シーボルト第一次滞在時蒐集書籍

Ⅰ部 シーボルトの描く「日本」像 ――歴史と文化 ――
シーボルト第一次滞在時蒐集書籍
鈴木 淳
1.書籍コレクションと『シーボルト目録』
本発表は、フォン・シーボルトが一八二三年八月に日本に入国してから一八三〇年一月
に出国するまでの六年半に及ぶ第一次滞在中に蒐集した日本書籍について、調査した結果
を元に、その特色について考察を試みるものである。本書籍コレクションは、シーボルト
が、長崎や江戸参府の途次、蒐集したもので、帰国とともに、バタビアを経てオランダに
舶載された。モノ資料や動植物の標本などとともに、シーボルトが蒐集に心血を注いだも
のである。周知のようにシーボルトは一八四五年、中国人の郭成章とドイツの同郷ウェル
ツブルグ出身のヨハン・ホフマンの協力を得て分類目録『フィリップ・フランツ・フォ
ン・シーボルト蒐集並ニへーグ王立博物館所蔵日本書籍及手稿目録』(以下『シーボルト
目録』と略称)を刊行した。基本的に、これに登載された書籍五九四点を第一次滞在時蒐
集書籍として考えることとするが、実際には重複する書籍や目録に記載されていない書籍
も存在するので、調査の実数と目録の記載数には少なからぬ相違が存する。
コレクションの概要は、『シーボルト目録』に審らかであるが、この目録は、シーボル
ト自身が考案した分類を伴い、入念な編集方針のもとに制作されたもので、ホフマンの解
説によるラテン語目録と成章による日本語目録(石版リスト)とから成っている。おそら
く、海外における、最初の日本書籍の分類目録といってよいものであろう。その日本語版
(一九三七年、東京郁文堂書店)の序文によれば、シーボルトは、日本の書籍をオランダ
国に寄贈した理由について、
之と云ふのも、同国に特に日本だけの蒐集所が出来ればと思つたからである。又自分
は是等を其の著作の内容に応じて整理したのであるが、これで東洋学愛好家或は地理
学、人類学研究者達に其の書籍の価値及意義をより良く知らしめ得たと信ずる。
と記している。シーボルトが一八二三年、東インド植民地総督のファン・デル・カペレン
に呈した報告書に「日本博物館」という考えの萌芽がすでに見られるが、ここの「日本記
念館(日本だけの蒐集所)」(Literarum Japoniarum monumentum)という考えも、それと
軌を一にするものである。シーボルトはその後一八四二年九月、オランダ国に対して、改
めてハーグに自らが館長となる民族誌学の博物館(Ethnographic museum)の設立を願い
出ているが、シーボルトは「民族誌学博物館」と「日本博物館」とを微妙に使い分けて
いたと考えられる。また、書籍の利用者として想定していたのは、「東洋学愛好家或は地
理学、人類学研究者達」という。訳語に「人類学」とあるのは、原語に「Ethnographica
studium」とあるので、
「民族誌学」といい直した方が明確となる。すなわちシーボルトが
ターゲットとして考えたのは、西洋における東洋学の愛好家や地理学、「民族誌学」の研
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究者たちなどのインテリ層ということになる。
シーボルトの書籍コレクションの大きな特色は、同じ頃少し先んじて日本に滞在したオ
ランダ商館長ヤン・コック・ブロンホフ、及び商館員オーフェルメール・フィッセルの蒐
集分から、自身のコレクションにないものを選んで、対象に加えたことである。前掲の正
式書名に、『フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト蒐集並ニへーグ王立博物館所蔵
日本書籍及手稿目録』とあるのは、ブロンホフとフィッセルの蒐集書籍が当時、ハーグの
ロイヤル・キャビネットに収蔵されていたからである。
いま『シーボルト目録』の石版リストについて、総数および三人の蒐集数を当たると、
総数
六〇三
シーボルト
五一六
ブロンホフ
二六
フィッセル
六三
の通りである。総数が通し番号の最終五九四と異なるのは、番号の重複があるからであ
る。またシーボルトの分が、総数六〇三からブロンホフ、フィッセル分の合計を引いた数
よりそれぞれ二点多いのは、両目録ともブロンホフ、フィッセル両方の合標を付した書目
が一二六、四八二の二点存在するからである。ブロンホフの書籍は、絵本など、美術的な
ものに、フィッセルは小説など、文学方面に特色が見られる。
次に『シーボルト目録』が、いかなる分類を施したかについて見ておきたい。すなわち
