1 - 隠岐ユネスコ世界ジオパーク

巻
頭
言
2009年10月28日、隠岐諸島が日本ジオパークに認定されました。
30億年前の大陸の時代から現在のような離島になった隠岐諸島の形
成過程を、地質というキーワードを通じて誰でも学び楽しむことがで
きるのが隠岐ジオパークです。
日本列島の成り立ちや植物分布の経緯を、小さな島の中で凝縮して
観察できることが隠岐ジオパークの最大の特徴であり、隠岐の地域
資源を基に日本列島や地球規模の環境変化まで理解することができま
す。
認定の背景には、こうした学術的に極めて価値の高い資源が今なお
残存していることはもとより、これまで「隠岐の文化財」に寄稿して
いただいた方々の調査研究や地域活動も大きな要因でありました。
隠岐諸島の歴史や自然環境など、多様な地域資源の貴重性を知るこ
とで、日頃見慣れた景色にも親しみや興味を持ち、保全と活用の意義
を肌で感じ取ることができるのではないかと考えております。
子どもたちもまた、世界に誇れる隠岐の魅力を学ぶことによって、
自信と誇りに彩られた郷土への想いを膨らませてくれるものと期待し
ております。
こうした意味でも、
本誌は大きな役割を担っております。今後も「隠
岐の文化財」がますます充実した内容で受け継がれていかれることを
願っています。
ジオパークは、幾世紀にもわたって変動してきた地球と人類との壮
大なドラマを理解する場所として、今、日本国内各地で積極的に取り
組みが展開されております。
世界ジオパーク認定は、隠岐島全域の地域振興や教育活動の普及な
どに大きな成果が得られるものと考えております。今後は、「隠岐ジ
オパーク推進協議会」の更なる体制充実の下、2011年の世界登録申請
および2012年の世界ジオパーク認定へ向けて全力で取り組んでまいり
ますので、関係機関のなお一層のお力添えとご理解をお願い致します。
本誌の発行にあたり、ご執筆と編纂に多大なご苦労を重ねられた諸
賢に深く感謝の意を表し、巻頭の言葉といたします。
隠岐の島町教育委員会 教育長 藤田 勲
世界ジオパークについて
ジオパークとは、科学的に見て重要な、あるいは美しい地質
遺産を有する一種の自然公園のことですが、大地の上に成り立
つ生態系や文化・歴史などを含む総合的な公園でもあります。
2004 年にユネスコの支援により設立された世界ジオパーク
ネットワークには、現在、世界 20 カ国 64 地域が世界ジオパー
クに認定されており、日本国内においては 2008 年に日本ジオ
パークネットワークが設立されました。
2010 年 3 月現在では 29 地域においてジオパークの活動が推
進されており、隠岐を含む 11 地域が日本ジオパークに認定され
ています。
(うち、洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島の 3 地域は
2009 年 8 月に世界ジオパークに認定されています。)
〔隠岐の島町教育委員会〕
目
次
隠岐・島後に産出する黒耀石について
1
吉谷昭彦
隠岐の海洋生物に思う
13
幸塚久典
隠岐のジオサイト紹介
23
島根地質百選選定委員会
L . ハーンが情報提供した山陰道と隠岐の英文旅行ガイド
47
岡崎秀紀
隠岐新産植物3
59
丹後亜興
お詫びと訂正
60
西ノ島町古文書教室
『構造・神話・労働』
1
松浦道仁
天明五年におきた海難事故の記録
10
海士町古文書教室
新刊紹介
「大般若波羅密多経全 600 巻修復」
知夫村文化財保護審議会委員長 山 穂
17
20
隠岐・島後に産出する黒耀石の原産地同定
のための化学分析について
吉谷昭彦1)
〒 680 − 0945 鳥取市湖山町南2丁目 147 − 21
Studies on the Chemical Experiments for Identification of
Source Points of Obsidian Rocks Distributed in Dogo, Oki Islands
YOSHITANI Akihiko
147-21, Minami- 2chome, Koyama- cho, Tottori City, Tottori Prefecture, Japan、680-0945
1)
はじめに
隠岐・島後に分布するアルカリ流紋岩(隠岐流紋岩)に伴って、黒耀石が産出
することは広く知られている。アルカリ流紋岩は新第三系鮮新統に属し、その殆
どが乾陸での噴出物である。後述するように黒耀石はアルカリ流紋岩の産状と同
様に溶岩流や、貫入岩など、多様な産状を示す。時には松脂岩、真珠岩を伴う。
黒耀岩は一般には黒耀石と呼ばれているが、岩石学の分野からみると鉱物の集
合体である黒耀石は、本来的に黒耀岩と呼ぶべきであると思うが、従来の慣例に
従って「黒耀石」と記述する。
黒耀石は火山ガラスであり、しなやかな硬さと鋭利な切れ味、さらには細工が
容易であることなどから、古くは後期旧石器時代から石器の原材として利用され
てきた。京都府から山口県にかけての日本海に面した地域では、パーライト(真
珠岩)や松脂岩が分布するが、隠岐・島後が黒耀石を石器原材として採取できた
唯一の原産地であった。隠岐・島後の黒耀石が石器時代のいつごろから石器製作
の原材として利用されるようになったのかについては、残念ながら考古学専門で
ない著者の手元には発掘遺跡の報告書などがないため、明らかにすることが出来
ない。したがって考古学関係の書籍に記述されている事例を引用させて頂く以外
に方法が無い。
稲田 (2001) は後期旧石器時代の湧別技法による細石刃石器が中国・四国地方お
よび近畿地方に分布する遺跡から出土している、あるいは採集されていることを
記述している。とくに黒耀石製の石器類に関しては、兵庫県南大塚古墳の墳丘崩
壊土から黒耀石製の削片が採集されたことをあげ、同時に隠岐・島後の黒耀石が
用いられたことをうかがわせる図を示している。
いずれにせよ、旧石器時代から隠岐・島後の黒耀石が石器製作の原材として用
いられていたことは確かであろう。しかし、本土の遺跡から出土あるいは採集さ
れた黒耀石製石器が、隠岐・島後のどの地点の黒耀石を用いて作られたのかにつ
いては明らかでない。
近年に、久見および加茂地区の黒耀石原産地で、後期旧石器時代の原産地遺跡
の存在が明らかにされている(竹広文明,2009 ほか:八幡浩二氏の個人的情報)。
−1−
また、以前から隠岐・島後産の黒耀石が遠くシベリア付近にまで渡っている、と
の説がマスコミに流れたために多くの人達に信じられてきた。この説の真偽につ
いても論及しておきたい。本論文の主体は、隠岐・島後の原産地の黒耀石の化学
分析を行い、化学組成による原産地の区分について記述することにある。
隠岐・島後での黒耀石原産地
島後での黒耀石の産出地点は、島後全体に分布して約 9 地点に及ぶ(図1)。黒
耀石の産状は、溶岩 もしくは貫入岩として確認される地点は少なく、火砕岩中の
礫や二次堆積物中の礫として産出することが多い。
島後の北西端に位置する久見(くみ)集落の背後の日本海に絶壁で面する山地
には、4 層の黒耀石の溶岩 およびいくつかの小規模な貫入岩体が認められる(吉
谷ほか、2004a・b)
。久見の黒耀石産地は著名で、後述するように山陰地域の本
土の遺跡から出土する黒耀石は、
躊躇無く「久見」産の黒耀石であると鑑定される。
岩質は極めて良質の黒耀石で、流理構造が顕著である。
島後南東端の男池・女池(おいけ・めいけ)には、パーライトの小球粒を多量
に伴うガラス質流紋岩溶岩が認められる。とくに海岸付近には良質の拳ほどの黒
耀石礫が多数採集される。流理構造がよく発達する。しかし、黒耀石溶岩本体の
存在は確認されない。
島後南部の加茂地区には、林道沿いに黒耀石溶岩およびその二次的堆積物の露
頭が認められる。流理構造はほとんど認められない、やや軟質の黒耀石で石器製
作の原材として利用された可能性がやや少ないように思われた。しかし、黒耀石
の原産地としてはかなり規模の大きいものである。
隠岐・島後には既述したように、アルカリ流紋岩類は溶岩、溶結凝灰岩を含む
軽石流堆積物、降下火砕物などの地質系統からなる。アルカリ流紋岩溶岩中に随
所に存在するレンズ状、楕円体状の黒耀石塊、あるいは火砕岩中の黒耀石礫など
が認められる。パーライト質溶岩や貫入岩も多く、これらの地質系統には、小球
状のパーライト質黒耀石が多く認められる。このような小規模な黒耀石の分布地
域には、時として良質な黒耀石礫が表採あるいは地質系統から直接に採集される
ことがある。
島後南部地区の岬町には、拳程度の大きさの黒耀石礫が表採される。この黒耀
石は流理構造の発達は見られないが、硬質で良質な黒耀岩である。しかし、母岩
は確認できない。そのほか島後南部域の蛸木(たくぎ)、東海岸部の犬来(いぬぐ)、
西部域北部の長尾田(なごうだ)では、ごく少量であるが良質な黒耀石礫が採取
されることがあるが、多くは流紋岩質火砕岩にふくまれるパーライト質ガラスの
小黒耀石礫である。
以上が主な黒耀石の原産地である。ここで、石器製作の原材として利用される
ことが無かったであろうと思われる原産地でも、時には良質の黒耀石が採集され
ることがあるので、以上に記述した黒耀石原産地については、すべて化学分析の
対象とした。なお、図 1 にはを用いた。
隠岐・島後における黒耀石の原産地については、2000 年の時点で判明している
ポイントにつて記述しており、2000 年以降にも新しい黒耀石原産地が確認されて
いるが、本論文では新原産地については記述していない。
−2−
9
8
1
32
5
7
4
6
図1 隠岐・島後に分布する黒耀石の原産地
黒耀石の化学分析 ― 方法と精度について ― 黒耀石を分析する場合の試料の調整法については、吉谷ほか(2004a)に詳
細に記述されているので、本論文では省略する。
黒耀石の化学分析法は多様であるが、主たる方法には EPMA(ElectronMicroProbe Analyzer) 法、 蛍 光 X 線 分 析 法、 放 射 化 分 析 法 で あ る( 吉 谷 ほ か、
2004a)。これらの分析法はそれぞれに特徴があり、また分析精度、分析値処理
法も異なる。
EPMA 法は主要元素の分析に適しており、岩石・鉱物などの化学分析法とし
て定着している分析法である。
蛍光 X 線分析法は、微量元素の分析に適している。この分析法には 2 つの方
法がある。波長分散蛍光 X 線分析法(Wave Dispersion X-ray Analysis 略称、
−3−
WDX 法)およびエネルギー分散蛍光 X 線分析法 (Energy Dispersion X-ray
Analysis 略称、EDX 法 ) に分けられる。現在、黒耀石の化学分析には蛍光 X 線
分析法が主流となっている。
放射化分析法は、痕跡元素の分析に適しており、最近では痕跡元素の分析結果
から、黒耀石試料の特徴を明らかにする試みが増加してきている。
以上の分析法にはそれぞれ異なる分析精度が存在する。まず放射化分析法につ
いてみると、かなりの量の標準試料を準備する必要があり、また標準試料の測定
条件とほぼおなじ条件にして照射をしたとしても、放射線がスリットを通過して
鉄の箱の中でランダムに跳ね返り、破壊・粉末化した分析試料に同一条件の照射
が行われる確率が 100%となる可能性はない。したがって、放射化分析法も分析
精度および分析結果の処理に注意を払う必要がある。
黒耀石の化学分析法でほぼ定着している蛍光 X 線分析法は、既述のように
WDX 法と EDX 法がある。一般に前者は後者よりも分析精度が高いと認識され
ている。分析精度も蛍光 X 線のビームの径、分析試料の均質の程度、などによっ
て大きく異なる。考古学分野からは、黒耀石の分析を非破壊で行うことを望むケー
スがほとんどである。この場合、黒耀石試料はエアーブラシなどを使用して、水
和層など、風化殻を出来るだけ除去するようにしているが、試料そのものが不均
質であるため、ひとつの試料でかなりのX線照射のポイントを設定しなければな
らないし、分析結果について確率・統計論の方法を導入して補正する必要がある。
著者が行った WDX 法による化学分析は、試料を破壊して粉末化し、均質化し
て、径 1cm のリング試料に調整し、ビーム径が 1cm の蛍光X線を照射して分析
を行った。このような試料の調整については吉谷ほか(2004a)に示されている。
以上の方法で行った WDX 分析法で得られたデータに関しては、確率・統計処理
は必要が無く、分析誤差も小さく、かつ、狭い範囲で正規分布を示している。隠岐・
島後産の黒耀石の分析は、破壊・粉末化試料を用いた WDX 法、EDX 法、放射
化分析法による分析である。標準試料は、JG-1(地質調査所)を用い、分析値は
標準試料に対する標準化値として求めた。WDX 法の分析精度は±5%程度の測
定誤差である。
表1 隠岐・島後の黒耀石原産地と採取した試料
地点番号
地域名
試料記号
試料番号
1
犬来 ( い ぬ ぐ)
OSI
OSI −1∼ 4
2
男池 ・ 西 側 、 海 岸
OSOW
OSOW −1∼ 6
3
男池 と 女 池 の 間 の 海 岸
OSOK
OSOK −1∼ 5
4
岬町
OSMI
OSMI −1∼ 3
5
加茂
OSKR
OSKR −1∼ 3
6
蛸木 ・ 旧 ト ン ネ ル入 り 口
OT T
OT T −1∼ 11
7
蛸木 ・ 海 岸
OT TS
OT TS −1∼ 2
( Continued )
−4−
8
9
OGN
OGNU
長尾 田( な ご う だ)
久見
OGK
OGN − A −1
OGN − B −1∼ 3
OGN − E −1
OGNU −1
OGK − Ⅰ − A −1∼ A −
11
OGK − Ⅰ − B −1∼ 3
OGK − Ⅰ − C −1∼ 3
OGK − Ⅰ − D −1∼ 3
OGK − Ⅰ − E −1∼ 5
OGK − Ⅰ − F −1∼ 3
( OGK − Ⅱ ∼ Ⅵ の 71 個 の 試
料 を 省略)
表2 隠岐・島後の黒耀石の分析値(粉末試料の WDX 法による) ( 酸化物は 重量% で 表示 ,Rb,Sr は 標準化値)
原産
地
試料番 号
Na2 O
K2 O
C aO
T-Fe2 O3
Rb
ppm
原産地
Sr
ppm タイプ
犬来
男池
男池と女池の間
岬町
OSI − 1
3.6 8 1
5.5 1 9
0.639
2.174
185
2
犬来
OSI − 2
3.6 2 5
5.4 6 7
0.637
2.176
184
1
犬来
OSI − 3
3.8 6 8
5.4 9 3
0.653
2.095
185
1
犬来
OSI − 4
3.8 2 5
5.9 1 5
0.699
2.410
166
OSOK −1
3.741
5.659
0.667
2.169
183
6
男池
OSOK −2
3.865
5.578
0.635
2.074
185
0
男池
OSOK −3
3.847
5.587
0.633
2.082
185
1
男池
OSOK −4
3.784
5.617
0.645
2.113
183
3
男池
OKOS −5
3.750
5.566
0.635
2.067
186
2
男池
OSOW −1
3.828
5.638
0.643
2.080
186
2
男池
OSOW −2
3.800
5.612
0.637
2.092
186
2
男池
OSOW −3
3.700
5.553
0.631
2.077
184
2
男池
OSOW −4
3.925
5.587
0.643
2.092
185
5
男池
OSOW −5
3.756
5.536
0.627
2.085
185
1
男池
OSOW −6
3.641
5.553
0.635
2.100
186
2
男池
OSMI −1
4.102
4.699
0.429
2.153
226
−6
岬町
OSMI −2
4.002
4.716
0.423
2.156
226
−7
岬町
OSMI −3
3.959
4.631
0.415
2.143
224
−8
岬町
24 ( 安山岩 )
( Continued )
−5−
加茂蛸木
トンネル入口
蛸木
蛸木
蛸木
長尾田
久見露頭Ⅰ
OSKR −1
3.441
5.245
0.635
2.184
183
−3
加茂
OSKR −2
3.831
5.459
0.637
2.278
182
−3
加茂
OSKR −3
3.706
5.497
0.639
2.241
183
−4
加茂
OTT −1
3.778
5.335
0.663
2.225
184
−5
蛸木
OTT −2
3.550
5.501
0.663
2.242
181
−5
蛸木
OTT −3
3.819
5.489
0.657
2.347
181
−6
蛸木
OTT −4
3.815
5.501
0.665
2.357
178
−8
蛸木
OTT −5
3.893
5.373
0.661
2.316
182
−4
蛸木
OTT −6
3.978
5.292
0.669
2.397
182
−8
蛸木
OTT −7
3.769
5.245
0.663
2.387
182
−6
蛸木
OTT −8
3.978
5.318
0.673
2.405
183
−7
蛸木
OTT −9
3.722
5.467
0.673
2.255
180
−4
蛸木
OTT − 10
3.834
5.501
0.677
2.245
178
−8
蛸木
OTTS −2
3.538
5.301
0.659
2.235
180
−4
蛸木
OGN-A- 1
3.731
4.358
0.301
1.935
257
− 8 長尾田Ⅰ
OGN-B- 2
3.728
5.271
0.765
2.830
171
− 8 長尾田Ⅱ
OGN-E −1
3.663
5.216
0.757
2.804
172
− 8 長尾田Ⅱ
OGNU −1
3.884
4.302
0.295
2.034
261
− 8 長尾田Ⅰ
OGK-Ⅰ-a-1-1
3.735
4.711
0.558
2.049
214
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-1-2
3.898
4.907
0.554
2.051
213
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-1-3
3.635
4.628
0.546
2.050
211
−5
久見
OGK-Ⅰ-a-1-4
3.925
4.782
0.560
2.049
212
−5
久見
OGK-Ⅰ-a-1-5
4.001
4.805
0.562
2.049
213
−6
久見
OGK-Ⅰ-a-2
3.982
4.796
0.559
2.058
211
−8
久見
OGK-Ⅰ-a-3
3.899
4.761
0.556
2.053
212
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-4
