1 平成12年2月22日 成田警察署における供述調書 供述調書(甲) 本籍

■平成12年2月22日
成田警察署における供述調書
供述調書(甲)
本籍
大阪府宝塚市光が丘町一丁目一三番地の一五四
住居
茨城県東茨城郡大洗町神山町一三二〇番地
職業
無職(ザ・グル)
電話番号
氏名
ホテルパシフィック大洗二一二号室
不明
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年二月二二日成田警察署において、本
職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べたところ、
任意次のとおり供述した。
(一)自分の意志に反して話さなくて良いと警察の人から説明をしてもらい良く分かりました。
(二)ただ今話した住居地には昨年一一月一八日から SPGF メンバーと同居しています。
住居地に住む様になったいきさつは、それまで住んでいた成田市内にありますマロウドインターナシ
ョナルホテル成田において私達 SPGF メンバーの仲間であった小林晨一さんがミイラ化遺体と成田警察
署が報道機関に発表したことで住めなくなり引っ越して来て住むようになりました。
(三)私の生まれたところは、香川県香川郡弦打村字御殿と聞いていますが詳しい番地等については分
かりません。
(四)位記、勲章、年金等の意味については、よく分かりました。私には関係ありません。公務員にな
った事はありません。
(五)前科前歴関係ついては一回も無いし、悪い事をして警察に注意された事もありません。
(六)私の最終学歴は、昭和三三年三月に香川県立高松高等学校定時制課程普通科を卒業しました。
ちなみに小学校は地元にあります、高松市立弦打小学校。中学校も地元にあります、高松市立弦打中
学校をそれぞれ卒業しています。
(七)私の経歴は、当時海軍軍人であった、父、幸一。それに従軍看護婦であった、母、マサエとの間
に長男として生れ、高校を卒業後、弦打村の村長であった梶さんという人の紹介により、大阪市内に在
りました、大阪日産プリンス自動車株式会社に就職しました。
会社であり、私は経理部に所属しておりました。
この会社は自動車のディーラー関係の
一∼二年勤務しておりましたが、叔父さんが、大阪
で一旗揚げたいのだったら俺のところに来い、との誘いがあったので辞めてしまいました。
それから叔父さんの紹介先である、株式会社日本ヴィテイ、という尼崎にある建築足場の会社に経理
として就職しました。
四∼五年位勤務しておりましたが、独学で税理士の資格を取得しようと思い辞めたのです。
その後、私は独学で税理士の勉強をし、昭和四〇年一月二六日に日本税理士会連合会より、税理士の
免許を取得したのです。
それから税理士の見習いを一年位やった後の、昭和五二年ごろ、兵庫県尼崎市南武庫之荘に、有限会
1
社高橋経営、と言う税理事務所を設立しました。
それから有限会社ライフスペースを設立するのですがそのいきさつ等について話します。
この頃、私が鎌倉に住む、田里亦無という大学の先生、のところに月一回勉強会に行った際に田里先
生にアメリカに於いて当時、業界最大手と言われた「ライフダイナミックス社」の気付きのセミナーを
勧められて受講し、私も感銘したのです。
そしてその頃私は「JC」と言う四〇歳までの若い社長の集まりに加入しておりました。
そこで結果
としてこれらの人脈を利用して自己啓発セミナーを開催したところ、一回のセミナーで一〇〇〇人以上
が集まる時もあり、好評であったことから、これを契機に昭和五八年三月二二日に有限会社高橋経営を、
有限会社ライフスペース、と名称変更、商業登記し事務所も大阪府吹田市に移したのです。
有限会社ライフスペースを設立するまでのいきさつはただ今話したとおりです。
つづいてライフスペースの活動状況について話します。
ライフスペースの活動方針はインドの教育哲学者サイババの教育システムに基づくセミナーを開催す
るための会社がライフスペースであり、平成六年ごろから私はサイババの弟子と名乗りセミナーを開催
し収益を得ていました。
その後の平成七年二月のセミナー中に受講生が「風呂行」により死んでしまった事でこの受講生の両
親に提訴され裁判の結果敗訴してしまいました。
この事でマスコミ等に「カルト集団」と取り沙汰されたことで関連施設の家賃滞納等が重なり、私は
平成八年一〇月一日に代表取締役を辞任しました。
そして私に代わって中屋敷妙子が代表取締役となり現在に至っています。
この様な状態で現在、ライフスペースは、休眠状態にあり、現在に至っています。
現在活動を行っている SPGF は、ライフスぺースとは全く別部門、でありますが、ボランティアスタ
ッフはライフスペースの卒業生や元スタッフで運営しています。
私と SPGF の関係は、例えて言うならば、私が政治家で SPGF が後援会という関係になります。
SPGF の役目は、私の情報を正しく世界へ伝える、ことだけです。
(八)私の財産、収入関係について話しますと、財産にあっては一切ありません。しかし税理士を開業
してから平成六年頃までは、納税額が一〇〇〇万円以上の高額所得者、でした。
収入にあっても平成六年以降は一銭もありません。
現在は乞食同然です。
衣食住は SPGF のメンバーのボランティアで賄っています。
(九)趣味・嗜好関係について話しますと、趣味については、平成六年以降は特にありません。
それ以前はゴルフでした。
資格関係は、昭和四〇年一月二六日に日本税理士会より、税理士の免許を取得しております。
嗜好関係にあっては、飲み物は紅茶、食べ物はエビ・蕎麦・トマト、が好きです。
お酒は税理士時代は、付き合いで飲んでおりましたが平成六年以降は飲んでおりません。
煙草は吸ったことはありません。
(一〇)私の家族関係について話しますと、平成六年三月ごろ、当時私が代表として設立していた有限
会社ライフスペースのメンバーであった、旧姓山元伸子(三九歳)とサイババのメッセージで結婚しま
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した。
妻は鹿児島県名瀬市出身であり、私の身の回りの世話をしています。
現在私と同居しておりますが、出掛けることが多いです。
妻との間には子供はおりません。
そのほか二回の離婚歴があります。
最初が、昭和三七年九月ごろの当時私が、尼崎の株式会社日本ヴィティに勤務していたころ、アルバ
イトに来ていた、旧姓浅野●子さんに入籍を頼まれ一年間だけ入籍したことがあります。
ですから正式に結婚したわけではないのです。
続いて二回目は、昭和四三年六月ごろの、当時、私が兵庫県尼崎市内で税理士事務所を開業していた
時に税理士事務所に勤めていた、旧姓
中野●子、と知り合い結婚しました。
しかし平成六年春ごろ協議離婚しました。
その理由は、私が中野●子に対しサイババが言う GURU になると言ったら、税理士の奥さんだけだっ
たらいいけど GURU の奥さんは嫌だ、と言ったので離婚し、今度はサイババのメッセージで現在の妻で
ある、旧姓山元伸子と結婚した訳です。
現在中野●子はスペインのマヨルカ島に住んでいると思います。
中野との間に、長男
高橋●、昭和四五年一一月●日生、次男
高橋●、昭和四七年一二月●日生、
がおりますが、これは私が認知した子供であり実際には私の子供ではありません。
現在、長男・次男の住んでいる場所は私には全くわかりません。
私の両親は既に死んでしまいおりません。
兄弟は、妹●代、昭和一七年一二月●日生(五七歳)がおります。
現在、大阪市阿倍野区天王寺町、に嫁いでおり、●姓になっております。
そのほか、腹違いの兄
●、大正一五年一二月●日生、がおり、現在香川県高松市内に一人で住んで
います。
(一一)私の現在の健康状態ですが、舌が割れて非常に痛んでおり、自分では舌癌ではないかと思って
いましたが、本日医師の診察を受けております。
その他に中学三年の時に、空気銃の暴発で右目を失明、しております。私の身上関係については只今
話したとおりです。
高橋弘二
右のとおり録取し読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名指印した。
前同日
成田市警察署応援派遣
千葉県警察本部刑事部捜査第一課
司法警察員
警部補
西田栄
立会補助者
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右同
司法警察員
巡査部長
高木肇
■平成12年2月23日
千葉地方検察庁における供述調書
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居
不定
職業
無職
氏名
高橋弘二
電話
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年二月二三日成田警察署において、本職
は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、
任意次のとおり供述した。
(一)この時本職は、司法警察員送致書記載の被疑事実を読み聞けたところ只今読んでいただいた被疑事実
についての弁解は全て否認します。
読まれた事実に何一つ真実はありません。
と申し上げておきます。
(ニ)これを今少し具体的にお話ししますと、まず、私は SPGF の主宰者ではなく、いわばシンボルのよう
な立場で、小林健児達などに対して「指示」するという立場にはありません。
私としては、単に小林健児やそのほか SPGF のボランティア達の求めに応じるなどしてその都度定説
をそのまま彼らに説明しているだけでそれ以上に彼らにどのような行動をとれとか、判断をしろという
指示はしていません。
(三)小林晨一さんが脳内出血という診断で市立伊丹病院に入院して多種類の薬剤の点滴治療を受けてい
ることは健児から聞いて知っていましたが、健児から病院側で晨一さんに点滴により投与している薬剤
の名前を聞き、倒れてから四日以上晨一さんが生存しているということも健児から聞いていましたので、
私は晨一さんは脳内出血ではないと思っていました。
現在でも、そう思っております。
これは定説によれば、脳内出血で倒れれば九九パーセント即死し、即死しなくても三日以内に必ず死
ぬことになっているからです。
ですから、四日以上生きていた晨一さんは脳内出血ではありませんでした。
ただ、健児の説明では晨一さんに投与している薬剤にブロバリンという薬物があると聞いており、こ
れは、アルコールを過度に飲酒している晨一さんにとっては生命に極めて危険な劇薬ですので、そのよ
うな劇薬を投与し続けていると晨一さんの生命が極めて危険だということを健児に何回か説明しました。
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しかし、これは、健児の求めに応じて私が定説を説明したのに過ぎず、晨一を病院から連れ出すよう
に指示したものではありません。
晨一さんを病院から連れ出す判断をしたのは、あくまでも健児です。
ですから、読み聞かされた被疑事実の中にあるような言葉を私が健児にこのような表現で言ったとい
う覚えはありません。
ただ、定説に基づいて晨一さんにこのまま劇薬を投与し続けていると生命に危険だという説明を何回
かしただけです。
晨一さんに市立伊丹病院が投与している薬剤については、だいたい二〇種類くらいの名前を健児から
聞いており、これについては健児が市立伊丹病院の医師から聞いたはずです。
私は、この薬剤の名前などを健児から直接聞いており、そのほか市立伊丹病院に入院中の状況などに
ついては、ボランティア秘書である西澤みどり、今井千恵子、笹俣加奈子から聞いていました。
(四) マロウドインターナショナルホテル成田に連れて来られた小林晨一さんは、私が見た限りでは、意
識がとぎれとぎれで明らかに劇薬の投与による後遺症の症状がありました。
その症状というのは、定説によれば六つあり、特におなかの周りにおできができており、線香を焚く
ような体臭が強くあり、歯茎がただれており、頭髪がふさふさしており、臍を中心にその周囲が澄色に
なっており、爪が白くなっていました。
そこで、私は健児達に対して
晨一さんは、定説によれば劇薬投与の後遺症があり、これを現状回復させるためには、定説によれば六
か月以上放置して、その後二か月温泉療法でリハビリすれば社会復帰できる。
これ以外にはない。
と言って、定説の説明をしました。
この「放置」という言葉の意味は、客観的、外形的な行為としては何もしない、ということですが、
精神的には冷たく見放すという意味ではなく、暖かく見守るということですので、その点を説明してお
きます。
この定説に従って健児達は、晨一さんには外形的には何もしなかったのだろうと思います。
(五)このようにして、晨一さんは SPGF のボランティア達が暖かい心で見守って五か月を経過し、六か月
になる前に司法解剖されてしまいました。
司法解剖されるまでは生きていました。
その根拠は、死体解剖による医師の所見が死後三週間から四か月というものでしたが、定説によれば、
人間が死亡すれば殆ど三週間で白骨になり、例外的に一部ミイラ化して死亡する場合には死亡日が確定
できるはずなので、このような死後三週間から四か月という死体解剖に基づく所見はこの定説からすれ
ば間違っており、死体解剖の結果がそのような所見だということは裏返して言えば、死体解剖の時には
まだ晨一さんは生きていたということになるからです。
(六)読み聞かされた被疑事実によれば、平成一一年七月三日ころに晨一さんが窒息して死亡したとありま
すが、確かにそのころ晨一さんの呼吸が一時止まったということがあったと聞いています。
しかし、定説によれば、過大な劇薬投与の後遺症により痰が粘って最大限六〇分呼吸が停止したよう
になることがあるので、その時の晨一さんの状態はこれによるものでした。 この時、私は
三〇分呼吸が止まったようになっても、それは定説によれば六〇分の場合が多いので、その範囲内だか
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ら気にしなくていいよ。
と説明した覚えがあります。
呼吸が止まったようになると申し上げたのは、実際には微弱な呼吸があり、勿論心臓も動いています。
ただ脈がとれない状態になっています。
なお、劇薬の表記については、定説によれば「激薬」ですので、その点をご理解願いたい。
(七)以上、申し上げたことがこの被疑事実に対する私の弁解ですが、一言付け加えれば世間をお騒がせし
てお詫びのしようがありません。
申し訳ありませんでした。ということです。
(八)弁護人を選任でき権利があるということは、取調のはじめに説明を受けてよくわかりました。
高橋弘二
右のとおり録取し読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名指印した。
前同日
千葉地方検察庁
検察官検事 木野秀器
検察事務官 柴田義典
■平成12年2月25日
成田警察署における供述調書
供述調書(甲)
本籍
大阪府宝塚市光が丘町一丁目一三番地の一五四
住居
茨城県東茨城郡大洗町神山町一三二〇番地
職業
無職(ザ・グル)
電話番号
氏名
ホテルパシフィック大洗二一二号室
不明
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年二月二五日成田警察署において、本
職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べたところ、
任意次のとおり供述した。
(一)只今からライフスペースの設立のいきさつから SPGF 発足と現在の活動状況について話します。
(二) まず最初にライフスペースの設立のいきさつから話します。
ライフスペースの設立のいきさつは目的がインドの教育哲学者であるサイババの教育哲学をセミナーで
開催するため私が設立したのです。
設立したのは昭和五三年ころであり、事務所は大阪市吹田市に設けました。それまでは税理事務所有機
会社高橋経営を営んでいたのです。そしてライフスペースを設立したことから有限会社高橋経営を有限
会社ライフスペースと商号変更しました。
私が言うインドの教育哲学者サイババという人は男性でインドで六番目に出来た空港の隣にあたる場
6
所にインド唯一の国立病院とインド唯一の国立大学がありますがこの国立大学のキャンパス内に住んで
いるのです。
このキャンパスは、ブラシャンテイ・ニラヤム州にあります。
私は平成三年ころから平成九年ころの間に一二回位インドに渡航しており、その間五〇〇∼六〇〇回
サイババと会って話をしたことがあるのです。
サイババの職業は現役インド大統領ナラヤナンの特別顧問がメインで空港と病院と大学のオーナーで
もあります。
ただ断言できるのは、宗教家ではありません。
私はこの世でサイババ一人だけを崇拝しております。
ライフスペースの設立のいきさつは只今話したとおりです。
(三)ライフスペースでの活動状況について話しますと、スタッフは設立当初から平均しますと二〇名
位で活動しておりました。
活動状況は、サイババの教育システムをネタとしてセミナーの台本を作り、セミナーを開催し収益を
得ていたのです。
当初は好評で非常に景気が良かったのです。
ところが平成八年の初めころ三重県の合歓の里(ヤマハリゾート)においてマスコミ等が言う「風呂
行並びに熱湯修行」の初日のセミナーの際当時大学生であった小林靖弘が入浴中に滑って転倒し、病院
に入院した後死亡してしまったのです。
ここにおいて本職は、被疑者と次の問答をした
(問)
小林靖弘は熱中症で死んだのではないか。
(答)
そんなことはありません。
私は、小林靖弘が風呂場で滑った現場は見ておりませんが京都地裁の判決文に風呂場で滑ったのが原
因で死亡したのだからその事について罰金を支払いなさいと記載してあったのを見たのです。
だから風呂場で滑ったのが原因で死亡しましたと話しました。
ここにおいて本職は問答を終了した。
このことについて小林家族からライフスペースが提訴され、今度は控訴しましたが結果は敗訴に終わ
りましたが現在は控訴して係争中です。
(四)この件でマスコミ等からライフスペースについて力ルト集団と報道されたことからセミナーの参
加者が少なくなり、ライフスペースの施設等の家賃等が滞納してしまい現在は休眠状態であります。
(五)私が言うサイババの教育システムとは、世界的に見て非常にユニークであり国連本部が正当な教
育方法として認証済みの教育システムであります。
ライフスペースのスタッフにあっては主な人物だけ話しておきます。
最初のころは、勿論、設立者は私でしたので私が代表でした。風呂行の件があってからは、私が代表
を退き今度は中屋敷妙子が私に代わって代表になったのです。
私が代表を退いた理由は、結果論として当時セミナー生であった中屋敷妙子が素人なのにセミナーは
勿論今では公判の立会までも出来る優秀な人物であったからです。
その他副代表クラスが山田信●、部長クラスが高橋民●でありました。
(六)続いて SPGF 発足の理由等について話します。
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発足の理由は、元ライフスペースのスタッフや卒業生それに有志一同が次の三つの理由で発足させた
のです。
一つ目が、私がグルと名乗る以上は、金のことについては口も手も出さない。
二つ目が、グルが教科書を出版するのに際し口述はするがそれ以外は SPGF でやれ。
三つめが、グルの持つ正しい情報(最高裁付属図書館、国連図書館等に置いてある超一流の文献すな
わち定説)を SPGF が世界に伝える手伝いをする。具体的に言いますとホームページや出版物が媒体とな
っています。
(七)SPGF と名称づけたのは、グルである私でありシャクティパット・グル・ファンデーシヨンと言う
意味です。SPGF は、頭文字を取って名称づけました。
シャクティパット・グル・ファンデーションを具体的に説明しますと、
「シャクティパット」がインド
のテルグー語でサイババの気やエネルギーを治療目的にだけ使うこと。「グル」とはアメリカ語であり、
アメリカ最高裁判例文献に定説があり、病気治療が出来る。教科書出版が出来る等が出来る者のことを
グルと言います。「ファンデーション」とはフランス語でボランティア団体のことを言うのです。
