横浜国立大学グリークラブOB合唱団機関誌 第25号-2011年11月発行

潮
音 OB
横浜国立大学グリークラブOB合唱団機関誌
第25号-2011年11月発行-
ホームカミングデー・コンサート 2011 年 10 月 29 日 国大教文ホ-ル
【編集委員会による挿入写真】
P.3
車窓(東北道)
P.4
コスモス(福島県・白河市)
P.9
いけばな(個人宅)
P.25 八ヶ岳(長野県・野辺山)
P.42 小川(同上)
P.53 とんぼ(山形県・蔵王)
目
次
ページ
1.
巻頭言
瑞慶覧
宏
5
2.
学生歌「みはるかす」もろもろ
加藤
英子
6
3.
第 11 回定演の選曲過程寸見
川添
鉄也
10
4.
現役の「四大学男声合唱団サマーコンサート」より
丸山
隆司
12
5.
歌い続けて 65 年・私の人生
関本
昭
14
6.
ヰタ・ムジカリス
山口
紀夫
16
7.
グレゴリオ聖歌の本場(ソレム修道院)を訪ねて
青木
敏彦
18
8.
合唱団に参加しての雑感
本荘光太郎
20
9.
合唱再び
田邊
邦雄
22
10.現役時代の思い出から
柳澤
剛
24
11.合唱とオーディオ三昧
菅又
通晴
26
12.【合唱】活動への感謝の思い
露木
聡
28
3
ページ
13.世界の三大美術館
高山
峻一
30
14.グリークラブ OB 合唱団としての初演奏会を終えて
蒲谷
直樹
33
15.横浜フォーティーズの活動
小泉
進
34
16.
「花に寄せて」につれづれ思うこと
鳥山
利
36
17.脊椎管狭窄症と整形外科いろいろ
菊地
清風
38
18.ベトナム2010年
内海
一
40
19.アメリカ合衆国から日本を想う
鈴木
憲康
43
20.キューバも高齢化社会、音楽は本物
松尾
光
46
21.
「俳句」雑感
大鋸
甚勇
48
22.ライフライン断たれて知った真の意味
矢川
一義
51
23.グリーを愛した小山 浩くんを悼む
柏崎
一男
54
24.編集後記
矢川
一義
59
~液状化現象体験記
4
巻
頭
言
昭和40年卒 B-2 瑞慶覧 宏
今年度のOB合唱団の活動は、3月11日に発生した東日本大震災の影響で4月16
日(土)に予定されていたKAMCA第9回演奏会が延期になり、また、被害を受けたミ
ューザ川崎シンフォニーホールの改修遅れが判明した為、来年5月12日(土)に予定
されていた第11回定期演奏会々場を急遽来年6月30日(土)県立音楽堂に変更する
等異常事態への対処から始まりました。
5月14日の総会では、7年間に亘りリーダーグループの長としてOB合唱団の運営
にご尽力頂いた副団長の石川さんに代わり川添さんが技術担当の副団長に選任され、リ
ーダーグループの長としての役割を担っていただくことになり、会計には坂井さんに代
わり斉田さんが選任されました。
石川さんと坂井さんには長年のご尽力に対し改めて心から謝意を表します。
7月23日にはマネージャー会議が開催されて第11回定期演奏会プロジェクトチ
ームの役割分担が決まり、小泉副団長に代わって小柳さんをチーム長として新しい体制
で臨むことになりました。 第 1 回プロジェクト会議が10月8日に開催され、定演の
企画運営についての検討が開始されました。 具体的な企画方針について団員の皆さん
にご意見をお聞きすることも出てくるかと思いますので、ご協力をよろしくお願い致し
ます。
因みにプロジェクトチームの役割分担は下記のようになっており、小柳さん、川添副
団長を中心に主に昭和40年代後半以降卒の若手の皆さんに担っていただくことにな
りました。 大変有り難く、心強く思います。 団員の皆さんの一層のご支援とご協力
をお願い致します。
(敬称略
○はチーフ、・はサブ)
プロジェクト総括
○小柳(S46 卒)・小泉(S40)・矢川(S41)・瑞慶覧(S40)
会
計
○堀田(S47)
・斉田(S53)
印
刷
○堀(S47)・永井(S40)・鈴木(S42)
チケット管理
○小林(S48)・小柳(S46)
広告・招待者・名義後援
○瑞慶覧(S40)・小泉(S40)・木野(S48)
フロント
○真方(S41)・小林(S48)
ステージ
○内海(S46)・川添(S46)
記録
○手島(S47)・小泉(S40)
リーダーグループとの連携
○川添(S46)
現役・平成OBとの打合せ
○小泉(S40)・永井(S40)・木野(S48)
打ち上げ
○木野(S48)・斉田(S54)
合宿
○三戸部(S39)・小泉(S40)
・木野(S48)
5
学生歌「みはるかす」もろもろ
昭和 34 年 学芸学部卒 加藤 英子
1.(はじまり)歌詞のこと
もう何十年も前のことになるのですが、歩いた道と周りの景色空気のことからお話さ
せて頂こうと思います。
「昭和 30 年」横浜国大の新入生は全員、旧女子師範の建物で一般教養の過程を学び
ました。其処は桜木町の駅前から本牧・間門に向かう市電に乗り、麦田か大和町で降り
て結構な坂道を登りきった立野の丘の上にありました。
ご存じの方も多いと思いますが、当時の新学制下の大学は、旧帝大系の一期校と旧専
門学校や師範学校などが統合された新制度下の大学(大抵二期校と呼ばれました。試験
が後でしたので)とが国立で、その他公立と私立の大学がありました。新入生殆どの人
達が(私の貧しい観方であったらお赦し願いたいのですが)想いを胸に大学に入ったけ
れど、本当に私は此処で学びたかったのか??に悩み、100%の元気が出せない時も
あったのでは、と思います。先生方の講義は熱意溢れるものでしたし、年の差のある、
本の読み方も違う、恐ろしいような能力を発揮する人もいる中で、大学生活は始まって
いたのですが。
こうした日々の中で大学と学生自治会共催であったと思いますが、
「学風創造運動」
が始まり、その一環として(学生歌)募集があったのでした。さまざまな催しも企画さ
れました。楽しかったり学んだりしたいろいろを思い出します。
学生歌募集の貼り紙は立野の校舎廊下の片隅にあり、小さなボール箱が募金箱のよう
に置いてありました。六月の末だったと思います。梅雨の雨の暗い日、締め切り直前の
夕方、ルーズリーフの一枚に 10 分かそこいらの時間の中の走り書きを箱に入れたので
した。推敲も何もなしに、学生歌などという大変なものに応募するのだなんぞという意
識は無かったように覚えています。何だかお祭りに自分も参加させてもらっている気持
ちでした。
審査に当たられた国語科の先生が、原稿用紙に書くこともなしに非常識だと仰ったと
後で聞きましたが、誠にその通りで本当に恥ずかしかったのを覚えています。
審査の結果が張り出されました。一等や二等の作品の何と格調高くことばの美しいこ
と、国語科の方々でした。それでも私の詩を佳作に選んで下さってありました。誰にも
言ってないことでしたけれど面映ゆい気持ちで逃げ出したのでした。
幾日かして封筒がほいっと係りの人から手渡されました。千円か千五百円か忘れまし
たが賞金でした。その日の夕方同じ科と部活動サークルの仲間皆さんとビールで乾杯
(場所は昔のお作法室)して終わりになりました。そして忘れていました。
6
次の年(昭和 31 年)に工学部機械工学科の大根田とおる様の手で私の詞に曲が付け
られたのでした。そしてそのことも大根田様から御連絡頂くまで知りませんでした。
2.何年かたって
友松会(学芸学部同窓会)の会誌に載っている学生歌の歌詞が私の作ったものと違っ
ている事、幹事さんを通じて連絡申し上げても何ら変化無く、訂正のお願いのルートを
取り違えていたのかも知れませんが、あまり大したことでも無い様に扱われているのだ
なあとそのように考えて何年か経ちました。
2008 年に飯田学長先生からお呼び出しがあり、その前後に広報室の担当の方のお骨
折りを頂いたりして詞のことは元に戻りました。
その折に何十年振りかで作曲者の大根田様にお会いしましたが、その折にもその後今
年 5 月にお会いした時にも仰っておいででしたが、曲も最初のものと違っているのだそ
うです。私は原譜という大切なものを昭和 31 年の秋に頂戴したのですが、人生さまざ
ま引越しを 9 回した間に、今、見当たらなくなっているのです。お恥ずかしく申し訳な
いことで、自分の身辺片付けを早くしなければと思いつつ日を重ねています。
今年 2011 年の 5 月・生産工学科の同窓会に、名誉教授の藤堂先生が学生歌のことを
採り上げて下さいました。先生の御司会なさる席で大根田様と共にあれこれ質問にお答
えしていく中で、錆びて消えかかっていたことをたくさん思い出させて頂きました。
学生歌がずっと歌われていたことをはっきりとは知らずに居りましたので嬉しゅう
ございました。本当にあの曲のお陰だと思います。ありがたいことです。
3.そして今思うこと
昭和 30 年代、時は未来を見据えていて、貧しかったですけれど閉塞感など感じない
で居られて幸せな時代だったのかもしれません。今は、などという力や足場何も無いの
ですが、大学の新しい仕組みの中で素晴らしいことがさまざまなされ、研究の成果が上
げられていきます。卒業生の方々や在校生、院生の方々が多方面で活躍なさっているこ
とを時折垣間見て、すごいがんばれの心だけ一杯です。
今学生生活を送られる方は立野の丘はご存知ないかもしれませんが、校舎の裏手に登
ると本牧の海、三渓園の向こうが見渡せたのです。三渓園まで歩いて行って裸足で岸辺
の砂の上を走ったりしました。その道の途中にあった米軍の接収地に建てられていたア
メリカ式の住宅のたたずまい等、何十年も経ちますのに色鮮やかに思い出します。
「学生歌」は毎年新しく募集され素敵なものが増えていくものとばかり思っておりま
した。もしかしてこれから新しいものが作られましたらまた素敵なことでしょうと思い
ます。
7
「グリークラブ」という一つ別格のような存在・国大の名声を高める大きな一角・美
しいものに憧れる者に夢の時を与えて下さった。どうぞ皆様がこれからも世の中に美し
いものをたくさん届けてくださることが出来ますようお身体を大切に、ご活躍下さるよ
う祈っております。
私のようなものに大切な会誌のページをお裂き下さいまして有難うございました。
演奏会に伺える回数を出来るだけ増やせるよう私も健康維持に努めることに致します。
くれぐれも皆様お身体を大切になさって下さいますよう。
(2011 年 10 月 27 日)
“学生歌「みはるかす」もろもろ”
寄稿について
昭和40年卒 B-2 瑞慶覧 宏
10 月 29 日のホームカミングデーコンサートには学生歌「みはるかす」の作詞者加藤
英子様(旧姓鶴若英子様)にご来場いただきましたが、ご来場と“学生歌「みはるかす」
もろもろ”をご寄稿いただいた経緯は以下のとおりです。
横浜国立大学の広報誌「ヨコマガ」2011 年 8 月号に掲載された学生歌「みはるかす」
を作詞された頃の思いを語られた加藤様(昭和 34 年 学芸学部卒)の談話記事を現役
グリークラブの後藤部長が目にして第 60 回定期演奏会のプログラムにお言葉をいただ
けないかお伺いしたところ、お断わりのご連絡とともに丁重なお手紙が後藤部長の許に
届きました。
偶々そのコピーを我々も読ませていただいたことがきっかけで、神野さんの発案で潮
音 OB に寄稿をお願いしてはどうかということになり、大学の広報渉外室経由でお願い
をしましたところ快く引受けて下さいました。 その際、ホームカミングデーコンサー
トのご案内も差し上げましたところご来場下さったものです。
「みはるかす」をお書きになった頃の加藤様の思いや大学の立野キャンパスの様子な
どが窺える貴重な一文をお寄せいただき、加藤様に深く感謝致します。
8
9
第 11 回定演の選曲過程寸見
昭和46年卒 T-1 川添 鉄也
◆選曲のパターン
定演の選曲に当たっては、様々な議論が行われてきたが、近年一つのパターンが確立し
て来ており、これに即して選曲を行うことが通例になっている。そのパターンとは、多
少難しくても挑戦し甲斐のある曲と、平易で、観客に馴染みのあるポピュラーな曲を並
行して取り入れることだ。また、ステージ構成もパターン化している。平成 OB の参加
不参加によって若干変わるが、第 1、第 2 ステージに歌い甲斐のある曲、第 3 ステージ
が現役と平成 OB、第 4 ステージに愛唱曲・ポピュラー曲を持って来て、一部に現役も
含めた合同演奏を用意する。これらをバランスよく組み込むのだ。
一言でバランスよくといっても、これがなかなか難しい。アカペラ、伴奏付き、ソロ付
き、曲の長さ、曲の雰囲気などを考慮して、ステージ映えする曲順・構成を決めてゆく。
本来なら、現役、平成 OB の曲も含めて構成を考える必要があるが、彼らの曲は間際に
なるまで分からないので、これらは度外視して検討を行った。
◆歌い甲斐のあるメインの曲
第 11 回定演では、第 1 ステージに間宮芳生氏の「合唱のためのコンポジションⅢ」を
取り上げることにした。これはかなり早く決まった。飛永先生の推薦もあったが、邦人
作品として国際的に高い評価を得ているこの作品はクラシックとしていつかは取り上
げたい曲の一つであった。骨のある曲で OB 合唱団にとっては、これまであまり馴染み
のなかったタイプだが、多くの合唱団に歌われており、団員の中にも現役時代に歌った
経験を持つ人はいるだろう。
もう一つのメインには、これと対極的なオーソドックスな曲を検討した。候補として邦
人組曲、ミサ、シューベルト曲集などが挙がったが、歌い易さ分かり易さを考慮して邦
人組曲を取り上げることとした。候補として挙がったのは、
「花に寄せて」
「月下の一群」
「樹木頌」だ。決め手になったのは、
「花に寄せて」の優しい表現が OB 合唱団の声に
向いていること、また北大との JOINT での評判(注 1)も後押しをした。
◆予定変更のひょんな成り行き
震災によりミューザ川崎のホールが使えなくなり、大慌てで手分けして 1 年前申し込み
の会場の抽選に当たり、県立音楽堂を予定の 1 カ月遅れで確保した。これがいろいろな
影響をもたらすことになった。まず、あまり期待していなかった平成 OB が参加すると
回答してきたこと。1 ヶ月ずれたことで、現役も参加しやすくなり、また懐かしいかつ
てのホームグラウンドに集うことに魅力を感じる人が多かったのかもしれない。
ミューザから音楽堂へ変わるとボリュームの面でも無理をする必要が無くなる。これら
の背景を踏まえて、第 4 ステージのアラカルト曲が選ばれた。KAMCA 用に練習して
いた民謡や、コーロ・サモワールの定演にたまたま招かれたために取上げた「愛の夢」
10
等で構成する。また、合同曲は「バビロンの河辺にすわりて」1 曲とした。
◆仕上げへのミニステージ
「コンポジション」などの要求の厳しい曲を仕上げるに当たっては、何かのステージに
