日本基督教団 麻布南部坂教会月報

南部坂幼稚園
http://www.nanbuzaka.com/
青年会
第四主日礼拝後
〒106−0047 東京都港区南麻布 4−5−6 Tel & Fax 03(3473)1276
婦人会
第四主日礼拝後
谷 祐 二
伝道師 松
2010(平成22年)11. 14
教会学校
日曜午前 9 : 00 ∼
聖書と祈り会
水曜午後 7 : 00 ∼
木曜午前 10 : 30 ∼
﹁救 い の 始 ま り﹂
伝道師 松
谷 祐 二
創世記 第一二章一︱九節
主はアブラムに言われた。
﹁あなたは生まれ故
郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさ
い。わたしはあなたを大いなる国民にし あなた
を祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となる
ように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はす
べて あなたによって祝福に入る。
﹂
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロト
も共に行った。アブラムは、ハランを出発したと
き七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥
のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハラン
で加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発
し、カナン地方に入った。
アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレ
の樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人
が住んでいた。主はアブラムに現れて、
言われた。
﹁あなたの子孫にこの土地を与える。
﹂
アブラムは、
彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。ア
ブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西に
ベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこ
にも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
︵新共同訳聖書︶
印刷 有限会社 創文社 Tel(3491)8321
アブラハム︵右の箇所ではまだ改名前の﹁アブ
ラム﹂という名です︶は、イエス・キリストより
も千数百年前の人物です。キリスト教会は、アブ
ラハムの名を大切に記憶に留めて来ました。ある
意味で、
﹁救いはアブラハムから始まった﹂と言
えるからです。神がアブラハムに現れ、初めて、
ある救いの約束をなさった。そして彼は、その約
束を信じて生涯を歩みました。今日のクリスチャ
ンもまた、同じように神の救いの約束を信じて生
きる者たちです。
アブラハムは言わば、
クリスチャ
ンの最初のモデルなのです。
半遊牧民であったアブラハムの一族は、父の代
に、カルデアのウルという町から北西のハランと
いう町まで遠く移住します。食糧その他の住環境
が良かったのでしょう、
一族はそこに滞在します。
しかし、アブラハムとその一党の者たちだけが、
そこからさらに南へ移住し、
なぜか親族と別れて、
今日のパレスチナ、聖書で﹁カナン﹂と呼ばれる
地に入って行きます。
理由はただ、アブラハムが神に呼ばれ、命じら
れたからです。
﹁あなたは生まれ故郷 父の家を
離れて わたしが示す地に行きなさい﹂
。一体ど
こに? そして何のために? アブラハム自身に
は説明のつかないことです。しかし神の側には、
はっきりとした目的があり、彼に約束して言われ
ました。
﹁わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源
となるように﹂
。
﹁祝福の源となる﹂とは、この人のように生き
る者は、この人と同じ祝福を受ける、そのような
モデルにアブラハムがなるということです。
﹁地
上の氏族はすべて﹂
、どんな者でも、アブラハム
のように神の約束を信じ、それを求めて生きるな
ら、
アブラハムと同じ祝福にあずかれる⋮これは、
スケールとしては世界大の約束です。
しかし、
アブラハムにはこの時、﹁大いなる国民﹂
となるべき子孫も、子供一人生まれる見込みもな
ければ、
﹁大いなる国民﹂が住むべき土地もあり
ませんでした。
神の約束は現実離れして見えます。
ついて行って大丈夫なのでしょうか。
アブラハムは何と、信じたのです。妻と甥とし
もべたちを連れ、もう戻らないという決意の表れ
として財産をすべて携えて、神が示される地を求
めて、父の家を出ます。その彼を待っていたのは
未開拓の新天地ではなく、先住民でした。
﹁その
地方にはカナン人が住んでいた﹂
。しかもそこで、
神が現れて言われます、
﹁あなたの子孫にこの土
地を与える﹂
。
神の約束と現実との、このギャップ! 先住民
の間に一時滞在し、転々と移住を余儀なくされな