3.974
4.800
0.560
2.047
212
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-5
3.943
4.796
0.555
2.040
212
−8
久見
OGK-Ⅰ-a-6
3.645
4.678
0.546
2.025
209
−9
久見
OGK-Ⅰ-a-7
4.034
4.800
0.555
2.050
211
−7
久見
( Continued )
−6−
久見露頭Ⅰ
OGK- Ⅰ -a-8
3.960
4.784
0.553
2.033
214
−6
久見
OGK-Ⅰ-a-9-1
3.989
4.789
0.563
2.046
214
−8
久見
OGK-Ⅰ-a-9-2
3.999
4.810
0.562
2.049
212
−9
久見
OGK-Ⅰ-a-9-3
3.972
4.803
0.558
2.047
214
−9
久見
OGK-Ⅰ-a-9-4
4.069
4.818
0.565
2.044
212
−8
久見
OGK-Ⅰ-a-9-5
4.014
4.821
0.559
2.049
213
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-9-6
3.966
4.810
0.558
2.039
211
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-9-7
4.025
4.807
0.560
2.057
212
−6
久見
OGK-Ⅰ-a-9-8
3.984
4.793
0.560
2.039
212
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-10-1
3.979
4.789
0.561
2.053
211
−7
久見
OGK-Ⅰ-a-10-2
3.956
4.825
0.554
2.062
212
−7
久見
( Continued )
黒耀石試料を粉末化することも試料の均質化には重要であるが、黒耀石岩体(溶
岩、貫入岩)や黒耀石礫の部位において、化学組成が異なるようなことであれば、
化学分析結果に重大な問題が生ずることになる。このことについては、吉谷ほか
(2004a)がすでにチェックを済ませており、黒耀石岩体や礫において異なる部位
間での化学組成の偏差は小さいことを示した。
隠岐・島後産黒耀石の化学分析および測定結果について記述することは、かな
りの量のデータになるため、WDX 法によるデータを主にして示した。
黒耀石の原産地同定に関する問題
考古学分野では、発掘した遺跡から出土した、あるいは表採した黒耀石製石器
や剥片の黒耀石原産地がどこであるのかを知るためには、それらの化学分析を行
うことは重要である。しかしながら、黒耀石原産地の化学分析値が確実に既存し
ていなければ、原産地特定は困難である。
また、黒耀石の化学分析値がどの分析方法によって得られたのかも重要な問題
である。誰もが放射化分析法で得られた破壊・粉末化した試料の分析値と、非破
壊試料を EDX 法で分析した分析値とを照合するようなことはしないであろう。
黒耀石の原産地特定で、重要なことは同じ分析法によってえられた原産地黒耀石
の分析値と黒耀石試料の分析値とが照合出来るということである。したがって異
なる分析法ごとの黒耀石の分析値アトラスが必要になる。
発掘した遺跡から出土した黒耀石試料の化学分析が行われて、分析値が得られ
たとする。まずそれらの分析値によっていくつかのタイプ「Obsidian Type」に
分けられる。それぞれの Obsidian Type のうち、最も出土頻度が高いものが、そ
の遺跡を代表するとして「Site Type」の位置を占める。もちろん、複数の Site
Type が存在する可能性があり、Site Type Ⅰ , Ⅱ ,・・・と分けられるケースも
生まれよう。Obsidian Type, Site Type がそれぞれの分析値から、いずれの黒耀
−7−
石原産地(Source Point Type)の分析値に該当するかを検討することによって、
遺跡と黒耀石原産地を結ぶ人類の社会的動態が浮かび上がってくるのである。も
ちろん、同じ化学分析法のよる分析値を用いなくてはならないことは言うまでも
ないことである。このような手法を用いて Yoshitani et.al.(2004b)は、ロシア・
沿海州南部での遺跡と火山ガラス(黒耀石を含む)原産地との関係を、WDX 法
の化学分析値によって明らかにしている。
WDX 法および EDX 法による分析値の間には、破壊・粉末試料を対象にして
いる場合には、さほど問題になる相違はあまり無いと言ってよい。しかし、シベ
リア・北東端のアナデイール州・Lake Krasnoye(赤い湖)産の黒耀石は、破壊・
粉末試料での WDX 法分析では2グループに分けられるが、非破壊試料の EDX
法分析では、1グループしか認識できない。このことはそれぞれの分析法の精度
の相違と、試料の均質さによるものと考えられる (YOSHITANI et.al. in press)。
日本の黒耀石についても、破壊・粉末試料の WDX 法と、非破壊試料の EDX 法
との分析結果の比較に同様の相違が認められることがある。
次に非破壊試料の EDX 法分析結果の確率・統計処理について検討してみよう。
確率論からみて、仮に 1.0 の確率が妥当であると判断すると、100 個の黒耀石を
石器製作に使用した場合、1 個の黒耀石が使用された確率となり、その化学分析
値が 1.0 の確率で原産地特定に有意であると判断する。また、0.5 の確率が有意
であるとすれば、使用された 1,000 個の黒耀石のうち、5 個の黒耀石が同じ化学
組成を示すと考え、それらの黒耀石の化学分析値は 0.5 の確率で原産地を特定で
きるとする。この場合、見方を変えれば 99.5% の確率で原産地の黒耀石に同定で
きないことになる。実際にはかなり高度な数理解析が必要であるが、簡単に理解
して頂くために大略的な解説を行っている。このように確率論による分析値デー
タの処理に、どのような方法を施すのかによって、原産地特定や遺跡から出土し
た黒耀石との同定にかなりの相違が生じてくることになる。
後期旧石器時代あるいは石器時代に隠岐・島後産、とりわけ久見産黒耀石がい
かなるルートを経て遠くウラジオストク付近やアムール川河口付近にまで運ばれ
たのか……この物語を作り出したのが「確率統計論」なのである。すなわち、ウ
ラジオストク付近やアムール川河口付近に分布する後期旧石器遺跡から出土した
黒耀石を、非破壊試料で EDX 法による分析を行い、その化学分析値をある想定
した確率、たとえば 0.5 の確率で検討した結果、ある黒耀石原産地の分析値にほ
ぼ同定された、と言うことである。確率・統計論に関しては、多くの問題が指摘
されている。EDX 法による化学分析を行う研究者はさほど多数ではないが、研究
者によって用いる確率・統計処理法が異なる。このため遺跡から出土した黒耀石
の同定や原産地特定に相違が現れる。統一された確率・統計論を期待するのはか
なり難しいのが現状である。むしろ考古学分野の研究者に期待したいのは、黒耀
石の剥片や石器製作時の黒耀石片を、計測・記録・記載・撮影などのデータを残
して破壊・粉末試料にして WDX 法による化学分析を行うようになれば・・と思
う次第である。それが最善の方法であるが、現実に困難であるならば、分析者に
確率・統計論の妥当性ないし限界を聞きただすことが必要となろう。
隠岐・島後産黒耀石の場合と事情が異なるが、北海道・白滝や置戸産黒耀石が
ウラジオストク付近の後期旧石器遺跡から出土する、とのニュースをマスコミに
流した研究者がいた。本人に事実を確かめたところ、彼の言は「可能性があると
−8−
の思いで話した」と言うことであった。このマスコミの報道を事実として信頼し
て出版した本に記述したある著名な大学教授がおられた。先陣争いも結構である
が、確かなデータがない「お話」では国際的な批判を受けかねないことになるし、
多くの方々に迷惑をお掛けすることにもなる。
隠岐・島後産黒耀石の化学組成による分類
隠岐・島後に産出する黒耀石試料を原産地から系統的に採取して、破壊・粉末化
試料に調整し、WDX 法などによる化学分析を行った。試料番号や分析値などは表
1・2 に示した。一部の分析値(Sr − Zr)は破壊・粉末化試料の EDX 法による分
析値を用いた。まず Sr – Rb 相関図(図 2)で示されているように、3 グループに
分類され、長尾田Ⅰが明確に区分された。次に岬町・久見のグループと犬来・男池・
加茂・蛸木・長尾田Ⅱのグループの細分類を、T − Fe 2O 3― CaO 相関図(図
3)に基づいて行った。図 3 から明らかなように、岬町、久見、長尾田Ⅱが新たに区
分された。未区分の黒耀石は犬来・男池・加茂・蛸木である。これら未区分の黒
耀石の細分は、Zr − Sr 相関図(図 4)を用いて行った。図 4 に示されているよう
に、犬来・男池、加茂、蛸木の 3 つに細分され、以上の検討によって隠岐・島後産黒
耀石の原産地タイプ(Source Point Type)が明らかとなった。
分析値に基づく原産地タイプ
(Source Point Type)
の区分を図 5 に示した。なお、
犬来と男池がさらに区分される可能性があるが、黒耀石の母岩が近接する両地域に
またがっていると考えられるので、犬来と男池とをひとつの原産地タイプ(Source
Point Type)と判断した。また、蛸木についても 2 つの原産地タイプ(Source
Point Type)に区分される可能性があるが、現段階での黒耀石を含む母岩の分布
状況から判断して、ひとつの原産地タイプ(Source Point Type)とした。
図2 分析値による Rb − Sr 相関図
−9−
図3 分析値による T − Fe 2O 3― CaO 相関図
図4 分析値による Zr − Sr 相関図
− 10 −
図5 隠岐・島後に産出する黒耀石の分類
黒耀石と人類社会
後期旧石器時代には、人口数が増加していたと思われるが、彼らは定住せず、
1家族あるいは数家族単位で遊動する生活をしていたと考えられている(稲田,
2001)。このような生活状況のもとで、黒耀石ネットワークの存在や数 100Km
もの遠路を往復して黒耀石を採取に向かうことなどが考えられるだろうか?もち
ろん、遠隔地から黒耀石原産地にたどり着けたとしても、現地で黒耀石原石から
半製品にして持ち帰ったと思われる。半製品を作った場所が、原産地遺跡として
残されているのではないだろうか?後期旧石器時代にかなりの幅の海を渡って黒
耀石原石を本土まで運んだことが確かめられているのは神津島である。しかし、
神津島にはいまだ原産地遺跡は確認されていない。おそらくは原産地遺跡は現在
の海底にあるものと思われる。近年に明らかにされてきた隠岐・島後の原産地遺
跡はまさに半製品を製作した遺跡であったのではないか、と考えられる。
人類の社会進化論の見地からすれば、黒耀石ネットワークの存在や遠隔の黒耀
石原産地への往復などが行われたことが事実であれば、後期旧石器時代にはもは
や Tribe Society のきわめて小さな萌芽が認められることになろう。この種の問
題を解決するためには遺跡、とりわけ後期旧石器遺跡から出土する黒耀石の原産
地特定を厳密にすることが重要であろうと考える。
謝辞
1970 年代から久見の黒耀石原産地を案内して頂いた八幡昭三氏ご夫妻に、まず
衷心より御礼申し上げる。ご夫妻にはご自宅に招かれるなど、多大なお世話を頂
いた。またご子息の八幡浩二氏には、久見の黒耀石採掘現場にご案内頂き、いろ
いろと便宜を頂いた。
コスモ建設隠岐営業所長・村上久氏ご一家の皆様方には、隠岐を訪ねるたびに
親身にもまさるお世話を頂いた。村上久氏には現地調査の際にはしばしば同行頂
いた。また、本論文の発表について、山内靖喜氏(島根大学名誉教授)には多面
− 11 −
的なご援助を頂いた。ここにお世話になった方々に御礼申し上げる。
文 献
稲田孝司( 2001 ): 遊 動 す る旧 石 器 人. 岩波書店, p 129 .
竹 広 文 明 ( 2009 ): 隠岐における黒耀石原産地遺跡――加茂サスカ遺跡の調査から
――.隠岐の 文 化 財 , 第 26 号 , pp 1 - 11 .
吉谷昭彦・ 田崎 和 江( 1982 ): 隠 岐 ・ 久見地区に 発達する粘土化帯の 粘土鉱物,
――非分散型分析電子顕微鏡による観察――.鳥取大学教育学部研究報告, 31 ,
pp 67 - 83 .
・ 西 田 史 郎 ・ 川 口 優 ( 2004 a ): 黒 耀 岩 岩 体 内 部 で の 化 学 組 成 の
変化について, 考 古 学 と 自 然 科 学, 第 46 号 , pp 1 - 16 .
A.YOSHITAN I , N . A . KONON E N KO, T. TOMODA,V.K.POPOV and I.U.SLEPZ OV
( 2004b ) : On t he s ou rc es of t he obsidi an f l a kes f rom s ome L ate Pa l ae olit hic
Sites in s out her n p ar t of C ent r a l Pr i mor ye, Far E ast Russi a. Archae olog y
And Natura l S c ienc e, 4 7 , pp 1 - 1 2 .
, S . SLOB ODI N , T. TOMODA,I.E.VOROVEYandT.YANO (in press):
Studies on t he O bsid i an Fr ag ment s O bt aine d f rom L ate Pa l ae olit hic , Mes o
and Ne olit hic Sites i n t he Nor t he aster n Par t of Far E ast of Russi a.
Ab str a c t
In Oki Islands, alkaline rhyolite ejecta belonging to Pliocene strata are
w i d ely d ist r ibute d. A mong t he s e rhyol ite e j e c t a ob s i d i an ro ck s are s ome t i me s
recognized. The occurrences of obsidian rocks are shown as lava f lows and
s ome t i mes as dy ke s . T he ob s i d i an ro ck s , of b e i ng fou nd at Ku mi w he re is t he
nor t hwester n are a of D ogo Isl and, are wel l k now n as t he t ypic a l s ource p oint.
How e v e r s e v e r a l s o u rc e p o i nt s o f o b s i d i a n a re f o u n d at D o g o Is l a n d . In t h i s
paper the results of chemical experiments for obsidian rocks sampled from
several source points will be described. Further more the circumstances of use of
obsidian rocks for making stone implements in archaeological age are discussed.
− 12 −
隠岐の海洋生物に想う
東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所 幸塚久典
はじめに
著者は、日本考古学発祥の地、エドワード・シルヴェスター・モース(Edward
Sylvester Morse、1838 年̶1925 年)が発掘した大森貝塚(貝塚の住所は品川区)
で知られている東京都大田区大森で生まれ育ち、幼少時代より水生生物好きであっ
たためか、1990 年より東京都葛西臨海水族園に 2 年、石川県のとじま臨海公園
水族館に 12 年、その後に島根県隠岐の島町の民間環境コンサルタント会社に 3
年半、長崎県にある長崎ペンギン水族館に 1 年半、現在は神奈川県三崎の東京大
学大学院理学系研究科附属臨海実験所に勤務している。1990 年から現在までの
20 年間を一貫して海洋生物の飼育、展示および分類、生態調査,標本採集などの
業務に携わってきた。
本稿は、隠岐の元 I ターン者から見た隠岐諸島に生息・生育する海洋生物につ
いての雑記であり、本誌 22 号で掲載されている島田氏(2005)の「隠岐の山野
を歩いて」の海洋版の位置づけとする。
入り組んだ海岸線と広大な藻場
島根半島の 40 ∼ 80km 沖合に位置する隠岐諸島一帯は、気候や海流の影響を
受け、多種多様な生物が生息・生育し、本土とは異なった生物環境を有している。
開発により自然海岸の多くが失われつつある我国にあって、隠岐の海岸は手つか
ずの美しい海岸が残っており、海蝕が著しい外海多島海景観を有する国立公園で
もある。後期中新世から鮮新世にかけて活発な活動があり、このときに貫入・噴
出した火山岩類は、火山活動が収まるとやがて浸食が進み、現在のような大小
様々な湾や入江が形成された(森田・立松,1994;島根県の自然編集委員会編,
1998)。外海に面した雄々しい岩礁地帯と静穏な湾内には大規模な藻場が成立し、
たくさんの生物が育まれている(図 1)
。
2004 年には隠岐周辺の沿岸域が国際的に重要な湿地の保全を目指すラムサール
条約の登録湿地の候補地に選定された。外海の湿地として藻場が選ばれたのは、
我国 54 の候補地の中で、唯一のケースであった(風待ち海道倶楽部,2007)。隠
岐の多様で広大な藻場は全国的に見ても、極めて重要な存在となっている。静穏
な湾内の浅瀬には色鮮やかな緑色で細長い葉を持つアマモという海草が白砂帯に
広大な群落を形成している。みなさんも一度は、スノーケリングでゆっくりと海
草群落ウォッチングをしてみてはどうだろうか。足下にも、このような自然が残っ
ている、ということを再確認できる絶好の場である。
− 13 −
図 1.隠岐諸島の海岸と藻場
A・B:静穏な海域,C・D:雄々しい海域,E:ホンダワラ類が繁茂するガラモ場,F:
アマモと呼ばれる海草が繁茂するアマモ場(中央の小さな海草はウミヒルモ).
