ノーベル賞の不思議

ノーベル賞の不思議
1.はじめに
2003 年現在 75 歳の数学者ジョン・ナッシュが、21 歳の時に発表した「非協力ゲーム理
論」で、66 歳の時にノーベル経済学賞を受賞しました。45 年も経ってからの受賞です。
「ビューティフル・マインド」は、このナッシュの半生をもとに映画化したものです。
天才達がひしめくプリンストンの中でも、若手ナンバーワンのスターであったナッシュは、
30 代頃から 30 年余りにわたって、精神分裂症(最近は「統合失調症というそうです)とい
う過酷な病気と闘うことになります。
栄光と挫折、そして、挫折からの復活。妻アリシアと歩んだ人生は、サーバイバルスト
ーリーであり、ラブストーリーでもあります。
研究に打ち込むあまり統合失調症を発症し、それを乗り越える苦難の日々を描いたもの
です。
この映画には、4つの大きな流れがあります。
1つ目は、「ゲームの理論(均衡理論ともいう)」を完成させ、後の経済理論全般に大きな
影響を与える天才としての主人公の話。
2つ目は、米ソ冷戦という時代背景や、己の天才性、真理を求めずにはいられない要求に
追い詰められて、統合失調症を発症する主人公の話。
3つ目は、病気の治療と研究が両立しないことを知り、病気と闘いつつ研究を続ける主人
公の話。
4つ目は、自分自身も苦悩に揺れつつ、主人公を支える妻アリシアの物語。
です。
老いた主人公が図書館で学生に質問されるシーンがあります。あのシーンが印象的です
が、あのシーンは主人公が解放される素晴らしい瞬間なのでしょうか。また、「人生には答
えが無限にある」ということを私たちは知っていますが、「数学は答えが1つしかない芸術
だ」という台詞もよかったですね。
この映画は、第 74 回アカデミー賞で主要 8 部門にノミネート(推薦)され、作品賞を始
めとする主要4部門に輝いた感動のドラマでした。主演はラッセル・クロウでしたが、な
かなか素晴らしい演技でした。
映画は、何が現実で、何が幻覚なのか、判り難い面もありましたが、素直に感動した映
画でした。主人公の偉業に目を凝らすと、夫婦のラブストーリーが見えてくるところもい
いですね。
2.ノーベル賞受賞者
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そこでノーベル賞について、かねてから少し疑問に思っていることを述べ
てみたいと思います。
ノーベル賞というのは、1901 年、ダイナマイトの発明で知られるスウェー
デンのアルフレッド・ノーベルの遺言をもとに創設され、物理学、化学、医
学・生理学、文学、平和の5分野で顕著な業績を上げた人に贈られます。
その後、1969 年に経済学賞が加わって、現在では6つの分野が対象になっ
ているのは皆さんご存知のはずですね。先ほどの、J・ナッシュは経済学賞を受賞したわ
けです。
また、誰にノーベル賞を与えるかは、1年前から調査をしており、ノーベル委員会が全
世界の主要大学や専門家に極秘に他薦を依頼します。送られてきた被推薦者をもとに、委
員会が独自の判断で選んだ人で、ノーベル賞受賞候補者リストが作成され、そこから受賞
者が選考されるわけです。
ただし、ノーベルの遺言の「賞の選考に当たっては、国籍は一切考慮せず、最もふさわ
しい人を選ばなければならない」に従って選ばれますし、どんな人が候補になったのかは、
50 年間は秘密にされています。
ノーベル賞の中でも、とりわけ自然科学3賞(物理学、化学、医学・生理学)が注目さ
れています。というのも、これらはその国の科学・技術や産業の水準を量るバロメータに
もなっているからです。また、真に寄与した研究者に贈られることが貫かれているのもそ
の価値の高さを示しています。その点では、ノーベル文学賞や平和賞とはちょっと違った
重みのある賞なのです。
さて、2002 年度のノーベル賞の受賞者は日本から小柴昌俊(物理学賞)
、田中耕一(化学
賞)の2氏が選ばれました。日本から一度に二人の受賞者が出たのは初めてであり、また、
化学賞は3年連続の受賞でもあります。そこで、日本人が受けた賞と受賞内容を新しい年
代順に記しておきましょう。
受賞年
2002
受
賞
者
名
受
賞
内
容
蛋白質等の生体高分子を簡便に特定する手法を開発し、新薬の開
田中耕一(化学賞)
発に革命をもたらした他、癌の早期診断などの可能性を開いた。
東大宇宙船研究所が岐阜県上丘町に設けた素粒子観測装置の建
2002
設計画を主導し、1987 年、大マゼラン星雲で起きた超新星爆発
