1 自然な 視覚表現 ― モデルと技術 ― 犬塚 潤一郎 視覚表現における 本当らしさ を論じること ___________________ 1 1. 目で見るものの忠実な再現とは ______________________________ 1 2. 現代の映像作品における視覚表現/経験 _________________ 3 2.1. 実写との合成 __________________________________________ 3 2.2. フルCGの映像_________________________________________ 4 2.3. アニメーション映像との対比 _______________________ 4 2.4. 多重平行視線とスーパーフラッ ト_____________________________________________________________________ 5 3. 日本絵画と平行視線 _____________________________________________ 6 対象への集中______________________________________ 6 奥行き ________________________________________________ 6 水平延長 ____________________________________________ 6 図案化________________________________________________ 6 立体の平面的把握/表現 _______________________ 6 科学の視点 本草学と博物 学 _________________________________________________________ 6 参照:ヨーロッパ解剖図 _________________________ 6 3. 人の視野とカメラ映像、3Dグラフィック______________________ 7 3.1. 平行視線と線遠近法の合成 ______________________ 8 3.2. 両眼視野の映像化___________________________________ 8 肖像写真:___________________________________________ 9 静物写真:___________________________________________ 9 建築物写真: _______________________________________ 9 研究のこれからに思うこと_________________________________________ 10 視覚表現における 本当らしさ を論じること 1. 目で見るものの忠実な再現とは 今日では、目に見えるものを忠実に記録する手段とし て、写真、そしてビデオ映像をあげるのが自然だろう。とも にカメラを使う技術である。あらためて、何が視覚的に 自 然なのか ということを問い直すことの出発点として、このカ メラという光学機械の映像を取り上げることも妥当であろう が、ここでは、絵画における線遠近法 linear perspective の技術からはじめたい。 どのような絵画が人の視野を 本当らしく 描き出すのか。 そのような問いに対しては、ルネッサンス期に絵画に応用さ れはじめた、三次元空間を二次元平面に写し取るこの数学 的な空間表現技術の有効性が、ほとんど誰の目にも明らか であろう。 そして線遠近法が透視図法(投影法)であることから、そ の光学機械的な実現である写真技術とは類似のものであ る。しかし、写真のように描く技術ともいえる線遠近法による 絵画を見る際に、そこに写真の技術特性とは明らかに異な るものの働きを、あるいは現実の視野とも違うもの、ある種の 違和感を覚えることもあるのではないだろうか。 この違和感は、個人的な経験であるかもしれない。それ は、たとえば、線遠近法の代表作のひとつとして多くの場合 に例示されているレオナルドの『最後の晩餐』に感じる 私 の違和感 である。それでいてここに、視覚の 本当らしさ を考察するための、ひとつのきっかけがあるのではないかと 感じている。それがこの小論の始まりである。 文学表現、言語表現における 本当らしさ の考察とその アプローチに対するものとして、ここでは視覚表現における 本当らしさ について考えてみたい。ここで視覚表現とは、 芸術作品や商業的なビジュアル表現に限られるものではな く、 美しい 町並みや風景といった、生きられる空間につい て考察することのひとつの側面として考えるものである1。そ の意味において、その射程が再び、文学や言語表現にお ける研究と重なり合うことを期待したい。 