が高校生活の証
その後、小玉副会長から新 な私をかろうじて秋
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を得るための手助け
入
会
員
代
表
近
藤
江
里
子
さ
ん
へ
田
に
つ
な
ぎ
止
め
て
い
をする組織として、
同窓会からの記念品︵校章を るのは、両親と秋高
...∴∴∵∵・∴一・1...﹂呵周当﹂ul.il
その活動のさらなる
かたどった文鎮︶ が手渡され、 の存在のような気が
充実を願っている。
それに対して近藤さんがお礼 している。秋田での
の言葉を述べた。
自分の証︵あかし︶ とでもい はじめて一つの校歌となると
高校生活はわずか3年間で
時は流れ、秋高の校舎も変
宅欄脳鵬
勝手に思っている。高校生の ある。校歌の意味さえつかめ わってしまった。しかし、秋
最後に参加者全員で校友会 うべきだろうか。
歌を高らかに斉唱し式を閉じ
人は生きている証、そして 頃にはこの校歌の意味など考 ないその3年間では、秋高の 高で過ごした3年間は、私の
た。
えもしなかったが、卒業後に 伝統を守。、発展させる、な 心の中のいまも変わらない風
生
き
て
き
た
証
が
必
要
な
生
物
で
ある。患者さんの人生の終わ ようやくわかってきたような どと考えている余裕はない。
景である。そして友の心の中
︹近藤江里子さんの
転田昌深粛甘整搬覇者
お礼の言葉︺
ただ自分たちの高校生活の証 でもたまに蘇るよう念じっつ、
りに立ち会うとき、ふと、自 気がする。
層会入会式l
分の証はいったい何だろうと
﹁敬天愛人。﹂西郷隆盛は を求めて︵そうとは知らずと 今日もまた、風呂で校歌を歌
思うことがある。
どんな人物だったのだろうか。 も︶、その時々を生きている うのである。
、、
鮎 拙 閣 議
(1)平成10年3月5日 秋 高 同 窓 会 だ よ り 第 55 号
t 、
′ノ
天 上 天 下
▼朝、手形山近くを車で通る
ことがある。今冬は厳しい日
が多く、登校する生徒たちも
難渋している様子をうかがわ
せる。ときお。、不思議に思
うことがある。そろそろ、始
業の時刻と思うのに、生徒た
ちの誰一人として、急ぐそぶ
。を見せないのだ。このまま
では遅刻するのではと、人ご
とながら車の中から見ている
のだが、彼らは決してあわて
ない。▼翻ってみれば大人の
われわれも、時間に甘くなっ
てなくはないだろうか。どう
も車で動いていると、余計そ
ういうきらいがあるように思
える。﹁遅くなったのは道路
が混んでいるせい﹂とばか。
遅れて出た己と、状況を的確
に読めなかった自分を正当化
してはいまいか。▼景気もし
か。。﹁景気が悪いから、良
くなるまではなんともならな
い﹂とばかり、弱気感が支配
的となり、企業マインドが萎
縮しがちになってしまう。
﹁果報は寝て待て﹂ ではなく
﹁練って待てとの言い違いで
ある﹂と言ったのは、安田財
閥の創始者・安田善次郎翁で
あるという。﹁閉塞の時代﹂
こそ、難関を切り開く、勢い
そして覇気こそが求められよ
うか。▼時、あたかも今年は
寅年。虎といえば、古来より
勇猛果敢その峻烈な容姿が相
まって勢いのあることの例え
に使われている。日く﹁騎虎
の勢い﹂ ﹁虎牙=こが﹂ ﹁虎
は一日に千里を走る﹂等々。
反面、無謀なこと、危険なこ
とを例え、戒める格言、故事
もまた多い。▼ ﹁虎と見て射
る矢の石に立つ﹂ の言葉もあ
る。一念を込めてかかれば、
道自ずと開けてくるの例え。
混迷のときこそ、目標と理念
を高く掲げて正々堂々と積極
的、進歩型の年を刻みたい。
皆さんの先輩たちは世界中
で活躍していますが、共通し
ていることは秋田高校の卒業
生であることに誇。をもって
いることです。秋田大学の学
部長が、私をふくめすべて秋
Kllげn卦lJu鼠tJn鳳1.11−u≠
例えばガンのような激しい
痛みを伴うものはなかなか文
学にはつながらず、以前の結
核のように、痛くも痺くもな
いが死は確実であるといった
類の病気が︵最適︶ のようで
ある。サナトリウム文学とい
う表現があるくらいである。
否応なく自己を凝視せざるを
得ない状態に置かれるという
ことであろう。
貧困もまた、文学のよきふ
るさとである。長患いは貧困
につながりがちという点で病
気との関連も深いが、貧困は
人の目を社会に向けてくれる
ので、そこから文学が生まれ
てくるのである。
古来、男女間題の苦労から
tl灯鳳lllJu鼠lltu軋
理学は大変おもしろい分野に
なっています。
秋田大学の学生部長の立場
から、お話しします。中世の
イタリアで、法律を学びたい
人達がお金を出し合って教え
てくれる人を集めたのが大学
の始まりです。その少し後、
パリで同じように神学を教え
る大学ができました。大学は
このような形で、学びたい人
と教えたい人相互に作。上げ
た、いわば組合のような形で
発足した歴史があ。ます。時
には宗教会や国王と激しく対
立し厳しい弾圧を受けること
もあり、オックスフォード大
学がロンドンから少し離れた
場所に作られたのも、刃向か
晴嵐llJuu甘l肛軋
ている理系生徒は強気の姿勢
といった傾向が見られた。更
に、新課程へ移行して、生徒
の堅実な志望大学選びや﹁入
。たい大学﹂選びが浸透して
きたのか∵東京大字︵191日︶・
京都大学︵1315︶に見られ
るように、超難関大へのこだ
わ。が少なくなってきたよう
に感ずる。
一方、全国的には私大離れ
が進んでいるといわれるが、
本校では逆に昨年より出願数
が多くなっている。私大の易
化傾向に加え、現役志向が強
くなってきたことの表れと分
析している。しかし、ブラン
ド志向の高い本校生にとって
志願数の多い早稲田大・中央
大・慶応大・立命館大・青山
学院大などは今年も難関大で
あることに変わりなく、決し
て滑り止めとはならないので
注意を要する。
今年の入試に関しては、秋
田大学医学部の推薦入試で合
格者12名︵定員25名、うち
内合格者12名︶ を出したこと
からも伺えるように、三年部
の記述重視の取り組みやきめ
細かく丁寧な指導が功を奏し
ており、今後の合格発表に大
きな期待を抱かせる。
うことを恐れた国王の命令だ それを見ると日本の大学生の
先日のセンター試験では得
と言う人もいます。日本の大 進学動機は﹁才能を伸ばした 点調整をするなど皆さんに迷
学は明治の初め新しい日本の い﹂ ﹁知識欲﹂ のはかに﹁皆 惑をかけ、大学入試の制度に
指導者を養成する目的で帝国 が行くから﹂ ﹁考えたことも 不信感を持ったのではないか
大学という形で作られました。 ない﹂がそれぞれ24%、12%
と思いますが、今後、様々な
秋田大学は戦後の大学改革に もあるのです。この割合はア 側面から入学資格を問うアメ
よって作られ約50年の歴史が メリカ、イギリス、韓国など リカやフランスなど他の国の
あ。ますが、その源をたどれ が3%∼5%なのに比べて極 制度も参考にして改善の検討
ば教育学部は秋高と同じ、鉱 端に高いのです。また、日本 をしていかなければならない
山学部は95年の歴史がありま のある大学が行った調査で、
と思います。最後に、皆さん
す。地方大学というとレベル 4年間をどのように過ごした がこれから生きて行く上で、
の低い大学というイメージを かという間に対して、回答し 秋高生らしい気合、先を見通
持つのではないかと思います た学生の33%が﹁授業にも出 す目、決断する勇気、人を信
が、今は優秀な教官がたくさ なかったし自分でも勉強しな 頼する気構え、自分を犠牲に
ん集まっておりレベルの高い かった﹂ と答えています。ま する覚悟を持っていただきた
研究をしています。
さに抜け殻現象が表れていま いと思います。基本的に人間
ところで日本の大学生と外 す。私は秋田高校生諸君はこ は孤独であります。孤独に耐
国の大学生の意識を比較した れとは全く違った意識水準を えた人生を送っていただきた
総理府のデータがありますが、 持っていると期待しています。 いと思います。
ぼ同様となった。四月から
﹁教育学部﹂を﹁教育文化学
部﹂、﹁鉱山学部﹂を﹁工学
資源学部﹂と改称して新体制
に移行する秋田大への動向が
注目されたが、本校生には先
も多くの文学が生まれている。
行き不安な両学部は敬遠され
昨年の﹁失楽園﹂ のように、
例年に比べ出願数は半減した。
多くの読者を獲得することが
今年度のセンター試験では、
本校のセンター試験受験者 全般に、教員採用が厳しくなっ
少なくない。断っておくが、
同試験開始以来、初めて受験 は昨年とはぼ同数の377名で、 ていく現状から教員養成系の
単に男女間題があるだけでは 者が前年を下回った。新課程 平均点では国語I・Hと数学 大学への人気に陰。が見られ
だめで、そこで苦労すること 二年目は難化するだろうとの H・Bでの大幅ダウンが響き、 るのに対し、全国的な動向と
が不可欠である。
大方の予想通り、特に数学や 総合で43点近く下がる結果と 同様に実学志向を反映してか
その他、家族関係の苦悩や、 国語の難化にともない、五教 なった。これを反映してⅧ点 工学部への志望が多くなって
戦争のような特殊な体験から 科六科目の総合の平均点は前 以上の高得点者が激減︵昨年 いる。このことが秋高生の受
もそれぞれのタ 年より45点前後もダウンした。 441今年14︶、八割以上の得 図を大きく塗り替えたよ
験
地
イプの文学が生
点者も半減︵133161︶した。
ま
た
、
地
歴
で
得
点
調
整
が
実
施
う
で
ある。
まれてくる。
され、日本史B・世界史Bに しかし、他県の進学校では本
