2006年12月号 - 鹿児島大学法文学部

奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
目次
■特別寄稿
奄美の循環型社会形成と鹿児島大学
−奄美の「島」コスモス創出事業シンポジウム挨拶−
永田
行博(鹿児島大学長)
―――――――――――――――――1
徳之島公開講座開講講演
奄美方言からみた奄美の文化
木部 暢子(鹿児島大学法文学部)
―――――――――――――4
■研究調査レビュー
マルタの発展計画と経路依存型の発展
−地中海にある小島嶼国の発展戦略と自然環境−
山田
誠(鹿児島大学法文学部) ―――――――――――――――8
ブルターニュ民謡から見た奄美民謡
梁川 英俊(鹿児島大学法文学部) ―――――――――――――23
■しまゆむた
奄美の民俗文化研究の課題覚書
本田 碩孝(徳之島郷土研究会会長)
―――――――――――30
■島嶼スケッチ
YS−11 搭乗体験記
二宮 忠信(九州電力鹿児島支店) ―――――――――――――47
奄美サテライト教室情報
――――――――――――――――――――――49
■ちーびし ―――――――――――――――――――――――――――――――51
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
■特別寄稿
奄美の循環型社会形成と鹿児島大学
−奄美の「島」コスモス創出事業シンポジウム挨拶*−
永田
行博(鹿児島大学長)
Ⅰ.鹿児島大学の中期目標と奄美
鹿 児 島 大 学 は 平 成 16 年 度 よ り 法 人 と な
り、文部科学大臣から 6 年間において達成す
べき業務運営に関する目標を中期目標として
示され、それを達成するために中期計画を提
出して、文部科学大臣から認可を受けていま
す。この中期計画の達成度に応じて、次期の
6 年間の鹿児島大学の予算が決定されます。
鹿児島大学の中期目標には、本学の役割と
して、教育、研究、社会貢献、国際交流を 4
本の柱として掲げています。
研究に関する基本的目標としては、
「鹿児
出来ない、本学独自の特徴を発揮するため
島が温帯から亜熱帯まで、南北 600 ㎞に及ぶ
に、離島、特に奄美群島を対象にして、文化・
広大で多様性に満ちた自然を有しており、南
自然・人間・経済・情報・医療・農学・工学
北の文化が接する地域に立地する利点を活か
等々の領域について学際的総合的な研究を進
して、自然、歴史、文化、産業、医療分野等
め、その成果を広く一般に公開し、奄美群島
の地域的かつ世界的課題について研究を進
を中心とした島嶼地域との地域連携、また同
め、その成果を世界に発信し、世界トップレ
地域への地域貢献を進めようとしています。
ベルの研究成果を生みだし、
『世界の鹿児島
Ⅱ.鹿児島大学全学総合プロジェクトと奄美
大学』を目指す」としています。
また、社会貢献の基本的目標としては、
奄美との繋がりは、鹿児島大学の全学総合
「地域における産業・文化・教育・医療の多
プロジェクトとして、当時の山田法文学部長
種多様な要請に応えるとともに、産学官連携
を中心にして、平成 15 年度から学長裁量経
を推進し、それらの発展に積極的に貢献し、
費を措置し、「島嶼圏開発のグランドデザイ
教育・研究両面で地域の文化中枢としての機
ン−南西諸島における環境ガバナンス型地域
能を強化する。」としています。
政策」をスタートさせました。これらの成果
こうした中期目標を達成するために、鹿児
は、月刊誌「奄美ニューズレター」に詳細に
島大学は、他の国立大学では真似することの
報告されています。現在、28 号が刊行され
ており、奄美に関する研究の成果が着実に蓄
積されてきています。もう一つの具体的事業
*本稿は、平成 18 年 11 月 20 日に奄美市で開催さ
れた「奄美の『島』コスモス創出事業−世界自然遺
産と持続可能な発展」プロジェクトによるシンポジ
ウムにおける永田学長の挨拶をまとめたものであ
る。
としては、やはり法文学部が旧名瀬市に開設
した、奄美サテライト教室があります。こち
らも継続して発展させる計画にしています。
そうした事業の総括として、平成 18 年 3 月
1
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
には、名瀬市、現奄美市と包括連携協定を締
奄美をとりまく条件の相違を考慮しなければ
結しました。この協定は、鹿児島大学が特定
なりません。
地域と最初に結んだものです。連携・協力
屋久島では、元々島に住む住民レベルによ
し、相互の発展に寄与することを目的として
る循環型社会に向けた取り組みはあまり活発
います。
ではなかったといえます。しかしながら、保
鹿児島大学は、こうした取り組みを通し
護地域と住民の居住区が空間的に分離してい
て、総合大学としての力を結集して、学部の
る屋久島の場合は、それはそれで、あまり問
壁を越えた、文理融合の壮大なプロジェクト
題になりませんでした。しかし、奄美群島に
を計画しています。
は 12 万人の住民が生活し、保護対象となる
その内容は、
区域も生活空間と密着している部分が少なく
・人と自然との共生を目指した 21 世紀の新
ありません。したがって、世界自然遺産登録
しい時代に相応しい学問分野を創出するこ
が住民の生活スタイルに直接的な影響を与え
とを可能にするプロジェクト。
る度合いは、屋久島よりはるかに大きくなり
・鹿児島大学から持続可能な 21 世紀型の循
ます。その一方で、12 万人の住民の方々が
環型社会モデルを提案する研究プロジェク
安定した経済生活を営める方途も探らなけれ
ト。
ばなりません。私たちは、実現が難しい両面
を視野に入れたプロジェクトを進めようとし
・総合大学としての鹿児島大学の特徴を活か
ています。
した文系・理系融合の総合プロジェクト。
・奄美との包括連携協定に基づき、島嶼圏地
私たち鹿児島大学は、この数年間、奄美の
域が求める高等教育機関としての「知の拠
新しい発展を模索してさまざまな革新的な試
点」としての役割を果たすプロジェクト。
みを進めてきました。しかし、残念ながら、
・奄美の世界自然遺産登録を目指した、鹿児
それが奄美の人々から大いなる共感を引き出
島大学の次期(平成 22∼27 年)中期目標
すまでには至っていません。その原因は鹿児
の重点事業となるプロジェクト。
島大学の取り組の研究成果を住民に直接訴え
といった、壮大な構想の事業に着手する決意
たり、提案したりする機会が少なすぎたこと
を固めています。
にあります。また、その取り組みが住民自身
の積極的な活動に結びついていなかったこと
その出発点が、今回のプロジェクトである
もあります。
「奄美の『島』コスモス創出事業―世界自然
この反省に基づいて、本プロジェクトの取
遺産と持続可能な発展」です。
り組みにおいては、循環型社会づくりの具体
Ⅲ.「奄美の『島』コスモス創出事業―世界
的な実験事業を住民の見える場で試行しよう
自然遺産と持続可能な発展」プロジェクト
としています。また、当初から住民の方々と
本プロジェクトでは、奄美が新しい循環型
共働する態勢づくりを目指すことにしていま
社会を築きつつ、世界自然遺産登録の実現を
す。今回のシンポジウムは、この事業計画を
目標としています。しかし、世界自然遺産登
奄美の方々に発表する場として位置づけてい
録の実現は、ある意味で、一里塚に過ぎませ
ますので、どうしても奄美で開催することが
ん。最終的には地域社会が全体として環境を
必要でした。
できるだけ傷つけない生活スタイルに近づけ
プロジェクトを動かしはじめる時点で、地
る方式を住民の方々と一緒に探究する方針で
元の方々にそのめざす目的をアナウンスメン
す。このためには、先行した屋久島の経験と
トすることは大切だと判断しています。そう
2
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
となることをめざしたいと考えています。
した取り組みの意図は、私たちの間で早くか
ら了解が得られていました。が、たくさんの
養老先生には、大変ご多忙な中をこのプロ
地元の方々に集まっていただき、このメッ
ジェクトに賛同いただき、奄美まで来て頂き
セージを送る機会をいかに設定するかは、な
ました。本当に有り難うございます。また、
かなか決まらないできました。
小野寺氏には、財団法人の休暇村協会の常勤
理事の職を擲って、鹿児島大学の特任教授に
課題の重さに照らして、私たちのメンバー
なって頂きました。
では決定的にインパクト不足であり、外部の
方の応援を求めざるを得ないとの判断があり