一部ずつ披露して完成度を高める方法を取ることがある。第 11 回定演では前年に予定
されていた KAMCA で民謡+コンポジションを予行演習する予定だったが、ご存じの
通り中止となった。その結果、「引き念仏」は今年の合唱祭での披露となり、「鞨皷」は来
年のコーラルフェストに出すことで熟成を図る。「花に寄せて」からは「つばき・やぶ
かんぞう・あさがお」をホームカミングデーで披露、民謡は豊岡小の利用団体交流会、
ホームカミングデー、鶴見区民文化祭でオンステージとした。
今年のコーラルフェストの曲目は定演の選曲が決まらない時に提出しなければならな
かった。そこで、定演でも使えそうなアラカルトの曲として林光の「ゴンドラの歌」と
シューベルトの「Der Gondelfahrer」を選んだ。また、コーロ・サモワールの定演で
は「愛」がテーマということで、「愛の夢」と「海・その愛」を選んだが、これも定演を
意識してのものだ。このように、定演の選曲は途中のミニステージの選曲と前後し、互
いに関連しながら進んでいくのが現状である。
◆アラカルトについて
第 1・2 ステージが観客になじみの薄い曲だったので、第4ステージはなじみ易い曲を
集めた。また、2 人の協力指揮者も出演することにしたため、ステージ進行も考慮する
必要があった。結局「愛の夢」ともう 1 曲(注 2)(飛永先生)
、
「Stoddole Pumpa」
(川添)
、
「天竜川舟歌」
(小瀬村さん)、
「そうらん節」と「五木の子守歌」
(飛永先生)とし、合
同で「バビロン」
(飛永先生)という順になった。これで、
「天竜川」からフェローが参
加、「バビロン」とアンコール(
「海・その愛」等)を全員参加で歌う形となった。
◆第 1 ステージの構成
第 1 ステージは「合唱のためのコンポジションⅢ」が中心だが、単独ではやや短く、当
初、民謡との組み合わせを考えていたが、小田切氏の訃報に接し、追悼の意味を込めて
「樹木頌」から「あき」を歌うこととした。そこで、オープニングの「潮音歌」の後、
小田切さんを紹介する挨拶に続いて「あき」、そして「コンポジション」を演奏すること
にした、という訳である。
なんともまとまりのない文章になったが、実際の選曲過程もこのように、様々な要因に
左右されながら、皆の希望と合唱団の進歩と演奏効果とをバランスさせている。選曲に
携わっているリーダーの苦労がお分かりいただけただろうか。
注1)
注2)
昨年 4 月 10 日のアプリコホールでの国大・北大 JOINT コンサートでは、北大が「花に
寄せて」を歌った。ステージ練習で聞いた時は似たような曲ばかりで面白みがないと感
じたのだが、観客の評判は大変高く、国大のアラカルトステージを凌いだ。作詞者を紹
介するナレーションが影響したかもしれない。
「ゴンドラの歌」も候補に挙がったが、「愛の夢」とのペアリングから「Der Gondelfahrer」
等のシューベルトか同類の曲と考えている。
11
現役の「四大学男声合唱団サマーコンサート」より
昭和38年卒 T-1 丸山 隆司
2011.8.24京都府民ホール ALTI においてタイトルのようなコンサートを
聴くことができた。演奏会の模様を当日のプログラムとメモをもとにして報告したい。
定刻18:00にエール交歓からスタート。トップは横浜国立大学グリークラブが「み
はるかす」を、次に北海道大学合唱団が「都ぞ弥生」を、3番目に信州大学グリークラ
ブが、多田武彦作曲の「信州大学グリークラブ団歌」を、最後に同志社グリークラブが
「DOSHISHA
COLLEGE SONG」を作詞も作曲も外国人だから英語で歌った。
第一ステージは、横浜国立大学グリークラブであった。
作詞
け方
中原中也 作曲
Ⅱ.冬の日の記憶
多田武彦 指揮 浅野 悠 『冬の日の記憶』 Ⅰ. 冬の明
Ⅲ.冬の長門峡 Ⅳ.更くる夜 Ⅴ.南無 ダダ
とくに4曲目の「更くる夜」は、最初と最後に同じ歌詞をテナーソロが優しくしみじ
みと歌っていてよかった。また5曲目の「南無 ダダ」は、迫力があった。
34名の後輩が、しっかりと心をこめて言葉の明瞭さを大事にして、まとまった演奏
を聞かせてくれて感動した。
来る1月8日の第60回定期演奏会でも歌ってくれることを期待したい。
第二ステージは、北海道大学合唱団であった。
わずか21名により、作詞
谷川俊太郎 作曲 北川 昇 指揮 森 弘樹
『シャガールと木の葉』Ⅰ.歩く Ⅱ.あお Ⅲ.願い Ⅳ.シャガールと木の葉 を
演奏した。人数が少なくても表現の幅があり、楽しく聴くことができた。
ここで、休憩に入ったのだが、発券数に手違いがあったようで、通路にまでぎっしり
と座り込んでもらうことになっていた。
第三ステージは、信州大学グリークラブが34名編成で, 和田聖国が指揮をして
『柳川風俗詩・第二』よりⅠ.水路 Ⅱ.梨 Ⅲ.散歩 の3曲を演奏した。
題からわかるように、多田武彦作曲、北原白秋作詞の作品であった。第二と名づけら
れているように「柳川風俗詩」の続編として出版された作品であるとの解説により、興
味を持って聴くことができた。
割当時間に余裕があったためか、次の2曲の外国語作品を歌った。
Ⅳ.Lux
Aurumque「黄金の光」(作詩 Edward 作曲 Eric Whitacre)
12
Ⅴ.Taevaste Tuul(作詞
Viivi Luik 作曲 Erik Meister)
2 曲とも不協和音が印象的であるが、その色・質といったものがまったく異なる。心
地よかったり、緊張感が強かったりと大変面白いハーモニーが気に入っての選曲だった
のだろう。変わった構成のステージであり、退場のしかたもユニークであった。
第四ステージは、同志社グリークラブが、41名で作詩 川崎 洋 作曲 新実徳英
指揮
グの唄
神谷亮太 ピアノ
松井 萌で『やさしい魚』をⅠ.感傷的な唄 Ⅱ.ジョギン
Ⅲ.天使 Ⅳ.鳥が Ⅴ.やさしい魚 の全5曲を演奏した。
よく響く声できれいであった。人数も多く迫力のある演奏だった。2曲目のジョギン
グの唄は、面白かった。3曲目の
天使は、無伴奏で歌いだし、途中からピアノが歌い
継ぐという新実さんがよく使うハミングで支える展開が素敵であった。
4つの大学とも、学生指揮者が団員と心を通わせ合いながらまとまりのある演奏振り
で京都まで家内とともに出かけていった甲斐があった。
第五ステージは合同ステージであった。130余名がステージ一杯に役割にしたがっ
て位置取りをして演奏を始めた時に、このホールを選んだわけがわかった気がした。
演奏会場は京都御所近くの京都府民ホール ALTI。座席数が五百数十名という小ホー
ルであった。一階のフロアが94面に分割された世界初の電動昇降床機構の採用により
多様なステージ・バリエーションが可能なほか残響可変装置の使用により音響の優れた
音響専用のホールであった。
合同演奏の曲は、作曲
信長貴富 指揮 伊東恵司 ピアノ 平林知子により、そし
て作曲をした信長さんが客席で聴衆者の一人として臨席する中での演奏であった。
以下の文章は、プログラムに掲載されているもので、出版譜に作曲家の言葉として掲
載されたものの抜粋であることもお断りしておきたい。
『Fragments―特攻隊戦死者の手記によるー』は、モノオペラ的な性格が強い作品で
あるから合唱で演奏される際も、マスの表現による普遍性の獲得ではなく、多数の個に
よる発言であるように聞かせられるかが鍵になるだろう。演奏家の個性によって作品は
異なる陰影を見せる。また新たな演奏に出会えることを期待している。
当日の演奏をお聞きになった信長さんのコメントは、「期待に十分応えてくれてい
る。」というものであった。
小生としても、平成19年10月に「大人の休日 フルムーン秋の九州5日間」の旅で
知覧特攻平和資料館に立ち寄ったことがあったので、感慨もひとしおであった。
13
歌い続けて 65 年・私の人生
昭和28年卒 T-2 関本
昭
昭和 20 年 3 月 9 日の夜、東京大空襲で「着の身着のまま」神田で焼かれ、昭和 22
年神田の焼け跡の掘っ立て小屋にいた時、明神下に「神田寺」という友松円諦さんが主
管されていた近代的なお寺があり、そこで友松さんの息子さんが東大の仲間数人と受験
勉強を教えてくれたので(勿論無料)、毎日神田寺へ行き、数学・英語・化学等々を教え
てもらっていました。その時神田寺で合唱団を作り、混声でしたが、みんな近所のよく
知っている人達と、仏教聖歌を始め色々な歌を歌っていました。これが私の合唱を始め
た最初でした。小学校の同期の福井君とも一緒に歌っており、彼は早稲田大学に入りグ
リークラブで歌い続け、卒業後は稲門グリーの会長を長い間続けていました。現在も稲
門シニアーの会長をしています。
私は昭和 23 年横浜工業専門学校化学工業科に入学、入った日から音楽部に入って毎
日ベッヒシュタインを弾いていました。男声合唱をやり出したのはこれが最初で山根一
夫さんが常任指揮者でした。昭和 23 年横浜工業専門学校音楽部として関東合唱コンク
ールに出場しましたが、人数が足りず、横浜高商音楽部の小山さんに頼んで高商音楽部
に応援してもらい、確か私の記憶では 18 人だったと思いますが、成績は 8 位でした。
その時の課題曲が『秋のピエロ』でした。
なお、昭和 23 年 7 月に弘明寺の講堂(旧航空学科の飛行機格納庫)で第 1 回横浜学生
合唱祭を開催、高商との合同演奏をしました。この合唱祭は毎年開催し、私共の時には
一般の合唱団も参加させて貰いたいという希望がありました。これが今日の合唱祭に発
展したわけです。
翌 24 年横浜国立大学が設立され、私は受験して大学へ入り、横浜高商音楽部にいた
小宮君・柴君・中田君などと一緒に横浜国立大学音楽部を設立、練習は工業専門学校・
高商の音楽部と一緒に歌っていました。同期の遠山君は 25 年度のキャプテン、彼は高
商の卒業であるが、工専・工商・大学の音楽部員は一緒に練習しており、名前は横浜国
立大学音楽部で、関東合唱コンクールで初めて優勝しました。翌 26 年度からは工専・
工商の人達は皆卒業し、大学 3 年生であった第 1 期生の私たちが最高学年でした。当時
私たち同期の仲間と山根先生のお宅でコンコーネ 50 番を指導して頂いていました。昭
和 26 年度と 27 年度の二年間私がキャプテンを勤め、名称も横浜国立大学グリークラ
ブと改称し、25 年度に続いて 26 年度も 27 年度も関東合唱コンクールで優勝を続けま
した。その後も優勝を続け、5 年連続優勝という快挙を遂げたのです。その後はコンク
ールへ出場出来ず、別格として歌うという待遇になりました。
昭和 28 年 1 月弘明寺の講堂で第 1 回定期演奏会を開催、山根さんから「関本君挨拶
をしなさい」と言われて壇上から挨拶をしたことを覚えています。
14
昭和 28 年 3 月大学一期生として卒業後は、
「三友合唱団」(「三井の友」の意)に入り、
現在ドイツ・ブレーマーハーフェンの近くに住んでいる大原 惇君と二人でここで歌っ
ていました。正指揮者は伊藤先生で、小澤征爾さんは当時学生だったが伊藤さんの弟子
で副指揮者をしていました。一緒に山中湖で騒いだ仲間です。
昭和 28 年秋、同期だった親友小川譲君(H3 年癌で死亡)と二人でグリーOB が歌う場
所を作りたいと現在の横浜グリークラブの前身を作り、数人で歌っていました。その後
名前を横浜グリークラブと変更しましたが、横浜国大グリーの OB が次々に加入してき
ました。
その後、横浜国大グリークラブ OB 会が結成され、小川譲君が初代の会長となりまし
たが、小川君亡き後は中田君が会長を勤めました。また現役グリークラブの定期演奏会
には、時々OB ステージを設けさせてもらって特別に参加者を募って歌ったりしていま
した。当時練習会場は、OB の高木さんにお願いして菊名の高木学園の音楽室を借りて
練習していました。私が団長となって今富君に「わが古き日の歌」を指揮してもらい歌
ったステージは今でも懐かしく覚えています。
平成に入ると私ども第 1 期の卒業生も 60 才を超える年令となり、再び歌いたいとい
う仲間も次第に増えてきました。そして昭和 38 年卒の神野・鬼沢・今富・三島君らが
中心になって H6 年に OB 合唱団を発足させ、
毎週土曜日の夕方から練習をしています。
平成 8 年 5 月には、今富君が計画をたててくれて、大連へ演奏旅行に行き(私は肝臓癌
の大手術直後で荷物が持てず欠席)、平成 9 年には第 1 回定期演奏会を県立音楽堂で開
催しました。
平成 10 年 5 月には「みなとみらい大ホール」の開館記念式典に出演、平成 13 年 10
月にはイギリスへ演奏旅行と、神野団長の逞しい努力によって OB 合唱団は順調に進展
し今日に至っている。
来年 1 月の現役定期演奏会は第 60 回となり、この記念演奏会に OB も出演すること
になりました。
また、横浜グリークラブは昭和 28 年に創立し、昭和 35 年には 40 名になったが、そ
の後低迷沈滞期を迎え、昭和 53 年には国大 OB 以外にも広く門戸を開放して“一般男
声合唱団”として再出発することになり、順調に発展、指揮者も石倉君から松崎君に替
り、1995 年にはドイツ演奏旅行、さらにヨーロッパ演奏旅行、オーストラリア演奏旅
行、ドイツ・チェコ演奏旅行等々を経て、現在では 80 名を越える男声合唱団となり、
H25 年には 60 周年記念演奏会を開催できるまでに発展しました。
私は、毎週 OB 合唱団と横浜グリーの練習に参加し、月 2 回田中先生に日本歌曲・イ
タリア歌曲・ドイツ歌曲の指導を受けているお蔭で、肝硬変・食道静脈瘤・肝臓癌とい
う大病を乗り越え、81 歳の今も元気に歌っているのは、歌のお蔭と感謝しています。
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ヰタ・ムジカリス
昭和34年卒 B-1 山口 紀夫
入学式のあとのオリエンテーションで、壇上に並んだ詰襟軍団のハーモニーに圧倒さ
れてグリークラブに入ったが、中学や高校で輝かしい歴史をもった人が多い中で、私は
高校までは全然音楽に縁のない生活を送ってきた。むしろ「音楽なぞは勉強の邪魔」ぐ
らいに思って避けていた。と、長年そういう認識で過ごしてきたが、人生も終わりに近
づいて、あらためて振り返ってみると。まんざら音楽にまつわる思い出もないことはな
い。それを書いてみたくなった。
一番古い思い出は幼稚園で習った歌である。父親が転勤族だったため、当時大阪府堺
市に住んでいて、昭和 16 年にそこの幼稚園で習った。
ぱらぱら落ちる 雨よ雨よ ぱらぱらぱらと なぜ落ちる
かわいた土を
やわらかにして きれいな花を咲かすため
歌詞も旋律も明確に覚えているがその後聴いたことがない。教会が運営する幼稚園だっ
