ある外科医の思考 - 株式会社エバンス

「ある外科医の思考」
著 近 藤 礎
1970 年2月16 日、神戸市北区有野町に生まれてみた。
両親が医師、祖父母も医師の根っからの医師家系であった。
しかしながら、兄が行った家系調査では、
元々は群馬県の農家の出らしい。
金沢藩のお抱えの医師になった御先祖様はすごいと思う・・・。
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プロフィール
名前:近藤 礎(こんどう もとい)
生年月日:1970 年2月16 日
血液型:BO型
趣味:酒に飲まれる事・車集め・テニス・釣り
特技:テキトーに人生を歩む事
尊敬する人:父(近藤 直:こんどう ただし)
好きな食べ物:野菜
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39 歳で記載を始めた「ある外科医の思考」である
プロローグ
救急
う。これもまた学問であろうか・・・。
33 歳頃に記載を始めたのが本当の最初である。数
携帯電話に連絡が入った。患者が腹部に激痛を訴え
平 成 1 8 年 の 某 日、「 ピ ィ リ リ リ・・・」 と 深 夜、
が、実は一外科医として、ミシガン大学留学時代の
度のアップルコンピューターの故障により度々原稿
ているとの事であった。自動車に飛び乗って大阪府
病理組織検査では、膵臓癌では珍しい扁平上皮癌で、
を紛失する事となった。最終形となった原稿が今の
い(ノーチェック状態である)。内容は自分を振り
腫瘍壊死による出血と診断された。
堺市の病院へ直行した。CTスキャンでは、膵頭部
返り、自分の生き方に共感できるかを再確認したに
医師と言う職業は立派な職業であろうか。私はそう
形式であるが、全く異なった内容も多く記載してい
過ぎない。実際、もう一度同じ人生を繰り返すかと
は思わない。人間としての人格を指すとすれば尚更
にある4 センチ程度の腫瘍から出血が確認された。
聞かれれば、今は繰り返さないと思う。恐らくは医
そうであり、仕事の内容であれば好きな仕事を行い、
たと記憶している。最終的には、「株式会社エバンス」
師と言う職業、研究者と言う職業の奥深さを垣間見
世の中に貢献している人物は星の数ほどいるであろ
膵臓癌のラプチャー(破裂)である。緊急膵頭十二
る事さえできない自分がいるからであろう。今後も
う。現在私は、大阪大学発バイオベンチャーの代表
のブログ程度として掲載していく予定であった為、
精進し、学問の追及に励みたいと考えている。「知
取締役として、一般臨床から治験、臨床試験、研究
指腸切除術を施行した。患者は無事退院となった。
恵が出なければ医師をやめろ」は生涯の座右の銘で
までを行っている。39 歳となり、ふと自分の人生
読みにくい文面もあるかと思われるが御了承頂きた
ある。少しはブログを記載する腕が上がった様に思
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たいと思う。
を書くに至る理由は何らない。ただ蘇る記憶を綴り
ようと考え研究開発を続ける自分がいた。私が本文
至る自分を振り返った時、社会還元になる仕事をし
学医学部の大学院(病態制御外科学)を卒業し今に
阪大学医学部の第二外科に入局した。そして大阪大
のように蘇ってきた。近畿大学医学部を卒業し、大
に節目を感じた時、幼少時代から現在までが走馬灯
先 生 は 言 う、「 ど れ で も 良 い 訳 な い で し ょ う 」 と。
した。「先生、どの布団でもよかったんだよね」と。
分の布団であったのだ。その時私は先生に尋ねかえ
な顔をし、「布団を返せ」と言う。最もである、自
布団の持ち主であるイガグリ頭の同級生が鬼のよう
る、「 お 前 何 し と ん の や!」 と 怒 鳴 ら れ た。 そ う、
がある布団を選び、入り目をつむった。その時であ
ら・・・」と。私は布団の中から仮面ライダーの絵
私は怒りよりも悲しみに沈み、皆が寝静まったのを
見計らって保育園を飛び出した。そして、泣きなが
終えた私は先生に質問をした。「お昼寝はしないと
が起こる。昼食後のお昼寝の時間前である。食事を
園に通っていた。とある日、一生涯記憶に残る事件
が3 歳の時である、神戸市北区の道場町にある保育
営する病院関係の職員に育てられたと今も思う。私
た。幼少から両親に育てられた感覚はなく、父の経
両 親 が 医 師 で あ る 私 は 男 兄 弟3 人 の 真 ん 中 で あ っ
人を観察する事を覚えたのもこの時期である。診療
を超えた時期に初めて両親に報告した。人間不信や
最後の中退である。この時の事件の詳細は、30 歳
った私は、無論、保育園を中退した。人生で最初で
道ぐらいは記憶している。そしてこの事件にこだわ
て良かった」と。当然である、車で送られていたが
出で捜索したと言う。母は言う、「幸い通学路に居
では私が行方不明になったと家族に報告し、家族総
ら歩いて自宅へ向かったのである。この時、保育園
い け な い の? ど の お 布 団 で ね る の?」 と。 先 生 は
で子供を診る事も少なくない。子供達は素直であり、
保育園での目覚め 答えた。「押入れにあるお布団ならどれでも良いか
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たのであった。
る。3 歳の子供には立派な人格があると自ら痛感し
大人のエゴや振る舞いにより子供達は大きく変化す
当時からほぼ理解できていたのだ。そして、母親を
小学校時には充分理解できていた。いや、幼稚園の
断ができないと感じて言った親の言葉は、成長した
悲しませる事は罪であろうと考え、期待に沿いたい
と考え、最終的に医師になったのだと思う。この当
同じやろ」と言われていた。苦笑いし対応する自分
母親のボヤキ
自宅近くの幼稚園に通学するようになった。当時、
がいた。無論、状況はほぼ把握していた。辛かった、
時、近辺住民から私は「悪そうな子やなー、両親と
父親の経営する病院のM事務長が院長印(理事長印)
そして他人なんてこんなものかと感じた。
父さんと結婚したんやろうなー」とつぶやいた。私
院前の道路を歩きながら、「なんでママはあんなお
後に聞いた。その当時、母親は私の右手を取り、病
や近辺住民からも心ない言葉を浴びせられていたと
る脱税事件である。この時期の母親は暗く、医師会
うよりも、恥ずかしく、公けの場で発言が出来なか
でしょう」と。私は答える事ができなかった。と言
あります。くまさんが3 つ食べました。残りは何個
であり、私は先生に質問を受けた。「りんごが5 つ
ら授業があり、親子参観も兼ねていた。算数の授業
徒歩15 分程度の小学校に入学した。入学式初日か
小学校入学
は返答もせず、母親の顔を見入った。後にこの事務
ったのである。下校すると母はおはじきを取り出し、
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を使用して許可なく多額の借入れを行っていたらし
い。また、帳簿改ざんも行い、最終的には病院が不
当たりとなり父親の管理不行き届きと審判される。
長が、さんざん金銭をせびりに自宅にやってくるの
同じ質問をした。私は「残りは2つ」と答えた。当
そして、多額の納税を強いられる事となる。いわゆ
歳の子供に判
を目撃している。子供心に感じた。
4
強は早く始めるべきであり、日々の蓄積が重要と今
早くから受験勉強ができた環境に感謝した。受験勉
教師が付く事となる。そして、中学校受験時には、
りとなった。親心からか、小学校2年生時には家庭
の劣等感を感じた母親は、以降1 年間家庭教師代わ
時の私の恥ずかしがりやの気持ちとは裏腹に、学問
った兄や幼稚園であった弟は、両親について同級生
事となる。今になって思う、当時小学校4年生であ
学校の熱血教師であり、後に有名進学塾を開設する
と説いた。T先生は当時、不良が通う事で有名な中
して生きろ、今のこざかしい状況は気にもとめるな
持つ私の将来における社会的な役割、即ち、医師と
言葉である。T先生は、祖父母、両親を医師として
からの嫌がらせはなかったのだろうかと。京都大学
の医学部に進んだ兄、藤田保健衛生大学の歯学部に
進んだ弟とは未だにしていない話も多いと思う。兄
弟におけるベストなコミュニケーションは未だに解
らない。
初めての癌手術 た。この様な状況が2年ほど続いていたのだが、精
の1 年間の研修を終え、関西労災病院に前期研修に
部第二外科に入局した。大阪大学医学部附属病院で
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も思う。
小学校でのイジメ
小学校に入学した当時、前記の父親の病院の不当た
りが世間の噂となった。気弱な私は同級生2人にい
つも小学校裏のプレハブ駐車場に連れて行かれた。
肉体的な暴力を受ける事はほとんどなかったが、両
親について、有るか無いか分からない話を出され、
年に大阪大学医学
神的な助けとなったのは家族の言葉ではなかった。
出た。当時、医局内でも有名な多忙極める救急病院
少し違う話を思い出した。平成
無論、家族には話してもいない。私の助けとなった
である。1 年上司であるH先生のお陰でずいぶんと
極悪な両親であると精神的なイジメを受け続けてい
のは、小学校2年生から家庭教師についたT先生の
6
事実、日本外科学会の専門医を取得でき、大阪大学
れないがそれ以上の物を与えてやる事ができる」と。
は言った、「うち(関西労災病院)では、給料はや
降、多くの手術をこなした。外科部長であるT先生
研修医2年目の25 歳時には胃癌の手術を行い、以
情味と腕のある多くの上司に恵まれたのだと思う。
の手術を見て手術手技を覚える。私は幸いにも、人
寝なかった事を記憶している。通常、研修医は上司
的であった。多忙で緊急手術などが重なると3 日間
助かったが、それでも2日間程度の連続勤務は日常
たのである。水たまりが大きく、兄や友人も水たま
水たまりに「ぼちゃん」である。浅かろうと判断し
けるべく、助走をつけて飛んだ、私と弟はと言うと、
論した。賢い兄と友人は、できるだけ水たまりを避
否かである。しばらく考え、皆で一斉に飛ぼうと結
一緒だった。皆で考えた、この塀から飛び降りるか
な水たまりができていた。この日には近所のN 君も
は遊んだ山がある。コンクリートの塀の先には大き
されていないハシゴを登り見渡した。この塀の先に
た。高さ3 ~4m はあったかもいしれない。取り外
が開始された山に大きなコンクリートの塀を見つけ
りに落ちた。「ハッ」とした。泥の水たまりで足が
医学部の大学院に進学する3 年後には、各医学会の
シンポジウムなど発表の機会も多く得ることができ
つかないのだ。かろうじで進めるが確実に沈む自分
持つべきは賢い兄弟と感じた。
そして今も思う。一歩間違えれば死んでいたなと。
否や私と弟の手を引こうと木の棒を探した。あの時、
に気付いた。弟も同じである。兄は土手を上がるや
た。良い施設には良い先生が集まるのである。
「山」で 兄弟3 人で本当に良く遊んだ。当時、神戸市北区は
非常に田舎であり、家の近辺は、山、川、池であっ
た。夏にはクワガタやカブトムシを捕り、そして魚
釣りやザリガニ捕りをした。ある大雨の翌日、工事
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うゲームである。一番手が私となった。明らかに無
車でノーブレーキで下り、四つ角を右に曲がると言
ある日、兄が同級生とゲームを考えた。坂道を自転
であった。それが終わると田んぼの四つ角となる。
当時の自宅前は、50m 以上はある真っ直ぐな坂道
自転車
た。先生が説得しても上がってこない。先生はシビ
の生徒が7m はあろうかと思われる崖下に蹲ってい
担任のK先生と共に山に捜索に向かう。ある時、そ
ある。月2、
3 回はあったであろうか。そうなると
ど、恐らく自分の感情が乱れると山に逃げ込むので
小学校の同級生にユニークな生徒がいた。授業中な
同級生 K先生は学内でも有名な熱血先生であり、生徒の喧
理と判断していた私は、ブレーキをかけて曲がり失
中止となった。今になって思う。兄はこの後に石下
嘩解決や自主討論、そしてスポーツに力を入れてい
レを切らし崖を降りた。その時である、足を踏み外
駄が外された小川に脱輪し、空中回転し自転車で怪
た。また、怖い先生としても有名であり、それ故か
格となった。二番手は兄であった。なんと無謀にも
我をする。この時はクワガタ捕りに行き、餌の密を
転落した姿に私たち同級生は大笑いしたのである。
した先生は真っ逆さまに転落した。時計は割れ、メ
忘れて取りに帰った戻りと記憶している。兄はその
恐らく週の半分以上はスポーツや討論であった。精
坂道をこいで下るではないか。そして右折。兄は自
時言った、「さっきまで蓋があったのに誰が外した
神的には成長したと思う。しかし、ほぼ全ての授業
ガネも壊れた。幸い、大きな外傷はなかった。この
んだろう」と。賢いと想定外の状況で学ぶ事の方が
が上巻の半ばで年度を終えており、進学には程遠い
転車ごと水の貯まる田んぼに突っ込んだ。ゲームは
多いのだろうか。
小学校であった。ゆとり(のんびり)教育の極端例
かもしれない。過度のゆとり教育は学業における可
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能性を欠失させると感じる。
事は少なくなった。変わって、私を指導していた家
庭教師のT先生が弟も指導する事となる。今の自分
であればどの様に子供達を見るだろうかと考える。
無責任であるが、直接教育をしない父親を見て育っ
た私は、恐らく子供の教育の現場には進んでは出な