がら、それでも、アブラハムが行く先々でなした
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麻布南部坂教会月報
成人会
第三主日礼拝後
日本基督教団 キリスト教入門講座
第二主日礼拝後
主日礼拝
日曜午前 10 : 30 ∼
ことがあります。
﹁祭壇を築き、主の御名を呼ん
だ﹂
。
自分を呼び出され、
約束をなさった神に応え、
礼拝をしたのです。これが、アブラハムの旅の始
まり。そして、一生がこのような旅でした。子孫
は与えられました。しかし得た土地は、若干の井
戸と、一族が葬られるべき墓地だけです。彼は神
に欺かれたのでしょうか。
否。行く先々で祭壇を築き、主の名を呼びなが
らのこの旅を通して、彼は知ったのです。
﹁神の
示す地﹂とは、﹁神のいます所﹂なのだ。わたしは、
神にお会いするために旅に出されたのだ、と。思
えばウルもハランも、日月星辰、神ならぬものを
神と崇める土地でした。神の見えない所から、神
の見える所へ。神の居られる所ならどこへでも行
き、神の御顔の前で、神と共に歩む。それこそが、
神の約束なさった祝福なのだと、彼は生涯を通し
て知りました。
つまり神は、﹁わたしのもとに来い、
わたしと共に歩め﹂と彼を招かれたのです。それ
が、神を知らない世界から彼を救い出す、神の御
手であったのです。
﹁地上の氏族はすべて あなたによって祝福に
入る﹂とアブラハムに言われた神は、わたしたち
にもまた、
﹁あなたもアブラハムの子孫たり得る
のだ﹂と呼びかけておられます。しかもわたした
ちは、アブラハム以上にはっきりと神を見ること
を許されるに至りました。
﹁アブラハムの子ダビ
デの子、イエス・キリスト﹂
︵マタイによる福音
書一章一節︶を。アブラハムに告げられた約束を
真に実現するために、この方は来られました。イ
﹁あなたが
エス・キリスト自らが仰っています、
たの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は
聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多
くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見て
いるものを見たかったが、見ることができず、あ
なたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞
︵マタイ一三章一六︱一七
けなかったのである﹂
節︶
。この方を信じてクリスチャンになったとす
れば、わたしたちはアブラハムのように、神の救
いの約束を信じ、神の言葉に従って旅立ったので
す。神のいます所、イエス・キリストのいます所
へと。
ばれる祠が見られた。これらのパウロの足
き れ い に 整 備 さ れ て い る。 コ リ ン ト 湾 と
跡は使徒言行録に記されており、その個所
エーゲ海を結ぶ位置にあり、昔は非常に繁
パウロの足跡を訪ねて
栄した港という。パウロが第二伝道旅行の
をツアー参加者一同で読んだ。
帰りに、シリアに向けて船出をした港とし
目の前に広がる静かな遺跡は、観光ルー
木 村 信太郎
トから外れ、中々訪れる機会は少なく、今
て知られている。
回の旅の目的の1つでもあった。
ペロポネソス半島をコリント湾に沿って
成田から太陽を追いかけて飛んだおかげ
バスはイグナチゥス街道に沿って走りパ
西に行くと、イオニア海に面した港町パト
で、明るいうちにチュウリッヒ空港に着陸
ウロが初めてヨーロッパに上陸した﹁カバ
ラがある。ここからフェリーでイタリアの
ラ ﹂ に 向 か っ た。 聖 書 に は﹁ ネ ア ポ リ ス ﹂ パーリに向かう。夕方6時発、翌朝8時半
した。乗継ぎ機を待ち、目的地のテサロニ
キ空港に着いたのは夜中過ぎであった。
と書かれている港町である。古い町である
着。
翌 朝、 バ ス で テ サ ロ ニ キ の 街 中 を 走 る。 が現在も賑やかな町である。港からほど近
バーリを出てイタリアを横断する途中に
この町は、アレキサンダー大王の義妹の名
い所に、パウロのヨーロッパ初上陸を記念
ある、世界遺産﹁アルベロベッロ﹂と﹁マ
テーラ﹂に寄った。我々にはあまり知られ
前から名づけられたとのこと。なるほど響
した聖ニクラウス教会がある。教会の前に
きのよい地名だと思った。これからの説明 ﹁パウロ上陸﹂の大きな絵が描かれた顕彰
ていない観光地であるが、最近はテレビで
に は、 度 々 ア レ キ サ ン ダ ー 大 王 と そ の 父
碑があった。ここから、パウロは困惑と大
紹介されている。
バスはマテーラからナポリに着く。翌朝、
きな期待をもってフィリピに向かったこと
フィリポス2世の名前が登場する。これか
で あ ろ う。
ら行こうとしているフィリピはそのフィリ
︵私達はフィリピからカバラ向
サ ン タ ル チ ア 港、 ポ ン ペ イ の 遺 跡 を 見 て、
かった。
ポス2世の名に由来する。ギリシャ第二の
︶
﹁ ポ ツ オ リ ﹂ に 向 か う。 こ こ は 世 界 遺 産 に
囲まれて有名ではないが、パウロがローマ
この街は活気に満ちていたが、バスは非情
使徒言行録によると、パウロはアテネで
は、良い結果が得られなかったらしい。パ
にもどこの遺跡にも寄らず、フィリピに向
