6号 - 琉球大学

(支部会員 桑江良奉氏書)
支部結成 20 周年記念特別号
発行編集
琉球大学同窓会関東支部・事務局
発行日 平成 18 年 10 月 21 日
http://ryudaidosoukai-kantousibu.hp.infoseek.co.jp
http://www.just.st/736695 (携帯ホームページ)
[email protected](メール会員登録用)
昨年度
第 13 回
第12回
琉球大学同窓会関東支部
琉球大学同窓会関東支部
総会・懇親会
日時:平成 18 年 10 月 21 日(土)15:00~18:00 場所:日本教育会館
目次
総会・懇親会
千代田区一ツ橋 2-6-2
P2
渡久山支部長挨拶
P3.
第 12 回総会・懇親会・2 次会スナップ写真
P8.
活動経過報告&次年度活動案
P10.
ゴルフ同好会
P11.
決算報告書 & 次年度役員案
P12.
寄稿 関東支部結成 20 周年記念誌
P18.
職場訪問 クイチャーパラダイス
P19.
同窓生のオアシス
P20.
編集後記
℡:03-3262-7661
琉球大学同窓会関東支部結成 20 周年を迎えて
渡久山長輝
関東支部長
物理学科
昭和35年卒
はじめに=同窓会本部への感謝
琉大同窓会本部は、2005 年に創立 50 年を迎えました。同窓会本部の沖縄での 50 周年の諸事業は、すばらし
い成果をあげました。役職員を始め関係者の皆様のご尽力に心から敬意を表したいと思います。創立期の同窓
会は、1 期、2 期生中心に、多くの 3 期生が入会され同窓会の発展に寄与されたとお聞きし、更に、関東支部
の結成にもご協力くださり心から感謝いたします。
関東支部結成のころ
関東支部は、1987 年(昭和 62 年)3 月 28 日に、結成総会を開催しました。同窓会本部は比嘉正幸会長、琉大
は、第 11 代、東江康治学長のときでした。 結成前には、同窓会本部からも呼びかけもあり、数名の役員諸氏
と東京での打ち合わせを何回か行いました。東京では、第 1 期卒船越尚美氏(初代支部長、故人)や仲井真格、
具志堅興三郎、中島政彦、桑江良奉の各氏とともに、金城良雄、国吉真正、砂川義信、宮城調春の各氏に小生
などが加わり、結成の話し合いを持ちました。 結成総会は、千代田区の日本教育会館で、50 数名の参加の元、
会則を決定し、初代支部長に、船越尚美氏、副支部長に、金城良雄、渡久山長輝、事務局長に、砂川義信の各
氏を選出しました。
当時の課題は、関東一円に在住する同窓生の氏名や住所を把握することであり、一年の
活動の重点をそのことに置いた。
第 2 回総会は、1988 年 3 月に開かれたが、国吉真正、砂川義信、金城良雄の各氏のご努力で見事に「琉球大
学同窓会会員名簿―関東支部」も出来上がった。当時、船越支部長は、名簿の巻頭で次のような、挨拶をされ
ている。「昨年 3 月、諸兄姉の多大なご協力のもとに発足しました琉球大学同窓会関東支部は、本日満一歳の誕
生日を迎えることができました。再び本会場に集い会員相互の旧交を温める機会を得ましたことは、私の最も
喜びとするところであります。昨年の創立総会において、お約束致しました同窓会名簿を本日お配りします。
――382 名の会員を掲載できました――どうぞ皆さん、この会員名簿を大いに活用して同窓会の本来の目的で
ある会員相互の親睦を計ってもらうとともに、将来に向けて大きなエネルギーを蓄積し、益々母校の繁栄に寄
与しうる関東支部に発展させようではありませんか」少し長いが、関東支部結成の目的と船越支部長や当時の
役員の心意気が感じられますので引用させて頂きました。名簿はその後、改定され 5 版を重ねています。
支部総会は、今年で 12 回開かれ、その度に同窓会長、同事務局長はじめ、大学長、ご来賓のご出席を頂き、
激励のご挨拶と懇親を深めております。又、各界からの講演会もお願いしてきました。 毎回、歌われる「琉大
逍遙歌」「琉球大学の歌」は、ありし青春の日々を想い、懐かしさと、同一キャンバスで学んだ同士の絆を強くし
ています。
歴代の支部長、事務局長名を記録し、感謝と敬意を表します。
第 1 代支部長 船越尚美氏(1987-1991年)事務局長 砂川義信氏、国吉真正氏
第 2 代支部長 国吉真正氏(1992-1998年)事務局長 山川昌昭氏、稲葉賢治氏 喜友名朝昭氏
第 3 代支部長 渡久山長輝(1999-
)事務局長 喜友名朝昭氏 伊礼廣子氏 島袋朝順氏
2
関東支部の昨今
昨今の、関東支部は、総会、懇親会を毎年開催し、講演や琉球舞踊などを楽しんでいます。 島袋事務局長の
手で、関東支部のホームページを開設し、総会、同窓会パーティー、諸事業などの写真を豊富に載せました。
このホームページは、
「琉大の歩み」や曲つきの「逍遙歌」で始まります。琉大ホームページにもアクセス出来る
よう、リンクしてもらいました。大学当局に感謝いたします。昨年は、同窓会本部ホームページも出来上がり、
大学と同窓会との連携に一役買っています。
昨今の同窓会パーティーに、琉球舞踊や琉球音楽をとりいれました。これには、クイチャーパラダイス主宰
