井上隆晶牧師 詩編104 編10~30 節

2015 年 9 月 20 日(日)主日礼拝説教
『神のものは神に返そう』 井上隆晶牧師
詩編 104 編 10~30 節、マタイ 22 章 15~22 節
❶【天地創造の美しい詩編】
この詩編 104 編は天地創造を歌った詩編です。詩編の 103 編と合わせてとて
もよく歌われる有名な詩編です。103 編は最も美しい詩編と言われ「毎日曜日
の礼拝」に歌われますが、104 編は「晩の祈り」の時に歌われていました。昔
は、今と違って一日は夜の 6 時から始まりましたから、まず天地が創造された
ことを歌ったのです。ラフマニノフという人がここから美しい「晩祷」という
曲を書いています。1 節の「わたしの魂よ、主をたたえよ」で始まり、最後は
「わたしの魂よ、主をたたえよ」で終わります。これは 103 編も同じです。
1 節「栄と輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる。
」神様は栄光と
輝きと光を着ておられ、天をテントのように張り、水の上にあなたは宮殿を建
てられた。雲に乗り、風に乗り、風や火を使って仕事をされるというような意
味でしょう。5 節には、神が大地を固くすえたので永遠に動かないとあります。
6 節の「深淵」というのは海のことです。服を着るように海は大地を覆いまし
た。
「水は山々の上にとどまっていた」とあるのは、水を含んだ雲のことでし
ょう。それは雷と共に天から降ってきて洪水となり、やがて静まって一つの所
に集まったということでしょう。9 節は「あなたは境を置き、水に越えること
を禁じ、再び地を覆うことを禁じられた。
」これは洪水を意味しています。洪
水が治まるのは、神が禁じたからだというのです。
10 節以降では神様が泉を湧きあがらせて川をつくり、動物や鳥はそれを飲ま
せたということ。14 節は家畜や人間にさまざまな草木を与えて食べ物とさせ
たということ。パン、油、レバノン杉、糸杉、山々、岩場などいろんなものが
出て来ます。19 節からは月と太陽をもって季節を定めたとあります。
「太陽は
沈む時を知っている」とあります。なぜ一日が 24 時間であり、日没と日の出
があるのか。それは神が決められたからだというのです。20 節から「あなた
が闇を置かれると夜になり、…太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き、それぞれ
のねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。
」夜はかっ
てに来るのではありません。神が人の労働と休息の為に置かれたというのです。
24 節「主よ、御業はいかにおびただしいことか。…地はお造りになったもの
で満ちている。
」自分の身の周りを見ると、神様のお造りになった多くのもの
で満ちているというのです。27 節「彼らはすべて、あなたに望みを置き、と
きに応じて食べ物をくださるのを待っている。
」これは食前のお祈りによく使
われた言葉です。神が良い物を与えて下さるので動物たちは満たされるとあり
ます。29~30 節「御顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹を取り上げられれば彼
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らは息絶え、元の塵に帰る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し、地の
面を新たにされる。
」死は自然のものではなく、神が息を取り上げたので塵に
帰るのだとあります。しかし神は毎日、御自分の息である聖霊をこの大地に送
られ、動物や植物を新しく創造され、いつも命に溢れるように、この大地を新
しくされているというのです。聖霊様、来てくださいと良く祈りますが、聖霊
は毎日、この大地に来られ、命を創造し、新しくされているのです。人間が見
えていないだけなのです。
❷【現代人は神と罪が分からなくなった】
私はこの美しい詩編を読んだとき、天体の運行、自然の摂理などすべての物事
の中に神を見て行った古代人の感性に驚かされます。この豊かな感性を現代人
は忘れてしまい、自然界をすべて自分たちの科学(知識)で説明しようとしま
した。つまり、現代人はこの世から神を追い出したのです。
●先日、ある人にこう言われました。
「人間は高慢になり、自分を神のように
してしまったと先生は言われるが、私には納得できない。私は自分を神のよう
に思ったことはない。
」そこで「本当に神のように思っていなくても、自分を
正しいとし、神に代わって自然を自分の利益の為に支配しようとしている姿の
ことです」と説明をしましたら「それならキリスト教だって同じでしょ。自分
の教えを正しいというのですから」と言われました。罪で悩んだことのない人
