1 国際人道支援の歴史的展開と国際公益に関する一考察 上野 友也 序

国際人道支援の歴史的展開と国際公益に関する一考察
かみの
上野 友也
序
現代の世界は、グローバリゼーションの進展に伴う物資と資本と情報の氾濫した豊饒の
世界である。しかし、我々の世界は、武力紛争や民族浄化などの暴力が蔓延した人間性の
貧困と欠如の世界でもある。このような国際社会の虚無に対抗して、武力紛争の直中で人
間性を回復し人間の尊厳を保護してきたのが、被災者を救護する国際人道支援であった。
昨今では、赤十字国際委員会(International Committee of the Red Cross; ICRC)や国連難民
高等弁務官事務所(The Office of the United Nations High Commissioner for Refugees;
UNHCR)などの国際人道機関が、武力紛争の被災者に対する援助と保護の能力を向上さ
せるだけでなく、国際秩序の維持と管理における重要な機能も果たすようになってきた。
このような国際人道支援は、国家と国家の境界上に存在する人間を救助する目的で誕生
し、主権国家体制から必然的に生起したものである。それゆえ、国際人道機関は、主権国
家体制を乗り越える新しい国際秩序を形成する目的を有していたのではない。しかし、国
際人道機関は実践や規範を通じて、主権国家体制の一つの特徴である戦争を制約する機能
を果たし、国際連合の集団安全保障制度を通じた制裁と結合して、主権国家体制の重要な
原理である内政不干渉義務を乗り越える可能性も秘めている。
本稿では、国際人道支援の歴史的発展を分析することを通じて、国際人道支援が、主権
国家体制の機能を補完する目的で発展してきただけでなく、今日では、主権国家体制の機
能を制約する逆説的な存在として成長してきた点も明らかにしていきたい。
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1.主権国家体制と戦争
主権国家体制は、国益を追求する主権国家の存在と、国際公益に責任を負う国際的主体
の不在を特徴としており、とくに、主権国家が戦争を通じて国益を追求することが、国際
法上の権利として公式に承認されていた時代には、戦争体制としての性格を有していた。
主権国家が、国際社会の主要かつ単一の政治的単位であるという理解の端緒となったの
は三十年戦争の戦後処理のためのウェストファリア条約であるといわれている。主権国家
の登場は、国内秩序の維持と管理に対する全面的な責任を国家に負わせ、公益を追求する
べき主体は国家であるという認識を定着させる歴史的な契機となった。ウェストファリア
体制以後の主権国家は、自国領域内の独占的な権限や管轄を維持するために、相互主義に
基づいて他の主権国家の当該領域内の権限や管轄を尊重して、主権国家間の形式的平等を
維持するだけでなく、主権国家より上位の政治的主体の出現を排除して、一定領域内の独
占的な権限を享受してきたといわれる。
ところが、このことは、国際秩序の維持と管理に責任を果たすべき政治的主体が存在し
ないという状況をもたらすことになった。主権国家は、自国の領域内の権限や管轄を維持
するために他国の管轄に帰属する問題に干渉しないのであるから、これを干渉する虞のあ
る国際秩序の維持と管理の問題に関与することも自制するであろう。また、主権国家は、
一定領域内の独占的な権限を堅持するために、主権国家の上位の政治的権力や権威の存在
を否定したのであるから、主権国家以外の主体が国際秩序の維持と管理に関する権限を保
持する可能性も否定しているのである。
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このことは、「安全保障のディレンマ(security dilemma)」を惹起して、主権国家体制が
戦争体制としての特徴を有する契機となった。このディレンマは、国家の建設が、国内社
会においては、「万人の万人に対する闘争」と表現される自然状態に秩序を取り戻す一方
で、国家の上位の政治的権力が不在である国際社会においては、「国家の国家に対する闘
争」に突入する結果となったことを意味している。人間が自然状態である場合に闘争的で
あるか否かという社会契約論の理論的議論に立ち入らずとも、現実の国際政治の歴史を辿
れば、主権国家体制が戦争体制としての色彩が濃厚であったことは理解できるであろう。
近代ヨーロッパで誕生した主権国家は、領土と国民を敵対する国家から保護するために常
備軍を整備し、常備軍を維持して対外戦争の戦費を捻出するために官僚制機構を整備し、
これを通じて戦争と植民地獲得のために軍備を拡張してきたのである。
このために、主権国家体制では、中世時代の正戦論に基づいた価値による戦争の差別は
捨象され、無差別戦争観に基づいた国益を追求する手段としての戦争を公式の手段として
長らく認めてきた。無差別戦争観によれば、戦争の目的や手段に関する倫理的・法的な規
制はもはや存在せず、戦闘時の凄惨な暴力は認容された。しかし、戦闘手段が無制限に許
容される場合であっても、以下のような倫理的問題が引き起こされた。自国民の戦闘員の
