I N T E R V 私I Eの W 志 デザイナー さん 堀畑裕之 ゆき ひろ はた ほり 職人としての生き方に憧れて ファッションの世界に ──学問の世界からファッション界へ方 向転換された経緯をお聞かせください。 堀畑 哲学を究めたいと大学院に進み、 修士を出た後にはドイツで博士号を取ろ うと準備もしていました。でも学者にな りたかったというよりも本当になりたか っ た の は 哲 学 者 で し た。 あ る 時、 そ の 「哲学者」 というのは職業の名前ではない と気がついた。もともとフィロソフィア とは知を愛すること。学者になってカン トの論文を書くことだけが哲学をするこ とではないし、考え続けることは学者で なくてもできるはずだと。それに哲学と いう学問は面白いけれど、どんどん自分 の足元を掘り下げていくような極めて専 門的な分野で、共有できる人も少ない。 研究者になって自分の人生を十分に生き ることができるのか?もっと人とつなが って何かを分かち合い、物事を根本的に 捉えられる、そういう仕事はないのかと 考え始めた。その頃たまたま出合ったの が、京都で開催されていた (財)京都服飾 文化研究財団主催の 「モードのジャポニ ズ ム 展 」で し た。 日 本 の 文 化 が 西 洋 の フ ァッションに何百年にもわたって持続的 に影響を与え続けてきたことを検証する ような展覧会で、当時の僕はファッショ 日本人にしかできないデザインを求めて自身 のブランドを設立。桃山時代の歴史からイン スパイヤーされた 「慶長の美」シリーズに続き、 「やつし」 「 映り」 「 見立て」など日本独自の美意 識を形にしたコレクション 「日本の眼」シリー ズを展開、東京コレクションで活躍しています。 ンには全く興味がなかったのですが、こ ういう世界があるのかと衝撃を受けまし た。さらに、哲学者の鷲田清一氏が書か れたファッションを哲学的に語る著作を 読んでいるうちに、職人として手で物を 作りながら、ものを書いたり考えたりす るような生き方をしたいと思うようにな っていきました。ただ学問も途中で投げ 出すのは嫌だったので、修士号を取って から東京に出て服飾の学校に入り直し、 パリコレなどに出展しているファッショ ンブランドに入社したのです。 誰もやっていない 服作りだからこそ やってみる価値がある ──ファッションブランドではデザイナ ーとして仕事されていたのですか。 堀畑 5年ほどパタンナーとして働きま した。一般的にデザイナーから渡された デザイン画通りに型紙を作るのがパタン ナーの仕事ですが、その会社はアヴァン ギャルドというか、服の概念を根本から 覆すようなブランドだったので、デザイ ナーはデザイン画でなはなく言葉でイメ ージを説明するのです。だからパタンナ ーが具体的にデザインを具現化しなくて はならない。何もないところから言葉だ けで服をつくるという非常にクリエイテ インタビュー 4 5 げていきました。 院に行くと決めた時、それまで同じ列車 ──今後はどのように展開していかれる に乗って同じ線路を進んでいたのに、初 予定ですか。 めてガチャンと自分の線路に切り替えた 堀 畑 「 matohu という感じがして、孤独と不安を覚えま 」を 立 ち 上 げ て 年 に な した。ブランドを立ち上げた時も、自分 りますが、ここ5年ほど 「日本の眼」 とい が考えたコンセプトの服が人々に受け入 うタイトルで毎シーズンのコレクション れられるのか、ビジネスとして成り立つ を 展 開 し て い ま す。「 日 本 の 眼 」と は 日 本 かのか不安でしたし、これまでその連続 の美意識のこと。民藝運動の柳宗悦が晩 で来たとも言えます。こうなるだろうと 年に著した論文に 「日本の眼に確信を持 予測のつく、あるいは皆と同じ方向に進 ち、 そ れ を 世 界 に 輝 か せ る べ き だ 」と あ むのであれば楽でしょうが、人がやって るのに感銘を受けて始めたコレクション いないことをやる、まして未来が見通せ です。日本人が歴史の中で培ってきた美 な い 状 態 で 進 む の は、「 自 由 」で す が 同 時 意識、それも 「粋」 や 「侘び寂び」といった に不安だし勇気が要ります。しかし自分 典 型 的 な も の で は な く、 例 え ば 「ふきよ の人生を豊かに生きようとするなら、自 せ 」「 映 り 」「 見 立 て 」な ど、 深 い け れ ど も 分がこれだと思うことを求めていくべき 日本人が普段あまり意識していない、立 だと僕は思います。せっかくの人生です ち止まって考えてみたくなるようなもの から、自分を一番生かせる仕事を選んで を一つ一つ取り上げ、そのコンセプトを ほしい。