元町の原風景

元町の原風景
(元保土ヶ谷)
明治15年作製 2万分1フランス式彩色地図
元町自治会
〔平成25年3月 制作者:保土ヶ谷町三丁目222番地 石井 透〕
刊行にあたって
元町自治会は 66 班 1100 世帯からなる保土ヶ谷区内でも大きな自治会の一つです。旧東
海道の街道に面した街が基になって人々が住むようになってきましたが、今では当時の面
影も少なくなり明治・大正・昭和・平成と時代が移り変わり風景も大きく変わりました。
多くの人は昭和も戦後になって移り住んできて、明治・大正の面影は記憶の中にも存在
しないと思います。この街で生まれ育ったものとして、薄れゆくこの街の歴史と風景を残
すことが大切なことと感じています。
「土地には歴史が有り顔がある。
」とよく言われますがまさにそのとおりで、皆様の脳裏
にはここに紹介した記事や写真を、年代ごとに辿ることができるのではないでしょうか。
高齢者は、あたかも走馬燈のごとく昔がかけめぐることでしょうし、若い人たちは、今
住んでいる街の今昔を比較して頂き、
「いつまでも住みたい保土ヶ谷そして元町」であって
ほしいと思います。
終わりに、この編集に当たってご協力を頂いた多くの方々に、心から感謝したいと思い
ます。ありがとうございました。
元町自治会
会長 吉川 明
目次
Ⅰ.はじめに
Ⅱ.元町の歴史
Ⅲ.元町は何処か
Ⅳ.戦前に使用されていた屋号
1頁
1頁
1頁
10頁
Ⅴ.明治中頃の「絵はがき」から見た元町
Ⅵ.航空写真で見た元町
Ⅶ.大正中期からの風景
あとがき
編集を終えて
11頁
19頁
24頁
48頁
Ⅰ.はじめに
横浜に住む人が「元町」という地名を聞くと、JR石川町駅をおりた付近に在る元町商
店街をまず最初に思い出すようだ。この地域は、1859 年の横浜開港までは半農半漁の村
であった旧横浜村の住民が、横浜開港に伴って立ち退き、現在の元町商店街付近に
移住したことから「元町」と呼ばれるようになった。
この「元町」と言う地名は、横浜以外にも、神戸・函館・京都など全国に多く存在して
いる。いずれも、ある時代に何らかの事情で町が移動して新しく発展した地域の元となっ
た町の名称に使われている。
約400年前、徳川家康により東海道が整備されて誕生した保土ヶ谷宿にも、その宿場
の元となった町「保土ヶ谷の元町」があった。本書は、その「元町」に住む住民の使命と
して、その歴史をまとめ、後世に伝えることを目的としている。
Ⅱ.元町の歴史
保土ヶ谷の地名は、永禄2年(1559年)に関東を制した北条氏康(小田原北条氏3
代目)によって作成された小田原衆所領役帳に今井・小帷・岩間などとともに公文書に初
めて登場する。
江戸時代の文化・文政期(1804 年~1829 年)に編まれた新編武蔵風土記稿(以下:武蔵
風土記)には次のような記載がある。
「保土ヶ谷宿は・・・(省略)
・・・昔は海道の往来今
の所よりは西北の方にありしといふ。然るに慶安元年(1647年)その道をかへられて
今の如くなりたり。書き趾伝へて今に残れり、共頃までは帷子宿の人家はそこはくの地を
隔てたりしに、彼彼人家も岩間村の地に移りしより、往来の内となれ、初め保土ヶ谷と神
戸帷子の間十八丁余の路を隔てしが、互いに其町を移し合わせなば便よからんとて、移し
て一町となせり、此時より三宿新町になりたり、
・・・(省略)・・・保土ヶ谷町も昔は今の
元町のところにありしを、慶安年中、此所に引移せしと云う、是より元町の名も起これり」
と書かれている。しかし、武蔵風土記には、その「元町」の場所を特定するものは記載さ
れていない。
Ⅲ.元町は何処か
北条氏康によって作成された小田原衆所領役帳の「保土ヶ谷」と、徳川家康による慶長
六年(1601年)に宿駅制度が制定された時から現在の保土ヶ谷町1丁目に移ったとさ
れる慶安元年(1647年)までの間の「保土ヶ谷宿」(元町)は、何処にあったのか。諸
説あると思うが、有力な所在地として「元保土ヶ谷」を考察してみたい。
1. 東海道分間延絵図
江戸時代における保土ヶ谷 3 丁目(現在)の風景は、江戸幕府が寛政年中(1789年
~1801年)に東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地
図である東海道分間延絵図で垣間見ることが出来る。樹源寺、元町自治会館脇の庚申塚(帝
