1.パリ・コミューンの統制の無さ、組織力の低さが結局、崩壊に突き進ん

パリ史こぼれ話
第5回(12 月 3 日)
: パリ・コミューン
質 疑 応 答 [回答は常体で標記]
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
1.パリ・コミューンの統制の無さ、組織力の低さが結局、崩壊に突き進んだことはよく
わかりましたが。個人主義のフランス人同士、意見がまとまらないのは元より同国人
の性だと思います。本当かどうかわかりませんが、上官の命令に対し部下が“Non”
と言えるのは、唯一フランスの軍隊だということを聞いたことがあります。
上記質問に答えるにあたり、ひとまずパリ・コミューンとは別個の問題として論じたい。
フランス人の国民性はパリ・コミューンに限らず、今も昔も日常生活のあらゆる面におい
て露出するからである。
フランス人はラテン系民族である。フランス語はそもそもラテン語から派生してきたの
だ。フランス人は自分らがローマ文化の継承者であると自認・吹聴してやまない。ラテン
系諸国民に共通するのは個人主義が濃厚で、他人の指図に従うのをヨシとしない。その一
方で、独立心が旺盛なのと、愛国心が昂じ自己愛と絡まりあってお説教好きという特質を
もつ。ひとたび口を開いたら止まらない、否、彼らの口を塞ぐのは難しい。しかも、物事
を理づめで考えがちであり、それが実情に合わないこともお構いなしで突っ走る。
前にも質疑応答文で書いたと記憶しているが、フランス人は個人主義傾向が強いけれど
も、フランス国家を無上の誇りと信じている。よって、国家において一旦緩急あれば、す
ぐにでも持前の個人主義や平等主義をかなぐり捨てて、一人の独裁者にひれ伏す性向もも
ちあわせている。侵略戦争や占領に対しては、それまでの同僚や知友関係における確執や
敵対感情を一挙に捨て一丸となって敵に当たる。この習性は長年の政治の激動から学びと
ってきたのだ。だから、いつも内輪もめをやっているフランスを敵とするのは与しやすい
と思うのは早計だ。彼らは突如として大団結をする。民主主義や平等主義と独裁や不平等
主義の対照は、裏でそれらが相互依存・互換関係にあるのではないかと思ってしまう。
かくて、フランス人は(ラテン系国民に共通するが)一般に侵略戦争は不得意とするが、
防衛戦となると、そこから戦意が起き上がり、戦うにあたって粘り強く敵手がギブアップ
するまで不倒の精神を貫きとおす。
また、フランス人は特に古物趣味もちで過去の事例に拘る。よって、創意性は富むにも
かかわらず、旧套墨守に染まりがちで、慣例と儀式尊重の気が強い。軍隊が弱いのもその
せいである。この点からみると、永年のライバルのドイツ人はつねに変幻自在で変わり身
の速さを身上とする。ワイマール民主主義に引き続き、ヒトラー独裁体制を許容したので
ある。
フランス人は(言って悪いが)謙虚のふりをして実のところは傲慢で、万事につけ「上
から目線」で指揮をとりたがる。こうした態度はNATOやEUの結成時にいつも米国と
張りあっていたことに証明される。名将にして偉大な政治家シャルル・ドゴールは演説で
いつも「フランスは世界の光」を強調した。かつて「光の都 ville de lumière」はパリ
1
の専売特許のはずだったが、いつの間にかそれがフランス全土におし拡げられた。
ヴィクトル・ユゴーはしばしば「フランス、フランス、汝がいなければ世界は孤独」と
言った。それはまさに、中国王朝の宮廷詩人が中国のことを「世界のヘソ」と書いたのに
似ている。こうしたことはフランス自身に、自分たちは世界に冠たる模範だという観念を
植えつけ、あらゆる外国の出来事をフランスの手本にどれだけ似ているか、または参照し
たかで判断する。まさしく「中華思想」のヨーロッパ版が「中仏思想」といえよう。
その栄光に満ちたフランス人も徐々に進行した衰退の現実を認めるようになってきて
おり、以前ほどに独善的な英雄主義や傲岸不遜は影を潜めている。しかし、完全に消え失
せたわけではない。こうしたフランス論を語るとキリがないため止めることにしよう。い
つの日か他のヨーロッパ諸国民との比較において国民性論を論じてみたいと思う。
ここで小生の経験談を披露させていただく。以下は小生の日記からの記述である。小生