今年の特徴として次のよう
むろん、日常 最高7点が加算された。
校以上のダメージを受け総合 なことが挙げられよう。まず、
性のなかに潜む
で50点以上も下がったところ 東北地区七大学への出願数は
倦怠感や憂鬱も
が相次いだ。上位層の厚さと ここ数年漸減しているが、こ
文学のよき土壌
いった視点からは本校生は善 の傾向は今年も変わらず、そ
由窃
であるし、上述
戦したといえ、まずまずのス の分関東甲信方面へ流れてい
のようなさまざ
タ
ートを切ったと評価してい るようである。また、教員養
秋田県スポーツ賞
まな要素が複合している場合
る。なお、本校会場によるメ 成系では宮城教育大学等で出
特別顕彰最高功労者
も少なからず見られる。
リットについては特に耳にし 願数を伸ばしたが、従来人気
辻兵吉︵Sl
g卒︶
つまり、文学のふるさとは
ていないが、リラックスして の高かった東京学芸大学や横
豊かで尽きることがないと言
受験できたことは確かだろう。 浜国立大学では激減した。逆
特別功績者
えよう。
国語や数学の平均点ダウン に、工学部では東北大学や千
8卒︶
︹略歴︺昭和41年、東北大学 小林忠雄︵S2
が二次試験の出願状況に悪影 葉大学等で大きくその数を伸
文学部卒業。現在は秋田高校
響を与えることも予想された ばしており、果敢な挑戦とい
教諭。日本ペンクラブ会員。
学校体育功労者表彰
が
、
不況や雇用不安を背景と えよう。概して成績の伸び悩
著書﹃風光る﹄ ﹃二つの校歌﹄
渡
部
公
男
︵
S
3
1
卒
︶
し
た国公立大人気は依然とし んでいた文系生徒の手堅い出
﹃砂の傾き﹄等。
て高く、出願総数は昨年とは 願に対し、二次力に自信を持っ
高生で占められたことがあ。 し、その後急激に膨張し冷え 達の体のなかでおこっている
ましたが、ちょうど大改革が てくるとクオークという粒子 ことなどが解ってきました。
始まった困難な状況の中でも が析出し、さらに膨張が進む 現在は、地方の大学といえど
3人の学部長がお互いに同じ とクオークが集まって陽子や もインターネットを通して世
気持ちを持っているのだとい 中性子という粒子ができます。 界の最先端の科学ができ、物
うことを信じて作業を進める その陽子や中性子
ことができました。人間を特 が結びついて原子
徴づける﹁価値観﹂ の種を身 核を作っているの
につけるのが高校時代であ。、 ですが、その原子
それを共有することで卒業年 核を非常に高いエ
次を越えて同じ立場、心とし ネルギーの光でこ
て機能し、同窓会の存在の精 わしてその中の陽
神的な支えになっているのだ 子、中性子、その
と思います。私達は昭和36年 他の素粒子を弾き
の卒業で﹁サブロク会﹂とい 出すことによって
う会を作って定期的に会をもっ 原子核の仕組みを
ていますが、そこでは本校に 研究しているので
勤める柴山先生をはじめ、皆 す。その結果、陽
が少年に返。ます。皆さんに 子や中性子は野生
も是非同期会の活動を活発に 動物の繁殖のよう
していただきたいと思います。 な形で相互に作用
次に、自己紹介を含めて私 していることや、
の研究分野についてお話しし それらがぶつか。
ます。わたしは素粒子の研究 合ってぶよぶよの
をしております。宇宙が誕生 形になる現象が私
資n鳳ll肝卦lJ鼠lllh肝n軋
大学二年生の秋から三年生 た思いであった。ひどく怖かっ
にかけて、十カ月はど東北大 た。すぐに当直の看護婦が駆
学の附属病院に入院した。
けつけて来て、鎮静剤を注射
直前の夏休みに、仙台から してくれた。
秋田まで徒歩で帰省したこと
今、私は少しばか。小説を
が発病の引き金になった。
書いてみたりしているが、大
仙台・秋田間は約三百キロ 仰な表現を許していただけれ
である。それを七泊八日で歩 ば、私の文学の出発点はここ
き通した。たいした理由はな にあったような気がする。
く青春の安っ
ぽいヒロイズ
ムで片づけて
よいものであ
る。
それだけで
止めておけば
よかったのに、
その夏休みは
鳥海山に登ったり乳頭から駒ヶ
当時の私は文学部の学生で
岳にかけて縦走したりと、県 あったが、文学部の教室では
内の幾つかの山にも挑戦した。 なく、医学部の病室にそうし
それらの無理がたたって、
たきっかけがあったことを、
後期の授業が始まると同時に 時おり、なつかしく思い出す。
発病したのであった。
文学史をひもとくまでもな
入院生活も後半に入ったあ く、病気が文学の出発点になっ
る深夜、私は不意に死の恐怖 ている作家は枚挙にいとまが
に襲われた。墜落の感覚に耐 ないが、病気ならなんでもよ
えられず、死の深淵を垣間見 いというわけではないようだ。
(2)平成10年3月5日 秋 高 同 窓 会 だ よ り 第 55 号
.ヽ
・・∵=ノ/
ヽ.
子J
個共特別賞⋮︰
ノ憲謡輔壁盟
∴=・∴1∴︰・ト ∴∵日..∴︰・
′ ﹂
.\
もあ・り
可 玉智有さん
が形作られていくという面が
あるのだ。人文字を作る生徒
や先生達の数は数百人にも達
するだろう。皆カラーボード
を素早く取り換えなければな
らないから本当に忙しいだろ
う。バックのカラーはともか
く、文字の部分の係の人は責
任重大だ。もし間違えたらそ
れこそ台無しである。﹁自分
の思いがこれで選手に伝わる﹂
と思う人も、﹁俺一人間違っ
たってどうってことねえよ、
かったりいなあ﹂ と思ってい
る人もいるだろう。しかし、
それらの人達の行為は文字と
なり、﹁頑張れ!﹂ という一
つの思いに集約されて、きっ
と選手へと伝わるに違いない
0
惑じゃないだろうか、とか、
そんなことを思う余裕もなく、
ただただ、今まで一人で見つ
めていた暗いうずを、先生の
前に吐き出しました。先生は
黙ったまま静かに話を聞き終
えると、こうおっしゃいまし
た。﹁一人でためこ
んでいたってだめだ。﹂
しかし、二か月く
らいたった日、つい
に私は教室に入れな
くなってしまったの
です。自分の席に座っ
ていると、クラス中
の視線が私に突き刺
さってくるようで、
居ても立ってもいら
れなかったのです。
ある朝、私はどうし
ても教室のドアを開
ける勇気を持てず、
階段の途中に座り込
んでいました。早く今日が終
わって欲しい。でも、明日が
来るのも怖い⋮⋮。いろいろ
な想いが、頭の中でぐるぐる
回っています。と、﹁どうし
た。﹂ その声にはっとすると、
あこがれる
一年E組 伊藤 彩子
いる松井秀喜選手は、当時石
川県代表の星稜高校の選手だっ
た。その星稜高校と、高知県
代表の明徳義塾高校が対戦し
た際、超大物スラッガーとし
て名を馳せていた松井選手は、
四打席連続敬遠を受けたので
ある。大会史上まれに見る出
来事だった。星稜高校のアル
プススタンドからは、﹁かえ
れ﹂ コールが起こった。それ
とともにグラウンド内には無
数のメガホンが投げ込まれ、
それは何度となく響きわたる
注意の放送にも、決しておさ
まることがなかったのだった。
確かに唖然とさせられた場面
であった。明徳義塾の投手の
敬遠は、﹁真っ向勝負をして
一年目組 小玉 智有
野球の敬遠は畢情か
個人特別賞作品
﹁お前、独りじゃないか。﹂
私は、この言葉で先生と出逢
いました。そして、﹁あこが
れる﹂ということとも。
中学二年の頃、私はクラス
の中に友達と呼べる人がいま
せんでした。表面では仲の良
かった人達とも、この
年の学習旅行で上手く
いかなくなり、とうと
う誰一人話せる人がい
なくなってしまったの
です。クラス担任にも
両親にも相談できず、
一人でふさぎ込んでい
た、そんな時でした。
先生が、ある日の休み
時間に私を呼び出し、
こう言ったのです。
﹁お前、独りじゃない
か。どうかしたのか。﹂
いたわるようなまな
ざしとこの言葉に、私
を安心させてくれる何かを感
じ、私は、何もかもを話しま
した。心にたまっていたもの
が、一気に噴き出すようでし
た。恥ずかしい、とか、ここ
まで話してしまうと先生は迷
誠矩叫
︰
・
㍉
療
虔肇男鴎的凋渕成
監ぷ
私は、軟式野球部のマネー
ジャーをしている。もちろん
マネージャーなのだから、実
際にボールを手にすることは
ない。しかし、それでもれっ
きとしたチームの一員である。
膨大な時間を選手たちと共に
過ごし、その中で様々な姿を
見てきた。改めて敬遠の是非
を問う時に私の頭の中に部員
の一人一人の真剣な顔が浮か
んでくる。ピッチャーは何と
いうだろう、二番を打つ彼だっ
たら⋮⋮。そう考える時に思
い浮かぶシーンがある。
今から六年前の夏、全国高
等学校野球選手権大会でのこ
とだった。現在プロ野球球団
読売ジャイアンツで活躍して
!饗
‖ソ
テレビで人文字を見るだけ
でも、どこまでも想像がふく
らんでいく。本当に不思議な
ことだ。それは、一糸乱れぬ
動きによる文字の美しさ、と
いうよりはむしろ味方のヒッ
トに沸き、三振や凡打、ダブ
ルプレーにがっかりする、タ
イムリーには我を忘れて喜び
合い、勝って嬉し泣きする、
という心の底から沸き起こる
感情、選手達のプレーの一つ
一つに対する様々な思いが文
字1﹁人文字﹂ になって僕
達の目に映るということへの
感動があるからではなかろう
か。﹁言われたことをやって
いるだけ﹂ とクールぶってみ
ても、やはり気がついたら自
分もその﹁思い﹂ の一部になっ
てしまっている。それが僕達
の心を打つのだ。
一九九五年春の選抜甲子園
では、阪神・淡路大震災の直
後ということで、ブラスバン
ド等は自粛されたが、人文字
は例年通り行われた。そして
それが被災地の人々の心に希
望をもたせたように、僕達も
甲子園での人文字を見るたび
に、知らぬうちに彼ら、彼女