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釈天)、元町土橋、元町橋バス停(保土ヶ谷3丁目236番地付近)脇の鳥居(お稲荷さん)
や庚申塚、権太坂入り口の庚申塚などが記載されている。
現在の樹源寺から権太坂間の「東海道分間延絵図」
2.東海道分間絵図(菱川師宣筆)
もう一つの資料として武蔵風土記に書かれた元保土ヶ谷町の所在
地を物語る菱川師宣筆の東海道分間絵図がある。保土ヶ谷宿は元々離
れていた保土ヶ谷・神戸・岩間・帷子が一緒になって出来た宿場であ
り、保土ヶ谷町は現在の保土ヶ谷町1丁目に移り、新町(下図中央)
と呼ばれるようになった。そしてこの資料では元の保土ヶ谷町は、本
町(下図中央左上)と記載されている。
下図本町拡大図
東海道分間絵図
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3.横濱市土地寶典
東海道分間絵図に描かれた本町(元町)を特定する場所として考えるための資料として
は、昭和6年に発行された横濱市土地寶典(横濱土地協會監修[以下:土地宝典])がある。
この中にある「元保土ヶ谷」(下図右上:旧元町橋から樹源寺の間)を指すのではないかと
思われる。
現在の保土ヶ谷町3丁目付近の土地宝典(昭和6年10月1日発行)
鉄道が開通する前の地図(明治15年作製のフランス式彩色地図)と土地宝典(上図)
を重ね合わせてみると、今井川の流れは旧元町橋から元町自治会館・牛房ヶ谷道下・鉄道
敷地内の神奈川坂を通り、土地宝典左端中央の水路に至っている。つまり鉄道開通により
河川改修工事が行われ、土地宝典右上から左下に流れる現在の流れになったのである。そ
して旧元町橋は埋められ、新しい元町橋が現在の位置に造られた。その後、今井町へ抜け
る道が整備され、元町ガードが出来て現在に至っている。
土地宝典の地名を見ると右側が「元保土ヶ谷」、中央が「元保土ヶ谷橋向」となっている。
これは「元保土ヶ谷」からみて橋の向こう側が「元保土ヶ谷橋向」になることで「元保土
ヶ谷」が(主)であり「元保土ヶ谷橋向」が(従)となる関係であると考えるのが妥当。
現在は元町ガード・元町橋・元町橋バス停などがあるため元町の場所を特定する上で錯覚
しがちであるが、旧元町橋から樹源寺の間が「元町」と考えた方が妥当といえそうだ。
(注:この地域では、橋向(はしむこう)の「○○さん」という言い方が一般的に使われ
ていた。また、「向田(むこうだ)のお稲荷さん」、道を隔てて反対側の家の敬称を「お向
(むこう)
」と言っていた。よって、
「元保土ヶ谷橋向(はしむこう)」という名称でよいの
ではないか。
)
4.歴史上の遺跡や古跡
前述の「元保土ヶ谷」をもう少し掘り下げて考えてみたい。そこで、小田原衆所領役帳
が作成された永禄2年(1559年)から宿駅制度が制定された慶長六年(1601年)
ごろの元保土ヶ谷周辺に存在していた歴史上の遺跡や古跡などを検証する。
①.鎌倉道
鎌倉幕府の成立により鎌倉が政治の中心地となるのに伴い、各地から御家人などが鎌
倉へ向かうために出来た中世の古道。保土ヶ谷近辺を通過する道として「中の道」
・
「下
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の道」がある。
ⅰ.下の道
清風高校→石名坂→国道1号線→旧東海道(道標:其爪の句碑)→田園
ハウジング右折→保土ヶ谷小学校跡地→神明社→
ⅱ.中の道 戸塚→東戸塚→戸塚カントリークラブ→大池公園→鶴ヶ峰→
②.大仙寺
武蔵風土記に「いとふるき寺、応永年間(1394~1438年)に中興せり」との
記述がある。
③.医王寺
往古は東方山医王寺と称する真言の巨刹であったが、徳川氏の初め、兵火により、薬
師堂のみが山上に残存していた。然るに寛永年間、当宿の豪族軽部吉重(四代)の室、
深く日宗に帰依し、剃髪して妙秀と号し、寛永五年、医王寺の廃跡である欅樹の傍に庵
を結び、
・・・略・・・樹源寺と称した。
(保土ヶ谷郷土史)
土地宝典
右側中央と中央下「牛房ヶ谷」右に薬師堂の地名が
④.今井砦
現在の金剛寺に隣接して鎌倉時代から室町初期にかけての山城の築城法で造られた
砦。城山稲荷にある板碑は、高さ70センチ・最大幅30センチで嘉元2年(1304
年)に建立されたもの。戦国期の今井砦の城主は小田原北条氏の家臣小笠原・谷・小幡
