東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 ―墓と「分骨」 に着目して― 佐 藤 悦 子* 本稿は,ブラジル日系人の墓とそれを巡る人々の宗教的な営みに焦点をあて,日本とブラジルの はざまにおける移住者の生と死のあり方を明らかにする。先行研究において,ブラジル日系人の墓 は詳細に研究されてこなかった。特にブラジル日系社会の宗教が大きく変化した戦後における日系 人の墓に関してあまり注目されてこなかった。ブラジル日系人の墓は,戦後になって本格的に建立 された。その墓碑に刻まれた情報は,日本語とポルトガル語の 2 つの言語で表記され,日本性が表 出されたものであると同時に, ブラジルの子孫たちに向けたメッセージとして受け取れる。一方で, 非日系人と同じ墓の様式で建立された日系人の墓もある。こうした墓はローマ字のみで姓が記され, 日本的な要素は見てとれない。しかし,このような墓を巡るさまざまな宗教実践に着目することで,墓 そのものからは表出されにくいブラジル日系人の移住先での生と死,家族に関する観念が見えてくる。 キーワード:ブラジル日系人,移住者,墓,分骨,家族 1. はじめに ブラジルの墓地を巡ると,まるで一般的な日本の墓のように高くそびえ立つ墓が目立つ(写真 1 参照)。そうした墓の多くは日系人の墓ⅰである。墓石の色は,黒色系,白色系,灰色系や赤色系な どさまざまである。しかし,それらに共通するのは,縦長の長方形の墓石の正面には,漢字で「○○ 家之墓」 ,その下にポルトガル語で「FAMILIA ○○」と記されていることである。中には家紋ま で刻まれているものもある。裏面には,死者の出身地,死者の俗名,行年,没年月日などが記されて いる。また,戒名なども記されていたりする。このように墓の様式は日本的であるが,細部まで見 てみると,正面には,カトリック式のプレートが置かれ,そこには俗名と生年月日,没年月日がロー マ字で記されている。このプレートには没年月日の前には十字架が記されている。また,ブラジル の一般的な墓に見られるように,死者の生前の写真が飾られていたり,木製の十字架ⅱが置かれて いたりする。つまり,一見すると日本式の墓の形態に,ブラジルの主流文化としてのカトリックの 要素がちりばめられている。このように,ブラジルの墓地を巡ると,こうした様相が,移住者が根 を下ろす最終地点となった「墓」 に表出されている。 教育学研究科 博士課程後期 * ― ― 1 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 そもそも移住者が自文化と異文化のはざまにいながらも,いかにしてホスト社会の正規のメン バーとなっていくのかという問いに関心があった筆者は,ブラジルでの調査を始めたばかりの頃, こうした墓地の風景にいくぶん興奮したのを覚えている。というのも,いかにしてホスト社会で移 住者が生きるのかということは,いかにして死を迎えるのかということにも密接にかかわっている と考えるからである。特に,移住先において,日本の「家」や家族とのつながりがと断絶された移住 者にとって,移住先で生を営む上で,家族の存在はさまざまな場面で資源となる。以上のようなこ とを踏まえ,本稿では,ブラジル日系人の墓を通して,日本とブラジルのはざまにいるブラジル日 系人の生と死のあり方を家族観との関わりにおいて探る。 1-1. 問題の所在 ブラジル日系人によって建立された墓の様式は多様でありⅲ,上記のような日本的な墓の形態だ けに着目して,単純にブラジル日系人の墓のあり方を論じることはできない。ブラジル日系人の墓 のあり方は,経済的状況や宗教的な背景,移住形態,ホスト社会や他の民族集団との関係性などに よって大きく影響を受け,変質してきたと考えられる。これまでの先行研究においても,日本人移 民の墓標の諸属性を,その移民の民族的な文化やエスニシティ,あるいは異文化接触による自文化 と異文化の習合や文化変容といった視点に安易に結びつけることは,危険であると論じられてき たⅳ。例えば,朽木量(2004)は,ニューカレドニアへの日本人移民とマレー半島への日本人移民の 墓標を調査し,移住形態によって墓のあり方にも差異がみられると指摘している。組織的・継続的 な移住形態をはたしたニューカレドニアへの日本人移民の場合,彼(彼女)らの墓とは,「日本式」墓 標という「日本の文化伝統を強く意識した表現形態」の中にあると捉えている。一方で,小規模で多 様な移住形態をはたしたマレー半島の日本人移民の場合,中国式墓標の多用など「ハイブリッドな 状態」 にあると捉えている。 また,前山隆(2001)は,戦前移民がブラジルの墓地に作った「キリスト教会に似せた先の尖った 屋根と天使像を持つと共に, 『南無阿弥陀仏』と彫られた角柱を持つ」ドラード日本人納骨堂を, 「『客 人』 である出稼ぎ移民が,キリスト教国である異国において自らの立場を十分配慮しながら,同時に 自分の文化とアイデンティティーに基づいた慰霊と自分たちの死生観を限られた枠の中で最低限表 現したもの」ⅴとして捉えている。とはいえ,上記したようなブラジルの墓地で堂々とそびえ立つ 現在の日本的な墓を, 「客人」という立場にありながら,異郷において「自分の文化とアイデンティ ティに基づく慰霊と死生観を最低限表現したもの」とは考えにくい。むしろ,堂々と移民としての 自文化を表出しているようにも見える。ドラードの日本人納骨堂は 1919 年に建立され,前山による 調査は 1972 年に行われた。すなわち,ドラードの日本人納骨堂は渡伯初期の出稼ぎ移民によって建 立されたものである。日本移民によって本格的に墓が建立され始めたのは,日本の敗戦によって出 稼ぎから永住へと転換した戦後であり,上記した日本的な墓とは背景が異なる。今後は,このよう なブラジル日系人の墓を新たな視点でとらえる必要があろう。