地 域 と 大 学

地
域
と
大
学
―住学協同への実験一
平成 4 年 9 月 24 日
近畿大学九州工学部長
筑豊ゼミ実行委員会会長
本郷英士
旧産炭地の暗いイメージから抜け出し、筑豊の再生を目指す人々の熱気に煽
られ、近畿大学九州工学部で筑豊ムラおこし・地域づくリゼミナール(筑豊ゼミ)
を始めてから 5 年目に入りました。このゼミを我々は「住学協同機構」と呼び、
公開講座や、産学官の協力などとはかなり質の違うものとしています。
ゼミは毎月 1 回、夜間に、1 年間 12 回に亙って行われています。研究と討論
は地域の再生と発展に関連する事柄で、毎日のテーマは受講者と大学の代表と
で組織する実行委員会で決めます。大学のお仕着せではなく、受講者自身の手
作りが特徴で、大学は施設と助言者を提供し、勿論、受講料をとるなどという
ケチなことはしません。住民と大学の教職員は、地域の再生という深い絆で結
ばれています。また修了生の有志が現在もしばしば大学に集まり自主的に活動
しています。私はこれを、地域住民の大学を利用した画期的な生涯学習と考え
ています。
筑豊の明るい将来を信じる活動の類型は身近にあります。
「遠賀川に鮭を呼び
戻す会」です。石炭産業の撤退で遠賀川の濁りが薄れたので、北海道産の鮭の
卵を苦心の末孵化し、放流を繰り返しました。ついに毎年数匹の鮭が川に帰る
ようになり、この夢多き人々の行為は報われ、荒唐無稽でない限り努力はそれ
なりに実る事を実証してくれました。この地域に生まれ育ち、地域を愛し、地
域の将来を信ずる人々の地道な努力の中にこそ筑豊の明日があると思い、その
ような人々に出来るだけの援助をします。これが筑豊ゼミの基本的な姿勢です。
私事でありますか、本年 9 月 30 日をもって近畿大学を退職いたします。九州
-1-
工業大学情報工学部の創設準備に始まり、近畿大学の九州工学部長で終わるこ
の地域との 15 年間、特に終りの 6 年間の地域との深い係わり合いの中で、皆さ
んの示されたご好意、ご支援に心からお礼を申し上げます。有難うございまし
た。
ドイツの哲学者ニーチェは「脱皮しない蛇は滅ぶ」と言いました。サル軍国
のサルでもする反省もなく、老害をふりまかれ、組織や精神の脱皮を妨げられ
るとすればそれは悲劇です。主観的には悲劇でも客観的には喜劇でしょう。筑
豊ゼミも、私の古び過ぎた皮を脱ぎさって、新しい気持ちで進むときが来たと
思います。
この退職の機会に、筑豊ゼミの開講式と修了式で行った私の挨拶を冊子にす
るということです。哲学は稚拙であり、こじつけも多く、甚だ面映ゆいことで、
辞退したかったのですが、企画は進んでいましたし、その折々の私の熱意は汲
んで貰えるのでやむなく承知しました。元数学者(数学研究の出来ない年齢で、
だいぶ前から研究は止めています)の専門外のたわごととお受け取り下さい。
原民喜は、私と同じ広島原爆の被爆者で、その体験を通して「夏の花」のよ
うな優れた短編を残した作家であり詩人でもあります。
「心願の国」を書いて間
もなく鉄路に横たわって自らの 46 年の命を絶ちました。その短編の最後に辞世
と思われる詩があります。詩の後半は今の私の気持ちに近いと思って、死を強
く予感させる部分のみを僅かに改竄して(原文は括弧内)あげておきます。
U・・・・におくる悲歌
原民喜
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すべての別離がさりげなく
とりかわされ
すべての悲痛がさりげなく
ぬぐわれ
祝福がまだ
ほのぼのと向こうに見えているように
私は歩み去ろう
透明のなかに
今こそ消え去って行きたいのだ
遥かなる(永遠の)かなたに
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筑豊ゼミ第 1 期間講式挨拶
昭和 63 年 4 月
渾沌からの出発
私とは二回り或はそれ以上も違う、血の気の多い筑豊の若い人々のたっての
奨めもあって、このゼミナールを開講することにしました。先ずこれを企画し
推進された本学内外の方々に感謝しその労を多としたいと思います。私は最初
は 30 人から 40 人程度の参加者で出発したいと思っていました。蓋を開けてみ
ると、何が何でも参加したいという人が100人近くになってしまい、地域の
再生にかける筑豊の人々の凄ましいまでの熱気に煽られ、どうしようも無くな
りました。それがこの大盛況となった原因です。有り難く思っています。一方
では、会場の広さの関係でお断りしなければならなかつた人々もかなりありま
した。残念ですけれど仕方がありませんでした。次の機会ということにして貰
います。
さて、地域と大学との連携はどうあるべきか、また、どうあらねばならない
かについて考えてみたいと思います。大学は教育と研究との場であり、その目
的の為に大部分の時間を費やさねばなりません。従って、地域社会との連携で
一番安易な方法は、大学教育の内容のほんの一部を、こく短期間の公開講座と
することです。全国至る所で普通に行われ、文部省も地域に開かれた大学とし
て予算を付けで推奨しています。これは大学によって仕組まれたもので、期間
