チュニジアにおける多言語状況と文学 - 筑波大学北アフリカ研究センター

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筑波大学 青柳悦子
はじめに
[1]
は文明の交差点にある。複数の文化が重層的に混在し、複数の言語を使用することによって発
[2]
展をつづけているこの小国 に目を向けるとき、とりわけわたしたち日本人は多くの意識変革を経験することに
なる。文学をめぐる考察に関しても同様である。たとえば文学を国家別に(それもわずかな数の欧米諸国を中心
として)類別するやり方が近年批判され、言語別に考えることがより妥当だと考えられるようになってきた。しかし
多言語地域の文学は、そうした「言語割り」の基準だけでは把握できない。しかも実は世界の国々のほとんど
[3]
(90%以上)が多言語使用国であるという状況 からすれば、西欧近代的な「国民国家」の(理念上の、すなわち
[4]
実態とは別の)単一言語使用 をモデルとするような文学言語観は修正されるべきであろう。世界でもっとも巨
[5]
大な単言語使用国家である日本 の国民であるわたしたちは、むしろ世界のスタンダード(標準的な様態)であ
る多言語状況について真剣に学ばなくてはならない。交通と情報通信の飛躍的な発展によって全世界の住民
がますますなんらかの程度で多言語に触れながら生きていく状況にある今日、チュニジアの事例は、文化と文
学を考えていくにあたって必要な視座を提供してくれるにちがいない。
チュニジア
I.チュニジアの多言語状況
まずチュニジアの地理的位置について確認しておこう。チュニジアは地中海に面してイタリアの向かいにある。
この位置が、この国の多元性を、そして多層的な周縁性を、すでに雄弁に示している。チュニジアは古代から地
[6]
中海文明の一員であり(ローマ時代以前のカルタゴ王国時代はその中心ですらあった )、ヨーロッパ諸国から
[7]
見て対岸にある地中海の周縁国と言える 。この国はアラビア語を話しイスラム教を信仰する人々からなる国で
[8]
[9]
あるが 、「マグレブ」(アラビア語で、「日没の地」の意)という呼称が示すとおり 、中東を中心とするアラブ=イ
スラム世界のなかの西はずれの一角にある。アフリカ大陸のなかで位置づけた場合も、ブラック・アフリカを中心
[10]
。そしてフランスの植民地(保護領)であった経緯からし
に考えるならば、北アフリカ地域はやはり周縁である
て、旧宗主国(フランス本国)に対して、周縁的な位置づけを与えられてきた。さらにはフランス語を通用語とする
ために、英語の使用からかなり遠ざかっている国として、現代世界の潮流からやや周縁的なポジションにあると
も言えよう。逆に言えばチュニジアは、地中海ヨーロッパ、アラブ=イスラム世界、アフリカ大陸、フランス語・フラン
ス文化圏のいずれにも属し、いずれの文明の特質をも担う国として特異なあり方をしている。チュニジアは決して
なんらかの文明のみの単一的な中心とはならず、複数性・多重性を(しかも通常対立的とみなされている文明の
多重的把持を)本質的特長としている。
現代の世界において、いかなる国も政治的・経済的・文化的に孤立状態を保つことはありえない。情報通信
技術や交通・輸送手段がますます発展し、世界のあらゆる国が相互に影響しあい、あらゆる場所で文化の多元
性がみられるようになってきている今日、文化的多元性を顕著な特徴とし、それこそを豊かさの源泉としている
チュニジアのあり方は、今後の世界のモデルとなるとさえ思われる。とりわけ、西欧文明とイスラム文明の対立が
解消し得ない根源的な障壁として語られやすい今日、そのどちらにも属し、どちらの特質をも兼ね備えながら着
実に発展を続けているチュニジアは、世界にとっての一つの「希望」であるようにさえ思われる。
こうしたチュニジアの多文化状況は、この国における複数言語の併用としても現れている。
1956年の独立以来、公用語はアラビア語と定められているが、実際には、大まかに言ってアラビア語とフランス
語の二言語使用によって生活が成り立っている。より詳しく言えば、98ないし99%の国民の母語であるチュニジア
[11]
(話しことばにのみ用いられ書かれることはない、以下「チュニジア語」と表記する)、学校教
方言アラビア語
育によって学習する正則アラビア語、小学校3年から国民全員が学習するフランス語の三言語併用である。公用
語であるアラビア語は、すべての法律や公文書の記述に用いられる言語と定められており、国会で使用される
[12]
また情報通信が飛躍的に発展をつづける今日、衛星放送・新聞・インターネットなどのメ
唯一の言語である。
ディアを通じて使用される、アラブ世界の国際共通語としてますます重要性を高めている。しかし実生活ではフラ
ンス語なしに暮らすことはできない。道路の看板などはアラビア語=フランス語の二言語表記であるが、ビジネ
ス文書の多くがフランス語、生活のなかで目にする記述にもフランス語が多い。なお話しことばであるチュニジア
語を公に認知していく傾向が近年強まり、これに関する議論も多くなされている。現在チュニジア語は、たとえば
政府閣議の審議の言語として認められている。
この二言語(ないし三言語)併用を支える背景として、チュニジアの教育について言及しておかなければならな
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い。チュニジアは、国家予算の20%を教育に当てている世界最高の教育投資国である。イスラム世界としてはめ
[13]
が全国民にゆきわたってい
ずらしく、完全な男女平等教育が実現され、6歳から16歳までの無償義務教育
[14]
その教育が二言語併用によるものであるから、「チュニジアで教育を受けるということはフランス語話者に
る。
[15]
である。フランス語で教えられる科目の比率は小学校低学年で40%、学年が上がるにつれて
なるということ」
[16]
。大学ではさらにこの比率は高くなる。フランス語で教えられる科
上昇してリセの最終学年では70%におよぶ
目は、自然科学、数学、社会科学などである。今後、アラビア語による教育の比率を高めていくことが検討されて
[17]
いるが、フランス語による教育が廃止される方向にはない。
かくして、フランス語はチュニジア人にとって、生活言語の一つとして完全に定着することになった。フランス語
の全国版日刊紙は3紙あり、また日常生活にかかわる種々の雑誌はアラビア語ではなくフランス語で書かれたも
[18]
フランス語によるラジオ局(Radio Tunis)があり、チュニジア国営TVではアラビア語放送と
のが主流である。
ともにフランス語放送もおこなっている。またフランスのTV局(France2など)の放送が常時聴取され、衛星受信
によってその他のフランスTV局の放送(ならびにヨーロッパ各国の放送)も数多くの家庭で受信されている。チュ
ニジアにとってフランス語は、海外との関係を開くもっとも重要なルートであり、科学技術など現代文明の支持媒
体であり、さらに(話し言葉のチュニジア語、アラブ世界の正当なる言語である正則アラビア語とともに)もっと広く
生活全般を支える言語なのである。
チュニジアでは徹底した教育の普及によって、フランス語を外部の圧力によってではなく、自分たちの言語とし
て身に着けることが可能になった。アラブ=イスラム世界のなかでも、またほかのマグレブ諸国(モロッコ、アル
[19]
[20]
、政治的・社会的にきわめて安定し
、1987年から大統領に就任し
