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Philharmony November 2013
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今月のマエストロ
ネルロ・サンティ
イタリア・オペラの「伝統」を熟知し、
音楽を自然に伝える巨匠 文
小畑恒夫
今
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マ
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ネ
ル
ロ
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サ
ン
テ
ィ
初めてネルロ・サンティを見た人
歌手たちの生理や才能を知り尽くし
は、誰もがその巨体と個性的な風貌
たロッシーニやヴェルディがそうし
に驚くだろう。この視覚的な驚きは、
た作品を残しているわけで、再現さ
しかし次には彼が紡ぎ出す音楽の自
れるべき理想のかたちを想像できる
然さ、流麗さ、まっとうさへの感動
という意味では、やはりイタリア人
にかわる。指揮台に立つその安定し
指揮者に利がある。
た不動の姿がオーケストラ奏者たち
1931 年生まれのサンティは、世
の心を一瞬にしてひきつけるように、
代的にはクライバー(1930 年生)
彼が紡ぎ出す音楽の「そうあるべく
やアバド(1933 年生)とほぼ同じ。
そこにある」という安心感が、たち
アバドがウィーンで指揮修業をし、
まち聴き手の心をつかんでしまうの
シンフォニーの指揮者として活躍を
だ。
始めたことに象徴されるように、イ
イタリア人指揮者にとってのオペラ
タリア人にとってもオペラは音楽の
一ジャンルになりつつあった。アバ
サンティのように自然な演奏を聴
ドはもちろんオペラ指揮者として
かせる指揮者は本当に少なくなって
数々の名演奏を残したが、ヴェル
しまった。
「伝統」という名のもと
ディやムソルグスキーなど自分の好
にオペラに残されてきた不純物を除
きな作曲家の好きなオペラしか振ら
去するのはよいのだが、イタリア音
なかった。ちょうどその上の世代の
楽を作ってきた風土は「伝統」のな
ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ
かにあるはずだ。とりわけオペラは
(1909 年生)やカルロ・マリア・ジュ
「歌の伝統」と深く結びついている
リーニ(1914 年生)たちが受けつ
ので、人間の呼吸をベースにした歌
いできたイタリア・オペラの伝統は
唱技巧がなんであるかを、指揮者は
(といってもドイツ語圏に育ったジ
熟知している必要がある。かつて多
ュリーニは早いうちにオペラ演奏か
くの指揮者は劇場という現場で育っ
ら身を引いてしまったが)
、大きく
た。彼らは劇場のピアニストや副指
変化し始めていた。
揮者としてキャリアを始め、偉大な
指揮者たちの仕事ぶりを学び、また
名歌手たちの歌唱の極意を学んでい
イタリア歌唱芸術を
次世代に伝える
ったのだ。
サ ン テ ィ は 1951 年、 弱 冠 20 歳
今日でもそうだが、イタリア・オ
にしてパドヴァの歌劇場で《リゴレ
ペラには歌手たちの名唱で人々を楽
ット》を振ってオペラ指揮者デビュ
しませるというエンタテインメント
ーを果たした。その後はチューリヒ
的な要素が多分にある。行き過ぎれ
の歌劇場で 1958 年からたびたび出
ば作品の姿が歪められるけれども、
演するほか、1960 年代からウィーン、
都市の劇場から招かれた。このこ
とは彼にイタリア・オペラの伝統を
伝える才能があったことを意味する
だろう。興味深いのは、サンティが
そうした機会にフランコ・コレルリ、
エットレ・バスティアニーニ、レオ
ンタイン・プライス、ジョーン・サザ
ーランド、ティート・ゴッビ、マリ
オ・デル・モナコといった往年の名歌
手たちと頻繁に共演したことだ。
1970 ∼ 80 年代になると歌手の世
代が変わり、ピエロ・カップッチル
リ、マリア・キアーラ、フィオレン
ツァ・コッソット、プラシド・ドミ
ンゴ、カーティア・リッチャレルリ
といった一流歌手たちと仕事をして
いる。その傾向は巨匠になった今で
ももちろん続いていて、近年はマリ
ア・グレギーナ、マリエルラ・デヴィ
ーア、ディアナ・ダムラウ、フィオ
レンツァ・チェドリンスなどの世代
と一緒に公演を成功させ、絶賛され
ているのだ。
要するにサンティは、大歌手たち
と共演することでイタリアの歌唱芸
術の精髄を吸収し、やがてそれを
若い次世代の歌手たちに伝える重
鎮になっている。昨年新国立劇場
の《オテロ》に出演したワルテル・
フラッカーロの証言は、マエストロ
のそうした役割を裏付けるものだろ
う。
「念願叶ってネルロ・サンティ指
揮《オテロ》に出演できた時は、50
年ものキャリアを誇るサンティから、
デル・モナコのブレスや、それまで
彼が共演した名だたるオテロ歌いた
ちのテクニックやポイントを教えて
もらいました。金庫に入れて家宝に
するくらい大切な財産です」
大好きなヴェルディは
「完璧な作曲家」
イタリアの伝統はサンティの頭脳
とあの巨体の中に蓄積されている。
NHK交響楽団とのベートーヴェン
やチャイコフスキーなどの演奏も
見事なものだが、2 つの演奏会形式
によるオペラ《ボエーム》(2007)
と《アイーダ》(2010)の名演奏は
後々の語り草になっている。サンテ
ィは決して奇をてらったり、新解釈
で人を驚かせたりはしない。彼はオ
ーケストラに入った時期もあり、管
楽器やヴァイオリンの演奏で玄人は
だしのテクニックを披露するそうだ
が、彼の演奏の根底にあるのは自然
に流れる歌、息づいて感情を伝える
メロディなのだ。イタリア・オペラ
の神髄である歌、すべての音楽の根
源である歌を、サンティは偉大な作
品から、そして名歌手たちとの共演
から学んだ。
サンティは大好きなヴェルディに
ついて語る。「彼はロッシーニ、ド
ニゼッティ、ベルリーニに始まる
19 世紀イタリアの優れた音楽のす
べてを体現した人でした。初めは先
輩たちに寄りかかっていましたが、
やがて否応なく独り立ちすることに
なり、ついに彼らをしのぐのです。
ヴェルディはそれをやり遂げました。
Philharmony November 2013
ロンドン、ニューヨークなど多くの
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作品の改作、一度完成した作品を書
きかえたのは素晴らしいことでした。
新境地を拓いた素晴らしい作品だ。
《アイーダ》のような派手さはない
それは見事な仕事でした。彼は完璧
が、ここには名誉や血族愛というイ
な作曲家でした」
タリア的要素が凝縮されている。ヴ
今回サンティは改訂によって傑作
ェルディの手法を知り尽くしたサン
になった《シモン・ボッカネグラ》
ティは、このオペラのタペストリー
を定期公演で取り上げる。ジェノヴ
のように重厚なオーケストラからき
ァの和平実現をめざして毒殺される
っと深い感動を引き出してくれるこ
統領を描くこのオペラは、人間の孤
とだろう。
独な心を追求し続けたヴェルディが
プロフィール
ネルロ・サンティは現役で活躍す
(おばた・つねお 音楽評論家)
劇場、ミラノ・スカラ座、ヴェロー
るイタリア人指揮者の重鎮であり、
ナ野外劇場等々で活躍していること
トスカニーニやフルトヴェングラー
は言うまでもない。
が築いたオペラの伝統を伝える名匠
シンフォニー・コンサートの分野
の一人である。
でも豊かな経験を持ち、バーゼル放
1931 年にイタリアのヴェネト州
送交響楽団の首席指揮者を務めたほ
の町アドリアに生まれたサンティは
か、オスロ・フィルハーモニー管弦
パドヴァ音楽院で作曲を学び、1951
楽団、読売日本交響楽団、NHK交
年に同地のヴェルディ劇場で《リ
響楽団に頻繁に招かれて成功を収め
ゴレット》を振って指揮者デビュ
ている。
ー。それ以来、とりわけイタリア・
長い活動期間にテバルディ、プラ
オペラの分野で世界的なキャリアを
イス、ベルゴンツィ、タッカー、パ
築いてきた。なかでも注目すべきは
ヴァロッティなど歴史に残る数々の
1958 年からたびたび指揮を務めて
名歌手と共演してきたサンティは、
いるチューリヒ歌劇場や、1962 年
オペラの演奏様式の生きた権威でも
に《仮面舞踏会》でデビューして以
あるが、その独特の風貌とユニーク
来常連となったメトロポリタン歌劇
な指揮ぶりで若い世代からも愛され、
場において、おびただしい数の演目
実り多い活動を継続中である。
を成功させてきたことだろう。並行
このほどスイス・チューリヒ市よ
してパリ・オペラ座、コヴェント・ガ
り 2013 年度の芸術賞を受賞した。
ーデン王立歌劇場、ザルツブルク音
楽祭、コロン劇場、ウィーン国立歌
(小畑恒夫)
Philharmony November 2013
©Mat Hennek
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今月のマエストロ
トゥガン・ソヒエフ
若き俊英による精緻で力強い
ロシア・プログラム
文
増田良介
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ソ
ヒ
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フ
トゥガン・ソヒエフは 1977 年 10
月 21 日生まれ、ということは、今
年の誕生日を迎えた時点で 36 歳に
なる。一時代前ならずいぶん若い指
揮者だなと思ったことだろう。しか
し現在、30 代のマエストロという
のはまったく珍しくない。それどこ
ろか、このあたりの年代には実力の
ある指揮者がひしめいている。例
えば、ソヒエフより少し年上には
1975 年生まれのネゼ・セガン、ハー
ディング、1976 年生まれのワシー
リ・ペ ト レ ン コ、 年 下 な ら 1978 年
生まれのネルソンス、1979 年生ま
