第一節 縦横の愛の公式(三代王権と四代心情圏)を中心として復帰されてきた アダム家庭からアブラハム家庭までの聖書史 それでは、聖書史の中において神がどのように縦横の愛を復帰するために、 アダム家庭復帰の公式を通じて復帰摂理を成されてきたかを見ていきたい。そ の前に文先生が聖書をどのように評価しているかを、文先生のみ言葉を通して 見ていきたいと思う。 「命の木、創世記の二章九節に生命の木ね。園の中央に生えた生命の木、堕落 したんだから、生命の木を失った。それがために、三章二十四節でケルビムと、 回る炎の剣で、だらか、人間が進むべき生命の木が塞がれてしまった。それが いつ開かれるかというと、それが使徒行伝の二章三節に『また、舌のようなも のが、炎のように分かれて現れ、一人一人の上にとどまった』。聖霊が現れた。 聖霊は何かというと、それは父母である。聖霊が来たために、父母の基準がこ の地上に現れる。父母として現れたんだから、新しい生命の道が開ける。それ が霊肉共の基準だったんだけど、それができなかったんだから、ヨハネの黙示 録二十二章十四節におけるごとく、我々は、再び生命の木に入らなければなら ない。それはもう完全に復帰になっておる。 それから、一番最後に黙示録二十二章十七節にはまた伝道が現れてくる。 「御 霊も花嫁も共に言った。 『来りませ』。また聞く者も『来りませ』と言いなさい。 渇いているものは来るがよい。生命の木が欲しい者は、値なしにそれを受ける がよい」。だから、再び伝道が出てくる。御霊というのは聖霊を言う。花嫁はこ れを母を言うんだね。地上に母が現れる。聖霊は母の霊である。花嫁はお母さ んをいう。再び伝道が現れる。だから、今まで聖霊は生命の木だけを復帰して きた。しかし、善悪知る木は現れていない。それが何かというと御霊と花嫁が、 それが善悪知る木として再び伝道が現れる。父母の伝道が現れる。この一冊の 聖書はそれを示している。だから堕落したのをイエス様が来てその道を開けて、 その堕落基準を復帰して、それから新郎新婦が成婚されて新しい父母の理想と した全国の再伝道が現れてくる。内容はそれである。 これほど明確にすべてを表した聖典はないというんだね。だから、この内容 をずっと、堕落。愛を中心として堕落。神は愛であるということを、歴史を通 して教えているのが聖書の内容だ。そうでしょう。失ったのを最後に復帰しな ければならない。これが一つの創世記の堕落なしに、生命の木の問題とか、善 悪知る木の問題とか、それから黙示録におきまして生命の木に再び戻るという 内容がなかったら、これ聖書じゃない。だから初めと終わりが一体となる。だ 194 から復帰完成がなされる。他の宗教の聖典を読んでみてもそうではないんだね。 初めからボャーッとしている。根本が神ということがはっきりしない。仏教も そうだね。そうなっている。曖昧な基点から出発しているんだね。しかし、聖 書の観はそうじゃない。はっきりと神を中心として、人間との関係を中心とし て、ま、子女の関係を中心としてずうっと一貫した内容、歴史性に基づいて表 している。それがいろいろ時代性に応じて、そこに適合する内容を時代に応じ ながら、ずうっと長い間の預言者を通して記録したものだ。名前を誰がつけた かわからないけれど、聖書だね。だから君たちは聖書を研究しなければならな い。 今堕落人間におきましての割礼とかね、何であんなことがあるか、旧約聖書 に複雑な内容があるんだね。聖書という名前がおかしいというほど、いろいろ 普通では考えられない問題が多いんだよ。なぜ、そういう問題があるか。それ が問題になるから、聖霊とかあらゆるものが、原理を知れば解決できる。君た ちはそこまで行っていないんだけどね。ま、復帰世界になれば詳しい所まで説 明する時が来るかも知れない。しかし先生がその時いればいいんだけどね。そ の時君たちはまた祈らなければならない。だから早く早く復帰して。 三分の一は君たちには教えられない。なぜかというと完成基準が残っている。 世界がまだまだその基準を残しているから、その世界に対してみんな教えてや ることはできない。蕩減条件を立たして、自分たちの五パーセントにある基準 を、ある個人だったら個人、家族だったら家族、民族だったら民族、国家なら 国家、その国においてのその過程は誰しもが通過しなければならない。そうい う基準があるから、百パーセント教えることができないというんだね。だから 原理講論には、先生が今までずうっと生涯を通して蕩減を成して来た。その内 容は一つもない。ないでしょう。いかにして蕩減条件を立たしたか。それが今 後出る問題だね。これを詳しく説明してやると君たちが引っかかるわ。わから いのが却って幸福かもしれないよ。だから聖書を中心として伝道するのが、何 よりも我々に効果があるその道である。」 原理大修練会、終末論講義の途中におけるみ言葉 (1967 年 6 月 19 日 み言葉ハンドブック記載) このみ言葉は日本統一教会の初期に日本で原理大修練会が行われた時のみ言 葉である。しかも 1967 年ということは日本ではまだ誰も祝福を受けていない時 代である。すなわち当時文先生が日本に自由に入ってくることができ、すでに 伝道されていた日本統一教会の先輩たちが直接文先生から指導を受けたときの 195 み言葉である。そしてまだ出版されたばかりの原理講論についてこのような見 解を文先生自らが示されているのである。 「原理講論には、先生が今までずうっ と生涯を通して蕩減を成して来た。その内容は一つもない。」と言われている。 さらに念を押すように「ないでしょう。」と二度言われている。しかも全部話す と引っかかるとまで語られている。原理講論は、文先生があえてすべて書かな かったということになる。次に続くみ言葉は聖書についてで、聖書を通して伝 道する事が最も効果的であると語られておられる。これは聖書の中に文先生が 伝えたい内容が隠されているとも捉えることができる。原理講論は聖書の内容 の中からカイン・アベルの公式を導き出した。ここで取り上げていく内容は縦 横の愛を復帰するために神がアダム家庭復帰の公式を通して、聖書史において どのように導いて来られたかを提示しいきたいと思う。 「聖書は約 850 年の間、数多くの人々の手によって記録されたものですが、こ のようなことが、このような体系に基づいて記録されたということは、一つの 思想をもった主人がいて、預言者を通して記録されたものでなければあり得ま せん。それ故に、「神はいない」という言葉は成り立たないのです。」 (祝福 68 号 150p 根本復帰 前編 1970 年 12 月 1 日 江陵教会) 「公式を知らなければなりません。カイン・アベルの公式、カイン、アベルが一 つにならなければ神が地上に兄弟の圏を立てることができないし、天国の門を 開くことができません。父と母の愛を中心としてつくられる家庭を中心として、 完成基盤を通じなければなりません。そのような家庭が天国に行ける本然の基 準であるため、この本然の基準に当てはめる歴史が今までの人類歴史 150 万年 でした。聖書には 6000 年となっていますが、それは聖書の歴史です。神が生き ておられ、このような全宇宙の秘密と聖書に隠されたすべての道理を明らかに して、現実において、この否定することのできない歴史的事件が当てはまり、測 定してみるとすべてが当てはまり、その公式がどこにおいても適応したので、 今日の知識層において、変遷する世界において変わらない真理として受け入れ られる時代へと越えて行くのです。今日がそのような時なのです。ですから統 一教会に反対してはいけないのです。そうしたなら失敗するのです。」 ( 17p (続)天国創建の意義 1986 年 1月1日 ソウル本部教会) 「皆さん。聖書の中に、「原理」でも分かっていない個所が三ヶ所あるのです。 それを尋ねてくる人を、一人も見たことがありません。それは、わたしが霊界 に行っても蕩減しなければならない責任を持っているのです。何のことか分か 196 りますか?(「はい。」)」 (ファミリー01/6 29p 「米国 50 州巡回講演」祝勝会における御言 2001 年 4 月 18 日 イーストガーデン) アダム家庭においては、すでにかなりの部分を説明してきた。堕落はアダム 家庭でおきたので、復帰はアダム家庭を目標にしていかなければならないとい うのが復帰原理の公式である。つまりそれは再創造の公式路程によって展開さ れていくようになる。本来神は天使を中心とした環境創造(万物)から始まり、 アダム、エバ、カイン、アベルというのが創造の順番であった。そしてアダム とエバの完成によって神、アダムとエバ、カイン・アベル、天使という順序に ならなければならなかった。しかし復帰は逆の経路を辿るようになるからアベ ル、カイン、エバ、アダム、天使長という概念で説明されていくようになる。 そしてアダムを迎えた後は神、アダム、エバ、カイン、アベル、天使長となら なければならない。 しかしすでに説明してきたように、創造原理と復帰原理は、概念が変わった だけで、神の公式は変わっていない。つまり、神が最初に探されるのは天使長 を中心とした環境創造であり、その中心となる堕落していない天使長を探し出 すことが必要なのである。復帰原理は、アダム家庭が現れる前に、まず天使長 が万物を復帰してアダムを迎えるための基台を整える期間がある。その期間を 原理講論では、復帰基台摂理時代と表現されている。この期間は原理講論では、 万物を人間の身代わりに捧げることによって立てられた期間であり、立てられ た中心人物たちは万物を割くことを条件とした期間だ。この中心人物たちの位 置は聖書史の中において祭司長の位置になる。この祭司長によって祭壇に載せ られ割かれる万物を私たちは、今まで動物や献金と捉えてきた。しかし最も割 かれなければならない万物とは堕落した習慣性を持つ人間自身である。つまり 聖書史において割かれてきた万物とは私たち堕落した人間を象徴している。祭 司長は天使長の位置で蕩減復帰歴史の中で神と人間(アダム)をつなぐ中間的位 置の使命を果たし、万物(天使長に主管される天使達)を割く役割を担い、メシ ヤ(アダム)を迎えるまで復帰摂理の中心的位置を歩み、天使たちを指導し、最 終的にメシヤ(アダム)が現れたとき、真っ先に自ら進んで実体の神であるアダ ムに侍らなければならない立場となる。このような内容で展開されたものが宗 教史である。その中でもメシヤ思想をもった宗教がメシヤを迎えるための中心 的宗教である。このような宗教を選民(イスラエル)と呼んだ。 このような視点に立って考えてみると復帰摂理(選民史)上に現れる堕落しな 197 かった天使長(祭司長)とは最も重要な使命を担い、また最も過酷な立場に立た された存在と言っても過言ではないと思われる。 「復帰歴史を再創造原則から見ていくと、第一は環境復帰であり、第二は主体 と対象、第三は相対関係なのです。天地創造もこのようになっているのです。 ですから、再創造もこの原則に従っていかざるを得ません。復帰歴史とは環境 を中心としての主体と対象の復帰であり、カイン・アベルという、主体と対象 から始まるのです。このように、復帰過程においては必ず主体と対象の関係が 必要だということを知らなければなりません。」 (ファミリー92/9 9p 真の家庭の復活と世界解放 1992 年 4 月 19 日 ベルベディア) 「再創造とは何かというと、環境創造なのです。それには主体と対象の関係、 相対的発展が必要なのです。」 ( フ ァ ミ リ ー 92/9 10 p 真の家庭の復活と世界解放 1992 年 4 月 19 日 ベルベディア) 「救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理なのです。復帰摂理は蕩 減しなければなりません。罪を犯したのですから、清算しなければなりません。 それで、旧約時代には、歯には歯、目には目、目には目によって蕩減しなけれ ばなりませんでした。復帰摂理は、名目的なものではありません。再創造の摂 理なのです。創造原理によれば、神様の創造の一番目は環境創造であり、二番 目は主体と対象圏創造、そして三番目は対応相対創造なのです。」 ( フ ァ ミ リ ー 93/5 9 p ~ 10 p 勝 利 さ れ た 真 の 父 母 様 1993 年 1 月 28 日 ワールドミッションセンター) 「責任者は生きた祭司長の責任と、生きた祭物の責任を果たさなければならな いのです。」 (祝福 72 号 93p 我が家庭の行く道 1971 年 8月 28 日 清平修練所) そもそも神の創造原理は必ず三段階路程をもってなされる。そして復帰(再創 造)も創造原理によってなされる訳であるから、復帰原理(再創造)も必ず三段階 過程を経ていくようになる。 198 「復帰という救援歴史は再創造の歴史であるので再創造歴史を成していくには 三段階過程をへていきます。 (祝福 8 号 26p 1800 家庭へのみことば 1975 年 1 月 26 日 水沢里) 原理講論では復帰摂理歴史の三段階を復帰基台摂理時代、復帰摂理時代、復 帰摂理延長時代という三段階で説明している。つまり、アダム(アベル)からア ブラハムまでの期間は、人間自体を割くことができないので万物を人間の象徴 として祭物として捧げて条件を立てていく 2000 年期間を復帰基台摂理時代、ヤ コブが天使に勝利しサタン屈服の典型路程を勝利した後に、エジプトにヤコブ の十二人の子女と 70 人家族が移住したのち、モーセが神から与えられた律法を 中心としてヤコブの血族により第一イスラエル選民圏を形成しイエス様を迎え るまでの 2000 年期間を復帰摂理時代、イエス様が十字架に架かられた後、再臨 主を迎えるまでの 2000 年期間を復帰摂理延長時代と捉えて三段階を説明してい る。それに対して文先生のみ言葉は旧約時代、新約時代、成約時代という時代 区分で三段階を説明している。 真の神様 165P 「歴史的な復帰路程を総括的に見ると、神様は今まで蘇生、長成、完成の三段 階を通して摂理してこられたということが分かります。旧約時代の僕の時代、 新約時代の養子の時代、成約時代の真の子女の時代を越えて、真の父母の時代 になるという復帰路程なのです。旧約時代の全人類に対する救いの摂理は僕の 立場での救いでした。それゆえこの時代は、初めから終わりまで残って勝利す ることができる中心を立てなければ、僕としての復帰基台を立てることができ ませんでした。それゆえ神様はノアやアブラハムなどの中心人物を立てて四千 年という歴史を導いてきながら多くの犠牲を払われました。」 「旧約時代は物質を中心として摂理してきたし、新約時代はご自分の息子で あるイエス様の実体を中心として摂理して来ました。成約時代は父母を中心と して摂理されるのであります。私達人間は本来、万物と実体圏において出発す るのでなく、父母と愛から出発しなければならない故に、キリスト教において は、イエス様と聖霊を通じなくては救援されないと言っています。イエス様は 霊的な父を言うのであり、聖霊は霊的な母を言うのであります。霊的な父母と 一つになる場において、息子の因縁がなりたつ時霊的復活といい、父母の関門を 通る、接ぎ木される過程をへて、復活圏がはじまるというのがキリスト教の復 活の原理であります。父母をへずしては命が誕生されないのであります。この 199 ようにして今まで救援摂理を発展させて来たのです。 本来、心と体が完全に一つとなったアダム・エバが縦的に完全に成長し新郎新 婦として、神の前に喜びの対象圏をなして、神様の祝福を受ける事によって、神 の愛による家庭が形成されたならば、それが本来エデンにおいて堕落せずして 成されたであろう完成圏でありました。その完成圏に現われた、アダム・エバが 祝福を受けるというのであります。」 (祝福 8 号 25p 1800 家庭へのみことば 1975 年 1 月 26 日 水沢里) 「旧約時代は物質を中心とした、新約時代は人を中心とした、成約時代は心情を 中心とした時代です。ですから心情的人、心情的万物、心情的神という言葉が現 れてきます。今までは歴史について語ってきましたが、これを一人の人間にあ てはめて考えてみると、自分の心は成約時代、自分の体は新約時代、そして自分 の所有物は第一段階の旧約時代に相当します。」 ( 205p 迫害と祝福 1980 年 5月1日 ワールドミッションセンター) 「旧約時代においては、小さな祭物の条件を捧げてもそれは自分の生命の代わ りのものであり、自分の心の代わりであるというのです。そのように、祭物は 心と体の代わりとして捧げるものです。自分自身を殺すことができないので、 祭物の血を流してきたのです。サタンの血統を受け継いでしまったので、サタ ンの血を取り除かなければならないからです。自分の代わりに祭物として羊や 鳩や牛を犠牲にして、これを燃やさなければならないのです。祭物の本質がそ うなのです。燃やしてしまって完全に血と肉を否定するのです。自分自身にお けるサタンの血とサタンの肉を燃やして神を愛する条件とするのです。そして いかなる者が反対してきたとしても、その反対に屈することなく、汚されるこ となく、神のものとしてこれを捧げたという立場においてのみ、神が受け取る ようになっているのです。神はサタンが取ったあとの物を受けるようにはなっ ていません。サタンを完全に除去したその物のみを受けることができるのです。 そのような旧約時代であったことを、その時代は分からなかったのです。この ように祭物を捧げることは神とサタンの所有物を決定するための条件なのです。 そして、その主流思想は愛なのです。神の愛の所有になることによってすべて の万物、被造世界が連結されるようになるのです。」 ( フ ァ ミ リ ー 87/12 20 p ~ 21 p 最 後 の 祭 壇 1987 年 6 月 14 日 ソウル本部教会) 200 「旧約時代にはすべての万物が血を流し、神側の人々、神の愛する神の子と僕 と神の養子とが行くことのできる道を開いておくのです。これが旧約時代です。 (ファミリー86/3 14p 天国創建 1986 年 1月1日 ソウル本部教会) 「新約時代はどのような時代かといえば、イエス様が神の息子として来られ、 次にキリスト教信者が養子圏の立場で、キリスト教圏を中心として犠牲となっ てきたのです。キリスト教圏とは何でしょうか。新約時代は、神の子女、神の 人々を犠牲にして何を復帰するための時代であったかといえば、父母様を復帰 するのです。」 (ファミリー86/3 15p 天国創建 1986 年 1月1日 ソウル本部教会) 「成約時代は神様と共に暮らす時代なのです。このようになることが再臨の完 成なのです。」 ( フ ァ ミ リ ー 93/6 56 p 真 の 父 母 と 成 約 時 代 1993 年 1 月 10 日 ニューヨーク) 文先生のみ言葉と原理講論の中に展開される三時代の概念を比較して考えて みたとき、文先生のみ言葉による旧約時代という概念は、原理講論の中で展開 される復帰基台摂理時代と復帰摂理時代を総合して表現しているように思われ る。そして新約時代は、復帰摂理延長時代を表し、成約時代とは再臨主を迎え た後に再臨主と共に歩んでいく時代を表しているように思われる。三段階路程 の基本概念は縦的愛を完成していく過程を表した三代(蘇生、長成、完成)を基 本において出てきた概念といえる。そして復帰摂理歴史は縦横の愛を通して現 れる原理を中心として展開されていくものであるから、まず復帰摂理は縦的愛 の基準をもとめていくようになる。 「この世のすべての歴史は、縦的な基準が立ってこそ横的な基準が立つように なります。」 ( 12p 神の摂理史的総決算 1985 年 12 月 29 日 韓国本部教会) 神の再創造は、地上に縦的愛の完成者として、アダムを迎えなければならな い。しかしアダムを迎える前には必ず天使長が必要になってくるのが原理であ る。このような視点で考えてみれば復帰摂理歴史とは、アダムを迎える前に地 上にアダムを迎えるための天使世界を形成する期間であるといえる。その天使 201 世界を形成するためには地上に堕落せずに勝利した天使長を迎えなければなら ない。復帰摂理歴史において、その最初の勝利した善の天使長が誰かといえば、 ヤコブなのである。 み言葉選集 55 巻「今後我々は何をなすべきか」 「サタンは天使長であるために、アダムは天使長より高いレベルにいるのです。そう でしょう。天使長が僕であれば、アダム・エバは神様の直系の子女であるために、高 いレベルにいるというのです。 神様はアダムを直接主管するようになっており、天使長を直接主管するようにはな っていません。このような観点から見た時、堕落した世界の個人から家庭、氏族、民 族、国家を復帰しなければならないということですが、堕落した世界は、神様が主管 できる世界にはなっていないのです。サタンが主管する天使長圏世界が堕落した世 界なのです。ですから神様が主管する世界に分立しなければなりません。 では、分立しなければならない原因はどこにあるでしょうか? 神様がアダムを創造 する時に、天使長を通して創造したのです。ですから、分立しなければならないのは、 天使長の立場なのです。アダムを創造する時、天使長は神様の相談相手でした。こ れが天使長の立場なのです。アダムを創造することに協助できなければ、サタン側に なるのです。このような原則によって、協助する立場に立てば神様が取るのであり、 協助することができなければ、原理から離れて非原理的なサタンが管理するようにな るのです。ですからサタン世界で原理的な立場に立てば、神様が奪ってくることがで きるのです。アダムを再創造できる要素と環境の因縁を提示する条件さえ立てれば、 奪ってくることができるということです。 こうして、人間が堕落以降四〇〇〇年の歴史を通して摂理されてきたのがユダヤ教 の歴史なのです。僕の歴史は、神様を主人と呼ぶことができるのですが、僕の僕の時 代には、僕を主人と呼ぶのです。その僕にもなれず、僕の僕の前に主人になることも できないのです。それと同じような立場を経なければなりません。 養子圏が現れるには、そのような過程を経なければならないのです。僕の時代から、 養子の時代に進んでいかなければなりません。では、僕の僕時代から僕の時代に入 る時代はいつでしょうか? それはヤコブからです。ヤコブの時代に初めて、イスラエ ル民族が現れますが、これらはサタンの息子ではなく、復帰した天使世界の息子と同 じなのです。 このようにして復帰してきたのが、イスラエルの歴史です。サタン圏を逃れるために は、サタン圏よりも上でなければなりません。天使長が堕落したことによって、死亡圏 がつくられたのです。堕落することによって、個人もサタン圏内に入り、家庭もサタン 圏内に入り、氏族もサタン圏内に入り、民族もサタン圏内に入り、世界もサタン圏内に 入ったのです。 202 天使長が堕落することによって人類はどうなったかというと、堕落した天使長の子孫 になってしまいました。堕落した天使長の子孫は非原理の形であるために、神様はど うすることもできません。それで、堕落しなかった天使長の子女と同じ立場に復帰させ たのが、イスラエル民族なのです。分かりますか? そして、堕落した天使長の息子 と、堕落しなかった天使長の息子とが戦って、誰が勝ち残ったのでしょうか。 堕落した天使長の息子が勝っても、神様の前に帰ることはできないというのです。 堕落しなかった天使長の立場にいる人、神様が選んだ民が堕落したサタン世界の非 原理級にいる人たちよりも進んでいかなければなりません。堕落した僕を追い出し、 堕落しなかった僕の息子たちが現れなければならないのです。」 ここにおいて、はっきりと原理講論にはない視点を文先生は提示されている。 原理講論は、人間が堕落したので人間が分立されなければならないと説明して いく。それに対して文先生のみ言葉では、はっきりと分立されるべき存在は天 使長であると言われている。その分立路程を歴史的に歩んできたのが選民史で あり、宗教史である。つまり復帰摂理歴史に展開される選民史(宗教史)とはア ダムを迎えるための天使世界の歴史なのだ。天使世界を導いていくアベル(中心 人物)の原理的位置は堕落しなかった天使長の位置である。それゆえに堕落した 天使世界の中においては、善の天使長を中心とする宗教史(選民史)は必ず迫害 の道をたどってきた。 「宗教はすべて否定の道を行くようになっています。人類を救う道は元に帰る 道であり、それが宗教です。」 (祝福 79 号 11p 救援摂理史の主流責任 1993 年 6 月 4 日 アラスカ) 文先生は、この天使長の位置を僕と表現されている。この時、アダム家庭復 帰の視点に立てば、天使長家庭の位置とは、アダムを生み出す環境であり、ア ダムに対しては父母の位置になる。父母は子女を産み、養育する存在である。 子女の成長期に外的環境や、外敵から保護する防壁とならなければならない。 立場は父母ではあるが、その姿勢は、まだ何もできない幼児のアダムとエバに 対して僕のように接していく存在である。このような原理的観点から文先生は、 天使長を僕と表現してきたのである。そしてその僕(天使長)から主管されてい る万物(天使達)は、僕の僕と表現してこられた。 文先生のみ言葉によれば、選民史とは、アダムを迎えるために天使世界にお いて綴られて来た歴史であると捉えておられる。そしてヤコブが復帰された天 203 使長の位置に初めて立った存在として説明しておられる。しかし聖書史を調べ てみると、ヤコブが現れる前に、多くの人物の名前が聖書の中に登場する。原 理講論はその中でも特に中心人物としてアベル、ノア、アブラハムという三代 を通じて祭物(供え物)を中心とした復帰基台摂理が進められてきたという説明 をされている。それでは、これらの人物たちが成して来た復帰歴史はどのよう な意味をもつのであろうか?ヤコブに至るまでの聖書史の中で展開された内容 を文先生のみ言葉と聖書と原理講論を通して考えていきたいと思う。 本来アダム家庭は神が地上天国建設のモデル(型)として摂理されてきた。し かしアダム・エバの堕落とカイン・アベルの殺害事件によって神がモデルとし て造られようとしたアダム家庭は完全に崩壊してしまった。本来であれば、神 の公式がこのアダム家庭の中で展開されるべきはずである。アダムの家庭がた とえ崩壊してしまったとしても神の創造原理である公式(三大王権と四大心情 圏)の原理はそのまま残っている。ゆえに復帰はアダム家庭を目標としてなされ ていくようになる。 祝福家庭と理想天国ⅠP653 「復帰の目標は、アダム家庭復帰にあります。神様は、アダムとエバが堕落す るとすぐに救援摂理を始められました。しかし、カインがアベルを殺害し、ア ダム家庭を中心とした救援摂理はノア家庭に移されました。神様は、ノア家庭 を中心として、世界のすべての人々を洪水審判で滅亡させ、サタンの侵犯条件 を越えた家庭を立て、地上摂理の基盤を構築しようとされました。それが、再 びアブラハム、イサク、ヤコブを経て、モーセ時代に移り、イエスにつながれ、 私たちの時代まで来たのです。ですから、復帰摂理の最終目標は、失ったアダ ム家庭を探し立てることです。」 真の神様 176P 「神様がアダムを造る前に天使を造ったので、今日の宗教は何かというと、天 使世界圏を地上に造ったものです。それが宗教世界です。その宗教世界圏内で 何をすべきなのでしょうか。アダムを造り出すということをしなければならな いのです。それでは宗教の中で世界的中心は何でしょうか。それはユダヤ教で す。このようになるのです。そのユダヤ教は何をする宗教でしょうか。新郎を 紹介する宗教です。それがメシヤ思想であり、救い主思想です。」 204 神 父母 天使長(ルーシェル) :象徴的父母・霊的父母: 天使長(堕落しなかった天使長):アベル 主体 子女 主体 実体的父母 アダム・エバ 子女 メシヤ・新婦 相対関係 相対関係 実体的子女 カイン・長女 長子・長女 アベル・次女 次子・次女 セツ ・三女 三男・三女 アダムの家庭:八人家族 対象 メシヤの家庭:八人家族 天使(万物):環境 天使(万物):イスラエル選民:カイン:環境 「環境圏内でプラス・マイナスを作らなければなりません。カイン・アベルに おいて弟が兄になり、兄が弟になって、より大きいプラスであるお母さんを復 帰するのです。エバの復帰です。そして、アダムの身代わりのメシヤを中心と して一体となり、最終的プラスの神様と一体とならなければなりません。これ は公式です。この公式によって復帰されるのです。」 (祝福 77 号 19p 父母 真の父母と祝福家庭 1993 年 3 月 23 日 世界宣教本部) このように考えてみたとき、ノアの家庭における復帰摂理の視点も当然今ま での原理講論の視点とは違う形になる。文先生がノアの家庭において語られた み言葉を何種類か挙げて見てみよう。 牧会者の道 42P 「ノアは自分の一身を征服し、自分の家庭を征服するために、百二十年間闘いました。 それは簡単なことではありませんでした。百二十年後にこの地を審判するという神様 の命令を受けたノアは、「一年が過ぎたから、あと百十九年残っているなあ」と言って 待ってはいなかったのです。神様は、大きなみ旨を抱いて、大きなみ旨に対してくる人 の前に、一度約束をされるというのです。 205 対象 私たちは、百二十年間、山に箱舟を造ったノアの行動から、さらに他の例を見るこ とができます。彼は、その長い間、サタンと闘ってきました。ノアは、妻をはじめとした 家族、隣人と親戚から排斥を受けなければなりませんでした。彼の国から、そして世 の中から、嘲弄と反対を受けました。一度でも、その仕事を放棄しようとしていたなら、 彼はもう一度、サタンの侵犯を受けていたでしょう。しかし彼は、そのすべての困難を 克服して、その使命を完遂するのに成功したのです。」 「ノアじいさんは、迫害が激しく荒々しい環境の中でも、渾身の力を尽くしていったの で、その環境に勝利することができたのでした。神様の法度の前に、息子としての忠 孝の道理を尽くすだけだ、という謙遜な心をもって進んでいったのです。神様の前に 進めば進むほど、環境の非情さを感じ、悲しみを覚えましたが、そのような時であれ ばあるほど、ノアじいさんは、神様に申し訳ない心で悔い改めの涙を流していったの で、彼の行く道を遮る者がなかったというのです。何の話か分かりますか? そのよう にして百二十年間を過ごしてきたノアのことを一度考えてみてください。ノア一人に対 して、サタン世界は、打つすべての方法を動員し、反対するだけ反対しましたが、神様 が中心として立てたその基準から見て、ノアは少しのずれもなかったのです。その基 準は、天宙の絶対的な中心として立てたものであり、宇宙の正義の人間として立てた ものであり、真の勝利者として立てたものです。ですから神様は、この基準に反対す るすべての怨讐の要素を清算させようとされたのです。このように、最後まで打たれ ていけば、素晴らしいことが起こるのだというのです。」 訓経教 「強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう」 「神様の復帰摂理歴史を回顧してみるとき、神様はアダムが堕落して以来、千 六百年という長い歳月を経て、ノア一人を立てられました。神様はこのノアを 立てることによって、ノアとその家庭を救おうとされ、さらにはノアをして人 類を代表する祭司長の立場に立てようとなさったのです。これが、神様のみ旨 でした。 しかし、ノアの家庭は失敗してしまいました。しかし、もしもノアが、千六 百年間自分を立てるために苦労された神様の御苦労を知り、神様の悲しみを感 じていたとするなら、そしてノア家庭の八人家族がそのような神様の御心情を 感じていたとするなら、彼らにはハムの失敗による怨恨は残らなかったことで しょう。 ノアの家族は、洪水審判で贖罪されたので感謝の生活をしなければならなか ったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。ですから、天倫に対して立ち 上がった私たちも同様に、こういう過ちを犯しやすいのですが、私たちは自ら の習慣的生活を繰り返す人になってはいけません。 206 自分と家族を救ってくださった神様に、いつも新たに接するノアとなり、全 人類がそのような心をもつようになる日を願いながら、父の心情を直視して立 ち上がったノアになっていたなら、また神様の前に絶対的信仰を立てるノアの 家庭になっていたなら、第二の堕落を成立させるような過ちは犯さなかったこ とでしょう。」 牧会者の道で語られているみ言葉と訓教経で語られているみ言葉を比較して 見たとき、牧会者の道で語られているノアの立場は、原理講論でも十分通じる 内容である。しかし訓教経において語られているみ言葉の概念は原理講論で説 明されてきたノア家庭の概念とは明らかに違う視点をもって語られている。 原理講論においてのノアの立場を確認して見よう。 「アダムは「信仰基台」を復帰すべき中心人物であったにもかかわらず、既に 説明したような理由によって、自分では直接献祭することができなかった。し かし、ノアは、既にアベルが「象徴献祭」を神のみ意にかなうようにささげて、 天に対し忠誠を尽くした、その心情の基台の上で呼ばれたのであるし、また、 彼は血統的に見ても、アベルの身代わりとして選ばれたセツ(創四・25)の子 孫であり、そればかりでなく、ノア自身も、神の目から見て義人であったので (創六・9)、彼は自ら箱舟をつくることによって、直接、神に「象徴献祭」を ささげることができたのである。 (2) 信仰基台を復帰するための条件物 ノアが「信仰基台」を復帰するための条件物は、箱舟であった。それでは、 その箱舟の意義はどのようなものであったのだろうか。ノアがアダムの身代わ りとして、第二の人間始祖の立場に立つためには、アダムの堕落によってサタ ンの側に奪われた天宙を、蕩減復帰するための条件を立てなければならない。 したがって、新天宙を象徴する何らかの条件物を供え物として、神の前にみ意 にかなうようにささげなければならなかったのである。このような条件物とし て立てられたのが、すなわち箱舟であった。 箱舟は三層に分けてつくられたが、その理由は、三段階の成長過程を通して 創造された天宙を象徴するためであった。また、箱舟に入ったノアの家族が八 人であったのは、ノアがアダムの身代わりの立場であったので、既にサタンの 側に奪われたアダムの家族の八人家族を蕩減復帰するためであった。箱舟は天 宙を象徴するので、その中に主人として入ったノアは神を象徴し、彼の家族は 全人類を象徴し、その中に入っている動物は、万物世界全体を象徴したのであ った。 このように、箱舟が完成されたのちに、神は四十日間の洪水審判をなさった 207 が、この審判の目的は何であったのだろうか。創造原理によれば、人間は一人 の主人に対応するように創造されたので、淫乱に陥って、既にサタンと対応し ている人類を、神がもう一人の主人の立場で対応して、非原理的な摂理をなさ ることはできなかった。ゆえに、神だけが対応して摂理することのできる対象 を立てるために、サタンの相対となっている全人類を滅ぼす洪水審判の摂理を なさったのである。 (二)実体基台 ノアは、箱舟を神のみ旨にかなう供え物としてささげ、 「象徴献祭」に成功す ることによって「信仰基台」を蕩減復帰した。これによってノアは万物を復帰 するための蕩減条件を立てると同時に、人間を復帰するための象徴的な蕩減条 件をも立てたのである。この基台の上で、ノアの子セムとハムとが、各々カイ ンとアベルの立場から、 「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて、 「実体献祭」 に成功すれば、「実体基台」が成就されるようになっていた。 ノアが「象徴献祭」に成功したのち、この家庭の「実体献祭」がみ意にかな うようにささげられるためには、まず、 「実体献祭」の中心となるべき次子ハム が、アダムの家庭の「実体献祭」の中心であった次子アベルの立場を、復帰し なければならなかった。アダムのときには、アベル自身が、アダムの代わりに 「象徴献祭」をささげたので、アベルがその献祭に成功することによって、 「信 仰基台」を蕩減復帰すると同時に、 「実体献祭」の中心となることも、また、決 定されたのである。しかし、ノアのときにはハムではなく、ノア自身が「象徴 献祭」をささげたので、ハムが「象徴献祭」に成功したアベルの立場に立つた めには、 「象徴献祭」に成功したノアと、心情的に一体不可分の立場に立たなけ ればならなかったのである。それでは、我々はここで、神がハムをしてノアと 心情的に一体となる立場に立たせるために、いかなる摂理をなさったかを調べ てみることにしよう。 創世記九章 20 節から 26 節までの記録を見れば、ハムは自分の父親ノアが天 幕の中で裸になって寝ているのを発見し、それを恥ずかしく思ったばかりでな く、善くないことと考え、彼の兄弟セムとヤペテとが恥ずかしい気持ちに陥る ように扇動した。このとき、彼らもハムの扇動に雷同して、その父親の裸体を 恥ずかしく思い、後ろ向きに歩み寄って、父の裸を着物で覆い、顔を背けて父 の裸を見なかった。ところが、これが罪となり、ノアはハムを呪って、その兄 弟の僕となるであろうと言ったのである。 それでは、神はどうしてこのような摂理をされ、また、裸を恥ずかしく思っ たのがなぜ罪となったのであろうか。その内容を知るために、我々はまず、ど のようなことをすれば罪になるかという問題から調べてみることにしよう。 (罪 208 とは神から離れて、サタンと相対基準を結ぶ条件を成立させることをいうが) サタンも、ある対象を立ててそれと相対基準を造成し、授受の関係を結ばなけ れば、その存在、および活動の力を発揮することができない。ゆえに、いかな る存在でも、サタンが侵入できる条件が成立し、サタンの相対となって、サタ ンが活動できるようになったときに、そこで罪が成立するのである。 次に知らなければならないことは、神はどうしてノアを裸にしてハムを試練 なさったのかということである。箱舟は天宙を象徴するものであるから、審判 四十日で箱舟を神のみ旨の中で立てた直後に生じたすべての事実は、天宙創造 以後に生ずるすべての事実を象徴したものであるということは、既に論述した とおりである。それゆえに、四十日審判が終わった直後のノアの立場は、天地 創造後のアダムの立場と同様なのである。 創造されたアダムとエバが、お互いにどれほど親しくまた近い間柄であった か、また、どれほど神に対しても、その前で隠し立て一つしない、水入らずの 関係であったかということは創世記二章 25 節に、彼らはお互いに裸であっても、 恥ずかしいとは思わなかったと記録されている事実から推察してみても、十分 に理解できるのである。しかし、彼らは堕落したのち、自ら下部を恥ずかしく 思って木の葉で腰を覆い、また、神に見られるのを恐れて、木の間に身を隠し た(創三・7、8) 。それゆえに、彼らが下部を恥ずかしく思ったという行為は、 下部で罪を犯し、サタンと血縁関係を結んだという情念の表示であり、下部を 覆って隠れたという行動は、サタンと血縁関係を結んでしまったので、神の前 にあからさまに出ることを恐れた犯罪意識の表現であったのである。 四十日審判によりサタンを分立した立場にあったノアは、天地創造直後のア ダムの立場に立たねばならなかった。ここで神はノアが裸でいても、その家族 たちがそれを見て恥ずかしがらず、また隠れようともしない姿を眺めることに よって、かつて彼らが罪を犯す前に、どこを覆い隠すでもなく、ありのままに 裸体を現していた、汚れのない人間の姿を御覧になって、喜びを満喫されたそ の心情を蕩減復帰しようとされたのである。神はこのようなみ意を完成なさる ため、ノアを裸で寝ているように仕組まれたのである。したがって、ハムも、 神と同じ立場から、神と同じ心情をもって、何ら恥ずかしがることなくノアと 対したならば、ノアと一体不可分のこの摂理の中で、罪を犯す前、恥ずかしさ を知らなかったアダムの家庭の立場に復帰する蕩減条件を立てることができた はずなのである。 しかし、ノアの子らはこれと反対に、その父親の裸を恥ずかしく思ってこれ を着物で覆ったので、彼らは、堕落後のアダムの家庭と同様に、サタンと血縁 関係を結んだ恥ずかしい体となり、神の前に出ることができないという事実を、 自証する立場に立つようになったのである。ゆえに、既にからすによって見せ 209 てくださっていたように、ノアの家庭に侵入できる何かの条件がないかとねら っていたサタンは、自分の血縁的な子孫であることを自証してでたノアの子ら を対象として、その家庭に再び侵入するようになった。 