では,いかにしてブラジル日系人の 墓をとらえることができるのだろうか。 ― ― 2 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) 1-2. 本研究の目的と方法 移住者の墓に関する研究は,これまでにも人類学の分野で行われてきた。朽木(2004)によると, 墓標は「単に被葬者の名や没年を示すのみならず,銘文の書式と内容,墓標形態,材質,規模など多 様な情報を伴って存在するモノ」であり,そこから「死生観やエスニック・アイデンティティといっ た被葬者および遺族の社会的・文化的背景を読み取ることも可能」であるというⅵ。また,李仁子 (1996) は,在日のコリアンの墓石に刻まれた墓誌に焦点を当て,移住者の重層的なアイデンティティ の表出としてとらえている。しかし,墓そのものが語ってくれること,すなわち「物質文化」ⅶその ものが語りかける情報には限界があることもまた事実である。例えば,ブラジル日系人の墓の場合, 墓のあり方が「個別特殊的であると同時に,個々の墓から語りかけてくる情報の少なさ」から本格的 なブラジル日系人の墓の研究・調査は行われてこなかったⅷ。地域や年代ごとに多様であり,個別 特殊的である墓のあり方を探るため,新たな移住者の墓制研究の可能性について論じる必要がある と考える。 従来,人類学における移住者の墓制研究は,物質文化研究として行われることが多かったⅸ。し かしながら,近年,人類学において, 「モノ」としての墓と「人」のネットワークに注目した墓制研究 が行われつつある。例えば,越智郁乃(2012)は,従来の「物質文化」研究としての墓制研究における 「人」と「モノ」の関わりに着目されてこなかったことを指摘し,沖縄において「墓をつくる過程とそ の後の祭祀における人々の実践と語りから,長時間にわたる墓と人との相互作用」ⅹについて論じ ている。 以上のようなことを踏まえ,本稿においても,物質文化としての墓そのものに焦点を当てるだけ ではなく,墓を巡る移住者の営みにも焦点を当てる。具体的には,ブラジルに日本から移住した人々 の墓と「骨の移動」 という宗教実践に焦点を当て,ブラジル日系人が移住先においてどのような墓を どのように建立したのかを明らかにし,移住先での生と死のあり方において,「家」や「家族」という ものがどのように位置づけらえるのかを探求したい。 本研究の方法は,文献調査とフィールドワークである。フィールドワークは,2008 年から 2010 年 の間に計 3 回,ブラジルでの参与観察と聞き取り調査が主に行われた。聞き取り調査は,事前にイ ンフォーマントの簡単な経歴や家族構成などの情報を収集し,2 時間から 2 時間半程度行われた。 また, 調査者が調査テーマに従って自由に質問を構成し,インフォーマントに自由に回答してもらっ た。このようなフォーマルなインタビューを数回重ねた。またフォーマルなインタビューだけでは なく,インフォーマルなインタビューも行った。このような方法を採用することでテーマに関する 深い内容や,仮説段階では想定できなかった内容を聞き取ることができた。聞き取り調査によって 収集されたデータは,テープ起こしを行い,分析対象とした。 2. ブラジル日本移民と宗教 2-1. 戦前における宗教の不在 ブラジル日本移民史は,1908 年の移民船笠戸丸にはじまる。781 人の農業移民が乗船し,彼らの ― ― 3 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 多くが数年働いて金儲けをしたら帰国しようと考えていたⅺ。戦前移民の多くは,出稼ぎのつもり でブラジルに渡った。そのため,ブラジルでは日本移民が開始されて 40 年ほどの間は,日本宗教の 組織的な宗教活動は行われていなかったⅻ。戦前移民は「ホトケと神様は日本に置いてきた」と語り, 日本移民自身が宗教活動を少しも望んでなかった。こうしたことから宗教としての祖先崇拝もほと んど実践されていなかった。日本人の祖先崇拝はイエ組織で解釈されるが,日本におけるイエと断 絶された異国へ移住した日本人にとって,先祖は不在であることから祖先崇拝をはじめとした宗教 的実践は活発化していなかった。また,日本の外務省によってカトリック教以外の布教者はブラジ ルへ渡航できないように制限されていたこともあり,日本移民がブラジルでの宗教的活動を自粛し ていた。1890 年代にはすでに日本からの移民事業が開始されたハワイなどとは異なり,ブラジルに おいて,1950 年代以前の仏教寺院や神社は極めて稀であった。 では,こうした戦前のブラジルにおける日本移民の宗教的停滞の中で,死者はどのように埋葬さ れ,供養されていたのだろうか。前山(1996)によると,ブラジルでの日本移民の死は「客死」であり, ブラジルでの埋葬と供養に関しては「臨時の応急処置」が行われた。たとえば,半田(1970)はファ ゼンダにおける戦前移民の葬りの様子に関して次のように述べている。 ファゼンダにはいった。宗教的行事はほとんどなかった。マラリアのために犠牲者をだした ところもあった。お経もない簡単な葬式がでた。墓には卒塔婆の代わりに白木の十字架をたて, 裏側には横に「ほとけ」の生年月日,没年の日付を書き,たてには俗名,行年何歳と書いた。そ して表には,南無阿弥陀仏あるいは南無妙法蓮華経と記した。土まんじゅうの上に,ブリキ製 ペンキ塗りの花輪をおく。これは風雨にさらされてもながもちした。線香をあげ,あるいはろ うそくをたてた。会葬者は無言で合掌するか,口のなかで念仏か題目をとなえた。 遺族はコロニアの家にもどって,一室に(多くの場合寝室に)小さい棚をつくり,そこに「ほ とけ」の生前の写真をかざり,野の花をささげ,線香をあげる。線香のないときにはろうそくを たてた。しばらくのあいだは,毎日灯明としてカンテラをとぼす。