1 人の視覚における 本当らしさ の基軸は何か。もちろん、人の 視覚を考察するためには、眼球の光学的な特性はもちろん、眼 球運動による視差、視神経の情報記憶メカニズム、感覚情報の処 理特性といった生理学的な側面、そして視覚情報を認知するシス テムについての研究などを踏まえた総合科学的なアプローチが 必要となろう。ここでは、そのような光学、生理、認知についての 多方面の研究を援用しつつも、人が、ある文化体においてどのよ うなものを 自然な 視覚の再現と認めるのか、つまりどのようなモ デルを共有しているのか、ということに主眼をおいて考察を進めた い。 絵画モチーフの象徴的な意味はここでは問わないことに する。あくまでも図像の構成としてのことである。それは一見 したところ、写真で言えば、集合写真である。仮に写真だと したら、カメラマンはどこに立ってこの写真を撮ったのだろう か。この食卓の 5m、あるいは 8mぐらい手前からだろうか。 部屋の奥の壁の強調された遠近感からすると、そんなに離 れたところからのものには感じられない。また、人々との心 2 理的な距離感を想像しても、撮影者からの距離はそんなも のだろう。 しかし、もしその程度の距離から写真を撮ったとしたら、 どんなカメラを使ったところで、このようには写らないのであ る。仮に 5m 離れたところからとしてみよう。みなが座るテー ブルの幅も 5m 以上はありそうである。5m だとしてみると、 撮影地点(視点)から左右の端まではそれぞれ、5.6m ぐら いはなれていることになる(8m からだったら約 8.4m)。つま り、ここにも遠近法が働くことになる。 結果としてテーブルは左右端に向かって少し窄まるよう に、人物も少し小さめに、また顔の角度も多少横から覗くよ うに写ることになる。レンズで言えば広角効果という見え方・ 写り方である。このときに、水平線が歪むような写り方を 不 自然 として技術的に補正したレンズ(光学技術上の広角レ ンズ)を使うと、水平方向の線はまっすぐに写るが、その代 わり、周辺部では垂直と水平の方向でのプロポーションが 変わってしまう 1 。一般の記念写真のような集合写真では、 周辺部の人物が横長に写ってしまうということがよく見られ るが、それはレンズにおける、水平線の 自然さ を作り出す ための代償としての、プロポーションの 不自然さ の現れで ある。 対して、この絵の場合はどうだろう。こちらを向いているテ ーブルの面がほぼ正確に長方形であるように、水平方向へ は遠近法の効果は見られない。それでいて左右端の人物 のプロポーションは中心部と同じであり、人の顔に少し横か ら覗くような効果もみられないようである。 つまり、テーブルと人物については、撮影中心(視点)か ら放射状に投影されるような視線の下に描かれたというより は、描く側が左右に平行移動しながら、部分の連続として 描いたもののように見える2。 1 レンズ自体が光学的に正しい像を結ぶものではないということも ある。カメラレンズを向けた対象の中心部以外は、レンズの焦点と 光軸に対してずれが生じることになるのだが、このような、光軸に 対して斜めから入射した光は、単純レンズでは点を結ばず、結像 が歪曲してしまうことになる。このようなレンズの 収差 には、球面 収差、コマ収差、非点収差、像面湾曲および歪曲収差 (distortion)の特性の違いがあるが、周辺部までの像の 美しさ を必要とするカメラレンズでは、この収差を補正するために、屈折 率の違うレンズを組み合わせたり、面を非球面にするなど、さまざ まな設計上の工夫がされる。 左右に離れた対象を平行な視線のもとに収めるということ は、写真でいえば、対象から充分距離をとった視点から、 つまり望遠レンズの視線で撮るということで近似できる。そこ で、近くから描いたという仮定が間違っていて、この絵は遠 くからの視点によるものだったとしてみよう。なるほどこの絵 の実際のサイズ(460 x 880 cm)と描かれている場所(修道 院食堂の細長い空間の壁)を考えれば、大部屋の逆の端 まで、画面の中央と左右への距離がほとんどかわらないほ ど離れた地点にまで視点を遠ざけて、望遠レンズ的な視線 で捉えたものと考えることもできる。部屋の端から見れば、 視線の先の壁の奥にもう一つの部屋が広がって見えるトロ ンプルイユのように描かれているというわけだ。 しかしそうすると今度は、絵の背景の部屋の遠近感が強 調されすぎていることになってしまう。あるいはちょっと現実 にはないように、部屋が大変に奥長であるとか奥窄まりの形 をしていることになる。 さてこのように見ると、大きな構成の上では、この絵は2つ の部分からなっているものだと考えられるだろう。