いい上役

いい上役
あこがれていた会社に入社することができた。歴史と伝統のある会社というわけではないが、その目ざまし
い発展ぷりと、内容の充実さとは、誰もが認めている企葉なのだ。新分野の製品を次々に開発し、世に送り出
し、消費者へのサービスも行き届いている。
たいぐう
ずいいち
言うまでもなく、社員の 待遇
もいい。業界 随一
*1 。私がここに入社したかった理由のひとつがそれだ。しか
し、そんな物質的なことだけではない。社内に人間的な親密さが満ちている。入社してみて、それがうわさだ
けでなかったとはっきりした。
入社試験は、決してやさしいものではなかった。優秀なのが集まり、大変な競争率だった。筆記試験だけ
こうとう
でなく、 口頭
試問*2 で性格をくわしく調べられた。そのとき、私は熱心に答えた。そのまじめさが見込まれ
た*3 のだろう、幸運にも合格できた。友人たちは羨ましがるし、私も内心、誇りに思っている。がんばって、
自己の才能を発揮しよう。それは会社の発展にもつながるのだ。
かかりちょう
配属された部門。課長も 係長
もよさそうな人だった。同僚もまたそうだった。活気があふれている。活気が
あるのはここだけでなく、社内全部がそうなのだ。
なんにちめ
入社して 何日目
かに、係長は私に言った。
「仕事はなれたかね」
「はい。まだ夢中ですが、そのうち、慣れてくるでしょう」
「いそいで帰宅しないでいいのだったら、いっぱい飲むとしようか。おごろう。君の歓迎会の意味でだ」*4
「ありがとうございます」
なんけん
はばつ
私は係長に連れられ、バーを 何軒
かまわった。こんなとき、小説や漫画だと、社内の 派閥
についての愚痴を
聞かされることが多いみたいだが、この係長はそんなことも口にしなかった。「気楽に大いに飲んでくれ」と
私に酒をすすめ、陽気に笑うだけだ。
しつむ
仕事中はきびしいのに、 執務
時間がすぎると頭を切り替えてなごやかになる。ほんとに好ましい人柄だ。こ
ういう人の下で働けるとは。
私は楽しくなり、意気投合し、大いに飲んだ。飲みすぎた感じだった。二人とも乱れた足取りで、もう一軒
バーへ寄ろうと、細い裏道を歩いていた時だった。むこうからやってきた男に、係長がぶつかった。
「やい、なにしやがるんだ」
相手は乱暴な口調でどなる。ぷつかっただけで、どっちが悪いとも言えないのに、殴りかかってきた。相手
はかたぎ*5 の人間ではないようだ。このままだと、係長がやられてしまう。ほってはおけない。
ためらうことなく、私は進み出て係長をかばった*6 。相手は私に殴りかかってくる。その理不尽さに腹が
立ったし、あくまで係長を守らねばならぬ。酔った勢いもあった。私は殴り返してやった。
しばらくして私がわれに帰ると、係長はかがみこんでいた。
「大丈夫でしたか」
*1
*2
*3
*4
*5
*6
多くのものの中で最もすぐれていること、同類中の第一位、
「当代∼の刀匠」
質問形式で能力・資格を試験
有望だと思う、頼りにする、
「∼まれて支店長に抜擢 (ばってき) される」
君の歓迎会の意味で僕がおごるんだ
堅気,(認真、誠實、規矩; 正當的職業、正経的生意)
庇う
1
と聞くと、係長はうなずいた。さっきの男は地面にのびており*7 、身動きもしない。係長はそいつの顔を覗
きこんで言った。
「こいつ、息をしていないし、脈もない。死んでしまったようだ」
それを聞き、私は青くなった。こわごわさわってみると、気持ち悪いぐらい、ぐ’ ったり*8 している。
「大変なことをしてしまいました。救急車を呼びましょうか」
やくづ
「まて、それはいかん。こんなことで、わが社の名が表ざたになったら、とりかえしがつかない。 役付
き*9 で
ある私には、それを防ぐ責任があるのだ」
「しかし、このままでは...」
「救急車を呼んでも、手遅れだ。いいから、君は逃げろ。あとは私が、何とか始末するから」
「だが、この責任は私のほうに...」
「いやいや、君が私をかばってしたことだ。責任の議論より、いまは解決のほうがさきだ。私に任せておけ。
私のほうが人生経験は豊富だ。安心しろ、さあ、はやく、はやく...」
「じゃあ、そういたします」
私は係長にせきたてられ*10 、その場をはなれた。さいわい人通りはない。誰にも見られることなく、帰り
ぼうえい
つけた。しかし、正当 防衛
