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第二部 コレクションについての考察
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第一章 コレクションに関する一般的考察
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(一)コレクターとコレクションについて
コレクションができるためには、コレクターの存在が必要不可欠であることは言うまで
もない。したがって、どのような人がコレクターになるのか、またどのようなコレクター
がいるのかをまず考察したいが、その考察に先立って、人間の収集癖に少し触れておく。
収集癖は誰でも程度の差こそあれ持ち合せている癖であるが、その傾向が強い人とそうで
はない人がいることは自分のまわりの人間を少し観察するだけで十分肯ける事実である。
換言すると、人間のタイプには、幼少時に何かを集めることが好きだったタイプとそうで
はなかったタイプの二種類が認められる。それは、海での貝や海草の採取、昆虫の採集、
押し花、切手やコイン、模型などの収集経験の有無や頻度を通して確かめられる。収集に
おける熱心さの違いはあるとしても、集める行為、つまりコレクターの初期段階的行為は、
普通のタイプの人間が好む行為といえるが、それが普通ではなくなるのはどの段階からで
あろうか。また、収集にとどまらず蒐集となるためには、すなわち、「コレクターの初期
段階的行為」から「コレクターの行為」となるためには、どういう段階を経なければなら
ないのだろうか。ここでは「コレクターの初期段階的行為」を収集と呼び、「コレクター
の行為」を蒐集と呼ぶことにする。
日本民藝館の創設者である柳宗悦は『蒐集物語』1のなかで、根付に関して「鏡、鈴、根
付、矢立、鍔、水滴、盃、油壷、煙管等々、これらのものは集め易く人の心をそそるとみ
える」と記している。また、「蒐集はものへの情愛である」
「蒐集は見方によって整理され
たものでなければならない」「物をじかに見て選び出すのが本筋である」「集めるものにど
れだけの美しさがあるか、そのことへの判断が働かねばならぬ」
「良い蒐集は直感の反映で
ある」2などと書いて、コレクターに至るさまざまな段階を示唆している。こうした「コレ
クターへの戒め」は、収集が蒐集になるために通過しなければならないいくつかの段階に
おける心得の真髄であり、殿下が辿られた道とも重なっている。さらに、精神科医の春日
武彦は自著『奇妙な情熱にかられて』3のなかで、「蒐集癖は神経症的な営みである。病気
とまではいえなくとも、神経症に近い。蒐集などに熱を上げないで済む者のほうが明らか
に健全である。ただし健全であることと人間的な奥行きがあることとは別」と書いてい
る 4。この発言もまた殿下の「根付蒐集は病である」とのご発言と、まるで知者の見解に
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おける一致を想わせるように通低しているし、その「人間的な奥行き」は、近代における
自我を病とみなす思考形態と無関係とはいえない。その結果、そうしたことを感得した他
の根付蒐集家も殿下のご発言に同意し、当に「同病相憐」状態となっている。こうした状
態にあるコレクターは自分の蒐集したものを「同病」にかかっている他の蒐集家と見せ合
いながら、仲間意識をもって蒐集に努める。しかしながら、かれらといえども孤立して蒐
集する人との接点は有していない。そういう、かれらと接点がない、孤高を保っているコ
レクターの存在も否定できない。
ところで、ある程度蒐集が進み、様々な段階を経て集めた根付の数が増えるにつれて、
根付コレクターは自分自身の行為に意味を持たせたいと感じ始める。柳宗悦は「蒐集は私
有を越えて、普遍的な価値をこの世に 贈るのである。物があるというよりも、蒐集によ
って物が創造される と言わねばならぬ。良き蒐集家は第二の造り主である。」 5と書いて
いる。すべてのコレクターがそうであるとは言い切れないが、殿下はこの種類、つまり
「良き蒐集家」に属されていた、といえる。そのことは、根付を蒐集なさった殿下の「根
付蒐集は病である」とのご見解が、わが国だけでなく、海外のコレクターにおいてもまた
見られる考え方であることからもわかる。
たとえば、大英博物館のオウガスタス・ウォラストン・フランクス(Sir Augustus
Wollaston Franks)がそのひとりである。彼が 1893 年頃に記した原稿 The Apology of my
Life「わが生涯の弁解」が 1983 年に彼の姉妹の子孫の所有品として見つかったが 6、それ
には「蒐集病」のことが記されている。この病が母方の先祖から受け継いだものであり、
「蒐集は遺伝性の病であり、そして不治の病ではないかと思う」など「蒐集病」に関する
ヒューモラスな言説は、本論に登場する多くの蒐集家が共感できるものであると考える。
大英博物館に多くの根付を寄贈した女性コレクターのアン・ハルグランディに関しては
大英博物館の項で詳しく述べることとするが、女史は、英国のいくつもの博物館に貴重な
品々を寄贈しており、根付のほかに大英博物館には金細工、銀細工、鉄細工、象牙、カメ
オ、珊瑚、七宝などからなる 1200 点に及ぶ装身具のコレクションを寄贈している。彼女
は一分野だけの蒐集に飽き足らず、広範囲に蒐集し、寄贈している。彼女も蒐集病の表れ
と思われる行動を取っているように見受けられる。
第二部第二章において世界の根付コレクションとそのコレクションにかかわりのある根
付コレクターについて論述する予定である。作業として、本章において根付コレクターと
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いわれる人たちの性向的特質を確認しておきたい。コレクターのある側面に関しては、す
でに第一部でもふれたが、ここでは現在蒐集を続けている根付コレクターの性向にはどの
ような特質があるであろうかという点に焦点を絞り、より考察を深めたい。今まで論者と
共通の趣味をもつ知人として接してきた蒐集家 10 人に改めて本章のための取材をした結
果、かれらにはある性向的特質があることがわかった。まず、どの根付がほしいか、とい
う点に関していえば、両極端の二つの傾向がみられる。その一つは「追った獲物は絶対に
逃がさない」という、ライオン・ハンター的タイプのコレクターであり、第二は「ご縁が
あったら絶対に自分のところにくる」と信じている「果報は寝て待て」を実践しようとす
るオプティミスト的タイプのコレクターである。大半のコレクターはその両極端の間のど
こかに位置しているか、間を行き来していると思われる。他方、殿下も論者も一方の極端
に位置する「ご縁があれば」のタイプであると自分たちの性向的特質を分析している。
なお、現代根付を蒐集する場合と異なり、古根付蒐集の場合には対象は限られた数しか
ないわけであるから、蒐集できる古根付に関する情報を正確に把握して、他のコレクター
よりも早くその目指す古根付に辿り着き入手する必要がある。
根付コレクターは、根付獲得に対する自らの性向的特質に基づいて、目当ての根付を入
手することになる。そして入手したあとのコレクターの性向的特質にも二種類の傾向がみ
られる。その入手した根付獲得の喜びを分かち合うタイプと、誰にも見せずに金庫に納め
てしまうタイプの二種類である。殿下も論者も前者に属していて、新しく根付を入手した
喜びを多くの人々と分かち合いたいと願ってきた。このタイプのコレクターにあっては、
群れて楽しむ一種の仲間意識が生じ、共通の趣味を共有する者同士の前で、ささやかな優
越感に浸りながら、互いの得た情報を交換したり、互いが苦労して獲得した根付を見せ合
って楽しむことを望むという性向がある。したがって、このタイプのコレクターは、根付
関係の会合にも、また、研究発表などにも定期的に出席して、活発な意見交換を行う。そ
れに対して、もう一方の、根付を入手したあとはそれを金庫に納めてしまうタイプのコレ
クターは本論文作成のために取材という必要がなかったならば、お会いして根付について
話し合うこともなかったであろうと思われる。
根付コレクターに見られるこうした二種類のタイプは、動物が狩をするときの姿に似て
いるので、動物行動学の観点からも比喩的に考察することも可能である。動物が狩りで倒
した獲物を銜えて群れに戻り、その獲物を皆で共有する場合もあれば、獲物を独り占めす
る場合もある。後者のタイプに関していえば、骨を埋める犬、木に獲物を引き上げておく
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豹、虫やカエルなどを木の枝に串刺しにして「速贄」をつくる百舌鳥等にも似ていると言
えよう。そうしたことを論者に連想させたのは、「金庫に入れる」、と答えたコレクター
が思いのほか多くいたからである。その中には、根付だけの蒐集家ではない人も入ってい
るが、かれらは「一度金庫に入れたらほとんど取り出さない」と論者に語った。つまり、
手に入れてしまった途端、狩りで得た獲物は忘却の彼方へ追いやられ、獲物そのものに関
する感動も情報も余韻もそこで途絶えてしまう。つまりかれらは獲物そのものだけではな
く、獲物のもつ付加的価値をも無視する傾向にある。しかしかれらと類似したコレクター
は根付に関するコレクターのなかでは少数派に属している。
かれらと違って、大半の根付コレクターはコレクションをより良いものに作り上げよう
と、優れた根付を入手するための資金作りやコレクションの質の向上を目的として、他方
では不要と判断した根付を選別して手放していく。コレクターのなかには、間引きのよう
な作業をする人もいる。どの段階でそれが行われるかはコレクターによって異なるが、カ
ナダ人の故アーヴィング・グールド(Irving Gould)は自分のコレクションとして保管す
る根付の数を予め決めておいて、その数を越えたら、超えた数だけ根付を手放したという。
このことに関しては、第二部第二章の LACMA の「ブッシェル・コレクション」の項で詳
述する。
ところで、美術品の蒐集に携わるコレクターの数は女性より男性が多いし、女性がコレ
クションをもっている場合も、それは夫や親から相続したものである、と言われてきた。
根付に関してもその傾向は見ることができる。しかし、論者の場合は、女性であるが殿下
にお会いする前から根付を蒐集していた。そして、結婚後も、殿下が主導権を持ってはお
られたが、論者も蒐集の過程において殿下と協力して蒐集を進めてきたし、殿下が亡くな
られたあとも引き続き、根付蒐集を続けている。しかも、そういう女性は論者だけではな
い。世界に眼を向けると、数の点で男性に劣るとはいえ、優れたコレクターの女性が相当
数存在することが確認できる。
後述するように、大英博物館に多くの根付を寄贈したアン・ハルグランディ(Anne
Hull Grundy)のほかにも、例えばフランスにはデネリー夫人(Clémence d'Ennery)がい
る。彼女は、蒐集した 1,700 点の根付を含む日本と中国の美術品で飾られた家で、作家で
ある夫のために華やかなサロンを開いていた。彼女の死後パリのアヴェニュー・フォッシ
ュにある家は当時のままに残された上で、その家をデネリー美術館(Musée d'Ennery)と
して 1907 年に母国フランスに遺贈された。
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また、Contemporary Netsuke と Living Masters of Netsuke を書いたミリアム・キン
ゼイ(Miriam Kinsey)も夫のロバートとともにではあったが、コレクターであった。彼
女は、どの根付が好きか、どれが欲しいか、どれを購入すべきかに関して、はっきりした
好みと見解と基本方針を持っており、それが後述する「キンゼイ・コレクション」の構成
に反映されたている。
以上みたように、清少納言の「小さきものは、皆うつくし」
(『枕草子』)という言葉は平
安時代の日本女性だけではなく、世界の女性に、あるいは人間に共通のものかもしれない。
誰しもが小さなものに美を感じ、特に掌にある物には愛おしい気持ちをもつものであろう。
しかし、やはり女性の優れた根付コレクターが男性蒐集家と比べると人数的には少ないと
いうこともまた事実である。
根付コレクターにおける男女の数量的違いは認めねばならないが、それを認めた上で付
言すると、男女の根付コレクターに共通した楽しみ方が存在することを見逃してはならな
い。現代作家もコレクターも共に同じ時代を生きているわけであり、コレクターの側から
積極的に作家に近づき、作家の成長を見守り、作家にアドバイスし、作家に対してオーダ
ー・メイドの根付を依頼することもできる。つまり、古根付蒐集の場合には、コレクター
同士の集団に属する平面的な横の関係しか存在しないのに対して、現代根付の場合には、
制作者である根付作家と顧客であると共に支援者・パトロンにもなりうる蒐集家という縦
の関係も生じ、その関係によって双方各々が満足感を得ることができる場合がある点に注
目すべきである。
現代根付におけるそうした関係に関しては、第二章で論じる予定の
LACMA に寄贈したブッシェルは、大内藻水や西野昇己、そして中村雅俊に対していろい
ろ意見を述べていたことを彼自身が Collectors’ Netsuke 7 に記している。また同じく第二
部で論じる予定のキンゼイ・コレクションを創設したキンゼイ夫妻は多くの現代根付作家
の家を訪ねただけでなく、かれらと手紙のやり取りも続けた。古典に学びつつも 20 世紀
を反映するような根付をつくるよう現代根付の作家たちに提案したのも彼ら夫妻である。
殿下と論者も作家の家を訪問したり、各展示会で彼らと会う他、毎年各国の駐日大使主
催で行われる根付の夕べで彼らとの交流を深めることができた。こういう会に出席した現
代根付作家にとっては蒐集家との話し合いによって、大いにに刺激が得られたことは言う
までもなく、その後の制作に生かせていると考える。また、蒐集家の側からしても根付作
家と親しく会話ができたことは、根付制作上の技法について学ぶ絶好の機会であり、また、
そこに居合わせた根付作家たちの人柄や考え方を理解する機会でもあった。
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言うまでもなく、以上のような「熱心な」成長し続けるコレクションのコレクター達と
は別に、コレクターの中には自ら積極的に蒐集してきた自分の目指したコレクションの完
成を待たずに、途中で断念する人たちもいた。そうした人たちのなかで、蒐集続行を断念
した最大の理由は金銭的なものであった。しかし別の理由で蒐集を停止したコレクターも
いる。自らの目指したコレクションが完璧なものになっていると判断した場合などで、そ
れ以上成長させる必要はないからである。ロバート・ハサート(Robert S. Huthart)によ
る石見根付のコレクションは、蒐集家が高齢であるという事とコレクションの完成度が高
いという二つの理由で、蒐集を終了させたと考えられる。また、蒐集家のクライ
(Karl-Ludwig Kley)の場合には、一つのテーマに沿って蒐集をすすめる傾向があり、現
在「相撲」をテーマにした蒐集 8は完成したとみなされ、蒐集を終了したと言われている。
クライは、すでに次のテーマである「干支」に沿っての蒐集を開始しているが、彼のよう
に大きなコレクションをつくる際にテーマ毎の蒐集を別々に完結させていく例を論者は他
に知らない。熱心に根付を蒐集していた人が突然根付蒐集への興味を失ったり、別の形の
蒐集を始める場合もある。最近論者が聞いた例では、自分の大きなコレクションを競売で
すべて売り、蒐集を一時期止めていたコレクターが、新たにゼロから別の蒐集を始めた場
合がある。大きなコレクションはそれなりの責任を伴うので、そのコレクションをひとま
ず手放しておいて、獲物を追う主観的目標を以前より縮小して、再出発したものと推察さ
れる。
さまざまな理由から一人のコレクターの蒐集活動はかならず最期を迎える。時間をかけ
て熱心に蒐集されたコレクションをどのような将来が待っているか、ということを考えて
みると、大きく分けて三つの可能性があるように思える。コレクションの継承、コレクシ
ョンの寄贈か遺贈、コレクションの分散の三つが考えられる。
まず、コレクションの継承であるが、コレクターの伴侶または家族がコレクションを本
人の形見と考え、大事に守る場合やその遺志をついで継承する場合などが考えられる。そ
の一例として 2008 年に 81 歳で亡くなった日本根付研究会の関戸健吾前会長の場合がある。
彼は父親から継承したコレクションを守り、それに自分の判断で新たに何点かを加えたこ
とで、関戸コレクションは完全に停止したコレクションではなかったという解釈が可能と
なる。現在の関戸コレクションは次の代へと継承されたが、この先さらにコレクションに
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新たな根付が加えられることも考えられるわけである。カナダ人のアーヴィング・グール
ドのコレクションも同じように次の代へと継承されている。
ロバート・キンゼイとミリアム・キンゼイ夫妻は協力して蒐集を続けた。かれらが作り
上げたコレクションには何千点もの現代根付があるが、かれらは互いに根付を相手の誕生
日などのプレゼントとしても買っていた。現在 90 歳を過ぎたロバートは甥のチャールズ
と同じマンションに引越し、隣に住んでいる。コレクションは甥夫婦のマンションに展示
されていて、食事もそこでとっているので、廊下を往復する生活だという。ミリアムが亡
くなってからもロバートは蒐集を一人で続けた。甥夫妻もコレクターであり、したがって
キンゼイ・コレクションは将来も甥夫妻によって継承され、成長し続ける可能性が強いと
考えられる。
高円宮コレクションもキンゼイ・コレクションとよく似た経過を辿っている。このコレ
クションに収蔵されている根付の蒐集は、そもそも独身時代の論者が始め、結婚後は殿下
と論者両者のコレクションになったが、二人のうち殿下が主に蒐集を進められていた。従
って、殿下が亡くなられたあとも蒐集は続いているが、それまでのコレクションを「殿下
コレクション」としてデータの記録上は蒐集を停止させた。しかしどのような根付の蒐集
を目指していたかは両者で話し合っていたので、論者も承知している。データのファイル
は論者が新たにしたが、コレクションとしては今尚成長し続けている。
二番目の寄贈や遺贈に関しては、蒐集家が死亡する前に博物館、美術館などの施設へ寄
贈したり、遺贈を明確にしている場合が多いように考えられているが、実態は掴みにくい。
したがって、ここでは寄贈や遺贈の記録が残っている場合のみを考察の対象にする。
コレクションの存在はコレクターなくして始まらないという点は先にも指摘したが、実
は、コレクションとして収蔵されていた根付は、その後、コレクターをなくしてもなお存
在し続ける場合がある。博物館や美術館といった公共施設への寄贈や遺贈の場合である。
また、自分の名前をコレクションまたは寄贈した根付につけて、後世に残すということも
ありうる。この博物館・美術館などへの寄贈はわが国よりも海外の方が積極的に行われて
いる。それは文化の違いの他に、公の施設への寄贈や遺贈を行う者に対する税の優遇制度
があることも関係していると考えられる。第二部第二章では世界の博物館や美術館のコレ
クションをいくつか具体的に考察するが、その際もこうした寄贈・遺贈といった経過を経
て収蔵されているコレクションにはどのような条件が付けられているのか、またそれが時
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間の経過につれて、どのような状況に追いやられているかについてもできる限り触れる予
定である。
最後にコレクションの分散だが、コレクションが公共の博物館・美術館の所蔵品となっ
た後に、分散が生じる場合もあるし、博物館・美術館への寄贈・遺贈を避けるために生じ
る分散もある。フランスの作家で美術評論家、また収集家でもあったエドモンド・デ・ゴ
ンクール(Edmond de Goncour 1822~1896)は遺言で以下の言葉を残しており、コレ
クションの行く末を語るときに引用されているのをしばしば目にする。「私の集めたデッ
サン、版画、骨董品、書籍、要するに私がこれまで楽しんできた、こういう芸術品を、ミ
ュージアムの冷たい墓のような場所に追いやるつもりはないし、芸術品に関心を示さない、
愚鈍な通行人の眼に晒すつもりもない。これらの芸術品が競売人の小槌の下で競売にかけ
られ、競り落とす度毎に私が感じたのと同じような喜びを、私自身の好みを継ぐ人が感じ
られるようになってくれればありがたい」 9。
掌で温め、手の脂がつくことによって艶が出る根付は、もともと天然素材の中でも生き
ていたことのある材料を使って制作された場合が多く、展示ケース越しにみると「乾いた」
感じがする。しかし、博物館や美術館の館内規則によると、素手で展示物を触ることはで
きないことも多く、したがって、苦労して蒐集した根付が素手で触られずに乾いていくの
を見るのが辛いと考える蒐集家の間で、博物館や美術館に寄贈すべきではない、というこ
とが論じられている。
2000 年に、リチャード・シルバーマン(Richard Silverman)はコレクションの一部
分、特に陶磁器の根付を米国オハイオ州のトレド美術館(Toledo Museum of Art)に寄贈
した 10。レイモンド・ブッシェルは第二章で記す通り LACMA に根付のコレクションを寄
贈したが、その寄贈した 820 点以外の根付は妻フランセス・ブッシェルが彼が 1998 年に
亡くなってから受け継いだ。その後、彼女の所有する根付の一部分が競売にかけられたり、
今でも時折彼女の手元からディーラーを経て他のコレクターの手に渡っている。
(二)根付コレクションと美術商とのかかわり
公の施設のコレクションであろうと個人のコレクションであろうと、根付蒐集には専門
知識やアドバイスなどが必要であり、美術商、オークション・ハウスで働く日本美術専門
家、さらに書籍が果たす役割は大きい。なかでも、明治時代に日本の美術工芸品を扱った
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美術商の存在は特筆すべきであろう。また、ロンドンを中心とするオークション・ハウス
の重要性を考察するとともに戦後のディーラーの果たした役割と今日の根付界に及ぼした
影響についても触れておきたい。
1)ジャポニスムと欧米で活躍した美術商
ロンドンやパリで開催された国際博覧会などを通して、諸外国の多くの人たちが長い間
閉ざされていた日本の美術工芸品に触れ、一気にジャポニスムの流れができたが、そのこ
とは、たとえば、ロシアの国立エルミタージュ美術館に収蔵されている多くの根付が、ロ
シアの貴族などによってパリやロンドンで購入されたものであった事実によっても裏付け
られる。また、論者がポーランドのクラクフにある「Manggha」
(マンガ) 日本美術技術
センターで見た根付も美術品蒐集家のフェリクス・ ヤシェンスキ(Felix 'Manggha'
Jasienski
1861~1929)がパリなどで購入し、1920 年にクラクフ国立博物館に寄贈した
ものである。このセンターは「京都-クラクフ基金」により 1994 年 11 月、ヴィスワ川の
ほとり、ちょうど王城ヴァヴェルの対岸に開館したもので、その愛称「Manggha」は北斎
の漫画に因んでヤシェンスキが使用していたものである。氏は多くの浮世絵も蒐集してお
り、この美術館で観られる。
さらに、フランス 19 世紀のジャポニスムに関わった別のひとりとして、デネリー夫人
がいる。彼女は夫の劇作家・小説家のアドルフ・フィリップ・デネリーの為にパリに家を
建て、自分の蒐集した東洋美術品をそこに展示した。フィリップ・シシェル(Philippe
Sichel) やサミュエル・ビング(Samuel Bing)など古美術商の店、そして百貨店オー・ボ
ン・マルシェ(Au Bon Marché)などにも足を運び、集めた東洋の美術工芸品の中に根付
が 1,700 点以上あったという。華やかな会合が開かれていた家にゴンクール兄弟
(Edmond et Jules de Goncourt) や首相のジョルジュ・クレマンソー(George
Clémenceau)などが呼ばれていた 11。
また、富裕な家庭に生まれた美術愛好家で「ルーヴル友の会」の事務局長などもつとめ
たコレクターのレイモン・ケクラン(Raymond Koechlin 1860~1931)や、ルーヴル美
術館の初代極東美術学芸員で自身も多くの日本美術品を蒐集したガストン・ミジョン
(Gaston Midgeon 1864~1930)らは全員、日本美術に関する著作を出版しているが、そ
れらの復刻版も最近出版されている。サミュエル・ビング(Samuel Bing 本名
Siegfried Bing
1838~1905)はドイツ生まれのフランス人だが、横浜に弟アウグストを
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派遣し、1870 年ごろから日本美術工芸品の輸入を開始し、1895 年には Maison de l'Art
Nouveau をオープンし、大成功を収めた。1888 年からは毎月 Le Japon Artistique を出
版したが、これにはアール・ヌーボーへの影響があったとされる。フィリップ・ビュルテ
ィ(Philippe Burty
1830~1890)は美術評論家で執筆も多く、美術蒐集家としても著名
で、月刊美術雑誌『ガゼット・デ・ボーザール』
(Gazette des Beaux-Arts)が 1859 年に
創刊されて以来、コラムを担当していた。
最後に特筆すべき日本人の美術商をここに記しておく。林忠正(1853~1906)は 1878
(明治 11)年パリの万国博覧会に参加する起立工商会社の若井兼三郎の通訳としてフラン
スに渡った。万博後もパリに残り、1881 年頃、若井兼三郎とともにルイ・ゴンス(Louis
Gonse
1841~1926)の『日本の美術』
(全二巻)
(1883 年出版)の著述を手伝った。1884
(明治 17)年 1 月にパリで美術展を開くと日本美術の愛好家が林のもとに通い、彼の豊富
な知識と人柄もあって、パリの芸術家や知識階級との交流が密なものとなった。明治政府
が美術工芸品の輸出を推進する中、欧米人の好みを把握していた林忠正が現地に拠点を置
いていたことは、両国を結ぶ大事な鍵であったと推察する 12。
山中商会の山中定次郎(1865~1936 年)は 1895(明治 27)年にニューヨークに初め
て出店した国際的な美術商である。山中商会は明治後期から戦前まで大阪の本店の他に、
ニューヨーク、ボストン、そして 1900(明治 33)年にロンドン支店を開設し、そこに富
田熊作を派遣した 13。
富田熊作(1872~1953)は「山中商会」のロンドン支店に 1903(明治 36)年から雇わ
れていた。1922(大正 11)年に日本に帰国し、51 歳で「山中商会」を退社して、京都で
個人的に古美術商を営み出した。第二章(三)においてバウアー・コレクションの考察を進
めるが、そのコレクションが優れたものになった背景には富田熊作の存在があった 14。
その他にも、世界の数多くの根付コレクションにかかわっている著名な美術商や、根付
に関してかれらが上梓した書籍も数多くあるが、それらについては、個々のコレクション
を論じる際に引き合いに出すことにして、ここでは根付コレクションにかかわりのある美
術商への一般的論述にとどめておく。
2)20 世紀の美術商
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20 世紀に入ってからの美術商に眼を転じると、根付の世界において、フレデリック・
マイナーツハーゲン(1881~1962)の貢献は計り知れない。
彼が根付に興味を持ち出し
てから 25 年間の年月をかけて取り扱った 10 万点以上の根付のうち、1 万点の特徴や銘を
詳細に記録したカード・インデックスが現在大英博物館に収蔵されている。マイナーツハ
ーゲンはそれらを二冊からなる根付本にするつもりであった。出版する理由として、書籍
の少なさをまず挙げている。それまで出版された根付に関する書籍はアルベルト・ブロッ
クハウス(Albert Brockhaus)の本であったが、この書籍はドイツ語である上に、出版当時
に比べてその数十年後は研究調査が進み、得られている情報の量が格段に違うと彼は考え
た。英語ではジョナス(F.M.Jonas) による小さな本があるだけで、根付の本国の日本に