弟 弟が小学校に入学した。私と違い気の強さを持つ弟
いであろうと思う。
外科医を目指す は逞しく見えた。弟が小学校入学直後の事である。
勉強をしない弟を母親が叱った。私と同様に小学校
入学直後は家庭教師役をしていたのである。ある日
私が医師の中でも外科医を目指すと決めたのは中学
教科書を準備したかは解らない。数日後には新しい
い顔をしていた事を記憶している。母親がどの様に
た母親は弟や私を叱る事はなかった。そして、悲し
聞かれたので燃やしたと答えた。燃えた教科書を見
を終えた母親が帰宅し、教科書がない事に気付いた。
半分程度燃えた時点で自宅に戻った。夕方には仕事
の田んぼで弟の教科書を一緒に燃やしたのである。
イターと緑の花瓶を持ち出した。そして、道向かい
小学校と同じ嫌がらせがあった。高校生が中学校1
て、通学中にも多くの学生がいる。この中でやはり
言った事はないが、6 年間一貫教育の男子高、そし
かろうと判断したのかもしれない。両親には一度も
である。私については時間もたっており然程でもな
フランシスコに住んでいた父親の妹に兄を預けたの
らの不義理なイジメを受けることを考え、当時サン
兄は既にアメリカに留学していた。両親は同級生か
ない。この当時には、前述した父親の脱税事件から
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母親は怒り、「勉強しないなら教科書を燃やしてし
まいなさい」と言った。弟は私に相談した。弟が勉
校
年生の時である。この思いは誰にも伝えた事は
強をしたくないと真に感じた私は、花火で覚えたラ
教科書があり、以降、母親が私と弟に勉強を教える
1
年生に嫌がらせを言うのである。鞄を小川に入れら
ようと。私が外科医を目指した理由は他にはない。
見る事で自分自身で父親の行いや環境を判断して見
えた。外科医として生き、改めて父親が進んだ道を
えた。私は善し悪しを問わず、この様な状況から考
無論、祝祭日には朝から晩まで勉強である。勉強が
生程度からは、ほぼ毎日の様に深夜まで勉強した。
くプライドも極めて高かったのだろう。小学校5 年
生は燃えていた。非常に怖い先生であったが、恐ら
三田学園中学校には受験があった。家庭教師のT先
中学校受験 病気の友人や知人を見た訳でもなく、ブラック・ジ
嫌いではない私はそれなりに成績が向上し、見事受
れた事もあった。果たして私は悪いのだろうかと考
ャックに影響された訳でもない。ましてやお金ほし
年していたのである。これには両親も驚いた。医師
験に合格した。しかし、入学式の際に喜びよりも恐
学校時代の先輩と出会った。某製薬会社の研究会に
を目指そうと内に考えていた私は、以降、大学受験
さなど微塵もなかった。きっと父親と同じ職業にな
呼ばれた私は講演会を行った。主催する製薬会社で
までT先生のお世話になる事となる。独学を好む人
ろしく感じたことがあった。三田学園中学校では、
先輩は勤めていた。私をいじめていた当時とは手の
もいるであろう。しかしながら、教育熱心な恩師を
る事に意地になったのだと思う。無論、母親の医師
ひらを返す態度であった。その態度に怒りをこらえ
見つけるか否かは、人生に少なからずの影響を与え
同年、中学校1 年生から2年生への進学で5 人も留
る自分がいた。妙な賢さを持つ大人は最悪だと感じ
る。
になってほしいとの思いも後押しした。数年前、中
た。
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腹水が貯留する事はそれなりにあるが、この症例で
が、高校入学の準備に合わせ、気持ちは既に大学受
県ジュニアの準優勝を得た。非常に嬉しかったのだ
中学校3 年生時には友人のH君とのダブルスで兵庫
幸いにも体質にあったのか、技術はみるみる向上し、
テニスをしていた事もあり、すっと受け入れられた。
中学校の3 年間は硬式テニス部に所属した。母親が
タの蓄積が可能性を広げると考え指示したと思う。
雑誌に論文報告していたのである。更なる臨床デー
水に対するベータブロッカーの効果を日本外科学会
であるが、大阪大学では過去の研究から、難治性腹
ロッカーは、もともとは高血圧症や狭心症の治療薬
ロッカーの可能性について指示を出した。ベータブ
ったM先生と直属の上司となるN 先生は、ベータブ
は極めて難治性の腹水であった。当時主任教授であ
験であった。この気持ちからか、高校1 年生入学と
治療を開始すると、非常に緩やかではあるが患者の
クラブ活動 同時にテニス部を辞めた。自分には不可能であった、
病状は良くなっていった。そして退院となった。上
には前述の様な多くの情報があ
ベ ー ス の PubMed
り、現在も愛用している。
床データが蓄積されている。医学・生物文献データ
薬剤ではない。現在、多くの大学で様々な事例の臨
頂いた。ベータブロッカーは腹水の治療の保険適応
司の指導から、これら症例を英語論文で報告させて
スポーツと学業を両立できる学生を素晴らしいと思
う。
腹水
ふと思い出す。関西労災病院勤務から大阪大学医学
部の大学院へと進学した。と言っても、研究ばかり
ではなく一般臨床も行う。大学院1 年時、C型肝炎
から発癌した肝細胞癌の患者の主治医となった。高
度な肝硬変があり、手術後に腹水が貯留した。軽い
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たのである。その時である。爆竹の火薬を仕込んで
学校の特進コースに入れた私は、T先生を中心とし
が出たと嘆いていたのを覚えている。三田学園高等
持していた。私の大学受験前には、初めて不合格者
り、三田学園中学校の合格率は絶えず100% を維
った。この当時、既にT先生は進学塾を開講してお
高校生時代にも引き続きT先生に非常にお世話にな
なった。改造拳銃などのニュースはテレビで見た事
りクチバシが取れた。以降、拳銃には目を向けなく
で木の葉を打っていると、枝にとまるスズメに当た
受けていた。時期をほぼ同じくして、改造ガスガン
窓から逃げ出した。教室に舞い戻り、平然と授業を
員室から先生が飛び出してきた。私たちはトイレの
ニヤ板のトイレの扉を貫通した。あまりの爆音に教
いた拳銃が暴発した。私の頭をかすめた金属球はベ
た多くの塾の先生のお陰で無理なく学問に集中でき
はある。自分たちの行為がエスカレートすると趣味
高校生時代 た。また、高校三年生の受験直前には、自主学習も
では済まされず、本当の殺人兵器を作る事になると
反省した。いや、その時点で犯罪であったと実感し
好んでしていたと思う。押しつけられる学問ではな
く、自分自身で考える能力は重要である。
善し悪し関係なく、何故か自分自身を試したいと感
高校生時代の同級生にY君がいた。Y君はT先生が
バイク じていた。
なければならなかったのであろう。高校生時代には、
拳銃
高校生時代には興味あることに熱中できた。その一
つが拳銃である。悪友のS君とガスガンを購入しパ
造していた。ある日の事である。休憩時間に2人で
勤めていた某不良中学校に通っていた。当時、三田
ワーアップさせたり、プラスチック銃や金属銃を改
トイレに向かった。完成した改造拳銃を観察してい
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ケーションには非常に気を使ってくれていた。T先
市内でも悪名高いY君であったが、私とのコミュニ
の試験で絶えず1 番の席次であったのだ。
停学の期間以外、私立理系コースにいた私は年5 回
ていた。無論、学問を忘れていた訳ではない。この
定期券
生の指導を受ける様になったY君は、6 年間一貫教
育の三田学園では珍しく高校受験で合格した。同様
に通っていたM君も合格し、益々T先生のカリスマ
性が向上した。さて、このY君であるが、極めつけ
中学校、高校と電車通学であった。当時の定期券は
は、アクリル溶剤やラッカー溶剤などで印字のみを
のモータースポーツマニアであった。バイクに始ま
を購入した(バイクではなく原動機付き自転車であ
剥離できないかと考えた。最終的には、双方を1 :
電子機能がなく、印刷定期券であった。ある時、ふ
るが)。中型バイクなどは予算的にも無理であった。
1 で配合すると背景が消えずに文字のみが溶解する
り、後には自動車好きが高じ、有名自動車会社に就
そして免許を取得した。当時、学校規定から免許の
事を発見した。続いて印刷である。考えた私は、過
と考えた。この定期を作ってみようと。印刷された
取得は禁止されていたが、正直関係ないと感じてい
去の使用済み定期券から必要な項目をコピー機を使
職 す る 事 と な る。 同 学 年 と な っ た 私 は 影 響 を 受 け
た。エンジンをばらし、どの様な構造かを確認し、
用して並べ変えた。出来上がったゲラ稿を、B4用
文字の背景には薄い水色のデザインが施されてい
何回となく組み立てた。最終的には、排気量アップ
紙に張り付けた無地の定期紙に印刷した。自身で完
た。もともとモータースポーツが好きであった父親
のエンジンと組みかえるのであるが、この直後に学
璧な仕上がりと感じた如く、見事に改札を通過でき
る。 当 時、 バ イ ク の ペ イ ン ト な ど を 行 っ て い た 私
校に免許取得がバレて停学となる。いわゆる不良と
た。数ヶ月し、ふと考えた。定期券の購入には手続
を持つ私はバイクに熱中した。有り金をはたき原付
かではなく、単純に興味を形にできれば良いと考え
-13-
ていると思う。悪の道に染まらなかった環境に感謝
あるが、私は少し感覚がずれており、今もまだずれ
る。無論、良い方向性の模索のみであれば良いので
人間は成長する過程で自身の様々な可能性を模索す
この作業は終了した。若気の至りと言う言葉がある。
であろうと。自己満足感もあり、個人の秘密として
き書類が必要である。詳細を調べれば疑惑がかかる
授と呼ばれる)であり、笑っていた。大阪大学でも、
任教授となるM先生は当時は助教授(現在では准教
かれた。無論、「通っています」と答えた。後に主
門を叩いた。面接では、国家試験はどうだったと聞
たず、父の勧めもあり、大阪大学医学部第二外科の
信し両親に報告した。医師国家試験の合格発表を待
家試験が終了した。そして自己採点時には合格を確
ろうが、全国でも一位である。益々勉強し、医師国
ヶ月後、見事に合格した私は、医局員となっ
医師国家試験の合格率は100% ではないからであ
る。
たのである。
メックがあった。相当量勉強したと考えた私は意気
全国模擬試験を実施していた医師国家試験予備校に
E問題があり、総問題数は1000 問程度であった。
て い た。 当 時、 医 師 国 家 試 験 は、 A、B、C、D、
近畿大学医学部附属病院長兼消化器外科教授のS先
術が実施された。無論、私が執刀する訳はなく、現、
受け、食道癌切除術と三領域郭清術と言う高度な手
医は中部食道癌のI氏であった。放射線化学療法を
大阪大学医学部の第二外科に入局し、初めての主治
初めての主治医 込んで比較的難問のC問題の模擬試験を受けた。見
生と現、国立病院機構大阪医療センターの外科部長
-14-
している。環境は重要と思う。
医師国家試験
近畿大学医学部に進学した私は、ストレートで6 年
生となった。医師国家試験前には大学は半年程度自
事満点であり、学年一位に喜んだ。同率一位ではあ
主学習であり、医師国家試験の全国模擬試験を受け
1
事。穿刺角度により針の抵抗感(患者の痛みに繋が
カットやバックカットと言う加工技術が存在する
味を持つ様になる。注射針の先端形態にランセット
困難であったと思う。この時以来、私は注射針に興
た。採血や静脈ルート確保を練習中であり、余計に
管が細く、研修医の業務である朝の採血には難渋し
患者は無事退院となった。この患者は非常に末梢血
であるT先生が執刀した。入院期間は長くなったが、
可能性を見据える事は必要であると思う。
苦労であったとしても、この苦労を鍵として新たな
部附属病院で採用となったのである。たとえ些細な
大な協力を得た。そして、最終的には大阪大学医学
る。この研究では、化学療法部の師長、副師長に多
を大阪大学医学部附属病院化学療法部で行う事とな
全装置付きポート針、ヒューバープラスの臨床試験
会社メディコンの新器材が融合し、本邦初となる安
(transarterial immunoembolization)
の無作為化比較試験から、医療現場のニーズに合う、
前後に行った、既存する安全装置付き静脈内留置針
付き,静脈内留置針の開発」であった。2003 年
事となる。題目は、「新型安全装置(誤刺防止機能)
ンターのベンチャーサポートプログラムに応募する
この思いから、大阪大学先端科学イノベーションセ
するのである。この療法については、M教授の指導
存在する局所に免疫活性が起こり、そして癌が壊死
K と呼ばれる薬剤を使用して肝動脈を塞栓
する治療法である。この治療を行うと、肝細胞癌の
の臨床試験を実施していた。肝細胞癌に対して、O
第二外科では、
肝細胞癌の患者の主治医となった。当時、大阪大学
T
I
E
-15-
る)が異なる事。医療従事者の針刺し(事故)予防
を目的とした、安全機能を備えた器材が開発されつ
新たな器材の可能性を見据えたからである。この論
下に、その成果が論文として公表されている。私が
つある事などを学んだ。後に留学から帰国した私は、
文は、「癌と化学療法」に掲載された。そして、見
初めて経験した臨床試験であった。
4
3
2
(経動脈的免疫塞栓術)療法
事助成金を獲得した。最終的には、この思いと株式
T
I
E
鏡学会のビデオシンポジウムで発表を行った。演題
道系(肝臓から胆汁を十二指腸に運ぶ消化管)の疾
部に所属するU 先生が在籍していた。U 先生は、胆
出た。当時、関西労災病院には、大阪大学特殊救急