このように、ハムがその父親の裸体を恥ずかしがった行動によって、サタン が侵入できる条件が成立したので、その行動は犯罪となったのである。このよ うな事情から、ハムは「実体献祭」をするためのアベルの立場を蕩減復帰でき ず、したがって、 「実体基台」をつくることができなかったので、ノアを中心と する復帰摂理も無為に帰したのである。 では、裸を恥ずかしがることがだれにとっても罪になるのであろうか。そう ではない。ノアは、アダムの身代わりとなって、アダムにサタンが侵入したす べての条件を除去すべき使命を担っていたのである。それゆえに、ノアの家庭 は、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないという感性と行動と を見せることによって、サタンと血縁関係を結ぶ前の、アダムの家庭の立場を 復帰するための蕩減条件を立てなければならなかった。したがって、裸を恥ず かしがらず、また、それを隠そうともしないというかたちでの蕩減条件は、ア ダムの家庭の代わりに立てられたノアの家庭だけが立てるべき条件だったので ある。 原理講論の中で展開されている復帰原理の概念は、人間が堕落したから人間 が蕩減条件を立てるというものである。つまりノアの立場はアダムの立場を継 承した立場なので、堕落人間の中から選ばれた立場となる。そして万物以下に 陥った人間は万物を通してでしか神の前に帰ることができないという視点から 条件物である箱船を建設したというふうに説明している。そしてノアは箱舟を 120 年かけて建設し、信仰基台を勝利し、洪水審判によってエデンの園を復帰し た立場に立ち得たと説明している。これはノアは堕落前のアダムの位置に立っ たという概念である。しかし、実体基台が勝利されていないためにノアの次男 であるハムがノアの勝利圏を相続しなければならなかった。その摂理がノアの 裸の摂理である。ノアがブドウ酒によって裸で寝ていることに対して、次男ハ ムはノアを見て恥ずかしく思い、他の兄弟に告げ着物をかけさせてしまった。 そしてノアが目を覚まして言った言葉が「カナンは呪われよ。」と言う言葉だ。 カナンとは、ハムの息子である。つまりノアにとっては孫となる。この事件と は全く関係のない立場で罪を背負うことになる。この出来事を旧約聖書で正確 に見てみよう。 210 創世記 9 章 18 節 「箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父 である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのであ る。さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲ん で酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にい るふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ 向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やが てノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、「カ ナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。 ま た言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神は ヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそ のしもべとなれ」。」 原理講論の解釈でこの事件を捉えるなら、ハムが裸を恥ずかしく思い、他の 兄弟に告げたことが犯罪行為の繁殖につながったと捉えることができる。しか しこのノアの家庭における説明を原理講論の視点だけに留めて良いのであろう か?訓教経で語られている文先生のみ言葉は、この原理講論の説明とは明らか に違う。 「しかし、ノアの家庭は失敗してしまいました。しかし、もしもノアが、千六 百年間自分を立てるために苦労された神様の御苦労を知り、神様の悲しみを感 じていたとするなら、そしてノア家庭の八人家族がそのような神様の御心情を 感じていたとするなら、彼らにはハムの失敗による怨恨は残らなかったことで しょう。 ノアの家族は、洪水審判で贖罪されたので感謝の生活をしなければならなか ったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。」 このみ言葉を読んでみるとこの失敗は明らかにノアに一番の責任があり、さ らにはノアの家庭全体に責任があり、失敗をハム一人に押し付けて語られては いない。つまりハムの失敗を引き起こす遠因がノアの家庭八人家族全員にあっ たというような話である。ノアの家庭は洪水審判によって分立されたにも関わ らず、習慣的な生活を繰り返したと語られている。すると原理講論で説明され ているブドウ酒を飲んで裸で寝ていたという行為も本来やってはいけないこと だったというふうに捉えることができないだろうか? このノアの家庭におい て起きた事件は、私たちに伝えたいもっと重要なメッセージがあるのではない だろうか?ここで今まで学んできたアダム家庭復帰に照らし合わせて考えて見 211 よう。 「神様はこのノアを立てることによって、ノアとその家庭を救おうとされ、さ らにはノアをして人類を代表する祭司長の立場に立てようとなさったのです。 これが、神様のみ旨でした。」 まずこのみ言葉を考えてみた時に、神は再創造摂理を通してアダム家庭を復 帰しようとされる時にまず環境整備をしなければならない。この環境とは天使 長家庭のことも含まれているということはすでに説明してきた。環境を準備す るために最も重要なことは神の前に堕落しなかった天使長、すなわちアベルが 探し出されなければならない。文先生のみ言葉の中における中心人物の原理的 位置は、姿は人間でも原理的位置は天使長なのである。 神は地上に天国を実現されようとされた。その天国は愛を中心として成され なければならない。愛は対象を通して完成されるものである。 ゆえに天使長の完成は人間であるアダムを通してなされるのが原理だと結論 づけられる。 ノア家庭におけるノアの立場は、原理的に捉えるならば、人間というよりは 堕落した天使の中から探し出され、復帰された善の天使長の位置と言える。ゆ えに天使長の位置は堕落した天使から見れば、神の側に立つわけなので、サタ ン世界から分立さらた存在となる。そして神の前に立つ中心人物は必然的に迫 害の道を辿るようにならざるえを得ない。そのようなに見れば、聖書史におけ る中心人物は祭司長の位置に立つ。そして復帰摂理は必ず祭司長を通して成さ れていくようになる。祭司長の仕事は、祭物を捧げることである。その祭物も そのまま捧げることができない。必ず割かれなければならない。祭司長が捧げ る祭物(万物)とは何を比喩しているのかといえば、すでに説明したように天使 世界を意味する。つまり祭司長に従う万物は必ず否定の道をゆかなければなら ないの。この祭司長を中心として綴られて来た歴史が復帰歴史であり、すなわ ち宗教を中心とした宗教史である。 そして宗教史においてこの内容を当てはめて見れば、祭司長が教祖であり、 祭壇は教会であり、祭物は信徒達である。神が送られた祭司長に従う選民たち は必ず自己否定の道を歩まなければならないという内容をノアの家庭の洪水審 判をもって示されているということが理解できると思う。つまり箱舟とはノア 212 (祭司長)を中心として準備された祭壇であり、教祖を中心として立てられた教 会を象徴している。そしてノアが箱舟の中に集められた万物とは天使長(僕)に 従う天使達(僕の僕)つまり信徒達を象徴している。そして、その種類によって オス・メスのペアで集められたた万物とは男性と女性を象徴した信徒達を意味 するのである。それではノアの子女たち(セム・ハム・ヤペテ)と孫(カナン)は 何を象徴しているのであろうか?私たちは、原理講論において聖書に出てくる 人物をすべて人間として捉えてきた。何故なら天使という概念が抜け落ちてい たからだ。しかしここで明確に定義したいことは何かというと、聖書史に現れ、 今現在に至るまで流れてきた復帰歴史(選民史)は、天使の歴史なのである。す でに説明してきたように、天使とは完成していない人間のことを意味する。こ の天使を中心とした復帰歴史を終わらせる使命を持っているのは、メシヤとし て来られる、アダム(人間)なのである。文先生のみ言葉はこの原理観を理解で きなければその根幹にある内容を絶対に理解できない。しかもメシヤ自身も天 使長の子女として誕生し、天使長家庭の中で子女の愛、兄弟姉妹の愛を体恤し、 エバを迎え夫婦の愛(初愛)を通して人間として完成できなければ、天使長の位 置にとどまるということである。文先生の語られている人間という言葉の原理 的位置は、メシヤ(天使長の子女)が思春期を迎え、地上にエバを迎え子羊の婚 宴を勝利した時に決定されるようになる位置を表している。 そのような視点で考えてみると、ここで展開されるノアとノアの三人の子女 と孫の関係は何を意味するのだろうか? 原理講論では、箱舟は新天宙を意味し、ノアは神の立場を象徴し、ノアの子 供たちは全人類を象徴し、万物は万物世界を象徴していると説明しているが、 新しい視点を付け加えるならば、ノアは天使長(地上の神)の位置、ノアの三人 の子女は天使長の子女を意味し、その二番目の位置、次子ハムを中心として神 の摂理は引き継がれる。しかも三番目の中間的位置が使命を果たさなければ、 三番目の位置である孫の位置が立つことができないという原理を象徴している の。つまりノア家庭において私たちが知らなければならない最も重要な点は神 の摂理の完成は、三代を通してなされるということだ。しかも最初の祭司長(ノ ア)の位置である人物が失敗すれば二代も三代もすべて失敗してしまう可能性 があるということを教訓として聖書に明示して下さっているのである。 そしてここで展開されたノアの箱舟の摂理は、後の宗教史を象徴的に意味し、 その中で祭司長と祭物との関係を表している。つまり祭司長は選民史(イスラエ ル)という祭壇を準備し、その上に祭物(天使達、未完成の人間達)を割いて捧げ ながら摂理を進めていくようになる。そして選民の割かれる目的は祭司長を中 213 心としてメシヤを迎えるためである。そして天使長を中心とした天使長の子女 と万物(天使たち)は完全に一つになってメシヤのための基台を準備しなければ ならない。 メシヤのための基台とは信仰基台と実体基台を意味する。その内容はすでに 説明したように、信仰基台とは二種類の天使長(男性)を中心として造られる基 台であり、実体基台とは二種類の女性を中心として造られる基台である。信仰 基台とはアベル・カインにより万物復帰の蕩減条件と人間を象徴的に復帰する 蕩減条件を意味する。カイン・アベルの関係を通して復帰された善の天使長の 位置を確立する。それは堕落前のアダムの位置と同じ位置になる。そして実体 基台はレア・ラケルの関係を通して堕落前のエバの位置を復帰するようになる。 そしてレア・ラケルは一つになってカイン・アベルを一つにし、子女復帰を 成して、長子の子女の家庭を立て、次子の位置(父母)として来られるメシヤを 迎える準備しなければならない。本来、この公式路程が聖書のノア家庭の記述 において説明されなければならないのであるが、復帰の公式路程に該当する内 容を発見することはできない。何故ならノア家庭においては女性の名前すら登 場しないからだ。おそらくこれは、原理の三段階を経て縦的な勝利権が立てら れなければ横的な内容が立てられないという公式により、二番目のノア家庭に おいては、女性の内容を提示できなかったものと思われる。そしてノア(善の天 使長)に相対する堕落した天使長の位置も聖書の中に見受けることができない。 つまり、ノアの時代においては神の願われるメシヤのための基台をつくる環 境を準備することは不可能であったと思われる。原理講論ではノアの時代は終 末であったと説明している。メシヤを迎えるという観点から考えたとき、この 時を終末と呼べるかどうかは微妙だ。ただ敢えて言うとするならば、ノアは二 番目の中心人物であるということである。文先生は二番目という立場を常に重 要視してみ言葉の中で語られている。実際にメシヤが送られたのは、2000 年前 のイエス様の時代だ。イエス様は二番目のアダムとして来られたということを 考えたとき、このノアの二番目の時に洪水審判が起こったということは、三代 を中心として摂理される二番目の位置に立たされた祭司長の位置を中心として、 このような終末的現象が起きるということを暗示されているように思われる。 「皆さん、原理のみ言でアダム家庭ならアダム家庭は死んでいません。生きて います。失敗というのは、死んだ失敗ではなく、生きた失敗として残っていま す。神様は、このような失敗したものを生きた標本として、勝利的基盤を築か ずには、天国に入ることのできるヤコブの家庭、モーセの民族、イエス様の国 214 家摂理があり得ないというのです。再臨主も同様です。みな生きています。原 理を勉強すれば、アダム家庭は私たちの家庭と同じなのです。 ノアも同様です。いつノアと同じ信仰を持ったことがありますか?120 年の間、 アララテ山の頂上に船を造る狂った人がどこにいますか?船を造ろうとすれば、 川辺につくればいいではありませんか?ですから、どれほど反対を受けたでし ょうか?狂人と言われるのはもちろんのこと、さまざまなうわさを聞き、さま ざまな迫害を受けるようにさせたのです。東西南北に見えるすべての山の微々 たる動物までも、「あのようなほけた人、あのような狂人じいさんがどこにいる のか」と、後ろ指を指すようになっているのです。全部が無視する立場で、神様 は生きているという権威を立てたのが、ノアの時の審判だということを考えな ければなりません。 皆さんがそのような信仰を持ち、統一教会を信じ、統一教会を立てるために 努力しましたか?ノアは休みながらやったのではありません。雨が降ろうが、 雪が降ろうが 120 年の間、すべての万物を収納させる船を造らなければならな かったのです。その村で寄付でもしてくれたでしょうか?狂った老人だといっ て、けなしたのです (ファミリー94/12 11p~15p 絶対信仰と絶対愛 1994 年 10 月 9 日 中央修練院) 「地上における縦的摂理において、アダムの家庭とノアの家庭とアブラハムの 家庭において、特にノアの家庭を中心として堕落しないで、勝利してずうっと 血統的に受け継いだ場合には、ヤコブまでの 2000 年間の歴史というものは、勝 利の歴史として繋がるのです、ノアを中心として見ればノア以後が未来です。 だから、摂理を通して神がノアを求めて来たのは、未来の失敗を元返ししよと してなされた事です。それがまた失敗したために延長してきたのです。そのよ うにして今まで再び摂理を進めているというのは、まだそれが完全に繋がって いない立場にいるということを証明しているのです。だから霊界のものであれ、 地上において、こういう内容を総合して勝利したという基準を立たせたならば、 これがみんな蘇るのです。 我々統一教会を中心として見た場合、神の摂理はノアを中心としてきました が、失敗したのです。ノアを中心として摂理したのは、アダムの家庭のアベル を中心とした摂理が延長されたからです。そうすると、第一のアダムの家庭か ら三代目に完成基準を決定しなければならないというのが、ヤコブを中心とし 215 た摂理であるということを皆さんは原理で習ったはずです。 ここにおいて問題は、世の中を中心として、世界的に分別審判をなしたとこ ろはどこかと言えば、それはノアの家庭です。ノアが何故そういう審判をなし えたかというと、それは二番目だからです。第二番目が中心点となるからです。 すべての存在は中心を決め、中心の家庭的な勝利を決めなければ相対基準を結 び、勝利の圏を立てることができないのです。だから二番目がいつも問題にな ります。アダム家庭において、カインとアベル、セツがアベルを中心として、 判決が決まるその的となっているのは何故かと言えば、二番目だからです。二 番目は中心を代表します。 アブラハムから縦的に見た場合には、中心はノアです。世界的に、このよう に 6 千年の期間を通過しながら、ノアとイエス様、再臨主と、三代圏になって いるのです。だからイエス様は世界的、歴史的基準から見た場合、二番目だっ たから、イエス様を中心とした親は、その最後の判断を決めなければなりませ ん。そこにおいて、世界的サタンと世界的神様とが分別の戦いをしなければな りません。いつでも第二番目が問題です。我々統一教会においても、この基準 をいかにして立たせるかが問題です。 そのような観点から見た場合に、アダムよりもノア家庭を中心に定めて摂理 しなければなりません。世界的な基準において、家庭的基盤はノア家庭を中心 に定めてなされたために、我々統一教会もノア家庭と同じような路程を通過し なければなりません。 それで、1960 年に先生が聖婚式を挙げた直後に、三組の結婚式を挙げたので す。あなた達の合同結婚式の沿革のなかで第一に何が入るかというと、三組の 合同結婚式が入るのです。その三組の結婚式はいかなる家庭の三組かというと、 ノアを中心とするセムとハムとヤペテに当たるのです。その基準を中心として しなければなりません。そうするには、今まで歴史過程で失敗したすべてのサ タンの残した蕩減条件を、再びここに展開させて、勝利したという条件を立て なければなりません。それは個人的ではありません。個人、家庭、氏族、民族 レベルにおける民主主義世界と共産主義の対立する国家を中心として、そのよ うなことをする必要があったのです。それが韓国の摂理です。 父母の勝利の基準において、そのことをなしえることができたのです。そし て三人のノア家庭の子供の祝賀をなすことによって、父母様の合わせて八人の 天を中心とした家庭が復帰されたことになるのです。ノアの三人の息子達が完 216 全に一つになれなかったが故に、いわゆるノア家庭の失敗を来たしたのです。 そういうような立場には絶対に立たずして、いかなることがあっても完全に一 体になるというような条件を天の前に誓って、外的ながらも三組の祝福家庭が 生まれてきたということは天宙的内容です。それが生まれたために、結局、ノ ア家庭の復活基盤ができてしまったのです。そうすることによって、結局は、 1600 年の間 10 代を通過しながら、今まで神とサタンの間に進行してきた摂理の 中にあった神の方の失敗を全部元返しえたという条件が満たされるのです。 (祝福 67 号 165p~167p 祝福の歴史とその摂理的意義 1970 年 10 月 18 日) ノア:復帰された天使長、アベル:一代:父母 セム:長子 ハム:次子 二番目 二代:子女 ヤペテ:三男 天使長の子女の位置 カナン 三代:孫 箱舟:アダムを迎えるための環境 ノアはアベル・ノア・アブラハムの三代を通して見た時に、二番目であり、 ハムはノア家庭において二番目の位置である。神は必ず二番目の人物を中心 として摂理されるのである。 217 それでは、次にアブラハムの路程について考えて見よう。アブラハムは原理 講論においては三番目の中心人物として立てられた人間である。しかし、アダ ム家庭復帰の視点に立ってアブラハムを見たとき、アブラハムもまたアベルの 位置であり、復帰された善の天使長の位置となる。つまり祭司長の位置である。 そしてそのような位置に立つためには、誰より割かれた立場に立たなければな らない。そして信仰基台と実体基台を復帰するための最も中心的な役割を果た さなければならない。文先生が、アブラハムに対してどのように説明している かをみ言葉を通して見てみよう。 牧会者の道 45P 「アブラハムを見てみましょう。アブラハムは、偶像商の息子です。豊かな生活をし ているアブラハムに神様は、「おい、アブラハム、お前の家から出てこい」と命令され ました。するとアブラハムは文句を言うこともなく、どこに行けば豊かに暮らせるという 保証も受けずに、自分が住んでいるカルデアのウルを、すべて捨てて去ったのです。 それで、どうなったのかといえば、国境を越えるジプシーとなったのです。」 「神様が出てこいと言われれば、出ていくのです。出てきたあとには、どんな困難な ことがあっても、出てきたことを後悔したり、神様に対して恨んだりしてはいけないので す。恨みをもてば、再び堕落したアダムと同じ立場に帰ってしまうのです。 」 「アブラハムはアダムより、もっと絶対的に神様を信じなければなりません。そして、 神様と一つにならなければならないのです。そうしてこそ神様の愛を受けるようになる のです。アブラハムは、神様がどんなに引っ張り回しても、恨むことなく感謝する心を もっていったので、神様も彼を愛され、彼に、「お前の子孫は、天の星のように、地の 砂つぶのように繁栄するであろう」と、祝福してくださったのです。」 「アブラハムを見てみましょう。神様は偶像商である彼の父親から、彼を分立させま した。彼は、家族、祖国、物質的な富、そして、すべてのものを捨てなくてはなりませ んでした。そのように、サタン世界から彼を断絶させることにより、彼は、カナンに入っ ていくようになったのです。神様は、彼を鍛練し、彼をして、彼自身の民族だけでなく 他の民族、さらには怨讐のためにも泣くことができるようにさせながら、摂理を発展さ せました。 」 「聖書を見ると、私たちは、神様がアブラハムを祝福され、彼を無条件に愛されたよ うな印象を受けます。しかし、そうではありません。アブラハムは、愛する家族、祖国、 物質的な富、そしてその他のすべてのものをあとに残して、神様が選ばれた未知の 218 地に行き、いつも神様と人々のために涙を流すことにより、サタンから自分を分立しな ければなりませんでした。彼は民族のために多くの祈祷をし、国のために多くの苦痛 を受けたのです。」 「そのような条件を通して神様は、アブラハムを信仰の祖先として立てることができ、 また数多くの後孫が繁栄するように祝福できたのです。このような内容は、聖書には 記録されていませんが、神様が彼に祝福を与えたのは、そのような背景があったから なのです。」 「アブラハムもノアと同じです。偶像商の息子アブラハムは、サタンが一番愛する人 でした。しかし、神様は賢く愛らしいこの息子を奪ってきたのです。アブラハムが願っ てきた世界は、彼の父親の思いとは違いました。怨讐の息子ではあったけれども、考 えることがその父とは違っていたのです。アブラハムは、自分の家族のためだけでな く、未来のイスラエルを心配する心をもっていたのです。そのようなアブラハムを神様 が奪ってきたのですが、どのようになったでしょうか? 成長していた時には、彼の家 族や親戚が、自分の味方だと思っていたのに、そのすべてが怨讐となってしまったの です。その上、自分の国と氏族から離れ、自分の父母に反対してからは、アブラハム の行くことのできる家がどこにあり、親戚がどこにあり、国と世界がどこにあるのかと いうのです。それこそ、一人残されたのです。そのためにアブラハムは、行く先々で試 練と苦痛を受けるようになったのです。エジプトに行った時には、パロ王が彼の夫人を 奪おうとしたり、どこへ行っても追われる身となったのです。」 「しかし、そのように追われる行路でも、アブラハムは自分の父母と親戚から愛を受 け豊かに生きることよりも、イスラエル民族が自分を呼んでおり、幸福の基盤が自分 を求めているということを切実に感じていたので、ジプシーの行路でも夜空の星を見 て、ただ神様に願ったことは、望みの天国に行かせてほしいということだけでした。」 そのために神様は、アブラハムに祝福をしてくださったのです。彼の前に近づくつら い苦痛と困難な環境は、他の人であれば、自分を呼び出した神様を背信し、自分の 立場を嘆くようなものでしたが、アブラハムはそのような立場でも、神様とさらに深い 因縁を結び得る心情で侍っていったので、彼の前には幸福の門が開くようになったの です。」 原理講論では、アブラハムが神の前に中心人物として立てられた背景には、 ノアから 10 代、四位基台を 10 代にかけて蕩減するために 400 年を要したとい う数理的な観点と、神の愛する次子であるハムを奪われたので、サタンの愛す る偶像商人のテラの長男アブラハムを奪ってきたという観点の二つの内容をも 219 って説明している。ここでもう一つ付け加えたい内容がある。それは聖書に提 示されている系図である。神の摂理史は、文先生の語られるように次子(二番目) を中心として動いている。アダムは神、アダム、子女という三代という視点で 見れば、二番目にあてる。そしてアベルも次子(二番目)である。ノアも三男セ ツの子孫ではあるが、二番目の中心人物であるし、ハムも次子である。アブラ ハムはノアの長子セムの子孫だが、偶像商テラの二代目とも捉えることができ る。ノアとアブラハムに関してはこじつけのように感じられる方もおられると 思う。ただここで問題定義したい内容は血統、すなわち血筋の問題だ。残念な がら、まだこの問題に対して確信に至るほどの回答を見いだすことはできてい ない。おそらく文先生は、この問題に対してもこのことに対する回答をどこか で語られていると思う。敢えてこの問題を定義するのには、理由がある。それ はこの後、聖書史は、アブラハムの子孫、特にヤコブの子孫達を通じて、イス ラエル選民史を展開し、アダム家庭復帰の原型を示して行くようになる。この 後、メシヤであるイエス様を迎えるまでの歴史は、アブラハムの血族を中心と した歴史なのである。旧約聖書の記述の中には先祖という言葉が何度も出てく る。イエス様はアブラハムの子孫から生まれてきた。イエス様の十字架以後の キリスト教史は、ユダヤの地で誕生したが、ユダヤの地では歓迎されず、異邦 人の手に渡り、パウロ神学の影響を強く受け、この血統という問題よりも、イ エスと聖霊を受け入れて、霊的に新生し自分の血族よりも、霊的血族を大事に しながら教育し、世界に広まっていった。そのために、キリスト教の考え方の 中において先祖崇拝という概念が重要視されてこなかった。 第三イスラエルである、統一教会は、この第一、第二イスラエルの概念を受 け継いで存在してはいるが、この問題にはっきりとした決着をつけていないよ うに思われる。つまり血統という問題をどう捉えるかという事についてだ。第 一イスラエルの視点からすれば、メシヤはアブラハムの血筋、特に旧約聖書に おいてはダビデの子孫からしかメシヤは生まれてこないというふうに提言され、 実際にイエスはダビデの子孫であるヨセフの子供として説明されている。それ を重要視しているために新約聖書のマタイによる福音書の最初にイエス様の系 図が記されている。新約聖書はそのような系図を通して出発していながら、異 邦人(アブラハムと血筋の関係ないもの)を通して拡まり、イエスを信じ、パン (イエスの肉)とぶどう酒(血)を受け入れることによって新生し世界中に広まっ ていった。 文先生が主張される神の創造原理はアダムの家庭を中心として地上に天国を 建設していこうという内容が根底にあるので、アダムの血筋という問題は、大 変重要なことだ。この内容を整理しなければ文先生が強くみ言葉の中で訴えて 220 きた血統転換という内容の根幹が理解できないと思われる。何故ここまでこの 問題にこだわるのか疑問に思っている人がいるかもしれない。しかしこの問題 は行き着く所は真の御家庭、特に文先生の御子女様の問題に関わってくるから だ。実際に統一教会の第四アダム圏時代というみ言葉を文先生が語られたとき、 ある人は、三男の顕進様が第四アダムと説明したり、あるいは祝福家庭全員が この位置にあると説明している事を聞いた方も多いのではないだろうか?すな わち、文先生の血筋を中心として考えるのか、祝福によって重生された血統を 中心として考えているかということである。しかしその後、三男は教会から追 放された立場に立ち、その他の御子女様もほとんど教会の表に現れてきていな いのが現在の統一教会の現状だ。もはや第四アダムという言葉自体が論議され てもいない状況ではないだろうか?そして文先生の御子女様のスキャンダルを 理由に文先生の説明されてきた血統転換の内容を否定し、あるいは文先生の歩 まれてきた路程自体も否定する内容がインターネット上に展開されている。も ちろん御子女様の立場を考えてみたとき、原理講論においても、間接主管圏が あり、ここで展開している内容に当てはめてみても、メシヤでも天使長の子女 として成長して行く過程があり、責任分担という原理は逃れることができない。 だからといって、文先生の血筋を引き継ぐ御子女様以外の人物が教会組織の後 継者に立っていることは異常な状況ではないだろうか?蕩減復帰歴史上、最も 中心的役割を担い、誰よりも先頭に立って歩まれていかなければならない立場 にあった文先生の血縁の御子女様達が、私たちと同じ位置づけで論じられるこ とに疑問を感じるのは私だけではないと思われる。 話を本題に戻そう。 ここは、聖書史において、原理講論の記述で中心人物として位置づけされて いる人物たちを、原理講論の中では説明されてこなかった、三代王権と四大心 情圏の公式、つまりアダム家庭復帰という内容に焦点を当てて説明していきた いと思う。原理講論においては、復帰原理を、メシヤのための基台、すなわち 信仰基台と実体基台を完成することを中心に説明されてきた。しかしすでに提 示したようにこの信仰基台と実体基台という内容の概念が原理講論とは異なっ ている。信仰基台と実体基台とは、アダム家庭復帰という概念を中心として見 れば、男性(信仰)と女性(実体)によって立てられる基台を指している。 そして聖書史においても、アブラハムの時代にようやく女性の姿が現れてく る。アブラハムの妻サラだ。アブラハムの家庭においては、原理講論で説明さ れてこなかった復帰原理における、女性の位置と役割を記して行きたいと思う。 221 アブラハムもノアと同じく地上に善の天使長(祭司長)の位置に立たなければ ならなかった。しかし無条件にそのような立場に立つことはできない。祭司長 の位置に立つ者は必ず迫害の道を通過する。祭司長の位置に立つ人物が復帰さ れた天使長の位置に立つためには、まずその人物の動機自体が分立されなけれ ばならない。ノアは、突然啓示が降りたから箱舟を建設したように捉えがちだ が、ノア自身が暴虐に満ちた世上において神の前に正しい人であったと聖書に は書いてあるということはノア自身が常日頃から神を中心とした生活を心がけ ていたと考えられる。 創世記第六章九節 「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。」 アブラハムも裕福な暮らしをしていたにも関わらず、それよりも神の御心に 従おうと住み慣れたカルデヤのウルの地を離れカナンの地を目指した。この行 為は後に宗教史(選民史)となって発展していくようになる。選民史に関わらず 宗教の道を歩む人間は必ず出家の道を歩んでいく。 「アブラハムも同様です。神様がアブラハムをカルデヤのウルから導き出しま した。アブラハムは偶像商の長男として、自分の家を出る時、その神様の命令 を信じることができたでしょうか?信じられないものを信じて出てきたのです。 後には、神様はアブラハムに、「イサク燔祭に捧げなさい」と言ったのです。ア ブラハムに「あなたの子孫を天の星のように、地の砂のように繁栄させよう」と 祝福したのに、100 歳の時、生まれた息子(イサク)を裸にして「祭物にして捧 げよ」ということは何という命令でしょうか?狂ったことです。誰が信じられま すか? 信じられない立場で、信じることが基盤になるのです。なぜでしょうか? 堕落が信じることのできる立場で信じられなかったので、信じられない立場で、 信じなければ天に対する信仰の芽が生じません。それが伝統的な信仰世界で、 神様が摂理する転換時代の公式になっているということを知らなければなりま せん。 アブラハムが祭物を裂くことにおいて、失敗しませんでしたか?それ(裂 くこと)が何でもないと思ったのです。皆さんも、先生のみ言を何でもないと 思ってはならないのです。歴史的な宣言です。祭物を裂くこと以上に価値ある 先生のみ言を、どれほどこぼしてしまったことでしょうか?そのみ言が皆さん 222 に、千年、万年の讒訴条件として残されているということを知らなければなり ません。アブラハムが、小さなハトを裂かなかった失敗によって、天上天下に ない摂理を中心とした、サタン世界と分立的な勝利の覇権(主義)を取り戻し てくる、神様のみ旨が誤ったのです。ですから、そのみ旨の前に自分達が今、 不信するすべての態度や行動は、アブラハムの祭物の失敗の何十倍、何百倍に なるということを知らなければなりません。アブラハムが祭物を失敗すること によって、夢うつつの時に「おまえの後孫は 400 年の間、異邦の僕になる」と言 われたのです。 (ファミリー94/12 11p~15p 絶対信仰と絶対愛 1994 年 10 月 9 日 中央修練院) 次にアブラハムが捧げた象徴献祭の意味について考えて見たいと思う。原理 講論ではアブラハムが捧げた祭壇はノアの箱舟と同じ意味を持つ。すなわち新 天宙を意味する。 「それでは、アブラハムの「象徴献祭」は、何を意味するものであろうか。ア ブラハムが信仰の祖となるためには、元来、神が信仰の祖として立てようとさ れたノアと、その家庭の立場を蕩減復帰しなければならなかったのである。し たがって、彼はアダムとその家庭の立場にも立たなければならなかったので、 アダムの家庭で、カインとアベルの献祭を中心として復帰しようとしたすべて のことを、蕩減復帰できる象徴的な条件物をささげなければならなかった。ま た、彼はノアの家庭が箱舟を中心として復帰しようとしたすべてのことを、蕩 減復帰できる象徴的な条件物を、供え物として神にささげなければならなかっ た。このような象徴的な条件物としてささげたのが、すなわちアブラハムの象 徴献祭であった。 それでは、アブラハムが象徴献祭としてささげた鳩と羊と雌牛とは、果たし て何を象徴したのだろうか。この三つの象徴的な供え物は、三段階の成長過程 を通じて完成する天宙を象徴するのである。」 あえてこれに付け加えるならば、ノアの箱舟と同じように、アブラハムが祭 司長(善の天使長)の立場であれば、この祭壇はアダムを迎えるための環境とい うふうに捉えることができる。これが復帰摂理の中には宗教として現れるよう になる。つまり天使世界の象徴である。そして、ここで捧げられる三種類の万 物は三種類の天使(未完成の人間)を象徴する。祭司長(僕)が分立路程を歩むの だから、その天使長に仕える天使達(僕の僕達)も分立路程、つまり割かれなけ ればならない。しかしアブラハムは、鳩を割かずに荒い鳥の侵入を許すことに 223 なる。原理講論では、これが失敗となり、アブラハム自身が分立されず信仰基 台を立てることができなかったと説明している。文先生のみ言葉では、原理講 論と同じようにこの失敗によってアブラハムの子孫は 400 年の間異国の地にお いて僕となって生きる結果を生んでしまったと書いてある。この後、アブラハ ムはイサク献祭を捧げるようになる。このことを私たちが歩んできた信仰路程 に照らし合わせて見た時に、アブラハムは文先生の立場であり、三種類の万物 は文先生に従う天使達、つまり私たち信徒に当てはめることができる。つまり 祭司長の使命は万物を割いて捧げることができなければ、自分の血縁の子女が 祭物になることを暗示しているものと思われる。 この視点は、統一教会員であれば誰しも、十分理解できると思われる。 牧会者の道 73P~74P 「アベルは誰が食べさせて生活させなければならないのですか? 父母が食べさ せ生活させなければなりませんか、カインが食べさせ生活させなければなりません か? (カインです)。カインがアベルを食べさせ生活させる代わりに、アベルは生命を ささげるのです。物質的なものを基準とするカインと、人を基準とするアベルが、ここ で一つとなるのです。それによって、復帰の基盤がなされるのです。イスラエル民族を 代表する祭司長たちは、アベルの立場であるので、カインを復帰するための苦労の 代価を支払い、カインを持ち物としてもつのでなく、人であるカインをもつようになるの です。分かりますか? (はい)。したがって祭司長の所有する持ち物とは何ですか? (カインです)。カインなのです。物質を分けてもらうのではなく、何を分けてもらったの ですか? 人を分けてもらったのです。ですから、レビ一族は、イスラエル民族の中の どんな一族よりも貴重な一族だというのです。皆さん、カインになる人が大事ですか、 物質が大事ですか? (カインになる人です)。カイン側の人が大事だというのです。こ れを皆さんは知らなければならないのです。ですから、カイン側の人々は、アベルを 食べさせ、生活させなければならないのです。 統一教会を例にして見たときに、統一教会全体の前に、アベルは誰ですか? (先生です)。統一教会全体の前に、アベルは先生であるので、皆さんは先生を食べ させ、生活させなければなりません。そして、先生はアベルとして犠牲となって、カイ ンたちを生かしてあげなければなりません。それが先生の使命です。分かりました か?」 224 牧会者の道 86P 「それでは今、統一教会自体を見ると、私たち統一教会はどこに立っているのでしょう か? 霊的な基準の時代においては、この肉的な基準は後ろに置かれていましたが、 今の時代はそうではありません。霊肉を中心として、霊的な面や肉的な面で民族を代 表する中心的な場に立っています。 ですから、祭物自体が問題となるのです。その祭物自体は、神様が見て、祭物と して受けることのできる歴史的内容をもっているでしょうか? これが問題となるので す。今まで育ってきて準備されたその祭物自体が、神様が見るとき、精誠を込めた祭 物であるかということが問題となるのです。 統一教会自体が、この民族の前に登場して一つの祭物的な使命を果たさなけれ ばならないのならば、その祭物の立場に立っている統一教会として、今まで経てきた 歴史時代において、祭物として、神様の前にふさわしい内容を残してきたのか? こ れが問題となるのです。もし祭物として、そのような内容を残せなかったのならば、こ こには、必ず祭物としての汚点が残っているのではないか。そのどこかに傷があるの で、これをきれいに洗ってしまうか、清めてしまわなければならない部分が残っている のではないかというのです。これを誰がするのでしょうか? そういう問題が残されて いるのです。それでは、これは祭壇に上がってできるのでしょうか? できません。祭 壇に上がる前に、内的な準備と外的な準備を備えて、天が見て「ふさわしい祭物だ」 と言うことのできる祭物にならなければならないということを、私たちは悟らなければ なりません。 このように見るとき、統一教会が霊的にも肉的にも、祭物的な使命を果たさなけ ればならないのです。それでは、祭事をささげる祭司長とは誰でしょうか? これが問 題となるのです。神様がなるのでしょうか? この地上の誰かがならなければならな いのでしょうか? このように見るとき、今まで、霊的な分野に責任をもってきた先生 が、今から祭物をささげる祭官にならなければならないのではないかと思われるので す。それでは、皆さん自身が、清い祭物にならなければならないのはもちろんですが、 祭事をささげなければならないその主人も、やはり同じです。祭事をささげるその張 本人が、その祭物を育てるのに精誠を尽くしたかということが問題となるのです。 その祭物が、まだ清くなっていないなら、その祭司自体にももちろん責任があるで しょうが、祭物を準備してきた祭司長の立場に立っている、その方にも責任があるの です。このようなことを今まで考えてきました。」 225 アブラハムの捧げた祭物について、もう少し深く掘り下げて記してみたい。 それは、アブラハムが捧げた、三種類の祭物ついてである。すなわち、鳩と羊 と雌牛についてだ。先に提示した記述、に祭物とは宗教圏(祭壇)の上で捧げら れる天使達というふうに表現したが、アブラハムが捧げた三種類の祭物の内容 にはもっと深い意味が隠されているように思える。 まず原理講論から見てみよう。 原理講論 319P 「それでは、アブラハムが象徴献祭としてささげた鳩と羊と雌牛とは、果たし て何を象徴したのだろうか。