もほとんどなく、『装劔奇賞』」
(1781 年)、『東京名工鑑』
(1879 年)と『工藝鑑』
(1894
年)があったがどれも完全な根付師の名簿が載っているわけではなく、良い本は数に乏し
かった。だが、残念ながら、マイナーツハーゲンのこの本は出版には至らなかったが、
1986 年にカード・インデックスが 1 冊の本に纏められて出版された 15。マイナーツハー
ゲンは根付の蒐集もしたが、東洋の美術工芸品を専門とする美術商でもあったといえる。
20 世紀になると、多くのコレクターやコレクター/ディーラー、小さなコレクション
をもつディーラーなどが輩出し、膨大な量と書物が出版され、些かの流行はあるものの、
現在に至っている。
1929 年頃、ウィリアム・ウィンクワース(William W. Winkworth)は根付に興味をも
ち、マイナーツハーゲンから多くのことを学び、熱心に根付を蒐集したが、1950 年頃に
興味の対象が刀と刀装具に移り、ウィンクワース・コレクションはマーク・ハインドソン
(Mark Hindson) に売却された。1960 年代後半、ハインドソン・コレクションがサザビ
ーズで競売にかけられたが、根付が低い価格で取引された時代に終わりを告げた画期的な
セールスとなったことで知られる。このオークションは 7 回に分けて 1967 年から 1969
年にかけて行われたものであり、その時の図録を作成したのがニール・デイヴィー(Neil
Davey)である。
ニール・デイヴィーは英国サザビーズ(Sotheby's)にて長年に亘って、東洋美術を担当
した。サザビーズとクリスティーズ(Christie's)、また古くはグレンディニングス
(Glendinning's)は、東洋美術品のオークションに力を入れて取り組んでいた時代がある。
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どの品もこれらのオークション・ハウスで競売にかけられるだけで箔がつくが、そのとき
編集された図録に書かれたことによって、取引される値段が大きく変わる。その編集を任
されることは、重圧であろうと思えるくらい大変なことである。鑑識眼はもちろんのこと、
学者や研究家と同じ知識を持ち、蒐集家を満足させなければならない。値段を吊り上げて
いくのが仕事であるが、それでもそこで競り合っている人が、競り勝ったことを喜ぶよう
な雰囲気作りが必要である。しかも敵を作るわけにもいかない。コレクターは買ったとき
満足すれば、そこでまた売る。2010 年、サザビーズは日本美術部をなくしたが、それに
伴いデイヴィーと彼のチーム数人はボナムズ(Bonham's)というオークション・ハウス
に移った。以後、ボナムズでは大事なセールスがいくつか行われている。例えば、最近で
はランガム・コレクション(Wrangham Collection) が数回に分けて行われている。図録
と予想落札価格はデイヴィーによる。さまざまなコレクションに彼の扱った根付があり、
コレクションが売りに出ると彼はそれらの根付との再会を楽しんでいるようであるが、彼
は二十世紀から二十一世紀にかけての主だったコレクターをほぼ全員知っており、その根
付のコレクションも知っている。もしかすると誰よりも多くの名品を掌に載せてあらゆる
角度から眺める機会があった人物かもしれない。サザビーズの日本美術部がなくなった現
在、ボナムズの図録は貴重な資料として多くの根付愛好家の本棚を飾っている。ただし、
何処のオークション・ハウスの出版物に関しても注意を要する、という事実もここに記し
ておく必要がある。オークション・ハウスが売る側に対して有利な説明をしている、とい
う声が蒐集家の間からしばしば聞こえてくる。つまり、根付の状態に関して事実が見落と
され、図録の記述漏れが目立つ、というものである。近年は専門知識を持つ人材の不足と
いうこともあり、今後考えていかなければならない課題である。彼の著書 NETSUKE に
はハインドソン・コレクションを中心に 1,300 点の根付が載っており一点ずつ克明に彼の
意見が記載されている。また、銘の写真も 300 以上掲載されている。また、根付について
学ぶにあたって自分の師であった W.ウィンクワース(W.W. Winkworth)の師 F.マイナー
ツハーゲン(Frederick Meinertzhagen)の「スクール」または「派」の分類法を「不完全
である」としながら、この膨大な根付の数を分類にするにあって使っている。ただ、論者
が第三部第四章(五)で考察するこの分類法の問題点について既に 1974 年に気づいてい
た様子で、序文の表などでは「スクール」と呼んでいるのにもかかわらず、著書の中で使
っている小見出しは「大阪スクール」、「京都スクール」、「東京(江戸)」、「東京(江
戸):菊川(スクール)」、「東京
浅草スクール」の後は「名古屋」、「津」、「山田」、
67
「岐阜」、「飛騨」、「丹波」、「石見」、「岩代」、「博多」、「越前」、「和歌山」、
「和泉」、「越後」、「加賀」、「大和」、「奈良」となっている。そして、p277 から
p439 は漆工や金工となったあとは、その他の地域が特定できない作家の根付、そして、
無銘及び不詳根付があり、その後に象牙彫、木彫、他の材料が意匠別に分類されている。
ディーラーやオークション・ハウスで働く人々が根付を多くの蒐集家、そして新しい愛
好家に説明するべく、研究を重ねてきたことを明確にするために、あえてこの項で上記を
詳細に書き記した 16。
コレクターと美術商ないしはディーラーの境界線は微妙なものである。コレクターであ
った人が美術商やディーラーに転職することがある。その一人、バーナード・ハーティグ
(Bernard Hurtig)は特筆するべきであると考える。ブリタニカ百科事典のセールス・マ
ネージャーであった彼は日本に来ては全国をセールスのために回っていた。そこで根付と
遭遇して、全国で買い集めた。彼の著書 Masterpieces of Netsuke Art (Weatherhill、
1973)では 20 人のコレクターを紹介しているが、その中には自身も入っている。
インターナショナル・ネツケ・コレクターズ・ソサエティ(International Netsuke
Collectors Society、INCS) を設立し、会員を募るとともに、毎年ホノルルでコンベンシ
ョンを開催し、夫人のヘレン(Helen)を編集長としてINCSの会報を発行した。ジャ
ーナルの創刊号は 1973 年春号、最終号は 1985 年三月号である。なお、華やかなセールス
を演出したことは確かであるが、1985 年の INCS の解散から間もなくして、彼は根付デ
ィーラーとしては業界から撤退し、時計や宝飾品の販売店を始めた。
多くの蒐集家はコレクションの充実を実現するためにそのコレクションの中の「不要」
となったものを取り除く作業をするが、その際にはコレクター同士でのトレードや他の根
(トレード・イン)をしたり、または店に委託して売
付を購入するときに店で「交換取引」
却を依頼するなど、いくつかの手段がある。より良いコレクションにするためには必要な
プロセスであり、果物や花卉栽培における、芽を摘む発想と似ているかもしれない。
様々なタイプのコレクター/ディーラーがおり、解釈にも幅があるであろうが、「芽を
摘む」という考え方を利益に繋げることを積極的にする人や自分のコレクションのために
蒐集すると同時に、商売をするための根付を入手・販売している人もいる。財源確保はど
のコレクターも課題であろう。例えば、コレクターであるはずのレイモンド・ブッシェル
(Raymond Bushell) は、誰がどのような根付を求めているかを把握するためにも、積
68
極的に世界中のコレクターとの手紙を交わしていた、とニール・デイヴィーは述べてい
る 17。特に、中村雅俊の根付を独占的に入手し、手元に相当数を残したとはいうものの、
過半数を販売したという観点から判断すると、少なくとも雅俊の根付については、彼はデ
ィーラーであったといえるであろう。
前出のバーナード・ハーティグ(Bernard Hurtig)も最初はコレクターであったがディ
ーラーとしての印象の方が強い。コレクターとして出会った数多くの現代根付作家の作品
を高く評価して、限られた根付を追う蒐集家の数が増えるに従い、高額となっていった古
根付の代わりに現代根付への理解を呼びかけた。そして、ディーラーとしても、彼らを世
に出すために尽力した。また高山明恵など専属契約をした作家もいた。
コレクターからディーラーに転じた人の中にはフランス人、株式会社ヤバネ(提物屋)
の創設者のロベール・フレッシェル(Robert Fleischel)もいる。フランス語、英語と日
本語を自由に話すこととコレクターとして築き上げた人脈があるために、日本と海外をつ
なぐ大事な役割も担っている。海外に渡った根付が海外に留まることが多い中、日本のコ
レクターの欲している根付を把握して、海外で探し、持ち帰るディーラーは皆無であり、
日本在住のコレクターにとっては貴重な存在である。最近では店に図書コーナーを設け、
貴重な文献をそこで閲覧できるのも特筆に価する。
また、昔は多くの象牙問屋がいて、象牙の彫り師を抱えていたが、その状況は 21 世紀
になって大いに変わった。根付を扱っている昔からの棚で、海外との交流も積極的に行っ
てきたところとして、牧野兄弟商会の存在は忘れるわけにはいかない。また、(株)ヤマ
ダの山田正義は日本人による日英二ヶ国語で現代根付を大きく扱った最初の書籍「『現代根
付』Netsuke: Modern Masterpieces」Netsuke: Modern Masterpieces(日貿出版社、1989)
の著者であった。エネルギッシュに現代根付の理解のために奔走したのだが、この自著が
出版されようとした矢先に亡くなった。海外や各国大使から、また材料を現代根付師に提
供していたアメリカの現代根付ディーラーのマイケル・スピンデル(Michael Spindel)な
どからの弔文も載っている。氏の遺志を継ぎ、長男、次男ともに現代根付のディーラーで
あるが、現在専門のディーラーが少ない中貴重な存在である。
明治・大正・昭和と様々な時代を経て、根付に対する見方も変わってきている。欧州の
方が古典的な作品を好み、米国の方が 20 世紀以降の根付に理解を示す傾向があるものの、
海外作家の作品が積極的に蒐集されていることも見受けられる。近年には、ロシア語圏の
69
蒐集家が古典的なものから現代のものまで、購入に積極的になっており、わが国だけでな
く様々な国の美術商が頻繁にロシアやウクライナに足を運んでいる。2011 年に設立二十
周年を迎えた根付や印籠などを専門的に扱う株式会社ヤバネ(提物屋)の二十周年記念の図
録が世界で初めて日本語、英語とロシア語の三カ国語になっていることからも、ロシアや
ウクライナなどロシア語圏がいかに大事な市場になっているかがわかるが、この事実は今
後の根付界の動向をかなり正確に示唆しているように、論者には思える。
このように美術商の果たしてきた役割は大きく、ここに項を設けてその一端を記した。
根付蒐集は長きにわたってコレクターとディーラーの価値観優先の歴史を辿ってきた。工
芸品であって美術品ではない、という観点から、学問の対象外となっていたとも考えられ
る。また、根付は留め具であり、ひとつの技法ではないため、日本伝統工芸展などの中に
も入らない。しかし、古根付に関しては、日本の歴史が色々な形で集約されているとも言
え、あらゆる角度からの研究が可能である。今後どのように考えていくか本論でも考察し
たいと考える次第である。また、現代根付に関しては学術的である必要性は現在のところ
はなく、美術工芸品として価値観が優先されるのが妥当であろう。そもそも嗜好品である
ので、現代のものに関しては蒐集家とディーラー、ディーラーと作家の間で価値を決めて
いけばいいことであろう。
70
第二章
世界のコレクションについての具体的考察
本章では根付コレクションの収蔵されている博物館や美術館に関して、各館の成り立ち
その他を包括的に紹介してから、そこに所蔵されている根付コレクションがどのようにし
て形成されていったのかを考察する。その際、そこに収蔵されている根付の寄贈・遺贈の
経緯だけでなく、その根付の寄贈者や遺贈者についても論述する。そうした、博物館・美
術館の包括的紹介、そこに収蔵されている根付の寄贈・遺贈、寄贈者・遺贈者などすべて
がかかわる根付コレクションは、たとえ公の施設が所蔵するコレクションといえども、そ
のコレクションの創設当初はそれぞれの寄贈者・遺贈者であった個々のコレクターの趣味
に基づく根付蒐集の集合体であったという事実を考慮し、そうした観点から総合的に見る
ことを目指して、そのコレクションを、そのコレクションを所有する博物館または美術館
によって出版された書籍を基にして詳細に考察することとした。
世界の根付コレクションについて具体的な考察を試みる前に、確認しておきたい点があ
る。それはそれら博物館や美術館の所蔵する根付がかかえている、評価をめぐる諸問題で
ある。こうした個々の根付の評価の問題に関してはこれまでそれら個々の根付の辿った歴
史、その日用品としての特性、さらには視覚芸術的側面も含めて総合芸術品としての、た
とえば、彫刻、日本画的色彩、彫金、文学的題材、素材などにも関わる価値判断がそれら
個々の根付を対象として行われるということが不可欠と思われる。つまり、上述した価値
判断基準に基づいて個々の根付が良いものか否か、また歴史的考察と観察に基づいて、そ
こに刻してある銘が根付師本人のものかどうか、同じ銘を何代かにわたって使用している
場合はどの代のものか、また、その銘は、弟子のものであるのか弟子以外の他の人のもの
なのかどうか、根付師、根付作家の特質・特長に基づいて贋作・偽物かどうか正確な判
断・判定をしなければならない、といったような問題が個々の根付をめぐって生じてくる。
こうした個々の根付の評価に関する諸問題に対応するには長い年月の研鑽による鑑識眼が
必要である。そうした評価はこれまで、多くの根付を見る機会に恵まれた一部の古美術商
やディーラーやオークション・ハウスの日本美術担当者が中心となって進められてはきた。
蒐集家のなかにも、自分のコレクションの質の向上を図るために、上述の根付評価に耐え
うる鑑識眼を育む方向に向かった人たちがいることも事実である。しかしそうした積極的
な動きにもかかわらず、根付に関しては、たとえば根付の愛好家によって社会的説得力の
ある学術研究が行われたり、学術論文が発表されることはほとんどなく、古美術商やディ
ーラーという、言わば販路拡大の当事者であることを否定できない執筆者により作成され
71
た図録や書物、または個人のコレクションの図録にこれら「専門家」の執筆を依頼した書
籍のみが多く、それら文献の客観的信憑性そのものが問われても仕方がない状態にあるこ
とを否定する事は難しい。
そうした状況を踏まえて、その上でさらに付言すると、博物館・美術館に収蔵されてい
る根付コレクションの現状にはそれら博物館・美術館によって、希少性や芸術的・技術的
な完成度という点からみてかなりの違いがあると思われる。それは蒐集された時代と場所、
その蒐集家の育った社会環境、知識と鑑識眼、また、蒐集に際して助言をした古美術商の
知識・鑑識眼、さらに、蒐集が行われた時代の商業的事情、など多くの要因に影響されな
がら蒐集は行われてきたという事実の結果である。これはほかの美術工芸品、例えば絵画
や彫刻などのコレクションにあっても同じであろうが、根付の場合において特に評価を困
難にしているのは、次の三種類の理由がある。第一に、根付の素材は多岐にわたっており、
木彫・牙彫、漆器・蒔絵、陶磁器などに関する広く深い知識が求められる点であり、第二
に、その各々の分野においては、それぞれ固有の作品が存在するため、結果としては根付
は重要な位置を与えられないことになるという点である。換言すると、根付は彫刻、蒔絵、
陶磁器など各個別分野の研究対象にはなっておらず、その結果、根付であることを重視し
た先行論文と照合しての評価ができない点である。第三に、第一、二の理由と関連し、根
付固有の特性についての知識と経験が必要であるという点である。例えば根付の条件とし
て必須の、差根付でない限りはできる限り形状が丸く、日用品であるから帯や着物を傷め
ず、またそれ自身破損しないように丈夫であることや紐通しがあることなど根付固有の質
や形状に関する豊富な知識が必要であるのに加えて、手にとって多くの根付を見ることに
より培われた実践的な鑑識眼が欠かせない。
さらに、そういう根付評価に際しての理論的な知識や実践的な鑑識眼に加えて、根付を
受容する際の感性が評価に際して必要となる。この問題は殿下の指摘された「捻り」の有
無による根付評価と密接に関係している。その点に関しては、『根付
たくみとしゃれ』
の編集を担当した荒川浩和も、根付の題材が極めて広汎にわたっており、多彩で、これを
「佩用する者も製作する工人も豊かな感性を持っていた」ことを認めているという点から
も確かめられる。彼はまた上掲書においてこの「たくみ」と「しゃれ」の意味することを
説明しているが、彼が説明している「たくみ」と「しゃれ」もまた、殿下のおっしゃる「捻
り」を別の言葉を用いて表現したものに他ならない。
72
荒川浩和は根付は多種多様な題材を取上げながら、対象を単に直截的に再現しようとす
るのではなく、表現に当って何らかの工夫が凝らされている。造形上の工夫については次
項で述べることとし、意匠の上での工夫としてはまず「たくみ」があげられ、次に「しゃ
れ」がある。「たくみ」とは単なる写実的表現や精巧さだけではなく、例えば鼠の尾は細
かな陰刻で施し、髭は鋭く陽刻で表すといった技の冴えである。
たとえば、高さが 5cm 程度の筍が二つに割れて中の各面に二十四孝の各故事が表され
る技巧、つまり、筍に二十四に関する故事すべてが表出できているという根付の意外性、
それにによって強調される筍の内部を活用する細緻な技巧が認められるが、これが「たく
み」の例として挙げられている。さらに、「しゃれ」に関して、彼は「『しゃれ』の要素は
複雑」としつつも、鬼遣の根付で鬼が豆撒きの箱に隠れて背中とお尻をのぞかせている姿
(図 1)に見られる諧謔性をその一例として挙げている。そのほかにも「おかしさ」や他
の特質との組み合わせによって意味内容が異なってくる蛙(三竦み・井の中の蛙・伊勢参
りの草履に蛙)
(図 2)を「しゃれ」の表れた例として挙げている。そして「根付は高度な
芸術性を求める造形ではなく、日常性の中に『たくみ』と『しゃれ』を籠め、遊び心の結
実として作り上げるところに、その意匠の特徴がある」としている 18。
こうして、「たくみ」と「しゃれ」、総じて「捻り」の有無を見極める鑑識眼が根付評
価に欠かせないことを確認した結果として、次に、根付蒐集とは「趣味の世界」に属する
ものであり、その結果、各蒐集家が主観的に蒐集している点を指摘しなければならない。
単に客観的に集められたものは根付の「標本」となってしまい、魅力に欠けるコレクショ
ンとなってしまう恐れがある。そうした観点からも、根付には「捻り」が必要と殿下が繰
り返し発言なさったり、書かれている点に立ち戻る必要がある。趣味のコレクションには
遊び心が必要で、美術工芸品として質の高い彫刻として認められても、必ずしもいい根付
とは言いがたい場合もあり、その結果蒐集家がいくつもの選択肢の中から自分のいいと思
う根付を主観的に選んで作り上げたコレクションが博物館や美術館などに収蔵されている
事実を確認しておく必要がある。
こうした点を確認しておくことによって、一握りのコレクションしか存在意義を認めな
いといった狭い価値判断を避けることが可能となり、たとえば、展示点数が少なくとも、
実用的な古根付が多く揃っているコレクションであれば、上述した観点からすると、限ら
れた数の根付の有する希少性や芸術性に加えて、その歴史性、つまり、江戸や明治の民俗
文化を知る手がかりになりうるという点で見逃せないことも、また、コレクションという
73
ものは多様性の観点から多くの点数が揃っているということだけで存在意義があることも
認められることになる。そうしたことを考慮に入れながら、これから世界の根付コレクシ
ョンを具体的に考察する。その際、個々の根付に関して特に考慮に入れた点は ①意匠の
希少性
②デザインの独創性
捻りとユーモア
③技術的な優劣
⑧材質の優劣/活かし方/量
④印象
⑤全体的な力強さ
⑨時代の古さ
⑥動き
⑦
⑩根付としての機能性
などである。
本来根付は周囲 360 度から、つまりあらゆる角度から見られるものであるが、その立体
的な根付を写真でみることになると、一面しか見えない。論者は、本論着手以前にも多く
のコレクションを見ているが、今回の世界におけるコレクション考察においては、裏面や
底面の実見ができなかったものや、根付の評価の重要なポイントである紐通しが確認でき
なかった場合もある。銘に関しても直接実見できなかった場合もある。さらに、高級な根
付はいい材料を使用しており、年月が経つとその材質のよさはより顕著になり、その判断
の重要なポイントに手触りが挙げられるのだが、それも実物の検証ができなかった場合が
ある。技術の良し悪しだけではなく、根付として使用する際の根付らしいデザインの工夫
も評価基準に入り、例えば、彫刻として、又は蒔絵としていかに優れていても、根付らし
さがなければ、高く評価することはできない。優れた彫刻でありながら、掌に心地よく収
まらないものは、根付として手に持って鑑賞されることが少なく、結果的に艶が悪くなり
乾いた感じになることも多いのである。そうした意味では、小さい根付のデザインの独創
性に大きな役割が要求されていることになる。したがって、その点を無視して根付を評価
することはできない。そうしたことを考慮しながら、世界の著名な博物館・美術館のそれ
ぞれの根付コレクションを単に具体的に比較・検討するのではなく、各々単独に独立した
ものとして考察すると共に、コレクションの形成と特徴を論述しながら、しかもそこに収
蔵されている根付を取り上げて具体的に考察し、世界における優れた個々の根付コレクシ
ョンの全体像をより明確にすることによって、第三部の高円宮コレクションの特徴その他
を明らかにするための世界規模の舞台背景の設定を目指した。
(一)日本/東京国立博物館所蔵の根付コレクション
東京国立博物館は 1872(明治 5)年に文部省所管博物館として開館した日本最古の博物
館である。1886(明治 19)年には宮内省の所管となり、1889(明治 22)年に帝国博物館
と名称が変わった。その時の美術部長が岡倉天心、美術部理事にアーネスト・フェノロサ
74
であった。1900(明治 33)年には東京帝室博物館 19となり、さらに第二次世界大戦後の
1947(昭和 22)年からは文部省管轄の国立博物館となり、1952 年(昭和 27)年に東京国
立博物館 20と改称され、現在に至っている。
この博物館の草創期を振り返ると、創立の年にわが国最初の博覧会が博物館ゆかりの湯
島聖堂大成殿 21で開催されている。そしてその時の展示品と同じものが翌年開催のウイー
ン万国博覧会にも出されている。この出展はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ 1 世の
治世 25 周年を記念したウイーン万博への参加要請を受けたものである。その要請を受け
たわが国が、大隈重信、佐野常民らを中心にして、各府県の特産物などを 2 点ずつ集め、
1 点ずつをウイーン万博の展示品と博物館の常備陳列品とした背景的事情が博物館創設に
関係している。
「トーハク」の愛称で親しまれている東京国立博物館に、すでに序論でも述べた通り、
近い将来、高円宮コレクションの一部を寄贈することになっており、それらの根付が、こ
れから述べる「郷コレクション」の根付と相俟って、「公衆の観覧」
「調査・研究」に供さ
れることになる。
郷コレクションの成り立ち
『東京国立博物館図版目録―印籠・根付篇』22によると、郷誠之助男爵は 1865(慶應元)
年、美濃国方県郡黒野村(現岐阜県)に大蔵次官や貴族院議員などを務めた郷純造の長男
として生まれた。1895(明治 28)年に実業界に入り、以後、貴族院議員、東京株式取引
所理事長、東京商工会議所会頭、日本貿易振興協議会会長などを歴任した。幾多の会社を
経営危機から再建させるのに尽力した優秀な実業家であった。
根付蒐集を始めた切っ掛けとなったのは郷誠之助男爵の子息昇作がアメリカ留学(1915
~1922)の際に訪れたボストン美術館で根付を観たことであった、と昇作の子息宗親が荒
川浩和編『根付
たくみとしゃれ』に「『郷コレクション』聞き覚え」と題して書き記して
いる 23。郷昇作が日本において日用品でしかなかった根付の数々が美術品として扱われて
いる事実に驚嘆し、ボストン美術館発行の根付の図録をすぐ父親に送るとともに海外での
根付に関する評価について報告したことが郷コレクションの発端である。
氏は根付を蒐集した動機について次のように話していた 24。
「根付の方は少し意味があって集めた。あれは日本特有の美術で、ああした丸彫という
ものは一寸外にない。のみならず段々散逸する心配がある。ボストンの美術館などには大
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分良いのが行って居る。我輩がこの蒐集を始めてから、かれこれ二十年以上にならうが、
これも矢張り天下一品のものでなければ買わない。數は少なくてもいい、良い物を集めて
それだけは國外に散逸せしめないやうにしたい。その意味で蒐集した。三百ちょっと集め
たが、質を問はなければ二千でも三千でも集まる。しかしそれでは玉石混淆の虞れがある
ので滅多なものに手はださない。それだけに三百も集めるのは容易な事ではなかった。」
『男爵 郷誠之助君伝』では博物館に寄贈された根付について総個数が数百個、その作者
は七十六名で、「元禄年代の元祖吉村周山の外、大名人と稱せられた笠翁、尾形乾山、明
雞齋法實、及び明治時代の大名人柴田是眞、懐玉齋正次其他名人」の貴重な作品と記して
ある。
荒川浩和は著書『根付 郷コレクション
東京国立博物館蔵』の序文において、このコレ
クションが代表的根付師の作の他にそれぞれの系統に属するものや個性的な作者の根付な
ど、「かなり広汎に及んでいる」としており、材質や技法に関しても、各種にわたり、意
匠に関しては多数であることを指摘している。また、特殊な地方の根付や奇を衒うような
材質や意匠もないとしたうえで、このコレクションが「単なる趣味的な衝動や玩弄の対象」
として集められたものではなく、「高い水準の作」を求めたものである、としている。
郷コレクションの根付
日本の代表的な根付コレクションのひとつである郷コレクションの特徴をその分類から
考察し、その多様な意匠・題材を具体的に確認したいが、主な特徴として人物を題材にし
た根付を挙げることができる。なかでも仙人、故事・伝説中の人物、仕事や芸能に携わっ
ている人間や遊んでいる子供などを題材にした根付を多く蒐集している。たとえば、中国
の仙人の伝記を集めた『列仙傳』では 73 名、『神仙傳』では 92 名の仙人が挙げられてい
るが、そうした仙人のなかでは「八仙」が注目に値する。道教の仙人のなかでも中華社会
で受け入れられているからである。かれらは、日本における七福神と同様の存在で、八仙
絵図の掛け軸や陶磁器に多く見られる。この「八仙」の受容は時代によって異なっていた
と考えられるが、小説『八仙東遊記』出版後は以下の八人が有名である。 李鉄拐(りて
っかい)、漢鍾離(かんしょうり)、呂洞賓(りょどうひん)、藍采和(らんさいわ)、
韓湘子(かんしょうし)、何仙姑(かせんこ)、張果老(ちょうかろう)、曹国舅(そうこ
っきゅう)の八人である。
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郷コレクションには仙人を題材とする根付が 14 点ある。鉄拐 2 点、蝦蟇仙人 4 点、東
方朔 2 点と三仙人(蝦蟇と張果老他)1 点のほかに名称が不明な龍仙人 2 点、虎仙人 1 点、
子供負仙人 1 点、法螺貝仙人 1 点である。
日本と中国の故事・伝説を題材にしている根付も数多くあるが、郷コレクションにはそ
れらに関係した根付が 29 点ある。題材によって日本と中国に分けると、日本が竹取物語
1 点、浦島太郎 4 点、桃太郎 1 点、鉢被姫 1 点、常盤御前 2 点、牛若丸 2 点、鵺退治 1 点、
六歌仙 1 点、高砂 1 点、柿本人麻呂 1 点、中国のものが、蓬莱山 1 点、鐘馗 7 点、関羽 1
点、韓信 1 点、太公望 1 点、盧生の夢 1 点、二十四孝 1 点である。 そのうち、鐘馗の根
付が 7 点ある。
その他、人物に関する根付には、わが国の男性・女性・子供のほかに異国人の根付もあ