私たちの企画では、養老先生と小野寺さん
ました。そして、プロジェクトの目的に合致
の対談は、第 2 部で予定しております。その
したメッセージを発していただける方を探し
前の第 1 部においては、地元の自然保護に関
てきた結果、養老孟司先生と小野寺浩氏のお
係している各種団体の方に集まってもらい、
二人にお願いしたいという案が浮かび上がり
循環型社会の構築について、話し合う研究会
ました。
を設定しました。
今回、養老先生と小野寺氏のお二人にお願
「奄美」は単に鹿児島県の離島の一部とい
いした理由は、養老先生は、奄美の伝染病研
う位置づけではなく、世界の奄美と認知さ
究所に居られたこと、今年 3 月に鹿児島市で
れ、その文化・歴史・伝統が 21 世紀の新し
の「世界自然遺産登録の講演会において人間
い文化を創出する上で一つのパラダイムを作
が自然環境と切り離せないと強調されていた
りだせるものと確信しております。そして、
ことから、私たちの目的に沿ったメッセージ
それを実現するためにも、文化的な発信力を
を送ってもらえる方と考えました。
飛躍的に高めていくことを望んでいます。
小野寺氏は、当時、鹿児島県庁の担当課長
今日のシンポジウムがそのような場となる
として、屋久島を日本初の自然遺産登録させ
ことを祈って、さらに今後、奄美の大いなる
た方で、遺産登録を実現させるまでにいくつ
発展を願って、私の挨拶とさせていただきま
もの仕掛けを編み出されました。小野寺氏
す。
は、遺産登録することにより、屋久島は長期
的に見て地域発展を遂げるという観点から仕
事をされてきました。この間、屋久島を継続
的に観察し、関与し続けてきた小野寺氏の目
を通して、奄美が遺産登録を実現した場合
に、その後の地域発展の可能性を語ってもら
い、それにより、地域開発の大幅な後退を危
惧する人々に心配ないとのメッセージを送っ
て頂けると考えました。
これまで長年に培われた価値観を脱ぎ捨て
ることは容易でないし、転換は一朝一夕に起
きないでしょう。私たちは中期的な本プロ
ジェクトの遂行により、継続的に働きかけ、
その出発点にあたる今年度のイベントによ
り、人々にとって奄美の自然がもつ魅力に気
づき、新しい地域発展観を育んでくれる契機
3
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
■特別寄稿
徳之島公開講座開講講演
奄美方言からみた奄美の文化
木部
暢子(鹿児島大学法文学部)
1.奄美文化の位置
ものは、じつはそんなに古くさかのぼるもの
1.1 大和文化と琉球文化の混ざり合う所
ではありません。例えば、源平の合戦は 12
奄美は大和文化と琉球文化が混ざり合う所
世紀、吉田兼好は 13∼14 世紀、京都で能狂
とよく言われます。例えば、奄美の祭や民俗
言が確立したのは 14 世紀、仏教説話が能の
を見てみますと、昭和 51 年に国の無形民俗
題材に盛んに取り入れられたのも 14 世紀で
文化財に指定された瀬戸内町の「諸鈍芝居」
す。これらの大和風の芸能は、おそらく薩摩
は、平家の落人、平資盛をまつったと言われ
の影響が強くなる中で、薩摩を通して奄美に
る大屯神社で行われますが、上演される演目
取り入れられたものではないかと思われま
には、平敦盛をしのぶ「ククワ節(此処は節)」
す。
しょどんしば や
たいらのすけもり
おおちょん
たいらのあつもり
や『徒然草』の作者吉田兼好を題材とした「ケ
一方、琉球文化がどういうものを指すかと
ンコウ節」のように大和文化に題材を得た踊
いうと、
大変難しいところがあります。もし、
りがある一方で、
「カマ踊り」のように琉球
「琉球文化=琉球王朝文化」という図式で捉
調の早いリズムの踊りもあります。
えるとするならば、琉球王朝の成立は 15 世
与論町の「与論の十五夜踊」(平成 5 年国
紀ですから、そう古くはさかのぼらないこと
無形民俗文化財指定)は、一番組の狂言と二
になります。しかし一般には、琉球王朝成立
番組の風流踊りとで構成されていますが、一
以前の琉球各地の文化を含めて、琉球文化と
番組の狂言は大和の能狂言に由来する踊りが
言うのではないでしょうか。奄美に影響があ
中心で、二番組の風流踊りは琉球や与論島に
るというときの琉球文化も、琉球王朝以前の
由来する踊りが中心です。
琉球各地の文化を指しています。
沖永良部島「上平川の大蛇踊り」(昭和 59
そうすると、奄美の文化は、まず琉球王朝
年県無形民俗文化財指定)は、和尚と小僧の
成立以前の琉球各地の文化の影響を受け、こ
読経による大蛇の退散という筋書きからいっ
れをベースとしながら、その後 14 世紀以降
て、中国あるいは大和の仏教説話の流れを汲
の京都を中心とする大和文化の影響を受け入
むものと思われますが、総踊りには琉球の民
れて、両方をミックスする形で作り上げられ
俗芸能の影響があると言います(
『かごしま
たものということになります。
文化財事典』
)。
1.2 さらに古い文化圏へ
このように、踊りの題材や様式を見ます
と、上の 3 つの祭が大和の芸能と琉球の芸能
しかし、では、奄美が古く影響を受けた琉
の 2 つの流れを汲み、この 2 つをミックスさ
球文化とはどのようなものだったかと考えて
せたものであることは間違いありません。し
みますと、じつは、大和文化、琉球文化とい
かし、大和文化、琉球文化という時、それら
う区別自体が無意味なのではないかという気
はいったい、いつの時代のどのような文化を
がしてきます。その具体的な例を平成 13 年
言うのでしょうか。
に県の無形民俗文化財に指定された「徳之島
町井之川夏目踊り」に見ることができます。
上の 3 つの例で言うと、大和風と言われる
4
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
『かごしま文化財事典』によりますと、こ
大きな文化圏の中にすっぽりと包まれ、その
の祭の特徴は踊りの集団が集落中の各戸をく
中でいろいろな地域同士が、いろいろな影響
まなく回って踊る、いわば訪問祝福型の踊り
を与えあいつつ、現在に至ったという歴史が
であること、男性集団と女性集団の掛け合い
見えてきます。
によって踊りが展開されること、歌と踊りと
2.奄美方言の特徴
楽器が三位一体の関係にあること等にあり、
これらはいずれも、わが国の最も古い芸能の
次に、方言から奄美文化の特徴を考えてみ
形態を留めていると言います。このうち二番
ますと、さきほど申し上げた芸能と似たよう
目の特徴に注目してみましょう。
な事情が方言にも当てはまります。すなわ
うたがき
二番目の特徴は、じつは古代の歌垣に通ず
ち、奄美の方言は、古くは琉球のことばと共
るものです。歌垣というのは、奈良時代、男
通のベースを持っていましたが、その後、薩
女が野辺や市などに集まって、歌を交わした
摩の影響を受けて、両方をミックスさせた形
り踊りを踊ったりする行事のことで、男女の
で現在に至りました。しかし、古くさかのぼ
求愛の場ともなっていました。万葉集や常陸
れば、大和のことばと琉球のことばは共通す
国風土記などを見ますと、大和の海柘榴市(現
る部分が多くなってきます。つまり、両者の
在の奈良県桜井市にあった市場)や常陸国(現
元は同じであると考えることができるので
在の茨城県)筑波山で歌垣が行われていたこ
す。
いち
つ
ば
い
ち
とが分かります。おそらく古代には、もっと
発音面の話はすでに『AMAMI News Let-
いろいろな場所で歌垣が行われていたのでは
ter』No.11、No.12 に書きましたので、ここ
ないかと思われます。平安時代に入ります
では単語の例を挙げておきましょう。表 1 に
と、歌垣は宮廷に取り入れられ、中国の踏歌
挙げた語は沖縄方言と共通する単語で、現在
(足で地を踏み、拍子をとって歌う群集舞
の共通語では使われないものです。ただし
踏)と合流して、新年に行われるようになり
(古)の注記からも分かる通り、昔は京都で
ました。踏歌はその後、だんだんと行われな
もこれらの語が使われていました。一方、表
くなり、現在は熱田神宮(愛知県)に神事と
2 は鹿児島由来の単語です。これらはおそら
して伝えられています。
く、江戸時代以降、薩摩から奄美に入った単
とう か
語だと思われます。
この他に奈良時代の歌垣の流れを汲むもの
もうあし
として、沖縄の毛遊びがあります。沖縄では
現在でも各地で野外コンサートの形で毛遊び
表1((古)は古語として使われたもの)
が行われていますが、もとは男女が毛(野外)
あご
ウトゥゲ
で円陣を組み、歌ったり踊ったりする行事が
朝
スカマ