らから、明日への一途な思い、
希望を与えられているに違い
ない。
、
闊日日H
j題題■■ttt−
ではあるが、選手たちは、
﹁第七回 全国高等学校作文選手権﹂ ︵文芸春
﹁僕達を応援してくれている
秋主催︶ で、本校の一年生チームが見事入賞を果
んだ﹂と新たに闘志を燃やす
たした。三つの与えられたテーマに、三名がそれ
ことだろう。音のあふれてい
ぞれに心のありったけをぶつけた素晴らしい作品
る球場内にあって視覚的に目
を紹介する。
を引く人文字は、応援する気
持ちを確実に選手に届けてく
平成10年1月24日田、ホテ 人文字 − ﹁人が並んで作っ れる。人文字は、そんな応援
ルニューオータニにおいて、
た文字の形。﹂ ︵広辞苑・岩 団の思いの結晶を、字に託し
賞の贈呈式ならびに祝賀パー 波書店︶決められた動きに従 選手にぶつけるという、まさ
ティーが行われた。今回指導 い、決められたことをやるだ に﹁心のこもった﹂応援だ。
にあたられた国語科・石塚淳 けで出来てしまう、訓練さえ
高校野球の全国大会 − い
子教諭とともに、出席した三 すれば実に簡単なこの行為が、 わゆる﹁甲子園大会﹂ が他の
名にとって貴重な経験になっ なぜ僕達の胸を打つのだろう 競技の全国大会よりも盛り上
たようだ。
か。一人でも欠けると形をな がりを見せるのは、野球とい
すことのない、花火にも似た う競技への注目度もさること
一瞬の芸術、というとキザに ながら、このような試合場で
聞こえるかもしれないが、見 の、応援のすごさが主な理由
事に完成された人文字を見る だろう。僕が所属する秋田高
と心の底から﹁美しい﹂と感 校剣道部は、今年全県優勝し
じてしまうのは、きっ
インターハイへ出場し
と僕だけではないと
た。僕も一部員として
思う。
ついて行き、先輩達を
野球部員だった小
また、石塚教諭は受賞を喜
一生懸命応援した。し
びつつ、
学生の頃はもちろん、
かし、剣道は原則とし
﹁今回の受賞は、﹃県下一の 剣道を始めた中学校、
て拍手以外の応援は禁
進学校﹄で満足している秋高 高校に入っても、毎
止されているため、多
生の意識を全国レベルで考え 年欠かさず甲子園で
少物足りなさを感じた。
る一助となったのではないか の高校野球を見てい
もちろん、決勝ともな
と思っている﹂
る。テレビ観戦する
れば応援生徒と観客が
一体となって大きな拍
と語る。﹁文武両道﹂ の精 たびに、選手は、打
神のもと、武と両面で全国レ つ時はもちろんのこ
手が起こり、会場全体
ベルの高校として更なる発展 と、守る時、走る時、
がどよめくが、やはり
ベンチにいる時も両
を願う。
甲子園でのそれにはか
校の声援やメガホン、
なわない。人文字もも
ちろんない。でも、そ
太鼓の音、ブラスバ
ンドの演奏、そして
れは仕方のないことだ
観客のヤジなどが、全部一緒 ろう。剣道に限らず武道は個
に聞こえてきてさぞやかまし 人競技であり、一瞬のうちに
いだろうと思う。そんな時、
勝負が決まる。試合に全神経
アルプススタンドにふと目を を集中しなければならず、応
向けると、自分や自分のチー 援を肌で感じられないのが実
ムを応援する人文字が目に飛 情だ。片や野球は観戦者も試
び込んでくる。打席に立った 合に熱中し、試合に入り込ん
バッターのイニシャルや校名、 でいく。そして必死になって
﹁FIGHT﹂などの文字が する応援が選手に届き、試合
応援生徒のカラーボードによっ の流れを左右していく。選手
て浮かび上がる。勝手な想像 と観客が一体となって、試合
癒ぺ妻妾登
第 55 号
(3)平成10年3月5日 秋 高 同 窓 会 だ よ
国語科
石場淳子教諭
人文字
一年B組 佐々木耕志
1.1 1 1 1 1 1 1 1 I 1 1 1 1 1.1 . l
l
l 1.1
先生が立っていました。﹁教
室に入れなくて⋮⋮。﹂私は
立ち上がって、細々とした声
でこう言うことしか出来ませ
んでした。ちょうど始業のチャ
イムが鳴った直後だったので、
私たちの横を、遅刻した生徒
達数人が、急いで階段を登っ
ていきました。先生は少し考
え込むと、﹁俺のところに来
るか。﹂ と勧めて下さいまし
た。
私は救われました。嫌なこ
とがあったり、体育などでグ
ループ学習があったりすると、
教頭室へ行くことが出来ます。
教頭室のドアを開けると、
﹁どうした。嫌なことでもあっ
たのが。﹂と言う先生の声が、
私を迎えてくれます。その声
を聞くと、私は、﹁ああ、こ
こなら居られる。ここには、
私の居場所が残っている。﹂
と安心して、応接用のソファー
に深々と腰かけるのです。そ
して、私と先生は様々なこと
について話しました。
その話の中でも、特に心に
残っているのは、私の将来に
° ° ° ° ° °
〇
いない﹂ ﹁勝負から逃げてい
る﹂ ﹁スポーツマンシップに
反している﹂などと言われた。
テレビの前の私は、松井選手
には気の毒だと思いながらも、
投手には胸の痛む思いがした。
彼だって、ストライクで真っ
向から勝負したかったろうに
しかし、この敬遠は、本当
に卑怯だったのか。これはあ
くまでも投手対打者との勝負
に目がそそがれ過ぎているか
らではないのか。ボールの動
きとともに試合の流れを見て
いる観衆と違い、私はいくら
か野球というスポーツを全体
として見る視点を有する。投
手と打者二人の勝負が行われ
ている時、勝負は二人だけで
行われているのではない。当
たり前のことだが、チーム対
チームで行われているのだ。
まだ飛んでこないボールを
︳
l
l
l
l
l
l
l
l
︳
l
l
l
l
l
l
l
’
l
l
l
I
.
︳
l
l
ついての話です。将来、何に
なりたいのかと聞かれ、私は
﹁中学校の英語の先生。﹂と
答えました。﹁なぜ?﹂と理
由を問われ、私は﹁英語が好
きだから。﹂と答えました。
しかし、本当の答えは別のと
ころにあったのです。山田先
生にあこがれたから。先生の
ように、私のような生徒の、
心の居場所を作ってあげられ
るような先生にな。たい。そ
う思ったから。教頭先生自身
が英語の先生だからでしょう、
とても喜んで下さいました。
人にあこがれるというのは、
一目見て素敵だなあというあ
こがれもありますが、初めは
そう思わなくても、次第に引
き付けられ、この人のように
なりたい、と思うあこがれも
あります。私も、山田先生に
声をかけてもらい、教頭室で
いろいろな話をする過程で、
知らず知らずのうちに、先生
に引き付けられていきました。
そして、先生のようになりた
い、そうあこがれるようにな
りました。
﹁絶対落としはしないぞ﹂ と
待つ者、﹁自分の順番までま
わしてくれよ﹂ と心の中で祈
る者、見えない試合がそこに
はある。
積み重ねられた膨大な練習
量にひきかえ、一つの試合と
いうのはほんの二、三時間と
いうわずかな時間である。し
かし、そのほんの一瞬での勝
利のために、多くの努九が行
われているのである。放課後
や土、日をさいて練習にあて
るのは何のためなのか。真夏
の炎天下、または冬の雪が降
りしきる中、ただ黙々と走り
続けるのは一体何のためなの
か。答えはたった一つ、﹁試
合での勝利のため﹂ である。
敬遠という行為をとるのは、
長打を防ぎ相手チームに無駄
な点数を与えないようにする
ため、すなわち﹁勝つ﹂ため
︵四面へ続く︶
l
l
く苦しい練習、その中で、私
はマネージャーとして、選手
たちの野球にかける強い想い
を見てきた。練習終了後も一
人残。、黙々とバットを振る
姿。肩を故障し、それでも練
習に参加して仲間に声をかけ
る姿。試合直前の円陣にみな
ぎる気迫。そして惜しくも敗
れた時の涙。試合とは、その
たくさんの時間の総決算の時
のはずである。そして今まで
徐々に積み重ねてきた野球へ
の情熱を、完全燃焼させるた
めの場でもあるのだ。それだ
けに、勝負というものが、私
たち野球をやる人間の中では
大きな位置を占めているのだ。
試合にかける情熱がこもっ
ているのは、ストレートで打
者を打ち取る球ばかりではな
い。それは、敬遠するために
投げられたボールも、決して
例外ではない。同じくそこに
あるのは、勝負から逃げるよ
うな弱い気持ちではなく、ど
のような状況に追い込まれよ
うと、しっかりと前を見据え、
勝負に向かい合う私たちの姿
なのである。
2 0 年 8 月導を受ける。その後、森永薬 医薬開発に適当な人を知って
広島にて被 品の大場の工場研究課長とな いたら紹介してくれないかと
爆する。私 り其処で増山博士に学んだ推 の話であった。私は、丁度息
の時計の役 計学的手法で行ったペニシリ 子が京大病院で、その治療を
目をする無 ン製造の研究で京大より工学 受けていたと言う事情もあり
ガス火導薬 博士の学位受く。その工場の 即座にその話を受け、同社の
は終戦後日 製造課で海軍時代の火薬研究 富士工場の研究課のヘッドと
本軍部の独 時、尤も危険な物の一つと考 して赴任した。そこにいって、
特の新製品 えていたエーテルを製造用多 驚いたことに、発酵の優れた
としてGH 量に使用している事に危機を 研究者は沢山いたが医薬の研
Qの注目を 覚え製造課長にその危険さを 究をやるに必要な動物実験を
引き調査を 訴えたが理解されず止むなく 行える研究者や肝心の実験用
受く。戦犯 工場長や重役等に訴えるも理 動物が全く居なかった。そこ
で処罰され 解出来ず。ある日、私の危倶 で、ある研究者を大学に送。
るかと思っ していた通りの製造現場より 訓練した。さて、そのころに
たが逆に優 かなり離れた場所のスイッチ 広島原爆の被害者に癌が多発
れた日本海 の微かな火花がもとで爆発し していた。