るが、郷コレクションの人物を題材とする根付は 36 点ある。男性は褌結 1 点、嚏 1 点、
首振 1 点、他が 7 点の 10 点、女性は阿福 3 点、農婦 2 点、他 2 点の 7 点、子供は子供 11
点、唐子 5 点、牧童 2 点の 18 点である。南洋人としては黒人が 1 点あるのみである。
仕事や労働に従事している人間の姿や子供の根付も多い。郷コレクションの場合は、仕
事や労働に分類される根付が 40 点ある。猿回 3 点、按摩 7 点、面打 1 点、辻占 1 点、薺
打 2 点、傀儡師 1 点、獅子舞 3 点、萬歳 2 点、草刈 1 点、馬子 2 点、蜆採 1 点、海女 1
点、大原女 2 点、角力 5 点、餅搗 3 点、瓢切 1 点、心磨き 2 点である。このうち辻占は『万
葉集』など古典にも登場する占いの一種で、夕方交差点に立って通りすがりの人々が話す
言葉の内容をもとに占う。薺打とは七草粥に入れる菜を正月 6 日の晩から 7 日の暁にかけ
て、「七草囃」を唱えながら刻むことを意味している。傀儡師とは諸国を旅し、芸能によ
って生計を営んでいた集団に属していた人で、特に人形を操っていた。
さらに、能・狂言・浄瑠璃・歌舞伎などの演目を題材にした根付作品も多いが、郷コレ
クションにおいても能を題材とする根付が 14 点もある。石橋 1 点、猩々3 点、紅葉狩 2
点、小鍛冶 1 点、羅生門 1 点、卒塔婆小町 1 点、三番叟が 3 点ある。狂言を題材とする根
付も白蔵主など 3 点ある。浄瑠璃を題材とする根付も、狐忠信 1 点、油坊主 1 点、山姥(金
時)2 点の 4 点ある。
人物の根付は多いが、動物の根付は意外にも少ない。郷コレクションにおいては、24
点しかない。犬 4 点、猫 1 点、牛 1 点、兎 1 点、猿 2 点、狐 3 点、鼠 1 点、熊 1 点、猪 3
点、虎 4 点、象 2 点、鹿 1 点である。また、鳥類は鶴 1 点しかない。虫類はない。魚貝類
は 12 点ある。蛤 3 点、貝 4 点、蛸 4 点、干魚 1 点である。
77
郷コレクションの特徴
郷誠之助男爵は自身のコレクションを「日本一といふと烏滸がましいが、其の道の専門
家に聞いて見ても分ることであると思ふ」と述べているが、そう述べるに値するコレクシ
ョンである。最大の特徴は何と言っても吉村周山の作品数である。吉村周山は作品に銘が
入っていないため、実際には吉村周山による根付と言われている作品が本人によるものか
否かを誰も知る由もないが、周山作とみなされるものが 11 点ある。これらはほかのコレ
クションで観る多くの周山の作品と言われているものと比べても、郷コレクションのもの
の大半が品も良く、力強い美しさも持っている。また、通常観る吉村周山根付に比べても
彩色の色が比較的鮮やかに残っているものが多い。
論者はこれらの中でも特に「鉄拐仙人」が、世界のどこのコレクションのものと比べた
としても秀でた作品ではないかと考えている(図 3)。顔を横上に向け、正に息を吹こう
としている図であるが、その生き生きとした顔の表情と纏っている衣の様子から、今にも
動き出しそうな姿を見事に表現している 25。他に、「龍仙人」と記してある龍神(図 4)、
「馬上関羽」
(図 5)、「鐘馗鬼」
(図 6)なども迫力と凄みがある作品である。さらに「子
供負仙人」(図 7)も彩色がよく残っており、状態も良い作品である。
郷コレクションの意匠・題材は人物、動物、霊獣霊鳥、器物、面などほとんどすべての
分野にわたっていて、一応は万遍なく蒐集しているが、動物が少なく、故事伝説や風俗を
含めた人物が圧倒的に多いのが特徴である。根付 272 点中、動物は 45 点で、全体の 17%
であることから、欧米のコレクションに比較すると圧倒的に少ないといえる。動物の中で
も十二支に限れば 19 点、僅か 7%に過ぎない。外国で動物に人気があるのは、日本や中
国の故事伝説、風俗などに馴染みのない外国人コレクターにとっては、分りやすくて親し
みやすいという点が大きい。このことを考えれば、郷コレクションは、外国人には良さが
理解しにくいコレクションといえるかもしれない。その上、欧米において人気の高い京都
正直、友忠、岡友、豊昌といった根付師の作品が一点もない。
次に、霊獣、霊鳥に属する龍、麒麟、白澤がそれぞれ一点ずつ、合計で僅かに 3 点しか
なく、しかも、根付の意匠としては人気があり、大量に作られた獅子が一点もないという
ことも驚きである。更にいえば、根付の意匠としてよく見る蛙が一点もない。郷男爵が、
根付を選ぶ際、ディーラー任せにせず、気に入ったものを自分で選ぼうとしたため、あえ
78
て一般的な意匠を避けた、という解釈も可能なのではないか、と論者は考えている。その
一方で、仙人、七福神、羅漢、達磨、仁王、鬼、化物、風神雷神、鐘馗、関羽、日本と中
国の故事伝説、お伽噺、風俗、能狂言浄瑠璃などの芸能は非常に豊富であるが、仙人に偏
りがあり、特に鉄枴仙人と蝦蟇仙人が多い。
あと 2 点、対照的な 18 世紀の根付で特筆すべきものがあり、それらをここに記してお
く。雲樹洞院幣丸の「麒麟」
(図 8)は表情の豊かさ、迫力や紐通しを含めて丁寧な彫りと
いう点で優れた作品である。また、為隆の「御幣持人物」
(図 9)は見事にこの人物の軽妙
な動きを捉え、大らかなユーモアがあり、根付らしい作品である。
なお、郷誠之助男爵のコレクションは当初から博物館に寄贈されることを見込んで蒐集
されたものであることが、その遺言書からわかる。
「根附」ハ吾邦獨特ノ工藝に屬シ技術ノ掬スヘキモノ多シ
散逸スルコトヲ恐レ
之レカ蒐集ニ努メ
然ルニ余ハ之カ漸次海外ニ
就中優秀ノ作品ノミニテモ国内ニ止メ置キタキ希望ヲ以テ拾数年来
近時漸ク其一集ヲ成セリ
依テ余カ死後苟モ「根附」ニ属スルモノハ
一切挙ケテ之ヲ帝室博物館若クハ適當ノ場所ニ寄附シ
將来吾邦工藝美術標本ノ一トシテ
永遠ニ散逸セサルコトヲ期スヘシ 26
郷男爵が亡くなった後、当時の帝室博物館に根付コレクションは寄贈された。
最後に、郷コレクションの収納について述べておく。寄贈に当たっては、すべての根付
が溜塗、五段重ねの保存箱に収納されており、各段には個々の根付がひとつずつきちっと
収まるように、縮緬で覆われた敷板にその収納される個々の根付の形にぴったりと合った
窪みが作られている。同じ縮緬のクッションで根付をそっと固定してから五段に重ね、そ
れにまた縮緬の覆布を被せている。このような五段重ねの保存箱が全部で八合あり、その
一合ずつをさらに欅製の透漆を塗った箪笥に納めている。欅の箪笥の表側には一から八ま
での番号が入った象牙の丸いプレートが象嵌してある。(図 10)
郷コレクションの入念な保存方法は世界に類を見ないものであり、郷誠之助男爵の遺志
がはっきりと伝わってくる。これは、このコレクションがいかに計画的に準備され、高い
目的をもって蒐集されたものかを証明するものである。
79
(二)英国/大英博物館とヴィクトリア&アルバート・ミュージアム所蔵の根付コレクシ
ョン
大英博物館やビクトリア&アルバート・ミュージアムの展示を見たことが切っ掛けとな
って、「根付師になった」、あるいは、「根付のコレクターになった」、と自らの選択の
道を語る者は論者を含めて何人もいる。それは、これらの博物館には良質の根付が多く収
蔵されているだけでなく、それらの根付が収蔵庫の奥で眠ってはおらず実際に常時展示さ
れていたことに起因していた。ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムでは常時数百点
の根付が未だ展示されているが、残念なことに 2011 年夏現在では大英博物館に展示され
ている根付は僅か 23 点に過ぎない。1976 年に大英博物館で大きな展示会があり、その時
には 404 点の根付が展示された 27が、その後も印籠や鍔と一緒に 200 点ほどの根付がエド
ワード VII 世ギャラリーに常時展示されていた 28。
また、大英博物館にはフレデリック・マイナーツハーゲン(Frederick Meinertzhagen
1881~1962)のカード・インデックスというものが収蔵されている。そのカード・インデ
ックスが、撮影され出版されたことによって、大英博物館に直接行くことができない人も
その貴重な資料を容易に参考にすることができるようになった 29。そういった状況を踏ま
えた上で、まず(1)で大英博物館の設立について簡単に触れた後、根付コレクションに
ついて考察し、そのあと(2)でヴィクトリア&アルバート・ミュージアムについて考察す
る。
1)大英博物館
1753 年に世界初の国立博物館として設立された大英博物館の有する所蔵品の数は 700
万点を超えており、また年間の入館者数も 600 万人に達していて、大英博物館は世界最大
級の公共博物館といえる。この博物館は内科医としても、また博物学者としても知られて
いたハンス・スローン卿(Sir Hans Sloane 1660~1753)の遺言により、動植物鉱物の
標本を中心とした彼個人のコレクション約 80,000 点の寄贈を受けて発足し、1759 年、ロ
ンドンのブルームズベリー地区にあった旧スローン邸においてそのコレクションが初めて
一般公開された。
大英博物館の収蔵品の多くは蒐集家の寄贈や遺贈によるものであるが、初期の頃の寄
贈・遺贈者として特筆すべきはオーガスタス・ウォレストン・フランクス卿(Sir
Augustus Wollaston Franks)である。フランクスは博物館に不足していると思われる分
80
野の蒐集を積極的に行い、幅広く中世の古美術品などを購入した。フランクスが 30 年間
学芸部長を勤めた部門から、現在 10 ある学芸部のうちの 5 つが生まれ育ったということ
からも、彼のコレクターとしてのバランス感覚のよさをうかがい知ることができる。フラ
ンクスは裕福な生まれの資産家であったため、博物館員の職についていながらも、同時に
個人的に幅広く蒐集を進め、ヨーロッパの陶磁器 512 点や指輪 3,300 点、ブックプレート
30,000 点などの寄贈者でもある。後で記すが多くの根付も寄贈している。
アン・ハルグランディからの寄贈
大英博物館には 2,300 点の根付が収蔵されている。その中で最も有名なものが、アン・
ハルグランディのコレクションである。このコレクションの寄贈にまつわる話は興味深く、
それはいくつかの文献にも記されているが、当時の関係者の話からも知ることができる。
アン・ハルグランディは 1924 年にドイツのユダヤ系銀行家・実業家の家に生まれ、
1933 年にヒトラーが政権を掌握したため、ナチスを逃れて家族とともに英国に移住した。
父親のフィリップ・ウルマン(Philip Ullman)は金属玩具の会社メットイ(Mettoy)を
英国ノースハンプトン州に設立した。その家業は 1939 年までに好成績を上げるようにな
っていた。アンは 21 歳の時に 30、謎の病のために車椅子の生活となり、その後も寝たき
りの生活を余儀なくされた。家族のもつカイザー・ウルマン銀行と、このメットイという
会社の収入がアン・ハルグランディの世界的に素晴らしい数々のコレクションを作り上げ
る財源となった。また、蒐集家としての素質は親譲りであった、と本人がインタビューで
話している。すなわち彼女は骨董品や美術品を身近に感じて育ったという。蒐集の主たる
対象となったのはヨーロッパの宝飾品と日本の根付である。蒐集は病床から手紙や電話な
どを使って行われたが、自らを「ディーラー、競売室と博物館の織り成す蜘蛛の巣の中心
に座る蜘蛛」にたとえ、他のディーラーたちを出し抜くことを何よりの楽しみにしている、
とたびたび発言した。ある美術商からは年間 100 以上の小包が送られた、ともいわれてい
る。
アン・ハルグランディの根付コレクションは個人の蒐集家が所持するものとしては水準
の高いものであった。女史を 1950 年ごろからよく知る、サザビーズで東洋美術を長く担
当していたニール・デイヴィー(Neil Kenneth Davey 1941~)の話を論者は聞いたこ
とがある。オークション・カタログで興味のあるものに関して彼女が電話でサザビーズに
連絡し、デイヴィーが差し向けられた車で根付を彼女の許に運んだそうである。このよう
81
にして、彼女は病床にいても内覧が可能であった。彼女がいかに大事な得意顧客だったか
は、彼女の希望に確実に応じたオークション・ハウスの姿勢からもわかる。内覧が終わる
とまた運転手がサザビーズまで送ってくれた、とニール・デイヴィーは論者に語った。
その後、ハルグランディは、競売があるとディーラーを送り込んで、自分が目星をつけ
ていた根付を落札させた。デイヴィーによると、ハルグランディはその大きな身体を巨大
なベッドに横たえていたにもかかわらず、寝室に置かれた多数のキャビネットのどこにど
の根付が入っているかを正確に把握していたという。また、彼女は非常に短気であり、怪
奇な行動や歯に衣着せぬ話し方で知られていたらしい。夫やメイドには特にきつい態度で
接していたが、デイヴィーが体調を崩したときには、面倒見のいい優しい面もみせたとい
う。なお、「女史が 1968 年にはすでに視力が著しく衰えていた、と R.ハサートの著書に
あるが、これは間違いであり、彼女が視力を失い出したのは 1970 年代末から 1980 年代は
じめにかけてであろう」とデイヴィーは論者に語った。
1978 年、大英博物館の東洋古美術部(Department of Oriental Antiquities)に根付を何
点か寄贈するという電話が入り、数日後にはタクシーで新聞紙などにくるまれた根付 20
点がボール箱につめられて、ハルグランディの住むアンドーバーから届いた。その後、も
っと大きな箱に詰められた数多くの根付や、根付一点だけを入れた封筒が数回にわたり届
けられた。さらに、ハルグランディ自身の指示により、大英博物館が所持すべきものと彼
女が判断した結果落札した根付が、オークション・ハウスから直接ディーラーによって届
けられたこともあった。ハルグランディによると、この寄贈は大英博物館の既存コレクシ
ョンの「不足を補う」ことを目的としていた。当時日本古美術担当部長であったローレン
ス・スミス(Lawrence R.H. Smith)は、この寄贈により 20 世紀以前の根付に関しては、
大英博物館の収蔵する根付コレクションが世界で一番包括的なものになった、と述べてい
る。 31
ハルグランディ・コレクションの特徴
ハルグランディから大英博物館に寄贈された 764 点の根付には鳥や虫を含む動物を題材
としたものが多く、人物や故事伝説を題材としたものは限られている。これはハルグラン
ディの好みによることが図録の「序文」に記されている。図録を見るかぎりで言えば、一
流の根付師の優れた作品が少ないように思われる。しかし、このコレクションの価値は
「根付コレクションの不足を補う」ことによって、大英博物館の収蔵している根付を包括
82
的なコレクションにしている点にある。また、女史が寄贈にあたり、条件として、そのコ
レクションの図録を出版することと常設展として永久に展示することを提示している点に
ついてであるが、図録に関してはヴィクター・ハリス著 Netsuke The Hull Grundy
Collection in the British Museum
32が出版されたものの、現在常設展として展示されて
いる根付は合計 20 点ほどであり、寄贈者ハルグランディの遺志に適っているとは必ずし
も言えない現状である。
次にこのコレクションにおける根付で特に注目すべきものについて具体的に考察したい。
石見根付が特筆すべきものと思われる。図録には 7 点掲載されている。富春の「蓑亀」
(図
11)、五鳳の「竹に蛙」(図 12)、青陽堂(富春)の「蝸牛」(図 13)、九皋堂作の猪の
牙に彫った「蝿取蜘蛛」(図 14)などである。、石見根付の特徴の一つは長銘を入れるこ
とであるが、この九皋堂の根付では猪の牙に長銘が斜めに細かく彫られており、銘それ自
体が図柄のような構図取りになっている。内容は「本朝山陰鳥府久松山之麓九皋堂廉央頴
以猪牙蝿取蜘之螃附山陽之備後旋女亀山之下彫刻之
于時寛政七乙卯春三月日」と読める。
その他にも、石見風の根付として博多の牧牛軒利治作の猪の牙に彫ったカニが 1 点と江戸
の眼文作の根付 2 点がある。
アン・ハルグランディが 1959 年 12 月号の The Antique Collector に“Notable Netsuke”
と題して寄稿した文章の中で、石見根付に触れている。そして、"my own love is for the
Iwami School whose work I have admired and studied for some twelve years" 「私は特
に石見派を好み、ここ 12 年ほどその作風に感服しつつ研究を続けてきた」とある。この
文章が書かれたのが 1959 年なので、その 12 年前、つまり 1947 年にはすでに石見根付に
着目していたことになる。また、大英博物館のローレンス・スミス元日本古美術担当部長
は Hull Grundy Collection 図録の序文において、ハルグランディが石見派についての先駆
的な研究論文を Ars Orientalis IV (『東洋の美術』第 4 巻)(1961)に発表したことを記
している。この論文以前のもので、石見根付についての詳しい記述がある論文は知られて
いない。
1928 年に出版されたフランク・ジョナス(Frank Jonas)著 Netsuke では根付師名簿
に富春が 1733 年生まれの女性として記載されており、娘の文章女と混同されている可能
性がある。そして、この本では何処にも「石見」という記述はない。また、1956 年に出版
されたマイナーツハーゲンの The Art of the Netsuke Carver では、青陽堂富春とい
う”true artist and nature lover”「真の芸術家であり自然を愛する人」が「重要で興味深
83
い一派を石見地方に創設した」と書いている。そしてそのなかで富春の使った材料として
象牙、マッコウクジラの歯、黒檀などの木が記されているが、石見根付の大きな特徴であ
る猪の牙が素材としては記されていない。ハルグランディはこの論文の中で 1905 年発行
の A.ブロックハウス著 Netsuke にも触れている。ブロックハウスもまた富春を女性と記
しているがブロックハウスは石見根付の存在を知っていただけでなく、何点かの作品を所
有していた。たとえば、現在ハサート・コレクションにある、2 匹の百足をマッコウクジ
ラの歯に彫り上げた見事な根付をその一例として挙げることができる。
ハルグランディの石見根付への着目はわが国における過去の根付研究から見ても注目に
値する。『装劔奇賞』が発行された 1781(天明元)年には、1733 年生まれの青陽堂富春
は 49 歳であり、根付師として名をなしていたはずであるが『装劔奇賞』の根付師のリス
トには名前がない。また、上田令吉の『根附の研究』が出版されたのは 1943(昭和 18)
年であるが、「根付の地方的観察」の「(四)其の他の地方もの」の項で若干石見が紹介さ
れているだけである。また、第二部第一章で紹介した郷コレクションにも石見根付は一点
もない。戦前の美術倶楽部の売立目録に石見根付が出品されている様子が確認できなかっ
たこともその要因に含まれていると考えられるが、石見根付は一地方の工芸品にすぎず、
全国的には認知度が低く、地元以外ではさほどの評価を得ていなかったことが考えられる。
ハルグランディの根付コレクションの一部は 1978 年 6 月 28 日のサザビーズ・ロンドン
のオークションで売りに出されたが、セールスを担当したニール・デイヴィーによると、
その中には富春、文章女、三谷五鳳の作品を含む石見根付が数点あっただけらしい。大英
博物館に寄贈したもののほかは、一、二点を除いてすべてロバート・ハサートのコレクシ
ョンに入った、とハサート自身が書いているが、コレクションの図録でみるとハルグラン
ディのコレクションから入手したものが 57 点ある 33。それらから推測すると、ハルグラ
ンディは少なくとも 75 点の石見根付を所蔵していたことがわかる。
ハルグランディ・コレクションと他根付コレクションとの関係
既に触れたように、ハルグランディの寄贈は大英博物館のコレクションの「不足を補う」
こと、つまり、大英博物館の根付コレクションをより完璧なものにすることが目的であっ
た。それを踏まえて、ここで大英博物館の元のコレクションがどのようなものであったか
を考察しておく必要がある。その際 1976 年に国際根付ソサエティのコンベンションがロ
ンドンで開催された時に出版された図録を参考にする。この図録には当時大英博物館が所
84
蔵していた根付の三分の一が掲載されている。収蔵品は主にフランクス(Franks)、トラ
ウアー(Trower)、ヒルトン(Hilton)、ラファエル(Raphael)、そしてエプスタイン
(Epstein)の五名の寄贈者の収めた根付から成り立っていると記されている。
まずは冒頭で説明したオーガスタス・ウォラストン・フランクス卿(Sir Augustus
Wollaston Franks 1826~1897)のコレクションである。1862 年にロンドンで開催され
た万国博覧会には日本部門が設けてあった。そのカタログを執筆したことを機に大英博物
館のフランクスは日本の美術工芸品に興味を持つようになり、1,400 点の根付を蒐集した。
フランクスはこれらの根付が「余すところなく日本の信仰、伝説、歴史や風俗習慣を示す
もの」と考えていたという 34。フランクスは後にこれらを含む 1500 点の根付と 850 点の
印籠を大英博物館に遺贈した。その内容としての大きな特徴は 18 世紀の無銘の人物根付
が多くあった点である。当時は、数人のコレクターを除いては、これら背の高い人物根付
には人気がなかったようだが、その人物根付の彫刻的価値をフランクスが見出したことは
評価に値する(図 15)。
その後 1912 年にヘンリー・シーモアトラウワー(Henry Seymour Trower 1843 ~
1912)の未亡人が、1876 年より蒐集していた根付のなかの最高級レベルの作品を大英博
物館に寄贈した。そして 1930 年には、ジェームズ・ヒルトン(James Hilton)の遺贈に
より 18 世紀の背の高い人物根付を含む根付が加わった。さらに、1945 年には、さまざま
な日本の美術工芸品を蒐集していたオスカー・ラファエル(Oscar Raphael
1874~
1941)が初期の頃の人物像を含む根付の収蔵品を遺贈した。内藤光石は京都の仏師であり、
根付の作品はあまり多くは制作していない。海外の美術商などからの注文に応じての作品
だけであり、大英博物館の記録によるとこの木彫根付『仁王』も 1910 年にラファエルの
ために制作された物である。ラファエルは 1910 年に日本を訪れている。
最後の大規模な遺贈は 1953 年のヘレン・エプスタイン(Helen Epstein)によるもので
ある。そのほかに小規模な遺贈もいくつかあり、それら全部を合わせた形で大英博物館の
コレクションは成り立っている。初期の頃の無銘の力強い人物根付や『装劔奇賞』に名前
が乗っている根付師の作品など 18 世紀のものが充実しているだけでなく、昭和初期の作
品もあり 35、広範囲にわたった根付コレクションが収蔵されていた。
そうした数世紀にわたる根付コレクションに、ハルグランディの寄贈により、石見根付
がさらに加わった。ハルグランディの寄贈自体には人物像や故事伝説を表現した根付が少
なく、動物が多い傾向にあるが、それ以前の大英博物館の根付収蔵品には多数の古い人物
85
像や故事伝説を表現している根付があった。したがって、アン・ハルグランディの寄贈に
より大英博物館の根付収蔵品は根付コレクションとしてより充実し、そのコレクションは
包括的なものとなったといえる。大英博物館におけるハルグランディ・コレクションだけ
に基づいて、コレクターとしての女史を評価するのは適切ではないが、彼女のこの寄贈は
既述した通り、その目的を果たしており、大英博物館の根付がハルグランディのコレクシ
ョンによって「補われている」点は大いに評価できる。
2)ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム
次にヴィクトリア&アルバート・ミュージアムを考察する。このミュージアムは 1851
年に開催されたロンドン万国博覧会の収益や展示品を基に 1852 年に開館した。当初は産
業博物館であったが、1857 年に現在地に移転したのを機にサウス・ケンジントン・ミュ
ージアムと名前を変えた。さらに、現在の名前はヴィクトリア女王とその夫君であった王
配アルバートに因む。結婚 21 年目の 1861 年 12 月にアルバートが逝去した後、女王は深
く悲しみ、その後ずっと喪服を着用しただけでなく、晩年には特にアルバートを記念した
事業に力を注いだ。1899 年 5 月、高齢のヴィクトリア女王が公の場に立たれた最後とな
った式典において、博物館の改築工事の礎石が据えられた。そのとき同時にこの博物館を
ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムと改名することが正式に発表された。
400 万点以上におよぶ膨大なコレクションを有するこのミュージアムは芸術とデザイン
領域を専門としており、この分野においては質、量ともに世界に類を見ない収蔵品を誇っ
ている。陶磁器・家具・衣装類・ガラス細工・宝石・金属細工・写真・彫刻・織物・絵画
など各国の古美術から現代美術までの、3000 年におよぶ世界文明の遺物が蒐集されてい
るという。また、東洋美術では中国のコレクションが充実しており、世界的にみても包括
的で重要なコレクションとなっている。陶磁器、玉、金工芸、漆器、繊維、家具、彫刻、
象牙、竹細工、犀角、ガラス、絵画など 15,000 点以上の点数がある。これらの領域のコ
レクションは力を入れている分野であり、積極的に現代作品の買い上げも行われている。
根付に関しては Toshiba Gallery of Japanese Art という部屋があり、所蔵点数は大英博
物館より少ないが、展示公開されている。甲冑や刀、刀装具などと一緒に印籠と根付を常
時展示しており、根付の展示数は 300 点以上である 36。なお、ヴィクトリア&アルバー
ト・ミュージアムの場合も大英博物館と同様、多くの根付は寄贈・遺贈の品である。
86
根付コレクションの成り立ち
所蔵根付は 1,400 点程度 37から成り立っており、それらのほとんどは上述のように個人
からの寄贈・遺贈品である。寄贈・遺贈年代の古い順に主だった寄贈者・遺贈者を記すと、
1904 年にエドモンド・ドレスデン(Edmond Dresden
テイラー・プリチェット(Robert Taylor Pritchett
?~1903)、1907 年にロバート・
1828~1907)、1910 年にジョージ・
ソルティング George Salting (1835~1909)、1915 年にジェラード・フォックス夫人
(Mrs. Gerard Fox)、1916 年にウィリアム・クレヴァリー・アレクザンダー(William
Cleverly Alexander)とその令嬢たち、1917 年にヘンリー・ルイ・フローレンス(Henry
Louis Florence)、1918 年にウィートリー夫人(Mrs. James Wheatley)、1919 年から
1920 年にかけてクラークソーンヒル(Thomas Bryan Clarke-Thornhill
1857~1934)、
1952 年にローズ・シップマン(Rose Shipman)、1953 年に A.ナッシュ嬢(Miss A. Nash)
と 1995 年にエーデル・ヘレナ・シュヴァイガー(Adele Helena Schwaiger)である。
ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムのコレクションはオンラインで検索すること
ができるので、上記の寄贈・遺贈について図録に載っているもの以外があるのかどうか調
べてみた 38。しかしオンラインのサーチをかけても、画像無しの記録のみのものが多い。
それら画像のない作品は、この博物館の、あるべき水準に達していないという判断基準に
基づいて、それらの画像を入れていない可能性があるとも考えられる。
このミュージアムの根付コレクションでは、特にジョージ・セヴェリン・ソルティング
(George Severin Salting
1835~1909)の遺贈が、その軸となる存在となっていて特筆
すべきである。作品としては、優れた 18 世紀の人物像、例えばジョー・アール著 An
Introduction to Netsuke 39の表紙の「蒙古人」(図 16)、p.12(Plate 3a, b)にある「道