間の研修を終えた私は、関西労災病院に前期研修に
先に述べた様に、大阪大学医学部附属病院での1 年
ステントの抜去技術と再留置技術を総括した。無論、
が世界で初めて開発した、留置した胆道メタリック
へ適応する臨床研究のまとめである。恐らくU 先生
トを、手術を希望しない良性胆道狭窄や閉塞の患者
うやく癌治療の保険適応となったメタリックステン
ステント)の適応、意義と限界―」である。当時よ
胆道メタリックステント
患を専門としていた。U 先生は、後に保険適応とな
私自身が行った治療でのビデオ講演である。現在で
は、「良性胆道狭窄への挑戦―EM S(メタリック
る胆道メタリックステントを本邦でいち早く導入し
いバリアンスを持っている。ありとあらゆる手技が
も、手技の煩雑さなどから特殊な技術として扱われ
胆管癌、胆嚢癌や膵臓癌で胆管が閉塞した前述の症
必要とされるであろう。これら業績は、U 先生によ
た人物である。胆管が閉塞すると黄疸や胆管炎を発
状を緩和する。癌で閉塞した部位にチタン合金のメ
り2本の論文としてまとめられた。私を指導して頂
る事も多い。今でも思う。患者の希望は計り知れな
ッシュパイプを埋め込むのである。無論開腹手術を
いた事、そして論文共著者として名前を入れて頂い
症するが、このメタリックステントは、切除不能な
行うのではない。超音波を使い、PTCD(経皮経
た事に本当に感謝している。
関西労災病院で指導を頂いたU 先生は、卓越した技
妙技
肝的胆道ドレナージ術)を行い、IVR(放射線画
像)下に細いカテーテルを用いてメタリックステン
ト埋め込むのである。私は、関西労災病院に3 年間
勤務したが、この間に多くの実績を積み貴重な指導
を多く受けた。そして3 年目には、日本消化器内視
-16-
術を持っていた。その指導を受けた妙技を御紹介す
ーテルを進め、胆嚢と総胆管の両方から感染胆汁を
後日、引き続き、胆嚢と総胆管を結ぶ胆嚢管にカテ
を行った。これにより胆嚢炎が解除される。そして
し、まず、
PTGBD(経皮経肝的胆嚢ドレナージ術)
発しており、ショック状態にあった。この患者に対
となった。90 歳を超えていた。化膿性胆管炎を併
が必要であった。そこで、同等度の有効性、通院回
て使用されていたが非常に高価であり、頻回の通院
LH ─RH アゴニストなどが乳癌の内分泌療法とし
腹腔鏡下に卵巣を切除すると言うものである。当時、
頂いた。乳癌の内分泌療法(ホルモン療法)として、
主任部長であった。ある日、T先生から研究課題を
関西労災病院では、乳癌治療の大家であるT先生が
乳癌
体外にドレナージ(排出)した。後日、留置されて
数の軽減、格段なコストベネフィットから患者のニ
れ て い るE R C P ( 内 視 鏡 的 逆 行 性 胆 管 膵 管 造 影 )
る事なく退院となった。当時は、現在保険適応とさ
結石を切石(結石除去)した。患者は、開腹手術す
鏡(胆道カメラ)を体内に入れ、胆嚢結石と総胆管
として「乳癌の臨床」に掲載された。題目は、「乳
頂いた。この臨床研究の業績は、私の初となる論文
消化器外科の准教授であるI先生に手術を指導して
られたのである。この研究では、現近畿大学医学部
患者も多く、合併症もなく、治療効果も充分に認め
-17-
る。胆嚢結石で急性胆嚢炎になった患者が緊急入院
いる Fr (フレンチ)の細いカテーテルを、徐々
下に行う、EST(内視鏡的乳頭切開術)による総
癌内分泌療法としての腹腔鏡下卵巣摘出術」であっ
ーズも多いと読んだのであろう。実際、希望される
胆管結石の切石術がまだ世に出る以前であった。賛
た。
術が患者を救ってきたと思う。
否両論かと思われるが、U 先生の開発した様々な技
にサイズアップし、20Fr とした。次いで、胆道
7
1981 年である。日本では、1990 年に導入さ
事が困難な場合もある。数十年前には、この様な高
に進行した胃癌や大腸癌では、開腹しても切除する
各大学の教授、助教授とよく手術をしていた。高度
よく一緒に飲んだ。3 2 歳で病院を開業した父は、
た。74歳であった。外科医の父とは大学時代から
平成22年1 月8 日、外科医であった父が亡くなっ
第二外科の大学院に進学した私は、臨床研究や基礎
を書かない医者だよ」と。この事からか、大阪大学
部のI 先生は言っていた、「礎君のお父さんは論文
大学医学部のI先生、M先生、そして大阪大学医学
だと痛感した。父とよく診療をしていた、当時神戸
呼ばれる腹腔鏡技術が存在する。良い発想を持つ父
現在でも腹膜播種を観察するステージングラパロと
外科医の父
度に進行した胃癌や大腸癌では、現在の様に通過障
研究の論文を多く書く事にこだわった。良い指導を
れた。父は、手術機器を入れる事こそ無かったが、
害を回避するバイパス手術が行われていなかったと
論文と共著英語論文は25 本を数えた。そして見事
受けた事もあり、大学院の4年間で5 本の筆頭英語
した胃癌では、手術前に抗癌剤治療を行い、縮小(ダ
に大阪大学の医学博士号を得たのである。研究の過
言う。現在では、腹膜転移などを認める高度に進行
ウンステージ)させてから根治手術を行う事も多い。
程は重要である。しかし、結果(業績)が全てなのだ。
望めない事から緩和医療(終末期医療)に入ったと。
恵の出せない者は汗を出せ、知恵も汗も出せない者
父は私に良く言った、「頭を使って知恵を出せ、知
座右の銘
この当時、父は考えたと言う。進行が疑われる胃癌
や大腸癌では、腹部に小さな穴を開け、特注で作成
した電気付き実寸大望遠鏡で腹腔内を観察したのだ
学生時代には、なんとなく聞いていたが、今思う。
は静かに去れ」と。この言葉は、永大産業の創設者
と言う。そして腹膜転移を認める症例では、治癒が
腹腔鏡手術が世界で初めてドイツで実施されたのが
-18-
の言葉は、恐らく私の医師人生の終点を明確にする
目となった。私にとっても座右の銘となっているこ
しての引き際は早く、医師である母、そして兄が跡
ば医師を辞めろ」と言っていた。実際、父の医師と
知恵が出なければ汗を出せ、知恵も汗も出なくなれ
じ と 言 う。 で あ る か ら、「 頭 を 使 っ て 知 恵 を 出 せ、
である故深尾茂氏の言葉である。父曰く、医業も同
のだと思い出す。
否定的な意見はあるが、最先端の医療を指導頂いた
鏡手術で終了するかを判断するのである。現在でも
手術中の病理検査結果で、開腹手術を行うか、腹腔
よる縮小手術が展開される。即ち、摘出した胆嚢の
鏡下の胆嚢生検と術中迅速病理検査の組み合わせに
当であろうと。しかしこの10 年後程度には、腹腔
のであろう。
クローン病
良とされる癌であるが、幸い初期であり、以降再発
理診断では、珍しい胆嚢小細胞癌であった。予後不
この症例には腹腔鏡下胆嚢摘出術が施行された。病
cm 大の腫瘍が指摘された症例である。最終的には
ていた私は、ある症例を発表した。検診で胆嚢に1
がある。当時、関西労災病院のU 先生に指導を受け
関西には、近畿外科学会と呼ばれる外科系の医学会
て造影検査を行った。なんと、腸管が造影された。
ジ(排膿)する目的で、瘻孔内にカテーテルを入れ
なったと考えた。全身麻酔下に皮下膿瘍をドレナー
師と協議し、胎生期の尿膜管が化膿し、皮下膿瘍に
は臍周囲に瘻孔と皮下膿瘍ができた。泌尿器科の医
は無事終了し退院となった。所が3 ヶ月程し、今度
関西労災病院の附属看護学校の学生であった。手術
とも呼ばれ、肛門周囲に膿を出す瘻孔(穴)ができる。
胆嚢生検
を認めなかった。この発表時、会場の大先生方は猛
指導医師は、「クローンやないか」と言い。開腹手
研修医2年目に痔瘻の患者の主治医となった。穴痔
烈に抗議した、癌の可能性があれば、開腹手術が妥
-19-
での消化管全域に、非連続性の炎症および潰瘍を起
術に変更となった。クローン病は、口腔から肛門ま
れば病を発症するのかもしれないと思う。
人間の体は正直であり、気の向くままに行動しなけ
ある。当時、私がこの概念を知っていた訳ではない。
る事がある。手術は無事終了し、以降は兵庫医大の
指導を受けた。2年程が経過し、症例を重ねたいと
大腸ファイバー(大腸カメラ)
こす原因不明の病気である。本疾患における病変は
消化管の粘膜から漿膜までの全層を侵し、進行する
と腸管が狭くなり腸閉塞をきたす事や、腸管に穴の
クローン病の専門医が経過を追う事となった。教科
考えた私は母の経営する病院で大腸ファイバーを導
あく穿孔や瘻孔、それらに膿が溜まった膿瘍ができ
書で学んだ比較的稀な病気であるが、目の前の患者
入した。週1 回で5 人から10 人程度をこなし続け
医より多くの経験を積む事ができたからだ。
師であった事に感謝している。おかげで、他の研修
いる。無論、両親も喜んでいた。両親が理解ある医
行った。癌の患者から非常に感謝されたのを覚えて
先生から大腸ファイバーの
を診断できるかが重要である。知識の向上に努めね
た。内視鏡的なポリープ切除術や早期癌の切除術も
時起床
外科専門医を取得し、大阪大学大学院に進学した。
胆道鏡の依頼
中国には薬膳の考え方として、同位同食と言う言葉
肝胆膵疾患の専門医になりたいと考え、大学院では
った。頭の考えとは別に、肉体は肉を求めていた。
がある。疲労した部位と同じ部位を食する考え方で
-20-
関西労災病院時代に、
ばと痛感した。
時を過ぎ、翌朝
6
となる事も多かったが、それでも焼き肉を食べに行
た。業務終了時間が午前
研修医時代には毎日の様に焼き肉や焼き鳥を食べ
同位同食
F
1
先生か
肝胆膵疾患のグループに所属した。ある日、一本の
児麻酔による手術、整形外科手術、心臓外科手術、
手術、産科の通常分娩、カイザー(帝王切開)、小
先生は、自分の患者の胆道鏡による胆
い管理技術や理論など、良い指導と経験の重要さを
脳外科手術など多くの知識を学んだ。教科書には無
電話が入った。西宮市立病院の院長である
らである。
先生も
痛 感 し た。 こ の 研 修 以 降、 私 は 週 に1 ~2 回 程 度
管結石の治療を私に依頼されたのである。
肝胆膵疾患の専門医である。正直私は驚いたが快諾
の外科当直と
(集中治療室)の当直を行う
させて頂いた。治療も無事終了し、以降、大阪大学
事となる。
に続く胆道鏡まで多く
医学部附属病院でも胆道鏡治療を行う事となる。手
術中の胆道鏡から
先生には感謝している。自分の好きな
先生に良い指導を受けてきたからだと思う。
仕事をでき、良く評価されたのも、関西労災病院で
一人である
をこなした。見守って頂いた肝胆膵疾患のチーフの
P
T
C
D
麻酔の管理、救命救急処置の基本手技、半身麻酔、
う激務の麻酔科であった。気管内挿管の手技、全身
所属となった。年間に1000 症例以上の麻酔を行
関西労災病院に勤務し、初期の3 ヶ月間は麻酔科の
かかえた母親の頭に直撃した鉄板は母親の頭蓋骨を
鉄板で軽自動車の屋根は取れかけており、娘を抱き
板が落下した接触事故であった。救急隊員は言う、
動車で走行中、居眠り運転のトラックから大きな鉄
急隊に再度確認した。この事故は、親子三人が軽自
みであった。不思議に感じた私は、事故の状況を救
娘は頭から足まで血まみれであったが、軽い打撲の
父親は全身打撲と右下腿骨折を認め治療となった。
患者二人が救急搬送されてきた。父親と娘であった。
【交通事故】
の中、この様な症例を経験した。
梗塞など多くの患者の治療に携わった。そんな環境
も兼ねており、呼吸不全、心肺停止、腹膜炎、心筋
当直は2 次救急(救命救急当直)
I
C I
U C
U
神経ブロックなど多くを指導して頂いた。各種癌の
-21-
O
O
O
D
麻酔科と救命救急 U
無力である。知識の向上のみでは解決できない点を
う、震える娘を目の前にし、癒す権利の無い医師は
母親の状態を娘に話しする事なく退院となった。思
粉砕したと言う。即死であった。父親の希望から、
にとっては一番良い時代だったのかもしれない。お
ったのだと上司から聞いた。ひょっとすると、医師
科医が勤務終了後に医局で「乾杯」なんて普通にあ
のソファーで寝ていた。今でこそ問題となるが、外
がある。残念であるが、研修医である私は外科医局
病理科研修
酒好きの私はそう思う。
医療は併せ持つのだ。
放射線科研修
関西労災病院時代、半年間程度放射線科の研修を受
診断の読影能力はこの時期に身につけた。いささか
放射線科の読影技術をきめ細かく指導頂いた。画像
スキャン、上部消化管造影、下部消化管造影など、
しに、この店まで行った事も度々であったが、CT
は病院向かいの鉄板焼屋で一杯飲んでいた。質問を
会に誘われた事による。酔っぱらった部長は私を捕
修を受けようとしたきっかけは、故病理部長に飲み
もあるが、耳学問、視学問はてっとり早い。この研
学ぶ為である。無論、癌取り扱い規約などの規定本
病理医が処理しやすいサンプル(切除標本)処理を
で観察する事、そして、チーム医療である事から、
関西労災病院時代、同様に病理科研修を3 ヶ月間程
厄介な部長ではあった。時効と考えて記載するが、
まえ、「近藤君のサンプルは汚いな~、一度研修を
けた。当時放射線科の部長であったH先生は豪傑で
お酒好きのH先生は酔っぱらうと当直室で寝るので
受けたらど~なの」と言った。多忙な外科研修の合
度受けた。自分が切除した癌、虫垂炎などを顕微鏡
ある。病院が自宅代わりになっていた。なので、2
間と勤務終了後に病理科に向かい顕微鏡を覗き込ん
あった。お酒をこよなく愛し、勤務終了の17 時に
室ある当直室が定例当直医1 人とH先生で埋まる事
-22-
だ。癌の悪性度やリンパ節転移など、細かく指導し
降、病理サンプルを用いた研究を行い、そして今の
の手術を専門としていた。大阪大学を卒業し、以降
関西労災病院外科の第二部長にT先生がいた。腸管
三宅の針
仕事にも就く事となる。あの当時、病理科は人手不