れのミッコ・フランク、さらに若く
なるとインキネン、フルシャ、ドゥ
ダメル、アフカムらが続く。
彼らの中には、すでに欧米の重要
なオーケストラにポジションを得て
いる人も少なくない。フランスのト
ゥールーズ・キャピトル国立管弦楽
団とベルリン・ドイツ交響楽団で音
楽監督を務めるソヒエフもその一人
だ。 ベ ル リ ン・ド イ ツ 響 は 2012 年
に就任したばかりだが、2005 年か
ら首席客演指揮者、2008 年から音
楽監督を務めるトゥールーズでのソ
ヒエフの評価はすこぶる高い。プロ
フィールにもある通り、2011 年に
仏『フィガロ』紙が発表したオーケ
ストラ・ランキングで、トゥールー
ズ・キャピトル管は、パリ管弦楽団
やパリ国立歌劇場管弦楽団とともに
トップ 3 に選ばれた。もちろんこの
オケは名門ではあるのだが、フラン
ス国立管弦楽団やフランス放送フィ
ルハーモニー管弦楽団といったパリ
の一流どころを抑えてのベスト 3 入
りはやはり快挙と言ってよいだろう。
同紙は、ソヒエフとトゥールーズ・
キャピトル管の音について、「ミシ
ェル・プラッソンの育てたフランス
的な音の透明感は、より華麗で肉厚
な響きに場所を譲り、技術的な水準
は向上し、時には首都のオーケスト
ラをしのぐ」と賛辞を呈した。
強い統率力と
緻密な響きの美しさ
さて、ソヒエフがN響を初めて指
揮したのは 2008 年 10 月である。ま
た、2009 年と 2012 年に、彼はトゥ
ールーズ・キャピトル管を率いて日
本ツアーを行っている。これらの演
奏会、あるいは、その評判に比して
まだわずかしか出ていないソヒエフ
のCDを聴いた人たちが絶賛するの
が、ソヒエフの強い統率力と、それ
によって作り出される緻密な響きの
美しさだ。「ソヒエフは冷静な華麗
さをもって指揮し、オーケストラは
ほぼ完璧に応えた」とは、2010 年
に彼がロンドンでフィルハーモニア
管弦楽団を振ったときの『ガーディ
アン』紙の評だ。確かにソヒエフは、
熱狂的なクライマックスにおいても
オーケストラをしっかりとコントロ
ールする。音楽のフォルムをしっか
りと確保したうえで、その中で密度
の濃いクライマックスを築きあげる
わけだ。そして、35 年もの間音楽
監督を務めたプラッソンに育てられ
着任によって大きく変わったという
ことを『フィガロ』紙が書いている
が、N響との演奏会を聴いた人の中
にも、N響がすっかりソヒエフの音
になっていることに驚いたという人
は少なくないようだ。確固とした音
のキャラクターができあがっている
オーケストラを若い指揮者が振って、
自分のイメージする音を実現するの
は容易ではない。しかしソヒエフは、
トゥールーズだけでなく、他のオケ
に客演しても、しっかり自分の音を
作り上げてしまう。そういえば、昔
デュトワが初めてN響を振ったとき
も、放送で聴きながら、同じような
感想を持ったものだった。
濃厚な味わいの
ロシア・プログラムに期待
れしい。
Bプロ、Cプロとも、比較的短い
交響詩、協奏曲、そして交響曲とい
う構成になっている。メインとなる
交響曲は、Bプロがチャイコフスキ
ー、Cプロがプロコフィエフの《交
響曲第 5 番》だ。ロマンティックで
熱いチャイコフスキーと、シャープ
で現代的なプロコフィエフ、タイプ
は違うが、どちらもロシア音楽屈指
の名作交響曲だ。ムーシン門下、ロ
シア指揮界の本流を受け継ぐ若き俊
英ソヒエフが、果たしてどんな演奏
を聴かせてくれるか楽しみだ。
ソリストにはチャイコフスキー
国際コンクールの覇者
協奏曲のソリストも豪華で、Bプ
ロには諏訪内晶子、Cプロにはボリ
ス・ベレゾフスキーが登場する。お
2013 年 11 月、ソヒエフが 5 年ぶ
気づきのとおり、この二人はどちら
りにN響を振る。定期公演への登場
も 1990 年のチャイコフスキー国際
は今回が初めて。2 つのプログラム
コンクールの優勝者である。ベレゾ
で彼は、ロシア・ソ連の作品ばかり
フスキーは、誰もが知っていて、誰
を振る。もちろんソヒエフはロシア
にも愛される、ラフマニノフの《ピ
音楽だけの指揮者ではない。トゥー
アノ協奏曲第 2 番》を弾く。これに
ルーズ・キャピトル管との日本ツア
対し、諏訪内が弾くのは、誰もが知
ーでは、ベルリオーズやラヴェルと
っているとはとても言えないショス
いったフランス音楽を中心に取り
タコーヴィチの《ヴァイオリン協奏
上げてすばらしい演奏を聴かせてく
曲第 2 番》だ。《第 1 番》ほど劇的
れたし、ブラームスやブルックナー、
でないせいか、演奏される機会の少
マーラーといったドイツ・オースト
ない《第 2 番》だが、ショスタコ
リア音楽もちゃんとレパートリーに
ーヴィチ晩年の枯れた味わいを感じ
している。しかし、彼の振るロシア
させる内容は、《第 1 番》に決して
音楽に、ひときわ濃厚な味わいがあ
劣っていない。諏訪内とソヒエフは、
ることもまた事実だから、これはう
ロンドンでフィルハーモニア管、日
Philharmony November 2013
たトゥールーズの音が、ソヒエフの
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ソ
ヒ
エ
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本ではトゥールーズ・キャピトル管
いって単なる添え物ではない。この
の演奏会で何度も共演している、い
2 曲、どちらもソヒエフが各地で演
わば気心知れた仲だけに、息のあっ
奏している得意曲なのだ。繊細で精
た演奏が期待できる。
緻な音の綾を作るソヒエフの手腕は、
そして、協奏曲の前に演奏され
このような静かな曲でこそ発揮され
る 2 曲、Bプロのリャードフ《魔
る。心して聴きたい。
の湖》
、Cプロのボロディン《中央
アジアの草原で》も、小品だからと
プロフィール
トゥガン・ソヒエフは、間違いな
(ますだ・りょうすけ 音楽評論家)
名演を聴かせた。
く現在最も注目される若手指揮者
ソヒエフはまた、2012/2013 年の
の一人だろう。1977 年、ロシア連
シーズンから、ベルリン・ドイツ交
邦北オセチア共和国の首都ウラジカ
響楽団の音楽監督も務めている。そ
フカスに生まれたソヒエフは、サ
の他、ベルリン・フィルハーモニー
ンクトペテルブルク音楽院で、ゲル
管弦楽団、ウィーン・フィルハーモ
ギエフやビシュコフらを育てたこと
ニー管弦楽団、ロイヤル・コンセル
で知られる名教師イリヤ・ムーシン
トヘボウ管弦楽団といった世界中の
などに指揮を学んだ。2005 年、フ
優れたオーケストラ、ウィーン国立
ランスの名門トゥールーズ・キャピ
歌劇場、メトロポリタン歌劇場、マ
トル国立管弦楽団の首席客演指揮者
リインスキー劇場などの名門歌劇場
及び芸術顧問に就任したソヒエフ
に招かれ、いずれも好評を博してい
は、2008 年には同団の音楽監督と
る。2012/2013 年シーズンには、シ
なる。現在まで彼らの評価は高まる
カゴ交響楽団及びライプツィヒ・ゲ
一方で、
『フィガロ』紙は「フラン
ヴァントハウス管弦楽団に初登場、
スの音楽生活の中心」と絶賛し、パ
ウィーン・フィルへの再登場も果た
リ管弦楽団、パリ国立歌劇場管弦楽
している。N 響とは 2008 年に共演
団とともに、フランスのベスト 3 に
ランクしたほどである。ソヒエフと
同団は、2012 年 12 月に日本ツアー
を行い、フランスとロシアの作品で
したが、定期公演を指揮するのはこ
れが初めてである。
(増田良介)
1766th Subscription Concert / NHK Hall
8th (Fri.) Nov, 6:00pm
10th(Sun.)Nov, 3:00pm
第 1766 回 NHKホール
11/8 [金]開演 6:00pm
11/10[日]開演 3:00pm
[指揮]
A
ネルロ・サンティ
[conductor] Nello Santi
[Simon(baritone)
]
[シモン]
(バリトン)
パオロ・ルメッツ
Paolo Rumetz
[マリア/アメーリア]
(ソプラノ) [Maria / Amelia(soprano)
]
アドリアーナ・マルフィージ
Adriana Marfisi
[フィエスコ]
(バス)
[Fiesco(bass)
]
[ガブリエレ]
(テノール)
[Gabriele(tenor)
]
[パオロ]
(バリトン)
[Paolo(baritone)
]
[ピエトロ]
(バス)
[Pietro(bass)
]
[射手隊長]
(テノール)
[Un capitano dei balestrieri(tenor)
]
[侍女]
(メゾ・ソプラノ)
soprano)
[Un’ancella di Amelia(mezzo
]
[合唱]
[chorus]
(合唱指揮/河原哲也)
(Tetsuya Kawahara, chorus master)
[コンサートマスター]
[concertmaster]
グレゴル・ルジツキ
サンドロ・パーク
吉原 輝
フラノ・ルーフィ
松村英行
中島郁子
二期会合唱団
篠崎史紀
Gregor Rózycki
Sandro Park
Teru Yoshihara
Frano Lufi
Hideyuki Matsumura
Ikuko Nakajima
Nikikai Chorus Group
Fuminori Shinozaki
∼ヴェルディ生誕 200 年∼
~The 200th Anniversary of Verdi’s Birth~
ヴェルディ
Giuseppe Verdi(1813-1901)
歌劇「シモン・ボッカネグラ」
“Simon Boccanegra”, opera (concert style)
(演奏会形式・字幕つき)
(125 )
Prologo
Atto Ⅰ
プロローグ
第1幕
休憩(30 分)Intermission(30min)
第2幕
第3幕
Atto Ⅱ
Atto Ⅲ
字幕 吉田牧子
字幕操作 イヤホンガイド/ G・マーク
Japanese Supertitle
Makiko Yoshida /
Earphone Guide Co,. Ltd.