の短さから考えても雰囲気にひたる程度で、無いよりはましだというくらいの
ものです。大学教育の一部を地域に開放することで極めて徹底しているのは、
スイスのチューリッヒ工科大学です。人文社会関係の講義は夜間に開講され、
市民も学生と一緒になって受講しています。図書館も国民に開放されていて、
スイス国民なら誰でも学生と同じように利用できます。国立大学は国民として
の地域住民に奉仕しなければならないと考えるのと、国家には奉仕するが地域
住民の為に手は汚さないと考えるのとでは天地雲泥の差です。チューリッヒ工
-3-
科大学の考え方は、官尊民卑という、意味のない前近代的な思想に汚染された
我が国の国公立大学とは、発想が根本から違っています。民主主義の発展の度
合いの差によるものでしょうか。
時代は地方の時代であると言われていますが、世界に比類の無い中央集権国
家の我が国では、大学も政治に倣って中央への指向性が強く、地方大学でもそ
の地方に生きようとする気力に欠けていますし、地方に係わりを持つのは大学
の堕落であると考える向きもあるように見えます。従って国公私立を問わず中
央にある有名大学のミニチュアの方向を辿り、特徴のない大学が多いと思いま
す。また、大学の学科の新設を見れば、どの大学でも、電子か情報か経済か頭
に国際とつけるかで、その地方の特色を生かした学科などは稀です。昭和 55 年
に、私が責任者となって、九州工業大学の飯塚新学部の創設の方針を検討した
ときも、九州はシリコン・アイランドと呼ばれていたし、情報化時代への幕開
けの頃であったので、九州の地域性と情報化社会という時の流れとから、方向
性を持たせて情報工学部を創りたいと提案しました。文部省および九州工業大
学の学内の一部は強く反対し、九州全体を考えたこの程度のおおまかな地方性
すら否定しようとしました。私はこの反対論を説得し乗り切るために神経をす
り減らさざるを得ませんでした。本学部の学科増設では、近畿大学の初代総長
世耕弘一先生が、旧産炭地の振興のため敢えてこの地に工学部を創設された初
心にかえり、空間的には足元を見つめ、地域性を強く意識し、時間的にはポス
トエレクトロニクスなども考え、少し先を読みました。その結果、工業化学、
電気工学、建築学の既存 3 学科に加えて、工学としては少しソフトな産業デザ
インと経営工学との 2 学科を増設しました。我々はこの時点から、大げさに言
えば、地域と共に生きる為のなにがしかの決意をしたわけです。地域の要望を
出来る限り誠実に受け入れることにより、地域との強い絆が生じ今日に及びま
した。そこに今度の地方の時代における先導的試行に全くふさわしい、筑豊ゼ
ミナールという型破りの企画が提案されました。いささかも躊曙する気持ちは
無かったと言えば嘘になりますが、我々は皆さんと手をつないでこの地域の再
生に微力を尽くすことにしました。
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このゼミナールでの大学の役割についても私ははっきりと掴めていません。
私の好みから言えば、このような型破りの企画は仕組まないほうが良いのでは
ないかと思います。渾沌から出発します。渾沌とは物事が混然として見分けの
つかないさまです。荘子の応帝王篇によれば、南海の帝を倏(しゅく)、北海の帝
を忽(こつ)、中央の帝を渾沌といいます。この渾沌には文字通り目も耳も口も鼻
もありません。倏と忽とがあるとき渾沌の土地を訪れ手厚くもでなされました。
その厚遇にむくいるため、人間同様に見たり聞いたり食べたり呼吸したりする
ための七つの穴を開けてやることにして、一日一つずつ穴を開け、目二つ、耳
二つ、口一つ、鼻二つと七つの穴開けたとたんに、渾沌は死んでしまったとい
います。つまり揮沌ではなくなったわけです。筑豊は石炭の後遺症から抜け切
れず、いまだに前途の定かでない渾沌の中にあると思います。現実を直視して
渾沌から出発します。揮沌から抜け出るための倏や忽の役割は地域住民の皆さ
んが果たさなければなりません。主役は皆さんで、外部からは手助けが出来る
だけのことです。官庁なら「初めに結論ありき」で、その結論が出るように仕
組みます。そんなことでうまくゆくのならとっくの昔に筑豊は再生している筈
です。歩きながら考え、考えながら歩き、摸索のなかに日鼻をつけて方向性を
打ち出す方法をとりたいと思います。筑豊の将来という大きな問題ですから、
時間をかけても良いのではありませんか。倏も忽も意味は「迅速、機敏」です。
それでも急がずに一日に一つの穴しか開けませんでした。我々の場合は、一年
経ったときに一つの穴が開けられる目処でも立てば大成功でしょう。急がば回
れを原則としたいと思います。
大学は中立的な立場ですからまとめ役には適していると思います。また、屁
理屈と膏薬とは何処にでもつくと言われていますし、考えることが仕事ですか
らある程度の理論づけは出来ます。方向性についてのアドバイスも可能でしょ
う。ただし個々の具体的な問題については殆ど無力かもしれません。この点は
良くご承知おきください。
アメリカ合衆国のオクラホマ州アナダコを訪れたことがあります。オクラホ