キリストの 額の位置を消失点とする線遠近法によって奥行きが描写さ れた背景。そして対照的な、キリストと使徒たちと長方形の テーブルでなるその前景である。中心部と左右端とが同じ プロポーションで描かれていて、まるで遠近感のない平板 のような前景である。 そして、この 2 つの部分に対応しているのが、放射状に 視線を投影する 1 点固定の視点と、平行視線をもたらす視 点(それは遠距離からの近似か、あるいは視点の水平移動 によるもの)との、2 つの視野なのである。 この絵の、絵画としての視覚効果が構想されたときには、 大きな部屋の逆端から空間の一部として見られる場合と、ま た絵のそばまで近づいて見られる場合とを、合わせて考え られたことだろう。ほぼ実物大で人物が描かれたこの絵に 近づけば、見る者の視野における遠近感がおのずと生じる ことになる。そのとき初めて、左右端の人物は小さく、テー ブルは細まるように見えることになる。それは縮約としての 絵に対するというよりは、実寸スケールの対象に対する肉眼 の働きである。また絵画の見所である、使徒それぞれの表 情や身振り、手の動きなどの描き分けの解釈が視覚的に可 能になるのもまたその距離の視点からなのである。 紛れもない天才による絵画として、この絵が優れて視覚 的に効果の高いものであること。つまりそこに確かに実現さ れている絵画芸術としての 本当らしさ が、光学的には 不 自然な 視点の複合というべき技術によって成り立つこと。 そのことは、視覚の 自然 ということが単純なモデルには還 元し難いことを明らかにしているのではないだろうか。 この収差補正に加えて、広角での左右遠近感の補正が問題と なるのである。人は、奥行きに遠近感を感じるのと同じように は、左右の遠近感を感じないようである。一方、左右の遠近感 を打ち消すような補正がレンズ設計上で工夫されると、水平に 伸びるテーブルの形が左右で細まった樽状にはならずに、 自然な 長方形に写るようになる。しかしそのように工夫され たレンズでは、今度は周辺部では縦横比が 1:1 ではなくなり、 不自然な 横長に写ることになるのである。逆にそのような補 正をしない極端なものは魚眼レンズと呼ばれるもので、画面の 中央と周辺部では極端に写るもののサイズが異なり、水平、垂 直線は円形に歪むが、撮影される映像をデータとして見れば むしろ素直なものとなる。 ルネッサンス期に絵画に応用されはじめた、現実空間を 数学的なモデルによって抽象化する技術が、単に絵画技 法としてではなく、科学的(数理的)世界認識のモデルと認 識者主体という、「古典的西洋近代の主体」の確立に深くか かわることを、ここであらためて確認したうえでなお、西欧近 代絵画の特徴を、ただひとつの視点から全体を見る(画家 の絶対的な視点に鑑賞者が立つ=共有する)ことによる、視 この絵において、遠くのものは小さく見えるという遠近法が守ら れているとすれば、この絵に描かれている人物はすべて画家・鑑 賞者から等距離にあることになり、横に水平に並んでいるのでは なく、画家を取り巻くように円形に並んでいることになる。 テーブルも、画家を中心に円形であるときに、この絵のように 長方形に見えることになる。 2 3 点の優位であり見る主体の確立であるといいきってしまうま でには、人の視覚の 自然さ は単純ではないようである。 2. 現代の映像作品における視覚表現/経験 今日、われわれが目にする映像は、写真やビデオ映像 だけでなく、その光学的な特性をコンピュータで再現した人 工映像(コンピュータグラフィックス)によるものが少なくな い。実写でない、人の想像によるものも、実写と同じ光学特 性によって表現されるようになったのである1。 見かけが実写(写真やビデオ)のようであって実際は人 の頭から描き出されたもの、というコンピュータグラフィックス は、絵画(描かれている対象の実在は不問)と写真(写って いるものは現実の存在)と無意識にも区分けされていた、映 像における実在性の垣根を壊してしまったようである。 まるで現実のものを見るような 映像を計算によって作り 出す 3DCG の技術は、それが技術的な精度を増すほど に、つまり、実際に 在るもの を見せるカメラの映像と同じ になるほどに、見えているものが実際には 存在しない こと をそれだけ強く見るものに意識させることになる。コンピュー タグラフィックスがもたらす違和感は、人が 本当らしさ を感 じる映像とは何か、という問いに新たな側面を与えているよ うにもみえる。 『Tomb Raider』, 2001, PARAMOUNT PICTURES CORP SF やファンタジーの領域では、CG の利用は制作者の 夢の実現につながるもので、エンターテイメント系の最近の 映画では、どれくらい CG が使われたかということよりも、む しろ画面のどれだけが実写として残っているかが話題にな りそうな勢いである。 