新島襄も自分の生き方を選んだ 具体的な服の形にしていくということを 人。普通に侍として生きていればよいも やっています。この 「日本の眼」 シリーズ のを、アメリカの政治経済や教育・文化 が完結したら全国を回るような展覧会を を学びたいと、英語もしゃべれない、生 行い、これまでシリーズごとに書いてき きていけるのかさえ分からない外国に飛 たコンセプトをまとめた本を出版したい び込んでいった。彼が「自由」に生き方を と考えています。 切り拓いていったその結果として、同志 社がある。彼が選んだ「自由」から生まれ 自分を生かせる仕事を た大学で学べたこと、その生き方に感動 見つけてほしい したことは、仕事をしていく上で大きな ──大学生にメッセージをお願いします。 影響があったし、今も強い力をもらって います。 2(015年 月9日 ) 堀畑 皆が就職活動をしている中で大学 12 「日本の美意識」を コンセプトに 新しい服を創造する ィブな仕事をやらせてもらって、ずいぶ ん鍛えられました。ここで一生職人とし て働いていきたいという思いもありまし たが、一方で世の中で人のやっていない コンセプトが見つけられたら、独立する 意味はあるという気持ちも芽生えていき ました。 ──そのコンセプトとは何ですか。 堀畑 もともと洋服は西洋が発祥で原型 が向こうにある。そのためファッション の世界はどうしても西洋中心で、同じ土 俵で日本人が勝負すれば後塵を拝し続け るしかない。だから日本のブランドが新 しいことをしようとすると、洋服のルー ルをあえて破ったり、形をわざと壊した り、あるいは過度に 「和」 を強調したりと いったものにならざるを得ないんですね。 僕は関口真希子というパートナーと一緒 にやっているのですが、コテコテの 「和」 でも西洋の物まねでもない、日本人にし かできないデザインとは何だろうと彼女 と話し合って 「日本の美意識が通底する 新しい服の創造」というコンセプトにた ど り つ い た の で す。 そ れ は 「 matohu 」の 変わらぬテーマですが、そうしたことを 正面から見据えてやっているブランドは あまりない、だから自分たちがやるべき だと思って独立を決意し、ロンドンのデ ザイナーの元でさらに1年ほど働きなが ら、2人でブランドコンセプトを練り上 10 既成のデザイン概念に挑戦 I N T E R V 私I Eの W 志 か ゆ むら いま では寮生活をしながら、化学理論や醸造 酒造りの風景に魅せられて 物理などを学びました。例えば仕込み用 のお米を蔵へ運ぶ時間ひとつをとっても、 ──酒造りの道に入られた経緯をお聞か 綿密な計算が必要なんです。お米の重量、 せください。 移動距離、外気温、仕込み時に求められ 今村 学生時代は酒造りをする家業を継 るお米の温度。すべてを計算した上で、 ぐ気はまったくありませんでした。日本 何分以内にお米を運ぶようにと、杜氏は の伝統文化が大好きなので、着付け部で 蔵人さんに指示を出す。蔵人も指示の背 活動したり、南座でアルバイトを続けた 景を理解して動かないといけない。酒造 り。就職も南座を運営する松竹株式会社 りはそれほどデリケートな仕事です。そ に決まり、翌月から正社員として働くと うして春夏は研究所で学び、秋になれば いう時に、父が過労で体調を崩したんで 呼ばれてもいないのに実家に帰って酒造 す。「1年でいいから事務の手伝いに帰っ て く れ な い か 」と 頼 ま れ、 仕 方 な く 帰 省。 りを手伝う歳月。そんなある日、珍しく 父 か ら 電 話 が あ り ま し た。 苺 農 家 か ら 当時は自分が犠牲になったという感覚し で何かできないかと相談され かありませんでした。ところが仕込みシ 「あまおう」 たと聞き、その話に飛びつきました。 ーズンを迎える 月、安全祈願の神事に 立ち合ったことで気持ちが一変したんで す。笛の音、神主さんのお祓い。厳かな 日本酒への扉をつくる 空気。酒造りの風景って、なんてかっこ いいんだろうと。そもそも酒造りも日本 ──苺のお酒「あまおう」の誕生ですね。 文化。身近にこんな世界があったことに 今村 広島の研究所に相談すると、先生 気づいた。今度は私から父に 「残りたい」 方は大反対でした。苺は酸化が速くてす とお願いしました。酒造りは長らく女人 ぐ褐変するため、着色料無しに赤い苺の 禁制の世界でしたし、甘い世界ではない イメージ通りのお酒を造るのは難しいの と言われましたが、気持ちは変わりませ ではと。それより九州特産のミカンで造 んでした。 ってみたらと助言されました。でも私は ──勉強はどのようにされたのですか。 