とはいえ殺人は殺人。酔いもさめ、その夜の私は朝までなやみつづけたのだった。
次の日、出社した私は、まっさきに係長にささやいた。
「あれから、どうなさいましたか」
他人に聞かれないように応接室に入ってから係長は言った。
「うまく、始末したよ。誰にも目撃されなかった。どうせ*11 あんなやつは、鼻つまみ*12 者にきまっている。
検察だって、仲間どうしのけんかのあげくと判断して片付けるだろう。こっちのほうに容疑が及んでくるなん
て、ありえないさ...」
「しかし、心配でなりません」
「そうくよくよする*13 な。君がやった証拠は、なにひとつ残っていないんだ。万一なにかが残っているとし
ても、死体を始末した私のほうだ。君は心配するな」
「どんなふうに始末したのですか」
「あまり詳しく話さないほうがいいだろう。説明したりしたら、きみがまた、あれこれ取り越し苦労*14 をす
るからな。それにだ、何かの拍子で君が口をすぺらしたりしたら、私が困ることにもなる。そうだろう。この
件はこれで一切終わりにし、なにもかも忘れることにしよう」
「わかりました。なんとお礼を申し上げたらいいのか、わかりません。わたしのため、こうもお手数をかけ
てしまって。もちろん、係長にご迷惑が及ぶようなことは、口が裂けてもしゃべりません。ご恩は一生忘れま
せん」
私は誓った。係長は恩着せがましい態度を少しも示さなかったが、私は心の中で深く感謝した。なんとか無
*7
*8
*9
*10
*11
*12
*13
*14
伸びる=打ちのめされて動けなくなる、また、ひどく疲れてぐったりする、
「バンチをくらって∼」
「残業続きで∼びてしまう」
、
「延
びる」とも、かな書きも多い
人間や動物が、疲れや病気で力がなくなるさま; また、植物が生気のないさま
負責人
急き立てる
どうにもせよ的圧縮語
鼻摘み=掩鼻 ; 討人嫌
worry about, worry, be concerned
どうなるかわからない先のことをいろいろ考えて、いらない心配をすること、不必要的操心
2
事に済んだ形だった。あのとき私が軽率に大声をあげ、やじうま*15 を集めてしまったら、私の人生はめちゃ
めちゃになり、係長をまきそえ*16 にし、会社の名にまで泥をぬることになっていただろう。
すぺて係長のおかげなのだ。その恩にむくいる道はひとつしかない。仕事にはげむことだ。係長のために働
しっきゃく
くことだ。もし成績が上がらず係長が左遷*17 や 失脚
*18 となり、やけを起こされたり (自棄を起こす=自暴自
棄、豁出去) したら、結局は私も困るのだ。
仕事に打ち込むと、つらいなどと感じるひまもない。そんなことの結果として、私の成績の上がったこと
ふくじ
で、ボーナスをたくさんもらえもした*19 。 副次
的な産物だったのが、ボーナスのちいのは気分のいいことだ。
ふところが暖かいそのころ、私はある女と知り合った。なんということなく街で知り合ったのだが、そこが
わかげ
のいたり*20 、深い関係にまで進んでしまった。けっこう楽しかったのだが、そうもいっていられない事
若気
態になってきた。女から結婚を迫られたのだ。
世によくある例だろうが、そうなるとこっちの熱はさめ、その女の以前の男関係なども分かったり、私に結
婚する経済的条件がととのっていない点に気がついたり、ますます気が進まなくなる。女のほうは「結婚でき
ないのなら死ぬ」などとさわぐし、私はどうしたものかと持て余した。
そんな私のようすを見て、係長が言った。
「なにか悩みごとがあるようだな。顔色がよくないし、このごろ仕事のミスが多いぞ」
「いいえ、なんでもありません」
「かくしてもだめだ。われわれ二人のあいだで、かくしごとをすることもないじゃないか。相談にのってあ
げる。君がスランプ*21 になっては、私もこまるのだ」
「じつは...」
私は事情を話した。この係長が私の味方であることだけは信じていい。恥ずかしいことがらなので、ひや汗
をかきながら打ち明けた。だが係長は、怒ったり笑ったりしなかった。
「そうだったのか。よし、私がその女に、なんとか話をつけてあげる」
「申し訳ありません。お願いします」
私は頭を下げた。係長がどう話をつけてくれたのか、それ以来、女は二度と私に付きまとわなくなった。も
しかしたら、前の事件の時のように消してしまったのかなと思わないでもなかったが、そんな疑惑をいだいた