一方で、ドキュメンタリー調や文芸作品の領域でも、従来 は言葉でしか表現できなかったような場面を、映像として表 現するためにコンピュータの技術が利用されている。従来 でも、昼を夜のように写したり、天気や季節、風景を違うもの に見せるような道具立てがあったが、コンピュータの画像処 理によって、現代の俳優がケネディと握手する場面も自然 な映像として作り出すことが容易になった。 2.1. 実写との合成 映画の中で、実写映像と合成するかたちでコンピュータ で描かれた背景や建物、飛行物体などが使われることは何 も珍しいものではなくなっている。現在のロボット技術では、 二足歩行がやっとのことなのに対し、映画の中では、高速 で走り回る巨大ロボットが俳優と迫真の格闘を繰り広げてい る。 『 FORREST GUMP 』 , PICTURES CORP 1994, PARAMOUNT このようにコンピュータ映像の利用が進むなか、背景やも の、せいぜい動く物体が CG で描かれるという際にはなかっ た問題が物議をかもしたことがある。俳優の演技を CG で置 き換える試みである。 1 情報機器のハードウェア、ソフトウェアの進歩と普及によって、コ ンピュータグラフィックス(CG)が幅広く利用されるようになった。一 般には気づかれにくいものも含めて、TV映像や印刷物など日常 的に目にされるもののなかに数多くの例が見られる。機器やソフト の性能向上と価格低下、そして技術取得が容易になったことで、 従来のような特殊技術としてではなく、より一般的な映像技術とし て今後も定着することだろう。 技術面では、写真や絵を加工する技術と、動画技術、三次元 映像技術(3DCG)とは、従来区別されてきたが、今日では実 際の利用面で、それらは総合的に利用されている。 特に、数学的に記述された三次元世界を、コンピュータ計算 によって現実世界の映像のように描き出す 3DCG の利用が、 映像表現の可能性を従来とは異なる領域へと広げている。 『バットマン フォーエヴァー』(BATMAN FOREVER, ‘95 米)では、主人公バットマンが高層ビルから窓を突き破 って地上に飛び降りるというシーンがあった。空中を駆け下 りるように飛ぶバットマンは、俳優が演じたものではなく、コ ンピュータで作られた映像である。果たして問題になったの は、その着地のシーンである。当初の制作段階での映像で は、CG バットマンは地面に激突するように着地した瞬間何 もなかったように立ち上がり平然と歩き出す。 このシーンに対して俳優協会が猛然と抗議したのであ る。その本意は、歩く映像は俳優の演技を奪うものである、 ということだ。これを許すことが、将来的には俳優という職業 4 を危うくする、あるいは俳優のアイデンティティにかかわると いう問題意識である1。 コンピュータ映像の 演技 が、俳優の 実在 を危うくす るという認識を生んだのであった。 その後、俳優と CG 演技との関係は、生身の俳優の演技 をコンピュータでデータとして取り込むこと(モーション・キャ プチャ)で、CG の俳優の演技へと反映させるという手法が 定式化されているようである。結果として、生身の俳優とは 姿かたちがまったく違う CG 俳優が画面上で演技しているこ とが珍しくなくなっている。 夜の町の強烈な人口光を浴びて立つ 『スターウォーズ・エピソード2/クローンの攻撃』(STAR WARS EPISODE 2 ATTACK OF THE CLONES, 2002 年)を例にとれば、見かけが全部 CG というだけでな く、着ている服が CG という例や、上半身は CG で下半身が 俳優というケースなど、すべてを見分けるのがほとんど不可 能なほどのバリエーションが実現されている。 ないものを演じてあるように見せる、という俳優の技術は、 CG の活用でより本質に近づいたといえるのであろうか。 2.2. フル CG の映像 俳優の権利や人格という問題を超越してしまうように、映 画を、生身の俳優を一切使わず、CG 俳優だけで作るという 試みもなされている。 『Final Fantasy The Movie』, 2001 年 全編を CG で作るという試みは、それまでアニメーション 映画のバリエーションとしてはあったが、実写映画を技術的 に置き換えるという意図を持ってなされた作品が登場してき たのである。生身の俳優はここで、声優として参加している が、その演技はもちろん俳優としての個性も、映像には反 映されていない。働く権利やアイデンティティを主張するこ とのない、CG 俳優たちの登場である。 