初七日には,近所の人を呼 んで法事らしいものをいとなむ。むろん坊さんはいないのであるから,読教はない。にわかづ くりの仏壇に合掌したのち,みんなで夕飯を食べる。いんげん豆のあんと麦粉でつくっただん ごの「おしるこ」 や細いマカロンでつくった「うどん」をふるまう。 ファゼンダから契約地へ,それから植民地へと荒山の仕事に移る。墓はファゼンダに残して くる。 五年目にお骨をほりかえし新しい墓地へ移すこともあるが,初期の移民にそんな余裕はな かった。たいがいファゼンダへ置き去りにしたままだⅹⅲ。 また,前山(1996) によると,遺体は私的に火葬され,手製の棺桶が使用されたりした。そして「坊 主がわり」とか「お経読み」と呼ばれる人が,超宗派でお経を読み,ありあわせの小さな箱で作られ た仏壇に手製の位牌をおさめた。通夜の時には枕元にろうそくをたて,線香をあげた。線香がない ― ― 4 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) 時にはろうそくだけをともした。また,頻繁に移動を繰り返していた日本移民にとって,墓を残し て開拓地を去ることが多く,こうした位牌は「ポータブル墓」として重宝された。このように,初期 の移民たちは,超宗派の仏式で簡単な死者祭祀を行った。 2-2. 戦後の「宗教リバイバル」 ブラジル日系人にとって,日本の敗戦は帰国先である日本の喪失を意味していた。こうして, 1950 年代以降,日本敗戦により帰国主義から永住主義へと転換したことで,日系人の間で日本宗教 の組織化と積極的に活動が開始される。前山(1996)は,このような一連の「宗教リバイバル」をブ ラジル日系人の永住の表明であると分析している。 前山(2001)の調査によると,沖縄系の戦前移民が 1930 年代に一度帰郷し,香炉などをブラジルへ 持ち帰り,1965 年には,沖縄の財産を整理し,先祖の骨を壺に入れてブラジルに持ち帰っているⅹⅳ。 こうした戦前移民は「これで本当にブラジルに移民した」と語った。また,森(2005)によると,沖縄 系の戦前移民が沖縄に残した位牌やヒヌカンなどの存在が大きな懸念となりはじめたことで,すで に 50 年代から沖縄に一時帰国をはじめた。70 年代,特に沖縄が日本に戻った 72 年以降に, 「継承し て預けてあった先祖やヒヌカンを〈ウンチケー〉して『ブラジルにお連れする』という重要な機会で あり,ブラジルへの永住を先祖に報告するための〈タビ(旅)〉であった」という。そして,戦前移民 たちは「これでウヤファーフジ(先祖,特に父方先祖)も移住してきました」と語るというⅹⅴ。この ように,戦前移民は,戦後になると永住を決意し, 「死者の移住」 「先祖の移住」によって自らの真の 移住を果たしたといえる。 さらに,こうしたブラジル日系人の間で,宗教的活動をより活性化させたのが,戦後移民ⅹⅵの存 在である。森幸一(2005)によると,移住当初から永住主義で渡伯した沖縄系の戦後移民は,「継承 した位牌,香炉,遺骨,ヒヌカンなどを, 〈ウンチケー〉して携えての移民」であり,「ブラジルでの 沖縄的祖先崇拝を活性化させるファクターとなった」というⅹⅶ。 以上のように,戦前のブラジル日本移民にとっての出稼ぎから永住主義への転換は帰国先である 日本が敗戦したときであった。彼らは永住を決意したときに,本格的な墓を建立し,「先祖の移住」 を果たした。一方, 戦後移民の場合, 移住当初から永住するつもりで渡伯することがほとんどであっ たⅹⅷ。そのため,先述したように渡伯時に先祖とともに移住するケースもあった。このように戦前 と戦後ではブラジル日系人の移住の背景が異なり,これにより日系人の宗教観やそれに基づいた実 践が大きく異なってくるのである。 3. ブラジル日系人の墓と「家」 3-1. 日本とブラジルのはざまにある墓 では,そもそもブラジル日本移民によって建立された墓とはどのようなものなのだろうか。 ブラジルにおける日本人墓地は,各入植地や配耕地の一角に見られていたが,もっとも有名なのは アルバレス・マッシャード墓地ⅹⅸである。この墓地はブラジル政府から唯一認可されている墓地で ― ― 5 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 ある(写真 2 参照) 。こうした日本人墓地が唯一残っているものの,多くのブラジル日系人の墓は現 在では非日系人の墓とともに同一の墓地に建立されている。かつての日本人集住地にあった墓地も, のちに非日系人も埋葬されるようになり,日本人墓地ではなくなったところも多いと考えられるⅹⅹ。 サンパウロ市郊外にあるK村には多くの日系人が眠っている。K村では,1914 年(大正 2)頃にサン パウロ市で大工などをしていた独身青年たちとグアタパラ耕地を出てきた家族者たちが,サンパウ ロ市近郊 (同市の南西27km) の教会が所有する土地を借り,農業を始めた。ここでは,日本移民によっ てジャガイモ栽培が盛んとなり,日本人集住地が形成された。 K墓地の管理事務員によると,K村の街の中に位置するK墓地は,1856 年に創設された。筆者が 調査を行った 2011 年の時点で 1152 基の墓が登録されていた。K墓地に入ると,真正面に道路が真っ 直ぐ伸び,その真ん中にはカッペーラ(小聖堂)がある。その道を中心として左右に墓が並んでいる。 向かって右の区域は比較的整備されて墓が建立されたようで,整然と並んでいるが,左の区域は非 計画的に墓が建立され,墓と墓の間は人ひとりがやっと通ることができるくらいの道しかない。墓 地の周囲は鉄格子で囲われ, 墓地の中に入ると,高くそびえたつ墓がまるで競い合うかのように立っ ていた。 日系人の墓の基数は正確には把握されていないが,そうした墓は明らかに日系人の墓であっ た。 筆者の調べによると,1152 基中 129 基の日系人の墓が確認されたⅹⅹⅰ。