この三つの象徴的な供え物は、三段階の成長過程 を通じて完成する天宙を象徴するのである。すなわち、まずそのうち、鳩は蘇 生を象徴したものである。イエスは旧約摂理完成者、言い換えれば蘇生摂理完 成者として来られた。すなわち、イエスは鳩で表示される蘇生摂理完成者とし て来られたので、それに対する表徴として、ヨルダン河で、ヨハネから洗礼を 受けるとき、神のみ霊が鳩のように、その上に下ってきたのである(マタイ三・ 16)。また、イエスは、アブラハムの供え物の失敗を復帰なさるために来られた ので、まず、サタンが侵入したその鳩を復帰した立場に立たなければならなか った。ゆえに、神は鳩をもって、彼が蘇生旧約摂理完成者として降臨されたこ とを表示してくださったのである。 つぎに、羊は長成を象徴するのである。イエスは、アブラハムの供え物の失 敗を、復帰するために来られた方として、鳩で表示されたすべてのものを復帰 した旧約摂理の基台の上で、羊で表示されたすべてのものを復帰すべき長成新 約摂理の出発者でもあったのである。ゆえに、イエスが洗礼ヨハネによって、 鳩で表示された蘇生摂理の完成者という証を受けられたのち、ある日、洗礼ヨ ハネは、イエスが歩いてこられるのを見て、 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨハネ一・29)と言って、イエスが長成使命出発者であられることを、証し たのである。 つぎに、雌牛は完成を象徴するものである。士師記一四章 18 節を見れば、サ ムソンがなぞの問題を出したとき、ペリシテびとたちは、サムソンの妻を誘っ てサムソンをだまさせ、その内容を探りだすことによって、その問題を解いた ことがあるが、そのとき、サムソンは、 「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、 わたしのなぞは解けなかった」と言った。このように、サムソンは、妻を雌牛 に比喩したのである。イエスは、全人類の新郎として来られたので、彼が再臨 なさるまでの信徒たちは、来られる新郎の前に新婦とならなければならない。 しかし、新婦なる信徒たちが再臨される新郎イエスと小羊の宴を終えたのちに 226 は、新婦ではなく妻となり、夫であるイエスと共に、天国生活をするようにな るのである。それゆえに、イエス再臨以後の完成成約時代は、妻の時代、すな わち、雌牛の時代であることを知らなければならない。ゆえに、雌牛は、とり もなおさず、完成を象徴するのである。多くの霊通者たちが、現代は牛の時代 であると、啓示を受ける理由は、正にここにあるのである。」 次に文先生のみ言葉を見てみよう。 牧会者の道 80P 「旧約時代に祭司長は、祭物を中心として、神様と関係を結びました。旧約時代は、 祭物を中心として、一つとならなければなりません。それは、なぜそうかといえば、祭 物は対象で人間は主体的立場であるので、対象が神様の前に公認を受ければ、主 体も公認を受けることができるのです。完全なマイナスが現れれば、完全なプラスは 自動的に生じてくるのです。また、それと同じように、完全なプラスが現れれば、完全 なマイナスは自動的に生じるのだというのです。これは天地が相対因縁になっている からです。 このような原則を見るとき、人間は、祭物と一つにならなければなりません。もし祭 物と一つになれば、その上には誰がいるかといえば、神様がいます。 万物を中心として見るとき、物の中には、真のものと偽りのもの、憎むべきものがあ ります。例えば、最近先生が皆さんに食べるなという犬とか蛇とかのようなものは、み んな憎むべきものだというのです。しかし、牛とか羊とか鳩とか、このようなものは、善 なるものです。これらは、万物の中で一番善なるものです。祭事膳に供える肉として、 脂こいものは、供えてはいけません。脂こいものに傾いては駄目だというのです。脂こ いものが多ければ調和が取れないというのです。ですから祭事膳に供える肉は、脂 が多く生臭いにおいが強いものではありません。たこや鯔のように、からりと乾いた肉 が祭事膳に上がります。このような事実は、すべて陰陽の相対的理念から生ずるの です。 ですから、祭物時代において、善なるものを選んでみると、牛と羊と鳩だったのです。 それでは、これらは何を象徴するのでしょうか? 遠い山を見つめて、ものを噛んでい る牛は、復帰されなければならない人間を象徴しているのです。言い換えれば、日久 月深(注:月日の長いことの意味で、ひたすら望むという意味をもつ)、復帰される日 だけを待っている人間を象徴するというのです。 227 また羊というものは、軟弱な獣です。図体は大きいのに、自分より小さい山の獣に 捕まって食べられてしまうのが羊です。羊は、弱いものを象徴します。それでいて抵 抗しません。羊は、主人がつぶす時も抵抗しない獣です。昔、祭事に使おうと羊を捕 まえた時、抵抗した羊は祭事に使いませんでした。反抗せず、「メーメー」鳴きながら、 ただ、同情を求めるように、物悲しく哀れに泣き叫ぶ、そんな羊だけを捕まえて、祭物 としたのです。むやみに殴って、足で蹴って捕まえた羊は、祭物として使わなかったの です。また、鳩は何を象徴するのでしょうか? 私たちはよく、「鳩のような瞳」と言い ます。「鳩のような夫婦」と言うのです。それは鳩が、愛を象徴するからです。 このようなことを見るとき、これらは獣の中で善なる意味で次元の高いものだという のです。そうであるから、これらを獣の中から抜き出しました。人間は、それらのものと 一つとならなければならないのです。すなわち、牛のような忠誠で、羊のように犠牲と なり、鳩のように情的(愛)になれということです。言い換えれば復帰の内容を代表す る万物を中心として一つとなり、神様と関係を結んでいけということです。 それでは、それらと一つとなるためには、どのようにしなければならないのでしょう か? 反対にならなければなりません。僕に屈伏しなければならないし、嫁に屈伏し なければなりません。そうでなければ復帰ができません。皆さんが姿勢を変えなけれ ば、絶対復帰ができないのです。」 原理講論は、三種の供え物を蘇生、長成、完成の三段階の成長過程を経て完 成していく被造世界の象徴として説明している。文先生のみ言葉も原理用語を 使用しているので、同じことを表現しているように見える。しかし、この文章 を詳細に読み比べて見ると、微妙に概念が違う。 まず、三種類の供え物を説明するときが揚げられる。原理講論では、鳩は蘇 生期、羊は長成期、牛は完成期と説明している。このアブラハムの供え物の内 容から、人間は長成期完成級に堕落したということを説明してきた原理講師が 多くいたと思う。つまり、鳩と羊はペアになっているが牛はペアになっていな い。完成期に相対関係を築いていないというふうに説明してきた。それに対し て文先生のみ言葉を見た時に、三種類の供え物のそれぞれの位置づけが原理講 論とは違う。まず最初に牛の説明をもう一度見てみよう。 「遠い山を見つめて、ものを噛んでいる牛は、復帰されなければならない人間を象徴 しているのです。言い換えれば、日久月深(注:月日の長いことの意味で、ひたすら望 むという意味をもつ)、復帰される日だけを待っている人間を象徴するというのです。」 228 牛は人間を象徴している。続いて羊はこのように表現されている。 「羊は、弱いものを象徴します。それでいて抵抗しません。羊は、主人がつぶ す時も抵抗しない獣です。昔、祭事に使おうと羊を捕まえた時、抵抗した羊は 祭事に使いませんでした。」 弱い者とは何を象徴しているのであろうか?鳩は次のように説明されてい る。 「鳩は何を象徴するのでしょうか? 私たちはよく、 「鳩のような瞳」と言いま す。「鳩のような夫婦」と言うのです。それは鳩が、愛を象徴するからです。」 鳩は愛を象徴していると語られている。 そして最初の文章から読んでいくと、どのように見えてくるのかといえば、 まず祭物を捧げる祭司長の意味を定義しながら人間が神の前に帰っていくには 祭物と一つにならなければならないというふうに説明されている。そして祭物 と人間が一つになればその上に神がいると説明されている。その説明をした後 にこの三種類の供え物を説明されている。文先生は、ただ単に供え物の意味だ けを説明しているのではなく、復帰の公式に照らし合わせて話しておられる。 この説明の中には、先に説明した信仰基台と実体基台、すなわちメシヤのた めの基台の概念も含めて説明されておられるのである。 復帰の公式は、アダム家庭復帰を中心として成されていくようになる。そし てその公式とは、三代王権と四大心情圏の内容をもって展開されていくように なる。ここにおいて、文先生は、まず祭司長と祭物の立場をまず説明されてい る。本来神の創造は第一に環境整備である。本来天使長を中心として万物(天使 達)と一つになって造られていくのが天使長家庭だ。アダムの家庭が造られる前 に天使長の家庭が存在しなければ、アダムは生まれてくることもできないし、 創造理想を完成することができない。そして天使長家庭の最大の使命と目的が アダムの創造と同時にアダムの新婦となるエバの創造である。ゆえにまず復帰 は、地上に善の天使長が立てられなければならない。これが祭司長の位置とな る。祭司長が準備するのは、祭壇とその祭壇の上に捧げられる祭物を準備しな ければならない。この祭壇は、天使圏を通じて造られていく内容である。これ が復帰摂理においては宗教(選民史)として現れてくるようになるということは すでに述べた。 229 「アダムとエバが失敗したため、アダムとエバが完成しなければならないので す。神様が天国をつくってあげることはできません。神様が天国をつくってあ げるとすれば、歴史時代の長い期間は必要ないのです。一瞬のうちにつくるこ とができます。自分たちが過ったため、復帰するためには必ず蕩減路程を経な ければならないのです。 そのため、すべての歴史は、今まで祭壇という過程を経て分別してきたので す。ただ分別するのではありません。必ず祭物という過程を経なければならな いのです。その祭物的祭壇が宗教です。どのような宗教でも、宗教を中心とし て文化を分立する役事をしたのです。」 (祝福 83 号 16p 完全な家庭理想 1994 年 10 月 4 日 漢南洞公館) その宗教(選民圏)の中にも二種類の立場が存在するようになる。一つは天使 長型の宗教であり、もう一つは新婦型の宗教である。 真の神様 176P~178P 「神様がアダムを造る前に天使を造ったので、今日の宗教は何かというと、天 使世界圏を地上に造ったものです。それが宗教世界です。その宗教世界圏内で 何をすべきなのでしょうか。アダムを造り出すということをしなければならな いのです。それでは宗教の中で世界的中心は何でしょうか。それはユダヤ教で す。このようになるのです。そのユダヤ教は何をする宗教でしょうか。新郎を 紹介する宗教です。それがメシヤ思想であり、救い主思想です。 神様がアダムとエバを創造するまでは、その伝統的思想を誰が受け継ぐかと いうと、天地長の立場にある方々が受け継ぐのです。そうしてアダムとエバが 生活するための新しい風潮と伝統を誰が教えてやるべきかというと、神様が教 える前に、僕である天使長が「主人の息子、娘はこのようにしなければならな い」と教えてやらなければならないのです。主人の息子、娘が過ちを犯すのを 制止して、正しく歩むように先頭に立って教えてやるのが、年上の僕の責任で はないでしょうか。 堕落した人間を救うために、神様は宗教を立てました。その宗教とは何でし ょうか。エバの宗教と、天使長の宗教を世界に造ったのです。エバと天使長ゆ えに堕落したので、人類をエバと天使長の宗教をもって復帰するのです。その 道を通じて復帰されるのです。宗教は天使長圏の宗教です。百個、千個あった としてもすべて天使長圏に属します。多くの宗教がありますが、それを大きく 分けると四大宗教です。その中心はキリスト教ですが、キリスト教の主たる思 230 想は新婦の思想です。 天使長宗教は根本が明確ではありません。神様が何か分からないのです。終 末にどうなるか分からないのです。ただ外的な遂行概念だけを中心として指導 してきたのです。それゆえ終末になると、ふろしきをまとめて主人の家に世話 をしに行かざるを得ないという立場になるのです。明白な伝統がないからです。」 すなわち、男性の基台(信仰基台)を中心とする天使長型と、女性の基台(実体 基台)を中心とする新婦宗教とに分けられる。天使長型の宗教の使命は、カイ ン・アベルを通じて一つになってエバを復帰することである。そしてレア・ラ ケルが一つになるように協助しなければならない。それに対して新婦型の宗教 は、レア・ラケルを通じて一体となり、まず宗教圏においてはカイン・アベル を一つにする役割を果たし、さらにはメシヤの新婦を準備しなければならない。 そして復帰された天使長は、神の前に絶対信仰を持って歩む姿を実体でアダム に示し、アダムが思春期を迎え結婚するまで守ってあげなければならない立場 だ。先のみ言葉を引用すれば年上の僕の役割を果たすのである。つまり、アダ ムとエバを養育する立場を蕩減復帰するのである。そして、この天使長型の宗 教は新婦型の宗教を通してメシヤの前に立つようになる。そのような原理を通 して、初めてメシヤの子羊の婚宴が実現される。これを文先生は、家庭編成と いうふうに表現されてきたのである。 「それでは、キリスト教は、何をしなければならないのでしょうか?すべての 人類がともに願う、来られるそのおかたの前に新婦を準備し、そのおかたが願 われる環境をつくってさしあげなければなりません。このことを聖書では、「子 羊の婚宴」と比喩したのです。」 (ファミリー02/6 59p 祝福家庭と理想世界 2002 年 4 月 27 日 ワシントン) そしてもう一種類の宗教が必要である。それは来られる主の前に兄の役割を 果たす位置である。アベル・カインの原理は宗教圏の中に展開されるものであ るが、神の直系の子女として来られるメシヤを直接迎える立場の宗教が必要で ある。敢えて言葉で表現するならば息子(長子)の宗教である。摂理的に見れば、 洗礼ヨハネがこの位置に立てられる。 「神がテキストを造る時、何をその教材の根本にしたかということを問題にし なければなりません。そこで愛の道理を中心とした位置を立て、求道の教材と する歴史とならざるを得なかったのです。我々はこのような観点において宗教 を見なければなりません。では宗教の中において、最後に世界的に人類が求め 231 て行こうとする最高の宗教はどの宗教ですか。それは、神を中心として父子の 関係を説いた宗教であります。神を訪ねていく時に、僕の僕の宗教、僕の宗教 があります。その次には養子の宗教、庶子の宗教があります。庶子は相続を受 けることができません。韓国においても庶子が歴史的問題となっていました。 庶子を見ても、外的にも、能力から見ても嫡子より劣るところはないのに、庶 子であるからといって蔑視されるのです。堕落した世界においてなぜ庶子が蔑 視されるのか。それは歴史を知らなかったためです。韓国の伝統文化が崩れて いっているのです。そして宗教の中にも息子の宗教があります。息子の宗教の 中にも本物の息子の宗教があり、偽者の息子宗教があります。その次には、そ の息子の上に何があるでしょうか。息子を探して教育して無知なる立場を越え ることのできる本然の母宗教が出てきます。そのために、世の終わりには婦人 の世界的な予言者達が出てきます。母宗教が出て、父宗教が出るのですが、そ の内容はみな似通っています。東西南北、方向を知らない人々は、この山もあ そこの山も同じだというのです。愛の道理を立てて救援摂理をなしていこうと する神のみ旨を中心として見る時、方向性のない愛はあり得ません。愛は縦的 な主従関係、横的な主体対象関係を今までの宗教は知らなかったのです。宗教 はみな同じものであると考えたのです。これからの世界は、民族的文化背景が 異なり混乱も大きいのです。宗教的文化背景、伝統の背景が違うということは 極めて難しいことです。このような問題を考え、先生は宗教の世界的糾合運動 を急ぐのです。経典に「私が神の息子である、ひとり子である」と説く宗教があ るならば、その宗教は神の正面を通過して、世界へ越えていくことができます。 個人から世界へ越えていくことのできる立った一つの道です。人間が堕落した ために、その宗教を通して真なる父子の関係を結び、また横的な基準において、 新郎新婦、主体対象の名を宣布する内容がなければ、その宗教は終末に天倫と 接触することができません。いくら僕の歴史が良くても、養子の歴史が始まれ ば僕の歴史は消えていくのです。そして庶子圏がいくら大きいといっても、息 子の宗教圏はいかに大きいといっても、母宗教圏の時代が来ればそれに相続を して、離れていくのです。そして宗教圏がこの地上にいくた偉大であるとして も、父的宗教圏が出てくる時にはそれに相続をして、離れていかなければなり ません。また父的宗教が立派であるとしても、神的統治圏時代が来ればそれに 相続をして、離れていかなければなりません。このような論理が形成されるの です。歴史的な観から見る時、歴史は必ず愛の道に従っていきます。愛から始 まった人間は、神を中心とした過程を経て、愛の統一された目的世界へ越えて いって、勝者敗者を決定することが人類生活の道理であるという概念が成立し ます。これは文なにがしという人が適当に話すのではありません。先生はそう いうことを知って、このことを成すために命を懸けて戦って実践した経歴をも 232 っているので、自信をもって報告するのです。このような事情を経て出てきた のが人間の歴史なのです。そこで人類歴史の中の宗教の歴史を見ると、主流宗 教があります。長い歴史とともに終りの日まで行く、愛の救援摂理の主流的宗 教形態がなければならないという結論になります。その主流宗教は、神の愛の 道を探して行く人に会って、愛の家庭を成し、愛の氏族を成し、愛の国を成そ うとするのが目的点があるということは間違いない結論です。このように見る 時、それは今までのキリスト教であります。それでキリスト教が世界的宗教と なったのです。 (19p~21p 神の摂理史的総決算 1985 年 12 月 29 日 韓国本部教会) 「洗礼ヨハネは、霊界で失われた天使長の代身者として、地上で復帰された存 在でした。天使長型の洗礼ヨハネとアダム型イエス様が一つになって、万物を 支配しなければなりませんでした。そうするために、イエス様は万物を支配す ることのできる勝利の祭壇を相続しなければなりませんでした。その祭壇がユ ダヤ教でした。ユダヤ教は旧約聖書を信じ、祭壇を守ってきた宗教でした。祭 壇を守りながら万物を犠牲にし、祭物を捧げたその基台を、イエス様がすべて 引き受けなければなりませんでした。洗礼ヨハネは、イエス様がそれを引き受 けられるような手続きを踏まなければなりませんでした。ところが、洗礼ヨハ ネが失敗することによって、全体の内容が乱れ、イエス様がその使命を代理と して担わなければならない立場に立つようになったのです。イエス様はその使 命を果たす第二次路程で死んだのです。イエス様はどんな使命を果たすために、 サタンと闘ったのでしょうか。洗礼ヨハネ的使命を再び行う路程で十字架につ けられ、亡くなりました。それで、息子の使命を果たすことができたでしょう か。できませんでした。イエス様は亡くなった後、どういうことをしたかとい えば、天使長を探し求めました。その次に、息子が行くことができるようにし なければなりません。従って、僕として行かなければならない道と養子が行か なければならない道を探し求めるのです。イエス様は直径の息子になることが できなかったのです。天使長の道、僕の道と養子の道を行くようになったので す。それゆえにイエスを信じてもせいぜい養子にしかなれないのです。血統を 連結させない因縁は天使長級の立場です。それは、血統の違う立場にいるカイ ンと同じような存在です。今までの摂理歴史は、その血統を連結させるための 闘いを行ってきているのです。」 ( 祝 福 72 号 83 p ~ 84 p 我 が 家 庭 の 行 く 道 前編 1971 年 8 月 28 日 清平修練所) 233 このような復帰の公式路程を考慮しながら、文先生が説明される三種の供え 物のそれぞれの意味を考えて見よう。まず牛である。牛は人間を象徴し、復帰 される前の人間を象徴すると表現されている。復帰される前の人間とは、未完 成な状態という意味だ。ここで人間と表現される存在は天使を意味する。牛は、 ペアで備えられてはいない。このことは、天使は完成するまで相対関係を許さ れていないという文先生のみ言葉がそのことを暗示しているように思われる。 すなわち復帰されるのを待っている人間とは信仰基台を造成しアダムを待つ天 使圏にいる人間(天使)を表していると言える。次に羊である。羊は最も弱い存 在であると表現されている。これは女性(新婦圏)を象徴していると思える。復 帰はエバを通して復帰されなければならないというのが原理だ。すなわちカイ ン・アベルが一つになってエバが一つになるのを協助しなければならない。そ して鳩は愛を象徴し、ここに鳩のような夫婦という表現をして来られる主の子 羊の婚宴を暗示して語っておられる。このような視点に立って見ると、アブラ ハムが鳩を割かなかったという行為は、将来、イエス様が来られた時、子羊の 婚宴を失敗に追いやってしまう遠因を造ったとも言えるのである。 「アブラハムが祭物を失敗することによって、夢うつつの時に「おまえの後孫は 400 年の間、異邦の僕になる」と言われたのです。そのような祭物の失敗が、国 権回復の過程を経るときにおいて、石版を割ることが生じ、モーセが荒野で銅 の蛇を上げるようになったのです。そのようなことが、イエス様が十字架にか かり得る条件的な権限を、サタンに全部引き渡してしまうようになったのです。 そのことを知らなければならないのです。 ( フ ァ ミ リ ー 94/12 11 p ~ 15 p 絶 対 信 仰 と 絶 対 愛 1994 年 10 月 9 日 中央修練院) このような視点を踏まえて次のみ言葉を読むとその意味がわかると思う。 「僕に屈伏しなければならないし、嫁に屈伏しなければなりません。そうでなければ復 帰ができません。皆さんが姿勢を変えなければ、絶対復帰ができないのです。 」 このみ言葉は、男性を僕の僕の位置において、アベルであり、僕の位置であ る天使長(祭司長)に屈服し、嫁とは新しく復帰されたエバ(女性)に屈服し、女 性を通してでなければ復帰ができないという意味である。 原理講論は信仰基台を、中心人物、条件物、数理的蕩減期間、実体基台を堕 落性を脱ぐための蕩減条件、すなわちカイン・アベルとして捉えてきた。それ 234 に対して文先生がみ言葉の中で提示している信仰基台と実体基台とは、天使長 復帰とエバ復帰という視点で説明されている。つまり、失ったアダム家庭を復 帰するためには、本来神様が願われた縦横の愛の完成をアダム家庭の型を通し て復帰されようとしている。その公式が三代王権と四大心情圏の公式である。 このような視点に立って考えてみたとき、それぞれの聖書の中に立たされた中 心人物たちの原理的位置づけが原理講論で説明されてきた内容と変わってくる ようになる。 まず、原理講論と大きく変わったのが、復帰歴史に登場する人間の立場は、 天使長の立場であるということだ。つまり、復帰歴史とは、地上にアダムを送 る前に復帰された善の天使長を中心として環境を準備する歴史という意味にな る。天使長を通してアダム(人間)が創造されたので、天使長を通してアダムを 復帰するのである。その天使長のことを文先生のみ言葉の中ではアベルと表現 されている。そしてカインとは堕落した天使側に立つ人間のことを指している。 今まで統一教会は、このアベル・カインという言葉を組織上の上下関係のよう に使ってきた。それに対して文先生はアダム家庭復帰の第一段階として天使長 圏における縦的愛の復帰という視点で信仰基台の内容を語ってこられた。神の 縦的愛を完成するためには、必ず三数過程、すなわち三段階をもってなされて いくのが原理だ。ゆえに復帰基台摂理時代もアベル、ノア、アブラハムという ように三段階をもってなされていった。そしてアブラハムの代に至って初めて 女性の話が登場してくる。おそらく、それは三代の縦的な祭物を通して立てら れた男性を中心とする信仰の基台の勝利権ゆえに初めて実体の基台である女性 の話が聖書に書かれたものと思われる。原理講論では、アブラハムをアダムと ノアと同じ立場であると説明し、信仰の祖であると説明している。アダムは完 成できなかった立場であり、ノアはそのアダムの子セツの子孫である。そして 信仰の祖という言葉そのものが復帰された善の天使長を意味している。 原理講論は、中心人物たちが、どのようにメシヤのための基台を復帰するか ということを中心に説明し、聖書の中で起こった出来事を詳細には伝えて来な かった。そして聖書をあまり読まない環境の中で教会員は過ごしてきたために、 聖書の中に展開される様々な出来事に対して関心を向けることがなかったので はないだろうか?既成キリスト教会経験者はまだしも、せいぜい聖日礼拝の時 に教会の責任者が聖句を引用した説教をされたときだけではないだろうか?聖 書には、今の時代に通じる啓示的な内容が多々存在する。ここではいくつかの 部分を引用しながら、文先生のみ言葉の中でも引用された部分をアダム家庭復 帰の概念に照らし合わせながら紹介していきたいと思う。 235 原理講論のアブラハム家庭を中心とする復帰摂理をアダム家庭復帰という概 念に照らし合わせて考えて見たとき、原理講論で説明されるアベル、ノア、ア ブラハムの三代に渡って立てられた縦的蕩減条件をアブラハム、イサク、ヤコ ブのアブラハム家庭一代で横的に蕩減復帰するという原理の視点が変わってく る。実際にノア家庭においても、ノア、ハム、カナンというように三代という 概念で説明されているように、アブラハム家庭においても必ず三代を通じて展 開されていかなければならない。つまり象徴献祭に失敗したから縦的蕩減条件 を横的に蕩減復帰したのではなく、アブラハム家庭はそもそも三代を中心とし て摂理されなければならなかったということである。その三代の中でも文先生 が説明される聖書の内容は、必ず二番目を中心として語られる。つまり二番目 が最も大事ということであり、次子を通して長子を復帰するという内容が中心 なのだ。 つまり、アブラハム家庭において最も重要な立場は二番目のイサクである。 イサク献祭を勝利するか否かは、復帰基台摂理時代において、最も重要な内容 であった。 男性訪韓修練会 346P 「それで、神様はヤコブの家庭を中心として着手してきました。ヤコブの家庭 を中心として、アブラハム、イサク、ヤコブを、三代で一人と見るのです。最 後には三番目を中心として、アダム、イエス様、再臨の主の完成と同じように、 アブラハム、イサク、ヤコブなのです。アブラハムは、祭物失敗のために四〇 〇年間後孫が異国の地で奴隷になるという預言を受けたのですが、実体祭物と して、イサクを殺して祭物にする場でサタンを分別して、その代わりに雄羊を 祭物として生き残ったのです。 次に、イサクの家庭を中心とした問題になるのです。そこでは、分割運動を しなければなりません。それをするのがイサクの奥さん、リベカという女です。 分かりますか? (はい)。生死を判決する中心の家庭は、二番目のイサク家庭 です。それは、ノアに当たるし、イエス様に当たるのです。二番目はいつも中 心点であり、神とサタンが争奪戦をしているのです。それで、いつでも二番目 が問題なのです。」 「人類歴史がこのような事情になることによって、その周辺を回り、また回り ながら、人類歴史がどれほど延長されてきたか。数千万年人類歴史が延長され てきました。ところで、神様の救援摂理が地上に着地し始めたのは、アブラハ ム、イサク、ヤコブ家庭からです。定着をどこから始めたかといえば、イサク からなのです。イサクが供え物となって、供え物から復活したのです。供え物 236 というのは、堕落によってサタンの血統を受け継いだことを、サタンの巣にな ったことを全部破壊させるものなのです。血を流してきれいにするのです。死 ぬ場に立たせてナイフを振り上げ、イサクを殺そうとしたのです。供え物であ るからです。ナイフで刺そうとするとき、すでにそこからサタンが退くのです。 ですから、神様が「供え物として羊を捧げなさい」と言われたのです。このよう な戦いを通して分別させ、神側の人として、生きた供え物として、残された一 族の出発がイサクの家庭から始まったのです。」 イサクの献祭を説明する前にイサク献祭に至るまでのアブラハムの時代に展 開された聖書の様々な内容について考えてみたい。聖書には復帰路程を歩む今 の私たちに通じる。そして、復帰の公式に関係する様々な内容が暗示として展 開されている。まず原理講論にも提示されてはいるが、アブラハムが象徴献祭 を捧げる前にアダムの立場を復帰するために妻サラをエジプトの王に奪われ、 取り戻すという話を考えて見よう。 創世記第十二章 「アブラムはなお進んでネゲブに移った。さて、その地にききんがあったの でアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激し かったからである。エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻 サライに言った、 「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それで エジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、 あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってくだ さい。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなた によって助かるでしょう」。アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこ の女を見て、たいそう美しい人であるとし、またパロの高官たちも彼女を見て パロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。パロは彼女のゆえに アブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女 の奴隷および、らくだを得た。ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激 しい疫病をパロとその家に下された。パロはアブラムを召し寄せて言った、 「あ なたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたし に告げなかったのですか。あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったので すか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここに います。連れて行ってください」。パロは彼の事について人々に命じ、彼とその 妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。」 237 原理講論 318P 「アブラハムは、 「象徴献祭」をするために、いかなる信仰を立てたのかを調 べてみることにしよう。 アブラハムは、第二人間始祖たるノアの立場を復帰しなければならなかった。 したがって、またアダムの立場にも立たなければならないので、彼は「象徴献 祭」をする前に、アダムの家庭の立場を復帰する象徴的蕩減条件を、初めに立 てなければならなかった。創世記一二章 10 節以下の聖句によれば、アブラハム は飢饉によってエジプトに下ったことがあった。そこで、エジプト王パロが、 アブラハムの妻サライを取って、彼の妻にしようとしたとき、アブラハムは、 彼女と夫婦であると言えば、自分が殺される憂いがあったので、あらかじめ計 って、自分の妻サライを妹であると言った。このように、アブラハムは彼の妻 サライと兄妹の立場から、彼女をパロの妻として奪われたが、神がパロを罰し たので、再びその妻を取り戻すと同時に、連れていった彼の甥ロトと多くの財 物を携えて、エジプトを出てきた。アブラハムは自分でも知らずに、アダムの 家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程 を歩まなければならなかったのである。」 アブラハムは、象徴献祭を失敗した後、ゲラルの王アビメレクとの間でもサ ラを妹と偽って、エジプトで起きた内容を繰り返している。 創世記二十章 「アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。 彼がゲラルにとどまっていた時、アブラハムは妻サラのことを、 「これはわたし の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召 し入れた。ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた、 「あなたは召し 入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」 。アビメレ クはまだ彼女に近づいていなかったので言った、 「主よ、あなたは正しい民でも 殺されるのですか。彼はわたしに、これはわたしの妹ですと言ったではありま せんか。また彼女も自分で、彼はわたしの兄ですと言いました。わたしは心も 清く、手もいさぎよく、このことをしました」 。 神はまた夢で彼に言われた、 「そ うです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたし もあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さな かったのです。いま彼の妻を返しなさい。彼は預言者ですから、あなたのため に祈って、命を保たせるでしょう。もし返さないなら、あなたも身内の者もみ な必ず死ぬと知らなければなりません」。そこでアビメレクは朝早く起き、しも 238 べたちをことごとく召し集めて、これらの事をみな語り聞かせたので、人々は 非常に恐れた。そしてアビメレクはアブラハムを召して言った、 「あなたはわれ われに何をするのですか。あなたに対してわたしがどんな罪を犯したために、 あなたはわたしとわたしの国とに、大きな罪を負わせるのですか。あなたはし てはならぬことをわたしにしたのです」。アビメレクはまたアブラハムに言った、 「あなたはなんと思って、この事をしたのですか」。アブラハムは言った、「こ の所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々 がわたしを殺すと思ったからです。また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。 わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になった のです。神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あ なたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これ はあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。そこでアビメレクは羊、牛 および男女の奴隷を取ってアブラハムに与え、その妻サラを彼に返した。そし てアビメレクは言った、 「わたしの地はあなたの前にあります。あなたの好きな 所に住みなさい」。またサラに言った、「わたしはあなたの兄に銀千シケルを与 えました。これはあなたの身に起ったすべての事について、あなたに償いをす るものです。こうしてすべての人にあなたは正しいと認められます」 。そこでア ブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻および、はしためたちをいや されたので、彼らは子を産むようになった。これは主がさきにアブラハムの妻 サラのゆえに、アビメレクの家のすべての者の胎を、かたく閉ざされたからで ある。」 この二つの事例は、原理講論においては、アブラハムが中心人物として立つ ための条件として説明されている。しかし、原理講論には記されてはいないが、 イサクもまたこのゲラルの王アビメレクに対して自分の妻リベカを妹と偽って アブラハムと同じ行為を行っているのである。しかも原理講論では誰もが知っ ているヤコブがパンとレンズ豆をもってエサウから長子権を奪った後のことで ある。 創世記第 26 章 「こうしてイサクはゲラルに住んだ。その所の人々が彼の妻のことを尋ねたと き、 「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所 の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」 と言うのを恐れたからである。イサクは長らくそこにいたが、ある日ペリシテ びとの王アビメレクは窓から外をながめていて、イサクがその妻リベカと戯れ ているのを見た。そこでアビメレクはイサクを召して言った、 「彼女は確かにあ 239 なたの妻です。あなたはどうして『彼女はわたしの妹です』と言われたのです か」。イサクは彼に言った、「わたしは彼女のゆえに殺されるかもしれないと思 ったからです」。アビメレクは言った、「あなたはどうしてこんな事をわれわれ にされたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、 その時あなたはわれわれに罪を負わせるでしょう」。それでアビメレクはすべて の民に命じて言った、 「この人、またはその妻にさわる者は必ず死ななければな らない」。 このようなことを考えたとき、アブラハムが象徴献祭を行うためだけの条件 としてこのようなことが起こったとは考えにくい。復帰の公式路程を歩む中心 人物(善の天使長)たちは、このような立場に立たされるということである。実 際に文先生のみ言葉にもこのような内容がある。 「堕落は何かというと、エバがアダムを引っぱっていったことでしょう。その 反対に、完全にエバがアダムからどんなことを言われても聞くようにならなけ ればならない。アダムがエバに対して、他のところにお嫁に行かせても、どん な乞食みたいな者に行かせても服従するような、どこへ行かせても服従するよ うな立場に立たなければ復帰はできない。それから(アダムが)他の人を愛し たとしても、それを歓迎するような立場に立つような女でなければならない。 なぜかと言うと、過去、自分自体が堕落をして他の男を愛した歴史を持ってい るから、それを蕩減するには、そういう立場に立たせても女は不平を言うこと ができない。だから今までの女の世界には、妾とかいう立場でも不平を言うこ とはできなかった。そういう歴史の基準が残っている。 こういうふうにして 結局、初めて堕落しない前のエバの立場に立って、二人が一つになる。しかし それは、絶対、自分自身を先に立てるのではありません。堕落はエバとかアダ ムとかが、自分を考えることによって起こったんだから、その反対に、絶対、 自分の思いのままでは行いけない。自分の旦那さんよりも神様に対して、より 高く侍らなければならないし、男は自分の奥さんより神様を第一にしなければ ならない。そういうように絶対的な立場に立って神の愛を受けることによって、 神の愛の主管圏に立つことによって、原理主管圏の長成期完成基準から、完成 基準に上がるんだね。七年間で。いかなる迫害を受けても、神様がいかなる試 験をしても、神の前に道をそれるようなことは絶対ありえない。」 (祝福 33 号 18p ホームチャーチと八段階復帰路程 1981 年 240 11 月 13 日 韓国) 罪と蕩減復帰 107P 「先生がこの道を備えてくるには、先生の愛する妻までもサタン魁首に抱かせ てあげ、祝福してあげることのできる心がなければならないというのです。何 のことか分かりますか。神様がそのような立場に立ったのです。悪魔は愛の姦 夫です。怨讐ですが、終わりの日になってメシヤになることのできる資格者な らば、自分の新婦までも犠牲にしてサタンに与え、神様を解放しようとするこ とのできる立場に立たなければ、神様を解放できないのです。」 