ジェリア)と比べても経済成長が著しく
ているベン・アリの政権下、専制的なやり方によってではあるが民主化・自由化が推進されてきた。国民が二言
語の併用による社会運営を肯定的に受け止めている理由としては、途上国とはいえ、こうした恵まれた社会状
[21]
は、そのまま、西欧世界とイスラム世界の双方に
況が裏づけにあるだろう。二言語(あるいは三言語)の併用
属しながら発展をめざすこの国の選択を表している。
Ⅱ.「チュニジア文学」の可能性
チュニジアに固有の文学はあるだろうか。それともチュニジアには、使用言語に応じて、フランス文学の片鱗と、
アラビア文学の片鱗だけが存在するとみなすべきなのだろうか。
多言語国家チュニジアについて考える場合、もしこの国の名を冠した文学の成立を考えるとすれば、まず文学
と言語を一対一で対応させる思考法を脱するという意識改革が必要である。フランス語で書かれた文学も、アラ
ビア語で書かれた文学も、いずれもが「チュニジア文学」の構成要素とみなされなければならない。逆に言えば、
フランス語作品とアラビア語作品の両翼を維持することによってのみ「チュニジア文学」は成り立つ。
以下、フランス語によるチュニジア文学と、アラビア語によるチュニジア文学に分けて、今日までの流れと現状に
ついてまとめてみたい。
なお、この章の執筆にあたっては、Charles Bonn & CICLIMによるチュニジアの文学作品リスト(2000年2月23日
[22]
を大いに参照した。このリストは、チュニジア作家およびチュニジア出身作家の文学関連
現在の情報による)
の作品と著作を使用言語にかかわらずリスト・アップした、充実した書籍情報一覧である。見出し作家数は約400
名、PDFファイルで96ページに及ぶ。以下の記述では「CICLIMのチュニジア文学リスト」と略す。
1.フランス語文学
まず、「フランス語によるチュニジア文学」が肯定され得なければならない。旧植民地において、旧宗主国の言
語による文学生産を「自分たちの」文学行為として認めることには、むろん大きな抵抗がつきまとってきたし、現
在でもその葛藤は拭い去れてはいない。カリブ海のフランス語圏諸地域のように、クレオール語というフランス本
国の言語とは(ある程度にせよ)異なる自分たち固有の言語での文学活動を公認することの方が、固有の文学
の創出という意味では、意義も自負も認めやすいかもしれない。しかしチュニジアでは、新しい世代すなわち、フ
ランス語を支配者・抑圧者の言語としてではなく自分たちの獲得言語とみなし、自分たちの日常言語として肯定
する世代の台頭とともに、フランス語文学が活況を呈するようになってきた。フランス語は必ずしも「フランス」とい
う国の占有物ではないという意識が生まれつつあると言ってもよい。フランス語を使用することは、その言語名
の由来となったヨーロッパの一国への従属を意味しはしない、という時代が到来しつつある。
では以下に、フランス語によるチュニジア文学の現在までの流れを概観してみよう。
まず大まかに、チュニジアが「フランス語マグレブ文学」のなかでわずかな位置しか占めていないことを指摘して
おこう。一口にマグレブ文学と言っても、有名なのはほとんどがアルジェリアかモロッコ出身の作家たちである。
チュニジア出身作家の大物としては、アルベール・メンミただ一人と言ってもよい状況である。こうした傾向は、
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[23]
チュニジアの人口の少なさ
とももちろん無関係ではないが、これほど極端な落差はそれだけではとても説明
がつかない。日本でのフランス語マグレブ文学紹介の第一人者である福田育弘は、人口比以外の重要な理由と
[24]
。フランス国土の一部とされたアルジェ
して、チュニジアにおけるアラビア語文学の相対的優位を挙げている
リアとは違って保護領であったチュニジアでは、ある程度のアラビア語教育が維持されていたし、福田の言うよう
に、それは「しかも、モロッコのかなり硬直したアラビア語教育と比べて」「新しい技術文明に適応したより柔軟な
ものであった」という点も影響しているかもしれない。福田は繰り返し、地理的にみて他二国よりも中東に近い
チュニジアでは方言の隔たりも相対的に少ないこと、ベルベル語を母語とする人口がきわめて少数であるためア
ラビア語による言語的統一が国家的に保たれている点などが、チュニジアにアラビア文学の優位という現象が生
まれ、フランス語による文学の活発化を抑制した原因であると述べている。
しかしながら、果たしてチュニジアにおいてアラビア語文学がそれほど活発であったのか、多少の疑問がある。
フランス語文学がマグレブの他の二国と比べて活発化しなかったのは、アラビア文学との「パイの奪い合い」の結
果ではないのではないか。むしろ何語によるのであれ、チュニジア人の文学活動が低調であったことが、すなわ
ちパイそのものが小さかったことが、その原因ではないだろうか。このことは、「CICLIMのチュニジア文学リスト」を
もとに作成した、後に掲げる出版点数の一覧表によっても確認できそうである。
チュニジアにおいて文学が活発とならなかった理由としては、チュニジアの近代化が技術文明に偏っていたこ
と、さらにはカルタゴの時代からチュニジアの人々がより実学的な活動の面に秀でていたことが挙げられるかもし
れない。また独立後の安定した社会成長もむしろ「マグレブ文学」の活況からチュニジア人作家の参入を遠ざけ
たのかもしれない。「マグレブ文学」とは、基本的に、70年代から80年代にフランス国内でにわかに注目を集め
た、マグレブからの移民作家たちの文学活動を指して言う概念であるからだ。そして乱暴に概括して言えば、そ
の内容的な特徴は、北アフリカの伝統的なイスラム社会と近代化した個人の意識とのはざまで生じた葛藤を描く
ところにあり、社会矛盾へのプロテストこそが「マグレブ文学」のエネルギーであった。そうした観点から見る限
り、たしかにチュニジアでは文学生産への動機が、とりわけイスラムを相対化する手段としてのフランス語によっ
て文学活動をおこなうことへの動機が薄かったと指摘できる。男女間の社会的不平等を招来する伝統的因習
[25]
、軍事的
(一夫多妻制や男性側からの一方的離縁の制度、あるいは女子教育の抑制など)をいち早く廃止し
[26]
、せっかく独立した祖国を捨てて
騒乱を経ずにひとまず安定した社会成長が達成されてきたチュニジアでは
わざわざ旧宗主国に移り住んで故国への抗議文学を展開する作家が数多く出てはこなかったとしても不思議で
はない。
a)第1期:ユダヤ人マイノリティ文学
それでもフランス語による文学作品は、チュニジアにおいて(あるいはチュニジア出身者によって)20世紀初頭
から生産されてきた。それを担ったのは、まずは、チュニジア内の少数民族であるユダヤ人たちであった。
ユダヤ系の住人は、チュニジア人の大多数を占めるアラブ人から隔絶したコミュニティを形成して生きてきた。イ
スラム学校としての色彩の強いアラブ系の学校に子供を通わせるはずもない彼らは、植民地時代に入ると、子ど
もたちにフランス語教育を積極的に受けさせる。その結果、彼らはフランス語を用いて自分たちの立場を表明す
る創作・著作活動を始める。1910年代からすでに見られるチュニジア人によるフランス語の著作のほとんどは、そ
うしたユダヤ人によるものであった。その代表作家が、日本でも知られるアルベール・メンミである。彼の自伝的
処女小説『塩の柱』(1953年発表、1966年ガリマール社から再刊)はまさに、植民地時代のチュニジアに生きるユ