毛遊びでした。さらに、中国南部、ベトナム
朝
ツトゥミティ
(古)つとめて
等のインドシナ半島北部の諸民族にも、歌垣
足
ハギ、ハジ
(古)はぎ(脛)
と似たような風習があります。
明日
ナーチャ
小豆
ハーマミ
文化といっても、古くさかのぼれば両者には
頭
カマチ
共通する部分が多く、元は同じという感じが
頭
チブル
(古)つむり
します。さらに、その広がりは中国南部、東
兄
ヤクムィ
(古)きみ(君)
南アジアにも及ぶようです。そうすると、大
家
ヤー
(古)や
和も琉球も、元は東南アジア文化圏といった
腕
ケーニャ
(古)かいな
このような例を見ますと、大和文化、琉球
5
(古)おとがい
あかまめ(赤豆)
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2006 年 12 月号
南
フェー
はえ
娘
メーラビ
(古)めわらべ
肋骨
ソーキンブヌィ
男
インガ
女
ウナグ
蚊
ガジャン
かかと
アドゥ
釜
ハガマ
髪
カラジ
頭
ビンタ
(鹿)びんた
北
ニシ
桶
タング
(鹿)たんご
去年
フズ
(古)こぞ
ご馳走
シューキ
(鹿)しおけ(塩気)
櫛
サバキ
(古)髪をさばく
錐
イー
(鹿)いー
子
クヮー
青年
ニセ
(鹿)にせ(二才)
子ども
ワラビ
父
チャン
(鹿)ちゃん
砂糖
サタ
鉄瓶
チュカ
(鹿)ちょか(猪口)
塩
マシュー
母
オッカン
(鹿)おっかん
三味線
サンシン
雀
ユムンドゥイ
空
ティン
台所
トグラ
太陽
ティダ
卵
クガ
父
ジュウ
蝶
ハビラ
妻
トゥジ
(古)とじ
から、島口大会や島ゆむた大会が開催される
つむじ
マチジ
巻き毛
ようになってきました。子供たちのしゃべる
梅雨
ナガミー
(古)ながあめ
方言は、大人の耳からすれば、正しくない方
友だち
ドゥシ
(古)どし(同士)
言かもしれませんが、そのような方言でも、
匂い
ハザ、カザ
(古)かざ
全く残らないよりは、残った方がよいと私は
苦瓜
ゴーヤ
西
イー
虹
ノージ、ノーギ
母
アンマ
腹
ワター
はらわた
博さんたちの努力が実って、『徳之島方言二
火
マチ
たいまつ
千文辞典』が刊行されました。この報告書の
東
アガリ
陽の上がり
良いところは、単語だけではなく、方言の会
東風
クチ
(古)こち
話文が載せられているところです。共通語を
膝
ツィブシ
(古)つぶふし
元にして岡村さんが天城方言に訳されたのだ
臍
フス
(古)ほぞ
人
チュー
ひと
豚
ワー
へちま
ナービラ
蜜柑
クネブ
九年母
右
ニギリ
握り
(古)おなご
表2
(古)羽釜
(古)わらべ
ましお(真塩)
3.奄美方言の保存
てん(天)
奄美方言は、一方で大和語の古語をよく伝
え、また一方で琉球語と薩摩語を取り入れた
てんどう(天道)
りして、豊富な表現を作り上げています。し
かし、現在、方言は消滅の危機に瀕していま
す。これを何とか残そうと、平成になった頃
考えます。ただ、これに関しては、いろいろ
な考えの方がいらっしゃるだろうと思いま
陽の入り
す。
ところで、2006 年 3 月に天城町の岡村隆
そうで、ゆくゆくは岡村さんご自身の発話を
吹き込んだデジタル方言辞典が公開されるそ
うです。以下に一例を挙げておきましょう。
!イヱーとぅんがネヱー
見(にゃー)ゆい。
(痩せているように見える)(0100)
6
奄美ニューズレター
"な ー ス ヰ ぐ ん
№ 29
島(ス ヰ ま ー)ぬ
News Letter』No.11
見
&木部暢子 2004「奄美の方言(2)」
『AMAMI
(にゃー)ゆんどー。
(もうじき島がみえ
News Letter』No.12
るぞ)(1126)
#か ら ー ズ ヰ ぬ
'木部暢子 2005「奄美の方言(3)」
『AMAMI
病 み ゅ い。(頭 が 痛 む)
News Letter』No.22
(0118)
$ネヰーぐツヰぬ
(近藤健一郎 1999「近代沖縄における方言
病(や)みゅんテヰーわ
札(1)−八重山地域の学校記念誌を資料と
やー。(みずおちが痛むなあ)(0056)
%用事(ゆーズヰ)
ぬ
2006 年 12 月号
して−」『愛知県立大学文学部論集』47
有ーテヰか
済まーチヰ、まどぅー
)中本正智 1976『琉球方言音韻の研究』法
着物(きん)見(にー)
政大学出版
が 行きゅいよー。
(用事を済ませて、暇
*西村浩子 1998「奄美諸島における昭和期
があったら着物見に行くよ)(0279)
&くルヰかー
発展シヰー行きゅん
の『標準語』教育」『松山東雲女子大学人
国ー
文学部紀要』6
だー(これから発展していく国だ)(0629)
にゃー
+西村浩子 1999「徳之島における方言継承
にゃー
の問題」徳之島郷土研究会報 24
これを見ると、奄美方言では「見ゆい・見
や
や
い
,平山輝男編・木部暢子鹿児島県編 1997『鹿
ゆん」、「病みゅい・病みゅん」、「行きゅい・
い
児島県のことば』明治書院
行きゅん」のように、動詞の活用形の種類が
多く、表現が豊かであることが分かります。
-前田晶子 2004「離島における地域の人間
言うまでもなく、共通語にはこんなに多くの
形成と学校−沖永良部島・国頭小学校の
活用形は存在しません。
1970 年代−」『AMAMI News Letter』No.8
このような仕事は、地元の方と研究者が協
力し、それぞれの特色を出し合って初めて完
成する仕事です。今後、奄美の方々と鹿児島
大学の教員との間でも、このような共同作業
が盛んに行われるよう、私どもも努力してい
くつもりでございます。徳之島の方とも是
非、協力しあってまいりたいと思いますの
で、どうぞよろしくお願い致します。
参考文献
!岡村隆博・沢木幹栄・中島由 美・福 嶋 秩
子・菊池聡 2006『徳之島方言二千文辞典』
信州大学人文学部
"鹿児島県教育委員会 2002『かごしま文化
財事典』
#飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編 1984『講
座方言学
沖縄・奄美の方言』国書刊行会
$上村孝二 1998『九州方言・南島方言の研
究』秋山書店
%木 部 暢 子 2004「奄 美 の 方 言」
『AMAMI
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奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
■研究調査レビュー
マルタの発展計画と経路依存型の発展
−地中海にある小島嶼国の発展戦略と自然環境−
山田
誠(鹿児島大学法文学部)
Ⅰ
はじめに
この開発路線を経済学の分野では、経路依存
Ⅱ
マルタの発展計画と島嶼特性
型の発展計画と呼ぶ。
私たちが訪問したヨーロッパ島嶼は、自然
1)乾いた島嶼とツーリズム
2)傷つきやすい自然環境とマルタの構造
景観のみならず経済社会の構造も明瞭に奄美
3)経済社会の課題と開発余地
とは異なる。したがって、このアプローチに
Ⅲ
依拠して発展構想・計画を描けば、それぞれ
マルタの自己選択と歴史を生き抜く知恵
1)発展計画書の意図と EU の政策
の目標像や政策の優先順位あるいは双方とも、
2)計画作成の経緯と態度決定の伝統
違ったタイプの構想・計画となろう。さらに、
Ⅳ
計画の複雑な編成プロセスからして、類似し
おわりに
た発展計画が現れる可能性はほとんどなかろ
う。ところが、私は最初の訪問地マルタで、
私たちの研究プロジェクトと目標像や優先順
Ⅰ
はじめに
位の設定が大きく重なる発展計画に出合って
しまう。
海外から帰国する際に、日本の上空にはい
めったに起きないはずの事態にいきなり遭
ると緑のみずみずしさが目に飛び込んでくる。
今回は、調査の途上にある時から何度もプロ
遇。これを、どう理解したらよいのか。調査
ジェクト対象となっている奄美の森・自然が
旅行の間も、心に引っかかっていた。現地に
浮かんできた。というのも、訪問地として選
数日間滞在しただけの 1 外国人が発展計画書
んだヨーロッパ島嶼の緑はとても少なく、自
を手がかりに、マルタの特性や、構想の背後
然環境が奄美と際立って対照的だったからで
にある歴史的な体質を探り出す。訪問印象に
あろう。
こだわる観察者による発展計画書の吟味から、
どんなマルタ像が見えてくるであろうか。
私たちは今年度から、奄美の自然と共生す
る循環型社会の形成をめざす研究プロジェク
トを立ち上げている。プロジェクトの基礎に
Ⅱ
マルタの発展計画と島嶼特性
は 2 つの想定がある。貴重な生物をたくさん
1)乾いた島嶼とツーリズム
保持している奄美の自然とそこで暮す人々に
(!)