分類は、全部で十一部からなるが、いま『シーボルト目録』の日本語訳に、ラテン語の原
表記を併せ、さらに書籍点数(総数五九六点)を加えて示せば、十一部は以下の通りであ
る。
第一部 百科辞典類(Libri encyclopaedici)一二点
第二部 歴史書 地理書(Libri historici et geographici)一八一点
第三部 自然科学書(Libri physici)一〇〇点
第四部 文法書及び辞書(Libri grammatici etlexcographici)三四点
第五部 神学書及び道徳書(Libri theologici et morales)三六点
第六部 詩(Poetae)三八点
第七部 市井風俗並に制度に関する書(Libri de populo ac civitate)三八点
第八部 経済書(Libri Libri oeconomici)三五点
第九部 貨幣書(Libri numismatici)一三点
第十部 医書 薬書(Libri medici et pharmaceutici)一四点
第十一部 木版図(Tabulae xylographicae)九五点
以上の部門の下位には、さらに細かい分類が施されているが、いまは省略した。これら
の分類語は、ラテン語目録においてはじめて現れるものであるが、コレクションの配列
は、すでに石版リストにおいて確定しており、分類はその配列に則って定められたもので
ある。もとよりばらつきはあるものの、全十一分野にバランスよく行き渡った包括性を、
書籍コレクションの第一の特色とする。中でもいちばん多いのは、歴史書・地理書の一八
一点で、次いで自然科学書(博物学)の一〇〇点である。前者には大量の地図が含まれ、
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国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
後者は植物に関するものが多い。
2.付箋と書籍の種分け
今回、共同研究で主たる調査対象としたシーボルト書籍コレクションは、
(1)ライデン大学図書館(Bibliotheek, Universiteit Leiden)五七一点
(2)ライデン国立民族学博物館(Rijksmuseum Volkenkunde)一七三点
(3)フランス国立図書館(Bibliothèque Nationale de France)三六点
(4)オーストリア国立図書館(Österreichische Nationalbibliothek)二八点(未見七点)
(5)大英図書館(The British Library)七点
の通りである。ただし、書籍の点数は、重複分を含んでいる。ほかに、デンマーク国立博
物館に若干の書籍が所蔵されていることを確認しているが、まだ組織的な調査には及んで
いない。
コレクションの大半は、オランダのライデン大学図書館、ライデン国立民族学博物館に
分蔵されており、その他の機関の所蔵書籍は、フランスを除けばほとんど重複分である。
ライデン大学図書館の所蔵分は、『セルリエ目録』の序文にある通り、一八八一年に、ラ
イデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションから分割された書籍に相当する。分
割を主導したのは、博物館館長リンドール・セルリエであるが、彼はまた、ホフマンの忠
実な弟子として知られ、その判断には、大学教育を重んじるホフマンの遺志がはたらいて
いたのかも知れない。シーボルトの分類に即していうと、歴史、地理、自然科学、言語、
宗教、経済、医学に関する書籍はほとんど大学の所蔵であり、絵本類のほとんどが博物館
の所蔵となっている。その他のジャンルで博物館の所蔵であるのは、合巻(ごうかん)な
どの小説類の一部、通俗的な百人一首、生花書、図解書の一部などである。他に、重複し
て蒐集されたものは、ジャンルに限らず、両機関に分けて所蔵されることが多い。
実際にライデンの書籍を調査するに際しては、書誌的な特記事項として、次のようなこ
とに留意して進めた。
(1)付箋(シーボルトが蒐集時に付したもの)
(2)石版短冊(成章の石版リストを切り貼りしたもの)
(3)円形スタンプ(オランダ国に買い上げられた分に、後から押されたもの)
(4)文字スタンプ(円形スタンプと同時に、ブロンホフ、フィッセル分に押されたもの)
このうち、書籍分類に関わる付箋について注目したい。付箋は、シーボルト蒐集分の書
籍の見返しや裏見返しに貼付されており、貼付された書籍は、およそ二七〇点で、『シー