Philharmony November 2013
Program
Soloist
Program
シモン
A
パオロ・ルメッツ
Paolo Rumetz
イタリア東北部トリエステ出身のバリ
同歌劇場の 2001 年の来日公演の《シモ
トン、パオロ・ルメッツは、イタリアを
ン・ボッカネグラ》ではピエトロを演じ
中心に国際的に活躍している。ネルロ・
た。ミラノ・スカラ座では《一日だけの
サンティ&NHK交響楽団とは 2007 年
王様》や《蝶々夫人》に出演。ライプツ
の《ボエーム》
(ブノア/アルチンド)、
ィヒ歌劇場では《イタリアのトルコ人》
2010 年の《アイーダ》
(アモナズロ)で
のドン・ジェロニオを演じ、ザルツブル
も共演した。
ク州立劇場ではロッシーニ《セビリアの
地元で学んだ後、ウィーン、ミュンヘ
理髪師》のフィガロを歌った。2012 年、
ン、ローマで研鑽を積む。1985 年、ト
ウィーン国立歌劇場の《愛の妙薬》にド
リエステのヴェルディ劇場でのチマロ
ゥルカマーラで出演。今年は、同歌劇場
ーザの《宮廷楽長》でオペラ・デビュー。
でロッシーニ《シンデレラ》のドン・マ
同劇場で数多くのオペラに出演。ヴェネ
ニフィコを演じる予定。
(山田治生)
ツィアのフェニーチェ歌劇場でも活躍し、
マリア/アメーリア
アドリアーナ・マルフィージ
Adriana Marfisi
2001 年以来NHK交響楽団と共演を
の《リゴレット》でジルダを歌い、サン
重ねるアドリアーナ・マルフィージ。特
フランシスコ歌劇場の《マノン》のタ
にネルロ・サンティが指揮した、2007 年
イトル・ロールに抜
の《ボエーム》のミミ、2010 年の《ア
ミラノでカルロ・ベルゴンツィとコンサ
イーダ》のタイトル・ロールでの熱唱は
ートをひらく。近年は、《アイーダ》の
忘れがたい。
タイトル・ロール(トリエステ、バーゼ
スイス生まれ。チューリヒ音楽院でヴ
ル)、《オテロ》のデズデモナ(トリエス
ァイオリンを専攻していたが、在学中に
テ)、《トゥーランドット》のリュー(パ
声楽を志す。フィレンツェでマルゲリ
レルモ)
、
《ジャンニ・スキッキ》のラウ
ータ・リナルディに声楽を師事。1994 年、
レッタ(チューリヒ)、《イリス》のタイ
ヴェローナ野外劇場での《アイーダ》の
トル・ロール(トリエステ)などに取り
巫 女 で オペラ・デビューを果たす。1998
年、カターニアのベルリーニ歌劇場で
される。2000 年に、
組む。
(山田治生)
Soloist
グレゴル・ルジツキ
Gregor Rózycki
マエストロ・サ ン ティからの信頼の
年のリームの《ヤーコプ・レンツ》に参
厚 い グ レ ゴ ル・ル ジ ツ キ。 今 回 の《 シ
加したほか、2000 年のアッペンツェラ
モン・ボッカネグラ》(フィエスコ)は、
ーの《クリストファラス》、2002 年のグ
2007 年の《ボエーム》(コルリーネ)、
ロボカルの《ラルモニア・ドラマティカ》、
2010 年の《アイーダ》(ランフィス)に
2005 年の M. シュナイダーの《ア・ディ
続いて、3 度目のサンティ&NHK交響
クショナリー・オブ・マラディーズ》など
楽団との共演となる。
で歌う。コンサートでも活躍し、サンテ
ポーランドのウッチ出身。地元の音楽
ィの指揮では、ベルゲン・フィルハーモ
院やバーゼル音楽院で学ぶ。ウッチ大劇
ニー管弦楽団とのロッシーニの《スター
場やバーゼル歌劇場で活躍した後、1992
バト・マーテル》、ボン・ベートーヴェン
年から 2000 年まで、ルツェルン歌劇場
管弦楽団とのヴェルディの《レクイエ
のメンバーとなる。
ム》などで独唱を務めた。
(山田治生)
現代音楽にも積極的に取り組み、1997
ガブリエレ
サンドロ・パーク
Sandro Park
イタリアを中心に国際的に活躍する韓
ラーゴでのプッチーニ音楽祭で《蝶々夫
国出身の若いテノール。2010 年のNH
人》のピンカートン、《トスカ》のカヴ
K交響楽団定期公演の《アイーダ》での
ァラドッシ、《トゥーランドット》のカ
ラダメス役が記憶に新しい。
ラフの 3 役を演じる。2011 年、ヴェロ
1977 年、テジョン(大田)生まれ。
ーナ野外劇場で《ナブッコ》のイズマエ
ソウルの三育大学で学んだ後、イタリア
ーレを歌う。近年は、キールで《ローエ
で研鑽を積む。2005 年のザンドナイ国
ングリン》のタイトル・ロールを担うな
際声楽コンクールのほか、ピアチェンツ
ど、ドイツ・オペラのレパートリーも増
ァ、マルセイユのコンクールなどで優
やしつつある。DVDに、古代ローマ浴
勝を飾る。2006 年、モデナ、フェラー
場で上演された《カヴァレリア・ルステ
ラ、リヴォルノ、ピアチェンツァで《椿
ィカーナ》(トゥリッドゥ)の映像があ
姫》のアルフレードや《ノルマ》のポリ
る。
オーネを歌う。2010 年にはトッレ・デル・
(山田治生)
Philharmony November 2013
フィエスコ
Soloist
Program
パオロ
A
吉原 輝
Teru Yoshihara
東京藝術大学音楽学部声楽科卒業、同
コンサートにおいてもヘルムート・リリ
大学院修士課程修了。イタリアのミラノ
ングら著名な指揮者と共演を重ね、非常
音楽院で学び、その後、ドイツのシュト
に高い評価を受けている。またヨーロッ
ゥットガルト国立音楽大学大学院にてド
パ各地にて、ドイツ・リートや日本歌曲
イツ・リート科およびオペラ科を修了し
の演奏会に多数出演。テュービンゲン大
た。1996 年第 7 回奏楽堂日本歌曲コン
学哲学部日本学科で特別講義を定期的に
クール優勝。
行うなど、日本文化の紹介にも貢献して
ヨーロッパに活動拠点を移し、これま
いる。シュトゥットガルト国立音楽大学
でシュトゥットガルト州立歌劇場、ウル
声楽科講師。N響とは、2007 年 11 月定
ム歌劇場、スイスのクール歌劇場、ハル
期、ネルロ・サンティ指揮の《ボエーム》
デンシュタイン・シュロス・オーパー等に
ショナール役で共演した。
《セビリアの理髪師》のタイトル・ロール、
(柴辻純子)
《魔笛》パパゲーノ役などで多数出演。
ピエトロ
フラノ・ルーフィ
Frano Lufi
アルバニア出身のバス、フラノ・ルー
《リゴレット》のモンテローネ伯爵でヴ
フ ィ は、 ネ ル ロ・サ ン テ ィ が 指 揮 し た
ェローナ野外劇場にデビュー。ヴェロー
2010 年の《アイーダ》のエジプト王に
ナでは《ルチア》のライモンドも歌う。
続いてのNHK交響楽団定期公演出演と
2007 年には《アドリアーナ・ルクヴルー
なる。
ル》のブイヨン公爵でミラノ・スカラ座
アルバニアの首都ティラナの国立音楽
デビューを飾り、2009 年には、トリノ
院を卒業後、ティラナ国立歌劇場のメン
王立歌劇場でも同役を歌う。フェニーチェ
バーとなる。1991 年、ルーマニアのジ
歌劇場では、《ドン・ジョヴァンニ》の
ョルジュ・エネスコ国際声楽コンクール
騎士長、《トスカ》のアンジェロッティ、
で優勝。翌年、カーティア・リッチャレ
《ファルスタッフ》のピストル、《ナクソ
ルリ声楽コンクールでも優勝。1994 年
ス島のアリアドネ》のトルファルディー
には、ヴェルチェッリのヴィオッティ国
ノなどを演じた。
際声楽コンクール男声部門第 2 位に入賞。
(山田治生)
Soloist
松村英行
Hideyuki Matsumura
東京藝術大学音楽学部声楽科卒業、同
2006 年にバリトンからテノールに転
大学院修士課程修了。大学院在学中に
向。生来のバリトンの太い声を保ちな
《ドン・ジョヴァンニ》のタイトル・ロー
がら、テノールでも劇的な力強い表現が
ルでオペラ・デビュー。宮本亜門演出に
要求されるドラマティコの役柄に挑戦し
よる《コジ・ファン・トゥッテ》でもグリ
ている。《オテロ》ロデリーゴ役、《ナブ
エルモ役に抜
ッコ》イズマエーレ役をはじめ、2013
され、好評を得た。その
後、イタリア・ミラノに留学。帰国後は、
年はペーター・コンヴィチュニー演出の
新国立劇場《ドン・カルロ》や、東京オ
《マクベス》にマクダフ役で出演。N 響
ペラシンガーズのメンバーとして小澤征
とは、2010 年 10 月定期、ネルロ・サン
爾、サイモン・ラトルら著名指揮者と共
ティ指揮の《アイーダ》エジプト王の使
演。東京オペラ・プロデュースの《美し
者役で共演した。二期会会員。
いパースの娘》(日本初演)のロースシ
(柴辻純子)
ー公爵役など、多数の公演に出演した。
侍女
中島郁子
Ikuko Nakajima
東京藝術大学音楽学部声楽科卒業、同
2008 年文化庁芸術家在外研修員とし
大学院修士課程独唱科修了。イタリア・
てミラノに留学。帰国後は、2010 年藤
シエナのキジアーナ音楽院マスタークラ
沢市民オペラの《カヴァレリア・ルステ
ス修了。2001 年びわ湖ホールの若杉弘
ィカーナ》ルチア役、2012 年東京二期
指揮のヴェルディ《レクイエム》にソリ
会の《ナブッコ》フェネーナ役で 注目
ストとして出演。その後、第 38 回日伊
を集めた。コンサートにおいても、マ
声楽コンコルソ第 3 位、第 72 回日本音
ーラー《交響曲第 3 番》、モーツァルト
楽コンクール声楽オペラ・アリア部門第
《レクイエム》、ベートーヴェン《交響曲
2 位、第 14 回ロッカ・デッレ・マチエ国
第 9 番》等のソリストとして、高い評価
際声楽コンクール第 2 位、第 56 回ヴィ
を得ている。N響とは今回が初共演とな
オッティ国際声楽コンクール第 3 位はじ
る。二期会会員。
め、国内外の多数のコンクールで輝かし
い成績を収めた。
(柴辻純子)
Philharmony November 2013
射手隊長
Chorus
Program
合唱
A
Nikikai Chorus Group
二期会合唱団
©S.Takehara
日本で最初のプロフェッショナルのオ
オペラ公演以外にも、オーケストラ
ペラ合唱団。1952 年に旗揚げされた声
公演や青少年のための音楽鑑賞教室等
楽家団体「二期会」の第 2 回オペラ公
に多数出演。N 響定期への出演回数も
演《マルタ》
(1953)において結成され、
数多く、ウラディーミル・アシュケナー
それ以後、二期会オペラのすべての合唱
を担当している。
ジ指揮のモーツァルト《レクイエム》
(2005)、アンドレ・プレヴィン指揮のブ
合唱団のメンバーは、2600 名を超え