はフランス革命二百年祭の時(1989)パリに居合わせた。そして、シャンゼリゼ大通りで
の上空と陸上の軍事パレードを観た。上空というわけは、シャンゼリゼ大通りに沿って上
空を戦闘機や輸送機が編隊を組んで西から東に飛来するのだ。観衆は大通りでこの航空シ
ョーを観るのだ。ところが、飛行ショーはがふつうなら3機が正三角形を描いて飛行する
のだが、フランス空軍は滅多に正三角形を描けないのである。時には1機だけポツンと引
き離され、いびつな三角形を描きつつ前の2機を追いかけるのを見た。
地上での陸軍兵士の隊列行進もどうも足並みが揃わないし、時に不謹慎にも横を向いて
笑いながら行進する輩もいるし、極端な例では沿道をぎっしり埋めた観衆の中に若い女を
見つけた兵士が列からちょっと外れ、投げキスをしてカニ歩きをする。後ろの同僚に窘め
られ、後ろ髪を引っ張られるようにして列に戻る。こんな隊列行進など、どこかよその国
では見られるだろうか。ナチス軍隊式の歩行で有名な半島某国の軍隊であれば即、軍法会
議ものであろう。それでも憎めないのがフランスのフランスたるゆえんである。
2.コミューンの(指導)統制体制はどのようなものだったのでしょうか。有力者はいた
のでしょうか。
コミューンの指導体制ははっきりしないのが実情のようである。だれが、どの資格でど
の程度に、誰に対して責任をもつのかの組織のイロハがはっきりしないのだ。3 月 26 日の
選挙で選ばれたコミューン議員は 60 名。この議員は単なる議会の構成員ではない。立法
と執行は分かれていない。分かれることがブルジョワ議会の腐敗に結びつく根因であり、
これをなんとしても避けようという意図のもとに採られたのが、
「省」ならぬ「委員会」
体制であり、議員として区民の利害を代表する傍ら、委員会メンバーとして行政にも携わ
り執行にも参画する。
議員 60 人は 10 個の委員会のいずれかに
(複数委員会への所属も可)
加わる。
この仕組の発端にすでに問題がある。議員が区から選出され、区に対して責任をもつの
であれば、区のあいだで利害の絡む事項を取り扱うとき、どう決断処理するのか。しかし、
短命に終わったコミューンは区間の確執をやりとりする余裕さえなく、緊急の措置に明け
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暮れしたのである。
3 月 29 日、コミューンは 10 の委員会を設置することを決めた。10 の委員会とは執行委
員会、軍事委員会(国民衛兵中央委員会)
、糧食、財政、司法、保安、労働、工業・交換、
公共事業、教育。このうち、最初の二つ、執行委員会と軍事委員会が重要にして根幹であ
ることは自明である。
執行委員会は各委員会の代表 1 名をもって構成されるところから、今ふうにいえば、閣
議に相当すると考えてよい。他の8委員会は各省にあたる専管事項を有する。しかし、こ
の執行委員会には「長」がいない。シャルル・ベレーという老人が最年長で選ばれたが、
彼が実際に司会した形跡はない。動議が次から次へと出されて可決しないまま議論が宙に
浮く。結局、執行委員会は1か月の任期でルフランセ、デュヴァル、フェリックス・ピヤ、
ベルジュレ、トリドン、ウード、ヴァイヤンをもって構成された。このうち、デュヴァル、
ベルジュレ、ウードの 3 人は軍事委員も兼任したため、次に述べる軍事委員会がコミュー
ンの全体をリードすることになった。
さて、問題の軍事委員会である。これは国民衛兵の頂上部がそっくりそのまま、つまり
コミューン選挙という手続きを経ないで軍事委員会を占めた。さっそく、4 月 2 日、執行
委員会およびコミューンの明確な指針もないまま、軍隊の指揮官たちはさっさとヴェルサ
イユ軍と干戈を交えてしまう。ベルジュレとフル―ランスがヴェルサイユ進軍を試みて惨
敗を喫したのも、委員会やコミューンとの連携をまったく欠いていたからである。
各委員会の齟齬、恣意的発進、混乱はそれにとどまらなかった。4 月 26 日、パリ西南郊
のイシー要塞がヴェルサイユ軍の猛攻を受け陥落寸前の危機に及んだとき、トリドン、ヴ
ェルモレル、マロン、ロンゲの反対にもかかわらず、ジャコバン派はミヨーを先頭にして