このような俳優たちは、映画に先立ってすでに、ビデオゲ ームの世界に登場していた。映画と同じ制作会社スクウェ アのゲーム作品『Final Fantasy X』(2001 年)では、生身 の人間に近い身体プロポーションをもった登場人物が、自 然光と人工光が複雑に交錯する状況、水や空気の透明度 や屈折率、反射の影響を受けながら、実写ビデオの滑らか さで動く映像が実現されていた。 1 当該のシーンは、CGバットマンが地面を突き破った後、俳優バ ットマンが這い出してきてその後を演技する、というものに作りかえ られた。 夕刻の低い太陽の光を浴びながら、透明度の高い水面 を歩く 熱を持った物体が視界を横切り、空気密度の変化で向う の映像がゆがんで見える 現実にはありえないことを皆が了解のうえでの 現実のよ うな 映像。どこにも実在の根拠がない、人と同じ見かけの 身体 を持った登場人物。 実在の物を写しているから 本当らしい のか、生身の人 間が演じているから 本当らしいのか 。映像世界の特性が 実在世界の光学特性とかなりのところまで一致するようにな ってきた今、映像の 本当らしさ は言葉の 本当らしさ のコ ンテキストと、重なり合う場面を持ち始めたのではないだろう か。 2.3. アニメーション映像との対比 現実にはありそうにない場面を人工的に表現する、という 領域としてはアニメーションの世界が先行している。ウォル ト・ディズニーの最初の長編アニメーション『白雪姫』では、 人体と同じプロポーションを持った漫画の登場人物が自然 な演技を繰り広げる。制作に当たっては、まず俳優の実際 の演技を映像として撮影し、それを下書きに使ってアニメの 5 登場人物の動作が 1 枚 1 枚の絵として描かれたのである。 これは、CG におけるモーションキャプチャと同じ原理である といえよう。 初期のディズニー長編アニメ(『白雪姫』、『バンビ』、『シ ンデレラ』、『眠れる森の美女』)では、登場人物の背景とな る世界にも、線遠近法(遠くのものが小さく見える)だけでな く、空気遠近法(遠くのものはぼやけて色もくすむ)や影の 使い方など、絵画的な遠近感描写も特徴的である。 現実のことではないことを大前提にしながら、 本当のよう に 見えることに限りない努力が傾注されているのである。 人物が画面を右から左に走り抜ける映像を例にして、人 物部分だけを切り取って同じ画面に重ね合わせてみると、 画面全体に対する視点(中心)とは独立して、それぞれの 人物絵ごとに描く(/見る)視点があることがわかる。まさに 別々にかかれたものが重ねあわせによって平面状に並ん でいるのである。結果としてアニメの画面は、個別の要素ご とに視点を持つ、多重の平行視線による構成物となる。 アニメ映画の世界に視覚的な 本当らしさ を感じるかどう かということは、この約束事である 多重平行視線 を違和 感なく受け入れられるかどうかということになる。 最初にあげたレオナルドの『最後の審判』の前景も、これ と同じような平行な視線によるものであったということは、平 行視線は絵画の本質にかかわる面を持っていることを示唆 している、というようにも受け取れるが、まずここでは、この平 行視線を日本の伝統絵画(日本画)の特徴であると見る見 方を紹介したい。 2.4. 多重平行視線とスーパーフラット 『 Snow White and Seven Dwarfs 』 ,1937, WALT DISNEY これに対して、アニメーション映画には、実写のような奥 行き感や人体のプロポーションとは明らかに異なる、視覚表 現の約束事による表現世界がある。コミック(漫画)がそのま ま動き出す、というアニメの世界である。 ディズニー作品でも、最初のアニメ作品であるミッキー・ マウス以来、コミック型のアニメの方が多数派なのである が、長編アニメ第 2 作『ピノキオ』(Pinocchio, 1940)にみら れるように、登場人物の背丈に合わせた視点の変化や背 景に落ちる影の立体感など、三次元空間の表現について の高い意識が見られる。 一方、アニメ表現世界の約束事というのは、 平坦な絵の 重ね合わせ によって描くということである。これは、背景や 登場人物を別々の透明セルロイド版に描き、それを重ね合 わせて動画を作り出すという制作技術にももちろん深くかか わる。 日本画を学び(東京芸大博士課程卒)モダンアートの分 野で国際的に活躍する村上隆は、90 年代より、アート表現 のモデルとしてスーパーフラット(super-flat)を提唱する1。 スーパーフラットとは、日本のアニメーション表現の源流 を日本画の画面構成に求め、平板な要素描写の重ね合わ せによって作品をつくるモダンアートの提案である。 