K墓地における日系人の墓 の割合は,少なくとも 8.9%である。一般的にブラジル日系人の人口は,全人口の約 0.8% と言われ ている。もちろん,それらを単純に比較することができないが,K墓地における日系人の墓の多さ が理解できよう。 ブラジルにおける日系人の墓のあり方は多様である。K墓地だけでも,先述したような長方形の 墓石を積み上げた「日本的」 な墓や十字架の石碑を建てたもの,俗名と没年月日が刻まれた天然の墓 石を置いたもの,木製の十字架だけをかかげたもの,墓地内の非日系人の墓と同様の造りをしたも のなどとさまざまである。こうした墓の多様性は,経済的事情や宗教的背景,建立された時代など さまざまな要素が複雑に絡み合って,それぞれの墓の様式はかなり異なってくると思われる。 以下では,墓標の表記を大別し,日系人の墓について簡単に概観する。 K墓地におけるブラジル日系人の墓の墓標を概観すると,墓石の正面には日本語で「○○家之墓」 と刻まれているものが多い。129 基のうち,70 表 1 墓碑の正面の表記 基が「○○家之墓」と日本語で表記されている (表 1) 。 中には「○○家之墓」の上に家紋が記してあ るものもある。裏面や側面には, 死者の出身地, 死者の俗名,行年,没年月日などが記されてい る。また正面に「○○家の墓」と日本語で記さ 正面の表記(○姓,●姓名) 基数 ○○家之墓 70 ○○家(累)代々之墓 3 ●●之墓 28 ●●家之墓 2 ○○家・○○家之墓(家連名) 5 れると同時に,「FAMILIA ○○」とポルトガル ●●・●●之墓(個人連名) 4 語でも記されるものも 26 基ある。また,正面に ポルトガル語のみで表記 17 ― ― 6 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) は,カトリック式のプレートが置かれ,そこには俗名と生年月日没年月日がローマ字で表記されて いる。ブラジルではよく見かけるが,墓石に死者の生前の写真を飾る墓も多くある。こうしたこと から,日本語が読める 1 世や 2 世の一部分にだけではなく,ポルトガル語が理解できない 2 世,3 世 以降の子孫たちにも, 「誰の墓であるか」 「どの家の墓であるか」 「誰がいつ亡くなったのか」がわか る。つまり,日本語とポルトガル語の 2 つの言語による表記は, 「日本人」という民族的アイデンティ ティの表出と「ブラジル人」である子孫たちへのメッセージとなると考えられる。李(1996)は,在 日コリアンの墓碑を「一世から始まった日本における家族集団や今後日本で生まれ暮らしていく子 孫たちに向けた自己表現もしくは意思表示」ⅹⅹⅱと捉えている。確かに,ブラジル日系人の墓には在 日コリアンの墓ほど個人史や遺訓などは書かれていない。墓碑から読み取れる情報は少ない。しか し,日本語とポルトガル語という 2 つの言語による表記は,ルーツである「日本性」を表出すると同 時に,ポルトガル語しか理解できない子孫たちへ正確に移住者のメッセージを伝えようとする意志 の表れであろう。 このように日系人の墓の多くは家族墓である。しかし,表記上は個人墓だったり,夫婦墓だった りするものでも,実状は被納骨者に家族が含まれているケースもある。K墓地では,129 基の日系 墓のうち,28 基が被埋葬者の姓名が表面に表記された個人墓であることが示されるが,実際には他 の被埋葬者が複数いる。 例えば,K墓地にある日本移民の墓を事例として見よう。墓地管理者はこの墓をK墓地に数多く ある日本移民の墓の中でも最もユニークな墓だと語り,筆者に見せたいと墓まで案内してくれた。 彼が案内してくれたその墓は,正面に被埋葬者の姓名が日本語で表記されているが,背面と,正面 の一部に,他の被埋葬者の姓名と没年月日,行年が追記されている。そのため,個人墓ではなく,家 族墓であると言える。李仁子(1996)は,在日コリアンが被納骨者個人の姓名と「家之墓」との言葉 を組み合わせて表記することで,墓の被納骨者たちが移住先における「家」の起点であるというアイ デンティティを表現しているという。しかし,この墓の場合,完全に被埋葬者個人の姓名と「之墓」 という言葉の組み合わせであり,在日コリアンの場合とは少々性質が異なるようにも思える。つま り,もともと個人墓として建立した墓であったが,死者が家族内ででるたびにそこに埋葬され,現 在では家族墓となっている。 そこで注目されるのが,日本語とポルトガル語で故人の歴史が刻まれていることである。墓碑の 右面には次のように日本語で記述されている。 大正二年渡伯ニテ,珈琲園並ニ線路工夫就労後,鈴木貞次郎氏ⅹⅹⅲニ引率サレ,K植民地ノ草分 ノ一人トナリ 農ヲ務ムルコト数年,以後リスカドール製作ハ物々農機界ノ初ニテ農ニ益スル 事甚大ナリ 神原木平 明治十六年七月十六日生 昭和二十三年十月十九日亡 行年六十六才 ― ― 7 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 さらに背面にはポルトガル語で次のように記述されている。 kihei kobara 19-outubro -1948 Chegado ao brasil no ano de 1913 orabalho durante alguns anos em fazenda de café e tambem na construcao de Estrada de ferro po steriormente . em conp anhia do sr,teijiro so zukiveio a vila de K onde se tornou un dospianeiros da sua colonizacao japonesa trabalhando por alguns anos na lavoura derois se dediaou a fabricacao de riscador pioneiro tambem nest e setor de producao de maquinas agricolas deste pais benefigiou grandemente a agricultura. Faleceu aos 66 anos de idade このように,ポルトガル語で表記された移民の歴史は,日本語を理解できない子孫にも語り継が れる。