公安委員会の設置を推し進め、この動議は 5 月 1 日に 45 対 23 票で可決され、同委員会の
メンバー37 名(他は棄権)が選ばれた。委員会のトップはアルノー、メリエ、ランヴィエ、
ジュラルダン、ピヤである。これはまさに、フランス革命時の恐怖政治の再版である。
この公安委員会はいくつもの重大な過失を犯したが、中でも深刻なのは国民衛兵を戦闘
の中核に据えたことだった。かくて、イシ―要塞の早まった放棄とヴェルサイユ軍の占拠
(5 月 9 日)を招いてしまう。その責任をとって軍事代表委員のロッセルは辞任する。旧
軍の将校の一人であった彼はメッス開城のおりに逃亡し、パリに戻ってコミューンに与し
た。軍事指揮を執れる唯一の人物だったが、辞任の理由は軍が規律に従わないことだった。
本講座では意識的に政策の実行についてふれなかった。実態を見る間もなく、コミュー
ン政府はヴェルサイユ軍への応戦で手一杯だったのである。有力者はもちろんいたが、あ
らゆる党派をまとめ、政軍の調整に卓越した能力を発揮できるだけの逸材はいなかったと
みてよい。というよりも、事態の展開が速すぎて、集権の最も必要な時期にコミューンと
いう生温い組織体制のもとではだれが指揮をとっても成果は挙げえなかったであろう。パ
リ・コミューンはヴェルサイユ政府(フランス全土を代表)とドイツ軍に包囲され、しか
も、雑多な階層と雑多な思想をもつパリ市民にも取り囲まれていたのである。
3.内部分裂の主な主義主張は何だったのでしょうか。
3
講座で説明したが、中央集権制(ジャコバン派ないしはブランキ派)
、漸次的社会改革
(インター国際主義派)
、連邦制(プルードン派)
、職場自主管理(バクーニン派)
・・・
これらは向かうべき方向も手段も著しく異なっていた。敵に包囲されている中で、このよ
うな対立を続けるのでは、勝利はもとより望むべくもなかった。
4.形勢観望にまわった主な要因は?
「形勢観望」の主語はパリ市民のことであろうか。パリ市民が雑多な階層と雑多な利害、
雑多な思惑を秘めた集合体であり、特定のイデオロギーに染まっていない存在であれば、
「大勢順応主義」に流されるのは不可避である。彼らに最大公約数的な願望は「和解」で
あり、パリとヴェルサイユの流血の惨事だけは何としても回避することを願っていた。よ
って、彼ら自身、ビラやチラシを配布するなど、さまざまな形で宥和の動きをしている。
また、元区長・助役会やフリーメーソン団のヴェルサイユ詣でを歓迎している。
4 月中旬になると、こうした融和策がまったく効かないことを知るや、彼らは一斉にパ
リとヴェルサイユの両陣営から距離をおくようになる。4 月 2 日のウードやフル―ランス
の大敗を知って、もはやパリに勝利の芽はなくなったと判断したのだ。
5.コミューン成立までのリードタイム、活動はどんなものだったのでしょうか。
本講座では意図して、コミューン設立に活躍する党派や国民衛兵の自主組織(中央委員
会)の話は外してきた。パリ・コミューンの従来の歴史書(邦訳文、和書のほとんど)は
すべて、これらの動向の観察から成り立っており、小生は従来からそれに対して違和感を
もちつづけ、これに挑戦する意味で時代の環境要因や民衆動向に絞って論じてきた。その
ために「籠城のパリ」や「パリの特異性」を扱ってきたのである。革命をリードするエリ
ートの存在は無視してかまわないとまで極論するつもりはない。
6.政治家は自説に近いものを“つまみ食い”する場合がある。政治家は“名前を売る”
のでまだよいとしよう。
“ホジクリ食い”で単に注意を惹くもの、一部分だけをもっ
ともらしく「~と言われている」というふうに、それが持論であることを隠す。
まったく同感である。これを「素人の一知半解」という。
「つまみ食い」は政治家に限
らない。要するに、人は何か発言するときは己の役割分業をしっかり弁えることだろう。
つまり、政治家は政治、学者は専門分野、ブンヤは情報提供、技術屋は各専門領域を本業
としていることを自覚しなければならない。門外分野にいっさい口出しを止めよとまで言
うつもりはないが、何かを主張する場合、自分が門外であることを自他に対し明らかにす
4
べきである。
なかでもいちばんタチがわるいのは記者である。何度かインタビューを受けた経験があ
