10月18日ピアジェ『発生的認識論』

2011/10/18 第 4 回マクロゼミ
ピアジェ『発生的認識論』
担当:徳山、神谷、小林
ジャン・ピアジェ Jean Piajet(1896
Piajet(1896-1980)
ジャン・ピアジェは、スイスのヌーシャテル出身の発達
心理学者である。幼い頃から動植物に関心が強く、10
心理学者である。幼い頃から動植物に関心が強く、 代で
すでに生物学の研究者として知られていた。ヌーシャテル
の大学では理学部に進み、生物学で学位を得る。のちにパ
リのソルボンヌ大学で病理心理学・論理学・科学哲学を学
ぶ。1921 年には、スイスのジュネーヴの心理学と教育学の
研究所であるジャン・ジャック・ルソー研究所の主任研究
員に就任。1956 年にはジュネーヴに発生的認識論国際研究
にはジュネーヴに発生的認識論国際研究
センターを創設し、その所長に就任。晩年には児童心理学と共に社会学・文化人類学にま
で及ぶ広範な領域に渡る学際的な研究を通して発生的認識論の構築に精力的に取り組む。
主著は『子どもにおける言語と思考』、『子どもにおける判断と推理』『発生的認識論序説』
である。(参考文献: 教育思想史学会
教育思想史学会[編]『教育思想事典』、勁草書房、2000
2000)
問一
人間の認識の形成におけるそれぞれの発達段階における特徴を以下のキーワードを
参考に述べよ。(キーワード:共応、中心化、シンボル、因果性、操作
キーワード:共応、中心化、シンボル、因果性、操作)
<参照範囲:第一章>
【引用】
感覚運動的段階(
感覚運動的段階(乳児~
乳児~2 歳)
p.20 乳児は、自我意識の徴候も、内界の所与と外界の所与との間の安定した境界の徴候も
なんらあらわしていない
p.21 原初的活動は、主体的なものと客体的なものとの間が完全に未分化であると同時に、
基本的に中心化されている…
…ことを示している。
p.22 原初的活動は、まだ相互に共応されていないのであって、それぞれ、自分自身の身体
を直接に客体にむすびつけている
を直接に客体にむすびつけている(吸ったり、凝視したり、把握したりなどする
吸ったり、凝視したり、把握したりなどする)隔離可能
な小さな全体をなしているのである。
p.23 一歳から二歳までのこの期間に、まだ具体的な行為の面だけではあるけれども、一種
のコペルニクス的転回が遂行される。それは、活動を自分の身体から脱中心化すること、
自分自身の身体をほかの客体の中の一つの客体として、それらすべてを含む空間内で、み
なすこと、および自分を運動の起源または支配者としてさえ認識しはじめている
なすこと、および自分を運動の起源または支配者としてさえ認識しはじめている主体の共
応効果のもとに客体の諸作用を結びつけることから成っている。
p.26 同じ対象を二つのシェマに同時に同化することから成っている。これが相互同化のは
じまりである。
歳~4
4 歳)
前操作的思考の第一段階(2
前操作的思考の第一段階(2 歳~
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ピアジェ『発生的認識論』
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p.29 言語活動、シンボルあそび、心像などの出現とともに、…主体と客体との間の直接的
な相互依存性を確保する単純な活動に対して、あるばあいには、新しい型の活動が重なり
合う。…概念化された活動である。
p.35 対象だけにもとづいていて、しかも、現存する対象と同様、不在の対象にも関係し、
かつ同時に、じっさいの場面との密着から、主体を解放する。
p.37 対象は、自分の活動…の能力になぞらえられた任意の能力をそなえている一種の生物
なのである。
前操作的思考の第二段階(5
前操作的思考の第二段階(5、
(5、6 歳)
p.40f 構成途上の関数は、一定方向に向かっているかぎり、活動とそのシェマにより示さ
れる依存関係を表現するのにもっとも適した半論理構造をあらわしている。だが、それは
まだ、操作を特徴づける可逆性と保存とに達してはいないのである。
p.43 もし A(R)B と B(R)C なら、A(R)C なら、A(R)C だという推移性のような、推論的合成
の基本形式もまた、この段階では有力でない。
同上
他方、因果性の分野でも、この間接的伝達過程について、この推移律の欠如がみら