国指定天然記念物のクロキヅタ
現在、わが国で天然記念物に指定されている動植物は約 100 種にのぼる(文
化庁文化財部記念物課,2005 )。国指定の天然記念物とは、動物や植物、地質、
鉱物、天然保護区域なので、学術上価値の高いものとして国が指定したもの
である。たとえば、沖縄本島のジュゴン Dugong dugon 、奄美大島のアマミノ
− 14 −
クロウサギ Pentalagus furnessi などが有名である。一方、とくに重要なものは、
特別天然記念物と区別され、オオサンショウウオ Andrias japonicus やライチョ
ウ Lagopus mutus 、イリオモテヤマネコ Prionailurus bengalensis iriomotensis な
どが指定されている。
皆さんも知っている通り、隠岐諸島(知夫里島以外)には海藻唯一の国指
定 天 然 記 念 物 が ご く 身 近 な 場 所 に 生 育 し て い る( Kajimura, 1969 , 1984 ;
隠 岐 島 前 教 育 委 員 会, 1971 ; 内 村 ほ か, 2006 )。 1910 年 9 月 29 日 に 隠
岐 郡 西 ノ 島 町 の 黒 木 御 所 前 の 海 岸 で 発 見 さ れ た 海 藻 は ク ロ キ ヅ タ Caulerpa
scalpelliformis (図 2 )と命名され、 1922 年に天然記念物に指定された(文化
庁文化財部記念物課, 2005 )。天然記念物の他にも、環境省は準絶滅危惧種
( NT )、水産庁は絶滅危惧Ⅱ類( VU )として報告されている貴重な海藻であ
る(幸塚, 2005 )。クロキヅタは鮮やかな緑色を呈しており、独特の形をし
ている(図 2 )。いつかは隠岐のイメージキャラクターがクロキヅタになるので
はないかと、密かに思っているのは私だけであろうか。もし、実物を見たこ
とがなければ、内村ほか( 2006 )を参考に探してみる事をお勧めする。
図 2.隠岐諸島のクロキヅタ
A:クロキヅタ,B:西ノ島黒木のクロキヅタ産地の石碑
ウミシダ博士の小学生
著者が隠岐に暮らし始めてから数ヶ月後、隠岐の島町で仲良くなった知人
宅に招かれ、家族同士で豪勢な夕食を食べていたときの事であった。知人の
娘である次女の M ちゃん(当時小学 5 年生)が「私はウミシダという動物に
興味があり、夏の自由研究でウミシダの観察をしたんだ」と言って、自由研
究の提出物を見せてくれた。著者は、驚いた。小学生の口から、あのマイナー
な「ウミシダ」という名前を聞いた事、それに一見してウミシダは植物に見
えるものの、「動物」と分かっていた事、さらに著者自身が専門にしている研
究テーマがウミシダの自然史だからである。この時点では、まだ私がウミシ
ダ研究を行っているという事はこの家族には言っていなかったので、この出
会いは本当の偶然であった。驚く事に、彼女が作った自由研究のノートには
ウミシダの種名が書かれ、さらに再生観察をした事が書かれていたのである!
− 15 −
図 3.ウミシダ類
A:ウミシダの模式図,B:ウテナウミシダ Oxycomanthus solaster,C:トラフウミシ
ダ Decametra tigrina.
ここで、ウミシダという動物について簡単に解説する。ウミシダは容姿や名前
の影響により、水族館などの観覧者は、きれいなシダだねといいながら通り過ぎ
る人が多く居る。しかし、海中のシダ植物ではなく、れっきとした動物であり、
ヒトデやウニ、ナマコ、クモヒトデなどと同じ「棘皮動物(きょくひどうぶつ)」
に属する(図 3)
。また、ウミシダ類が属するウミユリ綱というグループは棘皮動
物中もっとも起源が古く、系統的に孤立した動物群として知られている。ウミユ
リ綱は,終生にわたって特徴的な柄(あるいは茎)と呼ばれる器官を持つかどう
かによって,
ウミユリ類とウミシダ類の 2 群に区別される。このうちウミシダ類は,
発生の途中で柄を失い,2 次的に自由生活を行なう群である(幸塚,2009)。約 2
億年前にウミユリ類から派生し、主として浅海域で繁栄したウミシダ類は,世界
で 17 科約 550 種(Messing,1997)
、日本周辺海域では 120 種以上が報告され
(Kogo,1998)
、日本近海のウミシダ相は世界的に見ても非常に豊富な海域であ
るといえる。また、ニッポンウミシダが属するウミユリ綱は、人類と祖先が共通
する最も古い動物であり、進化や中枢神経系(脳)の起源、再生機構の解明に役
立つと期待されているホットな動物でもあり、我国では、東京大学を中心に研究
がなされている(赤坂,2008;Shibata et al., 2008)。
彼女の話に戻ろう。なぜ、彼女がウミシダに興味を持ったのか。それは、この家が
− 16 −
網元であり、毎日おじいちゃんがサザエ漁をしていたため、小さい頃から漁網で採集
されたウミシダを見ていたからだろう。しかし、ウミシダを見ているだけでは、決し
て興味は沸かない。実際、国内には 60 園館ほどの水族館があり、その半数以上でウ
ミシダ類を飼育しているが、興味を持って研究している飼育係を著者は知らない。
トロピカルな海
著者が思っていた以上に隠岐では、西インド太平洋区に分布する熱帯および亜
熱帯性の海洋生物を見る事ができる。しかし、熱帯・亜熱帯域に生息する生物が
海流に乗って本来の分布域ではない海域までやって来てしまうと、回遊性がな
いゆえに本来の分布域へ戻る力を持たず、生息の条件が悪くなった場合は死滅す
るため、死滅回遊(しめつかいゆう)と呼ばれる。死滅回遊という言葉は、本質
的に回遊ではないことと、サケのように産卵後死亡する回遊と紛らわしいため、
繁殖に寄与しない分散という意味で無効分散と呼ばれることもある(日高監修,
1998;京都大学フィールド科学教育研究センター編,2004)。
図 4.隠岐の死滅回遊生物
A:ソラスズメダイ,B:キンチャクダイ,C:ヤマトナンカイヒトデ(写真 : 永田宜裕氏)
D:イイジマフクロウニ(写真 : 永田宜裕氏).
夏から秋にかけての隠岐沿岸では、これら死滅回遊魚もしくは季節来遊魚と
よばれる種類を多く見る事ができる(図 4)
。ソラスズメダイ Pomacentrus coelestis
− 17 −
やナガサキスズメダイ Pomacentrus nagasakiensis、キンチャクダイ Chaetodontoplus
septentrionalis やキンギョハナダイ Pseudanthias squamipinnis、さらに魚類ではないが、
ヒョウモンダコ Hapalochlaena fasciata、イイジマフクロウニ Anthocidaris crassispina
やヤマトナンカイヒトデ Asterodiscides japonicus と思われる大型のヒトデ類、コアシ
ウミシダ Comanthus parvicirrus、アカオニナマコ Stichopus ohshimae などの無脊椎動
物なども見る事ができる。現在、この死滅回遊魚(魚類以外の無脊椎動物も含む)
が注目されている。例えばサンゴ礁域に生息する熱帯魚類なら、定着を妨げる最も
大きな要因は冬季の低水温である。しかし、生物の進化という長い時間軸で考えた
場合、地球の環境はかなり大きく変動しており、遠い将来、日本近海の海水温が上
昇すれば、今では無効な分散も有効になる可能性がある。これらの生物は海流に身
を任せるだけの悲しい運命を背負っているのではなく、実はたくましく生きようと
している生物という考え方もある。死滅回遊魚にはどのような種類が、いつ、どこ
からやってくるのかを調べることで、長期的にみれば魚類がどのように分散し、進
化してきたのか、分布パターンはどのようなプロセスを経過してできあがってきた
のかを探ることができ、また、日本近海の海流の状況や温暖化の影響といった地球
環境の変化を捉えることもできる可能性があると考えられている。隠岐の島周辺で
は、水産的利用価値が無い海洋生物の情報はきわめて少なく、このような生物を長
期モニタリングする意味は非常に高いと著者は思っている。
知られざる海の生き物
著者が触れ合った隠岐の印象深い生き物たちを紹介する。
キタムラサキウニ Strongylocentrotus nudus (棘皮動物門)
殻は中から大形で半球状。赤道部より緩
やかに口側へ移行し、周口部方向へ適度に
湾入する。棘は適度に長く、先端方向に徐々
に細くなる個体が多い(図 5)。ムラサキウ
ニに似るが、棘の縦条表面に多数の鱗状小
突起が規則的に配列することで区別できる。
棘は多少オリーブ色の色調を帯びた暗紫色
なのでオリーブ色の強い場合、先端付近は
淡紫色を呈する。 図 5.隠岐沿岸で撮影した
キタムラサキウニ
隠岐周辺海域では個体数は少ない。本種
は日本海では通常、北海道から富山湾に分布するが(重井,1986)、山口県でも
確認されている(加藤,1993)
。島根県隠岐諸島周辺海域では数は少ないものの、
調査が進むにつれて確認数が多くなるものと思われる。
ウミホタル Vargula hilgendorfii (節足動物門)
東京湾アクアラインのパーキングエリア「うみほたる」。この名称の由来となっ
たウミホタルは隠岐沿岸に多産する。本種は体長 2-3mm 程度のミジンコに似た
小型の底生動物で、体は二枚の楕円形の殻に包まれている特殊な構造をしている
(図 6-A)
。ウミホタルの最大の特徴は、その名の通りホタルのように光を発する
事であるが、陸のホタルが体の一部を光らせるのに対して、本種は口の近くの口
唇腺から青白い幻想的な物質を吐き出すのである(図 6-B)。この発光物質は「ル
− 18 −
シフェリン」と呼ばれているもので、酵素作用で発光するが、発光生物はそれぞ
れ特有のルシフェリンを持っている。
図 6.A:ウミホタルと発光物質,B:ウミホタルの発光物質(写真:小江克典氏)
このウミホタル、我国では各地に広く分布しているものの、近年の開発などに
より、自然海岸が破壊され、生息場所が激減している。しかし、隠岐周辺海域
では、健全な自然海岸が多く残されており、島のいたるところでウミホタルを
容易に観察する事ができる。隠岐島後には、ウミホタルの他にもイソギンチャ
クやサンゴの仲間であるウミサボテン Cavernularia obesa、巻貝の仲間のエダウ
ミウシ Kaloplocamus ramosus、釣り餌で使用するゴカイの仲間のオドントシリス
Odontosyllis sp. などの発光生物を見る事ができる。
キサンゴ Dendrophyllia ijimai (刺胞動物門)
非造礁性サンゴ類は、熱帯や亜熱帯域に生
息するサンゴ礁を形成するサンゴ類とは異
なり、光合成を行う褐虫藻が体内に共生して
いない。そのため、岩礁の陰や冷水、深海な
どに生息し、プランクトンやその死骸などの
有機物片を補食する。
本種の群体の形状は、立木・樹木状であ
る(図 7)
。色は鮮やかなオレンジ色。分布
は、太平洋側からのみ記録されている種類で
図 7.隠岐沿岸で撮影した
あるが、近年、著者などにより日本海初記録
キサンゴ
として報告した(幸塚・秋吉,2006)
。隠岐には、本種の他にもナガイボキサン
ゴ Dendrophyllia gracilis、タバネイボヤギ Tubastraea sibogae、イボヤギ Tubastraea
coccinea、ムツサンゴ Rhizopsammia minuta mutsuensis などの 14 種の非造礁性サ
ンゴ類を確認している。
アミガサクラゲ Beroe forskali(有櫛動物門)
クシクラゲ類は名前に「クラゲ」の字がついているものの、いわゆる刺胞動物
のクラゲ(ミズクラゲ、カツオノエボシ、エチゼンクラゲなど)とは別のグルー
プである。すべてが海に生息し、一部を除いてはプランクトン生活をする動物で
− 19 −
ある。体の表面の周囲を放射状に取り
巻いている光るスジ「櫛板列」がこのグ
ループの特徴である。櫛板列には微細な
繊毛が融合してできた「櫛板」が配列し
ている。クシクラゲ類は、この櫛板の繊
毛を波打つように順々に動かすことで、
活発に移動することができる。この櫛板
列の光は反射によるもので、櫛板の運動
にしたがって、虹色の帯がネオンサイン
のように移動して、「海の宝石」とも言
われている大変美しい動物である(堀田,
2007a, 2007b)。
アミガサクラゲは大型のクシクラゲ類
であり(図 8)、大きな口を持ち、クラゲ
を襲って補食する。隠岐周辺では冬から
春先に季節風が吹くとまとまってクシク
図 8.アミガサクラゲ
ラゲ類を見る事ができる。この他に、オ
ビクラゲ Cestum amphitrites、フウセンクラゲ Hormiphora palmata、カブトクラゲ
Bolinopsis mikado、ツノクラゲ Leucothea japonica、チョウクラゲ Ocyropsis fusca、
ウリクラゲ Beroe cucumis などのクシクラゲ類を見る事ができる。
ノトイスズミ Kyphosus bigibbus(脊索動物門)図 9
体色は銀色をしており体側には黒い
縦縞がある。濃い斑紋がでることも稀
にある。メジナ類と似るが、頭部が尖っ
ていること、体色が白っぽいこと、尾
ビレは浅く二叉することで区別できる
(図 9)
。また、歯の先が尖って単尖頭
になっていればイスズミ科魚類、三つ
尖っていて、三尖頭で見た目フォーク
のようになっていればメジナ科魚類と
判断できる。イスズミとは背ビレと臀
ビレの軟条数が2つずつ少ないことで区別できるが、区別は非常に難しい。テン
ジクイサキは三宅島や式根島ではノボリヨと呼称し食べられている。本種は、坂
井(1991, 2004)によって石川県能登で発見されたため、ノトイスズミという標
準和名がつけられた。
海のビジターセンター
隠岐諸島周辺海域に生息・生育する海洋生物の報告は極めて少ない。その理
由は、交通の便が悪いため、各研究者が調査地として後回しにしてきたことも
事実であろうが、それだけではないと著者は思う。海藻唯一の天然記念物のク
ロキヅタの自生地、いくつかの南方系サンゴ類の生息などが古くから知られて
いるものの、それらについて、詳細で継続的な調査・研究を実施しなかった各
団体などにも問題があったのではないだろうか。
− 20 −
著者は隠岐と同じ日本海に位置する石川県に 12 年間お世話になったことがあ
る。石川県は島根県同様、水産県であり、様々な有用生物を利用している。本
県は利用しているだけではなく、地元の民間の水族館が国立大学と共同で積極
的な調査研究を古くから実施していた。現在では、平成6年4月に、海(浅海、
潮間帯、海岸)の自然に関する調査研究と普及啓発を行う「海の自然保護セン
ター」として、全国に先駆けて開設した「石川県のと海洋ふれあいセンター」
という海のビジターセンターが設置されている。ここが中心となり、県内の調査・
研究を行うとともに、積極的な啓蒙活動を行っている。さらに最近では、山陰
海岸国立公園の自然情報を提供するとともに、自然とふれあう機会をつくるた
めの施設として、平成4年に環境省と竹野スノーケルセンター運営協議会によっ
て開設された福井県に山陰海岸国立公園竹野スノーケルセンター・ビジターセ
ンターが設置され、山陰海岸ジオパークの拠点施設として、貴重な地質遺産や
そこに暮らす豊かな生きものなど、さまざまな角度から山陰海岸の魅力や価値
について分かりやすく紹介している。また自然への理解と自然を大切にする心
を育む活動拠点の目的で設置された鳥取県立博物館 山陰海岸学習館など、日本
海側にも海のビジターセンターが設立されている。
隠岐の島町にも「隠岐自然館」という小さなビジターセンター系の施設がある。
しかし、展示品は整っているものの、各地の海洋ビジターセンターに比べ、スタッ
フ数や専門性、
活動などが貧弱である。このような立派なセンターがあるのだから、
多様な来館者への的確な対応、質の高い多様なプログラムを提供できる有能な人
材の確保など、官民の積極的な援助により隠岐諸島の自然を世界にアピールする
とともに、後世に残す活動をしてもらいたいと切に願う。
おわりに
まとまりの無い文章になってしまったが、要するに、学術的観点から見ると、
隠岐の海洋生物は開拓の余地が多く残された分野であり、海に潜れば潜るほど、
漁網の混獲物を見れば見るほど、新たな発見があるという現状である。
浅学を顧みずに広範な事柄を書き散らしたので、多くの間違いがあると思われ
る。ご一読の上、ご意見・ご批判をいただければ幸いである。
謝辞
本稿を作成するにあたり、機会を与えていただいた隠岐の島町教育委員会・
野辺一寛氏に厚くお礼申し上げます。さらに、さまざまな情報やご協力を頂い
た下記の方々に厚くお礼申し上げます。隠岐の国ダイビング・安部和人氏・安
部由貴氏、布施ダイビングサービス・永田宜裕氏、西郷公民館・松田 隆志氏、
島根大学生物資源科学部附属生物資源教育研究センター・大津浩三博士、島根
大学生物資源科学部・秋吉英雄博士、元隠岐自然館・島田 孝氏、八幡黒耀石店・
八幡浩二氏、株式会社海中景観研究所スタッフ諸氏、オリンパス株式会社研究
開発センター・小江克典博士、独立法人港湾空港技術研究所客員研究員・内村
真之博士、元島根県水産技術センター栽培漁業部・奥田 進氏(以上、順不同)。
引用文献
赤坂甲治(2008)医学・バイオにも直結する 海洋生物学の最前線基地・臨海実験所.
Ship & Ocean Newsletter, 180: 2-3.
− 21 −
文化庁文化財部記念物課(2005)史跡名称天然記念物指定目録.436 pp.
堀田拓史(2007a)クシクラゲのなかま.In 刺胞を持つ動物 サンゴやクラゲのふ
しぎ大発見.和歌山県立博物館 第 25 回特別展「刺胞動物展」解説書.
27-28.
堀田拓史(2007b)発光するクラゲ.In 刺胞を持つ動物 サンゴやクラゲのふし
ぎ大発見.和歌山県立博物館 第 25 回特別展「刺胞動物展」解説書.
26-37.
日高敏隆 監修(1998)日本動物大百科 第6巻 魚類,平凡社,204 pp.
Kajimura, M.(1969)On ecology of Caulerpa scalpelliformis var. denticulate in
the Oki Islands. Mem. Fac. Lit. & Sci., Shimane Univ., Nat. Sci.,(2): 81-98.
Kaj i mu r a , M . ( 1 9 8 4 )O n e c ol o g y of C au l e r p a s c a lp el l i for m i s v ar.
denticulate in the Oki Islands II. Mem. Fac. Lit & Sci., Shimane Univ.,
Nat. Sci.,(24 ): 19 - 28 .
加藤琢矛(1993)隠岐のウニ.隠岐の文化財,(10): 54 − 60.
風待ち海道倶楽部(2007)隠岐島エコツーリズム OKI まるごとミュージアム.
152 pp.
京都大学フィールド科学教育研究センター編(2004)森と里と海のつながり 京大
フィールド研の挑戦の詳細.151 pp. 大伸社,東京.
Kogo, I.(1998)Crinoids from Japan and its adjacent waters. Osaka Mus.
Nat. Hist. Special Pub.,(30): 1-148.
幸塚久典(2005)隠岐沿岸の海洋生物雑感.しま,203: 76-81.