原理講論は、女性復帰の概念が全くと言っていいほど書かれていない。おそ らく 1966 年当時には、文先生自らが女性復帰の摂理の中心に立って歩んでいた ために、女性たちの責任分担の問題があり、語ることができなかったと思われ る。しかし、その後、特に 1992 年以後、済州島の修練会に始まり、水沢里の女 性修練会を通して文先生は、それまで話して来られなかった多くのみ言葉を語 られた。これはまだはっきりとした提言はできないが、文先生を中心として何 らかの女性復帰の勝利権が立ち、時が満ちたので、み言葉を語られたものと思 われる。この章においては、文先生のみ言葉と聖書の出来事を照らし合わせな がら公式路程における女性復帰の内容を提示していきたいと思う。まず聖書の 中で現れた最初の女性復帰の内容としてアブラハムの家庭から得られる教訓を 聖書の内容を通じながら提示していきたいと思う。 アブラハムやイサクが自分の妻を妹と偽り王のもとに一旦奪われるという記 述は、原理講論が示す通り、本来、兄弟姉妹の位置であったアダムとエバを天 使長が奪ったので、この世の王である天使長に奪われた妹(エバ)を神側に奪っ てくるという概念が含まれていると思われる。ここにおいてもう一つ付け加え たい視点がある。それは、文先生が示されているアダム家庭復帰の公式路程に 当てはめて考えて見たい。復帰は二種類の父母を通してまず天使圏(宗教圏、霊 界、選民圏)において形成される。すなわち善側の天使(アベル)とサタン側の天 使(カイン)によって信仰基台が立てられる。愛は相対関係をもって成されるも のであるから、善の天使長が悪の天使長を自然屈伏させることによって、復帰 された天使長の位置が立つ。原理的にはアベルが僕(主体)であり、カインが僕 の僕(対象)であるが、愛は対象を通して完成するという原理があるがゆえに、 アベルが僕の僕となって、カインに侍りカインがアベルに自然屈伏することに よって天使長圏においての長子権が復帰されるようになる。その内容を聖書史 においては二種類の男性である善の天使長(アブラハム、イサク)と悪の天使長 (エジプト、ゲラルの王)という形で現れてくるようになる。つまり天使長圏に おいては、サタン側(カイン)が地上の王の立場であるので、原理的な地上の王 241 の位置(アベル)にまず復帰されなければならない。それでは、どのようにカイ ン・アベルは兄弟愛を復帰していくのであろうか?四大心情圏は子女の愛から 始まる。そこから兄弟姉妹の愛に上がっていくとき必ず母親の愛を通して上が っていくようになる。この天使長圏におけるカイン・アベルも女性(母)の愛を 通して復帰されなければならないようになる。そのような原理的視点を、この 聖書史において、アブラハム、イサク(善の天使長)とエジプト、ゲラルの王(サ タン側の天使長)がサラ、リベカ(復帰された女性)を通じて一つになるという暗 示が込められているように思える。ここで説明した原理的内容を第三イスラエ ル選民の中で展開されてきた行事が祝福式の時に行われた約婚式であり、約婚 式の後に行われた聖酒式である。 聖書の創世記を読んでいくと、アブラハムとエジプトの王との間にこのよう な事が起こった後、アブラハムが象徴献祭の失敗をする。そしてアブラハムの 子孫は四百年の苦役をすることを神に告げられる。 創世記 15 章 「主は彼に言われた、 「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばと と、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。 彼はこれらをみな連れ てきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。ただし、鳥は 裂かなかった。荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。 日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが 彼に臨んだ。 時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきな さい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は 彼らを四百年の間、悩ますでしょう。」 そしてサラ(サライ)とそのつかえめハガルとの話が創世記の十六章に登場す る。イサクの異母兄弟イシマエルの誕生である。 創世記第十六章 「アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。 エジプトの女で名をハガルといった。 サライはアブラムに言った、「主はわた しに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりくだ さい。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」 。アブラムはサライ の言葉を聞きいれた。 アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガル をとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年 242 住んだ後であった。 彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は 自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。 そこでサライはア ブラムに言った、 「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめを あなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見 下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。 アブ ラムはサライに言った、 「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなた の好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女は サライの顔を避けて逃げた。 主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュル の道にある泉のほとりで、彼女に会い、 そして言った、「サライのつかえめハ ガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言 った、 「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。 主の使は彼女 に言った、 「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」 。 :10) 主の使はまた彼女に言った、 「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれ ないほどに多くしましょう」。 主の使はまた彼女に言った、 「あなたは、みごも っています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。 主があなたの苦しみを聞かれたのです。 彼は野ろばのような人となり、その手 はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵 して住むでしょう」。 そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、 「あな たはエル・ロイです」と言った。彼女が「ここでも、わたしを見ていられるか たのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。 それでその井戸は「ベエル・ ラハイ・ロイ」と呼ばれた。これはカデシとベレデの間にある。 ハガルはアブ ラムに男の子を産んだ。アブラムはハガルが産んだ子の名をイシマエルと名づ けた。」 文先生は、長女権復帰の内容を語られるときには、ヤコブの妻であるレア・ ラケルを中心として語られることが多い。しかしレア・ラケルに至るまでの聖 書史の中に現れる女性達にも重要な内容が秘められている。ここではまずサラ とハガルを通して考えてみたい。文先生のみ言葉を見てみよう。 「三代圏が地獄になったのですが、アダムとエバと息子の三代圏が、一つにな るときには天国化するので、平和の世界は、問題なく成されるのです。どれほ ど簡単でしょうか?分かりますね? 今、キリスト教とイスラム教が問題でしょう?怨讐でしょう?それは、先祖 であるアブラハムが失敗したのです。(アブラハムの妻の)サラが、(長男の)イ シマエルを冷遇して別れたのです。(しかし、本来は、)イシマエルの息子、娘 も、アブラハムの孫と孫娘です。それを包摂することができずに問題となり、 243 怨讐になったという事実です。」 (ファミリー2003 年 8 月 31 日 23P 第15回「八定式」におけるみ言葉 イーストガーデン) 原理講論では、イサクとイシマエルは、アブラハムが象徴献祭を勝利すれば、 それぞれアベルとカインの立場に立って実体基台が立てられるようになってい たと説明している。 原理講論 331P 「アブラハムが「象徴献祭」に失敗しなかったならば、イサクと彼の腹違いの 兄イシマエルが、各々、アベルとカインの立場に立って、カインとアベルが成 就できなかった「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるべきであった。しか しアブラハムがその献祭に失敗したので、神は彼の立場にイサクを身代わりに 立たせ、イシマエルとイサクの立場には、各々、エサウとヤコブを代わりに立 たせて、彼らをして、 「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるように、摂理さ れたのである。」 文先生のみ言葉を読んで見た時に、ここで言われているアブラハムの失敗と は、象徴献祭の失敗のことを言っているのであろうか? サラが、イシマエル を冷遇したという前の部分は、三代圏の内容を語られている。そのようなこと を考慮して考えてみたとき、アブラハムの家庭は最初から三代という概念で摂 理される。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブはそもそも三代を通じてなさ れる摂理として捉えるべきである。原理講論では、イサクとイシマエルの間に おける摂理は、流れていったような印象を受けるが、文先生のみ言葉によれば、 この二番目のイサクの位置こそが重要なのである。そしてサラがハガルとの関 係を勝利すれば、イサク(次子)とイシマエル(長子)はその後歴史上戦うことな かったのではないだろうか? 「さあ、これが理解できなければ、今から、よく聞かなければなりません。神 様の摂理は、兄を中心として救援摂理をしたのではありません。弟を中心とし て救援摂理をしたのです。なぜでしょうか? アブラハムの神、それから何ですか? イサクの神、ヤコブの神です。一つ の神様ならば、よいのですが、なぜ、 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの 神」と言ったのでしょうか? 三代が問題です。 (ファミリー2003 年 8 月 31 日 29P 244 第十五回「八定式」におけるみ言葉 イーストガーデン) その後、イシマエルとハガルは、砂漠に追放される。しかし神は、イシマエ ルを一つの国民とし、後にイスラム教徒になっていく。そしてイサクの子孫は ユダヤ教徒になっていくのである。そしてこの宗教問題は、今でも世界を巻き 込む紛争になる。このように考えてみると、神の願われるアダムの家庭復帰と いうものがどれほど大事な内容であるか理解出来ると思う。 創世記第 21 章 「さて、おさなごは育って乳離れした。イサクが乳離れした日にアブラハムは 盛んなふるまいを設けた。 サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子 が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、 アブラハムに言った、「このはしためと その子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、 世継となるべき者ではありません」。 この事で、アブラハムはその子のために 非常に心配した。 神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあな たのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて 聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。 し かし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガル に与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバ の荒野にさまよった。 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下に おき、 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど 離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったと き、子供は声をあげて泣いた。 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガ ルを呼んで言った、 「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこ にいるわらべの声を聞かれた。 立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に 抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。 神がハガルの目を 開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満た し、わらべに飲ませた。 神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒 野に住んで弓を射る者となった。」 アブラハムがハガルとイシマエルを砂漠に追放した後、神はアブラハムにイ サクを燔祭として捧げるように命じられる。イサク献祭である。 245 創世記22章 「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、 「アブラハムよ」。 彼は言った、「ここにおります」。 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛す るひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭とし てささげなさい」。 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたり の若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示さ れた所に出かけた。 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所 を見た。 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒 にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あな たがたの所に帰ってきます」。 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イ サクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。 やがてイサク は父アブラハムに言った、 「父よ」。彼は答えた、 「子よ、わたしはここにいます」 。 イサクは言った、 「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」 。 アブラハムは言った、 「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろ う」。こうしてふたりは一緒に行った。 彼らが神の示された場所にきたとき、 アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇の たきぎの上に載せた。 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子 を殺そうとした時、 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブ ラハムよ」。彼は答えた、 「はい、ここにおります」。 み使が言った、 「わらべを 手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたの ひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であ ることをわたしは今知った」。 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろ に、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を 捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。」 三代王権と四大心情圏をアブラハムの家庭において復帰しようとするならば、 イサクの位置はどのような位置になるのであろうか?アブラハムが神の位置で あるのならば、イサクは天使長の位置に当たるようになる。文先生のみ言葉を 見てみると、三代という概念を説明するとき、神を一代、アダムを二代、息子(カ イン・アベル)を三代というふうに表現されることが多い。その観点の中には、 天使という概念は説明されていないというふうに思われるかもしれない。しか し本体論において説明をしたように、アダム自身も成長期間があり、子女の愛 から出発しなければならない。そのように考えたときに、アダムが成長し、四 大心情を完成していくためには、必ず天使長家庭が必要なのだ。しかし神の創 造理想はどこまでも地上において完成しなければならないという観点から、天 246 使という概念は、み言葉の中であえて表現されてこなかったように思われる。 文先生は、神と天使は一体という観点で語られている。敢えて表現するならば、 神、天使、アダムの三代は、地上に神の愛を実現するための象徴的三代と捉え たほうがいいのかもしれない。そのように考えてみると、アブラハムは地上の 復帰された天使長の位置つまり、地上の神の位置、イサクは天使長の位置、エ サウは、天使長の長子(カイン)の位置、ヤコブは天使長の次子(アベル)の位置と いうことになる。 そもそも愛の完成は対象を通して完成するものであり、そ の公式を復帰原理に当てはめれば、二番目(次子)を中心として長子を復帰すると いう原理で展開していくようになる。つまり、アブラハム家庭においてのイサ ク献祭は、神を中心として二番目の位置を立てる最も重要な分岐点であったと 思われる。イサク献祭が勝利できなければヤコブの勝利はなかったとも言うこ とができる。そのような視点に立って聖書史を見たとき、復帰基台摂理におい ては二番目のノアの位置、モーセ路程におけるヨシュアの位置、イスラエル王 国時代のダビデの位置、そしてメシヤとして来られた第二アダムとしてのイエ ス様の位置が三代王権を復帰するためには摂理歴史的に重要な分岐点であった ように思われる。 文先生のイサク献祭に対するみ言葉を見てみよう。 「イサクも、お父さんのアブラハムが祭物を捧げる時、反抗しなかったためにア ブラハムの祝福を受けることができたのです。十二歳にもなれば、自分がお父 さんの祭物として刃物で刺し殺されようとしている立場がよく分かるはずです。 しかしその時、「なぜですか?お父さん」と言ってはならないのです。何の話か 分かりますか?皆さんにも、そういう難しいことがあるというのです。その時、 そうせずしては生き残る道がないのです。」 (77p~78p 摂理から見たアベルの正道 1979 年 12 月 30 日 ベルベディア) 牧会者の道 75P 「祭司長は何ですか? (祭物です)。祭物は何かといえば、犠牲を伴うものです。犠 牲にならなければなりません。ですから、何を与えることができますか? 血を売って 食べて生活するのだというのです。何のことか分かりますか? 祭物は、所有権がな いのです。祭物に所有権がありますか? 「私は、なにがしの息子です。私は、なにが し家の主人の伜です」と言いますか? 祭物は共同所有です。所有権のない者なの です。所有観念がありません。ひたすらに、主人がしようというままに従っていかなけ ればなりません。自分という所有観念がないのです。 247 その次に、存在意識をもってはいけません。「私がこのように生きるのは、気分が 悪いのに……」と言いながら、自分を主張したり、存在意識をもったりすれば、天の反 逆者になるのです。私は生きているが、死んだのと同じだと思わなければならないの です。イサクが、み旨を成したのは、所有観念がなかったからです。「私は、あなたの 息子ではないですか」と思ったなら、「父親が殺す道理がどこにありますか」と、反抗し たでしょう。そうしていたなら、み旨を成すことができないのです。しかし、イサクが立 派だったのは、黙して語らなかったことです。不平を一言も言わず、ただひたすらに死 んでいったのです。ここで神様が彼を捕らえてくださったのです。 」 文先生は、イサク献祭の勝利の理由を所有観念がなかったからであると語ら れている。み言葉選集 55 巻の「今後我々が何をなすべきか」の中で文先生はア ベルの説明をするときに、アベルは天使長の位置であると言われている。その アベルの使命の中にアベルは自分が神のために捧げてきた苦労や、すべてのも のをアダムに引き渡す使命を持っていると語られている。すなわち所有権を持 つべき位置ではないと説明されている。つまり、イサク自らが献祭の祭物にな ったということは、イサクは一度死んだ立場において復活したような立場に立 つということだ。それは、まさしく十字架にかけられた後に復活したイエス様 のような立場になる。イサクの立場は次の世代に代をつなぐ中間的位置の立場 であるといえる。そしてここで注目したい内容がイサクの年齢である。文先生 は十二歳という年齢で語られている。聖書においてもまた原理講論においても、 イサクが献祭の祭物として捧げられた当時の年齢は、表示されていない。文先 生は何を根拠に十二歳という年齢を表示されたのであろうか?ここだけではな く、文先生が聖書の中心人物たちを説明するとき、聖書に記載されている年齢 とは違う年齢を表示されることが多々ある。これは文先生が、聖書の記述を間 違って覚えているのであろうか?それとも何か特別な意味があるのであろう か?文先生に批判的な人は、文先生の年齢のせいにすることが度々ある。しか しこれほど聖書で起きた出来事を 90 歳を超える年齢になられるまでみ言葉で語 られている文先生がそのような間違いを犯すとは考えにくい。そのように考え ると、文先生は、聖書の中心人物に例えながら、御自身をアブラハムの位置に 立て、イサクのような位置に当たる人物を統一教会という祭壇の中に実体とし て立て、イサク献祭のような内容をこのみ言葉が語られた 1970 年代から 1980 年代に至る中で私たちにわからない特別な摂理を進められていたと考えること ができるのではないだろうか?そして、その内容は、何らかの原理的事情で私 たちに直接伝えることができないために、このように聖書の人物に例えて語ら れている可能性を感じるのである。 248 イサク献祭の勝利によってアブラハムとイサクは、個体は別々でも神の前に 完全に一体の立場になった。この勝利の意味は、神と天使長が祭壇を中心とし て完全に一つになったことを意味する。ここで原理講論の中では、あまり説明 されてこなかった女性復帰の概念を提示したいと思う。それはイサクの妻リベ カの話だ。文先生は、女性の使命を説明するときに、特に三人の女性を中心に 説明される。それは、リベカ、タマル、マリヤである。今まで、この説明を食 口は何度も文先生のみ言葉を通して学んできたが、原理講論で教育されてきた カイン・アベルの復帰の公式路程と、文先生の抱かれているアダム家庭(三代王 権)の概念とが異なっていたために、アダム家庭復帰に女性が、どのような役割 を果たし、またそれが復帰の公式上どのような原理的意味をもっているかを十 分に認識し理解することができなかった。ここではまず、リベカに関して文先 生がどのように語られているかをみ言葉を通して見ていきたいと思う。 「堕落の過程において、神と娘は離れてしまいました。言い換えれば、娘は神 を裏切った立場にあるのです。復帰においては逆の経路をいかなければなりま せんので、神と娘は一つになる道をいくわけです。すべての女性は神と一つに ならなければなりません。堕落の過程ではサタンと女性が一体化しました。そ してアダムを奪い、万物を奪い去りました。復帰では神が女性と一体化し、ア ダムと万物を取り返すのです。それがヤコブの母リベカの位置と役割だったの です。神と女性リベカと息子のヤコブの三人が一体化して、堕落の関係(それ はリベカにとってサタンの位置にあった、自分の夫であるイサクと長男のエサ ウ)を断ち切ったわけです。」 (祝福 25 号 259p~264p 天勝日のみことば 1979 年 10 月 4 日) 「イサク時代にリベカを中心として見れば、世の中の誰も信じられないことを させるのです。自分の夫をだまし、長子権を弟に奪ってあげるという母が世の 中のどこにいるでしょうか?摂理のみ旨が間違ったので、正すためには間違っ たものを正さなければなりません。このように来たのが反対にこのように上が らなければなりません。そのように上がろうとするので、反対的なことをせざ るを得ないのです エバが神様の長子アダムをだましました。それに、お父さ ん(神様)をだましたのです。そうして、長子権を失い、次子によって摂理し ていこうとするので、歴史的な恨みの峠があり、千年万年、未来に向かって嘆 息の峠が待っているという事実を、神様は知っているのです。リベカはその内 容を知りませんでしたが、指示に従って行動をするのに躊躇しませんでした。 同様です。」 249 (ファミリー94/12 15p~16p 絶対信仰と絶対愛 1994 年 10 月 9 日 中央修練院) 「それではエバはどのような立場に立っているのでしょうか。夫を否定した立 場に立ったのであります。女性達は注意しなければなりません。だから戻って いくにはアダムが先に戻っていくわけにはいかないのであります。堕落する時 のエバの立場を蕩減復帰するには、サタン世界における父や夫の立場に反対す る女でなければ、戻ってくることはできないのであります。」 (祝福 18 号 120p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) 「ヤコブの母が夫やエサウに対して許すことのできないことをしたのでありま す。リベカの立場は何の立場だったのでしょうか。エバの身代わりをしたので あります。堕落した世界のエバの立場を代理したのであります。そうせずして は蕩減復帰されないからであります。神側に戻るために、サタン側を代表した 父の立場に立たされたのがイサクであり、息子の立場に立たされたのがエサウ であります。それはなぜかといえば、父子の関係は縦的であるからであります。 神を中心としてみる時神とアダムの関係も縦的であります。そのような関係に おいてエバが父なる神を裏切り、息子を裏切ったように、サタン世界において も、父を裏切り息子を裏切ることによって復帰していくということは、原則に あてはまるのであります。」 (祝福 18 号 120p~121p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) 「リベカと別れてヤコブは、ハランの地に来て二十一日間働くのであります。 一方イサクとリベカが生活しているのでありますが、リベカは何をすべきかと いえば、イサクとエサウのヤコブに対する反感や嫉妬の感情を、リベカがすべ てとりもって復帰しなければならないのであります。 (祝福 18 号 123p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) 男性訪韓修練会 346P 「それで、神様はヤコブの家庭を中心として着手してきました。ヤコブの家庭 を中心として、アブラハム、イサク、ヤコブを、三代で一人と見るのです。最 後に は三番目を中心として、アダム、イエス様、再臨の主の完成と同じように、 250 アブラハム、イサク、ヤコブなのです。アブラハムは、祭物失敗のために四〇 〇年間 後孫が異国の地で奴隷になるという預言を受けたのですが、実体祭物と して、イサクを殺して祭物にする場でサタンを分別して、その代わりに雄羊を 祭物として 生き残ったのです。 次に、イサクの家庭を中心とした問題になるのです。そこでは、分割運動を しなければなりません。それをするのがイサクの奥さん、リベカという女です。 分 かりますか? (はい)。生死を判決する中心の家庭は、二番目のイサク家 庭です。それは、ノアに当たるし、イエス様に当たるのです。二番目はいつも 中心点 であり、神とサタンが争奪戦をしているのです。それで、いつでも二番 目が問題なのです。 それで、イサクの家庭のリベカがエバの立場に選ばれたのです。エバは何を したのかというと、結果として、サタンのほうが長子権を持つようになったの です。ですから、その反対のことをしないといけないのです。エバが長男をだ まし、神様をだまして長子権を奪ったのですから、弟を通して長子権を取り戻 さない といけないのです。長子権を奪われたのですから、エバは弟が長男にな るように反対のことをしないといけないのです。 そういう観点を知って、イサクの家庭のリベカとそっくり一致しない場合に は、蕩減復帰はできません。蕩減復帰の着手は、イサク家庭のリベカを中心と し 始まったのです。リベカを中心として、長男のエサウをだますのです。お父 さんのイサクをだますのです。それから、長男エサウの祝福を次男が奪ってし まうの です。そんなことをしたのです。 お母さんは、長男をだまし夫をだますのです。しかし、もしそのことが分か れば一家から追い出されるのであり、とどまる所がなくなるのです。父子が一 体になれば、ぺちゃんこになるのです。それで何をしたのかというと、兄さん をだまし夫をだまして、弟のために祝福を奪ってしまったのです。そういう悪 辣な者は いないのです。リベカとヤコブ以上に悪い者はいないというのですが、 なぜそれが正義になったのかというと、蕩減復帰の内容をなすという観点から 見た時に、 そうしなければ神様の立つ場がなくなるからです。神様の蕩減復帰 の条件として、そのようにせざるを得なかったということは、正当な立場とし て受け入れなければならないのです。そうしなければ、長子の蕩減復帰がなせ ないのです。神様に帰る道がないのです。 そのようにして、ヤコブは故郷から逃げ出していって二十一年間も、レアと ラケルの間でそういう問題を解決しなければならない運命になっているのです。 そうしなければ大元で、この問題に引っかかるのです。これが失敗したので、 ヤコブ家庭で、レア・ラケルの問題となり、その失敗が世界のカイン・アベル の問題 につながるのです。 251 それで、一番の起点である中心を担うお母さんの問題、エバの問題を解決し なければなりません。その解決の方策として、リベカは蕩減の方法として、ヤ コブを中心として一家が反対する中で、長子権を復帰するようなことをしたの です。そしてヤコブはハランから故郷に帰る途中のヤボク川の側で、天使に会 って相撲を取り、ここで天使長にアダムが負けたことを転覆して勝利しなけれ ばならないのです。ヤコブが霊的な天使を屈伏させないと、天使長の体の長男 エサウを屈伏 することができないのです。 天使に負けて長子権を取られてしまったのですから、天使に勝利しないと、 いったん長男に譲った長子権を次男のヤコブは持つことができないのです。そ れで 公式のとおりに、ヤコブは天使と夜通し相撲を取ったのです。それで朝に なると、天使は帰らないといけないので「離してくれ」と言っても、 「そんなこ とはで きない」と、ヤコブは離してあげないのです。腰の骨を折られても、か たわにされても離さないのです。死んでも離さないのです。それを見た天使が 「どうすれ ば離してくれるか」と言った時、 「祝福してくれなければならない」 とヤコブが言うのです。それで天使が「君は私に勝った。イスラエルは勝利し た」と言っ て、ヤコブを祝福したのです。聖書には「神と戦って勝った」とあ るのですが、それも一理あることなのです。 このように、天使長に負けたアダムの勝利圏を蕩減復帰しなければならない ので、天使との戦いに勝利して祝福されることによって、エサウの祝福が転覆 されてもヤコブは殺されないのです。皆さんも、そういう勝利の旗を持って帰 るのです。分かりましたか? (はい)。 そういう勝利の基盤の上で、ヤコブをエサウは歓迎するのです。もしも勝利 できなかったらば、霊界が援助しないので大変なことになるのです。それで、 霊肉で天使長の実体なる兄のエサウを屈伏して、弟が長子の権限を持って兄さ んの立場に立ったことになるので、神様の血統が初めて地上に着陸することに なり、血統を正した家庭がつながるのです。」 上記のみ言葉を読んで理解できるように、リベカは復帰原理の公式によって 誰も理解できない使命をになっていたということを理解出来ると思う。リベカ とはアブラハムの家庭においてどのような立場でイサクの妻として迎えられた かを聖書史の史実を通して見てみよう。 旧約聖書 24 章 「アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵ま れた。 さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言 った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。 わたしはあなたに天地 252 の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびと のうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。 あなたはわたしの国 へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければな らない」。 しもべは彼に言った、 「もしその女がわたしについてこの地に来るこ とを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでし ょうか」。 アブラハムは彼に言った、 「わたしの子は決して向こうへ連れ帰って はならない。 天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに 語り、わたしに誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み 使をあなたの前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻 をめとらねばならない。 けれどもその女があなたについて来ることを好まない なら、あなたはこの誓いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰っては ならない」。 そこでしもべは手を主人アブラハムのももの下に入れ、この事に ついて彼に誓った。 しもべは主人のらくだのうちから十頭のらくだを取って出 かけた。すなわち主人のさまざまの良い物を携え、立ってアラム・ナハライム にむかい、ナホルの町へ行った。 彼はらくだを町の外の、水の井戸のそばに伏 させた。時は夕暮で、女たちが水をくみに出る時刻であった。 彼は言った、 「主 人アブラハムの神、主よ、どうか、きょう、わたしにしあわせを授け、主人ア ブラハムに恵みを施してください。 わたしは泉のそばに立っています。町の 人々の娘たちが水をくみに出てきたとき、 娘に向かって『お願いです、あなた の水がめを傾けてわたしに飲ませてください』と言い、娘が答えて、 『お飲みく ださい。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、その者こそ、あ なたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください。わたし はこれによって、あなたがわたしの主人に恵みを施されることを知りましょう」。 彼がまだ言い終らないうちに、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエ ルの娘リベカが、水がめを肩に載せて出てきた。 その娘は非常に美しく、男を 知らぬ処女であった。彼女が泉に降りて、水がめを満たし、上がってきた時、 し もべは走り寄って、彼女に会って言った、 「お願いです。あなたの水がめの水を 少し飲ませてください」。 すると彼女は「わが主よ、お飲みください」と言っ て、急いで水がめを自分の手に取りおろして彼に飲ませた。 飲ませ終って、彼 女は言った、 「あなたのらくだもみな飲み終るまで、わたしは水をくみましょう」 。 彼女は急いでかめの水を水ぶねにあけ、再び水をくみに井戸に走って行って、 すべてのらくだのために水をくんだ。 その間その人は主が彼の旅の祝福される か、どうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。 らくだが飲み終ったとき、 その人は重さ半シケルの金の鼻輪一つと、重さ十シケルの金の腕輪二つを取っ て、 言った、「あなたはだれの娘か、わたしに話してください。あなたの父の 家にわたしどもの泊まる場所がありましょうか」。 彼女は彼に言った、 「わたし 253 はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です」 。 また彼に言った、 「わたしどもに は、わらも、飼葉もたくさんあります。また泊まる場所もあります」。 その人 は頭を下げ、主を拝して、 言った、 「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。 主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は 旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。 娘は走って行って、母の家の ものにこれらの事を告げた。 リベカにひとりの兄があって、名をラバンといっ た。ラバンは泉のそばにいるその人の所へ走って行った。 彼は鼻輪と妹の手に ある腕輪とを見、また妹リベカが「その人はわたしにこう言った」というのを 聞いて、その人の所へ行ってみると、その人は泉のほとりで、らくだのそばに 立っていた。 そこでその人に言った、「主に祝福された人よ、おはいりくださ い。なぜ外に立っておられますか。わたしは家を準備し、らくだのためにも場 所を準備しておきました」。 その人は家にはいった。ラバンはらくだの荷を解 いて、わらと飼葉をらくだに与え、また水を与えてその人の足と、その従者た ちの足を洗わせた。 