軍の独創製 工場全焼した。
そこで、私は制ガン剤の研
品として褒
森永薬品役員は私の予言を 究をしたいと思い、いろんな
められお礼 認め本社の技師長に昇格して 制ガン剤研究者と結び専らそ
を貰う。私 下さったが工場再建の見通し の方面の研究をした。そして
自身は運良く火傷無く生き延 は無く私は辞任し、京大の生 最初に世にだしたのは北里研
びた。ただこの悲惨さの背後 化学教室に戻る。
と協力し販売出来たのはカル
にある米空軍の残虐な大量殺
所が、そこで、私に工学博 チノフィリンと言う腹水癌等
人計画の戦略を知り、文春社、 士の学位を下さった高田教授 によくきく発酵製品であった。
光文社等より発行す。退役後 が私を呼ばれ、自分の大学時 しかし、それでは物足りない
被爆者が入手切望していたペ 代の同級生だった協和発酵の ので探索に明け暮れ、次いで、
ニシリンの最大メーカー森永 加藤社長が訪ねて来て自分の マイトマイシンCと言うもの
薬品に入社、同社より東大医 会社では、医薬としては、メ を出した。これは実に強力な
学部に派遣され田宮猛教授及 ルク社から導入したストレプ 制ガン物質で、世界の制ガン
び推計学の権威増山博士の指 トマイシンしか売ってない。
剤判定のメッカと言われたス
ロンケタリング研究所の副所
○鎌田喜一郎︵国語︶ チン 長のチェスターストック博士
○田村耕︵工作︶ 千ンケ
がわざわざ私に逢いに飛んで
モンキーから、お二人とも 来た程であった。杉浦兼松博
容貌。
士も絶賛した。これで紫綬褒
○小野進︵博物︶ 千ンケ
章を受賞、協和発酵の代表取
前任校の大館中当時からの 締役副社長となり、中曽根総
アダナ。クマゲラの話をよく 理より旭日中綬章授賞、高松
聞かされた。自然保護運動の 宮妃癌研究基金よ。学術賞授
先駆者。不遇のうちに亡くなっ 賞した。
た。
名前ともアダナともつかな スモーカー、寿命が2、3年
いものに、ツナさん︵渡部綱 縮んでもタバコはやめられな
一、化学︶、ロクちゃ ︵佐藤 いといっておられた。いまの
六蔵、柔道︶、シチまたは七 私は身につまされる思い。
無斉︵佐藤七之助、図画︶等
◇ ◇ ◇
の先生がおられた。ツナさん
何しろ生意気盛りの年ごろ
からは、昭和13年、雄物川放 のこと、ずいぶん失礼な、勝
水路の爆破見学で、爆薬はカー 手なアダナをつけたものだ。
リットだと教えられた。後に 以上、お名前を挙げた先生が
道川中学校長。ロクちゃは酒 たのご冥福を謹んでお祈り申
好きの好々爺、﹁感謝感激﹂
しあげる。妄言多謝。
が口ぐせ。シチ先生はヘビー
︵秋田大学名誉教授︶
マ 顔が長かった。汀友会
︵土崎の秋中生の会︶ の顧問
格。
○官越精三郎︵音楽︶ タネ
ウマ 奥さんは胃腸病院の深
見家の出。シューベルトの
﹁未完成交響曲﹂ のレコード
で音楽鑑賞を味わせてくれた。
大阪の寝屋川高女に転出され
たが、後に相愛女子大の音楽
科教授に。息女二人も音楽家。
○佐々木正之︵英語︶ 升モ
全くもって、とんでもない
尊称を奉ったものだ。後に横
手高校長。病気で定年前に退
職されたとか。
○川端清︵国語︶ 升サケ
崖っ淵の意。額と頭の格好
から。
○高橋幹雄︵地理︶ ケテン
ト 額が広く・後年・六郷高
校長。
この間、私は世界中の研究
所、大会社を廻。、ロッシュ
社より5−Fu、ワドレイ研
究所と共同研究で白血病の妙
薬アスパラギナーゼを製品化
し、イタリーのアドリヤマイ
シンを導入した。この間、協
和アメリカ、及び協和ヨーロッ
パの支配人も兼務世界中を飛
び回った。その間、ベルギー
でヤンセン社の天才ヤンセン
博士と逢い会談を重ね、意気
ル乃
︵
1
−
一
一
1
−
−
−
1
1
1
︳
昨今保健室は、﹁かけこみ
寺﹂とも﹁とまり木﹂ともい
われ、足踏みする生徒の救急
の場でもある。ストレスの解
消法を共に考え、頼れる人や
場の発見を促す場でもありた
い、成長を喜びあいたいと思
いながら、非力な自分を励ま
し、私なりのかかわりを続け
ていこうと思う日々です。
う。
投合し日本にヤンセン社と協 ち、そしてさらには、﹁勤勉﹂
和発酵社のジョイントヴエン や﹁頑張り﹂ を善とする育て
チユアヤンセン協和を作。初 られ方をした彼らは、弱音を
代社長に成った。その功を認 吐くことを恥と感じ、結局の
め、ベルギー国王は直接私を ところ﹁無気力﹂という形で
王室に招き王冠コマンダー章 しか自己主張できなくなって
を自らの手で首に掛けて下さっ いるという深刻な生徒もいる。
た。その後協和メデックス社
休んだらとり残されるとい
も作りその初代社長をやる。
う社会・学校の現実に、実際
しかし、一九九六年80歳にな は、個々の発達︵特に自立心
り、上記三社の顧問、特別顧 の年齢相応の発達︶ に差があ
問を辞任した。
るのであれば、育ちを援助し
待つ姿勢も大事なはずが、中々
それも許されない。息苦しい
ままにただ時間のみ無為に過
ごしてしまっている生徒。集
中力を失ったやる気のない生
徒を喚起できれば、本校の実
績はもっと伸びるのではない
かと感ずることもある。
本人の居場所を作ること、
求める心に寄り添うこと、先
輩たちは、人の生き方、生き
様を伝えてほしいこと、人の
成熟・成長に時間がかかるこ
とゆえ﹁待ち﹂ の大切さ、等
が大事と専門家たちも指摘し
ている。
たとえ、初めはこの ﹁無気
力﹂が無言の反抗であったと
しても、いずれはその状態が
実は内面でエネルギーを蓄え、
人間の深みを育んでいる時か
も知れず、つくづくどんな行
動・状態にも深い意味のある
ことを教えられている。
目指すのが人間づくりであ
れば、ともすれば個人の問題
として切り捨てられたかも知
れない生徒のために、今、親
や教師、とりまくすべての大
人がどう役割を果たすか、改
めて考える時がきていると思
文部省で、保健室を訪れた
﹁いじめ﹂ ﹁心身症﹂ ﹁性に
児童・生徒に関する実態調査 関する問題﹂ ﹁情緒不安定﹂
を実施した。多くの調査項目
﹁家庭環境﹂があげられてい
のうち﹁学校で把握した心身 る。
の健康問題の状況﹂は左表の
4月、母校に赴任し、﹁一
通りである。
人一人の夢の実現を保健室か
来室理由の背景として最も ら応援する﹂と誓った私は、
多かったのは、各校種別とも 一部の生徒の﹁無表情﹂ ﹁無
に﹁身体の問題や悩み﹂ の50 気力﹂ ﹁あきらめ﹂等に出会
%。また﹁心の問題や悩み﹂
い、そのかたくなさに樗然と
と判断された割合は、全体で した。
13・4%になっている。
中には、勉強さえできれば
来室者の背景について具体 何をしても許されると考えて
的項目としては﹁摂食障害﹂
いる生徒もおり、価値観の歪
みに驚くこともある。
もちろん、こうい
数
う
生徒はほんの一部
訴 舶 2 4 朗 ≡ 鮒 2 4 5 2 7 2 2 4 5 2
であり、おおかたの
生徒は、意欲的・前
向きでたとえ何か悩
みが生じたとしても
わずかな援助で、乗
り切っていける能力
を認める。
しかし、一方で、
感受性が強く、情緒
不安定な高校時代に
やりきれない、やり
場のない心情をぶっ
つけてきている生徒
たち、そしてまた人
間関係づくりが不得
手で、自分をうまく
コントロールできず
に悩んでいる生徒た
平成8年に学校で把握した心身の健康問題の状況 学校
文部省体育局学校健康教育課調査より
‖ソ
︵三両よ。続く︶
の正当な手段であ。、敬遠は
試合の戦略としてごく自然な
ことなのである。
また、敬遠とは意図的なフォ
アボールのことだ。フォアボー
ルによってランナーが一人増
えるということである。守備
側にとって好ましい戦法であ
るはずがない。いくら長打を
防ぐためとは言え、ピンチが
大きくなることに変わ。はな
いのだ。つまり、被害を最小
限に抑えようとするがゆえの
苦肉の策なのである。そういっ
た厳しい状況の中に身を投じ、
その中で苦しみながらもなん
とか勝利を手中にしようと必
死に戦っている。それを﹁卑
怯だ﹂などという言葉で非難
するのは、全く当たらないこ
とだ。
野球を観客として観る側に
立って考え、一つ一つのプレー
をのみ見るのだったら、敬遠
はおもしろくないことだろう。
しかし、実際にプレーをする
選手たちは、真剣勝負をして
いるのだ。野球というスポー
ツに球の一球一球に、自分た
ちの青春をかけている。つら
○高橋逸郎︵英語︶ ジャイ
イワイッコ アダナという
ジャイアンツから。体格が ほどでもない。一年のとき漢
よかった。野球部の部長。
文、二年のとき東洋史を習っ
○間中和夫︵化学︶ モナ九 た。古代中国国家成立の授業
名字の間中から。顔もエラ よ。、酒池肉林の話が面白かっ
が張って角張っていた。後に た。
東芝に入社され、有機絶縁材 ○村田堅之助︵教練︶ ダン
料の研究で理博に。中央研究 ガン 張り切りやの陸軍歩兵
所在勤当時、数回訪問した。
少尉。一年のとき勇往遵進を
○岩井徳祐︵漢文、東洋史︶
教わった。日支事変に応召、
北支で戦死された。
○半沢儀三郎︵英語︶ 千手
パン 頬にニキビ?の痕があっ
たから。日支事変で弘前の部
隊に召集され、秋田駅に見送
りに行った。後に無事帰還。
○佐々木三治郎︵歴史︶ ウ
[区 針糎.食勘軒食症錘軍虐酎卿坤[慢性疾副い じ叫
第 55 号
(4)平成10年3月5日 秋 高 同 窓 会 だ よ
‖ノ
■′.drh▼.
q
ヽ∴八一lさ.一.、“∴.、“∴−1さ一.一正.一.予...、..、t 、h..、..、㍍
園
闘相川用u 〃
私
︺
7
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1
ヽ弓.