私とこの SPGF との関係は、SPGF が私の後援会であるとすれば、私は政治家に該当するという関係にな
ります。つまり SPGF のシンボル的立場であり、私の生活は SPGF の本等を売った利益の一部で養っても
らっています。
この様な状態であり、メンバーに対する指示とか命令はあり得ないのです。
(八)SPGF の現在の活動内容は飢餓救済活動を目的として私の情報を出版、ホームページ等を媒体に使
って世界に正しく伝える活動を行っています。
SPGF は、全員がボランティアなのでスタッフはいないのです。
ボランティアラー(ボランティアをする人)は現在二〇〇〇人位はいると思いますが名簿等はありま
せん。
私が把握しているメンバーは一〇名弱位です。
主な人物は、代表役が、私の妻である高橋伸子、その他に、今井千恵子・西澤みどり、であり金庫番
は大久保ヒロマサとなっているのです。
西澤みどりにあっては現在私の秘書役をやっており、SPGF のメンバー等からの質問等を受け私に知ら
せる役目をしており、それに対して私は即答をするのです。
更に西澤みどりは私が即答したのを相手方に伝えるのです。
この様な状況でメンバー等に指示や命令をすることはありませんが、質問に答えるのは間違いありませ
ん。
只今話したことに聞違いありません。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
成田警察署応援派遣
千葉県警察本部刑事部捜査第一課
8
司法警察員
警部補
西田栄
立会補助者
同右
司法警察員
巡査部長
高木肇
■平成12年2月26日
成田警察署における供述調書
供述調書(甲)
本籍
大阪府宝塚市光が丘町一丁目一三番地の一五四
住居
茨城県東茨城郡大洗町神山町一三二〇番地
ホテルパシフィック大洗二一二号室
職業
無職(ザ・グル)
電話番号
氏名
不明
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年二月二六日成田警察署において、本職
は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べたところ、
任意次のとおり供述した。
(一)自分の意志に反して話さなくても良いということは只今警察の方から説明してもらいよく判りま
した。
(二)只今から「小林晨一さんが自宅で脳出血で倒れたということで入院先の伊丹市内の病院からシャ
クテイパット治療を受けるために当時私が滞在していた成田市内にありますマロウドインターナショナ
ルホテル成田一二九〇号室まで家族である小林健児達が連れて来た状況」について話します。
(三)この日にあっては昨年つまり平成一一年七月二日のことであり、七ヶ月以上も経っておりますの
で状況にあっては、小林晨一さんの長男である小林健児(三一歳位)が書いた「父と息子の絆は、看病
すればすぐに、繋がる その 1 パート一四ー一」に闘病日記として記載されているので良く判りますの
で、それを見ながら記憶にあることを話します。ここにおいて本職は、平成一一年一一月一二日千葉県
警察本部警備部公安第一課巡査部長鈴木健二が領置した「SPGF PART 一四ー一」と表紙に記載ある小冊
子を被疑者に提示し説明を求めることにした。
(四)まず最初に私がシャクティパット治療を施した小林晨一さん(六〇歳位)と私との関係について
話します。
小林晨一さんと知り合ったいきさつは、小林晨一さんの長男である小林健児がライフスペースのスタ
ッフになり、それと同時に家族もセミナーを受けるようになったのです。
家族と言うのは健児の父、小林晨一さん。母、小林昭子さん。姉、小林結花さん等です。
9
つまり小林晨一さんとは、ライフスペースのセミナー生として知り合った訳です。
これからは小林晨一さんのことを晨一さん、小林健児のことを健児で話します。
健児がライフスペースのセミナーを受けだしたのはライフスペースの初期のころ、つまり平成二年∼
三年ころであったと思います。
そして晨一さんと昭子さんがセミナーを受講し始めたのは平成五年から平成六年ころでした。
結花さんは、後でライフスペースのスタッフになっております。
(五)晨一さんが脳内出血ということで倒れたということを私が知った状況については、当時私が成田
市内のマロウドインターナショナルホテル成田一二九〇号室に滞在していたころの平成一一年六月二四
日午前七時ころであったと思います。
その根拠は、健児が作成した小冊子一四ー一の三五ページから三七ページまでに六月二四日午前七時
一〇分ころにグルである私のメッセージで「まことにつらいのですが、大阪で倒れたということでグル
としてもいかんともしがたいです。原因はアルコール摂取過多。緊急の措置が何としても必要なもので
すが、これはいかんともしがたいのです。現代医学では、ほとんどなにも出来ないので、たとえグルの
大手術でも期待しないでください。この病気は前兆がないので、たとえグルのそばにいたとしてもいか
んともしがたいのです。治れば奇跡ですので、覚悟しておいてください。そして、できる限りのことを
なさってください。」と記載されており、私もこの様なことを言った記憶があります。
ちなみに SPGF のメンバーからの質問にあっては私の秘書役である西澤みどりを介して私が質問を受け、
その質問に応じ即答で答えております。
そして更に、西澤みどりが、私が即答で答えた内容を、相手に伝える様になっており、私が直接受け
たり、答えたりすることはあり得ないのです。
この様な状況で、健児から晨一さんが倒れたということを、西灘みどりが受け私に質問し、私が即答
で答えた時間が小冊子に六月二四日午前七時一〇分ころと記載されていることから健児から、西澤みど
りが受けた時間は六月二四日午前七時ころであったと思います。
私は SPGF のシンボル的存在であり、西澤みどりからの質問を受け即答するが、指示・命令にあっては
出来ません。
何度も言いますが、西澤みどりから聞いた質問を受けて即答で答えるだけです。
質問と言う意味は「どうしたらいいですか。一番良い方法を教えて下さい。」ということです。
小冊子に記載してある私が即答した「まことにつらいのですが、大阪で倒れたということでグルとし
てもいかんともしがたいです。原因はアルコール摂取過多。緊急の措置が何としても必要なものですが、
これはいかんともしがたいのです。
」という意味にあっては「普段から健児から、晨一さんがお酒を飲み
過ぎているということを聞いておりましたので、多分アル中のせいで倒れたと思っていたのです。さら
にいかんともしがたいという意味は、アル中で倒れたならば医者は直ぐには治せない。大阪と成田では
距離が遠くてグルとしては何もして上げられない。」ということです。
さらに「現代医学では、ほとんどなにも出来ないので、たとえグルの大手術でも期待しないでくださ
い。この病気は前兆がないので、たとえグルのそばにいたとしてもいかんともしがたいのです。治れば
奇跡ですので、覚悟しておいてください。そして、できる限りのことをなさってください。
」という意味
は「健児から、主治医による点滴とブロバリン(激薬のこと)投与のことを聞いていたので、点滴はア
ル中では必ず死ぬし、ブロバリン投与は後遺症が八ヶ月も続くし、現代医学では治療方法がないのです。
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だから私が病院に見舞いに行ってもどうしようもない。」という意味です。
私は以前から晨一さんの顔のルックスがよいことや、彫金の腕が立つ、画家としての能力が高いこと
を評価していたことから、好ましく思っていたのです。ですから心配で心配でたまりませんでした。
(七)小冊子の七一ページに記載してある、平成一一年六月二四日のグルメッセージ「1 昨日までの健
児ではなく、今日からは新しい健児の出発日だと固く決意しないことには、ラストチャンスだからね。
わかっているよね。2
最善の治療を受ける権利が人間にあるので、今いるところがそれだ、と思えぱ、
敢えてグルだけが治療できる唯一の存在だというわけではないからね。しかし、忘れないでくれよ。健
児のためなら、結花のためなら。わかっているよね。頼りにしてくれてよいぞ。3 とにかく何でもでき
ることはやってあげてくれよ。」等と記載してあることについては自分で答えた記億はあります。
この即答をした時間については、昼であったか夜であったか全く思い出せないのです。
というのは、私はホテル内に閉じこもったまま外へは一歩も出ず、昼夜の感覚がなく、時間を確認す
るにも時計も無いからです。
この私のメッセージにあってはみどりが「健児や結花が混乱しているので、グルどうにか落ち着かせ
てやってください。」と質問に来たので即答しました。
その際のグルメッセージである「1 昨日までの健児ではなく、今日からは新しい健児の出発日だと固
く決意しないことには、ラストチャンスだからね。わかっているよね。」という意味にあっては「健児は
普段から女々しい人間であったので、父親が倒れた時ぐらいしっかりと激励しろ」という意味で「2 最
善の治療を受ける権利が人間にあるので、今いるところがそれだ、と思えば、敢えてグルだけが治療で
きる唯一の存在だというわけではないからね。しかし、忘れないでくれよ。健児のためなら、結花のた
めなら。わかっているよね。頼りにしてくれてよいぞ。」という意味にあっては「お前が息子として父親
を病院に入院させておくか、シャクティ治療を受けさせるかは、責任を持って決めろ。」というニュアン
スのことで「3
とにかく何でもできることはやってあげてくれよ。」という意味にあっては「言葉の通
り心配したから」この様なことを答えました。
(八)その後の平成一一年六月二五日の深夜か二六日の早朝であったか定かではありませんが、みどり
から健児さんや結花さんから「父のシャクテイ治療を引き受けて頂けますか。今の治療を三、四週間受
けて、移動出きるようになってから、シャクティ治療をスタートするのが、今のところの最善策ですが、
父のところまで来ていただくことは可能ですか。可能であれば、どうか来て助けてあげて下さい。」との
連絡があったので伝えます、と言われ「私は病院に行っても医者では無いからなにも出来ないよ。第一
病院がシャクティ治療なんかさせるわけがない。だから行けない。」と答えています。みどりが健児達に
伝えたかどうかは聞いていないのでわかりません。
(九)それから小冊子の一〇七ページに記載してある平成一一年六月二六日ころのグルメッセージ「い
い先生に出会えたね。本当のことを言ってくれているね。現代医学の定説から言っても、回復は不可能
なんだ。3S セミナーがいいんだ。病院にいても同じくらいの費用がかかるからね。時期はいつでもいい
よ。成田で行います。走らなければ大丈夫です。タクシーや飛行機は OK ですよ。このままでは見殺しだ
からね。」等と記載してあることについては、私がみどりを介して即答しています。
この意味は、
「点滴とブロバリン投与のことを健児等に主治医が話してくれたことを健児から聞いてい
たのでいい先生にであえたねと言ったのです。しかしその様な治療行為、すなわち点滴ブロバリン投与
は高貴薬だし、更にアル中は保険が利かないので全額自己負担でお金がかかるよ。3S セミナーと同じく
11
らいの八〇〇万円以上のお金がかかるよ。選択してこちらに来るんならいつでも成田にいるよ。とにか
く走ることは良くないので飛行機やタクシーで来い。そして定説によれば必ず死ぬことからこのままで
は見殺しだからね。」と言ったのです。
私が言った高貴薬というのは、値段の高い薬のことを言います。また、小冊子の一三七ページに記載
してある平成一一年六月二八日ころのグルメッセージ「(3S セミナーは)三〇日の夜ぐらいかなあ。『ア
ルコール摂取過多』というのはどういうことか、と言うと、内臓が、まるで豚のビネガー漬のようにな
っているんだ。
(白く、硬くなっている、ということ)長年の深酒で、アルコール漬けになっているんだ
よ。こう言えばわかってもらえるかなあ。」が記載してありますが「三〇日の夜という日の指定はしてお
りません。何故かと言うと、日にちの指定やシャクテイ治療費等については、SPGF のメンバーが直接担
当しているからです。」
しかし「『アルコール摂取過多』というのはどういうことか、と言うと、内臓が、まるで豚のビネガー
漬のようになっているんだ。(白く、硬くなっている、ということ)長年の深酒で、アルコール漬けにな
っているんだよ。こう言えばわかってもらえるかなあ。」というようなことは答えた記憶があります。
その後小冊子の一六三から一六五ページに記載してある平成一一年六月三〇日の「(三、四週間後と言
っていたのが、一〇日前後になったことについて)それは素晴らしいことだね。しかしわかっておいて
下さいね。点滴は非常に危険です。動けない、というのも何の根拠もないしね。今日から三日以内に、
退院の日程の確約がなければ、みどりに相談してください。これはヤバイですよ。」と記載してあるのは、
私が答えた記憶があります。「それは素晴らしいことだね。」という意味は「みどりから、健児が幾らか
元気が出た」と聞いたことからこの様に言ったのです。
「点滴は非常に危険です。動けない、というのも
何の根拠もないしね。今日から三日以内に、退院の日程の確約がなければみどりに相談してください。
これはヤバイですよ。
という意味は、脳内出血で倒れれば三日以内に死ぬと定説で知っていたので、三日以上生きてることか
らアル中により倒れたと思っていました。だから点滴は非常に危険で、そしてシャクティ治療をやるな
らば早いほうがいいので三日以内に退院の確約がなければ、なんでもいいからみどりに相談してくれ。
という意味で、「これはヤバイですよ。」という意味は、健児や結花がおたおたしていると関係者が困る
のでまずいよ、と答えました。
それから、みどりに相談してくれ、と言っておりますが、SPGF のメンバーが困ったことがあれば、み
どりは秘書ですのでその相談を開いて私に質問することは当然のことなのです。
(一二)それから平成一一年七月一日の小冊子の一七七ページに記載してある、今日、明日が山場です。
健児も結花も、早くグルのところに帰っておいで。これ以上いると病院のおもちゃにされてしまうぞ。
という意味は、
このことについては、はっきりしたことは言えませんが、みどりが健児辺りから晨一さんが暴れてど
うしようもない。早くシャクティ治療を受けさせてくれと願い出て、そのことを私に伝えたことで、私
がこの様に言ったと思います。
(十三)翌日の平成一一年七月二日の午前一〇時ころに私の部屋であるマロウドインターナショナルホテ
ル成田の一二九〇号室の隣の秘書部屋にいた西窪みどりが、笹俣加奈子・永井優子辺りと私の部屋に入
って来て、みどりが私に健児さん達が間もなくこちらに来るそうですので、着替えはどうしますか。と
伝えたので、それまで浴衣姿であった私は、シャクティパットを行うスタイルであるクルタ着に着替え
12
たのです。
私はこの時、健児が晨一さんの苦しみを見て耐えきれず、医者の反対を押し切ってシャクティ治療を
受けに来たことが初めてわかりました。
後にみどりから聞いたことですが、伊丹空港から飛行機で来たといことを聞きました。
私がいた部
屋に入ってきたときのメンバーにあっては、勿論晨一さんは車椅子に乗っており、その車椅子を健児が
押し、周りには結花、砂田●之等がいたのを記憶しております。
晨一さんが車椅子来た時の姿は、鼻の片方にナイロンチューブを差し込んでテープで固定し、更にそ
のチューブの端は、車椅子の後に吊ってあったほ乳瓶のようなプラスチック容器に固定されていました。
衣類にあたっては、色はわかりませんが、きちんとしたスーツ姿であったような気がします。
その後、シャクティ治療を行うのですが、このシャクティパット治療というのは、サイババの許可を
受けて、サイババから送られる気を、私の身体を通じて柏手に渡す治療方法で、私の場合は、手のひら
で相手の頭頂部・臍の周辺・首もと等を羽で撫でるように、可能な限りソフトに叩く方法で行います。
しかし、晨一さんの場合は、車椅子に乗ったままだったので、頭頂部だけをシャクティ治療を行って
います。
ここにおいて、本職は、被疑者と次の問答をした。
問
シャクティパット治療は、正当な医療行為に当たるのか。
答
私は医師の免許は取得しておりません。しかしグルである私には、定説によりシャクティ治療と教
科書出版が許されております。ですから、グルである私は正当な医療行為と思っています。
ここにおいて本職は問答を終了した。
(一四)私は、今まで三〇〇人位シャクティ治療を行っておりますが、治療費について返せというケー
スがなかったので、治っていると信じているのです。
ちなみに治療費にあっては、三段階に分かれており、一段階
二〇〇万円、二段階
三〇〇万円、三
段階 五〇〇万円と値段が決まっており、サイババを通して本にしてあり、最終的には SPGF と相手が話
し合って決めております。これらを称して 3S セミナーと言っております。
ちなみに晨一さんの治療費にあっては、八〇〇万円で話がついて、SPGF の方で頂いています。
今まで話したとおり、私はただシャクティ治療を施すだけの立場にあり、収入は得ていません。
SPGF がボランティア団体なのに治療費を取る理由はボランティア団体というのは、私にだけのボラン
ティア団体だからです。
小林晨一さんが自宅で脳出血で倒れたということで、入院先の伊丹市内の病院からシャクティパット
治療を受けるけるために当時私が滞在していた成田市内にありますマロウドインターナショナルホテル
成田一二九〇号室で、家族である小林健児達が連れて来た状況についは、只今話したとおりです。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名捺印した
13
前同日
成田警察署応援派遣
千葉県警察本部刑事部捜査第一課
司法警察員
警部補
西田栄
立会補助者
同右
司法警察員
巡査部長
高木
肇
■平成12年2月27日
成田警察署における供述調書
供述調書(甲)
本籍
大阪府宝塚市光が丘町一丁目一三番地の一五四
住居
茨城県東茨城郡大洗町神山町一三二〇番地
ホテルパシフィック大洗二一二号室
職業
無職(ザ・グル)
電話番号
氏名
不明
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年二月二七日成田警察署において、本
職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べたところ、
任意次のとおり供述した。
(一)自分の意思に反して話さなくても良いということは、只今、警察の方に説明してもらいよく判り
ました。
(二)只今から、小林晨一さんに対し、シャクティパット治療を施し、脈が軽微になり、その後、ミイ
ラ化遺体ということで警察に発見される、までの状況について話します。
この状況については、七ヶ月以上も経っており、健児が晨一さんとの闘病日記
父と息子の絆は、看病すればすぐに、繋がる
その一、パート一四−一、に細かく記載してあるとい
うことが、良く判っておりますのでそれに基づいて自分の考えを入れて説明します。
ここにおいて本職は、平成一一年一一月一二日千葉県警察本部警備部公安第一課巡査部長鈴木健二が
領置したSPGF
PART一四−一と表紙に記載ある小冊子を被疑者に提示し説明を求めることとし
た。
(三)晨一さんが車椅子に乗って、当時私が滞在していた成田市内にあります、マロウドインターナシ
ョナルホテル成田一二九〇号に入ってきたのは、平成一一年七月二日の午前一〇時半ごろであったと思
います。
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この三〇分前の午前一〇時ごろ、私が滞在していた部屋、つまり一二九〇号室の部屋に向かって左側
隣室の秘書部屋に滞在していた秘書役の西澤みどりが笹俣加奈子・永井優子あたりと私の部屋に入って
きて、みどりが私に、健児さん達が間もなくこちらに来るそうですけれど着替えはどうしますか。と伝
えに来たので、私はそれまでの浴衣姿から、シャクティパット治療を行うスタイルであるクルタ着に着
替えたのです。
私はこの時、健児が晨一さんの苦しみを見て耐えきれず、医者の反対を押し切ってシャクティ治療を