は臨床一本である。研究や論文、学会発表などには
て頂いた。後に大阪大学の大学院に進んだ私は、以
足であったのだと今は思う。人生の分岐点は多様に
興味を示さなかった。一方で、外科医としての腕は
はない。T先生の手術を見る事が多かった。ある日、
最高であり、未だにT先生を超える外科医を見た事
存在していると感じる。
尊厳死
手術中の腸管吻合の事である。T先生は「三宅の針」
せて頂き、死亡すれば法的な手続きだけ願いたい」
可能であった。患者は言った、「絶飲絶食で入院さ
身状態も良く、PTCD後に抗癌剤治療を行う事も
の針」を使用した。少し冷静に考えた。確かに使い
の上司は持針器を使用していた。以降、数度「三宅
では持針器による腸管吻合を学び、無論T先生以外
た。まさに裁縫の様に、腸と腸を吻合した。教科書
と言った。看護師が取りだした吻合用の針は、裁縫
と。1 週間後、患者は息を引き取った。無論その間
勝手は悪くない。しかし、腸管を切断した部位には
70 代の男性の主治医となった。大腸癌の多発肝転
点滴などの医療処置も希望しなかった。西洋、東洋
多量の細菌が存在する。その部位を手術グローブで
用針を少し弧状に湾曲させた見た事もない針であっ
医学を問わず、医学では患者の生命を救出する事を
触りながら吻合する。持針器では手は汚れない。手
移と多発肺転移であった。軽度黄疸は認めるが、全
学ぶ。患者のニーズは多様であると痛感する。
術中の感染管理から自然消滅した医療器材なのであ
ろうと考えた。昔の外科医は素手で手術をしていた
-23-
見た事もある。昔の外科医はC型肝炎やB型肝炎な
と聞いたし、現実に素手で手術を行う年配の医師を
であった。
が大学院で初めて発表した報告である。概要は以下
先駆けて学会報告し、英語論文として発表した。私
- ) :シクロオキシゲナー
- (cyclooxygenase-2
どを患う医師が多い。素手故に血液媒介感染のリス
クが高いのである。医療は日進月歩に進化しており、
医学知識の向上は患者への安全性のみならず医師自
らのリスクマネージメントとなるのである。
ゼ
当時、欧米の疫学的調査により、関節リウマチや虚
-24-
大学院進学
関西労災病院での研修3 年目を迎えた頃、医局長の
I先生から手紙が届いた。大阪大学での大学院進学
についてのアンケートである。そのまま研修を継続
するか、あるいは試験を受け、大学院へ進学するか
の選択枝があった。悩む余地なく大学院への受験を
希望した。研究をしたいと強く考えていたからであ
る。大学院に進学した私は、入学後の半年間は大阪
大学医学部附属病院で勤務しながら臨床研究を行っ
た。かつて、予後不良とされていた胆嚢の腺扁平上
皮癌が、一部の病態では、肝膵頭十二指腸切除術な
どの拡大手術により長期生存する事を発見し世界に
C
O
2 X
2
血性心疾患の治療で使用されるアスピリンが、大腸
本当に感謝している。そして、この研究を通じて研
receptor)
β
α
/
ベータ・レセプター
究者で居続ける思いが強くなった私が居た。
(interferon
インターフェロン・アルファ
癌、 肺 癌、 乳 癌 な ど の 悪 性 腫 瘍 の 発 症 率 を 低 下 さ
せ る 事 が 明 ら か と な っ て き た。 そ し て、 そ の メ カ
ニズムがアスピリンによる
- の酵素活性阻
害 で あ る と 考 え ら れ た。 大 阪 大 学 の 大 学 院 に 進 学
進行肝細胞癌に対する、インターフェン併用化学療
し た 私 は、 肝 細 胞 癌 の 発 生 や 肝 細 胞 癌 の 転 移 に お
ける
- の意義を研究する事となった。肝細
胞 癌 の 多 く はC 型 慢 性 肝 炎 やB 型 慢 性 肝 炎 か ら 発
法(インターフェロンと抗癌剤を併用する)の基礎、
大阪大学大学院病態制御外科学(現消化器外科)で
症 す る。 私 は、 肝 細 胞 癌 の 手 術 切 除 標 本 を 使 用 し
先生が先導
していた。良く知られる
型慢性肝炎(
型肝炎ウ
M
C
臨床研究が開始となった。主任教授の
て、
- 蛋白質や遺伝子の発現と発癌や癌の
転 移 な ど と の 関 係 を 調 べ た。 約 年 間 の 研 究 に よ
/
る
に掲載された。これら研究では、
Gastroenterology
日本タバコ産業の新薬であるJ TE 5
─ 22 が使用
事を明らかにした。これら研究成果は、世界で初め
り、
- の 酵 素 活 性 阻 害 が、C 型 慢 性 肝 炎 の
治療薬となる事、そして肝細胞癌の発癌予防になる
く得た。肝細胞癌の約60% がインターフェロンレ
あった。幸い、大塚製薬との共同研究から成果を早
ンターフェロンレセプター(インターフェロンと結
その効果を発揮するには、標的組織細胞におけるイ
合する)の発現が重要ではないかと考えられていた。
てアメリカ癌学会の論文雑誌である
ClinicalCancer
とアメリカ消化器病学会の論文雑誌であ
私に与えられた研究課題は、肝細胞癌でインターフ
Research
ェロンレセプターが発現しているかを調査する事で
された。非常に残念ではあるが、この新薬は日の目
セプターを発現している事。また、肝細胞癌細胞株
イルス)に対するインターフェロン療法であるが、
C
を見る事はなかった。御指導を頂いた、諸先生方に
-25-
C
O
X
2
3
C
O
X
2
C
O
X
2
C
O
X
2
先生と研究を開始してくれ」との事であった。
初期研究として、マウスの肝動脈にバリウムとアク
の
ーを遺伝子導入すると、インターフェロンの治療効
リルアミドを注入して肝動脈を硬化させた。ミリ単
(培養肝細胞癌細胞)にインターフェロンレセプタ
果が高くなる事を見出した。この成果は、アメリカ
位以下の血管造影が出来る可能性が見出された。以
降、 先生(現大阪大学消化器外科助教)に引継ぎ、
教授(現大阪大学副学
Journalof
彼の采配から選ばれたアガロースゲルによる硬化方
法により手技が確立された。この成果は
誌 に 掲 載 さ れ た。 現 在 で も、 ス プ リ ン
Hepatology
グエイトは放射線研究の第一線施設である。今後、
助手(現准
教授)は偉大である。理由は簡単であり、余命3 ヶ
ミリ単位以下の癌細胞などが診断できる様になるの
助教授(現西宮市立病院長)、
月とされる進行肝細胞癌の1 年生存率を100% と
かもしれない。科学技術は著しく進化している。
多くの良い研究課題を頂き、大学院を卒業する事と
ゼンテーションが必須である。質疑応答もほぼ問題
なった。公聴会と呼ばれる他講座の教授前でのプレ
スプリングエイトと呼ばれる巨大放射線研究施設が
れまでにない解像度の画像診断ができる。放射線科
病院長)が私を呼んだ。「スプリングエイトで、こ
ると考えた。同時に留学先を模索し始めた。この模
は終わりではなく、私にとっての研究の始まりであ
西日本に存在する。ある日、
なく終了して修了証書を頂いた。しかし、この修了
スプリングエイト
大学院卒業
するこの治療方法を開発したからである。この開発
長)、
る。御指導頂いた、当時の
の治療は大阪大学消化器外科で受ける事が可能であ
癌 学 会 の 論 文 雑 誌 で あ る ClinicalCancerResearch
に掲載された。筆者が記載する2010 年現在、こ
H
K
助教授(現西宮市立
(Spring 8)
の中で進化しているのだ。
に関わる事で得られた研究知識と研究論は、今も私
N
M
S
-26-
S
る。高齢者医療の現場であった。
索する約1 年間、私はこれまでと違う医療業界に入
回診を開始した。褥瘡予防のノウハウ、褥瘡治療の
そして、褥瘡回診と名付け、週に最低1 回の全病棟
ノウハウを多く学ばせて頂いた。1000 人の患者
が入院できる日本最大規模の介護保険適応病院であ
留学を前提とした短期間の勤務のため、医局長のS
と褥瘡」などの論文を発表した。今では常識である、
基づく褥瘡予防への取り組み」、「C型肝炎の高齢者
介護保険適応病院
先生が大阪泉北にある阪大関連のH病院での勤務を
高齢者の低栄養が褥瘡の危険因子である事を日本で
る。この指導から、「エビデンス(科学的根拠)に
勧めてくれた。介護保険適応病院であった。母親の
初めて論文にした人物がM先生であった。
褥瘡学会の理事を務める大物だから、褥瘡を学ぶに
A先生が私に言った。「この病院のM 先生は、日本
どを行っていた。とある時、同フロアの主任である
込型静脈ポートと呼ばれる医療機器の埋込み手術な
む)、また、高カロリー点滴を注入できる、皮下埋
的 胃 瘻 造 設 術( 腹 壁 か ら 胃 内 に 栄 養 輸 送 管 を 埋 込
品、そして、人体の酸化予防を目的とした加水素水
外線放出マット、糖尿病予防のイヌリン含有健康食
どに積極的に参加する事となる。褥瘡予防対策の赤
いから、高齢者を対象範疇とした医療器材の開発な
どの研究に興味が出た。後に起業した私は、この思
者における未病対策や早期のリハビリテーションな
重篤な高齢者の医療を多く行った。その中で、高齢
高齢者医療への思い
経営する病院が療養型病床を有する事などから、抵
抗なく勤務を開始した。私は、この病院で偉大な医
師に出会う事となる。M先生であった。外科専門医
は良い機会だよ」と。日常業務でも褥瘡の予防や治
の開発などである。この詳細は後に記載したいと思
の私は、ヘルニア(脱腸)などの小手術や、内視鏡
療を行っていた私は、早速M 先生に声かけをした。
-27-
う。
留学に向けて
大阪泉北にある
病院に勤務しつつ、アメリカ留学
に向けての準備をしていた。その傍らで、週に1 回
療法が候補として考えられる。今後の臨床試験や新
薬の開発が急務であろう。新薬開発の速度や疾病情
報 ネ ッ ト ワ ー ク の 拡 大 速 度 は 著 し く 速 い。 今 後 も
様々な有益な情報を発信していきたいと思う。
ていた。この間に行った大学関連の研究は、「原発
学助成金に応募した。大阪難病財団の各職員の前で
大阪大学での研究成果を総括し、大阪難病財団の留
助成金
巣不明な胆管内発育型肝細胞癌」の本邦における集
のプレゼンテーションでは好評価を得た。数ヶ月後
は大阪大学に向かい、研究ミーティングにも参加し
計と自らが主治医を行った患者との総括論文の製作
に採択通知が来た。100 万円の個人使用可能な助
成金である。無論、帰国後には研究成果を報告しな
であった。通常、多くの癌は原発巣があり、そこか
ら転移が起こる。大阪大学で経験した症例は、原発
ければならない。心が高鳴った。
癌剤など)が必要であると結論し、日本消化器外科
治癒切除ができたとしても、何らかの補助療法(抗
ルで打診した。ワイス教授は記載していた、「もし、
子遺伝子内科学の主任教授であるワイス先生にメー
留学先を模索していた。ある日、ミシガン大学の分
留学先
巣が不明であり胆管内に肝細胞癌が認められた症例
であった。つまり、肝臓癌であるのに胆管内に癌が
存在するのである。稀な疾患であり、極めて予後不
学会雑誌に啓蒙的論文として報告した。論文には記
ミシガン大学に留学を希望するのであれば喜んで受
良である事が集計から明らかとなった。故に、例え
載していないが、前述したインターフェン併用化学
-28-
H
け 入 れ よ う。 時 期 は 何 時 か ら で も 良 い 」 と。 平 成
類申請が終了した。留学のステップは、医師として、
りビザが獲得できる。各種雑誌を読み、1 月には書
メリカ領事館への書類提出が必要である。これによ
O先生が空港で出迎えてくれた。アナーバー市内の
じ取られた。先に別研究講座に留学していた同期の
であった。道路、湖は凍りつき、息すら凍るのが感
デトロイト空港に到着した。極寒のマイナス25 度
極寒の地ミシガン
そして研究者として必須であろうと感じていた。い
ホテル、ホリデーインに向かった。当日、日本人研
15 年2月に留学すると考えて行動を開始した。ア
よいよ留学である。
究者が歓迎会を開いてくれた。京都大学からのT先
2009 年)において、米国の公立大学としては唯
パスを有する。世界大学ランキング(2008 年・
い」と。同感である。そして、得る物が見えれば帰
究は、ゆっくりでも確実に一歩ずつ前進するのが良
教授のもとに向かった。ワイス教授は言った、「研
いた。
分に必要な何かを得るまでは帰る事は無いと考えて
20
-29-
生、O先生、奈良県立医科大学のO先生、大阪大学
から、以降はほぼ自炊生活となる。早晩にはレンタ
ミシガン大学
ミ シ ガ ン 大 学( UniversityofMichigan
) は、 ア メ
リカ合衆国ミシガン州立の研究機関型総合大学であ
カーを手配し、いよいよ翌日から行動開始である。
のM先生、O先生であった。非常に残念な事である
る。 ア ナ ー バ ー 市 内 に セ ン ト ラ ル、 ノ ー ス、 サ ウ
翌朝8 時に起床した。レンタカーを運転し、ワイス
位内にランクインしている。このミシガ
が、レストランの食事は口に合わなかった。この事
つ の キ ャ ン パ ス お よ び メ デ ィ カ ル・ キ ャ ン
一、上位
国して慣れた日本で研究をしたいと考えていた。
スの
ン大学での滞在期間は決めていなかった。ただ、自
3
新生活
大学へ徒歩5 分のアパートを借りた。極寒故に暖房
代はかからない。施設持ちとなっていた。調理道具
後は日本でやり残した論文製作を行い何も考えない
様にした。
油が凍結するのを初めて見た。約3 日間で生活準備
翌朝、サラダ油が凍結しているのに驚いた。正直、
接間から聞こえる。時に鳴り止むが30 分しても聞
タバタッ」と聞こえる音で目が覚めた。寝室横の応
とある深夜の事である、「バタバタバタッ、バタバ
鳥だ!