とって便利な現代生活は、工夫次第でうまく
初めて訪れる私たちにとって、イタリア南
折り合っていける。また、最新の技術を導入
方の地中海に浮かぶ小さな共和国・マルタは、
すれば、地域資源を活用したエネルギー生産
日本の地中海と呼ばれる瀬戸内海の穏やかな
および廃棄物の再生利用を実現でき、それら
島々とは別世界の表情を見せる。
を基礎インフラストラクチャーとする循環型
空港に到着した私たちは、世界文化遺産に
社会を築ける。この 2 つは、域内資源の効果
登録されているラ・ヴァレッタ地区の入り口
的な活用により奄美を発展させようとする開
に宿を定めて、マルタ大学の小島嶼国研究所
発アプローチにとって土台となる想定である。
に向かう。一方通行になった細い街路の両脇
8
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
には出窓タイプになった 4∼5 階建ての古い
中世・近世を代表する原理主義の組織がマル
家屋が隙間なく立ち並ぶ。いったん下った街
タを 250 年余も統治してきた事実。その一方
路を昇りつめると、視線の先に小さく切り取
に、住民の間で宗教を大切にする生活が現在
られた蒼い海が現れる。その蒼さは私たちが
も続いている様子。両者をつなぐ脈絡につい
港町の一画に居ることを教えてくれる。
ては、残念ながら、知る機会はなかった。
8 月末の地中海は暑い。住民たちが経済的
車窓からではあるが、首都を離れて島内周
に豊かでないためか、あるいは世界文化遺産
辺部の生活環境をながめることができた。3
としての規制によるのかは分からないが、両
つの有人島を合わせて約 320 平方キロメート
側の住まいにエアコンの室外機は見当たらな
ルしかないマルタ国は、徳之島と沖永良部島
い(その後、バスが走行中も乗降用のドアを
を合わせたほどの面積に 40 万人が住み、ヨー
開放して風を取り入れている様子からして、
ロッパでは人口密度の高い国・地域の 1 つに
経済的要因が主だと類推される)
。裏表とも
なっている。実情をいえば、人々は海岸に近
開け放たれた窓は海からの風をスムーズに通
い地区にかなり集中いるため、環境負荷はか
す。風はなぜだか奄美ほど湿っていないなあ
なり高いと推測される。気候は地中海式で、
と、腕の皮膚が語りかける。
冬場に雨が降るものの、年間の降雨量は少な
研究所の訪問を終えて見晴らしのよい公園
い。大部分の住民が住むマルタ島には少し小
に出ると、軍事・戦闘の文字とともに歴史に
高い丘陵部こそ見られるとはいえ、山は存在
名を刻んできたマルタの一区画が眼下に広が
しない。川とおぼしき地形も、夏期には窪地
る。港の内部は十数メートルもあろう石垣を
のように見える。作物を育てるのに適した地
張り巡らした要塞で取り囲まれ、その背後に
は狭く、乾いた風景が広がることになる。
堅牢な建築物群が続く。身構えた港の情景は、
もっとも、近くにある第 2 の島・ゴゾ島の
場合、気候条件は類似であっても、一定規模
マルタがたどった歴史を雄弁に物語る。
の集積したぶどう園があちこちに点在してい
て、本島よりは格段に緑が多い2)。マルタ島
では、細長い帯状になった数カ所の林を除け
ば、まとまった緑を目にすることはあまりな
い。それは、陸地部分の 4 分の 1 ないし 3 分
の 1 くらいが地表までむき出しになった岩盤
で覆われているためである。その岩盤部分と
手入れされた耕地部分の間には、石ころだら
けの移行地帯が横たわっている。景観に左右
されてか、そのあたりを吹き渡る風はよけい
砲台のある展望台
に乾いている気がした。
島内の町をバスで走り抜けるたびに、教会
(!)
が多いと感じた。いくつかは修復中であった
多様な島嶼からなる奄美群島では人口減少
り、あるいは建立されたばかりの建物が色鮮
が深刻なテーマとなっている。一方、特別な
やかであったりする。人々の暮しに信仰が生
天然資源も持たず、小さな部類に属するマル
きている証しであろう1)。イスラムと戦うこ
タは、多くの人口を抱えて、自立した国家と
とを設立目的に掲げた聖ヨハネ騎士団−この
して存続している。これは奄美や沖縄の域際
9
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
収支を知る私たちには、理解し難い驚きであ
こんな空間が代表的なリゾート地区なのだろ
る。生活はそれほど豊かでないとしても、自
うかと戸惑いを覚える。道一つ向こう側の狭
立した国家を維持するには、基礎となる経済
い土地にマンション風の高層建築物群が現れ
基盤がなければならない。この要件に適いそ
る。これらはツーリストたちの根城だと推測
うな産業として訪問者の目に映るのはツーリ
される。
マルタの場合、地形上の制約を受けるため
ズムである。
港には毎日、大型の観光船が着岸し、バス
か、プールや遊技場、レストランから始まり
を連ねて島内観光に出かける。宮殿や戦争博
エステ、買い物センターなどの各種施設を一
物館があるラ・ヴァレッタ地区の一画は、注
つの巨大ホテルに組み込んだ囲い込み型リ
意して歩かないと他人にぶつかるほどの人ご
ゾートは発達していないようである。そのた
みである。これら歴史を今に伝える諸施設に
め、ツーリストたちはそれぞれの機能を宿泊
人気があろうとも、日中だけの駆け足観光で
所の近在で満たすことになる。とりわけ夕方
出航していくツーリストが中心ならば島に落
からは夕涼みもかねて、大勢の人がそぞろ歩
ちる金額はしれている。マルタの最大の売り
きに出る。夕闇が濃くなるにつれて、海岸の
は海辺での滞在型観光である。島を代表する
街灯やホテルの飾り付けなどにより光のライ
スリエマ地区に出かけてみた。
ンが浮かび上がる。何カ所かは夜間照明をつ
教えられた停留所近くまでくると、海側の
けたプールがあり、水球ゲームをしている様
ゆったりした桟橋では湾の内外をクルージン
子などが遠くからも見える。少し遅くなった
グする観光船が何艘も客を待っている。道の
頃には、船から花火があがる。どこか祭り気
反対側に目をやれば家屋の前に大きく張り出
分の夜が更けていく。
したレストランが軒を並べている。その連な
年間に百万人を超える入りこみ客は夏に集
りを越えたところから、自動車道は少し高く
中する。彼らの消費する食料や水など基礎的
なり、数メートル下に岸辺が見える。ここか
な生活資材は莫大な量になる。また、気まぐ
らはずっと岩場が続く。波打ち際も平面的な
れなツーリストをめぐる競争は激しい。旧タ
形状で滑らかになってはいるが、やはり岩が
イプのリゾートはどう差別化して生き残って
覆っている。その岩場で人々は海水にはいっ
いくのかが問われる。他方で、生態系に敏感
たり、寝そべったりしている。数キロメート
な島嶼が現在の水準を超える負荷に耐えられ
ルを歩く間に、砂浜はごくごく小さな一区画
るのかという懸念がある。短期間の観察から
を見出せただけである。日本人の私たちは、
は、よほど巧妙に経済社会を運営しなければ
マルタの発展は難しいという印象を抱く。し
かるに、政府は今後 10 年間の開発計画にお
いて、自然環境の保全を重視した「持続可能
な発展戦略」で臨むと主張する。他国の計画
とはいえ、どうしてなの、と尋ねたくなる。
2)傷つきやすい自然環境とマルタの構造
(!)