受けに来た状況がよく判ったのです。
というのは、晨一さんが病院で苦しみ、暴れてどうにもならない、ということを健児や結花から西澤
みどりを介して説明してもらい、良く判っていたからです。
そして健児達は、最終手段で私のシャクティ治療を選んだと、私には思えました。
(四)部屋に入ってきた時のメンバーは、いずれもSPGFのメンバーでありましたが、晨一さんの乗
っている車椅子を押していたのは健児であり、周りには結花・砂田●之等がいたのを記憶しております。
晨一さんが車椅子で来た時の姿は、鼻の片方にナイロンチューブを差し込んでテープで固定し、さら
にそのチューブの端は車椅子の後に吊ってあったほ乳瓶のようなプラスチック容器に固定されていまし
た。
衣類にあっては、色は思い出せませんが、きちんとしたスーツ姿であった様な気がします。
晨一さんが入って来たのと同時ぐらいに、シャクティ治療を行いました。
その理由は、事前に西澤みどりから、健児さん達がまもなくこちらに来るそうですので着替えはどう
しますか。と知らされており、既に浴衣からクルタ着に着替えて準備し、待機していたからです。
クルタ着にあっては、私の場合はシャクティ治療を施す時だけ着用します。
上下とも白色の木綿製であり、ツーピースのような感じの衣類です。
私がシャクティ治療を施す前の晨一さんの表情は、車椅子にしっかりと座り、話はせず、かなり辛い
感じ、に見えました。
これから第一回目のシャクティパット治療が始まるのですが、その時の状況は一二九〇号室の中央あ
たり、つまり部屋の出入口から向かって奥の窓の方に向かい晨一さんが位置し、私は立ったまま晨一さ
んに対面し、治療を始めました。
私と晨一さんの間隔は、三〇∼五〇センチであったと思います。
シャクティパット治療を始めた際、部屋にいたメンバーは、晨一さんと一緒に入ってきたメンバー、
つまり健児・結花・砂田●之が晨一さんの後方あたりに位置し、その他に、西澤みどり・笹俣加奈子・
永井優子・川崎英子・南本恭子・滝沢●子・島崎●子等がいたと思いますが、はっきりとは思い出せな
いのです。
(五)治療にあたっては、私の治療方法である、左右の手のひらで三〇秒位の間隔で晨一さんの頭頂部
を可能な限りソフトに叩く治療をやりました。
三分位で終了したと思います。
その理由は、一回目は短時間で終了する様になっているからです。
終了後の晨一さんの表情は、入って来たときと変りありませんでした。
そして私はその場にいた、健児や結花、みどり達に対して、しばらくゆっくりしておくといいよ、二
回目のシャクティパット治療は午後七時ころに行います、と言って解散しました。
15
後でみどりから聞いたのですが、晨一さん達は私と同じホテルの一二階の部屋をチェックインし、宿
泊したことがわかりました。
一回目のシャクティパット治療の状況にあっては図面を作成しましたので参考にして下さい。
ここにおいて本職は、被疑者が作成した図面一枚を本調書末尾に添付することにした。
(六) 続いて
二回目のシャクティパット治療を行うのですが、この時の治療場所も私の部屋でした。
健児たちがチェックインしていた一二七二号室から車椅子で運んで来て、治療を行っています。健児
達は、私が指定した時間よりも三〇分位遅れた午後七時半ころ来ています。
この時部屋に居たメンバ
ーは、一回目のシャクティパット治療を行った時と同じ顔ぶれに、私の妻の伸子、荒町夫妻が加わって
いた、と思います。
どうしてこの様に一〇名以上位のメンバーが揃うかといいますと、私のシャクティパット治療を珍し
がって集まって来るのです。
私は、最初、健児や晨一さんの妻である昭子さんに晨一さんが痰を詰まらせてゴロゴロ音を立てて苦
しがって息をしたので家族を安心させるために、痰が詰ってしまう病気じゃないので大丈夫ですよ、と
言いました。
本当は、激薬投与の後遺症であり、粘っこい痰が詰って喉をごろごろさせることがあるのですが、こ
の時はその様なことを告げると心配するので遠慮して言わなかったのです。 その後、質問ありますか。
と伝えると、晨一さんの奥さん、つまり昭子さんが熱があるので冷やしてもいいですか。と言うので、
私は、冷やしてはいけません。と答えました。
私はシャクティパット治療の前後に、家族等から質問
を受けることにしております。また、私が昭子さんに答えた、冷やしてはいけません、と答えた理由は
シャクティパット治療を施した際、人によっては体が冷えることもあるから、晨一さんが冷えたらまず
いと思いそのように言いました。
更に昭子さんから、水分は取らなくても大丈夫でしょうか。と尋ねられ、二四時間は、本人が欲しい
と言わない限り、いらないですよ、と答えました。
理由は、粘っこい痰が喉にある時は、水を飲むと吐く、からです。
晨一さんは、喉からゴロゴロ音を立て、かなり痰が出ている状況でありました。
また、二四時間と言った意味は、二四時間以内には、ゴロゴロが一旦治まると言うことです。
これは定説にあります。
(七)
それから私の妻である伸子が、胃液で黒いのが五〇〇CC位出ているのですが。と質問したの
で、これに対して、それは薬の副作用です。本人は苦しいが、これは苦しむ病気じゃない。死ぬ病気で
す。薬で苦しくなっているんですよ。いまおこなったシャクティパット治療は、解毒のためですよ。と
答えました。
理由は、元々の病気は、アル中だと思っていたので、激薬投与のための後遺症であり、黒い胃液が出
たり、粘っこい痰がゴロゴロ音を立てて出たりしたことから、それを止めるためのシャクティパット治
療を施した、ということです。
また、本人は苦しいが、これは苦しむ病気じゃない、死ぬ病気です。薬で苦しくなっているんですよ、
という意味は、アル中においては、苦しむ病気ではなく、そのまま死ぬのです。この時は激薬後遺症で
苦しんでいた、ということです。
死ぬという意味は、定説と刑法が同じで、心臓の停止、鼻粘膜乾燥レベル二以下、の二つが揃わない
16
と、死とは言えません。
鼻粘膜乾燥レベル二以下というのは、医学上五段階あり、三以上が生きている、二以下が死んでいる
ということです。
(八)それからいよいよシャクティパット治療を施すのですが、その状況は、晨一さんの首元を右手の
平だけを使って、五分ぐらい、続けて頭頂部を二∼三分に区切って五回ぐらい軽く叩いて終了しており
ます。
それと同時に皆んなに、次は明日の朝つまり七月三日の午前六時にやりますよ、と言っております。
理由は、私の空耳(からみみ)にサイババから連絡があったからです。
空耳というのは、何故か、自然に耳に聞こえる、という意味です。
更に、質問はありますか。と言うと、健児が、グルの話を聞いたのですが、父が万が一のことがあり
得ますか。と言うので、あり得るよ。と言いました。
勿論、あり得ると言うことは、死ぬ可能性があり得る、ということです。
それは、晨一さんが伊丹の市立病院で点滴とブロバリン投与を受けたと健児から聞いており、アル中
の場合は、副作用が出て死んじゃうと思って言いました。
これは、推測ではなく、定説にあります。
(九)三回目のシャクティパット治療は、七月三日午前六時と小冊子の二三九ページに記載してあるの
で、この時間に施したことに間違いありません。
この時も、二回目の治療の時と同じメンバー、同じ部屋、同じ位置で行っております。 まず最初に、
始める前にメンバーに、質問はありませんか。と伝えると、昭子さんが、喉が渇いている、というので、
水分というのは、いくら喉が渇こうが取らないでもいいですよ。今は生きるか死ぬかの時期なんですよ。
喉が渇いているということを考えている時期じゃない。とにかく、死なせないようにすることを考えろ。
今、水分を取って詰ったらどうするんだ。この大事な時期に。というようなニュアンスで答えています。
その理由は、病人は、相手が水を欲しがるまであげない方が良い。ということや、一〇日以内は、水
をあげなくても死なない。と定説に定められているので、この様に言いました。
ここにおいて本職は、被疑者と次の問答をした。
(問)
言葉が出せない人がどうして水を欲しいといえるのか。
(答)
私がいない間に晨一さんが、口が利けるようになり、水が欲しい、と言ったらあげなさいとい
う意味です。
ここにおいて問答を終了した。
それから三回目のシャクティパット治療を始めたのですが、この状況は、二回目と同じように右手の
平で晨一さんの頭頂部を軽く叩いて終了しています。
二回目の時には、首元もやりましたが、三回目はやっておりません。
首元をやらなかった理由は、意外と楽そうな感じだったのでやる必要はないと思いやりませんでした。
五∼六分位やっておりましたが、喉のゴロゴロは、無かったように記憶しております。
シャクティ
パット治療を終えた時に次は、一二時です。と言って部屋から出ています。(一〇) 小冊子の二四五ペ
ージから二四七ページに
午前六時三五分、シャクティパット後父の呼吸がかなり楽になり、そして深
くなったように聞こえた。でも相変わらず痰は苦しそうであった。部屋に戻ってきて姿勢を確保したと
ころ突然父の呼吸が止まった。段々ゆっくりした呼吸になり、はあーと息を吐き切って、その後吸うこ
17
とはなかった。小浪友里恵がグルに報告に行ってくれた。と記載してありますが、確かに小浪からその
様な状況の報告を私の部屋で受けています。
ですから報告を受けた時間は、平成一一年七月三日午前六時三五分ころであったと思います。
小浪は、私の部屋に歩いて来て、状況を知らせています。
私はこの報告を受け、定説通りだ、と思いました
ここにおいて本職は、被疑者と次の問答をした
そこで、激薬後遺症の場合は、人は、三〇分間呼吸が止まっていても大丈夫なんですよ。そんな騒が
なくていいよ。大丈夫だよ。と伝えました。
定説によれば、六〇分以内で度々息が止まることがあり、その半分の三〇分位なのだから落ち着いて
いればいいよという意味です。
小浪は、私の返事を理解したらしく部屋を出て行きました。
ところが一〇∼二〇分位経ってから、また小浪が部屋に来たのです。
そして更に、呼吸は止まって息はしていない。と報告してきたのです。
その返答については、小冊子二五一ページ∼二五三ページに記載してあるとおり、今、魂が再生に入
っているのです。生まれ変わる時なんです。実は今、静かな薄い呼吸も薄い脈もあるんですよ。脈も回
復しているんですよ。晨一さんの魂は、一旦三途の川の手前まで行ったんだけど、普通の人なら三途の
川をそのまま渡ってしまうが、グルがそれを渡らせることは、絶対しない。
(問)この時晨一さんが死んだのがわかりましたね。
(答)死んではいません。定説によれば劇薬投与の後遺症の場合、極端に呼吸が薄くなり、六〇分程そ
うなることが度々あるからです。
(問)はあーと息を吐き切ってその後吸うことは無かったということは、誰でも死んだということがわ
かるのではないか。
(答)いや、死んではいません。定説通り激薬投与の後遺症の場合は、六〇分程そうなることが度々あ
るからです。
ここにおいて問答を終了した。
(一一) 小浪に対し、座らせて健児に背中をさすらせろ。一〇分間優しくさすらせろ。また一〇分後に
報告に来てくれ。と伝えると、小浪は私の部屋から出ていきました。
一〇分間座らせて背中をさすらせるという意味は、定説で、一〇分間座らせて背中をさすれば患者が
また息が元に戻る、ということです。
その後一〇∼二〇分位経って、私が伝えたとおり、小浪が部屋に来て、背中をさすっても息が戻らな
い。ということでした。それが出来るのは、シャクテイしかない。セミナーの中で一旦死んでいる状態
だ。と言ったでしょう。死んでいる状態でここに来たんだよ。等と返事しました。
ここにおいて本職は、被疑者と次の問答をした。
(問)シャクテイパット治療で金を儲けることを目的で言ったのではないか。
(答)私がグルだと名乗ってからは、金儲けは一切したとはありません。従って晨一さんの治療のため
にシャクティパット治療しかないと言ったのです。
ここにおいて問答を終了した。
(一二)その後、警察が来るまでの間であります。
18
平成一一年一一月一一日、まで五∼六回シャクティパット治療をやっています。
その治療の間隔は、長くなったりしておりますが、これはサイババからの、空耳にシャクティ治療を
やっても良い、という連絡がなかったからです。
この時はいずれも、晨一さん達が宿泊していた、一二七二号室、で行っています。
晨一さんは、いつも窓際のベッド上に壁側に頭を向け、仰向けに首から上を出し、布団を掛けられ寝
ておりました。
私は晨一さんのベッドの左肩側のベッド角に腰をおろして、右手の平だけで頭頭部を軽く叩いて治療
をやっています。
その時の治療状況にあっては、図面を書きましたので参考にして下さい。
ここにおいて本職は、被疑者が作成した図面一枚を本調書末尾に添付することにした。
その間の平
成一一年八月下旬ころ、治療に行った際、晨一さんの体で見える範囲の首から上は、真っ黒くなってお
りました。
私はシャクティパット治療だけしかやらないので、脈を取ったり、呼吸があるのを確認したりはしま
せん。
ですから生きていたか、死んでいたかはわかりませんが、顔の雰囲気が熟睡した感じだったので生き
ていると思っていたのです。
顔が黒くなっていたことについては、激薬投与の後遺症の場合は、二ヶ月位経つと体が真っ黒になり、
その後、時間の経過に従って段々健康な人の体の色である茶色に変わって来ます。それは日本人の場合
であります。
また、ウンカにあっては平成一一年一〇月下旬ころから、目、口、鼻、耳から出ていました。
ウン力とは、一ミリ以下の虫、のことです。
(一三)最後に、シャクテイパット治療を施したのは、平成一一年一一月の初めころ、であり、この時
の顔の色は、黒色から茶色に変わっていたので、まだ生きていると思っていました。
何度も言いますが、私はシャクティバット治療だけを施す役目ですので、脈・息の確認はやっており
ません。
その後の平成一一年一一月一一日に成田警察署の人が来て、晨一さんのことをミイラ化遺体、という
ことで、大騒ぎになり、SPGFのメンバーはそれぞれ事情を聞かれたのです。
小林晨一さんに対し、シャクテイパット治療を施したり、脈が軽微になり、ミイラ化遺体ということ
で警察に発見されるまでの状況は、只今話したとおりです。
今でも、晨一さんが死んだのは警察の解剖により死亡した、と思っております。
高橋弘二
右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した。
前同日
成田警察署応援派遣
千葉県警察本部刑事部捜査第一課
19
司法警察員
警部補 西田 栄
立会補助者
右同
巡査部長 高木肇
(添付図面)1回から3回までのシャクティの状況
平成一二年二月二七日
作成者 高橋弘二
(添付図面)4回目以降のシャクティの状況
平成一二年二月二七日
作成者 高橋弘二
■平成12年3月1日
成田警察署における供述調書
供述調書
本籍 大阪府宝塚市光が丘町一丁目一三番地の一五四
住居 茨城県東茨城郡大洗町神山町一三二〇番地
ホテルパシフィック大洗二一二号室
職業 無職(ザ・グル)
電話番号
不明
氏名 高 橋 弘 二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一ニ年三月一日成田警察署において、本職
は、あらかじめ被疑者に対して自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べたところ、
任意次のとおり供述した。
(一)自分の意思に反してまでも話さなくて良いということは、只今、警察の人から説明してもらいよ
くわかりました。
(ニ)只今から私がこの世で一番崇拝しているサイババのことやまた今回の事件のことで話している定
説のことについて、お尋ねですので話します
先ず最初に、サイババのことから話ます。
サイババの本名は、スワミ・サイババ・サティアシュリです。
そしてこれらの通称名が、サイババまたは BABA と言います。
現在、年齢は、私より一回り上ですので、七三歳と記憶しています。
ちなみにインドは、数え年齢ですので七四歳になるのです。
20
誕生日にあっては、一九二五年一一月ニ三日生まれと、今でもはっきり覚えているのです。
家族は、三○○人位いると聞いています。
多い理由は、捨て子や等を拾って認知しているからです。
住んでいるところは、インドのプラシャンティニラヤム州にある国立大学のキャンパス内に住んでい
ます。
サイババは、哲学者で宗教者では無く、現在のインド大統領でありますナラヤナンの最高顧問がメイ
ンであり、その他国立大学、空港、病院等を経営しております。
サイババの人相は、身長一七○センチ位、体格やや太り気味、髪型はアフロヘアー、です。
服は、いつもクルタ着を着ています。
私が、最初にサイババに興味を持つようになったのは、私が三歳の頃でした。
この時、初めてサイババの夢を見たのです。
その状況は、急に寝ている前に光が射し込んで眩しかったのです。
その後の一五歳のころ、やはり同じ様な場面を夢で見ました。
この時サイババの顔がはっきり目に映り、それまで本で読んでいたサイババの顔であることがはっき
りわかりました。
そしてこの夢を見た時、右目をつぶすぞといわれ、それと同じ様な結果になってしまったのです。
それというのは.私が中学三年の二学期ころ従兄弟で同級生であった高橋貫治に、空気銃で右目を撃
たれ失明しました。
この時は、貫治君なんかと空気銃を持って雀を撃ちに行っていたところ、誤って貫治君が私の右目を
撃ってしまった状況です。
三度目は、平成六年の前ころであり、空耳つまり両耳にサイババからのテレパシーが送られて、直ぐ
にシャクテイパット・グルと名乗れ、今の妻(中野悦子)に聞いてグルの妻をやってくれるかどうか。
駄目だったら伸子と結婚しろと伝えられたのです。
悦子に聞いたら、「税理士の妻だったら良いが、グルの妻だったら嫌だ。」ということでしたので、私
はサイババの言うとおり、中野悦子と離婚し、現在の妻であります高橋伸子と再婚しました。
(四) 私が最初サイババと会ったのは、平成元年の初めころ、インドのサイババの寝室で会っておりま
す。
この時は、私一人で会っており、一∼二分位で話は終わりました。
この時の話の内容は、お互いの仕事のことなどを話しており、私は税理士とライフスベースを中心に
やっていると、サイババは、空港と大学を経営しており、大統領との間について最高顧問であると言っ
ておりました。
今まで平成元年の終わりころから平成五年の終わりころにかけて、五○○回から六○○回位最初の時
と同じ場所に会いに行っておりますが、その内私と話をしてくれたのは、一○○回位で、いずれも一∼
二分位で話は終了しております。
話の内容にあっては、いずれも同じ様な内容なので、オーナーであるサイババ大学の話をしたりして
います。
なお、サイババ大学の先生は、全部ボランティアであり、世界中から来ていると聞いています。
そして学生は二〇〇〇人位いると聞いています。
21
サイババに対し私のことを知っているかどうか、また、私と会ったことがあるかどうかの確認をする
には、電話番号は、公表されておらずわかりません。
しかし、外務省からインド大使館を通じて聞いてもらえば、わかると思います。
というのは、平成六年の初めころインドの超一流の新聞タイムス・オブ・インディアの第一面のトッ
プに私とサイババのことを書いた本の内容(KP8)が記載してあり、これらのことを話せば、サイババは
私のことを思いだし「知っています。」と答えると思います。
私の他に、私がサイババと会っているのを見た人はいません。
理由は、サイババと会う時は、私が一人でサイババがいる寝室に行っているからです。
インドに行く時には、少ない時で五〇人位、多い時で一五〇人位のメンバーで行っておりますが、私
以外の者はサイババがいる場所から二∼三分位の位置にありますホテル「サイタワー」に宿泊しており
ます。
今回の事件の件で、私が晨一さんに施したシャクテイパット治療にあっては、平成六年ころサイババ
から空耳にテレパシーで伝えがあり、施すようになりました。
この時の内容は「お前はグルだからシャクティパットと本を書け、シャクテイパットの金は取るな」、
つまり、グルと言うからには、乞食をやれとの内容でした。
只今話したのが、サイババのことです。
続いて、私が言う「定説」という意味について話します。
一言で言えば、「最高裁図書館にある超一流の文献」のことです。