の同窓生の仲本光正氏や比嘉千都代さんのご尽力があります。又、
「ゴルフ同好会」も発足し、6回のコンペも
行いました。これは、宮城重哲氏の努力です。
今後の課題は、会員をふやすこと、特に若い会員や沖縄県出身以外の会員の参加をすすめることです。 結
成 20 年目を向かえた当支部へのご指導、ご協力を心からお願いしつつ、希望と夢のある琉大と同窓会の発展を
期待致します。(2006.8)
第12回
総会・懇親会・スナップ写真
日時:平成17 年10月 22 日(土)14:00~17:30 2 次会:18:00~20:00
場所:日本教育会館9階 参加者:約30名
講演
重田 辰弥氏
株式会社日本アドバンストシステム代表取締役社長
余興
仲本光正氏( クイチャーパラダイス主宰)、 近藤光さん、他
総会では、比嘉同窓会長、宮城事務局長のご出席のなか、活動報告や次期役員案を審議・可決した後、重田
辰弥氏による特別講演を開催しました。同氏の琉大から早稲田大学、東大新聞研などの学歴、更に新聞社、公
務員勤務時代のエピソード、そして日本アドバンスト社を立ち上げるまでの苦労話、果ては沖縄の出身社員の
定着率など、日頃は聞けない生の経営者の話に出席者全員が耳を傾けていた。懇親会では、学長の挨拶やゴル
フ同好会の表彰に引き続き、関東地区を中心に 2000 名以上の門下生を持ち、大活躍している仲本光正氏(ク
イチャーパラダイス)の民謡演奏や琉舞で盛り上がり、最後はカチャーシーでの締めくくりとなりました。又、
隣の会場で行なわれた 2 次会は、ざっくばらんな雰囲気の中、自己紹介や体験談、沖縄の将来構想などに話の
種が尽きず大好評のうちに閉会となりました。
3
4
5
6
7
第19期 活動経過報告
(2005 年 10 月 ~ 2006 年 10 月)
2005 年 10 月 22 日
事務局長;島袋朝順
第 12 回関東支部総会・懇親会(2005 年度)
1.挨拶・各報告
2.講演
重田 辰弥氏 (株)日本アドバンストシステム 代表取締役社長
関東沖縄経営者協会&関東沖縄IT協議会 会長
3.役員改選
4.懇親会
来賓挨拶
琉球大学学長 森田孟進氏
乾杯音頭
同窓会事務局長 宮城武久氏
2005 年 11月1日
総会懇親会を中心にホームページの更新。
2005 年 11 月 20 日
第1回幹事会
「第12回 総会&懇親会(2005 年 10 月 22 日)を総括する」
1. 案内、芭蕉誌は一月前までに、必ず発送する。
2. 料理の過不足はなかった。
3. 来賓出席者は、森田学長、比嘉同窓会長、宮城事務局長、仲田沖縄県人会会長、
國吉琉球新報東京支社長、金城おきなわの声編集長、近藤光さん(声楽家芳原氏の奥様)、
滝本内閣府参事官、柴田さん(重田)、豊里氏(重田)、斉藤さん(重田)、照屋氏(宮城)。
来年は沖縄タイムス、沖縄県事務所に再び招待状を出す。
4. 参加人数が減った理由として、案内が一月前に出せなかったことと電話勧誘しなかったことなどが
考えられる。
5. 2006年度スケジュール
2006 年6月10日から活動をスタートする。担当は今まで通りとし、同窓会名簿は作成する。
総会案内部数は200名から300名以上にする。
案内は9月1日に発送し、役員会の開催回数を増やす。年4回
総会10月21日、11月忘年会
を兼ねて、総会の反省会と年間スケジュールを作成する。
翌年6月10日を幹事会活動スタートする。8月26日幹事会を開き、芭蕉誌や、総会準備のチェ
ックをする。
9月23日の役員会の終わりに、封筒詰め作業をして発送する。
6. 関東支部結成20周年記念パーティーと名打って第13期懇親会を開催する
草創期のメンバーで 6 月頃座談会を開き、芭蕉誌に寄稿分掲載の依頼をする。
メンバーは、渡久山氏、中島氏、桑江氏、喜友名氏、江洲氏、宮城調春氏、
國吉氏、加王さん、砂川氏、仲本氏、座安氏
7. お礼状の発送先
久米島の久米仙、仲本氏、かりゆし、県人会、琉大、同窓会本部、近藤氏、滝本氏、琉球新報、
おきなわの声、沖縄ツーリスト。
8. 関東支部結成20周年記念パーティーについて
1. 会員の利便性を考慮し、開始時間を3時にする。
2. 総会と懇親会は同じ部屋で開催し移動時間をなくす。
3. 学長を囲む2次会を今まで通り別部屋で行う。
8
4. 仲本さんの提案で、総会の持ち方を検討する。
5. 決議事項は、ハガキで事前に賛否をもらっているので、報告だけでよい。
6. 総会、講演の時も最初から泡盛を1/4に薄めたものを出す。 飲みながらであれば時間は
気にしない。机に水割りした泡盛を用意しておく(水差し等で)。講演は30分間。
挨拶は支部長、同窓会長、学長のみとする。その他の方は懇親会でお願いする。
7. 会員の中から講演者を探す。候補;仲本さん、中島さん。
8.総会3時開始 →
懇親会開始4時
→ 2次会開始6時。
学部別に集めてグループで何かやってもらう。
抽選会は今年も実施する。
案内等の送付は郵便を使う。
2006 年2月
有料ホームページを立ち上げる。
2006 年 6 月17 日
議題
第2回役員会
総会について
第13回総会&懇親会は関東支部結成20周年記念パーティーとして開催する。
1.