ラームス《ドイツ・レクイエム》(2011)、
る二期会会員・準会員から公演ごとに組
シャルル・デュトワ指揮のストラヴィン
織され、高水準の歌唱力、オペラ出演で
スキー《夜鳴きうぐいす》とラヴェル
鍛えられた演技力、合唱団としての高い
《こどもと魔法》(2012)等で共演。ネ
アンサンブル能力と豊かな声量によって、
日本を代表する合唱団として各方面から
高い信頼を得ている。
ルロ・サンティの指揮では、《ボエーム》
(2007)、《アイーダ》(2010)に続いて
の共演となる。 (柴辻純子)
1813-1901
ヴェルディ
歌劇「シモン・ボッカネグラ」
(演奏会形式)
1856 年の春、ジュゼッペ・ヴェル
ディはヴェネツィアのフェニーチェ
歌劇場から翌シーズンに上演する新
作オペラの作曲を打診された。この
劇場との相性は良く、すでに 4 つ
の名作̶̶《エルナーニ》
(1844)
、
《アッティラ》
(1846)
、
《リゴレッ
ト》
(1851)
、
《椿姫》
(1853) ̶̶
が書かれていた。夏から秋にかけて
パリに滞在し、
《トロヴァトーレ》
のフランス語版を制作することにな
っていたが、スケジュール的には問
題はない。契約は 5 月に結ばれ、題
材探しが始まった。8 月にパリへ発
つ前に題材はガルシア・グティエレ
スの『シモン・ボッカネグラ』と決
まり、ヴェルディはパリに入ってか
ら自分で制作した綿密な台本スケッ
チを台本作者ピアーヴェに送った。
ヴェルディは秋にピアーヴェをサ
ンターガタの自宅に招き、顔を突き
合わせて台本を仕上げるつもりだっ
た。しかしパリの仕事が長引いて帰
国できなくなってしまう。ピアーヴ
ェはやむなく、台本を書き上げたと
ころからパリに送り(9 月∼ 12 月)
、
ヴェルディはパリで作曲を始めた。
送られた台本に完全には満足しなか
ったヴェルディは、いくつかの部分
を当時パリに住んでいた亡命詩人ジ
ュゼッペ・モンタネルリに修正させ
ている。
ヴェルディは翌 1857 年 1 月に帰
国し、ヴェネツィアには 2 月 19 日
に入った。オーケストラ部分はいつ
ものように練習指導の間に書かれ、
《シモン・ボッカネグラ》は 3 月 12
日にフェニーチェ歌劇場で初演され
た。
初日の聴衆の反応は冷ややかだっ
たが、2 日目以降の 6 回の公演には
盛んな拍手があったという。新聞評
の一つは「入念に細部までよく練り
上げられている」と音楽を高く評価
しつつ、「そのために初日にはオペ
ラの全部は理解されなかった」と言
う。
《椿姫》を境にオーケストレー
ションは重厚で複雑なものに変わり、
ヴェルディは新しい表現のかたちを
模索していたのだ。
オペラはその後も各地で再演され
たがあまり大きな成功は収められ
ず、1859 年のミラノ・スカラ座での
大失敗がオペラの運命を定めた。失
敗は主役の人選を間違えたのが原因
で、役柄に合った歌手を選ぶことが、
ヴェルディのオペラでは次第に重要
になってくる。《シモン・ボッカネグ
ラ》は 1864 年を最後に劇場の演目
から消えてしまった。
しかしこのオペラが再び脚光を
浴びるチャンスが 1879 年に訪れた。
Philharmony November 2013
Giuseppe Verdi
Program
出版者リコルディは詩人アリゴ・ボ
イトの台本でヴェルディに《オテ
ロ》を書かせようと策略を巡らせて
いたのだが、まずは《シモン・ボッ
A
カネグラ》の改訂作業で 2 人を協力
させることに成功したのだ。この作
業 は 1880 年 12 月 か ら 翌 年 の 2 月
末まで行われ、単調な流れに変化を
持たせようと第 1 幕が大々的に書き
変えられ(広場での祝祭を大会議室
における政治の場面に変更)
、オー
ケストレーションも全面的に手直し
された。改訂版の初演は 1881 年 3
月 24 日にミラノのスカラ座で行わ
れ、大きな成功を収めている。
《シモン・ボッカネグラ》は今日で
は改訂版で上演される。20 年以上
たって改訂されたために、古い部分
と新しい部分で様式的なアンバラン
スが見られるのは否定できない。し
かしこの改訂によって、孤独なシモ
ンの存在はますます重要性を増し、
また傑作《オテロ》にも匹敵する雄
弁な音楽が書き加えられて、このオ
ペラの価値は飛躍的に高まったとい
けたが、幼い娘は行方知れずになり、
マリアは父親に連れ戻されて屋敷に
幽閉されていた。統領になれば仲を
許されるかもしれないというシモン
の希望は、マリアの死によって打ち
砕かれる。娘を不幸にした悪党シモ
ンが統領になったのを見て、フィエ
スコの胸には激しい憎悪と敵意がふ
くらむ。
フィエスコのアリア〈悲しい胸の
思いは〉は短いながら娘を失った父
親の悲しみを伝えるバスの名曲。フ
ィエスコとシモンが対決する二重唱
も聴きどころで、フィエスコの「冷
徹さ」に対しシモンの「情」が浮か
び上がる。
第 1 幕 プロローグから 25 年後。
ジェノヴァ郊外のグリマルディ家を
訪れた統領シモンは、ここで実の娘
と感動の再会を果たす。彼女はグリ
マルディ家の跡取り娘アメーリアに
なっていたが、本当の跡取り娘は亡
くなり、財産没収を防ぐためにその
身代わりとして孤児院からもらわれ
える。
たのだ。統領とアメーリアが親子関
●物語と音楽
きなかった。アメーリアは、老フィ
係を周囲にすぐに公表することはで
(1881 年改訂版による)
エスコと組んで政府転覆を画策する
プロローグ 1339 年のジェノヴァ。
し合っていた。シモンは腹心パオロ
の指導者パオロ・アルビアーニの支
束していたが、それが自分の娘とわ
海賊シモン・ボッカネグラは平民党
援をうけてジェノヴァ共和国の統領
に選出される。彼は貴族フィエスコ
の娘マリアを奪って子どもまでもう
青年貴族ガブリエレ・アドルノと愛
にグリマルディ家の娘を与えると約
かって考えを変え、パオロの恨みを
買う。
場面が変わって統領の館内の大会
会で、両派の和平とジェノヴァの繁
栄を願うシモンの強い思いと高潔な
態度が、人々に感銘を与える。ガブ
リエレはアメーリア誘拐(未遂)を
命じたとして統領を告発するが、シ
モンはそれがパオロの仕業と知り、
パオロに誘拐者(つまり自分自身)
を呪わせる。
える役割を自ら引き受ける。
幕の中ほどにあるガブリエレのア
リア〈心に炎が燃える〉はアメーリ
アを奪った統領への激しい嫉妬を歌
う劇的なもの。続くフィナーレの三
重唱〈アメーリアよ、許せ〉では、
ガブリエレの誤解が解け、彼とアメ
ーリアとシモンをめぐる新たな関係
が美しいアンダンテの中で築かれる。
幕開けでは、夜明けの海を描写す
るオーケストラと、恋人を待つアメ
ーリアが歌うアリア〈暁に星と海は
ほほえみ〉の優雅さが印象的だ。再
会を果たした父シモンと娘アメーリ
アの二重唱では〈娘よ、その人の名
を呼んだだけで胸がおどる〉の躍動
するカバレッタが美しい。また第1
幕フィナーレの中のアンサンブル
〈平民よ、貴族よ、血なまぐさい歴
史の中の人々よ〉はシモンの情熱を
第 3 幕 反乱は鎮圧され、絞首台に
送られるパオロは、釈放されたフィ
エスコに、毒を盛ったのでシモンの
命も長くないと告げる。衰弱したシ
モンは、アメーリアこそ行方知れず
になっていた孫娘であるとフィエス
コに告げる。それを聞いたフィエス
コは泣き、長く憎しみ合っていた 2
人は和解する。死期が迫っていると
知らされたシモンは、アメーリアと
描き出し、大きな感動を誘う。
ガブリエレを祝福し、ガブリエレを
第 2 幕 復讐心に燃えるパオロは
この幕で最も感動的なのは、かな
シモンに遅効性の毒を飲ませ、また
ガブリエレには統領がアメーリアを
妾にしていると吹き込む。若者は統
領を殺そうとするが、2 人が父娘で
あることを知ると自分の邪推を恥じ、
統領とともにジェノヴァの平和のた
めに尽くそうと、貴族派の反乱を抑
後継者に指名して、息絶える。
り自由な形式で書かれたシモンとフ
ィエスコの和解の二重唱、とりわけ
「泣けるのは、お前の口を借りて天
使が語っているからだ」で始まる最
後の部分だろう。ここには涙が憎し
みを溶かす典型的なヴェルディの世
界がある。 (小畑恒夫)
作曲年代:1856 年 9 月∼ 1857 年 3 月
ゴット 2、ホルン 4、トランペット 2、トロン
初演:1857 年 3 月 12 日、ヴェネツィア、フェニ ボーン 3、チンバッソ 1、ティンパニ 1、ハー
ーチェ歌劇場、改訂版は 1881 年 3 月 24 日、ミ プ 1、大太鼓、シンバル、タンブリン、鐘、弦
ラノ、ミラノ・スカラ座で初演される。
楽、バンダ:トランペット 4、トロンボーン 4、
楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ 2、 小太鼓 2
クラリネット 2、バス・クラリネット 1、ファ
Philharmony November 2013
議室。貴族派と平民派が対立する議
Program
Program
B
B
第 1768 回 サントリーホール
11/20[水]開演 7:00pm
11/21[木]開演 7:00pm
[指揮]
1768th Subscription Concert / Suntory Hall
20th(Wed.)Nov, 7:00pm
21st(Thu.)Nov, 7:00pm
トゥガン・ソヒエフ
[conductor]
Tugan Sokhiev
[ヴァイオリン]
[violin]
[コンサートマスター]
[concertmaster]
諏訪内晶子
堀 正文
Akiko Suwanai
Masafumi Hori
Anatoly Liadov(1855-1914)
“The enchanted Lake”, légende op.62
リャードフ
交響詩「魔の湖」作品 62(8 )
ショスタコーヴィチ
Dmitry Shostakovich(1906-1975)
ヴァイオリン協奏曲 第 2 番 嬰ハ短調 Violin Concerto No.2 c-sharp minor
作品 129(30 )
op.129
Ⅰ モデラート
Ⅱ アダージョ
Ⅲ アダージョ─アレグロ
Ⅰ Moderato
Ⅱ Adagio
Ⅲ Adagio – Allegro
休憩 Intermission
チャイコフスキー
交響曲 第 5 番 ホ短調 作品 64(46 )
Peter Ilich Tchaikovsky(1840-1893)
