婆殺し その周辺 ―四人塚のナゾ

婆殺し その周辺 ―四人塚のナゾ
「婆殺し」とは、東町の老人ホームからさらに二キロ奥へ入った所に付けられている地名である。
聞き捨てならないその地名を、東町生れの川潟 清は小さい時から耳にしていたという。 しかも大正
十一年生まれの彼でさえ、なぜ婆殺しと言われていたかは分からないというから、かなり古くからそ
う名付けられていたのだろう。
浦河町史には婆殺し伝説として次のように語られている。
百年以上も前、チノミウリ(東町)に一人の老婆が住んでいた。 息子は母を楽にしてやりたいと西
舎に働きに行っていた。長いこと会わずにいた息子の顔を見たくてたまらなくなった老婆は、家を出、
杖にすがって西舎への道を急いだ。 道とはいっても石ころばかりの歩きにくい道で、山を越えないう
ちに日が暮れてきた。 そのうち道に迷い、急な山道にさしかかったところで突然道が崩れて転落し、
息子の名を呼びながら老婆は息たえてしまった。 以来この道を通ると、人の呼び声や足音が聞こえる
と言い伝え、誰とはなしにその付近を婆殺しというようになった。
東町から婆殺しを通って西舎へいたる道は、 乳呑(ちのみ)山道 あるいは 西舎山道 と呼ばれ
ていたが、明治四十年に着工されたものである。 その年は日高種馬牧場が創設された年でもある。一
里半の道の開削に十二年の歳月を費やし、大正八年に完成した。砂利は乳呑川、幌別川から運び、木
材は道路付近の良材を切り出して用い、あるところは婆殺しの岩山の石を切りだして石垣を組んで道
をつけたという。
馬車が一台通れる位の道幅であったが、浦河・西舎を結ぶ近道として、多くの人たちが通って行っ
た。活動写真を見にいそいそと越えて行った者もいれば、種馬牧場に買い上げてもらう燕麦を馬車に
積んで何度も行き来した者もいた。正月二日の売出しには、夜明け前から何台もの馬ソリが、
カンカラ、
カンカラ、浦河の商店街めざして駆けていった。
昭和の初め杵臼に住んでいた富菜キミは、畑仕事が終わってから、娘同士連れだってよく浦河へ盆
踊りに行ったものだと言う。山道を通って行き来したが、月が出てなくても懐中電灯がなくても道は
見えたそうだ。「あの頃は怖いもの知らずだったさ。唄っこうたったりペチャクチャしゃべって歩く
んだもの。だけど婆殺しのことは知らなかったわ。知ってたら、おっかなくて通れなかったべさ」。
婆殺しと呼ばれるのは、葬斎場北側にある岩山の下附近で、山道はこれを巻くようについていた。
その道は、川の流れとうっそうたる木々に挟まれてひっそりとしていた。昼なお暗く、いつ岩が崩れ
るやも知れない谷の道を歩くのはいい気持ちではない。ここが婆殺しと知っていたなら、一刻も早く
通り過ぎてしまいたいと、だれもが足早にかけ抜けていったことだろう。
昭和五十六年、乳呑山道は町道東町―西舎線として拡幅されることになり、岩山の裾が切り割りさ
れた。そのため今では切り通しの明るい舗装道路に変わってしまい、婆殺し伝説に語られた不気味
さを感じることはなくなってしまった。ところが旧道の上の小山を登りかけると、草むらに高さ八〇
センチほどの石碑がたっている。正面には 四人塚 と大きく刻まれ、側面には 昭和二十三年九月
二十五日 と建てた日付がある。
昭和の初めから戦後にかけて、婆殺しの奥には炭焼に携わる家が十数軒あった。和田芳美は昭和
十三年に炭焼きに入ったが、その時すでに六、七寸の角材四本を組み合わせた四人塚が岩山にたてら
れていたという。聞くと、岩山の裾をまわってつづく山道は乳呑川に沿っているが、そこにもうひとつ、
Y字型に東に入る沢があった。その沢は急な山道となって行き止まりになっていたが、幅広かったた
め、間違えてその沢に入ってしまう人がいた。なかには道に迷って死んでしまった人もいた。それが
偶然お婆さんばかり四人だった。それで四人塚を建てて供養しているというのだ。
岩山の周辺には 四人塚 をはじめ、お稲荷さんや山の神、石山の神が祀られていた。昭和十四年、
炭焼きの人たちはそれらを一ヵ所に集めてお祭りをすることにした。誰いうとなく 四人塚の祭り
と言い、毎年九月に年寄りや子どもたちが集まって賑やかにお祭りをした。お祭りには旭町に住んで
いた 願日(がんび)の神様 (畑山サト、昭和二十七年没)に来てもらい祈禱をしてもらった。
ところが終戦の頃には、炭に適した木を切り尽くして炭焼窯はなくなり、ほとんどの者が他の仕事
をみつけて山を下りた。四人塚の祭りは戦後も東町の年寄りの手によって続けられ、昭和二十三年に
は石の塚にたてかえられた。しかし年月がたち年寄りたちが亡くなると、いつのまにか四人塚の祭り
も忘れ去られてしまった。
昭和五十六年岩山が削られることになった時、 四人塚 はお祭りに集まっていた年寄りの子息た
ちの手によって、現在地に移された。塚の後には木を植え、お坊さんをよんで供養をしたが、それが
最後だった。今は塚の横に積まれた石も崩れ、苔におおわれている。夏には草のなかに隠れて塚は全
く見えず、ごく一部の人だけがその存在を知るのみとなった。
しかし四人塚は忘れ去られても、婆殺しの地名だけは今も生き生きと語り継がれている。誰が付け
たか知らないが、ネーミングのうまさで、婆殺しは今後も浦河の名物地名として行き続けることだろ
う。
四人塚と婆殺し。それがどのように結びつくのか、今となっては知る人もいないが、亡くなった四
人のうちの一人は、あるいは婆殺し伝説に語られる理由で亡くなったのかもしれない。
[ 文責 小野寺 ]
【話者】
鞍留 光男 浦河町東町 昭和三年生まれ
熊谷 二郎 浦河町東町 昭和二年生まれ
和田 芳美 浦河町東町 大正四年生まれ
富菜 キミ 浦河町東町 明治四十五年生まれ
川潟 清 浦河町東町 大正十一年生まれ