ボルト目録』の五九四点のおよそ四割五部に当たる。調査漏れや付箋が剥落した可能性を
考えると、約半数には付されていたと考えるべきであろう。原則的に、他の機関に伝わる
分にはないが、例外的に、オーストリア国立図書館に二点、大英図書館に三点ほど貼付例
がある。
付箋に用いられた紙片の大きさは多様で、一時にまとめて記載されたのではなく、書籍
を蒐集した都度、記載されたものと考えられる。書式は、通常、横罫で上欄を区切り、そ
の下部に縦罫を引いた、やや大きめの西洋の紙片を使用し、上欄に、ローマ数字とアラビ
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ア数字を組み合わせた番号表記、下部に書名、著者、出版地などのカタカナ表記、及び西
暦で出版年などを記載するという体裁である。日本語表記はシーボルトが理解しうる、カ
タカナ表記だけで、漢字や平仮名を含まない。アラビア数字などに生硬感があるのに対
し、カタカナは、整然と一定の筆勢を保っており、同一日本人の手に成る可能性が高い。
筆者について、書籍の蒐集が一八二六年の江戸参府の旅行中にもっとも大量に行われたこ
とを考えると、旅行に随行した人物でなければならず、この条件をクリアーする人物は、
おそらく一人しかいない。すなわち『江戸参府紀行』に、シーボルトが随行者について
「私の研究調査を援助してもらうために、私はなお二、三の人物を連れて行った」として
挙げる中の一人、阿波出身の若き医学徒高良斎である。シーボルトが、同書で良斎を「日
本の植物学に対するかれのふかくかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧み
であった」と評価しているところに、なぜ鉱物学に詳しいハインリヒ・ビュルガーや画家
の川原慶賀らとともに良斎を随行させたかがいい尽くされていよう。
さて、上欄に記された番号表記の基本区分と考えられるローマ数字は、ⅠからⅧまで認
められるが、今、それぞれに配当される書籍例と点数を示せば、次のようになる。
Ⅰ 言語など、『新撰大和詞』以下、一三例。
Ⅱ 宗教、その他、『両部神道口決鈔』以下、七例。
Ⅲ 百科辞書、有職故実、生花、職人尽、鍼灸、貨幣、その他。『頭書増補 訓蒙図彙』 以下四三例。
Ⅳ 五七例 本草書(博物書)、『物類品隲』以下、五七例。
Ⅴ 六〇例 地図、『新板 日本国大絵図』以下、六〇例。
Ⅵ 二九例 地誌、『蝦夷談筆記』以下、二九例。
Ⅶ 四五例 絵本、『画本虫撰』以下、四五例。
Ⅷ 一九例 一枚摺り、『官職昇進双六』以下、一九例。
以上を概観すると、およそ次のようなことがいえよう。
(1)付箋の番号付けは書籍の種分けの意識の元に記されたものである。
(2)付箋の貼付が、全体の半数程度に止まっており、しかもローマ数字の項目への書籍の
割り当てにむらがあることから、判断しやすいものに限って処置した可能性がある。
(3)とくにローマ数字のⅠ、Ⅱは、アルファベットを組合せた重層的な構造になっている
など、該当する書籍の配分に混乱の跡が窺える。
(4)Ⅲは、書籍内容が広範囲に亘り、他のローマ数字の項目との重複が認められる。
(5)種分けがまとまっているのは、Ⅳの本草学(博物学)
、Ⅴの地図、Ⅵの地誌、Ⅶの絵
本である。
3.コレクションの特色
『シーボルト目録』の分類及び付箋における書籍の種分けを概観すると、注意すべき
ジャンルとしては、上記の通り、本草、地図、地誌、絵本などがあるが、その他、数はさ
ほどではないが、言語などにもシーボルトの蒐集傾向を探るうえで見るべきものがある。
これらシーボルトの書籍コレクション内実を把握するためには、いわば使命としての民族
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国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
誌学とライフワークとしての博物(本草)学という二つの視点からの考察が必要である
が、今は紙面の都合で省略に従い、本草書に限って、若干の考察を試みておきたい。本草
学の方面にシーボルトの日本研究の重点が置かれていたことは、上述のカペレンに宛てた
報告書(栗原福也『シーボルトの日本報告』)に、研究目的として、
日本博物館の名前のもとに、動物界のすべての日本産珍奇品の生態と解剖学的記述を
その写生図とともに作成すること。
(植物名を)すべての言語で付し、その医療上の効果をも付した日本植物誌を書くこ
と。