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脾
1
留
一
□同相
タ
十線
※品
ネオン街での二次会等へと会
場を後にした。
−
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田
l
■
繁
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淑抑
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田
一
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日目
R
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円
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嗣日
伊勢法律事務所
︵昭和53年卒︶
市 八 橋 本 町 一 一 一 L 一 一 八
−.hL
弁護士伊勢昌弘
繋ヰ
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言.ハ∴八 1.∵∴⋮.五五し五
話 〇一八八 二二一OL川間
古 四 王 神社
F A X ︵り 八ぺ一間㌢互一国二八〇
〒﹂一一言 しl
秋川/巾 ∼ 内 7 児 桜 八 ﹂ 一 一
﹁lE L へ︰八八︶ 間∵九一〇二二二三
︵昭和53年卒︶
禰宜亀井哲夫
国 田 召 甑 阜 身
強日甥萎瀾童笠
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川は靡監啓躍転璧
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四
意感頗Ⅲは
蝕こ十大等慶事
田
キ
噺や十厳
ヽ ∴ 八 、 . . 、 . . 、 . . 、 り . . 一 、 . . 、 H r . 、 、 ・ . 、 ・ . 、 . 、 ・ . 、 . 、 、 . 、
えすると共に、関東地区代表 と同地区の諸兄の動静と近況 等を声高らかに、大合唱し、
佐々木清水君、並びに同地区 等を具さにお知らせを戴き、
来年の再会を約し、三々五々、
の六名の同期の桜を含め総数 お互い若い世代にかえった感
60名が、霜寒を身に感じなが 覚となり、在校六年間の様々
らも、お互い高校生時代から な話題の終始したところであっ
現在までの様々な人生経験を た。
携え一同に会した。
特に今回は遥々関東地区よ
口
岩手支部総会が、日月29日 や、英語の先生としての秋高 れぞれにとても味わい深い随
総会は、小泉会長の挨拶に り参加戴いた諸兄には何十年
に盛岡市のホテル東日本で、
の回想などがご披露され、ま 筆の様に語られ、盛り上がり
始まり、会計決算等の協議事 ぶ。に知己を再認識された同
岩手県各地よ。参集した22名た各会員からの自己紹介もそ のある宴が続きました。かつ
項の審議と各報告事項の伝達 期も多く会場のテーブルすべ
の会員のもとで開催されまし
を行い、中でも同期の長門伸 てに、いやが上にも華やかさ
ての紅顔の美少年
し 叫.ネ守
た。
瀾たちも、いっとき
一君の藍綬褒章の叙勲の紹介 が、充たされたことに感謝い
開田
当日の激しい雨にもかかわ
往時のあ。し日に
で会場が一段の盛。上がりを たしたところでした。
’“﹂ L
タイムスリップし
らず、本部から井上副会長と
見
せ
た。
卒業後四十余年に及ぶ想い
讐
礫
山谷常任理事のご出席をいた
た
様
な
心
地
だ
っ
た
引き続き、懇親会に入。来 出に、花を咲かせながらの美
だき、懇親会もなごやかなう
事だと思います。
賓の諸先生からは我々の在校 酒を交わすこと約三時間は時
ちに、盛大裡に行われました。
岩手支部も今年
時代の勉学の苦労や日常の学 の経過も忘れ、只管校友間の
佐藤幹事長の軽妙酒脱な挨拶
で8年目を迎えま
昭和26年卒同期会総会が、 生生活での悲喜交交の体験談 交遊の愉しさを満喫した瞬間
の後、来賓のお二人より、女
す。現在約90名の 日月1日第一会館本館にて盛 等を戴き、ご挨拶の中で、い であった。
子一期生だった当時の想い出
会員がおりますが、 大に開催された。
やが上でも会場が、賑やかな
やがて到った懇親会の閉会
岩手、秋田両県の
来賓として、丸山健同窓会 ムードで一杯となった。
に先立ち、同期の小玉啓太郎
艶麗
新幹線や高速道の 長、それに寺田光和、深井博
懇親会の開宴は、関東地区 君のリードのもと、参加者全
媚鑑悶阿凶器8
整備と相侯って、
之、桜谷吾朗の各恩師をお迎 代表の佐々木君の乾杯の発声 員による校歌、並びに応援歌
1
寮梯
当岩手支部会員の
・一÷籠・幸・糠ヂ弘一溝競・幸・竹・喜・預幸・情・ゞ.・幸・丑摂墓賽.・“ヾ
.一幸・肪・洋・丑ゞ・ゞ.・hゞ・羊.幸・.J J・ゞ・ゞ′ゞ・ゞ.予ナ∵∴ト÷
両県での諸分野の
嵩震畠妾姜競債・欒貴㌍叢勲壇濱甜
一 一 ÷ 一 一 予
一 ÷ 一 一 ÷ 一 .
サ
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︻u
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声 i 一三準■畢確
 ̄三対妄箭二瓦_ 壷Ill題
四的闊闇脳
円弘
コ四日
沖、︼.ゝ
F碇秋〒
1細
荒謂露欄糟
門U
堵
竺園丁 器。
畠
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励駒
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・デ.・汚仏・喜・笠幸・仏・喜・仏・幸・肪・幸一仏・幸・賂・幸・竹・幸・肪・幸・鮪・喜・畑・ヾ・
Jナ・甘罵冨洋等鍍一弘一“予音.幸・竹一幸・情・幸煎幸・等耳・丑幸・情・幸・丑十.・りJ
・幸・鮪幸籠喜・畑・幸一仏.喜一笠浮竹・茸・黒罠・.・冨・.・羊.・暴.・宰 . J 一 予 一 .
魁紅軋由姻
翻唱屏闇臣u■
撃域嫁“紛
i‘′l!
照
[∪
サ
nHu
畑 h一.バ
レーや
撃望F一一 二≡≡≡〒 ̄ ̄一一 ir ̄=至≡≡
∴警姦’tを軒
や十 イも 秋は坑キム祇粒子∵羊キク与→→小
圏由閣画
慧㌣∴すす、ノ和 す観/去
蓋 M i 桑 M ▲ ヱ 雪 l 寧 l 桑 ▲ ■ ▼ H ▲ ▼ ⋮ ⋮ ▲ l 盈 ▲ l ︰ ⋮ ▲ ▼ ︰ ⋮ ▲ ■ ▼ ︰ ⋮ ▲ ■ ▼ H . ⋮
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坪か矩項雨
ぐ
...、;鞍i卿
・.÷l・..÷・肯:・一.、
∴
二
・
枚田島等学棟軋抜き融史郎総会欄
還せ雛ノ♂
田圃
泌題ふ温血率恋敵淵
間瞳篭開田i
葦‡告寺青葦・.・喜・畑・幸・佑・al.・暴一・洋・洋′・Jナ・予ナ・
rます。
︵S41卒 出口記︶ ・小人へ↑∴Jユ・デ.・幸・笠暴.・導.・予ナ.・幸・.・洋一ゞ.・。ゞ・÷∵
28年卒︶を選出し閉会した。
5年ぶりとなった仙台支部 トンが引き継がれた。また、
平成9年度の汀友会総会が の総会が、昨年日月8日、仙 副支部長に相沢幸一郎氏︵S
続く懇親会では、お酒は飲
平成9年10月27日ホテル大和
台市第一ホテルで、55名の出
み放題とあっ
度 義 げ 団 柑
■
円
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において会員81名出席のもと、
て、さすがは
席
の
も
と
に
盛
大
に
開
催
さ
れ
た
。
ロ
嘩
二
ト
評は四
ご来賓の丸山同窓会長、池田
遠路、本部から丸山会長、
名だたる秋田
鼠田患08闇
学校長のご臨席をいただき盛 田口事務局長、学校から小玉
県人、飲むほ
大に行われました。
幸一教頭先生が来仙され、会
どに酔うほど
安田庄一会員︵S23年卒︶ を盛り上げていただいた。
に座は盛り上
の名司会で始まり、校歌、汀
総会では、菅原支部長の開
がり、久しぶ
友会歌︵I︶を全員で斉唱し、 会挨拶のあと、丸山会長から
□閻旧固回田日日
りの再会とあっ
て、そこここ
参加会員を代表して幹事の加 祝辞があり、校歌の一番の最
固
賀谷豪会員︵S15年卒︶ より
に歓談の輪が
後
P
に
即
﹁
海
ベ
l
と
⋮
⋮
﹂
が
、
﹁
∵
㍉
吏
1
﹁晦吋と⋮⋮﹂と歌われてい
汀友会の近況を交えた挨拶を
広がっていっ
頂きました。引き続き丸山同 た経緯について紹介があった。
た。
、
㍗鯨縮頂㌔J
窓会長より校歌の一番の海へ
会務報告のあと役員改選を
校友会歌を
田
と馳せ行くか、晦時と馳せ行 行い、長い間支部長を勤めら
歌
う中、会長
︸亀
田
くかどちらが正しいかの解釈 れた菅原晃一氏が勇退され、
ご一行をお送
を交えたユニークなお話しを 藤原敬司氏︵S16年卒︶ にバ
。したあと、
田口
頂戴し、池田校長先生よりは
さらに続いた
宴も5時半、
学校の近況報告があり、伊藤
幸枝会員︵S8年卒︶ の発声 の音頭で万歳三唱をし、来年
全員が肩を組
で乾杯をし参加者全員盃を交 の再会を約束し総会を終了い
み校歌を高ら
わしながら港の話をし副歌、
たしました。
かに歌いなが
︵S35年卒 佐渡谷記︶
ら、再会を誓
汀友会歌︵H︶ を歌いながら
最後に菊地茂会員︵S16年卒︶
誓義盛鴎 い幕を閉じた。
田ロ 蒜 聯 ㌻
累嵩ふ渚侍鴇
一興攣畢欒撃畢蝉粥
轡幣撃墜撃墜攣麟品
キノ
第 55 号
(6)平成10年3月5日 秋 高 同 窓 会 だ よ り 第 55・弓
、ブ
祝
∴∴∴\.∴J
を
年
周
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︰表濯欄、
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卒
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峯擬す粧す
固
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−
