ラティラナの祭 ~チリ民俗音楽について ~ 近藤元子 踊るという行為はいったい何をあらわすのでしょうか? 祈り。喜び。感謝。悲しみ。楽器を奏でるという行為と共通します。体を動かすという一種の スポーツのような要素もありますが、今回はチリ民俗音楽というテーマの中から、踊りについ て取り上げてみようと思い、北部で行われるラティラナの祭を選びました。 イキーケ内陸部、乾燥した岩と砂の景色の中を進むと、Pampa de Tamarugal という緑の木が 生い茂った草原地帯が現れます。その中に普段は人のほとんどいない小さな小さな村がありま す。一年に一度、この村が巡礼者でいっぱいになる時があります。ここで毎年 7 月の中旬に聖 母カルメンを祝う祭りが行われるのです。3年ほどまえ、カマンチャカという北部の砂漠特有 の冷たい霧の中、本当に凍える思いで私はたどり着いたのです。そして今年、再び私はその地 を踏む機会に恵まれたのです。 この村にはある伝説が伝わっています。 スペイン軍がペルーからチリへと遠征を始めた頃のこと、人夫の反乱を防ぐためにと、アルマ グロの遠征軍に加えられたインカの一族の中に、一人の王女がいた。スペイン軍がマプーチェ 族に大敗しペルーへと逃げ帰る途中、脱走に成功した王女とその仲間たちはタマルガルの草原 に隠れた。王女は軍の司令官となり、その時から捕えたスペイン人を処刑するように命じた。 そ の美しさと残虐さは噂となり、その統治する土地を越え、ほかの部族の耳にも届くようになっ た。同じ時、バスコ・デ・アルメイダというポルトガルの若者が、イキーケにあるウアンタハ ナの鉱山で働いていた。ある夜、若者は聖母カルメンが太陽の山への道を示している夢を見た。 それは親しい部族の首領が口にしていた宝の山だった。若者は暴君の治めるタマルガルの草原 に入ることを試みた。若者は戦士たちに捕えられ、王女の前に引き出された。 王女は若者を見るなり、死刑にすることはできないとわかった。アルメイダは美しくりりしい 若者だった。王女自らが定め、長老たちによって認められた法に従えば、捕えられたものは死 ぬ定めにあった。 しかし恋に落ちた王女はその使命と軍隊の統治をおろそかにし、石牢に閉じ込められた若者に 尽くした。若者の命を救おうと、王女は若者を太陽神への忠誠に導こうとした。 しかし、こと はまったく反対に動いてしまった。アルメイダが王女をキリスト教徒に変えてしまったのだ。 王女は第四の満月の少し前に改宗してしまった。恋人たちは森の中、泉のそばで落ち合った。 (ここがちょうど現在ラティラナの村があるところである)そこでアルメイダは王女に洗礼を 行なった。しかし、戦士たちはこの儀式をすべて目撃し、王女の裏切りを確信した。何百もの 矢が放たれた。王女は苦しい息の下で戦士たちに愛する若者のそばに埋めてほしいと、 埋葬し たところには十字架を立ててほしいと告げた。 何年も過ぎたある時、メルセス会の修道士がタマルガルの草原で 粗末に組まれた十字架を見つ けた。神父はこの話を聞くと、はるか昔のタマルガルの恋人たちの悲劇を思い出し、 その場所 に教会を築き、ラティラナの聖母カルメンの名で洗礼を行なった。 こればかりを読むと、キリスト教の聖地かと思われますが、それは一筋縄では片付きません。 実際には、各地にある聖地の多くがそうであるのと同様、崇められる理由はその土地に古くか ら伝わる風習によるのです。それはその土地にキリスト教が伝わる以前の風習です。現在は教 会がこの祭をすべて取り仕切り、ミサを行い、聖母カルメンを主役にしたすべての儀式を運営 しますが、人々の信仰の対象は実際には一口ではいえません。聖母カルメンの影に大地の女神 パチャママの姿を見る人たちも存在します。これについてはまた別の機会に説明したいと思い ますが、とりあえずはこの教会に、チリ各地そしてボリビアからも巡礼者が訪れます。 祭は7月12日から始まり、16 日の午前 0 時 に最高潮に達します。マイナス10度を超え る空気の中、教会前の広場は熱気に包まれま す。広場を埋め尽くす人と巡礼者の数には目 を見張るものがあります。その中でも踊りの グループは、疲れを知ることなく「踊る」と いう行為を通して、聖母カルメンへの信心を 表します。 