自分をすぐ反省した。そのご、街の人ごみでその女を見かけたことがあったのだ。
係長はどう言い含めてくれたのだろう。話のつけ方がうまいのだろうな。それとも、部下である私のため
に、ポケットマネー*22 で、いくらか払ってくれたのだろうか。それとなく私が間いたこともあったが「そん
なことより仕事にはげんでくれ」と言うだけ。
すばらしい係長だ。いつの日か私が昇進したとき、あんな人柄になれるかどうか。とてもそんな自信はな
い。いや、そんな先の心配をするより、現在、社のために力いっぱい尽くすことだ。それが係長への恩にむく
ゆいいつ
いる 唯一
の道なのだ。
*15
*16
*17
*18
*19
*20
*21
*22
野次馬=火事や事故などの現場に興味本位で集まってくる人; また、自分とは関係のないことにすぐ’ 興味を示し、人のしり馬に
乗って騒ぎ立てる人
巻き添え
させん、degradation、降職
それまでの地位や立場を失うこと
強調了もらえ這個動作
若気の至り: 幼稚之極
(slump、消況、萎靡; 暴鉄、不景气、下降
pocket money、小遣い銭
3
そのうち*23 、私は旧友の紹介である男と付き合うようになった。得体の知れない人物だったが、やがてそ
の正体が分かってきた。産業スパイというやつ。その男は、私にこう持ちかけて*24 きた。
「どうでしょう。あなたの勤め先の、新製品についての秘密をそっと教えてくださいよ。いくらでもお礼は
こうがい
します。また、あなたから間いたことは絶対に 口外
しませんから、ご迷惑はかけません」
「そんなことはできません。二度とその話はしないでください」
私はすぐつっぱねた*25 。とんでもないことだ。その気になれば秘密を知ることのできる立場に私はいるが、
係長の信頼を裏切ることなど、できるものではない。恩義を札束*26 にかえることはできない。
しかし、相手は産業スパイ。そんなことで簡単に引き下がらない。そのうち、こんなことを言い出した。
「あなた、そんなかたいことをおっしゃってはいけません。こっちも、あなたの弱味をにぎっているんで
すよ」
「なんのことだ...」私は平然と言ったものの、内心じつはどきりとして*27 いた。相手は言う。
「あなたのヌード写真を持っているんですよ。ある温泉で盗みどりをしたんでね。それをばらまくこともで
きる」
相手のおどかしは無効だった。
「なあんだ。そんなことか。こっちが女性じゃなくて、お気の毒だな、勝手になさったらいいでしょう」
そんな写真をばら撒かれるのは、いい気分じゃないが、それぐらいのことで社を裏切ることはできない。そ
の脅しに負けたりしたら、係長がどんなに悲しむか。それを想像したら、断じて*28 できないことなのだ。
産業スパイはあきらめたらしく、それで終わりだった。あとは平穏で、写真をばらまかれることもなかっ
た。そんなものは、はじめから存在しなかったのだろう。
この産業スパイの経験は、私にも役立った。やがて、他社の秘密をさぐるよう係長から頼まれたとき、私は
それを活用してみごとにやってのけた*29 のだ。脅しと買収を、巧みに使い分け、その秘密を手に入れた。非
ひきょう
合法で 卑怯
な行為だが。社のため、係長のためなのだ。係長は喜んでくれ、それは私の喜びでもあった。
それにしても、こんなことぐらいで社の秘密をもらしてしまう他社の社員が、私には気の毒に思えた。私の
ようにいい上役に恵まれていないからだろうと...
産業スパイは私のところに寄り付かなくなったが、別な話を持ちかけてくる人もあった。スカウト*30 の件
だ*31 。いまよりずっといい給料と地位とを保証するから、ある会社に移らないかというのだ。
人に認められるのは気分のいいものだ。しかし、私はその場で断わった。私はわが社が好きなのだ。仕事が
楽しい上に、義理と人情で結びついている。このことは、金や地位にはかえられない。私に実力があるとすれ
ば、この環境のおかげなのだ。
じんざい
どうしても、私という 人材
をほしいなら、係長に交渉してみてくれ。係長がおれと行動をともにしてくれと
言ったら、係長について私が移籍してもいい。そんなふうに答えたら、スカウトは二度と来なくなった。係長
に当って断わられたのか、そこまではしなかったのか*32 、私には分からないが...