草創期のメンバーに、当時の思い出や社会状況、学生時代のこと、首里キャンパスの
ことなどを寄稿していただき芭蕉誌6号の特集記事として掲載する。
2.役員は手分けして、広告記事を取る。
2006 年7月
本部支部長会議に支部長参加する。支部長会議資料として芭蕉誌5号20部提供する。
会場:ホテル西部オリオン
2006年8月26日
第3回役員会
1.芭蕉誌
内容および発行部数(500部)の確認
2.新聞各紙に総会の案内を出す。
3.携帯ホームページの周知徹底とメール会員登録を促す。
4.会員名簿の修正・再発行を行う。
2006 年9月 24 日
第4回幹事会 芭蕉誌の中央閉じ、封筒詰め、切手貼りを行う
2006 年 10 月 21 日
第13回総会&懇親会(結成20周年記念パーティー)を開催する。
500部
20年度活動計画(案)
1.会員・組織の拡大 各期、各科の幹事体制を充実
2.本部・支部間の交流とコミュニケーション体制作り関東支部名簿と会報を進呈する、総会への各支部招待
する。
3.拡大幹事会を 1 回以上開く
4.会報作り(7号)、
担当
5.ホームページの充実。
記事や写真の提供を、同窓会のみなさまにお願い致します。
担当
宮城、
(補助)幹事会メンバー
島袋、三村、増永、宮城。
9
ゴルフ同好会活動報告
第一回ゴルフ大会スタート前の集合写真
平成 15 年 12 月に第 1 回ゴルフ大会を開催してから、これまで 6 回のコンペをこなし、合計 11 名の方々とプレ
ーをする機会が出来ました。仕事関係とは異なり同窓生ということで、和気藹々と楽しくゴルフライフをエン
ジョイし、渡久山カップ争奪戦を展開してきました。これまでの、成績を計上するとともに新しいメンバーの
参加を心からお待ちしています。
琉大同窓会関東支部 ゴルフ同好会名簿&成績表 (平成18年10月現在)
NO
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
氏名
芳原宣男
喜友名朝照
渡久山長輝
崎浜浩一
崎原永治
河田浩治
仲座政宏
宮城重哲
最勝寺久尚
翁長 享
名嘉盛光
学科・卒年
英文‘54 年
商学‘61 年
物理‘64 年
機械‘65 年
電機.‘65 年
機械‘66 年
保健‘73 年
法政‘76 年
保健‘78 年
電機‘78 年
教育’73 年
開催ゴルフ場
日程
第1回
107
②106
110
120
143
①85
③98
東名厚木
15.12.4
第2回
③103
①100
102
96
②81
川崎国際
16.9.15
第3回
③104
109
103
②101
第4回
106
102
109
②91
①80
①84
89
③95
アジア
取手
16.11.16
レイク
ウッド
17.8.6
第5回
②103
106
109
③94
第6回
106
100
110
① 87
90
120
①80
106
② 98
113
③ 111
ホワイト
バーチ
18.5.2
富士高原
17.10.30
ゴルフ同好会 会員募集
コンペを年2~3回ほど開催しますので、腕自慢の方は、下記幹事か事務局までお申込みください。
幹事:宮城重哲(1976 年卒業 法政学科)
自宅:045-904-9071 携帯:090-1732-4720
E-mail: [email protected]
10
101
第19期決算報告
第 19 期(05.4.1~06.3.31)決算報告書
収支報告書
収入
前期繰越
総会費
年会費
寄付金
組織強化金(本部より)
広告料収入
受取利息
合計
期首予算
単位:円
293,363
230,000
91,000
54,000
100,000
20,000
1
788,364
293,363
360,000
100,000
20,000
100,000
20,000
差額
摘要
0
-130,000 60 名予想→29 名(2 次会 18 名)
-9,000 100 名予想→91 名
34,000 来賓他
0
かりゆし、南風
1
906,435
来期(20 期)計画
来期予算
419,037
360,000 60 名
100,000 100 名
20,000
100,000
20,000
1,019,037
支出
事務用品費
通信費
名簿作成費
会報作成費
総会費
講演・余興謝礼
会議費
本部懇談会費
県人会他寄付金
交通費
雑費
次期繰越
合計
4,094
50,400
0
47,940
238,209
0
28,684
0
0
0
0
419,037
788,364
貸借対照表
06.3.31
現在
40,000
100,000
40,000
30,000
300,000
30,000
70,000
20,000
10,000
266,435
906,435
-35,906
-49,600
-40,000
17,940
-61,791
-30,000
-41,316
-20,000
-10,000
0
0
152,602
総会案内方法変更
名簿更新保留
第 5 号発行
役員会 2 回
普通預金
定期預金
合計
振込料他
329,037
1,019,037
197,789
283,000
480,789
負債・繰越金の部
未払金
次期繰越金
合計
61,752
419,037
480,789
次年度関東支部役員案
次年度関東支部役員(案)
支部長
副支部長
副支部長
副支部長
渡久山 長輝
加王 郁子
砂川 義信
崎浜 浩一
物理学科
家政学科
法政学科