これは、世界中のすべての科学者が書いて、国連会議で認証された場合に限る文献です。
その内容が定説なのです。
この文献が何処にあるかは、空耳にサイババからテレパシーが送られ、それに基づいて場所を聞き、
SPGF メンバーが探しに行っております。
今まで、最高裁図書館に行って私が言う定説文を一万ページ位探し当てています。
SPGF メンバーでは、川崎英子、島崎●子、中谷●代等が中心であります。
理由は、語学に強く、粘り強い性格であると思うからです。
図書館に行って必要な分だけをコピーして SPGF で翻訳し、それから編集して私の作成した本に付け
ているのが普通です。
大体一冊二〇〇〇円∼三〇〇〇円です。
定説本は、全部で六〇冊位で、晨一さんに関するいわゆる、医療過誤、ミイラ死体、診断書等の定説
本は、図書館からの文献を引用して、四二冊を作成して、東京地検に提出済みです。
只今話したことに間違いありません。
高橋弘二
右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りの無いことを申し立て、署名指印した。
前同日
成田警察署応援巡査
22
千葉県警察本部刑事捜査第一課
司法警察官
警部補 西田栄
立会補助者
右 同
巡査部長 高木肇
■平成12年3月2日
千葉地方検察庁における供述調書
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一 丁目一三番地の一五四
住居
不定
職業
無職
氏名
高橋
電話
弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月二日千葉地方検察庁において、本
職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたとこ
ろ、任意次のとおり供述した。
(一)小林晨一さんが自宅で倒れて病院に運ばれ、医師から脳内出血と診断されたということを、私はさ
んが倒れたその当日の朝に西澤みどりから報告を受けて知りました。
当時、私は千葉県成田市内のマロウドインターナショナルホテル成田の一、二九〇号室に宿泊・滞在し
ておりましたので、この部屋で私の第一秘書である西澤みどりから報告を受けました。
西澤みどりは、小林健児から連絡があったということで、確かいつもそうであるように、メモを見な
がらこのように小林晨一さんが脳内出血で倒れて病院に運ばれたということを私に口頭で報告してきた
のでした。
小林晨一さんは、私にとって非常に親しい友人で、私としては、同年齢の兄弟のような親近感を持っ
ている人でしたし、小林健児はこの晨一さんの長男で、SPGF のボランティアをしており、私は身近に接
して彼が非常に頭の良い男ではあるけれども、自分から積極的に物事を判断することを避けようとする
優柔不断で、軟弱な性格であることなども良く知っていました。
晨一さんには、この健児の他に奥さんの昭子さんや娘さんの結花がいるということを私は良く知って
おり、結花については、健児と同じように SPGF のボランティアをしていました。
私は、晨一さんが医師から脳内出血と診断されたと聞き、脳内出血は治療法がなく、発症してから必
ず三日以内に死ぬ病気だと知っていましたので、晨一さんの現在の容態は極めて重く、生命の危機に瀕
した状態であるということがわかりました。
23
また、晨一さんは脳内出血ということですから、意識障害を伴っているに違いないとも思いました。
私は、脳内出血は絶対に助からない病気だと知っていたことから、絶望的な気持ちになりましたが、
親しい晨一さんのことでしたので、何とかそれ以外の病気であって欲しいという願いを持ちました。
(二) 私は、西澤みどりから晨一さんが脳内出血で倒れて病院に運ばれたという報告を受けましたので、
健児に伝えるようにということで西澤みどりに対して
いかんともしがたいものです。
現代医学では殆ど何もできないので、たとえ大手術でも期待しないで下さい。
治れば奇跡です。
というような内容のことを言いました。
西澤みどりは私の言葉をいつもそうであるようにメモしており、その後、電話か何かで健児に伝えた
筈です。
西澤みどりは、私の第一秘書として S P G F のボランティアからの私宛の質問や連絡を受けて、それを
私に伝え、それに対する私の回答を SPGF のボランティアに伝えるというのが仕事ですので、このように
健児からの連絡を私に伝え、私の回答を健児に伝えるのです。
この時、私は健児への伝言として、西澤みどりに対して、晨一さんが倒れた原因について「原因はア
ルコール摂取過多だ」という内容のことも言いました。
この意味は、晨一さんの脳内出血の原因がアルコール摂取過多だと言ったものではなく、晨一さんが
仮に脳内出血でないとすれば、晨一さんが倒れたのはアルコールの摂取過多によるものだという意味で
言ったものでした。
勿論、この時、私は病院の医師が診断した脳内出血という病名を疑っていたわけではありませんでし
たが、先程も申し上げたように晨一さんが脳内出血ではなく、別の病気であって欲しいという私の願い
から、このような「原因はアルコール摂取過多」という言葉が出たのでした。
問
小林晨一の病名が脳内出血であるということに疑いを持っていない段階で、それを否定することを
言うのは不謹慎ではないか。
答
反省しています。
もっとも、私がアルコール摂取過多と言ったのにはそれなりの理由があります。
それは、晨一さんが彫金を始めたころ、毎日かなり大量のビールを飲んで、いわば酒浸りの状態で、
足下もフラフラしており、アル中状態だったことを知っていますので、このように言ったのでした。
そのころ晨一さんがビールを欠かさずに飲んでいるということは私が直接晨一さんと会ったときに、
晨一さんの吐く息からホップの臭いを感じ取ることができましたので、そのことから判っていました。
(三)その後も健児からは、晨一さんが薬剤や栄養分などを点滴で投与を受けているということや、晨
一さんが錯乱して暴れたりすることがあるということや、晨一さんに点滴で投与している薬剤の名前や、
晨一さんの担当医師が非常に詳しく晨一さんの病状や治療方針や治療内容などについて丁寧に説明して
くれる優秀で素晴らしい医者だということなどについての細かい報告が何度も西澤みどり経由で私の所
に届いてきました。
晨一さんに投与されている薬剤についてはおおよそ二〇種類くらいはあったかと記憶しておりますが、
私は定説に基づいて患者に投与されている薬剤の名前を聞けば病気名を判断することができるのですが、
晨一さんに投与されている薬剤の名前から晨一さんの病気名を判断することができませんでした。
24
また、定説ではありませんでしたが、それには至らない通説とも呼ぶべき各種の学説、見解について、
私は以前に日本の国会図書館に通い詰めて蔵書の各種文献を読みあさったという経験があり、そのよう
な通説を知識として知っていました。
しかし、この通説に照らしても、病院が晨一さんに投与している薬剤の名前から晨一さんの病気名を
判断することはできませんでした。
そこで、私としても、晨一さんは真実、生命の危機に瀕したただならぬ状態になっているのだと思い
ました。
それに、西澤みどりを通じて伝わって来る健児の態度がずっと取り乱して混乱し続けているような状
態に感じられましたので、晨一さんを目の当たりにして看病している健児がそのような状態であるとい
うことは、やはり晨一さんの病状はかなり危険なただならぬものなのだと思っていました。
なお、晨一さんが入院して治療を受けている病院については、伊丹市立伊丹病院だと記憶しておりま
すが、晨一さんが自宅で倒れて最初に救急車で運び込まれた病院は正愛病院で、その正愛病院からその
後長一さんは市立伊丹病院に転院したのだということを検察官から説明されましたが、この当時、私は
そのことを聞いていたかも知れませんが、現在では正愛病院のことについては全く記憶にありません。
(四)
ところで、私は、健児が晨一さんに対するシャクティ治療を希望しているということがわかり、
私としても晨一さんは親しい友人でしたので、勿論これを引き受けるつもりでした。
そこで、私は、西窪みどりを通じて健児に対して「健児や結花のためなら頼りにしてくれて良いぞ。
」
ということを言いました。
ただ、晨一さんにシャクティ治療を受けさせるのか、このまま病院で現代医学による治療を受けさせ
続けるのかについては、あくまでも晨一さんの長男である健児自身が判断して決断しなければならない
ことだと考えておりましたので「グルだけが治療できる唯一の存在だというわけではない。
」ということ
も言いました。
しかし、その後、健児は晨一さんにシャクティ治療を受けさせたいということをはっきりと希望した
のにもかかわらず、その時期について迷いがあるようで考えが良く変わりフラフラとしているというこ
とが西澤みどりの報告などから判りました。
健児は先程もお話ししましたように、軟弱で優柔不断な性格ですので、自分で決断してその責任をと
るという覚悟をできていないように感じられましたので、私としては、そのような事では健児自身のた
めにもならず、また、健児の言葉によって振り回される SPGF のボランティア達にも迷惑をかけることに
なるし、晨一さんに対しても良い結果にならないことは判っていましたので、私は健児に早く決断をさ
せたいという気持ちから、西澤みどりを通じて健児に対し「シャクティ治療を晨一さんに受けさせるの
か受けさせないのか早く決断しろ。
」とか「シャクティ治療を受けさせるのなら、早くしないと効果がな
い。」という意味のことを言いました。
具体的には「3S セミナーがいいんだ。」とか「 点滴は非常に危険だ。
」「今日から三日以内に退院の日
程の確約がなければ西澤みどりに相談して下さい。」「これはヤバイです。」とか「 今日、明日が山場で
す。」「 早くグルの所へ帰っておいで。」等というようなことを言いました。
私としてはあくまでも健児自身の判断で晨一さんにシャクテイ治療を受けさせるのかどうかを決断し
てもらいたいという気持ちでしたが、SPGF のボランティアとして SPGF のシンボルである私のことを信奉
して敬っている健児としてみれば、私からこのようなことを言われれば、当然早期に晨一さんにシャク
25
ティ治療を受けさせようと決断することは当然のことでした。ですから、私がこのようなことを言った
ために、今回健児が晨一さんにシヤクティ治療を受けさせるということを決断したのだということは判
ります。
私は、このようなことを当時軽く考えて配慮が足りませんでした。
(五)とにかく私としては最終的には晨一さんにシャクティ治療を受けさせることを決断したのだと思っ
ておりますが、昭子さんや結花がシャクティ治療を受けさせることに承諾したのかということは、私に
は判りませんでしたが、彼女たちは健児以上に混乱しているようでしたので、結局は健児の決断次第だ
と思っていました。
それから、シャクティ治療を受ける当の晨一さん自身がシャクティ治療を受けるということを承諾し
ていたのかどうかということは私には判りませんでした。
晨一さんは意識障害があると思っていましたので、シャクティ治療を受けたいかどうかということを
尋ねて確かめる術はないと思っていましたので、晨一さんがシャクティ治療を受けることを望んでいる
のかどうかということを健児などに尋ねたりすることは勿論しませんでしたし、健児達などからもその
ことについては、一切聞いていませんでした。
ただ、私としては、晨一さんは私の親しい友人でしたので、その私からシャクティ治療を受けること
について、晨一さんに異議はないだろうという気持ちでした。
なお、シャクティ治療を受けるためには、事前に八〇〇万円を SPGF に支払うことになっており、その
実際の取扱に私はタッチしません,が、シャクティ治療を受ける側にとっては大金ですので、その点を
良く考慮してシャクティ治療を受けるのかどうかということを決めるようにという趣旨のことを私は言
うことがあり、健児に対しても西澤みどりを通じて「病院にいても同じくらいの費用がかかる。」という
ようなことを言ったのでした。
シャクティ治療を受けるのに支払う八〇〇万円という金額については、サイババからの空耳で決まっ
たもので、それを私が SPGF のボランティア達に伝えたものです。
(六)
このような経緯があって、昨年の七月二日健児達が晨一さんを連れて、私が宿泊・滞在していた
マロウドインターナショナルホテル成田にやって来ました。
健児が晨一さんを連れてやって来るらしいということは、その前日の晩くらいに確か西澤みどりから
聞いていましたが、晨一さんに対するシャクティ治療を私の滞在するホテルで行うということについて
は、私が西澤みどりを通じて健児に言っていたからでした。
健児の方からは、晨一さんが入院している市立伊丹病院でシャクティ治療を行ってくれないかという
希望がありましたが、医事法に基づいて、医師は自分の担当する患者に一〇〇パーセントの力を注いで
治療にあたらなければならないことになっていますので、そのような医師が治療をしている病院に私が
出向けば、担当医師の晨一さんに対する治療の邪魔になると考えたことと、私がやたらに外に出歩けば、
私の信奉者が集まって来るであろうことが判っていましたので、それが私にとっては迷惑なことですの
で、そのような気持ちから、私は自分のいる所でシャクテイ治療を行うということを健児に伝えていた
のでした。
健児達が晨一さんを入院先の市立伊丹病院からその病院の医師や病院側関係者の反対を押し切って強
引に連れ出し、私の下に連れてきたということは知りませんでした。
そのようなことがあろうとは思ってもいませんでしたし、そのように病院側が晨一さんを退院させるこ
26
とに反対したり、難色を示したりしているということは、私は全く聞いていませんでした。
間
健児が晨一にシャクティ治療を受けさせる時期について迷ってフラフラしていたのは、何故だと思
っていたのか。
答
健児の優柔不断な性格からだと思っていました。
間
君は、西澤みどりを通じて健児に対し、
「夜逃げしかないんだ。」とか、
「動けないというのは何の根
拠もない。」とか、「移動は走らなければ大丈夫。
」ということを言わなかったか。
答 「夜逃げしかないんだ。」ということを私は言った覚えがありません。これは、そのように思った健
児自身の言葉だと思います。
それから、「動けないというのは何の根拠もない。」とか、「移動は走らなければ大丈夫。」というよう
な言葉は私が言った覚えがあります。
しかし、これについては、晨一さんを病院から連れ出して動かすと危険だと病院の医師が言っている
ということを健児から聞いてこのようなことを言ったのではなく、健児から晨一さんを成田まで連れて
いく方法について質問があったため、このようなことを言って答えたのです。
(七) 晨一さんは、車椅子に乗せられて身動きせずグッタリとした感じで、瞬きはしていましたが眼に
光がなく、意識は途切れ途切れであったりなかったりするような状態でした。
鼻には、おそらく市立伊丹病院で施されていたものであろうビニールの管が挿入されたままになって
いました。
晨一さんは言葉を発することはなく、どちらか片方の手が肘が曲がらずに突っ張ったままで、首も右
側か左側かどちらか一方に傾いたままで突っ張ったようになっており、明らかに半身麻痺の状態でした。
晨一さんは言葉は発していませんでしたが、呼吸が荒く、痰が喉に絡んで音を立てていました。
このような晨一さんの状態を見て私は、晨一さんが飛行機で成田まで来たということを事前に聞いて
知っていましたので、良くこんなひどい状態で命に別状なく私の所までやって来たものだと思いました。
晨一さんの状態は極めて悪く、危険な状態だと思いました。
このような状態で車椅子に乗っている晨一さんに対して、私はシヤクテイ治療の内容であるシヤクテ
イパットを行いましたが、晨一さんの状態が極めて危険で悪い状態でしたので、その時に私は健児達に
対して「このまま病院にいたら、三日で死ぬね。」ということを言ったのでした。
(八)
私は、その日と翌日の朝までにかけて合計三回晨一さんに対してシャクティパットを行いました
が、その時健児や昭子さん達に対して、質問に答えるという形で「飲まず食わずでも大丈夫だ。」「本人
が食事を摂ったり、水を飲んだりする時期が来れば判るから、それまでは水を与えたり、食事を摂らせ
たりする必要はない。」
「晨一さんは、痰が詰まる病気ではないので、痰を取らなくても大丈夫だ。」とい
うことなどを言いました。
私は、初めから晨一さんを病院に入院する前の元の身体に戻して社会復帰させるためには、まずは六
か月間客観的には何も処置をしないで放置しておかなければならないと考えていましたので、このよう
に「水を与えたり、食事を摂らせたりする必要はない」ということを健児達に言ったのでした。
ですから、晨一さんのシャクティ治療を私に委ねた健児達にとっては、私が説明したとおりに晨一さ
んに対して水分を与えたり、勿論、食事を摂らせたりはしなかった筈です。 それから、
「痰を取らなく
ても大丈夫だ」というのは、真実の対処法ではありませんでした。
晨一さんは、痰が粘っこくなって喉に詰まったりする危険性が非常に強くありました。
27
ですから、
晨一さんの痰は取る必要がありましたが、痰のことを気にしている健児達に対して最初からそのような
ことを言えば、不安を与えることになると思いましたので、その不安や動揺を抑えるためにこの時はこ
のようなことを言ったのでした。
なお、健児達が晨一さんのことを再び病院に連れて行ったり、医師の診察を受けたりしないように示
唆したり、暗示をかけたりしたということはなかったかというお尋ねですが、そのようなことは一切あ
りません。
間
君は健児達に対して「このまま病院にいたら、三日で死ぬね」とか、
「点滴は劇薬なんだ。完全に医
療ミスです」と言う事を言わなかったか
答
そういうことを確かに言いました。
しかし、これは晨一さんがこのような酷い状態になったのは、あまりはっきりと名前を指摘するのは
はばかられますが、事実ですので申し上げますと、市立伊丹病院での晨一さんに対する治療は劇薬の過
大投与の結果としか考えようがありませんでしたので、そのことを健児達に説明したまでのことです。
とにかく私は、晨一さんの治療については、最初から定説に従ってそのままの状態で六か月以上八か
月の期間、そっと静かに何もせずに放置しておくつもりでした。
ただ、そのことを私は健児達には最初の段階では言いませんでした。
それは、そのようなことをいきなり健児達に言っても、到底健児達に理解して受け入れられるような
ことではないと思っていましたので、そのことを最初は言わなかったのでした。
問 君は、健児達に対して「二日で治療はクリアーです。四日目から散歩も OK です」ということを言わ
なかったか。
答
そのようなことは言っていません。
仮に言ったのだとすれば、健児達の不安や動揺を抑えるために気休めとして言ったとしか考えようがあ
りませんが、そうだとしても、このような言葉は気休めとしては余りにも度を超しておりますので、そ
のようなことを言うはずはありません。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察検事官
木野
秀器
検察事務官
柴田
義典
■平成12年3月3日
千葉地方検察庁における供述調書
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居 不定
職業 無職
氏名
電話
高橋弘二
28
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月三日千葉地方検察庁において、本
職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたとこ
ろ、任意次のとおり供述した。
(一)
私は、本日、千葉簡易裁判所で開かれた勾留理由開示の場で、裁判官から意見を述べる機会を与
えられ、三つのことを言わせていただきました。
(二)
一つ目は、定説やサイババの空耳ということについて、今回私のことを取り調べている捜査官の
方達などが良く耳を傾けてくれたことについて感謝の気持ちで一杯だということを言いました。
これは、正直な気持ちです。
ただ、長々と話してしまったため、途中で裁判官からあとどの位かかるのかと尋ねられてしまいました。
