私の志 [PDF 427KB]

I N T E R V 私I Eの W
志
デザイナー
さん
堀畑裕之
ゆき
ひろ
はた
ほり
職人としての生き方に憧れて
ファッションの世界に
──学問の世界からファッション界へ方
向転換された経緯をお聞かせください。
堀畑 哲学を究めたいと大学院に進み、
修士を出た後にはドイツで博士号を取ろ
うと準備もしていました。でも学者にな
りたかったというよりも本当になりたか
っ た の は 哲 学 者 で し た。 あ る 時、 そ の
「哲学者」
というのは職業の名前ではない
と気がついた。もともとフィロソフィア
とは知を愛すること。学者になってカン
トの論文を書くことだけが哲学をするこ
とではないし、考え続けることは学者で
なくてもできるはずだと。それに哲学と
いう学問は面白いけれど、どんどん自分
の足元を掘り下げていくような極めて専
門的な分野で、共有できる人も少ない。
研究者になって自分の人生を十分に生き
ることができるのか?もっと人とつなが
って何かを分かち合い、物事を根本的に
捉えられる、そういう仕事はないのかと
考え始めた。その頃たまたま出合ったの
が、京都で開催されていた
(財)京都服飾
文化研究財団主催の
「モードのジャポニ
ズ ム 展 」で し た。 日 本 の 文 化 が 西 洋 の フ
ァッションに何百年にもわたって持続的
に影響を与え続けてきたことを検証する
ような展覧会で、当時の僕はファッショ
日本人にしかできないデザインを求めて自身
のブランドを設立。桃山時代の歴史からイン
スパイヤーされた
「慶長の美」シリーズに続き、
「やつし」
「 映り」
「 見立て」など日本独自の美意
識を形にしたコレクション
「日本の眼」シリー
ズを展開、東京コレクションで活躍しています。
ンには全く興味がなかったのですが、こ
ういう世界があるのかと衝撃を受けまし
た。さらに、哲学者の鷲田清一氏が書か
れたファッションを哲学的に語る著作を
読んでいるうちに、職人として手で物を
作りながら、ものを書いたり考えたりす
るような生き方をしたいと思うようにな
っていきました。ただ学問も途中で投げ
出すのは嫌だったので、修士号を取って
から東京に出て服飾の学校に入り直し、
パリコレなどに出展しているファッショ
ンブランドに入社したのです。
誰もやっていない
服作りだからこそ
やってみる価値がある
──ファッションブランドではデザイナ
ーとして仕事されていたのですか。
堀畑 5年ほどパタンナーとして働きま
した。一般的にデザイナーから渡された
デザイン画通りに型紙を作るのがパタン
ナーの仕事ですが、その会社はアヴァン
ギャルドというか、服の概念を根本から
覆すようなブランドだったので、デザイ
ナーはデザイン画でなはなく言葉でイメ
ージを説明するのです。だからパタンナ
ーが具体的にデザインを具現化しなくて
はならない。何もないところから言葉だ
けで服をつくるという非常にクリエイテ
インタビュー
4
5
げていきました。
院に行くと決めた時、それまで同じ列車
──今後はどのように展開していかれる
に乗って同じ線路を進んでいたのに、初
予定ですか。
めてガチャンと自分の線路に切り替えた
堀 畑 「 matohu
という感じがして、孤独と不安を覚えま
」を 立 ち 上 げ て 年 に な
した。ブランドを立ち上げた時も、自分
りますが、ここ5年ほど
「日本の眼」
とい
が考えたコンセプトの服が人々に受け入
うタイトルで毎シーズンのコレクション
れられるのか、ビジネスとして成り立つ
を 展 開 し て い ま す。「 日 本 の 眼 」と は 日 本
かのか不安でしたし、これまでその連続
の美意識のこと。民藝運動の柳宗悦が晩
で来たとも言えます。こうなるだろうと
年に著した論文に
「日本の眼に確信を持
予測のつく、あるいは皆と同じ方向に進
ち、 そ れ を 世 界 に 輝 か せ る べ き だ 」と あ
むのであれば楽でしょうが、人がやって
るのに感銘を受けて始めたコレクション
いないことをやる、まして未来が見通せ
です。日本人が歴史の中で培ってきた美
な い 状 態 で 進 む の は、「 自 由 」で す が 同 時
意識、それも
「粋」
や
「侘び寂び」といった
に不安だし勇気が要ります。しかし自分
典 型 的 な も の で は な く、 例 え ば
「ふきよ
の人生を豊かに生きようとするなら、自
せ 」「 映 り 」「 見 立 て 」な ど、 深 い け れ ど も
分がこれだと思うことを求めていくべき
日本人が普段あまり意識していない、立
だと僕は思います。せっかくの人生です
ち止まって考えてみたくなるようなもの
から、自分を一番生かせる仕事を選んで
を一つ一つ取り上げ、そのコンセプトを
ほしい。新島襄も自分の生き方を選んだ
具体的な服の形にしていくということを
人。普通に侍として生きていればよいも