小柴昌俊(物理学賞)
により放出されたニュートリノを初めて捕らえ、謎に包まれてい
た星の終末・超新星爆発を詳しく分析。
2001
キラル触媒による不斉水素化反応の研究。有機化合物の合成法発
野依良治(化学賞)
展に寄与。
2
2000
伝導性高分子の発見と開発を行い、分子エレクトロニクスの開発
白川英樹(化学賞)
に先鞭を開いた。
氏が受賞した理由は全く不明です。小説には大した作品はありま
1994
大江健三郎(文学賞) せんから、氏の罪悪史観、暗黒史観、謝罪史観がノーベル委員会
に評価されたのでしょうか。
多様な抗体遺伝子が体内で再構成される理論を実証し、遺伝学・
1987
利根川進(医学・生理学賞)
1981
福井謙一(化学賞)
免疫学に貢献。
フロンティア電子軌道理論を開拓し、化学反応過程に関する理論
の発展に貢献。
大江氏同様、氏の受賞理由も不明確。強いて言えば、核兵器保有
1974
佐藤栄作(平和賞)
に反対し、太平洋地域の平和の安定に貢献。受賞候補者がごまん
といるわけですから、これでは受賞理由が弱すぎませんか。
半導体・超伝導体トンネル効果の研究で、エサキダイオードを開
1973
江崎玲於奈(物理学賞)
1968
川端康成(文学賞)
1965
朝永振一郎(物理学賞)
1949
湯川秀樹(物理学賞)
発。
「雪国」は近代日本抒情文学の古典。
「伊豆の踊り子」
・
「千羽鶴」
・
「山の音」など名作多数。
超多時間理論と繰り込み理論で有名で、量子電磁力学分野の基礎
研究。
陽子と中間子との間に作用する核力を媒介するものとして、中間
子の存在を予言。
このように、物理学、化学、医学・生理学の自然科学3賞の受賞者は 9 名ですが、他に
文学賞2名、平和賞1名を加えると、日本人受賞者は12人になります。
東北大学学際科学研究センターがまとめたこれまでの自然科学3賞の受賞者一覧による
と、時代による受賞国の移り変わりがよく判ります。
下図は、第2次大戦前(1901~1945 年)と大戦後(1946~2002 年)の受賞者の比較で
す。これを見ると、大戦前はイギリスとドイツが多くの受賞者を出しており、フランス、
オランダ、オーストリア、デンマークといった欧州の国々が活躍していました。
これに対して大戦後は、アメリカが俄然優位になっています。世界の科学・技術研究開
発の中心がアメリカに完全に重心を移してしまった感があります。下図は、上位14カ国
の受賞者数を棒グラフで表したものです。
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3.何故、ノーベル賞がもらえなかったか
北里大学と慶應義塾大学医学部の創始者である北里柴三郎が第1回ノー
ベル賞の最有力候補だったことを皆さんご存知ですか。ノーベル賞が創設
された 1901 年の第1回ノーベル医学・生理学賞は、ドイツのフォン・ベー
リングの頭上に輝きました。受賞理由は「ジフテリアの血清療法の研究」
です。このベーリングの業績は、北里と共同で行われた研究であり、受賞
の決定的理由となった論文の大半は、実は北里のやった研究成果です。
しかし、ノーベル医学・生理学賞の選考委員会は、ベーリングのオリジナリティーに軍
配を上げたために、北里は惜しくも第1回ノーベル医学・生理学賞の栄冠を逸してしまい
ます。
現在のノーベル賞の選考方法であれば、間違いなくベーリング、北里の共同受賞になっ
たでしょう。しかし、当時のノーベル財団は、単独受賞しか考えていなかったようです。
その後、野口英世が 1911 年に梅毒の病原体スピロヘータを、マヒ性痴呆患者の大脳の中
から発見して世界に示しました。それまで、ヨーロッパでは精神病といえば「悪魔つき」、
日本では「キツネつき」などと呼ばれていましたから、厳密な意味で、精神病を医学の対
象にした最初の人物でもあるわけです。
つまり、彼の業績は、精神病の病理を、明らかにした医学史上最初の成果でもあったわ
けです。彼もノーベル賞候補に2回推薦されますが、最終候補にも残りましたが結局、受
賞には到っていません。
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長岡半太郎の場合はどうだったでしょうか。筆者も、長岡の理論は、高校の物理でも習
いましたが、当時の科学者達の関心は原子の構造がどうなっているか、ということに向け
られていました。19 世紀の末期に電子を発見したJ.J.トムソンは原子模型としてプリ
ン型のものを考案します。これは、水素原子を例にとると、プリン全体が水素原子で、そ
