「私の羊を飼いなさい」

「私の羊を飼いなさい」
ヨハネによる福音 73
「私の羊を飼いなさい」
21:15-19
今から 7 年前の 3 月に、ヨハネ福音書のこの場面をテキストに、聖書学院
の卒業式のためのスピーチをしたのを思い出します。その年は、木村哲明さ
ん(枚方中振に福音を伝える)ほか 4 名が巣立ちました。実はその時に、こ
のヨハネ 21 章の箇所を選んだ理由は、「私の羊を飼いなさい」という主のお
言葉にこめられた牧者の使命を、4 人の若者たちに語りたかった訳ですが、
本当はもう一つ別の理由がありました。
実はその5ヶ月前のある会で、その時の 4 人がこのシーンをドラマに仕立
てて上演したのを見たのですね。8 年前の「たねまき会」でした。イエス様
の役を演じたのが木村哲明さん。堂々としていて立派でした。ロバート・パ
ウエルよりも、マックス・フォン・シドーよりも良かった。もちろん、贔屓
の引き倒しもありますけれど。「ヨハネの子シモン、この私を愛するか?」
……その時のイエス様、枚方の群に福音することになって、ここの命令のと
おり、主の羊を飼っています。あの時の衣装。イエスは白い長い衣をまとっ
ていましたが、あれは……どこかのシーツを被っていたと思います。タイピ
ン・マイクを胸に着けて語り手をやったのは、石切集会に仕える西川千恵子
さん。シモン・ペテロが岩神さゆりさんで、この後科白なしで登場する「イ
エスの愛しておられた弟子」が有木真理さん。あの公演をご覧になった方は、
ここに何人かおられるでしょう。
セットは素人芝居そのものでしたが、録音の効果でガリラヤ湖の波の音が
聞こえ、浜辺に炭火がおこしてあって、弟子たちがイエスを囲んで朝食を取
る場面……福音書の通りでした。パンと魚までありました。
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「私の羊を飼いなさい」
7 年前の私のスピーチでは、題は「私を愛するか?」としました。今日は
「私の羊を飼いなさい」。シモン・ペテロの愛を試験したり、先の不実を咎
めたりするのが主のご意図ではなかった。むしろ六人の仲間の目の前で、イ
エスはペテロを全面的に信任して、ペテロの面目を回復しておられるのです。
「これはわが愛する弟子である。二つや三つのつまずき位のことで私は見放
さない。私の羊をお前の手に委ねるが、いいか!」これには六人の仲間も驚
いたし、ペテロ自身も跳び上がったでしょう。
1.三度繰り返された問い―私を愛するか?
15.食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、こ
れらよりもわたしを愛しているか」と言われた。
ここは英語にすると、“Do you love me more than these?”という感じ
になります。“these”というのが「これらの物」つまり、網だとか魚だとか
生計の道を「これら」と言われたのだ、と見る人たちもあります。前回ちょ
っと触れましたように、弟子たちが使命を忘れて世俗に埋没しかけたのだと
決めてかかると、「この私が大事か、この魚網と生活が大事か」と叱責なさ
ったことになりますが、私はこの場合の主のお言葉の受け止め方として、ち
ょっと説得性に欠けると思います。
“these”が魚網や生計ではなく“these men”「この人たちよりも」とい
う意味とすれば、「お前にはこの人たちが大事か、それとも私のほうが大事
か」という意味になりますが、この角度からの説明は不自然になります。す
ると「この人たちが私を大事に思う以上に、お前のほうが私を大事に思って
いると言えるか?」という意味が残ります。まあ千九百年間、意見が出つく
した後でやはり、ここに訳してある意味に取るのが正しかろう、という結論
に大体落ち着いております。
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「私の羊を飼いなさい」
「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか?」
そんな比較を確かめなさったろうか……という疑問も当然ですが、この疑
問は、最後の晩餐の時のシモン自身の言葉を覚えている人には、すぐ解ける
でしょう。シモン・ペトロはその時なんと申し上げたか……。
「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまづきませ
ん。」そう言ったのです。そのあと主が「今夜、鶏が鳴く前に、三度わたし
のことを知らないと言うだろう」と言われると、ペトロはむきになって、「た
とえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと
は決して申しません。」私はこれが、シモン・ペトロの偽らぬ本心だったと
思いますし、主もペトロの真情をお分かりになっています。ただ、あの愛を
もっと謙虚な言葉で、己を知る者としてのペトロの口から聞きたく思われた
のでしょう。
「今でもあなたの愛は、この人たちの愛以上に強いと言えるか。
私だけは純粋だと、言えるか?」
この質問を三度、繰り返されたのですが、「三度」というのは、「徹底的
に」というヘブライ的表現とも繋がります。三度裏切ったから……という叱
責の御意図はないと見ました。でも、これを書いた著者がそれを全く連想し
なかったとは言えないでしょうね。問いは二回目からは、「この人たち以上
に」を省いて、それだけに、「愛するか」は鋭くなっています。
2.三度繰り返された答え―主よ、あなたがご存じです!