等雷父苓9文革9やee9父苓9父苓9父苓9父苓9父苓9
去る1月3日、昭和63年卒 ロジェクターにより上映され
同期生が恩師9名と棚名の出 た在校当時のイベントを、○
席者を迎え、卒業10年目にし ×で判定する心憎い演出も盛
て初めての同期会を開催しま り込まれました。校歌・コモ
した。
ンスペースのステンドクラス・
全員での写真撮影に引き続 モニュメントタワーなど、懐
き、物故者への黙穏後、元J かしい画像に歓談も最高潮に
組担任の斎藤秀男現秋田高校 達しました。
教頭より母校近況報告をいた
金子由香利︵旧姓三平︶ 君
だくと、参加者一同10年の歳 のリードにより、10年ぶりに
月の長さを再確認しました。
校歌を斉唱し、次回の再会を
参加恩師からのこ挨拶に至っ 約束して第一回の同期会は盛
ては、懐かしいお顔とお言葉 況のうちに終了しました。
に参加者から拍手と笑顔があ
半年をかけて準備にあたっ
ふれ、相場修二元学年副主任 た幹事団は、三百通を越える
の乾杯のご発声により、和や 電子メールにより情報を交換
かに歓談が開始されました。
しており、新しい形態の同期
元放送部村上・高橋両君の 会交流方法を提示した会でも
軽快な司会に歓談も進み、当 ありました。
日都合により参加できなかっ
S63卒同期会ホームページ
た田口能祐元学年主任のビデ http︰\\syuukOu雲.akita−
オレターが上映されると、会 iTi.p﹁ef.akita.jp\
場から満場の笑いが巻き起こ
︵長野弘志 記︶
りました。昔話が大いに盛り
上がったところで、﹁秋高生
クイズパートH﹂と称し、プ
父苓9父苓9ま杏90○○9父尋9父杏9父尋9父尋9笠寺9父苓9父苓9父苓9繁る9父苓サ父苓9父苓9繁る9笠e9父尋9父尋9父尋9繁る9父るウ笠るり笠るウ笠るサ父尊9笠尋ウ笠寺サ笠各9
田日日
国
田
日時、平成9年日月3日
︵土︶午後5時、会場アキタ
ニューグランドホテルにて開
催。司会進行、佐藤啓喜、渡
部公男両君。
物故されし恩師、同期生を
偲び黙頑を捧げた後、幹事代
表石田俊介君の挨拶。来賓祝
辞は丸山健同窓会長。︵池田
好道学校長は公務出張の為欠
席。然れ共陰に声有、﹁池田
校長は俺方が3年の時の1年
生で、幹部方が余り気合をか
げだもだがら出たぐなぐなっ
て逃げだなでねが⋮⋮﹂︶
恩師スピーチ。山谷浩二、
父尋9父苓9父苓9父苓9○○eサ苫杏9①ee9父尋サま尋9
青山成美、小松元也、山下三
善男、桜谷吾朗、館岡昇一、
各先生。
飲みに飲みかつ語り、かつ
歌う事三時間半、各々に二次
会、三次会へ繰。出した。
参会者、静岡県からの渡辺
崇君をはじめ県外からの六君
を含む総勢80余名也。
︵佐藤照 記︶
昭和31年卒業同期会
同窓会長・恩師を迎え
触癌
絹
た 日
口
田因・間柄⋮捌り
夷藍 図
閥⋮馴“u
日田
回
嘲易椚‖関
同
日
u
□囚田開日日り
田
日臥間脳函
戯
国綱田
[⋮⋮u
田
軋
﹄
栄底告﹄を
i
欄
i軋甘lu肝≠甘un晴嵐ulu欄uuu朋
童共の顔付きが蘇り歓談は尽
きず殆ど全員で二次会へとネ
﹁わが生わが世の オン輝く街に繰り出しカラオ
天職いかに﹂と謳歌 ケの大合唱、この間まさに6
せし往時の紅顔の美 時間に及ぶ会合も、後日の再
少年諸子が十数年振 会を約しようやく散会した。
りに横浜の中華街に
︵射手矢 記︶
集い、会場に同窓会
旗を掲揚し校歌を斉
唱盛会を極めること
ができた。
募集します
当日は、秋田から
菅原繁雄先生、仙台
同窓会名簿第37号を平成
から氏家良隆先生を
年8月に発行の予定です
、協賛いただける会員の
お迎えし、また同期
よび個人店より広く
の仲間も地元秋田を
募集いたします。
はじめ岡山・大阪・
前回同様、
京都からの参加者を
8万円
交え、はじめのうち
4 万 円一で
す。
こそ、それぞれ自信
2万円
に満ちあふれた面構
しくご協力の程、
えと名前が一致せず、
たします。
﹁お前誰れ?﹂ とい
県立秋田高等学校
う雰囲気であったが、
同窓会事務局
間もなく数々の武勇
秋田市手形
伝が披露されるに及
字中台1番地
び、またたく間に悪
代表取締役
佐藤誠保険サービス
〒〇一丁完〇一
秋 田 市 寺 内 字 大 畑 六 八
電話〇一八八︵四五︶〇三三ヒ
︵昭和54年卒︶
鳶宜面 山 浩 康
秋田県護囲神社
−、三〇〇年の歴史の丘
秋田城跡鎮座
佐藤 誠
(昭和53年季)
庁010−0511)TEL(0185−23−3434㈹
秋田支店秋田県秋田市寺内字イサノ35
汗01「0粥llTEL(01軌65−2311(㈹
〒01ト0946
秋田市土崎港中央6丁目13−25
T E L O188−4 5−14 8 2
(昭和54年季)
本 社秋田県男鹿市掛目港馴字海相り2−6−2
本 社
監禁窒よ定=±_:__________________________二=
〒010−0001
秋田市中適2丁目 5−21
T E L32−9229
(昭和53年季旧姓宇佐美)
荒木康之
疇0188(63)5050・囲(63)5333
〒010−0973
秋田市八橋本町3−18−33
︹廟㈲目刺国慣瞥凹
『
沢木則明
(昭和53年季)
代表取締役専務
n一巾
旛海嘩豪彿這芸讐畢畢盛
田
内科鈴木信 愛
皮膚科鈴木あけみ
(昭和54年卒)
日 □
g器
秋田市山王6丁目2−10大丸ビルlF
TE L62−8681
東京海上代理店
佐々木克巳
E:ニーこ−−.T、 .▼・. ̄1
.■■−−
◎舶会社沢木組
専務取締役
回
居酒屋ひのくるま
二 ̄二二二一丁
罪匪醍===
碑
〒010−0951
港町内科皮膚科
秋期蹴むつ訝ワールド
田
チ 呂□
総合建設業
胃腸科・循環器科・皮膚科
一.
むつ勘hて鱒
輸i
田端きん・島倉さんを迎えいよいよ開幕
一.転
回同田
□園
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口
因間脳曲
回
田嗣Ⅶ胤脳幽
葦ぶ 蜜叶吋
回
四国
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鵠跳図
田
※頗凶酬一
や閑凶固間脳
ノ
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削
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キ′・ご
所 田いろ貢貢貢 をお
字
﹁昭和の歌謡 年祭﹂ が、12月5日県民会館
史に大きな足跡 で開催された。前年祭には
を残した東海林
﹁昔、東海林さんにお世話に 林良さん、石川錬治郎秋田市
太郎さん︵秋田 なった﹂ という歌手の田端義 長をまじえて、生前の思い出
市出身、明治31 夫さんと島倉千代子さんが出 を語った。
−昭和47︶ の功 席。トークショー﹁東海林太
また、第2部の歌謡ショー
績をたたえて、
郎と昭和音楽史を語るタへ﹂
では、持ち歌とともに島倉さ
後世に語り継ご で、稲川町出身の作詞家東海 んが ﹁むらさき小唄﹂ ﹁名月
う﹂ と秋田市内
赤城山﹂ ﹁すみだ川﹂、田端
の経営者らが、
さんが﹁旅笠道中﹂、デュエッ
﹁東海林太郎生
トで ﹁野崎小唄﹂ と、東海林
誕百年祭実行委
さんのヒット曲の数々を熱唱。
員会﹂ を結成。
会場を埋め尽くしたファンの
生誕百年にあた
中には、一緒に口ずさむ人の
る今年、年間を
姿も⋮⋮。最後に田端さんが、
通してさまざま
百年祭のために作った ﹁百年
な記念イベント
の見﹂ を初披露して前年祭を
を行う。
締めくくった。
そのオープニ
なお東海林太郎さんは本校
ングを飾る﹁前
大正5年卒業。
陛
昭和63年率 初
ん
く鱒崇
ヽ :・ン・;・ンヽ
能代■山本支部開かる
H
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一
田
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′一ヽ − ′一
ヽ■′ ヽ︳′
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一一 一︳ヽ ′︳ヽ ′︳ヽ ′一ヽ ′一ヽ
ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ.′ ヽ︳
聴く人の心をつか
卓 ノ 等 ㌧ イ ノ ′ 骨
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秋田市役所羽城会開催
︳ 田 日
1 . . リ
㌘ 追 記 訝 隊 婆 を
ノ
.
1
平成10年1月31日︵圭、
午後2時より﹁茨城秋高
会﹂が水戸市駅前三の丸
ホテルで開催された。
講師に日本気象協会の
高田斉さん︵昭38年卒︶
をお迎えし、﹁おもしろ
天気予報と最近の異常気
象﹂ の題で、講演会を開
いた。氏は昭和62年より
NHKテレビで気象担当
をされており、母校秋田
高校その他で、引っ張り
だこの講演会だ。
高田斉さんを迎え
茨城秋高会開く
平成9年日月8日、追分支
総会に先立っておこなわれ
部﹁追分三叉路会﹂平成9年 た﹁おいわけ講演会﹂は、今
度総会が秋田市追分駅前で開 回、地元県立博物館長新野直
催された。
吉先生の﹁南秋史の分岐点﹂
㍍※㌫∵高麗
と題した秋田の歴
犠 祭 器 等 簑※ 籠生
霊 調
教給
史講演会となった。
勝広脾
熟開田 −
田凶馳
病状史
これには同窓会員
梯げ十本.終
だけでなく、地域
図り
のだれにでも参加
固6
してもらえるよう
固闇Ⅷ皿■
呼び掛けをしてい
国u
たので、総会出席
国朋
者に倍する人が集
掛秘骨ナ
まった。
講演では縄文時
ぎ
﹂
﹁
代から現代にいた
る秋田の歴史を眺 んで離さなかったようだ。
回田田園
講演終了直後に到着した石
めながら、秋田の
囚問は
人々が選択し分岐 川錬治郎秋田市長が、講演会
解
常
点となった出来事 に間に合わず残念であったよ
凍
田⋮胞
う
だ
。
を
と
り
あ
げ
ら
れ
た
。
固
現代の秋田県人の
総会後の懇親会が新野先生
番
固同朋u
﹁人のよさ﹂ が古 を囲み、大いに盛り上がった
代の歴史からもはっ のは言うまでもない。
きりとうかがえる、
︵追分支部長・小野又雄
といったくだりは、 昭18卒︶
■
■■︳
璧脊梁悪
妻 も
′一 ′一 ′.