負傷者を保護するべきであるという認識は存在した一方で、敵国の戦闘員の負傷者や捕虜
に関する処遇については不明確であった。負傷して攻撃する意思も能力もない戦闘員を嬲
り殺しにしても善いのか、捕虜を奴隷のように生命が費えるまで強制労働に従事させても
善いのか、といった倫理的問題である。
また、軍事技術の拡大の発達に伴い、戦闘行為を通じた死傷者数も格段に増加した。第
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一次世界大戦以前の戦闘では、ほとんどの犠牲者が戦闘員であり、銃や大砲を用いた戦闘
の直接の被害よりも戦場での劣悪な食料・衛生事情に伴う疾病による犠牲者が大半であっ
たという。第一次世界大戦では、兵器の破壊力が飛躍的に拡大し、新兵器として戦車、戦
闘機、毒ガス兵器が使用されて戦闘員の死傷者数も急速に膨張するだけでなく、海上封鎖・
経済封鎖によって敵国の経済状況を悪化させて飢餓を蔓延させて、乳幼児を中心に多くの
市民が犠牲になった。それ以後の戦争では、毒ガス兵器を使用した強制収容所でのジェノ
サイド、占領統治下での熾烈な暴行・強姦・殺害、都市への無差別爆撃や焼夷弾を用いた
都市の破壊、原子爆弾の投下などを通じて戦闘員以外の犠牲者の数を拡大させてきた。
国家は、人間と都市の破壊のために最大限度の資源と能力を投入する一方で、人間の生
存のための公的医療・扶助に対しては十分な資源を投下できない状況に至った。兵器の破
壊能力が向上する一方で、破壊された人間を救済する能力は十分ではなく、このような犠
牲者の増大に対応するために、犠牲者を救済する国際的手段が必要としての国際人道支援
が必要となったのである。
2.戦争体制と人道主義
戦争体制は、無差別戦争観の理念と戦争技術の向上を起因として、戦争の犠牲者を拡大
させた。一方、主権国家の犠牲者救護に関する能力は十分ではなかった。この乖離が契機
となって、国境を越えた救援活動を展開する国際人道機関が設立されて、主権国家が果た
すべき機能を補完することになった。一方、国際人道機関の中には、赤十字国際委員会の
ように、無差別戦争観に基づいた傷病者・捕虜・市民に対する無差別な暴力を批判して、
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国際的規範による保護の必要を主唱する機関も出現した。国際人道法の制定は、国民を不
必要な暴力から保護する利得を国家に与える一方で、無差別戦争を制限するという損失を
国家に与えるものでもあった。
(1)人道支援機関の形成
戦争の犠牲者が極めて限定された時代には、犠牲者の隣人共同体によって、具体的には
教会などの宗教的紐帯を中心とした自助団体などを通じて、あるいは、地域共同体などに
よって犠牲者が救済されてきたかもしれない。ところが、戦争被害の甚大化に伴って、自
助団体の活動が組織化し、国際化することで、国際人道機関に発展した団体も現出した。
たとえば、イギリスのフレンド派布教団体は、1870 年、戦争犠牲者救済委員会(Friends War
Victims Relief Committee)を正式な組織として立ち上げて普仏戦争などの犠牲者を救援し
た。このようなフレンド派団体は、第一次世界大戦に際してヨーロッパ各国で救護活動を
実践し、第二次世界大戦では欧州、中国、インド、日本での人道・復興活動を支援し、こ
のような一連の人道的行動が評価されて、1947 年、アメリカ・フレンズ奉仕委員会
(American Friends Service Committee)とイギリス・フレンズ奉仕協議会(Friends Service
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Council)はノーベル平和賞を受賞した 。
このような国境を越えた人道支援活動を実践する組織の中で、最大の組織と人員と影響
力を保持したのは、国際赤十字と各国赤十字・赤新月社であり、その中でも、最も伝統と
権威のある組織が、赤十字国際委員会(ICRC)である。1859 年 6 月、赤十字創設の父と
呼ばれたアンリ・デュナン(Henry Dunant)は、ビジネスマンの一人に過ぎなかった。デ
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ュナンが仕事で立ち寄った町で、イタリア・オーストリア戦争のソルフェリーノの戦いで
負傷した兵士を救護したことが、彼の人生を大きく変えることになった。デュナンは、救
護の甲斐なく負傷兵を死亡させたことを無念に思い、『ソルフェリーノの思い出(Un
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Souvenir de Solférino)』を出版し、国際的な常設の救護団体を創設する必要を訴えた 。そ
の後、デュナンは、負傷軍人救護国際常置委員会(五人委員会)を結成し、1864 年、こ
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の組織を基盤として赤十字国際委員会を設立したのである 。