Symphony No.5 e minor op.64
Ⅰ アンダンテ─アレグロ・コン・アニマ
Ⅱ アンダンテ・カンタービレ、
コン・アルクーナ・リチェンツァ
Ⅲ ワルツ:アレグロ・モデラート
Ⅳ フィナーレ:アンダンテ・マエストーソ
─アレグロ・ヴィヴァーチェ
Ⅰ Andante – Allegro con anima
Ⅱ Andante cantabile, con alcuna licenza
Ⅲ Valse: Allegro moderato
Ⅳ Finale: Andante maestoso – Allegro vivace
Soloist
Philharmony November 2013
©Kiyotaka Saito
ヴァイオリン
諏訪内晶子
Akiko Suwanai
桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコ
士への追悼)̶ヴァイオリンとオーケ
ース修了。文化庁芸術家在外派遣研修生
ストラのための》、2012 年 N 響「Music
としてジュリアード音楽院本科およびコ
Tomorrow」で J. マクミランの《ヴァイ
ロンビア大学等で学ぶ。1990 年史上最
オリン協奏曲》ともに日本初演の独奏を
年少でチャイコフスキー国際コンクール
務めた。
優勝。翌年ニューヨークに留学。その後、
2012 年のエリーザベト王妃国際音楽
世界各国の著名な指揮者、オーケストラ
コンクール・ヴァイオリン部門のセミ
と共演。またマールボロ、ロッケンハウ
ファイナルおよびファイナルの審査員。
ス、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン等、
2013 年は「国際音楽祭 NIPPON」を企画、
国際的な音楽祭にも多数出演している。
芸術監督を務めた。使用楽器は、日本音
N 響 と は 1991 年 以 来、 共 演 を 重
楽財団より貸与された 1714 年製作のス
ね、2008 年 N 響 定 期 で P. エ ト ヴ ェ シ
トラディヴァリウス「ドルフィン」。
ュの《
「セブン」
(コロンビア宇宙飛行
(柴辻純子)
Program
Anatoly Liadov
1855-1914
リャードフ
交響詩「魔の湖」作品 62
B
アナトーリ・リャードフはリムス
《魔の湖》は一連の交響詩の中
キー・コルサコフを師とし、19 世紀
で唯一、長調で書かれた作品。副
後半から 20 世紀初頭にかけてサン
題に「おとぎ話の絵」とある。冒
クトペテルブルクの音楽界を牽引し
頭、鬱蒼とした響きから現れるのは
た作曲家である。作曲理論の教師と
魑魅魍魎ではなく、温かな光と静か
しての功績も大きく、プロコフィエ
な水面を思わせる穏やかな世界。
フ、ミャスコフスキー、指揮者のマ
創作時のインスピレーションの一
リコ、モスクワ音楽院転校前のラフ
端としてフィンランドの民族叙事詩
マニノフなど、20 世紀ロシア音楽
『カレワラ』の存在も指摘されてい
史を彩る多くの音楽家たちがリャー
る。
『カレワラ』は 19 世紀半ば、民
ドフから薫陶を受けた。後輩のグラ
間伝承をリョンロットが集めて出版
ズノフや、同時期モスクワの音楽界
した長大な英雄物語。ロシアでもす
を牽引したタネーエフらと共に、国
ぐに翻訳され、世紀末には特に人気
民楽派を継承した世代に位置する。
があった。リャードフは 1907 年 4
自作としてはピアノ曲を中心に小
月 24 日の手紙で、《魔の湖》の出来
品が多い。管弦楽曲では 1900 年代
を喜ぶ一方、『カレワラ』を賞賛し、
以降に創られた交響詩《バーバ・ヤ
読み返す様子を伝えている。
ガー》
、
《魔の湖》
、
《キキモラ》
、
《ヨ
また 4 小節のスケッチと共に、湖
ハネ黙示録より》などで知られる。
畔に葦やエゾマツが広がる湖のデッ
一連の作品は、死を表象するおどろ
サンを残している。楽曲で描かれる
おどろしい響き、超自然的存在や終
のは、湖の静寂である。たゆたう波
末論的な世界観を彷彿させる響きに
間の動機が様々な色合いを見せる中、
満ちており、そこにロシアでこの時
外声部で反行する半音階的な和声進
期に興隆した後期象徴主義への共鳴
行が魔術的な世界を醸し出す。
を認めることもできる。
作曲年代:1907 年?
初演(最終稿)
:1909 年 2 月 21 日、サンクトペ
テルブルク音楽院大ホール、ニコライ・チェレプ
ニン指揮
(中田朱美)
楽器編成:フルート 3、オーボエ 2、クラリネ
ット 3、ファゴット 2、ホルン 4、ティンパニ 1、
タムタム、チェレスタ 1、ハープ 1、弦楽
1906-1975
ショスタコーヴィチ
ヴァイオリン協奏曲 第 2 番 嬰ハ短調 作品 129
ドミートリ・ショスタコーヴィチ
完成稿は室内楽的な編成で、嬰ハ
は晩年、度重なる病気や怪我に見舞
短調。開放弦が使えず、ポジション
われた。その中で作曲家を支えたの
取りが難しい調性である。これには
は、名演奏家との交友であった。な
オイストラフも悲鳴をあげた。そも
かでもチェロ奏者ロストロポーヴィ
そもオイストラフの技量を想定して
チ、ソプラノ歌手ヴィシネフスカヤ、
創られたような作品で、独奏パート
ヴァイオリン奏者ダヴィート・オイ
は冒頭より休むことなくオーケスト
ストラフらの存在が大きかった様子
ラを牽引し、重音奏法で様々な仮面
がうかがえる。
《ヴァイオリン協奏
をまとう。
曲第 2 番》も《第 1 番》につづき、
とくに全楽章で主題再現の前に置
オイストラフとの関係から生まれて
かれた独奏ヴァイオリンのカデンツ
いる。
ァは圧巻。第 1 楽章では二声で展開
ショスタコーヴィチは 1967 年初
し、第 2 楽章では鬼気迫る迫真性を
めに《第 2 番》に着手したと思われ
見せる。第 3 楽章の長大なカデンツ
る。第 1 楽章には完成稿とは異なる
ァでは、フィナーレへと繫がるエネ
内容の自筆譜があり、嬰ヘ短調、総
譜の形で 138 小節まで書き進められ
ていた。104 小節までがオーケスト
ラのみという長大な序奏で、楽器編
成も大規模であった。4 月 8 日の友
人グリークマンへの手紙の中で「非
常にゆっくりと苦労しながら、一音
一音絞り出すように書いている」と
ある。まもなくしてこれを破棄し、
完成稿を約 1 か月で書き上げた。
作曲年代:1967 年初頭∼ 5 月 18 日
初演:
(非公式初演)1967 年 9 月 13 日、モスク
ワ近郊の街ボルシェヴォの文化会館、キリル・コ
ルギーが咆哮する。なお第 2 楽章か
ら第 3 楽章へは切れ目なく続く。
第 1 楽章 モデラート 4/4 拍子 嬰ハ
短調。ソナタ形式。
第 2 楽章 アダージョ 3/4 拍子 ト短
調。3 部形式。
第 3 楽章 アダージョ 3/4 拍子̶ア
レグロ 変ニ長調。ロンド。
(中田朱美)
同演奏者
楽器編成:フルート 1、ピッコロ 1、オーボエ 2、
クラリネット 2、ファゴット 2、コントラファ
ンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦 ゴット 1、ホルン 4、ティンパニ 1、タムタム、
楽団、ダヴィート・オイストラフの独奏。
(公式 弦楽、ヴァイオリン・ソロ
初演)
1967年9月26日、モスクワ音楽院大ホール、
Philharmony November 2013
Dmitry Shostakovich
Program
Peter Ilich Tchaikovsky
チャイコフスキー
1840-1893
交響曲 第 5 番 ホ短調 作品 64
B
ピョートル・チャイコフスキーの
《交響曲第 5 番》
(1888 年)は、彼
しむことができる環境にあったので
ある。
の 6 つの交響曲のなかでもとりわ
さて《交響曲第 5 番》で試みら
け色彩的な旋律に満ちている。曲が
れた新機軸の一つに、モットー主題
書かれたのは、作曲家の生涯でもっ
が挙げられる。ロマン派の音楽にお
とも順風満帆な時期のことであった。
いてモットーとは全体を統合したり
1880 年代、チャイコフスキーは多
特定の意味を担わせたフレーズや動
産な国民的作曲家として押しも押さ
機であったが、チャイコフスキーは
れもせぬ存在になっていた。外国で
これをより長い旋律に拡大し、全楽
も、1878 年から毎年行っていた演
章の要所要所に回帰させた。これは
奏活動によって、ロシア人作曲家の
1867 年にモスクワで出会ったベル
筆頭として一目置かれていた。しか
リオーズの《幻想交響曲》(1830)
し演奏活動に忙殺されすぎていると
の「固定楽想」に感化されたもの。
考え、1885 年、外国への演奏旅行
だが《幻想交響曲》が物語に即した
を一時中止する。1888 年 4 月には
標題音楽で、モットー主題が作曲家
静かなフロロスコエ村に引っ越し、
作曲に集中する環境を整えた。
《第
5 番》はここで書かれている。
ところでロシアにおいてロシア人
のクラシック音楽家が台頭してきた
のは 1770 年代のことである。ここ
の恋 慕 する女 性を表す「固定楽想」
であったのに対し、チャイコフスキ
ーの《交響曲第 5 番》にこうした特
定の意味は定められていない。
モットー主題を楽章間で循環させ
ることは《交響曲第 4 番》(1877)
から音楽家を生業とする職業音楽家
第 1、4 楽章で試みていた。やがて壮
した。チャイコフスキーはその最初
(1885)で悲劇的な主人公マンフレ
期の一人。演奏活動や出版からの報
ッドを表す「固定楽想」として全楽
酬に加えて、1878 ∼ 1890 年の間は
章で用いた後、標題のない交響曲で
フォン・メック夫人から毎月 500 ル
モットー主題を全楽章に展開させた
ーブルという破格の支援を受けてい
のがこの《第 5 番》であった。珠玉
た。かくして 1880 年代後半、チャ
の旋律、楽章がめくるめく展開をす
イコフスキーは自他共に認める不動
る中、モットー主題が作品全体を統
の職業音楽家として、音楽活動に勤
合し、さらに動機労作や調性の仕掛
が誕生するまで、約 100 年の時を要
大な「標題交響曲」《マンフレッド》
が終楽章で響きわたる。
第 2 楽章 ア ン ダ ン テ・カ ン タ ー ビ
レ、コン・アルクーナ・リチェンツァ
なおこの作品には、1887 年 8 月
12/8 拍子 ニ長調 3 部形式。導入部