ヽ°′ ヽ︳′ ヽ.′
t
卦濡崩蜜義元雇華蕪熱豊芸憲
祭祭豊葦豪諒雇華蕪発禁慧宣
t4
′一 ︳ ′一 ′一 ′一 ′● ′●
ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ●′ ヽ●′ ヽ●′ ヽ︳′ ヽ●′
k的
即軋
小棚木昭夫・塚本三郎・加藤
寛・庄司稔・山中良二郎・星
.こ:・
・  ̄T
飽田
ハ /\
\ヽ州
轡
国菓駈菓盛
ヰ閲
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日 時 平 成 9 年 日 月 2 7 日 野徳美・山谷浩二
、
、、す/
′一ヽ ′●
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ヽ︳′ ヽ︳′
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一
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■●ヽ ′一 ′︳ ′一ヽ﹁■■h●ヽ﹁■■し一ヽ ′一ヽ ′一ヽ ′一ヽ ′.
ヽ−′ ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ●′ ヽ−′ ヽ●′ ヽ︳′ ヽ︳′ ヽ︳′
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贈詰嶺蟻壷葺寓
ヰ′
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JT・.‥ゴ
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㍉ノ 詔、 升 、ふ て!\せ′㌧よ
ヽ
団ロ
1・b・−ニや.
令
.・. ・ ヽ
密いわけ文化雄満会 日田由幽
:・、
会 場 秋田キャッスルホテル
東京二〇四の会
日時 平成9年12月13日
会場 南青山会館
主席者
会ったのが〇〇才とのこと、
先輩にあやかれば34才の女性 相場忠敬・池田軒・越後谷
を奥さんに持てなくもない⋮ 祐三・柏崎博・加藤豊美・金
⋮﹂と胸を燃やした人もいた 谷茂・小松義久・金平八郎・
ようだ。
渋谷裕・島津清修・富樫知﹁
案内を出した殆どから返信 野沢謙・平沢理紀夫・藤田昭
があり、通信費等協力依頼に 典・宮越孝一郎・山谷浩二
も百余名が協力してくれた。
︵山谷浩二 記︶
当日の出席者次の通り。
前列左から久保和郎・三浦
’● ′’ヽ.−−ン一 ′● ′一
ヽ●■ ヽ●′ ヽ●■ ヽ■■ ヽ●′
沖
基予霊吾態吾㌦書㌦怒工薫
準滞薄裡漆塩
や
÷∴.∴︰
\.ン.
::−・−\.
﹁二十・三
十は鼻たれ小
僧、四十・五
十が青年で、
六十・七十花
盛り﹂と会員
一同益々元気
に生きようと
語り合った。
記念講演とし
′● ′● ● ’●Lllレ一 ′●
ヽ’′ ヽ●′ ■■ ●■ ●′ ヽ●′
本
七
∴ .・..十.・、 .い
、 γ 等宜T∴‡五
八・.・. .・.・∵ .1 ∴・.ノ \∴、
(昭和54年卒)
田
・
.
.
∴
〒010−0014
秋田市南通宮田ト3(明田地下道横)
℡ 0188(36)1184
鋸囚
:こ十.’
秋田市役所羽城会が平成10 田市下水道部長︶と金子守新 互助会会長︶ の発声による乾
年1月14日︵水︶午後5時45
副会長︵秋田市議会事務局︶
杯で懇親がスタート。
熱気あふれる懇親が続く中、
が選任され、新役員の就任の
斎藤弘太郎新会長︵秋田市下
あいさつで総会は終了した。
引き続き懇親会に移り、桜 水道部長︶が中締めの乾杯の
田博道会長︵秋田市交通局交 音頭をとり、その後、新入会
員を中心に出席者全員で校歌
を斉唱し、盛会裡に終了した。
〒010−1621
秋田市新屋栗田町2 6− 2
TEL(0188)28−3121
FAX(0188)28−3383
渡辺 覚
(昭和54年季)
・:日
ヰ
院長南浦公夫
日
ウダ キン
こ読二三、
通事業管理者︶、顧問の石川
市長、池田校長先生、松岡同
窓会参与からあいさつをいた
だき、来賓の方々の紹介の後、
佐藤栄治副会長︵秋田市職員
攻◎一企・
 ̄..:t.:.:.こ・:二::
新野直吉先生の歴史講演会開く
分から、秋田キャッスルホテ
ルにおいて開催された。当会
の会員は∽0−名、これに市長
ら三役を顧問、市会議員ら特
別職を特別会員としているが、
当日は同窓会から池田校長先
生、松岡同窓会参与のご臨席
をいただき、全体でN合名を
越える出席者であった。
総会は今年度採用された初々
しい新入会員の紹介から始ま
り、続いて平成9年度収支決
算の会計報告を満場の拍手に
より承認いただいた。最後に
新役員の選任を行い、指名に
より、斎藤弘太郎新会長︵秋
文鼻・事務機・OA機器・紙・教材
tヾ・ ・r
扮∵午…・サし卓
や 争
平日 900∼100 300∼700
土疇 900∼200
日報・祭日 休診
単
rtJr’ ̄1山
二・‥∴、・
く診療時間〉
督
ヤア
囚
・・.‥.・・・−・て!−
i菜
留南浦歯科クリニック
転二証意
臨悶閻閥“
ナ
、・こ1
る会
集員
て、平成10年 治・金平八郎・那珂宏・平沢
I今後の取組について
の東海林太郎 理紀夫・武田実・三浦昭雄・
﹁秋田高校の歴史に見る人
生誕百年祭に 第2列右から加賀谷辰雄・新 像j拍額については、すでに
因み、さきが 林利夫・加藤昭典・金子淳一・
24名の決定を見、﹁羽城館﹂
け文学賞作家、 工藤慶職・愛川重春・進藤昭 に掲額した。
その後をどうするか。まず
宮越郷平君に 次・工藤敏夫・根本栄治・松
3月中に﹁羽城館整備委員会﹂
﹁東海林太郎 橋昭吉・高松芳晴・宮越道晃・
について﹂ を 第3列左から菊地昭夫・河田 を開いて、今後の在り方を検
お願いした。
誠二・三浦義幸・小柳寛・三 討する。
すなわち5、6名の﹁選考
﹁古希と言え 浦勉・金田佐友・畠山樹郎・
委員﹂を推薦して、第二次掲
ば70才、太郎 田村義春・野手準二・渡辺一
額選考にはいる。写真収集等
氏は36才下の 大・土田和夫・後列右から伊
の問醇で、長びくこともあり
奥さんと巡り 藤隆・安杖正昭・石橋幸夫・
えるが、その候補者について、
会員のみなさまから、広くご
Ⅶ葛 今年度の﹁能代・
葦
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推薦いただきたい㌣事務局ま
山本支部﹂ の総会 でお寄せください。
甲葺結 l ニ l 享
四
目
兼懇親会は、年の
母
瀬も押し詰まった の持論を延々いただき、幹事
12月18日︵木︶午
長の私︵田中︶と同級の池田
後6時かちいつも 校長さんからは今年度の運動
固問田
の ﹁宮茂登﹂ で開 部の、﹁硬式野球、卓球、剣
国鵜
催した。
道﹂ の全県優勝をはじめ、
本部より丸山健
﹁ラグビー、テニス、山岳、
尋−ト
会長さんと池田好 バレー﹂ の準優勝など好成績
国闘闘は
道校長さんをお迎 をお話いただき、会員の方々
闊闇田
えし、計22名。例 は沸きに沸いた。
によって支部長織
その後これまた例の﹁キリ
図闘馴動因
田郷一さんのあい タンポ鍋﹂をつっつきながら
さつ、乾杯は最長
﹁福引き﹂ を行った。
・胴淵仙
会長さんもすっかり気をゆ
老の昭和3年卒の
斎藤一雄さんの音 るし、電車の時間までお付き
頭ではじまった。
合いくださった。後で漏れ伺っ
私論 回は
支
部
長
と
同
期
の
会
た話では車中﹁に﹂と﹁へ﹂
について会長さんは校長さん
長さんからは、
﹁校歌﹂ の一番 にこれまた長々とお話なさっ
。閤用り
た
そ
う
。
﹁
海
に
﹂
﹁
海
へ
﹂
遠について、﹁へ﹂
︵昭33年卒 田中 記︶
I
EよJ乙三三 ■ま ・・ ll ′● l  ̄「ざこ  ̄
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勉強泌先払最長
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蛮酌層輝
‖ソ
2月12日から四日間、福島 スキルづくり・体づくり等を
県いわき市で第7回東北高等 通してテンポあるラグビーを
学校ラグビーフットボール新 目指してきた。曜日によって
人大会が行われ、本校も二部 練習メニューを変え、朝練も
に出場した。ともに花園出場 こなし、中途半端な小細工な
校の勿来工業・盛岡工業を破 どをせずに本質的な練習をし
り、l二本木農業との決勝に駒 てきたつもり。決勝戦が中止
を進めたところ、突然の積雪 になったのは残念だが、練習
で試合ができず、両校優勝と の成果が実っ
︰輸
なった。以下は近藤監督の談 て、花園出場
話である。
校を破。優勝
したことは大
秋田はこの時期積雪のため いに意義があ
に実践練習ができず、太平洋 る。
側の学校に有利。また、予選
試合内容に
からのケガ人や、さらに試合 ついては不満
直前のインフルエンザ流行な な面もあった
ど、本校にとっては最悪のコ が、対盛岡工
ンディションだった。
業戦ではFW
﹁秋田工業に勝つ﹂という フ ロ ン ト ロ ー
目標を掲げ、ビデオ研究など
︵石細岡・布
によるイメージづく。・基本 谷達・布谷和︶
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巷では長野オリンピックの
余韻が残っているが、各部と
も、三年生を中心として来年
度全県総体へ向けてすでに始
動している。各部監督の言葉
を招介したい。
のふんばりが功を奏した。い
︵野村・小田桐・高橋・大場︶
1 月 3 日 昭和63年次同期会
ずれにしても、この春ご退職
8分44秒67
哀 悼 ︵敬称略︶
14日
第三回広報委員会
14日
の渡部公男部長のもとに集まっ
▼主力の三年生、野村直史・
市役所羽城会
謹んで哀悼の
た二年生18人がともにがんばっ
高橋俊太郎の両名がスイミン
2 月 2 日 平成9年度入会式
意を表します。
14日
た結果であろう。
グクラブを退会しており、オ
昭和32年次同期会
9月 小泉 哲郎 S18
21日
このメンバーで次回は秋田 ︵全県総体︶7/4∼5大館市 高橋の両名が地力を発揮し、
フの期間の中断があった。水
西仙北支部総会
10月 佐藤敬太郎 T15
工業を破り、ぜひ花園への切
︵第一日︶ 四百Mリレーで、
それぞれ三年連続の個人優勝 温む春を迎えての学校プール
3 月 5 日 同窓会だよ。55号
貝田 栄一S16
発行
符を勝ち取りたい。やわらか ライバル大館工業・秋田西を を果たした。大会をしめくく での猛練習。その結果が男子
日月 佐々木正夫 S4
いプレイをし、力には技で対 制し堂々の優勝。大会記録を る八百Mリレーでは二位に六 総合三連覇となった。三年生
5日
卒業式
堀田井孝二
10日
抗し、テンポあるラグビーを 0秒58更新し、連覇に向けて 秒差をつけ優勝。粒揃いの泳 の意気に感じて、二年生の小
平成9年度年次名
藤原 英二
していきたい。
最高のスタートを切った。
田桐・坂野・太田らも奮起。
簿委員会議
谷口 昭
一 回 戦 5 6 − 0勿来工業
▽四百Mリレー優勝
闘い終えて喜びの後の涙、彼
吉田健太郎
準 決 勝 3 6 − 2盛
9岡工業
︵坂野拓・高橋俊太郎・小田
らの心の成長を目の当たりに
12月
三森 福治
事務局だより
決勝︵両校優勝︶ 三本木農業 桐健・大場怜司︶ 3分53秒52
し、こちらもまた胸が熱くなっ
村山 卓治
た。
▽二百M平泳ぎ二位
日
山村 豊興
■
一、平成10年は﹁同窓会名簿﹂
野村直史
︵東北大会︶7/25∼27福島市
五十嵐 博
︵第二日︶得意のメドレーリ
大場が百M背泳ぎで優勝。
改訂の重要な年−会員のみな
岩谷高四郎
レーで三連覇を達成。大場は
大場に続けとばかり秋田県勢
さまも編集者も事務局にとっ
井上 正
1月
二百M背泳ぎで、昨年優勝の
が二位、三位とゴール。猛暑
ても、目のはなせない年。
榎田 侃男
座を譲った秋田南の斎藤選手
の表彰台にさわやかな笑顔を
﹁会員名簿データ確認カード﹂
朝倉俊夫
2月
に競り勝ち、雪辱を果たした。
に活き一票を乗せて、事務局
並べた。それを受けて二年生
激しい雨を満面に受けての力
坂野が奮起、百Mバタフライ
へ。名簿の完備を大目標にお
泳であった。
でランキング20位から決勝レー
会務事項報告
願いします。
二、前号発送と同時に会費の
▽四百Mメドレーリレー優勝
スへの進出を果たした。大場
開田
︵
大
野
・
野
村
・
坂
野
・
高
橋
︶
者を並べる新鋭秋田西を振り は一年次の米子、二年次の甲 1 2 月 1 8 日 第 二 回 当 番 年 次 会﹁再請求﹂をお願いしました
〇一
4
分
2
3
秒
7
2
切
り
、
堂
々
の
総
合
優
勝
、
念
願
議
ところ、文章が気に入らない
府
に
続
き
、
宇
治
市
開
催
の
イ
ン
∴﹁l空1
1.