1864 年からヨーロッパを中心として各国赤十字社が設立されて、1868 年には、イスラ
ム圏でもトルコにおいて赤十字社(のちに赤新月社に改名)が設立され、アジアで二番目
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の赤十字社として博愛社(のちに日本赤十字社に改名)が 1877 年に設立された 。なお、
赤十字国際委員会は、スイスのジュネーヴに本部を置く国際的な団体で、各国政府から独
立して活動している一方で、各国赤十字社・赤新月社は各国政府の支援を受けて設立され
た半官半民の団体である。国際赤十字・赤新月社連盟(International Federation of Red Cross
and Red Crescent Societies; IFRC)は、1919 年に設立された各国の赤十字社・赤新月社の国
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際機構であり、赤十字国際委員会とは協力関係にあるが別組織である 。
赤十字国際委員会や各国赤十字社・赤新月社の潮流とは異なり、いずれの政府からの援
助も受けない人道支援団体が設立されるようにもなった。とくに、宗派系の救護団体では
なく世俗の救護団体の多くは、第一次世界大戦を契機に誕生するようになった。
第一次世界大戦においては、イギリスにおいて多くの国際的な救護団体が設立されて、
海外に募金や物資を提供することを通じてドイツやオーストリアなどの敵国を含めた地域
に支援を実施した。このような救援団体の中で国際的組織に発展した団体の一つとして、
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セーブ・ザ・チルドレン(Save the Children)を挙げることができる。セーブ・ザ・チル
ドレンは、1919 年にイギリスで設立された人道支援団体であり、当時のイギリスの対オ
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ーストリアへの経済封鎖によって飢餓状態に置かれた子どもたちを救援した 。
第二次世界大戦では、ヨーロッパやアメリカにも多くの人道支援団体が設立され、その
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中でも、イギリスのオクスファム(Oxford Committee for Famine Relief; OXFAM) 、アメ
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リカのケア(Cooperative for Assistance and Relief Everywhere; CARE) といった団体が、現
在、日本を含めた世界各地に支部や協力組織を設立できるほどに成長している。
人道支援に従事する赤十字社や非政府組織の活動だけでなく、国際機構が人道支援に従
事するようになったのは、国際連盟が設立されてからである。国際連盟は、ロシア革命の
混乱で生じた難民をヨーロッパ諸国に受け入れさせるために、難民高等弁務官(High
Commissioner for Refugees)を設置し、これにフリチョフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)を
任命し、その後、ドイツからのユダヤ人難民を支援する「ドイツからの難民高等弁務官」
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も設置した 。第二次世界大戦末期には、連合国が国際連合の最初の機関として連合国救
済復興機関(United Nations Relief and Rehabilitation Administration; UNRRA)を設立して、
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ヨーロッパにいた数千万人の難民と避難民の帰還と再定住を支援した 。
国際連合は、1949 年 12 月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の設立を決定し、
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難民支援に本格的に乗り出した 。また、パレスティナ難民への支援を機関の任務とする
国連パレスティナ難民救済事業機関(United Nations Relief and Works Agency for Palestine
Refugees in the Near East; UNRWA)、戦争の被災を被った子どもを保護する国連児童基金
(United Nations Children Fund; UNICEF)、戦争被災者への食糧支援を実施する世界食糧計
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画(World Food Programme; WFP)といった組織が、国際連合の補助機関として次々に誕