幸塚久典・秋吉英雄(2006)隠岐の島周辺海域から採集された浅海産非造礁性イ
シサンゴ類.日本生物地理学会会報,61:53 − 66.
幸塚久典(2009)ウミシダの魅力と三崎臨海実験所における取り組み.Ship &
Ocean Newsletter,217: 2-3.
坂井恵一(1991)日本のイスズミ属は 4 種.I.O.P. Diving News, 2(8): 2-5.
坂井恵一(2004)日本のイスズミ属魚類.能登の海中林,20:2-5.
Shibata, TF., Sato, A., Oji, T. and Akasaka, K.(2008)Development and
growth of the feather star Oxycomanthus japonicus to sexual maturity.
Zoological Science, 25: 1075-1083.
重井陸夫(1986)宮内庁生物学御研究所 ( 編 ), 相模湾産海胆類 . 英文 1–202 pp.,
和文 1–173 pp., 126, 8 pls. 丸善 , 東京 .
島田 孝(2005)隠岐の山野を歩いて.隠岐の文化財,(22):7-22.
島根の自然編集委員会編(1998)島根の自然をたずねて.236 pp. 築地書館,
東京.
Messing, C.G.(1997)Living Comatulids. In J.A. Waters and C.G. Maples
(eds.), Geobiology of Echinodderms, The Palaentological Society Papers,
Volume 3. Carnegie Mus. Nat. Hist., Pittsburgh, pp. 3-30.
森田敏隆・立松和平(1994)大山隠岐国立公園.93 pp. 毎日新聞社,東京.
隠岐島前教育委員会(1971)天然記念物クロキヅタ産地.島前の文化財,(1):1.
内村真之・Etienne Jean Faye・幸塚久典・新井章吾(2006)隠岐沿岸におけ
る国指定天然記念物クロキヅタ Caulerpa scalpelliformis (R. Brown ex
Turner) C. Agardh (Caulerpaceae, Chlorophyta) の生育分布につい
て.ホシザキグリーン財団研究報告,(9):215-225.
− 22 −
隠岐のジオサイト紹介(1)
島根地質百選(http://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/geosite.html)で
紹介された隠岐の地学的な見どころ全 22 地点のうち、19 地点を紹介します。
転載に伴うレイアウト変更等の理由により一部を省略しています。また、
必要に応じて若干の用語説明を入れています(枠内)。
白島海岸
ジオサイトの特徴や見どころ
白島海岸は島後の北端に位置しており、海岸を構
成する岩石が白いことが名前の由来です。ここでは
大小の島々が散在し、多くの波食洞が見られること ↑写真1:白島展望台より望む
から名勝地として有名です。駐車場から徒歩3分ほどにある展望台から眺める
と、北の島々と岬は白い岩石、岬の東側は黒っぽい岩石で構成されていて、地
質の違いが鮮明にわかります。また黒っぽい岩石は小さな島が多く、海が驚く
ほど青く澄んでいることがわかります(写真1)。
地質学的な意義
白い岩石は、いまから550万年ほど前に噴出した
流紋岩や粗面岩(アルカリ成分を多く含む中性の火山
岩)で重栖層と呼ばれ、岬の先端から松島・黒島は流
紋岩、その沖合いの沖ノ島・白島(田島)・小白島は
粗面岩でできています。白島ではドーム状の溶岩が観
察され、沖ノ島では先に噴出した粗面岩を切って次の ↑写真2:沖ノ島にみられる粗面岩
の火道
粗面岩が噴出した火道の様子や溶岩が垂直から水平へ
形を変えて流れ出る様子が観察できます(写真2)。
黒い岩石は、今から約280万年前に噴出した玄武岩質の火砕岩や溶岩で、崎
山岬玄武岩類と呼ばれ、帆掛島一帯の小島や雀島もこの岩石で構成されています。
ここでは玄武岩マグマの水蒸気爆発などを示す火砕岩の波状の層理あるいは斜交
層理が見られます(写真3)
。溶岩には輝石やかんらん石の斑晶が多く見られ、マ
ントル由来の岩石や流紋岩、片麻岩からなる最大径5cm の捕獲岩も多くみられ
ます。流紋岩はマグマが冷え固まるときにできた割れ目(節理)が発達していて
節理に沿って侵食されやすいことや、玄武岩類が非常にもろく風化や浸食を受け
やすいことから、無数の入り江や小島が形成されたと考えられます。
− 23 −
↑写真3:白島岬の東に分布する玄武岩溶岩と火砕岩
↑周辺地図
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別保護区、1938年、国指定、名勝天然記念物、オオミズナギドリ繁殖地
海苔田ノ鼻
→写真1:海苔田ノ鼻
ジオサイトの特徴や見どころ
隠岐諸島島後の北端に近い隠岐の島町下元屋地区の北東の海岸から北東に突き
出した半島は「海苔田ノ鼻」と呼ばれています。海苔田ノ鼻を遠望すると、一番
最初に目に入るのは半島根元の暗灰色で見事な柱状の割れ目が発達した岩壁で
しょう。この岩壁は三水崖とよばれ、玄武岩の溶岩でできています。岩壁の割れ
目は溶岩が冷え固まるときにできたもので、六角
柱状に割れており、これを柱状節理といいます。
元屋川河口から、遊歩道が整備されており、こ
れをたどっていけば半島の先まで行けます。遊歩
道を入ってしばらく進むと、先ほどの岩壁の麓
にさしかかった途端、突然、目の前に岩塊がごろ
ごろと積み重なった驚くべき風景が我々を迎えて
くれます。玄武岩の岩塊は風化が進み割れやすく ↑写真2:玄武岩溶岩の岩壁と三水の滝
なっており、柱状節理に沿って崩れ落ちてきたも
のです。ここで玄武岩を間近に観察することができます。また、雨のあとなど岩
壁の上から滝がみられることがあり、三水の滝と呼ばれています。
遊歩道を半島先端付近まで行くと、粗面岩と呼ばれるアルカリ成分を多く含む
火山岩の上に見事な放射状に割れ目(節理)の発達した玄武岩がみられます。こ
− 24 −
の岩はその鎧のような形から鎧岩と呼ばれています。
鎧岩のすぐ近くに兜岩と呼ばれる同様に節理の発達し
た玄武岩がありますが、残念ながら陸上からは見えに
くい位置にあり、こちらは船からの観察となります。
鎧岩、兜岩を含む半島先端部は国の天然記念物に指定
され、大山隠岐国立公園の特別保護地区にも指定され
ているので、ハンマーをいれることも石ころを採集す
ることもできませんので注意してください。
この遊歩道は過去に災害で崩れたこともあり、途
中落石等の危険もあるため注意が必要です。遊歩道
を利用せず、礫のごろごろした海岸線を半島沿いに
↑写真4:鎧岩
行くと、鎧岩まではたどり着けませんが、600 m ほど行きますと、海岸に
緑色∼褐色の礫が沢山落ちているのが見えま
す。これらの表面をよく見ると貝や木の葉の
化石を持った礫がみつかります。これらの礫
はそばの岩盤から落ちてきたものです。岩盤
は約2000万年前(中新世)に堆積した郡
層と呼ばれる地層で島後各地に分布し、ヒメ
タニシやドブガイなど淡水棲の貝化石や木の
葉の化石などがよくみつかっています。
↑写真3:ヒメタニシの化石
地質学的な意義
細粒の凝灰質砂岩や細粒砂岩からなる郡層中に約550万年前(中新世末)に
粗面岩が貫入し、その両方の上に約250万年前(後期鮮新世)に噴出した玄武
岩溶岩が不整合に重なっています。
郡層と同じ時代に、同じように火山噴出物を多く含み、湖や陸上に堆積した地
層は、石川県能登半島から島根県江津市までの日本海沿岸地域に広く分布します。
しかし、郡層の中に一時期海底に堆積した地層がみつかっており、すでに近くま
で海が広がっていたようです。
岩壁を作っている溶岩はかんらん石玄武岩で、長さ4∼5cm程度もあるかん
らん岩を含んでいます。この玄武岩は地下40キロ
メートル以上のマントルから上がってきたと考えられ
ており、マグマが発生したときにマントルを構成する
かんらん岩が溶け残ったものと考えられます。鎧岩自
体も岩壁と同じ玄武岩と考えられます。
↑周辺地図
− 25 −
記念物指定など
* 鎧岩を含む海苔田ノ鼻先端付近は国指定の天然記念物―地質鉱物・名勝
* 大山隠岐国立公園
* 鎧岩を含む海苔田ノ鼻先端付近は特別保護地区に指定されている。
* その他の海苔田ノ鼻全体が第三種特別地域に指定されている。
浄土ヶ浦と崎山岬
ジオサイトの特徴や見どころ
←写真1:浄土ヶ浦 ↑写真2:海より見た崎山岬 浄土ヶ浦周辺の海岸には変成岩、火山岩、堆積岩など10種類以上の岩石が狭
い範囲に分布しており、海岸は複雑に入り組み、変化に富んだ景観が作られてい
ます。固い片麻岩や火山岩類は高い崖や磯をつくり、軟らかな堆積岩類の海岸は
浸食されて湾となっていたり、波食棚ができていたりします。
この海岸の火山岩と堆積岩が作られた2600万∼2400万年前頃(漸新世
末)は、日本海ができ始めていた頃で、隠岐諸島や本州はユーラシア大陸の一部
でした。この頃の島後東部では、激しい火山活動が起こり、火砕流や溶岩が大量
に噴出しました。また、ところどころにできた湖沼には、周りの陸地から火山噴
出物起源の土砂が供給され、ときには多量の土砂が土石流となって流れ込んでき
ました。浄土ヶ浦にはこの湖底に堆積した地層が分布しています。
また、崎山岬の崖には約265万年前に噴出した厚さ10m 程度の玄武岩溶岩
がみられます。この溶岩は直径が20cm以上の円礫を含む礫層に挟まれている
ことから、谷に沿って流れてきたと考えられます。その後、谷を作っていた古い
地形は侵食されて無くなり、昔の谷を埋めた溶岩が山に姿を変えているのです。
溶岩にはほぼ垂直な割れ目が数10cm間隔で出来ていますが、これは溶岩が冷
えて収縮するときにできた割れ目です。この玄武岩の露頭に行くことは大変難し
いですが、浄土ヶ浦から遊歩道を東に100m ほど進むとこの玄武岩の大小の転
石が落ちています。玄武岩中には長さ数∼10cmの黄緑色ないしオリーブ色の
粒が見られることがあります。これはかんらん石という鉱物で、深さ数10km
のマントルから運ばれてきたものと考えられています。
− 26 −
地質学的な意義
浄土ヶ浦ではこれらの地層が堆積した湖沼の環境を知る手がかりがいくつかみ
られます。第一は、写真に示すような緩やかな波状の縞模様が地層中に見られます。
これは暴風時に深さ40m 程度より浅い水底の堆積物が波で動かされてできた模
様(ハンモック状斜交葉理)です。このことから、この湖は浅かったことがわか
ります。
↑火山豆石
↑ハンモック状斜交葉理
第二に、堆積物中のところどころに直径0.
5∼1cm程度で、灰白色の殻をもつ
球状ものが多数みられます。これらは火山から大気中高く噴出した噴煙中の火山灰
が何らかの原因で互いに付着してできたもので、火山豆石とよばれています。湖沼
の周囲や湖底では激しい噴火活動が起きていたことが判ります。また、長径が40
cm以下の大きな礫を多く含む泥岩層がありますが、これは土石流が運んできた堆
積物で、湖沼の周りには土石流が発生しやすい山地があったことを示すようです。
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別保護地区、国指定名勝
↑周辺地図
トカゲ岩・屏風岩と火山の火道
ジオサイトの特徴や見どころ
隠岐島後の北東部で、今から550万年ほど前に大規模な火砕流を噴出するよ
うな火山活動が起こりました。その時、噴出したものはトカゲ岩を中心にして、
南北6km、東西4.
3km におよぶ範囲に分布していて、葛尾層と呼ばれています。
中谷林道の入り口から約1.
7km のところから約400m の区間に流紋岩の火砕
流を噴き出した通路にあたるところ(火道)を見ることができます。この火道では、
マグマが上昇する過程で発泡するとともに、基盤を破片状に砕き、また、地下にあっ
たまだ固まっていない、中性でアルカリ成分を多く含む粗面岩マグマの破片を取
− 27 −
り込み、引き延ばしました。
林道終点の駐車場から登山道に入り、展望台
1,2からは右手にトカゲの形をした岩が(写
真1)
、さらに上に続く登山道からは鷲ヶ峰に
屏風の形をした岩(写真2)が見えます。トカ
ゲ岩は粗面岩マグマが流紋岩質火山砕屑岩(火
山噴火によって地表に放出された破片状の岩片
と火山灰が固結してできた岩石。火砕流堆積物、
↑写真1:トカゲ岩
降下火山砕屑物、火砕サージ堆積物などがある)
に貫入したもので、岩脈と呼ばれるものです。
この岩脈はまわりの岩石より硬く風化しにく
いために飛び出しており、その形がちょうどト
カゲが岩をよじ登っている姿に似ていることか
ら名付けられました。手の部分は侵食を免れて
残った部分ですが、足の部分は上から落ちてき
た岩が割れ目にはさまったものです。また、屏
↑写真2:屏風岩をトカゲ岩方向から望む
風岩は高温の流紋岩質火砕流堆積物が固まる時
に、柱状の割れ目(柱状節理いといます)が発達し、この割れ目に沿って崩落し
たために急崖となり、それが屏風のように見えることから名付けられたものです。
地質学的な意義
トカゲ岩の下方の谷ではトカゲ岩をつくっているのと同じ岩石を観察すること
ができます。これは灰色をした硬い岩石で、1cmほどの柱状の長石の大きな結
晶(斑晶といいます)が目立ちます。この斑晶の長軸は特定の方向に配列し、こ
れを流理構造といいます。流紋岩の火砕流を噴き出した火道の露頭では、数 mm
の石英や長石の結晶が細粒の生地の中に散らばっているほか、大きくみて2種類
の岩石の破片(岩片)が入っているのがわかります(写真3,4)。1つは白い角張っ
た岩片で隠岐島後の基盤を作っている片麻岩です。この岩石はおよそ2億5千万
年前の変成作用によってできた変成岩で、火道の壁としてあったものが、噴火の
ときに火山ガスの放出で粉々に吹き飛ばされたものです。一方、暗灰色の岩片は
粗面岩で、長く伸びたものや不規則な形をしたもの、角張ったものなどさまざま
な形のものがあります。これは粗面岩の岩片が、つきたての餅のような状態から
完全に固結したものまで多様な固結度をもっていたことを意味し、軟らかい粗面
岩があることは流紋岩と粗面岩のマグマが地下で同時に存在していたことを示す
もので、非常に珍しい現象です。そして、マグマが上昇するのにともなって火山
ガスが放出され(マグマが発泡)
、それにともなってマグマが破砕されて火山砕屑
物となり、岩片も破壊されたり引き伸ばされたことを示しています。
− 28 −
↑写真3:黒っぽく見えるのが
引き伸ばされた粗面岩
↑写真4:引き伸ばされた粗面岩マ
グマ(Tr)と片麻岩(G)
の接写
記念物指定など
↑周辺地図
大山隠岐国立公園特別地域、県指定名勝天然記念物
(1967年)。なお、周辺は隠岐自然回帰の森に指
定(島根県)され、杉の天然林やオキシャクナゲ群
落をみることができます。
津戸∼あいらんどパーク周辺∼
ジオサイトの特徴や見どころ
島後南西部のあいらんどパークから津戸にかけて
の海岸では、南に島前、その間の島々あるいは漁り
火を眺めることができます。また、白色の流紋岩溶
↑写真1:津戸から鵜図島を望む
岩の切りたった崖が真昼の太陽や夕日に照らされる
と大変 ( キレイ ) です(写真1)
。
あいらんどパークから津戸までの海岸沿いの遊歩道では、550万年ほど前に
噴出した流紋岩溶岩の噴出源でのようすをみることができます。ここの流紋岩に
は縞模様がみられますが、これはマグマが地下深くから上昇してくる間に別のマ
グマと混合したり、冷却によって組成の変化したものが混じり合ってできたもの
で流理構造と呼び、マグマの流動した方向をあらわしています。
ここでは90°近い角度で傾斜した流理構造が、しだいに緩い傾斜に変化して
いく様子が見られます。これは下から上昇したマグマが次々に横に広がって流動
− 29 −
した噴火の状況を示したものです(写真2)。
流紋岩マグマが冷えて固まるときには、組成ご
とに収縮度合いが異なるため、主に流理面に沿っ
て割れ目(節理)ができます。海岸で見られる、
ろうそく状の奇岩や切りたった絶壁は、風化・浸
食で流紋岩の節理が拡大し、波浪によって下側が
削られると、節理に沿って上部斜面が崩壊するこ
とによって形成されたものです。
また、ここではさまざまな不整合現象を観察す
ることもできます。
↑写真2:海岸沿いの遊歩道で見られる流紋
岩の流理(スケールは1m)
脚注:不整合…古い地層の上に、時代的に離れた新しい地層が乗っている。連続
しているように見えても上下でまったく時代が異なる。
地質学的な意義
あいらんどパーク周辺では時代の異なる浸食や堆積のようすが、地形や堆積物
として残されています。最も新しいものは、海岸の岩盤に刻まれた海面から約1
m の高さにある平坦面で、波食棚と呼ばれます。これは数千年前に海面が約1m
高かったときに形成された浸食地形です。(地図の a 地点)あいらんどパーク内に
は標高15∼20m の平坦地形があります。これは海成段丘と呼ばれ、約12万
年前の温暖で海水準が高かったときに海底に堆積した礫や粘土からなります(地
図の b 地点)
。
あいらんどパークの北の県道脇の崖(地図
の c 地点)では、久見層の珪藻土層と都万層
の砂岩との不整合現象がみれます。前者は約
1500万年前に深い海で堆積したもので、
後者は約650万年前に浅い海底で堆積した
ものです。不整合面直下の珪藻土には砂の詰
まった直径1cmほどの穴が沢山あります(写
真3)
。この穴は波打ち際の岩に穴を開けて生 ↑写真3:久見層珪藻土と都万層砂岩の不整合
面と直下の生痕化石
活していた貝の住み跡(生痕化石)です。珪
藻土が海底に堆積した後、この地域は隆起して陸地にな
り、約850万年後に再び浅い海底になって砂岩が堆積
したことを示すものです。
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別地域
↑周辺地図
− 30 −
岸浜峠の黒耀石
ジオサイトの特徴や見どころ
黒耀石は隠岐を代表する岩石の一つで、石器時代
は矢じりなどの石器の材料として山陰地方のみな
らず畿内や瀬戸内海地域、さらには朝鮮半島やロ
↑写真1:岸浜峠の切り通し法面で見ら