マ州にはインディアンの保護地がありません。中央政府は保護地を置くつもり
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でしたが、インディアンが断ったそうです。
「オクラホマはもともとインディア
ンの土地だから、保護地をおくことは、インディアンのポケットに手を突っ込
んで金を取り、そのうちのほんの一部の小銭を返すということだ。これは間違
っているから断った。インディアンは自分の力で生きて行けるし、皆んなちゃ
んと生活している」とこの地域のインディアンの曾長の末裔が話してくれまし
た。筑豊の立場もこれに少し似たところがあります。日本の諸工業は筑豊の地
下を掘った石炭のエネルギーで発展しました。それに支えられて隆盛になつた
国家が、文字通り埋め合わせをしてくれるなら断るまでのことはありませんが、
そんな瑣末なことは県や市にまかせましょう。依頼心を捨て、自分自身の力で
立つことを真剣に考えなければ、筑豊の発展はありません。また、筑豊は暗い
という言葉をよく耳にします。暗い暗いと言い続けて明るくなるのなら皆で大
声で叫び続ければよいのですが、それは意味のないことです。この言葉に若し
生まれ育ったこの地域への軽蔑と嫌悪とがあるならそれを振り捨て、暗いと思
うなら、各人がマッチをするなり蛹燭をともすなり少しても明るくする手を打
つことです。柳川出身の詩人の北原自秋は帰去来の冒頭で「山門はわが産土(う
ぶすな)」といいました。我々の合言葉もこの地域に愛情を込めた「筑豊はわが
産土」でありたいと思います。
今世紀前半に活躍したイギリスの生物学者エリック・アシュビーは、その著
書「科学革命と大学」で、神学中心の中世の大学が、産業革命により近代へと
脱皮してゆく過程の中での、イギリスの大学の対応を「昨日を反映していたが、
明日を照らすことがなかった」と痛烈に批判しています。日本の大学では、地
域との連携について、どの大学も明日を照らすような方向には進んでいません。
地方の時代にふさわしい、大学と地域とが一体となった、我々のこの先導的試
行としての型破りの試みが、地域と大学との連携について、昨日の反映だけで
はなく、明日を照らすものに発展してゆくことを心から願っています。
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筑豊ゼミ第 1 期修了式挨拶
諤
平成元年 3 月
諤
(がくがく)
青春とは人生の中のある期間ではなく、逞しい意志、ゆたかな想像力、もえ
る情熱であると言った詩人がいます。その意味で、まさに青春の熱気と呼べる
ものに包まれて、この画期的なゼミサールも一年が経過しました。皆さんの示
された並々ならぬ努力精進に敬意を表し、修了を心からお喜び申し上げます。
「渾沌」で始めたこのゼミナールを「諤諤」で終りたいと思います。出典は
孔子家語(こうしけご)の「湯武以諤諤而昌」(湯武(とうぶ)は諤諤を以て昌えたり)
です。諤諤とは自分が正しいと信ずるところを憚らずに主張することでありま
す。古代の中国で国がよく治まり栄えたのは、殷の湯王履の時代と周の武王発
の時代とであったといいます。孔子はその理由を、湯も武も諤諤を好み諤諤の
言を容れたからだとしています。殷の湯王には名臣といわれた伊尹があり、周
の武王には孔子が尊敬してやまなかった周公日、軍師の大公望呂尚などがあり、
いずれも諤諤の人であったと言われています。湯王も武王もこれら諤諤の人の
言をよく容れ重く用いたのが国が治まり栄えた原因です。僅か 34 年の短い生涯
でしたが、深い思索と厚い信仰とにより人類愛に生きたフランスの女流哲学者
シモーヌ・ヴェイユもまた諤諤の人でありました。彼女が近代文明を徘徊する
三匹の怪物としたのは「金銭、機械化、代数学」です。彼女の死後しばらくた
って、それぞれの展開と考えられる産業社会と電子技術と論理演算とから、予
想だにしなかったもう一つの怪物としてコンピュータが生まれました。今日は、
代数学を原理とするコンピュータを用いて、機械化による技術で、金銭をなり
振り構わずひたすらに追い求めている時代でもあります。ヴェイユの言う近代
文明の中の怪物は現代社会をこのような姿で俳徊しています。その結果、豊か
さの中に諤諤は薄れて行き、金銭のために、善を善とし悪を悪とする単純な哲
学すら欠落しようとしています。また、「商紂黙黙而亡」(商紂は黙黙にして亡
-7-
びたり)といいます。悪王として名高い殷(商)の紂王は、暴政を諌めた叔父で忠
臣の比干を殺しました。それを見て人々は恐れ憚って諌言せず、黙黙すなわち
黙り込んでしまいました。悪虐無道の暴政はますますつのり、遂にはこれを見
かねた周の武王によって攻め亡ぼされました。
エネルギー革命による石炭産業の撤退の後遺症に悩む筑豊には、様々な問題
が横たわっています。紂王の場合とはとは違った意味であっても、人々は黙黙
の中に居て、行政や有力者のみで解決出来る程容易な問題ではありません。黙
黙を捨て諤諤を取ることこそ今日の筑豊に必要な方向であり、このゼミナール
を開設した精神に沿うものでもあります。ヴェイユが予見し指摘した怪物の毒