∼ 1888 年 4 月に書いたと考えられ
はモットー主題の一音型からくるも
ているごく短い構想メモがある。そ
のだが、《幻想序曲「ロメオとジュ
こでは第 1 楽章序奏に寄せて「運命
リエット」》の冒頭と酷似している。
への服従」などと書かれている。第
これらのコラール的な声部法とプラ
2 楽章の構想として 2 声の音楽スケ
ガル終止による和声進行は作曲家が
ッチ(2 小節)も書かれ、その譜例
好んだ祈りの響きである。
を上下に挟む形で「一筋の光」
「下
第 3 楽章 ワルツ:アレグロ・モデラ
からの返答:いや、希望はない」と
ート 3/4 拍子 イ長調 3 部形式。ス
あるが、実際に完成された第 2 楽章
ケルツォの性格は中間部に込められ
とは異なる。いずれにせよ、作品は
ている。ワルツ冒頭、低声部の伴奏
非常に均整のとれた形式で書かれて
に 1 拍目の響きがないために感じ
おり、1888 年 6 月に作曲家がコン
る一瞬の空虚感は、スケルツォの諧
スタンチン公爵に宛てた手紙に「こ
謔 性へのかすかなオマージュ。モッ
の交響曲に標題はありません」とあ
トー主題はコーダでクラリネットと
標題性を読みとることは難しい。
第 4 楽章 フィナーレ:アンダンテ・
るのも頷けるように、作品に明確な
ファゴットに奏される。
第 1 楽章 アンダンテ 4/4 拍子̶ア
マエストーソ 4/4 拍子̶アレグロ・
レグロ・コン・アニマ 6/8 拍子 ホ短
ヴィヴァーチェ 2/2 拍子 ホ長調 ソ
調 ソナタ形式。序奏で作品のモッ
ナタ形式。第 1 楽章冒頭で哀愁に満
トー主題が提示される。副主題提示
ちていたモットー主題が、第 4 楽章
部では第 2 主題のほか 2 つの魅惑的
冒頭、祝祭的な雰囲気に包まれて登
な主題がニ長調で現れ、主調とこれ
場する。第 1 楽章に始まるホ短調と
らとの調性関係が、第 1 楽章(ホ短
ニ長調の拮抗を経て、最終的にホ長
調)̶第 2 楽章(ニ長調)の展開を
調へと昇華する作品全体の志向性が、
導きつつ、さらに第 4 楽章の内容も
壮大な響きによって示される。
暗示している。
作曲年代:1888 年 5 月∼ 8 月 14 日
初演:1888 年 11 月 5 日、作曲者自身の指揮、サ
ンクトペテルブルク・フィルハーモニー協会演奏
会
(中田朱美)
楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ
2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、
トランペット 2、トロンボーン 3、テューバ 1、
ティンパニ 1、弦楽
Philharmony November 2013
けによって、圧倒的なダイナミズム
Program
Program
C
C
第 1767 回 NHKホール
11/15[金]開演 7:00pm
11/16[土]開演 3:00pm
[指揮]
[conductor]
1767th Subscription Concert / NHK Hall
15th(Fri.)Nov, 7:00pm
16th(Sat.)Nov, 3:00pm
トゥガン・ソヒエフ
Tugan Sokhiev
[ピアノ]
[piano]
[コンサートマスター]
[concertmaster]
ボリス・ベレゾフスキー
篠崎史紀
Boris Berezovsky
Fuminori Shinozaki
ボロディン
交響詩「中央アジアの草原で」
(8 )
Aleksandr Borodin(1833-1887)
“In the Steppes of Central Asia”,
musical picture
ラフマニノフ
Sergei Rakhmaninov(1873-1943)
ピアノ協奏曲 第 2 番 ハ短調 作品 18
Piano Concerto No.2 c minor op.18
(31 )
Ⅰ モデラート
Ⅱ アダージョ・ソステヌート
Ⅲ アレグロ・スケルツァンド
Ⅰ Moderato
Ⅱ Adagio sostenuto
Ⅲ Allegro scherzando
休憩 Intermission
プロコフィエフ
Sergei Prokofiev(1891-1953)
交響曲 第 5 番 変ロ長調 作品 100(45 ) Symphony No.5 B-flat major op.100
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
アンダンテ
アレグロ・マルカート
アダージョ
アレグロ・ジョコーソ
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Andante
Allegro marcato
Adagio
Allegro giocoso
Soloist
Philharmony November 2013
©David Crookes / Warner Classics
ピアノ
ボリス・ベレゾフスキー
Boris Berezovsky
1990 年のチャイコフスキー国際コンク
を演奏。昨年はラ・フォル・ジュルネ・
ールで優勝したボリス・ベレゾフスキー
オ・ジャポンで得意のロシア・レパートリ
は、今やロシアを代表するピアノの名手。
ーを披露した。N響とは今回初共演。
1969 年、モスクワ生まれ。モスクワ音楽
ショパン、リストなどのロマン派音楽
院で学び、エリソ・ヴィルサラーゼに師
に数多くの録音を残しているが、やは
事。1987 年のリーズ国際ピアノ・コンク
り、ラフマニノフなどのロシア音楽は彼
ールで第 4 位に入賞し、1988 年にウィグ
の最も重要なレパートリーである。ラフ
モア・ホールのリサイタルでロンドン・デ
マニノフのピアノ協奏曲全曲はドミート
ビューを飾った。日本には 1990 年以来
リ・リス&ウラル・フィルハーモニー管弦
しばしば訪れ、最近では、2011 年のNH
楽団と録音している。今回のロシアの若
K音楽祭でアントニオ・パッパーノ&ロ
き鬼才トゥガン・ソヒエフとの《第 2 番》
ーマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦
は、まさに注目の共演である。
楽団とリストの《ピアノ協奏曲第 1 番》
(山田治生)
Program
Aleksandr Borodin
ボロディン
1833-1887
交響詩「中央アジアの草原で」
C
時を経て創意や創作背景が陰に隠
れてもタイトルと響きが雄弁に語る。
アレクサンドル・ボロディンの《中
央アジアの草原で》はそんな作品で
ある。本職の化学者としての激務を
こなしたボロディンが世に残した作
品は少ないが、
《中央アジアの草原
で》はオペラ《イーゴリ公》と並び、
圧倒的な人気を誇る。両作ともロシ
ア国民楽派においてオリエンタリズ
ムが話題となる際には必ず登場する
輝かしい金字塔である。
アレクサンドル 2 世の即位 25 周
年にあたる 1880 年、記念行事の一
環で、皇帝のそれまでの在位期間の
偉業をいくつかの活人画(舞台背景
の前で俳優たちが静止して画中の人
物のように演じること)で上演する
企画が持ち上がった。その舞台の付
随音楽を依頼されたのが、リムスキ
ー・コルサコフ、アントン・ルビンシ
テイン、チャイコフスキー、ムソル
グスキー、キュイ、ボロディンらで、
ボロディンが同年に完成させたのが
《中央アジアの草原で》であった。
作曲年代:1880 年
初演:1880 年 4 月 20 日(旧ロシア歴 4 月 8 日)
、
リムスキー・コルサコフ指揮、歌手ダリア・レオ
ノワの企画演奏会
ボロディンが依頼された活人画は、
当時、凄烈に進められた中央アジア
への領土拡大であった。1882 年の
初版楽譜には「音楽的絵画」という
ジャンル名とともに曲の構想(プロ
グラム)が掲載されている。その内
容は音楽で描かれている世界そのも
ので、概要は下記の通りである。
広大な中央アジアの草原をロシア
の民謡が響く。遠くから馬とラクダ
に荷物を積んだアジアのキャラバン
が近づいて来て、東洋風の旋律が流
れる。冒頭のロシア民謡の主題が
徐々に力強く展開し、ロシア兵に護
衛されながら歩を進める様子が描か
れる。ふたたび東洋風の旋律が再現
し、やがて二つの主題は合わさり、
キャラバンは遠のいていく。
ちなみにこの活人画の企画自体は
流れてしまった。もし実現していた
ら、音楽の受容のされ方もまた変わ
っていたことだろう。なおタイトル
の《中央アジアの草原で》は欧米や
日本での通称で、原題は「中央アジ
アにて」である。 (中田朱美)
楽器編成:フルート 2、オーボエ 1、イングリ
シュ・ホルン 1、クラリネット 2、ファゴット
2、ホルン 4、トランペット 2、トロンボーン 3、
ティンパニ 1、弦楽
ラフマニノフ
1873-1943
ピアノ協奏曲 第 2 番 ハ短調 作品 18
セルゲイ・ラフマニノフはモスク
ワ音楽院のピアノ科と作曲科をとも
に首席で卒業している。順風満帆と
思われたこの若き駿才の人生最初の
大きな挫折は、1897 年にサンクト
ペテルブルクで行われた《交響曲第
1 番》初演の不成功とその後の悪評
であった。一連の出来事はラフマニ
ノフにとって大きなトラウマとなり、
作曲活動の足かせとなる。その後の
約 3 年間、ラフマニノフは作品番
号つきの曲を残していない。この間、
歌劇場の指揮者として多忙な日々を
過ごしたが、作曲の道を諦めたわけ
ではなかった。小品を手がけながら、
また 1900 年春に受けたモスクワの
精神科医ニコライ・ダーリの催眠療
法にも後押しされる形で、満を持し
て 1901 年にこの大規模な《ピアノ
協奏曲第 2 番》を完成させた。
曲はピアノの低声部に流れる鐘の
音で静かに幕を開け、圧倒的な詩
情、叙情性とともに全 3 楽章を疾走
する。その背後には、作品全体にわ
たる抑揚の緻密な連関が存在してい
る。また第 2 楽章冒頭のコラール的
な和音進行(サブドミナント→トニ
ックのプラガル終止と半音階による
和声進行)は、敬愛するチャイコフ
スキーが好んでよく用いた響き。先
達からの伝統的技法によって作曲家
自身のパトスが結晶化されたこの作
品は、国内外の初演時から大成功を
収め、以来、われわれの知る不動の
人気を博している。
第 1 楽章 モデラート ハ短調 2/2 拍
子。鐘を模したピアノ・ソロの序奏