を整えた。以降、朝6 時に起床して研究室に向かう
こえてくる。何かおかしいと感じ、怖々と応接間を
や調味料などを購入し、車のトランクに入れていた。
生活が土曜日、日曜日も続く。
覗き込んだ。「鳥だ!」。30cm はあろうかと思わ
れる鳥が室内を飛んでいた。意味が判らなかった。
れた。また、日常的に会話する友人などは日本とは
研究に没頭しようとするが故の自己暗示不足と思わ
らない。しかし、やはり海外は辛かった。恐らく、
ており、何ら医学部生活や研修医生活時代とは変わ
来無くはない。買い物も出来る。給与も充分に頂い
英語は得意な方ではないが、意思疎通させる事は出
えた。その隙間を本で塞いで以降、鳥は現れなくな
3cm X80cm 程の隙間から忍び込んだのだと考
を観察した。結果、玄関ドアの下にある換気用の約
だ!」。今度も追い出した。おかしいと感じ部屋中
タバタバタッ、バタバタバタッ」と聞こえる。「鳥
ろうとぐらいに考えていた。翌日、またしても「バ
気でドアを開けたままにする。この時に入ったのだ
ホームシック
異なり居ない。この点も自身の精神状態を悪化させ
った。寒さ故に、暖気の出る場所に入ってきたので
電気をつけ、ドアから鳥を追い出した。夕食後に換
たのであろう。故に、早晩まで大学で研究し、帰宅
-30-
は生体の機能維持には必須である。現在までに30
引き金となる分子である、と報告している。
m はあろうかと思われる巨大なリスが大量に出没す
種類以上の
あろう。ミシガン大学は田舎である。春には50c
る。また、狸も居た。庭先で鴨が卵を産んでいる事
が 発 見 さ れ て い る が、ワ イ ス教
もあった。田舎故に研究に没頭できるのも事実であ
れる培養細胞株に
を 遺 伝 子 導 入 し、
様々な環境下における形態変化を観察する事であっ
ある遺伝子を欠損させて、その遺伝子の生命体に及
は非常に良心的であり助かった。論文も多く読み、
先生が残した遺
独自のアイデアも加えた。奇しくも当時、帰国後に
東京大学医科学研究所に勤務した
伝子導入用の
ペプチドが、研究室の
電気トラブルから使用できなくなっていた。 研究
( MatrixMetalloproteinase
:マトリックスメタロプ
ロテアーゼ)の大家であり、ノックアウトマウスの
ペプチドを作製し、その
員が新たな
と
評 価 を 行 う 事 も 任 務 で あ っ た。
-
伝 子、 蛋 白 質 な の で あ る。 ワ イ ス 教 授 は、
Y
解析から、様々な研究成果を残している。最近の研
S
作製がある。前述した
- のノックアウトマ
ウスは短命である。それだけ生命の維持に重要な遺
ぼす影響を見る研究として、ノックアウトマウスの
マトリックスメタロプロテアーゼ
った。
の 研 究 に 力 を 入 れ て い た。 私
授は
に最初に課せられた研究課題は、
- と呼ば
M
M
P
C
O
S
1
た。慣れない環境における研究であったが、研究者
M
T
1
M
M
P
M
T
1
M
M
P
S
D
S
P
a
g
e
」誌に掲
究では、 先生が筆頭著者の論文が「
Cell
載 さ れ て い る。 こ の 論 文 で は、
のノ
ックアウトマウスの皮下脂肪細胞数が少ない事か
用していた
ペプチドの遺伝子導入で
は、なぜか1 本のバンドしか検出されなかった。こ
M
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1
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M
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1
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M
P
の疑問は、どの研究者にも解明できていなかった。
M
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1
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P
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1
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P
-31-
M
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1
M M
M M
P P
呼 ば れ る 蛋 白 質 電 気 泳 動 で は、
は三
本 の バ ン ド と し て 検 出 さ れ る。 当 時 の 研 究 室 で 使
M
M
P
C
O
X
2
ら、メタボリックシンドロームなどの治療薬開発の
T
私は、 研究員から
ペプチドの遺伝
子配列(シークェンス)書類を入手し、念入りに解
研 究 員 は5 年 間 も 研 究 室 に 在 籍 し て い
読 し た。 当 然 か も し れ な い が、 不 備 は 見 当 た ら な
か っ た。
る。無論、死ぬ思いで研究をしている。不備が無い
型コラーゲン上で
- 細胞を培
の は 当 然 か と 考 え た。 あ る 日 の 事、 マ ウ ス の 尾 か
ら作製した
-
のバンドを検出する
養した。そして
の遺伝子導入を行っ
た。細胞は、奇妙な糸状となり、その細胞を回収し
た。 そ し て、
る事はなかった。しかし思った。「極めて単純な事
、
-
が解決の糸口になるのだ」、と。
-
-
で あ る が、
(膜型)
先に述べた
には生命維持に重要となる3 種類の
の
が存在していた。私は
の研究と平行
し、
、
の研究を開始
した。ワイス教授からは次の課題として、「ブレイ
ンスライス(マウス脳薄切標本)における
遺伝子導入
- 細胞株の浸潤メカニズ
ムの解析」を頂いた。この課題は、癌の脳転移のメ
が
際に行った、 型コラーゲン上で
細胞株から過剰発現される結果は、上級研究員の研
果を議論した。素直に喜んで頂いた。しかし、この
は、 帰 国 後 に は
事 が 明 ら か と な っ た。 こ の 研 究 成 果 を 踏 ま え た 私
、
の 研 究 で は、 大 阪 大 学 か ら
送られてきた肝細胞癌の細胞株への遺伝子導入か
カ ニ ズ ム を 知 る 上 で 重 要 な 研 究 で あ っ た。
究課題となった。いや、既にワイス教授はこの仮説
先 生 が 主 体 と し て い た 研 究 を、
ら、 肝 細 胞 癌 の 癌 進 展、 転 移 に 重 要 な 因 子 で あ る
M
M
P
-
M
T
-
M
T
1
M
T
2
を
2 次 抗 体 濃 度 を 極 限 ま で 上 げ、
行った。「出た」、と思わず心が高ぶった。そうか、
と1 次 抗 体、2 次 抗 体 の 感 受 性 の バ
ランスでバンドが検出されなかったのだ。なんて単
M
T
「
純な事に皆が悩んでいたのだろう。ワイス教授と結
M
T
1
M
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P
M
T
3
M
M
P
C
O
S
1
を立てており、これ以上、私がこの研究を追いかけ
M
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1
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M
T
3
M
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P
Overexpression of MT3-MMP in hepatocellular
A
I
-32-
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3
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2
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P
S
S
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T
1
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M
P
めて報告した論文となった。さて、ブレインスライ
薬が肝細胞癌の新たな新薬標的になる事を世界で初
て名前を載せて頂いた。M T3 M
─ MP の活性阻害
」と言
carcinomacorrelateswithcapsularinvasion.
う題目でイギリスの論文雑誌に投稿し、共著者とし
るが、やはりアメリカだと感じた。
あったのだと言う。ほぼ大学関係者が多い町ではあ
話をした。驚いた、数年前にその近傍で銃殺事件が
無論、私は無視である。翌日、日本人研究者にこの
「中国人、殺すぞ!」と繰り返し大声で叫んでいた。
たんぽぽ
「ライダー」である。私の事を中国人と思ったのか、
スの研究は、ミシガン大学の脳神経内科学の研究者
に研究のノウハウを教わった。非常に残念ではある
が、少なくとも私が行った研究では、この実験系で
ミシガン大学に留学して初めての春が来た。と言う
は明らかな癌の脳転移の解明に繋がる結果は得られ
なかった。しかし、私の行った研究の技術、また、
よりも、次来る9 月からの冬までは、夏の無い春陽
気が続くらしい。下宿先近傍の公園を散歩している
多種多様な細胞株を用いた研究により、今後日の目
を見る結果が報告されるかもしれない。
と、双頭のタンポポや明らかに花の茎が扁平化した
タンポポが散在しているのに気づいた。研究廃棄物
のレトルト食品や調味料も豊富にあり、非常に重宝
ンナと言う名の中韓国の食品売り場があった。日本
下宿をしていたアパートから徒歩約1 分の場所にマ
自然と明るい中で眠る事にも慣れていた。この頃に
覚ではお昼と同じである。
22時頃から薄暗くなる。
た。6 月には21 時でも日が昇っている。日本の感
や元々の形態としてはあまりにも不自然に感じられ
による過去の土壌汚染の影響なのかと考えた。新種
した。ある日、泥酔した白人がマンナの近くに居た、
は多くの研究室を訪問し、研究成果の論文などを頂
(マンナ)
Manna
何やら酒らしき物を飲み、刺青を入れた、いわゆる
-33-
われた。後に私の研究成果は、VBL主催のベンチ
早く社会に押し出し社会還元するツールになると思
大学の構想はこれに近い物であり、研究成果をいち
よる医療診断ベンチャーの役員も務めていた。大阪
内科学講座の教授を務める傍らで、DN Aチップに
的に展開する部署である。ワイス教授は分子遺伝子
これまでに無い、産学官連携を国内のみならず国際
ラボラトリー:VBL)が発足するとの情報を得た。
イノベーションセンター(ベンチャー・ビジネス・
き夢中に読んだ。丁度この頃、大阪大学に先端科学
肝 細 胞 癌 に お け るM M P 阻 害 薬 の 効 果 は 間 違 い な
用ばかりが強くなるであろう。基礎研究結果から、
からと考えている。量を過剰にすれば生体への副作
口投与された薬剤が癌局所に充分量到達していない
し、芳しい成果は得られなかった。個人的には、経
による人膵臓癌への臨床試験が開始となった。しか
は未だに続いている。近年になり、マリマスタット
候補として考えられていたこれらの薬剤の基礎研究
デルでは、同様の研究成果を得た。当時、夢の薬の
可能なマリマスタットも開発された。癌浸潤実験モ
ど、今後の工夫により日の目を見ると確信している。
い。TAE(肝動脈塞栓術)と併用する治療方法な
以降の医師人生が大きく進化する事となる。
サイトメガロウイルス感染
ャーサポートプログラムで採択される。これにより、
バリマスタット(BB 9
─ 4)とマリマスタット(B
B ─2516)
阻害薬の名称である。膵臓癌細胞株と肝細胞癌細胞
形質転換させ不死化させた細胞)の形態異変に気付
養細胞を使用した研究が多い。ある日、COS 1
細胞(アフリカミドリザルの腎臓細胞をSV40 で
ミシガン大学での研究は基礎研究であった。故に培
株の癌浸潤実験モデルにおいて、有意に癌進展抑制
いた。細胞に小さな黒い斑点が散在しているのであ
─ M P な ど のM M P
バリマスタットとは、M T1 M
効果を示す事を研究成果として得た。人に経口投与
-34-
いる事が明らかとなった。クリーンベンチを清掃し、
た結果、細胞株にサイトメガロウイルスが感染して
O先生に確認すると同様であると言う。皆で調査し
クリーンベンチで培養していると斑点が出現する。
る。新しい細胞株には認められず、しかしながら、
どを注入する留置針に興味を持つ。治療を受ける患
署である。この部署に勤務する事となり、抗癌剤な
抗癌剤療法、免疫療法や分子標的療法などを行う部
院化学療法部の勤務を選択した。先にも述べた様に、
は大学が良かろうと判断し、大阪大学医学部附属病
型肝炎を持ってい
者の数パーセントは
細胞株が病気になるとは」と驚いた。以降、私の研
落ち、蛋白質の発現も不安定になる。「癌を含めた
メガロウイルスに感染すると、遺伝子導入の効率が
験を行い、最終的には既存の製品では不充分と結論
暴露を回避する安全装置付留置針の無作為化比較試
染を引き起こす。そこで、当時開発されていた血液
る。医療従事者に「針刺し」などが起これば2次感
型肝炎や
細胞株に抗生物質などを投薬して治療した。サイト
究人生において、細胞株の治療も時に行っている。
先生からメールが届いた。ミシガ
法部での勤務、大阪府立成人病センター(呼吸器外
た時期でもあった。大阪大学医学部附属病院化学療
日本で行う研究との極端な差異を感じ取れなくなっ
科も行っている。移植患者には肝細胞癌の患者も含
る医療チームであった。癌治療のみならず、移植外
当時、大阪大学消化器外科は肝胆膵外科を主軸とす
生体肝移植
研究人生がスタートする。
りである。この帰国後の大阪大学勤務から、新たな
した。そして、新規研究に至るのは先に記載した通
医局長を務める
医局長からのメール