ペトロの答えもやはり、三回とも同じです。「はい、主よ」の「はい」が
三度目には略されていますが、弱くなっていると言うのは当たらないでしょ
う。「あなたは何もかもご存じです」という言葉に全部をこめて告白してい
る、と言った方がいいのではないかと思います。ただ、あの時と違って、も
うペトロは、自分の愛が仲間のだれより純粋だとか、私だけは違いますとか、
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もう口が裂けても言えなかったでしょう。
ここのシモン・ペトロの答えの中の、「愛しております」という言葉
が主のお尋ねの中の言葉とは違った別の動詞を使っている
ことを指摘する人もいます。とは「愛するか」と「愛します」
でも内容が違うとか、次元が違うと言うのですが……。私も一応ギリシャ語
研究者として、何か理屈を言った方が「それらしく」聞こえることは知って
いますが、正直言いますと、これは同じ言葉を繰り返さないで、セリフに変
化をつけたヨハネの文学的技巧だと思います。初めの頃は迷いましたけれど
も、30 年間原典をかみ締めて、読み返してみて、二つの動詞をここではそん
なに区別して使っていない、という結論に達しました。これはヨハネの文体、
くせですね。ですから今朝はと……「アガポー」と「フィ
ロー」とはどう違う……という話で皆さんを悩ませないことにします。「愛
するか?」……「愛しています。主よ、よくご存じのはずです!」と、この
ままお読み下さい。
この同じ問いを三度というのは、シモンの悲しい記憶を呼び覚まさなかっ
たか、どうか? 主が捕らえられて大祭司の尋問を受けていた夜の、真夜中の
庭の記憶です。「お前さん、あのイエスの弟子じゃないの?」門番の女に咎
められて咄嗟に出たのが、「違う。何の話だ。わしには分からん。」二回目
は男たちから……「お前、あいつの弟子だ!」……「違う。あんな奴、知る
ものか。」―身の危険を感じたとは言え、三度目の答えは悲しかった。「誓
って言うが、あの男を知っている位なら、俺は神の呪いを受けたっていい!」
その時、屋敷の庭で鶏が鳴いた……と。
「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」という問いです。三度もその同
じ問いを繰り返されたので、ペトロは悲しくなって答えた、とだけ著者は記
します。でも、私はシモン・ペトロの精一杯の本気の返事が好きです。日本
人なら「いいえ」とか「申し訳ありません」とか遠慮して言うところでしょ
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うか。「とても愛しておりますとは言えません」とか……。
でもシモンは“No”とは言わず、“Yes”と答えました。ここがすばらし
い。これは私の感じ方ですが……。「主よ、あなたは何もかもご存じです。
私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」これは
もう、自分の愛を誇る人の「愛します」ではなく、悲しい自分を知った後で
なお、イエスの変わらぬ愛を知る人の「愛します」です。この方の愛に答え
るしか生きる道はない。だからイエス様が大事なのです。イエスなしの自分
は無い。「はい、主よ、愛しております。あなた様がご存じです。」―私
は好きですね。自分もそうお答えしたい。どんな失敗をした後も、死んでし
まいたいくらい悲しい時も、そうお答えしたい。
3.三度繰り返された信任―私の羊を飼いなさい。
実はここでも、細かい言葉の違いを取り上げようと思えば、イエスの委任
のお言葉は、最初が「私の子羊」で、後の二回が「私の羊」と変わっていま
す。動詞のほうも「飼いなさい」から「世話をしなさい」に変わって、また
「 飼 い な さ い 」 に 戻 り ま す 。 原 文 で は  か ら
 そして と、順列みた
いに変化しています。順列でしたら nPr = という計算で行くと、他にもう一
通りある訳ですが、これも著者の言葉あそびだと割り切って良いでしょう。
繰り返し読んで、ヨハネのギリシャ語の文章の癖に慣れると頭を冷やしてド
ライに読めます。ここも昔からいろいろ、神学者たちが引っ掛かって、解釈
に創意を凝らした箇所ですが、数学の計算みたいな読み分けは「必要ない」
と言い切って宜しいでしょう。
大事なことは、主を一度裏切ったペトロ、失格者ペトロに少しも構わずと
いうか、失敗者への不信感を入れず、割り引きを付けずに、「良し。分かっ
た。お前が今も私を愛していることはこの私が知っている。私の羊たちをお
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「私の羊を飼いなさい」
前に委ねる。羊飼いの役目を果たして子羊たちの命をしっかり守れ」と、全
委任、全信頼を改めて確認なさった。私がシモンだったら泣いてしまうでし
ょうね。それより、回りはどうですか……。主が何か一言はおっしゃるか? そ
れほど意地悪くはなかったにしても、六人は緊張したと思いませんか? イエ
スのお言葉を聞いて、あなたなら拍子抜けするか、憤慨なさるか、それとも
自分も同じだと恥じて顔をふせるか……。
でも叱責も警告もなく、ただ何も無かったかのように、これから生まれる
イエスの弟子を新しいペトロに全部委ねて信任を宣言なさった―本当はペ
トロだけにではなくこの時の七人全部にだと思います。もちろん八人目がそ
こにいたなら、それがあなたでも同じ信任を示して下さった。そう私は思い
ます。この 16 行の重みはその一点にあるのです。
「飼いなさい」も「世話をしなさい」も牧畜用語で、羊に食べ物を与えて
安全な道に導くことです。10 章の「良い羊飼い」の絵に描かれていたように、
自分の命を危険に曝してでも羊を守るのが羊飼いの姿です。これは私たちの
中でも兄貴に当たる、群の長老たち、成長した大人のクリスチャンの絵とし
て、使徒言行録や書簡に描かれます。パウロは「あなたがもし、いつかそう
いう羊飼いの長老を目指したいなら、それは目指すに足る高貴な目標だ」
(1
テモ 3:1,私訳)とテモテに教えました。
シモン・ペトロの話に戻ります。彼はもちろん、この後で五旬節に聖霊に
どっぷり浸けられて、“神の息吹”にチャージされるのですけれど、この朝
すでにイエスのこの御信任で完全に立ち直ったというか、立ち直り以上の力
で奮い立ったとは思いませんか……!