たから賛美歌だろうか、しかし大東亜戦争開戦の年に賛美歌など許されるはずがないか、
など疑問に思ってきたが、この文章を書くにあたってインターネットで歌詞を入れてみ
たら出てきた。「こどもさんびか」というものだそうである。戦争の初期には賛美歌の
統制まではなかったことになる。
国民学校(当時)に入ると「ウミハヒロイナ オオキイナ」などに混じって軍国賛美の
歌も多くなった。例えば
肩を並べて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦った 兵隊さんよありがとう
学年が進むにつれて「少年戦士の歌」など少々難しい歌も出てきた。
朝(あした)に戴く残んの星影 夕(ゆうべ)に踏み来る 野道の月影
生産増産われらの務めと
鍬取り鎌研ぐ 少年戦士
昭和 20 年の春、大阪地方も空襲が激しくなって、三年生を終ったところで学校が閉
鎖になった。みんなは集団疎開をしたが、私は山形県の父親の実家に縁故疎開して、そ
こで終戦を迎えた。終戦後 1 ヶ月ぐらいたった頃であろうか、あらゆる教科書の軍国賛
美の部分を墨を塗って消さされた。何を消したか記憶はないが、上記の「少年戦士の歌」
などは消さされたに違いない。
終戦の翌年、国語や算数の教科書はいち早く復活されたが、音楽の教科書はなかった
ように思う。最近 2008 年 1 月のこと、ラジオを聴いていたら、
「時代がわかる教科書
展」というものを埼玉県深谷市でやっていると報道していたので、物好きにも深谷まで
見に行った。墨で塗った教科書は一冊だけだったが、戦後の音楽の教科書は揃っていた。
例えば「五年生の音楽」は発行日が昭和 22 年 7 月 15 日になっていた。終戦の翌々年
16
になってはじめて音楽の教科書が復活したことになる。
そういう状態だったから、音楽の指導要領も確立していなくて。教員の裁量に任され
ていたのであろう。終戦の翌年、私は小学校五年で、一学年二学級の小さな学校だった
が、わが組の担任は中年の復員軍人で、教室にあった足踏みオルガンもおぼつかなく、
大部分口移しで「だれが風を見たでしょう」などを教えてくれた。それに引き換え、も
うひとつの組の担任は女学校を出たての(当時は旧制女学校を出ると代用教員になれ
た)キャピキャピの音楽好きの先生で、「浜辺の歌」を二部合唱で歌わせているのが隣
の教室から聞こえてきた。そのときは、
「別に羨ましくなどないわ」と強がっていたが、
今でも耳に残っているところをみると、本心では羨ましかったのかもしれない。
当時としては珍しく、我家に蓄音機があった。
「愛国行進曲」とか「出征兵士を送る
歌」に混じって、「祇園小唄」とか「野崎小唄」とか「関の五本松」などがレコードケ
ースに入っていて、聴くともなしに聴いて覚えた。母親が好きだった様だ。その蓄音機
がいつの間にか我家から消えた。食糧難の時代で、多分どこかの農家にお米と交換で貰
われていったと思われるが、子供には知らされなかった。母親は小学五年の私に、なに
を思ったか、
「小学生にこんな歌を教えてはいけないけど」と言いながら。
「影を慕いて」
とか「酒は涙か溜息か」を口移しで教えてくれた。その翌年、母は 42 歳で若死にした。
中学校での思い出はほとんどない。高校に入ってますます縁が遠くなった。高校では
図工か音楽かが選択だった。音楽は苦手だが図工はもっと苦手だったので仕方なく音楽
をとった。しかし授業に出た覚えはほとんどなく、図書室などで他の勉強をしていたよ
うに思う。高校でひとつだけ思い出すことがある。男女が別々の組で、男子組が教室で
授業を受けているとき、女子組が校庭で提灯ブルマー姿で体育ダンスを習っているのが
目に入った。そのダンス音楽の旋律が耳に残っていた。あとで知ったことだが、それは
シューベルトの「鱒」であった。その歌が懐かしくて、ウータンの会に入ったとき指導
を受けて、初めての発表会で歌わせてもらった。
以上がグリークラブに入るまでの「音楽嫌い」の歴史である。幼いときの訓練がなか
ったことは致命傷のようで、特に初見力とリズム感が弱いと感じている。最近は難しい
歌が多くて苦労している。
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グレゴリオ聖歌の本場(ソレム修道院)を訪ねて
昭和34年卒 B-2 青木 敏彦
今年(平成 23 年)4 月末、西洋音楽の源流と言われるグレゴリオ聖歌の伝統の地を訪ね
るツアーに参加し、フランス・ブルゴーニュ地方のソレムの町のべネディクト会修道院
を訪れ、本場のグレゴリオ聖歌を聴くことができました。丁度復活祭を含む聖週間の行
事に 4 日間参列し、修道院の聖務日課(朝課,9 時課、晩歌(ヴェスプレ)など)に参
加する貴重な時間となりました。
ソレム修道院は、19 世紀後半に、グレゴリオ聖歌の復興運動の中心になり、10 数巻
に及ぶ音楽古文書を集大成し、これが音楽学的に最も偉大な業績とされています。日本
でも「グレゴリオ聖歌集大成(20 巻)」なども出ていて、「Graduale」等楽譜集は多数出
版されています。歌われているソレム式唱法はローマ教皇庁によって公認されています。
ご存じのように、グレゴリオ聖歌は、現存するヨーロッパ音楽として最も古く、9 世
紀から 13 世紀にわたり祈りの旋律として、修道院を中心にカトリック教会で歌われて
きたラテン語の単旋律の賛歌・典礼で、心に染みいる美しさが評価されているものです。
ソレム修道院の参列者の一般席は、天井の高い細長い大聖堂の中央で仕切られた後部
で、聖歌隊席は、正面の祭壇前の左右に対面して設けられており、そこに 50 人ほどの
修道士が座りまたは立ち、歌は聖歌隊長により先唱され、続いて朗々と旋律を唱える響
きは、聖堂に響く柔らかく流れるような単旋律の唱和として、静かに心に響いて来ます。
私が一番感動したことは、流れるような旋律の美しさもさることながら、聖歌を歌って
いる目の前の修道士の世界は、書物でしか知らない中世の修道院の姿そのもので、その
場に自分もいるという感慨でした。朝、昼、午後、夕べ、就寝前と祈りの時間に集まっ
て祈る修道士は、それぞれの専門の仕事 ~ブドウ栽培の畑仕事、靴職人としての仕事、
古文書研究、などなど~ をこなし、一日の労働の合間の定められた時間に、集会の祈
りを美しい旋律によって歌うという日々の生活の長い時間が、謹厳実直な一人一人の姿
に現われている感がありました。
復活の徹夜祭では、修道士たちが、聖歌の途中から歌いつつ席を離れ行列して広大な
修道院の中をくまなく歌いつつ歩く。われわれ参列者は沈黙のうちに、右や左からかす
かに切れ切れに聞こえては途絶えてくる歌声に長時間待っていて、やがて出て行ったド
アと反対側から歌いつつ現われ順次席に着くという行事もありました。会衆は耳をそば
だてひたすら沈黙のうちに待つという貴重な体験です。
復活祭の翌日、バスで移動したロアール川河畔のショーモンシュルロアール教会で、
予定していたフランス人司祭のミサでは、同行の 17 人でグレゴリオ聖歌を担当する聖
歌隊として司式に参加し練習の成果を披露しました。
同行者は、鎌倉の「グレゴリオ聖歌を歌う会」の人達が中心で、祝日の典礼で歌って
いますが、私もこの古典グレゴリオ聖歌を歌い継いでいきたいと期待しています。
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入口近くの中庭にて
聖堂内部
ソレム修道院全景
「Graduale Triplex」より 復活祭日中のミサで歌われる聖歌(一部)
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合唱団に参加しての雑感
昭和47年卒 B-1 本荘 光太郎
初めて潮音に書きます。正直に言えば、今までも熱心な読者でもなく、文章を書くの
も苦手なので逃げてきました。が、どうやら一度は書かないと厳しい編集者に許しても
らえそうもありません。
早いもので OB 合唱団に再入団してこの夏で3年目に入りました。
昨年秋には高田さんよりバリトンのサブリーダーも引継ぎました。サブであること、事
務連絡をしっかりやってほしいとのことで、世代を引き継ぐのもやむをえない役回りで
あるかと思い引受けましたが、技術的なことは正直前任者をはじめ他の人に比べるべく
もありません。当然皆さんもわかってのことですので、少しでもお役に立てばとの気持
ちで頑張りたいと思います。パートの皆さん改めてよろしくお願いします。
さて再入団後の定演でのケルビーニはもちろんですが、最後の合同演奏の「秋のピエ
ロ」に自分としては改めて男声合唱のよさを実感しました。100 名を越す大人数でのピ
アニッシモの美しさに一番感動しました。初めて職場の同僚後輩にも案内を出し、大い
に喜んでもらいました。物にはならないけど、色々手を出してやっていますが、合唱だ
けは昔から家族にもほめられる趣味でしっかり続けていこうと思った次第です。
いくつか再入団して感じたことを書きます。
ひとつは暗譜についてですが、皆さんの衰えない記憶力または努力には驚きですが、
自分では確実に衰えを感じています。暗譜するくらい歌い込めば完成度は上がるのは間
違いないと思いますが、各自の努力に期待するだけではつらい人も多くなっているのが
現状だと思います。ひとつは外国語を少なくすることで負担軽減をする。また暗譜前提
ながら、いざ本番では楽譜をもってよいことにすれば大部分が解消すると思います。
もうひとつは合唱の最重要要素である声そのものです。各先生方のボイストレーニン
グや飛永先生の指導もあり、声の響きや音程が曲の情感にどれほど大事か最近浸透して
きているように感じています。
以前は自分も音の強弱やデクレッシェンドやクレッシェンドなどが気になり、うまく
いかないとイラついたりしました。しかし間違っているかもしれませんが、飛永先生を
始め指揮者の要求する響きのなくなるほどのピアノや響かないフォルテはそもそも合
唱の素材としての声になっていないということなのだと最近は理解しています。
そう考えるとまずしっかりした声を響かせ、各自がその幅(音程、強弱)をひろげる
努力は当然として、実際歌う時は各自の響く範囲内で歌うことが大事ではないかという
事です。だから息継ぎも無理せず、十分準備して歌うことが大事だと思います。
そう考えるとずいぶん気持ちも楽になり、出ない声は無理をしないか、自分の役割は
何か考えて歌うことが重要だと思うようになりました。
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ちなみに自分は現役時代からボリュウーム要員だと思ってきましたが、迷惑をかけて
いただけかもと思い反省しています。
音程に関しては音色が常に問題になっているようで、音が低いとか暗いとか言われる
度に自分のことかと思うほどですが、パートとしては高めにとる事も意識は浸透してき
たと思います。
最後に前から合唱団へ求めるものは皆違いがあり、特に強い思い入れのある人がやめ
ていったりしたことをとても残念な事だと思ってきました。
技術は別として音楽二の次の人はいないと思います。お互い無神経では合唱のハーモ
ニーは作れないのは間違いありません。いざ本番の集中力には折り紙つきですが、良い
ハーモニーを作る点に集中して、自分も練習の時から楽しくやっていきたいと思います。
練習場の制約もありパート練習が不足している現状で、個人に負担が大きくなっている
こともありますが、回りを意識して聞くことが重要だと思います。
思い起こせば、合唱との付き合いは高校時代からなので長いものになりました。
わが母校は指導する先生もなく実質学生だけの運営でした。当然技術的なレベルは不十
分でしたが、みな研究熱心で人数もかなりいて活発に活動していました。卒業した先輩
も指導してくれることもあり、その中に現在もお世話になっている小瀬村先輩もいたと
いうわけです。
実は、大学ではもう合唱は卒業にして、ワンゲル部に入るつもりでした。
ここでも現在トップにいる高校時代の内海先輩にグリーに強引に勧誘されたという
わけです。最も新入生歓迎レセプションでグリーの演奏に感動したのは事実です。
(特
にウボイだったと?)
ちなみに山は会社に入ってから山岳部に入り、3 年目くらいから先輩の「雪山で寝て
みろ」の一言で冬山もやるようになるくらい一通りやりました。といってもサラリーマ
ンの山ですから、何日も荒れる山やエスケープルートの長い山は無理なので、大した事
はありません。今では自分でも想像もつかないと思います。
さて OB 合唱団が発足した時に川添先輩だったと思いますが、バリトンが足りないと
のことでお手伝いのつもりで第一回の定演から参加することになり、仕事の関係やらで
退団するまでに、確か六回目位まで参加したと思います。
縁ある人たちに引っ張られて今日まで来たという感じです。
なにやらとりとめのない話になりましたが、最近 47 年卒の同期が4名も入り総勢 6
人になって、また楽しみが増えてきました。
リーダー会議では演奏旅行も含め今後の運営の見直しも話題になっています。
ますます充実した活動になりそうで、支えている役職者のかたがたのご苦労にはただ
感謝です。
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合唱再び
昭和47年卒 T-1 田邊 邦雄
練習前のプレッシャーと練習後の解放感、充実感。こんな日々が再び来るとは。
■一生歌を
高校時代、混声合唱を始め「合唱を続けるならば横国大グリークラブ」と入部。
3年時、T-1 のパートリーダーを務め、授業中、後ろで専ら楽譜を読んでいた。
自称教育学部合唱科。この頃、4団体に所属し、40年卒の中村皇さん、小瀬村春雄
さんに出会い、教えを受け、混声、男声合唱が生活の中心となっていた。
就職してもこんな生活が当然続くものと思っていた。
■こんなはずでは
卒業後、小学校教師になり最初の学校では4年間、音楽集会で歌の全体指導を任され
た。歓送迎会や宴会で歌う歌は18番「しかられて」
。そんな私であったが、徐々に仕
事の多忙さから合唱練習に行く余裕がなくなってきた。歌っているときは仕事を忘れ歌
に没頭できるのだが・・・。満足に歌えなくなってきた。
■もうできない
5~6年後、完全に歌うことをやめてしまった。
「一生歌を」とまで思っていた合唱
を途中で断念してしまった心残りが、以後、聴くことすら避けてしまった。
そして、その後夢中になったことはバレーボール。50歳まで教員選抜チームのセッ
ターをやり、この間、東京都大会3位まで上った。それからバトミントン、硬式テニス
とスポーツ馬鹿となった。テニスは今も週1~2回やっている。
■えっ!
また歌を?