生し、人道支援体制を通じた個人の尊厳を保護するための活動が重層的なものに発展して
いったといえるであろう。
国際人道機関は、政府や軍隊などによって十分に援助・保護されなかった戦争の犠牲者
を救済することを通じて、主権国家体制の補完的機能を果たすだけでなく、以下でさらに
論究するように、赤十字国際委員会を中心として戦争体制を制約する主体としても活動を
展開するようになった。
(2)人道規範の形成
無差別戦争観に基づいた戦争であっても犠牲者の数が限定的な戦争であれば、戦闘行為
から戦闘員や非戦闘員を保護する必要性は認識されなかったであろう。しかし、戦争技術
の向上に伴って負傷兵や捕虜の数が増大し、戦闘の意思や能力の欠如した人々に対する暴
力的行為が倫理的な問題として認識されるようになってきた。
赤十字国際委員会の当初の活動は、戦闘員の犠牲者に対する医療支援の拡充であった。
これには物理的な治療行為などを含むだけでなく、戦闘員の傷病者の処遇に関する国際的
規範の形成を促す野心的なものであった。1864 年には「戦場における軍隊中の負傷軍人
の状態改善に関するジュネーヴ条約(第一回赤十字条約)」を起草して、ヨーロッパ列強
を初めとする主権国家に採択させることに成功した。この条約には、十条から構成されて
おり、今日では当然であると認識される最も基本的な人道的規範が挙げられている。たと
えば、戦地病院と医療行為に従事する人々を中立として攻撃の対象としてはならない、ま
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た、負傷兵や疾病兵は収容して看護しなければならない、病院や医療従事者は白地に赤十
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字の記章を携行するといった原則である 。
1906 年、「傷病者の状態改善に関する条約(第二回赤十字条約)」と「陸戦の法規慣例
に関する条約(ハーグ規則)」が締結されて、戦闘員の傷病者の範囲が「軍人及び公務上
軍隊に属するその他の人員で負傷し又は疾病にかかった者」と明確にされるだけでなく、
捕虜資格に関しても、正規軍、民兵・義勇兵団、軍民兵及び兵力中の非戦闘員で敵に捕ら
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われた者と明確な範囲が規定されて、捕虜待遇の規定も置かれた 。
第一次世界大戦の甚大な犠牲を省察したヨーロッパ列強は、1929 年、二つのジュネー
ヴ条約(第三回赤十字条約)を締結した。第一は、「戦場における軍隊中の傷者及び病者
の状態改善に関するジュネーヴ条約」であり、第二は、「捕虜の状態改善に関するジュネ
ーヴ条約」である。この中で、戦闘員の傷病者と捕虜の保護に関する規定が改訂された。
また、第一次世界大戦の惨事を踏まえて、空襲や敵対国家の支配下に置かれた非戦闘員
(文民)への保護の必要性が議論されて、1934 年、赤十字国際委員会を中心とした起草
作業を経て、東京で開催された第 15 回赤十字国際会議において「敵国文民保護に関する
条文草案(東京草案)」が採択された。しかし、当時の国際関係の悪化に伴い条文草案は
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列強によって批准されることはなかった 。第二次世界大戦以前の国際社会では、武力紛
争下の文民の保護に関する明示的規範は存在せず、このことが世界大戦において一般市民
の甚大な犠牲を回避することができなかった一つの要因となった。
第二次世界大戦後の甚大な犠牲を反省した国際社会は、1949 年、これまでのジュネー
ヴ条約を改定して、「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関するジュネーヴ条
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約(陸上傷病兵条約)」、「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する
ジュネーヴ条約(海上傷病兵条約)」、「捕虜の状態改善に関するジュネーヴ条約(捕虜条
約)」のジュネーヴ諸条約に加えて、紛争当事者国や占領国における敵国文民を保護する
ための新しい条約として、「戦時における文民の保護に関する条約(文民条約)
」を併せて
ジュネーヴ四条約として起草して採択した。このジュネーヴ諸条約は、戦争や内戦などの
武力紛争の基本的規範として認識されており、国際連合に加盟した国家のすべてが同条約
に加入しており、国際社会の普遍的規範としての地位を占めるに至った。
国際人道規範の発展と成長は、害敵手段・方法を規制し、武力紛争の犠牲者に対する保
護の対象を拡大することを通じて、無制限の暴力の行使が容認されていた戦争体制に対す
る一定の制限を課するものであった。
3.戦争体制の非公式化と制裁体制の導入
主権国家のほぼすべてがジュネーヴ諸条約を批准することで、敵対国家の戦闘員の傷病