るが、話していてまず気づかされるのは、彼が何も知らないで、予備知識をもたないまま
インタビューに臨む。そして、できあがった記事を見ると、まるで最初から自分の知識で
あるかのように上手にまとめあげる。その技量には驚かされる。学者は深い知識をもって
いるかもしれないが、知識の狭さが「疵」だ。しかし、学者にはその自覚があるからまだ
救われる。ところが、記者には深さも広さもない。本来、ジャーナリストの役割は広い知
識でもって学者の狭さを補うべきであるのに、それができないのだ。
欧米のジャーナリストは実によく勉強しており、幅広い分野を渉猟しており、重大事件
が起きたとき、卓越した能力を発揮する。それが日本の記者となると、官庁の記者クラブ
にいつも詰めていてダベリング、囲碁将棋、トランプ、麻雀に興じる。ニュースが入ると、
一大事とばかり、すべてを投げ出して走りだす。行先は官庁、警察署である。そして当局
発表の記事をそのままメディアを通して発表するのである。いきおい、
“ちょうちん記事”
にならざるをえない[注]。
次の問題。
「~と言われている」なる伝聞・風評のかたちで意見表明するのは、心理学
の立場からみて、ほとんどが持論である。本人に言いきるだけの自信がないし、話し相手
から反撃を食らうのが怖いために伝聞や風評のかたちをとっているにすぎない。
[注]新聞、通信、テレビ報道、ラジオ放送各社はニュースの主要な発生地、収集所であるところの中
央政庁や地方自治体、警察署、政党などに記者を常駐させ、取材に当たらせている。これらの記者
が自主的、親睦的機関として結成しているのが記者クラブである。このようなクラブは日本独特の
もので、1890(明治 23)年の帝国議会開設のときに共同新聞倶楽部をつくったのが始まりとされて
いる。本格的な結成は大正時代のようだ。第二次世界大戦中は当局により入会資格なども統制され
たが、戦後になると当局は手を引き、クラブは自主的で親睦的なものに変わった。
当局にとって記者クラブに向けて方針や状況を発信すればよく、手間が省けるメリットもあり、
また報道各社にとっても取材活動での便宜が図れる点がある。その反面、①その排他性とニュース
の独占、②ニュースの統制、③各社独自の取材活動の阻害、といったマイナス面の多いことが指摘
されている。これらのマイナス点を補う新手のメディアとしてインターネットが登場して以来、記
者クラブの存在が根底から揺らいできているといえよう。
ここでマイナス面を具体的にみてみよう。たとえば、記者クラブで官庁によって発表されたニュ
ースは抜け駆けが許されず、各社が同時発表しなければならず、これに違反するとクラブから除名
または資格保留となる。弊害の最たるものは、報道各社の発表する記事がすべて同じとなり、官庁
につごうの良い記事一色となることである。一方、報道各社は各社で、抜け駆けを禁止し、ニュー
スの画一化を図るため、わざわざ記者クラブでの発表を望むという事態さえ生まれている。
昼間の記者クラブは空っぽであり、
記者たちは近隣のマージャン荘に入り浸りということもある。
当局による重要発表が始まるとの通知が入るや、記者たちは「遊び」を途中で切りあげ一目散に庁
舎内の記者クラブに戻る。午前 11 時が夕刊記事の締め切り、午後3時が朝刊初版の締め切り、午
後8時が朝刊最終版の締め切りとなっており、この時間帯が近づくと記者たちはきわめてナーヴァ
スになり、外部からの呼びかけには応じない。もちろん、官庁発表のニュースはこの時間的リズム
を考慮してくれるため、その意味でも報道各社にとってはありがたい存在である。
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もうひとつ問題なのは、
記者クラブの維持費を官庁が負担していることだ。
これでは“提灯記事”
となるのはむりもない。
記者が自分の足で歩いて情報収集することを億劫がるところから、自身での事件追及という取材
の基本が疎かにされ、ニュースに魅力が感じられなくなり、ひいては既存マスコミ全体への不信に
つながっていく。これも、取材を受けた経験をもつ評者の思い出話だが、記者は取材にあたって事
前調査をせず、したがって何らの情報ももたないでインタビューに臨む。その結果、記事内容のす