*23
*24
*25
*26
*27
someday
propose an idea, offer a suggestion
突っ搬ねる=要求・依頼などをきびしく断る、きっぱりと拒絶する、はねつける
さつたば、紙幣を重ねて束ねた (たばねる) もの; また、多額の金
どきりとする: 嚇一跳、心裏略 一下
*28
断然
やってのける : むずかしいことをやりとげる
*30 scout
发现 , 跟踪; 侦察; 物色人才、搜索
*31 有人要把我控走
*32 還是没有那様倣、没有去找係長
*29
4
こうはい
あまりたいしたことではないが、大学の 後輩
たちが私にこう聞いてくることもある。
「先輩の会社、どうですか。働き甲斐のある会社だったら、入社試験を受けてみようと思うんですが...」
「言いも悪いもないよ。わが国でもっとも、いや、世界最高の働きがいのある会社だろうな。ここに入社で
きて、こころから満足している。しかし、成績優秀でないと入社はむりだな。情実で入社できたやつは、いな
いようだ」
「じゃあ、勉強して、なんとか入社するよう努力してみますよ。しかし、先輩のように会社にほれ込んでい
る人は珍しいな。ほかの社に入った人は、いくらかの不満を漏らすのに...*33 」
つきひ
いろいろなことがあるうちにも、 月日
はたっていった。係長の世話で、私は結婚もした。係長の話なら信じ
ていいのだ。
やがて私は昇進した。係長の辞令*34 をもらう。昇進もうれしいことだったが、それにもましてうれしかっ
とうぶん
たのは、いままでの係長が課長に昇進し、私はまた 当分
*35 の下で仕事ができるという点だった。
うれしさと同時に、不安もあった。以前から心のそこに引っかかっていたことだ。私に属することになった
何人かの部下を、はたしてうまく扱っていけるかどうかの自信がなかったのだ。
どちらから誘うということなく、課長と酒をくみかわした*36 時、私はその不安を口にしかけた。
「じつは...」
それを押さえて*37 課長が言った。
「その前に、こっちの話を間いてくれ。君も係長になったことだし、あるプログラムを実行してもらわねば
ならない。いや、そうむずかしいことではない。私が案を指示するから、それをやればいいのだ」
「あなたのおっしゃることなら、なんでもやります。どんなことでしょう」
「君の部下の、新しく入社した二人の者のことだ。酒を飲ませ、よっばらわせ*38 、自動車でひき逃げ*39 でも
やらせよう、というわけだ。もちろん、本物の人間をひき殺すのではない。うまく作った人形を跳ね飛ばすだ
しんぷく
けのことだがね。その事件をきみがかばい、しょいこみ*40 、部下に代わって始末してやるんだ。 心服
するぜ。
必ずうまく行く。その演出をするための組織が、ちゃんと用意してあるんだ」
説明は簡単だったが、私にはすぐ理解できた。思い当たることばかりだ。
「すると、私のときのあれも...」
「そういうことだ。殴られて倒れたやつは。死んだふりをするそのほうのベテランだった。それに、いつか
君に付きまとった女も、わが社のその組織の者...」
「ひどい。あんまりです。私の人間としての尊厳がていよく*41 利用された...」
大声を上げかける私に、課長は言った。
「まあ、そう怒ってはいかんよ、企業の世界というものは、きびしいものなのだ。なんとしてもでも他社を
抜かねばならぬ。君に頼んで、他社の秘密を盗んでもらったこともあった。かたいことを言って、スパイとは
卑劣ですなどとためらっていたら、わが社の業績は低下していただろう」
*33
*34
*35
*36
*37
*38
*39
*40
*41
而 卻沒有任何不滿
委任状!