化」(図 17)や p.13(Plate 5)の「蝦蟇仙人」(図 18)などがある。また、ジュリア・ハ
ット著 Japanese Netsuke の表紙の、東岷(田中岷江の弟子)によるよく彫れている、迫
力のある「虎」(図 19)がある。東岷は田中岷江の弟子であったということが確認できる
古文書などは現在までのところまだ発見されてはいないが、題材、作風と「岷」の字の入
った銘などから、その可能性は高い。この本に掲載されているソルティングの遺贈根付は
全体的に質の高いものが多いが、その中でも特に石見の根付である富春の「蓮に蛙」(図
20)は群を抜いて優れており、このミュージアムの根付コレクションの水準を上げるもの
となっている。そのほかに、一貫の「眠り猩々」、豊昌の「猪」、岡隹の「鶉」、豊一の
87
「ほおずきに龍」、そして光雨の「月に秋草」、豊昌の「龍の図」と東谷の「月に木蓮」
の三つの柳左根付は優れた作品といえる。
なお、ソルティングの遺贈により、ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムにおける
中近東のカーペット類のコレクションも世界的に最高位のものとなり、また、中国や日本
の陶磁器やターナー、セザンヌやウィリアム・ブレイクを含む水彩画の遺贈などすべてが
このミュージアムの質の向上に貢献している。さらに、彼は他界した翌年の 1910 年には
ロンドンのナショナル・ギャラリーに 19 世紀のフランス絵画も遺贈した。こうした美術
品の遺贈を行ったソルティングとはどのような人物であったかを以下に略述しておく。
ジョージ・セヴェリン・ソルティングはオーストラリア生まれの美術蒐集家であり、父
親のセヴェリン・カニュート・ソルティング(Severin Kanute Salting
1805~1865)は
デンマーク人である。この父親はオーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州におい
て牧羊とサトウキビの栽培で財を成した 40。その後、家族で渡英し、ジョージは英国の有
名私立男子校のイートン・コレッジに通った。1853 年にオーストラリアに家族で帰国後、
彼はシドニー大学に入学した。しかし、1858 年に家族で再度英国に移住した。ジョージ
の蒐集は広範囲に渡っており、ほとんどの時間を蒐集に費やしていたようである。生涯独
身を通し、彼の生活振りは財力を考えれば質素で地味なものであったと考えられる。蒐集
品に関しても慎重であり、主に数人の信頼できるディーラーを通して購入していた。
論者は以下の点に注目している。それは蒐集家としての生涯に徹していた彼に対して、
アドバイスにあたっていた美術商が根付の蒐集も薦めていたことが推測できるという点で
ある。このことは、当時の優れた美術商が根付を高く評価していた一つの証であり、かれ
らによって質の高い根付が多く蒐集されている事実は、その蒐集に専門知識があった人が
関係していたことが十分考えられる。それが間接的であったとしても、そこに日本人の美
術商の存在があったことが想定される。
ここで本題の論旨からはいささか逸れるが、論者としてはどうしても触れておきたい点
を記しておく。つまり生涯をかけて蒐集した広範囲にわたるソルティングのその美術工芸
品は上述のように、ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムの他に、ロンドンのナショ
ナル・ギャラリーと大英博物館に遺贈された。ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム
に遺贈する際の主な条件は「ソルティング・コレクションとしてまとめて展示すること」
であった。しかし、この条件もまた現在は守られていない。ミュージアムの関係者の話で
は、寄贈後数年間は別の部屋で展示するたびに”on loan from the Salting Collection”「ソ
88
ルティング・コレクションから借用」という札をつけていたが、現在ではコレクションと
してまとめて展示することはおろか、コレクションとしてまとめて保管もされていないと
いう。さらに、担当している部門も展示品によって異なっている。博物館・美術館側の展
示における事情やその時々の時代的要求も理解できることではあるが、入手するまでは遺
贈側の提示した条件を受け入れておきながら、その遺贈した故人の死亡という不在をいい
ことに遺贈者の条件が守られていない点に関しては今後も考えられねばならない問題であ
る。特に蒐集を生涯の仕事と位置づけ、尽力し続けた人々にとっては、自らの生涯を賭し
たコレクションはその人自身を象徴するものであり、その人の存在の生きた証に他ならな
い。それが分散し、あるいは展示されないのを知ることは論者にとっては忍び難い事であ
る。しかし、博物館・美術館側の厳しい運営の状況を知ると、そうした状況と蒐集家の切
なる思いとの兼ね合いは非常に難しい問題であると考える。
さて再び本来の論旨に戻ることにする。その他の寄贈・遺贈者としては、まずエドモン
ド・ドレスデン(遺贈 1904 年)がいる。彼の遺贈根付は 14 点あり、そのなかには友忠の
「虎」が含まれている。彼に関しては記録があまり残っていない。召使に残したもの以外
の財産のすべてを病院とナショナル・ライフボート・インスティチューションに遺贈寄付
した。彼は無神論者で、彼の墓石には「ここにはエドモンド・ドレスデンの亡骸が横たわ
っている。彼は、言葉と行為の双方において、自分が友と認めた男女に思いやりを示すと
いう信条を除くと、いかなる信仰心も持ち合わせていなかった。」 41と彫られている。
1907 年に寄贈をしたロバート・テイラー・プリチェットも主だった寄贈者・遺贈者の
中に名前が載っているが、彼の寄贈した根付数は 2 点にとどまっている。彼は銃器製造工
場を経営していた父親のもとで銃弾などの開発に励み、大成功を収めたこともあったが、
会社経営が成り立たなくなり、水彩風景画家となった。彼の風景画をヴィクトリア女王が
好まれ、多くの絵の制作を依頼された。1890 年にはダーウィンの『ビーグル号航海記』の
挿絵も描いた。さらに生涯にわたって、小銃や古代の甲冑の専門家としての講演や鑑定も
続けた。どのような経緯で根付を入手することになったのか明らかではないが、根付 2 点
が寄贈されている。しかし Julia Hutt の本に掲載の正照作の「鼠」の根付はウェブで検索
しても出てこない。銃器の専門家であったので、鉄砲根付を手にとって見たことがあった
のかどうか知りたいところであるが、それを記した資料もまた現在までのところ見つかっ
ていない。
89
Julia Hutt の本に記されている根付の主だった寄贈者の中に名前がない人物だが、最後
にリチャード ・アルバート・フングスト(Richard Albert Pfungst)について触れておく。
フングストは東谷による「月に木蓮」の饅頭根付や亮長の一刀彫の「鴛鴦」、谷齋の「木
魚」など 5 点を寄贈しているにも関わらず、根付の主だった寄贈者のリストに入っていな
いのは、氏が印籠など根付以外の漆器のコレクターであり、漆器の寄贈者として知られて
いるからであろう。Julia Hutt による Japanese Inro にもフングストの寄贈した印籠が多
く記載されており、その中には柴田是真の優れた作品や廣瀬永治の「変わり鞘」印籠 42
などがある。総数 63 点で、その印籠 20 点に根付が揃えられてある。また、陶器の印籠・
根付・緒締が一式揃っているものも 4 点ある他、印籠と根付が当初の組み合わせのままと
思われるものも数点ある。
これらの寄贈者・遺贈者のなかには根付を主に蒐集していたわけではない者もいる。ハ
ルグランディも重要な宝石・アクセサリーのコレクションを大英博物館に寄贈しているの
で、根付のみの蒐集家とはいえない。しかし、女史の場合には根付に関しての知識が豊富
であり、当時の根付コレクターとしても多くの文献に名前が載っているだけではなく、根
付に関しての投稿もしている。そういった意味からは、根付蒐集家と呼ばれるべき人物で
ある。それに比べ、ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムに寄贈・遺贈している人た
ちの多くは根付に関する文献に名前を残していない。当時根付蒐集は当たり前のような流
行であり、誰もが数点ずつは集めていたとも考えられる。
(三)欧州/バウアー・ファウンデーション東洋美術館のバウアーコレクション
1996 年にスイスを訪問した際にバウアー・ファウンデーション東洋美術館を訪れた。
この美術館は、1951 年にアルフレッド・バウアー(Alfred Baur 1865~1951)が自分の蒐
集品を納めるために購入した大邸宅であり、1964 年から東洋美術館として一般公開され
ている。収蔵品のうち根付のコレクションを見せてもらった。総数は 1708 点に上り、ア
ルフレッド・バウアーによる分類では、533 点が象牙、590 点が木材、28 点が漆工、35
点がその他の材料・技法を用いたものであった。さらに、247 点が饅頭根付、275 点が鏡
蓋根付であり、多くの根付関係者から、「世界有数のコレクションである」という評価を
受けている。
バウアー・コレクションの成り立ち 43
90
アルフレッド・バウアーは 1865 年チューリヒ州アンデルフィンゲンで生まれた。そし
てウィンタートゥールでの研修のあと、1884 年に商社からコロンボ(スリランカ)に派遣
された。いくつかの会社で働いた後、1897 年に自ら有機肥料の会社を現地コロンボに興
した。彼は 1906 年にスイスに戻り、妻の出身地であるジュネーブに落ち着くが、興した
会社の経営権は手放さなかった。彼の会社はいくつものお茶のプランテーションを買い取
ることで成長すると共に、多様化を続けている。1928 年に社名を”A.Baur & Company”
と改め、今も 500 人規模の会社としてコロンボに中心拠点を置いている。
バウアーはスイスへの帰国とともに日本の美術品(陶磁器、漆器、根付や刀の装飾品)
や中国の翡翠などの蒐集家としても活動を開始した。大正 13(1924)年、日本人の貿易
商で美術工芸品の専門家であった富田熊作(1872~1953)と出会った。この人物、つまり、
富田熊作がバウアー・コレクションの根付を実際に蒐集したといっても過言ではない。し
たがって、ここで富田の経歴についても述べておく。
富田熊作は 1872(明治 5)年、兵庫県の造り酒屋に生まれ、1897(明治 30)年に当時
勤めていた日本の商社からイギリスへ派遣された。1903(明治 36)年「山中商会」のロ
ンドン支店に雇われ、1922(大正 11)年に日本に帰国するまで支店長を務めていた。こ
の「山中商会」は顧客に英国王室、ロックフェラー、モースやフェノロサなどがいた会社
である。富田熊作は 1915(大正 4)年、英国赤十字社主催、日本美術の大展覧会では役員
を務め、カタログの共同編集者として活躍した。また 20 世紀の初めにロンドンで東洋の
陶磁器が大量に収集されたときも、また、1921(大正 10)年に英国東洋陶磁器協会が設
立され、この分野の重要性が一段と高まったときも、彼が尽力した。1922(大正 11)年、
富田熊作は日本に帰国し、51 歳で「山中商会」を退社し、京都で個人的に古美術商を営み
出した。バウアー・コレクションには卓越した品が数多くあるが、その大部分がこの富田
熊作を通じて購入されたものである。
バウアー夫妻と富田熊作の出会いは 1924(大正 13)年に夫妻が日本へ旅行した時であ
る。当時アルフレッド・バウアーの東洋美術蒐集を手伝っていた英国の貿易商 T.B.ブロウ
(Thomas Bates Blow, 1854-1940)の依頼により、富田が日本各地を案内することになっ
た。バウアーは材質が何であれ、技術的にも美的観点からも最上級品を探し求めた。バウ
アーは富田熊作の中に洗練された美的感覚を見出し、富田こそ自分自身の要望を的確に理
解してくれ満たしてくれる専門家だと確信した。初対面の時以来ずっとこの二人の信頼関
91
係は崩れることなく続き、二人の協力によってバウアー・コレクションは作り上げられて
いった。
1928(昭和 3)年にバウアーは中国の陶磁器に興味を持ち始めるが、これは彼の蒐集の
歴史における重要な局面となり、それが後には蒐集品の大きな部分を占めることになる。
756 点という大量の美術品が一貫性のあるコレクションをなし、唐代(618~907)から清
代(1644~1911)までの中国陶磁器のいろいろな側面を見せている。
他方根付の主要な蒐集は 1930(昭和 5)年から始まり、先にふれたように主には富田熊
作を介して進められたが、他には著名なコレクター/ディーラーであった F.マイナーツ
ハーゲンを介しても行われた。アルフレッド・バウアーは 14 のファイルに、自分のコレ
クションに関する資料を保管していた。その中にはジャーナルなどに記載された関連記事
だけでなく、彼に収めていた美術商の手紙や請求書なども含まれている。それらを見ると、
第二次世界大戦中の大切に保管されてあったものも含めて、富田熊作が 1949(昭和 24)
年まで根付蒐集に協力していたことがわかる。
バウアー・コレクションの根付に関する資料としては 1977 年に限定版で出版された立
派な書籍が存在する 44。その中には 1,200 点の根付が掲載されている。そこに含まれてい
ない根付もある。それら掲載されていない作品は同じ作家の同じ図柄のものと、当コレク
ションにおいて設定された質の基準に満たないと考えられた根付である。
この書籍のために使用した分類法はブロックハウスが今世紀初頭に提案したものであ
り 45、根付の題材に基づく分類である。それに加え、また文化的背景を説明することによ
り、少しでも理論的に並べていくことを目指したものである。根付は日本文化を反映して
いる、と想定することでコレクションの作品を、人、その行動、信仰、環境と大きくグル
ープ分けをし、さらに、東洋思想の根底にある天・地・人を考慮に入れて、第一部「神、
仙人、鬼神など」、第二部「架空動物と故事伝説」、第三部「風俗(日常)」、第四部「景
色と植物」、第五部「動物」の五部に分類している。そして各部の最初に各々の題材に関
する文化的背景の解説があり、そのあとにその項目に入る根付の詳細な説明と写真が掲載
されている。
第一部「神、仙人、鬼神など」の最初に掲載されている題材は「神道」であり、根付は
伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)・天照大神(アマテ
ラスオオミカミ)・素戔男尊(スサノオノミコト)の 3 点である。各根付の詳細な説明の
前に神道が日本文化の根底にあり、儀式からお祭りまで日本人の生活と密接な関わり合い
92
があることや時代とともに仏教などの影響を受けていること、根付の題材となるものが多
くあることなどが記されている。次の題材は「おかめ」で 10 点の根付がある。「おかめ」
は天宇受賣命(アメノウズメノミコト)でもあり、天照大神の岩戸隠れを知り、踊って天
照大神を誘い出した時に、胸部を露わにして激しく踊ったことや、猿田毘古神(サルタヒ
コノミコト)との関係が「おかめ」と「天狗」の話となり、ユーモラス且つ官能的な題材
を提供しているということなどが指摘されている。他に雷神 15 点・風神 5 点・三酸図(吸
酢三教図などともいう)1 点・七福神 5 点、単独で弁天 1 点、毘沙門 1 点、大黒 10 点、
恵比寿 3 点、布袋 13 点、福禄寿 10 点、壽老人 7 点・仏像(文殊菩薩、普賢菩薩、観音菩
薩、地蔵菩薩)8 点・仁王 9 点・天女 6 点・羅漢像 7 点・達磨 18 点・羅漢:半托伽尊者 7
点 46・羅漢:因掲陀尊者 1 点(同じく長い眉毛を持ち托鉢用の鉢を見せて示される)仙人
像 3 点、各々の仙人:張果老 8 点・蝦蟇仙人 4 点・一角仙人 2 点・琴高仙人 2 点・壺公仙
人 1 点・鉄拐仙人 4 点・東方朔 4 点 ・西王母 2 点・孫悟空 1 点・鍾馗 15 点・鬼 24 点・
閻魔大王 7 点・文昌星 1 点が掲載されている。
この第一部には、人間が様々な手段を用いてなだめようとする超自然的存在が集められ
ている。天地創造や生と死等について考え、それを形として説明していこうとする中で、
各々の国の文化的特徴も形成されていくものだが、日本は八百万の神の国であり、もちろ
ん神道の神主たちが高度な知識をもっていたとはいえ、根付が一般の町民の間にまで広が
り、たとえば江戸の町民の信仰までも反映していた事実の指摘は注目に値する。神道のみ
ならず、仏教、儒教の影響もみられるが、第一部で多い図柄は鬼(24 点)、達磨(18 点)、
鍾馗(15 点)、雷神(15 点)、七福神の中でも布袋(13 点)、大黒(10 点)、福禄寿(10
点)である。
第二部「架空動物と故事伝説」では「架空動物」が足長手長 5 点・人魚 4 点・猩々4 点・
骸骨と髑髏 1 点・幽霊 1 点・ろくろ首 1 点・河童 8 点・獏 3 点・比翼の鳥 1 点・鳳凰 1 点・
麒麟 2 点・鯰 4 点・鵺 1 点・獅子 11 点・龍 15 点・天狗 1 点、「故事伝説」が馬師皇 2
点・漢高祖 1 点・韓信 1 点・黄石公と張良 5 点・玄徳、関羽、張飛 2 点・玄徳 3 点・関羽
7 点・玄宗皇帝 1 点・楊貴妃 1 点・伍子胥 1 点・予譲 2 点・蘇武 1 点・親孝行の話として
孟宗 5 点・郭巨 1 点・崔氏 1 点・司馬温公 2 点・太公望 1 点・盧生の夢 2 点・車胤 1 点・
竹林七賢 2 点・張志和 1 点・許由 1 点・菊慈童 1 点・巣父 1 点・李白 3 点・丁令威点・陶
淵明 1 点・牡丹燈籠 1 点・蓬莱山 1 点・牽牛 2 点・織女 2 点・神武天皇 2 点・武内宿禰 3
点・膳臣巴提便 1 点・六孫王(源 經基)1 点・平清盛 1 点・常盤御前 2 点・源頼朝 2 点・
93
河津三郎祐泰と股野(俣 野)五 郎景久 1 点・源義経 3 点・忠信 1 点・弁慶 9 点・源為朝 1
点・加藤清正 1 点・熊谷直実 1 点・新田義貞 1 点・織田信長 1 点・加藤清正 1 点・秀吉 1 点・
頼光と枡花女(ちょうかじょ:養由基の娘)1 点・小栗判官 1 点・金太郎 3 点(うち 2 点は
山姥の背に乗っている)・金子 471 点・藤原保昌 2 点・平忠盛 1 点・児島高徳 2 点・小佐
次(養老の滝の木こり)1 点・曽我五郎・牛にひかれて善光寺参り 2 点・小野道風 2 点・
尉と姥 6 点・三長寿(東方朔、三浦の大助、浦島太郎)1 点・平維茂 1 点・大森彦七 1 点・
渡辺綱 5 点・清姫 4 点・一休禅師と髑髏 1 点・西行法師 1 点・六歌仙 1 点・小野小町 4 点・
紫式部 1 点・在原業平 2 点・左甚五郎 1 点・菅原道真 2 点・玉藻前 1 点・三条宗近 2 点・
楠木正成と考えられる日本の武将 1 点・お岩と公平 1 点・産女の幽霊 1 点・苅萱道心 1
点・花咲爺 2 点・桃太郎 2 点・竜神/竜宮 5 点・浦島太郎 3 点・藤原秀郷 1 点・舌切雀 2
点・羽衣 2 点・橘中楽(橘の中の二人の仙人)1 点である。
第二部では、根付から感得できる日本人の想像力に着目していることがわかる。「架空
動物」には実在しないもののみを入れ、たとえ昔話とつながっていても実在する動物は第
五部に入れられている 48。「架空動物」の中では龍が圧倒的に多く、次に獅子、河童と続
く。この三つの題材が多いが、その中で驚くことに、根付の形体、構図、彫り方、使用さ
れている技法など異なったものが数多く認められるという点である。本にまとめるにあた
って同種の根付を載せないよう留意したとのことだが、たとえば「故事伝説」などと違っ
て、各動物は同じ図柄になりやすいにもかかわらず、バラエティーに富んでいる。また、
大鯰が「架空動物」の中に入っているのも興味深い。「動物」には分類せず、あくまでも
大鯰として考えられている。
なお「故事伝説」に関しては、多くの日本の話が中国の故事伝説に由来するとして、ま
ず中国のものを先に、そのあとに日本のものを記載している 49。また、その中でも、黄石
公と張良の話を題材に黄石公を大黒に見立て、張良を恵比寿に見立てて、川に落としたも
のが沓ではなく大黒の打ち出の小槌、という図柄になっており、外国から輸入したものを
再生する日本人特有の才能の表れを認めている。「故事伝説」の順序としては歴史的なも
のに始まり、忠誠心や武士の話、親孝行の話、仙人・哲学者・詩人による教えや世俗的な
ことから身を引くよう薦める話や誡めなどの順になっている。そして最後に日本の桃太郎
や舌切り雀などの昔話が記載されている。
94
「故事伝説」では弁慶の 9 点に続いて、尉と姥が 6 点ある。弁慶に関しては、三井寺の
鐘を奪って比叡山へ引き摺りあげた話や五条の橋での義経との出会い、また勧進帳などが
記されている。さらに弁慶との関係では義経を題材にした根付も 3 点ある。
この第二部で見る限り、コレクションの根付の題材は実に豊富であり、重複が少ない。
また、題材が何であるかを特定することはかなり難しい場合があるのが一般であるが、そ
れらが特定されている。この事実はフランス、ドイツなどの西欧諸国において中国・日本
の研究がいかに進んでいるかの証といえよう。
第三部「風俗(日常)」は異国人で始まる。ここでは日本が鎖国のため海外との交流が止
まり、中国や、オランダの人々のみがそれも長崎の出島を通してしか日本を見ることがで
きなかったことが説明されている。南方向からの日本への入国であったため、日本人が外
国人をみな南蛮人と称したことも、彼らの動作・仕草が根付師によって強調され誇張され、
面白おかしい図柄になっていることも書き加えられている。異国人のあとは士農工商の順
に職業別に分けようとしているが、興味深いことに、「漁師」を「士」と「農」の間に入
れている。なぜ海洋国である日本において、「士農工商」の階級観念による順位付けの中
に「漁師」を含めなかったのか、という鋭く、且つ的確な見解が暗黙裡に提示されている
とも考えられる。
ポルトガル人 1 点・オランダ人 7 点・中国人 5 点・異国人 4 点・武士と刀関係等 8 点・
女人像 6 点・文学、墨と硯、印章など 12 点・着流しの男性 1 点・茶人と茶道具 3 点・神
社と奉公人 5 人・行列 1 点・巡礼者 2 点・山伏 1 点・鐘 1 点・木魚 2 点・御経を読む老人
1 点・祠 1 点・一般人の日常 6 点・子供(唐子)23 点・玩具 2 点・福助 1 点・雪だるま 1
点・人形 1 点・健康に関して:盲人の按摩他 9 点・もぐさのお灸 2 点・お腹の膨れた男 1
点・漁業に関して:珊瑚取り 7 点・漁師 4 点・海女 1 点・籠などに魚貝類 10 点・松風と
村雨 1 点・蛇籠 1 点・農業に関して:牛と童子 5 点・米や餅など 9 点・鼠捕り 3 点・酒と
瓢箪の入れ物 7 点・三人冗語 1 点・百姓の妻 3 点・百姓 4 点・編み笠 1 点・調理 3 点・食
材 4 点・竹を運ぶ男 1 点・薪関係 4 点・技工士関連:石臼の目立師 4 点・布を叩く女たち
2 点・草履屋 1 点・草履 1 点・籠を作る人たち 1 点・烏帽子を作る男 1 点・扇子屋 1 点・
団扇 1 点・樽の中で働く男 1 点・彫工 4 点・鬼瓦 2 点・商人 3 点・娼婦 2 点・貨幣 1 点・
渡し船 3 点・旅人 3 点・煙草入 1 点・龍笛、筆など道具 1 点・東京の土産物 1 点・遊び:
狐拳 1 点・囲碁 1 点・鷹匠 1 点・虫籠 1 点・放屁合戦 1 点・猿回しや曲芸をする猿 11 点・
人形師 1 点・人形使い 2 点・流しの歌うたい 2 点・笙 1 点・舞楽 2 点・大黒舞 1 点・能(石
95
橋)5 点 50・三番叟 4 点・勧進帳(弁慶)1 点・奉納舞(猿)1 点・おかめ踊り 2 点・女
性のお面をつけた踊り 1 点・・鹿島踊り 1 点・天狗面をつけた踊り 2 点・獅子舞 2 点・胡
蝶の舞 2 点・狐踊り 4 点・鶴踊り 1 点・雀躍り 1 点・萬歳 4 点・そのほか庶民などが掲載
されている。
第四部「景色と植物」の説明において、日本人は自然を愛しむが、そこには八百万の神
と仏教に認められる、生きとし生けるものに対しての慈愛の心があることが指摘されてい
る。さらに、名所や景色を表現するだけでなく、あえてそれらを貝の中に入れるためによ
り緻密な彫刻技術を施していることや、景色を絵として表現できることに着目した結果、
鏡蓋根付が多いことにも触れている。また、景色の次は、花、果物、野菜、茸と続くが、
それは、本書の序文において説明されているように、花によって一年を通して季節を感じ
る日本人の日常感覚が根付制作に影響を与え、より身近にある植物が題材となっているた
めであるという点にも言及している 51。
「景色」の根付としては地図 2 点・富士山 3 点(うち 2 点が鏡蓋根付)・天橋立 1 点・
近江八景 3 点(うち一点は二枚貝の中)・石山寺 1 点・湖畔の家 1 点・蛤など二枚貝の中
に景色 8 点・波に月 1 点(鏡蓋根付)・川辺に翡翠 1 点・木に囲まれた建物 1 点・川の近
くの寺院 1 点・月に松 1 点(鏡蓋根付)・朝日に松 1 点(鏡蓋根付)計 25 点である。
「花」の根付としては秋草 3 点・椿 1 点・菊 7 点・菖蒲 2 点・百合 1 点・木蓮 2 点・紅
葉 1 点・桃 3 点・牡丹 5 点・梅 3 点の計 28 点。「果実、野菜や茸」の根付としては筍 3
点・空豆(枝豆にも見える)1 点・焼き栗 1 点・茄子 4 点・茗荷 2 点・銀杏 1 点・瓢箪 3
点・琵琶 5 点・蓮 1 点・鞘豌豆 3 点・柿 2 点・鬼灯 1 点・新年飾りの橙や栗など 1 点、最
後に茸の根付が 13 点で計 41 点ある。
第五部は「動物」である。動物根付の数が多いのは根付師が需要に応じて制作したため
であり、蒐集家の好みの根付師への反映とみなすべきであると思われる。なお、「動物」
の種類を特定するために、このコレクションの動物根付を動物学者が調査し、亜種まで分
類が可能になったと記されているが、それは、当時根付の制作者が「動物」の特徴をいか
に正確につかんでいたかを裏付けていると思われる 52。またその他の動物としては蟻 1
点・鈴虫 2 点・蝶 1 点・百足 1 点・蝉 2 点・蜻蛉 2 点・蝗 1 点・蜂 3 点、虫は計 13 点。
蟹 3 点・貝(蜆、鮑、蛤など)7 点・蝸牛 12 点・蛸 16 点・海の幸 3 点・鯉 2 点・河豚 1
点・白魚 1 点・蝦蟇と蛙 24 点 53・三竦み 3 点・蛇 12 点・蜥蜴、やもり 3 点・亀 12 点で、
96
海川関係/爬虫類/両性類が計 99 点ある。鷹 3 点・鶴 5 点・烏 1 点・時鳥 1 点・鴨 1 点・
鷲 2 点 54・鶏 5 点・諌鼓鶏/太鼓鶏 5 点・雁 2 点・鷺 1 点・梟 1 点・鸚鵡 1 点・孔雀 2 点・
鶉 6 点・鴎 1 点・鸛 2 点 55・燕 2 点・目白 1 点・他の鳥 3 点の鳥類計 45 点。蝙蝠 2 点・
猿 28 点 56・熊 1 点 57・狼 2 点・狐 3 点・犬 17 点・猫 5 点・虎 21 点・狸 11 点・兎 11 点・
鼠 20 点・栗鼠 3 点・馬 8 点・山羊 10 点・鹿 5 点・牛 12 点・7 点・象 4 点・十二支 5 点 58
で、哺乳類は計 175 点ある。蝦蟇と蛙が 24 点と多く、次に蛸の 16 点、そして蝸牛、蛇、
亀の 12 点が多い。諌鼓鶏/太鼓鶏を一緒にしても鳥は 10 点であまり多くない。十二支の
動物と哺乳類が多い。猿(図 21)28 点、虎(図 22)21 点、鼠 20 点、犬(図 23)の 17
点と続く。根付師が制作に励んだものの中には、干支や向かい干支、また縁起の良い語呂
合わせの「甦る・蛙・帰る」等が多く、これらの意匠に対して需要が多かったことが明確
に表れていると思われる。
バウアー・コレクションの特徴
このコレクションの印籠を主とする漆工作品、そして 1708 点に及ぶ根付は見ごたえが
あるとして、定評がある。その中でも京都正直、岡友、豊昌、法實、光廣、懐玉齋、東谷、
藻己などの名工の作品を網羅しており、質量ともに世界有数のコレクションであろう。難
しい選択であるが、上記の名工の作品の中から数点、特筆すべきと考える根付について書
き記す。
京都正直の「鹿」(図 24)の根付である。正直の動物根付は身近な動物の特徴を捉え、
その体の箇所を誇張して表現するのが得意であり、その作品は力強くもあり、また優しく
もあること、そして、根付らしい構図の中に納められているのが特徴である。コレクショ
ンには神獣である麒麟、そして牛や山羊などがあるが、特に意匠として、「鹿」が首を伸
ばして寝ている姿は珍しい。よどみなく丁寧な毛彫り、材料からの構図取りや機能性を考