機械工学科
11
40,000
80,000
80,000
80,000
360,000
50,000
0
0
資産の部
昭和35年卒
昭和35年卒
昭和39年卒
昭和40年卒
摘要
副支部長
副支部長
事務局長
副事務局長
企画部長
芸能部長
副芸能部長
総務部長
会計部長
会計監査
副会計監査
顧問
顧問
顧問
顧問
高山 厚子
運天 先弘
島袋 朝順
三村 邦彦
宮城 重哲
仲本 光正
比嘉 千都代
池田 正人
増永 弘
朝倉 明
江洲 良一
桑江 良奉
中島 政彦
喜友名 朝昭
國吉 眞正
初等教育学科
物理学科
電気工学科
電情工学科
法政学科
経済学科
心理学科
経済学科
商学科
海洋学科
電気学科
英文学科
教育学科
商学科
電気学科
昭和41年卒
昭和42年卒
昭和43年卒
平成4年卒
昭和51年卒
昭和56年卒
昭和43年卒
平成2年卒
昭和45年卒
昭和59年卒
昭和43年卒
昭和25年卒
昭和29年卒
昭和36年卒
昭和40年卒
20 周年記念誌寄稿文 寮生活の思い出
加王 郁子 副支部長
家政学科 昭和35年卒
かれこれ50年前の思い出になります。1956年に琉大(首里キャンパス)に入学し一年目は友人二人と一緒に間借りし
て学生生活を始めました。二年目から入寮でき女子寮生活が始まり、最初は戸迷い、次第に楽しくなりました。女子寮は
ちょうど園比屋武御嶽の後方にあり、階段をおりた所に、当時の平屋建て小学校の様な建物が二棟縦に並び、一部屋
が一教室位の広さでした。各部屋は10人~13人位ずつで、出身地も本島は北部、中部、南部、久米島等の離島に宮
古、八重山と多彩な顔ぶれで,学年も先輩後輩入りまじってのにぎやかな生活でした。部屋の中央に二段ベットが置か
れ、窓際に各自の机が配置されただけの簡素なスペースでしたが、それでも当時は不自由を感じませんでした。現在の
様に小学生の頃から個室を与えられている若い人には信じられないかもしれません。食事はご飯に一汁又は一菜でし
た。時には週末に帰省する友人の食券をもらい、それを分け合って食べたり、ある人はカボチャの煮物を食べ過ぎて、
手の平が黄色くなったりもしました。
女子寮は男子禁制(舎監の先生を除く)でしたので用のある男子学生は通りがかりの女子学生に”誰々さんを呼んで下
さい”と頼む。寮には名前は忘れましたが黒い犬がいて、男性を見ると吠えるのです。女子学生が帽子をかぶり、ズボン
にレインコートを着て帰って来たら、犬に吠えられたというエピソードもありました。 寮祭も楽しみの一つでした、各部屋
から出し物があり大いに盛り上がったのを覚えています。また、冬休みに先島方面の寮生は帰省せず残っている人が多
く、そんな時など男子寮生の部屋で10人位で鍋を囲んで談笑したこともありました、なつかしいですね。
現在観光スポットの守礼門は1958年再建され、当時寮生だった私はその美しさに魅了されました。今でも首里を訪れ
ると、昔日の首里キャンパスが目に浮かんできます。
思いつくままに記してきましたが1957~1958年の二年間の寮生活は楽しい青春の思い出の場であり、私に協調性を
培ってくれた場所だったと感謝しています。
12
寄稿
関東支部 誕生への思い
顧問 中島 政彦 教育学科 昭和29年卒
大都会での生活は厳しいものです。私が上京したのは 1960 年 3 月、今から 46 年前の事である。今にして思えば沖縄へ
の認識は浅く、渋谷の街頭録音でも沖縄が何処にあるのかさえ答えられない始末であり、沖縄人が日本語を話せるとは
思ってもいなかった。また当時は大学が雨後の竹の子の如く設立される最中であり、政治評論家の大宅壮一はこれらを
「駅弁大学」と称し、私達琉球大学卒業者のプライドを著しく傷つけた。各大手企業には旧態依然として学閥・出身地閥
が横行し、琉球大学卒と言っても誰も相手にしてくれず、寂しい現実に立たされた事もしばしばあった。
私達同期生の中で一足早く上京したのが船越尚美君であり、映画界のトップ企業である大映株式会社の貿易部に勤務
していた。英語が得意で黒澤明監督の「羅生門」を西欧に紹介した実績は高く評価された。その頃の若者の娯楽は専ら
映画鑑賞であり、彼の計らいで試写会へ何度も誘われ、封切り前の映画を見た。また大映の永田ラッパ社長の鼻息荒
い営業振りを拝見し、都会での営業活動を目の当たりにして感動した。特にニュージャパンホテルでの地方映画館主を
集めての決起大会では、当時では高嶺の花であったジョニ黒で乾杯し、飲み放題の接待をされたことは未だに忘れ得
ぬ思い出の一つである。
後に上京した仲井真格、富永元順、上田学等も銀座を案内され、都会的なセンスを身につけた。東京に先駆者がいると
いうことは、こんなに勇気付けられるものかとつくづく感じ、喜びと感謝の念に浸った。何時までも船越君の勘定に甘えて
はいけないと、お互いの友情をより深めるために各家庭を訪ね、会費 1000 円での懇親会を持つ事とした。予算オーバ
ーは許されないとの内規を設け、出席者 5 名で 5000 円での料理作りは、奥様達には大変御苦労をかけた。花畑団地の
船越さと子夫人は「料理は苦手ですが一生懸命作りました」と話されていたが、料理には心が篭っており、飲食店で飲む
雰囲気とは格段の差があった。青梅市の上田はる子夫人は「奄美大島から上京して友達も居らず、悶々とした毎日でし
たが、同窓生にお会いできてどんなにか勇気付けられたでしょうか」と涙ながらに語ってくれた。
異郷にあっては同窓生の存在は大きなものであり、その絆は益々深まっていった。