この事実を知らない研究者は意外に多いのだ。
B
まれ、移植後に抗癌剤療法を受ける患者も居る。私
-35-
C
科)での勤務を候補として頂いた。研究に携わるに
ン大学での研究は実り多い物であるが、実質的には
D
は歩き、飲水し、新聞を読む患者が居た。僅か1 週
って読んでみれば?」と言う。そして、手術翌日に
を持って現れ、患者に「今日の記事は面白いから座
生の対応に驚いた、肝移植後の翌朝、ICU に新聞
ドナー(肝臓提供者)の主治医となった私は、K先
クが伴う。後にレシピエント(移植患者)、そして
米で主流の脳死肝移植とは異なり、健常者へのリス
親族の肝臓を切除して患者の肝臓と入れ替える。欧
ームで移植手術を行った。生体肝移植では、健常な
大学と大阪大学を兼務していたK先生を含む医療チ
器移植における世界の権威である。当時、マイアミ
た。現在、コロンビア大学外科の教授を務め、多臓
化器外科の先輩医師に、マイアミ大学のK先生が居
目指したのだと思う。この後、私は後期研修から市
る会合から、恐らくは自分のスキームによる起業を
して後に産学連携本部の准教授となるS氏との重ね
企業が実績を上げていた。多くの会合に参加し、そ
サインポスト、アイキャットなど多くのベンチャー
きな話題となっていた。また、総合医科学研究所や
う大学発ベンチャーが取り上げられ、社会的にも大
リーした。当時、大阪大学ではアンジェスMGと言
ー主催 ベンチャーサポートプログラム」であった。
早速開催事務所に連絡し、先に述べた演題をエント
ついた。「大阪大学先端科学イノベーションセンタ
が続いた。ある日、図書館でとあるポスターが目に
御外科(現:消化器外科)の研究者を兼任する日々
大阪大学医学部附属病院の外来化学療法部と病態制
先行き
間程度での退院であった。後に「神の手」としてメ
立堺病院に勤務する事となり、一旦は肝胆膵外科医
がシニアと呼ばれるスタッフとして勤務していた
ディアに取り上げられるK先生の手術を見る機会は
に帰る。しかし、「自分のスキームによる起業」を
頃、大阪大学で初めての生体肝移植が行われた。消
もう無いであろう。
医局長、
教授には本当に感謝している。
構築させた私は、2年後に帰学する。受け入れて頂
いた
D
M
-36-
後期研修
よる起業」で必要となる医師としての信頼、そして
医局長
とは2年間の勤務で一応のお願いをした。この2年
人間関係のネットワークに重要と考えた。
大阪大学消化器外科の大学院生歓迎会と研究生歓迎
間に自分のスキームを完全な形にしたいと考えたの
会が開催された。当日、
である。
から市立豊中病院(大阪大学医学部附属病院を押さ
院に勤務する事となった。私の代わりに市立堺病院
よる人事の調整が続いていた。最終的には市立堺病
病院は前期研修でも勤務していた。医局長と教授に
外科では5 本の指に入る機関病院である。関西労災
術が医療機器の進歩、医師の経験から試行されつつ
近年になり、急性胆嚢炎に対する腹腔鏡下胆嚢摘出
が落ち着いてから手術する事がルーチンであった。
れる急性胆嚢炎症例では、これまでは入院し、病状
紹介受診となる患者である。急性腹症で緊急搬送さ
胆石手術患者の多くは、健診などで胆石が指摘され
急性胆嚢炎の腹腔鏡下胆嚢摘出術
え、豊能地区のがん拠点病院として認可された総合
ある状況であった。合併症が多く、否定的な意見も
となる。現場医療で6 年近いブランクからの不安は
トであった。無論、後を継ぐ私はその役目も担う事
あり、院内感染対策や術後感染対策のスペシャリス
(インフェクション・コントロール・ドクター)で
生剤などの初期治療に抵抗性の症例、が手術適応患
前検査で同定できる、③発症から12時間以内で抗
総括から、①総胆管結石を有さない、②胆嚢管が術
ある中で、多くの症例を手術した。私の臨床試験の
病院)に勤務する
先生は、日本でも有数のICD
するかもしれない」と。両病院共に大阪大学消化器
る。関西労災病院か市立堺病院で後期研修をお願い
した。「関連病院で肝胆膵外科の医師が不足してい
いた。会も後半にさしかかると、
医局長が切り出
医局長が私の隣に座って
D
者と結論した。後に厚生労働省から発刊されるガイ
-37-
D
D
無く、ここでの実績は、今後の「自分のスキームに
S
ての終点を感じさせたのは事実である。
が終了できた。この達成感がさらに臨床外科医とし
全て私が主治医である。軽症例では約30 分で手術
約200 件の腹腔鏡下胆嚢摘出術を試行した。無論、
判断は妥当であろうと自信をつけた。この2年間で、
ドラインは酷似した内容となっており、自身の臨床
も現れ、少しでも外科医としての喜びを覚えて頂け
がけた。皆が嫌がる緊急手術を楽しみにする研修医
限り研修医の執刀を指導する方向で教育する事を心
時を振り返り、危険が無い観察を行いつつ、可能な
自慢話を少し羨ましく思ったものである。故に、当
ていた。無論、指導医の監視下であるが、同級生の
研修医の指導
女性の腹膜炎
破裂、胆嚢破裂など希な症例も経験した。
る緊急手術は年間に80 件を超えていた。研修医時
私は、その他の緊急手術もこなした。昼夜問わず入
も行っていた。市立堺病院で最年少の医長となった
胆石症や胆嚢ポリープに対する腹腔鏡下胆嚢摘出術
肝細胞癌や大腸癌の肝転移、無論、良性疾患である
いだした、2 年目にはこの鑑別診断も容易にでき、
ジア感染症(性行為感染症)が圧倒的に多い事を見
球が2万や3 万を超える急激な腹膜炎では、クラミ
院での2年間の経験から、女性の急性腹膜炎で白血
穿孔、小腸穿孔、大腸穿孔などがあった。市立堺病
緊急手術では圧倒的に腹膜炎が多く、虫垂穿孔、胃
ルの夜間緊急手術には100% 参加した。この時期
-38-
た事を嬉しく思う。この様な中、胆嚢軸捻転、食道
市立堺病院で医長になった私は、肝胆膵外科の専門
代、外科医に成りたての私は、正直手術を執刀した
婦人科の先生も驚く程であった。2年間、オンコー
医として日々の手術を行っていた。膵臓癌、胆嚢癌、
年目で
手術の執刀は無いのであるが、当時の国立大阪病院
の外科医としての思い出は一生忘れる事はない。
くてしかたなかった。大阪大学では研修医
では1 年目の研修医が胃癌や大腸癌の手術を執刀し
1
りする事であった。PTCD造影やPTGBD造影
プの無い患者が胆嚢炎になる。この原因をデータ取
る。ある日、研究課題を頂いた。胆石や胆嚢ポリー
関西労災病院時代に指導を受けたU 先生の影響によ
私が肝胆膵外科医を目指す事となったきっかけは、
無石胆嚢炎の診断と治療
など)を構築する業務である。ICT(インフェク
療する戦略(感染細菌の早期同定や抗生物質の選択
併症を予防したり、感染症を発症した際に早期に治
(管理)を意味する。即ち、手術に纏わる感染系合
フェクション(手術部位感染症)のサーベイランス
SSIサーベイランスは、サージカルサイト・イン
SSIサーベイランス
と入れ替わりとなったS先生は、無論ICTに所属
の所見から、U 先生が仮説を立てていた、膵胆管合
診断に合わせた手術が必要となる。この研究結果は、
ていた。アメリカのCDCから発表される、新たな
ション・コントロール・チーム:感染制御チーム)
私 が 日 本 消 化 器 関 連 学 会 週 間( DDW-Japan
)のワ
ークショップで発表する事となった。学会として明
感染症における解析結果はこれまでの常識を覆す内
流異常症(膵管と胆管の合流形態が異常を示す疾患)
確なデータを示したのは世界でも初めてである。こ
容が多い。例えば、手術後の創部処置には有名なイ
と呼ばれるグループが統括しており、市立堺病院で
の様な良い指導を受けた私は、後に研修医や大学院
ソジン消毒液は使用せず、生理食塩水で流すのが良
が有意に多い事が明らかとなった。膵胆管合流異常
生の研究指導、学会発表や論文作成にも積極的に取
い。また、手術時における医師の手洗いでは、イソ
は総合内科のF先生が代表を務めていた。私の勤務
り組んだ。人生、運命的な出会いやきっかけは往々
ジン消毒液、滅菌水とブラシを使用する必要はなく、
症では、後に胆嚢癌や胆管癌を発症する為に、その
にして存在するのかもしれない。チャンスを掴む事
イソジン消毒液の水道水による揉み洗いでよい、ま
しており、大阪大学の感染制御の分科会でも活躍し
は医師としても重要に思う。
-39-
まず、自らの課題を考えた。肝胆膵外科医である私
で良い、などである。ICT の所属となった私は、
る。
還元的医療に貢献できたのではないかと考えてい
」として発表した。以降、
る TranslationalResearch
諸先生方からも同様の報告が相次ぎ、恐らくは社会
た、手術室では滅菌スリッパを履く必要はなく土足
は、肝臓癌の手術後の厳密な血糖コントロールが感
の成果を近畿肝癌談話会と呼ばれる研究会で発表し
り、厳密な術後血糖値管理は感染症を激減させ、こ
も 術 後 に 分 泌 さ れ る と 報 告 さ れ て い た。 仮 説 の 通
り創傷治癒遅延に関与する様々なサイトカインなど
100 症例弱の緊急手術にはほぼ参加し、また緊張
にも述べた様に、医局長として最年少の私は、年間
弱の膵頭十二指腸切除術、肝切除術をこなした。先
務した。年間100 症例弱の胆嚢摘出術、30 症例
市立堺病院では、肝胆膵領域の外科専門医として勤
医師不足
染症の予防や創傷治癒に重要ではないかと考えた。
実際、私の基礎研究から手術後の患者の血清で培養
た。これまで大御所の諸先生の経験値から何となく
感に包まれていた。この中で、5 歳前後の子供の腹
した血管内皮細胞や上皮細胞は成長が悪く、過去よ
当然と考えられていた経験医療を明確なデータとし
大きな研究の手がかりとなる内容と思われた。後に
い。小さな研究会での報告ではあるが、世界的には
糖の誘発には最大限の配慮を行わなければならな
dl以下にコントロールする事が肝要であり、低血
も限られた範囲となった。理由は小児科医不足との
立堺病院では、小児科の外来が閉鎖され、入院病床
も対応がしやすい事実があった。この様な中で、市
素直であり、回復も早い。意外に大人の腹膜炎より
炎の穿孔による腹膜炎である。病気の子供は意外に
膜炎を手がける事も多かった。ほぼ100% が虫垂
第2報の大規模臨床試験として、第7 回SSIサー
事であった。地域貢献を歌う院長としては痛手であ
て提示できた。肝臓癌の術後血糖値は120mg
ベイランス研究会で「SSIサーベイランスにおけ
-40-
/
のを覚えている。情報社会となり、患者家族には真
から手がけていた私は、少し残念な気持ちになった
ったろう。また、幼児、学童時の手術を研修医時代
のも、医療社会の歪みからかもしれない・・・。
くであろう。そう、私の様な邪道な医師が生まれた
域の医師数のみが増える。果てしない医療不況は続
偽を問わない医療情報が流れる。この様な中、アメ
リカ流の医療訴訟が後を絶たない。外科、産婦人科、
な中、比較的低賃金で勤務する前線医療機関の医師
を無くせるのか?。答えは無理なのである。この様
はできないのである。正しい治療を行う事で合併症
合併症は皆無とはできない。故に医療訴訟は皆無と
概念は医師数で解決する問題ではない。医療に伴う
は成功して当然」という基礎概念が存在する。この
は困難である。また、医療訴訟の根本には、「治療
あろう。環境整備がよほど整わなければ勤務の継続
卒業者の3 割以上が女性である。無論結婚や育児も
抜本的な解決になるかは疑問と考えている。医学部
すべく、医学部の定員数が増やされている。しかし、
移と扱われていた。結論から言えば、当時の医学で
否かである。大動脈周囲リンパ節への転移は遠隔転
パ節に転移が疑われる場合に積極的な手術をするか
査で腹部CTスキャンを撮像する。大動脈周囲リン
代、例えばこの様な感じである。胃癌患者の術前検
おいても根拠が何であるかにこだわった。研修医時
エビデンス:科学的根拠)の勉強に夢中
Medicine:
になっていた。故に、上司医師の提言や手術術式に
に 没 頭 し た。 当 時 の 私 は E B M(
収 入 を 度 外 視 し た 研 修、 研 究 会 や 医 学 会 へ の 参 加
道へと進んだ。研修医時代には医業の面白さから、
前 述 の 如 く、 両 親 を 見 て 育 っ た 私 は 自 然 と 医 学 の
ある外科医の思考
は絶えず不足するであろう。相対的な医師不足であ
は明確な方向性は無かった。いや、開腹し大動脈周
小児科では医療訴訟が多い。現在、医師不足を解決
る。医師数が増えても、前線医療機関の医師が不足
囲リンパ節への転移を迅速病理検査し、陽性であれ
EvidenceBased
すれば意味がないのだ。その結果、開業等をした地
-41-
融合した癌専門医も存在しなかった。私が求めてい
軸であるが、当時は外科医、内科医、放射線科医が
い時代であった。現在でこそ、この集学的医療が主
理解されていたが、まだまだ明確な結論が出ていな
(手術、放射線、化学療法などを組み合わせる)は
の判断(NBM :NarrativeBasedMedicine:
ナラテ ブ:
経験医療)が大きく関与した。当時から集学的医療
法(抗がん剤)を先行する場合などもあった。医師
はあった。また、徹底的に手術を行う場合、化学療
ば非手術、陰性であれば手術とする常套的な方向性
日本外科学会の専門医を返上した。自分の生きたい
生活ができればそれで良かろうと思う。
2010 年、
を得る為だけに仕事をする訳でもない。日々自由に
たる研究者になろうとする欲望はない。大きなお金
えている。故に究めて我がままである。世界に名だ
恐らくは勝手気ままな研究者の典型ではないかと考
れるに至った。私の思考は何かと考える事がある。
部から「株式会社エバンス」の業務実績報告書が提
となった。文部科学省には、大阪大学の産学連携本
が立ち上がり、初期からこの部署の関係者と歩む事
ように生きたいと思う。医師を続けると決めた訳で
出され、大阪大学発バイオベンチャーとして認知さ
た指導、そして上司に期待したものは、自分たちで
EBMを創る努力、即ち先々に患者還元となる治験
もない。これもまた私の「ある外科医の思考」なのだ。
産学官連携を一技とする
や臨床試験を行う事であった。極めて多忙な野戦病
院勤務の中では到底できる業務ではなかったのであ