者や捕虜の保護の義務を認めて、敵対国家の非戦闘員に対する武力行使の発動を禁止した。
国際社会は、国際人道規範を通じた戦争の手段に関する規制を主権国家に課するだけでな
く、戦争の目的に関しても主権国家の行動を規制する一連の制度を設計することになった。
それは、国際連盟や国際連合における戦争手段の禁止と集団安全保障体制の導入である。
第一次世界大戦の戦後処理条約であるヴェルサイユ条約によって国際連盟が設置された。
国際連盟では、国際連盟規約第 12 条において、武力紛争に至る虞のある場合には連盟加
盟国が仲裁裁判、司法裁判、連盟理事会に通告し、裁判の判決や理事会の報告後 3 ヶ月以
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内は戦争に訴えることを禁止した。これは、主権国家に対して紛争の平和的解決の義務を
課するものであり、国益を追求するための無制限な武力の発動に一定の制約が設けられた。
また、国際連盟規約第 16 条に基づいて、第 12 条に違反した連盟国や、判決や理事会の勧
告に従わない連盟国に対して経済制裁を決定する権限を国際連盟に与えた。これが、集団
安全保障体制と一般に呼ばれる制度であり、国際社会は、主権国家体制の最大の特徴であ
る戦争体制を制限して、安全保障に対する責任の一部を国際連盟に委託し、国際的な制裁
制度を導入したのである。
しかし、国際連盟は、アメリカやソヴィエトを初めとする主要国が設立当初に参加して
おらず、戦争の激化に伴って日本、ドイツ、ソヴィエトが脱退した結果、普遍的国際機構
としての権威は失墜し、また、集団安全保障体制の基礎をなす経済制裁も功を奏すること
なく、第二次世界大戦の勃発を回避することはできなかった。
第二次世界大戦後、国際連盟の正式な後継の国際機構として国際連合が設置された。国
際連合憲章の第 2 条第 4 項では、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力によ
る威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、
国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と規
定され、第 51 条に規定された自衛権の行使以外のあらゆる武力の威嚇・行使が禁止され
ることになった。このことは、主権国家体制の特徴であった戦争体制が非公式の制度とな
る転換点となった。
国際連合は、国際連盟の集団安全保障体制を強化して、経済制裁だけでなく国連軍を動
員した軍事制裁を実行する制度を導入し、国際連盟では制裁決定における全会一致制であ
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ったが、安全保障理事会の常任理事国の一致と理事国の多数の賛成によって、制裁を発動
することを可能にした。また、制裁決議の履行は、国際連盟では主権国家の自発的な協力
であったが、国際連合では主権国家の義務とされて、集団安全保障体制と制裁体制が強化
されることになった。国際連合での集団安全保障体制において、初めての軍事制裁は、1950
年、朝鮮民主主義人民共和国の大韓民国への侵略に対抗して、アメリカ軍を主体とする国
連軍の派遣によって実行された。
国際連盟と国際連合における集団安全保障体制と制裁制度の導入は、主権国家体制の最
大の特徴である戦争を国際法上違法な制度とする契機となり、戦争の目的に関する国際的
規制の強化につながった。
4.人道主義の地理的広がりと対象者の拡大
しかし、国際連合の設立直後から開始した米ソ冷戦は、国連安全保障理事会における米
国やソヴィエトによる拒否権の発動を誘発することになり、当初、計画されていた大国の
一致による国連軍の設立や強制措置の発動はおろか、安全保障理事会の協議が停滞する事
態に陥った。また、戦争の違法化によって戦争が消滅したのではなく、実際には、米ソ冷
戦の代理戦争や植民地解放闘争、発展途上国での権力や資源をめぐる内戦によって多くの
戦闘員や非戦闘員が犠牲となった。このことは、第二次世界大戦までの国際人道支援の発
展をさらに推進させることになった。
第一次世界大戦と第二次世界大戦における国際人道支援は、おもにヨーロッパと東アジ
アを対象にして実施された。これは、この地域での戦争の犠牲が甚大であったからである
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が、宗主国に対する植民地解放闘争などに対しては実践されておらず、国際人道支援の地
理的範囲は、いわゆる先進工業地域に限定されていたといえる。これが全世界に拡大され
たのは、アジアやアフリカでの植民地解放闘争や内戦を通じてである。
たとえば、フランスの統治下にあったアルジェリアでの独立戦争(1954 年-1962 年)で
は、赤十字国際委員会と国連難民高等弁務官事務所が、隣国のチュニジア、モロッコに避
難した難民を現地の赤新月社を通じて支援し、アフリカ地域に対する大規模な支援を開始