氏が務めていたと言われている。天正 18 年(1590 年)の小田原開城により小田原北条
氏の支配は終わり、今井砦は廃城になった。
(保土ヶ谷区史 P80)
⑤.中の道(鎌倉道)が枝分かれした道
今井砦の西麗には「鎌倉橋」という橋が架かっており、鎌倉道「中の道」が東戸塚か
ら枝分かれをして金剛寺、子神社、桜ヶ丘、神明社へ抜けた道が通っている。
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戸塚→東戸塚→金剛寺→子神社→新桜が丘→桜ヶ丘→神明社→
⑥.今井川
今井川の流れは長い歴史の中で蛇行や改修工事を繰り返してきたが、今井から法泉町
・保土ヶ谷町を経て帷子川に流れる大きな川の流れは変わっていない。
⑦.今井川に沿った道
①~⑥に存在していた遺跡や古跡など「下の道」から大仙寺を通って今井砦を結ぶ今
井川に沿った道があってもおかしくないし、む
しろ、あったはずである。また、フランス式色
彩地図を見ても旧元町橋付近
から今井へ行く道が川沿いに
通っている。今井川に沿った
処にある薬師堂があった「医
王寺」
。
「元保土ヶ谷」(土地宝
典)はその下に存在する。
元保土谷付近
フランス式色彩地図(現在の元町ガードから今井町)
5.「小机城」に通じる道
保土ヶ谷の地名が記録上に現れるのは、天文24年(1555年)に神明神社の由来
書に「下保土ヶ谷」と記されたものが最初であり、公文書に於いては永禄2年(155
9年)に関東を制した北条氏康によって作成された「小田原衆所領役帳」が最初である。
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「小田原衆所領役帳」とは、家臣らの知行役(夫役「労働の役務」
・金穀「金銭と穀物」)
が記された台帳で現在の課税台帳のようなものである。これにより各地域を支配してい
た領主とその知行高がわかる。また、保土ヶ谷の支配者は小机城の城主であり北条氏康
の七男小机三郎(後の上杉景虎)となっている。当時、小机領はほぼ川崎市全域(川崎
区を除く)と横浜市の北半分に及ぶ広大な地域で南武蔵の防衛の要であったため、いざ
合戦となったおりは小机城に集合することが義務付けられていた。そのため、この時代、
小机城に通じる道は集落にとって重要な要素となっていたはずである。
ちなみに、土地宝典に記載された「元保土ヶ谷」には小机城に通じる道が存在する。現
在の保土ヶ谷 3 丁目 180 番地付近で太田理容店脇から登る小道を明治 15 年のフランス式色
彩地図でみると、樹源寺から来る道と合流して花見台・杉山神社(星川)・星川・峰岡・三
ツ沢・片倉・小机に至る。地図(保土ヶ谷区史 P75 参照)で確認をすると「元保土ヶ谷」
からほぼ真北に「小机城」があり、この道も真北に向かっており「元保土ヶ谷」から「小
机城」が最短距離で結ばれている。
拡大図
小机城に通じる道
現在の道
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6.16 世紀後半の元保土ヶ谷
今井砦の跡地にある板碑(嘉元2年[1304 年]に建立)の存在から、この砦は鎌倉時
代から存在していたと推測される。また、砦の西麗には「鎌倉橋」という橋が架かってお
り、鎌倉道(中の道)を通り鎌倉へ通じていたはずである。昭和30年には六個の石を
蓋とした常滑焼の大きな甕から鎌倉期から戦国期に掛けて使用された100貫はあろ
うかという大量の古銭(唐銭・北宋銭・南宋銭・明銭)が掘り出された。
また、この砦は戦国期に関東を制した北条氏の南武蔵の防衛の要であった小机城の支
配下でもあった。これらのことから、今井砦は鎌倉往還に対する要衝の地にあったもの
と考えられる(保土ヶ谷区史 P79)
。
砦の存在から「今井」は鎌倉期から戦国期にかけて集落があり、当時から交通の要で
あったと推定できる。また戦国期の北条氏康によって作成された 「小田原衆所領役帳」
(保土ヶ谷区史 P72)には「保土ヶ谷」と「今井」が記載されており、この時期今井川で
結ばれた両集落は交流があったことは、ほぼ間違いなく、丘陵地域を登り降りしないです
む起伏の少ない今井川に沿った道が存在したはずである。現に明治 15 年に作成された
フランス式色彩地図には「元保土ヶ谷」(土地法典)と「今井」を結ぶ今井川に接した
道は存在している。このことから小机三郎が支配していた戦国時代も、今井川に沿って