気から逃れる効果的な手段はありませんが、このゼミナールを拠点として、湯
武にまなび、ヴェイユにならい、黙黙を退け、諤諤の人になると共に諤諤を容
れる人になることを目指して下さい。これがゼミナールの終わりに当たっての、
皆さんに対する私の希望であり期待でもあります。
-8-
筑豊ゼミ第 2 期開講式挨拶
湜
平成元年 4 月
湜
(しょくしょく)
渾沌で始まり諤諤で終わった筑豊ゼミナール第 1 期に続いて、今回第 2 期の
受講者を募集したところ、このような大盛況となり、どうしても断りきれない
人々が遂に 110 名を越えました。この企画に対する皆さんの関心の深さに、か
つは驚きかつは恐れを抱いています。
ご存じの通り、我が国の近代工業は筑豊の地下を掘った石炭に支えられて発
展しました。エネルギー革命による炭坑閉山後の筑豊に残されたのは、極端に
言えば、行く末の不透明な荒廃と空しさとでありました。これから抜け出るこ
とは筑豊の悲願であり、そのためのいろいろな試みがなされ、それなりに効果
を挙げて今日に至りました。しかしながら未だに天気晴朗とまではゆかず、春
先にしばしば中国から風に乗って訪れる黄砂の日のような薄曇りのなかにあり
ます。この薄曇りを吹き払うために立ち上がった「やる気」に満ちた人々の集
団が、筑豊ゼミナールであると思っています。
過去のこのような動きの幾つかを分析してみたとき、筑豊の再生という途撤
もなく大きな問題でありながら、根源に遡り、時間をかけて検討するという気
概とゆとりとにやや欠けるところがあったのではないかと思います。これが第 1
期の開講に当たって私が渾沌からの出発を提唱した理由です。この気持ちは今
でも変わっていません。
「荘子」の応帝王篇に出てくる寓話としての輝沌につい
ては、第 1 期の報告書に詳しく書いてありますのでご参照下さい。
孔子は「詩三百、一言を以てこれを蔽う、日く、思い邪無し」と言いました。
その詩経の三百余りの詩の中の谷風の一節に「涇以渭濁、湜湜其沚」(涇(けい)
は渭(い)を以て濁るも
湜湜(しょくしょく)たる其の沚(し)あり)とあります。
湜湜は水が清く底の小石まで見えることで、沚は流れの緩やかな渚のことです。
黄河の支流の渭水とその支流の涇水とは筑豊と縁の深い古都西安の北東で合流
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しています。
「黄土高原の方向すなわち北西から流れて来る涇水は濁り、西から
の渭水は清く澄んでいる。合流点では涇水の濁りが目立つ。それでも涇水の流
れの緩やかな渚では、なお清く澄んだところがある」という意味です。私の好
きな言葉の一つです。筑豊の象徴である遠賀川は、炭坑の華やかな頃には、他
の川と比較するまでもなく、どす黒く濁って川底などはとでもお目にかかれま
せんでした。今は濁りもとれてかなり美しくなり、湜湜其沚と言える所も少な
くありません。大里叶氏を中心として、遠賀川に鮭を呼び戻す運動が提唱され
実行される程になりました。私はこの運動の成功を心から願っています。流域
の人々が大切に守ってゆけば、その沚だけでなく川全体が湜湜と言える日の来
るのも夢ではありません。間違い無くその方向に進んでいます。一方、筑豊の
人々の気持ちとその暮らし向きはどうでしょうか。石炭産業撤退の後遺症は深
く、遥かな渭水の北から風に乗って押し寄せて来る黄砂の日にも似て、不透明
さは拭いきれません。この不透明さを払拭するために、官庁なら、さしずめ功
を急いで、まず結論を決め、それに至る道程を仕組みます。それなりに意味の
あることかも知れませんが、このような大きな問題がそんな単純な方法で解決
できるなら、筑豊はとっくの音に再生し栄えている筈です。私達は発想を変え、
仕組まず、焦らず、根源に遡り、揮沌からの出発としました。今期もこれは引
き継いでゆきたいと思っています。そして、ここに集まり、情報を交換し、討
論した内容を筑豊の各地に持って帰り、母なる遠賀川にも似た湜湜と言えるよ
うなそれぞれの沚を各地に作って下さい。皆さんの不断の努力によって、その
沚の数を増し、それぞれの拡がりを大きくすることが、筑豊全体の透明の度合
いを増し、やがでは、湜湜の状態に変えてゆくものであると思います。
- 10 -
筑豊ゼミ第 2 期修了式挨拶
平成 2 年 3 月
風 立 ち ぬ
青春とは人生の中のある期間ではなく、逞しい意志、豊かな想像力、燃える
情熱であるといいます。その意味で、まさに青春の熱気と呼べるものに包まれ
て、第 2 期の 1 年が過ぎ去りました。皆さんの示された並々ならぬ努力精進に
敬意を表し、修了を心からお喜び申し上げます。
詩経から引用した「湜湜」で始めたこのゼミナールを、今回は少し趣向を変
えて「風立ちぬ」で終わりたいと思います。このゼミナールについて考えてい
るとき、私の頭に浮かんだのが、堀辰雄の小説「風立ちぬ」の中にある「風立
ちぬいざ生きめやも」という言葉です。これは有名なフランスの詩人ポール・
ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の中の
Le
il
v e n t se leve !