奄美は豊かな自然環境に恵まれ、世界自然
遺産の登録候補地になっている。半面、経済
岩場の海辺とホテル群
社会に関しては衰退傾向にあり、政府を含め
10
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
て振興策が模索されている。訪問者の目には、
外洋離島だという点をのぞけば両島嶼に重な
マルタと奄美は、自然の豊潤さおよび経済社
る点は少ない。人口密度も高くて大勢の観光
会が発生させる負荷水準とも著しく違ってい
客を迎えるマルタの発展計画が低負荷型の生
る。それゆえ、両者における発展計画の構想
活や生産システムを築くという目標を設定す
が大きく重なる事態に遭遇すると、強い戸惑
るのなら分かる。しかしながら、世界自然遺
いと疑問に襲われる。マルタの発展計画「持
産登録を目ざす地域のごとき環境優先の発展
続可能な発展戦略」の構想を摘出する作業が
計画をたてる。第 3 章の第 1 節自然環境と諸
検討の第一歩となろう。
資源の管理が扱う内容は、大気汚染と温暖化
自然環境、経済、社会の 3 分野を扱うマル
対策、節約的なエネルギー利用と再生可能な
タの発展計画書の主柱が自然環境だとする私
エネルギーの実用化の一つとばして生物多様
の判断は、その記述順序および計画書が掲げ
性の確保がくる。生物多様性のテーマには、
る優先事項 20 の分野別配分数に基づいてい
絶滅危惧種の監視や保護、多様性保全の国家
る3)。
戦略、特別保全区域の設定と管理といった一
マルタの発展計画は、編者たちの言よれば、
連の環境施策が並ぶ。第 3 番目の優先項目は、
具体的な事業につなげるアクションプラン中
一次水の問題であるが、その際にも一次水を
心の編集になっているところに特色がある。
より多く入手できる状態を目ざすのは、人間
私の見方からは、主要な内容であるアクショ
の使用目的のためだけではなく、生物多様性
ンプランにこそ計画を支える構想、さらには、
の保持に欠かせないからだと強調する。やは
直接間接のいずれかでバックボーンとなる思
り自然環境の保全が過剰に強調されている感
想が現れているはずだ、となる。アクション
がして仕方がない。
プランを提示している「第 3 章
提案された
(!)
マルタ戦略」は、自然環境と諸資源の管理が
最初に位置し、その後に、持続可能な経済発
対象地域に低負荷型の生活や生産システム
展の促進、持続可能な社会(コミュニティ)
を築く方向と、傷つきやすい自然の保護を上
の育成、組織横断的な戦略遂行の節がくる構
位目標に据える方向とは、同じ環境への配慮
成になっている。また、20 の優先事項の配
でもかなり違ってくる。前者の場合は、人々
分を見れば、環境関連の分野 8 つ、経済 3 つ、
の暮らしや社会のスムーズな運営が直接の準
コミュニティ 3 つ、事業の総合化に 3 つ、遂
拠基準となる。環境政策のなかで、自然環境
行関連に 2 つのテーマが割り振られていて、
に対する負荷が大きくて注目される基本イン
環境関連の事項は他の分野を圧倒している。
フラストラクチャーはいくつかあるけれども、
(6∼8 ページ)
。環境と資源の対象範囲はず
ここでは計画書が優先項目として載せている
いぶん広いため、さまざまな価値基準を設定
うちの水と廃棄物を取りあげる4)。
できる。計画書がここで準拠する目標は、傷
水の少ない島で都市的な生活を送っている
つきやすい自然環境の保全であり、生物多様
マルタの場合、水の確保は社会安定の上で欠
性の確保である。
かせない。優先順位で後回しにされている一
計画書がこれらの準拠目標を繰り返し持ち
次水は、十分に満たされているのであろうか。
だすことに、私の感性は素直にうなずけない
一次水の検討箇所を読むと、マルタは飲み水
でいる。マルタが奄美と共通する要因を多く
さえも絶対的に不足しており、海水を淡水化
備えていれば、環境保全の高い優先順位にも
して用いている。地下水の汲み上げ規制、雨
恐らく納得するであろう。現実には、ともに
水の貯水能力アップ、水道水の導管漏れなど
11
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
を抑制して生活・産業向けの量を確保する策
いて、処理の優先順位は、ゴミの発生阻止、
と並行して、淡水化施設をより高度化して、
発生したゴミの最小化、最後の手段として埋
飲み水の質を改善させる事業が計画されてい
め立て処分となっている。これに対応して、
る。ひどい水の供給不足が生じないように、
家庭ゴミの分別収集はスタートしたばかりの
できるだけ処理された下水の再利用に向けて、
段階にあり、より細かな分別によるゴミ収集
これから 5 年間の数値目標が設定されている。
の方式を検討中である。「生産者責任」や「汚
小さな島嶼に大勢の人が暮せば大量の廃棄
染者支払い原則」の仕組みは、今のところ、
物が発生する。自然環境の保全を優先事項に
準備段階にとどまっている。2000 年代になっ
据えるからには、これをどう処理するかはき
ての見るべき政策成果は、大きなゴミの埋め
わめて重要な政策でなければならない。とこ
立て処分場を閉鎖し、その土地の修復に着手
ろが、マルタはこれまでずいぶんといい加減
したこと、一連の古い焼却場を閉鎖し、それ
な政策をとってきている。上に言及した下水
らに変わって、EU の新基準に照応する新し
との関連から、まず汚水の実情をとり上げよ
いタイプの焼却場をいくつか計画したことだ
う。下水の再利用は排水が適切に処理されて
と説明する。これらの努力にもかかわらず、
いることが前提になる。しかしながら、実際
マルタが埋め立て処分中心の廃棄物管理をし
に排水された汚水の大半は、下水処理される
ているために自然環境に対して重い負荷を与
ことなく、海水中へと流され汚染を引き起こ
えていると、計画書は正直に認めている(24
している。ここでも、面白いことに、マルタ
ページ)。
経済は海辺のバカンス客に大きく依存してい
ここまでの検討からは、以下のような評価
るにもかかわらず、動物や植物群の繁殖に対
を導きだせそうである。マルタの発展計画は
する悪影響が人間への健康脅威と同列に扱わ
何よりも優先する課題として環境問題を持ち
れている(25 ページ)
。計画書によれば、こ
だしはするものの、マルタの環境をめぐる実
うした事態を改善する事業計画が動きはじめ
情は、目標・優先順位の設定にふさわしい政
ていて、ゴゾ島と合わせて 3 つの下水処理プ
策運営とは必ずしもいえない。それは、守る
ラント建設が計画されている。
に値する「傷つきやすい自然」の存在に対す
る疑問、そして、社会の運営上では切迫して
いると思われる環境負荷軽減の緊急性への危
惧が解消されないからである。
ここまでは、マルタの発展計画の核となっ
ている環境問題の側面に照準を合わせて、内
容を検討してきたが、次ぎに、一般的に政府
の発展計画において重点となる経済と社会の
分野ではどんな課題を抱えているかを吟味し
てみよう。
3)経済社会の課題と開発余地
一目では汚染が分からない湾内の海水
(!)