ダヤ人マイノリティの生活を描くものであり、フランス語で書かれるべくして書かれた北アフリカ文学と言うことがで
きる。「CICLIMのチュニジア文学リスト」では、ユダヤ系作家には、ユダヤ人少数民族であることが丁寧にマーク
されている。こうしたことからも、チュニジア人にとってユダヤ系作家によるフランス語文学が、マイノリティ文学と
して特殊な位置づけを与えられていることが知られる。ともかく、56年の独立後60年あたりまでは、明らかにチュ
ニジア国内でもまたフランスにおいても、フランス語による文学活動を代表するのはこの少数者たちであった。こ
の時期をフランス語チュニジア文学の第1期と呼ぶことにしよう。
b)第2期:狭義の「マグレブ文学」
しかし1960年代以降はそうした偏りはもはや認められない。独立後チュニジアでは多数派のアラブ系チュニジア
人自身がフランス語で執筆し始め、作品数も増大する。独立によってマグレブ三国いずれにおいてもアラビア語
が唯一の公用語として認められた時点で、フランス語によるマグレブ文学は消滅してもおかしくなかったはずであ
[27]
。チュニジアでも
る。しかし、マグレブでは、フランス語による文学はかつてみられなかった活況を呈し始める
同様である。
60年代にユダヤ人の多くがチュニジアからフランスに移住したことを付け加えておこう。ともかく、70年代後半に
は、フランス語で書くアラブ系チュニジア人作家の数は、チュニジア国内でも、フランスを中心とする国外でも、ユ
ダヤ人作家の数を抜くようになる。60年代から80年代末までのこの時期を第2期と呼ぶことにしよう。
第2期の特徴は、このように、フランス語文学が少数派ユダヤ人からチュニジア人全体へ拡大したことであると
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言えるが、もう一つの特徴を押さえておかねばならない。それは、フランス内での出版の方が、チュニジア国内で
の出版よりも優位であった点である。
70-80年代は、マグレブ出身のフランス語作家が台頭し、「マグレブ文学」がフランス文学の一翼を担う魅力的な
新勢力として、フランスにおいて、そしてフランスを通じて世界的に注目された時期でもある。アルジェリア出身の
ラシッド・ブージェドラの処女長編『離縁』(69年)が「恐るべき子供たち賞」を獲得したのに続けて、72年には第二
作『熱射』が「レクスプレス賞」に輝き、フランス語マグレブ文学の地位を強く印象づけた。詩、小説、評論、戯曲な
ど幅広く活躍するモロッコ出身のアブデルケビル・ハティビへの賛辞をロラン・バルトが執筆したのも、すでに71年
[28]
。以後数々のマグレブ出身作家の作品が注目されるなか、87年にはついに、モロッコ出身の
のことである
ターハル・ベン=ジェルーンが『聖なる夜』でマグレブの作家として初のゴンクール賞に輝いた。フランス文学ない
しフランス語圏文学を構成する重要な作家たちとして、マグレブ出身の文学者が広く世界に認知されることに
なったのである。
ただ注意しておきたいのは、こうして注目を浴びた作家たちがすべてフランス在住の作家であり、作品もすべて
フランスの出版社から(多くはパリの大手出版社から)刊行されているということである。60-80年代のフランス語
[29]
。
マグレブ文学は、マグレブの地から直接生まれたものではない。それはパリ発のマグレブ文学なのである
マグレブ文学者として有名になった作家たちはほとんどフランスで高等教育を受け、また、故国の政治的不安定
さや弾圧、あるいは検閲や言論統制を逃れて、場合によってはアルジェリアのムハンマド・ディブのように国外追
放となったために、フランスに定住した者たちであった。彼らは要するに「亡命作家」であり、それも植民地時代の
支配者のもとに亡命した作家たちである。彼らはしたがって、植民地時代以来彼らを苦しめてきた、故国と宗主
国とのあいだの「引き裂かれ」の状態に置かれざるを得なかった。なぜ祖国の民衆ではなく、旧宗主国の人間に
向けて旧宗主国の言語で書くのかという問題が、たえず彼らを苦悶させていた。チュニジア出身でフランスに定
住し多数の著作をガリマール社などフランスの大手出版社から刊行しているメンミが繰り返し語ってきた、「自分
のではない別の民衆に向けて書く」という植民地出身作家の苦悩は、文学と言語の関係についてあらゆる人に
[30]
故国には読者層が存在せず満足な出版社すらもないという、作家に
思考を促す鋭い発言として名高い。
とってこのうえなく悲惨な状況をわたしたちは彼ら「フランスの異邦人」たちの著作を通して知ることができる。そ
れでもメンミら多くのマグレブ作家はフランスにとどまる道を選んだ。それが「作家」として生きる有利な条件で
あったし、極論して言えば、そうする以外には「作家」であり続けることが不可能であったからである。ただし葛藤
[31]
。
の末に故国へ帰る道を選ぶ者もしだいに現われるようになることは付け加えておこう
70年代半ば以降に現われた注目すべきチュニジア出身のフランス語作家として、アブデルワハブ・メデブ(『タリ
スマノ』79など)とムスタファ・トゥリリ(『腹の底からの怒り』75など)の二人の名は欠かせない。とくにトゥリリの作
品が示すように、作家の境遇と連動して、フランス発のマグレブ文学はフランスに生きるマグレブ人のあり様を多
く映し出すようになってくる。ただしフランス在住チュニジア出身者によるフランス語文学は、チュニジアで生活す
るチュニジア国民とのあいだに乖離を生じさせる懸念を否めない。今後チュニジアの経済が順調に発展すれば、
フランスへの出稼ぎ労働者は次第に減少する傾向をみせるだろう。チュニジアがフランスへの依存度を次第に低
下させ自立性を高めるにつれて、(短期であれ長期であれ)フランスに生きるチュニジア人と、チュニジアで生涯を
すごすチュニジア人とのあいだにこれまでよりももっと大きな距離感が生じるということはないだろうか。いずれに
してもフランスで生産されるフランス語文学は、結局のところフランス文化・フランス文学の一部として吸収される
側面を否定できないことは気に留めておいてよいだろう。
c)第3期:チュニジア文学
フランスへの依存の強かった80年代までに比べて、90年代に入ると、フランス語によるチュニジア文学は新たな
局面を迎えたといってよい。チュニジア国内の出版社が増え、またおそらく教育の浸透と社会の発展によって国
内のフランス語読者層も増えたために、90年代には、チュニジア国内でのフランス語出版物が飛躍的に増加し
た。以下に掲げる年代別の出版点数一覧表が示すように、フランスでのチュニジア出身者(あるいはその二世)
による活動が衰退したとは言えないものの若干ながら減少傾向にあるのに対し、国内での出版点数は80年代
の2倍に及んでいる。90年代に入って、チュニジア人によるフランス語文学は、ようやくチュニジア人のための文学
という様相をはっきりと兼ね備え始めた。21世紀に入って、チュニジアではますます、チュニジア在住作家による
チュニジア人読者を念頭においた創作・著作が増加するであろう。それらはマグレブの人々はもちろん、フランス
人をはじめ世界のフランス語読者とのつながりを維持しながら、フランス文化に統合されきらない「チュニジア文
学」として立ち現れてくるに違いない。
チュ二ス第一大学のシャウアシ氏(Samira M'rad Chaouachi)は、近年、フランス語によるチュニジア文学への熱
[32]
。フランス語による文学活動が活発化するためには、言語