れる。
具体的操作段階の第一小段階(7
具体的操作段階の第一小段階(7、
(7、8 歳)
p.44 操作の特性は、何よりも、閉鎖可能な全体体系つまり「構造」から成り立っていて、
そのため、正と逆の変換のはたらきのおかげで、その構造がもつ合成性の必然性を確保し
ているのである。
p.45 操作の認識のばあいにも、類似の時間的過程に直面しているのだが、それは予見と遡
及とを唯一の行為の中に融合することにもとづいている。
p.46 操作の出現を特徴づける極限への移行とは、…いったんすでに具体的に行動をおこな
った上での修正で処置するかわりに、操作が、誤ちをあらかじめ修正することから成り立
つということなのである。
同上 f 極限へのもう一つの移行は、系の閉鎖によってつくりあげられる移行である。
具体的操作の第二段階(9
具体的操作の第二段階(9、
(9、10 歳)
p.57 この小段階…は、すでに均衡化されている部分的形態をこえて、「具体的」操作の全
般的均衡に達する段階である。
同上 対象全体に対する観点の共応について語ることができる
p.61 空間の大きさ…で重さを合成することがないかぎり、不完全で恣意的なものにとどま
る
p.62 空間操作を含む論理数学的操作が、それらの一般化と均衡化によって、最大限の延長
状態ないし利用状態に達する。しかし、それは、具体的操作という非常に限られた形のも
とにおいてである。
p.63 子どもは、運動と力学の問題をすべて解くにいたる。だが、まだ子どもがもっている
操作的手段で解決することはできないのである。
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形式的操作段階
形式的操作段階(11
段階(11、
(11、12 歳)
p.64 ここでは、現実的なものを可能なものの中に挿入するために、そして、具体的なもの
を仲介させる必要なしに可能なものを直接に必然的なものに結びつけるために、その認識
は、現実そのものを超えるのである。
p.65 形式的操作の第一の性格は、対象にもとづくだけでなく、仮説にもとづくことができ
るということである。
同上 操作の上で行われる操作、すなわち、二次的操作
p.71 思考は、さいごには、具体的活動から解放されるし、さらに、この具体的活動を含む
があらゆる面でそれを越えるような世界からも、解放されることとなるのである。
【解答】
認識の形成は、感覚運動的段階において、乳児から出発する。乳児は、自己と他者を区
別していない。そのため、乳児はみずからを、客体であるところの外界の事物や他者に直
接むすびつけるが、そこでは、主体と客体における相互の共応はみられず、ただ主体なき
主体への中心化があるのみである。乳児は、みずからの身体を使って、吸ったり、凝視し
たり、把握したりするものの、吸っている自分や吸っている対象との区別はできない。し
かし、1、2 歳ごろにおいてコペルニクス的転回が起こる。子どもは、活動によって主体と
客体の分化と脱中心化を行う。つりさげられたおもちゃを掴もうとするが、うまくゆかず
ただ揺らすのみであったとしても、その揺れを目新しく感じ、もう一度揺れを見ようとし
て手を伸ばすとき、揺らす自分と揺れるおもちゃが分化されていくのである。そして、こ
の際におもちゃが音を出せば、子どもはおもちゃを見るもの、聞くものとして自らのシェ
マに同化させる。
前操作的思考の第一段階の特徴は、概念のあらわれにある。子どもはこの時点で、記号
としての言語を会得しだす。このようなシンボル機能によって、子どもは活動の内面化を
行うことができるようになる。直接的な活動にとらわれず、そこに無いものをも概念化さ
れた活動によって補う。例えば、この段階の子どもは、シンボルによって、おままごとあ
そびが可能になる。
「これはおにぎりです」と言えば、泥団子はおにぎりというシンボルを
与えられるのである。しかし、この段階では、子どもは対象を自己の活動に左右されるよ
うなものとしてしか認識しない。自己を中心としてしか、対象を認識しえないのである。
前操作的思考の第二段階の特徴は、可逆性と保存性の依然とした欠如である。この段階
の子どもは、同じ量の水の入った同じ形のコップ同士が並んでいたなら、その二つの水は
同量であることを認識する。しかし、片方の水を別の形をしたコップに移し替えて並べた