「今井」・
「元保土ヶ谷」・「鎌倉道(下の道)」を結ぶ道は存在していたことは間違いな
さそうだ。
今井の集落も、天正 18 年(1590 年)に小田原城が開城され小田原北条氏の支配が終ると
ともに今井砦は廃城になったが、その後の支配者である徳川家康(天正 18 年 8 月、居城を
江戸に定めた。)は、家臣有田九朗兵衛吉貞に今井村 120 石を与えた。今井村はそれから有
田氏が代々治めたという。
(保土ヶ谷区史 P80)
徳川家康が居城を江戸に定めてから江戸を拠点とした軍事目的の街道整備が行われ、起
伏も少なく、天候に影響を受け難く、江戸から最短距離で結ばれた道路が整備されていっ
た。天正 19 年(1591 年)には、藤沢・戸塚間で道路工事が施工され、慶長 9 年(1604 年)
に代官所に提出された戸塚宿設立許可願の文章の中で「文禄元年(1592 年)には富岡郷(現
在の戸塚)で相応の駄賃を受け取って保土ヶ谷・藤沢に旅人や荷物を送り届けていた。
」と
記載されている。また、慶長元年(1596 年)には江戸から小田原に至る伝馬の状況(馬一
匹を手配することを命じるもの。
)を示す資料に徳川家の奉行四名が連署する「石切り伝馬
手形」がある。江戸・品川・神奈川・保土ヶ谷・藤沢・平塚・大磯の宿中宛となっている
ことから、この頃には保土ヶ谷・戸塚・藤沢間の街道はほぼ整備されてきたと想像できる。
その後、街道整備も一段落した慶長6年(1601 年)1 月には、幕府から「御伝馬の定め」
が与えられ保土ヶ谷宿が正式に成立した。
この当時(1590 年頃~1601 年頃)、元保土ヶ谷も時代の変化にともない人や物資の流れ
が変わり、また街道(保土ヶ谷~戸塚間)の整備も一段と進んできたものと思われる。こ
の時代の元保土ヶ谷を次頁図(
「19 世紀後半の元保土ヶ谷付近」
)のように想像してみた。
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鎌倉期から戦国期にかけての主な人や物資の流れは、今井川に沿った集落ごとの交流
が中心であったと思われるので、「今井」・「元保土ヶ谷」・「鎌倉道(下の道)に沿った
集落」を結ぶ道が主流であったと思われる(下図の①―②)。この頃はまだ権太坂・境
木・品濃へ抜ける道(③)は存在しなかったか、もしくわ、存在しても未整備で人の往来
も殆ど無かった間道であったと推測される。その一つの理由として、起伏のある元保土ヶ
谷と品濃間の交流よりも、起伏の少ない今井との交流が主流であったと思われるが、それ
よりも旧元町橋が、この頃まだ掛けられていなかった可能性が大きい。この場所は、現
在でも地表から川の水面まで4~5mあり、旧公図(下図①)を参考にすると川幅は5
間(9.1m)あり、人の往来が少ないこの時代は橋が架けられていなかったと考えた
方が妥当と推測される。徳川家康が居城を江戸に定めてからは、旧元町橋も完成し、権太
坂・境木・品濃の道も整備され、人の往来も多くなり、人と物資の流れは、江戸・元保土
ヶ谷・権太坂・境木・品濃(下図の②-③)が主流になったと思われる。
⑥
⑦
③
②
⑤
①
④
③ ⑧
19 世紀後半の元保土ヶ谷付近
旧公図①
保土ヶ谷・戸塚間の街道整備が、権太坂・境木・
品濃を通ることになった理由として、この区間が、
より短い距離にあると言うことと、今井川(④-⑤)
と⑥・⑦の川が交わる周辺は湿地帯(旧公図②に面
影が残っている。
)であり、天候に左右されやすかっ
たことも一つの原因であったと思われる。
この頃は、元保土ヶ谷周辺は区画整理もされてい
なかったので権太坂から下りてきた道は⑧の川側に
- 8 -
通っていた可能性がある。また、旧元町橋から樹源寺の間も今井川に沿ったところを通
っていたものと思われる。旧元町橋から樹源寺
の間が約120m、旧元町橋から現在の元町ガー
ド信号まで約270m。旧元町橋が完成し人の往
来が多くなると人家もこの地域に集まり、慶長6
年(1601 年)に幕府から「御伝馬の定め」が与え
られたころには、定められた馬 36 匹のうち元保土
ヶ谷の割り当て分として約半分程度(18~20 頭程
度)の屋敷地を造成することは可能になったと推
測できる。
旧公図②
7.「元保土ヶ谷」が元町
武蔵風土記に「保土ヶ谷町も昔は今の元町のところにありしを、慶安年中、此所に引移