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する契機となった 。また、1971 年、東パキスタン(現在のバングラデシュ)の西パキス
タンからの独立戦争では、洪水被害に伴いインドに大規模な難民が流入したので、国際赤
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十字がインド政府と協力して難民や避難民の支援に当たった 。ヴェトナム戦争では、北
ヴェトナムによるヴェトナム統一後に、多くの難民がボート・ピープルとして香港やその
他のアジア地域に避難して、国連難民高等弁務官事務所がヴェトナム難民のための定住国
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を提供する重要な役割を果たした 。
また、1967 年から 1970 年までのビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)では、約 200 万人
の戦闘や飢餓による死者を出したが、この戦争を契機に赤十字国際委員会の人道支援要員
が現地に派遣されて人道支援活動に従事するようになった。1968 年、アイルランドでは
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ビアフラのキリスト教主教の呼びかけに応じてコンサーン(Concern)が設立され 、1971
年、赤十字国際委員会や各国赤十字社との路線対立から、フランス赤十字社の医師を中心
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とした国境なき医師団(Médecins Sans Frontières; MSF)といった非政府組織も誕生した 。
発展途上国の武力紛争の増加や公共医療の水準の低さによって、国際人道機関の活動の
中心地はかつてのヨーロッパから、アジアやアフリカへと移行しており、今日では世界の
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ほぼすべての国家や地域において活動を展開している。ほぼすべての国家に各国赤十字
社・赤新月社が設立されており、国際人道機関が現地の赤十字社と連携することで人道援
助を実践している。
また、国際人道機関は、武力紛争の最前線から離れた安全な場所において難民や避難民
を救援する場合が多かったが、現在では武力紛争の直中で活動を展開することも多くなっ
てきた。
5.制裁体制と国際人道支援の結合:1990 年代の人道的介入
冷戦時代にはアメリカとソヴィエトの対立が激しく、国連安全保障理事会での議題は相
互の拒否権によって葬られて、国際の平和と安全に対する脅威が存在する場合であっても、
国連憲章が予定していた軍事制裁が実行される可能性は皆無であった。しかし、アメリカ
とソヴィエトが冷戦を終結させることで、安全保障理事会での常任理事国が一致して行動
する機運が高まった。1990 年のイラクのクウェート侵攻に対する国連憲章第 7 章に基づ
く強制措置は、朝鮮戦争以来の軍事行動となった。
1991 年の湾岸戦争以後、安全保障理事会の機能が回復して、国際連合が積極的に安全
保障問題に関与するようになり、主権国家内の武力紛争によって生じた人道危機に対して、
国際の平和と安全に対する脅威であると認定して、多国籍軍を派遣する事例が見られるよ
うになった。その最初の事例が、イラクのクルド難民支援を契機とした人道的介入である。
これは、湾岸戦争の停戦直後に、イラク北部のクルド人武装組織がフセイン政権に対し
て武装蜂起したところ、イラク軍が反撃してクルド難民が、イランやトルコ国境に大規模
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に押し寄せた問題である。安全保障理事会は、明確に国連憲章第 7 章に基づいた措置とし
て軍事行動を実行したのではないが、安全地帯と呼ばれる区域をイラク北部と南部に設定
して、この地域での国際人道支援を安全保障の面から支援することになった。イラク北部
では、国連難民高等弁務官事務所がクルド難民支援に従事することになり、多国籍軍と協
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働して活動を展開した 。
このことは、国際連合の制裁措置と国際人道機関の人道支援が初めて同時に実行された
ことを意味しており、主権国家体制において最も重要な原則である内政不干渉が、国際人
道支援という目的のために、国際連合の制裁措置という手段で突破されて、安全保障理事
会から武力行使の授権を受けた多国籍軍と国際人道機関が協働して人道援助を実施するこ
とになったのである。
クルド難民支援に見られた多国籍軍と国際人道機関との連携は、その後、ソマリア内戦
でのアメリカ軍の軍事介入と国連ソマリア活動(UNOSOM)、ボスニア内戦での国連保護
軍(UNPROFOR)、ルワンダ内戦とジェノサイド以後のフランス軍を主体とする多国籍軍、
コソヴォ危機での北大西洋条約機構軍(NATO 軍)、東ティモールでのオーストラリア軍