faut tenter
(ル ヴァン ス レーヴ
de vivre !
イル フォ タンテ ドゥ ヴィーヴル)
を訳したものです。ちなみに、鈴木信太郎は岩波文庫のヴァレリー全集でこれ
を「風吹き起こる。生きねばならぬ」と訳しています。私は堀辰雄の柔らかな
表現のほうが好きです。
永い間の沈滞を吹き払うかのように、今筑豊には新しい風が吹き初めました。
思いつくままにその幾つかを挙げると、地域づくりであり、学園都市であり、
企業の進出であり、遠賀川に戻ってきた鮭であります。筑豊ゼミもそれらと共
に、またその支えとして大きな役割を担ってきました。この新しい風の中で、
皆さんはそれぞれの地域で多彩な活動を展開され、筑豊の再生に向かって力強
く生きて行って下さい。合言葉は勿論ヴァレリーの「風立ちぬいざ生きめやも」
- 11 -
です。
風の話をもう一つ。私は常識論を深化させた論語や孟子より、常識を打ち破
ろうとした老子や荘子を好みます。老子に「飄風不終朝」(ひょうふうはあした
をおえず)とあります。激しいつむじ風は午前中吹きつづけることは出来ないと
いう意味です。我々の生き方も、あまり張り切り過ぎて激しい活動に終始する
と長続きしにくいと思います。筑豊の再生は途轍もない大きな仕事です、一朝
一夕で出来るというようなものではありません。あせらず騒がずじっくりと腰
を落ち着けて取り組みましょう。一日一日の絶えぎる努力の積み重ねの中にこ
そ、筑豊の明日への展望が開けると思います。
- 12 -
筑豊ゼミ第 3 期開講式挨拶
飄
平成 2 年 4 月
風
(ひょうふう)
長期的な企画で開かれるゼミナールは、第 1 期目は意気高らかに大盛況で、
第 2 期目はその惰性でそれなりに、第 3 期目からはだんだん先細りになって行
くのが普通です。しかし我々の筑豊ゼミは、先細りどころではなく、大盛況を
保っています。今期も 50 名の受講者を募集するように事務局に話しておきまし
たが、1、2 期と同様に、どうしても断りされない人々が多く、遂に 103 名にな
ったと聞いています。この地域の人々の、筑豊再生にかける熱意と、この企画
に対する関心の深さに、かつは驚きかつは恐れを抱いています。
第 1 期は「渾沌」(こんとん)で始まり「諤諤」(がくがく)で終り、第 2 期は「湜
湜」(しょくしょく)で始まり「風立ちぬ」で終りました。第 3 期も、このような
適当な言葉を繰り出してキーワードにしたいと思います。第 2 期が風立ちぬで
終りましたので、もう少し風にこだわってみます。私は、私共の世代が嘗て中
国に攻め込み、荒らし回ったという罪の意識から逃れられません。そのせいか
もしれませんが、中国の古典が好きです。中でも、常識論を展開し深化させた
論語や孟子より、常識論を打破しようとした老子や荘子を好んで読みます。や
やこじつけですが、筑豊の再生は常識論では進展しないのではないかという気
持ちも根底にあると思います。従って今回は老子の中に出てくる言葉を使いま
す。
老子に「飄風不終朝」(ひょうふうはあしたをおえず)とあり、詩経の小雅にも
「南山律律、飄風弗弗」(なんざんりつりつ、ひょうふうふつふつ)とあります。
飄風は語感、字形などから私の好みの言葉の一つです。したがって、飄風とい
う言葉そのものにこだわってみます。漢和辞典にはつむじ風(旋風)、はやて(疾
風)、方向が一定しない風となっています。ここでは並の風ではなく少々ひねく
れたつむじ風をとります。穏やかな春風、夏の木陰を吹き抜ける冷風、さわや
- 13 -
かな秋風、冬の厳しい北東の季節風など、四季折々の風をはじめ色々の風があ
りますが、いま筑豊に必要なのは飄風、すなわち、つむじ風です。一定の方向
に吹く一色の風によって筑豊が再生すると考えるのは単純過ぎます。むしろ妄
想でしょう。過去にそのような妄想の例が幾つか見られます。ちまた巷(ちまた)
にそれぞれの想いを込めた飄風を起こし、それらが互いに連携しその数を増し
てゆくことが、回り道に見えたとしても一番の近道ではないてしょうか。これ
が筑豊ゼミの目指す所でもあります。また、定例開講日を月 1 回としたのは、
急がず焦らず永続きということで、老子の「飄風不終朝」の意味する「激しい
風は午前中吹き続けることは出来ない」によく合っていると思います。
私は自分で言葉を創り出す程の能力がありませんので、他人の言葉をもう一
つ使わせてもらいます。アメリカの教育家で牧師でもあつた J.H.ヴィンセント
が「雲や嵐なしにはいかなる虹もありえない」と言ったと聞いています。いろ
いろ調べてみましたが、わかったのは人名と略歴だけで、この言葉の出典はは
っきりしません。空中に浮かんだ水滴と太陽の光によって虹は出来ます。穏や