懇親会の数を重ねるうちに、後輩の拠り所となる同窓会を設立しょうと、1986 年 9 月に設立発起人会を中野の「山原船」
で開催した。そこには具志堅興三郎、仲本光正両氏も加わり、設立の準備が始まった。然しながら同窓会設立のための
基金もなく、準備資金として各人 5000 円を拠出し、在京同窓生の名簿作りから始めた。 設立準備会は毎回深夜にまで
及び、後輩のためによきアドバイザーになろうと心に誓い合った。世話人の薫陶宜しく、1987 年 3 月 28 日にはめでたく
創立記念総会を教育会館で迎えるに至った。
誕生までの経過を知る人も 75 歳を既に迎えており、年々少なくなりつつある。私は琉球大学同窓会関東支部の 20 周年
記念誌の1ページに記したい。私達設立に携わった会員の皆様方の思いはただ一つ、今後上京して来られる後輩諸君
を温かく迎え入れ、都会生活での寂しい思いをさせまいとするものです。どうか一日も早く都会の生活に馴染み、先輩諸
氏が経験した苦い経験を繰り返すことなく、それぞれの職場で成功してもらいたいと念願する気持ちで一杯です。
(2006年 6 月 18 日記)
13
寄稿
関東支部結成20周年を迎えて
芳原宣男 英文学科 1954 年 3 月終了
奄美大島出身なのに何故琉大へ入学?奄美の徳之島で生まれ育った私は、徳之島高校を経て、1952年に琉大教
育学部へ入学した。父親が小学生の教師であった関連から迷うことなく教育学部へ進学した。 敗戦後は奄美諸島も琉
球諸島と同様に米国の独善的な国策によって、統治権を米国軍政府の下に移管され、その結果、日本への渡航が禁
止となり従前のように進学校を自由に選択できる道がとざされてしまった。 このような歴史の背景から1950年米国軍政
府指令に基づき首里城跡に開校された琉大が唯一の進学可能な大学となった。大学の教育設備は簡素なものであっ
たが軍国主義教育から開放された学生は、あたかも乾いた砂漠の生き物が水を求めるが如く燃える向学心を抑え難く
新設の琉大へ参集した。
そして1950年5月めでたく第一回入学式を挙行、名実ともに琉大の歴史が始まった。 特筆すべきは一年生の中に
は教職に就いた人や復員軍人のような経歴の人たちがいて、その年齢の高さと学問に対する真撃な態度に痛く感心さ
せられた。若輩の私などは、このように学問に対して確固たる信念をもった年上の学友と机を並べて学べるだけでも思
考力を刺激されたものでした。 当時を振り返ると、教師陣の大半も又戦前の軍国主義教育を修めた方々であっただけ
に悩みもあったと思う。民主主義教育を普及させる立場の米国の大学の影響を受けたカリキュラムに基づいた新しい教
授法に馴染むのに相当な時間とご苦労があったように思う。 その頃の学長には志喜屋先生が就任しておられた。そし
て次期学長候補に安里源秀先生の名前があげられたように記憶している。教師陣は、島袋勇吉、亀川正東、大城ツル、
砂川恵正、伊礼、小橋川の各先生ぐらいだ。講義の方は、砂川先生の憲法概論の外はほとんど記憶に残ってないのが
不思議である。
一年次の教育学部の授業は大過なく進んでいた。しかし、ある日アメリカ人教師の講義を受講して、いわゆるネイティ
ブスピーカーのリズミカルな発音の“生の英語”を耳に触れて名状しがたい感動を覚えた。そのときの感動が動機づけと
なり、英文学科へ転部して実践英語の学習に励んだ。しかし英文科の英語も所詮は Book English に変わりないことが判
明したので、Living English を身につけるべく最速の学習方法を実践した。いわゆる、アメリカ人と一緒に働ける職場を探
す、外国人と同居できる House を探すという夢のようなアイディアが実現した。知人の紹介で牧港の米軍基地内の電話
交換局にて実践英語の習得が可能となる一石二鳥のアルバイトに就く。昼間のシフトは女性従業員に限定。夜勤及び
深夜は GI(米兵)と一緒に勤務するので、男性に限定。この仕事でもっとも苦労したのは、英語の数字/電話番号を聴き
取る耳の訓練である。日本人がもっとも苦手とする分野である。悪戦苦闘の 3 ヶ月のトレーニング期間を経でたころ、そ
れまで雑音としてしか耳に伝わらなかった英語が徐々に聞き分けられる様になった。毎日英語を聴いていると音と単語
が脳裏にインプットされ、ある時機自然に口から片言英語が出てきた。夜勤の米兵が偏執性の男で、議論を吹き掛け戦
勝国民の優越感をひけらかす者がいて悩まされた。特に当方が弁明できないパールハーバー事件などを持ち出し嫌が
らせをする彼に敵対心がつのり、和英辞典をつくって反論しているうちに片言英語で応戦できるようになった。これは正
にケガの功名である。
又、職安の紹介で大学の夏休み期間、安謝の米陸軍大尉の家庭に House Boy として住み込み、庭の芝刈り掃除、家事
全般を担う、そして実践英語が学べるユニークなバイトも経験した。わたしの仕事が評価されるようになった後半は、子
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供に恵まれないこともあって、料理を教えてくれたり丁重なアメリカ英語の手解きをしてくれたものです。はじめは緊張の
連続でしたが、気心がわかってくるに従い俄か養子のような雰囲気になり大尉夫人も当感の表情を見せる様になった。
奥さんは初めてアジアの少年と同居して自然に母性本能が芽生えたと見えて、私を米国へ連れて帰りたいと提言があっ