村上は、狩野山雪、俵屋宗達、尾形光琳、葛飾北斎、伊 藤若沖を例に、日本絵画の特徴をモデル化し、それを実作 に応用しているのだが、その作品は実物としての高度の工 作水準を持ちながら、一見しただけでは無数のアニメ作品 の一例にしか見えないものである。 ここでは、村上作品の分析には立ち入らず、村上が指摘 する日本絵画の平面性を、平行視線という見方から取り上 げなおしたい。 背景を大きな板に描き、カメラがその上を水平移動する ことで、見渡す視界や動いていることを表現する。また、物 や人物の絵をその上に重ねることで位置的な前後関係や 運動を表現する。 2001 年の活動では、「Superflat」/キュレーション(MOCA Gallery, thePacific Design Center, L.A./U.S.A ) 、 「 my reality」 (Des Moines Art Center, アイオワ/U.S.A)、「Public Offerings 」 ( MOCA at The Geffen Contemporary, L.A./U.S.A ) 、 『 SuperFlat 』 ( WalkerArtCenter, MinneaPolis/U.S.A)、『Form Follows Fiction』(Castello di Rivoli Torino/ Italy) 、『SuperFlat』(Henry Art Gallery, Seattle/U.S.A) 1 『もののけ姫』,宮崎駿 監督,1997 近年は、ルイ・ヴィトンとのコラボレーション、六本木ヒルズのア ート活動でも知られる。 6 対象への集中 『餓鬼草紙』,紙本著色,26.8×538.4cm,平安時 代後期(12 世紀後半),国宝 『蒙古襲来絵詞』,竹崎季長(肥後国の御家人),鎌 倉時代(永仁元年 1293) 奥行き 『秋景冬景山水図』,伝徽宗筆,絹本著色,各 128.2×55.2,南宋時代(12 世紀),京都 金地院,国 宝 『Chaos』, 1998 水平延長 『四季山水図』,雪舟筆,紙本墨画淡彩, 21.5×1151.5cm,室町時代(15 世紀後半),重要文 化財 図案化 『鶴図下絵和歌巻』,(絵)俵屋宗達筆,(書)本阿弥 光悦筆,紙本著色,34.0×1356.0cm,江戸時代(17 世紀),重要文化財 村上のフィギュア作品:クリスティーズが米 NY で開いた オークションで『HIROPON』(97 年)が 38 万ドル(2002 年)、『Miss ko2』が 50 万ドル(2003 年)で落札された。 3. 日本絵画と平行視線 立体の平面的把握/表現 『八橋蒔絵螺鈿硯箱』,1 合,木製漆塗,尾形光琳 作,縦 27.3×横 19.7×高 14.2,江戸時代 18 世紀, 国宝 科学の視点 本草学と博物学 『ヨンストン動物図説』,J.ヨンストン著,1660 年,銅 版 2冊 いくつか例を見ながら、日本絵画の画面構成と平行な視 線について考察する。まず、画面構成要素の少ないものか らはじめたい。 『鐸度涅烏斯絵入 草木誌』,R.ドドネウス (1517-85)原著 写本2冊 典型的なものとして、俵屋宗達の二曲一双の屏風絵『風 神雷神図屏風』(各 169.8×154.5cm、江戸時代(17 世 紀)、京都、建仁寺)をあげることができる。 『大和本草』,貝原益軒,宝永6年(1709) 『筑前国続風土記』,貝原益軒,元禄 16 年(1703) 『物類品隲』,平賀源内編,宝暦 13 年(1763)7月 『解体新書』,前野良沢,杉田玄白,中川淳庵,桂 川甫周 訳,小田野直武 木版画,安永 3 年(1774) ( ド イ ツ 人 ク ル ム ス J. Kulmus に よ る 解 剖 書 (anatomische Tabelle) の蘭訳本(俗称ターヘル・アナトミア 1734 刊)) 参照:ヨーロッパ解剖図 Andreas Vesalius (1514∼1564)のファブリカの第 2版(1555) 屏風を曲げて立てることからもわかるように、2 つの屏風 の間に座り、左と右にそれぞれ向き直って、風神と雷神の それぞれにほぼ正面から向き合うことができる。それでいて 中心に向かい直せば、そこには何も描かれていない、しか して左と右からの稲光と雷鳴、そして風に満ちた空間が描 き上げられ/感じ取られるようになっている。 平面要素の配置によって三次元とは異なる 空間 (つま り比喩的な意味での立体)が表現されているのである。 以下、日本絵画事例については省略: Valverda のオランダ語の解剖書(1647) 以上の例を通じて、日本絵画の表現技術上の特徴を次 のようにまとめた。 z z z z z 平面の重ね合わせによる奥行き表現 視点の集中と多元化 形態抽出とモデル化 絵巻と時間の空間的把握 屏風絵と多元パラレル視点 7 最後の点について、『肥前名護屋城図屏風』を例に見 る。