の中に電子が入っていて、原子全体は中性になっていると考え、電子を取った残りのプリ
ンが水素イオンというものです。
これに対して、長岡は地球の周りを月が回っているように、原子の中心に原子核があり、
その周りを電子が回っていると考えました。トムソンの模型と長岡の模型の違いは、正電
荷を持つ原子核があるかどうかでしたが、8 年後の 1911 年のラザフォードの実験によって、
長岡の模型が正しいことが証明されます。
オリジナリティーは長岡模型にあるわけですが、海外では「長岡模型」とは呼ばず、「ラ
ザフォード模型」と呼んでいます。高校時代に感じた疑問は、オリジナリティーを大切に
する欧米で「長岡模型」が何故評価されなかったのかということでした。
ビタミンB1(オリザニン)の発見者の鈴木梅太郎の場合も、後に様々なビタミンの発
見者がノーベル賞を受賞しているにも関わらず、史上初めてビタミン類を発見した鈴木が
ノーベル賞を受賞していないというのはどう考えても不思議です。もっとも、鈴木の受賞
には東京大学医学部が「脚気伝染病説」という間違った説に固執するあまり、鈴木の「脚
気の原因が食べ物である」という説を否定し、鈴木のノーベル賞受賞を牽制したといわれ
ています。
山極勝三郎の「コールタールによる発ガン説」に対しては、「寄生虫による発ガン説」の
フィビガーが受賞しています。しかも、前者が正しく、後者が間違っていたにもかかわら
ずです。
北里、鈴木、山極の3人はノーベル賞を受賞していてもおかしくないのに、同じ実績で
①北里の代わりにベーリングが
②鈴木のかわりにエイクマンとホプキンスが
③山極のかわりにフィビガーが
それぞれノーベル医学・生理学賞を獲得しています。
このように、20 世紀初頭、何故か日本人の業績は海外では認められていません。という
のも、当時は現在とは比較にならぬほど人種差別(いわば、白人の優越感)が強く、しか
も人種差別への声もほとんど聞かれず、今日では想像も出来ませんが、それが美徳ですら
あった時代でした。
つまり、ノーベル賞候補であった北里らが、遠い異国の日本人であり、文明程度の低い
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日本人にノーベル賞を与えるよりも、同じヨーロッパ人に受賞させたいとする人種的偏見
が奥深く働いたのでしょう。
欧米人が、白人にしかできないと思い込んでいた自然科学の分野で、日本人も多くの業
績を残すようになりました。この時期、自然科学を「欧米人と肩を並べて研究出来る」と
確信した有色人種は日本人だけだったわけです。したがって、その後有色人種の活躍が始
まるようになったのも、日本人のこの分野への貢献が大きく影響したと考えてよいでしょ
う。
いずれにしても、当時の感覚では、下世話に言えば「日本人は業績はいいが、顔色が悪
い」ということだったのでしょう。
こんな中で、賞とつくものはどんな物でも欲しがる人達がいる中で、世界で最も権威が
あるといわれるノーベル賞の受賞者として選ばれながら、それを辞退した人もいます。1938
年、ビタミンB2の合成に成功したR・クーン、その翌年には、性ホルモンの研究に功績
のあったA・ブラナント、プロントジルの食菌効果を発見したG.ドーマクの三人のドイ
ツ人です。ところが、これは個人の意思による辞退ではなく、独裁者ヒットラーが、その
3~4年前に反ナチスキャンペーンを展開したC・フォン・オシエツキーにノーベル平和
賞を授与されたことに怒り、他国(すなわちスウェーデン)の賞を受けることを禁じた結
果でした。
国家の弾圧による辞退者は、この他に、「ドクトル・ジバゴ」のB・パステルナーク(当
時のソ連)がいます。個人的な理由で辞退したのは、J・P・サルトル(フランス)で、
「賞
を得ることで、賞を授ける組織に組み込まれたくない」との信念で、ノーベル賞だけでな
く、フランスの勲章なども辞退しています。
4.欧米人は他の人種に比べて優れているか
人類は神が天地創造の6日目、つまり「ゴキブリから猿まで」創り上げた後に「自分の
姿に似せて、粘土で創った」ものだとされています。つまり、イエスに言葉を与えた神が、
万物の頂点に創った人の概念には「セムか白人しかなく、黒人や黄色人種などは入ってい
ない」とかっての欧米では信じられていました。
欧米人の認識では、
「黒人や黄色人種」は、創造主が5日目までに創った「ゴキブリから
猿まで」の組に入っていたというわけです。
そのせいか、欧米人たちはエジプト文化、メソポタミア文化、それに続くギリシャ・ロ