慮した耳や足の処理の仕方が優れており、背中から頭にかけての角度と鹿の穏やかな表情
が魅力的な根付である。
岡友も京都の名工で上記の正直同様に動物を得意とし、特に粟穂に鶉の意匠は人気があ
った。バウアー・コレクションの岡友の根付の中では、特に「鮑に犬」(図 25)が可愛い
中にも力強さと動きがあって良い作品であるとおもわれる。毛彫りも丁寧に施され、そこ
に適度な慣れが加わって、根付としていい味をだしている。
97
次に内藤豊昌の「龍虎」(図 26)に注目したい。龍または虎を、各々根付として仕上げ
たものは豊昌には良くある意匠だが、龍虎は珍しい。勢いと動きがあり、龍のうろことお
腹の線、そして虎の縞模様など細かく表現してある。目には黄色い水牛角かべっ甲を象嵌
した、独特の凄みのある顔つきが特徴である。
大原光廣は独特な温かみのある根付を作る。バウアーに数点ある光廣作の根付の中で、
「行火に猫」(図 27)は、丁寧でありながら自由な線彫りで文字の書かれた紙が幾枚も無
雑作に行火に貼ってある様子が表現されている。根付としての機能性から考えても実に完
成度の高い作品である。行火の中で眠っている猫もかわいらしく仕上がっており、病弱で
あった作家の人柄なのかもしれないが、穏やかなやさしさを感じる作品となっている。
バウアー・コレクションは東谷の優れた作品を持っているが、そのうち「霊芝に蝸牛」
(図 28)は優れた作品例だと考える。地味であるものの、蝸牛が移動中の瞬間を上手に捉
えており、何とも味わいのある作品である。19 世紀後半に活躍した鈴木東谷はそれまで
の常識を破り、象牙、黄楊、黒檀など違う材料を組み合わせたり象嵌して、とても美しい
根付を制作した。ここでは霊芝に木、蝸牛の殻に水牛角、身体に象牙が使用されている。
最後に藻己の根付の例をここに記す。コレクションの中に典型的な藻己のいい作品例も
あるが、あえて「大森彦七」(図 29)の根付を選択した。その理由は生き生きとした表情
と動きである。『太平記』に、足利尊氏の武将であった大森彦七が鬼の姿をした楠木正成
の亡霊に悩まされる話があり、歌舞伎などの題材となっている。藻己の作品にはいつも刀
の冴えが観られ、その完ぺき主義ぶりに少し硬く勢いがないと感じる作品もあるが、ここ
では、背中に乗った鬼に向かって今まさに刀を抜かんとする大森彦七の姿には躍動感があ
り、お互いににらみ合う形相も迫力のある作品である。
バウアーは 2010 年秋の改装工事完了により、日本美術の展示室が新しくなった。写真
ではその美しく、洗練された様子を見ることができたが、新たな展示室に飾られた根付を
多くの人に紹介する東洋博物館として、今後の更なる活躍を期待したい。
(四)露国/国立エルミタージュ美術館所蔵のコレクション
ロシアの国立エルミタージュ美術館は 1764 年に女帝エカテリーナ二世(Yekaterina II
Alekseyevna
在位 1762~1796)が西欧絵画のコレクションを購入したことが創設の切
っ掛けとなった。1764 年から 1775 年にかけて小エルミタージュが建設され、1771 年か
98
ら 1787 にかけて大エルミタージュが建設された。創設当初は西欧美術とロシア美術の美
術館であったが、現在では世界で最も規模の大きい博物館・美術館のひとつとなっている。
またサンクトペテルブルクにある本館は 1754 年から 1762 年にかけてロシア皇帝の冬宮殿
として建てられ、女帝のエカテリーナ二世が最初に使用した。2014 年には創設 250 周年
を迎える。歴史ある建物としても知られるこの美術館の所蔵品の数は 300 万点を越す 59。
東洋美術部には 180,000 点あり、古代エジプト、メソポタミア、中央アジア、ビザンチ
ン、中近東、極東の絵画、彫刻、装身具などを所蔵展示している。極東美術は最初中世美
術部に属していたが、20 世紀に入って別に東方文化部が設立された。それはイスラム中
世部が設立されたのと同時期の 1920 年とされている。この東方文化部が東洋部の前身で
ある。最初にイスラム文化に集中していたコレクションも 1920 年代半ば頃からその内
容・範囲を拡大し始めた。1925 年から 1926 年にかけて製図専門学校の美術館に収蔵され
ていたスティーグリッツ男爵(Baron Stieglitz 1814~1889)コレクションがエルミター
ジュに移され、これにより日本美術を含む極東美術のコレクションの基盤ができた。製図
専門学校は芸術家たちに工芸分野の教育を行うために、1876 年に皇帝の銀行家であった
アレックサンドル・L・スティーグリッツ男爵が創立したものであった。その目標を達成
するために、最も出来が良い代表的な工芸品を世界中から集めた。美術工芸品は増え続け、
1895 年にそれらを保管するための美術館が建設された。当時日本美術部がすでに存在し
ており、ロシア内外で購入された彫刻、漆器、刀装具、織物、陶磁器などを含む大きなコ
レクションが所蔵されていた。多くのものは個人のコレクター(チャルコフスキー
(Charkovsky)、サブロフ(Saburov)、ポロヴツェフ(Polovtsev)、デュファンティー
(Dufanty)などより寄贈・遺贈されたのだが、それらに加えて、多数の日本美術品がロン
ドンやパリで購入された。 60
1930 年に大量の青銅製品や陶磁器が美術促進協会の美術館からエルミタージュの日本
美術コレクションに入った。ロシア美術館の民族学部から根付、浮世絵版画、陶磁器も移
入され、また、1920 年代から 1930 年代にかけては、美術館基金 61からも美術品を入手す
ることができた。たとえば多数の陶磁器は、冬宮殿のニコライ 2 世の部屋やザクセン-ア
ルテンブルグ王女の宮殿、さらに公爵や伯爵たちの蒐集品などから入ったものである。ま
た同じ時期に科学アカデミーのいろいろな機関からも数々の作品を譲り受けた。その結果、
すでに 1930 年の終わり頃には、国立エルミタージュ美術館の日本美術コレクションは現
在のような形を成していた。
99
また、国立エルミタージュ美術館もそのコレクションの構成においては他のロシアの美
術館と基本的に同じであり、主に江戸時代の美術工芸品で成り立っている。その理由は日
露和親条約の締結(1854 年)からロシア革命(1917 年)の間がロシアにおいて日本美術
蒐集が最も活発な時期であったからである。当時はロシアに多くの日本美術工芸品が船員
や旅行者により持ち込まれたり、また、西欧-特にパリやロンドン-のオークションで購
入されたのである。第二次世界大戦後も主に美術館特別委員会の手配によって促進された
個人からの購入でエルミタージュのコレクションは拡張し続けてきた。
国際日本文化研究センターの『エルミタージュ美術館所蔵
日本美術品図録』1993(平
成 5)年発行では所蔵品はすでに 10,000 点にも及び、ロシアで最も重要なコレクションと
なっていた。
『エルミタージュ美術館所蔵
日本美術品図録』に「国立エルミタージュ美術館の日本
美術」 62という論文を寄せている M.ウスペンスキー(M. Uspensky
1953~1998)は国
立エルミタージュ美術館の学芸員であった。日本美術の良き理解者でロシアの根付研究に
大きく寄与した人物として知られ、根付の学位論文を書いた最初の人であるとも言われて
いる。氏によれば、国立エルミタージュ美術館の日本美術コレクションの中で最も貴重な
部分はその約 1,500 点にも及ぶ根付コレクションである。
エルミタージュの根付コレクション
コレクションに収蔵された根付は、主だった根付師と根付の制作が盛んに行われていた
地域をすべて代表していると M.ウスペンスキーは上記の論文で書いている。氏は更に細
かく、この各地域を「スクール」と呼んでコレクションの特徴、主だった根付師とその作
品を挙げている。論者は地域自体がスクールや派を形成しているのではないと考えるが、
それについては詳しく第三部第四章(五)で考察しているので、ここでは氏が使用してい
る言葉をそのまま使うとする。ウスペンスキーは最初に「江戸スクール」として三輪、尾
崎谷齋、小野系彫物師、東谷楳立の作品を代表として挙げている。氏はエルミタージュが
所蔵する「大阪スクール」は銘入りの作品が少ないものの、珍しい根付の例があるとし、
その一つに雲樹洞院幣丸の「風神」を挙げている。後ほど詳しく書くが雲樹洞院幣丸の「風
神」に関しては、他の雲樹洞院幣丸の根付と比べても良いものであり、特に興味深い作品
と考えられる。ただし、『エルミタージュ美術館所蔵
日本美術品図録』でウスペンスキ
ーが雲樹洞院幣丸を 19 世紀後半に活躍した、としているが、これは 18 世紀の間違いと思
100
われる。なお、図録のキャプションには 18 世紀後半と記載されている。次に「京都スク
ール」であるが、その写実的で自然なディテールを形式化した構図の中に取り込む特殊な
動物描写手法の代表者として正直、友忠と蘭川と蘭亭を挙げている。そして、風景を彫っ
た景利とその弟子たちの作品にも「京都スクール」派の特別な傾向が見られるとしている。
さらに、「名古屋スクール」や他地方の「スクール」の根付が収蔵されていることにも言
及し、その中でも「石見スクール」は珍しい海松や埋もれ木などの材料や変わった構成、
説得力のある動きの表現と長い銘を入れることで知られ、最もエキゾチックと考えている、
と記してある。そして最後に、オランダ人を模った根付が長崎派の存在を示唆する、とも
書いている 63。
スティーグリッツ男爵の蒐集した根付などから成り立つエルミタージュ・コレクション
に、さらに別の貴重なコレクションが加わったのは比較的最近である。ヴァルシャフスキ
ー・コレクションの 282 点の根付が寄贈され 1984 年に大きな企画展が 3 ヶ月間開かれた。
あいにく、氏は 1980 年にその展覧会を見ることなく亡くなった。セルゲイ・ヴァルシャ
フスキー(Sergei Varshavsky
1906~1980 )は歴史本の作家でジャーナリストでもあ
る。彼は 1951 年に根付蒐集を始め、毎日五つの古美術商を訪れ、根付と根付関連の本を
集めた。寄贈されたものは根付制作の「スクール」の内八つ-大阪、京都、津、山田、丹
波、岩代、石見と江戸-を網羅しているだけではなく、龍珪の「達磨」や為隆の「山羊」、
牧牛軒利治の「猪」などは特に特筆すべき根付であり、この寄贈の重要さを明らかにして
いる。 64
ここで、国際交流基金の協力を得て作成された図録に基づき、写真で推測可能なものを
取り上げ、図録番号も明記して考察することにする。論者はこれまでのところ、エルミタ
ージュ所蔵の根付を実際に見る機会を得ていない。以下に述べることは、あくまでも図録
所収の写真に基づくものであり、将来それらの作品を実際に見る機会を得た折に考えが変
わる可能性もあれば、また別の研究者が別の見解を発表される可能性も十分ありうる。そ
うした可能性には素直に耳を傾けるつもりである。譜面を見ただけで音が聞こえる場合の
あるように、写真を通し、根付そのものが見えてくる場合もあるように思われる。ここで
は,エルミタージュ・コレクションの根付の中から様々な理由から特筆すべきと考える作
品を選んで、考察を進めていく。
龍珪の「達磨」(図 30)は表情の表現が良い。法橋の称号をもつこの作家の得意とする
流麗な衣紋彫りはほかの作家にはなかなか真似ができないものである。寿玉の「胡瓜に蝸
101
牛」(図 31)は異素材の組み合わせや色合いが、幕末から明治時代にかけての成熟した美
意識とそれに叶う美しさの表現の複雑化を表している。無銘の饅頭根付、「隠れる鬼童丸」
(図 32)の肉合彫りでは刀彫の冴えが優れている。雲樹洞院幣丸(しゅめまる、或はしめ
まる)の「風天」
(図 33)は特に珍しい作品といえる。雲樹洞院幣丸 は『装劔奇賞』の根
付師の中に含まれているとはいえ、なかなか特定できない。作風から見ても、染め、材質、
寸法、経年の様子から判断しても、この作品は後作ではないことが推測できる。雲の中か
ら現れるような特異な構図も面白く、しなやか力強さがある。 舟月の「道成寺」(図 34)
は彫りが実に緻密で、目の詰まった貴重な素材を使っている 65。「節分の鬼」(図 35)は
躍動感のある彫りが評価に値する。忠利の「人魚」(図 36)は比較的珍しい図柄であり、
ウロコや髪の毛が丁寧に彫ってあり、動きを感じさせる。正一の「人魚」(図 37)は親子
の人魚であるが、この意匠は特に珍しい。表情も良い作品である。正秀の「唐獅子」(図
38)は黄楊の染めがよく、全体の彫りに手抜きがない。たっぷりとした贅沢な材の使い方
には迫力が感じられる。虎渓の「仔犬」(図 39)は仔犬がふっくらとしており、かわいい。
題名からすると、鍾馗のものと思われる帽子の下に親犬がいるらしい。仔犬の指先や尻尾
が丁寧に彫ってある。また、染がとても良い。上記ほどの強さや動き、珍しさが認められ
ないものの、名工の作品であり、それなりの技術をもって制作されたもの、なかなか見る
ことのない珍しい意匠のものなど、あと数点を挙げておく。図録では再度数字の低いほう
から観ていく。
谷齋の「払子」のクハラ型の根付(図 40)は名の通った天才的な根付師の作品である。
第一部第一章、根付の形状で「掛落(から)根付」について考察した。そこで、「僧衣の
禅宗僧が用いる略式の袈裟を意味すると共に、それにつけてある象牙の輪の名称でもあ
る。」と書いたが、まさにそのような形状である。秀予の「猿回し」(図 41)も表情が豊
かな猿回しだ。「獅子」(図 42)は蓮齋の作品と推定されるが、色と艶の良いバランスの
とれた作品である。東岷の「虎」(図 43)は迫力もあり、染めの色も良い。英国のヴィク
トリア&アルバート・ミュージアムにも同じ構図の東岷の「虎」がある。伊勢の正直の「分
福茶釜」は胡桃という珍しい素材を高い技術で上手にまとめているが、同じく正定の「虎
と猿」の図も胡桃という難しい材質を立体感ある丁寧な彫りで仕上げている。文章女の「蓑
亀」(図 44)はとても良い石見根付である。石見根付として掲載されている牧牛軒利治は博
多の作家であるが、牧牛軒利治の作品は文章女よりも残っているものが少なく、この「猪」
(図 45)は貴重である。「蛸の足」は好みもあろうが、題材が珍しい作品である
102
またすでに何度か述べたように、明治時代には貿易用の根付も積極的に作られたが、エ
ルミタージュ・コレクションにもそうした作品が何点かある。例えば、忠一の「蜂の巣」
や「五匹の亀」はそのような作品である。また正民の「猿」(図 46)も貿易品である。こ
の図の猿は本来右手に虫眼鏡を持っており、それを通して左手に持つ印籠についている猿
の根付を見ているものであるが、ここではその虫眼鏡が欠損している。論者がまだ十代で
あった大学時代にロンドンで見て記憶している最初の根付が正民のこの図である。忠一に
ついて上田令吉は『根附の研究』に、「川見忠一と称し大阪の人なり、木刻の亀を得意と
し貿易向の根付を作れり」 66と記しており、『根附の研究』の冒頭にある図版に忠一が制
作した籠から這い出す亀の写真が掲載されている。また、正民に関しても「名古屋の人な
りしが大阪に移り主として牙刻をなし、人物、獣類及仮面等を作る
殊に猿を得意とし貿
易品をも作れり、嘉永以降の人なり」 67と記している。ほかに光一の「猿」(図 47)なども
貿易品としてつくられたものであろう。これらは海外のコレクションではよく見かけるが、
輸出用だったため日本にはほとんど残っておらず、見ることが少ない。海外の住居のサイ
ズに合わせた海外仕様の巨大な花瓶一対などが輸出されたのと同じように、根付も海外の
好みに合わせて大きなものが制作されたと解釈するのが妥当と論者は考えるに至った。
こうして概観してみると、国立エルミタージュ美術館の現段階でのコレクションの特徴
としては、初期の頃の根付や何人かの代表的な根付師の作品が少なく、異素材の根付、例
えば金属や陶磁器のものがない。しかし、違った意味での珍しいものもあり、興味深く図
録と叢書を参考にして考察を進めることができた。今後も引き続き個人のコレクションか
らの寄贈もあると推測され、国立エルミタージュ美術館の根付コレクションにおける、現
在足りない部分が補われていくであろう。ミハイル・ウスペンスキーは丁寧にデータの整
理を学術的に進めるべく努力を惜しまなかった。また、この分野において解明されていな
い多くのことに対しても研究熱心であり、学びたい姿勢を常に持っていたと聞く。彼を鑑
として学術研究に情熱を注ぐ若き研究者たちが今後も輩出してくれることを論者は期待し
ている。
日本ではパリやロンドンを中心に根付が欧州で蒐集されていたことは知られていたが、
ロシアで根付が盛んに蒐集されていたことはあまり知られていなかった。たとえば 19 世
紀末から 20 世紀初頭にかけてロシア王室ご用達となった宝石商カール・ファベルジェ
103
(Peter Carl Fabergé
1846~1920)はフランスの影響を受けただけでなく、実は日本
にも目を向けていて、相当数の根付のコレクションを蒐集した 68。
こうしたことからも分かるように、根付の人気はパリ中心にロシアにも広がっていたの
である。多くのコレクターがいたことはエルミタージュに収蔵されている根付の数でもわ
かる。『根付
江戸細密工芸の華』 69に海外根付事情についての文章がある。そこにはウ
スペンスキーの努力により 1980 年にエルミタージュで大規模な根付展覧会が開催された
ことが書かれている。その根付展覧会開催の結果、根付の大ブームが起きたという。その
後にもエルミタージュで度々展示会があり、現在ロシアには熱心な蒐集家が何人もいる。
また、ロシア人の現代根付作家もいる。根付研究の新たな拠点ともなり得るサンクトペテ
ルブルグの今後が楽しみである。なお、今回の考察の対象にはしなかったが、モスクワの
国立東洋美術館(State Museum of Oriental Art)も 600 点の根付が収蔵されており、そ
のうち 100 点は常設展示されているということも書き加えておく。
(五)米国/ボストン美術館所蔵、LACMA所蔵の根付コレクション
1)ボストン美術館
アメリカ東海岸のボストンにあるボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston) は
1870 年に地元の有志によって設立され、アメリカ独立百周年にあたる 1876 年に開館した。
当時の所蔵品数は 5,600 点である。王室や貴族、大富豪のコレクションが元になった美術
館とは異なり、最初から民間の組織として運営されてきた。今日、古代から現代まで、世
界各地の文化圏の美術を網羅した総合美術館であり、所蔵品は 45 万点以上にのぼる。仏
画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことで
も知られる。日本国外では質量ともに世界屈指の日本美術のコレクションである。なかで
も浮世絵はとりわけ有名で、江戸初期から幕末・明治にかけて 5 万点もの版画、700 点以
上の肉筆画、数千点に及ぶ絵本、絵入本を所蔵している。
明治時代、日本は近代化を目指して欧米の技術、制度や知識を学ぶために多くの外国人、
特に欧米人を招いた。「御雇外国人」と呼ばれた彼らが日本に残した功績は計り知れない
が、かれらのほとんどは自国に帰ったあともなお日本と西洋の架け橋となった。
ボストン美術館の日本美術にみられるコレクションの形成に重要な役割を果たしたのが、
明治維新の「御雇外国人」であったエドワード・シルヴェスター・モース(Edward
Sylvester Morse 1838~1925)、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest
104
Francisco Fenollosa 1853~1908)、そしてウィリアム・スタージス・ビゲロウ
(William Sturgis Bigelow
1850~1926)の 3 人である。
モースは動物学者で、1877 年に東京大学の初代動物学教授として就任し、進化論を日
本に紹介した。1877 年 6 月~11 月、1878 年 4 月~1879 年 12 月 9 日、1882 年 6 月~1883
年 2 月の計三回、日本に滞在した。少年時代から貝類を採集していた彼は大森貝塚の発見
者としても知られ、それに関して発表した学術論文中で使用した”cord marked pottery”
が「縄文式土器」となった。1877 年からわずか 2 年の間に近代動物学の導入、東京大学
生物学会(現日本動物学会)の創設、大森貝塚の発見・発掘を成し遂げ、日本の考古学・人
類学の礎を築いた。また、東京大学に進言して日本最初の大学紀要の発刊を実現し、「博
物場」を新たに設立させた。 彼は日本の陶器にも魅せられ、1879 年初めから蜷川式胤に
ついて学び、陶器蒐集にも努めた。コレクションは 5 千点以上にも及ぶ。彼はボストン界
隈の学者としては、初めて日本を訪れた人物である。彼の影響で 1880 年代におけるボス
トンの上流階級の人々が日本に大きな関心を抱くことになった。ボストン美術館は 2 年以
上にわたって協力者から基金を募り、1892 年にモースのコレクションを購入し、モース
自身が日本陶磁器の管理部長に就任した。民具や当時の日本人の生活ぶりを綿密に記した
絵や記録はセーラムのピーボディ・エセックス・ミュージアム(Peabody Essex
Museum)に所蔵されている。また、1923 年 9 月 1 日、関東大震災で、東大図書館が所
蔵していた数十万の蔵書が灰となったことを知ったモースは、1 万 2 千冊の蔵書を東大に
寄贈している。
フェノロサは、モースの推薦により 1878 年に東京大学の哲学の教授として招かれ、
1886 年には文部省美術取調委員に任命された。フェノロサの講義を受講した一人である
岡倉天心(天心は号、本名覚三、1862~1913)を助手として、京都や奈良で古美術の調査
をした。日本に滞在した 12 年の間に、寺院・仏像のみならず日本美術全般に興味を抱い
たが、とりわけ絵画に関心を傾注した。浮世絵、特に北斎が欧州では高く評価されていた
が、彼はそれに疑問を呈しただけでなく、狩野派の絵を高く評価し、入門して雅号まで取
得している。「平治物語絵巻」や俵屋宗達筆「松島図屏風」はじめいくつもの名品を含む
日本絵画など千点以上を蒐集し、そのコレクションは、ボストンの外科医チャールズ・ゴ
ダード・ウェルド(Charles Goddard Weld
1857~1911)に買い上げられた。それらは
氏の没後、ボストン美術館に寄贈された。フェノロサは 1890 年にボストン美術館初代日
本美術部長に就任している。
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ビゲロウは、富豪の貿易商の家に生まれ、医師の道に進んだ。1876 年にヨーロッパに
留学、パリにて細菌学をパスツールのもとで学んだ。当時のヨーロッパはジャポニスムの
全盛期にあった。根付も 1867 年のパリ万博で数点が、1873 年のウィーン万博では 40 点
ほどが披露されたことはすでに述べたところである。長年鎖国していた日本が開国し、そ
こから海を渡ってくる数々の洗練された美術工芸品は西欧人を虜にし、瞬く間に日本趣味
は広がった。単なる流行ではなく、かつてのイタリア、ヨーロッパ、英国を席巻したルネ
ッサンス再現を想わせるように、ジャポニスムの流れは 30 年以上も続き、西洋の美意識
を大きく変えることになる。ビゲロウはその状況下のパリで根付と出会い、パリの古美術
店「A L'Empire Chinois」(rue Vivienne) などに度々足を運んでいた。1879 年に米国に
帰国したが、その際ヨーロッパで入手した 177 点の根付をボストン美術館に寄託した。
ビゲロウは 1881 年に、モースがアメリカに帰国した際に行なった日本文化についての
講義を聴いて感銘を受け、1882 年、モースの 3 度目の訪日に同行して日本に渡り、1889
年まで 7 年間日本に滞在した。仏教徒となり、寺院の建物やその美術品の修復のための寄
付を集める一方、若い日本の芸術家たちの支援なども行った。その間、フェノロサや岡倉
天心のアドバイスを受けながら、絵画、刀剣甲冑、刀装具、染織品、漆器、木版画、彫刻、
根付など幅広い分野のコレクションを築き、その数は 4 万点以上にのぼると言われている。
これらの多くは 1890 年にボストン美術館に寄託され、ビゲロウは美術館の理事となった。
ビゲロウのコレクションは二回に分けて美術館に譲渡された。最初は 1911 年の寄贈、そ
して二回目は 1926 年、彼の死後の遺贈である。パリからの帰国後に寄託されていた根付
も含めて、最終的に寄贈・遺贈された根付は約 625 点である。
他方、我国では明治期の西欧文化が重視される世相の中で、東洋固有の文化財が散逸す
ることを怖れ、三菱財閥の二代目総師で創業者の弟である岩崎彌之助(1851~1908)は
1892 年頃に静嘉堂文庫を設立して、本格的に古典書籍・絵画・彫刻・書・漆芸・茶道
具・刀剣などを蒐集し始めた。また、日本国内ではまだ根付に注目が集まっていなかった
時期に、根付の海外流出を危惧してその蒐集も進めた。ビゲロウがボストン美術館に根付
を寄託したのは 1879 年であり、日本で根付蒐集が始まる 13 年も前である。第二部第二章
ですでに述べたように、英国では 1862 年のロンドン万国博覧会を期に根付の蒐集が始め
られた。日本で蒐集が始まるのはその 30 年後のことである。西欧に現れたジャポニスム
の流れと既述したお雇い外国人の日本文化に対する深い理解とによって、日本の美術工芸
品が蒐集・収蔵され、後世まで守られてきたという事実は僥倖に属していることと言わな
106
ければならない。しかし、それはまた日本の伝統的美術工芸品の海外流出の歴史でもあっ
た。
また同時に、第一部で触れた郷誠之助(1865~1942)の根付蒐集がボストン美術館と深
い繋がりがあることも無視できない。第二部第一章で紹介した東京国立博物館が所蔵する
郷コレクションは、世界で最も質の高い根付コレクションのひとつであるといえる。その
蒐集の切っ掛けとなったのは男爵郷誠之助の子息昇作がアメリカ留学(1915~1922)の際
に訪れた、ボストン美術館で根付を観たことであった。そのことは昇作の子息宗親が荒川
浩和編『根付
たくみとしゃれ』に「『郷コレクション』聞き覚え」と題して書き記してい
る 70。郷昇作は日本において日用品にすぎなかった多くの根付が美術品として扱われてい
る事実に驚嘆し、美術館発行の根付の図録をすぐ父親に送るとともに海外での根付に関す
る評価について報告した。 この図録は岡倉天心の指導の下にまとめられたものである。
フェノロサの教え子であった岡倉天心は 1904 年にボストン美術館に入り、1910 年には東
洋部長となり、1913 年まで勤めた。根付図録は 1914 年に初版、1915 年にすべての根付
についてのより詳しい説明が 6 0 頁追加されて再版された。昇作の留学が 1915~1922 年
であり、1923 年の図録出版の時には米国にいなかったので、昇作が入手し、郷誠之助に送
った図録は、この 1915 年に出版されたものと考えられる。
1900 年頃に撮られたボストン美術館の写真を見ると、大きな展示ケースに多数の象牙
の置物が写っており、その中にいくつかの根付が展示されている(図 48)。京都の蘭亭(二
代)の「猛禽捕猿図」(図 49)、名古屋の一雲の「眠り猩々」(図 50)、青陽堂文章女の
「葉に百足」、そして最後に岡友の「枇杷に兎」など、現在もボストン美術館が所蔵する
根付も写っている。ビゲロウからの寄贈品のデータ整理を完成させてから、美術館は
1914 年に根付だけを取り上げた図録を制作した。岡倉天心の提案により美術館は当時と
しては斬新なプログラム方針を立ち上げており、その図録は「詳細を書き記すだけではな
く、それを楽しめるように仕向けること」を目的としていた 71。美術館は、一連の図録作
成における初期段階ではアジアの美術工芸について広く紹介する必要があると判断した。
そして既述したように、1915 年にはこの図録にすべての根付の説明が 60 頁加えられ、作
品の説明や作家銘などの漢字表記も併記掲載した。ローマ字表記のみであると、日本語で
は別々の作家でも同音の異なった漢字があるため、作家の特定ができず誤解が生じること
が多いし、間違った読みとなって定着してしまうこともある。実際には、その後に海外で
出版されている書籍や図録ではこれを怠っているものもあるが、この図録では漢字表記が
107
ある点はもっと注目されるべきであろう。1923 年に出版された図録には「古き日本の風俗
や言い伝えを題材としたこれらの彫刻のことが少しでもよく理解できると、その研究は歓
喜を伴う」という文章が載っている 72。根付研究の進展経緯を図録に反映させ、少しでも