これは、近年発見された六曲一隻の屏風絵で、狩野派 の狩野光信(1565-1608)の作と推定されるものである。わ ずか7年間で失われた佐賀の名護屋城下の様子を伝えて いる。 この絵の魅力は、全体の鳥瞰性とともに、部分部分の独 立した場面の面白さにある。町並みを行く異国風の行列、 海に浮かぶ安宅船(船上に三層の天守閣を持つ)、商店の 前を行き交う人々、城郭内の様子と山里丸、周囲の漁村の 様子など。全体は現実の人の視野をはるかに越えたスケー ルで描かれながら、部分に注目してみるとあたかもその場 面を今覗いているような臨場感が伝わる。 人の身体的なスケールの視野を水平(平行)につなげて ゆくことによって、巨大なスケールを構成している。全体は 統一的に構想されるよりはむしろ、繰り返しの運動のうち浮 き上がってくるような表現方法である。 全体は、1点に視点を固定するパースペクティブとしては 描かれていないので、個々の要素が全体の統一への緊張 感を持ってはいない。しかし、人の肉眼は全体を精緻に把 握するほどの分解能を持ってはいないので、ディテールに 関心を向けるときは部分を注視することになる。身体的な現 実感から言えば、その範囲での図像としての緊密度を備え ていれば良いのである。 この全体としてはゆるゆるとした構成ながら、自分の眼で 見るという行為/運動においての 本当らしさ の達成。平行 視線の構成は、見るという行為を 多眼的 に捉えたものと いえるのではないだろうか。 3. 人の視野とカメラ映像、3D グラフィック 以上の日本絵画の事例を通してあらためて確認されてき たのは、平行の視線、部分的な視野を多眼的(多元的)に 連続してゆく画面構成が、全体としての光学的な統一(線 遠近法)を欠きながら、見る側にとっての(内面の認識にお いての) 本当らしさ を映像として 提供 していることであ る。 このことは、『最後の晩餐』の背景と前景の対比に見たよ うに、日本絵画だけの特徴ではない。特にディテールまで を一度に視野に納めきれないサイズを持った絵画の構成 には必要な要件であるとも考えられる。 その意味では、人の身体サイズの、また目を廻らす、動 く、注視する(それ以外を忘れる)などの視覚認知の仕組み についての情報と知見を加えて考察することの必要性は確 8 かである。これまでの考察内容については、次のような事項 が関連すると考えられる。 z z カメラと眼球の光学特性の違い: 収差と眼球運動に よる総合的視野構成 図と地の分化(ゲシュタルト心理学) 図の処理: 解像度の高い低速処理がおこなわ れる視覚チャンネル z z 地の処理: 解像度の低い高速処理が可能な視 覚チャンネル 手書きの漫画調の絵の中に、自動車や機械の設計にも 使われるような3D グラフィックソフトで制作した立体的な絵 を重ね合わせるのである。 3D の物体は、高速な移動に伴う見え方の変化を、コンピ ュータ計算によってまさに線遠近法に基づいて描き出され る(rendering)。フラットな 絵 と リアルな 動画とが同一 画面に組み合わせられることで、新しい視覚経験を見るも のに与えるのである。 奥行き知覚と運動知覚: 静止物体の 3 次元知覚と運 動(形の変化)の知覚 選択的注意: スポットライトとズームレンズのメタファ ー 以下では特に、人間が 2 つの眼を持つことから生じる見 かけの差(両眼視差 Binocular Parallax)に重点を置いて 論じたい。 3.1. 平行視線と線遠近法の合成 いったんアニメ作品の事例に戻ることにする。アニメーシ ョン作品制作でも、コンピュータの利用は進んでいるが、そ の活用のモデルは一様ではない。ひとつは、従来の手書き 作業の効率化のための利用である(宮崎駿アニメも含めて 広く行われている)。もうひとつは、物体や生物の動き(ディ ズニーの The Lion King 等)やスペクタクルな3D 空間(デ ィズニーの Beauty and The Beast 等)のシミュレーション といった情報処理機能の利用である。 さらに近年、フラットなアニメ画面に立体的な3D 映像を そのまま重ね合わせてしまうという視覚実験的な作品も生ま れている。 2 次元で描かれた街の中を 3 次元で描かれた飛行機が 飛ぶ フラットすなわち多眼的な視覚と、3D(投影法、線遠近 法)すなわち一眼的な視覚との、合成による視野を作り出 す試みである。 商業的なアニメ作品における、目先を変えた視覚刺激の やり方のひとつとして見捨ててしまうこともできようが、今日 では古典的な名画とされている絵画でも、少なからずのも のが、同時代においては新しい視覚の冒険(驚かす)の要 素を備えていたことを考えれば、ここにもただエンターテイメ ントの要素だけに閉じ込めてしまうこともないのではないか と思える。 