やっています。この
「日本の眼」
シリーズ
のを、アメリカの政治経済や教育・文化
が完結したら全国を回るような展覧会を
を学びたいと、英語もしゃべれない、生
行い、これまでシリーズごとに書いてき
きていけるのかさえ分からない外国に飛
たコンセプトをまとめた本を出版したい
び込んでいった。彼が「自由」に生き方を
と考えています。
切り拓いていったその結果として、同志
社がある。彼が選んだ「自由」から生まれ
自分を生かせる仕事を
た大学で学べたこと、その生き方に感動
見つけてほしい
したことは、仕事をしていく上で大きな
──大学生にメッセージをお願いします。 影響があったし、今も強い力をもらって
います。 2(015年 月9日 )
堀畑 皆が就職活動をしている中で大学
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「日本の美意識」を
コンセプトに
新しい服を創造する
ィブな仕事をやらせてもらって、ずいぶ
ん鍛えられました。ここで一生職人とし
て働いていきたいという思いもありまし
たが、一方で世の中で人のやっていない
コンセプトが見つけられたら、独立する
意味はあるという気持ちも芽生えていき
ました。
──そのコンセプトとは何ですか。
堀畑 もともと洋服は西洋が発祥で原型
が向こうにある。そのためファッション
の世界はどうしても西洋中心で、同じ土
俵で日本人が勝負すれば後塵を拝し続け
るしかない。だから日本のブランドが新
しいことをしようとすると、洋服のルー
ルをあえて破ったり、形をわざと壊した
り、あるいは過度に
「和」
を強調したりと
いったものにならざるを得ないんですね。
僕は関口真希子というパートナーと一緒
にやっているのですが、コテコテの
「和」
でも西洋の物まねでもない、日本人にし
かできないデザインとは何だろうと彼女
と話し合って
「日本の美意識が通底する
新しい服の創造」というコンセプトにた
ど り つ い た の で す。 そ れ は
「 matohu
」の
変わらぬテーマですが、そうしたことを
正面から見据えてやっているブランドは
あまりない、だから自分たちがやるべき
だと思って独立を決意し、ロンドンのデ
ザイナーの元でさらに1年ほど働きなが
ら、2人でブランドコンセプトを練り上
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既成のデザイン概念に挑戦
I N T E R V 私I Eの W
志
か
ゆ
むら
いま
では寮生活をしながら、化学理論や醸造
酒造りの風景に魅せられて
物理などを学びました。例えば仕込み用
のお米を蔵へ運ぶ時間ひとつをとっても、
──酒造りの道に入られた経緯をお聞か
綿密な計算が必要なんです。お米の重量、
せください。
移動距離、外気温、仕込み時に求められ
今村 学生時代は酒造りをする家業を継
るお米の温度。すべてを計算した上で、
ぐ気はまったくありませんでした。日本
何分以内にお米を運ぶようにと、杜氏は
の伝統文化が大好きなので、着付け部で
蔵人さんに指示を出す。蔵人も指示の背
活動したり、南座でアルバイトを続けた
景を理解して動かないといけない。酒造
り。就職も南座を運営する松竹株式会社
りはそれほどデリケートな仕事です。そ
に決まり、翌月から正社員として働くと
うして春夏は研究所で学び、秋になれば
いう時に、父が過労で体調を崩したんで
呼ばれてもいないのに実家に帰って酒造
す。「1年でいいから事務の手伝いに帰っ
て く れ な い か 」と 頼 ま れ、 仕 方 な く 帰 省。 りを手伝う歳月。そんなある日、珍しく
父 か ら 電 話 が あ り ま し た。 苺 農 家 か ら
当時は自分が犠牲になったという感覚し
で何かできないかと相談され
かありませんでした。ところが仕込みシ 「あまおう」
たと聞き、その話に飛びつきました。
ーズンを迎える 月、安全祈願の神事に
立ち合ったことで気持ちが一変したんで
す。笛の音、神主さんのお祓い。厳かな
日本酒への扉をつくる
空気。酒造りの風景って、なんてかっこ
いいんだろうと。そもそも酒造りも日本
──苺のお酒「あまおう」の誕生ですね。
文化。身近にこんな世界があったことに
今村 広島の研究所に相談すると、先生
気づいた。今度は私から父に
「残りたい」 方は大反対でした。苺は酸化が速くてす
とお願いしました。酒造りは長らく女人
ぐ褐変するため、着色料無しに赤い苺の
禁制の世界でしたし、甘い世界ではない
イメージ通りのお酒を造るのは難しいの
と言われましたが、気持ちは変わりませ
ではと。それより九州特産のミカンで造
んでした。
ってみたらと助言されました。でも私は
──勉強はどのようにされたのですか。
あまおうのお酒でないと意味がないと粘
今村 日中は事務をして、夜は蔵の中で
り、先生方に教えを請いました。開発に