平成22年、グリーOB 会のフェスティバルで還暦を迎えた我々S,47年組が出番と
なった。初め同期の仲間からの合唱への誘いを断っていたが、断り切れず熱川の合宿に
参加。久しぶりのトップは思うように声が出ず、ストレスで終わった。こんな私にソロ
をやれなんて・・・。昔の仲間に会えたことは楽しかったが。
■まだその気になれない
お風呂で、トイレで発声練習。だんだん声が出せるようになってきたが息が続かない。
今からでもソロを降りてリラックスして歌いたい。何度そう願ったことか。時間がどん
どん過ぎていく。本番が近づいてくる。口の開け方をあれこれ試し、いちばんきれいに
響く歌い方を模索する毎日で会った。
いよいよ当日。他の方々の歌が耳に入らない。失敗せずに歌えるだろうか。ちゃんと
声が出るだろうか。こんな思いで客席にいた。
とうとうその時がきた。歌い始めて違和感を感じた。楽譜が良く見えないのだ。
「そ
うだ、メガネをかけ忘れている。
」気づいても遅い。
「歌っている最中にメガネを取りだ
してかけるのはまずい。」と我慢。曲の合間に動揺したそぶりを見せずメガネをかけた。
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ソロには間に合った。
歌っているとき、楽譜を持つ手の指先が震えているのに気づいた。
「自分は緊張して
いるんだ。」緊張の中にどこか冷静さもあったようだ。ワンフレーズでは歌えず、ブレ
スはやはり多かったが何とか歌い終える事が出来、終わった時の解放感は何とも言いよ
うがなかった。「これで終わった(小さなガッツポーズ)
」
その後、多くの方に声をかけて頂き嬉しくはあったが、また入団して歌う気にはなれ
なかった。
次の年、今年もほとんど同じ人たちとフェスティバルに参加し、ソロもやらせて頂い
た。今回は様子も分かり、他の方々の歌もじっくり聴くことができ大いに楽しめた。素
晴らしい歌声が聴かれ、たくさんの刺激を頂いた。今回もお誘いを頂いたが、しっかり
続けていける自信がなかったのでお断りするばかりであった。
(お声をかけて頂きあり
がとうございました。)
■よしやってみよう
一度はお断りしたものの、日に日に「あの人たちと歌ってみたい」という気持ちが膨
らんできた。
「雨の音が聞こえる・・・」
「むらどりを追いながら・・・」
「紀の国ぞ・・・」
フェスティバル後も毎日、お風呂で、トイレで歌っている。今も。
「歌うなら今かな」
と、自ら電話して仲間に加えてくださるよう頼んだ。
■待ち遠しさも
初めて歌う曲が多く予習が大変である。ワンパートではなかなかとれない音もハーモ
ニーの中から音が拾えることもあるので、それほど心配しなくともよいと思うのだが、
なかなか・・・。休みの日には楽譜と向かい合うことが多い。
普段出さない、出せない音域まで出す面白さ、歌いこんでいくうちに歌えるようにな
っていく充実感、厚みのあるハーモニーを感じた時の快感。仲間の柔らかな素敵な歌声
や響く高音に感動、そしてファルセットで逃げず実声で張る強さとボリュームには圧倒
される。今まさに刺激一杯の第2の青春である。歌い終わってから仲間と飲むビールの
美味しさも最高。美味しいビールを飲みたいから歌っていると言っても過言ではない。
合唱練習日を第1優先にして予定を組んでいる。
自分に、こんな日々が再び来るとは。
■ああ感動、感激
第20回道志川合唱祭に横浜フォーティーズのメンバーとして初めて参加。小瀬村さ
んのご指導で気持ちよく演奏することができ、久しぶりに合唱を堪能した。
早稲田グリーOB(私たち以上にご高齢の皆さん)の P,PP をきかせた繊細な歌い方には、
思わず引き込まれ聴き入ってしまった。深い感動を覚えた。合唱祭を終え食堂に行くと、
何とそこにはステージを終えビールを飲んで休まれていた憧れのボニージャックスが
いるではないか。お一人ずつ握手とお話をした。T-1の方には「僕の後にはあなたが入
って歌ってね」とリップサービスまで。ああ、感激。
23
現役時代の思い出から
昭和39年卒 T-2 柳澤 剛
グリーフェスタで諸兄より入団を強く勧められました。人生のひとつの区切りを経験
し、身体の手入れを終了し、「何かはじめてみたい」という思いも重なり、無謀を承知
で、7月に入団させていただきました。音楽的に論ずる事などは苦手で、思い出を記し
ます。
1. 三宅春恵先生のこと
2年生のときでしたか、ソプラノの三宅春恵先生が、ご主人の三宅洋一郎先生が指導
するフェリス女声合唱団に対抗して(?)アマチュアの男声合唱団を組織するとして、
グリークラブにも案内があり、7~8名が参加しました。
(規模は40名程度か。
)
練習は、東横線の東白楽駅近くのご自宅で、ピアノを囲み行われました。
発声の指導では、一人ずつ(恐れ多くも)両手で先生のお腹と背側の腰をはさむよう
に保持し発声時の動きを観察しました。その時の腹筋などは強く硬く張っていて声楽家
の鍛練のすごさを実感しました。
曲の細部を厳しく合わせるというより、流れを大切にのびのびと歌わせるように、楽
しそうに指導されたと思います。団員もすぐにうちとけました。練習のとき、作曲の中
田喜直さん、服部公一さんなどがこられました。中田さんは、当団のために合唱曲「熊
のぷーさん」を作曲されました。選曲の中にブラームスのアルト・ラプソディがあり、
二期会からソリストが招かれました。演奏会は「つばめ合唱団演奏会」として、銀座の
ヤマハホールで行われ、なごやかな演奏会になりました。この後、私は当団を離れまし
たが、練習後の先生の歌などの楽しみもあり、まさに夢のようでした。
2. 3年生の夏・裸のつきあい
グリークラブとは別の旅行は数少なく、演奏旅行や合宿などの帰途に少人数で立ち寄
る程度でした。しかし、これがささやかなロマンであり、楽しみでした。
〇舞鶴で演奏旅行を打ち上げたあと、城崎温泉に一泊し、翌日近くの日和山海水浴場の
岩場で泳ぎました。真水のシャワーが出ず、塩を洗い流さぬまま、京都へ向かいました。
〇メンバーの一人より、鎌倉の海に別荘をもつ知人から誘われたが、一緒にどうだとの
こと。その海は波静かで、ゆっくり遠泳を楽しみました。そのふたりのあまりの泳ぎの
うまさに舌を巻きました。
〇長野地方での大学合唱協会のリーダー・マネジャー会議に3名で参加し、その後野尻
湖に手漕ぎのボートを出しました。一人が思いがけず水着を持っていて、かわるがわる
泳ぎました。水底からヒヤッとする流れが上がってきて、引き込まれそうでした。
偶然、日本海、太平洋、山の湖をそれぞれ満喫する事ができました。
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合唱とオーディオ三昧
昭和29年卒 T-2 菅又 通晴
私は、今年“傘寿”を迎えました。大学卒業以来を振り返って見ると、自分の一番好
きなものは、矢張り音楽でした。しかし、仕事で田舎住まいのために、音楽会に出かけ
るチャンスは少なく、専ら、合唱に参加するのと、音楽再生のためのオーディオ手作り
に専念することでした。
群馬県富岡町時代
若い頃の合唱のことは、この機関誌「潮音OB」第8号に書きましたが、その活動は
貧弱なものでした。入社した頃は、群馬県は富岡町にある古びた疎開工場勤務でした。
この田舎町では、歌声運動に参加して歌を斉唱するのが唯一のコーラスでした。
一方、レコード界はモノラルLPが出始めましたが、その頃はまともなオーディオ機
器は市販されていないので、より良い音を求めて自分で真空管アンプを作りました。そ
の頃、NHKの放送でステレオ音楽の左右の音を、第1と第2放送に分けた、初めての
ステレオ放送を聴いたのを未だに忘れません。
群馬県高崎市時代
しかし、工場が忙しくなり、高崎市に新工場を建設し、そちらに移ることとなりまし
た。高崎工場では、昼休みに有志が集まってささやかな合唱をしましたが、仕事が忙し
くなると、自然消滅となってしまいました。
一方、オーディオ界では、ステレオLP全盛で、雑誌に、新しいアンプが続々紹介さ
れ、自分の手作りアンプを作っては壊しの連続でした。更に、真空管からトランジスタ
に変わると、又、これに挑戦するのです。そのうちに、世の中のレコード界は、LPか
らCDに移り、高音質時代(所謂ハイファイ時代)になると、再生機製造メーカーが、
これに対応する、ハイファイ機器を格安で売りだすようになりました。私も、自分の仕
事が忙しくなり、手作りアンプよりも良いものが安く手に入るようになると、自分で作
るよりメーカー品を買いそろえるようになりました。
福島県福島市時代
やがて、私共の工場の製品の製造が福島工場へ移管し、私も福島市に住むことになり
ました。この頃から,オーディオ界は、音と一緒に映像を再生させる時代になってきま
した。先ず、映像記録は、従来のビデオテープからレーザーディスクに、更にDVDに
進化しました。また、映像を映画館と同じように、家庭でもスクリーンに投影出きる様
になり、早速、大型スクリーンと投影プロジェクターを購入設置して、我が家のリビン
グで、映画やコンサートやオペラなどを、手軽に楽しむ事が出来るようになりました。
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一方、仕事は多忙を極めましたが、そのうちに仕事も落ち着くと、また歌いたくなり
ました。当時流行したベートーベン「第九」の演奏会が福島でも始まり、その演奏会に
参加しましたら、「第九」の海外合同演奏の募集があり、それに応募してアムステルダ
ムやウィーンでの演奏会に出かけたりしました。そんな時期でした、国大OB合唱団か
ら、50周年記念演奏会に地方OBの出演への誘いがありました。それに参加すると、
こんどは英国演奏旅行計画があり、続けて参加すべく、結局、福島から横浜への新幹線
を使っての練習通いとなり、そのまま今日まで、OB合唱団で歌うことになったのです。
現在の千葉市時代
年齢も70歳になり、仕事から離れた頃、長男の居る千葉で都市公団の分譲地募集が
あり、それに応募し土地を得、現在の千葉市に家を新築することになりました。千葉か
ら横浜には直通の便があり、これで、国大OB合唱団の練習にも通いやすくなりました。
更に、千葉市にある千葉混声合唱団にも入りました。ここでは、バッハやモーツァルト
などの宗教曲を演奏するので、国大OB合唱団とは違った合唱を楽しんでいます。そし
て今年になると、地元の自治会にあるシニヤの集まりで、シニアコーラスグループをつ
くることになり、その指導を引き受けることになりました。先月の自治会の敬老会の催
しでは、ささやかな2部合唱を披露し、続けて敬老会出席者全員で一緒に歌う大合唱を
リードして、皆に大変喜ばれました。
千葉に新築した家には、長年夢に描いていた音楽と映像の鑑賞専用の12畳程の部屋
「AV・オーディオルーム」を作りました。これは、先ず部屋の正面に 110 インチの大
型スクリーンを配置し、後方に設置した液晶のプロジェクターから映像を投影するもの
です。更に、音響面では、正面には、手製の高・中・低3ウェイのメインのスピーカー
とサブウーハーを設置し、部屋の周りには、サラウンド音源として、小型の手製のスピ
ーカーを、前方に5個後方に4個を設置しました。これは、11・1ch 方式と言い、米国
オーディシー(Audyssey)の DXS と命名された最新のサラウンド音場です。これにより、
劇場やコンサートホールで演奏される音楽等を、臨場感溢れて聴くことができます。
また、ソフト面では、DVDと共に、更に進化したブルーレイディスク(BD)が出
現し、TV放送と共に、所謂ハイヴィジョンの高画質の映像と高音質の音声が得られま
す。この様に、オーディオの世界の技術は、日進月歩していますが、今度は、CDのス
ペックを遥かに凌駕するサウンドが得られる、パソコン利用のPC&ネットワークオー
ディオが、昨年から出現しました。早速、そのためにネットワークプレーヤーを購入し、
パソコンから音楽をダウンロードしたり、CDをリッピング(コピー)して得た音楽を、
従来のオーディオ装置で再生した音は、凄く上質でした。更に、ネットで配信される予
定の、所謂ハイサンプリング・ハイビット音源が体験できる楽しみが得られます。
以上のような、オーディオ機器に囲まれて、私は、今、家庭において、劇場さながら
の雰囲気で映画、音楽更にオペラ等を楽しんでいます。
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【合唱】活動への感謝の思い
昭和46年卒 T-1 露木
聰
9月下旬に「潮音OB」編集委員長の矢川先輩から、
【潮音OB第25号】発行に伴
う原稿執筆依頼のメールを頂きました。 前回の第24号は「定演特集号」だったので、
フェローとしてステージに立たせて頂いた関係で「拙文」を載せて頂きました。 今回
も、原則「OB合唱団員」という事でしたので、
「正規の合唱団員でもない小生が書い
てもいいのかな?」と大分躊躇致しました。 唯、ここ数年フェローとして3回程定期
演奏会にも参加させて頂き、その為の練習に参加させて頂いている事が、現在の「中学
校の教師」としての小生に大いに役立っている事を書いてもいいかな(?)と思い直し、
投稿させて頂く事にしました。
ご存知の方も多いと思いますが、小生31年間の一般企業のサラリーマンから、一年
間の求職活動の後、中学校の数学の教師になりました。 「教員生活」も今年で9年目
に入りましたが、最初の4年間は“全く新しい「教育界」という環境に慣れる為”とい
うよりはむしろ、仕事上での「余裕」が無くて「OB合唱団員」を辞めさせて頂きまし
た。 そして、その状態が現在まで続いております。 60歳になってから時間的余裕
も出来て、OB合唱団の定演の度に「フェロー」として参加させて頂く様になりました。
2009年の夏、所属学年が3年だった事もあり、
「3年生の最後の合唱コンクール」
を素晴しい「思い出」として残して欲しいという思いから、
「学年合唱」のお手伝いを
させて頂きたいと校長先生に申し出ました。 今までの「OB合唱団」での経験から、
「唄い方、唄う姿勢、発声の仕方など」は何とか指導出来るとは思っておりましたが、
【指揮の仕方】等は全く経験がありませんでした。 そこで、思い余って「飛永先生」
に指揮の個人レッスンをお願い致しました。 7月下旬の暑い日から始まり、3回程川
崎のご自宅まで通わせて頂きました。 「指揮」って、本当に難しいと感じました。
今までは唄う側として「受身」で、指揮者・伴奏者に合わせて唄っていました。 指揮
者が「その曲」の詩・音・曲想等すべてを理解して、
「唄う側」に指示を出し、皆で一
つのものを創り上げる事の「難しさと楽しさ」を改めてわからせて頂きました。 但し、
いつ指揮を始めたらいいのか、テンポの違いをどう表現したらいいのか、強弱の表現を
どうすればいいのか等、中々コツが掴めず飛永先生には大変お世話になってしまいまし
た。
この場をお借りして改めて御礼申し上げます。 有難うございました。
9月中旬の第2回の定期テストの後、
【合唱コンクールの為の練習】が始まりました。
230名以上の生徒達(3年生)がステージ上で「心の旅路」と「手紙」を唄う為に、
2回全体練習があり「発声の仕方・唄う姿勢・指揮者の手を見て唄う事」などを指導さ
せて頂きました。
音楽科の先生のご指導に反しない範囲で、指揮者には「詩の理解、
楽譜に書いてある記号の理解、曲想の理解」の大切さを伝え、何度も楽譜を見るように
28
と指導もしました。
【合唱コンクール】の当日、それぞれのクラス毎の「合唱演奏」
は本当に素晴らしく、特に学年合唱の2曲も指揮者のタクトにあった素晴らしい出来の
「全体合唱」になりました。 ステージを降りて来た生徒達の“顔”のなんと清々しか
った事か・・・・・・。 皆、自分達の演奏に満足し・感動したのだと思いました。 彼
等の満足が当然聴き手の下級生や保護者達・先生方にも感動を与えてくれました。 ほ
んの少しだけの「お手伝い」でしたが、合唱を通して、3年生の生徒達が「一つのもの
(曲)を創り上げる大変さと喜びを感じ、一生懸命唄い切った自分達に感動し、聴衆に
も感動を与える事が出来た喜びを実感してくれた事」が、小生にとっての【一番の喜び】
でした。
20年近くに及ぶ小生の「男声合唱人生」ですが、還暦を過ぎた小生の様な「老教師」
に、「努力する事の大切さとやり遂げた後の感動を伝えられる機会」を与えて下さった
「横浜国立大学グリークラブとOB合唱団」での【合唱活動】に心から感謝したいと思
っております。
残り一年半の「教員生活」ですが、
「教科指導と合唱指導」に是非と
もお役に立たせて頂きたいと心から思っております。 その為にも、来年1月の現役グ
リーの定期演奏会と6月のOB合唱団の第11回定期演奏会には、フェローとして又、
参加させて頂きたいと考えております。 そんな訳で、
【OB合唱団への正式復帰】は
当分先になりそうです。
今後とも何卒、宜しくお願い申し上げます。
-
感謝 -
第9回定演リハーサル 2列目右から2人目が露木さん
29
世界の三大美術館
昭和35年卒 T-2 高山 峻一
世界の三大美術館の選択は種々の基準があろうが、ここでは前身が王宮であった美術
館で、フランス首都パリのルーブル美術館、スペイン首都マドリッドのプラド美術館、
ロシア旧首都サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館を世界の三大美術館とす
るのが妥当であると確信する。
筆者は1971年秋に社命で日本下水道協会の欧米下水処理場視察団に参加して、パ