せしと云う、是より元町の名も起これり」と書かれた「元町」。この風土記が編纂された江
戸時代の文化・文政期(1804 年~1829 年)頃の保土ヶ谷町の人達にとって、先祖から言い
伝えられた「元町」は、東海道分間絵図(菱川師宣筆)に描かれた「本町」に違いない。
それを「元保土ヶ谷」として検地帳に地名として残し、昭和初期の土地宝典まで伝えてき
た。現在は権太坂の麓に元町橋・元町ガード・バス停「元町橋」があるので錯覚しがちで
あるうえ、昭和 30 年代初めまで藁葺き屋根のある民家が多い町並みであった土地宝典に記
載された「元保土ヶ谷橋向」のほうが元町としての印象が強いが、やはり「元保土ヶ谷」
が「元町」にふさわしい。さらには、「元保土ヶ谷」は保土ヶ谷のルーツとしてもふさわし
い。
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Ⅳ.戦前使用されていた屋号(資料提供:藤田昇)
以前は、一族同姓であったためか屋号を付けて呼び合っていた。ここで、注目をしたいのが、寅家(小越貞雄)で、言い伝えでは「元町で一番
古い家」と言われていた。菩提寺の大仙寺には大きな墓所(約7m*6m)がある。
道具屋
小林祐司
ざるや
澤田敏夫
かどや
吉田廣次
新田屋
根本和冶
寅 家
小越貞雄
弘
保元屋
石井けさゑ
もちの木
藤田和史
新 家
西田栄一
久津屋
池田 弘
油 屋
西田賢司
透
綿 屋
根本 実
チエン屋
吉川 明
丸 八
石井 透
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擦剥屋
保田和雄
橋 向
高橋晃充
橋 戸
平本芳雄
はずれ
大城正夫
雄
お茶屋
保田幸雄
寺の下
西田吉男
Ⅴ.明治中頃の「絵はがき」から見た元町
1.元町交番から元町ガード方面
明治中頃
現在
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2.元町橋の変遷
明治中頃(写真中央:元町交番から元町ガード方面)
昭和 7 年 7 月(元町ガードから元町交番方面)
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平成初期ごろ
現在
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3.保土ヶ谷町 3 丁目
元町ガードから樹源寺方面(画面左:故藤田清一宅)
明治中期
故藤田清一元町自治会長(5代目)に生前この写真を見せたところ画面左側から2番目
の家は「私の家」と言っていました。故石井恭一元町自治会長(4代目)も同じ事を言っ
ていました。他にも複数の方が保土ヶ谷町3丁目と証言しています。
現在
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4.保土ヶ谷町 2 丁目か。
明治中期
現在(保土ヶ谷二丁目交差点より大仙寺の裏山方向を撮影)
- 15 -
明治中期の写真は、現在の保土ヶ谷二丁目交差点付近から大仙寺の裏山方向に撮影した
写真ではないか。二つの写真は、なんとなく雰囲気が似ている。そこで明治中期の写真が
撮影された場所を考えてみたい。この写真は、
「1(元町交番から元町ガード方面)」と「3
(保土ヶ谷町 3 丁目)」の写真と同じ撮影者で同じ日に撮影されたものと思われる。「1」
については権太坂下から保土ヶ谷駅方向に撮影され、
「2」については保土ヶ谷町 3 丁目か
ら保土ヶ谷駅方向に撮影されている。撮影者は「1」から「3」を撮影後、
「4」へ移動し
て保土ヶ谷駅方面の風景を撮影したと考えられる。
現在、国道 1 号線の保土ヶ谷 2
丁目交差点から外川神社まで国
道拡幅工事の整備事業の一貫で
松並木が復元されていますが、
江戸から明治・大正のころまで、
この地帯は松原と呼ばれていて
松並木があったと言われている。
また、写真中央(明治中期拡大
写真)を見ると、この道は右に
カーブしている。このカーブに
着目をすると、フランス式色彩
地図においても、茶屋町橋(地
図中央)左側、外川仙人付近で、
明治中期拡大写真
フランス式色彩地図(地図中央:茶屋町橋)
←(拡大図)
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土地法典(