ーマ文化の担い手はすべて白人種だと信じて疑いませんでした。
ナポレオンのエジプト遠征に同行したシャンポリオンも紀元前千年頃のメレネプタ王の
墓を調査して、とんでもない事実を発見することになります。
墓の壁画には、世界に君臨する王のもとに朝貢する各国の人々の様子が描かれていまし
た。ところが、その国王は白い肌ではなく、赤褐色の肌で、朝貢する順番を見ると、まず、
威風堂々たる黒人が、次いで黄色い肌の人々が並び、一番最後に白い肌で、眼は青、髪は
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ブロンドで、長身を毛皮で包み、体のあちこちに入れ墨をした紛れもない野蛮人が描かれ
ているのを発見します。
彼は、友人への書簡にその衝撃を次のように書いています。「私は、これを言うのが恥ず
かしい。何故なら、我々の人種は最後であり、序列の中でも、最も野蛮なのだから」と。
彼に続く白人の学者も、エジプト文化を見なかったことにして、
「セムか白人」によると見
られるメソポタミア文化こそが「世界最古の文化である」と言い出す始末です。その虚構
の伝統は現代にも尾を引いています。
1859 年、ダーウィンが「種の起源」を表します。生物は環境適応と自然淘
汰によって進化してきたという進化論です。さらに彼は、
「人類の起源」を発
表し、人もまた進化論の原則に従って猿から進化し、それが、白、黒、黄色
の肌になったと発表します。
進化論の出現は、当時の白人達に「黒や黄色と同じ人間だったとは」と大
いなるショックを与えます。そこで、白人達は「白人が最も進化した人間である」という
明白な事実を学問的に裏付けるために、
「人類学」という学問を作り上げます。この学問の
特徴は、
「白人が最も進化した人間である」という結論が先にあると言う意味では画期的で
した。
ここから、白人優位論者の苦悩が始まります。彼らは、差別化の方法をあらゆる面から
模索します。たとえば、以下のごとくにです。
①骨格
進化していないはずの黒人や黄色人種には、尻尾の骨があるはずだと骨を人種別に調べ
ますが、大きな差異は見つかりませんでした。
日本人が大嫌いなフランクリン・ルーズベルトなどは、スミソニアン博物館の学者の「日
本人の頭蓋骨の形態は白人のそれに比べて2千年遅れている」という助言をもらい、大喜
びします。ルーズベルトはこれを根拠に「日本人は改善不可能なくらい野蛮だから、四つ
の島に閉じ込めて滅亡させる」と英国公使に語ったと正式の文書に残されています。
②顔
黄色人種の顔は平坦なのに比べて、白人は陰影が濃い。特に眼窩ははっきりしている。
ところが、そんな特徴は人になる前の猿人や猿にあって、眼窩の上の骨が明らかに飛び出
している。そこで、これをあまり追求するとまずいのでギブアップします。
③唇
黒人は唇が厚く、次に黄色人種で、白人は薄い。でもまた猿が出てきて、これは白人な
みに薄く、もっと下等な動物はさらに薄くなるということで、これもギブアップします。
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その他、色々研究がなされましたが、なかなか「白人が最も優秀な人種である」という
科学的根拠は見出せませんでした。
そんなときに現れたのが、オランダの人類学者、ルイス・ボルグでした。1926 年、彼は
「人類成立の問題」というタイトルで「幼形進化論」を発表します。その内容を一言で言
えば、
「人は進化すればするほど、胎児の発育は遅れ、成長も遅れていく」という理論です。
この理論は白人達を大いに喜ばせます。これこそが、白人が最も進化した人であること
を証明するものだと大歓迎を受けます。ボルグ自身も、
「白い肌は、黒や黄色より未成熟で
ある。つまり、幼形である。胎児化と成長の遅れは人種差の基本で、人類を高等と下等の
二群に分けられることがこれによって正当化された」と宣言します。
さて、これを人間に当てはめると蒙古襞、体毛、鼻、足のどれをとってみても、白人に
は遅滞が見られないということが、逆に判ってきました。このように、ボルグの理論は、
白人の思惑とは裏腹に、むしろ有色人種が進化していて、白人が一番遅れているというこ
とになってしまいました。
さらに、白人は黒人の白子(しらこ)であるとし、黒人の色素欠乏症(白子)が、暑く
て、紫外線の強いアフリカの大地から北(ヨーロッパ)に移り住み、やがて今の白人種の
元祖になったという説さえ現れました。