などと、調査研究の抱負を表明していることからも窺われる。シーボルトには、来日当初
から『日本動物学』『日本植物誌』を執筆することが、具体的な課題として目前にあった
のである。
シーボルトが蒐集した本草書とくに植物に関するものを概観すると、『本草綱目』六二
巻をはじめ、『本草淮』『救荒本草』『秘伝花鏡』などの和刻漢籍をはじめ、貝原益軒の
『大和本草』、伊藤伊兵衛の『広益地錦抄』、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』その他、和漢の
基本的な本草書をバランスよく揃えており、書籍コレクション中の圧巻というべきであ
る。その多くは、江戸参府の折、長崎屋などの定宿に出入りする行商から購入したものと
思われる。また、大場秀章が「シーボルトは、今日、私たちが本草学者と呼ぶ、水谷豊
文、その弟子の伊藤圭介や大河内存真、さらには宇田川榕庵、桂川甫賢などを日本の植物
学者と記している」云々(
『シーボルト 日本植物誌《本文覚書篇》
』)というように、植物
学に詳しい名古屋や江戸の学者、門人から主に植物に関わる多くの情報を得ている。もと
より、大槻玄沢の『仙台 きんこの記』
、宇田川榕庵の『生植全書』、桂川甫賢の『蝦夷草
木之図』、水谷助六の『物品識名』など、彼らから、それぞれの自著である本草学に関す
る図譜類の献本を受けることもあった。
これらの江戸や名古屋の門人等は、シーボルトのために常に献身的な協力を惜しまな
かったのであり、書籍コレクションにおいては、シーボルトが彼らに、精密な動植物の写
生を誂え、調製した写本が一つの核を占めている。たとえば、江戸では、甫賢に『本草写
真』他、榕庵に『写真随集』他、それぞれ複数点あり、名古屋では、水谷助六の写生図集
『本草写真』『本草抜粋』やその弟子伊藤圭介の写生図[鳥魚之図]の類もそれに当たる。
圭介関連の資料には、『修養堂本草会目録』など、名古屋の本草会の記録の写しもある。
また『虫類写集』には、「尾張名古屋中市場町 大河内存真」とある付箋が貼られ、「アゲ
ハテウ以下褐色ニ黒点ナル蝶マデ□(合印)印ノ箱ニ入」などとあって、別途、作成した
標本との対応を図っている。さらには〔腊葉榻〕など、いわゆる「押し葉摺り」
(拓本)
の一部には、書籍としての取り扱いを受けたものもあるが、もともと図譜、写生、標本は
互いに入り組んでいて、その境目はあってないようなものであろう。
このように、本草学方面の書籍は、シーボルトがもっとも身を入れてその蒐集を図った
跡がありありと窺われる領域といえる。そして、本草書の中でも、シーボルトがもっとも
信を措いた基本文献は、科学的な日本植物図譜の嚆矢とされる、蘭山の『花彙』ではなか
ろうか。緒方富雄らの「門人がシーボルトに提供したる蘭語論文の研究」
(『シーボルト研
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究』日独文化協会、
」)に紹介される通り、甫賢(蘭名ボタニクス博士)は、『花彙』を蘭
訳し、自作の序を添えてシーボルトに奉っており、そのオランダ語訳は、高良斎、高野長
英らとともに出色の出来映えであったとされる。おそらく甫賢の蘭訳は、その重要性を認
識したシーボルトによる要請に基づいたものであろう。
『花彙』は、『シーボルト目録』に記載されながら、不思議なことに現在、ライデン大学
にも博物館にも伝わらない。しかし、シーボルトが一八三九年七月に寄贈した、大河内存
真贈呈本の『花彙』が、半ば腊葉標本扱いとして、国立植物標本館に所蔵されている(飯
島一彦「オランダ国立植物標本館所蔵『華彙』に添付された大河内存真のシーボルト宛書
簡について」)。また、大英図書館には二部の『花彙』が所蔵されるが、そのうち一部は、
例の付箋が貼られており、明らかにシーボルト蒐集本である。しかもこの本には、図版毎
に通し番号が付され、シーボルトかと思われる筆蹟で、植物名が欧文で記される。シーボ
ルトの手沢本が英国に出されたのはこれのみであり、おそらくシーボルトが終生、手元に
置いていたために、シーボルトの没後、アレキサンダー・シーボルトの手によって他の第
二次滞在中に蒐集した書籍とともに、大英博物館(図書館)に売却されたのであろう。な
お、詳しくは、二〇一四年一二月に刊行された人間文化研究機構、国文学研究資料館編
『シーボルト日本書籍コレクション 現存書目録と研究』を参照されたい。
(すずき じゅん・国文学研究資料館)
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