が、チュニジア内で高まっていることを認めている
的・文化的にきわめて深刻な引き裂かれ状態におかれた植民地世代に代わって、フランスへの直接の隷属抜き
に、すなわちコンプレックスなしにフランス語を身に着けた戦後世代が社会の主流を占めるまでの時間が必要で
あったことは確かである。
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チュニジア文学の出版点数一覧表(「CICLIMのチュニジア文学リスト」をもとに作成)
使用言語1) フランス語による作品・著作
アラビア語による作品・著作
2)
3)
その他
チュニジア国内
海外4)
出版地 チュニジア国内
海外
出版年代
1900~
1
1910~
1
1
1920~
1
8
1930~
15
2
2
1940~
11
1950~
13
12
2
1
1960~
15
28
4
3
1970~
55
80
2
5
1980~
71
168
3
14
1990~
141
160
5
117
1
7
注記:
1)フランス語、アラビア語のほかに、英語によるもの3点、イタリア語1点(いずれも海外出版)
2)圧倒的多数がフランス。ほかにわずかながら西欧諸国を含む。なおチュニジアとフランスでの同時出版の場合は、双
方の項に算入した。
3)出版地不明のもの、およびマグレブ諸国など非ヨーロッパ圏での出版物
4)ベイルート、ロンドンなど。
2.アラビア語文学
すでに述べたように保護領であったチュニジアでは、植民地時代においてもアラビア語とイスラム教とが禁止さ
れずに維持されてきた。そのために、マグレブ世界のなかでもチュニジアでは例外的にアラビア語文学が活発で
あったとする見解がある。
[33]
、印刷に付されたアラビア語による文学関係出版物
しかし「CICLIMのチュニジア文学リスト」を参照する限り
は最近まで決して多くなかったようである。それどころか、きわめてわずかであったと言ってもよい。上の表をみ
ていただきたい。出版点数の少なさの理由としては、アラブ文学の中心が詩であったことも無関係ではないだろ
う。多くの人々にとってそれは、誰かに読んでもらって耳で味わうべきものであったのかもしれない。またアラブ
世界の人々にとって書物とはまずコーランであり、書き言葉が気軽な読書の道具ではなく、それ自体が神聖なも
のとして敬意をおかれる、すなわち敬して遠ざけられる傾向にあったことも指摘できよう。いずれにしても、アラ
ブ=イスラム世界特有の、言語(正則アラビア語)との距離感を充分に考慮に入れる必要がある。神聖なる正則
アラビア語は礼拝用の言語であって、実用向き、日常用、趣味や娯楽のための言語ではないのである。小説の
[34]
アラブ人にとっても熟達が容易で
ような本来身近な文学を正則アラビア語で書くことには抵抗があるだろう。
はない正則アラビア語で探偵小説を書いたり、読者がそれを読んで余暇を楽しんだりすることは、果たしてあるだ
ろうか。
もっとも身近な話しことばの生活言語であるチュニジア語は書かれることがなく、書きことばとして使用される
言語は完全に身近な言語とは言いがたい(正則アラビア語は古典語であるという理由から、フランス語は外国語
であるという理由から)。おそらくはこうした事情から、これまで長らくチュニジアでは読書習慣というものが発達し
なかったらしい。植民地時代から比較的教育基盤が整い、独立後は抜きん出た教育国として名高いチュニジア
ではあるが、日本人には意外なことに、一般のチュニジア人は本を読む習慣がないと言われる。現在でも大学に
入学した者のうちで、それまでに学校の教科書や補助教材以外に自分で読んだ本が一冊もない者は、めずらし
[35]
チュニジアには書店(本屋)というもの自体がきわめて少なく、首
くないどころか大半を占めるとも言われる。
都でさえ本の入手は、たまに開かれる本の見本市(フェア)でようやく可能になるとった状況である。公立の図書
館というのもきわめて稀で、これまで一般のチュニジア人がいかに読書と無縁であったかが伺われる。
この状況も、ベン・アリ政権下での国内出版社の増加政策によって、かなり変化してきた。政府の広報物によ
れば、現在チュニジアには250の出版社があるという。さきにフランス語文学関係の出版物が90年代に急激に
増加したことをみたが、事情はフランス語作品に限らない。アラビア語文学関係出版物もまた、これこそ飛躍的
に増加したのである(表参照)。
アラブ世界の文学といえば、中世以来なんと言っても中東およびその周辺が中心地であった。20世紀になって
も、やはりエジプトやパレスチナが中心であって、マグレブ発のアラビア文学というものは、ほとんど存在してこな
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かったかのごときである。チュニジアではほかのマグレブ国と同様、正則アラビア語と母語である方言との距離
が大きく、自信を持ってアラブ世界全体に誇れるようなアラビア語文学を産出することが難しかったという事情が
[36]
。アラブ文学は、自分たちの文学として学校でも十分に教育されているが、チュニジア人はアラビア語
あろう
の文学に対して基本的に受身の姿勢にあるように思われる。
むろん、長い伝統をもつ古典アラビア文学に対しては、アラブ諸国のすべての人々もまた受身であるほかはな
い。しかし、エジプトやシリア、パレスチナでは、現代文学が勢いをもっている。これらの地域では、20世紀に入っ
てから、地域の方言を若干取り入れた現代アラビア語(正則語と方言の中間態にあたり、地域的特色は持つも
のの広くアラブ世界全体の人々に理解可能なことば)によって、生き生きとした現代小説が数多く生み出されて
きた。これに対してチュニジアなどマグレブ諸国では、今日でもなお方言と正則語との乖離が埋められないまま
に分離しているため、とくに小説は生み出しにくい状況にあるようだ。チュニジアの人々は、現代の日常生活を活
写する際にも--会話の台詞ですら--チュニジア語を用いて文学作品を書くことは、想像できないと言う。基
本的には正則アラビア語を用いて書くことしか考えられないということである。
こうした不自由はあるものの、さきの文学関連の出版点数一覧表をみれば明らかなように、90年代には、多く
のアラビア語文学がチュニジアで刊行されるようになった。「CICLIMのチュニジア文学リスト」をたどってみれば、
詩や評論のみならず、戯曲や長編・短篇の小説など、さまざまな文学作品がアラビア語によって書かれ発表され
ていることがわかる。今後、チュニジアのアラビア文学は、正則アラビア語を柔軟に用い、地域的特色を言語上で
も徐々に織り込みながら発展していくと思われる。
また付け加えておくと、チュニジア固有の方言であるチュニジア語による文学も、今後さまざまなかたちで試み
られるであろう。モロッコ出身のカテブ・ヤシーヌが、フランス語による小説執筆から、晩年はモロッコ方言アラビ
ア語による戯曲の創作活動に移行して、演劇のジャンルで母語による文学を実現した例にも顕著なように、口語
のジャンルでは民衆語を用いた文学がより容易である。演劇のほかに、口承の民話や語り物の文芸も方言文学
の重要なジャンルである。そして何よりも現代文化において重要な位置を占める映画が、今後ますます民衆語
文芸として重要になってくるだろう。カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール特別賞を受賞したチュニジア映画『ある歌い