シア沿海州にまで流通していました。黒耀石とは、
れる垂直に引き伸ばされた黒
耀石∼松脂岩
ほとんどがガラスからなる流紋岩∼デイサイト(珪
酸分に富んだ火山岩)質の火山岩のことをいい、含まれる水の量で岩石の特徴が
変わるため名前も変わります。
色が暗黒または灰黒色で、貝殻状のわれ口を示し、水の含有量が少ないものを
黒耀石と呼びます。水の量が多く真珠のような同心∼渦巻き状の割れ目が発達す
るものは真珠岩(パーライト)と呼びます。さらに水分が多くなり、暗黒・暗緑・
暗紫などの色を示し松脂光沢をもつものを松脂岩(ピッチストーン)と呼びます。
ここでは、松脂岩∼黒耀石が黒っぽいレンズ状の塊として流紋岩の火砕岩中に入っ
ています(写真1)
。ここはマグマの火道であったために、火山ガラスは垂直に引
き伸ばされており、マグマが上昇するときのようすが観察できます。
地質学的な意義
黒耀石は溶岩や火砕岩の中に含まれますが、松脂岩は溶岩や岩脈(マグマが他
の地層に貫入したもの)としてあらわれることが多いようです。島後で黒耀石∼
松脂岩の含まれる岩石は、いまから550万年ほど前に活動した重栖層の火山岩
で、特に流紋岩の火砕岩中にはこれらの破片が普遍的に含まれています。切り通
し北の配水池から左手にかけては、黄褐色の流紋岩質火砕岩の中に黒い岩塊がい
くつも入っているのが見えます。黒い岩塊をよく見ると、高角度で引き伸ばされ
た灰色の松脂岩∼真珠岩の中に数珠状に黒い黒耀石が入っているのが確認できま
す(写真2)
。
↑写真1:写真2:数珠状につながった黒耀
石(最大直径約1cm)灰色∼赤褐
色の部分は真珠岩∼松脂岩
↑写真3:球果流紋岩(灰色)を含む松脂岩(黒
色)下は最小目盛り1cmのスケール
− 31 −
これらは流紋岩マグマの上昇にともなって揮発性成分のガス化が生じ、マグマ
の急冷にともなってできた火山ガラスが壊されて火砕物へと変わっていく過程と、
水分(ガス)の少ない核が黒耀石となり、水分が多い外側が真珠岩や松脂岩になっ
たことを示しています。また切り通しの切り取り面では、低角に配列した黒っぽ
い松脂岩の中に結晶化の進んだ球状の流紋岩(球果流紋岩)が混じり、マグマの
温度が不均一であったことを示しています(写真3)。これよりも上方では、より
発泡の進んだ凝灰岩が水平に広がることから、垂直に上昇してきたマグマが発泡
しながら横に広がっていく噴火の様子を観察することができます。島後の黒耀石
の産地では同様の産状を示すものが多く、黒耀石の最大径が1m を超すものもみ
られます。
↑周辺地図↑
岬の爆裂火口
ジオサイトの特徴や見どころ
西郷港南西の隠岐空港がある地区は岬町と呼ばれ、中期更新世前期(いまか
ら約55万年ほど前)に活動した岬玄武岩が東西3km ×南北3km にわたって
標高100m 以下の溶岩台地を形成しています。空港の造成工事前には、直径
200∼300m、標高150∼160m のスコリア丘①が北西‐南東方向に配
列し、特異な火山地形を形成していましたが、工事で消滅し、残るのはここに紹
介する爆裂火口②のみとなりました。
(地形図参照)
この爆裂火口は、火口の東半分が吹き飛んだもので、岬玄武岩を構成する5つ
の地層のうち下部火砕岩層、中部溶岩層、上部火砕岩層の3つを見ることができ
ます。下部火砕岩層には特徴的に海蝕洞が形成され、黄褐色を呈していますが、
上部は高温酸化を受けて赤色化しています。火口底から伸びる赤色の高温酸化帯
は南・北で急傾斜し、火口壁の形を見事に現しています。この上位には暗灰色の
中部溶岩層と黄褐色の上部火砕岩層が火口の西側壁を形成しており、緩く西に傾
斜しているのをフェリーから見ることができます(写真1)。
− 32 −
←写真1:岬の爆裂火口をフェリー航路から望む
火山弾
地質学的な意義
斜交層理
↑写真3:下部火砕岩の斜交層理と火山弾
岬玄武岩は隠岐で最も新しい火山岩の1つです。下部火砕岩層は水蒸気―マグ
マ噴火あるいは水蒸気爆発によって堆積したもので、細∼小礫を含む斜交∼平行
層理が発達しており、その中には火山弾も多く見られます。
(写真2)
。また中部溶岩層は、塊状部とクリンカーと呼ばれるガサガサした多
孔質のコークス状岩片を伴うらんかん石玄武岩の溶岩で、何枚も積み重なってい
ます。これは溶岩の温度が低かったり、溶岩の粘性が高い場合には、溶岩の表面
がクリンカーで覆われやすくなるためで、この特徴を持つ溶岩はアア溶岩と呼ば
れます。上部火砕岩層は下部火砕岩層同様の成因による堆積物で、下部火砕岩層
と同じような特色を持っています。
古い地形図を基に地形傾斜から溶岩流の給源を推定すると、1つは旧空港の北
側付近、もう1つが爆発火口、さらに大床山とその北側にも存在し、スコリア丘
の位置とほぼ一致しています。
↑写真2:岬の溶岩台地を南から望む
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別地域
↑周辺地図
− 33 −
国賀海岸
ジオサイトの特徴や見どころ
国賀海岸は隠岐島前の西ノ島町の北西
海岸で、約10km にわたって海食崖や
海食洞が連続し、奇岩も数多く見られる
景勝地です(写真1)
。西ノ島は主に約
630∼530万年前に活動した火山岩
↑写真1:国賀南の町道から国賀海岸を望む
類からなる島で、島の中央部は南に突き
出た焼火山を中央火口丘として、それを取り囲む山々と知夫里島、中の島(海士町)
を外輪山とするカルデラ火山と考えられています。
中央火口丘は、主にアルカリ成分を多く含んだ中性の火山岩である粗面岩の火砕
岩類からなる火砕丘ですが、国賀を含む外輪山はアルカリ成分を多く含んだ塩基性
∼中性の火山岩である粗面玄武岩∼粗面安山岩の火砕岩や溶岩からなっています。
地質学的な意義
国賀海岸の摩天崖は粗面玄武岩∼玄武岩質粗面
安山岩の溶岩が何層も積み重なったもので、浸食
や岩盤の崩落・崩壊が進み、高さ約260m の断
崖となっています。溶岩(アア溶岩)には著しく
発泡したクリンカーと呼ばれる砕片状のものが上
面に伴われますが、そのガサガサした部分は風化・
浸食をうけやすいため凹状になり、それ以外の固 ↑写真3:摩天崖の南西から通天橋にかけて
見られる波食洞群
い部分が突出して、薄い溶岩の積み重なりが確認
できます(写真2)
。また摩天崖の南西の海岸部に
は多くの波食洞が連続して形成されています(写
真3)
。通天橋はこの波食洞の奥の部分が崩落し、
周辺が浸食されることによってできた特異な地形
です。ここでは何層も積み重なった粗面玄武岩∼
玄武岩質粗面安山岩の溶岩が、一部赤色酸化を受
↑写真2:摩天崖を望む
け、そこに白っぽい粗面安山岩が地層に平行に貫
入していて、独特の景観を作っています(写真4)
。また周囲には浸食によってで
きた奇岩が数多くあります。付近の海岸や町道には、白っぽい色をした幅1∼2
m の粗面岩∼流紋岩の岩脈が何本も見られますが、これは中央火口丘から放射状
に伸びたもので、噴火の中心が焼火山にあったことをうかがわせるものです。ま
た通天橋の板状の貫入岩もこの岩脈と同じようにしてできたものです。
− 34 −
↑写真4:通天橋を望む ↑周辺地図
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別保護区、1935, 国指定 , 名勝および天然記念物
「日本列島ジオサイト地質百選」に「隠岐島前カルデラ」として選定されている。
知夫赤壁
ジオサイトの特徴や見どころ
知夫里島は、島前諸島の中で最も南に位置する
島で、約14k ㎡の面積のほとんどが放牧場として
↑写真1:町道から赤壁を望む
利用されています。知夫里島の西海岸には約1km
にわたって赤、黄、茶色などの鮮やかな崖の色を示す高さ50m ∼200m の断
崖があり、赤壁として知られています(写真1、地形図の①)
。知夫里島を構成す
る岩石は、約630∼530万年前に活動したアルカリ成分を多く含む火山岩類で
す。この時代の島前では西ノ島の焼火山を中央火口丘と
するカルデラ火山が形成されており、知夫里島は外輪山
の一部でした。島の西部にはアカハゲ山
(標高325m)
と呼ばれるなだらかな丘陵地があり、頂上の展望台②
から、カルデラ火山の様子が一望でき(写真2)
、また、
快晴の日には島根半島や鳥取県の大山が眺望できます。
↑写真2:アカハゲ山から島前カル
デラを望む
地質学的な意義
外輪山を構成する岩石は、アルカリ成分を多く含んだ塩基性∼やや塩基性の火山
岩である粗面玄武岩∼玄武岩質粗面安山岩の溶岩と火砕岩です。赤壁は、高温で
粘性のやや低い多孔質岩片が火口から放出され、それらが堆積して軽度に溶結し
て生じた火砕岩(アグルチネート)や、もう少し火山灰を多く含む集塊岩(アグ
ロメレート)からなる火砕丘でできています。この火砕丘は底の直径が数100
m、比高数10m の規模で、同じ岩質の溶岩に覆われています。また、この火砕
丘には粗面玄武岩∼玄武岩質粗面安山岩の岩脈が貫入しています。これは、噴火
の際のマグマの通り道(火道)であったと考えられています。またこれとは別に、
− 35 −
アルカリ成分を多く含む
中性の火山岩である粗面
岩の岩脈も認められます。
↑写真3:海上から赤壁を望む
火砕丘をつくる岩石は、噴
火後まだ高温のときに酸化を受けて赤色化しています。
このようにしてできた赤壁は、写真3のように夕日を
浴びると特に赤く輝くことで知られています。赤壁の
下の海岸には、波食棚③が連続して見られますが、こ
れは今から数千年前の温暖期で、海面が高かったとき
に形成された浸食地形です。
↑周辺地図
地質学的な意義
大山隠岐国立公園特別保護区。1935年 国指定、名勝および天然記念物
明屋海岸
ジオサイトの特徴や見どころ
明屋海岸は隠岐島前の中ノ島(海士町)の北東
部を縁取り、海食崖や海食洞が約1kmにわたっ
て連続する景勝地(写真1)です。中ノ島を構成
↑写真1:明屋海岸を遊歩道から望む
する主な岩石は、約630∼530万年前に噴出
した溶岩と火砕物です。この時代の島前は現在の中ノ島、知夫里島、西ノ島が外
輪山を形成し、西ノ島の焼火山を中央火口丘とするカルデラ火山でした。またこ
の火山は島前火山と呼ばれています。その後、約280万年前には明屋海岸を中
心とした玄武岩の噴火が始まり、大量の火砕岩を噴出して溶岩は西の諏訪湾まで
到達しました。これらは島前で最も新しい火山岩で宇受賀玄武岩と呼ばれていま
す。明屋海岸は、この時の火山活動によってできた直径が約1kmもあるスコリ
ア丘です。このスコリア丘は、玄武岩マグマが発泡した多孔質な火山砕屑物(ス
コリア)や、火山弾を含むさまざまな火山噴出物でできており、これらを直接手
で触れたり観察することができます。
地質学的な意義
明屋海岸で見られる火山噴出物は、玄武岩の溶岩や火口から
放出された高温で粘性のやや低い多孔質岩片が堆積して軽度
に溶結した火砕岩(アグルチネート)です(写真2)
。火砕岩
は平行∼斜交層理が発達したり、層理が認められず塊状であっ
たりします。火砕岩には数cm∼25cmの赤褐色をし ↑写真2:アグルチネートの露頭
− 36 −
たスコリアが含まれ、時には長径1mにもおよぶ火山弾
も含まれています(写真3)
。
また、同じ岩質のマグマがスコリア丘を高角度に貫入す
る岩脈や、地層に平行に貫入したシルを見ることができ、
手で触れることのできる噴火口の断面と言えるでしょう。
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別保護区
↑写真3:アグルチネート中の見
られる火山弾
↑周辺地図
大峯山の大規模地すべり(崩壊)地形
↑写真1:大峯山北東斜面を北西側から見る。
山頂直下の急崖部は地すべり(崩壊)の頭部滑落崖と考えられる。
ジオサイトの特徴や見どころ
島後北部にある標高507.
6mの大峯山は、周囲をいくつもの馬蹄形をした急崖
が取り囲み、山頂部が平坦な変形ヒトデ形の屋根を持つ特異な山容をしています(地
点①、写真1)
。第二次世界大戦中は山頂の平坦地形を飛行場に擬して、模型の飛行
機を置いていたそうですが、現在は牛の放牧場になっています。山頂は全ての木が北
西から南東方向に大きく傾くほど強風が吹き荒れるため、3基の風力発電所が設置さ
れています。また、急崖の下方には、所々に急斜面を持つ丘陵地形が発達し、海岸や
中村川および久見川に面した急崖に連続しています。この海岸部や河川の急崖部は中
新世(2300万∼530万年前)の地層でできて
いますが、丘陵部には礫・粘土・玄武岩からなる向ヶ
丘層が分布し、前記の中新統を不整合に覆っていま
す。さらに大峯山の山体は向ヶ丘層に整合に重なる
玄武岩の溶岩(大峯山玄武岩)からなります。こ
れらは鮮新世の前期(500∼400万年前)に堆
積・活動したものです。隠岐では約550万年前に ↑写真2:玄武岩礫が混じる向ヶ丘層の堆積物
− 37 −
大規模で激しいアルカリ岩の火山活動がありましたが、火山活動が終息すると島全体
が急激に沈降し、浅い海の環境に変化しました。この海には海成の有機質粘土や、そ
れ以前に活動した火山の山体崩壊物が礫や土石流堆積物として堆積(地点③、写真2)
し、玄武岩も活動しました。やがて島は隆起に転じるとともに浅い海が埋め立てられ
て、南東から北西に流れる川が形成されました。
この川に沿って南東方向から流れてきた溶岩が
堆積して出来たのが大峯山なのです。大峯山頂
に至る道路の標高410m付近の法面(地点②、
写真3)では河川成礫層や、それを覆う玄武岩
溶岩を観察することができます。隆起後、それ
に伴う海岸部の浸食や谷の形成で斜面が不安定
化し、大峯山玄武岩中に貯留された地下水の作
↑写真3:大峯山山頂直下の礫層と玄武岩溶岩
用もあって、向ヶ丘層中の粘土層をすべり面と
した大規模な地すべり(崩壊)が引き起こされ
ました。この時の滑落崖が大峯山を取り囲む馬蹄形をした急崖で、大きいものは幅約
2km、小さいものでも幅100m程度あります(地形図参照)
。残った向ヶ丘層は、
内部に滑りやすい粘土層を持ち、礫層や玄武岩を通して地下水が供給されるため、地
すべりを生じやすいという特徴があることから地すべり防止区域(西村・伊後・山田)
に指定されています。なお島後の地すべり地の多くは、大峯山と同じような過程を経
て形成されました。また、粘土=不透水層、礫層・玄武岩溶岩=地下水供給体という
水利特性を利用して大峯山周辺には多くの溜池が作られています。
地質学的な意義
大峯山と同様な地層構成は、大峯山北西の空峰山、
南東の大満寺山、釜で見ることが出来ます。ここでの
向ヶ丘層と玄武岩溶岩との境界標高は空峰山=250
m、大峯山=350m、大満寺山=380m、釜=
120mとなっており、隆起が一様でなく大満寺山付
近を中心とした曲隆運動であったことが分かります。
また、向ヶ丘層の中には過去に地すべりによって生じ
た強い変形の痕跡を至るところで観察することができ
ます。大規模な地すべり(崩壊)がもたらす地形の変
化は劇的ですが、これも浸食作用の1つの形態なので
す。大峯山から眺望すると、地層の形成から消失まで
のダイナミックな変遷を充分に理解することが出来ます。
− 38 −
↑周辺地図
福浦トンネル
ジオサイトの特徴や見どころ
島後西部の重栖から福浦に至る海岸にはノミ
を使って手掘りで掘られたトンネルがあります
(地点①、写真1)
。明治以前の福浦―重栖間の
道は急峻な崖の中腹にあったのですが、落石や ↑写真2:重栖側から見た波食棚を利用した明治初
期の道 左は新トンネル、右奥が弁天島
転落の危険があるため、明治のはじめに海岸沿
いの道が作られました。
この道は、波食棚を必要な幅だけ平坦に削っ
て通行するように工夫されており(写真2)、
棚の発達が悪く危険な箇所をトンネルにしたも
のです。したがって、
トンネルは数カ所にわたっ
て途切れ途切れに掘られています。しかし北西
の季節風が強いと波食棚は波で洗われて通行が
できないため、明治34年に山側に1本の新し
いトンネルが手掘りとダイナマイトを使って作
↑写真1:福浦側から見た、
「福浦トンネル」
写真中段左側中央の海に面した2つが
られました。このトンネルには、途中に灯り
旧トンネルで、右端が新トンネル
取りの窓が何ヵ所か設けてあります。さらに昭
和の後半には、車輌の通行がスムーズになるように新トンネルの拡幅がなされま
した。これらのことが評価され、2005年度には土木学会から「土木遺産」に
指定されています。現在、新トンネルには亀裂が入り、また落石の危険があるた
め、車での交通は禁止されています。なお、トンネルの掘られた地層は今から約
550万年前に噴火した重栖層と呼ばれる火山岩類の一部で、粗面岩と呼ばれる
アルカリ成分を多く含んだ中性の火山岩の火砕岩です。この火砕岩は軟らかくて
削りやすく、言い換えれば浸食されやすいため、海岸には海食崖や波食棚(写真2)
またポットホールや波食窪などができたのです。福浦側では、この火砕岩を覆う
流紋岩溶岩の急崖が、白糸の滝と深浦の滝(地点②)を作っており、冬期には水
墨画の世界を垣間見るよう
な景観を醸し出します。な
お、現在の新福浦トンネル
は昭和63年に完成してい
ます。
↑写真3:火砕サージの斜交層理
− 39 −
↑写真4:火口周辺にのみ見られる降下溶
結凝灰岩黒い部分がスパターで
白い部分が軽石。灰色や茶色の
噴石を含んでいる
地質学的な意義
福浦トンネル周辺の地層は、アルカリ成分に富む酸性の流紋岩と中性の粗面岩
の噴火が交互に繰り返されてできたもので、ここでは噴火口の周辺のいろいろな
堆積物がみられます。トンネルが掘られた火砕岩は、火山の噴火で巨大な噴煙柱
が垂直に上昇した後、火砕物が急速に降下して堆積した“火砕サージ”と呼ばれ
る堆積物で、火砕物が高速で移動・堆積した証拠である斜交層理や平行層理、あ
るいは噴石や火山弾の落下痕が見られます(地点③、写真3)。湾の中央部にある
弁天島(地点④)は、この火砕サージと粗面岩溶岩から出来ており、湾の西の半
島の地層と同じです。このトンネルの重栖側には、火口から飛び散ったマグマの
飛沫(スパター)でできたガラス質の溶結凝灰岩(写真4)が黒滝岩と呼ばれる
黒っぽい急崖(地点⑤)を作っており、
古い採石場(地点⑥)へと連続しています。
また溶岩も噴火したものや貫入したものがあり複雑な火山現象を観察することが
できます。
(参考図書参照)
脚注:参考図書:日曜の地学 25 島根の自然をたずねて.12-13 頁.