リで宿舎から視察場所に向かう途中のマイクロバスが、今から考えると特別イヴェント
と思われるルオーの作品の大看板が掲げられたルーブル美術館の横を北へ向かって通
り抜けた時いつかは来るぞと心に決めたが、それが果たせたのは32年後の2003年
であった。それから04年と06年にはプラド美術館、08年にはエルミタージュ美術
館と、世界の三大美術館の訪問が果たせたので紹介してみたい。美術的な知識と理解は
乏しいので旅行解説書にはないと思われるトピックスを心掛ける。
1、 ルーブル美術館
ルーブル美術館との再会までの32年間に日本ではルーブル美術展と称するイヴェ
ントが何回も東京、横浜で開催され(09 年にも新東京美術館で開催)
「モナリザ」
、
「自
由の女神」等がやってきた。本家の展示場で再会するとモナリザは東京と同じ防弾ガラ
スのケースに入っていた。昔はむき出しだったと聞く。
「自由の女神」は大作「ナポレ
オンの戴冠」の前にあり東京で見た時は大作で黒山の人だかりだったのに大きさで見劣
りし、1月中旬で入場者が少ないせいもあるが前に立つものは誰もいなかった。会場を
めぐるとどこかで見たような作品に出会う。しかし館内で迷って地下でルーブルが城砦
であった時の遺構を見たのは収穫であった。日本名が「3女神像」は「Troi Graces」
であるとの記憶は今も新しい。(2010年2月に訪れたイタリヤ、フィレンツエの
Uffizi 美術館で観た Botticeli の大作「春」にも描かれていたのには驚いた。) 入場券
売り場は地下に在り、その上に明り取りのガラスのピラミッドがある。休館日にクレー
ン車で作業員を吊り下げてガラスを拭いていた。日本では専用の作業車でなければ労基
が許可しないのではないか。「モナリザ」と並んでルーブル美術館の目玉である「ミロ
のヴィーナス」の後姿も紹介する。
ガラスのピラミッドの清掃
ミロのヴィーナスの後姿
30
2、プラド美術館
本美術館の目玉作家はゴヤとエルグレコである。エルグレコはスペイン語のギリシャ
人である。ギリシャ出身なのでそう呼ばれているうちに固有名詞となってしまったので
ある。エルグレコの傑作「受胎告知」が倉敷の大原美術館にあると NHK 番組「迷宮美術
館」で知ったときは懐かしかった。ゴヤの目玉作品は「裸のマハ」と「着衣のマハ」で
ある。細長い展示室の奥に2つが並べて置かれその部屋には他作品はなかったと記憶す
る。現地ガイドの説明によると好色貴族達が「着衣のマハ」の後ろに「裸のマハ」を置
き「着衣のマハ」をスライドさせ「裸のマハ」が現れるのを楽しんでいたとのことであ
る。単独行動時に誰もいないその部屋で眺めると圧巻である。またゴヤの大作「巨人」
が弟子の作品と云うプラド美術館の最近の発表には驚きを禁じえない。
裸のマハ
着衣のマハ
やはり単独行動の時、ある部屋で「モナリザ」に出会った。驚いて題名を見ると
「Gioconda」であった。ルーブル美術館の「モナリザ」のモデルがジョコンダ夫人であ
るとの説は間違いないと感じた。最近それが本当と証明されたと聞く。残念なことには
この作品はプラド美術館のカタログには載っていない。ここで興奮のあまり作者を確認
しなかった事に気付き、プラド美術館のホームページで検索するとやはりレオナルド・
31
ダ・ヴィンチであった。最近、BS放送の名画紹介番組で彼はルーブル所蔵の作品以外
に同じモデルで同じ構図の作品を数点残している事を知った。
3、エルミタージュ美術館
エルミタージュとはフランス語で隠れ家を意味する。ロシアでは上流階級はフランス
語を使っていたと云う。今でもモスクワ空港で出国審査窓口への振り分け整理のおばち
ゃんでも呼びかけに「ムッシュー」「マダム」を使う。サンクトペテルブルグはオラン
ダに単独留学したピヨトル大帝がアムステルダムを模して建設した都市である。市内に
は運河が多い。エルミタージュ美術館はエカテリーナ女王が隠れ家として建設した冬の
宮殿である。その収蔵品はルネッサンス、印象派、カンジンスキーその他多数である。
特筆すべき事はルーブルではフランス革命でブルボン家の財宝は皆散逸させたのに、ロ
マノフ王朝の財宝は健在でモスクワのクレムリン宮殿で観光資源になっている。また処
刑されたニコライ帝の肖像画も旧ソ連時代には倉庫に隠し、ペレストロイカ後また飾っ
てある。芸術に対するロシア人の感性はたいしたものだと思った。但しロマノフ家は赤
子であったアナスターシャ迄全員処刑された。現地で始めて知った知識はレーニンが斯
くも残虐だったのは兄がロマノフ家に依り投獄処刑されていた事と、
「エカテリーナ」
の愛称が→「カーチャ」→「カチューシャ」であった事である。
08年初雪の日のエルミタージュ美術館
32
グリークラブ OB 合唱団としての初演奏会を終えて
昭和60年卒 B-2 蒲谷 直樹
10 月 29 日ホームカミングデーコンサート出演お疲れ様でした。私にとっては OB 合
唱団を訪問したきっかけが昨年のホームカミングデーでしたので、それからちょうど 1
年目の節目となる日でもありました。そして何よりグリーの一員としてステージに上が
る機会としては、大学4年卒業前のフェアウェルコンサート(1985 年 3 月)以来実に
26 年振りであり、ここ 1 週間ほどは少々高揚した気持ちで日を数えつつ、当日を迎え
ました。演奏前の仄かな緊張感、26 年振りにステージ上で歌う「みはるかす」
、そして
懐かしい各曲を自分も一員となって歌い、正に筆舌に尽くし難い感激を得ました。会場
に響く和声の中に身をおきながら遥かな時間の流れの中で忘れていたグリーの音楽、と
いうより実際に身を置いた者でなければ決してわからないあの音色に直接触れ、直感的
に 26 年以上前の現役時代の記憶と今が混然となり、言いようの無い、体が痺れるよう
な感動を覚えました。
また、OB 合唱団の底力、大人の凄みを実感したのも事実です。新参者の若輩がこの
ようなことを申し上げるのは甚だ僭越ではあるのですが失礼を承知の上で申し上げま
すと、練習の時よりも格段に上手な演奏だったと感じました。現役時代は来る日も来る
日も練習を重ねたにも拘らず、私個人の実感から言えば本番で練習同様にできれば大成
功、練習以上の力が出せたことはほとんど無かったように思います。
(飛永君には怒ら
れるかもしれませんが・・・。
)これに対し OB 合唱団の練習は週 1 回だけであり、練
習量は現役時代とは比べものにならないほど少ないにも拘らず、短い練習時間において
指摘された問題点を、その場はともかく実はしっかり吸収しておられ、本番では強かに
実力を発揮し結果を出されていたように思います。このことはやはり先輩方(そして恥
ずかしながら私も少々)がこれまで経て来られた長く厳しい社会経験、人生経験から来
る凄みだと感じました。もし現役グリーメンバーに OB として感じ取って貰いたいもの
があるとすれば、いつまでも色褪せないグリーの絆の素晴らしさは勿論ですが、正にこ
の一つの事を成し遂げる厳しさ、強かさ、言い換えれば今日失われかけている一種の父
性のようなものなのではないかと思った次第です。
雑感を長々書いてしまいましたが、横国グリーメンの一員であることを本当に嬉しく
思います。業務の都合を極力繰り合わせつつ、飛永さん、佐藤さん、諸先輩方のご指導
の下、微力を尽くすべく頑張って参る所存です。同期のメンバーともつい先日結婚式(今
頃!)で会いましたので、参加者も何とか少しでも拡大できないかとも考えています。
何卒ご指導方お願い申し上げます。
33
横浜フォーティーズの活動
昭和40年卒 B-2 小泉 進
いつの頃か昭和 40 年卒のグリー仲間が集まった時にハモッたりしているうちに、40
年以降卒の若い(?)皆さんにも加わってもらい、小グループで何か対外活動でもして
行こうということになり、先輩方のヨコハマ・サーティフォーにあやかって命名し、必
要に応じて練習を行うことで対応してきた。
以下に 2007 年以降の主な活動状況とメンバーのリストを掲載させて頂く。
2007 年 7 月
1 日(日)
2008 年 4 月 27 日(日)
グリーフェスタに出演
日本酒試飲即売会に出演
(布川さんの親戚の町田の酒店で最初の肝試し)
5 月 17 日(土)
川崎市看護協会主催・かわさき看護フェスティバルに初出演
(中原市民館ホールにて)
6 月 21 日(土)
グリーフェスタに出演
12 月 21 日(日)
介護老人福祉施設「すみよし」にて第 1 回慰問演奏
12 月 27 日(土)
OB合唱団忘年会に出演
2009 年 9 月 27 日(日)
第 18 回道志川合唱祭に初出演
(相模原市緑区津久井の屋外特設ステージにて)
10 月 31 日(土)
グリーフェスタに出演
12 月 26 日(土)
OB合唱団忘年会に出演
2010 年 1 月 30 日(土)
5 月 16 日(日)
介護老人福祉施設「すみよし」にて第 2 回慰問演奏
川崎市看護協会主催・かわさき看護フェスティバルに出演
(JR川崎駅地下商店街アゼリアにて)
6 月 20 日(日)
特養老人ホーム「太陽の国」にて慰問演奏
7月
グリーフェスタに出演
3 日(土)
12 月 25 日(土)
2011 年 3 月
6 日(日)
OB合唱団忘年会に出演
布川さんのお兄さんの叙勲記念パーティに出演
(川崎日航ホテルにて)
6 月 18 日(土)
グリーフェスタに出演
9 月 25 日(日)
第 20 回記念道志川合唱祭(*)に出演
合唱祭にゆかりのあるボニージャックスも賛助出演
*注)この合唱祭は、昭和 26 年に早稲田大学グリーの合宿が行われたこの地で磯部
俶がかの有名な「遥かな友に」を一晩で作詞・作曲したことにちなんで、それを記
念して道志川の川辺で行われているものである。常連の「いそべとし記念男声合唱
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団」をはじめ、磯部先生の長男の周平さんが指導する合唱団や地元合唱団など、神
奈川県を中心にした約20の合唱団が集まってくるが、ボニージャックスも早稲田
大学グリーOBなので、当初よりこれを支援している訳である。
メンバー(昭和卒年)・・・引退者も含む
指揮者
小瀬村春雄(40)
T-1
高木茂嘉(40)
、永井善和(40)
、真方
内海
顕(41)
、矢川一義(41)
、
一(46)、川添鉄也(46)、田邊邦雄(47)
、木野恒雄(48)
、
斉田宜伸(53)
T-2
三戸部信夫(39)
、中林 清(40)
、橋本雅汎(40)
、扇 敏晃(41)、
布川
明(42)
、小栁敏男(46)
、堀 史治(47)
、堀田啓一(47)
、
佐々木寛和(54)
B-1
吉原明俊(33)、神野清彦(38)
、坂井紀康(40)
、藤澤秀夫(41)
、
手島茂樹(47)
、本荘光太郎(47)
、小林裕一(48)
、滝沢洋一(52)
B-2
江上侑雄(40)、小泉 進(40)、瑞慶覧 宏(40)
、西谷十五(40)
大鋸甚勇(41)、鈴木重方(42)、高橋登美雄(43)
、吉田英二(46)
、
蒲谷直樹(60)
合唱以外にもゴルフや飲み会なども随意行っており、特に通常は会費制も取っており
ませんので、仲間入りご希望の方はいつでも大歓迎しますから、気楽に遠慮なくお声を
掛けて下さい。
第 20 回記念道志川合唱祭 ステージ
35
「花に寄せて」につれづれ思うこと
昭和35年卒 T-2 鳥山
利
来年の定演で「花に寄せて」を演奏することになった。最近の邦人作品は、さてこの
曲はいったい何調なのかなと考えてしまうことが多い。現役の頃から移動度の階名読み
で音をとる癖のある私にとっては、音の取り方にむずかしさを感じている。それは別と
して星野富弘の詩は素晴らしい。彼は 24 歳の時、体育教師として指導中に頸椎損傷。
首から下の運動機能を失う。絵や詩の文字は筆を口にくわえて描くということである。
JAF Mate という月刊雑誌があり、我が家に毎月送られてくる。その表紙を開けると、
星野氏直筆の詩と絵が目に入る。毎月の楽しみでもある。今月は「小菊」の絵で、味わ
い深い詩が。よくも口でこのような繊細な絵と文字が書けるものだといつも驚きを隠せ
ない。その下に、この詩や絵に対して「投語」という形で、自動車評論家でもあり、JAF
の理事で高校の時から星野氏と親友である舘内端氏が投げかけた言葉に、
「答語」とし
て星野氏が答えている文章も載っている。これがまた味わい深いものではある。
さて、私は 40 歳代後半に喘息を患い、仕事をやめて健康回復のために当地湯河原に
居を構えて 20 年になる。家内が退職をした平成 9 年から、横浜を引き払いこちらに住
むようになった。そのころから、健康を持続するため、6km のウォーキングと NHK TV
Eテレで 6 時 25 分から 10 分間の体操は毎朝欠かさず行っている。そのウォーキング
の際、道端に咲いている草花や樹木の花を眺めることを楽しんでいる。
「花に寄せて」に謳われている草花や樹木の花もほとんどよく見かけるものばかりで
ある。今頃の季節には通称「ねこじゃらし」(いのころぐさ または いぬころぐさ)
や「しおん」(紫苑。ヒメジオン、ハルジオンなどがあり、もともとはキク科の北米原
産の帰化植物ということではある)などである。当地には萱草(カンゾウ)は見かけな
いが、佐渡を旅したとき海岸の近くでこの萱草の見事な群落に出会ったことがある。
「や
ぶかんぞう」はゆり科の八重咲で、
「ワスレグサ」とも呼ばれ万葉集の歌にも出てくる。
「ナズナ」は、春の七草として慕われているが、ぺんぺん草とも言い、ぺんぺん草が
生える家という言い回しがあるようにあまり歓迎されないようだ。また、
「ドクダミ」
は、花はうたわれているように十字架型で可憐だが、悪臭を持つためあまり好まれない。
さて、野草というとどこでも見かける「タンポポ」ではあるが、日本古来のタンポポ
ではなく、ほとんどが西洋タンポポだということをご存じだろうか。また、この時期で
も、盛んに咲いている朝顔がある。これは、ほとんど野草化したアサガオで、アメリカ
朝鮮アサガオという名のものらしい(花言葉は『踏まれても負けない強さ』
)
。このよう
に見てくると、純粋の日本古来の野草が少なくなっている。
「テッセン」の花も園芸店
で販売しているものは、クレマチスという名の色鮮やかなものが多い。今、湯河原の河
川敷に盛んに咲いているコスモス(まあ、これも名前からすると外来種であろうが…)
36
も、最近では、花の色がムラサキ系統の従来の可憐な色の花とは違う色の黄ばなコスモ
スに主役の名を譲って蔓延っている。この花は、私はあまり好きではない。
毎朝、歩いていて最近よく見かけ、ものすごい勢いで増えている名前の分からない二
つの花がある。それも、荒れ地やどこに土があるかわからない石垣とかコンクリートの
道にまで見かけるようになった野草である。一つは、確かに「テッポウユリ」に似た百
合の花だが、よく見ると葉が違う。従来の「テッポウユリ」はもっと幅の広い葉だが、
これは違う。葉がずっと細く、球根で増えるというより、種を飛ばして増えるとみえる。
私のうちの近所の二階の雨どいにまで花を咲かせるような強い生命力を持ったものら
しい。空き地に数本あったユリが、次の年には、数がずっと増えている。一見してユリ
と全く同じ花なので、そのまま抜かずに増えるのを任せている家もある。
もう一つは石垣にびっしり、つるのような形で増えていて、ヘビイチゴのような花を
咲かせている野草である。薄汚れたピンク色をした花で、葉は先がとがっているが、ク
ローバーのような模様のあるものである。誰にその名前を聞いてもわからず、ずっと気
になっていた。一つ二つ咲いている分には可憐に見えるが、石垣などにびっしり咲いて
いるともう異様としか言いようがない。昨年、秋に紅葉狩りの旅をしているときに、植
物に詳しい方に出会ってその話を向けると、長年のもやもやの思いを解決してくれた。
その人によるとユリの方は、
「タカサゴユリ」
(高砂百合)
。もう一つは、
「ヒメツルソバ」
(姫蔓蕎麦)という名前だそうで、両方とも外来植物の一つであるということ。タカサ
ゴユリは台湾原産の侵入植物で、やはり種で増え、これが野生化したもの。もう一つは、
明治時期にロックガーデン用に輸入したものが雑草化したものだそうだ。このヒメツル
ソバは、今年もつい最近、サーティーフォーで訪問した県立がんセンターの庭にも勢い
を増してびっしりと生えていた。最近、園芸店を覗くと、名前の分からない今まで見た
こともないような一見綺麗な花をつけたものが、たくさん売られている。いずれこれら
が、野草化して在来種を駆逐してしまうのではないかと他人事ながら心配している。
植物ばかりでなく、そういえば、ここ数年で今まで見かけなかった鳥が我が家にもや
ってくる。朝から本当にうるさいくらいの大きな鳴き声でさえずる鳥がいる。スズメよ
り少し大型で、数羽でやってきては鳴き声を競い合っている。あまりにうるさいので、
カラスのように追い払うこともしばしば。これは「画眉鳥」
(ガビチョウ)という名で、
特定外来生物に指定されており、日本の侵略的外来種ワースト 100 選定種になってい
るのだそうだ。もともと中国で好事家が鳥籠を持ち寄り、公園などで鳴き声を競わせて
いた鳥で、ペットショップがこれを輸入し、販売したが、都市部ではその声があまりに
うるさいため買った人が解き放ったものが、野生化してしまったそうだ。この鳥は器用
で鶯やそのほかの野鳥の鳴き声をまねするから始末が悪い。おかげで川辺を歩くとよく
見かけたカワセミもここのところとんと見かけなくなってしまった。