女の思い出』(チュニジア人女性ムフィーダ・トゥラートリの監督・脚本・編集による)は、チュニジア映画では日本
初の商業劇場公開作品として2001年に日本でも紹介された佳作である。映画制作は商業活動であり、しかも今
日では世界市場を考えなくては、商業映画は興行的に成り立たない。したがって映画は、マーケティングの面か
らも大言語への吸収がおこなわれやすい性質をもっている。しかし、西欧世界で数々の賞を受賞したこのチュニ
ジア作品は、アラビア語で作られている。当然会話にはチュニジア方言が現われる。この例からも想像されるよ
うに、オーディオ・ヴィジュアルな文化活動がますます盛んになる今後、文字を離れた文化領域で、口語民衆語
が用いられる頻度は高まってくるだろう。世界的な潮流である文化の大衆化とともに、民衆方言もまた文化的な
公認の機会を拡大するに違いない。
3.「チュニジア文学」にみる多元文学の可能性
この章 (「Ⅱ. チュニジア文学の可能性」) の冒頭で前置きしたように、チュニジア文学は今後、アラビア語文学と
フランス語文学の両輪を発展させながら展開していくであろう。さきの表でも分かるとおり、90年代に入っての爆
発的な文学活動の増加は、アラビア語とフランス語で同時に起きている。チュニジア国内での出版点数は二つの
言語で大きな差はない。さらにまた、どちらの言語でも、詩、小説(長編および短編)、戯曲、自伝、評論などあら
ゆる分野での創作・著述がおこなわれていることも注目される。また二言語間の翻訳も目立ち始めた。「CICLIM
のチュニジア文学リスト」を眺めてみると、とくに80年代以降、チュニジア人のアラビア語作品がフランス語に訳さ
れて改めてチュニジア国内で、あるいはフランスなど海外で出版されている事例がいくつも目に付く。フランス語と
アラビア語の両方で活動をおこなっている作家(Guiga、Driss、Bekri)もみられる。
チュニジア文学は多元的なかたちにおいてのみ存在する。以上の考察では、フランス語、アラビア語(そして
チュニジア方言アラビア語)という言語的多元性を確認したが、さらにもうひとつの点を指摘しておきたい。それは
地理的多元性、もっと言えば空間の超越である。
すでに見たようにフランス語によるチュニジア文学の担い手は、チュニジア国内だけでなく国外(おもにフランス)
にも存在する。フランス在住のチュニジア出身作家を無視しては、「チュニジア文学」を語ることはできないであろ
う。したがって「チュニジア文学」は国境を越えたかたちでしか存在しない。チュニジア国内の文学活動が盛んに
なっても、今なお海外(とくにフランス)で生活するチュニジア出身作家たちの活動は活発である。彼らはまた、国
外在住期間がどれだけ長くなろうとも、宗教的・文化的・民族的など種々の側面から故国との絆をなくすことはな
いとみられる。
さきに挙げたチュニス大学のシャウアシ氏は、現在活躍するフランス在住の(すっかりフランス化した)作家たち
--René de Ceccaty, Collette Fellous, Hubert Haddad, Marco Koscas--が、近年(98年3月)開かれたシ
ンポジウムにおいて、チュニジアへの愛と、チュニジアへの帰属感を表明したことを感慨深げに強調している。
[37]
チュニジア文学は、いわば純粋なチュニジア人と、いわば純粋性を欠くチュニジア人との協調と連帯によって
しか生まれないことが、確認できるからだ。彼は、フランス生まれの二世たちについても言及した上で、チュニジ
ア文化は「もはや特定の地理的空間のなかに記載されるのでない」と断言している。つまりフランス生まれで、も
7 / 12
しかしたらチュニジアの地を知らないフランス語作家をも、チュニジア文学に繰り込むことなしにチュニジア文学は
ない、と彼は考えている。チュニジア文学とは初めから極度の多様性を含んだものとしてしか成立しない。
シャウアシ氏も改めて確認しているように、紀元前から文明の交差点として多元性こそを自らのアイデンティ
ティとしてきたチュニジアにとっては、文学もまた排他的な純粋化志向の狭い基準によって捉えるべきではない、
ということである。チュニジア人の母語あるいは公用語ないしは通用語のいずれかを用いる書き手ならば、他国
に居住する者も、他国で生まれ育った者も、チュニジア人としての性質をいくばくかであれ分かち持つという条件
を満たせば(それがほとんど怪しく思われてくる境界事例をも含んでしまうことをあらかじめ認めたうえで)「チュニ
ジア文学」の担い手となる。こうした「曖昧さ」をむしろ正面から肯定する姿勢にこそ、チュニジアの誇りが存立し、
未来が築かれる。
チュニス郊外の大規模スーパーマーケット(カルフール)の書籍コーナーでは、子供向けから大人向けまでのさ
まざまなアラビア語とフランス語の本が、チュニジア人にとっていかにも身近な本として並んでいる。アラビア語の
書物の中には、チュニジア人の著作もあれば、アラブ世界共通の名著もある。フランス語の書物の中には、チュ
ニスを舞台とするチュニジア探偵小説や、チュニジアの社会状況を分析したチュニジア人の著作など、チュ二ジア
の出版社から刊行された本、フランスの老舗出版社から出されたフランスの古典作品やフランス在住チュニジア
作家の作品や著書、あるいはモロッコやアルジェリアなどマグレブ現代作家の本を容易に手に取ることができ
る。
近代の均質的な国民国家(あるいは均質性を理想とする国民国家)がはぐくんできた「国民文学」とは別種のあ
り方で、「チュニジア文学」は立ち現れてくる。わたしたちは、マグレブのなかでも例外的に「幸福な二言語使用」を
実現した、多言語・多文化に立脚するチュニジアに注目することで、「近代」のあとに模索すべき新しいモデルを
探ることができるにちがいない。
Ⅲ.日本におけるチュニジア文学の紹介
以上のようなチュニジア文学の状況と比較して、日本におけるチュニジア文学の紹介の現状を確認しておきた
い。
1.日本におけるフランス語マグレブ文学
まず、フランス語作品であるが、翻訳によって日本に紹介されているチュニジア人による作品はアルベール・メ
ンミの『塩の柱』ただ一作である。範囲を広げて、マグレブ三国のフランス語作品の翻訳状況を見てみよう。
a) 日本語に訳されたマグレブ・フランス語文学(小説)には以下のものがある。
▼ムハンマド・ディブ(アルジェリア)
「呪文」(原著『呪文』1967より)、野間宏編『現代アラブ文学選』創樹社、 1974
『アフリカの夏』、篠田浩一郎・中島弘二訳、河出書房新社(『現代アラブ小説全集』第9巻)、 1978
「消え去ったナエマ」(原著『呪文』1967より)、福田育弘訳・解題、『早稲田文学』1993年3月号
▼ムールード・マムリ(アルジェリア)
『阿片と鞭』(原著1965)、菊池章一訳: 河出書房新社(『現代アラブ小説全集』第10巻)、 1978
▼アルベール・メンミ(チュニジア)
『塩の柱 : あるユダヤ人の青春』(原著初版1953)、前田総助訳、草思社、1978
▼カテブ・ヤシーヌ(アルジェリア)
『ネジュマ』(原著1956)、島田尚一訳、現代企画室、1994
▼タハール・ベン・ジェルーン(モロッコ)
『砂の子ども』(原著1985)菊地有子、紀伊国屋書店、1996
『気狂いモハ、賢人モハ』(原著1978)、現代企画室、1996
『聖なる夜』(原著1987)菊地有子訳、紀伊国屋書店、1996
『不在者の祈り』(原著1981)石川清子訳、国書刊行会、1998
『最初の愛はいつも最後の愛』(原著1995)堀内ゆかり、紀伊国屋書店、1999