と二 二の方に叱られました
︵第三日︶背泳ぎ・個人メド の三連覇を達成した。
ターハイに駒を進め活躍した。
25日 同窓会だより54号
レーの各スペシャリスト大場・ ▽八百Mリレー優勝
︵水泳部顧問・鈴木修一︶
発行
が、多数の方がご容認くださ
〃十貿
蒙菱董孝者菱董老孝老友之髪左茅蔓菱馨亥蒙菱逐亥薯菱董夏亥蒙老妻玄芽蒙菱玄左亥を要玄多蒙董玄孝髪孝蒙董委玄蒙亥蒙を菱董髪蛮蒙整董董整髪葱髭盛菱董葱輩霧茅整髪葱穿茅菱麓
要 簑 整 菱 馨 差 髪 蛮 馨 蘇 葱 茅 芽 亥 芳 書 孝 蒙 妾 蒙 老 夏 を 夏 麦 ‡ れ、激励のおハガキやらお電
れる場合もあります。この会
﹁秋高NOW!﹂は生まれ 話を頂戴いたし、お忘れの方々
報を経由することで総務から て間もない発行物です。まだ からは会費もたくさん納入い
一方的に情報を流すだけでは よちよち歩きの状態で、今で ただきました。厚くお礼申し
なく、生徒からの意見を取り も紆余曲折が絶えません。し 上げます。今後ともよろしく
入れて生徒会の活動に反映で かも、編集には多大な労力を お願い申し上げます。
きる点が過去のA轟にはなかっ 必要とします。しかし、秋高
た特長であると思います。
生徒会がより活発なものへと
﹁秋高NOW!﹂は﹃意見 なっていくための力となれる
固 8 8 日 8 8 回
交換の活性化﹄という目標を よう、これからも総務一同が
達成するために週一回の発行 んばっていきます。
本日﹁同窓会だより﹂第55
を目標としています。現在で
︵生徒会長 佐々木亨︶
号を、みなさまのお手元にお
は休校日をのぞくと約8日に
届けします。
●
一回の割合で発行されていま
▼一層読みやすく、親しみの
す。生徒からは百件以上にも
持てる﹁だより﹂にしようと
上る意見が寄せられており、
努めていますが、今回はいか
がだったでしょうか。お気づ
学校生活についての小さな改
善案から、生徒会に対する痛
きの点がありましたら、御一
烈な批判まで多種多様にわたっ
報くださるよう、お願い申し
あげます。
ています。中には総務がどの
ような形で回答をしたらよい
▼﹁慶祝﹂ ﹁哀悼﹂など、漏
のか困ってしまう意見もあり
れてしまった方もいらっしゃ
ます。しかし意見一つ一つを
ると存じます。ぜひお知らせ
ください。
真剣に受けとめ、深い議論を
交わすことを忘れてはならな
▼それでは来年度も、よろし
いでしょう。
くお願いいたします。
生徒会盾勤が目に見えていっ なところから、議論を交わし
ている。
そう活発になってきている。
新しい会報が発刊され、毎週
のように校内で掲示され、多
現在、生徒会総務では﹁秋
くの生徒の反響を呼んでいる。 高NOW!﹂という会報を発
全校生徒がこの会報を通して 行しています。これは生徒間
運動会・学級対抗・秋高祭の での意見交換を活発にすると
三大行事の意義など、根本的 いう目的のために創設した、
新しいスタイルの会報です。
﹁秋高NOW!﹂は各教室に
掲示されており、同時に意見
用紙も設置されています。生
徒はその意見用紙によって自
由に意見を述べることができ
ます。この意見や、それにつ
いての総務の回答、また、ほ
かの生徒の意見で紙面は構成
され、場合によっては先生方
や事務の方々の返答が載せら
− ■jl一 一4ヽ.u −・.1 ▼. 1. ヽ▼1 − ,・・・ 一°..
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㌫㌍榊碧も昔昔㍑語完㍍冊紺臨腑
ず
ill岩等三J■▼匪
十
キ 1
小 で
十ナナキ
各部の成績一月以降
▼スキー
中央地区総体 回転
優勝 佐藤 祐希
▼卓 球
県総合卓球選手権
男子シングルス
一位 渡遠 望東
三位 工藤 文哲
▼吹奏楽
県アンサンブルコンテス
ト 銀賞
中央地区ソロコンテスト
フルート金賞佐々木郷子
▼合 唱
ボーカルアンサンブルコ
ンサート 銀賞・銅賞
▼将 棋
全国新人大会
ベスト16 倉川 尚
▼美 術
秋田南秋高校美術連盟展
デザイン連盟賞
藤井佳奈子
絵画連盟賞 佐沢 公子
発行二枚田苺校生徒会総繚
lJl l jr
八サッカー︶
今年度は準優勝。来年度は
優勝を目指したい。
︵卓 球︶
東北大会ベスト4、そして
インターハイで絶対勝つ。
︵弓 道︶
大会で前半の好調を後半も
維持できるよう、粘り強く頑
張らせたい。
︵山 岳︶
インターハイ目指したい。
︵陸上競技︶
リレー、インターハイ必ず
出場させる。
︵バスケット︶
常に勝利を信じ、チーム一
丸となって練習に励む。
︵バドミントン︶
三年間の集大成、勝つ喜び
をこの手で〃︰
°HhハtLJU−1−1d°..11ヽh4htl一日●t、・▼ヽ  ̄・・1.1.t.tlq−t
︵硬式野球︶
昨秋の大会での好調を維持
し、肪周年、記念すべき年に
ヽ一〇
夏の甲子園に出場したい。
︵軟式野球︶
8年ぶ。の全国大会を目指
してがんば。ます。
︵硬式テニス︶
非常に期待できる。男女と
も全県トップを目指したい。
︵ソフトテニス︶
団体戦で男女ともいっそう
力を発揮する。がんばらせた
−V
くコンビ1−ター ●○紬にそこに■Vや>
くr抑′いは●●●Jは■●レるい>
°h hヽ −▼′44 ̄.・Jl′、.t°・t∼hり41° 1ヽ●l・・−.ヽ −lJ
酌ぎー定常好捕甥㌫甑恥打㍍㍑
秋高
く■車事
..LlnLtt■●・、tln‘ヽへ′ヽ−hh●・tt▼t肌.tJ一一 htH・.■■L・t.イ
1.一111°.tT、’t−tt.t▼th■lLt ′tt■れ■ハItr.l
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1.41■JIl一・°.q Lh・ヽ11.、 t−− °tl一一1._・1−rl′ 一
4ヽ′▼ヽttヽ r▼.ヽ− ttヽ、14 4▼°ttlt ′●●・′.J t・l t・ ・
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tナ.t・‘1°rt°.−tュ ーq. 11.▼l▼ ヽ●、Ut. 一一 . t
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°l恥◆■鞍l脚サメつ tも恥蝶l嘲虞恥、も
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ヽ、°l− ttt檜 A_tt●−.ト■.tこrl、tトヽtjm °■・・
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田口日u■■
く■■事
梯帝
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岳岳 品 雌 ㌔
一超 こ
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ナ斗
第 55 号
(8)平成10年3月5日 秋 高 同 窓 会 だ よ
宅.四娼躍封。盗岡垂業戦
ヰ
lHH .・ttt .ttlL−●lヽi.●,1−1・Jhlhl.A‘′1141
筈㌢㍊討㌍㌫霊㌍…別嘲りなれ叫か仰nく叫,
. ′ .JIt’h・.’1ヽ ̄l TFトIHい′t‘ヽ 1.1けt ・−.t