へ向かった時の上陸地である。往時は賑や
かった。
ルテノン神殿を望むアレオパゴスの丘で、 かな港町であったが、今ではナポリ︵ネア
着 い た 所 は、
﹁ 町 の 門 を 出 て、 祈 り の 場
ギリシャの人に教えを説こうとしたが、軽
ポリス・新町︶の方が繁栄している。パウ
くあしらわれてしまった。ギリシャ文明の
所がある川岸に行った﹂と聖書に書かれて
ロ上陸を記念する教会が建てられている。
いる所である。花が咲いた庭の先に小さな
牙城では手強いものがあったのだと思われ
遂にローマに到着した。市内にはアッピ
ア街道の始点が見られたが、パウロは﹁ポ
会堂があり、
それは﹁ルデア洗礼記念教会﹂ る。パウロが論争をした広場には、石碑の
ツオリ﹂からこの道を通ったのだろうか。
であった。その日は幸運にも、3人の中学
説明文があったが、ギリシャ語なのでまっ
生 の 洗 礼 式 を 見 ら れ る と い う。 ガ ン ガ 川
たくわからず残念。
パウロが処刑されたローマ郊外の刑場跡
︵ルデア川︶のほとりで、200 人を越す
パルテノン神殿は大変な混雑であった。 に﹁トレファンターネ修道院﹂が建てられ
世界中から老いも若きも集まったという感
会衆に囲まれて、盛装をしたギリシャ正教
ている。首を刎ねられて、それが3度飛び
の司祭によって洗礼が行われた。最後の女
じである。
跳ねた。首が地面に着いた所に泉が3つ湧
子 中 学 生 の 時 は、 テ レ ビ カ メ ラ を は じ め、
ペロポネソス半島の付け根にあるコリン
いたという。大変静かな修道院である。街
沢山のカメラマンが囲んだ。私も沢山の写
ト運河を眺めてから、コリントの遺跡を訪
はずれにある刑場ということで小塚原刑場
真を撮ったのは言うまでもない。
ね た。 現 在 の 街 か ら 外 れ た と こ ろ に あ り、 や小菅刑務所を思い出す。
フィリピは静かな古い遺跡だった。エグ
﹁ サ ン パ ウ ロ・ フ ォ ー リ レ ム ー ラ 聖 堂 ﹂
小高い丘の上にあった。コリント遺跡博物
ナチア街道に沿った、往時を思わせる大き
館を見学し、横に広がるコリントの遺跡を
はその名前が示す通り城壁の外にあり、往
な遺跡で、アレキサンダー大王が率いるマ
歩いた。パウロが一年半住んで宣教したコ
時そこは墓地であった。そこにパウロの死
ケドニア軍が進軍して行った様子が偲ばれ
リント。この地に立って、使徒言行録 章
体が埋葬され、その上に、キリスト教を解
を皆で読んだ。
禁したコンスタンチヌス帝によって聖堂が
た。 街 道 に 沿 っ て 広 が る 遺 跡 の 中 に
﹁ Forum
﹂ と 書 い た 石 が あ っ た。 パ ウ ロ と
コリント遺跡から KMほど東に行った
建てられた。しかし、
火災によって失われ、
シラスが高官たちに引き渡された所であろ
エーゲ海に面した所に﹁ケンクレア﹂があ
現在のものは18 23 年に再建されたも
う。街道の反対側に﹁パウロの獄屋﹂と呼
る。 訪 れ る 人 の 少 な い 海 水 浴 場 で あ る が、 の。ローマで︵世界で︶最も美しい聖堂だ
〔2〕
麻布南部坂教会 月報
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という。パウロを記念するに恥じない建物
である。
昔テベレ川に沿った低地に、ユダヤ人居
留地が割り当てられた。そこにパウロが住
んでいたという言い伝えにより教会が建て
ら れ た。﹁ サ ン パ ウ ロ・ ア ラ レ ゴ ラ 教 会 ﹂
である。
建物の幅は メートルもあろうか。
狭い所で、観光バスはとても入れない。前
の広場も広くなく、小さな駐車場になって
いた。1971年以来、神父さんはおられ
ないとか。
﹁ バ チ カ ン 美 術 館 ﹂ に 行 く。 入 口 か ら 大
混雑であった。美術館の陳列室に入ると彫
像、絵画等テレビで紹介されたものが見え
る。しかし写真を撮ろうにも人の頭に遮ら
れ て 難 し い。 後 程 解 説 書 で 確 認 し よ う と
思った。続いて﹁システィーナ礼拝堂﹂に
入 る。 こ こ は フ ラ ッ シ ュ 撮 影 禁 止 で あ る。
天井が高く、並みのカメラでは歯が立たな
い。それでもパッ、パッとやっている。有
名な天井画、壁画が目の前にある。しばし
我を忘れて見入った。
シ ス テ ィ ー ナ 礼 拝 堂 か ら、﹁ サ ン ピ エ ト
ロ 大 聖 堂 ﹂ に 入 る。﹁ サ ン パ ウ ロ・ フ ォ ー
リ レ ム ー ラ 聖 堂 ﹂ に 対 し て 規 模 の 大 き さ、
荘 厳 さ な ど 比 べ よ う が な い。 さ す が カ ト
リックの総本山である。内部を一回り足早
に見て廻り、お目当ての﹁ピエタ像﹂の前
に来た。周りが広いので人だかりもまばら
である。この像を見るのは3度目であるが、
何度見ても感動を与えられ、時が経つのを
忘れさせる。
ローマにおけるパウロの事蹟は他におけ
る ほ ど 我 々 に は 知 ら れ て い な い。 し か し、
ローマは、ここに住み着いて本を書いてい
る人もいるほど遺跡の宝庫である。一日や
二日の見学ではどうにもならないもどかし
さを感じながら、帰路に着いた。
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