『山の辺・感動の旅』 (「教祖様」をたずねて)

『山の辺・感動の旅』 (「教祖様」をたずねて)
2005/5/14-15 池田三省
今回の旅は、新しい発見の旅でした。
京都から近鉄電車で天理へと向う、のどかなぶらり一人旅の気分で天理に着く。
初めての方、久しぶりの方との再会である。貸切りバスで「中山ミキ」縁の地を辿る旅の開始
です。大和盆地の天理は、初夏を感じさせる新緑の山並みが少し霞みがかった空に映える。
■最初に訪れたのは、天理図書館である。
図書館では、
「教祖様」が掲載されている天理時報のダイジェスト版を閲覧する事が出来ま
した。しかし、二代目真柱氏に貸したとされるフランスで入手した洋書や先生の作品を探す
時間がありませんでしたが、蔵書カードで先生の作品を検索してみみると、
「経済学に於け
る社会学的方法」や他の作品はありましたが、
「教祖様」
、
「神シリーズ」は見当たりません
でした。
蔵書が194万冊、国宝級資料も多くあると説明を聞く。また、教祖(中山ミキ様)自筆の「お
ふでさき」と一般に公開されていないと思われる約2万件の「おさしず」が纏められた本も
陳列されていた。ふと手にとって神の神秘に触れてみたい誘惑にかれました。 また、樋口
一葉のしなやかで細く流れるような美しい自筆の「たけくらべ」の原稿。隣りに、夏目漱石
自筆の手紙も陳列されていました。 樋口一葉の達筆さには驚きました。
昭和5年に建てられた風情のある外観、落着きのある内装の図書館を後に教祖(中山ミキ様)
の生家三味田に向かう。
『天理時報』(昭和 25 年 10 月 20 日)
「天理図書館の前で」
(シャッターチャンスが少しずれていますが・・)
「天理図書館の蔵書カードより」
(「経済学に於ける社会学的方法」と書かれています)
■先生の昭和13年の作品「習俗紀」で、天理教本部が放置し荒れていると書かれていた生家
である。 作品「教祖様」に書かれている、ミキ様が嫁ぐまで過ごされた家を見学する事が
できた。 ミキ様が誕生された部屋や、仏間、勉強部屋、そして裕福であった証しの7つの
釜戸がある台所。それぞれの部屋に自由に上がることが許され、ミキ様が誕生された部屋の
前で佇んでいると、天保時代に神懸かりになる前ののどかな時代を過ごされたミキ様と、教
親になる運命のミキ様に思い巡らせました。 入館料もなく、維持するのは大変であること
が想像できる。天理教教会本部の神殿と比較すべきものではないかもしれないが…・あの磨
きぬかれた長い回廊と比較してしまう。 しかし、生家に若い修養科の半被を着たたくさん
研修生が来ており、将来は本部により保護されるのではないかと思った。
周りを見渡せばなんとものどかな大和の田園風景である。ミキ様が神を思い求めていた時代
の風や和らいだ陽射しが、今、私が肌で感じている風も陽射しもその日のままである。
しかも、200年前に実在した中山ミキ様の不思議さを感しる。
次に教祖様の墓所にお参りに向かう。
「教祖誕生殿」
「教祖誕生部屋」
■バスを降り、若葉の薫る新緑の道を少し登っていくと、天理全体を見渡させる小高い丘に親
様の墓所がある。しかし、存命の親様は、広く世界助けに飛び回っておられるため、この場
所でゆっくりお休みになることがあるだろうか? と思いながらお参りをした。
「バスを降りて墓所に向かう新緑の道」
「教祖の墓所」
■ホテルに 17:00 に着く。 夕食前(18:00)に笠原芳光先生の講演が始まる。
演題「文学にとって宗教とは 『教祖様』をめぐって」である。講演内容をメモしたものを
以下に纏めてみました。
(聞き漏らした内容が多くありますが…)
先生は、イエスに関する研究家であり、イエスを中心に以下の 3 つのテーマについてお話
していただきました。
(1)
「教祖様」の問題点
〇教祖と教団の問題である。教祖の精神(教え)が教団とに差異がある。
・イエスも中山ミキも教祖であるが、二人とも教団を作ってはいない。
キリスト教場合はイエスの死後に弟子達が教えを曲げて教団を作った。
(宗教の定義:「教義」と「儀礼」と「教団」である。
)
〇「神」と「人間」の関係(イエスとキリスト教団の差異)
・キリスト教団:「神」と「人間」は隔絶している。イエスによってのみ、神が人間
を救われる。
・イエス:
「神」と「人間」との一体感を自分の福音として生きた人。
誰でもが、イエスになり得る。
〇「救済(人間を救う)
」の関係(イエスとキリスト教団の差異)
・キリスト教団:神―>イエス・キリスト(メシア)―>人間 (上下垂直の関係)
・イエス: イエス<―――>病人 (水平関係で相互主体)
・あなたの信仰があなたを救った。
(2)宗教と宗教性
〇宗教とは、「人間」と「人間」を超えたものとの「関係」の「体系」である。
・
「関係」とは、『無形』
・信仰する。 ・不信仰である。 ・疑いながらも信仰する。
・
「体系」とは、『有形』
・教義 ・儀礼 ・教団
〇宗教性
・自分(池田)の理解不足で先生のお話しでは、宗教性をうまく理解出来ませんでした。 が、
人間を超えたものの存在を「信」と「不信」で、自らの生き方を問い直す事が宗教性で
はないかと思いました。
(人間の根源的な可能性を見つめる)
〇良寛の言葉を紹介してくれました。
・
三世の諸仏 無仏性
一切衆生
有仏性
(注)三世(過去・現在・未来)・一切衆生(人間には)
(3)文学と宗教
〇文学は人間の問題を表現する。
・
人間の問題性を含んだ神の問題を表現すべきである。
・
ドストエフスキーの文学は「信」と「不信」の文学である。
〇宗教のための文学(宗教文学)は存在しない。
〇文学は、
「宗教性」(人間の根源的な問題を表現する)のみ成立する。
先生は最後の纏めとして「宗教はヒント」である。
懇親会の中でも、会員の方から色々な質問があり盛り上がりました。
詳しく知りたい方は,先生の著作「イエスとはないか」
(春秋社 2005/2/20 発行)
又は、HPに掲載されている講演記録『ブッタとしてのイエス』1999/10/27)を参考にして
ください。
(http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/emag/data/kasahara-yoshimitsu02.htm)
■笠原先生の講演で、先生が聖書を研究した結果のお話しで、
①イエスは母親(マリア)とあまり仲が良くなかったのではないか?