場合、子どもは観察可能な変化、すなわち水の高さという視覚的変化にとらわれて、水の
量は異なると判断するのである。この移し替える操作の可逆性と、水の質量としての保存
の認識は形成されていないのである。また、A>B、B>C ならば A>C であることを推論するこ
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とはできない。A と B をくらべた結果と、B と C をくらべた結果を、頭の中で合成してくら
べられないのである。同様に、因果性においても、目に見えない物理学的作用の部分につ
いては推論できないため、やはり視覚的にとらえられるもののように理解するのである。
具体的操作の第一小段階の特徴は、操作である。この操作は、閉鎖可能な構造の中で正
と逆の変換をもつ。操作は予見と遡及によって、可逆性を構成する。操作の可逆性は、感
覚による直観的誤ちをする前にあらかじめ修正をほどこす。遡及によって過去を省み、予
見によって現在の誤ちを修正するのである。この点に可逆性があらわれる。これらは正の
操作と逆の操作によって行われる。また、系の閉鎖によって、系の無限遡及は回避される。
ある程度の関係性までの閉鎖性をもつことで、その中での相互の関係の必然性を得て、物
事の移り変わりと保存性について認識しうるのである。
具体的操作の第二段階の特徴は、論理数学的操作と因果性の進歩である。この段階では、
子どもは目の前に具体的なものがありさえすれば、それについて全体的な観点を共応させ
て語ることができる。子どもは、重さの保存について理解し、物体の運動や力学的問題を
解くことが可能になるが、まだそれは具体的な事物の存在を必要としている。この段階に
おける子どもにとって、重さとは、目の前の事物に内在する特性として理解されており、
付加される力といった空間的・抽象的な事柄については不完全かつ恣意的な理解しかでき
ない。
形式的操作段階の特徴は、具体的事象にとらわれない抽象的概念の操作が可能になるこ
とである。この段階において、子どもは目の前に具体的事物がなくても、頭の中で力や体
積といった抽象的概念を操作することができるようになる。また、もし~ならばといった
仮説にもとづいて対象を認識することができる。具体的事物にとらわれないことで、超時
間性を獲得するのである。子どもは、仮説によって未来におこる可能性を認識の対象とす
ることができ、また仮説によって現在の対象の必然性を認識して思考することが可能にな
る。
問二 形式的操作段階において、「操作の上で操作をつくるというこの能力は、認識に対し
て、現実的なものを越えることを可能にし、組み合わせという手段によって可能なものに
ついての無限の道をきりひらく。」(p.65f 引用)のはなぜか。問一で述べた発達段階の移り
変わりの過程に着目しつつ説明せよ。
【引用】
p.19 認識は、主体と客体との中間に生じる相互作用、したがって、同時に両方に属してい
る相互作用から生じるのだ。
p.26 あるばあいには対象そのものからひき出されたものを、またあるばあいには、…対象
にはたらきかける活動のシェマからひき出されたものを、結びつけることによって、新し
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い組み合わせがつくられる。
p.28 活動相互の発生期における共応のおかげで、主体と対象とが、それらの相互作用の道
具を仕上げながら分化し合いはじめるやいなや、認識の論理数学的な極と物理的な極との
両極を伴って、認識がつくられるのだ。
p.33 活動から思考への移行または感覚運動的シェマから概念への移行が、突然の変革の形
で、なしとげられるのではなくて、反対に、同化という変換にもとづく遅々とした骨の折
れる分化の形で、なしとげられる
p.51 分類と順序づけの結合を提供する反省的抽象と、それらの結合を全体の中に合併する
新しい共応…などと、各集合や下位集合の保存を確保しながら、…二つの方向に系をたど
ることのできる自己調整すなわち均衡化である。
p.66 形式的操作の本質的な新しいことがらの一つは、組み合わせの上に基礎をおく「ベキ
集合」つまり単体を仕上げつつ、最初の集合を豊かにするというところにあるわけだ。
p.71 ほかの操作に対する操作をつくり上げる反省的抽象のおかげで、主体の論理数学的操
作が内面化していくかぎり、および、さいごには、現実の変換だけでなく、あらゆる可能