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主体の多国籍軍などにおいても実践されることになった 。とくに、国連ソマリア活動や
国連保護軍は、紛争被災者の救助よりも、国際人道機関の活動を確保するための治安維持
に活動の主たる目的が置かれており、国際人道機関の活動の保護が人道的介入の導入され
た理由の一つとなったことも確かであろう。
今後、このような国際人道機関と多国籍軍との協働が今後とも継続するかどうかは不明
確であり予測することは困難であるが、少なくとも人道支援を目的とする武力行使が容認
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されたのは、国際人道機関の活動と国際人道規範の発展における長年の歴史が下地となっ
ていると言明できるであろう。
結論
主権国家が戦争を国益追求の手段としていた時代に、主権国家の保護の外に置かれた戦
闘員の傷病者、捕虜、外国人の文民に対して便益を提供する国際人道機関が誕生した。国
際人道機関は、このような主権国家体制の補完的機能を担っていただけでなく、国際人道
法の遵守を国家に要求し、あらゆる文民の保護を義務づけることに成功した。そして、今
日では、国際人道機関の活動を保護するための国際連合を中心とした人道的介入が実施さ
れるに至り、主権国家体制から生み出された国際人道体制が、主権国家体制を揺るがす逆
説的存在となっているのである。
1
アメリカ・フレンズ奉仕委員会の歴史に関しては、同委員会のウェッブサイトを参考
のこと。http://www.afsc.org/about/history.htm (31 January 2006). イギリス奉仕協議会は、
Quaker Peace and Social Witness (QPSW) に名称を変更して活動を継続している。同機関の
ウェッブサイトを参考のこと。www.quaker.org.uk/peace (31 January 2006)。Frederich W.
Haberman (ed.), Nobel Lectures: Peace, vol.2, Amsterdam; New York: the Nobel Foundation, 1972,
pp.373-402.
2
Jean Henry Dunant, Un Souvenir de Solférino, Genève: Comité International de la Croix-
16
Rouge, 1928 (アンリー・デュナン著・木内利三郎約『赤十字の誕生:ソルフェリーノの
思い出』、白水社、1959 年)。デュナンは、この著書の大半をソルフェリーノの戦いで負
傷した兵士の苦悶と負傷兵を治療と看護をした人々との苦闘を描くことに割いている。能
力や技術のある医師や看護師が救助に従事していれば、多くの負傷兵を救助できたのでは
ないかというデュナンの無念な所懐と、常設の救護団体の設立へのデュナンの強い動機が
読み取れる内容となっている。
3
赤十字国際委員会や国際赤十字・赤新月社に関する歴史的分析については、以下の文
献を参考のこと。Pierre Boissier, History of the International Committee of the Red Cross. Volume
I: From Solferino to Tsushima, Second Edition, Geneva: Henry Dunant Institute, 1985; André
Durand, History of the International Committee of the Red Cross. Volume II:From Sarajevo to
Hiroshima, Geneva: Henry Dunant Institute, 1984; John F. Hutchinson, Champions of Charity: War
and the Rise of the Red Cross, Oxford: Westview Press, Inc., 1996. また、赤十字国際委員会や
国際赤十字・赤新月社の組織に関する文献としては以下のものを参考のこと。Hans Haug,
Humanity for All: The International Red Cross and Red Crescent Movement, Berne; Stuttgart;
Vienna: Paul Haupt Publishers, 1993; International Committee of Red Cross and International
Federation of Red Cross and Red Crescent Societies, Handbook of the International Red Cross and
Red Crescent Movement, Thirteenth Edition, Geneva: ICRC/ IFRC, 1994.