「松下」と「道祖神脇」の間が現在の岩崎ガード)
保土ヶ谷駅方向に右にカーブをしている。土地法典においても、現在の岩崎ガード(土
地法典、
「松下」と「道祖神脇」の間)付近から茶屋町橋方向にかけて右にカーブをし
ている。このことから、明治中期の写真は、保土ヶ谷二丁目交差点よりもう少し保土ヶ
谷駅方面に行った岩崎ガード付近から外川神社にかけて撮影されたものと考えられる。
本堂裏山の樹木
もう一つ保土ヶ谷
町2丁目と想像させ
るものがある。左の
絵(大仙寺所蔵)は
鉄道開通前の大仙寺
を描いた墨絵ですが、
本堂裏山の樹木と明
治中期の写真に共通
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拡大写真
する描写が見受けられる。上記
拡大写真は方角から考えて大仙
寺裏山方向と思われ、この場所
にも同じような樹木が見受けら
れる。明治中期の写真は保土ヶ谷町2丁目から撮影されたものと想像を掻き立てられる。
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Ⅵ.航空写真で見た元町
1.昭和 11 年
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2.昭和 21 年
現在の元町橋交番から保土ヶ谷 2 丁目交差点までの国道 1 号線は、まだ開通していない。
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3.昭和 38 年
高度経済成長へ、田・畑・丘が住宅地に。横浜新道(左下)を通行する自動車の数が少な
いのが印象的。
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4.昭和52年
保土ヶ谷バイパスが開通し、経済成長とともに丘陵地が住宅やマンションへ。車社会に
なり幹線道路も交通渋滞が。
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5.昭和63年
狩場インターが完成し、保土ヶ谷バイパスと横浜横須賀道路がつながりました。また、
首都高速道路も工事中で完成までもう一歩。
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Ⅶ.大正中期からの原風景
1.保土ヶ谷町3-222(石井宅)から元町ガード方面を見る
丸八味噌醸造店(大正中期)
昭和初期
昭和40年頃(遠藤宅から元町ガード方面)
現在
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2.保土ヶ谷町3-226(池田宅:久津屋)から元町ガード方面
昭和30年夏(写真提供:吉川明)
昭和31年正月
(写真提供:吉川明)
現在
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3.西田宅(新家:保土ヶ谷町3-231)の茅吹屋根葺き替え
写真中央左
現在
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4.明治中期の高橋宅(高橋姓の本家:権太坂1-1-28)
明治時代中頃の高橋金物店(写真中央)
現在
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5.保土ヶ谷三郵便局から元町自治会館方面
昭和初期
現在
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6.村瀬宅の移り変わり(保土ヶ谷町3-221)
昭和初期の村瀬宅(写真中央のわらぶき屋根の家)
昭和20年代の村瀬宅(写真提供:村瀬慶一)
現在
現在
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7.保土ヶ谷町3-194(根本宅)から元町自治会館方面
昭和30年代前半
現在
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8.元町ガードから樹源寺方面
昭和10年代から20年代中頃の風景(写真提供:若林亮生)
平成初期
現在
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9.元町自治会館から樹源寺方面