そして彼の前に食物を供えたが、彼は言った、「わたしは 用向きを話すまでは食べません」。ラバンは言った、「お話しください」。 そこ で彼は言った、「わたしはアブラハムのしもべです。 主はわたしの主人を大い に祝福して、大いなる者とされました。主はまた彼に羊、牛、銀、金、男女の 奴隷、らくだ、ろばを与えられました。 主人の妻サラは年老いてから、主人に 男の子を産みました。主人はその所有を皆これに与えました。 ところで主人は わたしに誓わせて言いました、 『わたしの住んでいる地のカナンびとの娘を、わ たしの子の妻にめとってはならない。 おまえはわたしの父の家、親族の所へ行 って、わたしの子に妻をめとらなければならない』。 わたしは主人に言いまし た、 『もしその女がわたしについてこない時はどういたしましょうか』。 主人は わたしに言いました、 『わたしの仕えている主は、み使をおまえと一緒につかわ して、おまえの旅にさいわいを与えられるであろう。おまえはわたしの親族、 わたしの父の家からわたしの子に妻をめとらなければならない。 そのとき、お まえはわたしにした誓いから解かれるであろう。またおまえがわたしの親族に 行く時、彼らがおまえにその娘を与えないなら、おまえはわたしにした誓いか ら解かれるであろう』。 わたしはきょう、泉のところにきて言いました、 『主人 アブラハムの神、主よ、どうか今わたしのゆく道にさいわいを与えてください。 わたしはこの泉のそばに立っていますが、水をくみに出てくる娘に向かって、 「お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と言い、 「お飲 みください。あなたのらくだのためにも、くみましょう」とわたしに言うなら、 その娘こそ、主がわたしの主人の子のために定められた女ということにしてく ださい』。 わたしが心のうちでそう言い終らないうちに、リベカが水がめを肩 に載せて出てきて、水をくみに泉に降りたので、わたしは『お願いです、飲ま 254 せてください』と言いますと、 彼女は急いで水がめを肩からおろし、『お飲み ください。わたしはあなたのらくだにも飲ませましょう』と言いました。それ でわたしは飲みましたが、彼女はらくだにも飲ませました。 わたしは彼女に尋 ねて、『あなたはだれの娘ですか』と言いますと、『ナホルとその妻ミルカの子 ベトエルの娘です』と答えました。そこでわたしは彼女の鼻に鼻輪をつけ、手 に腕輪をつけました。 そしてわたしは頭をさげて主を拝し、主人アブラハムの 神、主をほめたたえました。主は主人の兄弟の娘を子にめとらせようと、わた しを正しい道に導かれたからです。 あなたがたが、もしわたしの主人にいつく しみと、まことを尽そうと思われるなら、そうとわたしにお話しください。そ うでなければ、そうでないとお話しください。それによってわたしは右か左に 決めましょう」。 ラバンとベトエルは答えて言った、 「この事は主から出たこと ですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。 リベカが ここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の 妻にしてください」。 アブラハムのしもべは彼らの言葉を聞いて、地に伏し、 主を拝した。 そしてしもべは銀の飾りと、金の飾り、および衣服を取り出して リベカに与え、その兄と母とにも価の高い品々を与えた。 彼と従者たちは飲み 食いして宿ったが、あくる朝彼らが起きた時、しもべは言った、 「わたしを主人 のもとに帰らせてください」。 リベカの兄と母とは言った、 「娘は数日、少なく とも十日、わたしどもと共にいて、それから行かせましょう」。 しもべは彼ら に言った、 「主はわたしの道にさいわいを与えられましたから、わたしを引きと めずに、主人のもとに帰らせてください」。 彼らは言った、 「娘を呼んで聞いて みましょう」。 彼らはリベカを呼んで言った、 「あなたはこの人と一緒に行きま すか」。彼女は言った、「行きます」。 :そこで彼らは妹リベカと、そのうばと、 アブラハムのしもべと、その従者とを送り去らせた。 彼らはリベカを祝福して 彼女に言った、 「妹よ、あなたは、よろずの人の母となれ。あなたの子孫はその 敵の門を打ち取れ」。 リベカは立って侍女たちと共にらくだに乗り、その人に 従って行った。しもべはリベカを連れて立ち去った。 さてイサクはベエル・ラ ハイ・ロイからきて、ネゲブの地に住んでいた。 イサクは夕暮、野に出て歩い ていたが、目をあげて、らくだの来るのを見た。 リベカは目をあげてイサクを 見、らくだからおりて、 しもべに言った、「わたしたちに向かって、野を歩い て来るあの人はだれでしょう」。しもべは言った、「あれはわたしの主人です」。 するとリベカは、被衣で身をおおった。 しもべは自分がしたことのすべてをイ サクに話した。 イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、 彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た。」 聖書は、文先生が語られているように、暗示や比喩で書かれている。このイ 255 サクとリベカの出会いは、後の聖書史においても、私たちが知らなければなら ない復帰の公式に関係することが多く含まれている。実際に文先生は、聖書の 引用をされるとき、アブラハムの時代とイエス様の時代の引用がかなり多い。 なので聖書史は、アブラハムの家庭とイエス様の家庭に重きをおいて、説明し ていきたいと思う。アブラハムの家庭では、聖書の内容の掲示が多くなること を理解していただきたい。ここでの聖書史に関わる比喩の捉え方は、あくまで も個人的意見であるので、参考程度に捉えていただきたい。旧約聖書は、信仰 の祖であるアブラハムの血筋を中心として書かれている。つまりアブラハムの 子孫達の歴史なのである。イエス様も、聖書史上は、アブラハムの孫のヤコブ の四男ユダの子孫として生まれてきている。もちろん、文先生のみ言葉を通し て学んでいるように、統一教会員の間では、イエス様は祭司長ザカリヤの子供 である。しかし、ザカリヤの子供であったとしても、ザカリヤはヤコブの三男 レビの子孫である。ゆえにアブラハムの子孫であるには変わりない。聖書のみ 言葉を見た時に、アブラハムがイサクの妻を選ぶときに、どのような指示を僕 に出しているかというと、 「あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとの うちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。 あなたはわたしの国へ 行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければなら ない」。というふうにあえて親族から選ばなければならないというふうに限定的 な条件をつけている。しかもこの僕に与えられた使命は、神に誓わせて行われ たのだ。旧約時代における、神との間に交わさせれる誓いは大変なことである。 何故ならば、生命をかけなければならないからだ。ここにおいて、何故アブラ ハムの僕のことまでこだわって書くのかと疑問に思われている方がいるかも知 れない。聖書の中で書かれている内容は暗示や比喩である。このアブラハムと 従者、さらにはアブラハムの弟であるナホル、そしてその妻、さらにラバンと リベカの父ベトエルに至るまで復帰の公式路程において何らかの意味をもって いる可能性があるからである。少なくとも文先生のみ言葉の中では、ラバンと ラバンの妻、さらにその娘たちであるレアとラケルに至っては度々引用して語 られている。そのような中でここに登場するアブラハムとイサクと、その従者 と、ナホルの子孫であるラバンやリベカに至るまで、復帰路程の公式の中にお いて意味あるものとして捉えたほうがよいと思われる。個人的な見解ではある が、アブラハムとイサクそしてこの僕の関係こそが、文先生と二代目を継ぐご 子女様、そして私たち信徒との関係を象徴しているように思う。文先生は、み 言葉の中で暗行密使という言葉をよく話される。すなわち、一般的な歴史の観 点においては、主人の命令を受けて、密かに動く立場である。言うなれば隠密 である。聖書史においては、モーセの 12 人の偵察、あるいは、カナンを目の前 にしてヨシュアによって送られた二人の斥候、新約聖書の中では、東方の三博 256 士などの立場がその立場に当たると思われる。すなわち主命を受けてメシヤの ための新婦を探しに行くような立場に立たされた人たちを象徴しているように 思われる。そしてこの僕とアブラハムとの間で次のような会話がなされている。 「しもべは彼に言った、 「もしその女がわたしについてこの地に来ることを好ま ない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか」。 アブラハムは彼に言った、 「わたしの子は決して向こうへ連れ帰ってはならない。 天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに語り、わたし に誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み使をあなたの 前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらねば ならない。 けれどもその女があなたについて来ることを好まないなら、あなた はこの誓いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰ってはならない」 。 この会話は何を指しているのであろうか? イサクの妻は、自分の意思によ って決断しなければならないということを意味しているように思われる。実際 にリベカの家族は、10 日の後に行ってはどうかという内容をリベカに促すが、 リベカは自分の意思でアブラハムの僕と共にイサクのもとに向かっている。そ して自分の母と兄から祝福を受けて旅立っている。 彼らはリベカを祝福して彼女に言った、 「妹よ、あなたは、よろずの人の母と なれ。あなたの子孫はその敵の門を打ち取れ」。 リベカは後に、ヤコブの長子権復帰に重大な役割を果たすことになる。文先 生は、リベカに対して次のようにみ言葉を語られている。 「リベカは夫をだまし、息子のエサウをだましてヤコブを神側に立てたのであ りますが、これが将来において神側の男性を育てることになるのであります。 ここにおいてはじめてカインとアベルの歴史が完全に始まるのであります。ア ダム時代のカイン、アベル型の長子と次子の区別がなくなりはじめるのであり ます。なぜかといえば堕落したのを蕩減したからであります。蕩減してからイ スラエルという選民圏が始まるのであります。祝福を奪ってこられたのであり ます。 (祝福 18 号 123p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) リベカは、復帰歴史上、初めて立てられるサタン屈服の典型路程を勝利した ヤコブの母として重大な役割を果たすことになる。そのリベカが結婚するまで の内容が上記の聖書の内容である。神の選んだ血筋を引き継ぐ人物(メシヤ)の新 257 婦を迎えるためには、主人の密使の立場に立つ僕が、新婦の母と兄に対して主 人の意向を生命をかけて伝え、主人の息子のために新婦を連れてこなければな らないという意味を含んでいるように思われる。 「天のために行く人々は、サタン世界に派遣された密使です。個々人において、 大小、広狭、高低の差はあるかもしれませんが、各自が置かれている生活自体 においては、密使の生活から離れてはなりません。そこには、いつも生死の危 険が伴っています。まかり間違えば、永遠の生命の問題が左右される立場に立 つようになるのです。 それゆえに、永遠の生命を支えることができ、永遠の 生命を保護してくれるわたしたちの祖国を取り戻すという観念が、その環境よ り何百倍も強くなければ密使の生活はできません。 “祖国の栄光を願う心を持っ て祖国の恨を解いた時、すべての万民が喜ぶ”ということを考えながら、新し い歴史を創建し、祖国主権復帰の一日を迎える、その時に、自らの功労が現れ ることを思いながら、現在の立場を無視してしまうことができなければなりま せん。そのような心が先立たなければ、密使の使命を遂行することはできない のです。別の言い方をすれば、祖国主権復帰のための希望が現実の希望より千 倍万倍強くなってこそ、今の生命をささげる恨があったとしても、それを克服 して密使の使命を遂行することができるのです。」 (ファミリー00/4 18p~19p 神様の王子・王女が行くべき生涯路程 2000 年 3 月 12 日 ソウルオリンピック主競技場) ここでアブラハムが語られている言葉も重要な意味を含んでいるように思わ れる。それは次の部分である。 「けれどもその女があなたについて来ることを好まないなら、あなたはこの誓 いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰ってはならない」。 このことは何を意味するのであろうか?文先生はみ言葉の中でエバは再創造 できるが、アダムはできない。何故ならアダムは中心であり、種であるからで あるというみ言葉がある。このみ言葉とここでアブラハムが話している内容が 同じ意味を持っているように思われる。そして聖書の内で中心人物が妻と出会 う時に井戸で出会うことが多い。ヤコブもモーセも井戸で妻と出会っている。 イスラエルの井戸は、十二角形でできていて、そこにヤコブの十二子息の紋章 が書かれているものがあるという。そのことを考えたときに、井戸は十二弟子 を象徴するように思われる。イエス様も聖書の内で、井戸の前で次のようなみ 言葉を語られている。 258 ヨハネによる福音書 第四章 「イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられ るということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、(しかし、 イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちで あった) ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 しかし、イエスはサマ リヤを通過しなければならなかった。 そこで、イエスはサマリヤのスカルとい う町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近く にあったが、 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、その まま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。 ひ とりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、 「水を飲ませて 下さい」と言われた。 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。 す ると、サマリヤの女はイエスに言った、 「あなたはユダヤ人でありながら、どう してサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、 ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。 イエスは答えて言わ れた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言 った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人 から生ける水をもらったことであろう」。 女はイエスに言った、 「主よ、あなた は、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、 どこから手に入れるのですか。 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父 ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家 畜も、この井戸から飲んだのですが」 。 イエスは女に答えて言われた、 「この水 を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む 者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人 のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 このイエス様とサマリヤの女の会話を読んだとき、少なくとも食口はこの水 が水そのものを表していないことを理解出来ると思う。この喩えは、おそらく イエスと新婦と十二弟子を指して、それらが一つになるところに永遠の生命が 与えられるという意味と思われる。 次にリベカの母子協助について考えて見よう。原理講論では、母子協助はエ バがアベルをカインに殺されることを防ぐことができなかったために、蕩減復 帰する意味として行われなければならない内容として捉えられている。すでに 三代王権と四大心情圏において説明したように、母子協助の理念は、創造原理 に存在するのである。この母の愛を通じて兄弟姉妹の愛を体恤するという概念 が復帰原理に適用されてカイン・アベルという関係の中で現れてくるようにな 259 る。それでは、聖書の内容を見てみよう。 創世記 25 章 「アブラハムの子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムの子はイサク であって、 イサクは四十歳の時、パダンアラムのアラムびとベトエルの娘で、 アラムびとラバンの妹リベカを妻にめとった。 イサクは妻が子を産まなかった ので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごも った。 ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんな ことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。 主は彼女 に言われた、 「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別 れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」。 彼女の 出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。 さきに出たのは赤くて全身毛 ごろものようであった。それで名をエサウと名づけた。 その後に弟が出た。そ の手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカ が彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。 さてその子らは成長し、エサウ は巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住 んでいた。 イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカ はヤコブを愛した。 ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲 れて野から帰ってきた。 エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お 願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」 。彼が名をエドム と呼ばれたのはこのためである。 ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権 をわたしに売りなさい」。 エサウは言った、 「わたしは死にそうだ。長子の特権 などわたしに何になろう」。 ヤコブはまた言った、 「まずわたしに誓いなさい」。 彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあ つものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このように してエサウは長子の特権を軽んじた。」 創世記 26 章 「エサウは四十歳の時、ヘテびとベエリの娘ユデテとヘテびとエロンの娘バス マテとを妻にめとった。 彼女たちはイサクとリベカにとって心の痛みとなっ た。」 創世記 27 章 「イサクは年老い、目がかすんで見えなくなった時、長子エサウを呼んで言 260 った、「子よ」。彼は答えて言った、「ここにおります」。 イサクは言った。「わ たしは年老いて、いつ死ぬかも知れない。 それであなたの武器、弓矢をもって 野に出かけ、わたしのために、しかの肉をとってきて、 わたしの好きなおいし い食べ物を作り、持ってきて食べさせよ。わたしは死ぬ前にあなたを祝福しよ う」。 イサクがその子エサウに語るのをリベカは聞いていた。やがてエサウが、 しかの肉を獲ようと野に出かけたとき、 リベカはその子ヤコブに言った、「わ たしは聞いていましたが、父は兄エサウに、 『わたしのために、しかの肉をと ってきて、おいしい食べ物を作り、わたしに食べさせよ。わたしは死ぬ前に、 主の前であなたを祝福しよう』と言いました。 それで、子よ、わたしの言葉に したがい、わたしの言うとおりにしなさい。 群れの所へ行って、そこからやぎ の子の良いのを二頭わたしの所に取ってきなさい。わたしはそれで父のために、 父の好きなおいしい食べ物を作りましょう。 あなたはそれを持って行って父に 食べさせなさい。父は死ぬ前にあなたを祝福するでしょう」。 ヤコブは母リベ カに言った、「兄エサウは毛深い人ですが、わたしはなめらかです。 おそらく 父はわたしにさわってみるでしょう。そうすればわたしは父を欺く者と思われ、 祝福を受けず、かえってのろいを受けるでしょう」。 母は彼に言った、「子よ、 あなたがうけるのろいはわたしが受けます。ただ、わたしの言葉に従い、行っ て取ってきなさい」。 そこで彼は行ってやぎの子を取り、母の所に持ってきた ので、母は父の好きなおいしい食べ物を作った。 リベカは家にあった長子エサ ウの晴着を取って、弟ヤコブに着せ、 また子やぎの皮を手と首のなめらかな所 とにつけさせ、 彼女が作ったおいしい食べ物とパンとをその子ヤコブの手にわ たした。 そこでヤコブは父の所へ行って言った、「父よ」。すると父は言った、 「わたしはここにいる。子よ、あなたはだれか」 。 ヤコブは父に言った、 「長子 エサウです。あなたがわたしに言われたとおりにいたしました。どうぞ起きて、 すわってわたしのしかの肉を食べ、あなたみずからわたしを祝福してください」 。 イサクはその子に言った、 「子よ、どうしてあなたはこんなに早く手に入れたの か」。彼は言った、 「あなたの神、主がわたしにしあわせを授けられたからです」 。 イサクはヤコブに言った、 「子よ、近寄りなさい。わたしは、さわってみて、あ なたが確かにわが子エサウであるかどうかをみよう」。 ヤコブが、父イサクに 近寄ったので、イサクは彼にさわってみて言った、 「声はヤコブの声だが、手は エサウの手だ」。 ヤコブの手が兄エサウの手のように毛深かったため、イサク はヤコブを見わけることができなかったので、彼を祝福した。 イサクは言った、 「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」。 イサクは 言った、 「わたしの所へ持ってきなさい。わが子のしかの肉を食べて、わたしみ ずから、あなたを祝福しよう」。ヤコブがそれを彼の所に持ってきたので、彼は 食べた。またぶどう酒を持ってきたので、彼は飲んだ。 そして父イサクは彼に 261 言った、 「子よ、さあ、近寄ってわたしに口づけしなさい」。 彼が近寄って口づ けした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った、 「ああ、わ が子のかおりは、主が祝福された野のかおりのようだ。 どうか神が、天の露と、 地の肥えたところと、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜わるよう に。 もろもろの民はあなたに仕え、もろもろの国はあなたに身をかがめる。あ なたは兄弟たちの主となり、あなたの母の子らは、あなたに身をかがめるであ ろう。あなたをのろう者はのろわれ、あなたを祝福する者は祝福される」。 イ サクがヤコブを祝福し終って、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐ、兄 エサウが狩から帰ってきた。 彼もまたおいしい食べ物を作って、父の所に持っ てきて、言った、 「父よ、起きてあなたの子のしかの肉を食べ、あなたみずから、 わたしを祝福してください」。 父イサクは彼に言った、「あなたは、だれか」。 彼は言った、 「わたしはあなたの子、長子エサウです」 。 イサクは激しくふるえ て言った、 「それでは、あのしかの肉を取って、わたしに持ってきた者はだれか。 わたしはあなたが来る前に、みんな食べて彼を祝福した。ゆえに彼が祝福を得 るであろう」。 エサウは父の言葉を聞いた時、大声をあげ、激しく叫んで、父 に言った、 「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」 。 イサクは言った、 「あなたの弟が偽ってやってきて、あなたの祝福を奪ってしまった」。 エサウ は言った、 「よくもヤコブと名づけたものだ。彼は二度までもわたしをおしのけ た。さきには、わたしの長子の特権を奪い、こんどはわたしの祝福を奪った」。 また言った、 「あなたはわたしのために祝福を残しておかれませんでしたか」 。: イサクは答えてエサウに言った、 「わたしは彼をあなたの主人とし、兄弟たちを 皆しもべとして彼に与え、また穀物とぶどう酒を彼に授けた。わが子よ、今と なっては、あなたのために何ができようか」 。 エサウは父に言った、 「父よ、あ なたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してくだ さい」。エサウは声をあげて泣いた。 父イサクは答えて彼に言った、 「あなたの すみかは地の肥えた所から離れ、また上なる天の露から離れるであろう。 あな たはつるぎをもって世を渡り、あなたの弟に仕えるであろう。しかし、あなた が勇み立つ時、首から、そのくびきを振り落すであろう」。 こうしてエサウは 父がヤコブに与えた祝福のゆえにヤコブを憎んだ。エサウは心の内で言った、 「父の喪の日も遠くはないであろう。その時、弟ヤコブを殺そう」。 しかしリ ベカは長子エサウのこの言葉を人づてに聞いたので、人をやり、弟ヤコブを呼 んで言った、 「兄エサウはあなたを殺そうと考えて、みずから慰めています。 子 よ、今わたしの言葉に従って、すぐハランにいるわたしの兄ラバンのもとにの がれ、 あなたの兄の怒りが解けるまで、しばらく彼の所にいなさい。 兄の憤 りが解けて、あなたのした事を兄が忘れるようになったならば、わたしは人を やって、あなたをそこから迎えましょう。どうして、わたしは一日のうちにあ 262 なたがたふたりを失ってよいでしょうか」。 リベカはイサクに言った、 「わたし はヘテびとの娘どものことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブ がこの地の、あの娘どものようなヘテびとの娘を妻にめとるなら、わたしは生 きていて、何になりましょう」 。 上記の聖句は、原理講論でも取り上げられてきたヤコブがリベカの協助を得 てエサウから祝福を奪う場面の内容である。この後ヤコブはリベカの知恵を借 りて、ハランへと旅立つことになる。ここにおいてリベカがとった行動が原理 的にどのような意味を持つかを文先生のみ言葉を通して見てみよう。 「ヤコブの母が夫やエサウに対して許すことのできないことをしたのでありま す。リベカの立場は何の立場だったのでしょうか。エバの身代わりをしたので あります。堕落した世界のエバの立場を代理したのであります。そうせずして は蕩減復帰されないからであります。 神側に戻るために、サタン側を代表し た父の立場に立たされたのがイサクであり、息子の立場に立たされたのがエサ ウであります。それはなぜかといえば、父子の関係は縦的であるからでありま す。神を中心としてみる時神とアダムの関係も縦的であります。 そのような 関係においてエバが父なる神を裏切り、息子を裏切ったように、サタン世界に おいても、父を裏切り息子を裏切ることによって復帰していくということは、 原則にあてはまるのであります。 (祝福 18 号 120p~121p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) 「イサク時代にリベカを中心として見れば、世の中の誰も信じられないことを させるのです。自分の夫をだまし、長子権を弟に奪ってあげるという母が世の 中のどこにいるでしょうか?摂理のみ旨が間違ったので、正すためには間違っ たものを正さなければなりません。このように来たのが反対にこのように上が らなければなりません。そのように上がろうとするので、反対的なことをせざ るを得ないのです。 エバが神様の長子アダムをだましました。それに、お父 さん(神様)をだましたのです。そうして、長子権を失い、次子によって摂理 していこうとするので、歴史的な恨みの峠があり、千年万年、未来に向かって 嘆息の峠が待っているという事実を、神様は知っているのです。リベカはその 内容を知りませんでしたが、指示に従って行動をするのに躊躇しませんでした。 同様です。」 (ファミリー94/12 263 15p~16p 絶対信仰と絶対愛 1994 年 10 月 9 日 中央修練院) 文先生のみ言葉を見てわかるように、リベカの位置はエバの蕩減復帰をしな ければならない立場だ。本来エバは、神の娘として生まれ、神の妻となり、人 類の母とならなければならなかった。それゆえに堕落によって本来女性が完成 すべき三代の心情を女性は復帰しなければならないのである。 「女性も、娘時代に神様の愛を受け、新婦の時にも、母の時にも愛を受けなけれ ばなりません。そうしてこそ、神様の愛の基準を中心とした代表的な父母の位 置に立つことができるのです。自分が神の愛を中心として息子・娘の愛を体験し、 新郎新婦の愛を体験し、父母の愛を体験すると、神様の三大愛を横的主体であ る父母の位置で受け継ぎ、横的に世界に向かって発展することができるのです。」 (祝福 78 号 102p 我が家庭の行く道 後編 1971 年 8 月 28 日 清平修練所) 「女性は三時代に、あらん限りの精誠を尽くさなければなりません。この話は 何かと言えば、おばあさんから、お母さん、自分までの三代が一つになって、 本然の夫を殺した罪を謝罪しなければならないということです。そうして、女 性の解放が成されるのです。」 (ファミリー98/3 22p 「真のご父母様ご聖誕祝賀と成約の御言伝授式」 における御言 1998 年 2 月 2 日 中央修練院) ここで語られている内容をリベカに当てはめてみたとき、リベカは神の娘と しての愛を受け、イサクの妻として新婦の愛を受け、ヤコブを通して母の愛を 受け、またヤコブの子女を通して祖母の愛を受けるようになる。そしてリベカ が神の母の位置を復帰するために果たさなければならない使命は長子権復帰の ための母子協助である。これは原理講論でも書かれているように、次子アベル を通して長子エソウを自然屈服させなければならない。エバは堕落によって神 (父)とアダム(兄)を騙して堕落した。それを蕩減復帰するためにイサク(父)とエ サウ(兄)を騙して祝福を奪うようになる。リベカの母子協助によってエサウから 祝福を奪ったヤコブはエサウに殺されそうになり、ハランの地に行き 21 年間苦 労し、妻と子女と万物を復帰してヤボク川で天使と相撲をとり、屈服させイス ラエルという称号を得るようになる。そしてエソウに対して七回地にひれ伏し てエソウを自然屈服させ歴史上初めてサタン屈服の典型路程を勝利するように なる。これが今まで原理講論で学んできた内容だ。統一教会員の信仰生活の基 本的概念はアベル・カインによる教育であった。すなわち信仰基台は万物復帰、 264 実体基台は伝道というように指導してきた。ここまで文先生のみ言葉を学んで いくなかで、提示してきたように原理講論には縦横の愛を完成するという概念 がなかったためにアダム家庭の捉え方が、文先生が伝えようとする概念と微妙 に食い違っていたのである。ゆえにヤコブ路程の捉え方も中心人物であるヤコ ブがエサウを屈伏させることで信仰基台と実体基台が勝利されたと思っていた。 アブラハム・イサク・ヤコブという三代かけてアダム家庭復帰を勝利したとい う概念がなかったのである。そして、エバ復帰という概念が原理講論になかっ たがために、女性たちが信仰生活において果たす役割も述べられることがなか った。男性も女性もカイン・アベルで教育してしまったのだ。文先生は、アブ ラハム家庭を通して女性復帰の概念を何度も語られている。このアブラハム家 庭においては、女性復帰の原理をリベカ、レア、ラケル、タマルを通して説明 していきたいと思う。リベカは、母としてエサウとヤコブを和解させた勝利者 だ。しかし、文先生はリベカにはさらに重要な使命があったことをみ言葉の中 で私たちに教えておられる。 「蕩減というものを知らずに、今まで来たのです。ヤコブ家庭でも、レアとラ ケルが引っ繰り返しました。全部、長子権の母親の立場であるべきラケルが、 レアに奪われました。本妻にラケルがなるべきなのに、レアがなったのです。 ですから、ヤコブ家庭において二人の母親の血統を受け継いでいくようになり ます。サタン世界をそのままにしてはいけません。一人の母親の子女を中心と して、そこにレアとレアの息子十人が、ラケルの二人の息子、ヨセフとベニヤ ミンの後ろについていくようになります。それは、ヨセフとリベカの責任です。 また、レアの立場がヤコブの母親と一つにならなければなりません。二人の母 親が一つになり、どこに行かなければならないのかといえば、自分の家族を連 れて、ヤコブの所に来て、本妻が妾の立場に立たなければなりません。これが 天命であり、私たちが必ず行くべき運命の道です。ラケルを本妻の立場に立て、 その息子であるヨセフはアベル型の兄であり、ベニヤミンは弟です。しかし、 十人の兄達は母親をはじめとして、ヨセフと一つにならなければならないので す。そうして、ヤコブ家庭で収拾できなかったものを、マリヤの時代に家庭的 基準に立って、氏族が出発することのできる家庭的基準で、母親と子供たちを 収拾すべき責任がヤコブにあったのです。」 (ファミリー97/3 11p 第 14 回「愛勝日」の御言 1997 年 1 月 2 日 サンパウロ) 「リベカとヤコブが天の側になれば、エサウとイサクはサタンの側になるので す。ヤコブとリベカは方向が違うのです。父親とは反対なのです。180 度違うと 265 いうのです。ですからイサクが、どれほどヤコブと妻を憎んだことでしょうか? エサウがどれほど母親とヤコブを憎んだことでしょうか?それで二十一年間も ハランの地に行ってラケルを得ようと七年の間苦労しましたが、父のラバンは サタン側であるレアを与えたのです。ヤコブがアダムの使命を完遂するために は、レアを愛して、ラケルを愛するようになっていたのです。 神様の立場もそうなのです。世界全体の摂理を見た時、神尼を中心として、 堕落した女性と復帰された女性がいるのです。神様がそうであるのと同様に、 再臨主もそのおうな二人の女性をどのように消化するかということが問題なの です。堕落した女性エバ圏をどのように復帰するか、本然のエバ圏をどのよう に復帰するかということが問題なのです。ですから、レアが妹のラケルの愛を 奪ったのです。これは、サタン側の代表のラバンを中心として、救援摂理にお いてサタンがレアとラケルまでいく道を防ぐためです。サタンはどうしても二 人を戦わせようとしたのです。 このような二人の女性の愛の戦いが、ヤコブ家庭の問題なのです。それはエ デンの園におけるカインとアベルの出発がそうであるので、神様の立場とラケ ル的な目的に従っていく本然の世界でカインが生まれて、自分を中心とした愛 を占有するために生じた出来事と同じ形態が生じるのです。愛を中心としてサ タンがまず主導権を握ろうとするのです。神様の理想を破壊させようとするの です。これが、2000 年後にヤコブ家庭に生じた出来事なのです。蕩減復帰にお ける、蕩減は目には目、歯には歯のような形態で現われるのです。それゆえ、 ここにラバンがいて、その妻がいて、二人の娘がいるのです。サタン側に勝利 するためには、母親はそこでレアとラケルを一つにしなければならないのです。 これが今まで分からなかったのです。リベカがヤコブを立てて、イサクを屈伏 させるために、どれほど内的に苦痛を受けたことかしれません。」 (ファミリー93/7 13p 成約時代と私 1993 年 2 月 14 日 ベルベディア) 上記のみ言葉に書かれているように、文先生はリベカの使命をエサウとヤコ ブの一体化という観点だけではなく、ヤコブの新婦を決める立場としての使命 を語っておられる。それでは、ヤコブがハラン到着した後、どのようにレアと ラケルを妻として迎えたかを聖書を通して読んでみよう。 266 創世記 29 章~30 章 「ヤコブはその旅を続けて東の民の地へ行った。 見ると野に一つの井戸があっ て、そのかたわらに羊の三つの群れが伏していた。人々はその井戸から群れに 水を飲ませるのであったが、井戸の口には大きな石があった。 群れが皆そこに 集まると、人々は井戸の口から石をころがして羊に水を飲ませ、その石をまた 井戸の口の元のところに返しておくのである。 ヤコブは人々に言った、「兄弟 たちよ、あなたがたはどこからこられたのですか」。彼らは言った、「わたした ちはハランからです」。 ヤコブは彼らに言った、 「あなたがたはナホルの子ラバ ンを知っていますか」。彼らは言った、「知っています」。 ヤコブはまた彼らに 言った、 「彼は無事ですか」 。彼らは言った、 「無事です。御覧なさい。彼の娘ラ ケルはいま羊と一緒にここへきます」。 ヤコブは言った、 「日はまだ高いし、家 畜を集める時でもない。あなたがたは羊に水を飲ませてから、また行って飼い なさい」。 彼らは言った、 「わたしたちはそれはできないのです。群れがみな集 まった上で、井戸の口から石をころがし、それから羊に水を飲ませるのです」。 ヤコブがなお彼らと語っている時に、ラケルは父の羊と一緒にきた。彼女は羊 を飼っていたからである。 ヤコブは母の兄ラバンの娘ラケルと母の兄ラバンの 羊とを見た。そしてヤコブは進み寄って井戸の口から石をころがし、母の兄ラ バンの羊に水を飲ませた。 ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。 :12) ヤコブはラケルに、自分がラケルの父のおいであり、リベカの子であることを 告げたので、彼女は走って行って父に話した。 ラバンは妹の子ヤコブがきたと いう知らせを聞くとすぐ、走って行ってヤコブを迎え、これを抱いて口づけし、 家に連れてきた。そこでヤコブはすべての事をラバンに話した。 ラバンは彼に 言った、「あなたはほんとうにわたしの骨肉です」。ヤコブは一か月の間彼と共 にいた。 時にラバンはヤコブに言った、「あなたはわたしのおいだからといっ て、ただでわたしのために働くこともないでしょう。どんな報酬を望みますか、 わたしに言ってください」。 さてラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレ アといい、妹の名はラケルといった。 レアは目が弱かったが、ラケルは美しく て愛らしかった。 