『あやまちの夜』(原著1997)菊地有子訳、紀伊国屋書店、2000
▼ラシッド・ブ-ジェドラ(アルジェリア)
『離縁』(原著1969)福田育弘訳、国書刊行会,1999
まっ先に、総数の乏しさに驚く。長編で11点、加えて短編が2編のみである。また邦訳されたすべての作品が
フランスで刊行されたものであることも指摘しておきたい。日本におけるマグレブ文学とは、フランス経由のもの
に限られていると言ってよい。90年代以降に発表された作品が、ベン・ジェルーンを除いてはひとつも紹介されて
いないことも、「フランス文学」という枠組みのなかでのみマグレブの文学が捉えられてきたことの結果であると
考えられる。さきにチュニジアに関して見たように、90年代以降は、フランスを離れて北アフリカにおいても徐々に
フランス語文学活動が展開され始めるが、日本ではそれについては一切紹介される兆しがない。
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b)評論の分野では、以下の著作が日本で出版されている。
▼アルベール・メンミ
『植民地――その心理的風土』渡辺淳訳、三一書房, 1959
『差別の構造―― 性・人種・身分・階級』白井成雄・菊地昌実訳、合同出版、1971
『あるユダヤ人の肖像』菊地昌實・白井成雄訳、法政大学出版局、1980
『イスラエルの神話――ユダヤ人問題に出口はあるか』菊地昌実訳、新評論、1983
『人種差別』菊地昌実・白井成雄訳、法政大学出版局、1996
▼タハール・ベン・ジェルーン
『歓迎されない人々――フランスのアラブ人』高橋治男・相磯佳正訳、晶文社、1994
『娘に語る人種差別』松葉祥一訳、青土社、1998年
[38]
▼アブデルケビル・ハティビ
(モロッコ)
『異邦人のフィギュール』渡辺諒訳、水声社、1995年
▼フェティ・ベンスラマ(チュニジア)
『物騒なフィクション--起源の分有をめぐって』西谷修訳、筑摩書房、1994年
ハティビの『異邦人のフィギュール』と、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』をめぐる論考であるベンスラマの著
作のみが文学評論であり、それ以外は植民地問題・人種差別問題を中心にした社会思想的な著作と言える。も
ちろん普遍的な議論ゆえに貴重な思索として翻訳されるに至った優れた著作たちであるが、これらも基本的に
は、フランスにおけるマグレブ人問題という枠組みのなかから生まれたものである。
c)日本人によるマグレブ文学研究としては以下のものがある。
▼福田育弘
「解説:ムハンマド・ディブについて」(消え去ったナエマの訳)、『早稲田文学』1993年3月号
「マグレブの熱い視線」(連載全12回)、『ふらんす』白水社、1993年4月~94年3月
「複数的なアルジェリアのために」、『文芸』1994年8月号
「マグレブへの眼差」、『学術研究』外国語・外国文学編、早稲田大学教育学部、No.44, 1995年
「テクストの暴力――マグレブ文学を読む」(連載全12回)、『ふらんす』白水社、1995年4月~1996年3月
「マグレブの引き裂かれた多様性」『学術研究』外国語・外国文学編、早稲田大学教育学部、No.45, 1996年
「言語の暴力と翻訳」、『現代史手帖』1996年7月号
シンポジウム「ポストコロニアルの文学――クレオールとマグレブ」立花英裕・福田育弘・西田修、司会芳川
泰久『早稲田文学』1997年11月
▼澤田直
「マグレブのフランス語文学――裏切りと歓待」三浦信孝編『多言語主義とは何か』藤原書店、1997年
▼谷昌親
「ねじれの表象としてのマグレブ」、『國文学――解釈と教材の研究』第47巻10月号、2002年8月、特集:世
界の小説最前線(マグリブの項)
福田氏の詳細なマグレブ文学紹介(雑誌『ふらんす』連載の「マグレブの熱い視線」と「テクストの暴力」)は、日
本において初めてフランス語マグレブ文学への関心を広く喚起したエポック・メーキングな仕事であった。また澤
田氏の論文も紙数の制限のなかで、きわめて的確に、マグレブ文学固有の問題の在り処を掘り起こした啓発的
な論として重要である。しかし両氏ともに90年代末以降、マグレブ文学の研究からは遠ざかってしまったようであ
る。2000年に入ると谷氏のごく手短な紹介があるのみで、出版界全体から、マグレブ文学への関心が消滅してし
まったように思われる。ここに名前の挙がった三氏を代表として、日本では(日本のみにみられる傾向ではない
が)、マグレブ文学は、フランス文学研究者の周辺的な関心事項として扱われてきたと言える。今後はぜひとも、
フランス文学の余禄としてではなく、マグレブ文学をプロパーに研究する専門家の出現が待たれるところである。
2.日本におけるアラビア語文学
次に、日本におけるアラビア語チュニジア文学の紹介について触れたいが、結論を先に言うと、日本ではチュ
ニジア人の書いたアラビア語作品は一つとして紹介されていない。そこで、現代のアラビア語文学全般に地域を
広げて調べてみた。ここに挙げたのは小説作品のみである。アラブ世界では詩が重要ではあるが、とりわけアラ
ビア語の詩は音を抜きには味わい得ないものであるためもあって、アラビア語詩の日本語による翻訳紹介はき
わめて少数であることを断っておく。
日本語で読めるアラビア文学(現代小説)
▼ナギーブ・マフフーズ Mahfuz, Najib(エジプト)
9 / 12
『アルカルナック』池田修訳、アジア経済研究所、1978
『バイナル・カスライン』上・下、塙治夫訳、河出書房新社 (『現代アラブ小説全集』第4-5巻)、1978
『蜃気楼』高野晶弘訳、第三書館(パレスチナ選書)、1990
『渡り鳥と秋』青柳伸子訳、文芸社2002
▼ハキーム Hakim, Tawfiq (エジプト)
『オリエントからの小鳥』堀内勝訳、河出書房新社 (『現代アラブ小説全集』第2巻)、 1978
▼サーレフ Salih, al-Tayyib (スーダン)
『北へ遷りゆく時、ゼーンの結婚』黒田寿郎・高井清仁訳、河出書房新社(『現代アラブ小説全集』第8巻)、
1978
▼カナファーニー Kanafani, Ghassan (パレスチナ)
『太陽の男たち、ハイファに戻って』黒田寿郎・奴田原睦明訳、河出書房新社(『現代アラブ小説全集』第7
巻)、1978
▼アブドル・ラフマーン・アッ・シャルカーウィ Sharqawi, Abd al-Rahman (エジプト)
『大地』奴田原睦明訳、河出書房新社(『現代アラブ小説全集』第3巻)、1979
▼フセイン Husayn, Taha (エジプト)
『不幸の樹』池田修訳: 河出書房新社(『現代アラブ小説全集』第1巻)、1978
▼ハリーム・バラカート Barakat, Halim Isber (レバノン)
『海に帰る鳥』高井清仁, 関根謙司訳、河出書房新社(『現代アラブ小説全集』第6巻)、 1980
『六日間』奴田原睦明訳、第三書館(パレスチナ選書)、1980
▼ナワル・エル・サーダウィ Nawal El Saadawi (エジプト)
『イマームの転落』鳥居千代香訳、草思社、1993
▼イブラヒーム・アル・クーニー Kuni, Ibrahim (リビア)
『ティブル』奴田原睦明訳: 国際言語文化振興財団:サンマーク(発売)、 1997
▼ソラヤ・アルバクサミー(クウェート)
『ソラヤ・アルバクサミー短編集』非売品、1998
ほかにアンソロジーとして
▼野間宏編『現代アラブ文学選』創樹社、 1974
▼『黒魔術 : 上エジプト小説集』高野晶弘訳、第三書館 (パレスチナ選書)、 1994.