廃棄物に関する説明で、計画書は、EU の
環境保全や気候変動防止に熱心なのは、一
メンバーとしてマルタがそのゴミ処理政策に
般的にいえば、すでに一定の豊かさを達成し
拘束されていると述べる。その処理政策にお
ている先進国が多い。日本国内においても、
12
奄美ニューズレター
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上させねばならない。
奄美などの地域開発に際して、大規模な公共
事業が敏感な生態系を傷つけることは繰り返
2.マルタの経済活動は、生態系に敏感な小
し指摘されてきた。それでも、地元の人々の
島嶼で人口密度が高いという特性によって
心は経済や生活面における本土との格差解消
強い制約を受けている。
を強く求めてきた。だとすれば、マルタが傷
3.これからの 20 年間については高齢化が
つきやすい自然環境の保全を最優先に掲げる
著しく進展するため、公共財政部門におけ
のは、豊かな経済社会をある程度築いている
る社会保障費の比重が連続的に高まらざる
という自信の現れかもしれない。ところが、
を得ない。
この観点から発展計画に書き込まれている現
3 つの構成ファクターでもって示される枠
実を拾いあげると、むしろ厳しい社会の様子
組みは、確かにマクロの制約要因として重要
が率直に語られている。
ではあるが、どの島嶼にも当てはまる一般的
近年に急増しているアフリカからの違法移
な課題である。したがって、それにどうやっ
民は、社会への統合を含めて数々の問題を発
て対処するかの構想と路線選択が、それぞれ
生させている5)。その到来はマルタの地政学
の島嶼、島嶼国家の発展戦略であり、知的リー
的な重要性を改めて認識させはするものの、
ダー層の腕の見せ所といえる。マルタの発展
自らが生み出した問題でないので、ここでの
計画書の場合、ここで再び、最優先の課題に
検討対象からははずそう。国内の重要問題と
自然環境の保全を選び出し、生産と消費のパ
しては、何よりも社会の基礎力となる教育。
ターンを自然環境に負担をかけない方式に改
マルタは目下、教育改革を実施中である。改
めるというスローガンが持ち出される。すぐ
革の背後には、常習的に欠席する学童の率が
上に描かれたマルタ社会の深刻な困難の解決
高く、それと早い時期に学校から離れるとい
と結びつく路線の提起は見いだせず、私は不
う事情が重なり、識字率も低いという放置で
満がたまっていく気分になる。
きない実態がある。この教育事情は、当然、
(!)
低い職業能力での就業に結びついていく(54
∼55 ページ)。これらの構造的な問題が原因
奄美に循環型社会を形成する研究プロジェ
の一つとなって、総人口の約 15 パーセント
クトにおいて、私たちは経路依存型発展を追
が貧困線の水準あるいはそれ以下で生活して
求する。それを簡潔に描けば次のようにまと
いる。母子家庭、父子家庭はこの層の中核的
められる。奄美には、世界自然遺産の登録候
な部分を占めている(49 ページ)
。子持ち女
補に選ばれるほど恵まれた自然環境が保持さ
性に対する安定した就業機会の提供は、重要
れている。今後は、経済発展の構想も、この
な社会安定策といえる。
豊かな自然環境と個性豊かな文化を基軸に据
一方で、マルタの経済的な発展に関する記
えるのが望ましい。その際、自然環境を人々
述を見れば、深刻な社会の構造とは切り離さ
の干渉から切り離して保護するのではなく、
れて、たいていの島嶼に共通しそうな一般的
社会経済と共存させながら維持していく方式
枠組みが 提 示 さ れ る に と ど ま っ て い る(36
を探究する。この路線に沿って、エネルギー
ページ)。
利用や廃棄物処理も、自然資源を活用する新
1.外部の経済に著しく依存する構造になっ
しい技術や方式の実証プラントを試す6)。
ているマルタは、比較優位となる分野を開
いろいろなバリエーションを含んではいる
拓するのと並行して、提供する財・サービ
が、経路依存型発展のアプローチは、日本社
スの価格と質についての競争力を絶えず向
会では次第に認められてきている。この流れ
13
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
に押されて、改正された今次の奄美群島振興
ントの雇用量を生み出している。先の社会構
開発特別措置法は、開発目標を新たに地域の
造との関連からは、両部門は非熟練の働き手
資源を活用した「自立的発展」に切り替えて
を多く雇用する点で、マルタ社会の安定に大
いる。このアプローチから見ると、マルタの
きく貢献しているといえる。
自然は経済社会の構造と切り離されて「自然
環境の保全」理念がむりやり最優先課題に持
ち込まれている感が強い。
発展計画書は、経済発展を扱う節において、
自然環境に負担をかけない方式の採用を唱え
た後、11 の戦略事項を列記する。そのいく
つかの事項は、数値指標は掲載しないという
計画書の基本態度を放棄して、達成すべき数
値と期限を明示している。重要さと緊急性が
読み取れる戦略事項の到達水準を一言で表現
すれば、EU の平均値である。つまり、経済
活動に関しては EU 平均に達していない国が、
EU 平均へのキャッチアップを当面の緊急戦
略に据えているわけである(37 ページ)
。そ
れをどうやって達成するか。ここでもまた、
再利用可能な資源への着目、技術革新・基礎
科学・技術開発の促進といった一般的な方向
性の記述に終始し、具体的な進め方や手順は
見えない。
通りでひしめき合うツーリスト
個別事例を取り出せば、建築現場から出る
廃棄物や採石事業は、マルタのような自然・
ここで、計画書は現在のツーリズムが抱え
社会環境下にある島嶼では特に注意を要する
る負の効果に着目する。夏場のバカンスに集
というのは同意できる。製造業に関しては、
中しているツーリストは、島嶼の自然環境お
環境を悪化させる危険が指摘されている。ま
よび文化遺産に大きな作用を及ぼしている。
た、製品開発・技術進歩・プロセス革新など
とりわけ、不足する水資源への集中的な需要、
を一体的に進める政策戦略は必要性が言及さ
大量のゴミの発生、交通混雑などなど。した
れているものの、具体的な目標や取り組みは
がって、計画書はこれ以上夏期のツーリスト
出てこない。
増大が望ましくないという立場を表明する。
観光業は、狭義の経済活動だけで GDP の
今後は、客単価を引き上げたり、一時的に集
2 割を占め、製造業の比重を超える。この産
中する客を時期的に分散させる方針を打ち出
業については、廃棄物や採石事業とは対照的
す。もっとも、そこには方針だけが書かれて
に、実情が具体的に記載されている。ツーリ
あり、経済発展の戦略事項と同じく具体的な
ストとしての来島者は、居住人口の 8 パーセ
推進方策は見いだせない(46∼48 ページ)
。
ントに相当すると見積もられている。彼らの
ツーリズムの検討からは、マルタの主導的
消費は国際収支バランスに大きく寄与してい
な経済活動がすでに生態系に敏感な島嶼の受
る。また、宿泊部門と飲食業だけで 8 パーセ
容限界に近づいている様子が浮き彫りになる。
14
奄美ニューズレター
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けれども、もし経済と社会を安定させている
込んでくる。この状況からは、誰しも資源利
主柱の観光業を量的な面で現在水準よりも大
用面および社会経済面で少なくない難題の発
きく発展させられないとすれば、マルタはい
生を推測する。これに対して、マルタの発展
かにして EU の平均所得水準にキャッチアッ
計画書は、今後 10 年間の全ての事業を導く
プするのか。私の目には、このテーマに関す
優先課題として傷つきやすい自然環境の保全
る具体的な進め方こそ、今後 10 年間の発展
を高く掲げる。それによって、私は大きな肩
計画の主要課題と映る。目の前に横たわって
すかしを食らわされた気分になる。というの
いる経済社会の大問題については、事態の深
も、マルタの社会生活や経済活動はいくつも
刻さを紹介するにとどめ、なぜか、計画書は
の深刻な政策テーマに直面している。計画書
繰り返し自然環境に対するインパクトと対策
はあちらこちらで控えめに、それらの問題点
ばかりを強調する。経路依存的発展アプロー
を指摘する。この局面をもう少し強調して表
チにこだわる私からすれば、足元の事態打開
現すれば、マルタの経済的発展枠組みとして
策を後回しにしてまで、EU という上位組織
提出した 3 要件の一つに、社会の急速な高齢
の特定路線に追随するマルタの姿が目につく。
化と、それによる公共財政の圧迫を明記して
ここには、現在のマルタが 2004 年に EU に
いるにもかかわらず、それの具体的な検討の
加盟した直後だという事情が深く関係してい
箇所がまったく見当たらないことに対する不
るのだろうか。
自然さは隠せない。つまり、発展計画書は、
政府の総合的な開発発展を示す文書が一般的
Ⅲ
マルタの自己選択と歴史を生き抜く知恵
に備えているバランスを著しく崩した編成に
1)発展計画書の意図と EU の政策
なっている。これをどう理解すればいいので
(!)