《 まとめと結論 》
「私の羊を飼いなさい」という、シモンへの信任のお言葉を中心に、今朝
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「私の羊を飼いなさい」
は学びました。私たちの多くはしかし、主の羊を委ねられて世話をするとか、
子羊の命を養うとか、守るとかは、およそ自分とは程遠い世界の会話に聞こ
えるかも知れません。イエス様とペトロとの間で勝手に対話をしていらっし
ゃる。私はむしろ、羊飼いに養っていただく子羊のほうだ。いや、その羊と
してイエスの群れに入れて頂く決心をする前の状態である……とかですね。
でも、それはそれでいいでしょう。しかし、このペトロへの信任の宣言は、
受け止め方によっては、どんな弱いクリスチャンにとっても、限りない大き
な力になって迫ってきます。
シモン・ペトロは三度主の信頼を裏切ったと言います。「私はそんな人は
知らない。弟子なんかじゃない。」でも、私たちも「イエス様を信じていま
す」と言うものの、時に自分は本当に信じているのか、そうでないのか、分
からなくなったり、信じているお方が見えなくなったりして、不安と恐れの
中でオロオロする瞬間はありませんか。私にはあります。ここのイエスの宣
言はそんなものを吹き飛ばします。こうしてヨハネの福音は「自分の義」に
よる自信ではなく、
「神の義」による新生が平和と喜びの起点であるという、
パウロと同じ福音を響かせて結ばれます。
おととしの夏、江坂の会の時の、飯島正久氏の講演を時々思い出します。
クリスチャンが「信じます」と告白しながら信じ切れない時の悲しさを、一
同がドキッとするような現実感でお話しになりました。プリントをお持ちの
方は、再読する価値があります。講師は「あなたはクリスチャンですか?」
というストレートな問いを、初めと終わりに繰り返されたのですが、考えて
みるとあれは、この時のシモンへの問いと相通じるではありませんか。「ヨ
ハネの子シモン、私を愛しているか?」―先程申し上げたように、私はシ
モン・ペトロの答えがとても好きです。これは私の答えでもあります。「主
よ、あなたは何もかもご存じです。私が(それでも)あなたを愛しておりま
すことは、あなたがよくご存じです。」「はい、恵みにより私はクリスチャ
ンです」と言い換えられます。
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「私の羊を飼いなさい」というお言葉は、そんな頼りない私への信任の宣
言です。そんな、とても私には覚束ない。イエス様、買いかぶりです……と
申し上げそうになりますが……。でも主は、私の力や可能性に賭けておられ
るのではありません。罪と死を取り除いて清くしたあなたの中に、既に新し
い命の力を入れた。聖霊の力“神の息吹”がそれを完成まで持って行く。そ
う断言された私の主に、私は信じて委ねるだけです。
(1988/03/20)
《研究者のための注》
1.結びで言及した飯島正久氏の講話は、第 37 回キリストの教会全国大会報告書、特にそ
の 12 頁に掲載されています。
2.イエスの言われたを次元の高い純粋な愛、ペトロのを人間的愛着と敬
愛とするのは Westcott, Lenski, Plummer, Temple. 逆にを単に知的で冷た
いタイプの愛と見、の方を生きた温かい愛と見て、イエスが最後にペトロの言
うその本当の愛を確認するとは Trench, MacGregor の説明です。
3.「愛する」という二つの動詞を同義と見た主な理由は、実際に使われた語がヘブライ
語の
bha
であったと思われるからです。
4.20:2と 21:20の同義的併用をも参考にしました。
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