① .保土ヶ谷町3-183(保田宅:擦剥屋)から
昭和初期(油障子戸に丸八商店とある。)
現在
元町ガードが開通するまでは、今井町・法泉町方面から樹源寺を経て保土ヶ谷駅方面に行く
場合、元町付近図に示されているように、JR線から元町自治会館に抜ける道を通行していた。
丸八商店も今井町方面から米・大豆などを買い付ける出店として上記写真の店を設けていた。
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②.保土ヶ谷町3-183(平本宅)から
昭和22年頃(写真提供:太田理容店)
現在
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③.保土ヶ谷町3-179(萩原宅)から
昭和22年頃(写真提供:太田理容店)
現在
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10.太田理容店裏山から法泉町方面
昭和 20 年代前半(写真提供:若林亮生)
昭和 30 年代前半
(写真提供:太田理容店)
現在
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11.太田理容店裏山より狩場町方面
昭和30年代前半
(写真提供:太田理容店)
現在
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12.帝釈天裏山より
①.狩場町方面
昭和20年代後半
(写真提供:藤本
現在
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薫)
②.元町橋交番方面
昭和20年代後半
(写真提供:藤本
現在
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薫)
13.権太坂入口から 2 番坂にかけて
権太坂入口(昭和 7 年 7 月)
「武州相州延命地蔵尊」と書かれた立札が見える。
(写真提供:若林亮生)
現在
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現在(1 番坂)
権太坂 1 番坂(昭和 30 年頃)
(写真提供:若林亮生)
現在(2 番坂)
権太坂 2 番坂(昭和 30 年頃)(写真提供:若林亮生)
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14.権太坂から初音ヶ丘方面
昭和 20 年代前半
(写真提供:若林亮生)
現在(グランシティー保土ヶ谷から)
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15.元町橋交番から
この写真は、境木本町の若林亮生さんから提供されたもので祖父の若林喜助さんが昭和 7 年
7 月 10 日に撮影したものです。画面右側にトロッコのレールが写っているが、同じ日に撮影さ
れた、権太坂入口と元町橋の写真にも同じトロッコのレールが写っている。このことからレー
ルの延長線で撮影されたものと思われるので、現在の元町交番から戸塚方面を撮影した風景で
はないか。
元町橋
権太坂入口
現在
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16.狩場町から
①.富岡商会(鎌倉ハム)からから初音ヶ丘方面
昭和30年代前半
現在
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②.グリーンヒルズ横浜 G 棟より岩崎町方面
現在
トヨタカローラ神奈川(株)
屋上より
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③.昭和 30 年頃の箱根駅伝
丸政食堂と兵隊山(写真提供:太田理容店)
現在
(テレビ中継されるように
なって大勢の見物人が沿道
に集まるようになった。
)
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17.樹源寺の欅
現在
本堂の脇に
残る大欅の
一部
この写真の正面に大欅があった
樹源寺の大欅と白蛇
寺号の由来でもありました樹源寺の大欅は七百有余年の樹齢をほこり、その幹は大人三人が腕を