あろうか。
外洋島嶼は、一般に、移動の自由が認めら
計画書の記述にその手がかりを探すと、ア
れ、島嶼外との人および物品の交易が恒常的
クションプランの準拠基準になっている EU
となる現代に近づくほど、島嶼内の生活完結
の環境政策との整合性、とりわけ自然環境保
度が大きく下がるという宿命を背負っている。
全の優先に行きつく。ここで、発展計画の作
日本復帰後の奄美も、この押しとどめ難い磁
成期を視野に入れてくると、着手したのが
場に投げ込まれて、多額の国家資金の投入が
2002 年、EU 加盟は 2004 年、最終的な採 択
続いたにもかかわらず、多数の人々は都市部
は 2006 年である。この時間の流れに重ね合
に去り、残った人々の生活も著しく本土から
わせた時、自然環境保全は EU 加盟に欠かせ
の物品移入に頼った構造になっている。この
ない要件であった可能性が浮かび上がりそう
評価基準に照らせば、マルタは国際収支をバ
である。だが、他の訪問国での環境問題への
ランスさせつつ、居住者も減らさずに済んで
取り組みに対するインタビューから判断して、
いるきわめて例外的な島嶼といえる。総体的
必須の要件ではなかったといえそうである。
なデータに関しては、誇るに足る成果をあげ
EU は地球の温暖化防止などの取り組みで
ている島嶼国といえども、一歩、経済社会の
国際的なリーダーシップをとっているし、EU
内部に立ち入ると、別な顔が見えてくる。
域内の環境政策そのものの水準も高い。そう
長い歴史を持つ小さな島嶼であるマルタは、
いう一面はあるものの、環境政策の政策範囲
政府・自治体が放置できない人々を含めて大
は広い。大きくわけても、自然環境の保全、
勢の人間が住む。その狭い空間に百万人を超
クリーンエネルギーの開発と利用、
(水を含
えるツーリストが海浜レジャーを求めて流れ
む)廃棄物の処理の 3 分野が取り出せる。一
15
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
方、EU の政策にあっても規則の決定レベル
けられた可能性は低いと判断できそうである。
ごとに加盟国の拘束度合いに違いがあり、環
同時に、これら訪問国の取り組みと対比して
境政策の多くは、まだタイムテーブルが示さ
みても、マルタの発展計画書が指し示す政策
れた段階にあると言われている。実際、フィ
戦略は、独自色が強いといえよう。EU から
ンランドや準加盟国のアイスランドは、3 分
の強制を除外してよいとなれば、独自性が目
野のうち自己の得意とする分野を積極的に推
立つ戦略路線を選択する理由はマルタ側の中
進していた7)。
に探られねばならない。
(!)
目下、そして 10 年先までを見通しても、
国際社会における環境政策の焦点は、地球温
暖化の防止、具体的には炭酸ガス(CO2)の削
減ではなかろうか。炭酸ガスは発生源の国内
にとどまらず、それから遠くはなれた地域に
おいても種々の作用を発現させる。各国が削
減対策に追い立てられているのは、削減目標
値を定めた京都議定書がすでに発効している
からである。排出炭酸ガスの削減は、政策当
マルタの分別収集
局にとってきわめて重たい。実際、アイスラ
フィンランドはバイオマス・エネルギーの
ンドのように、第一次エネルギーの大半を自
比重を高める政策や、発生させたエネルギー
国のクリーンエネルギーで賄っている国さえ
の利用効率引き上げに大きな力を注いでいた。 も、自動車による排ガスの増大をうまく押さ
アイスランドは、長い冬期の暖房や温水の供
え込めずに、極北の風の強い地、大半が火山
給源として地熱を大々的に利用し、電力源に
岩に覆われている大地に植林をしてまで削減
は豊富な水力を用いている。こうした条件の
政策を大々的に実行している。
大きな森林もなく、豊かな水力にも恵まれ
下にあって、さらに新クリーンエネルギーで
ある水素ガスを交通燃料とする試みに挑戦し、 ないマルタの場合、炭酸ガス削減はフィンラ
すでに市バス 3 台を運行させている。その一
ンドやアイスランドに比して格段に深刻な政
方で、廃棄物処理に関しては、2011 年に始
策課題のはずである。見落したのかもしれな
まる規制の全面実施になんとか間に合うよう
いが、マルタで大々的な植林事業が進んでい
に準備を進めている。だが、役所の担当者は、 る様子には出合わなかった。「エネルギーの
本音でいえば広大な空き空間のあるアイスラ
効率性と再生可能な資源」の節において、多
ンドでは、埋め立て処分がもっとも経済的だ
様な措置が並べられているものの、達成目標
とぐちをこぼしていた8)。インタビューを実
を深刻に受けとめて大々的な事業を展開する
施して、自国の特徴を積極的に活かす方向を
という記述は見られない(17∼18 ページ)
。
取っている両国の環境戦略もまた、経路依存
輸送の領域では、2014 年までに、乗用車の
的発展の一つのあり方であることに思い至っ
保有率を EU 平均値にまで引き下げ、バスの
た。
輸送人員を 1995 年水準に回復させるという
これらの調査から類推して、マルタの EU
目標を設定する。マルタのバス料金は、確か
加盟に際して、自然環境の保全優先を押しつ
途中で乗り換えて島の一方の端から他方の端
16
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
まで行っても 100 円前後と、すでに十分低く
もっとも、申請する地域は、統一的な客観指
設定されている。したがって、自家用車の保
標による基準をクリアして助成の対象地域に
有率が EU 平均値を上回っている事態から大
加えられたとしても、多数の候補地の中から
きく転換するには、強力な措置の導入に頼る
選ばれなければならない。不足する自己資金
ことになろうが、それらしきものは見当たら
を EU の構造資金でもって補うためには、マ
ない(31∼33 ページ)。
ルタは厳しい選抜競争を勝ち抜かなければな
らない。
もう一度、具体的な事業目標を掲げている
前後に注意して発展計画書を読むと、自治体
ここで、当時の事情を確認すれば、マルタ
に向けて EU の構造基金に応募し獲得するよ
が加盟した 2004 年に、EU は加盟国を著し
う勧める記述が何カ所もある。発展計画書が
く拡大したが、拡大の重心は中東欧にあった。
事業の裏付けとなる財政の実態に全然触れて
マルタは多くの指標で EU の平均以下だとし
いない事実と重ね合わせれば、マルタの廃棄
ても、旧社会主義国の中東欧よりは明らかに
物処理策や炭酸ガス削減策などの環境政策を
経済発展が進んでいる。したがって、特別に
担う自治体あるいは国は、政策投入の資金に
注目される要件を備えていないかぎり、資金
極端に困っているのかもしれない。自然環境
の大部分は東欧諸国に流れていくことになる。
の保全を最優先の課題に据える発展計画を、
マルタはこの客観条件の下で自己を有利に売
EU 構造基金の獲得によって環境政策を推進
り込むために、自然環境の保全に関して EU
する戦略と見るのは、唐突なこじつけであろ
の優等生になる道を選択したのではなかろう
うか。一見強引に見える推理ではあるが、ず
か。どうやら、その選択は一定の効果をすで
いぶんと独自色の強い計画書についての一つ