▼『対訳現代アラブ文学選』奴田原睦明編、大学書林、 1995
現代小説が活発なエジプトと中近東諸国から作品が選ばれているのは妥当な選択ではあるが、アラブ世界と
アラブ文学に寄せる日本の関心がどれほど薄いかが、単行本で紹介されている作家わずかに8名という現状に
窺える。しかも現在書店で入手可能なのはマフフーズの『渡り鳥と秋』、アル・クーニーの『ティブル』、奴田原選
の対訳集の3点のみという、まったく嘆かわしい状況である。日本にとってアラブ現代文学はほとんど存在してい
ないに等しい。ましてやアラブ世界の周縁に位置するマグレブのアラビア語作品に目を向ける者は皆無と言って
よいのが現状である。もともと日本では、アラブ圏研究者の専門領域は、歴史か現代政治に偏っていて、文学研
究者は非常に少ない。現代文学に至っては、奴田原氏が精力的な研究活動と翻訳活動を進めているものの、彼
以外にはめだった専門家もみあたらない。この領域の活動が今後活性化することを期待するばかりである。
*
*
*
さいごに
世界のグローバル化は、地上から固定した辺境地帯というものを消滅させつつある。文明の中心地と、中心
から隔絶された後進地帯という対立の構図は、すでに時代錯誤のイメージにすぎない。鈴木孝夫は、ヨーロッパ
のまぎれもない主要国であるドイツ・フランスから現在日本が学ぶべきことはすでにさほど多くないと述べている
[39]
。アメリカの威力はますます増大しているが、ヨーロッパが文明の確たる中心である時代はすでに過去のも
のであろう。
アラブ圏に限って考えた場合でも、中心と周縁は判然と決しがたい。歴史的に見てアラブ世界の中心たるイラ
クやサウジアラビア、あるいはシリア、エジプトなど中近東の諸国は、現在イスラム世界のなかでかならずしも抜
きん出た発展を遂げているわけではない。もはや中心は拡散し偏在しているのである。もっと言えば現代世界に
は中心というものはそぐわないのである。
イスラム世界のなかでも、またヨーロッパを前にしても、あるいはアフリカの一員としても、つねに非=中心の
位置を保ちながら今後も発展を続けていくであろうチュニジアの多元的状況からこそ、新たな世紀に入ったわた
したちは、もっと多くのことを真剣に学び取ろうとしなければならないのではないだろうか。
* 本論文は、2003年4月29-30日にチュニスで開催された第2回日本=チュニジア人文社会科学シンポジウムでの口
頭発表( « Caractéristique de la littérature non-occidentale, du point de vue comparatif : Littérature maghrébine et
japonaise » の内容の一部を利用している(とくに「Ⅲ.日本におけるチュニジア文学の紹介」)。
[1]
1956年の独立後の正式名称は「チュニジア共和国」。本論文では、歴史的にもある程度の一体性を保ってきた、現在の
チュニジア共和国の領土にあたる地域を指して、チュニジアと呼ぶ・
[2]
現在人口1000万人弱(99年、945万人)、面積にして日本の5分の2ほどのチュニジア共和国は、その物理的条件からし
てまずは「小国」である。経済的には「低所得国」を脱したところである(注18参照)。
[3]
フランス語HP「ユニヴァーサルな現象としての多言語使用」( « Le multilinguisme:un phénomène universel » c 2000
Jacques Leclerc, http://www.tlfq.ulaval.ca/axl/Langues/3cohabitation_phenom-universel.htm)による。このHPの記述によ
れば、90パーセント以上の国民が同じ言語(母語)を話す「言語的均質国家」は世界の224カ国中わずか29国(12.9%)。さら
にそのうち、その母語が公用語として認められている国は17国(7.6%)。残り(92.4%の国々)は、なんらかのかたちで多言語
が使用されている国ということになる。
[4]
国民国家の統一言語としての「国家語」を批判的に考察とした論考として、田中克彦『ことばと国家』岩波文庫、1881年お
よび『ことばのエコロジー』(親本1993年)、ちくま学芸文庫、1999年所収の諸論文が大変啓発的である。
[5]
上記注1のHPが紹介するデータ(Barbara F. Grimes ed. Ethnologue, Summer Institute of Linguistics Inc., 2000にもとづ
く)によれば、日本は「言語的均質国家」のなかで世界でもっとも人口の多い国(1億2510万人)である。2位はバングラデシュ
(1億2470万人)、3位は大韓民国(4480万人)。
[6] チュニジアの歴史は、地中海の東部、現在のレバノンあたりを本拠としていたフェニキア人たちによるカルタ
ゴ王国の建設に始まる。カルタゴ王国は紀元前9世紀から紀元前2世紀に台頭してきた古代ローマに滅ぼされるま
で、海洋王国として地中海に君臨し繁栄を極めた。なお、西欧のアルファベットはフェニキア文字から発達したも
のであり、中東からヨーロッパにワインを伝えたのもフェニキア人である。
[7]
チュニジアの貿易相手国は、仏・独・伊をはじめヨーロッパ諸国が主であり、貿易高の75%を占める(外務省HP各国・地
域情勢「チュニジア共和国」参照。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tunisia/data.html。
観光国であるチュニジアを訪れる旅行者のほとんどが、やはり上記3国からの人々である。チュニジアはヨーロッパとの関係
のなかで生きる、西洋を向いた国である。
[8]
チュニジアでは先住民のベルベル人と7世紀以降に流入したアラビア人の融合が進み、アラブ化が浸透した結果、ベル
ベル語を母語とする「ベルベル人」はほとんどいなくなった(人口の1%程度)。現在、チュニジア国民はその98%がアラビア
語を話す「アラブ人」である。また人口のうちの「ほとんど」(Stevens ほかの情報によれば99%)がイスラム教徒であると言わ
れる。参照、外務省各国・地域情勢HP、Paul Stevens「チュニジアの言語状況――アラビア語とフランス語の間で」江村裕文
訳、法政大学教養学部紀要No.103、1998年2月、ほか。
[9]
「マグレブ」(アラビア語で正確には「マグリブ」)は、アラビア半島から見て日の没する地方すなわち「西方」を意味し、北
西アフリカのアラブ地域、普通はモロッコ、チュニジア、アルジェリアの三国を指す。広くはこれにリビアを含める場合もある。
これに対し、エジプト以東の東アラブ地域は「マシュリク」(「日の昇る地」の意、すなわち「東方」)と呼ばれ、アラブ世界の中
の宗教的、文化・学術的な中心地域とみなされている。参照、大塚和夫ほか編集『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002
年。
[10]
たとえばチュニジアには黒人がほとんどまったくいない。こうした人種的観点でもチュニジアは、アフリカという地域の一
般的イメージと隔たっている。また学術研究のレベルにおいても、アフリカ研究と言った場合に、チュニジアを含む北アフリカ
地域を除外して検討されている場合も多い。とりわけ「アフリカ文学」と言った場合、北アフリカ地域を考慮に入れない場合が
多い。Cf. 土屋哲『現代アフリカ文学案内』新潮社、1994;宮本正興『文学から見たアフリカ』第三書館、1989。
[11]
マグレブ三国のなかでも、ベルベル語を母語とするベルベル人の割合が国民の3割を占めるモロッコおよび2割を占め
るアルジェリアと異なって、チュニジアは言語的・民族的均質性が際立っている。したがってチュニジアでのフランス語使用
は、インドや多くのアフリカ諸国のように、国内での言語的多様性を乗り越えるために共通語として外国語が必要とされると
いうケースとは異なることにも注意したい。
[12]
1993年7月5日制定の法律参照。ただし公文書類の公刊にあたってはほかの言語(実際にはフランス語を指す)を補足
的に使用できるとされている(ただし法的有効性をもたない)。
[13]
1991年以降。それ以前は、義務教育は12歳までであった。
[14]
子どもを学校に通わせない親は厳しく罰せられる。実際にチュニジア南部の砂漠地帯をたずねても、学校教育はみごと
に浸透していた。
10 / 12
[15]
[16]
[17]
Paul Stevens「チュニジアの言語状況」、p.138。
同上、pp.142-143。
第2外国語の学習はリセから始まる。イタリア語、ドイツ語、スペイン語、英語、中国語などが選択できる。近年増えては
きたが、英語を履修する生徒はかならずしも多くはない。近い将来、日本語を導入することも検討されている。フランス語が
「外国語」として意識されていないとすれば、上記の言語がチュニジア人学生にとっての第1「外国語」であると言ってよいか
もしれない。
[18]
参照、Paul Stevens「チュニジアの言語状況」、p.146.