な変換を特徴づけるその超時間性に達するかぎり、時間・空間的力動体としての物理的世
界は、主体を他の部分の中でのごくわずかな一部分として含めつつ、その法則のある種の
ものを客観的によみとることができるようになりはじめる。
【解答】
認識は、主体と客体の相互作用の中から生じる。問一で述べた各発達段階の特徴は、漸
次的共応や分化によって徐々に進歩を重ねる。感覚運動的段階から具体的操作段階までの
間、子どもの認識は具体的な事物を通してしか得られないものである。感覚運動的段階か
ら具体的操作段階までは、子どもは主体と客体の相互作用の中から、自らのシェマに同化
できるものは同化して理解し、自らのシェマに同化しえないものに対しては柔軟にシェマ
を変化させ、取り入れ、認識する。しかし、これらの段階では、具体的な事物が認識の素
材として必要であり、目の前にないものへの認識は非常に恣意的なものにとどまっていた。
しかし、これらの漸次的共応の積み重ねによって、形式的操作段階では、具体性から抽象
性への認識ツールとして、操作の操作すなわち二次的操作を獲得する。形式的操作段階で
は、子どもは仮説をたて、そこから命題を操作の対象とみなして活動することができる。
具体的事物にはすべて因果性が付随する。しかし仮説では、対象は超時間性を獲得する。
この認識の論理数学的な極すなわち思考と、物理的な極すなわち具体的活動は、感覚運動
的段階から具体的操作段階まで、シェマへの同化と自己調整すなわち均衡化とによってつ
くりあげられてきたのである。形式的操作段階では、これら二つの極を共応させ、組み合
わせをつくることができる。二次的操作は、具体的事物の因果性のしがらみをも越えて、
可能性に対しても無限のネットワークを構築することを可能にするのである。形式的操作
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以前の段階では、操作は主体の限られた認識の上でのみ働いていたが、反省的抽象によっ
て、主体は自らを客体のわずかな一部分として、客観性を有するようになる。このことが、
形式的操作の本質的に新しいことがらすなわち単体から全体を、全体から単体を豊かにす
る全体的な視野を与えるのである。
問三 自己調整とは何か。経験説と生得説との関係を明らかにしつつ説明せよ。
<参照範囲:第二章>
【引用】
p.73 すべての認識を、経験に応じた学習に帰する心理学者たち(行動主義者たちなど)、お
よび、同語反復の形そのもので経験の所与をあらわすように定められた単純言語だけを、
論理数学的操作の中にみようとする認識論学者たち(論理実証主義)は、彼らの立場の中に
含まれている生物学的な付随物について気にかけない。しかし、わたくしたちが提起しな
ければならない第一の問題は、彼らが正当かどうかを知る問題だ。
p.74f ここで問題となるのは、変異と進化に関するラマルク学説である。(中略)ラマルク
もやはり同様に、生物および器官構造の形態発生的変異の基本的な説明因子を、環境の影
響下でつくられる習慣の中にみたのだった。たしかに彼は、組織化の因子についてものべ
ていた。しかし、それは、連合能力という意味においてであって、合成能力という意味で
はない。彼によれば、獲得の本質的なものは、生物がその習慣を変えながら、外部の環境
の刻印をうけ入れるような仕方にもとづいていたのだった。
p.75 本質的にラマルクに欠けていたものは、突然変異と組み換えとに関する内生的な能力、
とくに自己調整という能動的な能力の概念だった。
p.76 行動主義がきわめて長期にわたって用いてきた概念とくらべてみると、この学派の心
理学者たちが、まさにラマルクの精神を保存し、現代の生物学の革新を無視したことが確
かめられ、おどろくばかりなのである。
p.80 認識構造の生得説は、有名な動物生態学者 K・ローレンツとともに、一つのスタイル
により一般化される。(中略)知識の「カテゴリー」はあらゆる経験に先立つ前提条件とし
て、生物学的にあらかじめつくられている。
同上 わたくしの説明によれば、認識構造は必然性をもつにいたるものであるけれども、そ
れは最初からそうなのではなく、その発達の終盤においてそうなるのだ。しかも、認識構
造は、あらかじめのプログラムを含んではいない。
p.81 生得的なものと獲得されたものとの間に、固定的な境界線をひくことは不可能だ。(い