「島根の自然」
編集委員会編.築地書館.1998 年
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別地域・島根県名勝天然記念物「重
栖の岸壁」
↑周辺地図
油井の池
↑写真1:写真1:油井の池全貌(遠景)
ジオサイトの特徴や見どころ
油井の池は、隠岐島後の西海岸近くの標高約50
mに位置した直径約250mの円形の池です。その
大部分は湿性草原となっており、一部に水域が存在
しています。池の中央部には木が生えていますが、
これら草木が生えている部分は浮島になっていま
す。このような湿地環境は隠岐島後では珍しく、貴
重な動植物の生息地になっています。
− 40 −
↑写真2:油井の池全貌(近景)
また、池の周辺は森林となっており、さらにその東側には馬蹄形状の崖が切り
立っています。この急崖は粗面岩の溶岩から成っていることから、油井ノ池の円
い地形は、
島が形成された頃の活発な火山活動時(約500万年前)の「爆裂火口」
ではないかという考えがあります。しかし、隕石衝突でできた「クレータ」や巨
大地すべりによってできた「頭部陥没帯」
などの説もあります。
池周囲には展望台や自然観察路が設備
されており、貴重な動植物やダイナミッ
クな地形を観察できるようになっています。
↑写真3:油井の池とその東側に切り立つ急崖
地質学的な意義
「油井の池はどのようにしてできたか?」これについて過去から様々な説があり
ました。池周辺でのボーリング調査により、池とその東側の急崖との間には不揃
いの礫を含む地層が存在することが明らかとなりました。さらに最新の調査では
これらの地層は鮮新世の海成堆積物(向ヶ丘層)であることが分かってきました。
つまり、現在の油井の池周辺は鮮新世には海底であり、向ヶ丘層の堆積後、鮮新
世末から更新世には隆起したことを意味しています。このことから、油井の池を
取り囲む急崖は、島後が沈降していた時の海の波浪によって形成された海食崖で
あり、隆起時に発生した巨大な地すべりによって堆積物が移動し、現在の地形が
形成されたものと考えられます。したがって、油井の池
は巨大地すべりの頭部陥没帯に水が溜まってできた天然
の池であると考えられます。
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別地域
壇鏡の滝
↑周辺地図
ジオサイトの特徴や見どころ
壇鏡の滝は、隠岐島後の南西部に
ある那久川上流に位置し、粗面岩の
岩壁を流れ落ちる二条の滝でありま
す。岩壁に向かって右側の滝を雄滝
と呼び、落差が50mあります(写
真1)
。それに対し、左側の滝を雌滝
と呼び、落差が40mあります(写
真2)
。このうち、雄滝は裏側から眺
↑写真1:雄滝全景
− 41 −
↑写真2:雌滝全景
めることができるので、
「裏見の滝」とも呼ばれています(写真3)。粗面岩の岩
壁と緑に囲まれたこの滝は幻想的でさえあり、
「日本の滝百選」および「名水百選」
に選ばれています。島内では「勝利の水」「長寿の水」とも呼ばれ、島の闘牛大会
や隠岐古典相撲大会に参加する者は、必ずこの水で清めて大会に望む慣習があり
ます。
流域には、絶滅危惧Ⅱ種「オキサンショウウオ」が生息しています。
↑写真3:「裏見の滝」(雄滝裏側より)
↑写真4:地質境界と社殿 ↑周辺地図
↑写真5:降下火山灰堆積物
地質学的な意義
壇鏡の滝周辺の地質は、今から550万年前に噴出した重栖層上部の粗面岩溶
岩が分布しています。滝が流れ落ちる岩壁の大部分は粗面岩の溶岩から構成され
ますが、岩壁の麓には溶岩の下位の降下火砕堆積物が分布しています。岩壁の前
に立つとその境界をはっきりと見ることができます(写真4)。
降下火砕堆積物は溶岩に比較して軟らかく、浸食されやすいため、長年の風雨
によって深くえぐられ、地質境界を境にオーバーハング状態となっています。こ
のオーバーハングのおかげで「裏見の滝」ができたと言えます。また、このえぐ
られた部分に壇鏡神社の社殿が建てられています。このため、社殿は粗面岩溶岩
の屋根に守られているようになっています。社殿横では粗面岩溶岩と降下火砕堆
積物の境界の様子が詳細に観察できますが、溶岩には節理が多数発達しているた
め、近寄るときには落石に注意してください。
記念物指定など
大山隠岐国立公園第1種特別地域
− 42 −
大久の玄武岩中の捕獲岩
―地下深部からの便り―
ジオサイトの特徴や見どころ
地球は、その物性の相違を基に表層から6
∼30kmの地殻、2900kmまでのマン
トル、6400kmまでの核と大きく3つに
分けることができます。地殻は大陸を構成す
るものを大陸地殻、海洋を構成するものを海
↑写真1:海岸の転石に見られるさまざまな捕獲岩。
洋地殻とよび、大陸地殻の厚さは平均約30
写 真 で の 大 き さ は 最 大 13 × 8cm。
左上がかんらん石を多く含むもの、右
km程度、海洋地殻の厚さは6∼7kmであ
が輝石を多く含むもの、左下が斜長石
を含む斑れい岩。
ることが知られています。マントルは、上部
660kmまでを上部マントルと呼びますが、これは主にかんらん岩でできてい
ます。玄武岩マグマは地下数百km∼数十kmの上部マントルで発生し、かなり
の速さで上昇してきますが、マグマが上昇する時に、周りの岩石を取り込んでく
ることがあり、取り込まれた岩石を捕獲岩(ノジュール)と言います。ちなみに、
1974年に発表された東京工業大学の高橋栄一教授の論文では、大久での玄武
岩の上昇スピードは毎秒10m(換算すると時速36km)とされています。大
久から卯敷に至る海岸には玄武岩の中に、さまざ
まな捕獲岩が存在することで有名です(写真1)。
この捕獲岩には、地殻下部の斑れい岩や変成岩の
ほか、マントル由来のかんらん岩が含まれていま
す。かんらん岩は主に薄いオリーブグリーン色を
したかんらん石と深緑色をした輝石からできてい
↑写真2:海地点①の海岸
ます。捕獲岩にはかんらん石と輝石の割合の異なっ
(右手が岩頸の露頭)
た、さまざまなかんらん岩があります。これらは海岸斜面の崖や海岸の転石に含
まれていることから、容易に観察することができますが(地点①、写真1)、国立
公園であるため採取するためには許可が必要です。海岸斜面の崖は、約350万
年前(鮮新世後期)のマグマの通り道(火道)周辺の地層が浸食されたために、
火道が塔状に露出した「岩頸」と呼ばれるものです(写真2)。岩頸は地点①のほ
かに黒島(地点④、写真3)にも見られますが、後者はチャーター船でしかアク
セスすることができません。
↑写真3:黒島
− 43 −
地質学的な意義
上部マントルの主な構成鉱物は、かんらん石と斜方輝石および単斜輝石ですが、
地下70kmよりも浅いところでは、これにスピネル
と呼ばれる鉱物が含まれ、地下70kmより深いとこ
ろでは、
マグネシウム(Mg)に富んだざくろ石(ガー
ネット)が含まれます。大久ではスピネルを伴ったか
んらん岩が発見されているため、地下70kmよりも
浅いところからもたらされたものと考えられます。大
久の玄武岩中の捕獲岩は、地下深部からの手紙と言え
るでしょう。
記念物指定など
↑周辺地図
大山隠岐国立公園
乳房杉の風穴
ジオサイトの特徴や見どころ
乳房杉の風穴は隠岐島後最高峰の大満寺山(標高608
m)北側の林道南谷線沿いに位置しています。近くに樹齢
約800年と言われる乳房杉があることから、このように
呼ばれていますが、
「岩倉風穴」とも呼ばれています。
風穴とは、一般的には山腹に開いている深くて長い、火
山の溶岩トンネルを指します。風穴内の空気は、夏でも外
気に比べて気温が低いため、冷たい空気が吹き出します。
乳房杉の風穴は溶岩トンネルではなく、無数の転石が積
み重なってできたものです。無数の転石は玄武岩溶岩であ
り、大満寺山から崩れ落ちたものです。転石は不規則に積
み重なっているため、内部は隙間だらけの状態です。この
隙間が空洞の役目をして空気の流れみちとなっています。
このため、転石の隙間から冷たい風が吹き出し
ており、
夏には心地よい涼みの場となっています。
↑写真1:乳房杉
地質学的な意義
無数の玄武岩転石は、今から約450万年前
(前期鮮新世)に噴出した玄武岩溶岩起源のも
のです。転石の多くは六角柱状です。これは
− 44 −
↑写真2:乳房杉の風穴全景
玄武岩溶岩が冷えて固まるときに形成されたものであり、柱状節理といいます。
つまり大満寺山を形成する玄武岩は柱状節理が発達していたために地下水が浸透
しやすく崩れやすい状態であったと考えられます。さらに玄武岩の下位には、向ヶ
丘層と呼ばれる海成堆積層が分布しています。このように節理が発達する火山岩
が上位に分布する構造を「キャップロック構造」と言います。下位の向ヶ丘層は
キャップロック(玄武岩)から供給される地下水で崩壊・地すべりを繰り返した
ため、玄武岩はオーバーハング地形を形成し、節理に沿ったトップリング(横転)
崩壊によって転石群が形成されたと考えられます。
記念物指定など
大山隠岐国立公園特別地域
↑写真4:六角柱状の転石群
↑写真3:転石群の隙間(風穴)
←周辺地図
島前火山中央火口丘(焼火山)
ジオサイトの特徴や見どころ
島前は焼火山(写真1)を中央火口丘と
して、それを取り囲む山々と知夫里島、中
ノ島(海士町)を外輪山とする約630∼
530万年前のカルデラ火山と考えられて
↑写真1:鬼舞スカイラインから焼火山を望む
います。この中央火口丘は、粗面岩(主に
アルカリ成分を多く含む中性の火山岩)の火砕岩類からなる火砕丘で、その多く
が溶結凝灰岩で出来ています。溶結凝灰岩とは一度火山の爆発で破砕されたマグ
マの岩片が、堆積後自分の持っている熱で再び溶けて固まったもので、黒っぽい
ガラスの中に、結晶片や岩片、溶けた軽石片を混じるのが特徴で(写真2)、林道
沿いの地点①の露頭から焼火山駐車場(地点②)に至る林道で観察できます。また、
− 45 −
駐車場から15分ほど山頂目がけて歩くと焼火神社(地点④)に至ります。この
神社はオーバーハングした非溶結の火砕岩中の洞穴に造られており、独特の景観
を持っています。
(写真3)
↑写真4:閃長岩の接写
↑写真3:火砕岩と焼火神社
↑写真2:粗面岩の溶結凝灰岩
また、神社社務所の石垣(地点③)は溶岩凝灰岩で出来ており詳細な観察が可
能です。火砕丘の北側には島前火山の基盤をなす美田層と呼ばれる1900万年
前の湖に堆積した地層(地点⑤)や、1200万年前に海に堆積し、貝化石を含
む市部層と呼ばれる砂岩層(地点⑧)が観察できます。林道の大山側では、これ
らの地層を貫く、日本では珍しいアルカリ岩の深成岩である石英閃長岩(地点⑥)
と、接触変成作用を受けてホルンフェルス化した美田層(地点⑦)を観察するこ
とができます。
脚注:深成岩…マグマが(地下で)ゆっくりと冷えて固まった岩石で、造岩鉱物
が大きな結晶になっている。閃長岩は粗面岩質マグマがゆっくりと冷えた物で、
成分的には粗面岩と同一。
地質学的な意義
焼火山の北側では島前で最も古い地層や珍しい閃長岩(写真4)を観察するこ
とができ、島前地域の歴史を理解することが出来ます。伏在する火口壁の内側は
同心円状に地層が内側に20∼90°傾斜し、外側では逆に外側に40∼80°
傾斜しており、火山体の構造が読み取れます。また、平行∼斜交層理の発達した
マグマ水蒸気爆発を起源とする火砕サージ堆積物など、火山噴出物の多様な現象
を観察することができます。
記念物指定など
大山隠岐国立公園、1992
国指定重要文化財(建第二二七二号)
「日本列島ジオサイト地質百選」に「隠岐島前カルデラ」
として選定されている。
↑周辺地図
− 46 −
L. ハーンが情報提供した山陰道と
隠岐の英文旅行ガイド
∼ B.H.Chamberlain & W.B.Mason:『A HANDBOOK FOR
TRAVELLERS IN JAPAN(4th ed.)』(1894) ∼
島根県立松江工業高等学校 岡崎 秀紀
はじめに
L.ハーン(小泉八雲、1850-1904)の業績は、島根県内では広く知られて
います。友人の B.H.チェンバレンに協力して、当時外国人向けの英文国内
旅行ガイドとして人気があった、『明治日本旅行案内』(第3版、 1891 年(M
24)刊。第4版、1894 年(M27)刊)に、山陰道と隠岐の旅行情報を提供し
ています。それは、 L.ハーンの松江赴任(1890 年、M23)、出雲大社参拝、
隠岐旅行(1892 年・M25)の体験と観察が基になっています。
L .ハーンが情報提供した英文旅行ガイドのことは、県内ではほとんど知ら
れていませんでした。本稿では、この英文ガイドを翻訳紹介し、多少の解説
を試みます。
L. ハーンが情報提供した山陰道ガイド(M 27刊)
1−1 『明治日本旅行案内』と島根
1) 『明治日本旅行案内』
の刊行
明治初期、外国人向けの国内旅行ガイドブックに、
『中部及北方日本旅行案内』
(1881 年・M14。以下、『明治日本旅行案内』と記す。)があります。イギリス
公使のアーネスト・サトウ(E.M.SATOW)
と ホ ー ス(A.G.S.HAWES) が 編 集 し た、
“ A HANDBOOK FOR TRAVELLERS
IN CENTRAL & NORTHERN JAPAN ”
(1881) です。外国人向けの初めての英文旅
行ガイドで、明治期の代表的な日本観光案内
書でした。ルートごとに旅行行程を解説する
スタイルをとり、当時の外国人旅行者に好評
でした。
『明治日本旅行案内』(第4版) 1894(M 27)
第1版で、W . ガウランドは、
「ルート 30 越中と飛騨」の稿で、はじめて
“Japanese Alps”の語を使用して、中部山岳地帯のことを紹介しました。この
ことにより、W. ガウランドは「日本アルプスの命名者」となりました。
『明治日本旅行案内』は、改版が重ねられました。第2版(1884 年・M17)は
同じくサトウとホースが編集しました。第2版では山陰道はとりあげられてなく、
松江および出雲地域の記述はありません。 第3版(1891 年・M24)以降は、B.H.チェンバレンとW.B.メーソンに
− 47 −
編集が引き継がれました。タイトルは“A HANDBOOK FOR TRAVELLERS
IN JAPAN”と改題になりました。序文で W.ウエストン、L.ハーンの名前
があり、編者から感謝の意が述べられています。W.ウエストンは、日本アル
プスの登山情報「飛騨と越中」(ルート 34)を提供しました。また、明治 23 年
松江に赴任した L.ハーンの情報提供によって、はじめて山陰道が登場します。
「ルート 48 山陰道 宮津から萩までの日本海沿岸 ―東郷池温泉、大山登山、
松江、杵築と出雲大社、三瓶山、浜田から広島へ」です。
第 4 版(1894・M27)では、同じく L.ハーンの情報提供により、新たに隠岐ルー
トが追加されました。序文に、「L.ハーン氏からはルート 48 の新情報がもたら
された。以上の方々に謝意を表する。」とあります。本稿で翻訳を試み、紹介す
るのは、第 4 版のルート 47 とルート 48 の島根県に関係する部分です。
「ルート 47 松江と出雲大社、大山、浜田、萩 1.松江とその周辺、2.出
雲大社、3.浜田と萩」
ROUTE47 MATSUE AND THE TEMPLES OF IZUMO. [DAISEN.]