野草といい、野鳥といい、この状況は何となく恐ろしい気がするのは私だけだろうか。
37
脊椎管狭窄症と整形外科いろいろ
昭和36年卒 B-1 菊地 清風
標題が長いですが私の持病語りものです。ほどほどの歳になったら病気持ちの友人を
もって何か参考になるヒントを得ることが健康な友人以上に貴重かと感じましたので
少しお付き合いください。この名をもらうまでに 60 歳前半に 2 度、脚・腰の痛み、し
びれは生じましたが、本格的には 19 年 2 月末の発症と再発が 21 年大晦日でした。始
めは何が原因で誘発したかわかりませんが、小田原大雄山の 300 段余りの階段を上が
りお参りして帰宅後数日したら、右腰-右脚-右下肢まで神経痛が走り痛くて眠られず
2/27ときどき通った N 整形外科へ診察に行き物理療法2つ施すが快方とはならず。
しかし 10 日ほどは通院してみるとし、
合わせて MRI が有り良さそうな病院を探す。
3/12YT 病院、院長診察日の午前中に MRI を撮ってもらい 0 診断を受けたら「こ
のまま症状が進行すると歩行不能となり寝たきりとなるので、入院 2 週間ほどで回復の
見通しを立てましょう」と、杖なしで歩けて痛みが取れるなら有難いと、3/14の入
院が決まる。当日鎌倉街道弘明寺~上大岡の中ほど大岡川沿い住宅地ビュウの窓側に入
る。
処置内容を記しますと 1 日200ml の点滴が有りましたが、確認すると
(1) 主剤デカドロン 4mg(ステロイド剤) 6 日間
(2) 同上
2mg(ステロイド剤) 6 日間
(3) 3/20 午前中、院長よりブロック注射あり、2 回目が3/27 にあり、お任せ
なので薬剤名は聴かず。退院近しと感じ 2 度外出許可を得て、杖を使って
上大岡駅までの往復歩行訓練をしました。3/28 退院と決まる。
*この日はB-2椙本栄一さんの訃報に接しておりましたが葬儀にはお伺いできず(合
掌)。退院後も 9 月まで物理療法主体に通院しましたが、院長さんの診察日午前中は多
分 100 名ほど診療しているから 1 人当たり2分とかけられないのか、車椅子で入室し
た人も 3 分前後で出てくる。痛かろうが歩ける人の質問は応答カットで出されてしまう
始末で、この病院ではこれから長いこと通院しても良いアドバイスは得られないと推察
しました。この間にB-1平野先輩からは腰痛克服の教則本を戴き、その中から自分に
適している部分を取り入れてトレーニングを続けました。
・・・・・次の手は自分で医
者探し「この病気にこの名医あり」の本より、整形外科名医と記述されていた方へ自分
で推薦文を書き、持ち込んで診療を受けに訪ねる。H19-10月から今も通院してい
るM病院整形外科部長を頼りにしているが、その方は次の如くです。
1. 一度細くなったり、変形した神経は、薬とか物理療法とか栄養対処では元に
戻らない。痛みを和らげる対応しか方法はないと。
2. 今の状況がどのような具合かMRI画像で診断して戴けないかと申し出て
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も「はい」では撮りますとは対応しない。
痛みはあろうが歩いて来院できる人は軽症者扱いと思われる。
3. ただ一つ良いことは質問には必ず回答してくれる。処方箋もその都度発行して
もらえる。
4. 好きな運動は何をしてもよい(程度加減・判断のしどころは自己責任とのこと)
2 度目の大きな発症の原因は何かと察すればストレッチが少し強すぎたかと思うこと、
H21-12 月の大晦日に発症し正月 3 日間医者に行けず、又杖の世話になって過ごし、
今度は近隣で人気のあるK整形外科を訪ねると若手の医者で歯切れよく診察するので
前記の名医と両たてで診察を受けることにした。少しでも早く治したいと思い、1-2 月
には脊椎矯正法なのか相当強い指圧を受ける療法を 7 回受けたが簡単には治らず、悪い
方に転じてはならないと、この治療を断念する。再発の対処は
(1) 名医が処方する、オパルモン錠 1 日 2 錠服用、現在も 1 錠服用は続く
(2) K整形外科で 2-3 月にかけてブロック注射(医師は薬品名は Know How なので
とても知らせたがらない)自然体の中でカルテから「キシロカイン 0.5%-9ml」
と読み気持が落ち着く。(再発は反対側の左脚肢でした)
(3) 4 回・・・2/12, 2/19, 2/26, 3/5, のブロック注射を施したら 3 月末には大
方痛みが取れてきました。
名医先生はこのペインクリニックに関する施術については整形外科の本流とは考え
ておらず患者に対する治療術として採用する意向はなく打診すらできない。依って現実
に痛みを和らげて生活出来なければならないから、医者、医療機関は当然の事として複
数先持っていないとならないと考えました。
この様に一度腰痛から坐骨神経全体に及ぶ激痛に襲われると3-4ヶ月は痛みが続く
ので日ごろからある程度の筋力保持は重要と思います。現在まだまだ少ないと思います
が1日30分の歩きとラジオ体操を日課としています。また名医も好きな運動は何でも
差し支えないと云われるので「スイングを忘れない程度に月2度ほどは打ち放し」に
行きます。・・・・・10月に入ってから、持病となって固まっている右脚,下肢部の
筋肉硬直感、神経が圧縮されるような圧迫感など少しでもほどいて呉れるかと近くで人
気の整骨院に通い始めた次第です。・・・家に用意したマイナス電位と遠赤外線を送り
込む機器を1日 20-30分当てますが気休めみたいで神経痛には効用なしと感じられ
ます。
以上この病気は比較的多いと聞いておりますので、努めて手術するような重症になら
ぬよう自己管理して日常を過ごして行きたいと思います。
・・・近況まで。
39
ベトナム 2010 年
昭和46年卒 T-1 内海 一
最近日本は、政治面でも経済面でも、中国対抗策の一環として、ベトナムへの傾斜を強
めています。また、2010 年は首都のハノイが遷都 1 千年で国家的行事が開催され、特
に同国への関心が深まっているので、この年に駐在した最大の都市ホーチミンシティ及
び首都ハノイの経験を綴ることも意義があるかと思い、今回取り上げてみました。
日本は、現在新幹線・道路・橋・原子力発電等インフラ整備から、水質改善、果ては
ロケット打上計画の F/S 等多くのプロジェクトを推進しています。この費用は ODA が相
当部分を占めているので、ベトナムの人々は日本に大変友好的です。
これらプロジェクトの中で、予想外の結果が出てびっくりし、一方、ベトナムの国会議
員の見識を見直したことを一つ挙げておきます。
日本は、ベトナムに限らず中国・アメリカ等へ熱心に新幹線を売り込んでいます。
まず、地図を見て下さい。インドシナ半島の東辺で中国の隣に位置し、北緯 8 度から北
回帰線まで、国の長さは南北約 1.6 千 KM。札幌→東京→福岡の長さに匹敵する。
中部は台風に襲われることが多く、日本とよく似た形で山地が多い。この細長い国で、
単線の在来線 1 本、片道 1 車線の一般道路が、幹線として縦断しています。これでは、
物資の輸送は船、人は飛行機となるのですが、航空券は高いので、人の移動は必要に迫
られた時に限定されるため、人々の気質には地域性が色濃く残っています。
日本はかねてより新幹線を奨め、ベトナム政府もありがたい話だと評価して、国会で
賛否を問いました。この費用はほとんど日本が支援するので 我々は当然賛成すると思
っていたところ、反対という結果が出ました。理由は、下記でした。
①既に日本からの援助は多額で、更に新幹線の建設費用まで上乗せしては、日本に対し
て独立性を保てない。
②移動が必要なら飛行機を使えばよい。航空券を買える人だけが移動すれば良い。
これらの理由も私にとっては全く予想外でした。②についてはあきれてしまいました
が、①については感心をしました。ともすれば甘い話に乗せられ勝ちですが、ベトナム
人のプライドと気概を感じたところであります。
関連して次は国民性についての感想です。
ベトナム人はプライドが高い。世界でアメリカに勝利した唯一の国である、と思って
いることは知っておかねばなりません。また、よく勉強をする。学校に行くことが大好
き。塾も多く、夜父親がバイクで迎えに来ているのを多く見かけます。
自分のキャリアをアップして給料の高い仕事に就こうとする意欲は、今の日本人に無い
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バイタリティを感じます。少し前まで中国人が持っていたが、最近は「一人っ子政策」
のおかげで消えてしまったハングリー精神が旺盛です。しかし 教えてもらうことは大
好きだが、自分で考えることをしないことが問題だと、私は感じています。
一人当たり GDP は US$2,783 で日本の8%に相当する。人件費は 2008 年時点で中国の
約 6 割。中国の高騰。ベトナムの通貨切下げで今は約4割ではないかと推測します。
多くの企業が安い人件費を狙ってベトナムへ移転しつつあります。通貨はドン、どんど
ん価値が下がります。商売人は、政府が禁止しているにもかかわらず価格は US$表示で
防衛しています。ついでにもう一つ、韓国・台湾・中国資本がどんどん押し寄せていま
す。彼らは日本人が避けることでも挑んでいくので日本は押されています。特に韓国パ
ワーは強力で、マックは無いがロッテリアだけある国は此処だけではないでしょうか。
ベトナムに着いて先ずびっくりするのはバイクです。正にバイクの洪水で、その流れ
は途切れません。道路を横断する時は覚悟をして道路に乗り出します。一定のペースで
ひたすら前に歩く。止まってはならない。下がってもならない。ぶつかる寸前でバイク
が止まってくれます。この国はフランスの植民地であったせいか、交差点は信号が無い
ロータリー方式です。車の流れが途切れないので轢かれるのを覚悟して挑戦するのです。
また、歩道でもバイクが走ってきます。逆走などは平気の平左、横断歩道など意味が
ありません。良く我々外国人が交通ルールを守れと叫んでいるのを目にします。
このバイクには、時には 4~5 人の家族全員が乗っていることもあります。驚くほど
多くの荷物を載せて走ってもいます。2輪車が4輪車の役目を果たしているのです。
2輪車が大量の人間や荷物を乗せていれば倒れて大怪我をする危険性は大変高い。死傷
事故は日常茶飯事。死亡したと見ると、通行者が走りながらベトナム紙幣を投げていき
ます。三途の川の渡賃(六文銭)なのでしょう。安すぎる人間の命がショックです。
ハノイは河内と記される様に、2つの大河に挟まれてできた沖積地であるため、市内
には沢山の三日月湖があります。この水が澄んでいれば風情を感じられるのですが!同
市の旧名はタンロン(昇竜)で、タンロン・ハノイ 1000 年建都記念大祭が最終日の 10 月
10 日を目指して 10 月 1 日から 10 日間をかけて盛り上げていきました。
タンロンは
中国唐代には既に最大都市でしたが、1010 年ようやく李朝が約3時間
位離れた山間の地の都を移し、1802 年に阮朝が中部のフエに遷都するまで続きました。
その後、皇居は 政府関係機関に使用されたので優雅な趣はありませんが 2010 年世界
遺産に登録されたので、復元修復に注力しており、盛時を偲ばせつつあります。
この記念行事として、町中を飾り付け、各種の催し物、大パレードを行いました。
面白いことは、そのパレードは立派であったことは間違いないのですが、何時、何処を
通るのかが発表されなかったことです。それが共産国の真骨頂なのです。
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集会禁止は当然で、団体設立などとても難しい。例えば私が入会していたテニスの集ま
りは、日本人商工会の中のテニス同好会ということで経済団体内の一部門としての位置
づけなのです。また個人が自宅でパーティを開く時には許可申請が必要なのです。想像
を絶することです。こんな訳で合唱を楽しむことも難しいのが実情です。
さて、この記念行事の一環として、マーラーの「千人の交響曲」が演奏されました。
本名徹次指揮ベトナム国立交響楽団(同国唯一のオーケストラ)、合唱はアマチュア中心
です。ハノイもホーチミンシティもパリオペラ座の様な立派なオペラハウスがあります
が、演奏会場は国際会議場でした。オペラハウスで聴きたかったなあ!というのが正直
な感慨です。(オペラハウスでは演奏者がステージに乗れないので仕方ない)
実は、私は本曲を経験したこともあるので参加しようとしましたが、本番までの期間が
短いので、大変悩んだ末、この大曲に挑戦することは不可能と考え断念しました。
この本番までの過程については、NHK がドキュメンタリーで放送したのを見て納得し
ました。想像を絶するくらい大変なことで、推進された方々には頭が下がります。
軍楽隊出身者が多いオーケストラは、プロとは言いながら技術的には満足できるレベル
ではありません。合唱もアマチュア中心ですから「推して知るべし」でした。
しかし「この大曲に挑戦するエネルギーがこの国の若さなのだろう」と強く感じ入った
次第であります。挑戦することに意義を感じるところです。
他にも異文化に対する印象を語ると話が尽きないのですが、紙数が尽きたので、次の
機会に譲りたいと思います。
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アメリカ合衆国から日本を想う
昭和47年卒 T-1,2
鈴木 憲康
定年退職した後、娘家族のサポートをするため合衆国に来た。長期滞在するために学
生ビザを取ったが、60 歳を過ぎての語学留学生とはなんとも恥ずかしい思いであった。
しかし、こちらはやりたいことにとてもポジティブな国、違和感は感じない。幸い元校
長ということから、こちらの大学にある日本語教室のボランティアを頼まれたことがき
っかけで様々な方と知り合いになれ、新たな視点で日本を見ることができた。オレンジ
カウンティ日本人会の方々、大学関係者、バレーボール関係者、米国の小学校教育関係
者、そして日本からの教育関係視察団の方などなど。その方々との会話や自分の見聞き
したことから感じた日本への私の想いを二つ記してみたい。
中国、韓国の米国戦略
こちらのテレビニュースで放映された記事だが、全米の経営が厳しい高校に中国語の
教室を設けるための援助を中国が申し出て、人気を博している。中国に対するアメリカ
人の今の警戒感は10年後には変わっているかもしれない。ただ、今のところあまりう
まくいっていないとは大学関係者の話。それはまだ教師のレベルが高くないなどソフト
面の問題。いずれは改善される。その時が怖い。一方アーバインの大学ではコミック人
気で日本語教室もそれなりに人気はあるが、米国全体でみると経済系、理工系でハイレ
ベルな大学では日本語教室が閉じられている。受講希望者が激減しているそうだ。米国
にとって日本はそれほど重要な国ではなくなってきているということなのだろうか。
先日旅行中にすしバーという看板を見かけ入ったのだが、そこは韓国料理店に代わっ
ていた。空腹だったので注文したところ、味、サービスの良さに十分満足。レストラン
だけでなくスーパーに並ぶ食品名などまだまだ日本の名を借りて商売しているものも
見られるが、しかしそのうち良さが認められたり言語が広まったりすれば自国の表示だ
けに変わっていくだろう。彼らのしたたかさにあきれると同時に空恐ろしさを感じた。
私の家でも電気製品、通信機器はほとんど廉価な韓国製だ。性能も決して悪くない。合
衆国がかつて味わった日本車や家電などの技術革新+価格設定の恐怖を今日本が同じ
ように中国・韓国・インド・台湾・ベトナムなどの国から味わうことになるのだろうか。
日本ではかゆいところに手が届くようなサービスを施して価格を下げないようにして
いる。日本ではいいかもしれないが、世界にそれは通用しない。
「日本企業が世界に目
を向けていない」と企業関係者だけでなく一般の日系の方々も強く感じているようだ。
合衆国と日本の教育制度
ある在米日本人の方の言葉「日本の受験システムの方がずっと楽。子供に勉強だけさ
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せていればいいから。」四年制大学に入るためには高校の成績だけではなく、運動クラ
ブでの成績や文科系ではコンクールの成績、あるいはボランティアやアルバイトの経験
など、その人の才能、人や社会とのかかわりなども重要な判定材料になる。試験のみの
日本とは大きく異なる。学業だけでなく、社会とのつながりを重要視する教育方針が未
来のリーダー育成に大きく役立つと思った。さらにこちらの大学生は実によく勉強する。
また、ある高校では会社見学には成績のいいものだけを連れて行くという。勉強した
くないもの、成績の悪いものが見学に行っても無駄ということらしい。自由と平等の国
アメリカが効率のために自らの主張を曲げるのか。そうではないらしい。機会は平等で
ある。しかしそれをする、しないは本人の選択、したければそれなりの努力をする。機
会は与えられるものではなく、自分の意志でつかむものだという。そうか、ここは
Independence を大切にする国なのだ。
こちらのコミュニティカレッジでは、午後 4 時からのクラスだが高校生や社会人がい
っぱい。市立高校では希望する第 2 外国語がその高校で受けられない場合、市が授業料
を出してカレッジで学べる。また、社会人も社会に出てからでも新たな言語が学べる機