ここに記された歴史は,歴史上には残っていない「無名の移民」の歴史である。しかし,鈴木 貞次郎というブラジル日本移民の歴史に名を残す人物とのつながりを記すことで,故人の歴史が特 記すべきものとして浮かび上がってくると考えられる。一方で,日本での歴史がほとんど記されて いない。ブラジル日系人の間において同県人であることは非常に重要なファクターであったが,少 なくともK墓地において出身県はどこかというのような日本とのつながりを示す表記はほとんどな かった。日本とのつながりが表出されるというよりは,むしろブラジルにおける功績を表記するこ とで,ブラジルにおける歴史が重要視されている。そうしたブラジルでの歴史は,脈々と後世にも 伝わってこそ意味を成す。そうしたことから,ポルトガル語で被埋葬者のブラジルにおける歴史を 表記することは必須であると思われる。 では,なぜ,これほどまでに, 「ブラジル人」となっていく子孫たちを意識して墓を建立するのだ ろうか。一世のある男性は,生前に自らが建立した墓に「ブラジルに興す家系や 移民塚」という遺 訓を残している。彼は,何か月もかかって 2 トンはあるという巨大な天然石を探しだし,日系社会 からも関心されるほどの立派な墓を建立した。 (写真 2 参照) 。彼にとって,ブラジルにおいて自ら が「家系」 を「興す」 し,それがブラジルで反映していくことは,移民としての最大の願いであったの だろう。ブラジルにおいて故郷とのつながりを絶たれ,家族や歴史を持たない日本移民にとって, ブラジルで子孫を残すことは重要な事である。すなわち,ブラジルにおいて日本移民は自らが先祖 となる「家系」を創造するのである。 「○○家之墓」と表記された日系人の墓は,このように自らが先 祖となる「ブラジルの○○家」を象徴するものではないだろうか。しかし, 「ブラジルの○○家」と いっても,単なる「ブラジルの○○家」 ではない。日本にルーツをもつ家系であろう。墓碑を日本語 とポルトガル語で表記することで,日本性は表出され,そのような「日本」にルーツを持つ「ブラジ ルの○○家」が創造されると考えられる。 3-2. 「骨の移動」 による家族の創造 先述してきたように,ブラジル日系人の墓は,日本語とポルトガル語で表記されることで,日本 ― ― 8 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) にルーツを持つ「ブラジルでの○○家」 を表現される。しかし,墓碑がポルトガル語のみで表記され, 一見すると墓の様式も非日系人のものと区別できない日系人の墓も多い。では,そのような日系人 の墓はどのように理解できるのだろうか。このような問いを明らかにするには,墓そのものだけで はなく,墓を巡る人々の営みに注目する必要があろう。本節では,日本の先祖の遺骨を「分骨」し, ブラジルで「墓」を建立した事例を通して, 「ブラジルの○○家」を創造するプロセスを明らかにす る。 サンパウロ市郊外Jに住む田村氏 (仮名)は,1956 年にブラジルに移住した戦後移民である。彼は, 鹿児島県で 9 人兄弟の二男として生まれた。20 歳のときに単身でブラジルに渡り,1960 年に独立農 となり, 1964年には日系2世の女性と結婚した。結婚を機に,カトリックへ入信する。1974年にはスー パーマーケットを開店,1991 年には学生寮を建て不動産業へも進出する。2 度日本へも出稼ぎに行 くが,現在はブラジルで年金と豆腐作りで生計を立て,夫婦で暮らしている。 田村氏は,2008 年,自らの墓を建立するために,日本の両親の遺骨を「分骨」をし,ブラジルに持っ て帰ってきた(写真 3 参照) 。 【僕,2008 年に日本にいって,親の遺骨を分骨して持ってきたのよね。 ここに墓を作るために。ここの市営墓地ですけど,その市営墓地を買うためには,遺体がなかっ たら売らんわけ。そのときに僕どうしてもその墓がほしかったわけ。 (中略)市営墓地だった ら全然(管理費が) かからんから。 それを買いにいったら,遺体がなかったら全然売らないといっ たから。自分は自分の親の遺骨を持って来ようとおもっとると。 「その遺骨を持ってくる場合 にはどうしたらいいのか」と, 「置くところがないから売ってくれんか」といったら,すぐに買 うて。墓作って, そして日本に取りに行ったの。そして持ってきて,ちゃんと墓を作って,今度, 僕の義理の母が今年なくなったからそこに一緒に葬った】 田村氏は墓をブラジルの市営墓地に購入したかったという。そのためにも両親の遺骨の「分骨」 は必要なものであった。墓に納骨するための「先祖の遺骨」は,田村氏がブラジルで死を迎えるため に重要なものだった。 【ブラジルの田村家ね。日本の田村家は四男が,僕の弟がみとる。9 人兄弟がまだ日本におって, みんな健在ですけど。鹿児島におりますけど。その人が家をまもっとる。それで,墓はあるけど, 僕がこっちに一人やから墓を作ったほうが・・・ (中略)僕,その坊さんに最初,弟に聞いてもらっ たの。こうこう理由で自分も持って行きたいから,分骨できないかと。それから出来るか出来 ないかをお寺のお坊さんに聞いてくれと。してもいいといわれて,そして僕,こっちからいっ たの。(中略) ちゃんと,お寺の坊さんが書類はくれるわね。これは誰々の,これは田村道頼の, その遺骨です。