た。しかし、私には米国の豊かな文明社会への憧れもあったが、同時に敗戦国民の悲哀を思うとき私には断る事しか考
えられなかった。今思い起こしても複雑な気持ちになります。米国人と一緒に働き又は同居して発見した事は、常にフェ
アかアンフェアかの基準で勝ち負けを決める告訴社会で生活していることが理解できた。アメリカ人も個人的に付き合え
ば、とても面倒見がいい陽気な人たちである。このように課外授業に精を出したおかげで、英語で意思の疎通が可能と
なった。
その頃、奄美諸島の本土への返還が決定した。この決定に付随して奄美出身の琉大生は翌年の1954年3月付で本土
の大学へ転校する運命となった。琉大に残って、英語力を高め米国留学への淡い夢などもあったが、那覇出身の大切
なガールフレンドのこともあって、浚巡しつつ後髪をひかれる思いで時勢の流れに順応してしまった。因みに、このガー
ルフレンドとはその後めでたく結婚して幸せな家庭を築くことができた。これも琉大が縁結びとなっている。斯かる歴史の
めぐり合わせから私の琉大在学は二年の歳月で修了となった。
その後、紆余曲折あって、東京で再び英語国民と一緒に働く巡り合わせになったので“昨日の敵は今日の友”の格言に
添った人生を送ることになる。第二次英語ブームと企業等の要請で東京駅前に15ヶ国の外国人教師を擁する語学学校
を開校。東京の主要企業と政府の海外要員の外国語研修を支援して30余年に亘り微力ながら貢献できたこと、そして
多くの欧米諸国を訪れそれぞれの異文化について見聞を広めることができた人生を喜びとしている。
このように生涯を通して、英語で身を立てることができたその原動力は琉大の英語が根幹をなしていると肝に銘じている。
結びに母校の発展と併せて琉大同窓会関東支部結成20周年記念を祝します。
寄稿
関東支部が設立された頃
國吉眞正 昭和36年電気工学科卒
設立されるおよそ1年前から、名簿の整理に時間をかけて、綿密に情報収集に力を入れてきました。それは1986年の
春頃からのことでした。これまでに本部の同窓会で発行された同窓会名簿は、昭和48年の「学友」と昭和61年の「琉球
大学同窓会会員名簿」の2冊でした。昭和48年版は参考までに使い、主に昭和61年版を使って、関東地区に住んで
いる方々を抜き出し、名簿の整理を始めたのでした。しかし、これらの名簿は不備な点があって、住所の番地がなかった
り、名前が間違っていたり、あるいは転居先が不明になったりして、多くの郵便物が戻ってきたものでした。その当時は、
パソコンが現在のように家庭に普及してなかったので、名簿の整理や宛名書きは、すべて手書きでやっておりました。こ
れは人手と時間がかかるものでした。
仕事の合間を縫って、250人程度の同窓の人を探し出すのに、5~6人で1年もかかるのは、止むを得ないことでした。
関東支部設立後2年目からは、これらの仕事は、すべてパソコンによる管理に移行しましたが、今ならパソコンを使って
名簿作成をするだけであれば、一人で2日程度で出来る仕事量です。仕事の進捗具合について、時々打ち合せをする
場所が必要となりますが、忘れてはならないのは、法政学科出身の砂川義信さんの法律事務所を貸していただいたこと
です。時々何人かの人を集めて、彼の事務所で仕事をしたものです。ほんとにありがたいことだと思っております。
名簿整理には口コミも大切な情報収集でありますが、新聞の「名簿づくり」コーナーも効果的でした。最初に載せてい
ただいたのは、1986年5月13日付の読売新聞の「名簿づくり」欄でした。続いて1986年10月2日付の朝日新聞の「名
簿づくり」欄にも載せていただき、名簿づくりを呼びかけております。更に1986年8月15日付の月刊「おきなわの声」に
も、設立準備会の記事を載せていただいております。これらの新聞を見て20余人の方々から連絡をいただいたのです。
関東支部が出来るのを楽しみにしている旨のメッセージをいただき、大変嬉しく思うと同時に、ますますやる気を起こした
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ものでした。
このようにして名簿が整理されて、翌年の1987年からは、本格的に関東支部の設立準備会を持つことになり、1月13
日に新年会もかねて準備のための打ち合せを行っております。2月6日の準備会では、より具体化して設立総会を3月2
8日(土)に決め、支部長候補に社会学科出身の船越尚美さんが推薦されました。そして3月13日の準備会では、設立
総会の具体的運営方法について、打ち合わせを行っております。最後の準備のための打ち合わせは、3月24日に日本
教育会館で行ない、およそ1年の準備期間が終わったのでした。
さて、いよいよ3月28日の関東支部設立総会がやってまいりました。当日はたくさんの方々がお見えになり、来賓の
方々を除いて、なんと105人の同窓の方々と元教官の方々2名のご出席をいただき、素晴らしい設立総会になったので
した。
あれから19年余経つことになるのですね。来年の2007年3月28日には関東支部設立20周年となりますので、この節
目に同窓会の運営方法をじっくり考えるのもよい機会となりましょう。
『おわりに』
同窓会運営と言うのは、毎年同じことを繰り返していると、マンネリ化して会が盛り上がらないのは、準備に携わる方々
の悩むところです。役員全員で考えるよりも、1人か2人のアイディアマンに任せて、毎回異なるアトラクションを考えて提
案の形で、役員会に提出させるのも一つの方法だと考えます。勿論会員が参加して半日を楽しく過せるパーティーにな