会がある、これは素晴らしいことだと思った。今日本で地方大学の経営が難しいと聞く
が、アイデア次第ではその地域の新たな人材開発、そして地域を活性化できるのではな
いか。こちらのカレッジでは各言語、教授一人とあとは各授業すべて講師が行っている。
日本人がこれから世界の中で活躍するためにはもっと教育に力を入れるべきではな
いか。その一つが語学だと思う。今や世界ではバイリンガルではなく最低でもトライリ
ンガルである。完璧に話せなくてもいい。違う言語の人と物怖じしないで話せることが
大事だと思う。ここカリフォルニアではきれいな英語を話せる人などほとんどいないが
いろいろな国の人、世代の人と話し合える環境がある。
そしてもう一つが人を育てること。今これが一番おろそかだと思う。知識の量を重要
視しすぎる。課題を与え、その解決のためにどうすればいいか考えさせる。間違いを恐
れず、話し合いでさらに自分の考えをまとめ、発表させる。育てることは失敗を恐れず
に Moving forward の気持ちを持ち続けさせること。責任などという無責任な人の使う
言葉で若者をつぶしてはならない。経験とは知識の量や成功例ではなく、失敗した時そ
れを次にどう生かすか、その積み重ねではないのだろうか。育てることは教えることの
数倍時間と忍耐を必要とするが、今種をまくことが日本の将来に必要なことだと思う。
(鈴木憲康さんは、池袋サンシャインに近い朋有小学校の校長を退職後、アメリカに
渡られました。校長在職の頃も秋川雅史さんを学校に招いて生徒と一緒にNHKの番組
で「千の風になって」を合唱するなど、ユニークな活動をされていました。同じく教職
に就かれていた奥様、娘さんご夫婦、お孫さん3人とアメリカで暮らしながら、年 1 回
の叶屋 OB 合同同期会の際は必ず一時帰国されています。
44
- T-2 堀田 記 - )
UCI日本語教室の先生・学生たちと
(前列向かって右から 3 人目がご本人、左端が奥様)
グローバルフェスティバルでのボランティア活動
(隣のブースのミス台湾と)
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キューバも高齢化社会、音楽は本物
昭和51年卒 B-2 松尾 光
夏に息子とキューバへ行って来ました。キューバは日本ではふだん接することのない
国ですが父のつながりで特別の思い入れがあります。
父が20年前ハバナ芸術大学で日本語を教えていました。その時の生徒達が日本に来
たり、父の誕生日や正月に20年かかさず連絡したりしています。昨年母を亡くし父も
高齢になり、元気なうちにその足取りを見たくなりました。息子は就職前で日本とは対
極の環境の国をみて働くことの意味を考えてもらえればと思い誘いました。
アメリカの経済封鎖とソ連崩壊の影響は強烈です。革命前の外貨を稼ぐ手段が絶たれ
耐え切れずフロリダ州に街の一角をしめるほどの亡命する人がいるなど厳しい状況で
す。
優秀な父の教え子(ハバナ大学の先生)がガイドとしてすべて案内してくれて、キュ
ーバの歴史と現実と未来をたっぷり教えてもらいました。例えばキューバ史のはじめは
コロンブスが上陸したときとか、意外ですが今外貨を得るのはバイオテクノロジーと観
光が双璧で、次は医療サービスなどです。
10日間の短い旅では表面的かもしれませんが人々は明るく、老人も元気でした。芸
術活動も盛んです。民族音楽がすばらしい。7,80歳の人がプロとして現役で公務員
として活動しています。男声のコーラスグループの歌を聴く機会が多く、音程、リズム
とも申し分ありませんでした。
楽団で息子と観光用写真ポーズ
聴くことができませんでしたが、クラシック音楽のレベルも高いと聞いています。C
Dを何枚も買いました。80歳でもテナーのきれいな声がでるのですね。素質もあると
思いますがきっとトレーニングのたまものと思います。
偶然ですが旅行のあとNHKの番組で「アメイジング・ヴォイス・驚異の歌声」でキ
ューバの特集をして音楽家を多数紹介していました。題名の通りの内容で、私もキュー
バの現地で素晴らしさを垣間見ました。60歳をすぎてもばりばりの現役です。
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若者のように演奏していたパーカッション奏者 おそらく80歳近い
いいことばかりのようですが、暮らしは狭い80年ぐらい前の暗い家がほとんどです。
キューバも少子高齢化です。合計特殊出生率は 1.5 です。将来の不安を感じています。
またインフラは革命後、1960年で止まっています。車もあたらしいのは中国、韓国、
ロシアの安価な車で、あとは昔なつかしいGMやクライスラーのクラシックカーです。
40度近い暑さでもクーラーのきいた車は観光客用以外でありませんでした。そもそも
自動車はまばらで道は凸凹ですががらがらです。
世界遺産の街ハバナ旧市街 こんな古ぼけた教会の中で熱いクラッシクの演奏が。
経済的な不満はあるのでしょうが私が接したひとは皆勤勉でした。学ぶことや報酬を
求めず働くことに別な意義を見出しているかもしれません。家族のきずなの強さも感じ
ました。
医療は予防医療の仕組みが全国民に浸透しています。有機農業も盛んなようです。書く
余裕がないので省略しますが。我々の尺度では測れない豊かさを感じます。今回の旅で
は献身的なガイドしてくださったスサーナさんに感謝です。戻ったらスペイン語、踊り
(サルサ)を勉強してまた行きたくなっています。
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「俳句」雑感
昭和41年卒 B-2 大鋸 甚勇
「潮音23号」に川柳についての寄稿があった。合唱団の機関紙に俳句の話など、如
何かとも思ったが、それに刺激されて、川柳の親戚である俳句について、「独断と偏見」
で少々薀蓄を傾けたい。と言っても浅学菲才の身、勘違いやそれに伴う反対意見も多い
と思うが、お許し頂きたい。
先ず俳句と川柳は、形式(五・七・五の十七文字)は同じであるが、中味は違うと思
われている方も多いと思うが、「現代俳句」と「現代川柳」では中味も重なる部分が極
めて多い。例えば俳句は「主として自分自身の思い(抒情)を詠い、川柳は主として他
人を風刺・揶揄する」、あるいは「季語の有無」や「切れ字の有無」で区別する向きも
あるが、現代俳句と現代川柳においては、その垣根は低く、要は「俳人(俳句作家)が
作れば俳句であり、柳人(川柳作家)が作れば川柳である」位の認識が適当と思われる。
現にしばしば同じ場・同じ土俵(句会・研究会等)でお互いに作品を出し合い切磋琢磨
するケースも多い。例えば、(僭越ながら)「潮音23号」掲載の坂井紀康氏の作品「山
の向こうに都会があった少年期」は充分俳句として通用する作品である。理由は、簡単
に言うと、現代俳句では季語を必須としない流れ(「無季容認派」)が徐々に増えてい
るからである。勿論俳句には季語は絶対条件と主張する流れも当然あるが、季語は優れ
た作品を作るための有力手段の一つであり、例えば金子兜太は季語を有力な「詩語」と
位置づけ絶対条件とはしていない。また芭蕉にしても、正岡子規にしても、季語に勝る
インパクトのある言葉があれば可としており、名所旧跡や枕詞的景色を候補に挙げてい
る。実際、無季の作品もある。(例えば芭蕉には無季の句として「徒歩ならば杖つき坂
を落馬かな」がある) しかし季語を使うと俳句が作り易くなることは周知の通りであ
る。そのためか、季語を絶対条件としたのは高浜虚子(厳密に言うと虚子の弟子)であ
り、その流れは「有季定型派」と称し、現在に至るまで、(季語に加えて写生主義も)
連綿と続いている。大雑把に言うと、子規の流れは河東碧梧桐と高浜虚子の流れになり、
入り組みながら現在に至っているが、どちらかと言うと前者が「無季容認派」、後者が
「季語絶対派」とも言える。(但し、虚子の流れも、その後いろいろ分流し現在は必ず
しもそうではない…)今回は俳句・川柳をより理解するための参考として、過日 所属
の同人誌へ掲載した小生の拙い論評の一部を、手直しの上紹介したい。尚「季語」の他、
俳句(多分川柳も)には、別の重要テーマとして「虚実問題」(写生論)があるが、今
回このテーマも加えて小論を纏めてみた。尚「現代俳句」の「現代」は「現代を詠う」
「今を詠う」位の意味で、具体的には昭和以後を指しているケースが多い。(戦後と言
う人もいる)
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題名
“俳句における季語と虚実”
冬海や一隻の舟難航す
虚子
高濱虚子自選句集「六百五十句」(角川書店刊)の中の一句。昭和二十三年六月に虚
子一行は北海道旅行に出かけた。その際の句会においての句である。季語が「冬海」で
あり時節が六月(夏)なのに、当日の句会(白老)においてこの句が出され、さすがに
参加者一同が、この季節外れの句は一体誰の句であろうかと訝しんでいたところ、虚子
の句と分かり、一同ぎょっとしたと言う話が残されている。言いたいことは、その場限
りのことではなく、要はこの句は虚子の自選で「六百五十句」に入っていると言う事実
である。この句は「北海道行き」の前書きのある一連十五句の中に堂々と載っている。
参考までに言うと次に記載の句は「難航の梅雨の舟見てアイヌ立つ」である。常識的に
は、何も六月に「冬海」を持ち出さなくてもよさそうなものである。「夏の海」「梅雨
の海」等でよさそうなものであろうに…。また既述の如くこの句が地元での句会の作品
と言うのもびっくり仰天である。昭和二十三年当時虚子は七十過ぎではあるが未だ矍鑠
としていた筈でありこの点でも不思議である。最近になり、白老でこの句の石碑が建立
されたと何かで読んだが…余計なことではあるが、「何でこの句が…」と、これもまた
小生には驚きである。芭蕉の弟子の一人(「芭蕉十哲の一人」)に各務支考なる人物が
いる。支考は多くの俳論書を書いており、その中の一つに「俳諧十論」がある。世に言
う「虚実論」である。その一部をピックアップすると「…吾翁(芭蕉のこと)は、俳諧
といふは別の事なし、上手に迂詐(嘘)をつく事なり…」「…虚に居て実をおこなふべ
し、実に居て虚に遊ぶべからず…」等の「吾翁(芭蕉)」の発言としての言葉がある。
一般的に、芭蕉の俳論は弟子達の著した物が多く直接芭蕉が「ああせよ」「こうせよ」
と主張した物は少ない。このため、自分に都合の良いように弟子が異なって歪曲した物
も多く、支考についても個性派・野心家故にいろいろな評価がある。例えば虚子の著書
「俳句読本」を見ると支考については「…あやしげな著書を刊行し…口では豪さうなこ
とを揚言し、…世人を瞞著して…」等々相当毛嫌いにしている様子が良く分る。その中
で広く世に知られた言葉としては前記の「上手に嘘をつくこと」と言う表現があるが、
「虚実論」そのものは、極めて奥の深い俳論である。やや余談になるが「虚実論」の「虚」
には二つある。一つは「眼前の事実よりも文芸的真実を優先する」(即ち「上手に嘘を
つくこと」)二つ目は「心の持ち方として心を虚に預けること」(即ち「私意を排する
こと」)である。一般的には、俳諧と言う意味で、前の方を優先的に捉え、面白く可笑
しくと思いがちであるが、実は後の方がより重要である。芭蕉が強く説いたのは後の方
ではないかと思われる。この辺りが季語に加えて俳句と川柳の従来の境界部分のように
も思われる。ここで、「冬海や一隻の舟難航す」の句と「虚実論」とを結び付けて論じ
ようとは思わないが、筆者には、いかにもこの句は「下手に嘘をついている句」に思え
てならない。虚子に名句は沢山あるが、敢えて「こんな句もある」と言う意味で取り上
げた訳である。虚子生涯の二十万句は殆ど全部が有季定型であるが中にはごく一部「無
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季の句」(「祇王寺の留守の扉や押せば開く」が有名である)もあり、また「下手に嘘
をついている」と思わせる句もあるので、そう言うことを知るだけで、却って益々虚子
の人間的大きさ、スケールの巾が覗われて面白いと思う次第である。最後にお口直しに
「上手に嘘をついている」名句を二つ紹介する。
みちのくの淋代の浜若布寄す
山口 青邨
淋代には荒布は採れるが若布は採れない。この句に魅せられてわざわざ淋代へ行った
俳人も沢山いた。その辺の事情については、山本健吉が名著「定本現代俳句」の中で詳
細に鑑賞と解説をしており、最後に「教訓。俳人は見てきたような嘘をつくこともある」
とわざわざ注釈までしている。
葛城の山懐に寝釈迦かな
阿波野青畝
葛城には寝釈迦など無しと作者が公言している。山本健吉始め何人かの鑑賞を読んで
みたが、概ねそのことには触れず「葛城の山懐にある寺の涅槃図または涅槃会」と言う
解釈をしているが、そんなこととは全く関係なく葛城と寝釈迦の意表を突く取り合わせ
が抜群である事の方が重要であろう。二人共虚子の弟子であるが「虚」もこれ位になれ
ば大変なものである。
尚「虚実論」は元々藤原定家の歌論である「花実論」(「花」は詞「実」は心)に始
まり芭蕉、支考へと受け継がれ、支考がそれを纏めたと考えられているが、後年近松門
左衛門の「虚実皮膜論」(「事実」と「虚構」との中間に芸術の真実があるとする論)
更には明治時代以降も近代文学に多大な影響を与えたと言われている。
蛇足ながら…最後に
グリークラブ卒業後、何となく合唱から約四十年間遠ざかり三年程前漸く当団に入れて
頂いた。以前から当団の活躍ぶりは承知はしていたが、何分土曜日が定例練習日であり、
卒業後合唱に代わり、のめり込んで「生涯の伴侶」となってしまった俳句(最近は短歌
も加え)に関わる日が毎週土曜日(加えて殆どの毎日曜日も)であり、中々参加の踏ん
切りがつかなかった。が尊敬する諸先輩にも 誘われ何とか「俳句の土曜日」を整理、
「合唱の土曜日」として練習に通っている。今後共「俳句」(最近では「短歌」も)と
「合唱」を両輪としてやって行きたいと思っている。しばしば「合唱」も「俳句」も「お
前の柄に似合わず…」などと言われるが、何事も「塵が積もれば…」「石の上にも三年」
と言う気持ちで努力している。一方、残念ながらずっと嗜んできた「ゴルフ」「麻雀」
とは最近完全に「おさらば」である。敢えて言うとゴルフに代わり「スポーツジム」へ
暇をみては通っており、更に時間が出来たら(何かの縁で現在は東京へ毎日通勤の身で
あるが)麻雀に代わり「ブリッジ」を本格的にやりたいと思っている。精勤している「ス
ポーツジム」の極く近隣で最近「ブリッジ倶楽部」を見つけた。七十歳を前に少し欲ば
り過ぎかも知れない。
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ライフライン断たれて知った真の意味~液状化現象体験記
昭和41年卒 T-1 矢川 一義
1. ロンドン滞在 3 日目、東日本大震災を知る
ロンドン滞在 3 日目の 3 月 11 日午前 8 時、私は偶然 NHK の国際放送テレビを点け
た。そこに突然現れたのが「マグニチュード 7.7」という叫び声と「仙台」という地名、
波間にもまれて揺れ動く物凄い数の家々の映像、その後「市原」という名前と石油コン
ビナートの燃え盛る様子が映し出された。私はすぐに妻を起こして、次々と繰り広げ
られる地獄絵に声も無く見入ってしまった。実は前夜この名門のはずのホテルで、上
の階から原因不明の水漏れが発生。 大騒ぎをして別の部屋に引越したこともあり、や
や睡眠不足気味でぼんやりテレビを点けた時のことだった。
朝食を早々に済ませ、ともかく日本の様子を聞きに行こうと、HIS のロンドン支店
に出向き大体の様子を聞き出した。震源地は仙台でマグニチュードは 8 以上、これま
で経験したことのない大地震とのこと、でも住いのある浦安はどうやら大したことは
ないらしいということだった。こんな遠方で心配していても仕方がないということに
なり、ともかくも予定通り旅行を進めることにした。
翌 12 日「ユーロスター」でパリへ移動、ホテルにチェックインをしたところ、娘と
妻の妹からメッセージが届いていた。未曾有の大地震ではあるが、浦安の自宅は大丈
夫であり、そのまま旅行を続けた方が良いとのアドバイス。それからのパリの4日間
は、何となく落ち着かないものとなってしまったことはやむを得ない。
3月 16 日の午後3時 40 分成田空港到着。パリのホテルをチェックアウトする時、
受付の日本人女性に「日本は原発事故で大騒ぎです、空港では放射能を避けるためみん
なマスクをしています」と脅かされたが、どうやら花粉症対策のマスクのことだったよ
うだ。
JR で海浜幕張駅まで行き、そこからタクシーに乗り換えて浦安の自宅に向かった。
途中はいつもの変わらぬ風景が続いていたが、浦安に入った途端様相は一変した。電
柱は大きく傾き、道路はむくれあがり、ところどころに穴があき、土砂が道路のあち
こちに積み上げられ、大地震直後そのものだった。それでも我が家に着いた時、門灯
が健気に灯っていたのは本当に心強かった。
2. 耐乏生活 1 カ月
電気は最初から開通していた。ただ被災地浦安でも 3 回ばかり停電を経験した。一
回の停電は 2 時間、結局何もすることもなく、まだ寒かったので懸命に明るくなるの
を待っていた。そんな時川柳仲間が「準備をして計画停電を待っているのに一向に停電
が無い」などという暢気な川柳をメールしてきたので 、
「冗談じゃない、こちらは電気、