目前、当前
酌み交わす
打断我的話
酔っ払わせる
轢き逃げ、車禍肇事后逃逸
背負い込む
=体裁よく、巧妙的、委娩的
5
「しかし、あれはあなたのためにしたことです。あなたに対する私の心は、恩義と尊敬とによる、もっと純
粋なものでした。それが作戦だったとは...」
「まあまあ、もっと冷静になってくれ。君を昇進させず、事情も話さずにいれば、お互いにいい気分でいら
れたかもしれない。しかし、永遠の静止は許されない。こんどは、きみがその尊敬を受ける番なのだ。悪くな
いものだぜ。考えてみてくれ。それによって、部下は絶対に裏切らないようになる。上役の目を盗んで、社の
秘密を他社に売り渡すこともない。安心して仕事を任せられる。それとも、ほかになにか名案があるかね。部
下の心をしっかりつかみ不祥事を絶対におこさない、という名案と自信が、ほかにあるかね...」
「そうおっしゃられると...」
そんな案など、ないのだ。ないからこそ、私は不安だったのだ。
「事件がなければ、人と人との結びつき、信頼感の盛り上がりようがない。ぬるま湯のなかで、口先だけで
けつごう
信頼を叫んだって、何も身につかない。外敵あってこそ 結合
が生まれる。語り伝えられる四十七士の団結だっ
て、松の廊下の事件があったればこそ*42 で...」
課長は事例をあげ*43 、私を説得した。こころから納得したわけではないが、私はやることにした。
一種のやけくそ*44 であり、やらなければ損だという気分。このもやもや*45 のはけ口*46 は、ほかにはない。
本当にひき逃げをやるのではなく、人形を使っての演出なのだ。法*47 にふれるわけでもない。
しん
思い切ってやってみると、うまくいった。てなれた*48 やつらが手伝ってくれたので、 に迫った芝居になっ
真
た。私は部下の新入社員ふたりに、それをやった。効果はすばらしかった。彼らの私に対する態度はがらり
と*49 変り。私を見る目には尊敬の念がこもっている。いい気分だし、これなら私を裏切ることもないだろう。
それは安心感にもつながるものだった。
私は課長にそっと報告する。
「やってみると、この効果がはっきりわかりました。これからの仕事はうまくゆくでしょう。自信がつきま
した」
課長は笑いながらうなずく。
「きみがやってくれて、実は私もほっとしたよ。これで、われわれは共犯者ということになる。いままでは、
私は加害者で、君は被害者。だから、時には良心がちくちく*50 痛むこともあった。仕事のあとでやさしくした
りしたのは、そのためだよ。しかし、これからは共犯者。いままでよりもっと親しく、ざっくばらんに*51 付
しゅくはい
き合おう。ひとつ、 祝杯
をあげに行くとするか...」
バーに出かけて飲んでいるうちに、私はさらに深みにはまり込んでいる自分に気がついた。部下の信頼は保
証されたとはいうものの、それをバックに課長に立ち向かうことはできない。人工的な弱みでなく、いまや本
物の弱味を課長ににぎられているのだ。産業スパイもやってしまったし、私の宣伝で後輩の優秀な人材がここ
に入社してもいる。結婚だって、この課長の世話でだ。私がつまらんことをしゃべったら、私だって破滅す
る。いままで以上に会社に縛り付けられた形だ。
*42
=あったからこそ
*43
挙げる
「やけ (自棄)」を強めていう語
臆朧、模糊
捌け口、發洩的對象封象、途径
のり,酒井法子さかいのりこ(編者注:えーかげんにせーよ)
手馴れる
*44
*45
*46
*47
*48
*49
*50
completely, totally, entirely ; suddenly
針刺般的; 尖刻的、刻薄的
*51
遠慮や隠しごとのないさま、気取らないで率直に心情を表すさま
6
こうなったら、この会社に一生をささげる以外にない。しかし、悪いことではない。仕事に励まざるをえな
いおかげで、会社は発展をつづけるのだし、収入だっていいのだ。首にされる*52 ということもないだろう。
わが社の発展の秘密と、社内の人間的なムードの事情がやっとわかった。これだったのだ。こんな方法は、
まだどの経営学の本にものっていないんじゃなかろうか。
企業とは、気づいていない人も多いだろうが、もともと共犯者の集まりみたいなものなのだ。やましさ*53 み
たいなものを誰もが感じているのではなかろうか。
しょう
くみあい
だい
いや、企業ばかりではない。 は家族から、 小
組合
だの、圧力団体だの、政党だの、 大
は国家まで、そんなよ
りだつ
うなものなのだ。徹底的な反逆はできず、 離脱
もできない。離脱してよそへいってみたって同じだろう。そこ
で別な共犯者の集団に加わるだけのことだ。
げんせん
集団が発展するエネルギーの 源泉
は、共犯者意識なのかもしれない。人間がここまで進歩したのも、ほかの
動物に対するその気分のおかげじゃないのだろうか。正直なところ、今の私の心のなかは、そうとでも考えな
いことはどうしようも...*54
*52
=解雇される
*53
疚しい
不這様想是做不到的, 后省略了できない之類
*54
7