るようなプログラム作りをするのは、言うまでもありません。せっかくの同窓会ですので、アトラクションの前に、各業界で活
躍している若い会員(卒業して5年~7年)の方々の研究発表の場を設けるのもよいでしょう。これは時間を30分に定め
て、発表の訓練にもなるようにするとよいでしょう。そしてたまには、中型のコンサートホールを借りて同窓会主催のチャリ
ティーコンサートを行ない、売上の何パーセントかは福祉団体へ寄付するなり、やることはいっぱいあるような気がしてい
ます。
琉球大学同窓会 関東支部へ寄稿
2006年8月16日
20 周年記念誌 寄稿文
事務局長 島袋朝順 昭和 43 年
電気工学科卒
ホームページについて
役員の皆様の要望に答え、同窓会の皆さんに2004年の正月から楽しんでもらうために、2003年12月
にホームページ(Ⅰ)を立ち上げました。先が読めませんでしたので、 とりあえず、無料で 50Mbyte の容量で
スタートしました。電窓会の関東支部長の時、電窓会の事務局長をしてくれていた、平良栄吉さんに電窓会の
ホームページを作ってもらいましたが自分で作成したのは今回が初めてでした。電窓会のホームページを真似
して、娘から HTML の言語をならって、ホームページビルダーの力を借りて、やっと2003年10月末にスタ
ートできました。皆様は電気科卒ならホームページは作れるのがあたりまえと思われているところが大変辛い
ところで、小生は計算尺や真空管ラジオや真空管テレビ全盛のころの人間で、トランジスターがラジオとして、
実用段階に入ったころ首里キャンパスを卒業しましたから、コンピュータとおよそ縁のない学生時代を過ごし
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ました。1990 年代はじめ NEC の PC-98 が普及 して DOS-V から Windows3.1 がでるころ50歳の坂を定年に向か
って駆け上っている頃から、仕事にコンピュータが入り始め、Windows95、Windows98、windows2000 と馴染み、
定年後、自作のPCに windowsXP をインストールしてホームページの管理や写真編集に使っています。作成し
たホームページは実用に耐えることができれば良いかと思っています。 担当して3年経ちました。はやく後輩
に後を託しよりよいものを作成して欲しいと願うばかりです。ホームページの説明をいたします。アドレスは
下記のようになっております。
琉大同窓会関東支部ホームページ(Ⅰ):http://ryudaidosoukai-kantousibu.hp.infoseek.co.jp/
琉大同窓会関東支部ホームページ(Ⅱ):http://ryudai-dousou-kantousibu.web.infoseek.co.jp/
ホームページ(Ⅰ)は無料、50MByte の容量です。琉大15年史のビデオは 21MByte ありますので、50MByte では
大きいとはいえません。琉大のホームページにリンクされているためにホームページの入り口としての役割を
もたせております。ホームページ(Ⅱ)は有料 年 6300 円 300MByte ありますので、倉庫の役割をもたせて使い
分けています。たとえば琉大創立50周年記念写真集はホームページ(Ⅱ)に置いてありますがホームページ
(Ⅰ)からリンクできるようにしています。記事はいつも豊富で新鮮でと思い同窓生の身近な話題、職場紹介、
旅行写真、学生時代の写真、キャンパスの写真等寄稿してくれるようにホームページ(Ⅰ)の1ページでお願い
しておりますが今まで寄稿してくれた方はお一人だけでした。ほとんどが一人で考えて作成して偏りがちです
ので、是非皆様方の協力をお願い致します。ホームページを積極的に利用してくれることを期待しています。
会計記録から見た関東支部の 20 年史
会計部長 増永 弘 商学科 昭和45年卒
設立の動機は、ある結婚式で集まった同窓生の話しがきっかけで、1986 年 12 月に 9 人の出資者で銀行口座が開設さ
れました。ゴム印、文具、ハガキを購入し、87 年 3 月 28 日に第一回総会が教育会館で開かれ、104 名の参加がありまし
た。寄付は沖縄県人会をはじめ沖縄県知事西銘さんからも寄せられました。第二回総会は 88 年 3 月 50 名の参加を得
て行われ、名簿第一版が発行されました。
89 年は総会無く、90 年には初めて同窓会本部より組織強化金 10 万円を頂き、会費納入案内を発送し、名簿第二版を
発行し、第三回総会が 4 月に 41 名の参加者で行われました。91 年は総会無く、会費納入案内を 450 名に発送し、102
名の会費納入がありました。92 年、第四回総会が 10 月に 40 名の参加者で行われ、75 名の会費納入がありました。93
年度の総会はなく、会費納入者 12 名、94 年度は総会、会費とも無く、会報第一号を発行しました。95 年度は第五回総
会が 10 月に 62 名の参加者で行われ、75 名の会費納入があり、名簿第三版及び会報第二号を発行しました。この回で
は砂川恵伸学長に出席して頂きました。96、97 年度は総会、年会費共なく、98 年度は、第六回総会が 4 月に 46 名の参
加者で行われ、46 名の会費納入がありました。99 年度は総会、年会費共なく、2000 年度は第七回総会が 10 月に 66