に始まるソナタ形式。
第 2 楽章 アダージョ・ソステヌート
ホ長調 4/4 拍子。コラール的な和音
進行の序奏に始まる 3 部形式。
第 3 楽章 ア レ グ ロ・ス ケ ル ツ ァ ン
ド ハ短調(主部)2/2 拍子─ハ長調。
どこかコミカルなリズムの導入部に
つづいて、炎のような第 1 主題、対
照的に叙情的な第 2 主題が、ともに
変奏されながらロンド風に展開する。
(中田朱美)
作曲年代:1900 年∼ 1901 年 4 月
楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ
初 演:1901 年 10 月 27 日(旧ロシア暦)
、作曲 ット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペッ
者自身のピアノ、アレクサンドル・ジロティ指揮、 ト 2、トロンボーン 3、テューバ 1、ティンパ
モスクワ・フィルハーモニー協会主催演奏会
ニ 1、大太鼓、シンバル、弦楽、ピアノ・ソロ
Philharmony November 2013
Sergei Rakhmaninov
Program
Sergei Prokofiev
1891-1953
プロコフィエフ
交響曲 第 5 番 変ロ長調 作品 100
C
ロンドンにあるセルゲイ・プロコ
フィエフのアルヒーフには、1920
年代初頭∼ 1930 年代半ばにやり取
りされた約 11,000 点の書簡資料が
所蔵されている。几帳面な保管状況
やその文面からは、縁を大切にした
この作曲家の人柄が伝わってくる。
とりわけ自作を演奏してくれるよ
う熱心に指揮者やエージェントに依
頼する手紙が目を引く。自作以外で
は 10 歳年上で唯一無二の親友であ
った学友ミャスコフスキーの作品を
何度となく推薦している。ヘンリ
ー・ウッドなどの著名指揮者たちに
ミャスコフスキーの作品を推薦して
は当人に報告し、先方から返事をも
らえばまた報告し、とまるで我が事
のように懸命である。
プロコフィエフはよく知られてい
るように 1918 年に日本を経由して
アメリカに居を移した。その後、ア
メリカからヨーロッパ、そしてソ連
への帰国へと、多くの亡命ロシア人
音楽家たちが
った方向とは真逆の
経路をたどる。しかも完全帰国をは
た し た 1936 年 は、
「エジョフシチ
ナ」として知られる大粛清の始まり
の年であった。これはある種不可解
に加え、常に自分の味方でいてくれ
たミャスコフスキーから再三帰国を
勧められたことも、プロコフィエフ
の決意を後押ししたと想像される。
ソ連に帰国したプロコフィエフを
待っていたのは決して平坦な道では
なかった。ようやく 1940 年代半ば
になって自他ともに認める国民的作
曲家としての輝かしい時期を迎え
る。それを象徴的に示しているの
が、1946 年のスターリン国家賞第
1 席の 4 作品同時受賞である。戦時
下 に あ っ た 1943 ∼ 1945 年 の 3 年
分の授与が 1946 年にまとめて行わ
れたこともあり、結果としてプロコ
フィエフは、ソ連音楽史において後
にも先にもこのとき一度きりの 4 作
品での第 1 席同時受賞という快挙を
果たした。その 4 作品とはいずれも
1944 年に完成された《ピアノ・ソナ
タ第 8 番》と《交響曲第 5 番》、バ
レエ《シンデレラ》、さらにプロコ
フィエフが音楽を創作したエイゼン
シテイン監督の映画『イワン雷帝』
である。
1948 年以前、殊に交響曲は記念
碑的なジャンルとして重要視されて
おり、プロコフィエフが実に 15 年
な行動であったが、ヨーロッパでの
ぶりの交響曲となる《第 5 番》を
にソ連では成功していたという状況
てのことと考えられる。さらに第二
人気が翳 りを見せていた 1930 年代
完成させたのもこうした時流を受け
音器を付けた第 1 ヴァイオリンに
利を確信する祝勝ムードとも合致し、
よる 16 分音符のパッセージがある。
1945 年 1 月に作曲家本人の指揮で
これはもともと 1930 年代前半に書
行われた初演は大成功を収めた。
かれたアイディア帳(スケッチブッ
この作品はそれまでのプロコフィ
ク)に残されていたもので、《ロメ
エフ的な不協和音が影を潜め、全音
オとジュリエット》の草稿でエンデ
階的な旋律と分かりやすい形式で書
ィングに使われていたことが近年の
かれている。作品に表題はないが、
研究でわかっている。
後にプロコフィエフはこの曲で「人
第 3 楽章 アダージョ ヘ長調 3/4 拍
間の精神の偉大さ」を表そうとした
子。楽譜上は長調の表記であるが、
と語っている。
美しくも物悲しい息の長いモノロー
第 1 楽章 アンダンテ 変ロ長調 3/4
グが流れる。その美しさは前の楽章
拍子。ソナタ形式。冒頭でフルート
のスケルツォとのギャップによって
とファゴットが第 1 主題を牧歌的に
一層際立っている。
奏でる。オペラ《修道院での結婚》
第 4 楽章 アレグロ・ジョコーソ 変ロ
やバレエ《ロメオとジュリエット》
長調 2/2 拍子。ロンド形式。導入部
といった舞台音楽の情景的な調べを
では冒頭のパッセージにつづき、第
彷彿とさせる。第 2 主題は叙情的な
1 楽章の第 1 主題が流れる。つづく
響き。再現部冒頭、第 1 主題は打っ
ロンド主題ではプロコフィエフ独特
て変わって金管楽器による荘厳な雰
の半音階的な転調が愉しい。ここに
囲気に包まれる。その祝祭性は第 2
副主題としてやはり第 1 楽章提示部
主題後のクライマックス、コーダに
引き継がれる。
最後に登場する滑稽なパッセージが
つづく。中間部で低弦によって奏さ
第 2 楽章 アレグロ・マルカート ニ
れる旋律も上述のアイディア帳にあ
つスケルツォ。諧謔的な主題が変奏
が一体化し、華やかに幕を閉じる。
短調 4/4 拍子。ニ長調の中間部をも
されていく。この変奏のひとつに弱
ったもの。コーダではこれらの主題
(中田朱美)
作曲年代:1944 年夏
ァゴット 2、コントラファゴット 1、ホルン 4、
初演:1945 年 1 月 13 日、モスクワ音楽院大ホー トランペット 3、トロンボーン 3、テューバ 1、
ル、作曲者自身の指揮によるソ連国立交響楽団
ティンパニ 1、ウッドブロック、タンブリン、
楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ トライアングル、小太鼓、シンバル、大太鼓、
2、イングリッシュ・ホルン 1、クラリネット 2、 タムタム、ハープ 1、ピアノ、弦楽
Es クラリネット 1、バス・クラリネット 1、フ
Philharmony November 2013
次世界大戦末期にあって、ソ連の勝
名
曲
の
深
層
を
探
る
シリーズ 名曲の深層を探る 第 12 回
《シモン・ボッカネグラ》
多面的な魅力と「父と娘」
文
加藤浩子
《シモン・ボッカネグラ》は尽き
に 2 つの名前が与えられているな
ない魅力をたたえた作品だ。1971 年
ど、筋書きがやや錯綜しているせい
にクラウディオ・アバドの指揮によ
だろうか。けれど一度頭に入ってし
ってスカラ座で上演され(1981 年に
まえば、物語の不自然さはさほど気
スカラ座がアバドに率いられて初来
にならない。むしろ知れば知るほど、
日した際にも同演目が上演された)
、
ヴェルディが掘り下げ、追究してき
真価が広く認められて以来、世界中
たさまざまな要素が織りなす重厚な
で愛されている名作であるにもかか
音楽絵巻に魅せられる。まさに「深
わらず、日本ではいまだに上演の機
層」を探りたくなる作品なのである。
会に恵まれないのは不思議な気がす
音楽面でよく指摘されるのは、初
る。プロローグと第 1 幕の間に 25
演(1857 年)から 24 年後に大規模
年が経過していたり、主要人物 2 人
な改訂(1881 年)が行われたこと
による充実だ。書き直されたのは主
にオーケストラの部分だが、改訂が
晩年の大傑作《オテロ》(1887 年初
演)の 6 年前に行われていること
に注目したい。《オテロ》における
オーケストラの充実ぶりはよく知ら
れているが、《シモン》の改訂版に
は《オテロ》のオーケストレーショ
ンを思わせる部分が少なくない。台
本も含めて全体がそっくり差し替え
られた第 1 幕第 2 場では、
《オテロ》
に特徴的な金管の咆哮や、精緻なオ
ーケストラが堪能できる。また、ヴ
ェルディが晩年にきわめた朗唱風の
音楽も大幅に取り入れられており、
ボイトとヴェルディ
音楽劇としての統一感が飛躍的に増
が、この時の台本作者は後に《オテ
ロ》の台本を書くアリゴ・ボイトで
ある。
《オテロ》との親近性も納得
できる。
一方、オリジナル版の初演は、旋
律美とドラマが融合した名作
《椿姫》
(1853 年初演)の 4 年後。オリジナ
ル版も当時としては意欲的な作品で
はあったが、まだまだリリカルな旋
律の比重が高い時期である。
《シモ
ン》のところどころに散りばめられ
た印象的な旋律は、その多くがオリ
ジナル版に
る。父娘が 25 年ぶり
の再会を果たす第 1 幕の感動的な二
重唱も、同じ幕の冒頭に置かれたア
メーリアの美しいアリアも、メイン
テーマはオリジナル版のままだ。こ
のように、中期の旋律美と晩期の円
熟した書法が共存しているところが、
《シモン》の音楽に他のヴェルディ
作品にはない独特の美しさを与えて
いる。
もちろん、
《シモン》の魅力は音
楽だけにあるのではない。本作には、
ヴェルディが好んだテーマが凝縮さ
れているのだ。
「父と娘」の愛。政
治。対立と和解。多面的な性格を持
つ、魅力的な男性主役。そして、シ
ェークスピア。
ヴェルディがシェークスピアに心
酔していたことはよく知られている。
主要作品をすべてオペラ化したいと
夢見たほどだ。イタリアではシェー
クスピアの人気は他国ほどではなか
ったから、ヴェルディの傾倒ぶりは
注目に値する。彼はシェークスピア
が描く「人間」に惹かれた。オペラ
化は初期の《マクベス》(1847 年初
演)と、晩年の《オテロ》、《ファル
スタッフ》(1893 年初演)の 3 作に
とどまったが、他にもいくつか構想
は練った。とくに有名なのが『リア
王』へのこだわりで、台本まで作っ
てもらったものの、作品の壮大さ複
雑さに直面して断念している。
実は《シモン》のオリジナル版
は、
『リア王』と格闘していた時期