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ガス、上下水道不通の四重苦だ」と返信した。
ガスがすぐには使えなかったのには閉口した。到着した日に直しに来てくれたが結
局直らず仕舞い。でも京葉瓦斯は非常に対応が早く、翌日には簡易式のガスボンベと
器具を届けてくれて、我が家でも早速ガスボンベによる調理を始めた。最終的にガス
が開通したのは 2 週間後であった。
本当に困ったのは上水道と下水道の不通であった。上水道の復旧に 3 週間、下水道
の復旧には 1 カ月を要した。
上水道が開通するまで、毎日近くの公園まで来ている給水車の水を、朝と晩取りに
出かけた。20 リットル入りのポリバケツを 2 個、車を使って運び続けた。生活用水の
全てを毎日外へ取りに出かけるということが、いかに大変なことかを十分に思い知っ
た。ひねればすぐに出て思う存分使える水道が、実にありがたいものだと身にしみて
分かった。水道が開通した時、思わず拍手と万歳をしてしまった。
それにも増して下水道が1カ月使えなかったことは非常に応えた。風呂、洗濯、ト
イレという、日常普通にやってきたことが突然出来なくなるということは、本当につ
らいものであった。幸い鶴見に嫁いでいる娘と木更津に妻の母親と妹がいたこともあ
り、毎週末ごと交代に鶴見と木更津へ車で出かけ、風呂を使わせてもらい、近くのコ
インランドリーで洗濯物を一週間分洗ってきた。風呂の無い平日は行水で済ませた。
トイレはいつも近くの公園で一ヶ月間用を足したが、 真夜中の寒空にトイレに出かけ
るのはつらかった。1 カ月後、家のトイレで用を足すことが出来た時の満足感は忘れ
られない。
もう一つ家の庭に溜まった泥出しのことである。液状化現象は家の庭や排水溝に入
り込んだ粘着質の泥を、運び出す作業が結構大変なのである。毎日 4 時間程度作業を
行い、全部の泥を取り出すのに 1 週間はかかった。また夫々の家がどんどん泥を道路
脇に積み上げていくので、それらが乾いて粉じんとなって舞い上がってしまい、埃っ
ぽい毎日が結局 3 ヵ月は続いた。
液状化による家の傾きは一番傾いたところが玄関で、一応「半壊」には認定はされた
が、日常生活には現在に至るまで殆ど影響は無い。それでも家の樋の直し、玄関まわ
り、排水関係の工事などでかなりの費用を要することとなった。
そんな中で非常にうれしかったことは、普段あまり音沙汰のなかった昔の友人から、
便りや贈り物を頂いたことである。又日ごろ親しくさせて頂いている友人からも、折
に触れ、電話やメールなどで色々と励まして頂いた。持つべきものはやはり友達だと
いうことを実感した次第である。
皆様本当にお世話になりました。東北地方の皆様のご苦労からみれば、私の苦労な
ど全く問題にもなりませんが、本当に今回は皆様のお世話になってしまったことを感
謝しなければならないと思っています。
最後に一句 「ライフライン断たれて知った真の意味」
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グリーを愛した小山 浩くんを悼む
昭和24年 高工卒 柏崎 一男
小山
浩くんが亡くなったという知らせを聞いて、あの元気な飲兵衛の小山くんがと
一瞬我が耳を疑った。
記録を辿れば、私が小山くんと最後に会ったのは 3 年半前の平成 20 年 5 月 13 日、横
浜駅東口の駅ビル、ルミネの 7 階にある小料理屋であった。
この日この店に集まったのは、高商を昭和 24 年に卒業した小山 浩くんを始めとし
て、昭和 25 年卒業の中野国二くんと小菅義陽くんに加えて、我が高工側からは、昭和
24 年卒業の渡邊洸一くんと私、それに昭和 25 年卒業の塚田峻久くんで、これに世話役
として我が高工の後輩でもあり、私の勤務先の(株)フジクラの後輩でもあって、現グ
リークラブ OB 合唱団で副団長を務めている小泉 進くんの 7 名であった。
(註、我々の在学
当時の正式な校名
は、戦時中にそれ
ぞれ改名された横
浜経済専門学校と
横浜工業専門学校
の儘になっていた
が、我々はこの校
名を好まずに、創
立以来の伝統ある
校名である横浜高
等商業学校、略し
て高商と、横浜高
等工業学校、略し
て高工の名で呼ぶ
ことを常としてい
昭和 24.25 年高商、高工卒、グリーOB 有志懇親会
たので、ここでも
(前列左から 2 人目が小山くん、同左端が筆者)
その校名を用いる
ことにする。
)
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ここで話は突如 65 年前の我々の学生時代にタイムスリップすることにしよう。
太平洋戦争が終結して間もない昭和 20 年代初めの横浜市内の中心部には、至るとこ
ろに B-29 の無差別爆撃による焼け野原が残っていた。港に面した山下公園は、この時
期はまだ進駐軍専用の公園であって我々日本人は立ち入りが禁止されており、その前に
建つホテルニューグランドには、太平洋戦争の勝利者として、戦後直ぐの厚木飛行場に
コーンパイプを咥えながら降り立った、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーが宿泊
していたので、厳重な MP の警護下にあって、用もないのにこの付近をうろつくことは
出来なかった。
そして、その先の山下埠頭から本牧方向に行く道路の海岸沿いには進駐軍のかまぼこ
兵舎とその家族の住宅が建ち並び、関内の大通公園の辺りにはヘリポートがあってヘリ
コプターがしばしば発着しており、当時高工と高商の野球の定期戦がおこなわれ、今は
横浜ベイスターズの本拠地となっている横浜球場は、ルー・ゲーリッグ球場と名付けら
れていた時代である。
また終戦が近付いたころからの厳しい食糧難はこの頃もまだ続いていて、進駐軍から
放出されたピーナッツの缶詰とコンビーフなどが主食代わりに配給され、一般の家庭で
はお米の顔を拝むことすら出来なかったが、不思議なことに中華街(当時は南京町と呼
んでいたが)の裏通りに行き、お金さえ出せばいつでも「銀シャリ」と称する白米のご
飯にあり付けた不思議な時代でもある。
当時の我々の母校は、現在のように横浜国立大学として常盤台キャンパスに統合され
る遥か前ことで、清水が丘の山の上にあった小山くんの高商と、下町の弘明寺商店街を
目の前にした私の高工と、それぞれ通うキャンパスは異なっていたが、我々は共に横浜
のトップに位する学校の伝統ある音楽部に所属しているのだという矜持を保ちながら、
戦争によって荒んだ横浜市民の心に少しでも豊かな文化を届けたいという共通の目的
の下に、在学中は互いに連絡を取り合って様々なイヴェントを企画して来た親しい音楽
仲間であった。
この当時の音楽部の中にあって合唱部員の数は今とは比べようもなく少数で、両校共
にそれぞれ僅かに十数人であったと思う。そうした中で、高商の昭和 24 年の卒業生で
活発に活躍していたのは、実質は小山くん一人だったように記憶しているが、一年下の
昭和 25 年卒業組には、中野国二くん、佐藤和典くん、小菅義陽くん、森田英男くんと、
既に鬼籍に入った山門伸夫くんなどの俊英が揃っていて小山くんを補佐していた。一方
我らが高工はというと、昭和 24 年卒業組には、音楽部の幹事長を務めた藤田彰久くん
を筆頭に、後に横浜木曜会の副指揮者となったが、勤務先の国鉄民営化の際の労使交渉
の心労が重なって 53 歳の若さで急逝した大館一雄くんや、カルテットを組んで通学時
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の横須賀線の車内で毎朝ハモっていた、渡邊洸一くんや故人となってしまった緑川勇、
石川正の両くん、それに私などが居て大きな勢力を誇っていたが、次の昭和 25 年組は
塚田峻久くんと川原敏令くんがいた程度で、将に孤軍奮闘というところであった。
かくして小山くんも私も、昭和 24 年 3 月には共に学窓を巣立って社会人となり、そ
れぞれが別々の道を歩み始めることとなるのだが、卒業後も横浜木曜会に顔を出してい
た小山くんは、後に横浜国大グリークラブ OB を主体にして在京の他の大学のメンバー
も含めて組織した横浜グリークラブの創成期の練習にも参加していて、これには私も呼
び出されて何度か顔を合わせることはあったが、追々勤務先の仕事が多忙になるに及ん
で縁遠くなり、互いに会う機会とてなくなっていったが、その小山くんと私の間を 60
年近く経ってから再び結び付けてくれたのは、前述の小泉 進くん(昭和 40 年工学部
卒)であった。
今から4年程前の平成 19 年の夏のある日のこと、突然小山 浩くんから私にメール
が舞い込んで来た。何事かと開いて見ると、そこには彼らしいぶっきらぼうな表現で次
のように書かれていた。
「長らくインターネットには無縁でしたが、時代に押されて開設しました。早速小泉
くんから親分にメールを出すように言われましたのでご一報します。小泉くんは貴兄の
ご薫陶の賜物、実に明るい好青年、グリーの練習の際にはさんざんお世話になっており
ます。」と。
この懐かしいメールに早速返信したのは云うまでもないが、これが契機となって事あ
る毎にメールでの近況報告や情報交換を行うことになり、その延長線上で冒頭のような
会合が企画され、お互いに都合の付く仲間を引き連れて集合したのであった。
会は、改めてそれぞれが自己紹介を行った後、極めて和やかな雰囲気の中で始まった
のだが、お互いに杯を交わしながら様々な昔の学生時代のことを思い出しては語り、和
気藹々の中で実に延々3 時間にも及んだのであった。
懇談の内容は記憶の赴くまま多方面に亘っていたが、その中の幾つかを思い出しなが
ら記してみよう。
互いの在学当時、清水が丘の高商には米国のスタインウエイのピアノがあったが、弘
明寺の高工にはドイツのベッヒシュタインが講堂のステージに置いてあり、お互いがこ
のピアノを活用してそれぞれ演奏会などを開催した。
特に高工のベッヒシュタインは、大正 12 年の関東大震災後の荒廃した世の中にあっ
て、この頃から左翼思想への統制が行われ、時代を風刺した学生演劇の上演も禁止され
るようになったことから、やや沈滞気味の学生の気持ちを奮い立たせるべく、高工の初
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代校長、煙洲鈴木達治先生が 6、000 円の大枚を投じてドイツより輸入したのが、この
ピアノ、ベッヒシュタイン・コンサートグランドであった。
以来、大正末期から昭和の初期にかけて高工の講堂で、何度か「ベッヒシュタイン・
コンサートグランドピアノ使用」と銘打って数多くの音楽会が催されたことが、横浜貿
易新報(現神奈川新聞)に掲載されているのである。
この時代には、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)と永田町の首相官邸と我が
母校、横浜高工にしかないといわれた名器ベッヒシュタインは、終戦直後の一時期、東
京日比谷に置かれた進駐軍の GHQ に接収されていたが、これを交渉の末に返還して貰い、
元の弘明寺キャンパスの講堂に据えることが出来たのは昭和 22 年のことであった。そ
れ以後、このピアノを使って、原智恵子や井口愛子などのピアノ独奏会を開いたことな
ども、改めて懐かしい思い出として話題になった。
更に、今日まで連綿と続いている横浜学生合唱祭を、高工、高商の共同主催で立ち上
げたり、はたまた、「ハマの早慶戦」と云われた高工と高商の野球定期戦のブラスバン
ドの応援合戦で腕を競い合ったりしたことなど話は尽きることなく続いたが、何と言っ
ても忘れ難い思い出として最大の話題だったのは、関東合唱コンクールに両校合同で初
出場したことであった。
折から戦後の日本に明るい話題と文化の香りを提供するという目的で、朝日新聞社が
主催して昭和 21 年に第 1 回の関東合唱コンクールが、東京御茶ノ水の中央大学講堂で
催された。
このコンクールを傍聴した我々は、何とかこれに参加したいと考えて、当時既に全国
でトップクラスの合唱団として知られていた横浜木曜会の指揮者、山根一夫氏を迎えて
ご指導を仰ぎ、練習に明け暮れながら着々と準備を進めて、遂に昭和 23 年 11 月 3 日に
同じ中央大学の講堂で行われた第 3 回関東合唱コンクールの大学高専の部に、高工の音
楽部合唱団に高商のグリークラブの有志が協力するという形で、僅かに 30 名足らずの
メンバーであったが出場することを決めたのである。
当時の男声合唱団は、関東では東大コールアカデミーを筆頭に、早稲田大学音楽協会
グリークラブと慶応義塾大学ワグネルソサイァティー合唱団が抜きん出た力量を有し
ていたが、これらの学校に伍して頑張ってはみたものの、その実力の差は如何ともし難
く、結果は出場 11 チーム中の第8位に終わった。初参加としてはまずまずの成績とい
うべきかどうかは評価の難しいところであるが、我々の卒業した後の昭和 24 年度には、
学制改革後の横浜国立大学として一本化して出場し、見事関東で 3 位を獲得、その翌年
の昭和 25 年度には関東で初優勝し、全国大会にも出場して見事 2 位を獲得するという
大躍進を成し遂げたのである。
昭和 23 年の関東合唱コンクールに合同で初出場したということは、高商、高工両校
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の統一行動の第一歩であり、小山くんや私が卒業した後の、昭和 24 年、学制改革によ
り横浜高商と横浜高工と神奈川師範が合併して横浜国立大学となり、それぞれの学校の
合唱団が 1 本化して、今日の横浜国大グリークラブが誕生するのだが、そのスムーズな
移行への橋渡しとなったのは紛れもない事実であろうと、若き日を振り返って全員感慨
に耽ったのであった。
このようにして、時は移れども話題は尽きず、この有意義な楽しい会合は再会を約し
て散会したのだが、それ以降は再びそれぞれの生活に紛れ、互いの消息は折々のメール
交換で承知はしていたものの、再び会う機会は来なかった。
聞くところによれば、80 をとうに過ぎてもグリーOB 合唱団で元気に唱っていた小山
浩くんの最後の姿を公の場で見たのは、
平成 22 年 7 月 3 日のグリーフェスタだという。
その前頃から練習にも欠席しがちになっていたと聞き、また私のところに来るメールも
途絶えがちになったように思っていたが、何か個人的な事情があってのことだったのか、
それともその頃から彼の体調にやや変調の兆しが見え始めてのことか、今となっては知
る由もない。
太平洋戦争が終わり疎開先の九州から笈を負って上京し、戦後の混乱期にフォスター
の歌曲を聴く機会があり、この世にこれほど人の心を和ませてくれる音楽があったのか
との思いから、それ以来は軍歌からフォスターへと 180 度の転換をしたのだと言って憚
らず、波乱の中にもバイタリティに富んだ小山 浩くんの、学業を擲ってまで合唱と共
に歩んだ人生の一端は、創部 50 周年を記念してグリーOB 会事務局が編集した「グリー
と青春」に本人が詳しく書いているので、外側から窺い知るだけの私が今更述べること
もないが、こよなくグリーを愛し続け、人懐こい笑顔で顔を少しだけ右に傾けるあの独
特のポーズで杯を傾け、人と駄弁ることに生甲斐を感じていた彼にも、もうお目にかか
れないのかと思うと俄かに寂しさがこみ上げてくるのだが、今頃は先に逝ったグリーの
仲間達を集めては、あの世で一献傾けながら気炎を上げ、そして昔懐かしい愛唱歌を唱
いまくっていることであろう。
この様に他人事の如く書いている私とて、そう遠くなく後を追いかけることになると
思うので、そのときは是非ともに三途の川辺りまで迎えに来て貰いたいものだ。それま
での短い間のことではあるが、先ずは心より哀悼の意を捧げご冥福を祈ることにしよう。
心のうちで合唱しながら合掌。
(平成 23 年 9 月 30 日記)
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編集後記
潮音OB25 号の編集に当たり、23 名の方から原稿をお寄せ頂きまして、本当に
ありがとうございました。
今回の 25 号は、特にテーマは定めなかったこともありますが、皆様から多方面
に渡って幅広い話題をご提供頂きまして、我が合唱団のメンバーの皆様は、本当に
個性豊かな方々が多いと、認識を新たにしております。
OB合唱団や合唱活動、音楽とのふれ合いに関するテーマが約半数でしたが、あ
との半数は健康、旅行、趣味、随筆等本当に盛り沢山なものとなりました。今回も
多くの写真を挿入して、出来るだけ親しみ易い会報に仕上げたつもりです。
なお今回は、団員以外の方、柏崎一男氏、加藤英子氏、鈴木憲康氏の3名の方か
らも貴重なご寄稿を頂きましてありがとうございました。この紙面をお借りしてお
礼申し上げます。
これからも団員の皆様に、楽しく自由な意見交換の場とし、色々な話題を提供し
て参りたいと思います。
次回の潮音OB26 号は、来年 6 月 30 日の第 11 回定演の後、定演特集号として発
行を予定しています。次回も皆様方からの沢山の原稿をお待ちしています。
矢川 記
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潮音OB25号
発行日
:
2011年11月30日
発行元
:
横浜国立大学グリークラブ OB 合唱団 潮音 OB 編集委員会
編集委員:
矢川 一義、 堀田 啓一、 藤澤 秀夫、 鈴木 重方