というのは,証明するのはくれる】 ― ― 9 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 日本の田村家は四男が家を継いでいるという。田村氏はブラジルで独立農となってから三男を呼 び寄せたが,三男は家族と日本にデカセギに行ったまま日本に留まった。そのため,田村氏にはブ ラジルに血がつながった親族はいない。分骨をするには,日本にいる親族,特に「日本の田村家」を 継いでいる四男には相談し,協力してもらわなければならなかった。また,日本の寺にも分骨が可 能かを確認しなければならなかった。分骨が可能となると,田村氏は日本に帰国し,兄弟総出で分 骨を行った(写真 4 参照) 。分骨は仏式で執り行った。カトリックに改宗し,熱心なカトリック信者 である田村氏もまた, この時には手に数珠を持ち,儀式に参加している。そして,日本の寺で分骨し, その遺骨が誰のものであるか,その証明書をもらった。このように,寺から日本の「田村道頼」の遺 骨であると証明され,その証とともに遺骨をブラジルに持ってくることで, 「日本の田村家」に確か なルーツを持つ「ブラジルの田村家」が作り上げられたといえる。田村氏の「ブラジルの田村家」と いう独特な家族観は,普段の生活の中にも明確に示されている。例えば,彼のパソコンには「ブラ ジルの田村家」というフォルダが作成されている。その中には,田村氏の子どもや孫たちの名簿が 入っている。田村氏にとって「ブラジルの田村家」は先祖の遺骨を分骨し,ブラジルで納めるという プロセスで創造されたといえる。 【ブラジルに連れてきて,一ヶ月ここにおいて。そして,そのとき(神父が)葬式ここでしてやっ たときの写真。カトリックの様式で。そして,ここでお祈りしていって, (墓地に)連れて行っ て。うちの婿,一番上の婿が(遺骨が入った箱を)抱いていって。途中で一番末っ子の婿さん が・・・だいて】 このように,ブラジルに来ると田村氏の両親はカトリックではなかったが,カトリックの司祭に よって葬式を挙げ,子どもたち夫婦もともに祈りを捧げ,墓地に埋葬しに行った(写真 5 参照) 。こ うして,日本で分骨し,ブラジルで埋葬する過程において,日本では仏式,ブラジルではカトリック 式で儀式を行った。あくまでも,ブラジルにおいては, 「ブラジルの田村家」の先祖としてブラジル 文化に従って埋葬されたのである。 また, 「日本の田村家」 にルーツを持つ「ブラジルの田村家」といっても,姻族である妻の両親も重 要な存在である。ブラジルで「家族」 は妻と子供たちしかいない田村氏にとって,義母はブラジルで 唯一「母」と呼べる人だった。 【今回僕の義理の母が亡くなったとき,お父さんはこのイタペセレイカというところにあるわ けよね。それは,金閣寺といって,日本の,アレがあるわけよね。イタペセレッカというとこ ろに。日本の金閣寺の分家というか,分かれたアレがあるわけです。ブラジルの金閣寺。そこ においてあるわけよね,骨が。弟の墓なのよね。その弟に言うて,その金閣寺にお母さんをお いても誰も墓参りしてくれる人もおらないと,自分としてはこっちにおきたいから,そしてこ こはまだ土葬するもんね。葬式は。それから,火葬すれば 3 倍も 4 倍もかかるわけよね。そや ― ― 10 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) から,こっち置きたいから。だけど,本人としては,自分の旦那さんと一緒に行きたいという わけさ。それから分骨して持ってきて一緒にいれてやったの】 2010 年に田村氏の妻の母親が亡くなった時にも,この田村氏が建立した墓に納骨した。しかし, 生前, その義母はイタぺセレイカの墓地に埋葬されている義父と一緒の墓に入りたいということで, 義父の遺骨を分骨して田村氏の墓に埋葬したのだという。こうして墓には田村氏の両親と妻の両親 が埋葬されている。そもそも,田村氏が「分骨」を思い立ったのは,ブラジルで NHK の衛星番組を 見てのことだった。 【僕,これを分骨すると言うことを聞いたのは,この何かの NHK やったと思う。何かの話で, 墓参りいけないけど,まだ向こうにも兄弟のこっとると,それで分骨して持っていくという話 を聞いたから】 田村氏はブラジルと日本間における「分骨」を日本国内における分骨の延長線上に語る。彼にとっ て,故郷である鹿児島から離れた人々は,移住先が東京であろうが大阪であろうが,そしてブラジ ルであろうが,みな移住者である。現在,鹿児島と東京間で分骨による先祖の移住が行われている のであれば,鹿児島とブラジル間でも「分骨」による「先祖の移住」は可能であるという。こうした 発想は,飛行機によってブラジルと日本の間を短時間で移動することが可能となり,衛星放送で日 本の事情をタイムリーで知ることができる現在だからこそ,生まれたのだと考えられる。日本国内 の移住と,ブラジル-日本間の移住を同一線上に語り,分骨するという発想は,戦前,2 カ月もかけ て船で渡伯するような時代には,考えられない発想だったのではないだろうか。 以上のようなことから, 「分骨」 による「先祖の移住」は,田村氏が移住先であるブラジル自らの墓 を建立するプロセスにおいて必要な要素となった。確かにそれは自らの生の最終地点となる墓の建 立には遺骨が必要である制度上の課題をクリアするためのものであった。移住者には,移民先にお いて死を迎えるにあたっても試練が課せられている。そうした試練を乗り越える上でも,田村氏に とって先祖の移住は必要であった。 「分骨」によって証明書付きの「先祖の移住」によって,歴史や先 祖を持つ「ブラジルの田村家」 が創造され,ホスト社会において堂々と死を迎えることができるので はないだろうか。戦後移民の田村氏にとって,「ブラジルの田村家」を創造するプロセスの中には, 自らが先祖になるという要素は含まれない。戦後に渡伯した田村氏は,先祖の移住が比較的容易に 行える時代であるために,自らがブラジルで先祖になると表明する必要はなかったといえる。