ろう。日本全国の過酷な医療環境に幻滅する一方で、
する事が「産学連携」を意味する。大阪大学に先端
ならず、工学や化学分野の研究者と共同研究、開発
った。日本には様々な研究家が存在する、医療のみ
成20 年にはエバンス研究所を設立し、大阪大学関
は患者還元がなければ意味がないと考えていた。平
官となった。ミシガン大学留学時代から研究の成果
大阪大学先端科学イノベーションセンターの兼任教
自分に決定権のある空間が必要と強く感じる様にな
科学イノベーションセンター(後の産学連携本部)
-42-
ィ
院時代には上司の指導から取得していた。受託試験
得できるIDではないが、幸いにして大阪大学大学
研究者IDを取得しなければならない。誰しもが取
共通研究開発管理システム(e r
─ a d)に登録し、
性の高い研究を行う事を意味する。研究者は、府省
地域産業、大学、官(政府)とが連携して社会還元
た名称である。また、産学官連携とは文字の如く、
(科学的
EvidenceBasedMedicalResearchCenter
根拠基盤医薬研究所)のEBMRCEをゴロ読みし
連 の 同 志 と 受 託 研 究 に 取 り 組 ん だ。 エ バ ン ス と は
諸先生方には感謝の念が絶えない。
連携を一技としているからと結論している。周囲の
師を続け、研究者を続ける事ができるのも、産学官
多くの案件を抱え、日々頭脳展開している。今、医
で最高と考える仕事を完遂したいと考えている。今、
夢太である。今後も広がるであろう人間関係で人生
この話を聞き、素晴らしいと感銘した。私は夢見る
る。この実績を評価し、さらに研究をさせてくれ」と。
た白黒の液晶をカラーテレビにしたのは我々であ
カラーテレビを開発させたのも産学官連携の実績で
水素を紐解く
る産学官連携には夢の様な研究課題が多く、そして
き着いた場所なのかもしれない。日本の過去におけ
きなものである。恐らくは、医師、研究者人生で行
が行う受託試験は後者であり、やり甲斐は非常に大
に及ぼす研究を治験として実施した。時期を同じく
いた。エバンス研究所としては、水素含有水が生態
ォーターワールドを製作したH社も着目し研究して
ていた。大阪のユニバーサルスタジオジャパンのウ
平成17 年頃より水素含有水が注目される様になっ
-43-
ある。この研究者達は言ったと聞く「誰しもが笑っ
には治験が含まれる。治験は治療経験と治療実験に
大別される。治療経験は医師や鍼灸師などが自主的
に行う研究である一方、治療実験とされる治験では、
多くの社会還元事業を生んだ。30 年以上も前に電
して、日本大学のグループが、水素が生態における
有償となり製薬会社などが背景に入る事が多い。私
卓の画面に映し出された白黒の液晶パネルから液晶
子が如何なるメカニズムで生態への好影響を来すか
態)を形成して安定型として存在する、この水素分
素は多角面体(サッカーボールに角を付けた様な形
くして、生態における抗酸化効果が確認できた。水
を naturemedicine
と言う有名雑誌に論文掲載した。
この研究では細胞実験であったが、ほぼ時期を同じ
ヒドロキシラジカルを除去する抗酸化物質である事
大阪大学で会議がある。大阪大学のシンボルは銀杏
本来の自分へと戻っているのであろうか。今月末に
り、幼少期の思考と今とが重なる事が多いと感じる。
葉を押し花にしていたのを思い出した。40 歳とな
る自分がいる。幼少の頃、落ち葉拾いをし、銀杏の
間に余裕ができ、ふと山を見ると紅葉に季節を感じ
臨床研究に没頭した。紅葉は、「ただの枯れ葉」で
あり、風情など感じた事がなかった。最近、少し時
についての明確な結論は出ていない。私がこの文面
である。銀杏の葉を押し花にしてみようと思う。
父のカレラ
私から見て明らかに消費者を騙していると思われる
には大きなガレージを造り、真っ白いポルシェカレ
亡き父は車が大好きであった。私が小学校に入る頃
-44-
を記載する平成22年にはすっかりと水素水ブーム
は過ぎ去って行った。この研究期間中、多くの企業
が水素水の開発に取り組み、ブームをつくった。現
商品も散在した。日本の商業の体質は歪んでおり、
ラとコルベットを並べていた。今で言う「ガレージ
在でも水素分子の研究を継続しているのだが、当時、
流行のみに依存した社会の金融流通が起これば日本
ライフ」を最先端で満喫していたのであろう。父は
中国自動車道を走るスピードに感動したのを覚えて
た。今年になり、父が乗っていた型と同じ「カエル
紅葉
24 歳で医師になり、初期の10 年間は一般臨床、
いる。70 年代は空前のスーパーカーブームであっ
運転席で私を膝上に乗せポルシェを走らせていた。
もヤバイのかな、としみじみと思う。 テイタスなのである。いや、自然と同じ様になって
が、両親の生き方をまねる事は私にとって一つのス
にはガレージも造る予定である。以前にも記載した
顔」の赤いポルシェカレラ911 を購入した。近々
づく彼の選んだ道が良い意味で合っていると感じ
話していた。数時間程とめどなく話し込んだ。つく
私自身が医学部に在学し、将来は外科医になる事も
驚いたが、楽しく過去の思い出話をしていた。無論、
戸の広域指定暴力団の一員となっていた。正直少し
めざすんや?」、「
君は先、どうすんの?」と。ふ
た。ふとお互いに聞きあった。「医者になって何を
いると言うのが正しいのかもしれない。
約束
と約束した。「互いが、それぞれの選んだ道で頂点
を目指そうや。そして、その夢がかなったら再会し
ようや」と。道の異なる
君がいた。よく遊んだ。学校
は、神戸市北区の田舎にある小学校で、各学年が約
しかし善し悪しを問わず、神戸のアウトロー談議が
小学校時代の友人に
30 人の1 クラス、全校生徒が200 人弱の小さな
インターネット上の「2チャンネル」で書き込まれ
君の現況は不明である。
小学校であった。小学校を卒業し、進路が別々とな
ると、彼の活躍ぶりが伺える。ふと見たインターネ
のリーダーとなっていた。彼自身、医師の息子であ
発明
ットの書き込みで思い出す事も多い・・・。
M
長野県にとある企業が存在する。キク科の菊芋を健
M
社長が仕切っている。有効
の暮らしを流れるままに過ごしているかの様に見受
君は、神
康食材として発売する
で再会した。腕っ節が強く、人望の厚い
けられた。それから約4~5 年後に小学校の同窓会
いかと述べていた。当時の彼は仕事を持たず、日々
る私が、
君自身と付き合うのは良くないのではな
なヤンチャ坊主になっており。いわゆる地域の不良
った後、17 歳頃に
君と再開した。地域でも有名
M
M
M
成分であるイヌリンは、血糖値の上昇を抑制し、脂
N
-45-
M
社長が火付け
勢いは止まらない。平成22年現在で、各地域で菊
軽快させる。年商数億円の中小企業であるが、その
肪代謝を改善する事で血中のコレステロール値をも
ブンと鳴らして威嚇した。ふと、木の棒を持った弟
石にへばり付いた兵隊蜂がこちらを向き、羽をブン
(バチ)」の巣ががあった。2~3m 程まで近づくと、
と、2 0c m は あ ろ う か と 思 わ れ る「 ア シ ナ ガ 蜂
(C6H12O6の
)n 構造を持つ多糖体である。腸管内で単
糖体に変化せず、血糖値の過剰上昇を阻害する。最
金 を 受 け て 研 究 さ れ る ま で に な っ た。 イ ヌ リ ン は
入っている。京都大学では、科学技術庁からの助成
役となった。現在私は、医学的観点からこの検証に
たかっただけの一言である。そして弟に、「仕返し
おり、私の木の棒で追い払った。何となく言って見
いった。案の定4~5 カ所程刺されて泣き続けて戻
泣きながら木の棒を振り回して蜂の巣へと向かって
に、「戦ってこんかい!」と言うと。鼻水を垂らし、
芋ブームがにわかに起こっており、
近になり、ソ連における発売認可が下りたと聞いた。
してやるから!」と言い、家から殺虫剤スプレーを
くよく考えて、ホースで水を飛ばし、その流水に殺
シナガ蜂にはとても近づける状況ではなかった。よ
持って来た。一度弟が近づいており、殺気立ったア
ってきた。弟の背中には数匹のアシナガ蜂が着いて
小さな研究かもしれないが、コツコツとした活動が
社会還元事業に繋がると考える。
蜂の巣退治
る時乳母が、「がれき近くで洗濯物を干していたら
庫の工事、そして病院増設工事が行われていた。あ
幼稚園から小学校低学年の頃、実家の新築工事や車
還元活動であったと思う。2年程前に、実家が引越
と呼んだこの行為は続いた。私が初めて行った社会
する事となる。以降、兄弟3 人による「蜂の巣退治」
のアシナガ蜂が死に、最終的に大きな蜂の巣は落城
虫剤スプレーをふりかけた。10 分もすると、多く
蜂に刺された」と家に飛び込んで来た。弟と二人で
しをした。冬に何気なく実家横のプレハブの階段下
-46-
N
飛び出し、山積みの大きながれき石周辺を探索する
の巣で繁殖すると最大でどのくらいの大きさになる
越冬するのか・・・」と驚く一方で、来年もこの蜂
ナガ蜂が巣裏にとまり冬眠していた。「こうやって
見つけた。ほうきの裏で巣を落とすと、数匹のアシ
を見てみると、10cm を超えるアシナガ蜂の巣を
り、時には空気銃で撃った。逃げるがすぐに捕まり、
っこをかけたサッポロポテトをツマミとして出した
じい退治」が開始となる。昼酒を飲む祖父に、おし
思い込んでいた。そして、やんちゃ兄弟による「じ
そこを住み家としていた。子供心に昼酒は悪い事と
に、祖父は有床診療所2 階の1 つの病室を占拠し、
んな事を繰り返していた。祖父の部屋に行くと古銭
尻叩きの刑や押入の刑で数時間閉じ込められた。こ
のだろうかと好奇心が沸いた。
じじい退治
つも見せてもらっていた。当時分けてもらった古銭
が沢山あった、小判から記念コインまで沢山ありい
養子を長男に持つ4人兄弟であった。長男の実家に
は今も保管している。また、次世代に引き次いで行
ければ良いと思う。
は私の祖父が住んでいた。金沢藩直属の医師家系で
あり、朝には乾布摩擦と木刀の素振りを行う豪快な
平成6 年に大阪大学医学部第二外科に入局し、大学
祖父であった。第二次世界大戦中には「戦艦大和」
教育にも厳しく、長男のおもちゃやギターなど、不
院まで同期であった友人と数年ぶりに再会した。大
親友
要な物は勝手に捨ててしまう人物であった。そして、
学院卒業後、彼は海外に出た。アメリカ医師免許を
に乗り、出航直前の空襲を予測して大和から海に飛
私が物心つく頃には、昼間からウイスキーを飲む診
持つ彼は肝移植を行う為にスウェーデンのカロリン
び込んで逃げた「感」の鋭い人物でもある。非常に
療を行わない不良医師となっていた。医師である祖
スカ大学に所属している。ノーベル賞を受賞した大
母は昼酒を嫌い、しょっちゅう喧嘩をしていた。故
-47-
生は現在コロンビア大学の教授である。人生1 度っ
が超えたいが超える事ができない人物と言う。K先
いた頃の上司に、神の手で有名なK先生がいた。彼
く。彼がマイアミ大学で移植外科医として勤務して
るとの事であった。彼の目標は「教授」であると聞
人として初めてスウェーデンの外科専門医を取得す
学であり、研究好きの彼にはぴったりである。日本
界である事実を痛感している。
らない。その一方で、周囲の後押しが最も重要な世
敗者復活戦の無い厳しい世界を生き抜かなければな
医時代や大学院研究時代を思い出す事にしている。
超えられるのだろうか。ふと眼を閉じ、厳しい研修
じる。時代が異なるとは言え、私は両親や祖父母を
企業がひしめく中、自分を信じて進むしかないと感
きりである、自分勝手な私にとって、医局人事を離
れてしたい事をしている彼の気持ちは理解できるの
だ。今後の彼の活躍に期待したいと思う。
大阪大学
:アルキレーショ
ABHファミリー (AlkB homolog
ン・バインディング・ホモログ・ファミリー )
遺伝子を転写する細胞分裂に必要なRN Aは、一度
傷がつく 損
( 傷する と
) 、回復しないと言うセント
治験などから一般臨床までを行っている。多くの企
が損傷したRNAを修復すると言う内容である。あ
誌に
大 学 薬 学 科 の 先 生 の 研 究 成 果 と し て nature
取り上げられた。ABHファミリーと呼ばれる分子
ラルドグマ 生
( 物学的基本原理 が
) 存 在 し て い た。
このセントラルドグマを改変させる大発見が、大阪
業や研究者とのネットワークができた。来年度、業
る日、この研究成果を大阪大学消化器外科との共同
関連製品の成分解析、健康食品や特定保健用食品の
績が認められ大阪大学先端科学イノベーションセン
研究とすべく、大阪大学消化器外科の教授のもとへ
T
-48-
ター内に事務所を置く事ができる。様々な研究者や
動を続けている。医療機器の開発や臨床試験、美容
現在私は、阪大発バイオベンチャーの代表として活
と出向いた。大阪大学消化器外科は2人教授体制で
ある。各教授へのプレゼンは好評であり、平成22
年11 月20 日には大阪大学消化器外科医局員への
セミナーとしてプレゼンを行った。そして共同研究
型肝炎問題が話題となって久しい。本邦にお
PA28γ
プロ
(proteasome activator 28 gamma:
テアソーム・アクチベーター・28・ガンマ )
薬害
ける
型肝炎ウイルスの感染患者は200 万人以上
握 で き て い な い 現 状 が あ る。
と考えられている。市町村検診においても詳細が把
ん 予
) 防薬や抗癌 が
(ん 剤
) になるか否かは未知の
領域である。今後、私も介入し創薬スクリーニング
と、慢性肝炎、肝硬変の経過をたどり、年率5 ~7
が開始となった。損傷したRN Aの修復が発癌 が
(
機器を使用したABHファミリーを標的とした創薬
% で肝細胞癌を発症する。そして、肝細胞癌と診断
型肝炎に羅漢する
事 業 が 展 開 さ れ る で あ ろ う。 大 阪 大 学 消 化 器 外 科
さ れ た 患 者 の5 年 生 存 率 は2 5 % 以 下 で あ る。 即
ち、100 人の肝細胞癌患者で5 年間生存できる患
者は25 人以下と言う事になる。現在、インターフ
能性があるか否か が
) 解析される。大阪大学薬学科
では、前述の病態においてRN Aが実際に損傷して