伸ばしてやっと抱えることが出来る程の太さがあった。当山の象徴として広く人々に親しまれていま
したが、
(残念なことにこの欅は排気ガス等による空気汚染のために枯れ、昭和四十五年に伐採さ
れました。)この大欅の主が当山二十一世日建上人の夢枕に出現した話が残っています。
「上人こ
の時大病で茅に横になっていると、夜中天女が来て申すには我は欅の空洞に棲む白蛇である。朝
夕響く法華経讀誦の聲にもはや成仏の因も芽してきた。即ち我れを源龍大善神と敬いくれるなら
ば、汝の病、たちどころに平癒するであろうと告げると思えば夢醒めた。そこで早速、欅の洞穴
に小祠を設け祈ると、忽ち快癒してしまった、それからこの大樹にしめ縄をはりめぐらした。
」
(こ
の文章は昭和四年十二月二十九日付普通新聞に掲載されたものです。
)
「樹源寺ホームページより」
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18.今井川改修工事で「もとまち広場」が誕生。
平成 10 年から 15 年頃、今井川改修工事によって「もとまち広場」が誕生しました。
改修工事に伴いまた景色が変わりました。(改修工事完成前の写真提供:村瀬慶一)
「もとまち広場」
(現在)
以前の「宿場橋」
工事中の風景
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あとがき
古えの出来事をイメージして推測するのは土台無理なこと、つまりその基が地図のみで有
り困難と言える。ただ武蔵の風土記より少しは昔の街道を偲ぶことができるが、物語として
記すことはむずかしい。
それでも昔はこんなところだったのではと推察して記録をたどることは、これ又楽しこと
と思う。
いずれにしても、全国に名を馳せた東海道、その中でも港横浜に隣接する保土ヶ谷元町は、
もっともと論じても良いところ。
所謂長老が次第に消えていく中で、昔のことを語り継ぐことは今を生きる私たちの責務と
考え、これからも機会あるごとに本書を補完していきたい。元町にはいろいろな出来事があ
る。投げ込み谷、東海道線ができたとき川の流れの変化、人家の流れなど、できる限りの情
報を収集して掲載していきたい。
元町自治会 会計 高橋正治
編集を終えて
私が散髪に行く太田理容店で、先代が撮影した戦後初めてのお祭りの写真を見せてもらった。子供の頃可愛がってもら
った人がたくさん写っていたが、撮影された場所が解らなかった。いろんな人に聞いて行くうち、昔のことで話が盛りあ
がりました。私の祖父や父が残した元町の古い写真があったので、自治会の回覧版で、古い写真の収集を呼びかけたので
すが、古いものなので既に処分されていたり、古いアルバムのどこかに眠ってしまっていて、なかなか集まらなかったの
ですが、現在の場所と比べるとなかなかおもしろい風景に気づかされ写真集に纏めようと思い立ちました。
昭和から平成の時代になった頃、保土ヶ谷宿400倶楽部で保土ヶ谷宿の歴史に接する機会があり、武蔵風土記に元町
の記述があることを知りました。子供のころ茅吹屋根の民家が建ち並んでいた我が家から元町ガードに掛けての町並みが
雰囲気からして元町と思っていましたが、武蔵風土記に記載された元町は場所が違うと指摘され、その時から頭の中で疑
問のまま残っていました。郷土史に詳しい人の話を聞いたりしているうちに、何となく元保土ヶ谷の存在を知るようにな
りました。ある時、土地法典を見たとき「元保土ヶ谷」から見て旧元町橋の対岸にある「元保土ヶ谷橋向」の地名がある
ことに気づきました。このことから「元保土ヶ谷」が元町と思うようになり、興味を持つようになりました。
古い写真を纏めているうち、元町の原点「元保土ヶ谷」のことも纏めてみようと思い立ち「元町の原風景」という題名
にしてみました。400 年以上前のことなので事実ではなく、あくまでも一つの推測です。ただ、単なる推測で無く歴史的
資料に基づいた推測として記憶に残して戴ければ幸いです。
この文章と写真収集に多くの方のご協力をいただき、ようやくこのような形にまとめることができました。厚く御礼申
し上げます。また、本書に搭載した人物・写真提供者の敬称は省略させて戴きましたこと、お詫び申し上げます。
元町自治会副会長 石井 透
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