異なった才能、しかし、同じ聖霊なる神からの賜物 1 コリント 12 章 1-12 節 聖霊降臨主日 2013 年 5 月 19 日 説教者:芳賀弥男 私たちはみな「異なります」。同じ日本人であっても、出身地、性別、身長、顔、性格、趣味、特技、才能….この世にまったく 同じ人はいません。実際に、このような不平等は、差別やいじめ、争いをもたらします。みなが同じであれば、このようなことが 起こらなかったのではないでしょうか? いいえ。問題は「違い」ではないのです。私たちの「ねたみ」「愛のなさ」「神への感謝 のなさ」などの罪が原因です。実際に、今日思い巡らすコリント人への手紙の12章でもこの問題を取り扱っていると言うことは、 コリントの教会でもそれぞれ「才能」の違いが、争いや妬み、差別や分裂などを引き起こしたのです。なぜ、神はこのように私た ち一人一人を異なって作られたのでしょうか? もっとも素晴らしい聖霊からの賜物 12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。 12:2 ご 承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所で した。 12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれ よ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。 パウロはまず「ぜひ、次のことを知っていただきたい」と言う言葉で、1-3節に大事なことが書かれていることを暗示しています。 それは「聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」と言うことができない」と言う事実です。もちろん、偽善者や未信者 も口では「イエスは主です」と言うことができても、真心からそのように言うイエスへの信仰と愛は、聖霊なる神によるのでなけ れば誰も持つことができないのです。 その証拠に、コリント人のクリスチャンたちも、イエスを愛する以前、つまり聖霊なる神 の助けがない時は、「ものを言わない偶像」の所にしか行きつきませんでした。人の作った教え、木や石でできた像、迷信、死ん だ先祖、あなたを愛することも助けることも、約束することもできないものを神のようにすがることしかできませんでした。 そ れはこの日本でも同じです。まるで、目の不自由な人、または小さな子供が何の助けもないならば、目的地に行きつくことができ ないのと同じです。しかし、神である聖霊はいつもあなたを真の神であり、あなたのためにご自分の全てを捨てるほどに愛するイ エス・キリストに導き、あなたを天国で、永遠に保護しようとします。 これは聖霊が与えてくださる数多くの賜物の中で、もっともすばらしいプレゼントです。つまり「イエス・キリストを真の救い 主として信じる信仰と愛」です。だからパウロはそれをまずここで紹介しています。それがなければ、イエスとあなたは何の関係 もなく、イエスからの数多くのプレゼント、神の子供となること、全ての罪の赦し、天国での永遠の命、よみがえり、神の愛、地 獄と永遠の罰からの救い、真の平安、真の喜びもないのです。夫婦の関係も愛と信頼がないならば、何も残らないのと似ています。 しかし、それほどのすばらしい賜物に留まらず、聖霊はさらに多くの賜物で私たちの人生を実り豊かにさせようとします。 異なる才能、しかし、同じ目的と与え主 12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。 12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主 は同じ主です。 12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。 次にパウロが注目させようとしているのは、何についてでしょうか。それは「異なっているが同じ賜物」と言うことです。私た ちみなは、それぞれに異なった才能や能力がありますね。しかし、私たちにそれらを与えられたのは同じ聖霊なる神、主であるこ とを覚えましょう。それぞれに異なる才能は、異なる目的と理由があって与えられているのではありません。同じ主が、ご自身の 御心と目的のためにあなたに与えてくださっているのです。ですから、あなたが、主の目的と御心に反して、あなたの才能や能力 を用いるならば、それは「的を外れる」つまり、罪です。 最近、電動のこぎりを購入しました。とても便利ですが、メーカーが提案する正しい方法と異なった用い方をしたら、どんなに 便利な物でも危険な道具になりますね。同じように、私たちの才能も、主の御心に反して才能を用いることは、自分と隣人に翁害 を与えるだけではなく、様々な問題を引き起こします。私たちが自分に供えられた才能を「自分の努力のおかげ」と勘違いするこ と、才能の足りない人を見下すこと、その才能を使って自分が有名になり金持ちになる、つまり自分を誇示するために用いること、 その才能を自分のためだけに用いること、それらは間違えた用い方です。神によれば永遠の罰に値する罪なのです。 教会の中での才能 12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。 