の「うつ病」が重篤化するケースもあり、高齢者に
が、 奏 効 率 は 充 分 で は な い。 ま た、 副 作 用 と し て
ェロン療法やリバビリン療法などが行われている
いるか否かが解析される。研究は日進月歩である。
教授と
型
准教授(現山梨大学
教授)によるマウスの研究から、PA28γ が
大学微生物研究所の
大学産学連携本部から共同研究の依頼が来た。大阪
おける治療が見合される場合も多い。ある時、大阪
バンスの企業理念は、パラダイムシフト 時
( 代の流
れ を
) 創る事であるとホームページでも明記してい
る。知力の続く限り挑戦できればと思う。
今の常識は先には通用しない事も多い。株式会社エ
では、患者から切除された進行癌 が
( ん 、)早期癌 (
がん や
) 前癌 が
(ん 病
) 変 に お け る AB H フ ァ ミ リ
ーの発現動態 A
( BH ファミリーが機能している可
C
M
肝炎の発癌機構に重要な役割を果たす事、PA28
C
M
-49-
C C
γ のノックアウトマウスにおいてマウス生命への影
高齢者医療
平 成1 6 年 頃 か ら 高 齢 者 医 療 が 今 後 の 医 療 情 勢 に
響が認められない事から、PA28γ の阻害薬が
型肝炎の有力な治療薬候補である事が公表されたと
大きな影響を与えるだろうと考え研究を開始した。
出した。ヒト肝細胞癌の切除標本におけるPA28
打診し、医学部の倫理委員会に臨床研究の書類を提
急医療の現場や野戦病院の現場とは異なり、高齢者
症候性の「癌」が認められる事を明らかとした。救
果、予後調査から、65 歳以上高齢者の約5% に無
2000 人を超える高齢者施設や個宅の患者検査結
γ の発現意義を研究し、またPA28γ の阻害薬を
医療の現場では緩やかな経過観察が取られる事も多
教授に
模索する研究である。ヒト切除標本における検討か
い。今回の研究結果は、高齢者やその家族における
ら、PA28γ が
は進行中である。今後さらに特異性の高いPA28
助成金対象研究として表彰された。現在もこの研究
ンターの研究成果報告会で公表し、大阪対癌協会の
この研究成果は大阪大学先端科学イノベーションセ
ス ク テ ラ リ ア・ バ ル バ ー タ )」
(scutellariabarbata:
が、P A28γ の阻害薬候補である事を見出した。
き出せる研究成果は重要と考えている。
ならない。個々それぞれの高齢者の意向を充分に引
の判断により患者の検査、治療機会が損なわれては
族が選択するものである。決して医師、医療従事者
る事は不条理である。医療指針は患者自身、患者家
であるからと言う理由だけで緩やかな経過観察を取
癌検診希望を募るツールになると思われた。高齢者
型肝炎から肝細胞癌が発癌する
制御外科学(現大阪大学消化器外科学)の
伝えられた。平成19 年当時、大阪大学大学院病態
C
γ の阻害薬が「夢の新薬」になると確信している。
-50-
M
重 要 な 分 子 で あ る 事、 そ し て 生 薬 で あ る「 半 枝 連
C
魚ではなくなっているのであろうか。ふと、昔の様
がドンコは見つけていない。昔と違い、覗けば居る
とされている。ここ十数年、小川を覗く機会も多い
である。日本産ハゼ類としては珍しい純淡水生の魚
ンコ(鈍甲・貪子)の学名は、 odontobutisobscura
であり、スズキ目ドンコ科に分類されるハゼの一種
釣りにより大きなドンコが釣れる事を発見した。ド
の有野川に釣りに出かけ、シマミミズによる底引き
を覚えている。小学校高学年時代には、神戸市北区
時代の大半の春から夏にかけてドンコ取りをした事
ドンコを捕まえる事は自慢のネタであった。小学校
ガニやドンコが居た。特に10cm を超える大きな
時期になると堰き止められた小川に、ドジョウ、沢
幼少時の実家周辺には沢山の小川があった。田植え
ドンコ取り
のであろう。世紀的な発見と胸をワクワクさせた事
在する事を学んだ。あのドジョウはアルビノだった
は色素を持たない「アルビノ」と呼ばれる個体が存
数年後、高校生になり生物を先行していた。生物に
見できなかった。両親に話をしたが鼻で笑われた。
1 時間以上も探したが、オレンジ色のドジョウは発
だ。胸が高 まり、「よっしゃ!」と声をか け網を引
の大きさであろうか。慎重に、慎重に網で追い込ん
オレンジ色のドジョウを見つけた。約5 ~6cm 程
とある日、いつもの様にドジョウ取りをしていると、
れにより、ドジョウ、ドンコやメダカなどが取れた。
を四角く変形させて仕込み、上流から追い込む。こ
小魚取りをしていた。小さな小川であり、下流に網
小学校2年生の頃、家周辺の幅30cm 程の小川で
オレンジ色のドジョウ
きあげた。残念ながら「スカ」であった。その後、
に飼ってみたいと思う。
を思い出す。あの時、あのドジョウを捕まえていれ
ば、ちょっとしたヒーローだったのかもしれない。
-51-
西田のお婆ちゃん
が小学校に入る頃には体調不良から離職する事にな
食べる。餅つきが終わり、先生が私に3 個のきなこ
付き添いの家族と子供で交代で餅をつき最後に皆で
こんなエピソードをよく思い出す。餅つき大会では、
いた。年少組の時、初めての餅つき大会があった。
なり集団登園や送り迎えは少なく、徒歩で通園して
徒歩15 分程度の幼稚園に通園していた。最近と異
今になって、「気遣い」を自然と使い分ける自分が
社会に出て多くの人と出会い「気遣い」を考える。
「気遣い」を使い分けていたのではないだろうかと。
いたのだろうかと考える。子供ながらに、人を見て
ろに座っていたのが両親であればどの様に対応して
熱くなった事も多い。そして最近になると、もし後
て直ぐの頃までは、「気遣いの無さ」を考えて胸が
る。その数年後には老衰で亡くなった。医師になっ
餅を入れてくれた。餅が大好物だった私は、口一杯
いるのだと確信する。人の感性は成長を続ける。自
を考えるのだ。最近になり、実家横にあった西田の
にほおばって食べていた。最後の1 個を食べようか
た。「お婆ちゃんにも1 個あげたら」と。多忙な両
お婆ちゃんの住んでいた寮が取り壊された。6 ~8
分の悪い習性が見える様になり、緩やかに方向転換
親に代わり乳母が出席していた。乳母は椅子に座っ
畳一間に何年となく住み込んでいた。「気遣い」は
と 思 っ た 時、 隣 の 友 達 の お 母 さ ん が 私 に 声 を か け
た膝に配給された紙皿と割り箸をのせていたが、「も
難しい。
ここ数年、健康食品案件の臨床試験を行う事が多い。
医食同源
っちゃん、食べえな」と言ってくれた。「いいの?」
と言ったが、ありがたいと思い食べつくした。餅つ
き大会が終了し帰宅した。乳母として勤務していた
取る事はなく、炊事場で食事を取っていた。朝8 時
甲殻類のアスタキサンチン、ブルーベリーのアント
「西田のお婆ちゃん」は、決して我々家族と食事を
から晩8 時まで3 人の子供の世話を続けていた。私
-52-
ン、とまとのリコピンなど、生体の酸化(老化:ラ
シアニン、にんにくのアリシン、玉ねぎのケルセチ
費削減の一つのアイテムになると思われる。
食育による未病対策は、超高齢化社会における医療
ジカル)予防や細胞活性を促す成分が多い。食育の
良い意味で「遺伝子組み換え」である。野菜や植物
よる「品種改良」の取り組が各地域で行われている。
組み換え」とは聞こえが異なる様である。バイオに
段なんとなく食しているが「品種改良」と「遺伝子
きた品種改良は、ある意味でバイオの力である。普
多様な苺や茄、そしてとまとなど、過去に行われて
事なく食卓にのぼる日が来るのかもしれない。多種
の力による新種の食用野菜などが「気味悪がられる」
に研究される時代となった。恐らく先には、バイオ
魚介類、そして飲まれている水の成分などが科学的
療法は重要である。世界中で食される野菜、植物や
機能症候群(メタボリックシンドローム)でも食事
の人材を医療現場に導入している。より優秀な人材
国で治験される事も多い。そして、より安価な海外
か。昨今、日本で開発された薬剤が海外の発展途上
お け る 治 験、 臨 床 試 験 を 担 う 日 が 来 る の で あ ろ う
と、優秀な人材も多い。今度、これら人材が日本に
施設でのフィリピンからの介護師の勤務を見てみる
務を開始した。実際に大阪生野区にある高齢者医療
より、海外からの看護師や介護師などが本邦での勤
を上げてきた。他方で、EPA(経済連携協定)に
る。この波にのり、株式会社エバンスは多くの業績
器産業は本邦における産業活性化の牽引分野であ
性化5 カ年計画」が終結する。医薬品産業、医療機
平成23 年度、厚生労働省が掲げた「新たな治験活
治験
に与える水や栄養がバイオの力で創られている。厚
は、このスキームを見抜き新たな業種を生み出して
概念ができた近年では、医薬品と同等に扱われるま
生労働省の報告によると、2055 年には人口の半
いる。人材斡旋や治験斡旋の業者である。本邦の医
でになってきた。健康の基本は食生活であり、代謝
数が65 歳以上の高齢者となる。健康食品を含めた
-53-
療領域における国際化に暗躍する業種が増加してい
低いからと言う医師の決めつけだけで天寿癌の思想
昨今の在宅医療
だ。
医師の才覚がさらに問われる時代となってきたよう
超高齢化社会となり、様々な医療思想が生まれる中、
の選択はやはり患者自身、家族が行うべきと思う。
を当てはめるのは間違いである。最終的な治療方針
)
る。これも善し悪しであろうか。
天寿癌 て
( んじゅがん
天寿癌の思想は、国立がんセンターのK医師が初め
て提唱した医療思想である。癌を患っても、時には
死ぬまでさほど大きくならない癌もあり、病気(癌)
に勤務していた時代、C型肝炎に羅漢した高齢者を
ニュータウンにある1000 床の介護保険適応病院
期を早める結果となる事もある。私が大阪府の泉北
な攻撃的な治療は、患者自身を心身共に衰弱させ死
前線医療で疲れ果てた医師が開業医へとシフトする
和医療を推奨している。医療費削減が目的である。
突入し、厚生労働省は個宅での介護、一般医療や緩
訪問して医療行為を行う事である。超高齢化社会に
在宅医療とは、医師が高齢者施設や個宅(自宅)を
と共に人生を歩むと言う思想である。むやみやたら
型慢性肝炎
された。昨今、元気に活躍し、自己判断が充分にで
た。この調査結果は「緩和医療」に論文として掲載
り、1 年間に数ミリしか増大しない症例も認められ
が確認された。多くの症例で癌の増大は緩やかであ
患者50 症例程度のうち、10 症例程度に肝細胞癌
者斡旋」とも取れる行為が横行しているのだ。とあ
る。高齢者施設や各病院の地域連携室と提携し、「患
の様な背景から、医療コンサルタントが暗躍してい
剰気味となり、経営難となる開業医も存在する。こ
いると思われる。開業医が多くなると地域医師が過
事も多い。これには勤務医の低賃金なども関与して
疫学調査した事があった。その結果、
きる高齢者も多い。高齢者であるから、判断能力が
C
-54-
の部屋で介護を受けている患者達が哀れであった。
に告発した。入浴機会が奪われ、糞尿とゴミだらけ
経営管理するA建物管理を知人つての読売新聞記者
に出されたのである。あまりの非常識さと怒りに、
障害者や生活保護患者は「1 人7000 円」の売り
人の経営する施設は倒産となり、入居していた身体
介護状況を見る機会があった。最終的にはNPO法
る時、
NPO法人が運営する身体障害者施設の医療、
行くであろう。
春から、「ある外科医の思考」は、さらに進化して
諸先生方の御厚意による偉業と自覚している。この
株式会社エバンスの事務所 阪
( 大支部兼研究所 が
)
設置される事となった。阪大ベンチャーの関係者、
内の大阪大学先端科学イノベーションセンター内に
本年度、平成23 年の春、大阪大学吹田キャンパス
受託研究など、医療全般をサポートする会社である。
エピローグ
人は何らかのきっかけで自分自身の思考を進化、開
花 さ せ る。 こ の 時 期 は 小 学 生 時 代 か ら 成 人 後 ま で
様々であると思われる。このきっかけには「あっ」
学先端科学イノベーションセンターの教官となっ
を意味する。ミシガン大学留学から帰国し、大阪大
イ ノ ベ ー シ ョ ン セ ン タ ー と は、「 革 命 的 研 究 機 関 」
ある。しかしながら、最近では自分自身で思考を進
この出会いが私の思考に大きく関与したのは事実で
回に大きな衝撃を受ける人物との出会いがあった。
考えている。私には、中学生時代、大学生時代の2
と驚く様な「人」との出会いが多いのではないかと
た。そして株式会社エバンスが誕生した。株式会社
化させる術を見つけた様である。ある意味、防衛本
-55-
最終的にはA建物管理関係者による会議の録音テー
プが流出し、決め手となり新聞記事となった。A建
物管理の代表にまで取材が及んだと聞く。超高齢化
社会の闇はまだまだ深いと感じる・・・。
大阪大学先端科学イノベーションセンター
エバンスは、独自の研究開発、共同研究、受託試験、
能の進化かもしれない。老いてきたと思う。研修医
や大学院生時代の恩師には、「成人した人間にはあ
る程度完成された人格、性格があり、これが邪魔を
して「エゴ」になる。人がすぐ変われる訳ないやな
いか」とよく言われた。これはダメであった私に対
する教育の一環であったのだと今更ながらに気づ
く。近畿大学医学部を卒業し、大阪大学第二外科医
局の門を叩いた。教授や上司から、将来の夢は何か
と聞かれれば、何時も「将来の夢は母校の教授にな
る事である」と答えていた。しかしながら、外科専
門医を返上し、好き勝手をしている今、夢は到底叶
わない様である。一方で、さほど優秀でもない私は
周囲の環境に恵まれたのかもしれない。好き勝手で
きるからである。ベンチャー企業の本来の意味は、
「先端技術を担う企業」であるが、他方で「冒険企
業」とも訳される。周囲を見れば、浮き沈みが激し
い危ない世界にも見て取れる。私はこの中で堅実で
安定した「スキーム」造りを構築するであろう。「頭
をしぼって知恵を出せ」である。私が、「阪大ベン
チャー企業」のパラダイムシフトの一助を担えれば
と思う。
-56-
表紙イラスト手塚治虫
Ⓒ手塚プロダクション