7 2 9号 昭和 5 5 .1 0 第2 ダクタイ}レ鉄管 らば、人間の芸術とはなんとすばらしいと思 うであろうか、ということであって、これは いわば芸術至上主義の立場にあっての発想で あったとみることが妥当であろう。しかし自 然は、一口に美だけでは表現しえないので、 “美抑 の?捗君臨 とにかく自然のこころを、自然の語るところ を聞き、見、味わい、感ピなければならない で、あろう。 しかし、たとえば問ピ美であっても、酸化 した鉄はそれ以上亡びない美を表出している。 王朝時代の美の極限ともいえる「わび、の美」 伊藤敬子(俳人) の典型はこんなところにあった。そして、芭 蕉も不易といい、流行といったが、前者は不 滅なるものであり、後者は一時の変化であっ て、その時その時に応じて変化するもの。流 行しはてたものは、さびつきたものであり、 それ以上さびることはない。したがって、さ びの極までいきついたものは不滅である。換 事 言すれば、流行は不滅性を持つことになり、 ここでも視点の自在性を抱念している。流行 「自然が芸術を摸倣する」といったのは、 と不易の背理性を、ーなるもので統一する思 オスカーワイルドであったが、この不定条件 想の上に把握したところに、芭蕉の視点はあ と背理性、ないしは逆接性が、私たちの思考 った。 と発想、にあってはきわめて大切であることは 「さび、の美」は「無上の美」へと連続する いうまでもない。自然および美の世界に対す が、この「無上の美」というのはややもすれ る視点においてもそれが大きく自在性を与え ば悲しいセンチメンタルなものに思えてくる。 高めてきたということがいえる。 しかし、完全に流転し、無常になりきったも ワイルドのいう自然と、文学上の自然主義 のはそれ以上滅びはしなし」したがって龍安 の自然とは本質的に違うものであるが、自然 寺の石庭からは、みりんの動揺も生まれはし が芸術作品によって一層真迫性を持って再現 ない。永遠の中に、不変不動の姿で実在する。 されることが即ち、「芸術が自然を摸倣する」 そこには耐え抜いたもののみが持つ堅固さが という表現の意味内容であろう。しかし、も あり、美があり、日本芸術の無常に打ち勝つ ともと自然が芸術を摸倣するなど、ありえな 美がある。つまり逆手にとって、自ら無常に いことであって、芸術家にとって自然の美は なりきることによって美になりきる、という あくまでも最高のものである。 わけである。 自然美は厳然とある。この自然を克服しよ 「わび、の美学」には「無常感の美学」があ うとする唯美主義者たちは、自然美をしのぐ るD 亡びつきた美、無にものをいわせる美学。 美しさを表現することによって、自然が芸術 亡びが不滅に達した「無」は宇宙的広がりを を摸倣するような美を芸術の中に再現したい 持っていて「無常の美」ヘ連続する。 と願望してきた。 物中無尽蔵」ということにもなる。 r 無一 ワイルドの逆接的表現の裏に仮託されたも このように見てくると、美の中枢をなす思 のは、人聞が美に感動する心を持っていたな 想、は、いつも背理性の中で不定条件にしたが 7 3 随筆 った逆接をはらみ、説得し、生長し、熟成し てきたようだ。 をもたらす。 いったい花を見る時、人々の心をかきたて 冒頭でご紹介したワイルドの「自然が芸術 る一種の不思想ななやましさの感情は、説明 を摸倣する」に戻って考えてみると、人間の 不能の部分が多いとしても、有史以来花がエ 思考の範噂が明瞭に見渡されるのがおもしろ ロスと結びつけられてきたことは事実である。 い。そして、日本の中世が見つけ出したわび 源氏物語にはいろいろな花が咲き誇り、練乱 の美の概念が、いかに象徴性に富んだもので と咲き溢れ、四季折々の陰麟を深くしている D あったか、に思いをめぐらす日寺、つつましい そして花は、心象と結びつき、ひとつの世界 象徴の美が私たちの身辺にいくつも見い出せ を審美的に修飾してきた。源氏物語で最初に ることがわかってくるので、静かに身辺をみ 読者につきつけられる花は、いうまでもなく つめることも楽しみなものである。 萩である。萩の花にはさ牡鹿を配置すること 烈日の光の中て¥百日を緋紅の花冠で飾る 百日紅は、いったいあのなめらかな樹相のど が日本文学の常套であった。色はといえば、 もちろん紫である。人の情念に深くしみつい こにその秘を秘めているのであろうか。炎暑 たこの色は、まず衣を染めた。それから、情 の眼目量のひとひらの化身となって、やがて風 念の炎は紫色を放って燃えることを常とした。 に委ねる花弁。百日紅の生命をえぐり取るよ このようにして色は、象徴の世界ヘ入ってい うな言葉と表現を求めて摸索するが、いった く口可視光線の世界にも不可視光線の世界に い私たちは現実の目前の花にあれこれ魅せら も、入っていく時、紫の色は魂の存在の秘密 れて花が好きになるのであろうか。花の宿す をも照し出す色素となる口 美、自然の美に対して、人々は潜在的に飢渇 こんな風にして“美"の渉猟は転じては深 感を持っていて、それを癒すために現実の花 化し、楽しみを多く与えてくれる。視点の位 に日艮を向けるのではなかろうか口 置を転換させるたびに新しい視野を提示して 昔、小学唱歌に「垣に赤い花咲く、いつか くれて、これが自在性を高めていく。ワイル のあの家」というのがあったが、あの歌/を ドも、中世も、芭蕉も、源氏物語も、同ピ美 思う時、私たちの心によみがえるあの歌の歌 の糸によってつながれている。 詞と旋律から、反射的に想起される心象風景 視点の自在性ということは、とりもなおさ こそ、郷愁の美の世界といってよいであろう。 ず 80年 代 を よ り 実 り 多 く 生 き 抜 く た め の 、 示 人々にそのような黙契があって、心象の中に 唆のひとつに加えていきたいと私は思ってい かつて印象された原画が消失することなくい る 。 つまでも温存される。記憶はなん回も再生さ れ、一種の錯覚の中の世界がかえって安堵感 (愛知県西三河水道事務所長 夫人) 伊藤和吉氏
© Copyright 2024 Paperzz