ヤコブはラケルを愛したので、「わたしは、あなたの妹娘ラ ケルのために七年あなたに仕えましょう」と言った。 ラバンは言った、「彼女 を他人にやるよりもあなたにやる方がよい。わたしと一緒にいなさい」。 こう して、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数 日のように思われた。 ヤコブはラバンに言った、「期日が満ちたから、わたし の妻を与えて、妻の所にはいらせてください」。 そこでラバンはその所の人々 をみな集めて、ふるまいを設けた。 夕暮となったとき、娘レアをヤコブのもと に連れてきたので、ヤコブは彼女の所にはいった。 ラバンはまた自分のつかえ 267 めジルパを娘レアにつかえめとして与えた。 朝になって、見ると、それはレア であったので、ヤコブはラバンに言った、 「あなたはどうしてこんな事をわたし にされたのですか。わたしはラケルのために働いたのではありませんか。どう してあなたはわたしを欺いたのですか」。 ラバンは言った、 「妹を姉より先にと つがせる事はわれわれの国ではしません。 まずこの娘のために一週間を過ごし なさい。そうすればあの娘もあなたにあげよう。あなたは、そのため更に七年 わたしに仕えなければならない」。 ヤコブはそのとおりにして、その一週間が 終ったので、ラバンは娘ラケルをも妻として彼に与えた。 ラバンはまた自分の つかえめビルハを娘ラケルにつかえめとして与えた。 ヤコブはまたラケルの所 にはいった。彼はレアよりもラケルを愛して、更に七年ラバンに仕えた。 主は レアがきらわれるのを見て、その胎を開かれたが、ラケルは、みごもらなかっ た。 レアは、みごもって子を産み、名をルベンと名づけて、言った、「主がわ たしの悩みを顧みられたから、今は夫もわたしを愛するだろう」 。 彼女はまた、 みごもって子を産み、 「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこ の子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。 彼女はまた、みごも って子を産み、 「わたしは彼に三人の子を産んだから、こんどこそは夫もわたし に親しむだろう」と言って、名をレビと名づけた。 彼女はまた、みごもって子 を産み、 「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。そこ で彼女の、子を産むことはやんだ。ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを 知った時、姉をねたんでヤコブに言った、 「わたしに子どもをください。さもな いと、わたしは死にます」。 ヤコブはラケルに向かい怒って言った、 「あなたの 胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。 ラケルは言った、 「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさ い。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた 彼女によって子を持つでしょう」。 ラケルはつかえめビルハを彼に与えて、妻 とさせたので、ヤコブは彼女の所にはいった。 ビルハは、みごもってヤコブに 子を産んだ。 そこでラケルは、 「神はわたしの訴えに答え、またわたしの声を 聞いて、わたしに子を賜わった」と言って、名をダンと名づけた。 ラケルのつ かえめビルハはまた、みごもって第二の子をヤコブに産んだ。 そこでラケルは、 「わたしは激しい争いで、姉と争って勝った」と言って、名をナフタリと名づ けた。 さてレアは自分が子を産むことのやんだのを見たとき、つかえめジルパ を取り、妻としてヤコブに与えた。 レアのつかえめジルパはヤコブに子を産ん だ。 そこでレアは、 「幸運がきた」と言って、名をガドと名づけた。 レアのつ かえめジルパは第二の子をヤコブに産んだ。 そこでレアは、「わたしは、しあ わせです。娘たちはわたしをしあわせな者と言うでしょう」と言って、名をア セルと名づけた。 さてルベンは麦刈りの日に野に出て、野で恋なすびを見つけ、 268 それを母レアのもとに持ってきた。ラケルはレアに言った、 「あなたの子の恋な すびをどうぞわたしにください」。 レアはラケルに言った、 「あなたがわたしの 夫を取ったのは小さな事でしょうか。その上、あなたはまたわたしの子の恋な すびをも取ろうとするのですか」。ラケルは言った、「それではあなたの子の恋 なすびに換えて、今夜彼をあなたと共に寝させましょう」。 夕方になって、ヤ コブが野から帰ってきたので、レアは彼を出迎えて言った、 「わたしの子の恋な すびをもって、わたしがあなたを雇ったのですから、あなたはわたしの所に、 はいらなければなりません」。ヤコブはその夜レアと共に寝た。 神はレアの願 いを聞かれたので、彼女はみごもって五番目の子をヤコブに産んだ。 そこでレ アは、 「わたしがつかえめを夫に与えたから、神がわたしにその価を賜わったの です」と言って、名をイッサカルと名づけた。 レアはまた、みごもって六番目 の子をヤコブに産んだ。 そこでレアは、 「神はわたしに良い賜物をたまわった。 わたしは六人の子を夫に産んだから、今こそ彼はわたしと一緒に住むでしょう」 と言って、その名をゼブルンと名づけた。 その後、彼女はひとりの娘を産んで、 名をデナと名づけた。 次に神はラケルを心にとめられ、彼女の願いを聞き、そ の胎を開かれたので、 彼女は、みごもって男の子を産み、「神はわたしの恥を すすいでくださった」と言って、 名をヨセフと名づけ、「主がわたしに、なお ひとりの子を加えられるように」と言った。 ラケルがヨセフを産んだ時、ヤコ ブはラバンに言った、 「わたしを去らせて、わたしの故郷、わたしの国へ行かせ てください。 あなたに仕えて得たわたしの妻子を、わたしに与えて行かせてく ださい。わたしがあなたのために働いた骨折りは、あなたがごぞんじです」。 ラ バンは彼に言った、 「もし、あなたの心にかなうなら、とどまってください。わ たしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました」。 また言っ た、 「あなたの報酬を申し出てください。わたしはそれを払います」 。 ヤコブは 彼に言った、 「わたしがどのようにあなたに仕えたか、またどのようにあなたの 家畜を飼ったかは、あなたがごぞんじです。 わたしが来る前には、あなたの持 っておられたものはわずかでしたが、ふえて多くなりました。主はわたしの行 く所どこでも、あなたを恵まれました。しかし、いつになったらわたしも自分 の家を成すようになるでしょうか」。 彼は言った、 「何をあなたにあげようか」。 ヤコブは言った、 「なにもわたしにくださるに及びません。もしあなたが、わた しのためにこの一つの事をしてくださるなら、わたしは今一度あなたの群れを 飼い、守りましょう。 わたしはきょう、あなたの群れをみな回ってみて、その 中からすべてぶちとまだらの羊、およびすべて黒い小羊と、やぎの中のまだら のものと、ぶちのものとを移しますが、これをわたしの報酬としましょう。 あ とで、あなたがきて、あなたの前でわたしの報酬をしらべる時、わたしの正し い事が証明されるでしょう。もしも、やぎの中にぶちのないもの、まだらでな 269 いものがあったり、小羊の中に黒くないものがあれば、それはみなわたしが盗 んだものとなるでしょう」。 ラバンは言った、 「よろしい。あなたの言われると おりにしましょう」。 そこでラバンはその日、雄やぎのしまのあるもの、まだ らのもの、すべて雌やぎのぶちのもの、まだらのもの、すべて白みをおびてい るもの、またすべて小羊の中の黒いものを移して子らの手にわたし、 ヤコブと の間に三日路の隔たりを設けた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼った。 ヤコ ブは、はこやなぎと、あめんどうと、すずかけの木のなまの枝を取り、皮をは いでそれに白い筋をつくり、枝の白い所を表わし、 皮をはいだ枝を、群れがき て水を飲む鉢、すなわち水ぶねの中に、群れに向かわせて置いた。群れは水を 飲みにきた時に、はらんだ。 すなわち群れは枝の前で、はらんで、しまのある もの、ぶちのもの、まだらのものを産んだ。 ヤコブはその小羊を別においた。 彼はまた群れの顔をラバンの群れのしまのあるものと、すべて黒いものとに向 かわせた。そして自分の群れを別にまとめておいて、ラバンの群れには、入れ なかった。 また群れの強いものが発情した時には、ヤコブは水ぶねの中に、そ の群れの目の前に、かの枝を置いて、枝の間で、はらませた。 けれども群れの 弱いものの時には、それを置かなかった。こうして弱いものはラバンのものと なり、強いものはヤコブのものとなったので、 この人は大いに富み、多くの群 れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。」 この聖句の場面は、原理講義では、ヤコブがハランの地において 12 人の子女 と万物を復帰していく場面である。ヤコブの知恵によって動物の持つ習性を利 用して富を蓄えていく場面だ。しかし原理講論では、レア・ラケルの話を原理 的意義をもって説明することはなかった。何故ならカイン・アベル復帰概念し かなかったからだ。文先生が、このレア・ラケルの内容を詳細に語られたのが、 1992 年以降、済州島から始まり水沢里に至るまでの訪韓女性修練会である。こ こにおいて文先生は、日本女性を何度も集められて、今まで誰にも話してこら れなかった内容を話したと言われたのである。この訪韓女性修練会において、 レア・ラケルがどのように勝利されなければならなかったかを具体的に語られ ている。 訪韓女性修練会 113P~118P 「蕩減復帰の峠を越えましょう」 蕩減原則によって、エバといえば韓国語では、「イゴッパ」「これ見なさい」。「イゴッパ」 「早くしろ。エバ」となるのです。「これ見なさい。悪くなった」と言うのです。エバは堕落 のために何をしたかというと、アダムをだましたのです。それから親です。神様は親で す。父子をだましたのです。こういうふうにして、堕落したのだから、こういうふうに落ち ていったのだから、それを反対にして上がってこなければなりません。同じものをひっ 270 くり返して上がってこなければなりません。分かりましたか? 堕落した正妻の道では、 復帰の女、真のお母様が生まれることができないのです。 転覆して反対に上がるのだから、正妻一 人では、二人のことができません。二人が 必要です。そして、こういうふうになったの です。(先生が黒板に図―3を書かれる)こ ういうふうに降りていく者が、こういうふうに して行くには、これは正妻ではできません。 正妻は、それ本妻というのです。本妻とし ては上がることができないのです。これが 妾です。妾、妾です。 妾の系統を中心と して上がっていくのです。 だからサタンは、ヤコブの時に、ヤコブは 図-3 神の選民として帰る代表の家庭です。そ のヤコブの家庭によって、堕落したすべて を清算していかなければならないのです。神の血統を考えて見た時、堕落したために 生まれたサタンの血統をみな殺してしまうことはできません。殺してしまった場合には、 女がなくなるのだから、メシヤという真の父母が生まれる基地がなくなるのです。分か りますか? 残さないわけにはいかないのです。それで女をたくさん持たないといけ ないのです。それで、妾として、妾の女を連れて神のほうへ戻っていかなければなり ません。そうなるというと、妾は本妻の、正妻の怨讐です。地獄にみな同じく入ります。 抱き合って転んで、そこに行こうというのです。大変なことです。これをなだめて一つ 271 にならなければならないという、復帰された家庭にはそういう内縁があることを知って いるのだから、神様はそれを収拾するために、「怨讐を愛せよ」ということを発布せざ るを得ませんでした。分かりました? (はい)。 聖書の「怨讐を愛せよ」という話は何かというと、一家においては、兄弟です。レア・ ラケルと同じように、姉妹の関係が共に一つの愛の後孫を取り合って戦うようになっ ているのです。それを一つにしないというと、天国に入れないのです。それで神様は 未来の世界を望みながら、こういうような愛の怨讐圏が一家にかかっており、それを 収拾しないといけないことを知っている神様は、遠い未来世界に向けて「怨讐を愛せ よ」ということを発布、発表せざるを得なかったということです。分かりましたか? (は い)。どんなに難しいことであっても、これを収拾せざるを得ないのが女たちの十字架 271 です。堕落した女が蕩減復帰の道を逆さまに行く、この運命を避けることはできませ ん。こういうような内容です。 ヤコブ家庭の摂理 それで、ヤコブ一代において、ラケルを中心として、ラケルを七年間、ヤコブが精誠 を尽くして相対として求めたにもかかわらず、結婚の初夜に、それはラケルではなく、 レアをヤコブの所に入れさせたのです。それで起きてみれば、大変なことです。「神様 が、なぜそれを許したのか」と。こういう復帰の中心の家庭に、なぜこういうような悪辣 な問題が起こるようにさせて、神様は保護されなかったかということが問題なのです。 その時、ラバンはサタンの側に立って言うのです。「神様。神様の家庭を復帰してい くには、正妻では復帰できないことをあなたは知っています。それでも正妻で復帰する のだったら、サタンと共に人の家でもって交代に愛する立場に立ちますか?」と。絶対 できないのです。怨讐の立場です。怨讐の立場でもって、憎む怨讐の立場から手を着 けるようになっているのです。分かりますか? それは愛の一家という、独特の一人 の旦那さんを中心として二人の女の怨讐圏、愛の相対関係の怨讐以外にありません。 だから正妻と妾の関係です。分かりましたか? (はい)。 それで、ラケルが妾ではなくて、本妻になって、ヤコブと一つになっていたらそれで いいのに、堕落の系統から復帰されるには、正妻ではできないのです。分かります か? 正妻の怨讐の女からです。それは分かりますね? (はい)。だから妾です。妾 は正妻をさておいて、二番目のもっと過去より高い愛でもってつなぐのです。そこに、 復帰伝統に一致する内容があるのです。 それで終末の時には、妾の子供たちが世界を指導していくのです。出世する者がた くさんいるのです。大概、自分たち女は言わないのだけれど、そういうような関係の因 縁で、はらんで身ごもった子供たちがたくさん世界的な指導者になっているというので す。お母さんにはみな隠してしまっても、自分の旦那さんが横で三角関係を結んでは らんで生まれた者が、天下を治めるということがたくさん起きているのです。分かりま すか? 末の時期は、妾の子供が世界を指導して、こういうふうに切り返していくのです。(先 生が黒板に図―4を書かれる)だから、なぜ離婚が末の時期に許されるようになった かというと、妾が離婚することによって、正妻の立場に立つようになるのです。分かり 272 ますか? これが離婚したとするならば、このヤコブとラケルが一つになるのです。ま た離婚することによって反対するようになれば、この離婚した本妻が元の旦那さんを 探していくのに、何の差し支えもないのです。 再臨のメシヤが来た場合には、正妻も離婚す ることによって、妾も離婚することによって、本当 の再臨の主の所に行くことができるのです。そ れはサタンに、「行くな!」とぶたれてもです。だ から、末の時期において、離婚をなぜ神様が許 したのかというと、神のほうに自由自在に、完成 の旦那さんを訪ねて、神に帰る道を開いてやる ために離婚という問題を、常識みたいな環境に 図-4 してきたということを知らなければなりません。分 かりましたか? (はい)。君たちもそうでしょう。 旦那さんをだましてここに来たのだけれど、すぐ に帰れば離婚もできます。離婚は難しくないので す。それは誰が決めるかというと、男が決めるの ではなく、女が決めなければなりません。優先権 は女にあるのです。女はアダムの実体の女王様 です。男は天使長です。金とか全権は、子供と 共に女が持っています。 だから追い出した場合には、「君が子供と出ていけ」とは言わないのです。「私が出 ていく」と言うのです。(笑い)分かりましたか? 心配しなくてもいい、そういう時代が 来たのはなぜかというと、再臨のメシヤは泥棒みたいに来るというのです。サタンの 世界から横的に見た場合、何の関係かというと、縦的には関係があるけれども、横的 に見た場合には外の橋の向こうの陰で、内緒の奥間に住んでいる奥さんに、「来い、 来い」と誘うことです。それは天使長がエバを「来い、来い」と誘ったと同じように、誘っ ているのです。そして目が合った場合には、惚れて大変です。死んでも離れることが できないので、「垣根を飛び越え、家を飛び出していく」と言って、部落の騒動問題を 統一教会が起こしてきたのです。だから、「家庭崩壊! 文先生は家庭破壊の大将 だ! 悪者だ!」と、自分の力ではできないので警察に頼むようになったのです。先生 が動機になったのではなく、女がみな動機になっているのです。 だから、ラバンが言うには、「復帰路程は、正妻でもってはできないことを知っている 273 のではないですか?」。そうであれば、ラケルは本妻になれません。妾にならなけれ ばならないのです。それで、レアを許さざるを得なかったのです。分かりますか? レ アは完全にサタンのほうです。自分の僕の三人の女を通して、十人の子供を生んだ のです。ラケルは二人の子供を生んだのです。十二人です。これはレアの作戦で、ヤ コブ家庭を自分のほうに完全にとりこにしたのです。ヤコブ自体もそれが分からなか ったのです。こういうように内的に絡み合って、それで峠を越えて、明らかな道を開拓 していくことを知らなかったのです。こういうふうにして、ヤコブ家庭はこうなっているの だから、こういう二つになって、これが一つになるのです。正妻は妾と一つにならない といけないのです。 一つにならなかったのはなぜかというと、ラバンの 妻、レアの母の補助が必要であり、ヤコブのお母さん、 図-5 それと姑と婿の補助が必要だったのです。この二人の 母が一つとなったとするならば、それでラバンに対し て、「何だ! この悪辣な者! 二人の女を売ってし まう! そんなことはない!」と言うべきです。それ から、レアを呼んで「この者! 妹の愛を盗んだ泥 棒!」と言うのです。ラケルを中心に心情的な痛みを 残してはいけないのです。「君は妾だ!」そういうふ うに言うべきです。分かりますか? 本当にそうなる べきです。「君が妾である」と。夫婦が共に公文を出 して、舅と嫁がレアに対して、「この者!」と、一人 が主張した場合には、本妻は妾の立場で一つにならな ければ駄目です。レアの子供たちとは、カイン・アベ ルです。これを屈伏させて家族を統一するのです。二 代の女が一つにならなければならないのです。分かり ますか?(はい)。 第一代のアダムの奥さんを殺したのは女だから、第一代のアダムの代わりの お母さんが、自分の娘を一つにして、方向転換してやらなければならないので す。それを知らなかったのです。これが問題になったのです。一つにならなか ったから、これがだんだんと民族的になって、北朝十支派を中心にして、南朝 の二支派に分かれて争ったのです。(先生が図―5を書かれる)家庭で統一で きなければ、民族的に戦うのです。」 274 ここで文先生は重要な定義をされている。それは女性が復帰されるには正妻 と妾という二人が必要であると言われているのである。本来創造原理は、天使 長家庭を通じてアダム家庭を完成させるという内容だ。この観点は、原理講論 でも十分理解できる。実際にアダムが現れる前に天使長ルーシェルは存在し、 アダムに対する愛の減少感から来る過分な欲望が動機となり堕落が起きている。 原理講論ではアダムが創造されるまで、神の愛を独占していた天使長ルーシェ ルであったが、天使長に対する神の愛は変わらないのに、神の子女であるアダ ムに対する愛が天使に対するものより大きかったために、アダムに対する神の 愛をも独占しようとして天使長がエバを奪い、アダムを堕落させたという説明 になっている。ゆえにアダムより天使が先に創造されているということは、原 理講論で説明されている堕落の経路から考慮しても異論はないと思う。問題は、 エバがどのように創造され、成長し、またどのような原理をもってアダムの妹 から妻となるかは聖書にも原理講論にも全く書かれてない。文先生は、この訪 韓修練会において三代王権と四代心情圏を説明しながら、エバが子女の愛、兄 弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛、祖父母の愛に至るまでの成長を説明してく ださった。この内容は、前章においてすでに説明してきた。そして同じ訪韓修 練会において、文先生は、イサク家庭、ラバン家庭、そしてヤコブと二人の妻 との関係を通してメシヤの新婦がどのような原理で選ばれるかを示してくださ っている。エバは本来神の娘、妻、母という立場にたつべきであったというの が文先生の説明される女性の原理的位置だ。先に説明したようにリベカは神の 娘、妻、母の位置を復帰しなければならない。そして本来、創造原理は、天使 長家庭を通してアダムとエバが成長し、アダムが天使長家庭の中で子女の愛、 兄弟姉妹の愛を体恤し、夫婦の愛をエバとの初愛を通して完成し、その完成し たアダムとエバの愛を受け、天使が人間として完成していくというのが神の公 式であった。そのために再創造の公式は、天使長家庭がエバを通してアダムに 帰っていく内容になるの。このときの内容を文先生の概念に合わせて考えると するならば、ヤコブとリベカだけに焦点を当てて考えるよりも、アブラハム(一 代)、イサク(二代)、ヤコブ(三代)そしてヤコブの子女ヨセフ(四代)まで含めて 考えてみるべきだ。すなわちリベカは、初代と三代をつなげる役目をなし、ま た四代に至るまでの責任を負っている。つまり、ヤコブ氏族の母の役割を担う リベカの精神は、アブラハム家庭の血統と伝統を残すための、家訓となり、イ スラエル民族が、メシヤを迎えるための家訓となるのである。アブラハムを信 仰の祖と表現するならば、リベカはイスラエル民族の信仰の母と表現されるべ き女性と思われる。そして母であるリベカの最大の使命は、三代目であるヤコ ブの新婦を選び教育しなければならない役目なのである。実際に聖書に書かれ ているようにヤコブをハランに送った理由は、エサウの手を逃れるためである 275 が、その他の理由には、ヘテ人から妻を娶りたくないということが書いてある。 実際にエサウはヘテ人から妻を娶りイサクとリベカは心を痛めたという話が残 っている。ヤコブはカナンに到着したとき、ラケルを一目見た時から自分の妻 に迎えようと思っている。そして叔父ラバンにラケルを妻として迎えたいなら 7 年間自分の下で働くように命令される。その最初の 7 年間は聖書には全く記述 されていない。ただラケルを愛していたのであっという間に過ぎたと書いてあ るだけだ。しかし、実際に妻として迎えたのは姉であるレアであった。この理 由は、聖書にはハランの地の風習で姉より先に妹を嫁がせる訳にはいかないと ラバンが言い訳をしている。その原理的内容を文先生は、「復帰路程は、正妻 でもってはできないことを知っているのではないですか?。そうであれば、ラ ケルは本妻になれません。妾にならなければならないのです。それで、レアを 許さざるを得なかったのです。」と説明されている。このように考えるとラケ ルより先にレアが妻になるのは必然的でどうしようもないようことのように思 える。本来復帰は妾を通してなされると文先生は語られている。復帰の中心は ラケルである。ゆえにラケルを中心として心情に痛みを残しては復帰がなされ ないのである。そのラケルの痛みが残らない内容を文先生は説明されている。 「一つにならなかったのはなぜかというと、ラバンの妻、レアの母の補助が必 要であり、ヤコブのお母さん、それと姑と婿の補助が必要だったのです。この 二人の母が一つとなったとするならば、それでラバンに対して、「何だ! こ の悪辣な者! 二人の女を売ってしまう! そんなことはない!」と言うべき です。それから、レアを呼んで「この者! 妹の愛を盗んだ泥棒!」と言うの です。ラケルを中心に心情的な痛みを残してはいけないのです。「君は妾だ!」 そういうふうに言うべきです。分かりますか? 本当にそうなるべきです。「君 が妾である」と。夫婦が共に公文を出して、舅と嫁がレアに対して、 「この者!」 と、一人が主張した場合には、本妻は妾の立場で一つにならなければ駄目です。 レアの子供たちとは、カイン・アベルです。これを屈伏させて家族を統一する のです。二代の女が一つにならなければならないのです。分かりますか?(は い)。」 すなわち、リベカとラバンの妻が一つとなってラケルに協助しなければなら ないのである。 その後レアは次々とヤコブの子を産んでいく。しかしラケルは自分に子供が 生まれないことをヤコブに詰め寄る場面がある。ここには、天使長(男性)の復 帰の概念にはない、女性復帰の概念が伺える。女性の恩讐関係が一つになるに は子供を通して成されていくという内容である。つまりヤコブの子孫を通して 成される。レアの十人の子女とラケルの子女が争う原因がここに始まる。 276 「レアとラケルを中心にした愛の戦いの結果、側女まで加えて十二人の息子を 生みました。そのうち、ラケルは二人の息子を生んだのです。そして彼らは北 朝イスラエルと南朝ユダとに分かれたのです。そして、十支派と二支派が怨讐 となって争ってきたのです。それがイスラエルの歴史だったのです。レアとラ ケルは側女の子供達まで合わせて全部で十二人の子供を得ました。夫を奪われ ないために、愛の争いの中で互いにたくさんの息子娘を生んだのです。そのよ うにして家庭の争いのゆえに十二支派ができ、イスラエルが二つの国に分かれ たのです。 復帰の過程においては、このように行かなければならないのです。 レアとラケルと、堕落したエバの立場の二人の母親が後ろに立って上がってい かなければならないのです。それが復帰なのです。母親と姉が一つになってラ ケルに侍り、行くべき道を整えてあげなければならないのに妨害したのです。 それゆえ、三代が一つにならなければならないのです。縦的に見ると、三代と はエバ時代、兄時代、弟時代なのです。これを解かなければなりません。」 (ファミリー93/7 23p~24p 成約時代と私 1993 年 2 月 14 日 ベルベディア) このような観点から見たとき、リベカは母として信仰基台を復帰するための エサウとヤコブを一つにすることには勝利したが、実体基台復帰の中心的内容 である新婦を迎えることには十分な勝利をしていないと言うことができる。つ まり長子権復帰は勝利できたが、長女権復帰は勝利できなかったのである。 「この復帰摂理を見た時に、ヤコブ家庭も失敗したのです。レアとラケルが争 って、10 支派と 2 支派が生じました。なぜレアが妾たちを中心として息子を生 んだのかといえば、ヤコブの祝福家庭を全部、自分が掌握しようとしたからで す。ですからサタン側なのです。レアはラケルの夫となるべきヤコブを奪った ことを、この世的に見た時にも、申し訳ないと思わなければならないのに、そ の権を奪おうとしたのです。 二人が一つになれなかったのは、リベカに責任があり、ラバンの妻に責任が あるのです。ラバンの妻はサタン側ではなく、天側に立たなければならなかっ たのです。レアとラケルを教育しなければならなかったのです。もし、レアと ラケルが一つになっていれば、この家庭を平和に収拾できたのです。しかし、 母親、長女が責任を果たせなかったので、この家庭から分裂した戦いが始まり、 それが民族的になりイスラエルの国の戦いとして北朝 10 支派と南朝 2 支派とし て分かれて戦い、悲運の歴史が展開されてきたのです。 277 (ファミリー94/3 37p~40p 続・還国とサタン圏整備 1993 年 10 月 10 日 ソウル本部教会) それでは、ここでヤコブのハラン苦役路程を通して、アダム家庭復帰の公式 路程がどのように表されているかを見てみよう。ヤコブはハランにおいて、レ アを復帰する 7 年、ラケルを復帰する 7 年、そして 14 年間でルベンからヨセフ までの 11人の男の子女とデナという女の子女を含めて 12 人を復帰するように なる。そしてさらに万物復帰の 7 年の 21 年間苦役の道を行くようになる。この 間ヤコブは、ラバンに十回だまされながら忍耐の道を行くのである。この 21 年 路程を経て復帰される父母と子女と万物は何を意味するのであろうか?ヤコブ の 21 年路程に対して文先生がどのように説明されているかを見てみよう。 「ヤコブの最も偉大な実績は何だったでしょうか。ヤコブは神の摂理を詳細に 知っていました。彼はまず、長子権を復帰しなければならないことを知ってい ました。彼は厳密にその原理通りにしました。それがヤコブの偉大さだったの です。長子権を勝ち得た後、彼はハランに行き、二十一年間も想像を絶する苦 難の路程を歩み、天使を、次いで兄エサウを屈服させ、そして真なるアベル、 長子の立場に立つことができたのです。なぜ彼は二十一年間もハランで費やし たのでしょうか。彼は二十一年間、彼の家庭と万物(財産)を復帰するために 働いたのです。彼のおじ、ラバンは実に悪人でヤコブを欺いて三日間にすべて の財物を奪って逃げてしまいました。今日このような聖書の歴史を、誰も正し く理解していません。そういう過程を経て、彼は家庭基準へ上がりました。次 に派民族基準に上がらなければなりません。 皆さんもまず長子の位置を復帰しなければなりません。長子の家庭、長子の 国家、長子の世界とすべてのレベルにおいて長子の立場を復帰しなければなら ないのです。復帰を完成するためには逆の経路を辿らなければなりません。そ れが今、私たちもヤコブやアブラハムのように自分の家庭を出て、信じがたい ような苦難の道を通過していかなければならない理由です。 (祝福 34 号 16p~17p 2075 双約婚前のみことば 1982 年 6 月 24 日 ワールドミッションセンター) 「ヤコブは祝福を受けてから 21 年間、天の側の身代わりとなって、ありとあら ゆる苦労をしました。家を出て、21 年間苦労をしたのです。しかし、祝福を受 けたはずのヤコブは、両親にも親戚にも、「私は神から祝福された。私は勝利し たのだ」と言うことができなかったのです。エサウを屈服させる前は、そのよう 278 に言うことができないのです。それをはっきり知らなくてはなりません。 ヤコブは結婚をし、家庭をもったのですが、妻子たちにも神様の祝福を受け た話はしませんでした。祝福を公認する立場にないからです。「長子の嗣業を相 続したのですから、あなたが天の祝福を受けなくてはならない」というサインを 誰がするのかというと、カインなのです。それをカインが認定しなくてはなら ないというのです。カインがエサウが認定しなくては、ヤコブは祝福を受けら れないという話なのです。 では、ヤコブは家を出てから 21 年の間、何をしたのでしょうか?自分の枠を 築いてその中に氏族をつくったのです。カインより優秀な基盤をつくり、カイ ンを消化しようとする運動をしたのです。その努力する姿を見て、ヤコブを神 様が祝福をしてくれたのです。お金も多く、羊も多く、すべてのものが豊かに 恵まれていたのです。ヤコブは母方の叔父や両親との因縁を大切に思い、それ で、故郷はるか遠い地にあったのですが絶えず贈り物をして、家族とのつなが りを保ち続けていました。分かりますか?(はい) 。そうしているうちに、エサ ウが考えるのです。 “弟がいない、ハランに逃げたのだ。長子の嗣業を売った私 が悪かったのだ。そうだ、私が悪かったのだから、私のほうから先に弟に会い に行かなくてはならない”。そして、「もう今は反対しない」と言って歓迎してく るのです。エサウも自分の過ちに気がつくようになるというのです。 こうして 21 年後、故郷に戻る時にヤコブは最上の物を兄に捧げたのです。僕 も動物も、そして財貨もです。それらの万物を僕たちに持たせて先に贈らせま した。「このように、これらの物をすべて差し上げます」と言いながら、しかし 一つだけ、長子の嗣業だけは手離さなかったのです。それは、長子の嗣業を返 さなければ殺されることもあり得るのを知っての上です。そして、そのような ことがないように、すべてから解放される条件をつくるために、ヤコブは必死 に 21 年間を働いたのです。その条件を供えれば、サタン世界を完全に越えるこ とができるのです。それが何かといえば、財物です。何の話か分かりますか? (はい)。これが歩むべき伝統の道です。これが伝統なのです。この伝統の公式 はどの時代にも通用するのです。 先ほど説明した家庭基盤、氏族基盤、国家基盤、世界基盤にこの伝統を立て なくてはなりません。ヤコブは、イスラエルの氏族を中心にした国家編成まで の伝統を立てたのです。ここにおいて民族交代をするのです。イスラエルの氏 族が、エジプトに大移動しなければなりません。ヤコブの家庭基盤がそうなっ たためにエジプトに入るのです。エジプトという異邦の国に入って、受難の道 279 を歩むことになるのです。 氏族から民族基盤をつくり、次にエジプトに向かって移動しましたが、エジ プトの国は長子の国です。文化も長子の文化ですから、サタンの文化なのです。 イスラエル民族は次子ですから、文化も次子の文化です。 ( 14p~17p 摂理から見たアベルの正道 1979 年 12 月 30 日 ベルベディア) 文先生は、ヤコブが 21 年間で家族と万物を復帰しなければならないと語られ、 その家族と万物はカイン圏の中で造られるヤコブの氏族であると表現されてい る。ここで私たちは氏族の概念を考えてみなければならない。氏族と言えば、 私たちは、自分の出身地や自分の生まれ育った故郷に住む家族、親戚を意識し てきた。しかし原理的な氏族とは、祭司長を中心として造られていく選民圏を 表している。すなわち復帰された天使長(祭司長)であるヤコブを中心として二種 類の女性から生まれたカインの子女とアベルの子女、そして祭司長が神の前に 捧げる万物(天使長に繋がる天使達)によって構成される一つの集団を氏族と表 現されている。この内容こそが原理的に見た氏族復帰の観点である。ここでは、 聖書史を通じて説明をしているために、統一教会史については詳しく触れるこ とは避けるが、文先生が今までなされてきた祝福こそがこの氏族編成なのだ。 「我々統一教会の信者達、全教会員は同じ氏族です。その氏族の心も、皆さん に向かって行くというのです。 皆さんの姓は何ですか。何家ですか。我々は 統一家です。これからは、私が氏族を選出して、一つの家と、氏族をつくれば、 一つの後孫となるのです。今は金何某とか言うようにまだらで色々です。今は まだ入籍をしていないのです。」 (祝福 68 号 165p 根本復帰 前編 1970 年 12 月 1 日 江陵教会) 「文先生のためにこのうえもなく精誠を尽くす姿は、父母達までもが嫉妬する ほどだったでしょう。ここには他人と他人が集まって、新しい家庭を代表する ことのできる家庭形態ができあがり、他人が集まって新しい氏族を形成するに おいても、自己の氏族以上の氏族が形成されるでしょう。人種の違った民族達 が合しても、単一民族が合して国を愛する以上に、国を愛し再建することがで きなければなりません。それが統一教会が行く道です。わかりますか。」 (ファミリー81/10 創立二十七周年記念のみことば 1981 年 5 月 1 日 ソウル本部) 280 そしてハランの地でヤコブが得た氏族の勝利権は、カインであるエサウが屈 服した時に完全に勝利したことになると表現されている。このような内容を考 えたとき、ヤコブがパンとレンズ豆で奪った長子の嗣業やリベカの協助を得て イサクとエサウを騙して奪った祝福はどこまでも象徴的なものであったと言え る。ヤコブがヤボク川で天使と相撲をとって勝利してイスラエルの称号を受け 継いだ内容もエサウを屈服させるまでは完全なる勝利ではないというように捉 えることができる。ゆえにリベカは、このヤコブとエサウを一つにするために も、ヤコブがハランに行って氏族を復帰する 21 年間、カナンの地においてエサ ウを愛してヤコブに対するエサウの反感や嫉妬の心情を受け止めなければなら なかった。 「リベカと別れてヤコブは、ハランの地に来て二十一年間働くのであります。 一方イサクとリベカが生活しているのでありますが、リベカは何をすべきかと いえば、イサクとエサウのヤコブに対する反感や嫉妬の感情を、リベカがすべ てとりもって復帰しなければならないのであります。」 (祝福 18 号 123p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) ヤコブが、ハランの地で勝利して得た勝利権は、エサウを屈服させることに よって、復帰摂理上初めて復帰された天使長が現れるようになる。そしてヤコ ブの子孫を中心として第一イスラエル選民圏が形成されていく。 み言葉選集 55 巻「今後私たちが何をなすべきか」 「僕の僕時代から僕の時代に入る時代はいつでしょうか? それはヤコブから です。ヤコブの時代に初めて、イスラエル民族が現れますが、これらはサタン の息子ではなく、復帰した天使世界の息子と同じなのです。」 ヤコブは天使長と戦いました。天使長とは、サタン側の霊的な世界の代表で ある天使長をいいます。人間が堕落したということは、サタンである天使長に 負けてしまい、僕になったことをいいます。ゆえに、ヤコブが立派であるのは、 天使長とすもうをして屈伏させたということです。霊的実体に勝つことによっ て分別しました。その分別されたイサクの血族に対してサタンが侵入しないよ うに、すもうをして祝福を奪ってしまったのです。そこから、サタン、天使長 によって堕落した人類を回復させることのできる伝統が始まったのです。では イスラエルとは何かというと、天使長に勝ったアベルです。アベルの血族が定 着できる時代へ入ってきたのです。このような内容は聖書にありません。 281 (祝福 82p 16p~17p 成約時代安着と家庭完成時代 1994 年 5 月 22 日 ソウル本部教会) 神はようやくヤコブの子孫(血筋)を通して地上にメシヤを送るための善の天 使長圏を形成する出発点に立ったのである。しかし、先に語られたみ言葉を厳 密に考えてみたならば、この氏族圏はそもそもアブラハムの子孫であり、イサ クの子孫だ。ましてエサウはヤコブの実の兄である。そのエサウの公認を得て 氏族圏が形成されるのが原理である。本来なら、ヤコブとエサウはこの後共に 生活し、アブラハム、イサクの子孫として氏族圏として共同体を形成するべき であった。文先生も次のようにみ言葉を語られている。 「ヨセフを中心として、エジプトで総理大臣をしているとき、凶年になって、 穀物を求めるために、七十人がエジプトに行くのです。そのとき、エサウを連 れて行きましたか、連れて行きませんでしたか? 郭錠煥氏? (「イサクは連 れて行きませんでした。」)いやエサウです。 (「イサクですか?」 )イサクも連れ て行っていないでしょう? (「エサウは連れて行っていません。」) それが問題です。カナン七族が、エサウの身内であるということを知らなけ ればなりません。分かりますね? 一緒に連れて行かなければなりませんでし た。それは、怨讐ではありません。兄として、弟と思って連れて行かなければ ならないのです。分かりますか? (「はい。」)」 (ファミリー2003 年 11 月 30P 第十五回「八定式」におけるみ言 2003 年 8 月 31 日 イーストガーデン) 文先生が語られるみ言葉は、今まで原理講論では、説明をされてこなかった 多くの内容を含んで語られているということを改めて理解していただけると思 う。この後ヤコブの子孫は、レアとラケルの子女を中心として選民圏を形成し ていくようになる。しかしこのレア・ラケルがひとつになれなかったことが原 因でイスラエル歴史は北イスラエルと南ユダに分かれていく。 「皆さんも知っているように、ヤコブは七年間一生懸命働いた後に、レアと結 婚させられたのであります。なぜかといえばおじもサタン側でありますから、 サタン側においてもしヤコブが自分の好きな妻を娶るようになれば、サタン世 界の血統が完全にふさがれてしまうので、そこでいかにして神側の血統にサタ ン側の血統を入れさせるか、ということをサタンは思うのであります。