確かに、私としても長い説明だったと思いました。
(三)二つめは、今後も命を懸けてシャクティパットをやりますということを言いました。これは、今
回私は市立伊丹病院に入院していた小林晨一さんにシャクテイ治療を施して、シャクテイパットを行っ
たことが小林晨一さんの生存に必要な保護をしないで放置したということで逮捕・勾留されていますが、
私は取調官から「シャクティパットは単なる手品に過ぎないのではないか」と問われていることが念頭
にあったため、シャクティパットは間違っていないという揺るぎのない私の考えをはっきりと言いたく
て、このようなことを言ってしまったものでした。
これは、私のいわば決意表明になります。
私は、このようなことをこの勾留理由開示の場で言おうと当初から考えていたわけではありませんで
したが、裁判官や検察官の向かい側に腰掛けていた釣部人裕や傍聴席に腰掛けていた数人の SPGF のボラ
ンティア達の姿を見て、この私の気持ちを強くアピールしたいという気持ちから言葉にしてしまったこ
とでした。
ですから、SPGF のボランティア達や裁判官の目や耳を意識して、思わず、このような強い表現で私の
気持ちを申し上げてしまった次第です。
私も心の準備のないままいきなりこの勾留理由開示の場に連れ出されて緊張していましたので、傍聴
席に SPGF のボランティア達がいるどいうことはわかりましたが、今井千恵子と中谷●之以外の者達につ
いては誰であったか判りませんでした。
三つ目は、私がこれまで世間と乖離していたところがあることから、これからは、社会との接点を持
ってやっていきたいということを言いました。
それは、今回の小林晨一さんの病気名を市立伊丹病院の医師が「脳内出血だ」と診断しているものを、
私が定説から「脳内出血ではなく、病院側による劇薬の過大投与による後遺症だ」と申したり、病院で
は意識障害や半身麻痺の状態で、点滴による治療を受けていた晨一さんに対して、シャクティパットを
行うだけで水分や栄養分を与えず、勿論医師の治療などは受けさせずに放置することが定説では唯一の
治療法であるとしても、そのようなことは社会一般からは到底受け入れられず、殺人行為としか思われ
ないということを今回逮捕されてから強く意識しておりますので、そのような自分のやった至らない点
に対する反省から、このようなことを申し上げました。
29
いくら、私が定説だと言っても、言っているだけでは社会一般の人は納得してくれず、到底受け入れ
てもらうことができないとうことを痛切に感じたのでした。
このような私の気持ちを傍聴席で聞いていた SPGF のボランティアの者達に良く聞いて貰いたくて、こ
のようなことを言いました。
このような社会との接点を持たなければならないという私の気持ちの萌芽は以前からあり、それは私
がサイババから送られてくる空耳の定説にウットリして定説のことしか眼中になかった時にそれまで二、
〇〇〇人くらいいた私のボランティアの面々がいつの間にか二〇〇人くらいに減ってしまい、そのこと
で定説にウットリしているだけではボランティアの面々が私からみんな離れていって誰もいなくなって
しまうと気付いたのでした。
それまでは、離れていく人のことについて気にとめていなかったのですが、その人達が私の言うこと
に疑いを持って私から離れていったのだとすれば,その者達に悪いことをしてしまったという罪悪感を
持ったのでした。
ボランティアの面々は、私としてはきっちりと対応はしますが、愛すべき者達で、その者達が私の元
から段々と離れていってしまうということはとても耐えられないことでした。
そこで、私は今井千恵子や川崎英子の助言に従って、単に定説と言いっぱなしにするのではなく、誰
の目にも見える文献という形でその定説の真実性を理解してもらえるようにしようとしました。
そして、サイババからの空耳により、そのような文献として日本では最高裁判所定説文献のことを知
り、それを私のボランティア達に話し、ボランティアの面々がその最高裁判所定説文献を探して定説の
真実性を検証するという活動に力を注ぐようになりました。
なお、この最高裁判所定説文献というのは、最高裁判所附属図書館に置いてある定説文献という意味
です。
しかし、現在ではこのような活動だけではまだまだ一般社会の人達に対し,て受け入れてもらえるよ
うにするという努力がまだまだ足りなかったということに気付いたのでした。
そこで、本日の勾留理由開示の場で申し上げたのです。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察官検事
木野秀器
検察事務官
柴田義典
■平成12年3月4日
成田警察署における供述調書(1)
供述調書
本籍
大阪府宝塚市光が丘一丁目一三番地の一五四
住居
茨城県茨城郡大洗町神山町一三二〇番地
ホテルパシフィック大洗二一二号室
職業
無職(ザ・グル)
30
電話番号
氏名
不明
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月四日成田警察署において、本職
は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べとところ、
任意次のとおり供述した。
(一)自分の意思に反してまでも話さなくて良いということは、警察の人から説明してもらいよくわか
りました。
(二)只今から私の現在の心境について話します。
私は、SPGF のシンボルという立場にあります。
この SPGF のメンバーにあっては、遠くは九州方面からも来ている女性等もおります。
警察の方から私の幼少時代の写真やまた私の両親、私等にきつく当たった祖母の写真を見せていただ
きました。
このことに関し、自分が祖母等にきつく当たられたことを思い出し、涙がこぼれるほど心の痛む心境
になってしまいました。
私が経験したことを思い出すと、九州方面から来ているメンバーにも当然両親が存在することは、良
くわかっています。
したがって SPGF メンバーに留まることなく、本人の意志があれば、両親の元に帰ってもらいたいのが
現在の私の本当の気持ちです。
(三)更に、私が今まで関わっていたライフスペース、SPGF の件については、人の面倒を見たり、自分
の立場としての精神的負担でほとんど疲れ果ててしまい、解散することを強く思っています。
とにかく疲れました。
これからは、女房の伸子と一緒に平穏に暮らしたいです。
また、現在伸ばしている髪、顎髭等にあっても、自分で勝手に皮膚癌の熱と思っている熱が下がった
ら切ります。
高橋弘二
右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した。
前同日
成田警察署応援派遣●
千葉県警察本部刑事部捜査第一課
司法警察員
刑事補
西田栄
立会補助者
右同
31
司法検察員
巡査部長
高木肇
■平成12年3月4日
成田警察署における供述調書(2)
供述調書
本籍
大阪府宝塚市光が丘一丁目一三番地の一五四
住居
茨城県茨城郡大洗町神山町一三二〇番地
ホテルパシフィック大洗二一二号室
職業
無職(ザ・グル)
電話番号
氏名
不明
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月四日成田警察署において、本職
は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べとところ、
任意次のとおり供述した。
(一)自分の意思に反してまでも話さなくて良いということは、只今、警察の人から説明してもらいよ
くわかりました
(二)只今から小林晨一さんのことについて、私が思っていることを話します。
私の父が肺癌で、兵庫県宝塚市内の病院に入院し、八ヶ月に渡り、意識が無くなったままで呼吸も時々
停止したりしました。
その時、流れ出る薄い痰を毎日グラスに二杯以上も摂取しながら介護をしたのです。
しかし、介護の甲斐も無く死んでしまったのです。
この時の私は、長男として非常に残念でたまりませんでした。
この様なことを経験し、晨一さんにあっては、例え長期間かかろうとも死なせず、治るだけではなく、
社会復帰までして欲しいと願っておりました。
そして晨一さんは、激薬投与の後遺症だと定説からして思いこんでいたのです。
ですから世間が何と言おうと、定説で書かれた文献のとおり信じていた訳です。
結果としては、晨一さんが死んでしまいました。
また、晨一さんが発病から三ヶ月位経ったころに、体が真っ黒になったり、時々三○分位も長時間呼
吸を失ったり、粘い炭が沢山喉にくっついたり、ウンカが現れて来たりしていたのです。
このことについて世間では「死んだということで大騒ぎになってしまった」のです。
そのことは、常識であるのにもかかわらず、私は超一流のグルとしての定説を訴え、死んだというこ
とには気づかずにいました。
この様な状況から、成田警察署やマスコミの方々に例えようのないお手数やご迷惑をおかけしました。
このことに関しては、この一週間位の取調官の説明で納得もいき、目も覚め、感謝の気持ちで一杯で
32
す。
特に、申し訳ないと思っていることは、
「晨一さんが司法解剖の結果亡くなったと勝手に思いこんでい
た」のと、また「SPGF メンバー等にもこの様なことを話してしまった」ことです。
司法解剖の結果、晨一さんが死亡したということを、私が口にはしましたが、証拠があるかと聞かれ
ればありません。
すなわち、私の一つ覚えの定説以外には、何もありえません。
般社会人の常識として、警察が人殺し等することは、絶対にあり得ないことも良く知っております。
申し訳ありませんでした。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
成田警察署応援派遣
千葉県警察本部刑事部捜査第一課
司法警察員
警部補
西田栄
立会補助者
同右
司法警察員
巡査部長
高木肇
■平成12年3月5日
千葉地方検察庁における供述調書
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居 不定
職業 無職
氏名
電話
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月五日千葉地方検察庁において、本
職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたとこ
ろ、任意次のとおり供述した。
(一)
私は、西澤みどりからの報告で、小林晨一さんが脳内出血で倒れて病院で治療を受けていると
いうことを知りました。
33
脳内出血は、発症すれば必ず死亡する病気ですので、私は親しい友人でもある小林晨一さんのことを
思い、暗い絶望的な気分になりました。
しかし、その後三日以上経過しても晨一さんは死亡しませんでしたので、晨一さんの病気名は脳内出
血ではないということが判りました。
それは、定説である一、九九七年のアメリカ合衆国テキサス州の最高裁判所判例文などに「脳内出血
は治療法がなく、発症してから三日以内に必ず死ぬ」と明記されているからです。
この「定説」というのは、
「国連認証科学者制作論文」のことで、現在の最高水準の科学的見解である
上、それが国連という機関によって認証されて権威づけられたもののことを言います。
そして、その客観的な存在としては、文献という形で国連附属図書館や各国の最高裁判所附属図書館
に置かれてあり、それを閲覧することさえできれば、その内容を誰でも確認することができます。
私がこの定説の内容やそれの明記されているいわゆる定説文献の所在を知っているのは、私が現実に
その定説文献の,置かれている場所に出かけて行って自分の目で確かめたからなのではなく、サイババ
から私の意識の中に直接その情報が送られてくることから知っているのです。
このサイババというのは、簡単に申し上げますと、現存するインドの教育哲学者で、インドの大統領
顧問を務めておられ、私が非常に心酔し、敬愛している方です。
このサイババから私の意識の中に直接情報が送られてくるというのは、いわばテレパシーのようなも
ので、私はこれを「空耳」と呼んでおります。
この空耳については、
「からみみ」と言っても、
「そらみみ」と言ってもどちらでも間違いありません。
「からみみ」と呼ぶのは、韓国語で空耳のことを「からじ」と言うことから来ており、
「そらみみ」と
呼ぶのは、中国語で空耳のことを「くうじ」と言い、中国では他国で「空」のことを「くう」と呼ぶこ
とを嫌っていることから、それを避けて「そらみみ」と呼ぶのです。
このように「定説」というのは、実体のない宗教の教義のようなものではなく、現代の最高水準の科
学的見解であり、検証することができるのものなのです。
ですから、現代医学を無視したり、それと相容れないものではなく、本来的に両者は合致すべきもの
です。
(二)
市立伊丹病院の医師は晨一さんを診断して脳内出血という判断をしたわけですから、そのこと
自体は各種の医療機械を使って晨一さんのことを検査した結果に基づき、医師がその医学知識に照らし
て判断したもので、十分に尊重に値するものだと思います。
しかし、定説によれば、この市立伊丹病院の医師の脳内出血という診断は誤診です。
定説によれば、「脳内出血は脳内の血管がちぎれて血が止まり、血があふれるものではない。」ので、
頭部の CT スキャンを撮れば出血部分は透明に写るので判断がつきます。
脳内に血があふれ出ている場合には、黒く写ります。
CT スキャンの撮影結果を見れば、十日瞭然に晨一さんが脳内出血でないことは判った筈なのに、何故
市立伊丹病院の医師が晨一さんのことを CT スキャンの撮影結果と異なって脳内出血と診断したのか理解
できません。
なお、定説では、
「脳内出血を発症すれば、九八・六パーセントが即死し、残りの一・四パーセントも
発症してから三日以内に必ず死ぬ。
」ということになっており、その治療法についても、
「治療法はなく、
処遇しようがない。」となっております。
34
この定説を受けて、以前の西ドイツでは同国の医事法で「脳内出血は手の施しようがないので、対処
してはいけない。」と定め、これは現在の統一ドイツでもそのまま運用されております。
このようなことから、私は定説に基づいて晨一さんは脳内出血ではないと判りました。
そこで、私
は晨一さんがアルコール摂取過多によるアルコール中毒症だということを知っていましたので、アルコ
ール摂取過多により、何らかの症状を起こして倒れ、その際に頭部を打撲して、いわゆる脳震盪を起こ
したのだろうと考えました。
(三)
そして、西澤みどり報告で、市立伊丹病院では晨一さんに対して各種の薬剤や栄養剤を点滴に
よって投与しているということをその薬剤名などについても具体的に知り、そのような市立伊丹病院の
晨一さんに対する治療態度は、劇薬の過大投与で脳震盪にしか過ぎない晨一さんの生命を縮める極めて
危険なものだと判りました。
西澤みどりから報告を受けた晨一さんに投与した薬剤は、鎮静剤が多く、いずれもが値の張る「高貴
薬」と呼んでいるものばかりで、その中でもプロバリンという薬剤は、アルコール中毒症である晨一さ
んに対しては絶対に使ってはならない薬剤で、晨一さんにとっては、まさに命を縮める劇薬にほかなら
ないものでした。
ブロバリンは、南米に住むメチレンゲという毒蛇から採った毒そのものから作られた薬剤で、量を少
なく用いれば「エチオピアソート」と言って、嫡薬としても用いられるものです。
要するに、これは「バイアグラ」と同じ物です。
そして、このブロバリンについては、日本国の医事法やフランスの現代医学用語辞典でも、治療のた
めのその投与目的については、六つのものに限定されており、しかも、その使用方法についても医師の
行う施術で麻酔をする必要がある場合と厳しく限定されております。
この、六つの投与目的の中にアルコール中毒症は勿論のこと、脳内出血も含まれていません。
ですから、アルコール中毒症である晨一さんにこのブロバリンを投与することは極めて危険で、投与
すべきものではなく、仮に晨一さんが脳内出血だったのだとしても、これに投与することも許されない
ものなのです。
このことは、医師であれば当然にわきまえていなければならないことですので、晨一さんのことを脳
内出血と診断した市立伊丹病院の医師が何故、このようなブロバリンを晨一さんに投与したのか理解で
きません。
間
小林晨一に対し、市立伊丹病院がブロバリンという薬剤を投与していたというのは間違いないのか。
答
私は、そのように西澤みどりから聞いています。
小林健児が虚偽の連絡を西津みどりにしない限り、市立伊丹病院が晨一さんに対してブロバリンを投
与していたことは間違いありません。
なお、このブロバリンのことを「高貴薬」の一つであると申し上げましたが、この高貴薬というのは、
その原料となる物が希少で絶大な効果があるため、その価格も極めて高く、従ってその投与を受けるこ
とのできる人も裕福な、地位の高い高貴な人に限られるため、このような名前が付いたものです。
高貴薬というのは韓国語であって、定説語では「高価薬」と言わなければならないものですが、私は
SPGF のボランティア達に対してもこの高価薬という言葉は使ったことがありませんので、ここでは高貴
薬という言葉を使って説明しました。
このように、アルコール中毒症である晨一さんにとって、ブロバリンは劇薬その物でしたが、点滴に
35
より投与している栄養剤も、アルコール中毒症患者に対しては劇薬になりますので、市立伊丹病院が晨
一さんに対して栄養剤を点滴により投与していることも劇薬の投与にほかなりませんでした。
なお、この劇薬の表記については、定説語では「激薬」と表記します。
晨一さんはこのように市立伊丹病院でブロバリンや栄養剤などの劇薬を投与され続けており、ブロバ
リンについてはアンプル一本の容量が二シーシーであり、二シーシーのブロバリンをアルコール中毒患
者に投与すれば頑丈なプロレスラーでさえも二、三日で死亡する程ですので、ブロバリンを投与されて
も三日以上持ちこたえている晨一さんは極めて希な幸運な例でした。
(四)
私の行うシャクティパットは、脳内出血には効果がありませんが、劇薬の過大投与による後遺
症に対してはそれを始める時期的な限度というものはありますが、効果があり、元の健康状態に回復さ
せることができますので、私は健児から依頼されて晨一さんにシャクティパットを行うシャクティ治療
を施すことを引き受けたのでした。
問
君は、晨一が脳内出血で倒れて病院に運ばれたということを聞いた当日の段階で、
「健児や結花のた
めなら頼りにしてくれて良いぞ」というメッセージを出して、晨一に対してシャクテイ治療を施す意思
のあることを明らかにしているが、晨一がまだ脳内出血だと思っている段階で脳内出血に対して、効果
のないシャクティパットを行っても良いということはどういうつもりだったのか。
答
私は、これまで「脳内出血にシャクティパットは効果がない」と申し上げておりましたが、これは
言葉が足りませんでした。
脳内出血を発症すれば、三日以内に必ず死にますが、その死ぬ前の時点であれば、脳内出血に対して
もシャクティパットは有効なのです。
シャクティ治療というのは、客観的外形的にはシャクティパットという行為を行うだけであり、この
シャクティパットというのは、簡単に申し上げると、生命体が本来有している生命力、宇宙根源のエネ
ルギー、いわば「気」エネルギーである「シャクティ」を私が患者の頭部や患部を掌で極めて軽く叩く
ことによって注入し、その患者が本来持っている自然治癒力を引き出すという治療法です。
そして、このシャクティについては、サイババから私のもとに送られてきますが、そのサイババから
のシャクティを私が受け取って、それをサイババの指示する患者の身体の部位にサイババからの指示に
基づいた時間、掌で叩くことによって注入します。
私は、サイババからの空耳に基づいて平成六年ころからこのシャクティパットを始め、これまでに約
三〇〇人の人に対してシャクテイパットを行っております。
私は、医師の資格は勿論持っておらず、医療行為に携わったこともなく、過去に肺ガンであった父親
の介護を長年にわたってしたという経験があることと、国会図書館に通って医学書や医療関係の文献を
読みあさってそれなりの医学関係の知識を特っていますが、このシャクティパットについては、サイバ
バからの空耳によって、かつ、その空耳に従っていわば機械的にやっていることです。