ボルグの理論が大手を振れば振るほど、白人の妄執だった「最も進化した人は白人」で
はなく、体毛が少なく、胴長で、大根足のアジア人になってしまうということになり、第
二次大戦後は、この理論もほとんど忘れ去られてしまいました。
外国へ出かけると、黒人や黄色人種に出会いますが、顔などを見ても「これは酷い」と
か、
「すごい美人だなあ」という人たちに出くわすことは余りありませんが、白人には「魔
法使いのような醜い顔をしたおばあさん」や「肌が透き通るような絶世の美女」に出くわ
すことがたびたびあります。
「白人は、まだ進化の段階にあるのではないかな」と、ふと思
うことがありますが、どうでしょうか。
とはいうものの、誰が見たって、白人が一番格好いいし、誰もがそう信じているのです
から、白人はそれを強調すればいいではありませんか。
J・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」は、ニューギニア人のヤニから投げかけられた、
「何故、人間は5つの大陸で異なった発展を遂げたのか」に答えたものです。
何故、ユーラシア大陸の人間が南北アメリカを征服し、アフリカを植民地として分割し、
オーストラリアでは先住民を追いやって、良い土地を奪ってしまったのか。何故、その逆
が起きなかったのかを、著者は、
「ユーラシア大陸の人間が優れており、南北アメリカやア
フリカやオーストラリアの先住民が劣っているためなのか」ということを25年間に渡っ
て考え続け、次の結論に達します。
すなわち、
「どの人間もホモサピエンスとして、同じ能力を持っているが、各大陸の自然
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環境の差異が1万3千年の歴史の過程で蓄積された結果、つまり積分値として、人類史の
非対称が出来た」と結論します。
時代が異なるとはいえ、R・ボルグの邪悪な理論と比べて感じることは、そこには一切
の偏見のない目が、本書を説得力あるものにしています。この本を読むと、
「知識が豊富な
のが大切なのではなく、それを有効に結び合わせて、全体像を描けることこそが“知の力”
である」ということがよく判ります。
5.おわりに
前にも述べたように、ノーベル賞はその国の科学や技術の水準をはかるバロメータでも
あります。ノーベル賞の対象になった研究の中には、実用性が高いものも見られ、さらに、
特許に結びついたものも数多く見られます。野依博士の不斉合成触媒は日本で 167 件、ア
メリカで 40 件、ヨーロッパで 72 件もの特許が成立しています。このように、ノーベル賞
はその国の産業力を測るバロメータでもあるわけです。
2002 年に小柴、田中両氏がノーベル賞を受賞したことにより、ノーベル賞への期待は一
挙に高まった感があります。
日本政府の総合科学技術会議は次期科学技術基本計画案でノーベル賞受賞者目標数を明
記しています。すなわち、12 月 26 日付けの科学技術会議答申では、
「知の創造と活用によ
り、世界に貢献できる国」として、
「50 年間に、ノーベル賞受賞 30 人程度」という具体的
な数値が示されました。
「ノーベル賞は、取ろうと思って取れるものではない」という声も
ありますが、この数値を高いと見るかどうかは議論の分かれるところです。過去の例で見
れば、受賞の価値の高い自然科学3賞は「53 年間で9人」ですから、3倍強の努力が必要
ということでしょうか。
2001 年 3 月 15 日の新聞記事を見てみると、
科学技術基本計画案
内閣府の総合科学技術会議(議長・森善朗首相)は 15 日、有識者議員会合を開き、2001
年度から 5 年間の第2期科学技術基本計画案をまとめた。22 日の本会議で正式に決定する。
同会議の前進である科学技術会議が同計画案に盛り込んでいた、50 年間に 30 人のノーベ
ル賞受賞、総額 24 兆円の政府研究開発投資、生命科学・情報通信・環境・材料の4分野の
重点化などの主要項目を追認した。
その上で、科学技術に関わる組織や研究者の倫理と社会的責任を強調。研究内容や成果
を社会に対して説明することを基本的責務とした。
計画案の骨子は次の通り。
○目指すべき国の姿
知の創造と活用により世界に貢献できる国
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・国際競争力があり、持続的発展が出来る国
・安心・安全で快適な生活のできる国
○優れた成果の創出・活用のためのシステムの改革
テーマを公募して、配分する競争的資金の倍増