べてがインタビューに依拠する場合が少なくない。要するに、聞き語りの要約らしきものが新聞・
テレビに出るのだ。批判的視点が欠如しているため記事に迫力が感じられない。
今や速報性の面で後れをとる新聞やテレビでも、事後調査とふだんからの研究さえしっかりして
いれば密度の濃い内容で他者に太刀打ちできるはずだ。しかし、それらがなされていないため内容
が薄っぺらなものにならざるをえない。紙面の半分が広告で埋まってしまうのはともかく、記事が
読むに値しないのだ。日本の新聞を欧米のそれと比較してみればすぐわかる。欧米では偉人が死ん
だり大事件が発生したりすると、その翌日の新聞は何ページにもわたって、偉業や事件の背景に関
する解説記事で埋まるのだ。報道各社でふだんからの研究の積み重ねと準備がしっかりおこなわれ
ている証拠である。
7.いつも詳細な資料を事前にいただき、感謝申し上げます。今回の「パリ史こぼれ話」
と直接関連がない質問で恐縮です。以前、ご紹介いただいた「パリは燃えているか」
(DVD)を興味深く鑑賞しました。ナチス=ドイツのフランス占領4年間にはレジ
スタンスのみでなく、ナチスの協力もあったのではないかと推測されますが、戦後、
これらの協力者への対応はどうなったのでしょうか。
ドゴール将軍はフランス全体の団結のため、これらナチスへの協力者への弾劾は不問
にしてレジスタンスの側面のみを強調したという人もいますが、先生のコメントをお
願いします。
「よくご存じで!」が第一印象である。確かに言われていることは事実である。端的に
いえば、かの偉大なフランソワ・ミッテラン大統領さえ「コラボラトゥール Collaborateur
(ナチ占領下の対独協力者)
」の前科をもっていることが暴露され、新聞沙汰にもなった。
コラボラトゥールは公職から外され、いっさいの政治的権利(市民権)も終身剥奪される
のだ。
公式には、ヴィシー体制とヴィシーがおこなったことすべては、フランスの解放時に歴
史からあっさり抹殺された。フランス国民解放委員会(CFLN)が「事実上の権威」と
呼んだヴィシーのすべての法律は 1944 年 8 月 9 日にアルジェで発せられたオルドナンス
(命令)によって無効と宣せられた。対独協力をおこなった公務員の追放はすでに 1943
年 8 月に発表されていた。1940 年 6 月 16 日以降の政府の全閣僚は 1944 年 11 月 18 日の
デクレ(政令)により設置された特別高等裁判所に召喚された。最初に起訴されたヴィシ
ーの閣僚ピエール・ビュシューはすでにアルジェで開かれた軍法会議で死刑を宣告され、
1944 年 3 月に銃殺されていた。
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法律的にはアルベール・ルブラン大統領がポール・レノーに代えてペタン元帥に組閣を
命じた 1940 年 6 月 16 日の深夜まで事態を戻すことになっていた。しかし、現実には終わ
ったことは元に戻らなかった。フランスの解放者たち(ドゴール将軍を含め)もそれを現
実化できるとも思っていなかった。事実、戦後改革の設計者たちはヴィシーの立法にもと
づいて改革を進めることや、ヴィシーに倣って法を制定することを必ずしも拒否しなかっ
た。善かれ悪かれヴィシー体制はフランス人の生活に消すことのできない印を刻んでいた
のである。
だが、解放のずっと後まで、情熱的な解放期の断絶と絶縁は連続性よりはるかに歴然と
していた。解放期にフランス人によって殺されたフランス人犠牲者の数については著しく
誇張されて 12 万人という数字があるが、実際はおそらく 1 万を越えなかったであろう。
10 万人以上のフランス人が投獄、裁判、死刑でなくても財産没収や免職の判決を受けた。
第四共和政の創設者たちはすべて新しくすることに着手した。変化と非連続が 1940 年代
後半までフランスの支配的風潮に見えたとしても不思議ではない。
まだまだ述べることがたくさんある。そこで、10 年前に出版され、センセーションを巻
き起こした書物を紹介することで話を中断したい。
ロバート・O・パクストン著、渡辺和之・剣持久木訳『ヴィシー時代のフランス ― 対
独協力と国民革命 1940~1944 ―』柏書房、2004.