12:8 ある人には御霊によって知恵のこ とばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、 12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、 ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を 見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。 ここに様々な才能が与えられた理由と目的が書かれています。それは「みなの益となるため」です。あなたが有名になったり、 人々から称賛されたり、金持ちになるためでもなく、争いをしたり、他の人を見下したり、分裂や争いをするためではありません。 また、それは聖霊が与える賜物は、全て役に立つものであり、あなたも役に立つことができる存在という意味でもあります。 特にこの個所では、神の言葉を語ること、病人を癒すこと、異言、異言を解き明かすこと、奇跡を行なうことが挙げられていま す。それらは、一般社会での才能と言うよりも、教会の中での才能です。しかし、これらの才能は今日の教会ではあまり見られな いものです。その理由は、当時、まだイエス・キリストと言う名も全然知れ渡っていない時代に、イエスが与えられるすばらしい 神の恵みについて世界中に言い伝えても、誰もイエスを神として認めないので、話しもまともに聞かないでしょう。しかし、それ らの特別な才能を用いることによって、彼らが語るメッセージが神からのものであることを証明しました。今日は、聖書で神が言 われるように、聖書があるのでこれらの才能によって神の言葉の真実性を証明する必要がありません。 問題は、教会の中でもこれらの才能がある人こそ、神に愛されている、神への信仰が厚い証拠だと言うような意見が出たことで す。それによってこれらの才能のない人、または足りない人が、神を愛していない、信じていない証拠として用いられてしまって いたようです。特にコリントの教会では「異言」を語る人が目立ちました。 今日、これらの特別な才能とは違っても、教会の中でもさまざまな才能が私たちに与えられています。神の言葉を正しく教え、 説教する能力、掃除、花を供える才能、神に全幅の信頼をよせる才能、オルガンやピアノの才能、讃美歌を上手に歌う才能、他の 人に、子供たちに神の言葉を分かりやすく伝える才能、人の話を聞いてあげることが上手な才能、祈りの才能、イエスの福音を他 の人に分け合う才能…..それらもあなたのためだけではなく、あなたのまわりの人の永遠の益となるために用いるようにと神から与 えられた才能です。それらの才能の真の与え主、作り主の意志に従って用いることこそ、正しい方法、よい方法であり、真に良い 結果を生み出すのです。 これらはみな聖霊によって与えられる 12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与え てくださるのです。 12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあって も、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。 今日読んだ箇所の中にも6回「御霊によって」これらの才能が与えられたことが強調されています。パウロは何を言いたいのでし ょうか。それは、それらの才能について、私たちは自分を誇ることができません。それらを与えてくださった聖霊なる神に感謝す べきではありませんか。 私たちの体も、それぞれ異なる機能をもつ部分によって一つの体を形成しています。そして、互いに調和し、協力し合っていま す。それらの部分は、自分を誇りません。 小さな単位で言うと、それぞれの地方教会、そしてLECC、世界中の全てのキリスト教 会と真のクリスチャンが、この一つの聖霊なる神によって、一つの体として形成されています。聖霊なる神にあって、才能の不平 等は不和を生み出すのではなく、より親密な交わりと助け合い、尊敬と、愛しあうことなど多くの実りを生み出すのです。神は全 能ですから、やろうと思えばお一人で何でもできます。しかし、神は私たちにそれぞれの才能を与えて、一緒に神の家を築き上げ、 永遠の救いの活動の働きをしようと、私たちと一緒に働こうと招いてくださっているのです。神お一人がこの特権と喜びを得るの ではなく、共にこの大きな喜び、天の御国でも大歓声が上がるほどの喜びを共有したいのです。愛する者と共に喜びを共有したい のです。私たちは神の子供であり、花嫁ですから! あなたに与えられた御霊の才能は何ですか? それらを間違えて用いることも罪ですが、認めないこと、用いないことも罪です。 よくわからない人は、牧師と相談したり、聖書をよく読んでみましょう。そして、神があなたに与えられた才能を喜び、用いまし ょう。あなたに足りない才能は、他の人に与えられており、その人があなたのために、または代わりに用います。 そして、いつもイエスを思い出しましょう。イエス・キリストはご自分の才能をご自分のために一切用いず、ただあなたのため だけに余すところなく用いて、仕え続けてくださっています。その才能を用いて、互いに仕え合いあうことが神の御心です。その 方から与えられた才能は、その方が望むように用いられますように。アーメン-
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