わんや、認識行動の面では、いっそう不可能なのである。)というのは、両者の間には、発
達固有の自己調整という本質的な境界領域が見出されるからである。
p.81 じっさいには、自己調整は、次の三つの結合した性格を示している。すなわち、遺伝
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的伝達の前提条件を構成しているという性格と、この遺伝的伝達の内容以上に一般的であ
るという性格と、高次の形の必然性に達するという性格である。
p.86 ラマルクが獲得形質の遺伝を信じ、したがって、生得的な形質の起源を環境の作用の
中にみていたのに対し、今世紀初頭の新ダービン主義(それは、現代の「総合説」とよばれ
る理論の中にいたるまで、いまなお多数の学者において生きている)は、遺伝的変異を、環
境とは無関係に生じるものだとみなしていた。このばあい、環境は、生存に最も好都合な
淘汰作用の中へおくればせにのみ介入するにすぎない。逆に、こんにちでは、この単なる
偶然と淘汰のモデルは、しだいに不十分なものにみえてきて、循環的モデルにおきかえら
れる傾向にある。
p.87 これらの構造の生物学的根元と、構造が必然性をもつにいたるという事実の説明とは、
一般に、もっぱら環境の作用だけの方向に求めるべきでもないし、純粋に生得的なものに
もとづく前世の方向に求めるべきでもなく、それらが回路としてはたらいていて内在的に
均衡化へと向かっている傾向を伴う自己調整の方向に、求めるべきなのである
p.87f 認知行動のあらゆる水準にみられる調整と均衡化であろうと、自己調整は、まさに
生の最も普遍的な性格の一つをなしていると同時に、器官の反応と認知的反応とに共通な
最も一般的なメカニズムをなしているようにみえるのである。
p.89 有機的な自己調整にまでさかのぼって、論理数学的操作の形成を説明することは、感
覚運動的知能の初期の諸段階をつくりあげることのできた基本的道具が、どのようにして
形成されることができたのか、および、これらの道具そのものが、どのようにして、それ
以降の諸段階へと導くにいたるまで、新しい調整によって自己変容することができたのか、
などということを調べることにほかならない。
【解答】
ピアジェは、2 つの異なる説、すなわち経験説と生得説の二つの説を取り上げつつ、その
理論の問題点を明らかにした。以下で、経験説と生得説の特徴を述べつつ、その問題につ
いて述べる。
経験説は、ラマルクやその伝統を引き継ぐ行動主義者たちが主張してきた説である。認
識というものは、環境つまりは自己の外側からの影響を受け形成されていくという説であ
る。また、その認識は言語に形成されるものでもある。しかし、この経験説は生物学的な
検討を行っているとはいえず、生物学的な要因をなんら考えていないということ、そして
自己調整という概念が欠落しているということをピアジェは問題にする。
次に生得説である。生得説は、経験説の反対で、認識というものは、経験や環境の影響
を受けず、遺伝子情報によって得るものであるという説である。この説は、経験に先立ち、
非言語的な認識である。つまり、遺伝子によって決定されるのである。この説の問題点は、
認識は必然説を持つという点である。ピアジェによれば、認識というものは遺伝子的なも
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のではなく、人間が発達していくことによって得るものなのである。
さらに、ピアジェは言う。この二つの説は、経験によって得た認識なのか、経験に先立
つ認識なのかを線引きしている。しかし、現実にそれらをどちらか一方に線引きすること
は不可能である。よって、ピアジェはこの二つの説のそれぞれに大きな問題を孕んでいる
と考えるのである。
経験説は、「自己調整」という概念が欠如していると上記で述べたが、自己調整とは、自
己をある環境に適応させることを言う。自己調整は、一つに遺伝的に、つまり生得的に得
たものである。そして、非遺伝的なものによって構成される。つまり、経験説と生得説の
両条件を認めた形なのである。自己調整は、新しい状況に適応させ、自己変容することな
のである。
以上のことから、ピアジェは経験説と生得説のどちらかによるものではなく、経験によ
って得る認識もあるが、生得的に得る認識も存在していると主張するのである。自己調整