に、神のことを教えられるだろうかと行き詰ってしまいました。
聖書を読まなければ、人間の罪は分からないと思います。榎本牧師も同じ事を
書いていました。
「なぜ、ダビデがバテシェバと姦淫し、彼女の夫を殺害して
も罪の意識がなかったのか。それは当時の王がみんな同じことをしていたか
らだ。罪というのは横(人)を見たら分からなくなる。神によって指摘され
なければ、人は自分の罪でさえも気が付かない」
。その通りだと思います。
●以前、福祉作業所の人が造った手作りの絵ハガキに書かれていた言葉を紹介
したことがあります。それは「大地が生きている。だから、私たちも生きられ
る」というものです。人間は他の動物と同じ被造者仲間です。自分で生きてい
るのではなく、生かされているのです。それに気がつかないのが人間の高慢さ
です。
いつも人間は自分の利益を考えます。日曜日もそうです。なぜ休んで礼拝に来
るのでしょうか。聖書に「休め」と書かれているからです。でも神を追い出し
た人間は、自分の疲れを癒すために日曜日があると思っています。だから疲れ
るから教会に行かないと考えます。聖書を知ったクリスチャンでもこの考えが
抜けません。神よりもいつも自分中心です。
修道士がこんなことを言っていました。
「ミツバチが花粉と蜜を集めて、それ
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を足につけ花から花へと飛び回るが、あまりに重くなると、飛べなくなり、そ
のまま花の中に落ちてしまう。それと同じように、私たちがこの世の物であま
りにも重たくなると、私たちは天への旅を忘れ、空高く上昇することができな
くなる」この世にいると神を考えなくなります。考えなくても平気で私たちは
生きているし、生きられるのです。しかし教会に帰って来ると私たちは神の世
界を見ます。そこにあるのは三位一体、天と地の創造、神の国、永遠、真理、
命、聖さ、平和です。こちらが本物であると気づかされます。だから、絶えず
教会に、礼拝に、聖書に帰らなければ神を知ることも、自分を知ることもでき
ないのです。私たちはすべての出来事や物事の中に神を見てゆかなければなら
ないのです。あなたはこの七日間の中で、神を追い出して生きていませんか。
❸【この世は良い物】
物質はすべて聖なるものです。神がお造りになった物は、すべて良いものだか
らです。
「それは極めて良かった。
」
(創世記 1:31)この世とは神と交わるた
めの手段であり、神を現すイコン(イメージ)でした。ローマ人への手紙に「目
に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これ
を通して神を知ることが出来ます。
」
(ローマ 1:20)とあります。
「これを通
して」とあるように、イコンを通して神をイメージするように、自然界を通し
て神を知るようにできていたのです。だからイコンです。またこの世は食べ物
です。神様は人間に食べ物としてこの世をくださいました。人間だけが食事を
通して人と交わり、神と交わる(聖餐)ことを楽しみます。動物は食べるだけ
です。ところが人間は、この世からも、食物からも神を締め出したのです。人
は食事を堕落させ、獣のようになりました。この世も食物も自分の所で止めて
しまい、神と出会うためのものにしませんでした。罪を犯し、神を失った人間
は、この世を獲得するため、食物を手に入れる為に戦争をします。この世と食
物が目的となり、神が目的とならないのです。それゆえこの世は死にました。
良い物が神のために用いられるのでなく、人間の欲望の為、罪の為に用いられ
た時、それらの良い物は死ぬのです。
❹【すべてを神に返すのがキリスト者の使命である】
それゆえ、死んだこの世や自分自身を生かすために、まずそれらのもの、すべ
ての物を神に返すのです。そうすると、それらの者は神に祝福されて、生きた
ものとなって私たちに戻され、私たちに命を与えます。ちょうどパンとブドウ
酒を神に返す(献げる)とキリストの体と血となって私たちに返され、それを
食べて生きるようになるのと同じです。自分に十字を切るのも、自分はキリス
トのものであり、キリストに買い取られた(贖われた者)者であること、神の
像を持ち、キリストの体であることを思い出させます。修道院では、すべての
もの(パンにも労働にも)十字を切って祝福し、聖別してゆきます。すべてを
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神に返してゆくのが、キリスト教徒としての私たちの務めなのです。イエス様
は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
(マタイ 22:21)とい
われました。これはこの世の中にある物を二つに分類せよと言うのではありま
せん。皇帝の物など本当は存在しないのです。すべては神のものなのです。大