これまで、約三〇〇人の人達にシャクティパットを行って、そのうち一件も訴訟を起こされたりして
いませんが、正直に申し上げてこれまでに車椅子に腰掛けたままの患者さんとか、意識のない患者さん
に対してシャクティパットを行ったという経験はありません。
晨一さんのように酷い状態の患者さん
にシャクティパットを行ったというのは、晨一さんが初めての経験になります。
また、今回晨一さんにシャクティパットを行った後、晨一さんの呼吸が一旦停止してしまいましたが、
シヤクテイパットを行った患者さんがこのように呼吸が止まるという状態になってしまったということ
36
も経験したことがありませんでした。
(五)
私は、晨一さんに対して、私が当時滞在していたマロウドインターナショナルホテル成田でシ
ャクテイパットを行いましたが、劇薬の過大投与による後遺症の患者については、定説によれば、例外
的に静かな乗り物での移動なら長時間かけての移動でもかまわないとなっており、具体的には二人以上
五人以下の補助者によるハイヤー、飛行機、車椅子、揺り椅子を利用しての移動ならば患者の病状に悪
影響を及ぼすおそれはないということになっております。
もっとも、プラットホームを利用しなければならない乗り物での移動については絶対に許されないと
なっております。
この定説は、一、九九七年に国連によって認証された「過大投与について」という題名のドイツの最
高裁判所判例文に明記されております。
そこで、私は健児からの質問に対して「移動は走らなければ大丈夫。タクシーや飛行機は OK」という
メッセージを出しました。
(六)
ところで、劇薬の過大投与による後遺症の患者を元の身体に回復させるためには、定説によれ
ば、第一に劇薬の過大投与という状態を解除し、第二に投与されている劇薬を特定し、第三に患者に大
量の解毒剤を投与し、第四に患者を放置することです。
この定説は、一、九六九年に国連によって認証された「劇薬投与諸説」という題名のドイツの最高裁
判例文に明記されております。
この第一の「解除」というのは、晨一さんの場合、劇薬の投与を受けている市立伊丹病院から連れ出
すことであり、第二の「劇薬の特定」については、晨一さんの場合ブロバリンと栄養剤であり、第三の
「大量の解毒剤の投与」については、学術上は劇薬の洗浄ということで水を飲ませることとか、石鹸水
を肛門から注入することなどですが、これは後遺症の程度が著しくない場合に採りうる方法であって、
晨一さんのようにフロバリンと栄養剤の過大投与によって生命に著しい危険がすぐそこまで迫っている
場合には採り得ず、シャクティパットによってのみ過大投与された劇薬を解毒することができます。
もっとも、このシャクティパットで解毒するという方法については、定説にはありません。
これは、サイババからの空耳による私の思いこみでしかありません。
第四の「放置」というのは、解毒した後の患者さんを何もせずにそっとそのまま静かにしておき、患
者さんが回復に向かい始めるまで休息させておくことです。
これは、定説によれば、約六か月間何もせずにただひたすら放置しておき、その後回復の兆しが見え
てから約二か月間温泉に入るなどのりハビリを行うことによって、社会復帰することになります。
この定説というのは、本題が「ヒトラーの為し得た行為」、副題が「医療ミスがどれほどまでに悲惨か
について考察する」というフランスのカーネギー研究所が編纂した英語で記された文献で、ドイツの最
高裁判所附属図書館のみに置かれているものです。
その内容は、ドイツのヒトラーがアウシュビッツでフランス人約五万人に騙してブロバリンをソーセ
ージに塗して食べさせ、その結果全員が外見上死亡したようになって、晨一さんと同じように皮膚が真
っ黒になってしまったものの、飲み食いなど勿論させずにキリスト教会に何の処置もしないで六か月間
放置し続けていたところ、そのうちの約三万人が元通りに回復して社会復帰したというものです。
回復せずに死んでしまった約二万人は、全員が幼稚園児で、幼かったため体力がなく、回復すること
ができなかったものです。
37
ですから、通常の成人であれば六か月間放置しておけば回復することになります。
そこで、私は健児達が市立伊丹病院から連れ出して解除した晨一さんにシャクティパットを行って解
毒した後、回復の兆しが見えるまで放置しました。
私は、晨一さんのシャクテイ治療を引き受けた時から晨一さんを六か月間食事も水分も摂らせずにた
だひたすら放置するつもりでしたが、そのことは不要な不安や動揺を与えないため、健児や SPGF のボラ
ンティア達にも事前には一切話しませんでした。
間
六か月間は放置し続けなければならない晨一のことについて、昨年の七月二日の時点で晨一の失語
症に関して、
「言葉はすぐ元に戻ります。数日すれば OK です。」と言ったのは何故か。
答
健児達に対する気休めです。
(七)
晨一さんに対して、私は昨年の七月二日から七月三日の朝までに三回シャクテイパットを行い
ましたが、その後晨一さんの呼吸が停止してしまいました。
劇薬の過大投与による後遺症の場合には、痰が粘っこくなってそれが喉に詰まって呼吸がしにくくな
り、呼吸が止まったりすることがあり,、最大限一時間近くは呼吸が止まるという状態を何度か繰り返す
というのが定説ですので、晨一さんの呼吸が止まったことは、その定説からも予想どおりでした。
ただ、この定説のことは、健児達 SPGF のボランティア達にはそのまま話しても受け入れられないと思
い、健児達に余計な不安や動揺を与えないようにという考えから「人は三〇分間呼吸や心臓が止まって
いても大丈夫なんですよ。」という言い方で説明しております。
この定説は、先程申し上げたドイツの最高裁判例文「劇薬投与諸説」に明記されております。
間
晨一の呼吸が止まった時に本来放置しておかなければならない晨一の背中をさするように健児達に
メッセージを送ったのは何故か。
答
定説によれば、放置する例外として三つの場合が挙げられており、一つ目は呼吸が止まった時に一
〇分間背中を羽で撫でるようにさすり、それで呼吸が再開しなければ更に三〇分間背中をさするように
となっております。
二つ目は、患者の身体の汗をパッティングしてティッシュなどで吸い取るとなっています。
三つ目は、患者の鼻から吹き出た鼻汁をティッシュのような物でつまみ取るとなっています。
この三つに関しては例外として患者に対して処置をしてもいいようになっていますので、呼吸の止ま
った晨一さんの背中をさするようにメッセージを出したのでした。
この定説は、ドイツの最高裁判例文「劇薬投与諸説」に明記されております。
間
晨一の呼吸が止まった後、当初予定していた四回目のシャクテイパットを行わなかったのは何故か。
答
わざわざ呼吸が止まっている時にシャクティパットをやる必要はないからです。
間
晨一の死亡したことが判ったからではないのか。
答
違います。
間
その翌日である昨年七月四日の時点で、6 か月間放置することになる晨一の回復について、「順調に
いっていますよ。明日は夕方六時以降にシャワーをとれるかも知れない。」と言ったのは何故か。
答
これは、晨一さんを六か月間放置することになるので、その前に晨一さんの身体をぬるま湯で洗っ
て清潔にしておいた方が良いという意味で言ったものです。
勿論、これは健児や SPGF のボランティア達がやることで、晨一自身が自らシャワーを浴びて身体を洗
うようになるというものではありません。
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この時点では、とてもそんな状態に回復するということはあり得ません。
間
昨年の七月一五日の時点で、六か月間放置する晨一の回復について、
「三か月後には社会復帰して仕
事もできるようになるから、心配ないですよ。
」と言ったのは何故か。
答
晨一さんの回復の兆しが始まるのが順調であれば二、三か月で始まる可能性もあるため、健児達に
安心感を与えたいという気持ちもあって、このように言いました。確実に晨一さんが三か月で社会復帰
できるとまで考えていたわけではありません。
間
六か月間放置しなければならない晨一に対して、昨年の九月くらいからまたシヤクティパットを行
ったのは何故か。
答
晨一さんの細胞が流出せず、白骨化もせず、ミイラ化もしませんでしたので、この二か月少し経過
した時点で晨一さんの回復の兆しが見え始めたと判断し、その回復を促進させるためにシャクティパッ
トを始めたのです。
間
放置期間は六か月間ではなかったのか。
答
言葉が足りませんでした。先程申し上げた定説では、六か月間で回復した約三万人のうち、約四、
000 人については四か月以内に社会復帰を成し遂げています。
(八)
呼吸が呼吸が止まった後の晨一さんは、その後、肌の色が黒色から茶色に変わるなど回復の兆
しを見せておりました。
また、晨一さんの身体から小さな虫がたくさん発生したり、飛び回ったりしましたが、これは腐乱し
た死体に発生するウジ虫のような類ではなく、稲につく害虫のウンカでした。
ウンカは決して腐敗した物にはつかないものです。
このウンカが飛び回っているのは、ごく小さいため、顕微鏡で見てもよくわからないと思いますが、
六枚の羽がついているため、その羽を使って飛び回るのです。
このウンカのことを SPGF のボランティア達に対しては「行者バエ」と言ったり「行者イエダニ」と言
ったりしましたが、正確にはウンカであり、このような表現をしたのは、いわば私の気休めです。
私は、晨一さんが順調に回復の兆しを見せていましたので、三か月くらいでリハビリ期に入れると思
い、頻繁にシャクティパットを行いましたが、晨一さんは四か月を経過しても一向にリハビリを始めら
れるまでに回復することはできず、やはりリハビリ期までには六か月が必要だったようです。
そして、その六か月が経過する前に、残念なことに成田警察署によって晨一さんの身体を持って行か
れてしまったのでした。
なお、健児が晨一さんを観察した状況などは、健児が「父と息子の絆は、看病すればすぐに、繋がる」
というドキュメントにしましたが、このドキュメントについては、SPGF などを力ルト集団だとしてテレ
ビ報道したフジテレビやその番組に出演した紀藤弁護士を相手取って、ザ・グルである私や SPGF が訴え
を起こした裁判の中で私や SPGF の正当性を立証する証拠として提出しました。
そうしたところ、紀藤弁護士がこのドキュメントを勝手に多数コピーしてマスコミに配布してしまっ
たのです。
間
君が健児や釣部などに指示してこのドキュメントをフジテレビに持ち込ませたのではないのか。
答
そういうことは絶対にありません。
高橋弘二
右のとおり鎌取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名捺印した
39
前同日
千葉地方検察庁
検
察
庁
木野秀器
検察官検事
柴田義典
■平成12年3月8日
成田警察署における供述調書
供述調書(甲)
本籍 大阪府宝塚市光が丘町一丁目一三番地の一五四
住居 茨城県東茨城群大洗町神山町一三二〇番地
ホテルパシフィック大洗三一二号室
職業 無職 (ザ・グル
電話番号
不明
氏名 高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月八日成田警察署において、本職
は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げて取り調べたところ、
任意次のとおり供述した。
(一)自分の意思に反してまでも話さなくて良いということは、説明してもらいよくわかりました。
(二) 只今から晨一さんが自宅で脳内出血で倒れたことを息子さんの健児から秘書役の西澤みどりを通
じて知り、その後兵庫県伊丹市内の市立伊丹病院から医者の治療を振り切り健児達が、私が当時滞在し
ていた成田市内にあるマロードインターナショナルホテル成田に晨一さんを連れて来て、シャクティ治
療を施した後の、昨年七月三日午前六時半ころの晨一さんの息が停止するまでの流れについて話ます。
(三) 最初晨一さんさんが自宅で倒れたのを知ったのは、秘書役の西澤みどりを介して知りました。そ
の内容は、健児からみどりが聞いた内容であり、
「晨一さんが脳内出血で倒れた。健児君が非常に混乱し
ていると思うので、グルから何か落ち着けるような伝言を言って下さい。」との内容であったので、私は、
「健児は、性格が弱いので、お父さんが、倒れた時ぐらいは頑張らないと、皆んなが困るよ」と伝えて
くれと言いました。
みどりは、
「わかりました。」と言って返事をしました。
更に、健児くんからみどりに連絡があったらしく私に「病院では、とにかく今点滴を受けているらし
い。」ということでした。
私は、この時「ああそうか」と答えたぐらいでした。
その後、結花からみどりに連絡がメールで入り、内容は、
「晨一さんがベッドの中で暴れている。私に
晨一さんが入院している病院まで来てシャクティパット治療をやって欲しい。」ということでした。
このことは対し私は、今間で、病院でシャクティ治療等、一度もやったこともないし、まして医者が
その様なことを許すわけがないと思っていたので、
「私は、病院まで行けないよ。ことことをはっきり伝
40
えてくれ」とみどりに言ったのです。
この時みどりは、
「健児が最初よりも動転して訳のわからないことを言っているので落ち着かせて下さ
い。」と言いましたので、私は、
「とにかく頑張るように伝えてくれ。」と言い、更に「結花も訳がわから
ないようなので何か言って下さい。
」というので、
「健児と力を合わせて頑張りなさいと伝えてくれ。」と
話しました。
(四)その後、みどりから「健児と結花達が晨一さんを連れて来るらしい。
」ということを耳にしました。
そして実際に、マロードインターナショナルホテル成田に七月二日の午後一〇時過ぎころに車椅子に
乗って晨一さんが来たのです。
この時、私は晨一さんの姿を見て「喉がゴロゴロいったり、意識が切れている様にも見え、更に呼吸
補助装置を付けていた」ので、「これは生命に危険のある状態だな」ということが良くわかりました。
この時シャクティ治療を施すということについても躊躇したことは事実です。
しかし、私を頼りに、しかも遠方である伊丹市立病院から医者の意見をを振り切ってまでも私のシャ
クティ治療に賭けて来たことに対し、私も「どうにかして健児君達の期待に答えよう」と思いシャクテ
ィ治療を施したのが事実です。
その後シャクティ治療を施す訳ですが、三回目の治療が終わった後の「昨年七月三日午後六時半過ぎ
ころ」メンバーの一人である小浪友里恵が私のところに来て「晨一さんの息が戻らなくなった。」と連絡
を受け、更にその後、暫くしてからも同じ様な報告を受けました。
この時の私の気持ちにあっては、自分自身としては常識つまり「息が戻らなくなったこと」からこの
時「亡くなった」ということは、わかりましたが、私を信頼してわざわざシャクティ治療を受けに来て
くれた健児達に対しては間違ってもその様なことは、口には出せませんでした。
もし口に出したとしたら「パニック状態になって治まらなくなる」と思ったことも事実です。
そして私は私なりに定説のことも頭にあり、定説を信じるしかなかったのです。
この両面にあっては、他人にはわかりきれないほどの心の葛藤もあったのです
今まで定説ばかりで「息が戻らなくなっても六〇分以内に再生する」と一点張りで話を進めてまいり
ましたが、その事については、グルである私が言ったことであり、他のメンバーもこの様に信じ込んで
いると今でも思っています。
事実は今話した通りです。
とにかく亡くなった晨一さんのご冥福を祈るしか私にできることはありません。
高橋弘二
右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指因した。
前同日
成田警察署応援派遣
千葉県警察本部刑事部捜査第一課
司法警察
警部補 西田栄
41
立会補助者
右同
司法警察員
巡査部長 高木肇
■平成12年3月11日
千葉地方検察庁における供述調書
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居 不定
職業 無職
氏名
電話
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月一一日千葉地方検察庁において、
本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたと
ころ、任意次のとおり供述した。
(一)「定説」というのは、これまでにも申し上げているとおり、「国連の認証した科学者制作論文」の
ことです。
科学や研究が進めば当然新しい研究結果や見解が明らかとなり、それが検証されていわば通説となり、
それを国連が認証するという形で権威づけられた段階で「定説」となりますので、
「定説」も日進月歩で
その内容が改訂されていくということになります。
そして、それに矛盾するそれ以前の定説の内容については排除されて定説ではなくなります。
ですから、
「定説」は国連が認証するというかたちで権威づけられて、公認された現時点での最高水準
の学説、見解ということになります。
そして、この定説の内容が記載された文献である「定説文献」については、定説文献置場である各国
の最高裁判所附属図書館と国連の附属図書館に所蔵されております。
(二) ところで、私はサイババからの空耳により「ザ・グル」と名乗っていますが、この「ザ・グル」
というのは、定説である一、八九八年のアメリカ合衆国ウィスコン州の最高裁判所判例文に定義が記載
されており、第一に、シャクティパット治療ができること、第二に、自らをシャクティグルと呼ぶこと、
第三に、定説を引用した教科書を多数(二〇〇冊以上)を出版していることが要件になっております。
これは、ザ・グルであったピーター・ウイルソンの行ったシャクティパット治療の代金支払いを巡る
訴訟の中で明らかにされたものです。
そして、この「シャクテイパット治療」というものについては、この同じ判例文の中で「宇宙生成の
根源となるエネルギーを使ってそれを希望する患者の頭部を手の平で叩くこと」と定義付けられており
ます。
42
シャクティパット治療は、患者が本来生命体としてその内部に持っている生命力、即ち自然治癒力を
目覚めさせて引き出すものですが、このことは、インドの数学者であるシャンティ・サムサニアンの著
した「ビックバンこそは、生命の源である」という題名の定説文献に明記されております。
もっとも、このシャクテイパット治療の効能については、定説では明らかにされておりません。
このようなことから、私は自分のことを「シャクティパット・グル」とも言っています。
(三)
そして、私のザ・グルとしての仕事を支援するボランティア達の団体として「シャクティパッ
トグル・ファウンデーション」というものが結成されており、SPGFと略称しております。
SPGFのボランティア達の私に対する支援は全く無償の奉仕活動でありますが、私以外の者との関係
については、社会一般の通念に従って概ね有償となっております。
そこで、私が平成六年から行っているシャクティパット治療については、その対価としてこれを受け
る患者側から事前に八〇〇方円を支払ってもらいますが、これはシャクティパット治療を行うまでのS
PGFのボランティア達の行う各種の手続きや活動のいわば報酬という名目で支払ってもらうもので、
私個人がもらうものではありません。
(四)
以上、申し述べたザ・グルとしての仕事については、いわばアメリカ版のグルの行うべきもの
ですが、次に、私はサイババからの空耳により、いわばイギリス版のグルの行うべき仕事についてもそ
れを行うべく準備をしているところです。
イギリス版のグルについては、定説であるイギリスの枢密院(さいみついん)の判例文に、第一に飢
餓救済を行うこと、第二に定説を広めることと定義されており、この飢餓救済の内容については、定説
であるフランス憲法で、第一に空腹を満たすこと、第二に定説文献を引用した教科書を配布すること、
第三にクリニックを無償で提供することと定義されております。
このうち、空腹を満たすことについては、その実施に向けての折衝段階であり、教科書を配布するこ
とについては、既に一、二〇〇冊の教科書を作成済みです。