キリスト教でない私すら、聖母カルメンのあの優しい顔を見るだけで、何か安らいでしまうほ どですから、信者にとってはどれだけの意味を持つことでしょう。 村の入り口から苦行をしながら四つん這いになったり、這ったりして教会にたどり着く巡礼者 もいます。村の周りにはたくさんのテントが張られ、各地からやってきた踊り手のグループや 家族がお祭の期間、泊りこみます。長い人達では 7 月20日過ぎまで残るケースもあるようで す。聖母カルメンに触れようと、一日中長い行列を作って待つ人の姿も見られます。 普段はほとんど人がいない村は、屋台やらみやげ物屋やら食堂やらでごったがえします。通り は人と踊りのグループで埋まり、身動きさえできない時もあります。 家々はこのときばかりと宿に早代わりしたり、踊りのグループの控え所となったりします。村 の入り口はバスやタクシーでごったがえし、イキケや近くの大きめの町への交通手段となりま す。 16 日、朝のミサが終ると再び踊りが始まります。それぞれのグループは踊り手と演奏隊を抱え、 思い思いの場所でその活動を繰り広げます。それぞれ踊りの名前を表す旗と幼子を腕に抱えた 聖母カルメンの像を所持し、その前に列を組んで踊ります。いろいろな種類の踊りがあります が、その中でも有名なものを紹介したいと思います。 Diablara 悪魔の踊り ボリビアはオルロのカーニバルで主役 となる舞踊。ラティラナの祭でも多く がこの踊りのグループです。派手なマ スクが特徴で、夜はマスクについてい る赤い小さな電球がつくため、異様な 雰囲気があります。 Baile de los morenos マトラカと呼ばれるまわすとガラガラと鳴る楽器を もち、踊る。 ボリビアのモレナーダ(どちらも「モレーノ(色の黒い)」と いう言葉がはいっている)とは全く違う。チリの踊りはマトラ カ(ガラガラとなる楽器)を手に、アクロバットのような跳躍 を見せる。ラティラナでは、カバンチャのモレーノスのグル ープが有名。 Baile de chunchos ボリビアから来たもので、ジャングルのイン ディアンの踊り。槍を持って飛び跳ねる。 衣装は鳥の羽をふんだんに使った冠な ど。 Baile de las cuyacas 高いポールに踊りながら色とりどりのテープを巻き つけていく。女性のみが踊る。踊りというよりも一 種の儀式のような雰囲気がある。ラティラナの踊り の中でも伝統的なもののひとつ。 紙面の都合で省略しますが、その他にも多くの踊りが見られます。同じ踊りでもグループごと に衣装が違ったり踊り方が違ったりとそれぞれ特徴があります。 ちなみにこれらの踊りは、サンチアゴでも Templo de Maipo(マイプの教会)で見ることがで きます。これはマイプ地区にある大きな教会で、遠くからでもよく見える高い塔で有名です。この地区は チリが独立戦争時代にあったとき、英雄とされているベルナルドオヒギンスの軍とスペイン王党派が戦い を繰り広げ、開放軍が勝利した、という歴史的場所でもあります。 北部ではこのほかに小さな村でも Carnaval をはじめ、一年を通していろいろなお祭がありま す。この細長い国の中でも北部のアイマラ族の村ではそれぞれの村がそれぞれの祭を持ってい るといわれます。それは彼らの大地をはじめとする自然に対する信仰がはるか昔の祖先から今 に至るまで受け継がれてきているからです。その儀式の方法や対象は物理的には変化していま すが、彼らが信仰するものの本質は今までも、そしてこれからも変わらないのです。アメリカ 大陸にヨーロッパ文化が入って以来、彼らの聖地には教会が建てられ、従来の信仰は禁止され ました。彼らの信仰心の強さをキリスト教が利用したところもありますが、自衛のための手段 としてのキリスト教と現地宗教の混合が至るところに見られ、現在行われているお祭の多くは この形がほとんどです。一見キリスト教への信仰に見えますが、その影に見え隠れする従来の 信仰と風習。それがチリのみでなくラテンアメリカの多くの国に見られるのです。 ラティラナの踊り手たちの踊りはそんな複雑な文化と信仰を私に考えさせてくれました。 この記事は日智商工会議所2003年10月発行193号に掲載されました。
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