それで 結局ラバンは、レアをラケルの代わりにヤコブと結ばせるのであります。レア と結婚してしまえば、サタンの願いどおりになってしまい大変なことになるの 282 であります。それでさらに七年間もっと苦労して働き、レアを代えてラケルを 本来の中心位置に立てるのであります。イスラエルの十二支派が、後日二支派 と十支派の南ユダと北イスラエルに分かれる遠因が、この二人の母親にあるの であります。」 (祝福 13 号 124p~127p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 22 日 ベルベディア) ここで、女性復帰の概念において、ヤコブがハランからカナンへ帰ってくる 時に、ラケルが果たした重要な役割について触れておきたい。聖句を見てみよ う。 旧約聖書 31 章 「さてヤコブはラバンの子らが、「ヤコブはわれわれの父の物をことごとく奪い、父の物 によってあのすべての富を獲たのだ」と言っているのを聞いた。 またヤコブがラバン の顔を見るのに、それは自分に対して以前のようではなかった。 主はヤコブに言わ れた、「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にい るであろう」。 そこでヤコブは人をやって、ラケルとレアとを、野にいる自分の群れの ところに招き、 彼女らに言った、「わたしがあなたがたの父の顔を見るのに、わたし に対して以前のようではない。しかし、わたしの父の神はわたしと共におられる。 あ なたがたが知っているように、わたしは力のかぎり、あなたがたの父に仕えてきた。 しかし、あなたがたの父はわたしを欺いて、十度もわたしの報酬を変えた。けれども 神は彼がわたしに害を加えることをお許しにならなかった。 もし彼が、『ぶちのものは あなたの報酬だ』と言えば、群れは皆ぶちのものを産んだ。もし彼が、『しまのあるも のはあなたの報酬だ』と言えば、群れは皆しまのあるものを産んだ。 こうして神はあ なたがたの父の家畜をとってわたしに与えられた。 また群れが発情した時、わたしが 夢に目をあげて見ると、群れの上に乗っている雄やぎは皆しまのあるもの、ぶちのも の、霜ふりのものであった。 その時、神の使が夢の中でわたしに言った、『ヤコブよ』。 わたしは答えた、『ここにおります』。 神の使は言った、『目を上げて見てごらん。群れ の上に乗っている雄やぎは皆しまのあるもの、ぶちのもの、霜ふりのものです。わたし はラバンがあなたにしたことをみな見ています。 わたしはベテルの神です。かつてあ なたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てましたが、いま立ってこの地を 出て、あなたの生れた国へ帰りなさい』」。 ラケルとレアは答えて言った、「わたしたち の父の家に、なおわたしたちの受くべき分、また嗣業がありましょうか。 :15)わたした ちは父に他人のように思われているではありませんか。彼はわたしたちを売ったばか りでなく、わたしたちのその金をさえ使い果したのです。 神がわたしたちの父から取 283 りあげられた富は、みなわたしたちとわたしたちの子どものものです。だから何事でも 神があなたにお告げになった事をしてください」。 そこでヤコブは立って、子らと妻た ちをらくだに乗せ、 またすべての家畜、すなわち彼がパダンアラムで獲た家畜と、す べての財産を携えて、カナンの地におる父イサクのもとへ赴いた。 その時ラバンは羊 の毛を切るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラピムを盗み出した。 また ヤコブはアラムびとラバンを欺き、自分の逃げ去るのを彼に告げなかった。 こうして 彼はすべての持ち物を携えて逃げ、立って川を渡り、ギレアデの山地へ向かった。 三日目になって、ヤコブの逃げ去ったことが、ラバンに聞えたので、 彼は一族を率い て、七日の間そのあとを追い、ギレアデの山地で追いついた。 しかし、神は夜の夢に アラムびとラバンに現れて言われた、「あなたは心してヤコブに、よしあしを言っては なりません」。 ラバンはついにヤコブに追いついたが、ヤコブが山に天幕を張ってい たので、ラバンも一族と共にギレアデの山に天幕を張った。 ラバンはヤコブに言った、 「あなたはなんという事をしたのですか。あなたはわたしを欺いてわたしの娘たちをい くさのとりこのように引いて行きました。 なぜあなたはわたしに告げずに、ひそかに逃 げ去ってわたしを欺いたのですか。わたしは手鼓や琴で喜び歌ってあなたを送りだそ うとしていたのに。 なぜわたしの孫や娘にわたしが口づけするのを許さなかったので すか。あなたは愚かな事をしました。 わたしはあなたがたに害を加える力をもってい るが、あなたがたの父の神が昨夜わたしに告げて、『おまえは心して、ヤコブによしあ しを言うな』と言われました。 今あなたが逃げ出したのは父の家が非常に恋しくなっ たからでしょうが、なぜあなたはわたしの神を盗んだのですか」。 ヤコブはラバンに答 えた、「たぶんあなたが娘たちをわたしから奪いとるだろうと思ってわたしは恐れたか らです。 だれの所にでもあなたの神が見つかったら、その者を生かしてはおきませ ん。何かあなたの物がわたしのところにあるか、われわれの一族の前で、調べてみて、 それをお取りください」。ラケルが神を盗んだことをヤコブは知らなかったからである。 そこでラバンはヤコブの天幕にはいり、またレアの天幕にはいり、更にふたりのはした めの天幕にはいってみたが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕 にはいった。 しかし、ラケルはすでにテラピムを取って、らくだのくらの下に入れ、そ の上にすわっていたので、ラバンは、くまなく天幕の中を捜したが、見つからなかった。 その時ラケルは父に言った、「わたしは女の常のことがあって、あなたの前に立ち上 がることができません。わが主よ、どうかお怒りにならぬよう」。彼は捜したがテラピム は見つからなかった。 そこでヤコブは怒ってラバンを責めた。そしてヤコブはラバン に言った、「わたしにどんなあやまちがあり、どんな罪があって、あなたはわたしのあ とを激しく追ったのですか。 あなたはわたしの物をことごとく探られたが、何かあなた の家の物が見つかりましたか。それを、ここに、わたしの一族と、あなたの一族の前に 置いて、われわれふたりの間をさばかせましょう。 わたしはこの二十年、あなたと一 緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわ 284 たしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。 また野獣が、かみ裂い たものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれた ものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。 わたしの ことを言えば、昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。 わ たしはこの二十年あなたの家族のひとりでありました。わたしはあなたのふたりの娘 のために十四年、またあなたの群れのために六年、あなたに仕えましたが、あなたは 十度もわたしの報酬を変えられました。 もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イ サクのかしこむ者がわたしと共におられなかったなら、あなたはきっとわたしを、から 手で去らせたでしょう。神はわたしの悩みと、わたしの労苦とを顧みられて昨夜あなた を戒められたのです」。 ラバンは答えてヤコブに言った、「娘たちはわたしの娘、子ど もたちはわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものはみなわたし のものです。これらのわたしの娘たちのため、また彼らが産んだ子どもたちのため、き ょうわたしは何をすることができましょうか。 さあ、それではわたしとあなたと契約を結 んで、これをわたしとあなたとの間の証拠としましょう」。 そこでヤコブは石を取り、そ れを立てて柱とした。 ヤコブはまた一族の者に言った、「石を集めてください」。彼ら は石を取って、一つの石塚を造った。こうして彼らはその石塚のかたわらで食事をし た。 ラバンはこれをエガル・サハドタと名づけ、ヤコブはこれをガルエドと名づけた。 そしてラバンは言った、「この石塚はきょうわたしとあなたとの間の証拠となります」。 それでその名はガルエドと呼ばれた。 またミズパとも呼ばれた。彼がこう言ったから である、「われわれが互に別れたのちも、どうか主がわたしとあなたとの間を見守られ るように。 もしあなたがわたしの娘を虐待したり、わたしの娘のほかに妻をめとること があれば、たといそこにだれひとりいなくても、神はわたしとあなたとの間の証人でい らせられる」。 更にラバンはヤコブに言った、「あなたとわたしとの間にわたしが建て たこの石塚をごらんなさい、この柱をごらんなさい。 この石塚を越えてわたしがあな たに害を加えず、またこの石塚とこの柱を越えてあなたがわたしに害を加えないよう に、どうかこの石塚があかしとなり、この柱があかしとなるように。 どうかアブラハム の神、ナホルの神、彼らの父の神がわれわれの間をさばかれるように」。ヤコブは父 イサクのかしこむ者によって誓った。 そしてヤコブは山で犠牲をささげ、一族を招い て、食事をした。彼らは食事をして山に宿った。 あくる朝ラバンは早く起き、孫と娘た ちに口づけして彼らを祝福し、去って家に帰った。 」 まずここでヤコブが取った行動について考えて見よう。ヤコブは、ラバンが 羊の毛を切る時を見計らってハランを出発している。この内容は原理講論では、 成長期間を蕩減するための三日期間という概念で捉えている。 原理講論 346P 285 「人間始祖は、堕落により、その成長期間において、サタンの侵入を受けてし まった。それゆえ、これを蕩減復帰するために、次のようなその期間を表示す る数を立てるための摂理をなさるのである(後編第三章第二節(四))。すなわ ち、ヤコブがハランからカナンに復帰するときに、サタン分立の三日期間があ り(創三一・22)、モーセが民族を導いて、エジプトからカナンに復帰するとき にも、やはりこのような三日期間があり(出エ五・3) 、また、ヨシュアも、こ の三日期間を経たのち、初めてヨルダン河を渡ったのである(ヨシュア三・2)。 そして、イエスの霊的世界カナン復帰路程においても、サタン分立の墓中三日 期間があったのである(ルカ一八・33)。」 そして、ヤコブはハランを出発する前にレアとラケルに同意を得て出発して いる。この時に、あれほど憎み合っていたレアとラケルはヤコブの申し出に異 論を唱えることなく了承している。このことは、天使長家庭がアダムを迎える ときに、二種類の女性が一体化した基台の上にでカナンとして象徴される本然 エデンに変えることができることを象徴している。そしてここにおいて、ラケ ルは自分の判断で父の所有のテラピムという偶像を盗み出している。原理講論 では、ヤコブがヤボク川を渡る時の天使との組み打ち、そしてその後エサウに 対してハランの地で得たすべての財産をエサウに与える決心をして、自らは七 度敬拝してエサウの恨みを解き放したことが中心に語られてきた。ゆえにラケ ルが取ったこの行為をあまり強調することはなかった。しかしここにはとても 重要な内容が含まれている。文先生のみ言葉を見てみよう。 「しかし、ヤコブは、母親の言うとおりに動き、長子の特権を奪うために、パ ンとレンズ豆のあつもので、長子の特権を買ったでしょう? そして、母親が 協助して祝福されたので、エサウが(ヤコブを)殺そうとしたではないですか? そのようにしようとするので、 (ヤコブが)二十歳に近い十六歳、十七歳の年 齢で逃げて行くときは、自分の母親の兄(ラバン)の所に行くのです。兄(の エサウ)は、怨讐です。なぜでしょうか? 関係がありません。血統が違うと いうのです。 それで、ヤコブがそこ(ハラン)に行って、何をしたのかというと、被造万 物を取り戻すための七年間、それからレアを取り戻すための七年間、ラケルを 取り戻すための七年間の苦役をしたのです。しかし、それは七年間だけではあ りません。 (ヤコブがハランの地を)出発するときに、ラバンが(ヤコブを)訪ねて来 て、 「守りの神の像を持って行かなかったか?」と言ったときに、このようなこ とがありました。 ラケルが、それ(偶像)を下にして座っているので、 「私は、女の常のことが 286 あって、あなたの前に立ち上がることができません。」と言うと、ラバンがあき らめるのです。こうして、偶像をすべて砕いて、それを飲むのです。それは、 “根本をなくそう”ということです。 それが何かというと、被造万物の復帰七年間、レア・ラケル復帰十四年間で、 二十一年間です。それから、戻って来て、三代から家門の伝統が出てくるので す。先祖たちが愛し、仕えたものを、どろぼうして行くので、ラバンがついて 来て、そのようにしたのです。それをすべて取り戻して、エサウの所に帰るの です。 ですから、別種部隊です。血統が異なる、兄の家門全体を取り戻して来るの です。そうではないですか? 万物を復帰するために、羊の色は違いますが、 ありとあらゆることをすべてして、万物を取り戻してきたのです。 それから、七年間を中心としてレアを、さらに七年間を中心としてラケルを 取り戻すようにして、それから母と祖母まで、三代を中心として、必要とする 家門の重要なものを取り戻して来たので、ラバンが、それを取り戻しに来たの です。 しかし、ラバンは取り戻すことができません。それを奪われていく日には、 完全に引っ張り込まれていくのです。そうではないですか?」 (ファミリー2003 年 11 月 33p 第十五回「八定式」におけるみ言葉 2003 年 8 月 31 日 イーストガーデン) ここで文先生はこの時のラケルの行為を「根本をなくす」と表現されている。 さらには、三代を中心として、必要とする家門の重要なものを取り戻したとい うふうに語られている。アブラハムはノアの長子セムの子孫であり、偶像商人 テラの長男であった。本来なら父テラの後継となる存在である。その人物を神 は連れ出し、ジプシーのような生活をさせた。よって次男ナホルがテラのもつ 偶像を継承していたものと思われる。これを奪うということは、ノア家庭の失 敗から、続いてきたセム族(ノアの長子)の家系から、イサクの次子ヤコブによっ てサタンの象徴である偶像テラピムを奪っていく必要性があったと思われる。 ここでよく考えなければならないことは、これがラケルの独断で行われたこと の意味だ。この時、リベカはラバンとヤコブを騙すような形でカイン圏の根本 を意味するテラピムを盗み出している。すなわちリベカと同じように父と兄を 騙したのである。父と兄を騙す内容の意味は、エバが堕落するときに神(父)とア ダム(兄)を騙したので復帰は父と兄を騙して奪ってこなければならないという 公式である。ここで原理講論の視点で捉えた時に、理解しがたい内容が出てく る。ラバンやエサウを騙すのならサタン側の人間であるので理解できる。しか し、イサクとヤコブは神側の人間である。教会の指導で言うならば、アベルを 287 騙す行為だ。ここで私たちは、アダム家庭復帰の公式をもう一度考えなければ ならない。イサクとヤコブの位置は、復帰された天使長の位置である。再創造 原理は、まず第一に環境整備だ。それは、すなわちアベル(復帰された天使長) を中心として選民圏(祭物)を祭壇に捧げ分立することによって、天使長家庭を形 成しなければならない。その型は、復帰された天使長(父母)、天使長の子供(子 女)、万物(堕落した天使達)という形になる。このような型で形成されるのが宗 教圏であり、天使長圏なのである。文先生はこのことを氏族、あるいはホーム チャーチと表現されている。しかしこの氏族はどこまでも天使長圏の氏族だ。 天使長の希望は、アダム(メシヤ)を迎えることにある。ゆえにアダムは、天使長 の希望の対象となる。神の願いは、地上に天国を実現することである。すなわ ち、神の直系の子女であるアダムの血統を中心として家庭、氏族、民族、国家、 世界、天宙へと版図を拡げながら天国を形成していくことが神のご計画であっ た。この神のご計画を実現するために絶対的に必要な存在が縦的に神と天使長 によってたてられて来た伝統を相続するアダムとそのアダムの愛を受け止め横 的に展開していく中心となるエバの存在である。神は天使長家庭を通してアダ ムを創造すると同時にアダムの愛の相対であるエバを創造しなければならなか った。アダムは完成することによって実体の神となる。そしてエバはその実体 の神の妻となる。このアダムの相対であるエバがどのような原理で立てられな ければならないのかという内容を文先生は、サラ、リベカ、ラバンの妻、レア、 ラケルという関係の中で説明されている。このような観点で考えて見たとき、 復帰された天使長圏の中に立たされる女性たちに対して、将来メシヤがこられ た時にどのような姿勢で望むかを文先生は、聖書史を通じて教えているのだ。 女性たちは、リベカやラケルのように神の願いを果たすためには、たとえ善の 天使長の立場に立つ人間を騙してでも、復帰歴史の完成である子羊の婚宴に対 して責任をもたなければならないということを表しているのである。 ヤコブの勝利によって、アブラハム家庭は三代にかけて本来神が望んだアダ ム家庭の形態を示すことができた。原理講論では、サタン屈服の典型路程とい う観点で、ヤコブ個人の路程を中心として説明してきた。しかし、文先生のみ 言葉はアブラハム、イサク、ヤコブという三代を通して復帰の公式路程を語ら れてきたのである。しかし、文先生のみ言葉を見れば、このヤコブの勝利でも 不十分であるというように表現されている。その理由はヤコブがエサウを屈服 した時の年齢にある。文先生はみ言葉の中で 40 歳というふうに語られている。 「堕落の過程において、神と娘は離れてしまいました。言い換えれば、娘は神 を裏切った立場にあるのです。復帰においては逆の経路をいかなければなりま せんので、神と娘は一つになる道をいくわけです。すべての女性は神と一つに 288 ならなければなりません。堕落の過程ではサタンと女性が一体化しました。そ してアダムを奪い、万物を奪い去りました。復帰では神が女性と一体化し、ア ダムと万物を取り返すのです。それがヤコブの母リベカの位置と役割だったの です。神と女性リベカと息子のヤコブの三人が一体化して、堕落の関係(それ はリベカにとってサタンの位置にあった、自分の夫であるイサクと長男のエサ ウ)を断ち切ったわけです。それで、なぜ特別な預言者が神の目に受け入れら れたかが、今わかったと思います。 それで彼らはまず何をしたかというと、長子の嗣業の復帰でした。なぜそれ が必要だったのでしょうか。長子の立場は主人の主権を嗣業する立場であるか らです。ですから聖書を読むと、いつも長子の名前がのっており、誰々の長子、 またその人の長子の誰々というように、長子の血統が綿綿と続いているのです。 長子の立場は主人の主権をもつ立場ですが、それまでサタンに奪われていまし た。神はヤコブを用いて長子の立場を復帰しようとしたわけです。そうするこ とにより、ヤコブは万物と人間を主管する立場にいました。ヤコブは神と完全 に一体化していましたので、ヤコブが万物と人間を主管する長子の立場に立っ た時、それは即ち神の主管圏に入り、もはやサタンのものではないのです。こ のようにしてヤコブはサタンとの関係を切り、嗣業権を神に復帰し、部族を形 成することにより、神は「これは私の民であり、私の領土であり、私が主管して いるのである」と主張できるのです。そういうわけで、神はヤコブに勝利を意味 する「イスラエル」の称号を与えられたのです。 それまで、人間の失敗により神はいつも失敗の立場に立たれていたのですが、 歴史上はじめて、神はヤコブによって一回戦で勝利されたのです。そしてこの 地上に基台を築かれたのです。その基台はイスラエルでした。イスラエルはど んどん拡大して、神の巨大な領土をもつにいたりました。結局、一家庭が氏族 に発展し、氏族が民族に、民族が国家に発展し、イスラエルは国家になりまし た。 しかしエサウとヤコブの間の復帰は、彼らが四十歳のころなされました。で すからサタンはまだ「いいでしょう。私の敗北を認めます。しかし、まだ基台が 完全に崩されたわけではありません。二人は私の保護のもとで四十年間育った のです。ですから、彼らはまだ私のものです」と主張できるのです。誕生から四 十歳までは、まだサタンの主管の中にあり、サタンは神に「嗣業権はあなたの手 に戻ったとしても、誕生から四十歳までの期間は私のものです」と言えるわけで す。ですから、もう一段階上の特別な復帰路程は母の胎から始めなければなり ません。神の人ヤコブは長子として生まれたのではなかったのです。もう一つ 289 の戦いがなされなければなりませんでした。それは母の胎で始めなければなり ませんでした。 (祝福 25 号 259p~260p 天勝日のみことば 1979 年 10 月 4 日) 原理講論では、ヤコブが勝利したのは家庭的基台であって、すでにサタン圏 が民族の基盤まで広げていたので、民族の基盤を神側が造成するまでメシヤを 送ることができないというのがメシヤのための基台をヤコブが勝利したとして も神がこの時にメシヤを送れなかった理由として説明してきた。 原理講論 334P 「アダムの家庭から立てようとした「メシヤのための基台」は、復帰摂理の中 心人物たちが彼らの責任分担を全うできなかったので、三時代にわたって延長 され、アブラハムにまで至ったのである。しかしながら、み旨を完成しなけれ ばならないアブラハムが、また「象徴献祭」に失敗したので、このみ旨は、更 にイサクにまで延長された。ゆえに、イサクの家庭を中心として、「信仰基台」 と「実体基台」がつくられて、初めて「メシヤのための基台」が造成されたの である。したがって、メシヤは当然、このときに降臨なさらなければならない。 ところで、我々はここで、 「メシヤのための基台」というものの性格を中心と して見たとき、メシヤを迎えるためのこの基台の社会的背景はどのようなもの でなければならないかということを、知らなければならない。堕落人間が「メ シヤのための基台」を立てるのは、既にサタンを中心としてつくられた世界を、 メシヤのための王国に復帰できる基台をつくるためである。しかるに、アダム の家庭や、ノアの家庭を中心とした復帰摂理においては、その家庭に侵入でき る他の家庭がなかったので、 「メシヤのための家庭的な基台」さえできれば、そ の基台の上にメシヤは降臨されるようになっていた。しかしアブラハムの時代 には、既に、堕落人間たちがサタンを中心とする民族を形成してアブラハムの 家庭と対決していたので、そのとき「メシヤのための家庭的な基台」がつくら れたとしても、その基台の上にすぐにメシヤが降臨なさるわけにはいかない。 すなわち、この基台が、サタン世界と対決できる民族的な版図の上に立てられ たのち、初めてメシヤを迎えることができるのである。したがって、アブラハ ムが「象徴献祭」に失敗せず、「実体献祭」に成功して、「メシヤのための家庭 的な基台」がつくられたとしても、その基台を中心としてその子孫がカナンの 地で繁殖して、 「メシヤのための民族的な基台」を造成するところまで行かない と、メシヤを迎えることはできなかったのである。」 290 しかし、文先生の説明では、もっと重要な問題として、ヤコブが勝利したの は 40 歳の時であったということである。つまり母の腹中から 40 歳までは、ま だ神側の勝利権が立っていないというのが理由であった。生まれてから 40 年、 さらには、母の胎中から神が奪ってこなければならないということが理由であ ったと説明されている。そのような原理的事情の中で特別な使命をもつのがタ マルという女性だ。この内容について旧約聖書を見てみよう。 創世記 38 章 「そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者 の所へ行った。 ユダはその所で、名をシュアというカナンびとの娘を見て、こ れをめとり、その所にはいった。 彼女はみごもって男の子を産んだので、ユダ は名をエルと名づけた。 彼女は再びみごもって男の子を産み、名をオナンと名 づけた。 また重ねて、男の子を産み、名をシラと名づけた。彼女はこの男の子 を産んだとき、クジブにおった。 ユダは長子エルのために、名をタマルという 妻を迎えた。 しかしユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を 殺された。 そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめ とり、兄に子供を得させなさい」。 しかしオナンはその子が自分のものとなら ないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないため に地に洩らした。 彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。 そこでユダはその子の妻タマルに言った、 「わたしの子シラが成人するまで、寡 婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように 死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におっ た。 日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終ってその 友アドラムびとヒラと共にテムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行 った。 時に、ひとりの人がタマルに告げて、「あなたのしゅうとが羊の毛を切 るためにテムナに上って来る」と言ったので、 彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、 被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口に すわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知っ たからである。 ユダは彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたため、遊女だ と思い、 道のかたわらで彼女に向かって言った、「さあ、あなたの所にはいら せておくれ」。彼はこの女がわが子の妻であることを知らなかったからである。 彼女は言った、 「わたしの所にはいるため、何をくださいますか」 。 ユダは言っ た、 「群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう」 。彼女は言った、 「それをくだ さるまで、しるしをわたしにくださいますか」 。 ユダは言った、 「どんなしるし をあげようか」。彼女は言った、「あなたの印と紐と、あなたの手にあるつえと を」。彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。 291 彼女は起きて去り、被衣を脱いで寡婦の衣服を着た。 やがてユダはその女から しるしを取りもどそうと、その友アドラムびとに託してやぎの子を送ったけれ ども、その女を見いだせなかった。 そこで彼はその所の人々に尋ねて言った、 「エナイムで道のかたわらにいた遊女はどこにいますか」。彼らは言った、「こ こには遊女はいません」。 彼はユダのもとに帰って言った、 「わたしは彼女を見 いだせませんでした。またその所の人々は、 『ここには遊女はいない』と言いま した」。 そこでユダは言った、 「女に持たせておこう。わたしたちは恥をかくと いけないから。とにかく、わたしはこのやぎの子を送ったが、あなたは彼女を 見いだせなかったのだ」。 ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言っ た、 「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごも りました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。 彼女は引き出 された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、 「わたしはこれをもっている 人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、 「どうか、この印と、紐と、 つえとはだれのものか、見定めてください」。 ユダはこれを見定めて言った、 「彼 女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためであ る」。彼は再び彼女を知らなかった。 さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、 ふたごがあった。 出産の時に、ひとりの子が手を出したので、産婆は、「これ がさきに出た」と言い、緋の糸を取って、その手に結んだ。 そして、その子が 手をひっこめると、その弟が出たので、 「どうしてあなたは自分で破って出るの か」と言った。これによって名はペレヅと呼ばれた。 その後、手に緋の糸のあ る兄が出たので、名はゼラと呼ばれた。」 次に文先生のみ言葉を見てみよう。 「聖書の中に特別な摂理がありました。ヤコブの息子ユダとその息子の嫁によ るもので、すべては三世代内で成就しなければなりません。ユダの息子の嫁の 名前を知っていますか(タマルです) 。タマルは神に特別に求められていた、ま れにみる摂理を成就するように定められていました。聖書を読むと、理解でき ない物語がでてきます。タマルの夫は早死にしました。普通ユダヤ人の慣習で は、長子が死んだら次子が長子の妻を娶ることになっていました。しかし、タ マルの場合、次子がそれを快く思いませんでした。三男は夫になるには若すぎ ました。こういう特殊事情の中で、タマルは子供を生むという計画が立てられ たのです。この目的を果たすために、タマルは義弟と舅をだますことになるの です。彼女は変装をして正体をかくし、遊女のふりをしたのです。そうして、 農地に行く途中の舅を誘惑し、肉体関係をもって妊娠するにいたったのです。 当事のユダヤ教の律法と慣習は姦淫、不道徳に対してとても厳しく、未婚の 292 女性ややもめが妊娠した時は、石打ちの刑にすることが許されていました。タ マルはすでに克服しなければならないこの運命を知っていましたので、自分の 行為が遊びではなく、神の摂理を成就するためになされたものであることを示 す証拠を舅からとっておいたのです。ユダは自分が関係をもった女性が息子の 嫁であることを知ってとても驚き、自分に責任があるので、タマルの生命を守 ったのです。タマルにとってそれは楽しみの行為ではなく、明らかに生命がけ のものでした。危険すぎて生命を代価にしていたからです。タマルはただ神に よって定められた運命を果たすために、その危険な義務を遂行したのです。 あなた達もご存知のように、エサウとヤコブは双子でした。エサウが兄でヤ コブが弟です。タマルが子供をはらんだ時も、エサウとヤコブの時とまったく 同様に双子だったのです。双子は一緒に母の胎の中ではらまれるわけですが、 感情もともに分かち合うのです。一方が泣けば他方も痛みを感じ、悲しむので す。それが双子の兄弟の特別な関係なのです兄弟姉妹の関係で最も親密になれ るのは双子です。そういうわけで、神の摂理は双子をもって母の胎の中で始ま ったのです。神の召命のもとに、タマルは舅の心を奪ったのです。舅は本来敵 の立場にある人だったのです。即ちユダは妊娠した嫁を殺さなければならなか ったのですが、逆にタマルを守るようになったわけです。言い換えれば、ユダ は神のみ旨に従ったわけです。ですから、タマルの胎の中の子女は神側に立っ ていたのです。ご存知のように、ヤコブには 12 部族があり、ユダ族はその一つ で第四部族でした。そのユダ族の血統からイエス様が生まれました。言い換え ればユダはイエス様の先祖にあたります。さらに旧約聖書を通して、レビ族の ようにユダ族がずっと幕屋をかついできていました。それはとても秘密のある 位置だったのです。ユダ族は神により特別な摂理を授かっていたからです。ユ ダによって最も重要なことは、イエス様の先祖たることなのです。イエス様は ユダの血統から生まれました。 一人の母親の胎で双子の兄弟が争っています。二人はペレヅとゼラです。ゼ ラが長子で最初に生まれるはずでした。分娩の時になって、ゼラは出るのを待 つばかりで、まず手が出てきました。分娩室で助産婦が見守る中で、ゼラの手 首に緋色のひもを結んだのでした。それはカインの象徴であり、ついには赤の 勢力を示します。即ち赤で代表される共産主義の出現を示しているのです。い つも最後に究極的な方、正義の方がこられる前に、例えばイエス様の前には長 子の立場のローマ帝国が栄えていました。そのような象徴的な意味があり、こ れはもとかえさなければなりません。 では次に何が起こったのでしょう。ゼラの腕が延びてきた瞬間に、母の胎内 293 では大きな組み打ちが始まりました。ゼラとペレヅは争って、次子のペレヅが 「私が先に生まれるべきです。兄さん、あなたは戻ってください」と言いました。 しまいにペレヅはゼラを引き戻し、自分が先に出て来たのです。ペレヅという 名前は「わきに押しのける」という意味で、サタンを押しのけ、カインを押しの け、ゼラを押しのけたわけです。 ヤコブにより勝利された復帰路程をみますと、ヤコブとエサウ間で行われた 争いは、ゼラとペレヅによる母の胎内での争いで完結したのです。このことに より、復帰は完璧になされましたので、サタンは干渉する余地がまったくなく なってしまったのです。サタンは母の胎についてさえも干渉できなくなってし まったのです。なぜなら、復帰は根源、母の胎において完全になされたからで す。それでその血統はイエス様の誕生まで二千年間受け継がれてきました。神 は無原罪の基台を築かれたのです。それは根源から清算された血統です。その 結果、神は無原罪の子、イエス様を送られました。イエス様はサタンが干渉で きない最高の血統から生まれてきたのです。それが神が準備された環境なので す。」 (祝福 25 号 259p~264p 天勝日のみことば 1979 年 10 月 4 日) 「エデンの園では、エバがアダムと神様を偽って堕落したのですが、リベカは、 サタンの側に立つエサウとイサクを偽って、神側のヤコブを立てたので、ここ で蕩減復帰がなされたのです。同じ立場に立ったのがタマルです。タマルは、 リベカの孫娘に当たります。タマルは、イスラエルという神様の血統をひく氏 族が重要であることをしっていたので、なんとしても、自分が神の血統の子女 を生みたいと思ったのです。それでタマルは、いつも陰でリベカを助けました。 そして、リベカは神様のみこころについて、タマルに教えたのです。タマルは、 どんな苦労をしても神のみこころを果たさなければならないと決意して、つい にイスラエルの始祖となりました。タマルは、リベカを全く同じ立場に立って いたのです。ヤコブが長子権を獲得したのは、ヤコブが四十歳になってからで した。しかし、堕落はエバの胎中で起こったので、復帰は胎中でなされなけれ ばなりません。そこで、胎中で双子の間で逆転がなされなければならなかった のです。それがタマルの使命でした。タマルは初めの夫が死んだので、その弟 と再婚しました。弟も死んでしまいました。そこで、その下の弟と結婚したな らば、自分も兄達と同じように死んでしまうのではないかと恐れ、結婚を拒ん だのです。父親のユダは、三番目の息子がもし死んでしまえば、自らの血統が 途絶えてしまうと考えて、タマルの結婚を許しませんでした。それで、タマル は愛する相手がいなかったのです。エバは、アダムと神様、すなわち父親を偽 294 りました。タマルには夫がいません。ですから、夫の血統をたどって、父親と 関係を持つしかなかったのです。タマルは娼婦の格好をして、父親を偽り、関 係を持ちました。そうして身ごもったのが、双子の男の赤ん坊でした。ちょう ど、リベカの胎の中でエサウとヤコブが争ったように、タマルの胎の中で双子 の兄弟が争いました。神様に、なぜ胎中で兄弟が争うのかと尋ねると、神様は、 「胎中で大きい国と小さい国が争っているのであり、将来、小さい国が大きい国 を支配するようになる」と、言われました。神様は、そこで血統を本然の状態に 戻すための基盤がつくられつつあることをご存知でした。ペレヅが初め、生ま れようとして手を突き出しました。助産婦がその手首に赤い布を巻きつけまし た。その後、ゼラが兄を引き戻して、自分が先に生まれてきたのです。 そのようにして、胎中で完全に新しい伝統が立てられて生まれてきた民族が、 イスラエル民族でした。イスラエルとは、「勝利者」という意味です。何をもっ て勝利者となったのでしょうか?サタンの血統を排除することによって、勝利 的基盤をつくったのです。そのようにして、選ばれた花嫁によって選ばれた国 家が出発しました。選ばれた国家に王として来るのが、イスラエルのメシヤで す。ですから、タマルも偽りました。こうして、イエス様の時にイスラエルの 血統が形成されたのですが、サタン世界は国を持っていました。それゆえ、イ エス様がメシヤとして来られてローマ帝国を占領するためには、二千年という 歳月を持たなければなりません。イスラエル民族が二千年待って、民族を編成 して、国家形態の形成を中心としてイエス様がメシヤとして来られる際には、 再び蕩減をしなければならないのです。歴史を経てきながら汚されたので、そ れをきれいに清算するためには、マリヤはリベカがしたことを蕩減して、清算 したうえで、新しい赤ん坊を身ごもって王の中の王を誕生させることができる のです。これが、旧約聖書と新約聖書の要点であるということを、皆さんは知 らなければならないというのです。 (ファミリー97/4 34p~35p 「ご聖誕日」記念礼拝の御言 1997 年 2 月 13 日 ニューヨーク) 三代王権と四代心情圏を復帰するための公式路程という観点で、ヤコブの家 庭を見た時に、そこに立てられた勝利権は、エサウとヤコブにおる天使長圏に おける男性を中心とした長子権復帰、つまり信仰基台の勝利のみにとどまって いると思われる。リベカは、天使長復帰には勝利したが、レア・ラケルを一つ にできず、実体基台の勝利権は立っていないということがわかる。ゆえに、こ の後のイスラエルの歴史は、四代目に当たるヤコブの子女たちを通して氏族の 基盤を通して展開していくようになる。そこで、中心となっていくのが、レア 295 から生まれた三男レビ、四男ユダ、そしてラケルから生まれたヨセフとベニヤ ミンを通して成されていくようになる。原理講論はカイン・アベルの公式に照 らし合わせて復帰摂理歴史を説明してきた。しかし文先生のみ言葉はアダム家 庭復帰、すなわち三代王権と四代心情圏の公式に照らし合わせて復帰摂理歴史 を説明していくようになる。男性の勝利権は、アブラハム家庭における三代に おいて立てられたので、むしろ復帰摂理歴史は歴史的に勝利されていないレ ア・ラケルを中心として流れていくようになる。つまりイスラエル選民史(旧約 歴史)は、レア・ラケルを中心として見なければ旧約聖書の本質は見えてこない。 レアの子孫であるカインの子女と、ラケルの子孫であるアベルの子女によって 第一イスラエル選民史は、氏族、民族、国家へと基盤を広めてメシヤを迎える ための準備をしていくようになる。原理講論は、一人の中心人物(アベル)に対し て選民圏をカインと位置づけ単純な構図を造って説明してきた。例えばモーセ に対してイスラエル民族、洗礼ヨハネに対してユダヤ国家というふうにである。 しかし実際の聖書史は、ヤコブの妻、レア・ラケルの直系と傍系の子女によっ て氏族、民族、国家へと基盤を拡げながら展開していくようになる。