根付を通して日本文化についてのより深い理解を促そうとするこの美術館の姿勢は根付研
究者にとって範となる。
ビゲロウの寄託や寄贈のあとも、少数ずつではあったが、寄贈や遺贈は続いた。最新の
図録が書かれた 2001 年の段階では、17 世紀後半から 19 世紀後半にかけて制作された根
付が 1,300 点ある。
ここで、前述した三人以外の主だった寄贈・遺贈者を記しておく。1911 年にチャール
ズ・ゴッダード・ウェルドから 30 点の鏡蓋根付の遺贈があった。その他は 1917 年にデン
マン・ウォルド・ロス(Denman Waldo Ross 1853~1935) が 6 点、同年にピッツバー
グのリディア・S・ヘイズ(Lydia S. Hays ?~1916) の遺言により清水富春の「芋葉
に蛙」(図 51)と玉民の「獏王」を含む 34 点の根付が収められた。
しかし、ボストン美術館の創設期を担った前述の主だった三人に次いで最も重要な寄贈
者はアーネスト・グッドリッチ・スティルマン(Ernest Goodrich Stillman 1884~
1949)である。彼は医者であり、多数の会社の役員も務めていた人物だが、大学入学前に
日本を訪問したのが根付蒐集の切っ掛けとなった。彼は蒐集した根付を能面や版画ととも
に自分の家に保管していた。1924 年にドイツの根付研究者アルベルト・ブロックハウス
著の『根附』NETSUKE: Versuch einer Geshichte der Japanischen Schnitzkunst の縮
約英語版の編集を担当したときに、原作に使用されていたイラストを複写することができ
ず、その代わりに自分のコレクションの根付の写真を用いた 73。たとえば舟月の「異人」
(図 52)、「ほうき」、「足長」
(図 53)と「しめじ」などである。スティルマンは 1947
年までに 582 点の根付をボストン美術館に寄贈した。
米国では寄贈・遺贈後 50 年が過ぎればそれらの作品は博物館や美術館の評議会などの
厳格な協議の結果、許可が下りれば売却することができることになっており、2006 年には
ロンドンのクリスティーズにおいて、ボストン美術館の所蔵する根付のうちの 177 点の根
付が売却された。2011 年 5 月 2 日現在、ボストン美術館のウェブサイトにて 1066 点の根
付が収蔵されていることがわかる。
ボストン美術館の特徴
108
これまで論じてきたボストン美術館における大規模な根付の展覧会は、2001 年に開催
された。大きな特徴は美術館所蔵の根付のほかに個人のコレクションに属する根付も併せ
て展示され、少数だが現代根付も展示されたという点である。また、日本やアジアの社会
文化を背景とした根付の位置づけや技術的な側面から幅広く捉えた展示となっていたこと
が挙げられる。この展覧会は来場者に人気があったため会期が大幅に延長された。
ボストン美術館の根付コレクションの画像は全体としては撮られたことがなく、したが
って美術館のウェブサイトにも一枚も載せられていない。唯一、2001 年に行われた根付
展覧会のために撮られた画像があり、それは Netsuke: Fantasy and Reality in Japanese
Miniature Sculpture と題した本に掲載されている。なおこの本は、単なる美術館の所蔵
品の図録ではなく、展覧会のために個人コレクションから特別に選ばれたものと合わせて
の掲載となっている。この章の根付の考察にはこの本に掲載されている根付の中から「ボ
ストン美術館所蔵」と記してあるものを考察対象とする。上掲書に掲載されているボスト
ン美術館所蔵の根付の数は五十点余りであるが、そのうち、「牛に布袋」(図 54)は 18
世紀の根付であり、類似するものはあるものの、色・艶と慣れが良く、味わいのある作品
である。布袋の頭や顔はかなり磨耗しているが、牛の毛彫り、顔そして綱などが丁寧に彫
られている。
文章女の「葉に百足」(図 55)は数点掲載されている石見根付のひとつである。材料は
上質の象牙であり、艶もよく、状態がいい。芸術的であり、高度な技術を有していたこと
が百足の姿を丁寧に彫り上げてあるところから窺える。力強さや動きもあり、機能性も兼
ね備えており、申し分のない根付といえる。裏側には長銘 74が入っている。なお、長銘の
中の「可愛河」を「Kaaigawa」としているが、これは「えのかわ Enokawa」と呼ばれて
おり、そう表記されるべきであろう 75。
「芋葉に蛙」
(図 51)は、文章女の父親富春の作品である。18 世紀のものであり、愛用
されたためかなりの慣れがある。細かい葉脈や長銘には浮き彫り技法が使われている。突
起させたい所をあらかじめ道具で押し込み、平らになるように彫ってから、水につけてへ
こませた部分を膨張させる技法である。細かいところまで丁寧に彫ってあり、蛙の皮膚と
葉の表面の質感の違いがよく表現されている。制作に使用された材料も上質のものであり、
いい色艶が出ている。力強い、静の中に今にも動き出しそうな動の部分があり、その完成
度に注目すべき作品である。
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一貫の「麒麟」
(図 56)は機能的でありながら、静止している中に動きがある。同様の
「麒麟」が静嘉堂文庫の印籠にも付いているが、一貫はちょうどビゲロウや岩崎弥之助が
根付を購入していた頃よりも一世代前の作家である。肥後大掾 76の「仁王の腕相撲」(図
57)にはユーモアが感じられるだけでなく、動きと力強さを認めることができる 77。
雪川の「道成寺」(図 58)は珍しいものではないが力強い根付である。岷江の「俳優」
(図 59)も観る者に緊迫感を与える作品である。18 世紀の作品で、菅笠や蓑の表現が丁
寧でありながら、特に蓑には動きがあり、力強い。正利の「川津掛」
(図 60)は 19 世紀に
特に見られる相撲取組図であり、この作品では刀が冴えており顔の表情、布の線など丁寧
に彫られている。先にも挙げた文章女の「蝸牛」(図 61)は同じ作家の「葉に百足」(図
55)に比べると訴求力の点で弱いが、動きがあり、細かい浮き彫りが施してある。友親の
「野晒」(図 62) 78も珍しい意匠ではないが、全体としては適度な慣れがあり、毛彫りも
丁寧に施してある。狼の目も印象に残る。
ボストン美術館には日本人好みの小振りな作品が多いが、これは 1914 年の図録を最初
に出版した時に岡倉天心の鑑識眼が反映されている結果とも考えられる。さらに、ボスト
ン美術館にはビゲロウの寄贈・遺贈により稲葉通龍の『装劔奇賞』や版画の絵本も所蔵さ
れており、編集者の J. アールは先に挙げた本において根付と根付師が参考にした図も掲
載している。その結果、稲葉通龍の『装劔奇賞』(1781 年)(図 63)、『橘守国画
写宝袋』
(1720 年初版)
(図 64)、『吉村周山
『葛飾戴斗
『橘守国
絵本
和漢名筆画譜』
(1750 年初版)
(図 65)、
萬職図考』
(1835)
(図 66)、『橘守国
絵本通宝志』
(1729-30 年)
(図 67)、
絵本故事談』
(1715 年)
(図 68)
『鍬形恵斎(北尾政美) 諸職画鑑』
(1794 年)
(図 69)などを見比べることができる。そうした比較で明らかになる根付の図柄や意匠は
それぞれ制作されたその時代のさまざまな影響を受けたというのが理解できる。版画と印
刷の技術の発達により、根付師が参考にするだけではなく、購入する側も絵本を参考にし
て、制作を注文することができるようになった。ここでは絵本と根付の関連性もわかりや
すく解説されているが、根付に関するこのような検証を進めていくことは、学術研究のた
めだけでなく、根付作品を広く一般に公開する意義を美術館の役割として捉える点からも
今後の検証作業の続行が期待される。
なお、1994 年に開館した世界初の姉妹館である名古屋ボストン美術館において、2003
年にボストン美術館所蔵の根付展が開催された。会期は 4 月 26 日から 7 月 13 日までで出
展数は 96 点であった。開催地のことを考慮に入れて、そのうち 38 点ほどが中京もの(名
110
古屋・岐阜など)であった。図録は制作されなかったとのことで、根付の選択にあたった
蒐集家の石原昌夫から展示された根付のリストを入手した。友一の「鼠」や「虎」、一岷
の「猪」、一貫の「鼠」や「猿」、忠利の「雄鶏」、一旦の「狐と太鼓」、正一の「清姫
と鐘」などを展示していた、ということである。
2)LACMA(The Los Angeles County Museum of Art)
このミュージアムにはブッシェル・コレクションの根付が収蔵されている。このコレク
ションは数量の点でも、また、最高の質を誇る根付作品数の点でも、高円宮コレクション
のことを論じる際に対比できるコレクションであるといえる。したがって、ブッシェル・
コレクションについては、第三部第三章で扱う高円宮コレクションの古根付に関する考察
を前提にして詳述するとともに、現代根付では特に中村雅俊について言及するが、それに
先立って、このミュージアム自体のことを略述しておく。
この美術館は 1910 年にロサンゼルス市内に歴史・科学・美術の博物館として開館した
後、1961 年に美術館機能のみが独立して設立されたもので、1965 年から現在地で一般公
開されている。展示施設が、常設展用と企画展用のギャラリーに分かれており、この点が
現代の美術館機能を効果的に発揮しているものとして高く評価されている。米国西部では
最大の美術館で、年間 100 万人の入館者数を誇っている。
1988 年にブルース・ゴッフ(Bruce Goff
1904~1982)の斬新な設計による日本美術
パヴィリオンが開館した。この建物はゴッフの最後の作品である。日本美術蒐集家として
知られる「心遠館」のジョー・プライス(Joe Price)もこの実現には貢献した。ファイバ
ーグラスを通した柔らかい自然光のなかでの、さらには日本の障子や床の間を想わせる空
間での展示は、日本の美術品を見せるには最適の環境である。日本の考古遺物、神仏像、
陶磁器、漆器、織物、七宝、甲冑、版画などはパヴィリオン西側の上の階(レベル 3)に
展示されている。東側は螺旋状になっており、1 階から 6 階までそれぞれに二つずつ「床
の間」を想わせる展示空間がある。琳派、浮世絵、円山・四条派などを含む江戸時代の屏
風や掛け軸は東側の入り口と、1 階から 6 階の「床の間」に展示されている。
東側のプラザ・レベルと呼ばれている 2 階に「レイモンドとフランセス・ブッシェル根
付ギャラリー」がある。収蔵されているのは 17 世紀から 20 世紀にかけて制作された 827
点の根付である。150 点ずつ、テーマ別に分類され、三ヶ月ごとに展示替えが行われてい
る。
111
2003 年に立派で重厚な書籍 79が出版された。そこには 820 点の根付がカラーで掲載さ
れており、フランセス・ブッシェル(Frances Bushell)の挨拶文の後、寄贈に至る経緯を
ロバート・シンガー(Robert Singer)日本美術部部長(Curator and Department Head of
Japanese Art、LACMA)が説明しているだけでなく 80ブッシェルと彼の蒐集について、
彼と親交の深かったニール・デイヴィー(Neil Davey)81も寄稿している 82。また、根付
と印籠の紹介を、自身も蒐集家であるヴァージニア・G・アッチリー(Virginia G.
Atchley)が書いている。さらに、学術的観点から、ホリス・グドール(Hollis Goodall)
東美術館の日本美術部次長による江戸時代の根付に関する論文と、次にセバスチャン・イ
ッザード(Sebastian Izzard)の明治・大正・昭和の根付に関する論文が掲載されている。
かれらの論文では、題材、地域における意匠、作風の発展と根付を通してみる日本美術の
傾向などが分析されている。その他、オディール・マッデン(Odile Madden)が、1999
年に実施したおよそ 100 点の LACMA 所蔵象牙根付の調査に基づき" Ivory
Netsuke:Techniques and Materials "「象牙根付:技法と材料」について論じている。象
牙根付の現物を手にしながら、あらゆる文献に書いてあることを参考に研究を進めた彼の
研究論文は、調査対象となった根付の数は限られていたにもかかわらず、技術的に優れた
根付への論証として高く評価できる。
LACMA とブッシェル
レイモンド・ブッシェルは 1910 年ニューヨーク生まれの国際弁護士であった。1945 年
9 月にアメリカ軍の救助船勤務の大尉として来日し、進駐軍の一員として京都で法律業務
に携わった。その後も米国に帰国せず、1948 年朝比奈新とともにブッシェル・朝比奈法
律事務所を開設した。そして、到着直後に知り合っていたアメリカ生まれの日系女性フラ
ンセス沼野と 1952 年に結婚した。ブッシェルは最初の根付を 1945 年に購入したが、その
後も弁護士としての仕事の合間に根付の研究と蒐集を熱心に続け、蒐集した根付を使って
根付と印籠をさまざまな角度から捉えた書物を以下に記したとおり 8 冊も出版した。The
Netsuke Handbook of Ueda Reikichi 83、The Wonderful World of Netsuke 84、
Collectors' Netsuke
85、An
Introduction to Netsuke 86、Netsuke, Familiar and
Unfamiliar:New Principles for Collecting 87、The Inro Handbook: Studies of Inro,
Netsuke and Lacquer 88、The Art of Netsuke Carving by Masatoshi as told to Raymond
Bushel 89、と Netsuke Masks 90である。またブッシェルが所持したことのある根付は
112
10,000 点以上と本人が語ったとシンガーは書いており、コレクションとしての規模をニ
ール・デイヴィーは少なく見積もったとしても 5,500 点としている。
1970 年代後半になって、ブッシェルは 650 点ほどの根付を日本か米国のどこかの美術
館に寄贈し、それを「レイモンド&フランセス・ブッシェル・コレクション」として収蔵
してもらいたい、と考えるようになった。寄贈予定の根付はブッシェルの長年培った専門
知識と鋭い鑑識眼をもって選ばれ、総括的に根付の時代・地域・作家・題材・材料すべて
を捉えながら、作品各々が最高の質であると判断したものであった。
シンガーによると、本人が寄贈に至るまでの過程を二回にわたり書物にて発表している
とのことである。弁護士であったブッシェルは自分の根付の寄贈のあり方を、「永久的な
ものであるので分散・売却されないこと、そして年間を通して一般公開されること」を条
件とし、その実現に向けて方針通り理路整然とした寄贈を進めていったのである。なお、
年間を通しての一般公開というのは、いくつかのグループに分けて順繰りに展示替えをし
ていく形であり、常設展として全部が展示されることを意味しているものではない。
このコレクションに収蔵されている根付の質を考えると、ブッシェルの寄贈に日本の主
だった美術館がほとんど興味を示さなかったことは今となっては悔やまれるが、それは日
本の美術館だけではなかった。米国のブルックリン美術館、フリアー・ギャラリー、メト
ロポリタン美術館なども、永久的な寄贈によって将来他のものの購入ができなくなったり、
コレクションの質の向上やまた意匠などの重複の可能性が生じた場合にも、売却できない
などとの条件のついた寄贈品の寄託は嫌った。そうした経過を経て、ブッシェル側と
LACMA との交渉が始まったのが 1984 年だった。
ゴッフによる建物の設計に対して LACMA 側が承認を出していたのはそれより一年早
く 1983 年であり、ゴッフ本人はその前年に死去していた。ゴッフの設計による建物とす
ることを条件に、ジョーと悦子・プライス(Joe and Etsuko Price) から 1980 年より以前
に蒐集されたプライス・コレクションの屏風や掛け軸などは LACMA に寄贈されること
で合意をしている。その時まではこの建物の一角に温度や湿度管理のされた部屋に収蔵さ
れていると共に、クリスマスの時期には展示されている。プライスは自分のコレクション
の寄贈という観点から美術館と建物建設の話を進めており、パビリオンの建設費も一部支
払っている。
ブッシェルはプライスと事前に根付のギャラリーの設置についても話をしていたと思わ
れ、そのタイミングが絶妙に良かったともいえよう。1984 年、当時の日本美術部部長は
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ブッシェル・コレクションの企画展示を実行した。このコレクション展示は、美術館史上
最も人気が出た展覧会のひとつになったため、ブッシェル側と美術館側双方が寄贈を巡る
取り決めを積極的に進めるべきであると判断するに至った 91。
実際の寄贈は 4 回に分けて行われた――1987 年、1990 年、1991 年、そして彼の死後の
1998 年である。この四段階に分けたことによって、ブッシェルは最後までより良いコレ
クションになるように努力し続けたので、結果的には美術館側も優れた根付を寄贈された
ことになる。ブッシェルという、世界でも有数の根付蒐集家が 50 年以上の年月をかけて
蒐集したコレクションは、寄贈された時点で資料の整理までがすべて完成された状態にな
っていた。
ブッシェル・コレクションの成り立ち
ブッシェル・コレクションの成り立ち
ブッシェルは20世紀後半の代表的な根付蒐集家であるフレデリック・マイナーツハー
ゲン、ウィリアム・ウィンクワース(William W. Winkworth)、ジュリウス・カッチェ
ン(Julius Katchen)、アヴェリー・ブランデージ(Avery Brundage)、M.T.ハインド
ソン(M. T. Hindson)やコーネリウス・ルーズベルト(Cornelius Roosevelt)、さらに
V.F.ウェバー(Victor Frederic [or Fridiric] Weber)『古事寶典:日本・中国美術品収集の
手引辞典』
(Koji Hoten, Dictionnaire a l'Usage des Amateurs et Collectionneurs d'Objets
d'Art Japonais et Chinois、Paris, 1923 の著者)とも頻繁に連絡をとっていた。また文通
を繰り返すことによって、互いに根付に対しての知識を深めることはもちろんのこと、優
れた根付の所在についての情報収集をすることに努めた。コレクションをよりよいものに
作り上げていくにあたりコレクターはより良い根付を入手するための資金作りやコレクシ
ョンの質の向上を目的として、要らない根付を選別して手放していく。それぞれのコレク
ションによってどの段階でこれが行われ出すかは異なっている。海外には、数千点に及ぶ
個人コレクションの根付を保持する人もいれば、故アーヴィング・グールドのように自分
のコレクションの数を予め決めている人もいる。ブッシェルは世界中のコレクターと文通
し、どのような根付が好みであるかを調べた。そして、自分のコレクションの中から要ら
なくなった根付をどのコレクターが欲しがっているかを考え、連絡を取るのであった。そ
ういう過程を経て、ブッシェルの場合にはディーラーや古美術商を介することなく根付を
移動させることができたのである。
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ブッシェルは上記 8 冊の書物のほかにも Arts of Asia や Netsuke Kenkyukai Study
Journal(後の International Netsuke Society Journal)のために頻繁に原稿を書き、特
に後者のジャーナル誌上の「質問と回答」“Questions and Answers”を長年担当し、世界
中から寄せられる根付に関しての質問に九十数回答えている。ブッシェルの著書や展示会
のカタログ、オークションでブッシェル・コレクションから売りに出された根付、さらに
は LACMA への寄贈根付を調べたデイヴィーは、ブッシェルのコレクターとしての好み
がなかなか見出せなかった、と序文に書いている 92。
ブッシェルは蒐集品(コレクション)と収集品(アキュムレーション)とを区別して所
蔵していた、と書いている。また、後者は著書や記事の執筆にあたり、図版として使うた
めに集めたもので、相当数を常に持っているため、自分のコレクションの規模を把握する
のが難しい、とも書いている 93。
論者は本論のために、繰り返しそのコレクションの内容を見るにつれ、ブッシェルは単
なる好みで集めていたのではなく、かなり冷静に考えて、美術館に入れるコレクションと
して蒐集していたように思われる。まず、ここでコレクションの全体像を明確にしたいの
で、年代を追った形で作品銘を挙げ、図版も添えておくこととする。また考察するにあた
り前出の The Raymond and Frances Bushell Collection of Netsuke: A Legacy at the Los
Angeles County Museum of Art を参考にすることとする。
ブッシェルコレションの特徴
ブッシェル・コレクションは全体的にバランスが取れている。古いものでは『装劔奇賞』
に載っている田中岷江「太鼓をもつ異人」や吉村周山の作風が覗える作品「麒麟」のほか、
江戸時代の龍齋の「異人像」や 17 世紀、18 世紀の無銘の人物像、珍しいものでは「迦陵
頻伽」や縦長の「馬」、石見根付にしか見られない技法を駆使した青陽堂富春の「蝸牛」
(図 70)や青陽堂巌水の「猪牙に蜘蛛」なども見られる。また、洋装や紙巻煙草の普及に
より提物を装着する習慣を失った幕末から明治維新以後の根付には繊細で洗練された作品
や装飾的な作品が多くなる。奈良人形の流れを受けた奈良一刀彫の技法で彫られている森
川杜園の「弁慶」(図 71)は、目にのみ彩色した金により凄みを出しているが、高円宮コ
レクションと同じ杜園の「白蔵主」がブッシェル・コレクションにもある。一刀彫とは大
雑把に一つの彫刻刀で面を平らに取るのではなく、細かく刀を使い分けながら面で仕上げ
ていくものであり、杜園などの名工の作品ではそれを確認することができる。また、品の
115
良い優しくも、洗練された作風で知られる大原光廣の「酒杯」や緻密な象嵌技法で知られ
る鈴木東谷の「あくび達磨」や「瓢箪」、表情が豊かでユーモアのある根付で知られる虎
渓齋三笑の「亀を真似する芸人」(図 72)、彫刻家の石川光明の「猿」、森田藻己の「牡
丹」、など、特に 19 世紀後半から 20 世紀初期にかけて優れた根付作品が充実しており、
その点数を数えてみると、なかでも次の根付師の作品が多い。懐玉齋正次(17 点)、大原
光廣(16 点)、内藤豊昌(20 点)、森田藻己(17 点)、中村雅俊 (47 点)である。最
後に、現代根付では繊細な作風の藻一派に属した大内玉藻の「元禄時代の若旦那」、大内
藻水の「獅子舞」、西野昇己の「因掲陀尊者」(図 73)、稲田一郎と言えば象牙彩色の雪
舟、大久保彦左衛門や石橋が有名だが、それらのほかにブッシェル・コレクションには一
郎の木彫彩色の「恋文」があり、また、高山明恵の「袈裟と盛遠」や外国人作家マイケル・
バーチの「トルソ」Torso、最後に 47 点ある中村雅俊の作品をあわせると、全体的なコレ
クションの姿が浮かび上がる。
総じてコレクションの質がとても高い為、実に困難な作業ではあるが、次の三部の主題
である高円宮コレクションを念頭において、具体的にブッシェルがこのミュージアムに寄
贈した根付の中から様々な観点から特筆すべきと考えるものを数点選択し、考察を進める。
また、ブッシェルが中村雅俊のパトロンであったこと、そして第三部の高円宮コレクショ
ンとの関連を考え、雅俊を含む現代根付作家の作品に関しては最後に別項目で扱うことと
した。なお、書籍の中では意匠による分類を使用しており、また、冒頭を飾る解説文の中
で図版として使われた画像についての詳細は本体に記されているため、書籍自体の図と照
合しながら読むと順序が前後する場合があることをあらかじめ記しておく。
まず「西王母」と題した作品(図 74)であるが、西王母は通常不老長寿の桃を持ってい
る。この作品のなかで霊芝を持っている女性が誰であるのかに関しては疑問が残るが、根
付として素直さと大胆さが感じられ、衣装の線と動き、そして笑顔もよく表現された根付
となっている。8cm ほどの高さであるが、贅沢な質のいい材料から彫り出されている。
次は LACMA のブッシェル・コレクションの書籍の表紙を飾る「狐」
(図 75)であるが、
女性に化けるところを、濃い夜叉染めで表現するという、斬新な発想を試みている。狐の
身体の柔らかい捻りや手の角度に女性らしさが現れている。古い時代の根付には経年によ
る慣れが味となるわけであるが、彫刻の構図などによっても磨耗するところが異なる場合
がある。18 世紀に制作されたこの「獏」
(図 76)には豊かな表情や根付でのみ表出可能な
116
ユーモアが感じられる。次は「麒麟」であるが、このコレクションにもいくつか立派なも
のがあるが、なかでも伝友忠(図 77)となっている作品は美しい。この根付は静かな力強
さを秘めているのに、掌に収めたいと思わせるところが評価できる。麒麟は中国の空想上
の神獣であり、性格は穏やかで優しく、また足元の虫や植物を踏むことさえしないほど殺
生を避けるといわれている。数多ある麒麟の根付のなかで、論者の抱いている麒麟のイメ
ージに合致した、威厳ある穏やかな姿の麒麟の根付であり、材質もよく、しっとりした感
じを伴っている。
この「麒麟」は高さ 11.4cm であるが、麒麟や仙人のほか人物像で、差根付ではないの
にかなり大きい根付と出会うことがある。大きな根付は外国人のコレクターに好まれ、日
本人は小振りのものを好む,と一般的に言われてきたが、根付としてどちらのものも存在
したことは確かである。装身具であるが故に根付には、その時代の流行が具象化されてい
る場合が多い。その時、ファッションの振り子は大きく振れるのが特徴であり、必ずしも
論理的整合性が常にあるとは限らない。ただし、現存する数の大きな根付が 18 世紀にあ
ったとは考えにくいのも確かである。論者は全ての大きい根付を 18 世紀の根付として認
めているのでも、高く評価しているわけでなく、ファッションというものの非理論的な側
面を書き記しておくべきだと考えた次第である。
豊慶の般若の面をつけた「能楽師」
(図 78)は 19 世紀末の明治時代になってからの作品
で、堆朱を緻密な彫刻作品にしてある。紅葉狩りと推測できる模様の装束だが、鈴をもっ
ていない。堆朱の赤が女性を悪魔の形相に変えてしまう執念や嫉妬を際立たせている。高
度な技術を使って凄みのある力強い作品に仕上げてある。紐通しも丁寧に設えてあり、形
状も根付にふさわしいが、全面に施してある彫りが掌で心地よく感じられるかどうかに関
しては疑問の残る作品でもある。
音満の「虎」(図 79)のデザインは目新しいものではないが、ちょっと笑っているよう
に大きく開いた口から見える舌、足を纏めて立つ姿、尻尾の処理が根付として機能的であ
る。この根付は保存状態もよく、毛彫りと墨の入れ方も美しい。音満の虎の中でも特に優
れた作品といえる。筆置のような形をした「龍」は背中に鱗はなく、龍と雨龍の中間的風
貌である。18 世紀のものであり、触り心地がよく、軽い、と記されている 94。それなりに
力強く、動きやインパクトもある。開けた口の中の歯も小さく、どこかおどけた顔立ちに
ユーモアが感じられる。同じく「龍」(図 80)であるが、こちらはまだ赤ちゃんの龍であ
る。強いまなざしではあるが、鼻も短く、歯もない。鱗も顎の下辺りはすこし形跡が見え
117
るようだが、身体全体はすべすべした凹凸があるのみで、首をかしげる姿の龍が今にも飛
び上がりそうである。
尾崎谷齋の「笑う象」(図 81)も、この作家の独創的な意匠の選択と扱い、さらに鹿角
という材質を熟知している技術的な完成度が魅力である。デザインとしてもユニークであ
り、ユーモアもいかにも根付らしいものである。石川蓮齋の「花鳥図」(図 82)は優美さ
を感じさせる作品で、材料は象牙、彫り込まないところを設けることによって、緻密な彫
りの部分を際立たせている。軽やかな雰囲気も出しているのだが、直径 4.2cm しかない中
で、仏教画の蓮の花を思わせる花弁の処理と雄蕊の丁寧な仕上げがさほど硬く見えず、鳥
に施してある彫りからも躍動感が出ており、まるで鳥が極楽浄土を飛んでいるかのような