[19]
1990年代の国民一人当たりGNPの伸び率はイスラム諸国のなかでチュニジアが最高であった(World Bank Atlas 2001
に拠る情報、畑中美樹「イスラム世界の見方と世界経済の影響」参照)。http://www.jmcti.org/jmchomepage/jmcjournal
/data/2002_1/tokushu_03.pdf
また外務省HPによれば1999年のチュニジアの国民一人当たりGNPは2100ドルに達する。チュニジアはもはや低所得国では
なく中所得国に分類さるようになった。なお、アフリカの国々およびイスラム世界の国々の多くが、90年代以降現在まで、む
しろ経済状況や社会状況の悪化を経験しているなかで、チュニジアが教育水準、経済状態ともにたえず向上を続けているこ
とは特筆に価する
[20]
独立後、チュニジアはほとんど社会的動乱を経験せずに平和を保ってきた。社会の安定は、軍事費の少なさにも現わ
れている(注26参照)。
[21]
チュニジアの二言語併用状況については以下のHPも参考になる。 « L'espace langue en 1995-1996 »
http://users.skynet.be/sky35213/langue96.htm#Tun。
[22]
http://sir.univ-lyon2.fr/limag/Volumes/TunisieLivresTout.PDF。
CICLIMは1989年に創設されたマグレブ文学研究者国際連盟(La Coordination Internationale des Chercheurs sur les
Littératures Maghrébines)の略。フランスのパリ近郊セーヌ=サンドニ県に本拠を置く。Charles Bonnはその名誉総裁。彼に
よって1998年にウェブサイト「LIMAG」(Littérature du Maghreb の頭をとった名称)が組織され、この領域に関心を持つ研究
者のために数多くの文献情報が提供されている。
[23]
現在アルジェリアおよびモロッコの人口はそれぞれ約3000万人、チュニジアの人口は1000万人ほどである。
[24]
福田育弘「マグレブの熱い視線」連載第9回、『ふらんす』1993年12月号、p.90。以下も参照のこと、福田育弘「テクスト
の暴力」連載第10回、『ふらんす』1996年1月号、p.65。
[25]
チュニジアは1956年3月の独立後、同年8月13日制定の民法で中東イスラム諸国ではトルコ共和国についで複婚(一
夫多妻制)の禁止を法制化し(第18条)、離婚請求権を夫と妻の双方に認めた(31条)。また58年には教育の権利の男女平
等が定められ、59年6月改正の新憲法では20歳以上の男女に同等の選挙権と被選挙権が与えられた。参照、鷹木慶子
「チュニジア農村部女性の内職にみる民俗知識と技法」大塚和夫編『現代アラブ・ムスリム世界』世界思想社、2002年、
pp.118-119。
[26]
チュニジアはマグレブ三国の中でも社会的安定性の高さの点で際立っている。それはこの国の軍事支出の低さにも反
映している。日本の外務省のデータによれば、チュニジアの軍事予算は2000年で3.50億ドル(対GNP比1.7%)であり、これは
日本の軍事予算(467億ドル)のなんと133分の1にすぎない。対して、独立以後現在まで絶えず軍事的擾乱の中にあるアル
ジェリアの軍事予算は29億ドル(2001年)、西サハラ領有やベルベル人の民族問題をかかえるモロッコでも17億ドル(99年)
であり、相対的に見てもチュニジアがいかに軍事に予算をかけていない“平和”国家であるかがわかる。参照、外務省、各
国・地域情勢HP(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/index.html)。
[27]
澤田直「マグレブのフランス語文学――裏切りと歓待」、三浦信孝編『多言語主義とは何か』藤原書店、1997年、p.189。
[28]
ロラン・バルト「わたしがハティビに負っているもの」千葉文夫訳、『現代思想』1989年12月号。
[29]
フランス語マグレブ文学について4つの時期に分けて解説したHP「さまざまな文学世代」 « les générations
littéraires »(Documentation ANSEJ, Actes du colloque sur :"Le mouvement associatif à caractère culturel", Complexe
Sportif de Proximité d'Ouzellaguen, Jeudi 1er février 2001にもとづく)を参照した。http://www.ifrance.com/sidiyahiainterface
/html/genera_litt.htm。この記事では、現在でもなおフランス語マグレブ文学が、“亡命文学”であることが強調されている。
[30]
Cf. Albert Memmi, Portrait du colonisé, folio, pp.126-128.
[31]
ラッシド・ブージェドラは75年にアルジェリアに帰国。その後アルジェに在住して、アラビア語での執筆活動を始めた。
[32]
LIMAGのなかのHP「チュニジアの影響力」( « Présence tunisienne », Samira M'rad Chaouachi, 1999年10月の文章に
よる)http://www.limag.refer.org/Bulletin/Bul18/DossChaouachi.htm。
[33]
このリストは上記の注22でも示したように、フランスを本拠とする団体によって制作されたものであるから、フランス語に
よる出版物に関する情報はかなり確かであると推察されるが、アラビア語による出版物(しかもチュニジアで生産されたアラ
ビア語出版物)をどれだけ網羅的に把握しているかについては若干の懸念がなくもない。
[34]
スティーヴンスが紹介している、(正則)アラビア語が堪能であると自称する男性が、自分の好んでいる雑誌、新聞、書
籍、文学、映画として挙げたものはすべてフランス語のものであったという事例はけっして特殊なものではないだろう(P.
11 / 12
Stevens「チュニジアの言語状況」、p.146)。
[35]
拙論者がチュニジア滞在の折に会話を交わす機会をもった、チュニス大学言語学部文学専攻の学生たち数名からも同
様の印象を受けた。
[36]
スティーヴンスは、チュニジア人がもつ正則アラビア語に対するコンプレックス(たとえば間違ってはいけないとおびえる
感情)について詳しく述べている(P. Stevens「チュニジアの言語状況」p.137)。
[37]
HP「チュニジアの影響力」。
[38]
ハティビの論文等としては以下のものが日本で紹介されている。 「反ユダヤ主義とシオニズムを越えて」澤田直訳、
『GS』冬樹社。「コーランにおけるセクシュアリティ」澤田直訳『現代思想』、1989年12月号。「他なる思考」『現代思想』、1995
年6月号。「国境を越える文学」(インタビュー:青木保)、大浦康介・木下誠訳、『現代思想』、1989年12月号。
[39]
鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』岩波書店、1999年、p.82以下。日本での英語教育をめぐるこの著作は、現
代世界のなかで「国際交流語」を身につけることの重要性を明快に説いている点で、本論考にも数々の示唆を与えた。とく
に、チュニジアにおけるフランス語の役割を考える上で非常に参考になった。
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