することによって、新しい環境に適応させ、新しい認識を得るのである。
問四 p.143「論理数学的体系は、この源泉から出発して、とぎれることのない一連の反省
的抽象と、つねに新しい自己調整的構成のおかげで、行動を通過しつつ、完成されること
となるからである。
」とはどういうことか。主体と客体の調和という観点から述べよ。
<参照範囲:第一章冒頭部分、第三章>
【引用】
p.18
認識のすべての情報が客体から発し、外側から主体に知らせにやってくるのか、そ
れとも逆に、いろいろな種類の先験説や生得説のいうように、主体は最初から、客体に課
する内生的構造を身につけているのか
p.18f 主体は、さまざまな程度で自分の能力(それが客体の知覚だけに帰せられるときで
さえ)を認識したり、主体の目にとってあるがままに存在する客体(それが「現象」に帰
せられるときでさえ)を認識したり、ときに、主体から客体へと導く道すじ、または逆に
客体から主体へと導く道すじを決定する相互作用の道具や獲得の道具(知覚や概念)を認
識したりするのである
p.19
認識は、その起源では自分自身を意識している主体から生じるのでもなく、主体に
課せられるところの(主体の見地からみて)すでに構成された客体から生じるのでもない。
認識は、主体と客体との中間に生じる相互作用、したがって、同時に両方に属している相
互作用から生じるのだ。
p.135 認識が、発生の過程で具体活動から出発し、結局のところ、非時間的なものへ、お
よび可能性全体に対して開かれたものへと達する仕方を、わたくしたちはみてきた。他方、
論理数学的枠組みの中への物理的事実の挿入、および対象そのものへの操作の付与が、可
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能なものと必然的なものとの間に現実を挿入することへ導いていたことを、わたくしたち
は確かめてきた。それは、ちょうど、可能性の世界が、時間的変化を把握できるようにし
うる唯一のものであるのと同じである。
p.142 たしかに対象は実存し、構造を含んでいる。そして、その構造もまた、わたくした
ちとは独立に実在する。ただし、対象とその法則は、そのために対象に適用される―そし
て対象に達することのできる同化の道具の枠組をなしている―わたくしたちの操作の構造
のおかげでのみ、認識されうるので、わたくしたちは、漸次的な近似によってだけ、対象
に出合うのである。
p.146 反省的抽象は、二つの階層間の移行を確かめつつ、このこと自体によって、新しい
再組織化を作り出すのである。
【解答】
ピアジェ以前の認識論は、生得説や経験説といった説が主流であった。つまり、主体
には外界のものを認識することができる構造を生まれつき持っている、あるいは外界か
ら得られるものを主体が取り込むことよって物事は認識されると考えられてきたので
ある。しかしピアジェはこれら両方の説を否定し、認識は主体と客体の相互作用によっ
てなされると考えた。つまり認識は、あらかじめ主体に内生している構造によってだけ
でも、客体から知覚的に捉えられた単なる情報によってだけでもなされるものではない
のである。
人は形式的操作段階まで発達すると、時間や空間を超えて自分の頭のなかで対象を自
由に操作することができるようになる。それは論理数学的な枠組み、つまり、自分の目
の前にある現象のみにとらわれるのではなく、時間軸をさかのぼり、ときには既存の知
識をかけ合わせて現実のものとして現れないものを自由に構想することができるよう
になるのである。しかし人間は、対象自体を認識することはできない。それはつまり、
人間が対象を認識することができるのは、その対象自体にも認識され得る構造がすでに
かね備わっているからに他ならないということを意味する。そのため、対象自体を認識
することはできないが、自分が持ちうる構造に適応する形によってその対象を認識し、
操作することによって対象に近づくことができるようになるのである。そのような非時
間的な思考は、人として生まれてから途切れることのない自分と外界の相互的なやり取
りによって可能になる。つまりそれは、自分と外界の相互的なのやり取りのなかで、世
界のなかでの自分の居場所を獲得し、絶えることのない自己調整によって自分を更新す
ることによって身につくのである。
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