姿を留めている。また、鳥の表情が愛くるしく、優美な中にユーモアも感じられる。紐通
しも丁寧に図柄の中に取り込まれて大きく彫ってあり、銘も美しい。
一徳齋についてはあまり知られていないが、この「力士」
(図 83)は面白い作品である。
化粧回しをしているので土俵入りの時と推測できるが、動きがあり、表情も豊かである。
染めの仕上がりも良く、艶も美しい。この作家による根付は極めて少ないと言われており、
その点から希少性も考慮に入れることができる。
優れた作品が多いため、もっとたくさん例を挙げたいが、第三部の高円宮コレクション
の現代根付との関係を考えて、ブッシェルの現代根付に対しての考え方や根付師との関係、
そして現在 LACMA に所蔵されているの中村雅俊の作品について書き記し、考察をすす
めたい。
ブッシェルは現代根付を蒐集したとは言うものの、中村雅俊のパトロンということもあ
っての事とも考えられるが雅俊を「最後の現代根付師」と公言していたのを論者も聞いて
いる。雅俊と出会う前に、ブッシェルは藻一派の彫刻の質の高さに着目し、大内藻水と西
野昇己と交渉して、一定数の作品を決まった額で優先的に買う権利を取得した。根付師に
とっても安定した市場はありがたいことであり、双方満足できる取り決めであった。ただ
し、ブッシェルは藻水に単独の像やシンプルで大胆なデザインの彫物を作るようにアドバ
イスした。中国銅器の「鷹」(図 84)や「蛙」(図 85)がその例である。藻水はブッシェ
ルのアドバイスに一時的には従ったが、結局は馴染めずそれまでのより緻密で時間のかか
る作風に戻ってしまった。ブッシェルは、藻水が新しいものを彫っても需要がないと言っ
て、従来どおり三点から五点はひとつの図を制作したいところを一点ものにするべきだと
118
主張したことに腹を立てていた、と書いている 95。
西野昇己(本名昇太郎、1915~
1969)の「因掲陀尊者」
(図 73)は表情が豊かで動きもある。置物風になりがちな羅漢像
を根付らしくまるく纏めている。1963 年頃から仏師となった昇己は、一つの根付を彫る
のに題材について数週間は考え、瞑想にふけり、綿密なスケッチや模型を作るのに時間を
かけた。そして、実際に制作に入る前には潔斎もしたという 96。一点を作り上げるのに三
ヶ月から六ヶ月かけていたとも記されている 97。
後にブッシェルは、中村空哉と知り合い、その息子である中村雅俊とも同じような交渉
をした。雅俊の場合にはブッシェルが独占的にすべての作品を抑えており、ほかには売る
すべがない状況であったので、お抱え根付師のようなものである。上記の藻水の場合と同
様に、ブッシェルは自分の意見や提案、考え方を伝え、理解を求めた。雅俊も米国人との
意思の疎通に悩み、事態を打開したいと考えたことを述べている 98。また、下記「土竜」
で記したように、同じ意匠が数点存在することがある。これについて雅俊は、自発的に再
挑戦する場合は自分が何か違う素材によって、またはどこかを改善することによって、よ
りいい作品が作れると思うからであるが、ブッシェルの依頼によって同じ意匠を繰り返す
時は気が進まず、いい結果に繋がらないことを確信している、と話している 99。
中村雅俊の根付は、長い間すべてブッシェルに納められていたので、ブッシェル・コレ
クションに良いものが揃っているのは当然であるが、現在 LACMA にある 47 点の中から
論者が特筆すべきと考える作品は次の数点である。
まず「蝉」(図 86)だが、これは雅俊の代表作といえる。材料は河馬の歯であるが、翅
の浮き彫りが特に美しく、艶がよく出ている。20 世紀の根付として、意匠も新鮮に感じ
られる。捻りはデザインそのものにも認められ、丸い形の蝉をあえて延ばして長さ
12.7cm の差根付にしたところにある。「弁天小僧」
(図 87)は、雅俊による歌舞伎シリー
ズの一点である。高円宮コレクションには「切られ與三郎」(図 88)がある。雅俊はいく
つかの歌舞伎演目の名場面を選んで根付としてまとめた。ここでは弁天小僧菊之助の女装
した美貌を残しながらて刺青の入った悪人をみごとに表現している。目元や口の曲がり具
合で凄みを出しており、かつらをずらしたところなどにはちょっとした捻りが感じられる。
刺青は丁寧に彫り上げている。巨大なキセルを持っているのも歌舞伎ならではだが、肌蹴
た着物の線も柔らかくて良い。紐通しは、大きさの点では良いが、位置が底面にあり、位
置的には好ましいとはいえない。「白衣の化け物」(図 89)は後から見ると観音像になっ
ており、その衣の動きも美しい。しかし、前から見ると化け物である。化け物も大きな口
119
をしており、化ける行為を楽しんでいる。「半化狐」(図 90)は、変身途中の狐の姿がよ
く表現されている。特に背中や顔と墨の使い方が優れている。同じ図柄で雅俊が自分のた
めに作ったものが高円宮コレクションにある(図 91)。もっと細身で色気がある狐である。
「十六羅漢像」について作者の雅俊は、「作家は老齢になる前に自分の仕事の集大成とな
るような代表作を作ることがある」が、自分の十六羅漢像がそれに該当している、と語っ
ている 100。材料はビルマの唐方で、ピンク色がかった象牙である。小さくて目が均等に
詰んでいて、適度に脂分があり、艶が出やすい 101。この十六羅漢像自体は好みが分かれ
るところだが、同じ羅漢像でありながら、それぞれの顔は違う。本来材料が良いので、慣
れが出るような使い方が望ましい。つまり掌で転がすことで味が出ると思われる。「山羊
の頭をした怪物」(図 92)の素材である犀角は繊維質が強く扱いにくい素材である。艶も
良く、インパクトがあるが、紐通しはわき腹にきちっと設えてある。「鯰」(図 93)が目
を引くのは、べっ甲を何層にも重ねて熱し、圧力をかけて一つの塊にしている点であ
る 102。「土竜」(図 94)のこの意匠は高円宮コレクションにもあり(図 95)、そのほかに
少なくともあと 1 点ある。土竜の毛彫りが他の作家にはなかなか真似られないもので、緻
密で丁寧な作品となっている。土竜の柔らかい毛の質感まで伝わってくる。「一寸法師」
(図 96)は、2.7 x 2.6 x 2cm の小さな根付で、上質の材料の切り落としが残っていたの
で使った、と作者は述べている 103。一寸法師はちょうど一寸くらいで、小さいが丁寧に
彫ってある。高円宮コレクションに 2.3cm の根付で「獅子舞」(図 97)がある。
これまで LACMA のブッシェル・コレクションを細かく考察してきたが、大きな特徴
としてあげられるのが、「質の点で問題となるような根付はほとんど見られない」という
ことである。図録や書籍を参考にする限りでは世界の博物館・美術館が所蔵する根付コレ
クションの中で最も質の高いコレクションであろう。また、美術館の体制として現在もテ
ーマ別に分類された根付が常設展示として 150 点ずつ飾られている。三ヶ月ごとに展示替
えを行い、一般の来場者に開放している。今年で展示開始から 23 年経ったが、世界でも
公の美術館でこの規模の展示を続けているのは LACMA のこのブッシェル・コレクショ
ンだけである。
最後に、あまり知られていないが、ブッシェル・コレクションが創設されたのを機に、
コーネリウス・ルーズベルトより大規模な根付関連の書籍の寄贈が 1989 年にあった。英
語、ロシア語、日本語、ドイツ語とフランス語の書籍、20 世紀のオークション・ハウス
の図録、印籠や象牙についての本、昔話・伝説の解説本、根付ジャーナルなどである。こ
120
うして LACMA のブッシェル・コレクションは米国の西海岸における根付研究の最大拠
点となっており、ここを研究拠点に世界における今後の学術的な根付研究の促進が大いに
期待できる。
根付が外国人に注目された時期がこれまでに二回あると考えるのが一般的である。最初
は明治時代に入りわが国の開国とともに万国博覧会などで根付や美術工芸品を積極的に展
示したことを契機に起きたジャポニスムの流れの中で、日本に来た外国人が多くの根付を
持ち帰った時期である。二回目は第二次大戦後日本に進駐してきたたアメリカ人が、日本
という国やその文化に興味をもった時期である。根付に興味を持った彼らはまずできる限
りの情報を集め、日本の各地の古美術商や骨董品店などを訪れて、日本人がもはや興味を
持たなくなってしまった根付を買い集めた。いずれの時も根付は外国人によって救われた、
と言っても過言ではない。最初の外国人に注目された時期においては本章(五)
1)で
考察したボストン美術館に多くの根付を寄贈したビゲロウ等が重要な役割を果たした。そ
して、二回目の時期においては LACMA に寄贈したブッシェル等が重要な役割を果たし
たことになる。明治時代以降、海外の根付関係者が世界の根付評価基準をつくりあげてき
たのはこの流れを考えれが当然のことである。海外の根付に関する専門家が育ち、蒐集家
が生まれて根付の世界が新たに構築されていく姿を、日本の根付関係者が先見できなかっ
たのは誠に残念なことであるが、海外のみならず、日本にも根付の研究調査を行える機関
が設置されることを期待する。殿下も海外の博物館・美術館などと情報交換をしながら研
究が進められる環境が整うことを願っておられると論者は考えるのである。
(六)プライベート・コレクション
ここでは、第三部で考察する高円宮コレクションが個人コレクションであることを念頭
に、両者の比較を前提にして、各コレクターがプライベート・コレクションを始めた切っ
掛け、蒐集された根付の傾向、そして蒐集家自身のコレクションに対する考え方などを、
論者の行った取材などから得た資料も用いつつ、論述を進めることにする。
1)カースティン・コレクション
根付のコレクターによっては、さまざまな理由から自分のコレクションを全面的にまた
部分的に公表しない人も多いのだ。その中にあって、ジョーゼフ・カースティン(Joseph
121
Kurstin)は、自らが苦労して蒐集したコレクションを展示会などに惜しみなく貸し出し、
自分の所有する優れた根付をより多くの人に見る機会をつくるよう努力されている。さら
に、彼は国際根付ソサエティーの機関誌 International Netsuke Society Journal や数多く
の著書などを通して、根付に関しての啓蒙活動を積極的に展開してもいる。そういう彼が
創設したカースティン・コレクションは、現在存続・公表されているプライベート・コレ
クションの中では、特に質の高い根付が多く揃っているコレクションと言える。眼科医で
あるカースティンは、米国のマイアミに在住しており、クリニックにて今もなおほぼ毎日
患者の治療にあたっている。彼は、また国際根付ソサエティーの会長を 2005 年から 2009
年まで務めた。
論者は、ジョーゼフ・カースティンに対して数回にわたる電話取材を実施し、コレクシ
ョンの成り立ちや特徴に関しては電話取材と 2006 年秋刊行の Daruma 52–Vol.13 No.4
の pp30-41 に掲載されている編者による氏へのインタビューとコレクションの紹介、さら
に本人の著書 104を参考にして、氏と根付との出会いだけでなく、彼のコレクションその
ものについて、以下に述べることにする。
カースティンは 1968 年から 1969 年頃にかけて、真剣に根付の蒐集を始めた。根付との
最初の出会いは 1959 年であった。ミズーリ州セント・ルイスの医者であった叔父の家で
小さな彫り物を見つけたのが根付との最初の出会いであった。叔父は収集癖がありたくさ
んの収集品を所有していた。そのなかに根付もあった。カースティンを魅了したのは、亀
をひっくり返すと裏側は人になっている根付で、それはいわば粗悪な「亀と福録寿の図」
にすぎなかった。しかしこの時点では、言うまでもないことだが、この根付が粗製乱造の
品でることを見抜く能力を氏は持ち合わせてはいなかった。そういう経験をした後、カー
スティンは、医科大学卒業後のインターンシップをサン・フランシスコで過ごした時から、
根付を集め始めた。インターン後、マイアミで研修医期間を過ごしたカースティンは、食
事を我慢して根付を買い続け、研修医期間を終了した段階では、100 点以上の「根付」を
持っていた。その小さい彫物が何であるかも、どこの国のものであるかも、当時は知らな
かったという。今から考えれば、その大半は、日本国外で作られた粗悪品であったが、当
時は全くわからなかった、と彼は述懐している。
その後、カースティンは、1970 年の大阪万博に行く医療関係者グループに参加する機
会を得て、出発前に日本について勉強するために日本関係の本を読んだ。その本の中にレ
イモンド・ブッシェルの著書 Wonderful World of Netsuke があり、それまで自分が集
122
めていたものが何であるかやっと理解することができた、と氏は述べている。また、その
本の最後において著者ブッシェルは、読者に対して、東京に来たら自分に連絡するように、
と呼び掛けており、そこに事務所の連絡先が記してあった。カースティンは東京に着くな
りアポイントメントを取り、早速ブッシェルに会いに行った。その時ブッシェルは次の
Collectors' Netsuke を執筆中であった。その本の写真撮りのために、光廣や昇己などの
素晴らしい根付が事務所に置かれていた。カースティンはそれらを実際に手にとって見る
ことができた。その時、ブッシェルから、質の高い根付を購入するには 300 ドル位かかる、
と聞き愕然とした。そのような値段を根付のために払えないと思いながらも、カースティ
ンはいい根付を捜し求めた。そして、日光の小さな店で秀正の 18 世紀のからくり面根付
と煙草入れを買った。当時のお金で 25 ドルであった。アメリカに帰国後に、その煙草入
れを売ったら 50 ドルで売れたので、利益まで出て、これは儲かると当時思ったとい
う 105。
その翌年、ロンドンに立ち寄った時、カースティンは、翌日サザビーズで根付のオーク
ションが行われることを知った。夕方遅く、彼はセールスルームに駆け付けて、翌日売ら
れる根付を見せてもらった。根付が数百点並んでいる薄暗い部屋にもう一人男性がいたの
で、話しかけた。その男性がゴードン・フォックス(Gordon Fox)で、売りに出たコレク
ションの持ち主であることが後日わかった。フォックスにオークションで買う為の助言を
請うと、サザビーズの近所に店を構える骨董美術商のジウゼッペ・エスケナージ
(Giuseppe Eskenazi)に頼むように言われた。その足でカースティンはエスケナージに
会いに行き、オークションで自分を代表してくれるよう頼んだ。当時カースティンは給料
も安く、銀行に貯金もなく、どのように支払うか全く目処がついていなかった。高額な根
付の購入代、オークション・ハウスへの支払い、そして代理人としてエスケナージにも手
数料を 7.5%支払わなければならない、という極めて困難な経済的状況にあった。それ
でも、8 点もの根付を選び、値段を決め、エスケナージに入札を依頼し、8 点すべてを競
り落とすことに成功した。その結果全部で 2500 ドルもかかった。その時は、お金も持っ
ていなかったが、契約書や覚書にサインすることもなく、驚いたことに、8 点の根付すべ
てを持って帰ることを許された。エスケナージは、その時「払えるときに払えば良い」と
言ってくれただけでなく、「きっと一年以内に今回の根付をすべてまた売りに出すであろ
う」、と予言した。つまり、エスケナージは、カースティンが、より良い根付に目覚める
という、ことを見抜いたのである。その翌日、エスケナージに連れられて、サザビーズの
123
次のオークションに出される根付も見に行った。そこでもエスケナージに 2 点買うことを
依頼した。翌月この 2 点、つまり、友一の「枇杷をかじる猿」
(図 98)を 200 ドルで、昇
己の「髑髏」
(図 99)を 400 ドルで落札するのに成功し、それらが後ほど彼の手元に届い
た。その 2 点は、今でも大事にしている根付である。カースティンの真剣な根付蒐集は、
この段階で開始されていた、と言えよう。
当時はまだ、根付関係の本も少なかったが、カースティンは、入手できるものはすべて
入手し購読した。また、有名なハインドソン・コレクションのオークションの資料(1960
年代後半に売りに出されたもので、初めて根付が市場において高額で取引された際のも
の)を入手した。その資料には、根付の購入者や値段がすべて記載されていたので、カー
スティンはそれを繰り返し読んだ。自分の医者としての年収では到底払えないような買い
物をしていたのだが、いつもどうにかなった、とカースティンは述べている。以前に買っ
た根付をオークションで売り、より良いと思える根付を買った。今までで 300 点ほど、買
ったものを再度オークションに出している、という。また、カースティン氏は「最高級の
根付を 1 点買う方が、それより劣る根付を 10 点買うよりいい」という考えの下に蒐集を
進めてきた、という。
70 年代の前半には、年間 4 回くらいの根付オークションがサザビーズで執り行われて
いた。ボンドストリートのセールスルームは伝統的な英国のクラブにも似た佇まいで、そ
こにおいて、まずはプレビューにコレクターやディーラーが集まり、オークションに出る
根付のトレイを回しながら自分が欲しいものを確認する。そして、実際のセールスでは、
僅かな眉毛や手の動きで値段が競り上っていく、という独特な緊張感が漂っていたのだが、
そうした中で、コレクターはハンマーが落ちるたびに一喜一憂するのである。そこでは多
くのコレクターとディーラーは人間関係をも形成していったのだが、論者も学生時代にそ
うした現場を見学したことがある。根付または日本美術の愛好家がエネルギーに満ちた集
中力で数日間を過ごしているように、その時論者には感じられた。
カースティンは 1972 年に有名な蒐集家のジャース夫妻(Betty and Mel Jahss)のコレ
クションを見たり、その数年後にチャールス・グリーンフィールド(Charles Greenfield)
コレクションを見たりして、かれらの蒐集の仕方に影響された。その結果、これらのコレ
クションの中で自分が特に欲しいと思った根付を、何年か後には直接またはオークション
を通して自分のコレクションのために入手している。蒐集家にはハンターの要素を強く持
124
っている人たちがいる、と第一部で述べたが、カースティンは獲物を追うこともするが、
気長に待つこともできる蒐集家であった。
現在カースティン・コレクションには 750 点以上の根付がある。40 年以上にわたる蒐
集家人生でコレクションの根付には出入りがかなりあり、蒐集している根付の傾向も次第
に変わっている。しかしより良い根付蒐集は変わることなく続けられたのだが、それには、
カースティン夫人の夫の根付蒐集に対する全幅の信頼と理解があったことを大きな理由と
して挙げることができる。
カースティン・コレクションの特徴としては、まず、京都の友忠と正直の動物根付が多
い点を挙げることができる。根付も、江戸後期、明治になると洗練されてくる分、昔のも
のに比べ力強さに少し欠けるようになる点は否めない。他方そうした点を補うという形で
優しさの発露を表現した根付が現れたのも事実である。ただし 18 世紀の秀でた作品を鑑
みると力強さの中にも、洗練された優美な線がある。そのことは友忠や正直の動物根付を
観ると明らかに理解される(図 100)。このコレクションには、特に、正直(京都)の動
物根付が多い。正直のものは意外に思えるほど繊細なところが認められるので、もしかし
たら正直は女性作家かもしれないと感じられることがあるくらいである。この点は、何の
文献もないので、証明することはできないが、正直の天児(這子)(図 101) 106には優し
い女性的な感じがある。正直だけではなく、当初は京都の根付師のみが動物の親子像を彫
っていたのだが、かれらの根付では、母と子の愛情が、動物を通して表現されている。こ
ういう動物根付をカースティン氏は好んだのだが、その他、17 世紀から 19 世紀はじめの
力強い根付、背の高い人物像、初期の神獣、伝説上・空想上の動物や題材もまた、彼の好
みである。
根付の銘の有無に関しては、18 世紀の根付は無銘がいい、とカースティンはよく言っ
ている。彼の真意は、根付の銘の判断は難しく、銘があるからと言ってその作家のものと
は限らない、という点にこそある、と論者は理解している。京都正直や友忠と言った作家
は彼らの活躍した同時代にすでに偽物が出回っていたので、腕のいい彫師による偽物は年
代が近いと、より判断がむずかしく、最終的な証明も困難であり、根付の力強さや全体的
な技術だけでなく品、彫りの丁寧さ、丸味、色、艶、材料の良さ、そして特に紐通しの中
まで精査し年代などを判断する手がかりとするので、銘より根付自体を見る目を養うこと
が大事であることをカースティンの発言は伝えている。
125
個人のコレクションの内容に関しては、その多くは自己申告に頼らざるをえない。カー
スティン・コレクションは京都の正直の作品を 50 点ほど所有しているという。
正直の
根付以外にも、氏の説明によると、友忠が 20 点、牙虫 4 点、谷斎 24 点、豊昌 10 から 12
点、懐玉齋 6 点、大きい人物像も 50 点ほどあるそうだ。
カースティン・コレクションにはいくつか有名な根付があるので、それらについて次に
記すこととする。最初にマイナーツハーゲンが「傑出した力強い描写力をもって作られて
おり、著者のコレクションの数ある根付の中でも他のものとは異なる逸品である」(図
102)107と書き残した作品を挙げたい。「マイナーツハーゲン麒麟」
(図 103)と言われて
いる 11.5cm の高さがある象牙の作品は、無銘でカースティン氏の説では 17 世紀のもので
ある。紐通しはないので、もともと根付として作られたものではなかろう。17 世紀初期
には、中国から日本に入った置物や判子が根付として使用されていたが、この麒麟もそう
であったのかもしれない。麒麟が身体を捻って空に向かって顔を上げている姿を表現して
おり、すばらしい彫刻であることだけは間違いない。
「立ち上がろうとする馬」(図 104)は京都の正直の作品で、高さ 4.0cm、18 世紀の象
牙の根付であり、馬の特徴を正確に掴んだ上で、一瞬の動く姿を捉えた作品である。根付
の丸味を出すためにデフォルメされているが、それをあまり感じさせない、自然な馬の姿
になっている。論者を含め「京都正直の最高傑作」と絶賛する根付愛好家も少なくない。
神獣・霊獣を題材にした作品として友忠の「獅子」
(図 105)がある。材料は象牙で、高
さ 5.2cm、動きがあり、力強い作品といえる。しかも、根付として纏めるためのデフォ
ルメが極端に施されているのに、それを感じさせないデザイン上の工夫が見られる。
カースティンはオークションに良いものが出るときには、国を問わず、そこまで飛んで
行って購入を試みる。また、どこのコレクションに好みの根付があるかも把握しており、
その持ち主が手放すかもしれないと聞けば、その家まで何回も通って話し合いを繰り返す
のも苦にならないと論者に語った。
こういうカースティンが蒐集したカースティン・コレクションの将来であるが、絶対に
博物館や美術館には入れたくないという。"We are only temporary custodians of our
collection. "「我々はコレクションを一時的に預かっている管理人に過ぎない」と氏はウク
ライナ根付ソサエティーのインタビューで答えている 108。自分の子供たちは興味を持っ
ていないので、どこかで再度市場に出すとのことであるが、コレクションは完結しておら
ず、まだ良いものならもっとほしい、と氏は論者に語った。自分がほしいものを手に入れ
126
る過程は素晴らしい冒険であり、獲物を追う時には血が騒ぐので、医学的にも蒐集家の遺
伝子が存在すると一般に言われているが、自分にもそのような遺伝子があると感じる、と
のことである。
カースティンの保管方法は特別な棚を作り、その中に可動式の仕切りのある箱を入れ、
一つの箱に入れられる根付の数を最高で 18 点とし、それらとは別に印籠と根付が一式に
なっているものは、違う形の箱に入れられている。
分類としては、根付制作の古い順に入れてあり、16/17 世紀、17/18 世紀無銘(小振り
なものから大きいものまでを、架空動物や人物に分けてある)、18 世紀無銘、18 世紀銘
入り(友忠、牙虫、我楽等)、となっている。さらに、京都、大阪、東京と地域で分けて
いき、そのそれぞれの地域の中では、各作家でまとめてある(京都では、正直だけ、岡友
だけという風に)が、その中でも年代順は守っている。そして 18 世紀後半から 19 世紀初
頭、19 世紀中期から後期(谷齋、懐玉齋、音満、東谷、光廣、光貞など)、象嵌/柴山な
ど、さらに、塗などの塗り方で分類している。
2)ハサート・コレクション
このコレクションは一定の地域の根付のみを蒐集している独特なコレクションであり、
それは石見根付のコレクションである。ここには、有名な大英博物館に多くの根付を寄贈
したことで知られるアン・ハル・グランディーのコレクションからの石見根付が 57 点も
入っている。またハル・グランディー女史は石見根付についての論文も出している 109。
ロバート・S・ハサート(Robert S. Huthart)は、1922 年生まれの英国人で、1945 年
以来香港に在住している。馬主でもあり、また、スヌーカー(snooker)を好むことでも
知られている。彼は、根付以外にも英国の金貨、鉱物、貝、さらに、19 世紀絵画を集め
ているが、現在は高齢で外出などしていない様子である。ハサートが最初の石見根付を買
ったのは 1979 年の 1 月のことである。黒柿で彫られた「墨に鼠」
(図 106)で、これは富
春の作品であり、高さは 5.5cm ある。ハサートによれば、この根付の 4 行にも及ぶ、浮き
彫りの長銘が目を惹いたという。それまではどの根付を買っても作家について知ることが
できるのは、銘だけであったのが、石見根付においては、その作家の銘の他に彫ってある
場所や日付などからいろいろと探ることもでき、その制作者のことがわかる点にハサート
は注目し、作者の顔が見えるところに魅力を感じ、石見根付を追い求めることとなった、
という 110。
127
しかし、石見根付は入手しやすいものではなかった。ゆっくりとコレクションを増やし
ていった。そうしたハサートにとっての大きな転換点は、ハル・グランディーとの接触に
成功したところにある。ハル・グランディーの論文を読み、女史と 1982 年に連絡を取っ
たハサートは二つの見事な根付を入手する。
その一点は、富春作の「百足」
(図 107)で、鯨歯(「魚虎牙」と彫ってある)に彫られて
おり、高さは 9.7cm もあり、材料を生かした構図と百足の動きによって、迫力のある作品
となっている。もう一点が文章女の「竹に蜈蚣」
(図 108)で、象牙に彫られており、長さ
9.5cm の、19 世紀に制作された作品である。見事な浮き彫りで、百足だけでなく、筍の
皮質も巧みに表現されている。
The Robert S. Huthart Collection of Iwami Netsuke111はハサートの立派なコレクショ
ンの図録で 360 点の石見根付の画像を見ることができる上に各根付について相当量の解説
が書かれおり、参考資料として欠かせない。現在の島根県西部にあたる石見地方では、た
たらの玉鋼など製鉄の技術が進んでいて刃物の良いものが入手できたこと、大陸に近く昔
から高い文化圏域であったこと、そしてほかの地域からの影響を即座に受けにくいことな
どもあって、独自の根付彫刻の伝統を築き上げることができた。材料として使われたもの
には、猪牙、黒柿、海松、マッコウクジラの歯など、素材としては扱いやすくないものが
多い。また意匠も石見根付独特のものが多く、自分の周りの自然が活かされている場合が
多い。鼠や亀、蛙、百足、蝸牛や蝉といった生活環境において見かけるものが題材になっ
ている。そして細かい字で制作の場所や日付などを入れる長銘で知られるが、技術的には
浮き彫りの技法が優れており、蝸牛の殻の表現などには、象牙を材料としている場合にも、
浮き彫りの技法を使っている場合が見られる。
高齢であるハサートが長年かけて蒐集したコレクションの行き先は決まっていない。氏
も日本に戻したい気持ちはあるのだが、これだけのコレクションとなると、日本の美術館
の予算で購入することは極めて難しい。石見地方の企業が一丸となり、そして県などに支
援を要請して初めて可能になる買い物かもしれないが、理解がないと難しい。今のところ
氏はコレクションを分散させるつもりはないようであるが、日本の根付愛好家としては、
是非石見の美術館または日本の国立の美術館に納まって欲しいコレクションである。
3)キンゼイ・コレクション
128
現代根付というジャンルを確立したといわれる米国のロバート・O・キンゼイ(Robert O.