HAMADA.HAGI
「ルート 48 隠岐諸島」ROUTE48 THE OKI ISLANDS
また、同版冒頭、日本概説の「21 THE SHINTO RELIGION 」の節に、
出 雲 大 社(Great Temple of Izumo,
Izumo no O-yashiro) の 絵 図 と 記 述
があります。これも出雲大社に 3 回も
参拝しているL.ハーンに基づいてい
ます。最終的に、『明治日本旅行案内』
は、B.H.チェンバレンとW.B.メー
ソンのコンビで、第9版(1913 年・T 2)
まで改訂を重ねています。
第4版には、西日本の地図が添付さ
れています。島根県内の地名を拾って
みました。
旧国名 IZUMO(出雲)
、IWAMI(石見)
自 然 Nakaumi(中海)
、Shinji L..(宍道湖)、
Hiigawa(斐伊川)、Egawa(江
川 ) ※ 正 し く は「 ご う が わ 」、Sambeyama( 三 瓶 山 )、SEA OF
JAPAN(日本海)
町 村 Matsue( 松江 )、
Shinji(宍道),Mionoseki(美保関)、Kizuki(杵築)、
Omori(大森)
、Yunotu(温泉津)、Hamada(浜田)、Takatsu(高
津)
、Dewa(出羽)
※正しくは「いずわ」
2)L.ハーンの情報提供
L.ハーンは 1890 年(M23)8 月 30 日に松江に到着しました。翌 9 月には、
出雲大社を参拝しています。昇殿は 9 月 14 日でした。L.ハーンより先に、W.
ガウランドも出雲大社を参拝しています。
L.ハーンの松江、隠岐旅行の前後の動きを再録します。 1890 年(M23)
8 月 30 日
松江着 島根県尋常中学校、師範学校教師。
− 48 −
9 月 13 ∼ 15 日
出雲大社参拝(正式参
拝 14 日)
1891 年(M24)
『明治日本旅行案内』
(第
3版)出版
7 月 26 日∼ 8 月 10 日 出雲大社、日御碕参拝
8 月下旬
伯耆、美保関探訪
11 月 15 日
熊本へ出発 1892 年(M25)
8 月∼ 9 月
熊本より隠岐旅行へ。
8月6日
下関より海路(温泉津
経由)
、境へ。
8 月 10 日
境より隠岐へ この間、
ハーンとセツ夫人
浦郷、西郷、菱浦を巡遊
(明治25年5月)
する。
8 月 24 日
隠岐より境帰着。 その後、陸路(米子 - 尾道)
と海路(尾道 - 下関)で帰熊へ。
9 月 10 日
熊本帰着
1894 年(M27)『明治日本旅行案内』(第4版)出版
『明治日本旅行案内』
(第2版)の翻訳書は、庄田元男訳『日本旅行案内(上)
(中)
(下)
』
(平凡社)があります。同書で訳されているルートは、国内旅行事情と東京、
横浜など関東周辺と関西(神戸、大阪、京都、奈良)が中心です。したがって、
本稿の山陰道および隠岐ルートの翻訳・紹介は初の試みとなります。
アーネスト・サトウ Sir Ernest Mason Satow(1843-1929)
幕末・明治の英国外交官。1862 年来日。駐日英国公使ハリー・
パークスのもとで活躍。英国における日本学の基礎を築いた。
『アーネストサトウ公使日記』(新人物往来社)、『一外交官の見
た明治維新』(岩波文庫)など著書多数。 A.G.S.ホース Albert George Sidney Hawes(1842 − 1897)
ホウス、ホウズ、ホーズ、ハウズとも表記。英海軍学校卒業
E. サトウ
後、東インドおよび英仏米蘭の 4 国連合艦隊(兵庫遠征)にて
勤務。 1869 年退役し、日本で勤務(肥後藩、工部省、海軍省。1871-1884)。
1897 年ハワイにて死去。「日本海軍の真の父」と呼ばれる。『明治日本旅行案内』
では編者名に Lieutenant ( 退役軍人 ) と記す。
B.H.チェンバレン Basil Hall Chamberlain(1850-1935)
英 国 人。 1873 年( 明 治 6 ) 来 日。 東 京 大 学 教 授 と な り、
日 本 文 化 の 研 究 を 行 う。『 日 本 事 物 誌 』 な ど、 著 書 多 数。 小
泉八雲と親交。
W.B.. メーソン William Benjamin Mason (1853-1923)
メイスン、メイソンとも表記。英国人。お雇い外国人電信技
師( 工 部 省 電 信 取 扱 方 )
。 電 信 事 業 の 発 展 に 貢 献 す る。 第 一
高等中学校で英語を教える。関東大震災(1923)で死去、横 B.H. チェンバレン
− 49 −
浜外国人墓地に埋葬。八雲と親交。チェンバレンは絶大な信頼を寄せた。第
4 版 表 紙 に、
“LATE OF THE IMPERIAL JAPANESE DEPARTMENT OF
COMMUNICATIONS”とある。
著者注 ]
メーソンは電信技術のお雇い外国人として承知していたが、『明治日本旅行案
内』の編者でもあることを今回初めて知った。電信と英語教育の両面での彼の業績を書いてあ
る文献は少ない。英語教育関係の著書として、「English poems,Ser.1」Z.P.Maruya(1896),
「Mistakes,commonly made by Japanese in writing and speaking English」Kokumin
Eigakukwai(1897) 等がある。
W.ガウランド William Gowland(1842-1922)
英国人。1872 年来日、大阪造幣寮の化学・冶金学の教師に就
任する。貨幣鋳造技術の発展に貢献したお雇い外国人技術者。登
山が趣味で、日本アルプス(Japanese Alps)の命名者となる。
日本各地の古墳を調査し、
「日本考古学の父」とも称される。明
治 20 年 9 月∼ 10 月、出雲・石見地方の古墳調査に来県する。
W.ウエストン Walter Weston(1861-1940)
W. ガウランド
英 国 人。 明 治 21 年 宣 教 師 と し て 初 来 日。3 度 の 滞 日 中
に、中部山岳地帯をはじめ、日本各地の山々を登る。日本山
岳 会 の 結 成 を 指 導。 日 本 ア ル プ ス の 名 を 世 界 に 広 め た。 日
本 近 代 登 山 の 父 と 称 さ れ る。『 日 本 ア ル プ ス の 登 山 と 探 検 』
( MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE
JAPANESE ALPS、1896)などの著書がある。著書で八雲に触
れる。チェンバレンと親交。チベット探検僧・能海寛(1868 −
1901、浜田市金城町出身)は、『英文日記』に、慶応義塾時代に
W. ウエストンが英語を教授したことを記録する。
W. ウエストン
1−2 ルート47 松江と出雲大社 1)松江とその近辺
このルートで興味をひく主要な建造物は、出雲大社です。日本のどの地域も、
この西南海岸地域ほど、
古 ( イニシエ ) を感じさせる地域はありません。ここでは、
人々の会話は遠慮がなく、そのやり方は飾り気のないものです。古代の神々が支
配しており、聖なる明かりがすべての家々で毎夜焚かれています。
西南海岸に与えられた共通の名前は、山陰道、すなわち日陰の地域です。それは、
山陽道すなわち日当たりがよい地区と呼ばれている瀬戸内海沿岸の地域に対比し
て与えられました。この 2 つの地域間には、気候の著しい差があるので、これら
の名前は十分正当化されるでしょう。
松江と出雲大社へは、松江の入口となる境港 ( 宿屋、香川旅館 ) へ、大阪から
下関経由、汽船で入るのが最も良いアクセスとなります。陸路で松江へ入る最短
の道は、高田川(訳注 ] 今の旭川)の谷を遡ることです。
− 50 −
Itinerary
Ri.
Kanagawa........... 5
Fukuwatashi...... 3
Ochiai................ 8
Katsuyama.......... 2
Mikamo............. 3
Shinjo ............... 1
Itaibara.............. 2
Neu.................... 1
Yonago.............. 7
OKAYAMA to:
Total...................
日程
Cho.
M. 岡山から(里 丁 マイル)
12 1/4 金川 7 1/4 福渡
2
19 3/4 落合
5
勝山
20
8 3/4 美甘(みかも)
24
4
新庄
14
5 3/4 板井原
33
4 3/4 根雨(ねう)
12
18
米子
────────
34
33
────────
85 1/4 計 人力車は全く実用となります。米子から松江へは、綺麗な中海を横切る汽船
で14マイルです。全行程は3日かかります。
反対方向を行く旅行者は、落合から川を下る船を利用することができます。
最適な休憩地は、勝山 ( 宿屋、 Kishi-ya) 、根雨 ( 宿屋、油屋 Aburaya) および
米子 ( 宿屋、米吾、湯浅 Yuwasa) です。
米子到着の前に、迂回路をとると、標高6,650ft の大山(だいせん、おおやま)
を訪れることができます。西南海岸で最も高いばかりでなく、最も聖なる山です。
大神である大己貴命(おおなむちのみこと。別名大国主命)が祀られています。
718年(年)に設立された僧院が永続的な名声を得たのは、第7代の僧院長・
自覚大師のおかげです。この人は中国からの帰りにこの地に降り立ったといわれ
ています。中国では奥義の神秘性の研究に専念していました。寺は、後醍醐天皇
が隠岐島に追放された頃の14世紀に最も大きく繁栄することになりました。
当時、大山寺全山で、少なくとも250の寺院がありました。徳川幕府時代
に、文明の中心が東日本へ移ると、寺院は40にまで減少しました。そして今
は、苔で覆われた廃墟、貧しい数人の僧の他に、わずかしか寺は残っていませ
ん。僧侶は、巡礼者へ部屋を提供することによって、生計の不足を補っています。
しかし、厳格な仏教徒の規律によって、じゃがいもやわずかな野菜以外、供す
ることが禁じられています。
寺院は山道を上った途中にあります。道はひどく悪いです。しかし、頂上か
らの眺めは広大です。目立つのは、沖合の隠岐島と、西に出雲・石見の境界と
なる三瓶山です。また東に三国山と但馬、丹波の山々です。大山からの下りは、
米子から1里の車尾村が最良です。
松江(旅館 皆美、槇戸、勝部)
西南海岸で最も重要な町・松江は、めのう、水晶、和紙の生産で有名です。昔
は松平出羽守の城下で、中央部の高台によく保存された城が立っています。松
江はきれいで、繁栄しています。宍道湖の境界上にきちんと位置しますが、低
い丘陵に囲まれています。その向かいには、ひときわ高い大山を含めて、遠く
− 51 −
の山並の青いシルエットが立ち上がります。松江の寺院のうち、最も見る価値
があるのは月照寺、洞光寺、春日神社および稲荷神社です。松江から南西1里
半の玉造温泉は、人気の行楽地です。
2) 出雲大社 松江から出雲大社への最良の道程は、荘原または湖西近くの平田まで汽船を利
用することです。そこから人力車で3、4時間、合計距離は10.5里、25.5
マイルとなります。三瓶山が前方に見えてくるようになります。
杵築 ( 宿屋、いなばや、大島屋 )
たびしやま(Tabiishi-yama。訳注 ] 旅伏山たぶしやま)の麓にある、古風で趣
のある小さな町・杵築は、出雲大社 ( いずもおおやしろ ) で日本国の隅々まで有名
です。出雲大社には大己貴神(おおなむちのかみ;大国主命の別名)が祀られてお
り、神道の中で、最古かつ敬虔な神社の名誉をかけて、伊勢神宮と論争しています。
杵築は海水浴の行楽地でもあります。
出雲国と但馬、丹後までの東の国すべては、日本の古い神話を形成する物語の劇
場として、隠岐島とともに突出した位置を占めています。実際、日本神話は学徒に
よって、3つの中心地が突き止められました。一つは九州で、皇室系譜の先祖であ
る神武天皇および神功皇后の戦の伝説があります。もう一つは大和国で、古代に国
の姫がいたと想像されています。三番目が出雲国です。そこでは、神や怪物、話を
する動物など不思議な物語、死者ヨミの国(ハデス:ギリシャ神話で「冥府の王」
)
につながる洞窟があります。
創造主・伊邪那岐(イザナギ)の鼻から生まれた、太陽神・天照大神の弟である
素戔男尊(スサノオノミコト)は、これら神話の中で英雄です。他の物語では、英
雄のほとんどは、彼の子孫の大己貴(大汝命;オオナムチ)
、別名「大地の神」
・大
国主神(おおくにぬしのかみ)です。すなわち、出雲国の支配者で、後に天上界(高
天原;heaven)から出雲国に遣わされた使節(建御雷神タケミカヅチノカミと天鳥
船神アメノトリフネノカミ)は、古代帝ミカドの祖先である天照大神(アマテラス
Sun-Goddess)の子孫を支持して、大国主神に王位を退くことを要求しました。
大国主神は、自分を崇め奉る社を造営するという条件で、これに同意しました。
そして、出雲国の浜に最下層の岩盤上に支柱を立て頑丈にして、壮大な社(出雲大
社;いずもおおやしろ)を造りました。大国主神は、
今日まで崇拝されてきています。
まさに、杵築の名前は、基礎を堅く長持ちさせるように土を築いた杵(キネ)の意
味を忠実に失わないようにしています。 「築く:
(つく)
土や石をつき固めて積み
あげる。築造する。
(広辞苑)
」
おそらく、この物語は神話の形で、現在支配している種族が西日本を征服したと
いうなごりを保っています。
参考)
『古事記』には、大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様
に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょ
う」と述べ、
これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)
」を造っ
た、とある。
建物 ( 本書 P.53 外観図参照 ) は、装飾がなく清々しい神道形式ですが、巨大さ、
堅固さ、大鳥居がつづく足元の参道の美しさは、参拝者を印象付けます。祭事は、
− 52 −
金で装飾された、白と紫の衣装で華麗に正装した、宮司によって執り行われます。
大宮司は、素戔男尊(スサノオノミコト)から第82代の直系子孫であることを自
慢し、生き神さまと呼ばれています。すなわち、地上界の神様です。
大社には、
宝物、
価値ある古文書が多くあります。また、
ここでは、
古代の火鑽り(火
切り fire-drill)が見られるかもしれません。穴を空けた板、その穴で高速回転
する木の棒(杵)で神火を起こします。唯一の正統な方法として、今も継承さ
れています。特にどの神も祀られていない、十九の社が他にあります。全ての
神道の神および女神が、10月の時期、集まることになっています。
この理由のため、唯一出雲では、10月は神在月(Kami-ari-zuki)、「神とと
もに在る月」と呼ばれています。
国内の他地域での古い用語は、神無月(Kami-na-zuki)、「神が不在の月」で
す。というのは、国内の他のすべての神社は、その守護神によって放棄される
と信じられています。
海岸に沿って、たくさんの小社が建っています。それは、大己貴(大国主命
Onamuji)が出雲の主権を退位した光景です。毎年20万∼25万人の参拝者が
出雲大社を訪れます。祭日には、拍手(かしわで)を打つ音、それは神を呼び
起こすためですが、ごうごう鳴る滝の音のように、途切れることがありません。
神話学と伝説の世界における出雲国の圧倒的な位置によって、大己貴命(お
おなむちのみこと。大国主命)(Onamuji)を祀る上に、多くの社が国の各所に
建てられました。その種の社に、松江から五里南の素戔男(スサノオ)を祀る
熊野神社、美保関(Mionoseki)の美しい小さな港にあって松江から汽船で2
時間の美保神社(Mio Jinja)、佐草村(Sakusa)の八重垣神社、杵築から船で
2 里の日御碕神社があります。
社を離れて、杵築から神戸川(Kobegawa。訳注 ] 神戸は、正しくはカンドと
読む。)の川岸まで、4里の行路があります。約1マイルの距離に、幻想的な岩
山風景が展開します。最高の計画は、小船に乗って川を下ることです。次には、
大山(Daisen)を除いて、この地域で最も高い三瓶山(Sambeyama)への、
長距離、でこぼこ道の旅行があります。
出雲大社絵図 SHINTO TEMPLE OF IZUMO
『明治日本旅行案内』第4版1894(M 27)には、21.THE SHINTO
RELIGION の項があります。日本人は仏教と神道の二つの宗教を有する、と書
き始めて、出雲大社に関する記述と絵図が載せてあります。
建物図面 ※日本語は著者追記。
1 The main Shrine(honsha or honden) 本社、本殿
2 An oratory (haiden) 拝殿
3 A Corridor or Gallery (ai-no-ma)
4 A Cistern (mi tarashi) 御手洗
5 A low Wall or rather Fence(tamagaki,lit.jewel hedge) 玉垣
6 A second Enclosing Fence
7 A peculiar Gateway(torii) 鳥居
8 A Temple Office(shamusho) 社務所
9 Secondary Shrines(sessha or massha)
− 53 −
摂社、末社
10 A library(bunko) 文庫
11 A Tresure-house(hozo) 宝庫
12 One or more Places for Offerings(shinsenjo) 神饌所 13 A Gallery(kwairo) 廻廊
14 A Dancing-stage(bugaku-dai) 舞楽台
15 A Stable