・獲得した競争的資金に応じて、研究機関が自由に使える間接経費を支給
・若手研究者の研究環境整備
・評価システムの改革
・産学官の連携、技術移転の推進
・大学施設・設備の計画的整備
とあります。
ところで、
「目指すべき国の姿」や「優れた成果の創出・活用の為のシステム改革」はよ
く判るのですが、なぜ「50 年間に 30 人なのか」という国民からの素朴な疑問に対して、政
府は答えることが出来るのでしょうか。
ちょっと古い話になりますが、アメリカのクリントン政権が「スーパーハイウェイ構想」
を掲げた時に、その基本理念のプレゼンテーションが実に見事だったことを思い出します。
彼は、こう述べています。
①世界平和とアメリカの自主独立性維持の為、21 世紀もアメリカは世界最強の国家であり
続けなければならない。
②そのために今後も、国民の教育水準を高めていく必要がある。
③自己評価すると、アメリカの大学教育は世界最高のレベルだが、初等・中等教育には問
題がある。
④しかし、アメリカは国土が広い上に、初等・中等教育に大量の優秀な人材を割くための
十分な予算がない。
⑤したがって、それを補完するために、全国に超高速インターネット網を構築して、どの
場所の子供達も等しく教育情報が行き渡るようにすべきである。
と。
つまり、インターネット網構築の最も大きな理由は「教育、ひいては国家の自主独立性
維持の為」と明確に定めています。ことを成すに当たって、進むべき方向を見据えて、コ
ンセンサスの取れる国家ビジョンを明確に打ち出すことは、民主国家の基本でもあります。
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そこで、日本も、
「50 年間にノーベル賞受賞者 30 人」を実現するための具体的な戦略・
理念を打ち立てる必要があるのではないでしょうか。
文部科学省は旧いタイプの学力を壊せば、新しいタイプの学力が身に付くとでも思って
いるのでしょうか。いま、ゆとり教育によって、学校教育の自己否定ともいうべき勉強否
定論的な雰囲気が、教師や生徒達の目標喪失感や閉塞感に拍車をかけ、その志気を低下さ
せています。
「どんな人でも個性を持っている」とか、
「ありのままが個性である」などといった甘っ
たるい耳障りのよい言葉で、非凡も凡庸も、努力する者も努力しない者も、十把一絡げで
皆平等に扱っています。個性と言う言葉に教育的価値を持たせるならば、
「各人の資質・能
力の優れた面」を「個性」と捉えるべきなのです。
「優れた資質や能力を発揮した者」や「人並み以上に努力して、成果を上げた者たち」
を祝福する風土こそ、学校にも、社会にも求められているのです。皆が手をつないでゴー
ルインして、皆平等だよと子供の頃から教えられ、大人になって「現実は、実はそうでは
ないよ」と教えられても、もう立ち直ることが出来ないということが現実に起こっている
のです。
競争原理は、よく「強者の論理」とか「弱肉強食」といわれますが、その本質は切磋琢
磨することによって、人々の姿勢を前向きにし、創意工夫を生み出し、全体として質を上
げることになるのです。ノーベル賞の世界は、まさに弱肉強食の世界であることを皆さん
は十分ご存知のはずです。
初等・中等教育の「ゆとり教育」については、実態が国民に知られるようになりました
が、文部科学省が大学と大学院に対しても、改革という名のもとに、教育水準を切り下げ
てきたことは余り知られていません。そもそも、文部科学省はまともな国民の目から見れ
ば、自身がリストラ対象であるのが判っていないようです。
新聞の記事によると、ある京大教授の話ですが、アメリカの大学に優秀な生徒を推薦し
てもなかなか入学許可が出ないそうです。そこで、その理由を聞いてみると、東部のある
大学の工学系の教授などは、
「日本からの大学院生は、学力が低くて、とてもついていけな
い。痛々しいのでもう入学させない」と言われたそうです。
残念ながら、今の「文部科学省が思い描いているようなゆとり教育」の延長線上には、
「50
年間にノーベル賞受賞者 30 人」という夢の実現は霞んでいて、「冗談だろう」という声さ
え聞こえてきます。企業なら目的が達成されなければ潰れるわけですが、
「独占をし、権力
を伴い、しかも結果に責任を取らなくてもよいような文部科学省という組織」に日本の教
育を任せておいてよいのでしょうか。
2003.6.30
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