この内容 を文先生の三代王権と四大心情圏に当てはめて考えてみると結局、信仰基台(天 使長の基台)と実体基台(エバ復帰の基台)を整える形で展開していくようになる。 イエス様までの聖書史に登場する人物はほとんどがレア・ラケルの子孫だ。す なわち元をたどればアブラハムの子孫なのである。そしてヤコブの勝利から第 一イスラエル選民史は、男性を中心として版図を広げながら展開し、女性を中 心としてメシヤの母を準備する摂理の二重の意味をもって展開していくように なるのである。これは、復帰された天使長は、エバを通してメシヤに繋がらな ければならないという原理があるために、このように聖書歴史に現れてきたも のと考えれる。つまり、ヤコブ以降の歴史は天使長が、カイン・アベルの原理 を展開しながら、メシヤを迎えるための環境を準備し、女性達は地上にメシヤ を誕生させる母を準備するための歴史であったとも捉えることができる。その 中心的役割を果たすのが、リベカ、タマル、そしてイエス様の母であるマリヤ である。2000 年の時の流れがあるが、神の目から見ればこれらの女性は、母、 妻、娘の三代を象徴する立場になるのである。 「リベカは夫をだまし、息子のエサウをだましてヤコブを神側に立てたのであ りますが、これが将来において神側の男性を育てることになるのであります。 ここにおいてはじめてカインとアベルの歴史が完全に始まるのであります。ア ダム時代のカイン、アベル型の長子と次子の区別がなくなりはじめるのであり ます。なぜかといえば堕落したのを蕩減したからであります。蕩減してからイ スラエルという選民圏が始まるのであります。祝福を奪ってこられたのであり 296 ます。」 (祝福 18 号 123p 子女の日のみことば 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) 「ここにおいて本来は赤ちゃんの時から出発しなければなりませんでしたが、 四十歳になるまでそれがなされなかったので、四十歳から母の腹中までの距離 が残っているのであります。そのためにこの間にサタンがいつでも入り込める のであります。どういうことかといえば、イスラエルの国の歴史の背後におい ても、未来に行く道においても、常にサタンが侵入することができるというこ とであります。ですからイスラエルの家庭には、その侵入を防がなければなら ない責任があるのであります。そこでヤコブの息子ユダを中心として、再び腹 中において両側に分けて交差する戦いを通さなければならないかということは、 今日まで分からなかったのであります。聖書を見るとユダ支派を通してメシヤ が来る、と書いてあるが、なぜユダの支派を通さなければならないかというこ とは、今日まで分からなかったのであります。それを説明しましょう。それは ユダ支派を通してこのブランクの過程を清算した、という事実があるためであ ります。ユダの家庭において、リベカの家庭のエサウとヤコブの戦いを再びし なければならないのであります。 ユダの嫁の中にタマルという人がいるが、 マタイの福音書にこのタマルが出てくるのであります。本当におもしろいこと にはタマルは、しゅうとのユダと夫を騙さねばなりません。タマルは自分の夫 が死んだので、本来イスラエルの伝統からいえばその弟をもらわなければなら ないが、その弟が嫌だといったので打たれて死んでしまったのであります。そ して三番目の息子が生きていたがまだ子供なので血統を引き継ぐことができな い。しかしタマルは自分の血統において神の血統が結晶されるのを願っていた のでありました。自分がどうにかしてヤコブの血統を保とうとするが、若すぎ る三番目の息子ではそれは不可能であります。そこでしゅうとを騙して関係を 結んで、その血統を残そうと努力する女なのであります。タマルは娼婦に仮装 して、しゅうとが畑仕事をしている道端に行って誘惑して、関係を結び妊娠す るのであります。とても不思議なことが多いのが聖書なのです。世の人達はこ れをどうして信じることができるでしょうか。レバレンドムーンが出てきたか らこれらのことがみな解決できるのであります。結局タマルは誰を騙したかと いえば、息子としゅうとを騙した、というこの公式がエバとまったく同じなの であります。結局リベカはヤコブを生んでからヤコブを大きく育てて神側に戻 したのでありますが、タマルはどうしたかといいますと、息子を腹中において これを転換しておけば、サタンは腹中の子には讒訴することはできないのであ 297 ります。そうすることによって宇宙が転換するのであります。タマルの腹中に おいて二人の子供が戦う時、神に「私の腹中で二人の子供が戦っています」と言 いますと、その時神はリベカに言われたのと同じことを言われたのであります。 「腹の中には二つの国があって、兄は弟に侍るであろう」とまったく同じ返事を されたのであります。この時長男が先に生まれようとして、手が先に出て来た ので、産婆が緋の糸を結んだのであります。それは将来共産党が出てくること を象徴するのであります。そのように長男のゼラが先に出ようとしたのですが、 それを押しのけてペレヅが出てきたのであります。こうすることによって腹中 で戦ってすべてを清算したために、これからこの伝統的な思想を受け継ぐイス ラエルの女性の中において、腹中にいる赤ちゃんに対してサタンが讒訴できな いという決定的基盤を整えたのであります。 (祝福 18 号 128p~130p 1976 年 子女の日のみことば 11 月 26 日 ベルベディア) 「それは誰かといえばマリヤであります。同じ原則によって、父と夫を騙さな ければなりません。そしてマリヤの夫は誰か。ヨセフであります。サタンが父 の立場、ヨセフが夫の立場であります。その父と夫を騙さなければならないの であります。なぜかというとエバが堕落した時、アダムは自分の婚約した夫だ ったのであります。それと同じ立場に立たせるのであります。だから、ヨセフ もそれとまったく同じ婚約した立場でありました。エデンの園においてエバを サタンが奪っていったから、サタン側にいるそのエバを神が奪ってこなければ なりません。マリヤをみる時、夫であるヨセフを中心として関係が成されてい なければならないのに、他の人の子供を孕んだとすれば父母が歓迎したでしょ うか。二人とも歓迎しないのであります。しかし、マリヤは、自分はタマルや リベカのように神から祝福を受けたのだから、自分の腹中から生まれる子供は 神による子であると信じていたのであります。さらにマリヤは、将来イスラエ ル民族にメシヤが送られる、という一つの希望的な祝福が成されることをよく 知っていたのであります。 マリヤは使命を果たすためには父母も夫も問題で なくみ旨に従う、そのような妻であったことを知らなければならないのであり ます。このようにしてサタンからまったく讒訴されない神の息子が、初めてマ リヤを通して生まれ、その歴史的な因縁を蕩減して生まれた人がイエス様であ ります。このようにイエス様のみが神の息子になることができる、という結論 になるのであります。神の愛を一身に受けられる最初の息子であります。 (祝福 18 号 132p~133p 子女の日のみこと 1976 年 11 月 26 日 ベルベディア) 298 タマルの胎中聖別の内容は、今まで何度も学んできた。この内容が、統一教 会の血統転換の中心的内容であるからである。タマルの話は原理講論には書か れていないので、教会で説明されてきた内容について提示してみたい。ヤコブ の勝利によってメシヤのための基台は勝利された。しかしメシヤは来られなか った。その理由は、神は家庭的勝利圏を造られたが、サタン側はすでに民族圏 までに拡がっていた。ゆえに家庭的勝利圏の基盤においてメシヤを送ってもメ シヤは民族の基盤で殺されてしまう。これが原理講論の中の説明であり、どち らかと言えば外的問題だ。しかし、内的問題があった。それは先ほど説明した 女性の胎中から 40 歳までを取り戻さなければならない。そのために、タマルと いう女性が必要になった。タマルは、自分の生命をかけてでも神の血統を残す という信仰をもって舅であるユダを誘惑しユダの子供を身ごもる。そしてその 子供が胎中で争って、弟が兄を押しのけて出てくることによってサタンによっ て奪われたエバの胎中を取り戻したという勝利権を立てた。文先生のタマルに 関するみ言葉を読んでもほとんどがこのように語られている。ただ、一つ 2007 年に語られたみ言葉の中に今まで文先生が、語られてきたタマルの血統転換に 対して、イスラエルの血族を中心として語られたものがある。 「このようになるので、(アブラハムから)四代目のユダでしょう? ユダの最初の息子、 二番目の息子、三番目の息子、ユダの息子は、エル、オナン、シラの三人でしょう? 代を継がせようとしたのですが、皆、死んでしまうのです。血統を願いません。分かり ますね? ヤコブを殺そうとした血統です。 そこにすることはできないので、新たにアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と して、四代目のユダに、娼婦の姿になったタマルと関係を結ばせるようにして、タマル が血統を受け継ぐようにしたのです。 それは、エサウとヤコブの関係と、ちょうど同じです。ペレヅとゼラの関係においても、 弟(のペレヅ)が、兄の位置を奪って来なければなりません。そうですか、そうではあり ませんか? (「そうです。」) 異邦の血統が入って来て、アブラハムが祭物に失敗して生じた影を解消するために は、代わりにだれが祭物をささげなければならないのかというと、ユダ支派の身内に 入って来た人たちが代わりとなって、革命をしなければなりません。血統を立て直す ためです。ユダの息子が、タマルと生活しないで、それに不従順であってはいけない のです。 それで、ユダの血統を連結させて、四代を超えて五代から始めて、イスラエルの血 統が清くなるというのです。神様の保護を受けて出てくるのです。これを育てて、二千 年間を中心として、このような事実が家庭において成されたので、民族で成されるの です。そのような事実が、ヨセフ家庭とザカリヤ家庭で展開するのです。」 299 (ファミリー2003 年 11 月 34P 第十五回「八定式」におけるみ言 2003 年 8 月 31 日 イーストガーデン) このみ言葉を見ると、ユダの血筋であるエル、オナン、シラの血統を願わな かった。「ヤコブを殺そうとした血統である。」というように書かれている。聖 書は暗示や比喩で書かれている。この血統という問題を一般的に私たちが考え ている血筋を意味するのか、あるいは信仰的な内容を意味するのかという問題 はこれからまだまだ議論の余地があると思われる。しかし、旧約聖書を見て説 明される文先生は明らかに、イスラエルの血筋というものを中心として語られ ているのが解る。少し長くはなるが、重要な問題であるので少し詳しく書いて みたい。ただしこの内容はあくまでも私見であるのでご理解いただきたい。こ のみ言葉で語られているヤコブを殺そうとした血統とは誰を指して言っている のであろうか?このみ言葉の前の部分を読んでみよう。 「そして、エサウが、ヤコブを殺そうと待っていました。自分の一族を送って、ヤコブを 殺そうとするのです。ところが、ヤコブは知恵深いのです。エサウに対して“絶対服従 します。”ということです。(エサウが)王の王であり、自分のすべての所有をお兄様 (エサウ)の物としてささげ、お兄様を神様のように侍りますと、言ったでしょう?」 (ファミリー2003 年 11 月 34P 第十五回「八定式」におけるみ言 2003 年 8 月 31 日 イーストガーデン) 自分の一族を送って殺そうとしたという内容があるのである。それでは、エ サウの一族を調べてみたいと思う。聖書を見てみよう。 第28章 「イサクはヤコブを呼んで、これを祝福し、命じて言った、「あなたはカナンの娘を妻に めとってはならない。 立ってパダンアラムへ行き、あなたの母の父ベトエルの家に行 って、そこであなたの母の兄ラバンの娘を妻にめとりなさい。 全能の神が、あなたを 祝福し、多くの子を得させ、かつふえさせて、多くの国民とし、 またアブラハムの祝福 をあなたと子孫とに与えて、神がアブラハムに授けられたあなたの寄留の地を継がせ てくださるように」。 こうしてイサクはヤコブを送り出した。ヤコブはパダンアラムに向 かい、アラムびとベトエルの子で、ヤコブとエサウとの母リベカの兄ラバンのもとへ行 300 った。 さてエサウは、イサクがヤコブを祝福して、パダンアラムにつかわし、そこから 妻をめとらせようとしたこと、彼を祝福し、命じて「あなたはカナンの娘を妻にめとって はならない」と言ったこと、 そしてヤコブが父母の言葉に従って、パダンアラムへ行っ たことを知ったとき、 彼はカナンの娘が父イサクの心にかなわないのを見た。 :9)そ こでエサウはイシマエルの所に行き、すでにある妻たちのほかにアブラハムの子イシ マエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻にめとった。 さてヤコブはベエルシバを立 って、ハランへ向かったが、 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過 ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。 時に彼は夢をみた。一つの はしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りして いるのを見た。 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラ ハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよ う。 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸 族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。 わたしはあなたと共にいて、あな たがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決し てあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。 ヤコブは眠りからさめて言っ た、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。 そして彼は恐れ て言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門 だ」。 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その 頂に油を注いで、 その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといっ た。 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道で わたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、 安らかに父の家に帰らせてくださるな ら、主をわたしの神といたしましょう。 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といた しましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたに ささげます」。 原理講論で展開された内容は、中心人物であるヤコブを中心として見ていた ために、カイン側として位置づけられていたエサウの行動に対しては、全く目 を向けることがなかった。しかし、文先生がみ言葉の中で語られているように イシマエルやエサウもアブラハムの子孫であり、ヤコブの親族なのである。エ サウは、最初の妻をヘテ人から娶っている。これがイサクとリベカの心を痛め たというのは、先に掲載した聖書に書かれている。そして、リベカがハランの 地にヤコブを送るときのイサクの言葉を聞き、親族以外のものから妻を娶った ことを反省し、親族であるイシマエルの娘(次女)を娶っている。つまりエサウに しても、アブラハムの血筋というものを重んじている。そのような観点から見 ても、アブラハムの血統に異邦の血が入るということをイスラエル民族が非常 に嫌うということを理解出来ると思う。そのような観点を踏まえながら、第十 301 五回「八定式」のみ言葉の中で語られているタマルに対する文先生のみ言葉を 見ていきたいと思う。ここで語られている「ヤコブを殺そうとした血統です」とい う言葉が指す、血統とは、明らかにヘテ人などの異邦の血を指している。ここ で、ユダの家系を調べてみたい。ユダはヤコブの四男である。何故レアの息子 であり、四男であるユダからメシヤが生まれるようにされたかは、まだ解らな い。実際に、イエス様は三男レビの血筋ではあるが、どちらにしてもレアの息 子である。後に聖書史を通して説明していくが、このユダの血筋からダビデ王、 ソロモン王が登場する。そしてこのユダ族が最も、ラケルの子孫たちと関わり を持っていくようになる。ユダの妻は、カナン人の娘シュアという女性である。 先に説明したように、イスラエルのおける血統に対する意識はとても重要なも のを持つ。異邦の血が混じってはいけないのである。このユダとシュアとの間 に生まれてきた子供が、ユダの子、エル、オナン、シラなのだ。しかも、三男 のシラの品性は書かれてはいないが、エルとオナンは明らかに神の前にふさわ しくない人格と言える。このような観点から見ると、聖書における母の教育と は非常に重要な役割を持つ。もちろんこれは、聖書の話であって今現代に生活 している私たちにすべて当てはめられるものではないとは思うので、ある程度 理解していただきたい。ここで提示したいのは、血統の問題である。イスラエ ルという神が選んだ復帰された天使長の血筋がどのような形で守られ、イエス 様まで引き継がれたかという問題だ。ユダはイスラエルの四男である。この血 筋を守るということがどれほど大事かということになる。例えタマルが、三男 シラと関係をもって子供を得たとしても、異邦人の血が混じったものが、ユダ の血統を継ぐことになってしまうのである。ゆえに、タマルは生命を投げ出し てまで、遊女の姿になり、ユダを誘惑し、イスラエルの血統を守ったというこ とだ。結果的に見て、ユダはサタン側の妻と神側の妻という二種類の妻を持ち、 二番目の妻を中心として血統転換がなされたことになる。文先生のみ言葉を見 る限り、この聖書の系図の内容まで踏まえて、この「八定式」のみ言葉を語ら れるとしか思えない。そして血統とは男性だけが大事ではなく、それを引き継 ぐ女性の心情の大切さを伝えようとしているように思われる。少なくとも、文 先生は明らかにイスラエル民族の血統に対する姿勢をもって私たちに神の血統 の大事さを伝えているのである。ヤコブがエサウと和解することによって地上 に復帰された天使長の位置が立てられた。この後、聖書史は、ヤコブの 12 人の 息子たちを通して、氏族編成していくことになる。それは、レアの 10 人の兄弟 と、ラケルの子ヨセフ、そしてラケルが亡くなる前に最後にカナンの地で生ま れたベニヤミンを中心として展開されていくようになる。文先生のみ言葉を見 てみよう。 302 「嗣業権の復帰は家庭的基台でなされました。しかし、今や家庭は国家的基台 まで高められました。ヤコブがエサウとの争いに勝った後、まったくのサタン 世界であるエジプトに入りました。そこでヤコブ家庭は巨大な民・多数民族に 成長しました。それではなぜ神はヤコブを敵陣、即ちサタン主管圏に送らなけ ればならなかったのでしょうか。それは神が選民イスラエルに祝福を与えた時、 本来ならば彼らは完全に一体化していなければならないのに、それがなされて いなかったからです。ですからサタンはまだ「おや、まだあなたがたは一体化し ていませんね」と言えるわけです。 あなた達もご存知のように、ヤコブには十二人の息子がいました。ヤコブは 十一番目の息子ヨセフをとても愛したのですが、他の十人のお兄さんたちはヨ セフを妬み、羡みました。彼らは両親にも、家庭にも、神のみ旨にふさわしく ない者たちでヨセフを殺そうとし、遂には彼をエジプトへ売り飛ばしてしまい ました。そこには一体化がまるでないことがわかります。しかし、エジプトに 売られたヨセフに何が起こったでしょうか。ヨセフは次第に人々から尊敬され、 愛されて、総理大臣になりました。それから七年の飢饉があり、イスラエルに 食物がなくなってしまい、ヤコブの家族は全員エジプトにいた十一番目の息子、 ヨセフによって救われたのです。」 (祝福 25 号 259p~264p 天勝日のみことば 1979 年 10 月 4 日) 「ヨセフは、兄さんたちに売り飛ばされて、その後、怨讐ポテパル(註:エジ プト王パロの役人の侍衛長)に捕らえられて監獄に入られて監獄に入れられ、 ありとあらゆる罪の濡れ衣を着せられました。しかし、ヨセフは一人なので思 いどおりにできたのです。この私はそのように容易な人ではありません。です から、今では金日成も私の手を借りなければならないようになったのです。そ れで北韓に行った時、私と一つになったのです。キリスト教は間もなく滅びる のです。」 (ファミリー94/3 46p 続・還国とサタン圏整備 1994 年 10 月 10 日 ソウル本部教会) 「このことについては原理を通して皆さんは学んでいますから、詳しくは言い ません。今日の重要な点は、神の祝福を受けるためには、長子権を相続しなけ ればならないということです。ヤコブの基台は家庭的な基盤でしたから、次に アベルの氏族が家庭圏を中心としてサタン世界にいかなければなりません。長 子権がサタン世界にあるので、サタンの代表国であるエジプトに入って闘うの 303 です。数多くのエジプトに入って闘うのです。数多くのエジプト人の迫害を受 けるのです。イスラエルは四百年間を受けながら耐え忍んで、神のために出エ ジプトして、エジプトの国を屈服させてイスラエル民族が神の国を探すことの できる権限をもつために、荒野を経て行かなければなりませんでした。 ここでは国を求めることが最高の希望でもあります。そこには息子、娘、夫、 妻、の飢えや死が問題でなく、すべての六十万の人々が倒れたとしても、六十 名だけでも残って国を求めるように、皆が死に直面しながらも激励しなければ ならなかったのです。それなのに混乱が起きて、すべてが倒れてしまったので す。」 ( 26p~29p 創立三十周年記念日に際して 1984 年 5 月 1 日 ベルベディア) 「ですから、長子圏の愛の土台の上では復帰が成されません。次子圏の愛の土 台の上で復帰が成されるのです。正妻の系統ではなく、妾や庶子の系統を通し て復帰されるのです。なぜでしょうか?神様の前に二つの母と子供がいるので す。なぜでしょうか?神様の前に二つの母と子供がいるのです。堕落した母と 子供と、復帰された母と子供なのです。 天国に入ったとしても、二組の父と母が、共に横的に入ることはできません。 天国に入る際には、一人の母の立場で入らなければならないのです。そうする ためには、転覆させるみ業しかないというのです。兄が弟になり、弟が兄にな るみ業をしなければならないのです。 ヤコブの家庭において、姉のレアを中心として妹のラケルの家庭を奪ったの ですが、これは天理に違反するのです。たとえ姉が、ラケルの家で裏部屋暮ら しをしながら冷遇されたとしても、一つになるためには、お姉さんが妹になる 立場で僕にならなければならないというのです。 ここからヤコブの息子の十兄弟がヨセフとベニヤミンの僕にならなければな らないというのです。ですから、絶対信仰、絶対愛、絶対服従せずしては、本 然の世界に入ることはできないのです。まさしく、それが戒めです。」 (ファミリー97/11 12p 私たちの理想家庭は神様の安息の家(後) 1997 年 8月9日 中央修練所) 「この選民の地位はなんでしょうか。イスラエル国家は僕の立場であり、まだ 304 息子の立場ではありませんでした。理想世界において神は、自分の僕とではな く、自分自身の息子と共に住みたいと思っています。選民は、もう一つの段階 に達するために、サタン国家と組み打ちし、それに勝たなければなりませんで した。その過程はヤコブの子孫がエジプトに入った時に始まり、そこで彼らは 四百年の間、外国の勢力と闘いました。四百三十年の後、彼らはエジプトから 出てきました。彼らは、メシヤの降臨の準備としてカナンの地に天的国家を造 るために戻ってくるところであったわけです。」 (90p蕩減復帰摂理歴史 1981 年 2 月 10 日 ワールドミッションセンター) ヤコブの子孫は、原理講論では、アブラハムの象徴献祭失敗の蕩減のために、 エジプトで 400 年の蕩減条件を立てなければならなかったと説明している。文 先生のみ言葉では、何種類かの視点で語られている。まず縦的観点では、ヤコ ブの勝利によって立てられたイスラエル民族は、まだ僕の位置であったと表現 され、息子の位置に立つためだったと説明している。この観点は、かなり長い 歴史的視点において語られていると思う。何故なら、まだイスラエルの歴史は、 出発しているとも言い難いくらいの基盤である。しかし、内的意味としてアブ ラハムから三代をかけた勝利というものが、後のイエス様を迎えるまでの出発 の起点となっていると考えるなら、それだけヤコブの勝利というものは重要な 意味を持っていたと考えることができる。これを現代において考えるなら、文 先生が亡くなられるまでに立てられた勝利権は、世界や国家の情勢から見ると 外的な基盤は微々たるものであるかも知れないが、千年、二千年単位でみると 今は私たちが全く見えないとしても、重要な勝利権をおさめている可能性を否 定できない。次に、横的観点において、神側の版図拡大の意味において述べら れている。ヤコブが家庭的基台から氏族的基台、民族的基台へと広げるために は、サタン側の懐に入って迫害を受けながら拡大していかなければならないと いう視点である。確かにヤコブも個人でハランに行き、ラバンの家庭と氏族の 中に入り、その中から妻と子女と万物を復帰してカナンに帰ってきていること を考えると、神側のものが一旦サタン側に入ってその中から迫害を受けながら 善の版図を拡大しなければならないという原理があるように思える。実際に、 モーセもエジプトの王宮の中で 40 年育ち、イエス様もヨセフの氏族の中で出発 している。その理由は文先生のみ言葉によれば長子権を復帰しなければならな いからであると語られている。神の心情を相続しうる中心人物は、必ずカイン 圏の中から現れるということを意味しているように思える。そして、ヤコブの 子孫が果たさなければならない重要な問題が提示されている。それはレア・ラ ケルの問題である。この問題をヤコブの子孫である 12 人の兄弟は歴史的に背負 305 っていくことになる。そしてヨセフと 10 人との間でイスラエルの氏族的基盤を 築いていくことになる。 原理講論のヨセフに対する記述を見てみよう。 「ヤコブの家庭においても、ヤコブの天の側の妻ラケルが生んだ子ヨセフが、 先に、エジプトへ入り、その蕩減路程を歩んで、アベルの立場を確立しなけれ ばならなかったのである。ゆえに、ヨセフは彼の兄たちによって、エジプトに 売られ、三十歳でエジプトの総理大臣になったのち、彼が幼いとき、天から夢 で予示されたとおりになった(創三七・5~11)。というのは、まずヤコブのサ タン側の妻レアが生んだ腹違いの兄たちが、彼のところに行って屈伏すること により、子女が先に入って、エジプト路程を歩み、つぎに、彼の父母が同じく、 この路程の方に導かれた。このようにして、ヤコブの家庭は、将来、メシヤを 迎えるための民族的蕩減路程を出発したのである。」 「ヨセフはヤコブの天の側の妻として立てられたラケルが生んだ子であり、ま たヤコブのサタン側の妻として立てられたレアが生んだ息子たちの末の弟であ った。それゆえに、ヨセフはアベルの立場にいたのであるが、しかし、カイン の立場にいたその兄たちが、彼を殺そうとしたのである。ところが、辛うじて 死を免れ商人に売られたことから、先にエジプトに入るようになったのであっ た。そして、彼が三十歳になりエジプトの総理大臣になったのち、彼が幼いと きに天から夢の中で啓示してくださった教示のとおり(創三七・5~11) 、その 兄たちと父母とがエジプトを訪ねてきて彼に屈伏した摂理路程の基台の上で、 イスラエルのサタン分立のためのエジプト苦役路程が始まった。」 劉孝元先生は、ここでラケルとレアの関係を天の側の妻とサタン側の妻とい うふうに表現している。おそらく劉孝元先生は、原理講論を書かれる時に、今 ここで説明している内容をある程度わかっておられたのではないだろうか?文 先生が「み旨と世界」の「復帰と祝福」というみ言葉の中で語られている「今 あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的 記録であり、これをいかにして蕩減すべきかということについては、まだまだ 述べていない。それは先生自身が闘って、勝利して切り開いていく。」という意 味は、この女性復帰のことではないのではないか?文先生自身がヤコブが勝利 できなかった内容を自ら背負われて、1960 年代も歩まれていたのではないだろ うか?それは、女性達自身が立てなければならない内容があったために、説明 することができなかったのではないだろうか?文先生が 1992 年以後、訪韓女性 修練会において多くのみ言葉を語ってくださったのが、そのような説明ができ 306 る環境圏が整ったからであるかも知れない。もし劉孝元先生がご存命ならば、 もっと全体を体系化して表現されることができたと思われるが、可能な限り自 分の力で表現していきたいと思う。それでは、ラケルの子ヨセフと、レアの子 達の内容を聖書を通して見ていこう。 第37章 「ヤコブは父の寄留の地、すなわちカナンの地に住んだ。 ヤコブの子孫は次のとおり である。ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供 で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父 に告げた。 ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛し て、彼のために長そでの着物をつくった。 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛す るのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。 ある時、ヨセフは夢 を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らは、ますます彼を憎んだ。 ヨセフは彼ら に言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。 わたしたちが畑の中で束を結わ えていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの 束を拝みました」。 すると兄弟たちは彼に向かって、「あなたはほんとうにわたしたち の王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか」と言って、彼の夢とその言 葉のゆえにますます彼を憎んだ。 ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに 語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みまし た」。 彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見 たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に 伏し、あなたを拝むのか」。 兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にと めた。 さて兄弟たちがシケムに行って、父の羊の群れを飼っていたとき、 イスラエル はヨセフに言った、「あなたの兄弟たちはシケムで羊を飼っているではないか。さあ、 あなたを彼らの所へつかわそう」。ヨセフは父に言った、「はい、行きます」。 父は彼に 言った、「どうか、行って、あなたの兄弟たちは無事であるか、また群れは無事である か見てきて、わたしに知らせてください」。父が彼をヘブロンの谷からつかわしたので、 彼はシケムに行った。 ひとりの人が彼に会い、彼が野をさまよっていたので、その人 は彼に尋ねて言った、「あなたは何を捜しているのですか」。 彼は言った、「兄弟たち を捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞわたしに知らせてくだ さい」。 その人は言った、「彼らはここを去りました。彼らが『ドタンへ行こう』と言うのを わたしは聞きました」。そこでヨセフは兄弟たちのあとを追って行って、ドタンで彼らに 会った。 ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そ うと計り、 互に言った、「あの夢見る者がやって来る。 さあ、彼を殺して穴に投げ入 れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。 ルベンはこれ を聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取っ 307 てはならない」。 ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこ の穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救 いだして父に返すためであった。 さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセ フの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、 彼を捕えて穴に投げ入れた。そ の穴はからで、その中に水はなかった。 こうして彼らはすわってパンを食べた。時に 彼らが目をあげて見ると、イシマエルびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやく とを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。 そこでユダは兄弟た ちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。 さあ、われわ れは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、 彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。 時にミデアンびとの商 人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフを イシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。 さてルベンは穴に 帰って見たが、ヨセフが穴の中にいなかったので、彼は衣服を裂き、 兄弟たちのもと に帰って言った、「あの子はいない。ああ、わたしはどこへ行くことができよう」。 彼ら はヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、 :32)その長そでの着 物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子 の着物か、どうか見さだめてください」。 父はこれを見さだめて言った、「わが子の着 物だ。悪い獣が彼を食ったのだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ」。 そこでヤコブ は衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。 子らと娘らとは 皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められるのを拒んで言った、「いや、わたしは 嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう」。こうして父は彼のために泣いた。 さて、かのミデアンびとらはエジプトでパロの役人、侍衛長ポテパルにヨセフを売っ た。 原理講論では、あまりヨセフ路程の話を具体的に語ることはなかった。何故 なら、メシヤのための基台を中心に原理を構成しているからである。ヤコブを 中心としてメシヤのための基台が立ったので、家庭的基台から氏族的基台を拡 大してヨセフの路程は詳しく記述されなかったものと思われる。しかし、ヤコ ブも失敗したという文先生のみ言葉があるからには、アブラハム、イサク、ヤ コブで立てられた勝利権も極めて象徴的な内容で終わっていると思うべきだ。 この後のラケルの子ヨセフの勝利とレアの子ユダの家庭で行われたタマルの血 統転換まで含めて考えると、アブラハム家庭の勝利は、五代にかけてなされて いるのである。ここで原理講論の使命について考えてみたい。原理講論は、今 までキリスト教を伝道するために造られたと思われてきた。しかし、原理講論 の内容は、キリスト教徒から見れば、聖書の一部分を利用して書かれていると いう批判もキリスト教会から受けてきた事実もある。これは私見ではあるが、 308 おそらく原理講論は、文先生の指示の下、聖書を読んでこなかった異邦人(私た ち統一食口)を急いで第三イスラエル選民として教育するために造られたので はないかと思われる。そして文先生は、その原理講論の概念をまず私たちに教 育し、文先生のみ言葉の中で、原理用語を使用しながら、重大な内容を聖書の ないよを通じて暗示して来られたのだと思う。上の聖句は、原理講論では、終 末論で引用された部分だ。「日と月と十一の星」の話の喩えは、父と母と十一 人の兄弟を意味するということをすでにご存知のことと思う。ここでもう一度 確認しておかなければならないことは、これから展開していく内容は、文先生 の公式である縦横の愛の復帰という視点に立って説明していきたいと思う。縦 的勝利権は、アブラハム、イサク、ヤコブの三代において勝利されたが、横的 勝利権は、レア・ラケルの失敗において成すことができなかった。縦的勝利権 は、カイン・アベルによって成されるが、横的勝利権は、レア・ラケルの二人 だけではなく、母子を通して成されていく。つまりレア・ラケルの勝利は、善 側と悪側に母子共に展開しなければならないのである。しかしこのヨセフの内 容を見た時に、すでにラケルは他界し、母子転換は不可能な状況にある。その ためにこの内容は、二千年後のエリザベツの子洗礼ヨハネとマリヤの子イエス まで引き継がれていくようになる。話をヨセフに戻そう。上の聖句を解説した いと思う。まずヨセフはヤコブの愛するラケルの子である。ラケルは子供がな かなかできず、自分に子供ができないことをヤコブに詰め寄ったこともある。 しかしレアは、次々と子供を産み、自分の子供が産まれなかったら、自分のつ かえめをヤコブに与えてでもヤコブの愛を自分の方に向かせようとした。この 聖句に出てくるビルハとジルパとは、レア・ラケルのつかえめの名前だ。その 子供ができなかったラケルにようやくできた子供がヨセフである。そしてヤコ ブがカナンに帰ってエサウと和解した後に生まれた子供がヨセフの弟ベニヤミ ンであり、ラケルはベニヤミンを産むとすぐに亡くなってしまった。そのよう な観点で見ると、何故ヤコブがヨセフを特別に愛したのか、そしてヨセフを失 った時のヤコブの落胆ぶりが理解出来ると思う。そして、ヨセフもまた他の中 心人物たちと同じように異邦の地から出発していくようになる。続いてヨセフ がエジプトに到着した後のことを聖句で見てみよう。 309
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