16 An Assembly Hall 神祜殿
17 Gates 八足門
3) 浜田と萩
これらの港は、松江航路の途中に寄港するでしょう。
浜田 ( 宿屋、道具屋 Dogu-ya、浜岡 ) は、美しい湾に続いて位置します。
1872 年、町を半壊させた大地震によって特記されます。2,000 人を超す人が地
震で亡くなりました。
[ 浜田から瀬戸内海の広島に至る街道があります。約30里もしくは旅程3日ほ
どの距離にあります。道のりははじめ起伏が多く、険しい丘を越え、人家も稀です。
しかし、人力車は道幅内を通行することができます。三坂峠(Mizaka。訳注 ] 旧
瑞穂町市木)は、石見国と安芸国の境ですが、同時に日本海側と瀬戸内海側の分
水嶺となっています。可部への12里の道は、ほとんど下り道で、そこから平坦
な4里の道が、広島の郊外へとつながっています。]
萩(省略)
1−3 ルート48 隠岐諸島 隠岐は島後と呼ばれる大きな島と、三つの小さな島、知夫里島、西ノ島、中ノ
島(原文 Nakashima)
、―まとめて島前と呼ばれます―からなります。主要な町
は島後の西郷で、伯耆の境から汽船で 39 里、95 マイルの距離にあります。公的
には、隠岐島は島根県の一部です。隠岐島の名前は、明らかに「沖合にある島々」
を意味しています。
遠くて、めったに訪れることのない小さな群島ですが、その名前は古くから国
の年代記に登場しています。
『古事記』の中で、最も面白く、かつ知られているお
話の一つは、因幡の白ウサギの物語です。利口な白ウサギは、たまたま隠岐に居て、
本土へ帰る海の道を欲しがっていました。そして、ワニ ( サメ ) を一列に並ばせて、
橋として利用しようとしました。
歴史時代に下ると、後鳥羽上皇は武家政治を転覆させて、正当な支配権を回復
させたいという気持ちに駆られました。しかし、北条義時(1163-1224)に敗れ、
島前の海士郡アマコオリに流されました。流刑の何年か後、延応元年(1239)に
亡くなりました。お墓は今でも見られます。約80年後、御醍醐天皇は、北条氏
一族によって西ノ島の別府へ流されましたが、すぐに脱出に成功しました。
隠岐は中世の時代を通して、いつも争いの現場となり、ある封建一族から別の
一族に力ずくで奪われました。この諸島では自給自足することができません。特
産物はイカで、時には信じられないほどたくさん獲れます。住民は3万人を超え、
特有の方言を話します。
− 54 −
以下の記述は、明治 25 年(1892)8 月に隠岐を訪問したラフカディオ・ハー
ン(Lafcadio Hearn)からの私信です。さらに詳しい情報を希望する読者のた
めに、L.ハーン著の『Glimpses of Unfamiliar Japan』(『明治日本の面影』)
に言及しておきます。
私は、多くの人々が隠岐に行こうとしない理由は、かつて乗った船では一番乗
り心地が悪かったのですが、粗末な小さな汽船のせいだと思います。しかし、船
は速くて強く、境から95マイルの距離を5∼6時間で航行します。
出雲と伯耆の山脈が視界から見えなくなるにつれ、隠岐島の高い断崖が視界に
入ってきます。群島へ船を進めると、人ははじめ、生命の営みの印を目にするこ
とができません。 ― 畑や道どころか、倒れた樹木さえありません。 ―ある
のは、薄暗くやせた植生で覆われた、濃青色の海から切り立った傾斜が続いている、
剥き出しの灰色の崖。それでも、ここには美しさがあります。
知夫里島、西ノ島、中ノ島の三島でつくられた内海へ汽船が航走するにつれ、
海水はガラスのように見えてきました。汽船は、最初に知夫里島の知夫里村と呼
ばれる小さな村に接岸します。そこは突然視界に入ってきます。
隠岐の漁師たちが山積みの干物魚の下に御醍醐天皇を隠して、漁船で脱出を図っ
たのは、この村からでした。
「それから、船は西ノ島の浦郷に進みます。― そこは、家々が全て海に面し、
海底からの海水が突きあがる石造りの波止場がある、とても古風な趣のある小さ
な町です。私は宿屋 (Watanabe) で食事をしました。豪華な夕食に全く驚きまし
た。私は日本のどこでも、
こんなに美味しい食事を摂ったことはありませんでした。
値段はたったの7銭でした。中ノ島の菱浦は、船が停まる次の港です。半円形を
した波止場は、澄んだ海に面しています。建物はとても奇麗です。最高の宿屋は
岡崎旅館です。私は、全体から見て、隠岐群島の風景は、自慢げに語られる瀬戸
内海のそれよりも、はるかに素晴らしいと思います。
島と島の間からの一瞥、海峡の入口、高い崖の間から見える優しく青い眺望は、
とても美しいものです。すべてが高貴です。水田はほとんど眼にすることがあり
ません。汽船は、8里の危険な海を横切って、島後へ向け菱浦を発ちます。途中、
松島、大森島、数々の小さく、小高く、険しい無人島を通過します。一部の島の
景色は、とても素晴らしいものです。際立って目立つ海食洞がいくつかあります。
島後は、近隣(島前)と同様に、険しくでこぼこしています。
「西郷港はとても大きく、逆オメガ(ωギリシア文字)形で陸に広がり、回りは
高台に囲まれています。景色は、隠岐のすべての港と同様に、美しいものです。
西郷の一部は小さな川、八尾川に沿ってあります。川は湾や河口を奇妙な線で結
んでいます。それで、通りはヘビのように曲がりくねり、かなりの距離になります。
西郷には、ほぼ1,000軒の家があり、住民5,000人と推定されます。人力車は、
まだここでは走っていません。しかし、島固有の小型品種の馬が多くいます。牛
肉もあって食事が美味しい最高の宿屋は、いなよし(Inayoshi)です。
町は数年前に全焼しましたが、完全に再建されたので、きれいで新しいです。
湾の深度が浅く不便だと不満を言われます。しかし、西郷は忙しく、繁栄してい
る港です。一度に300隻の船が、湾内に浮かんでいるのが見られるかも知れませ
ん。ロシアや英国の軍人が西郷を訪れたことがありました。しかし、私は町に居
住した最初の外国人です。町の外には水田が少し広がっています。
− 55 −
町の上の丘に、浄土宗に属する、新しくてきれいな善立寺(西町)があります。
富裕な町民から寄進されました。壇鏡滝 ( 西郷から5里 ) のように、地域で祀ら
れている場所がいくつかあります。しかし、そこの山道はひどく悪く、すべて見
えるものは岩と山です。西郷近くの聖地・津井(さい)の池で、隠岐名物の黒い石、
有名な馬蹄石(黒耀石:割った際、馬のひずめの形に割れるところから「馬蹄石」
ともよばれる。
)が見つかります。ジェット形の美しい品が切り出されます。」
訳注 ] 馬蹄石・黒耀石=火山岩の種類。灰色、黒色で半透明、ガラス光沢に富む。断口は
貝殻状。石器の材料となる。
1−4 L.ハーンの情報提供 松江・出雲、出雲大社、浜田、隠岐 のガイドですが、ハーンの情報提供は具
体的にどのように反映されているのでしょうか?山陰道ガイドの特徴、気がつい
たことを挙げます。
1)ルート47の冒頭で、出雲大社をあげています。「このルートで興味深
いのは出雲大社です。
」と書きはじめています。そして、西海岸でもっとも古
イニシエを感じさせる地域が出雲であると述べています。本文では、GREAT
TEMPLE OF IZUMO の 節 を 設 け て、 古 事 記、 大 国 主 神、 国 譲 り、 神 在 月、
火 き り な ど、 出 雲 大 社 を 詳 し く 解 説 し て い ま す。 『日本旅行案内』本文の
INTRODUCTION で、 21 節 THE SHINTO RELIGION が あ り ま す が、
日本の神道の解説とともに、
出雲大社の説明と神殿の絵図が描かれています。また、
神話の国の説明、死者ヨミの国につながる洞窟では、ギリシャ神話の名前まで持
ち出しています。
(ハデス:冥府の王)
出雲大社は、ハーン、チェンバレンとも、
大きな関心を寄せていたと思われます。
2)L.ハーンの松江入り(M23)のルートは、岡山美作から、犬挟峠、関金、
下市、米子、中海であったことが、研究者の調査で判明しています。この『明治
日本旅行案内』では、岡山・落合・勝山・美甘・新庄・板井原・根雨・米子ルー
トが紹介されています。そして陸路で松江に入る最短ルート(高田川、今の旭川
を遡上する谷コース)であるとしています。ハーンがこの最短ルートを採らなかっ
た理由は何だったのでしょうか?ハーンにとって、犬挟峠ルート、「最も人の通ら
ぬ遠い道」は、古き佳き日本の伝統、風習、風景が余計残っている道と写ったも
のと思われます。
3)中国山地を下り米子までの間では、大山寺の歴史、隠岐との関係などをあ
げて大山を説明します。また、眺望として、沖合いの隠岐島、三瓶山、三国山を
あげます。著者らの山への関心を感じます。杵築からの山旅として、三瓶山への
長距離、でこぼこ道をあげています。松江から平田への道程では、途中で三瓶山
が見えてくると書いています。
4)浜田では明治5年に発生した、浜田地震に触れています。町を半壊させ、
2,000人を超す死者があったと書きます。
浜田地震の被害規模は、5年後あるいは20年後の外国人にとっても、記憶に
残っていたようです。
5)隠岐ルートは、私信も含めて、すべて L.ハーンの情報提供に基づいてい
ます。隠岐の地理に始まり、
『古事記』の因幡の白兎の物語、後鳥羽上皇、後醍醐
天皇の歴史物語を紹介しています。各港で泊まった宿屋では、食事も含めて、L.
− 56 −
ハーンは満足しています。一方、L.ハーンは、隠岐特産の馬蹄石を産出する津
井の池を訪ねています。旅行ガイドでは客観事実しか述べていませんが、「From
Hoki to Oki」(後述)では、現地に失望したと書いています。また、「西郷港に
以前ロシアや英国の軍人が訪れた」とありますが、この事実は調査してみたく思っ
ています。最近、海士町菱浦の、旧岡崎旅館の近くに、L.ハーン夫妻の銅像が
立てられました。
6)
「From Hoki to Oki」との比較
旅行ガイドの記述は、チェンバレンが編集者でした。情報提供のL.ハーン
の旅行情報がどういう形で『明治日本旅行記』(第 4 版)に反映されているの
か、関心があります。隠岐紀行を基に書き上げた作品『Glimpses of Unfamiliar
Japan』(1894 ・ M27 刊)中に、「From Hoki to Oki」があります。
梶谷延氏は、隠岐旅行の際のハーンの旅行手帖を紹介し、その見聞内容が後に
出版された「From Hoki to Oki」に、どのような手順を経て完成されたのか、
考察を試みています。
また、藤田一枝氏は、自著『隠岐と小泉八雲』で、ハーンの「伯耆から隠岐へ」
の記述を地元の古文献で紹介したり、最新情報と比較や補足をしたりして、隠岐
紀行を解説しています。同書の解説編がそれで、1.隠岐―西郷丸、2.浦郷、
3.菱浦、4.西郷、5.津井の池、6.
八百杉、7.後鳥羽上皇と黒木御所、8.
顎無地蔵、9.知夫里の島、の各節で、ハーンの行動や見聞、感想を引用しつつ、
隠岐事情を説明しています。
7)本稿を書き上げる直前に、松村有美氏の論文を知りました。論考のポイン
トは、
『明治旅行案内』の中でも、
第4,
6,
8版の、特に隠岐ルートの記述を取り上げ、
改版とともにその記述が縮小していった原因、背景を探るものでした。 おわりに
今回の日本語訳は、素訳、粗訳とお考えいただき、各方面よりご指摘ご指導を
いただきたいと思っています。
謝 辞
調査、資料・文献入手等で下記の皆さまにお世話になりました。記して感謝の
意を表します。
島根県立図書館、島根大学付属図書館(八雲文庫室)、松江市立図書館(八雲文
庫)
、八雲会・内田融氏(文献提供)
、横浜開港資料館
参考・引用文献リスト
1)B.H.Chamberlain & W.B.Mason:
『A HANDBOOK FOR TRAVELLERS
IN JAPAN (4th edition) 』,
JOHN MURRAY,LONDON(1894)
2)庄田元男著:山書研究 35『異人たちの日本アルプス』、日本山書の会(1990)
3)アーネスト・サトウ著、庄田元男訳:『日本旅行案内(上)(中)(下)』、平凡
社(1996)
ibid:
『明治日本旅行案内』
、平凡社東洋文庫(2008) 4)日本文明協会:
『明治文化発祥記念誌』(大正 13)
5)篠原宏著:
『日本海軍お雇い外人』
、中公新書(S63)
− 57 −
6)高橋善七著:
『お雇い外国人 ⑦通信』、鹿島出版会(S44)
7)チェンバレン著・高梨健吉訳:
『日本事物誌』、平凡社東洋文庫(S44)
8)武内博編著:
『来日西洋人名事典』
、日外アソシエーツ(1995)
9)Lafcadio Hearn:“Glimpses of Unfamiliar Japan”2vols. Boston and
New York( 1894) vol. 2XXIII FROM HOKI TO OKI
10)W.B.C.Lister“MURRAY’S HANDBOOKS FOR TRAVELLERS”(1993)
11)小泉八雲著・平川祐弘編:『明治日本の面影』、講談社(1990) ※“From Hoki to Oki”
「伯耆から隠岐へ」の訳者は銭本健二氏 ( 元島根大学
教授 )。
小泉八雲著・平井呈一訳:
『日本瞥見記(下)』、恒文社(1975)
12)西山繁雄著:「ハーンが泊まった宿 ―犬挟峠を越えて中山へ―」、『八雲来
町百年記念誌 盆踊りゆかりの地なかやま』(平成3年)
13)梶谷延著:
「Lafcadio Hearn の紀行文、
“From Hoki to Oki”について」、
『島
根大学論集 人文科学編』
(1960)
14)藤田一枝著:『隠岐と小泉八雲』、海鳥社書店(昭和 46)
15)田中豊治著:「ハーンと隠岐」、『隠岐郷土研究7号』(1962)
16)岡崎秀紀著:「塩冶が丘と日本アルプスの命名者 W. ガウランド ∼明治
20 年来県、本校周辺の古墳を調査∼」、『研究紀要 14 号』、出雲工業高校(平
成 12 年 3 月)
17)ibid:「能海寛をめぐる人々 日本アルプスの父 W. ウエストンと日本文化の
紹介者・文豪小泉八雲」
、
『石峰2号』、能海寛研究会機関誌(1996.2)
18)ibid:「能海寛と日本アルプスの父 W. ウエストンとの出会い∼ 1890 年(明
治 23)の慶応義塾を舞台にして∼」
、『石峰3号』、(1996.7)
19)松村有美著:「ハーンの隠岐記述 ∼『日本旅行案内』の中の「隠岐諸島」
を中心に∼」
、
『へるん倶楽部』第4号、富山八雲会(2006)
20) 松村有美著:
「伯耆から隠岐へ つながる ルート 48 隠岐諸島」、
『へるん』43号、
八雲会(2006)
− 58 −
隠岐諸島新産の植物 (3)
海士町 丹後 亜興 トウササクサ Lophatherum sinense Rendle
唐笹草。
「唐」は中国で発見されたことに因む。笹(タケ亜科)のように見える
草(イネ亜科)の意である。実は,
笹や竹に葉が似ているのは見かけだけではない。
「平行に走る縦の葉脈が,横の葉脈で結ばれ方眼を作る。」という,葉脈の構造も
タケ亜科のものである。葉の形が多少とも笹や竹を思わせるものは他にもあるが,
ここまでそっくりでかつ葉脈までササ・タケ的というのは例がない。
隠岐の島町西郷の平(へい)地区,妙顕寺の前の谷川の奧(杉林内)に点々と
見られる。決して少ない量ではない。草丈は 80cm 前後でかなり大きく,しかも
しばしば固まって生えるので,ササ似の幅の広い葉(3 ∼ 4cm)と相まって大変
目につきやすい。これほど目立つものが,何故今まで植物関係者に知られずに来
たのか。誰一人この辺りを調べた人がいなかったのであろう。ただ,平地区の人
達はこの植物をちゃんと知っているのではないかと思う。
分布は,中国の長江(中・下流流域の一部),朝鮮半島南部,九州,四国,本州
(北陸・近畿以西)
,である。最新のデータによると愛知県と栃木県(関東で唯一)
でも発見されている。個体数の非常に少ない種ということで,各地の府県で絶滅
危惧種に指定され,
島根県も例外ではない。県東部に 2 ∼ 3 の生育地(伯太・出雲)
があるらしい。中国地方の状況を調べたら,山口・岡山でもレッドデータ,広島
県は「植物誌」によると標本 1 点のみ,鳥取県は不明だった。
今回(2009.9.25)写真を撮るために再び現地を訪れ歩き回ってみたが,この谷
筋(林道平線沿い)の外へ
はほとんど広がっていない
ことが分った。種子をよく
つけ,しかも簡単に衣服に
くっ付くことを考えると,
広がらないのがむしろ変
だ。ひょっとしたら,何か
理由があって隠岐ではここ
にしかないのだろうか。
なお,近縁種のササクサ
L. gracile Brongn. も 同 じ
所で見付けた。これも隠岐
では初めての種で,いよい
よ貴重な場所だと思う。
− 59 −
「竹島雑誌」について
「隠岐の文化財」26号(21年3月発行)に発表した「竹島雑誌」については、
字句の校正も不十分であった上、さらに大きな構成上の不手際をしてしまいました。
それは、3ページ目、冒頭の二重枠の中の「竹島雑誌」というタイトルの左下に、
「西ノ島町古文書教室」という九文字が脱落していた事です。そのためうっかりす
ると、杉原先生が「序文」に引き続いて書かれた解説文か?と受け取られかねな
い形になってしまいました。
(杉原先生の序文を読んでいただければ、そうでない
ことはお分かりになりますが)いずれにせよ、執筆の責を負うべき「西ノ島町古
文書教室」という名前が、どこにもはいってなかったのが原因で、読者に疑問や
誤解を与えてしまったことを深くお詫びいたします。
西ノ島町古文書教室 真野享男
− 60 −
《執筆者》
吉谷昭彦
元鳥取大学名誉教授
幸塚久典
東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所
隠岐ジオパーク推進協議会
岡崎秀紀
島根県立松江工業高等学校
丹後亜興
海士町文化財保護審議委員
西ノ島町古文書教室
︽執筆者︾
焼火神社宮司
松浦
道仁
海士町古文書教室
知夫村文化財保護審議会委員長
山
穂