Kinsey)とミリアム夫人が創設した根付コレクションは世界で最も大きな現代根付コレク
ションである。
ロバート・キンゼイは米国シカゴの生まれで、1941~1947 年までは、米国空軍将校で、
パイロットでもあった。そして、その後、1947~1952 年までは、アラスカ地区の米国連
邦民間航空監督官として勤めていた。最初に根付を見たのは 1945 年であった。当時は根
付が如何なる物であるか、全く見当がつかなかったという。1960 年にミリアム夫人と協
力して、キンゼイ国際芸術財団の前身を設立しただけでなく、現在では根付以外の分野に
対しても賞を出している。ウェスタン航空 112の社長を勤めていたこともある。
夫妻がで最初に根付を買ったのは 1958 年で、その時購入したのは数点の古根付であっ
た。ミリアム夫人はそれらの根付が日本の伝説や昔話に基づいて制作されたものであるこ
とを知り、この時を起点にして、終わりなき冒険の旅に出ることになるであろう、とその
時予感したということを自著に書いている 113。その他、同書には、日本の風俗習慣、歴
史や宗教について根付を通して学べることに意欲を示していることと共に、それまでの多
くの書籍では、19 世紀までの根付については書かれているが、20 世紀の作家とその根付
についてはあまり言及されていないことを知り、本の出版に踏み切ったということなども
書かれている。
ミリアム夫人は同書の第 1 章 114において根付の時代別による分類を「初期
Early
Period(c. 1574~1780 年)」、「黄金時代 The Golden Age(c. 1780~1850 年)」、「衰
退期 Decline(c. 1850~1875 年)」、「蒐集期の始まり
Era(c. 1875 年)、「明治維新後
「現代
The Beginning of the Collecting
The Post- Restoration Period(c. 1875~1925 年」、
The Contemporary Period(c. 1925~現在)」としているが、特に「蒐集期の始
まり」という、根付が蒐集され出した時期を示す項目を設けてあることは興味深い。とい
うのも、この時期は、明治の開国後、西洋において根付が日常品としての装着目的ではな
く、蒐集目的で売買されるという想定外の大きな転機を迎えた時期であり、それを時代区
分の一つの項目として扱うのは妥当と言えるからである。
ミリアム夫人はまた、1891 年におけるロンドンのジャパン・ソサエティーの設立、英
国・フランス・ドイツのコレクション、特にアルベルト・ブロックハウスのコレクション
について記すと共に、この第一世代のコレクターの中では、オーガスタス・ウォラスト
ン・フランクス卿のコレクションが大英博物館に寄贈・遺贈された以外は、ほとんどの蒐
129
集家が再度コレクションを分散させたため、それらの根付が第二世代のコレクターの手に
渡ったことにも言及している。また、第二世代コレクターの代表として M.T.ハインドソ
ンの名を挙げている。
さらに、彼女はまた同書で、値段はいまだ比較的低額であったが、一人のコレクターが
以前の規模で蒐集する時代は既に終わったことにも触れている。ディーラーとして山中商
会ロンドン支店(大阪と京都の山中商会)やパリの美術商 S.ビングの他に、ロンドンのリ
バティ(Liberty's)、パリのプランタン(Printemps)やボン・マルシェ(Bon Marché)な
ど、デパートでも根付を買うことができたこと、第二次世界大戦のあとは、日本の都市で
優れた古根付が売りに出され、進駐軍の人たちがそれらを安価な商品として買ったり、時
には煙草と引き換えに手に入れることができ、このようにして入手した根付がいくつかの
重要なコレクションの出発点となっていることも指摘している。
その上で、コレクターは世界中に分布しており、上掲書出版の 1977 年頃はやはりロン
ドンのオークションが行われたこと、根付という複雑怪奇な物について大いなる知識が必
要であることに加えて、どのコレクションの場合でも、「良い根付」のコレクションには、
優れた現代根付作家の根付が数点は入っていないといけない、ことなどを明確に指摘して
いる。
それは、17 世紀から 19 世紀に活躍した名工に匹敵する技術を現代根付作家が持ち合わ
せていると共に、そしてかれらは芸術性、創造性、伝統的な根付という美術工芸品に対し
て、新しい角度から真摯な姿勢で向き合っているからだ、としている。
この書籍は論者が大学生の頃に出版され、繰り返し読んでいたものである。今回改めて
他の文献と読み比べて、いかに斬新な本であったかを覗い知ることができた。また、彼女
に関しては、現代根付だけを推進しているかのように言われることがあるが、彼女は同時
に歴史的な流れの中で根付を捉えていることも改めて確認できた。
最後の項目である「現代根付」の時期を 1925 年頃からとしていることも興味深い。序
文で著者はその年を“more or less arbitrarily” 「ある程度恣意的に」1925 年以降と考えた、
としている。1977 年出版の本であるので、当時はそれでも適切であったと思われるが、
今では「現代根付」を 1925 年頃から、とするのは妥当ではないとも考えられる。しかし、
「現代根付」というのは、単純に「現代の根付」を意味するわけではない。このことを指
摘されたのは殿下であり、よくこのことについて述べておられた 115。キンゼイ・コレク
ションの展覧会が千葉市立美術館で 2001 年に開催されたとき、殿下は図録の序文にもそ
130
のように書かれた。時代別の分類の一つの選択肢として、第二次世界大戦を境に分けるこ
ともできるが、根付師自身が軍に召集されるなど制作が中断されたものの、戦前と戦後で
根付制作自体に大きな違いはない。
根付制作の発想が著しく変わったのはむしろミリアム夫人の著書 Contemporary
Netsuke が出版された 1977 年頃ではないかと考える。キンゼイ夫妻は、根付師たちに古
典に学びつつも自分たちの時代を反映する根付を作るように説得し、伝統工芸の分業制度
ではなく作家が最初から最後まで全工程を一人でこなす「一作根付
Issaku netsuke」制
度を勧めた。この頃から、西洋の芸術の域にまで高められた根付が制作されるようになっ
たのであり、上掲書出版から 30 年以上経った現在から振り返ってみると、この頃、つま
り、ミリアム夫人の『現代根付』が出版された 1970 年代後半が根付制作にとって、非常
に大きな転機になっていたことが推察できる。
1977 年当時、木彫専門の作家は二、三人であり、制作されていた現代根付の 80%以上
は象牙であったことも特筆すべきことである。この本には細かく日本がコンゴをはじめど
この国から象牙を輸入していたか、また日本に入った象牙がどのように分けられ、使用さ
れたかも記されている。1971 年、夫妻は日本滞在中に日本象牙彫刻会の会員と会った。
ミリアム夫人は直接作家と交流があることは蒐集をより面白くしている、と記しているが、
古根付ではなく現代物を蒐集する楽しみの一つは作家の顔がはっきり見えるところにある、
ことを彼女は改めて確認したのである 116。
現代根付作家と知り合い、交流を重ねるうちに、ミリアム夫人は、さらに、 Living
Masters of Netsuke『今を生きる根付の達人』を 1984 年に出版した。若い作家を激励し
つつ、かれらが育つのを見守って 10 年から 12 年が経っていた。豪華な装丁である本書に
は 12 人の作家が取り上げられている。その 12 人は、立原寛玉、齋藤美洲、櫻井英之、駒
田柳之、河原明秀、小林仙歩、明玉斎、高山明惠、中村雅俊、奥田浩堂、マイケル・バー
チ、マイケル・ウェッブ等である。彼女はかれらについて細かく記している。かれらに対
しては、一人ずつ取材形式をとっているが、かれらとは別に、「明日の根付作家」と題し
た項目があり、五人の日本人、四人の外国人作家が記載されている 117。また象牙に関し
て、1970 年代に大きな変化があり、その結果 1950 年代、1960 年代には木彫の作家がい
なかったが、本書が書かれた当時には、世界中が絶滅危惧種の保護に力を入れるようにな
り、象牙の輸入が減少、禁止になると共に、そのため木彫が増えたとしている。
131
夫のロバートは夫人が自身の著書の取材で忙しくしている間、骨董美術の店を回り、緒
締などの蒐集に当たっていたが、これらを集めているうちに、世界で最も大規模な緒締コ
レクションができてしまった、としている。その著作の緒締の本、Ojime: Magical
Jewels of Japan (1991) 118は世界的に見ても珍しく、その観点からも貴重な一冊と考えら
れるが、その他にも、多くの記事を根付関係の書物に残し、世界大会などで現代根付につ
いての講演も数多く行っている。
さらに、氏は、ここ十年の内に二冊の著書を出版したが、そのうちの一冊である The
Poetry of Netsuke 『根付にみる詩歌』は 2003 年、殿下が亡くなられた翌年の出版であ
る。ミリアム夫人も 2000 年に亡くなった。本書には、根付作家に制作の課題を与え、仕
上がった作品を全部買い上げるという発想があったことが書かれている。それによると、
質の悪いものを提供しようとする作家などいなくて、万葉集、古今和歌集や百人一首の中
から好きなものを選び作家が自由に制作したこと、ロバート・キンゼイが、新しい蒐集の
楽しみを見出したことがわかる。課題の与えられ方が良いと作家は発奮するが、悪いと制
作意欲が出なくなる。氏は根付と詩歌には共通して大きいものから小さいものへと凝縮し
ていくところがあることに着目して、165 点前後の根付を掲載している。
もう一冊の著書 Kiho Takagi(2006)119は、キンゼイ・コレクションに 200 点はあると
言われる現代根付を制作した、世界でも珍しい一人の作家高木喜峰についての著書である。
高木喜峰は殿下に制作した根付を高く評価していただくことで、根付作家の道に入った人
物である。もちろん高木喜峰本人も本書の出版を喜んだことであろうが、本書の最後に喜
峰が制作した殿下の追悼根付が載っており、殿下も喜ばれたに違いない、と論者は考えて
いる。
キンゼイ・コレクションには、喜峰の 200 点の他に、氏が蒐集のみで売りはしないコレ
クターであるため、10,000 点を超す根付があると思われる。氏に訊いても何点あるかわ
からない、と笑って答える。現在 95 歳だが、現在また新たな書物を執筆中と聞く。氏は
夫人とともに 20 世紀になってからの根付の進む道を明確にした人物と言えるであろう。
数年前に、カリフォルニアからイリノイ州シカゴ在住の甥のチャールズ・キンゼイ夫妻と
隣同士のマンションに引っ越した。多くの根付は甥のマンションに飾られており、食事時
は一緒に過ごし、仕事と寝室は自分のマンションで過ごす、という生活を続けておられる。
キンゼイ・コレクションは、甥に引き継がれていくものと思われるが、現代根付のみで、
古根付はほとんどない、世界でも最も質が高く、数の多い現代根付コレクションである。
132
数量的観点から見ると、高円宮コレクションも比べ物にならないが、殿下の干支の午とロ
バート・キンゼイの干支の辰との勝負、といったテーマの根付もあり、長年両者がそれぞ
れの仕方で現代根付作家を育て、そしていい作品を我先に、と蒐集されていた印象がこう
いう根付を制作した作家の側にもあったからかもしれない。
キンゼイ・コレクションは膨大な数 120の根付を有しており、その中から数点選ぶのは
難しい。高木喜峰や宍戸濤雲、栗原元正、スーザン・レイトや故マイケル・バーチなど、
ロバート・キンゼイと殿下の好みの作品が重複することも多かった。それを避けてここに
3 点の根付を紹介する。宮崎輝生の「秋の七草」
(図 109)と「床の間」はともに芝山の技
法を駆使した力作である。また、奥田浩堂は独特の世界を繰り広げる作家であるが彼の「ほ
うずきの中に蜘蛛」
(図 110)と「菊花」。最後に、米国人の陶芸作家で存命中には見事な
作品を作っていたアーミン・ミュラー(Armin Müler 1932~2000)。ここでは彼の「竹
に蛙」(図 111)の印籠・根付セットを記しておく。
4)渡辺正憲コレクション
1980 年代にコレクションを開始した渡辺正憲が根付に興味を持つきっかけとなったの
は、レイモンド・ブッシェルの Collectors’ Netsuke をたまたま手にとったことであった。
この本には、72 名の根付師が時代別に紹介され、354 点の根付の写真も掲載されている。
さらに、700 枚の写真はすべてカラーで、根付の魅力も巧みに捉えている。氏はこの本を
読み、根付の存在を知り、日本国内や出張先のロンドンで骨董品の競売や店を通して収集
を開始することになり、今は 60 点ほどの素晴らしいコレクションを持っている。
渡辺正憲は日本根付研究会の 3 代目の会長である。この会は 1975 年に創設され、現在
130 人以上の会員を擁する日本最大の根付愛好家団体であり、年 4 回は東京の他、日本各
地で会合を開いている。その会合では、たとえば、増井光子横浜ズーラシア園長の干支の
動物についての講演など、興味深い講演会などが催されたりした後、会員同士の親睦を深
めている。会員の論文や会合の様子を伝える会報『根付の雫』は 1975 年当初は写真を貼
ってある、B5 版でプリントアウトされたものであったが、今は A4 版と、より会報らしく
なり、年に 2 回発行され、海外の根付研究も進んでいる中、貴重な資料となっている。二
十周年と三十周年には会員のコレクションを展示した。また、海外の出版物が多い中、二
十周年には『根付
江戸細密工芸の華』121、三十周年には『根付=凝縮された江戸文化』122
と題した本を出版した。後者は渡辺正憲によるものである。これらの書物は日本人の根付
133
に関する情報を日本語で提供して、一般的な形で広めようとするものであるのみならず、
日本の根付研究の成果を文章として広く残していくために欠かすことのできないものにな
っている。
渡辺氏によると、最初の 5 点くらいは香港根付と呼ばれるような偽物を買ってしまった
が、だんだん目が肥えて、良い作品を手に入れるようになり、今では当時のものはほとん
どすべて処分したが、2 点だけ良いものを取ってある、と語ってくれた。彼のコレクショ
ンは、19 世紀の丹波の根付、豊昌と左豊昌(豊容)などの木彫の作品が多いのが特徴とな
っている(図 112-114)。
5)クライ・コレクション
題材や材料を限定して蒐集にあたるコレクターがいる。カール=ルドゥウィグ・クライ
(Karl-Ludwig Kley)はそうした一人であり、氏のコレクションの最初のテーマは「相撲」
であり、珍しいコレクションといえる。他には誰も相撲に関しての根付を集めている人は
いないと思われるので、論者は、カール=ルドゥウィグ・クライからそのコレクションに
ついて詳しい説明を受けた。
クライは 1987 年から 1991 年まで日本に滞在した。氏は当初日本についての予備知識が
ない状態での来日であった。日本文化に最初に接したときは大いに驚き興味を覚えた。当
初は青山 1 丁目の交差点の近くにあったプレジデント・ホテルの 18 階の部屋で日本につ
いて猛勉強をした。夜テレビをつけると大相撲を放送しており、それについてもいろいろ
調べた。2 年後有楽町のガード下で小さな力士の置物を発見した。それは、関沢芳堂の象
牙彫刻作品であった。その置物が気に入ったクライは、後ほど、この作家も訪問した。さ
らに、相撲取りの置物をその後 4,5 点購入した 123。
2 年後の 1990 年に版画のコレクターである友人が、来日していたドイツ人のオークシ
ョン・ハウスのトゥルーデル・クレフィッシュ(Trudel Kleifisch)をクライに紹介した。
そこで、彼女に相撲取りの置物を見せたところ、彼女は後日根付の力士を見せてくれた。
その上で、それまで彼が集めていた置物との違いを説明してくれ、クライは初めての根付
を購入することになった。おかめが女相撲取りとして描かれている根付である(図 115)。
こうした経験を経て、クライは、相撲をテーマに根付コレクションを作ろうと決心した。
そしてその後、根付について詳しくなっていき、クレフィッシュ、バンディーニやフレッ
シェルなどオークションハウスやディーラーを通して購入するようになった。他の題材の
134
根付を買うことは極力避けて、地図や獅子の根付を買ったことはあるが、すぐに手放した、
という 124。
クライ氏に確かめると、相撲を選んだ理由は下記の通りであった。
1)根付の分野は広く、的確に判断する能力が自分にはない。一歩間違えば方位が全く
分からない状態で外洋を航海しているようなものになる。相撲に関しては、理解できてい
たので自分の根付と心を通わせることが可能であった。
2)蒐集は狩りに似ている。自分はコレクターでありディーラーではないので、一度買
ったものを売るつもりはない。自分はコレクションとして完璧な完成品を目指した。形、
技法、作家などの点で重複もある。たとえば、No.3(図 116)の河津掛けの根付と似たも
のを 3 点持っているが、それらを眺めながら違いを比較するのも楽しみの一つである。
3)金銭的な制約があった。その中でコレクションとして成り立つものを目指した。相
撲根付を収集している人があまりいないが、市場に良い作品が多くあった。ほかのコレク
ターと競り合っていない分、コントロールしやすい。
4)コレクションを作るにあたり、的確に判断することができれば、発見もあり、それ
が満足感につながる。たとえばマイナーツハーゲンが中国人の労働者の根付だと考えてい
たものは、実は相撲取り 2 名と行司の姿を彫った根付(図 117)であった。
Rosemary Bandini, Tiny Titans The Sumo Netsuke Collection of Karl-Ludwig Kley
が出版された当時は、相撲のコレクションとしては半完成品で、欠けている部分があった
が、ここ 5 年でその欠けていた 10 点を蒐集するのに成功した。したがってこのコレクシ
ョンは完成品となった、といえる 125。150 点のほぼ全部が根付であるが、少し置物もあ
り、1 点だけ相撲を描いた印籠も入っている。18 世紀の作品から現代ものまであるが、現
代作家のものは少なく、芳堂 2 点、明恵が 1 点、雅俊が 2,3 点、そして一郎根付が 1 点
あるくらいである。また初期の藻水もある。行司のものは少ないが、行司と力士二人のも
のはいくつかある。ほとんどのものが単独の力士像か二人の力士が組んでいる図である。
これは形彫根付だけではなく饅頭根付等でも同じことが言える。河津掛けの図は幾度も繰
り返されており、人気の図柄である。
65 歳を過ぎたらコレクションをバンディーニとフレッシェルの二人のディーラーと見
直すことにしている、という。一人子の長男が興味を持てば、すべて譲るつもりだが、興
味がないなら、とっておくべきものを選別して他は手放す。博物館や美術館に入れるつも
135
りはない。自分の住むケルンでは博物館・美術館が根付を展示することは稀である。地下
室にしまい込まれるようでは意味がない 126。
コレクションの管理の仕方としては整理番号を購入順につけてあり、すべて写真を撮り、
決まった用紙に必要事項を記入して、ファイルしてある。同じ図柄の根付があれば、その
番号も記録しているし、展覧会に出した場合やジャーナルの記事に載せた場合はその記録
もつけている。また、請求書などすべての関係文書も残している 127。
相撲根付を蒐集している人が他にいると考えているか、という論者の質問に対して、ニ
ューヨークに一人だけ相撲根付を 10 点あまり持っている人がいると聞く、との答えであ
った。また一度まとめて 25 点ほど相撲関係の根付がサウス・ケンジントンのクリスティ
ーズのオークションに出たので、誰か集めていたのであろう、とも語ってくれた。
2008 年から新しいテーマでコレクションを始めた。この度のテーマは十二支であり、
違う考え方をもって蒐集する必要がある。十二支のコレクションに関しては質が大事であ
り、今回は形状、材料、作家、解釈などをあまり考える必要はなく、あくまでも質のいい
根付を蒐集するつもりである、とクライ氏は語った。
彼が十二支と決めた理由は下記の通りである。
1)明確な区切りのある題材であり、気に入った。スタイルや材料を気にしたり、特定
の根付師にこだわる必要もない。
2)人間をテーマにしたコレクションは、もうしたくなかった。
3)ある程度の制約がある。動物とすると広過ぎてコレクションとして収拾がつかなく
なってしまう。自分の干支を卯年と説明しながら、男らしくなく、あまり面白くない、と
話した後で、相撲は男らしいところが魅力の一つと付け加えた。
クライ氏がひとつのコレクションが完成した、と話すあたりが興味深かったが、彼の蒐
集の仕方にはドイツ人という国民性が感じられ、その理路整然とした蒐集の仕方からは、
根付一つ一つを自分で集めてきた本当のコレクターの意気込みが感じられた。
6)ヴィルヘルム・コレクション
2010 年 1 月 20 日 朝 7:30 に論者はガボール・ヴィルヘルム(Gabor Wilhelm)のパ
リの自宅へ電話をかけ、本論のために改めて取材を許可してもらい、直接、彼と根付の関
136
係についての様々な話を聴くことができた。根付関係のジャーナルなどへの執筆はあるも
のの、彼には著書はない。
以下に記すのは、そのとき聴いた話の要旨であるが、こういう根付蒐集家の直接的発言
を敢えて論文に入れることにしたのは、第三部の殿下のご発言との関連からであることを
付記しておく。
氏によれば、根付との出会いは店先のウィンドーにあった小さな犬の「置物」であった。
その時は何も知らず、店の人が根付について説明しようか、と訊いてきたくらいである。
この犬の根付がほしかったので、翌週妻とともに見に行き購入したのが、根付蒐集のはじ
まりで、1973 年の冬(40 歳頃)だった。有名なハインドソン(Hindson)・コレクショ
ンが 6 つのセールで売られた直後だった、と記憶している。その頃ブッシェルの本も買っ
た。何が欲しいのかも定かでなかったのだが、好きなものを見つけて値段の折り合いがつ
けば購入し、その後で勉強した。たとえば、干支の根付についても、全く何もわからなか
ったのだが、買ってから勉強した。根付のことだけでなく、それまでは日本とは無縁で、
子供の頃に伊万里の絵を真似して描いたくらいだったが、パリでは、まずは参考になる本
を集めて、勉強に明け暮れた。
自分のことを「オフブロードウェー・コレクター」”Off-Broadway Collector” 128と題し
て話をしたことがあるが、オークションなど有名なセールでは買ったことがほとんどなく、
自分から店を回った。根付を選ぶにあたっては触った感触を大事にして、素材の持つ手触
りを何よりも重視した。また、破損した根付でもいいと考えているが、友人は破損したも
のはダンボ―ル行きだと言っている。しかし、根付の破損は何世代もの人に使われた証で
ある、と確信している。現在持っている根付の数は 800 点くらいである。
自分の好きな根付は、手を満たしてくれるものである(図 118)(図 119)。そのなかに
は、小さくて、華奢なものも入っている。そうした観点から、初期の頃の力強い根付が好
きであるが、作家が誰であるか、銘がどのように入っているか、などはあまり気にしない。
しかし、古い根付に関しては実際にはわからないことが多い。たとえば銘が入っている場
合も、その銘を作家自身が作ったのかどうかということはわからない。他の人が銘だけ入
れていることもありうる。
子供はいないので、コレクションをどうするか、そろそろ考えなければならない。博物
館や美術館に寄贈するのはあまり好きではない。ドイツでは素晴らしい管理下の根付もあ
ったが、基本的にいい管理がされていないことが多い。どうするかは決めていない。根付
137
は小さいために、飾ってもらえないことが多く、忘れられてしまうのを恐れている。親は
収集癖はなかったが、自分は小さい時から切手などを集めていた。ただ、ハンガリー生ま
れで、戦後フランスに来た時から働かなければならなかった。根付の蒐集どころではなか
ったのである。しかし、少しずつ、日本美術から中国の美術まで集めた。刀関係のもの、
鐔や目貫なども集めたいものはあったが、値段が高すぎて、本格的なコレクションにはな
らなかった。
以上、パブリック・コレクションの考察に続いて、(六)プライベート・コレクション
として、1)カースティン以下、ハサート、キンゼイ、渡辺、クライ、ヴィルヘルムの 6
名の個人コレクターを論じてきた。
すでに述べたように、パブリック・コレクションも、その多くは、いわばプライベー
ト・コレクションを母体とした集合体であった。両者の関係は可逆的でありうる。
プライベート・コレクションには、蒐集家本人による売却、遺族による分散や寄贈など
があるため、コレクション自体には不変性がないといえる。さらに、上記の6名の他にも
優秀なコレクションを所有していた過去のコレクターがいたこと、また現在所有している
コレクターがいることも、当然ながら、考えられる。そういった、論者に把握できていな
い点に関する認識からだけでなく、今後の更なる研究の一助になればと考え、「その他の
主だった蒐集家とそのコレクション」を本論文の巻末に収録しておくことにする。
138
第二部まとめ
第二部ではまずコレクションの一般的な課題を取り上げ、それに基づいて世界のコレク
ションを例に挙げながら具体的に考察してきた。
第一章では、コレクションとコレクターの関係が密接であり、片方なくしてもう一方は
存在しない点を強調したい。コレクションが開始された動機や切っ掛け、そして目的はコ
レクターによる。コレクターの性向的特質によってコレクションの内容のみならず、その
扱われかたもが変わることを考察した。また、コレクションを収集するに当たっての書籍
や知識の重要さ、さらには鑑識眼をもったオークション・ハウスの専門家や美術商の役割
についても考察を行った。
第二章では世界の主だった博物館や美術館に収蔵されている根付コレクションと個人が
収蔵している根付コレクションについて考察した。その過程で、公共施設に収蔵されてい
る根付コレクションも、その基本となっている初期段階のコレクションは、寄贈・遺贈し
た個人の蒐集家のものであったことを具体的に明らかにした。美術館や博物館としての特
徴をだすのはその後の図録や展示の構成においては可能であるが、収集の段階では選択肢
は僅かである。
なお、寄贈・遺贈したコレクションの永久保存と展示に関しての様々な条件は寄贈・遺
贈の段階で同意されていても、その寄贈者・遺贈者の亡き後、本人が意図したことが守ら
れていないことが多く、また、博物館や美術館の運営を考えたら当初から守れない条件と
わかっていたと思われ、現実の厳しさも明らかした。
博物館や美術館収蔵のコレクションにおいて、代表的な根付を数点ずつ取り上げた。根
付の価値には絶対的な部分はあるものの、知識と鑑識眼をもって評価する相対的な部分も
ある。根付の評価はどこかで多義性的な部分があり、「揺らぎ」が生じることを承知の上
であえて本論で試みることとしたが、それは第三部の高円宮コレクションの考察において、
蒐集時にどのような評価がなされたか、比較を通してより鮮明になることを期待してのこ
とでもある。
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