また一方、この多眼と一眼の視覚の合成映像がもたらし た視覚経験は、そのどちらでもない、もうひとつの身体的な 視覚について、思い起こさせるものであった。それが、両眼 で見る視覚である。 3.2. 両眼視野の映像化 人間の目は、左右に 2 つが離れているので、それぞれの 眼で見る映像は、おのずと水平方向に視点を変えたものと なっている。両眼視差(Binocular Parallax)と呼ばれるも のである。 見た ものを記録する、ということは、この両眼の 視野を記録するものでなければ 本当らしく ないのではな いだろうか。 『Last Exile』,千明孝一 監督,企画制作 GONZO, 2003 9 このことは、立体視の実現として研究されてもいるのだが 1、より一般的な、写真や動画、3DCGの描画メソッドにおい て取り組まれる可能性があるのではないかとも考えられる。 以下は実験である。 肖像写真: 同じように合成。手前のものと、奥行きのある背景部とで は、合成の仕方が一様ではなくなる。視差の影響が奥にゆ くほど小さくなるため、合成のための数学モデルが必要に なると考えられる。 建築物写真: = + 両眼=左眼+右眼 左右の眼、それぞれの位置から取った写真を、コンピュ ータで合成したもの。人物を近くで見るときには、右眼と左 眼では見え方が違うが、通常の写真ではそのどちらでもな いように撮れてしまうことになる。 静物写真: 建物の平面的なプロポーションは、『最後の晩餐』前景と 同じように、望遠の視覚によって擬似的な平行視線とするよ りも、近接からの多眼視線の合成によるほうが、対象との距 離感を保てるのでより 自然に 再現できると考えられる。 1 古くは立体写真、その後立体映画などの実用があったが、現 在では、コンピュータの液晶パネルと特殊なフィルターによる立 体視ディスプレーなど、デジタル技術を利用した新しい試みが 実用化されている。 10 研究のこれからに思うこと 以上の考察では、対象とするものの作品性や芸術的側 面には触れず、もっぱら映像としての構成と技術要素につ いて取り上げてきた。その意味では文学の問題よりは、記 号や象徴の学のアプローチに相当するものである。 コンピュータによる画像処理技術の活用が広がることによ って、写真や映画のようなフィルム映像に人が自然と感じて いた 写っているものの実在 についての前提や信頼は、か なり怪しく不安定なものとなっている。一方で、コンピュータ ネットワークの中にだけ存在するデータ交換の仕組みの中 に、人間関係や組織、あるいは経済というものが生まれつ つもある。実体としての人間関係や組織、経済を前提として その一部を情報通信で置き換える(会話・連絡や就業、商 取引についてのインターネット利用)というだけではなくて、 ネットの中のみに 実在する 世界が生まれだしてきている のだ1。 情報技術による構築物に対しては、スケールとディテー ルの両面において、人間の身体感覚によって感得される内 容が実在の世界において得られる豊かさとはあまりにレベ ルが違うので、軽薄で 嘘っぽいもの として片付けられがち である。しかし、情報伝達手段(メディア)としてはいっそう限 られたテキストだけのメディア作品(文学もそのひとつ)に、 自分を取り巻く日常の世界よりも 実体 としての豊かさを感 じることは誰にとってもまれなことではない。あるいは紙や布 のうえに顔料・染料を塗布しただけのメディア(絵画もその ひとつ)の場合も同じである。 実在の世界よりも感覚刺激が少ないことによって 実体 性 がないとするのは短絡に過ぎるだろう。とはいえ、記録と 再現の技術の変化が急すぎることで、そのメディアに乗る内 容が 無常観 を帯びてしまうことは否定できない。絵画や 印刷の技術の進歩と定着の時のスケールとは単位が違い すぎる。 しかし、文学や芸術とコンピュータ映像との、あるいは文 学や芸術の世界と(あるいは 都市 と)バーチャルワールド とが、 実体性 の本質において違いがあるのかどうか、とい う問いを立ててみることはできるだろう。そしてその答えがい ずれの場合であるにせよ、人にとっての 本当らしさ やそ の規定となる 実体 の概念について、いま少し近づくことが できるのではないかと思うのである。 1 ネットワークゲームの世界はそのひとつである。国境を越えたユ ーザー/プレーヤーが集うその世界では、独自の法律や仲間関 係、私有財産形成とその交換・売買が行われている。 住人 の数 は都市に匹敵し、ルールは法律に、交換の規模は経済現象に相 当する。実質的にゲーム内通貨が実体経済の通貨と交換可能な 状況が生まれている。
© Copyright 2024 Paperzz