②イエスはキリスト(メシア)ではなく、発心(宗教的関心を持つ、又は宗教に入ること)し
てヨハネ教団に入っている。
③ キリスト教の「マリア崇拝」は4世紀ごろにヨーロッパにキリスト教を布教するため、
ヨーロッパの「シボシン(慕母神?)
」のような母親が必要となったためマリアを担いだ
のではないか?
など、キリスト信者でない私にとっても驚きの内容でした。
また、教祖と教団の関係について、習俗紀に書かれていた父親の姿は、道を説く父親が無意
識に信仰社会の忠実な社員になり下がった。と言わしめるほどの、教祖の教えと教団とが、
かけ離れている。 教団の外の私がどのようにすればいいのかわかりませんが、先生のお話
しの中に、椎名麟三が洗礼をうけるとき、埴谷雄高が
「君が宗教性を持つのはいい。ただ教団に入ってはいけない。君自身、イエスと同じ立場
がいいのではないか」と言ったそうです。この言葉は、私にいろんなことを考えさせてく
れた言葉でした。
「懇親会(先生を囲んで)の一場面」
■15日、朝 8:30「石上神宮(いそのかみじんぐう)」にタクシーで向かう。
木漏れ日の参道ををゆったりと歩いていく、神宮としては珍しいお寺のような門がある。
この神宮を拠点として2つの「山の辺の道」のハイキングコースがある。
(櫟本駅と長柄駅に向かうハイキングコースである) 時間があればゆっくりと散歩したい
ものである。
石上神宮は、最古の神宮の一つとして有名である。全員、国宝の拝殿で参拝させていただき、
宮司様より、鈴の付いた榊で御払いをしていただき、その鈴の振動が神の力です。と話され
たが、よく理解できませんでしたが、病気治癒にご利益があるととのこと。 身も心も清め、
天理教教会本部へと向かいます。
(木漏れ日の参道)
(楼門を背景に)
■天理教教会本部の黒い鳥居の南門から南側の教庁を望むと日本とは思えない風景である。
幻想的な建物と朱色の色使いは、まるで宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」に出てくる「油
屋という神様の湯屋」(下のイラスト)を連想させる。 また、北側の神殿を望むと厳粛な
静けさが漂う眺めである。 神殿は、畳1600枚以上の広さである。 キリスト教の大聖
堂は天に向かって祈るかのよな垂直に伸びている。 天理教の神殿は、地を這うように水平
に広がっている。 神殿の中央には屋根がなく、雨、雪、風、太陽すべての自然の恵みを包
み込むように甘露台が祭られている。 我々は、東礼拝場から甘露台に向かって礼拝させて
いただいた。 東西南北の各礼拝場から礼拝できるようにすべて開放されている。西礼拝場
からの心地よい風が頬に胸に感じる。風とは不思議である。この風がイエス、中山ミキに降
りた神の意志のように感じる。
近くには真摯な家族の信者さんが、お手振りをしながら
おつとめをしている。 次に、教祖殿に向かう。磨きこまれて黒光りのする幅広い回廊を素
足で確かめながら歩く会員の方もいた。
人間の運命(第2巻 友情 第6章)に祖母と本部を訪れた場面がある。大正七年に訪れ
たときは、大正三年から施工された北礼拝場で礼拝したと思われる。また、親様が実際にお
住みになって教えを広めていた「内蔵」
・
「つとめ場所」が「記念建物」として保管されてい
る。親様が手に触れたと思われる手摺に触れると、親様に触れたような気持ちになる。
すべての見学がおわり、神殿を出るとき、偶然にも信者さんの結婚式に出くわしました。
花嫁は白無垢でなく、黒無垢(?)というか、派手さを感じさせない本当の神の前での厳粛
な結婚式のように思われた。
(千と千尋の神隠し)
(南門より教庁を望む)
(南門と神殿を望む)
「神殿を背景に」
■天理本通りを散策しながホテルに戻り、石上神宮のお神酒をいただきながらの昼食である。
そして解散です。
今回の旅も無事に終わりました。
お世話役の小林様有難うございました。
(次回は,韓国の旅です。
必ず何か心に残ります。
)
以上