むし ろ,先祖を連れてくることによって日本に確かなルーツを持つ「ブラジルの田村家」創造できたと いえる。そして,この「ブラジルの田村家」は日本の田村家を単にブラジルに移植しただけのもので はない。唯一の親族となる妻(2 世) の家族もまた「ブラジルの田村家」として埋葬される家族とされ た。こうした「墓」 を巡る「分骨」 という実践は,移住先において歴史や家族,先祖がいない移住者だ からこその知恵なのではないだろうか。 ― ― 11 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 4. おわりに 移民にとって,文化的にも,制度的にも,経済的にも一人前になるためには様々な障壁がある。 しかし,それは生という側面だけではなく,死を迎える時にまで残される。たとえ,移住者として 一人前になったとしても,死を迎えようとする時に再び一人前に死を迎える努力と知恵が必要にな る。 ブラジル日系人の墓は, 日本語とポルトガル語の2つの言語によって墓碑が刻まれている。これは, ホスト社会に向けた民族的なアイデンティティを表出していると同時に,ブラジルにおける子孫た ちを意識したメッセージであると考えられる。そして,そうしたメッセージには,ブラジルにおけ る「○○家」の最初の先祖であるという移住者の思いが込められている。一方で,墓そのものからエ スニシティであったり,民族的なアイデンティティであったり,あるいは子孫たちに向けた明確な 意志が読み取れない場合であっても,墓を巡る人々の実践から移住者たちの家族への思いが読み取 れる。田村氏にとって,日本における先祖の遺骨を「分骨」し,ブラジルに埋葬することによって, 日本にルーツをもつ確かな「ブラジルの田村家」を再構築したと言える。また,戦前移民に比べると 自らが「先祖になる」 という思いは希薄であり,むしろ先祖の移住によってルーツや歴史を明確にす ることが重視されているように思われる。さらに,2 世である妻の両親の遺骨も分骨し,田村家の 墓に埋葬することは,もともとブラジルにおける家族や歴史がない移住者だからこその広範囲な家 族観が浮かび上がってくる。 本稿では,ブラジル日系人の墓を通して,いかにして移住者が移住先での生を解釈しているのか, 家族という視点から見てきた。移住者の墓を見ていく上で,このような墓は,日本語や日本文化を ほとんど習得していない 3 世や 4 世によってどのように継承されていくのか,そして,彼らにとって 1 世が残した墓はどのような意味を持つのかなど墓と家族に関わって残された課題も多い。また, 現在は,日系ブラジル人たちがデカセギ先の日本で亡くなり,日本からブラジルへの「骨の移動」も 見られるようになってきた。彼らのそうした宗教実践は,かつての日本移民の宗教実践に通じると ころがある。そのような今日の日系ブラジル人の宗教実践も今後の課題としていきたい。 【参考文献】 前山隆『ブラジル日系人とエスニシティ』1996 年 森幸一「ブラジル沖縄系人の祖先崇拝の実践―彼らとブラジル・沖縄・日本との関係の変化に注目して」 『アジア遊学』 76,2005 年 半田知雄『移民の生活の歴史』1970 年 李仁子「異文化における移住者のアイデンティティ表現の重層性」 『民族学研究』1996 年 朽木量「物質文化からみたマレー半島の日本人移民~墓標に表われた移民社会とその特徴~」 『国府台経済研究』2004 年 後藤明「『ことば』と『かたち』の狭間で―歴史考古学的資料としての墓石と多民族社会における文字表象について―」 『物質文化』59,2005 年 ― ― 12 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) 鈴木正威「戦後移民試論―その性格と役割」 『人文研』6,2005 年 ラファエル・ショウジ(高橋典史訳) 「神道ナショナリズムのはずれた予言と日系ブラジル人カトリックの興隆」 『國學 院大學研究開発推進機構デジタル・ミュージアム 双方向翻訳プロジェクト』,2009 年 資料 写真 1 ブラジル日系人の日本式の墓 写真 2 アルバレス・マッシャード日本人墓地 ― ― 13 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 写真 3 ブラジルにおける田村家の墓 写真 4 日本で行った先祖の分骨(田村氏提供) ― ― 14 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) 写真 5 ブラジルで行った先祖の埋葬(田村氏提供) 【註】 ⅰ 2008 年 8 月の調査において,3 世である E さんは,サンパウロ市郊外の墓地を巡っている際に,「日本人は墓を高 く作るのよ」と語った。このように,ブラジル日系社会の中において日系人の墓に関するステレオタイプ的な語り が見られる。 ⅱ 日系人の墓に添えられている木製の十字架は,塔婆の代わりに使用されたりもする。サンパウロ州モジ・ダス・ クルーゼス市の A 寺の住職(2012 年 3 月調査)も葬式をつとめた際に,塔婆として十字架を使うように遺族から依 頼されたという。 ⅲ 前山隆『異郷に「日本」を祀る』p148。 ⅳ 移住者の墓に関しては,民族的アイデンティティやその伝統的文化の表出として論じられる傾向があるが,李 (1996)は,在日コリアンの日本に建立された墓を「自分らしさ」というアイデンティティの重層性という視点から考 察している。 ⅴ 同上 p143。 ⅵ 朽木量「物質文化からみたマレー半島の日本人移民~墓標に表われた移民社会とその特徴~」 『国府台経済研究』 第 19 巻第 3 号(2004)。 ⅶ 人類学における 物質文化研究については,祖父江らの共同研究グループ(○○)によって「文化のなかからモノ だけが切りはなされ , それだけが独立して研究されがちであった。