クリニックを提供することについては、まだ構想段階です。
そして、これらの飢餓救済活動を行うための資金については、第一に、SPGFのボランティア達が
描いた絵画があり、これをいずれサイババを通してインドのナラヤン大統領から販売ルートにのせても
らって販売して作りだし、その代金を国連の飢餓救済基金に預託して飢餓救済活動に充てる旨計画して
います。
第二に、SPGFで作成した教科書である書籍を販売して得た代金と、私が行うシャクティパット治
療の代金と、SPGFのボランティアが個人的に貸し出してくれたお金をこの飢餓救済活動を行うため
の資金にします。
もっとも、SPGFで作成した書籍一、二〇〇冊については、あまり売れておらず、この書籍の印刷
費用と比較すれば微々たるもので、勿論赤字です。
以上、申し述べた他にSPGFとしてお金の入るあてはなく、何としてでも既に作成した書籍を販売
したいのですが容易に売れず、むしろ書籍を作成、印刷するために印刷所に支払う代金とか、SPGF
の事務所にしている部屋の賃借料とか、SPGFの支部扱いにしている私の身近にいて私に奉仕するS
PGFボランティアや私自身が滞在・宿泊しているホテルの宿泊代金等の支払いがかさみ、私が税理士
として活動していた時の経験からすると、これらの経費は一月あたり一、〇〇〇万円は越えていると思
います。
43
(五)
ところで、私は小林健児から小林晨一さんに対するシャクティパット治療を依頼され、これに
ついてはサイババからの空耳により、それを引き受けることにし、実際にシャクティパット治療を行い
ました。
私は、これまでに晨一さんのように病状の重い患者に対して、シャクティパット治療を行ったことは
ありませんでしたが、定説によれば、劇薬の過大投与による患者については、その劇薬を投与されてい
る状態から離脱させて四か月ないし八か月間放置すれば社会復帰できるということを知っていましたの
で、実際にその実例を私自身が体験したことはありませんでしたが、シャクテイパット治療を行えば晨
一さんが社会復帰できるということに自信を持っていました。
その根拠は、勿論定説です。
晨一さんが劇薬の過大投与による後遺症だということは、西澤みどりを通じて健児から聞いていた晨
一さんに病院側が投与している薬剤や栄養剤が劇薬であることから判っていましたが、実際に昨年の七
月二日の午前中にマロウドインターナショナルホテル成田一、二九〇号室に運び込まれてきた晨一さん
のひどい状態を直接自分の目で見て、はっきりと判りました。
私が晨一さんのことを直接見て、劇薬過大投与の後遺症だと判断した症状は、第一に目の光が失せる、
又は消えていること、第二に鼻腔に管が通され、又は鼻づまりになっていて崩壊しかかっていたこと、
第三に口臭が悪臭として二、三メートル先まで届くような勢いで出ていること、第四に足の裏がまるで
膠がついたようにベタベタになっていたこと、第五に肘と踵と肩にある踝が外れていたこと、第六に鼻
くそがエスカルゴの排便のように小さくパラパラしていたことでした。
この六つの症状については、一、八一九年に作成され、フランスのピレネー山脈の近くの洞窟の中に
置かれていた壁画に明記されていて、一、九五八年に国連で認証されて定説となっているものです。
この内容については、後に文献に明記されましたが、その題名については、
「劇薬投与の後遺症を識別
できる要件について」と名付けられております。
(六)
このようにして、私は晨一さんが劇薬の過大投与による後遺症だということを確信しましたの
で、私は当初から考えていたとおり晨一さんにシャクティパットを行って、病院から投与されていた劇
薬を解毒した後、四か月ないし八か月間放置することにしました。
私が直接見た晨一さんの状態から、解毒について約四回シャクテイパットを行う必要があると思いま
したが、実際には昨年の七月三日の朝に三回目のシャクティパットを行った直後、晨一さんはそれまで
虚ろであった目がキラキラと光を増し、それまで乾燥していた鼻の粘膜がしっとりと濡れ、それまでの
プロパンガスのような口臭が三分の一くらいに和らぎましたので、解毒の終了したことが判りました。
そこで、そのことも近くにいた健児達に説明し、当初予定していた解毒のための四回目以降のシャク
ティパットは行う必要がなくなったことから、それ以上のシャクティパットは行いませんでした。
なお、晨一さんの解毒が終了したと判断した根拠である三つの症状については、
「臨床定説」であるア
メリカ合衆国のカーネギー研究所が編纂し、国連が一、九二九年に認証した「解毒とは何かについて」
という文献に明記されております。
この「臨床定説」というのは、学術的にその原因、因果が明らかに証明されている定説とは違って、
原因、因果が不明であるものの、統計上結論の正当性が臨床的に経験上明らかにされているもので、そ
れが国連で認証されたもののことを言います。
(七)
この三回目のシャクティパットを行ったすぐ後、晨一さんの呼吸が停止したということを小浪
44
友里恵からの報告で知りましたが、劇薬の過大投与の後遺症の患者については、定説により、その回復
過程において、一時間以内の呼吸停止という状態が何度か繰り返されるということを知っていましたの
で、予想どおりのことだと思いました。
そして、呼吸が停止したことに対しては、患者の回復過程で当然起こることですので、特段の措置を
することはありませんが、背中をさすれば患者自身楽になることと、看病している者達の気休めになる
ことから、小浪に対して一〇分間晨一さんの背中をさするように言って、健児達に伝えさせました。
ですから、この呼吸が停止したことに対して、特にシャクティパットを行う必要はありませんでした。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察官検事
木野秀器
検察事務官
柴田義典
■平成12年3月12日
千葉地方検察庁における供述調書(1)
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居 不定
職業
無職
氏名
高橋弘二
電話
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月一二日千葉地方検察庁において、
本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたと
ころ、任意次のとおり供述した。
(一)
昨日もお話ししたとおり、私は昨年の七月二日の午前中に小林晨一さんの状態を直接自分の目
で見て、晨一さんの病状が定説に言う劇薬の過大投与の後遺症と認定する症状に合致していましたので、
晨一さんのことを改めて劇薬の過大投与による後遺症だと判断しました。
この定説の内容については、以前にサイババからの空耳で私は知っており、また、私が実際に読んだ
りなどして確かめたりした訳ではありませんが、その定説の内容を明記した定説文献の所在についても
サイババからの空耳で知っており、このようにしてサイババからの空耳により私が知っていた定説に従
って、私自身が晨一さんのことを劇薬の過大投与による後遺症だと判断したのでした。
サイババが晨一
さんのことを劇薬の過大投与による後遺症だと判断して空耳で私に伝えてきたもの
ではありませんでした。
そして、私は、劇薬の過大投与による後遺症の晨一さんについては、定説に従って四か月ないし八か
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月間放置すれば必ず社会復帰できるはずだと判断したのでした。
勿論、その判断の根拠については、以前にサイババからの空耳で知っていた定説の内容だけで、それ
以外には何の根拠もありませんでした。
(二)このようなことから、私は晨一さんを四をないし八か月後には社会復帰させることができると確
信していましたが、私も生身の人間ですので、実際に私自身が劇薬の過大投与の後遺症による患者を放
置してその後社会復帰するということを直接見聞して体験したことはありませんでしたし、世の中に一
〇〇パーセント万全だということはあり得ないということも判っておりましたので、そのような私の気
持ちや、健児達にも一〇〇パーセント万全だと保障できることはあり得ないことだということを承知し
てしっかりとしてもらいたいという気持ちから、昨年の七月二日のが弟一回目のシャクテイパットの時
に「お父さんに万が一のことがあったら。等と言い、同じ日の二回目のシャクティパットの時にも絶対
大丈夫だということはないです。みどりがメールした日に来れば大丈夫だった。あれから何日か経った
よね、覚悟しておかなくてはならない。」等ということを言いました。 晨一さんに対して、昨日お話し
しましたよそ解毒用のシャクティパットを三回行ったところ、解毒が終了したことがわかりましたので、
健児達に晨一さんの解毒が終わったことや、後は解毒用のシャクティパットは行わないということを言
った後、晨一さんを放置することにしました。
この「放置」というのは、客観的外形的には晨一さんに対して何の処置も施さないということですが、
言葉の持つイメージとして「冷たく見放して放置する」という意味合いではなく、
「住居で、オープンに
して、家族が暖かい心で見守る」ということです。
この「放置」という言葉のいわば学術的な意味合いについては、現代医学用語辞典に明記されており、
定説です。
晨一さんの場合、マロウドインターナショナルホテル成田の一、一一七二号室での放置でしたので、
正確には住居とまでは言えませんでしたが、人間が起居することのできる空間ですので、いわば準住居
ということで、この放置の要件を満たしておりました。
そして、オープンに放置しなければなりませんでしたので、晨一さんのことを暖かい心で見守りたい
人達であれば誰でも自由に晨一さんのいわば見舞いや看病をすることを認めていました。
そこで、SPGF参加ボランティア達の子供達についても子供達自信が看護を手伝うと言えば、それ
を拒んではいけないということで、子供達にも晨一さんのお見舞いや看病をさせていました。
もっとも、ホテルの従業員などについては、事情が良く呑み込めていない筈でしたから、皮膚が黒ず
んで回復過程にある晨一さんの顔や身体を見れば死体だと思うおそれがあり、余計なトラブルを起こす
と考えられたことから、それなりに対応するということにしていました。
見守る家族については、息子の健児と奥さんである昭子さんがいました。
(四)解毒用のシャクティパットを三回行った後の晨一さんの状態については、高橋伸子などから報告を
受けて承知しておりましたが、私が直接晨一さんのことを自分の目でみたのは、昨年の九月以降のこと
で、回復促進のためのシャクテイパットを行うようになってからでした。
その時も、晨一さんの顔から下の身体は毛布などが被されておりましたので、私が直接見たのは、晨
一さんの顔や頭部だけでした。
晨一さんの顔は黒くなっており、眼球も乾燥しておりましたが、これは、定説どおり劇薬の過大投与
による後遺症の症状でしたので、特に意外ではありませんでした。
46
勿論、このような状態に晨一さんがなっているということは、その前から伸子などからの報告で知っ
ておりました。
私が回復促進のためのシャクテイパットを開始したのは、第一に晨一さんの皮膚の色が黒色から茶色
に変化し、第二に晨一さんの目の部分が窪んで光を感じなくなったことから、晨一さんに回復の兆しが
現れたと私が判断したからでした。
この回復の兆しについての要件は、勿論定説です。
私は、回復促進のシャクテイパットについては、晨一さんがベッドに横たわっている一、一一七二号
室で行いましたが、自分のいる一、二九〇号室で行わなかったのは、回復過程にある晨一さんに一、二
九〇号室まで来てもらうことは晨一さんを運ぶボランティアの者達にも世話をかけると思ったことと、
私自身が自分の部屋に居続けることが退屈であったことからでした。
解毒のためのシャクティパットについても、私としては、わざわざ伊丹から成田まで来てくれた晨一
さんに敬意を表して晨一さんのいる一、二七二号室で行うつもりでしたが、チェックインの関係でその
連絡がうまくいかず、晨一さんが私のいる一、二九〇号室に運ばれて来てしまったため私の部屋で行っ
たのでした。
晨一さんの口の中から小さな虫のようなものが飛び出たり、這い出たりしているのを私も実際に見て
おりますが、死んではいないけれども衰弱した身体にウンカが発生するということは定説ですので、こ
の小さな虫のようなものを見て、私は、それが「ウンカ」だとわかり、また、晨一さんが衰弱はしてい
るものの死んではいないということがわかりました。
この定説というのは、第一に一、九九三年にイギリス医学評議会で発表された「生きている限り衰弱
さえすればいわゆるウンカ以外には現れ得ない」という臨床定説であり、第二に一、九六三年にフラン
ス評議会医学部門が発表した「死ねば、いわゆるウンカは突然としていなくなる。同時に引き継ぎでも
あったかのようにサナダムシ(幼虫二センチメートル)が出現する」という定説です。
そして、この「ウンカ」というものの定義については、定説が数多くあり、今から六〇年ほど前にド
イツのカーネギー研究所が編纂したニ万ページにも及ぶ文献や二〇〇〇年二月にイタリアのカーネギー
研究所イタリア支部の編纂した文献などがあり、その内容は「ウンカの出現時期は不明で、その生存す
る期間も不明で化け物のようであり、また、学術上結論をまだ出せていない魔界そのものであり、また、
人体が腐敗しない限り立ち寄ってくれていることから、天界なのではないか。」などというもので、結局
ははっきりとしたものではありません。
具体的には、
「六枚の羽があるが、脚部については電子顕微鏡でも判別できず、粘膜に集中的に集まっ
て来るが何を食するかは判らず、ただ臨床的に死体には付かず現れない。昆虫ではない。」と定義付けら
れています。
晨一さんは昨年の七月三日の時点で一旦呼吸が停止した後も呼吸が停止したままではなく、微弱な呼
吸や微弱な脈はあった筈でした。
これは、定説によれば、劇薬の過大投与による後遺症の患者を放置していた時の回復の過程で発現す
る症状であることから、晨一さんは定説によれば、劇薬の過大投与による後遺症でしたので、私として
は定説に従って晨一さんには微弱な呼吸や脈があるはずだと考えていたのでした。
私自身は、直接微弱な呼吸があるとか微弱な脈があるということは確認しておりませんでした。
ただ、晨一さんは死亡してはいなかった筈でした。
47
人の死亡の認定は、第一に心臓の活動の結果である鼓拍が三時間完全停止し、かつ、第二に鼻粘膜の
乾燥レベルが二以下になることです。
この鼻粘膜の乾燥レベルというのは五段階あり、これが二以下の状態というのは、頭の中の血液が腐
敗して鼻粘膜に出てくることから、泥水のようになってしまうことです。
この二つの要件について、私は晨一さんの場合に直接確認はしていませんでしたが、人は死亡すれば
その結果として死後六時間経過した時点から歯茎が溶け始め、体表面の細胞が死後六時間経過した時点
から、まず性器、次に爪粘膜、それから舌という順序で溶け始めて爪がはがれ落ちたり、舌が縦に裂け、
頭髪が死後二時間経過した時点から抜け落ち、風通しの悪い場所であれば死後二週間経過した時点で死
体全体の細胞の全てが溶けて白骨化するというのが定説であり、晨一さんの身体はこの定説にいう状態
にはなっていませんでしたので、死亡してはいませんでした。
このようにして晨一さんは回復過程にあったのですが、突如として成田警察署の警察官がやって来て、
晨一さんの身体を持ち去ってしまったのでした。
これは、私にとって全く予想外のことでした。
高橋 弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察検事
検察事務官
木野秀器
柴田義典
■平成12年3月12日
千葉地方検察庁における供述調書(2)
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居 不定
職業
無職
氏名
高橋弘二
電話
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月一二日千葉地方検庁において、本
職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたとこ
ろ、任意次のとおり供述した。
(一)私は、サイババからの空耳によりザ・グルと名乗って、ザ・グルとしてなすべきシャクティパッ
ト治療を行ったり、サイババからの空耳により知った定説を説明して、その定説の内容を理解してもら
えるように行動して来ました。
そして、このようなザ・グルとしての私を受け入れ、信奉するボランティア達が私を支援する団体と
48
して SPGF というものを組織し、私のために奉仕して種々の活動を行ってくれております。
勿論、SPGF のボランティア達のこのような私に対する支援活動は、彼等の意思によってなされるもの
ですが、私としては、このような SPGF のボランティア達の存在はありがたく、また、うれしいという気
持ちを持っています。
それだけに、このような SPGF のボランティア達が外部からのいろいろな錯綜した情報によって私のこ
とを誤解し、または、理解できずに私のもとから立ち去ってしまうことはとても寂しいことであり、堪
えがたいものです。
そこで、先日もお話ししましたように、定説を実感としてより受け入れてもらえるように、サイババ
からの空耳で知った定説文献の所在を明らかにするようにしました。
SPGF のボランティア達は、私に対しては無償の奉仕活動をしてくれますが、私以外の者に対しては社
会通念に従ってその活動については有償の場合が殆どになります。
SPGF も組織として存在する以上、経費がかかりますし、ボランティアの面々も生身の人間で生きてい
かなければなりませんので、そのためには、無償ということはあり得ないのです。
そこで、シャクティパット治療についても、そのシャクテイパット治療を実施するに当たっては、SPGF
のボランティア達が事前に患者やその家族からその者の病状やシャクティパット治療を希望する理由や
その真意などを聞き取り、その者の病状などについて確認を取るなどの準備を必ずしなければなりませ
んので、そのような SPGF ボランティア達のシャクティパット治療を実施するに当たっての支援活動に対
する報酬や、シャクティパット治療を実施するに当たっての経費ということで、シャクティパット治療
を受ける患者は SPGF に対して事前に八〇〇万円を支払っております。
SPGF としては、このシャクテイパット治療を実施するに当たっての対価としての八〇〇万円以外には
SPGF のボランティアが個人的に SPGF に貸し出すお金以外には今のところ大きな収入はなく、逆に飢餓救
済活動の一環として定説を引用した教科書を配布するという活動のために作成した書籍の印刷代などの
支払いに大きな支出を占めている状態です。しかし、これはあくまでも SPGF の問題なので、ザ・グルと
しては SPGF の方で解決してもらわなければならないことです。
(二) 今回、私は小林晨一さんに対してシャクティパット治療を行いましたが、、最初に晨一さんが脳
内出血で倒れて病院に運ばれたということを聞いた時には、個人的に親しい友人である晨一さんだけに、
必ず死ぬであろう脳内出血を発症した以上は助からないだろうと思い、落ち込んだ悲しい気持ちになり
ました。
しかし、それが西澤みどりを通して小林健児の方から晨一さんの具体的な病状とか、入院して治療を
受けている病院が市立伊丹病院という立派な病院だということなどの報告を受け、私も冷静になり親し
い友人である晨一さんを何とか助けてあげたいと思いました
最終的にシャクティパット治療を行うかどうかという判断はサイババが判断して、それを空耳で私に
伝えて来ますが、これまでにサイババがシャクテイパット治療を拒んだ場合というのは、その治療を受
ける相手が簡単に言えば不信感を本来的に抱いている人の場合だということを私は経験的に知っており、
私の知る限り晨一さんはそのような不信感を本来的に持っているような人でないことを知っていました
ので、晨一さんに対するシャクティパット治療をサイババが拒むことはないはずだという思いがありま
した。
そこで、私はシャクティパット治療を受けるかどうかの決断は晨一さんの長男である健児が行わなけ