4
各国赤十字社・赤新月社の設立年に関しては、以下の文献を参考のこと。Haug, Humanity
for All, pp. 633-645. 2005 年には 181 カ国で赤十字社・赤新月社が設立されており、ほぼす
17
べての国連加盟国に赤十字社が置かれている。なお、日本赤十字社の歴史や組織に関して
は、以下の文献を参考のこと。日本赤十字社編『人道̶その歩み:日本赤十字社百年史』、
日本赤十字社、1979 年。「日赤のてびき」刊行委員会編『人道:日赤のてびき』、増補版、
蒼生書房、1990 年。
5
ICRC-IFRC, Handbook of the International Red Cross and Red Crescent Movement, pp. 415-
610.「日赤のてびき」刊行委員会『人道:日赤のてびき』、67-77 頁。
6
セーブ・ザ・チルドレンの歴史的経緯については、セーブ・ザ・チルドレンの以下の
ウェッブサイトを参考のこと。http://www.savethechildren.org/mission/index.asp (31 January
2006).
7
オクスファムの歴史的経緯については、オクスファムの以下のウェッブサイトを参考
のこと。http://www.oxfam.org.uk/about_us/history/index.htm (31 January 2006).
8
ケアの歴史的経緯については、ケアの以下のウェッブサイトを参考のこと。
http://www.careusa.org/about/history.asp (31 January 2006).
9
United Nations High Commissioner for Refugees (UNHCR), The State of the World’s Refugees
2000: Fifty Years of Humanitarian Action, Oxford: Oxford University Press, 2000, p. 15(国連難
民高等弁務官事務所「世界難民白書:人道行動の 50 年史」、時事通信社、15 頁)。
10
11
12
Ibid., pp. 13-14, 16(邦訳、13, 14, 16 頁)。
Ibid., pp. 18-19, 22, 24(邦訳、18-19, 22, 24 頁)。
ICRC-IFRC, Handbook of the International Red Cross and Red Crescent Movement, pp. 21-
18
22; 藤田久一『国際人道法』、新版、1993 年、127-128 頁。
13
14
15
藤田久一、前掲書、128、140 頁。
藤田久一、前掲書、153-154 頁。
UNHCR, The State of the World’s Refugees 2000, pp. 37-44(邦訳、37-44 頁)。; Haug,
Humanity for All, pp. 97-104.
16
UNHCR, The State of the World’s Refugees 2000, pp. 59-62, 64-68, 70-74, 76-77 (邦訳、
59-62, 64-68, 70-74, 76 頁); Haug, Humanity for All, pp. 118-123
17
18
UNHCR, The State of the World’s Refugees 2000, pp. 79-91(邦訳、79-91 頁)。
コンサーンの歴史的経緯については、コンサーンの以下のウェッブサイトを参考のこ
と。http://www.concern.net/pressroom/about/started.php (31 January 2006).
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国境なき医師団の歴史的経緯については、国境なき医師団(フランス)の以下のウ
ェッブサイトを参考のこと。http://www.msf.fr/site/site.nsf/pages/histoire14 (31 January 2006).
20
UNHCR, The State of the World’s Refugees 2000, pp. 211-213, 216-218(邦訳、211-213,
216-217 頁)。
21
国際人道機関と多国籍軍との連携については、以下の文献を参考のこと。
Thomas Weiss
George, Military-Civilian Interactions: Intervening in Humanitarian Crises, Lanham: Rowman &
Littlefield Pub Inc, 1999.
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