酒造りに関する文献を読む。通信教育で
1年かからなかったのは、研究所という
醸造を学ぶ。広島市にある酒類の研究所
環境があったお蔭です。
インタビュー
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7
さん
杜氏
今村友香
九州の清酒蔵では唯一の女性杜氏。あるとき突然、
酒造りの道へと人生航路の舵を切り、ひたすら
泳ぎ続けて約15年。困難と言われた苺リキュー
ルの商品化で注目を浴びた後は、しみじみ飲め
る日本酒造りに日々奮闘中です。
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る香りを追究していきます。おとなしい
酒造りと蔵づくりを大切に
香りは、少しでも味が荒いと香りで隠す
ことができず、その荒さがそのまま味の
──今後の事業計画を教えてください。
雑味となって表に出てしまう。その困難
今村 当社が分家した時、「古い歴史にと
に挑戦していきたいです。そのためには、
ら わ れ ず、 若 い 波 を 起 こ そ う 」と い う 決
蔵人全員で同じ舌の物差しを持つことが
意を込めて
「若波酒造」
という名に決めた
大切です。杜氏はそれを把握してこそ正
と聞きます。5年前に弟が戻り、事業展
確な酒質設計ができる。そして皆がここ
開もスピードアップしました。日本酒人
で酒造りをして良かったと思ってくれる
気に復活の兆しが見える昨今、よくお客
ような
「蔵づくり」
をしていきたいです。
様から言われるのは、造り手の顔が見た
──若い人たちへメッセージをください。
いということ。ブログやフェイスブック
今村 あまおうは周囲の反対や色の難し
を始めたり、全国の若い造り手が集合す
さというピンチを乗り越えて、商品化に
るイベントを各地で開催したり、蔵の見
成功しました。成功の先には「国内初」と
学を実施したり。情報発信には注力して
いう強い肩書きや、日本酒の世界への新
います。あまおうで全国に名を知ってい
たな扉が生まれた。ピンチはチャンスと
ただき、女性杜氏ということでも注目し
言うけれど、ピンチは何よりのストーリ
ていただきました。でもお客様の関心を
ーになることに気づきました。私にはあ
人 か ら 物 へ と 変 え な け れ ば、「 若 い 波 」を
の時、ピンチの到来が嬉しかったんです
紡いだことにはなりません。この世界の
ね。やっと自分の居場所ができると。だ
時計は十年単位。後継者の育成にも着手
からミカン酒ではなく、あまおうのお酒
しています。
──どのような酒造りを目指されますか。 にこだわった。ピンチに見舞われたら落
ち込むのは一晩だけにして、翌日からは
今村 若波シリーズのコンセプトは
「味
ぶれない目標を持って歩んでいけばいい。
の 押 し 波、 余 韻 の 引 き 波 」
。いつの間に
だからこそ
「家業を継いでほしい」と両親
か杯が進む、しみじみと飲める食中酒で
から未だに言われていない私が、今ここ
す。華やかで目立つ香りを出す新しい酵
で酒造りに打ち込めているのだと思いま
母を使って賞をねらうより、おとなしい
す。
けれど波に漂っているような風味のお酒
を皆さんに楽しんでいただきたい。具体 (2015年 月 日)
的には
「バナナのような香り」と表現され
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常に若い波を起こす
酒蔵をめざして
──他にもいろいろ、おしゃれなお酒を
開発しておられますね。
今村 カシスリキュールと日本酒を使っ
た梅酒や、赤色酵母を使った桃色のにご
り酒なども開発しました。すると若い女
性が関心を持ってくださり、それをきっ
かけにして日本酒も口にしてくださると
いう可能性が見えてきた。日本酒は、店
頭に並べておけば売れるという時代は過
ぎました。そこへフルーツを選ぶような
感覚で入口をくぐり、日本酒の深み、魅
力に気づいていただける方法が見つかっ
た。自信を持ちました。
──
「清酒蔵が奇をてらった」
という声は
ありませんでしたか。
今村 あまおうを発売した時点で同業の
方々から言われました。でも日本酒の低
迷は、私たち蔵元にも責任があります。
私はこれが日本酒への入口になるんだと
確信していたので、迷いはありませんで
した。先輩の杜氏さんから
「あなたは
『知
らないこと』
を強みにしなさい」
と言われ
たことが、今も心に残っています。私は
この世界に入ったばかりで何も知らない
し、女性という珍しさもある。それを武
器に何でも教えてもらえばいいと。お蔭
様であまおうは、1年目は1000本、
2年目は1万本、3年目は 万本を完売
しました。この実績が周囲の懸念を吹き
飛ばしてくれました。
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ピ ン チ は ス トーリーの親