しかしやはり必要なのはモノと人との関係を perspective にみていく立場であろう」 (p295)と述べられ,「人」と「モノ」の関わりに着目する必要性がある。 ⅷ 同上 p143。 ⅸ 後藤明,朽木量。 ⅹ 越智郁乃「墓と人のエージェンシー-現代沖縄における墓の変容を事例に-」 『アジア社会文化研究』13 号,pp1332,2012 年。 ― ― 15 ブラジル日系人の家族観に関する文化人類学的研究 ⅺ 前山隆『ブラジル日系人とエスニシティ』1996,p12。 ⅻ 同書,15 頁,32 頁。ただし,カトリックの宣教活動は,移住初期のころからブラジルカトリック教会とカトリッ ク教徒であった一部の日本移民により積極的に行われていた。例えば,佐藤(2010),ラファエル(2009)。 ⅹⅲ 半田『移民の生活の歴史』1970,712 頁。 ⅹⅳ 前山隆『異文化接触とアイデンティティ―ブラジル社会と日系人』2001,112 頁。 ⅹⅴ 森幸一『ブラジル沖縄系人の祖先崇拝の実践』2005,92 頁。 ⅹⅵ 日本からブラジルへの移民事業は,第 2 次世界大戦中,一時中断されていたが,1952 年に再開された。戦後移民 とは,1952 年以降,日本からブラジルに移住した人々である。彼(彼女)らの多くは,戦前移民とは異なり,移住当 初から永住が前提で渡航している。 ⅹⅶ 森幸一「ブラジル沖縄系人の祖先崇拝の実践」92 頁。 ⅹⅷ 鈴木(2005)によると,戦後移民の場合,当初は永住目的でブラジルに移住してきたが,実際は日本への U ターン 現象がみられるなど移動性は高い。 ⅹⅸ アルバレス・マッシャード日本人墓地の過去帳によると,墓地の埋葬者の多くは 1 ~ 2 歳の小さい幼児であった。 ⅹⅹ レジストロやコチアなどのかつての日本人大集住地にある墓地では,初期に埋葬された区画には日本移民の墓が 多くみられる。 ⅹⅹⅰ墓碑が日本語表記されていたり,ローマ字表記でも墓碑に刻まれた氏名から明確に日系人だと分かるものを抽出 した。 ⅹⅹⅱ前出 p413。 ⅹⅹⅲ移民事業が開始される以前の1905年に渡伯し,日本移民の草分け的存在である。コチア農業組合設立に尽力した。 ― ― 16 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 62 集・第 2 号(2014 年) The Anthropological Study on Outlook of Family of Japanese in Brazil : The Tomb and “BUNKOTSU” Etsuko SATO (Graduate Student, Graduate School of Education, Touhoku University) In this report, putting into focus on the religious working of Japanese in Brazil, created the way of life and death of migrants in Between Japan and Brazil. In previous studies, the tomb of Japanese in Brazil has not been studied in great detail. In particular ,it has not been noted of the tombs of Japanese migrants ,which erected after WW2 when postwar religion of Brazil Japanese society has changed greatly . Tombs of Japanese in Brazil was erected in earnest in after the war. At the same time that those are written in two languages: Japanese and Portuguese, Japanese resistance has been exposed, the information engraved on the tombstone will receive as a message for these descendants. On the other hand, there is also a tomb of Japanese in Brazil, that was built in the manner of a grave the same as the non-Japanese people in Brazil. There is tombs with last name is published in Roman letters only, can not be taken to see the elements of Japanese. However, by noting the various religious practice over the tombs like this, ideas of life and death , the family in the migration destination of Japanese in Brazil ,less likely to be exposed from the tomb itself. Keyward : Japanese in Brazil, migrant, tomb, BUNKOTSU, family ― ― 17
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