8.イルミナティについて
フリーメイスンと同じように、エリザベス女王とか“ユダヤ人”の陰謀論が説かれて
いる集団と認識していますが、確かなことは判っていません。世界を裏で操作してい
る集まりのようですが、… 経緯を教えていただけたらば幸いです。
語だけは知っている。バイエルンを出自とする教祖を仰ぎ、啓蒙的宗教活動をする陰謀
集団としてぐらいしか知らない。最近では世界征覇をめざし陰謀を張り巡らすユダヤ人と
して語られることが多いし、その関連図書も数冊もちあわせているが、この種のものは扇
動文書の匂いがして読む気にならず、ページを開いたことはない。イルミナティとユダヤ、
そしてフリーメーソンと重なりあうという説もあるが、違うというのが正しいだろう。
前に講座でもふれたが、ユダヤ人社会の実態は分裂しており、シオニストもいれば、反
シオニストもおり、世界征覇など共通目標をもっているようには思えない。ただ、反ユダ
ヤの試みには団結して牙を剥き出す点は事実である。長い間執拗な迫害に遭ってきた民族
ゆえに、いつも防御本能が研ぎ澄まされ、いつでもどこでも立ち上がれる用意はあるよう
だ。ユダヤ社会にも階層化は進んでいるが、おしなべて、世界中どこのユダヤ人も社会の
中層以上のランクにいる。
9.やはりフランス、それもパリ!
下層の人々が生活や周囲の政治状況に不満を感じたことは、世界中に 19 世紀以前に
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も数々あったはずです。
フランス市民(下層の人々を大量に含む)は 18 世紀末に大革命を経験し、その後の
80 年間で自己主張と許容(共和政)を学習し、それがパリ市民のコミューンとその
後の動きに凝縮したように思います。
議会内の王党派(ブルボン、オルレアン)
、共和派、中間派、そして議会内のネオ・
ジャコバン派、ブランキ派、インター派、選択肢は多く、市民がその都度選ぶことが
できるというのは、この頃、他国にあったのでしょうか?