かな良い天気が続く時には虹は現れません。気象の変化が必要です。飄風も気
象の急激な変化によって生します。ヴィンセントは哲学的な立場から、虹すな
わち希望の光を見るためには、その前の苦労や変化が必要であると考えていま
す。私達が起こすべきその変化を、ただの風ではない少々ひねくれた風として、
私好みの言葉で飄風と呼んでおきます。皆さんが先頭に立って、筑豊の各地に
飄風を起こし、それがやがて、遠賀川を跨いで、英彦山から香春岳へそして福
智山さらに八木山への、筑豊全域を覆う虹の掛け橋となることを願って私の挨
拶とします。
- 14 -
筑豊ゼミ第 3 期修了式挨拶
平成 3 年 3 月
愚 公 移 山
(ぐこう山を移す)
サミュエル・ウルマンは、青春を、人生のある期間ではなく、逞しい意思、
豊かな想像力、燃える情熱であるとしました。そのような青春の熱気に包まれ
て早くも一年たち、本日修了式を迎えました。皆さんの並々ならぬ努力精進に
敬意を表し、修了を心からお喜び申し上げます。
老子を引用した「飄風」で始めた第三期のこのゼミナールを、列子の湯問篇
の中の寓話から取った「愚公移山」で終わりたいと思います。有名な言葉なの
でご存じの方も多いと思いますが、あらましは次の通りです。昔、中国に北山
の愚公という九十才に近い老人がいました。家の前に太行、王屋という二つの
山が聳えていて、出入りに不便で仕方がないので、愚公は山を取り除く事を思
い立ちました。息子と孫と三人がかりで、山を切り崩して、それを入れたモッ
コをかつぎ、往復に半年もかかる北の海に捨てに行きはじめました。近くに住
む河曲の知叟(利口者)という人が、それを見て嘲笑ってひやかしたところ、愚公
は「あなたの了見は狭い。山はいま以上に高くはならない。子々孫々受けつい
で行けば平らにできないことはない」と答えたといいます。天帝はこれを聞い
て、愚公の考えに心をうたれ、神に命じてこの二つの山を他に移させました。
愚公は、有限なものは有限回の操作によって汲み尽くせるという単純な原理を
実行に移したまでです。原理は単純でも、行動に移すのは大変です。長期的な
展望の上に立って、焦らず、慌てず、日に見える程の効果がなくても失望せず、
一歩一歩前進するということです。
室鳩巣は駿台雑話の中でこの寓話にふれ「およそ天下の事、愚公の心ならば
遅くともひとたびは成就すべし。然るに世に智ありと称するほどの人は、おお
かた知叟が心にて、愚公が山を移すようなことを聞きてはその愚を笑うほどに、
何事もその功を成就せぬなるべし。然れば世のいわゆる愚は却つて智なり。世
- 15 -
の智は却つて愚なり」と述べています。
川筋気質に代表される筑豊の人々の気持ちはどうでしょうか。ここは失われ
つつある義理人情のまだ生き延びている世界です。気性はさっぱりしています。
私は好きです。しかし、この気性は裏返せば欠点を伴います。新しいことには
すぐ飛び付きますが、長続きは得意ではありません。目に見えた効果が無いと
失望して捨てようとします。愚公の気持ちとは非常に掛け離れています。渾沌
からの出発で始めたこのゼミナールも、すでに飄風の第二期となりました。こ
の地域に生まれ育ち、このゼミナールに参加した人々の共通の目標である「筑
豊の活性化」は、三人がかりで太行、王屋の二つの山をモッコで北の海に移す
程ではないにしても、一朝一夕で出来るような簡単な仕事ではありません。途
方もない大きな仕事ですし、永い期間が必要です。また、天帝の助けは期待出
来ませんし、それを期待するのは邪道です。愚公の気持ちにかえり、焦らず、
騒がず、じっくりと腰を落ち着けて、それぞれの地域でこの問題に取り組んで
下さい。それこそ、本ゼミナールの狙いであり、地域運動としての本来の精神
に沿ったものでもあると思います。
室鳩巣の言葉をもう一度繰り返します。
「世のいわゆる愚は却って智なり。世の智は却って愚なり」
- 16 -
筑豊ゼミ第 4 期開講式挨拶
平成 3 年 4 月
跬
歩
(きほ)
筑豊地域の再生と発展とを願う人々によつて始められたこのゼミナールも、
数えて 4 回目になりました。今回のキーフードには、中国の古典の荀子(じゆん
し)の中から「跬歩」を選びました。跬歩の意味は、左右どちらか片方の足を半
歩踏み出すことです。辞書を探せば出ている程度の、古くて、馴染みの薄い言
葉です。荀子の勧学篇には「不積跬歩、無以至千里」(跬歩を積まざれば、以て
千里に至るなし)とあります。荀子の中の字は蹞歩ですが、ここでは、音と意味
とが同じなので、礼記の中の簡単な字の跬歩をとりました。私は少し風変わり
なのか、良識論を展開した孔子、孟子より良識論に挑戦した老子、荘子のほう