名の参加者で行われ、49 名の会費納入がありました。01 年度は総会、年会費共ありませんでしたが、琉大開学 50 周年
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募金活動として、関東支部会員に広くよびかけ、特に当支部からの寄付が多く寄せられ、同窓会本部より感謝を頂きま
した。02 年度は、第八回総会が 10 月に 73 名の参加者で行われました。03 年度は、第九回総会が 10 月に 52 名の参
加者で行われ 73 名の会費納入がありました。名簿第 4 版を発行しました。この年に同窓の大城ミサさん(在沖縄)の琉舞
を語る会が東京であり、賛助の花輪を贈りました。04 年度は、第10回総会が 10 月に一次会 57 名、別室での二次会 42
名の参加者で行われ 58 名の会費納入がありました。会報 3 号を発行しました。又名簿の修正版を発行しました。05 年
度は、第11 回総会が 10 月に一次会 37 名、二次会 23 名の参加者で行われ 77 名の会費納入がありました。会報 4 号
を初めてカラ-で発行しました。名簿発行につきましては、個人情報保護の推移を見守るとの観点から発行を見合わせ
ました。06 年度は、第12 回総会が 10 月に一次回 29 名、二次会 18 名の参加者で行われ 91 名の会費納入がありまし
た。会報 5 号を発行しました。名簿作成はこの年も見送りました。当支部のあゆみは上記の通りです。
現在の財政は会の規模に比しまだまだですが、健全かつ充実させ、会の円滑な運営に資したいと思います。会員の皆
様には毎回、会の運営にご協力頂き感謝申し上げます。今後とも役員一同、関東支部の隆盛に向け、努力致しますの
で会員の皆様のご理解とご協力を宜しくお願い申し上げます。年会費でご協力頂いています会員の方も是非総会へも
お越し頂き会員、学長との交流を楽しんで頂きたいと思います。又、会を担っていただける有志の方を募っております。
多くの会員のご協力を得て、一緒によりよい運営を目指しましょう。
職場訪問
仲本光正氏
クイチャーパラダイス代表(経済学科・昭和 56 年卒)
今、全国でNO1の会員数を誇る沖縄三味線教室は、クイチャーパラダイスであろう。関東地区を中心に全国
規模で約 2000 名の会員数を誇っている。この教室の特徴は、単なる三味線教室にとどまらず、琉球舞踊、オリ
ジナル三味線の開発販売(10月現在、全日空機内誌で販売中)、オリジナル工工四の作成、会員制グラビア
雑誌「島たや」の発行などと枚挙に暇がない。更に、毎年 12 月に新宿京王プラザホテルの宴会場を貸切り10
00名の会員の発表会を行ったり、故郷の宮古島へ300名を超える会員&家族での演奏旅行などを挙行し宮
古島の「島ん人」との交流にも一役買っている。7月29日から開催された「第5回中国フフホト国際民族芸
術祭」に仲本氏のお弟子さんら20名が招待され、20カ国から参加したアマチュア演奏家らと腕を競い合っ
た。代表の仲本氏に今後の抱負を聞いてみると、2010年にビッグサイトでの10万人コンサート開催、2
015年には会員30万人達成、そして故郷宮古島のGDP1000億円を3000億円にするべく努力した
いと鼻息が荒い。今後の努力に大いに期待したい。
取材
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宮城重哲
同窓生のオアシス
ママの嘉手納清美
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(毎年総会へ美味しい泡盛を差し入れてもらっています。感謝!!感謝!!)
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編集後記
久しぶりに、故郷に出張する機会があったので、母校「琉球大学」があった首里城一帯を散策した。
勉学よりもアルバイトと吹奏楽部の部活動で青春を謳歌していた私の目には、往時を思い起こす建物や雰囲
気は一切なく、ただ部室があった辺りに雑草が生い茂っているのが寂しく映るだけであった。
帰りに首里高校に近づくと、朝の登校時間とかち合い校門近くがざわざわしている。その雑踏の中で、ふと気
づいたことであるが、多くの高校生が父兄の車で送迎されてきている。その数があまりにも多いので、門で生
徒たちを迎えている教師の方にその理由を聞いてみた。曰く、学区が拡大された為バスでの通学が困難な為と
言うことである。しかし、今沖縄では、地理的にバス通学が困難な高校生に限らず、子供たちの送迎を多くの
父兄が朝のお勤めとしてこなしており、ラッシュの一因にもなっていることを聞いたことがある。
様々な事件が起こる昨今、一概にそれを非難するわけではないが、利便性の提供と引き換えに子供たちの大事
な自立心を失わせているのではと危惧するのは、中学まで5キロの道のりを歩いて通った経験のある私一人で
あろうか?この高校生たちは、母校「琉球大学」に入学したらやはり親に送り迎えさせるのだろうか?と、い
ろいろ考えさせられた朝のひと時であった。
「携帯ホームページ」も完成しました。表紙のQRコードかメール会員登録用アドレスにご登録いただくと、
関東支部や琉大に関する情報を携帯メールでお知らせしますので是非ご利用下さい。
2006年10月 宮城重哲
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