フランス政体・政権がころころ変わり不安定と言われますが、
「それもよい!」と思い
ます。コミューン時もいろいろな側からの説得、アジテーション、脅しがあり、その
都度市民一人ひとりが考え、
決定し、
行動して言ったための流れではないでしょうか。
現在の世界の政治の流れ(少なくとも選挙制度のある国)の揺籠は、18 世紀末から
のフランス、そして、パリであった、と勝手に頷いたしだいです。
以上、質問というより、少し流れを調べて頭に浮かんだ妄想でした。すみません。先
生の「挑発」に単純に乗ってしまったようです。いつも「挑発」してくださるので1
週間が有意義です。
全体として貴重な感想・意見として受け止めたい。ここまで論点が具体的になっている
のは、なされた学習のせいである。論点はいくつも挙げられているが、上記のどれ一つと
ってみても立派な研究主題となりうる。研究とは「なぜ」
「なぜ」
「なぜ」の問いの無限連
鎖である。無理難題であっても何とか解説できるほどに辛抱強い態度で臨み何かを究めて
みれば、その先には必ず深くて広い認識が待ち受けているはずである。夜中の夢の中で論
点に対する答えが閃くことがある。それはしばしばまともな「答え」であることが多い。
夢のなかでも無意識のうちに学習しているのだ。
こうした“夢散歩”のみが学習チャンスではない。本物の散歩や庭いじり、家事をやっ
ている最中でも突然、頭に閃きが走ることがある。ここで得た知的収穫も侮れない。論文
書きを中断して他事に打ち込んでいるとき、突然、自分が知らず知らずのうちに犯してい
る誤解ないしは脱線に気づかされることがある。
ここまで書いてきて思い出したことがある。小生が大学院生時分に恩師から聞かされた
ことは、
「学究の先達たちは戦場にまでポケットに原書を忍ばせたものだ。断続こそあっ
ても思索は続けることが肝要で、それが学究をめざす者の必須な課程である」と。とても
真似のできないことだが、そうした気構えだけは備えておきたい。
質問者は「流れ」を重視している。まさにそのとおりで、最近の学術論文を読むと、
「流
れ」を最初から放棄し(諦め)独善的になっている(本人にはその自覚が乏しい)作品が
多く、専門ではない者には理解できないし、そもそも興味がもてない。いわゆる「木を見
させて森を見させない」のだ。岩波書店刊の東大教授の著作にもそうした例がある。読者
もユメユメ、権威だけを頼りに書物を選ぶようなことはしないのが得策だ!
思うに、
「流れ」こそが他人を説得できる唯一の方法なのである。歴史学では特にこれ
が重要である。
「流れ」の絡みでいうと、
「すべてはローマに流れ込み、ローマから出る」
と同様に、18 世紀のパリこそ、かの古代ローマと同じ役割を果たしている。パリ、フラ
8
ンスにとどまらず、ヨーロッパの近代はここより発するのだ。
10. コミューン前後の女性の位置・立場はどうだったのでしょうか? 各議員、発言者、
思想的指導者は男の名ばかりのようです。しかし、運動の発端になった場には女性と
子どもが登場します。居酒屋論議は男ばかりのイメージがあります。でも、家に戻れ
ば配偶者の発言権(日常生活に根ざした立場 — 苦しい生活を訴えるか、過激な行動
を抑えるか…)はどんな動きをし、史料に残っているのでしょうか?
コミューンと女性が主題。パリ社会が男女両性から成っている以上(従来は男子が多か
ったが、
1870 頃の市民構成はほぼ 1 対1)
女性が事件に参画しないはずがない。
もちろん、
女性のすべてがコミューン派に与したわけではないが。政治上の権利は男子だけがもち、
カトリック倫理のもとで家庭内でも家父長制のもとで立場は弱かった。そうであるにして
も、籠城の耐乏生活や政治の厳しい現実に直面する点では男子も女子も同じである。
コミューンに同調的な女性は武器を執る者、バリケード構築に参画する者、伝令、酒保
係、炊き出し係、補給係、救急係、情報宣伝係となって重要な役割を果たした。ヴェルサ
イユ政府が後に女性の役回りとして強調する「石油女 pétroleuses」こと、すなわち「放
火女」も皆無というわけではなかったであろう。8 月 24 日に始まるパリ大火はヴェルサイ
ユ軍の砲撃によるものもあるが、都心部の一斉に火に包まれたことから放火に因る場合も
少なくなかったと思われる。火と煙は、形勢不利に陥ったコミュナールが自らの退却と逃
亡の利便を図るのに有利にはたらいたのだ。
当時の女性に政治的権利はないゆえ、議員に選出されたり居酒屋での政治論議に参加し
たりすることはなかったが、女性だけのクラブがなかったわけではない。当時の図絵には
教会堂で女性の演説者が高いところから下に集まる女性を前に演説をしているようすが