に書かれている。『リア王』の重要
なテーマのひとつは「父と娘」の愛
にあるが、《シモン》に見られる父
娘の情愛は、『リア王』にも共通す
るように思われる。ちなみにやはり
父娘の愛を主題にした《リゴレット》
(1851 年初演)も、『リア王』から
大きく影響を受けている。
だが《シモン》にみる父娘の愛の
深さは、『リア王』だけでは説明で
きないかもしれない。「父と娘」の
愛情を描くのを好んだヴェルディだ
が(彼の 26 作品のオペラのほとん
どにこのテーマが登場する)、《シモ
ン》の場合、父と娘の情愛は 2 代(父
シモンと祖父フィエスコ)にわたっ
ているのだ。さらに、やはり本作の
重要なテーマである、シモンとフィ
エスコの決裂(プロローグ)と和解
(第 3 幕)の鍵となるのも、やはり
「娘」なのである。
ここで、憶測と囁かれる危険を承
知で、ヴェルディの私生活と「娘」
との関係を探ってみたい。
Philharmony November 2013
した。台本も大きく手を加えられた
名
曲
の
深
層
を
探
る
ヴェルディには直系の子孫がいな
のだろうか、という疑問も沸く。
い。24 歳で結婚した最初の妻マル
実はヴェルディはジュゼッピー
ゲリータとの間には女と男の 2 人
ナとの間に女児をもうけていた可
の子供が生まれたが、2 人とも夭折。
能性がある(もちろん確証はない)。
後を追うようにマルゲリータも世を
ある研究者が調べたところによる
去った。この時の幼子を喪った体験
と、ヴェルディの故郷ブッセートで
は、ヴェルディのオペラに頻出する
2 人が同棲を始めて 2 年ほどたった
「父と娘」の理由を私生活に求めよ
1851 年の春、近くのクレモナの棄
うとする時に、必ずといっていいほ
て子養育院に、「Santa Streppini」と
ど引き合いに出される。
いう名前の女児が棄てられた。調査
しかし《シモン》のオリジナル版
を行ったアメリカの研究者フィリッ
が初演された時、ヴェルディは 40
プス・メッツは、この女児は、ひょ
代半ば。長女との死別から 20 年近
っとしたら 2 人の子供かもしれない
くが経過し、2 年後に正式に結婚す
と推測している。
ることになる生涯の伴侶、ジュゼッ
ヴェルディのようなひとが、子供
ピーナと同棲してすでに 8 年を数え
を棄てるなどということがあるだろ
ていた。いくら痛恨だったとはいえ、
うか。現代日本の私たちはそう思う。
昔の出来事にそれほど左右されるも
だが 2 人の関係は世間の非難を浴
ヴェルディ
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ
手で、スカラ座のプリマドンナとし
て活躍し、
《ナブッコ》のヒロイン、
アビガイッレも創唱したジュゼッピ
ーナは、現役時代に複数の男性との
間に複数の子供をもうけ、ほとんど
まったくないとは言えない、と筆者
は思う。
もうひとつ。子供を棄てた(かも
しれない)頃のヴェルディは、実の
父親との軋轢にも直面していた。父
子の仲は以前からしっくり行ってい
このような形で棄てていたのだ。
なかったが、ジュゼッピーナとの関
カトリック社会のイタリアでは、
係はそれに輪をかけた可能性がある。
私生児は公的にはタブーだった。け
彼女が妊娠したとしたら、亀裂は決
れど一方で、
に私生児があふれて
定的なものになったかもしれない。
いたことも事実だ。放蕩の都として
実際この時期、ヴェルディは公証人
知られていたヴェネツィアで、ヴィ
を立てて、父がつくった借金をはじ
ヴァルディが指揮していたオーケス
めとするもめごとを精算している。
トラは、このようにして棄てられた
これもまた、当時ではスキャンダラ
少女たちの楽団だった。ジュゼッピ
スな出来事だった。
ーナの行為は、一般社会よりはるか
このような状況は、シモンやフィ
に風紀が乱れていた劇場の世界では、
エスコの状況と似通っていないだろ
決して珍しいことではなかった。た
うか。ヴェルディはひょっとしたら、
とえ社会的に成功し、名士として認
シモンのように、棄てた娘に再会す
知されていたヴェルディのような男
ることを夢見なかっただろうか。そ
性との間の子供であっても、そして
して決裂した「父」と和解すること
当人同士が将来を誓いあっていても、
を願わなかっただろうか。
結婚していない=神の祝福を受けて
ヴェルディは自分のことを語らな
いない関係から生まれた子供は私生
いひとだった。その一方、作品のな
児以外の何ものでもなかったのだ。
かでは雄弁だった。娼婦の純愛を描
彼らは生涯のパートナーだった。
いた《椿姫》のヒロインには、ジュ
仕事の上でもヴェルディはジュゼッ
ゼッピーナが投影されているとよく
ピーナを信頼して、秘書的な仕事を
言われる。《シモン》にもまた、ヴ
任せていたし、創作面で手伝っても
ェルディを取り巻く人間もようが、
らったこともある。だが 2 人の関
そしてヴェルディ自身のさまざまな
係はスキャンダルになっていたから、
思いが(平和を願うシモンの姿には、
その上子供ができたことが知られで
ヴェルディの政治的な理想が託され
もしたら、火に油を注ぐ結果になっ
ていると考えられる)織り込まれて
たことは間違いないだろう。そのよ
いるのかもしれない。
うなことを考えれば、子供ができた
としたら、その子を棄てる可能性は
(かとう・ひろこ 音楽評論家)
Philharmony November 2013
びる類のものだった。元ソプラノ歌
A
*12 月定期公演の聴きどころ*
Program
今夏、N響のザルツブルク音楽祭
デビューを成功に導いた名誉音楽監
督シャルル・デュトワが、今年も 12
月の東京に帰ってくる。得意の近現
代作品や合唱付きの大作を核にしな
がら、古典派、ロマン派の作品も盛
りこまれた彩り豊かな 3 つのプログ
ラムが用意された。いずれも好奇心
を大いに刺激してくれる公演となり
そうだ。
「遊び心」に富むAプロ
Aプロにはストラヴィンスキー、
ワーグナー《ニーベルングの指環》
、
《トリスタンとイゾルデ》
、さらには
過去の自作からの引用がちりばめら
れ、諧謔と寂寥、諦念が渾然一体と
なった作品世界を作りあげる。
リスト《ピアノ協奏曲第 1 番》で
は名手スティーヴン・ハフの華麗な
技巧が聴きもの。第 3 楽章ではトラ
イアングルがオーケストラに加わり、
鋭く澄んだ響きでアクセントを添え
る。
多彩な作品が並ぶBプロ
リスト、ショスタコーヴィチの 3 人
前半は 20 世紀フランスの 2 人の
の趣向に富んだ作品が並ぶ。それぞ
作曲家が並べられる。ラヴェル《組
れに通底するのは「遊び心」とでも
曲「クープランの墓」
》はバロック
言えるだろうか。
期の先人クープランを称えると同時
ストラヴィンスキー《バレエ音楽
に、第一次世界大戦で戦死した友を
「カルタ遊び」
》で描かれるのは、ポ
悼んだ組曲。ラヴェルならではの洗
ーカーの 3 番勝負。現代なら「カー
練されたオーケストレーションが光
ド・ゲーム」とでも訳されるところ
彩を放つ。デュトワ& N 響コンビの
だろう。作曲者の新古典主義時代の
精妙なアンサンブルが生かされるこ
作品で、明快な書法によってトラン
とだろう。
プのカードの踊りや勝負の成りゆき
デュティユー《チェロ協奏曲「遥
を描く。作品中にはロッシーニ《歌
かなる遠い世界」
》は 1970 年に作曲
劇「セビリアの理髪師」序曲》など
された作曲者代表作のひとつ。期せ
既存作品の断片が紛れ込んで、パロ
ずして、今年 5 月に 97 歳で世を去
ディ的な展開を繰り広げる。
って間もないデュティユーを追悼す
過去の作品からの引用は、ショス
る機会となった。幻想的な響きの移
タコーヴィチの最後の交響曲である
ろいが緻密なテクスチャーを作りあ
《交響曲第 15 番》でも作品の重要な
げる。気鋭ゴーティエ・カプソンの
モチーフとなっている。ロッシーニ
《歌劇「ウィリアム・テル」序曲》や
入魂のソロを期待したい。
後半はがらりと雰囲気を変えて、
だ《グロリア》は、
「無頼漢と修道
演奏される。デュトワとベートーヴ
士が同居する」と形容されるプーラ
ェンの組み合せはやや意外な感もあ
ンクの二面性がよくあらわれた傑作
るが、実は演奏機会は少なくなく、
である。
2000 年の定期公演でもこの作品が取
ベルリオーズ《テ・デウム》は巨
り上げられている。久々の再演であ
大編成による大作。パリのサン・ト
り、一段と熟成を重ねたベートーヴ
ゥスタッシュ教会での初演時には大
ェンを聴かせてくれることだろう。
編成のオーケストラと 2 つの合唱、
壮麗で輝かしい宗教曲による
Cプロ
大人数の児童合唱による総勢 900 名
超を要したという。合唱を担うのは
新国立劇場合唱団、国立音楽大学、
C プロでは 2 つの宗教曲が演奏
NHK東京児童合唱団。デュトワの
される。プーランク《グロリア》と、
声楽を含む大編成作品を扱う卓抜し
ベルリオーズ《テ・デウム》
。ともに
た手腕には定評のあるところ。NH
敬虔 な祈りの音楽という以上に、壮
Kホールの広大な空間が、荘厳華麗
麗なスペクタクルを堪能したい輝か
な響きで満たされる。
しい作品だ。プーランク一流の機知
がきらめき、清冽な叙情性にも富ん
(飯尾洋一)
*12 月の定期公演*
◉ 11/30(土)6:00pm、12/1(日)3:00pm (Aプロ)NHKホール
指揮:シャルル・デュトワ
ピアノ:スティーヴン・ハフ
ストラヴィンスキー/バレエ音楽「カルタ遊び」
リスト/ピアノ協奏曲 第 1 番 変ホ長調
ショスタコーヴィチ/交響曲 第 15 番 イ長調 作品 141
◉ 12/11(水)7:00pm、12/12(木)7:00pm (Bプロ)サントリーホール
指揮:シャルル・デュトワ
チェロ:ゴーティエ・カプソン
ラヴェル/組曲「クープランの墓」
デュティユー/チェロ協奏曲「遥かなる遠い世界」(1970)
ベートーヴェン/交響曲 第 7 番 イ長調 作品 92
◉ 12/6(金)7:00pm、12/7(土)3:00pm (Cプロ)NHKホール
指揮:シャルル・デュトワ
ソプラノ:エリン・ウォール* テノール:ジョゼフ・カイザー**
合唱:新国立劇場合唱団、国立音楽大学** 児童合唱:NHK 東京児童合唱団**
プーランク/グロリア*
ベルリオーズ/テ・デウム**
Philharmony November 2013
ベートーヴェン《交響曲第 7 番》が