あまおうのお酒でないと意味がないと粘 今村 日中は事務をして、夜は蔵の中で り、先生方に教えを請いました。開発に 酒造りに関する文献を読む。通信教育で 1年かからなかったのは、研究所という 醸造を学ぶ。広島市にある酒類の研究所 環境があったお蔭です。 インタビュー 6 7 さん 杜氏 今村友香 九州の清酒蔵では唯一の女性杜氏。あるとき突然、 酒造りの道へと人生航路の舵を切り、ひたすら 泳ぎ続けて約15年。困難と言われた苺リキュー ルの商品化で注目を浴びた後は、しみじみ飲め る日本酒造りに日々奮闘中です。 10 11 る香りを追究していきます。おとなしい 酒造りと蔵づくりを大切に 香りは、少しでも味が荒いと香りで隠す ことができず、その荒さがそのまま味の ──今後の事業計画を教えてください。 雑味となって表に出てしまう。その困難 今村 当社が分家した時、「古い歴史にと に挑戦していきたいです。そのためには、 ら わ れ ず、 若 い 波 を 起 こ そ う 」と い う 決 蔵人全員で同じ舌の物差しを持つことが 意を込めて 「若波酒造」 という名に決めた 大切です。杜氏はそれを把握してこそ正 と聞きます。5年前に弟が戻り、事業展 確な酒質設計ができる。そして皆がここ 開もスピードアップしました。日本酒人 で酒造りをして良かったと思ってくれる 気に復活の兆しが見える昨今、よくお客 ような 「蔵づくり」 をしていきたいです。 様から言われるのは、造り手の顔が見た ──若い人たちへメッセージをください。 いということ。ブログやフェイスブック 今村 あまおうは周囲の反対や色の難し を始めたり、全国の若い造り手が集合す さというピンチを乗り越えて、商品化に るイベントを各地で開催したり、蔵の見 成功しました。成功の先には「国内初」と 学を実施したり。情報発信には注力して いう強い肩書きや、日本酒の世界への新 います。あまおうで全国に名を知ってい たな扉が生まれた。ピンチはチャンスと ただき、女性杜氏ということでも注目し 言うけれど、ピンチは何よりのストーリ ていただきました。でもお客様の関心を ーになることに気づきました。私にはあ 人 か ら 物 へ と 変 え な け れ ば、「 若 い 波 」を の時、ピンチの到来が嬉しかったんです 紡いだことにはなりません。この世界の ね。やっと自分の居場所ができると。だ 時計は十年単位。後継者の育成にも着手 からミカン酒ではなく、あまおうのお酒 しています。 ──どのような酒造りを目指されますか。 にこだわった。ピンチに見舞われたら落 ち込むのは一晩だけにして、翌日からは 今村 若波シリーズのコンセプトは 「味 ぶれない目標を持って歩んでいけばいい。 の 押 し 波、 余 韻 の 引 き 波 」 。いつの間に だからこそ 「家業を継いでほしい」と両親 か杯が進む、しみじみと飲める食中酒で から未だに言われていない私が、今ここ す。華やかで目立つ香りを出す新しい酵 で酒造りに打ち込めているのだと思いま 母を使って賞をねらうより、おとなしい す。 けれど波に漂っているような風味のお酒 を皆さんに楽しんでいただきたい。具体 (2015年 月 日) 的には 「バナナのような香り」と表現され 24 常に若い波を起こす 酒蔵をめざして ──他にもいろいろ、おしゃれなお酒を 開発しておられますね。 今村 カシスリキュールと日本酒を使っ た梅酒や、赤色酵母を使った桃色のにご り酒なども開発しました。すると若い女 性が関心を持ってくださり、それをきっ かけにして日本酒も口にしてくださると いう可能性が見えてきた。日本酒は、店 頭に並べておけば売れるという時代は過 ぎました。そこへフルーツを選ぶような 感覚で入口をくぐり、日本酒の深み、魅 力に気づいていただける方法が見つかっ た。自信を持ちました。 ── 「清酒蔵が奇をてらった」 という声は ありませんでしたか。 今村 あまおうを発売した時点で同業の 方々から言われました。でも日本酒の低 迷は、私たち蔵元にも責任があります。 私はこれが日本酒への入口になるんだと 確信していたので、迷いはありませんで した。先輩の杜氏さんから 「あなたは 『知 らないこと』 を強みにしなさい」 と言われ たことが、今も心に残っています。私は この世界に入ったばかりで何も知らない し、女性という珍しさもある。それを武 器に何でも教えてもらえばいいと。お蔭 様であまおうは、1年目は1000本、 2年目は1万本、3年目は 万本を完売 しました。この実績が周囲の懸念を吹き 飛ばしてくれました。 11 ピ ン チ は ス トーリーの親
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