描かれているものがある。小生の記憶では「アマゾネス・クラブ」があった。婦人たちは
サン=ベルナール・ド・ラ・シャペル教会堂でしばしば集ったことが知られている。
問題は数量である。ヴェルサイユ政府は戦闘に入る前に4つの軍法会議を設立していた。
ということは弾圧を最初から予定していたことを示す。そのうち、2つは 1871 年 1 月 22
日に設立された。8 月 7 日の法律によってさらに 22 の軍法会議が追加された。1872 年 6
月、軍事裁判が始まったことはいわゆる弾圧の終了を意味する。
裁判上の統計によれば、35,000 人のフランス人被告(プラス外国人被告 1,725 人)で
あり、コミューン反乱がつとめてフランス的なものだったことを物語る。これは「アペー
ル報告」として 3 冊の書物にまとめあげられているが、性別、年齢、職業構成、前科、思
想傾向、量刑について記してある。思想傾向の記述のある者はコミューン運動の指導者た
ちに限られる。この「アペール報告」はいま、小生の手許にない(大佛記念館にある)く、
細かいことが述べられない。記憶によれば、被告の性別構成は圧倒的に男子が多く、5 対
1ぐらいだった。
受刑者は男女を含め、ヌー島その他のニューカレドニアで有期または終身の流刑に処せ
られた。ヌー島に送られたのは婦人たちである。その中にルイーズ・ミシェルが含まれて
9
おり、彼女は『パリ・コミューン ― ある女性闘士の手記 ―』を著した。名著である。
ここで流刑生活のもようが粒さに書かれている。邦訳本があるので、是非とも参照された
い。そのうち、婦人流刑囚に対するムチの使用ぶりに関する一節があり、引用しておこう。
「ムチ刑は週に2回、集合徒刑場の前で太鼓の音を合図におこなわれた。ムチを受ける者は素っ裸
で腰掛の上に括りつけられ、10、15、20、あるいはそれ以上のムチを受けるのだ。体刑の道具は
丈夫な皮ひもで、それは専門の吏員の手で驚くほど巧妙に細工されていた。一打ちごとに皮膚はや
けどをしたみたいに膨れあがる。4 回か5回目には血が噴き出る。…15 のムチ打ちはつねに数週
間の労働不能を招いた。一人の受刑者が死ぬことなしに 40 のムチに堪えることができた試しがな
い。それなのに、刑罰が 50 のムチ打ちであることもしばしばだった。…」
11.この度、初めて先生の講座を受講させて頂き、厚く御礼申し上げます。
仕事の関係で、最終回第6回が受講できず、残念ながら本日の受講で卒業させていた
だきます。
毎回、丁寧な資料とわかりやすい講義、誠に有難うございました。各回ごとに次回の
講義資料をいただけましたので、あらかじめ参考となる図書も読むことができ、非常
に有意義な時間を過ごせました。
また、受講生からの質問に対しても、史料で丁寧に回答して頂き、その内容も実に親
切で、先生のお考えも真摯に書かれておられ、感動いたしました。
これまでも横浜市大のエクステンション講座を幾つか受講してまいりましたが、今回
の先生のように、実に丁寧な資料で、また、質問にも次回の講義で資料(ペーパー)
で回答頂いたのは初めてでした。改めて御礼申し上げます。
次回も先生の講座がありましたら、また、受講させていただきたいと思っております。
先生のご健勝を記念しております。本当にありがとうございました。
こうまで褒められると面はゆい。受講生各位からいろいろな質問を受け、これは小生に
とってむしろ、大変有意義であったと思い、いちばん得をしたのは講師ではないかとさえ
思う。他人の眼というものは本人には気づけない事柄に気づかせてくれる。わかっている
つもりでも、
「わかる」とは常に相対的で、かつ度合いを伴うもので、完璧にわかること
などありえない。その意味で、違った視点に接するのは極めて有益かつ刺激である。
しかし、終わってみると達成感と同時に、多くの反省点があったことがわかる。思いつ
くままに書き連ねてみよう。
(1)毎週の連続講演は辛い。隔週にすべきであった。受講生にもハードであっただろう。
(2)ほとんど全部の講座において1回ではとても消化しきれない「盛りすぎ」があった。
(3)90 分授業はやる方も聴く方も厳しい。途中、閑話休題を設けるべきであった。
(4)レジュメはもう少し簡素であってもよい。本論と注解、参考資料の区別を明確に。
(5)全講座について各「まとめ」
(今後の課題、現代的意義)を設けるべきであった。
(6)本講座を予行演習と捉え、次年度の高校生対象の「小論文指導」に役立てたい。
(c)Michiaki Matsui 2015
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