ポルトガルでの国際会議と歴史探訪 東京工業大学 イノベーションマネジメント研究科 教授 田中 義敏 国際会議で研究発表 大航海時代の指揮を執った国 歴史探訪と世界遺産巡り 昨年10月15日から18日までの4日 ポルトガルと聞いて、多くの日本人 リスボン中心からテージョ川に臨む 間、LSPI (Legal, Security and Privacy はポルトワイン、種子島に伝来した鉄 西側にベレン地区と呼ばれる地域があ Issues in IT Law)という学会が主催 砲、日本にキリスト教を伝えたフラン り、マヌエル様式という独特の建築様 する国際会議がポルトガル共和国のリ シスコ・ザビエル(スペイン人)、ア 式の世界遺産、 「ベレンの塔」を訪れた。 スボンで開催され、はるばるユーラシ フリカ大陸の南回りでインドにたどり ここは、バスコ・ダ・ガマのインド ア大陸の最西端まで筆者の研究内容を 着いたバスコ・ダ・ガマなどを連想す 航路開拓と世界一周、エンリケ航海王 発表するために出かけてきた。 るのではないだろうか? 子の偉業をたたえ、国王のマヌエル1 LSPIは、IT法を中心として、私法、 紀元前から8世紀ごろまで続くロー 世によって1515年に着工した航海船 公法、経済と法律の関係等、重要な法 マ帝国、1797年にナポレオンに降伏 律課題を研究するアカデミア、政府、 するまで東地中海貿易で栄えたベネチ 2階の国王の間からバルコニーに出 産業界の専門家から構成されている。 ア共和国、1453年に首都コンスタン てみると、バルコニーを形作る柱や柵 知的財産もLSPIの研究分野に含ま ティノープルを陥落し、東ローマ帝国 には実に優美な彫刻が施されていた。 れており、毎年、知財の最新テーマに を滅亡に導いたオスマン帝国等、およ テージョ川は、ベレン地区から河口 関する研究報告がなされている。 そ16世紀ごろまで欧州で繰り広げら 側に下るとすぐに大西洋に流れ込む。 今回は、 “How can we define the legal れたこれらの大きな覇権勢力のうねり バルコニーから眺めるテージョ川と effects of patent rights based on the の中で、ポルトガルは、大陸内での争 大西洋は、世界の荒波へと果敢に挑戦 quality of inventive step?(進歩性のレ いには可能な限り背を向け、国土の西 していった航海王子たちの強い意志と ベルに応じて特許権の法律効果を差別 側に雄大に広がる大西洋へと挑んだ。 限りない夢の跡を彷彿とさせる光景で 化すべきではないか?) ”という自筆 1415年 の モ ロ ッ コ 侵 攻 を は じ め、 の論文に基づき、これまであまり議論 エンリケ航海王子(1394~1460年)に されていない、新たな視点による提案 よって海外進出が本格化し、大航海時 を行った。 代の幕開けの指揮を執ることになる。 ※上記論文に興味のある方は、編集部に電 子メールでご連絡いただければ、フルテ キスト(PDF/6MB)をお送りします。 [email protected] 国際会議の中で研究発表は10月16、 ほうふつ あった。 バルトロメウ・ディアスによるアフ リカ大陸南端の喜望峰回り航路の発 見、バスコ・ダ・ガマのインド到着、 ペドロ・アルバレス・カブラルによる 17日の両日にわたって行われ、18日 ブラジル発見など、大西洋航海への挑 はポルトガルの歴史探訪のスタディー 戦を続けてきた国である。 ツアーが企画されていた。私も初めて 1540年代には日本にも到達。それを のポルトガル訪問で、再度訪れる機会 きっかけに南蛮貿易が始まる。当時は、 はないかもしれないと思い、本ツアー 織田信長などの有力大名の保護もあっ に参加させていただいた。 て南蛮文化が栄えた時代であった。 34 The lnvention 2015 No.3 を監視するための要塞である。 デザインが素敵な「ベレンの塔」 ポルトガルでの学会発表と歴史探訪 貿易と同時に、九州を中心として宣 同時に、膨大な資金を投じたであろ ロカ岬といえば、ポルトガルの詩人 うベレンの塔を見ると、国を挙げて生 ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウ 教師によるキリスト教布教も行われ、 き残りをかけたポルトガルの熱い想い ズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「こ キリシタン大名なども誕生し、日本か が伝わってきた。 こに地 終わり海 始まる(Onde a terra らは天正遣欧少年使節が派遣された。 ベレン地区にはもう一つの世界遺産 acaba e o mar começa)」で有名だが、 極西と極東に遠く離れた両国間で、 がある。航海王子たちの偉業をたたえ 実際にこの一節が刻み込まれた石碑が 貿易と宗教活動が展開されていた時代 るとともに、新天地開拓に乗り出す航 ロカ岬に立っていた。 があったとは! しかも約500年も前 のことである。ポルトガル人と日本人 海の安全を祈願して建設された荘厳な 「ジェロニモス修道院」である。 「旧知の友」との今後の行方 の出会いは、エンリケ航海王子たちの 外観も雄大だが、中庭に面する回廊 1543年、ポルトガル商人が種子島 飽くなき大航海への挑戦の結果が始ま は見事な彫刻で飾られ、外側とは一転 に漂着して鉄砲を伝えたのが、ポルト りだったとは、何ともロマンチックな して薄茶色で明るく彩られている。 ガル人の最初の日本上陸であったとさ 話ではないか。 ここはマヌエル様式の最高傑作とも 最初は偶然の出会いだったかもしれ れている。 ないが、一期一会ともいう。「お前と いわれ、大航海時代の富がつぎ込まれ その後、1549年にはポルトガル王 ている。修道院と一体に建築されたサ のジョアン3世の命を受けたフランシ 俺は長い付き合いだなぁ」というのは、 ンタ・マリア教会にはバスコ・ダ・ガ スコ・ザビエルが日本を訪れ、キリス 日本人だけの感覚か? 世界共通か? まつ マの棺が祀られていた。 ト教の布教活動を行っている。当時は、 古くからの長い付き合いが、今後の リスボンから1時間ほど海岸線を北 織田信長らの庇護の下、両国間で南蛮 両国関係をさらに進展させる追い風に 上すると、そこには、ユーラシア大陸 貿易が開始され、長崎の出島を拠点と なるのではないか――と期待してしま 最西端のロカ岬がある。 しながら貿易が展開された。 うのは筆者だけであろうか……。 「ジェロニモス修道院」を背景に記念撮影 修道院の中庭 ロカ岬から撮影した大西洋 バスコ・ダ・ガマの棺 毎年、LSPIで会うドイツの友人とロカ岬の 「石碑」をバックに記念撮影 2015 No.3 The lnvention 35
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