が好きです。性善説の孟子より、性悪説の荀子をとります。それで老子、荘子、
荀子と探すうちにこの言葉が見つかりました。半歩だけ進むことを強調し、そ
の繰り返しが、やがていつの日か千里の先に至るとしています。
私が筑豊に係わり合つてから 13 年の歳月が流れました。川筋気質と言われる
この地域の人々の気持ちの中には、消え去ろうとしている義理人情が、まだ色
濃く残っています。私は好きです。欠点もあります。とにかく「せっかち」で
す。新しいことにはすぐ飛び付きますが、進みが鈍いと捨て去ろうとします。
このあたりを見越して、跬歩という言葉を繰りだすことにしましレた。この地
域に係わり合った 13 年の年輪のなせる業です。また、このゼミナールの開設の
当初に、地域づくりや村おこしに係わり合う人は、馬鹿か、法螺吹きか、気違
いの類いであるとして、始めの音を並べて出来る「ば、ほ、き」が合い言葉の
ようになり、いろいろと利用されました。キーワードを跬歩としたので、この
ゼミナールはまさに「跬歩の場」です。反対の順序に並べ変えれば、漢字その
もので「場、歩、跬」すなわち「ば、ほ、き」となります。場は語呂合わせに
付け加えましたが、踏歩については、始めに熟語ありきで、偶然にもこのよう
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になっていました。性悪説の荀子から引用したこともあって、私はこの「跬歩
の場」を殊のほか気に入っています。
今回のゼミナールは、委員会で検討した結果、新しい趣向で行なうことにな
ったと問いています。このゼミナールを一つの運動と考え、この地で生まれ育
つた人々の、或る意味での、生涯学習の場と考えるなら、当を得た変革である
と思います。一年かけて半歩前進する、すなわち、慌てず、騒がず、じっくり
と落ち着いた跬歩として下さい。詩人の北原白秋は、帰去来の詩の冒頭で「山
門はわが産土、雲騰る南風のまほら」と言っています。我々も、跬歩を積み重
ね、千里の道を遠しとせず、やがていつの日か、胸を張って、誇らしげに「筑
豊はわが産土、雲騰る南風のまほら」と声高く言うための努力を重ねて行きま
しょう。これがこのゼミナールを開設し、これまで続け、今後いつまでも続け
ようとする我々の狙いです。
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筑豊ゼミ第 4 期修了式挨拶
日々新たなり
平成 4 年 3 月
(ひびにあらたなり)
筑豊ゼミ第 4 期も成功の中に無事終了する事となりました。先ず、自分の仕事
を持ちながら、郷土筑豊の将来のために、1 年間このゼミに参加された、皆さ
んのご研鑽に心から敬意を表します。次いで、企画運営に当たられました、役
員の皆さんのご努力に厚くお礼を申し上げます。通常は末尾に持って来ていた
このような言葉を、今回先頭に出しましたのは、それなりの気持ちがあります。
この 1 年間、私は、大学院創設の仕事に没頭し、ゼミには開講式と、今日の終
了式と、中間に 2 回出席しただけです。学部長としての緩急の順序に従った迄
と言えば、一応の弁解にはなりますが、会長としては恥ずべき出席率であつた
と、反省し申し訳なく思っています。昨日、文部省筋より、ゼミで連なる皆さ
んの母校に、大学院産業技術研究科の創設を認可するとの情報が入りました。
これをもちまして、私の怠慢を諒として下さるようお願い致します。
さて、今回のゼミは、半歩前進を意味する「跬歩(きほ)」をキーワードとして
出発しました。半歩は勿論のこと、2 歩も 3 歩も前進した人もあると思います。
皆さんに対する私の気持ちは、半歩前進の所までの後ずさりをお願いしたい位
に思っています。このゼミのテーマは、筑豊の将来を考えるという途方もなく
大きな仕事です。渾沌の中から出発して、急がず慌てず、毎年毎年踏歩を積ん
で、着実に前進する事を願っているからです。
今年度の締め括りとしては、中国の古典の「大学」の中から、よく知られた
言葉を選びました。表題にある「日々新」です。大学の伝二章に「湯之盤銘曰、
荀日新、日日新、又日新」(湯の盤銘に曰く、荀[まこと、誠の意味です]に日に
新たに、日々に新たに、又日に新たなり」とあります。全体の意味は、殷の初
代の帝王で名君と言われた湯王の洗面器には、毎日毎日を新たな気分で迎えよ
うと、上の言葉が彫り込んであったということです。これから「日々新」だけ
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を抜き出しました。我々の歩みは、意識的に、急がず慌てず「踏歩」であるこ
とを狙いますが、スローテンポから来るけだるい日常性に埋没するような事に