49
ればならないということは判っていましたが、晨一さんに助かってもらいたいという気持ちから、晨一
さんにシャクティパット治療を行いたいという私の生身の人間としての気持ちから、私は西澤みどりを
通して健児に対し「頼りにしてくれていいぞ」ということを言いました。
その後、健児が晨一さんにシャクティパット治療を受けさせることを決断しましたが、健児の優柔不
断な性格からなかなかシャクティパット治療を晨一さんに受けさせる時期について決断することができ
ず悩んでいるようでした。
そこで、私はいつまでも健児が悩み続けていれば、晨一さんを市立伊丹病院から私のいるマロウドイ
ンターナショナルホテル成田まで連れて来るのに支援する SPGF ボランティア達の行動を束縛することに
なって迷惑をかけ続けると思いましたし、病院側の点滴により苦しんでいる晨一さんに早くシャクティ
パット治療を受けさせなければ手遅れになると思いましたので、私は親しい友人である晨一さんを何と
してでも助けたいという気持ちから、西澤みどりを通じて健児にメッセージを何回か送り、最後は「今
日、明日が,山場だ」 などと言って、優柔不断な健児が早く決意を固めて 一刻も早く晨一さんを市立
伊丹病院からマロウ・ドインターナショナルホテル成田の私の所まで連れて来るように言いました。
健児からの報告では、晨一さんは自宅で倒れて病院に運び込まれ、脳内出血という診断で意識障害が
あり、病院側から点滴治療を受けて、入院中の間にも錯乱して暴れるということでしたし、健児もその
ような晨一さんを見てかなり混乱しているような感じでしたので、私は晨一さんは当初思ったように三
日以内に死ぬということはありませんでしたが、かなり重い病状なのだと思いました。
そして、そのように重い病状の患者に対して、私はこれまでにシャクテイパット治療を行ったことは
ありませんでしたので、生身の人間としては私の経験上、晨一さんを治せるかどうか判りませんでした
が、定説によれば、晨一さんが死亡する前に私の下に来てシャクティパット治療を行うことができれば、
必ず社会復帰できるはずでしたし、サイババが晨一さんのシャクテイパット治療を受け入れておりまし
たので、私は自信を持って晨一さんに対してシャクティパット治療を行うことにしていました。
そして、昨年の七月二日の午前中に私の下に連れて来られた晨一さんを直接目で見て、晨一さんは意
識が途切れがちで重い病状でしたが、痰を絡ませながら呼吸をして生きていましたので、それまでは晨
一さんの状態を健児からの報告で想像していただけでしたので、いつ死んでもおかしくない程の瀕死の
重傷だと思っていただけに私の目の前で呼吸をして生きている晨一さんの姿を見て「生きていて良かっ
た。」と思い、ホッとしました。
私の下に来る前に死亡してしまえば、シヤクティパット治療を行っても死者を生き返らせることなど
はできませんので、私は晨一さんがとにかく生きといてくれて、これでシャクティパット治療を行えば
助けることができると思いました。
しかし、現実に見た晨一さんは、以前にもお話ししたように、目に光がなく、言葉も発せずに意識も途
切れがちで、痰を絡ませながら呼吸はしていましたが、車椅子に座ってグッタリとしており、どちらか
の半身が突っ張って麻痩しており、ひどい状態でやはりかなりの重症のようでした。
このような晨一さんの状態を見て、先程も申しましたように、私はこれほどまでに重い病状の患者に
これまでにシャクティパット治療を行った経験はありませんでしたので、相手が晨一さんであるだけに
生身の人間である私としては、晨一さんにシャクティパット治療で社会復帰させることができるかどう
か躊躇いがありました。
しかし、これまでにも詳しくお話しして来ましたように、定説によれば、晨一さんは絶対に回復して
50
社会復帰できる筈でしたし、サイババが晨一さんに対するシャクティパット治療を引き受けることを許
可してくれていましたので、私は私の親しい友人である晨一さんを助けるために、私の信ずる定説やシ
ャクティパットによって晨一さんを助け、社会復帰させるためにその後シャクティパットを行ったので
した。
ザ・グルとして、一旦シャクティパット治療を引き受けてしまった責任上とか、シャクティパット治
療の対価として SPGF が八〇〇万円を受け取ってしまったからとかというような次元のいかなる理由から
晨一さんに対してシャクテイパットを行ったのではありません。
あくまでも、定説によれば、晨一さんが助かり、社会復帰するということを私は知っていたからこそ、
ザ・グルの責務として晨一さんに対してシャクテイパットを行ったのでした。
その後、七月三日にシヤクテイパットを行った後、晨一さんの呼吸が止まってしまったという報告を
受け、私は定説からそのような事態の起こりうろことを予想はしていましたが、勿論これまでにそのよ
うな経験をしたことがありませんでしたので、生身の人間としては正直に申し上げて戸惑い、気持ちに
動揺がありました。
しかし、定説によれば、当然に起こりうる状態で死亡するものではありませんでしたので、定説を支
持するザ・グルとしては、晨一さんが死んではいないという定説の内容に従った結論を健児達に伝え、
その後肌が黒色に変化し、目が窪むなどして定説を知らない社会一般の人が見れば、死体だとしか思え
ない晨一さんのことを、私は定説に従って晨一さんは死んでおらず、回復の過程にあるなどと健児達に
説明したのでした。
私も、現実に晨一さんの黒ずみ、目の窪んだ顔を見た時には、定説を知らなければ晨一さんは死亡し
て、これは晨一さんの死体だと考えたと思いました。
しかし、私は定説を知っており、また、晨一さんの身体は呼吸が止まったという報告を受けてから期
間がいくら経過しても、腐乱して溶けたり白骨化することはなく、高橋伸子などから報告を受けた内容
からは、定説にあるとおりの回復状況でしたので、晨一さんが真実死亡したのかどうかという明確な確
認はしないまま、ますます意を強くして、健児達などに対して晨一さんが死亡しておらず、回復過程に
あるところだという定説の説明をしていたのでした。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察官検事
木野秀器
検察事務官
柴田義典
■平成12年3月13日
成田警察署における供述調書
供述調書
本籍
大阪府宝塚市光が丘町一丁目一三番地の一五四
住居
茨城県東茨城郡大洗町神山町一三の一〇番地
ホテルパシフィック大洗二一二号室
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職業
無職
氏名
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する殺人被疑事件につき、平成一二年三月一三日
成田警察署において、本職は、あらか
じめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のと
おり供述した。
(一)自分の意思に反して話さなくても良いと言うことは良く分かりました。
(二)只今、取調官に自宅で脳内出血で倒れ、伊丹市立病院に運ばれ、入院治療中であった小林晨一さ
んを、担当医師等の意見を振り切り、私の指示で晨一さんの長男健児等に、当時私が滞在していたマロ
ウドインターナショナルホテル成田に連れてこさせ、医師の免許もない私が、治る訳もないシャクティ
パット治療をほどこしたり、又、医師の治療行為もさせず、死なせた、ということは殺人になる、とい
う説明を受け、そのことで取調べをする、と言うことですが、このことについては、全面的に認めます。
しかし、一言だけ言わせてください。それは、本日の取調べの検事さんに、私が今まで話をしていた
定説を認めて貰えなかったことです。
只今話したことに間違いありません。
高橋弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申したて、署名指印した。
前同日
成田警察署応援派遣
千葉県警察本部刑事部
捜査第一課
司法警察員
警部補
西田
栄
立会代筆人
右同
司法警察員
巡査部長
鹿野洋一
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
(次ページより以下の資料が添付)
・高橋弘二戸籍謄本
2枚
・高橋弘二戸籍謄本附票
■平成12年3月13日
3枚
千葉地方検察庁における供述調書(1)
52
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居 不定
職業 無職
氏名
電話
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月一三日千葉地方検察庁において、
本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたと
ころ、任意次のとおり供述した。
(一)只今検察官から、私は保護責任者遺棄致死罪というよりは殺人罪の嫌疑があると言われて、殺人
罪の罪名を告げられ、改めて黙秘権があることを言われました。
しかし、私の言うことに変わりはありません。
(二)私は、西澤みどりを通して小林健児から何回も報告を受けて、小林晨一さんが脳内出血で倒れて市
立伊丹病院に入院し、意識障害があって、点滴治療を受け続け、かなり重い病状にあるということを知
っておりました。
それにもかかわらず、健児に対して何度となく晨一さんにシャクティパット治療を受けさせるかどう
かの決断を迫り、そして、点滴治療を受けて意識障害のある晨一さんを病院から連れ出して私の下に連
れて来させ、意識障害があり、半身麻顔の状態で痰を絡ませながら荒い呼吸をしていた晨一さんを現実
に目の当たりにしながらも、健児達に対して、晨一に水や食事を今は与える必要はなく、痰も取る必要
はない等と言って、重い病状の晨一さんを放置させ、最終的には晨一さんを死亡させたもので、私はこ
の事実を認めますので、社会一般の人から見ればノ私の晨一さんに対して行った行為は殺人行為にほか
ならず、私が殺人罪を犯したと言われても仕方のないことだと思っております。
しかし、私はこれまで申し上げて来た定説を信じており、また、シャクティパットが有効であること
も信じておりますので、私は、定説により、晨一さんのことは病院側の劇薬の過大投与による後遺症で
あると信じ、定説により、シャクティパットでそれを解毒し、放置すれば晨一さんが必ずや回復して社
会復帰できるものと信じておりました。
現在でもこの気持ちに変わりはありません。
私がこのように考えた根拠は定説以外にありませんが、私は定説の内容に間違いはないものと確信し
ております。
それは、私が敬い信奉するサイババからの空耳により、この定説の存在やシャクティパット治療のこ
とを知ったからです。
(三)
私の前に運ばれて来た晨一さんを現実に見たときに、晨一さんを近代的医療設備の整った病院に
連れて行くか、市立伊丹病院に戻すということを考えなかったかと検察官は質問されますが、私はこれ
までの修行により、そのような「迷い」というものを克服して全くの中立な状態になっていますので、
53
健児が晨一さんにシャクティパット治療を受けさせると決断して私の下に連れて来た以上、中立な私と
しては、ただそれを受け入れるというだけのことでした。
(四)昨年の七月三日に晨一さんの呼吸が停止した時点でも、定説により、晨一さんは死亡したものでは
なく、それ以後も昨年の一一月一一日に成田警察署が晨一さんの身体を持ち去ってしまうまでは晨一さ
んは生きていたと思っております。
それは、定説によれば、昨年の一一月一一日の時点では、晨一さんの身体は白骨化していませんでした
ので、死んでいたとは言えず、従って、その結果からすれば、昨年の七月三日に晨一さんの呼吸が止ま
った時点ではまだ生きていたという結論になるからです。
仮に、昨年の七月三日の呼吸が停止した時点で晨一さんが死亡したものと認めれば、昨年の」一月一
一日の時点で既に死んでいるはずの晨一さんの身体が白骨化していることの説明が定説からではできな
いことになってしまいます。
只今、検察官から昨年の一一月一五日に実施された晨一さんの死体の司法解剖の結果によると、晨一
さんの脳は軟泥化して溶けた状態になっていたということを聞きましたが、これは、定説による、劇薬
投与の後遺症により回復過程にある患者が死亡した時の状態と合致します。
定説によれば、劇薬投与の後遺症の患者が回復過程で死亡した場合、まず、直ちに心臓が停止し、二
秒内に脳がドロドロに溶け、同時に鼻の部分が骸骨化し、眼球が白くなって流れ出て舌がドロドロにな
って欠損し、肺も欠損して他の内臓も腐敗し、男性器が身体から取れてしまいます。
ですから、この定説によっても晨一さんが昨年の一一月一一日の時点以前に既に死亡していたという
ことにはなりません。しかし、検察官から司法解剖の結果をお聞きしたことによって、晨一さんが司法
解剖によって死亡したものではなかったということが只今判りました。
具体的な時期は判りませんが、警察が晨一さんの身体を昨年の一一月一一日に持ち去ってから後、司
法解剖が実施されるまでの間に死亡したのだと思います。
高橋
弘二
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察官検事
木野
秀器
検察事務官
柴田
義典
■平成12年3月13日
千葉地方検察庁における供述調書(2)
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居
不定
職業
無職
氏名
高橋弘二
電話
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
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右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月一三日千葉地方検察庁において、
本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたと
ころ、任意次のとおり供述した。
(一)私は、昨年の七月ニ日から三日にかけて、小林晨一さんに解毒用のシャクティパットを行い、そ
の後九月から一〇月下旬くらいころまでの間に回復促進用のシャクティパットを行い、晨一さんに対し
てシャクティパット治療を施しました。
私は、晨一さん以外にもこれまでに約三〇〇人の人達に対してシャクティパット治療を行いましたが、
その全てがライフスペースのセミナー受講者やその家族であり、その大半はいわゆる心の悩みが身体上
に症状として現れている場合でした。
ですから、大怪我をしている人とか、晨一さんのように重病の患者にシャクティパット治療を行った
というのは晨一さん以外にはありませんでした。
一昨年の八月ころにフジキ・●●という男性とタカサキ・タカキヨという男性にシャクテイパット治
療を行いました。
フジキ・ケンジは神経性アトピーだという訴えで病院に六年間通院しても治らないという患者でした。
タカサキ・タカキヨは虚弱者ということで、身体壮健になりたいという患者でした。
治療後、タカサキは SPGF 本を書店を巡って販売する仕事をしています。
一昨年の十一月ころにはタケハラ・●●という三〇歳代独身の女性にシヤクティパット治療を行いま
した。
タケハラは、生理不順で生理痛などが激しいため、そのことをおそれ、神経過敏になっている患者で
した。
昨年の四月ころにはサイトウ・●●という女子高生にシャクティパット治療を行いました。
サイトウは、学校の先生の話について行けず、勉強がうまくできないということで虚弱者でした。
昨年の五月ころにはイマイズミ・●●という太った女性にシャクティパット治療を行いました。
イマイズミは、胃弱を治して痩せたいという患者でした。
晨一さんに解毒用のシヤクテイパットを行った後の昨年の七月ころにはマツバラ・●●という子連れ
の女性にシャクティパット治療を行いました。
マツバラは、夫に満足できず、子供も育てられず、何もしたくないということで、いわゆる不定愁訴
の患者でした。
昨年の八月ころにはオオタケ・エイコとスドウ・マサトシに対してシヤクティパット治療を行いまし
た。
この二人は婚約者で、オオタケは太りすぎで、怒りがいつ爆発するかわからないヒステリーというこ
とで、そのヒステリーを治し、痩せたいという患者でした。
スドウは、常に怒りを内に込めていて、それがいつ爆発するか本人にもわからず、そのために本人自
身がおどおどしているので、それを治したいという患者でした。
そして、昨年の一〇月には、晨一さんの奥さんである小林昭子さんにシャクテイパット治療を行いま
した。
55
昭子さんは、太りすぎで疲れることやアホで賢くないので、それを治したいということでした。
アホというのは、身体や頭の回転が遅いということです。
高橋 弘二
右のとおり録取して識み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察官検事
木野秀器
検察事務官
柴田義典
■平成12年3月13日
千葉地方検察庁における供述調書(3)
供述調書
本籍
兵庫県宝塚市光ガ丘一丁目一三番地の一五四
住居 不定
職業 無職
氏名
電話
高橋弘二
昭和一三年七月二三日生(六一歳)
右の者に対する保護責任者遺棄致死被疑事件につき、平成一二年三月一三日千葉地方検察庁において、
本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたと
ころ、任意次のとおり供述した。
申し訳ありませんでした。
私は、今回、結果として小林晨一さんを死亡させたことについて、私の至らなさから、世間の皆様や、
私を信奉してくれている SPGF ボランティアの者達をその騒ぎに巻き込み、非常な迷惑をかけてしまいま
した。
非常に反省しています。
私は定説を信じ、それに酔い、その結果、私の言っていることや、私の行っていることが世間一般か
らはどのように評価されているのかということには気が付いておらず、気にかけてもいませんでした。
私は、何事にも頓着せず、定説を信じ、定説を説明していれば、ザ・グルである私のことを信奉して
くれている SPGF のボランティア達に囲まれて彼等から奉仕を受け、幸福な気分に浸りきっていました。
そして、私の遊び心や報道機関に対する反感もあって、報道関係者に対してからかったり、冗談を言
って揶揄する発言をして、ますます騒ぎを大きくし、世間からの私や SPGF に対する反感や誤解を大きく
させてしまいました。
世間の人達が私の言っていることや、やっていることをどのように評価しているのかということにつ
いての意識が私には全く欠けていました。
SPGF のボランティアの者達に囲まれてその世界の中で過ごしていました。
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今回、逮捕・勾留されて、そのことがよく判りました。
しかし、私はザ・グルとしてこれまでやって来ましたので、定説やシャクティパットを捨てることは
できません。
定説やシャクティパットを捨ててしまえば、私はザ・グルではなくなってしまいます。
このような
私を世間が受け入れてくれないのであれば、日本国外であろうと私を受け入れてくれる所に行くつもり
です。
そのことで、SPGF のボランティア達を束縛するつもりはありません。
ただ、どうしても理解して頂きたいことがあります。
それは、いまだ実現途上ではありますが、私が唱えていた飢餓救済活動に対する私の思いは、真摯な
ものだということです。
飢餓救済活動にかける私の思いには、私の非常に苦労し、差別された生い立ちからくる熱いものがあ
り、これを実現するために邁進することは、私の人生をかけての願いであります。
高橋 弘二
右のとおり録して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した
前同日
千葉地方検察庁
検察官検事
木野秀器
検察事務官
柴田義典
保護責任者遺棄致死
高橋 弘二
外七名
事件記録
(第六分冊検面調書等綴)8−6
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