体、この世のすべての物を創造されたのは神なのですから、この世は神のもの
なのです。
「世界とそこに満ちているものは、すべて私のものだ。
」
(詩編 50:
12)国は誰のものですか。政治家のものですか、国民のものですか。違いま
す、神のものです。だから国も神にお返ししなければなりません。イエス様も
「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を
引き渡されます。
」
(1 コリント 15:24)といわれました。土地は誰のもので
すか。神のものです。だからイスラエルでは土地を切り売りしてはならないの
です。
命も神のものです。
体も神のものです。
神に最後はお返しをするのです。
●曽野綾子さんの本の中にこんな言葉がありました。
「わたしたちが持っているものー命も、家族も、悲しみも、喜びも、物も、
この世とのかかわりも、すべてがやがて時の流れのなかに消えてゆく。永遠
に自分のものであるものなどないのです。…命を含むあらゆるものは、一時
的に私たちに貸し出されたものです。わたしたち人間は小心だからこそ、あ
らゆるものを得た瞬間から、失う時の準備をしておいたほうがいい。
」
私たちは一生をかけて、神様から借りたもの神様にお返ししてゆくのではない
のでしょうか。家族も友人もお返しするのです。いつまでも続きません。それ
らの人たちを神様がお借しくださったのは、それらの人の愛を通して永遠のい
のちを獲得するためです。礼拝は神に返す練習です。七日の内一日という時間
を神様に返すのです。来世では永遠に神と共に過ごす時間が待っています。万
物の十分の一を返すのです。それが献金です。来世では神のものをあなたは受
け継ぐでしょう。自分の命を返すのです。生かしてもらうためです。人々を神
のもとに返すのです。それが伝道です。
●玉木愛子さんは 16 歳でハンセン氏病と分かり、熊本の回春病院に入院し、
キリスト教徒になりました。42 歳で右足を切断し、49 歳で失明しました。彼
女は 81 歳で亡くなるまで、神を賛美する優れた句を残しました。
「目をささ
げ、手足をささげてクリスマス」という詩を詠んでいます。失ったのではない、
神様に献げたのだというのです。
礼拝とは何でしょう。私たちは何かを貰うことばかりを考えて、礼拝に来てい
ませんか。慰め、癒し、平安が欲しい。確かにそれらは貰えるでしょう。神と
交わることが祝福だからです。しかし、礼拝の本質は献げることにあります。
自分自身を献げることにあります。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるい
けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
」
(ロー
マ 12:1)とあり、
「何も持たずにわたしの前に出てはならない。
」
(出エジプ
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ト 23:15)とも戒められています。まず自分を神に返すのです。それにより
あなたが生きるからです。息を吐き出さないと、新しい息が入らないのと同じ
です。
あなたは神のものでしょう。神のものなら、
自分を神に返しなさい。
それとも、
あなたは未だに悪魔のものですか。あなたは悪魔の支配からキリストが命をか
けて、取り返したのです。だからあなたはキリストのもの、神のものです。自
分を偽り、殺してはなりません。あなたは生きる為に、神のものとなったので
す。神のものは永遠に生きます。しかし、神に返さなければあなたは死ぬでし
ょう。自分も他者も、自然も、万物も生かさなければなりません。すべてに神
を入れて行きなさい。神を入れることは、命を入れることなのです。あなたの
一日に神が入らなければ、その一日は死にます。しかし神に祈って初め、祈っ
て終わるなら生きるでしょう。
人間は神をこの世から追い出しました。だから神は再びこの世に来て、人間と
共に生きようとしました。それがクリスマス、降誕です。神と共に歩む、神と
共に生きることが人生の目的です。
「エノクは神と共に歩み、神が取られたの
でいなくなった」
(創世記 5:24)
「ノアは神と共に歩んだ」
(創世記 6:9)そ
のような人間を作ることは至難の業です。キリスト教徒でもなかなかできませ
ん。神と共に歩む人、神に祈り、神に聞き、神に従う人を作ることは奇跡です。
でもあなたがその人になりなさいと言われているのです。
「主は皆さんと共に」
といつも挨拶するでしょう。キリストはあなたと共に歩みたいのです。あなた
も主と共に歩みなさい。あなたの人生にいつも神を入れなさい。食事に神を招
きなさい。時の中に永遠を入れるのです。
「神のものは神に返しなさい」この
言葉を実践しましょう。
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