ならず、毎日毎日が新しい気分でありたいと願ってこの言葉を選びました。ゼ
ミを修了して筑豊の各地に帰られましても、このような日々を送られることを
期待します。
蛇足を一つ加えます。先日、近畿大学付属女子高の応接室の壁に掛かつてい
た色紙額が日にとまりました。日田の咸宜園の広瀬淡窓の短歌で
鋭きも鈍きも共に捨てがたし、錐と槌とを使い分けなば
とありました。内容はお分かりの通りです。淡窓はこの短歌で頭脳の鋭い人と、
鈍い人とを考えたと思います。本来はその通りですが、私は別の解釈も考えま
した。個人はそれぞれに多様な能力を持つていますが、その能力には、鋭いも
のも鈍いものもあります。鋭いものは鋭いなりに鈍いものは鈍いなりに、どの
能力でも使えると思います。つまり人間の能力は、使い方さえ良ければ皆使え
るのです。鈍くて全く使えない能力などはありません。この蛇足の締め括りに
適当かどうかは分かりませんが、そこそこ似たところがあると思つて、フラン
スの作家アダンの次の言葉を挙げておきます。
えつ、才能がないといわれるのか。若いのに思い上がった人だね君は!
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筑豊ゼミ第 5 期開講式挨拶
平成 4 年 4 月
菁
莪
(せいが)
旧産炭地としてのイメージから抜け出し、この地域の再生と発展とを願う
人々によって始められたこのゼミも、一つの区切りの 5 回目となりました。最
初は、2 回でも 3 回でも続けばそれなりの意味はあると思って開講しましたが、
とうとうここまで来ました。今回はもとよりこれまでに参加された方々の熱意
と、委員の皆さん方の努力とに対して、会長として心からお礼を申し上げます。
開講式にはキーワードを、修了式にはまとめの言葉を出して来ましたが、今
回のキーワードは表題のように「菁莪」(せいが)とします。あまり聞き慣れない
言葉かもしれませんので、少しだけ注釈を加えます。出典は中国の詩経の中か
ら詩の題にもなっている「菁菁者莪」(せいせいしゃがと棒読みされますが、日
本語式には菁菁たる者は莪)です。辞典によると、菁菁は草本の青々として盛ん
に茂る様子で、転じて人材を育てるのをいうとあり、また莪は湿地に自生する
蓬の一種の「つのよもぎ」とあります。つまり、その儘自然に解釈すれば「青々
と盛んに茂っているのはつのよもぎ」です。別の意味は詩経の詩序にもある「菁
菁者莪は材を育てるを楽しむ也」となります。簡略して出来る「菁莪」は熟語
になっていて、辞典では人材を育てることとなっています。筑豊ゼミとしては、
具体的に地域起こしや村造りを目論んでいるわけではありません。毎月少なく
とも 1 回は近畿大学九州工学部に集まって、学習し、討論し、情報を交換し、
この地域の再生の中核になる人材を育てることを楽しみとするものです。まさ
に本来の意味の青義です。
幕末に、明治維新の原動力になる人材を育てたのは、当時の権力に支えられ
た藩学などよりは、むしろ、はっきりした方向性をもった小さな私塾であった
と思います。萩の吉田松陰の松下村塾からは久坂玄瑞、高杉晋作など、大阪の
緒方洪庵の蘭学塾の適塾からは福沢諭吉、橋本左内など、日田の広瀬淡窓の咸
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宜園からは高野長英、大村益二郎などが輩出しました。素晴らしいことである
と思います。近畿大学は日本で有数の規模を誇る私学ですが、我々の学部は、
人口 8 万の小都市にある小さな学部です。上の 3 私塾にあやかるなどというの
はのは烏滸がましいと思いますが、地域とともに生きるという方向性は打ち出
しました。すなわち、附属図書館の地域の方々への完全開放と、この筑豊ゼミ
の実施の 2 つです。これら 2 つの考え方のモデルは、スイスのチューリッヒに
あるスイス連邦工科大学です。ここでは附属図書館はスイス国民に完全に開放
されています。また一般教育の授業は夜間に開請し、市民の希望者は誰でも学
生とともに聴講ができます。ここを 3 回ほど訪れましたが、ノーベル賞学者を
輩出する世界有数の大学でありながら、このような地味な活動をしていること
に感銘を覚えました。いろいろと模索した結果、これを真似て上の 2 つの実行
に踏み切りました。夜間開講の変形の一つとして筑豊ゼミを考えたわけです。
ご理解下さい。
このようなゼミは出席していただかなければ意味がありません。仕事を持ち
ながらで大変とは思いますが、無欠席を目指して下さい。
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