に発揮しているようで、下水処理プラントや
の合理的な説明にはなろう。この推理の妥当
飲料水の水質改善については EU 資金を獲得
性は、計画書が繰り返し言及する EU 構造基
できているとの記述が計画書に見いだせる。
金の性格と、その運用手法の如何により高く
この脈絡に照らし出される発展計画は、政
府のバランスのとれた各種計画の記述スタイ
も低くもなる。
EU は前身の EC 時代から、問題を抱えた
ルを崩してまでも、自然環境の保全に特化し
地域に構造改変的な資金を与えて、域内の格
た発展像を描き出し、EU 資金を引きだそう
差を縮小する政策を少しずつ強化してきた。
と企図したという推理に説得的な傍証を与え
その中心にある構造基金は 1990 年頃から、
ている。ところで、こうした個性的な発展計
発展のもっとも遅れている地域に資金と措置
画はいかなる人々の手により作成されたので
を集中的に投入する方式が採用されている。
あろうか。すぐに連想されるのは、政府内に
奄美振興特別措置法に基づく事業の場合は、
EU の内部動向に詳しい政策立案者がいて、
国が全国対象に定めている補助金メニューに
その人物の情報収集の努力と企画力がもたら
合わせて、事業プロジェクトを予算申請する。
したとする見方である。マルタの計画作成は
この方式では、奄美の特性にあった事業づく
果たしてそのケースに当たるのであろうか。
り、およびハードとソフトの組み合せなどに
難点が多く、使い勝手がよくないと批判され
2)計画作成の経緯と態度決定の伝統
てきた。それと対比していえば、EU の構造
(!)
基金は地元作成の事業プロジェクトを EU が
近年の日本においては経路依存型発展が政
選定する方式のため、地元側がブリュッセル
府の政策としても採用されはじめており、目
の事業枠組みに無理矢理に合わせる必要ない。
下は地域ごとに「地域再生」事業を案出する
17
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
試みが一種のブーム現象を引き起こしている。
ホームページに掲載されている。とすれば、
奄美市は、この政策展開をうまく取り込み、
ブリググリオ教授や同研究所が発展計画書の
平成 18 年度に内閣府から「国土施策創発調
構成と内容の決定に少なくないイニシアティ
査費」の対象地区に選ばれた。この事業の場
ブを発揮したという推測を立てても、あなが
合、地域の知の拠点である大学との連携が一
ち的外れではなかろう。
つの重要な要件である。したがって、奄美市
ここから導かれるのは、自然保護を最優先
は 3 月に締結された鹿児島大学との包括連携
の課題に据える発展計画書の路線が国内の知
協定を効果的に活用したわけである。この
恵を集め、国民各層の合意取り付けに多大な
ケースのように、政策担当者が国の政策動向
エネルギーを費やして選びとられたという作
や採択要件に精通していることは、案件採択
成の構図である。島外の巨大パワーとの結び
の成否を著しく左右する。
つき方を決める際に、大方の意向集約は、言
マルタが自然環境の保全を発展計画書の最
うは易く行ない難い。国際社会でも、それを
上位目標に定めるのも、EU の採択条件に詳
成し遂げた事例はごく稀にしか伝えられてい
しい役人が構造基金の採択基準に合わせて着
ないように思う。しかるに、マルタの場合は、
想した路線選択かもしれない。日本の補助金
これまで繰り返しこの種の選択問題に直面し
決定に照らせば、十分にありそうな話しであ
てきている。
ろう。けれども、マルタの作成プロセスは、
地中海の要衝という位置のために、マルタ
事情に通じた一部の官庁専門家の手になる文
は歴史の中で何度も国際的な覇権争いに巻き
書づくりでない点に特色がある。発展計画書
込まれる運命にあった。さらに、外部勢力間
によれば、202 年 12 月に、持続可能な発展
の角逐が国内政治に投影されて、重大なテー
国民会議は計画策定の決定に引き続いて、作
マに関する国論は、しばしば果てしなく分裂
業委員会を設置している。2006 年夏に、第
し続けるように見える。具体例で見ると、唯
三次草案の修正版が最終的に採択されるまで
一の正解など存在しない公用語選択の場合も、
に 3 年余りかかっている。
政治は困難な決定に揺れ続けることになる。
第一次草案が 2004 年 7 月に発表されて以
マルタの公用語はマルタ語と英語である。
降は、各種の団体や個人との活発な意見交換
イギリスから独立をすすめるプロセスで、公
の機会がもたれ、それが汲み上げられて第一
用語の選択は、政党やその背後にある種々の
次草案は大きく修正された。国民会議は 2006
社会層が複雑に絡み合って深刻な政治問題と
年 3 月に、第三次草案をさらに修正すべくも
なる。教会という強いバックをもち、上流階
う一度、作業委員を指名している。こうした
級は文化も言葉もイタリアに染まっていたに
国内諸団体の合意を得る努力のプロセスから
もかかわらず、公用語としては最終的にマル
は、発展計画を EU 通の一部の官庁専門家だ
タ語と英語を選び、イタリア語は組み入れら
けの作品とみなすのは無理があろう。何より
れなかった。社会的に混乱を巻き起こした公
も、作成にあたってイニシアチブをとったの
用語選択ではあるが、結果的には、今日、観
は役人ではない。そこにはマルタ大学の小島
光客の圧倒的な割合はイギリス人であり、ま
嶼国研究所の強い影響力を読み取ることがで
た、英語を中心とする語学学校が数多く設置
きる。というのは、何よりも所長ブリググリ
されている。要するに、マルタの公用語選択
オ氏が第三次草案を作成する 5 名の委員の一
は、島嶼経済のアキレス腱の一つである国際
人に加わっている(9 ページ)
。そして、第三
収支の安定に関して、多大な貢献をもたらし
次草案は、島嶼小国研究所の業績を紹介する
ている。
18
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
撃を加えた。このため、物資の輸送船もマル
タに近づけず、ついに島全体の食料が 2 週間
を切る事態へと追い込まれている。
第二次大戦時の猛攻撃もさることながら、
マルタを歴史上で有名にしているのは、1565
年のオスマントルコ軍による大包囲戦である。
この年、2 万 8000 人の兵士で編成されたト
ルコの大艦隊は、4 ヶ月にわたって繰り返し
マルタを攻撃した。当時、1 万 5000 人居た
居住者のうち約 4 分の 1 が死亡したと推計さ
港に入港する大型客船
れる激しい戦闘であったが、島民たちは最後
まで島の統治者の側に立った。
大包囲戦の少し前の 1530 年からマルタを
(!)
統治する者とされる者の間には、常に緊張
統治したのは、聖ヨハネ騎士団であり、その
が存在する。統治勢力が地域外の者である場
統治はフランス革命軍が上陸した 1798 年ま
合に、緊張感は一般に著しく増幅される。実
で続いた。この騎士団は、そもそもイスラム
際、日本の過去に引きつけてみても、アジア
勢力との闘争を理念に掲げて設立された。け
諸国は第二次大戦期の侵略行為を厳しく非難
れども、実際には治安、行政実務あるいは宗
する。また、奄美の人々は、薩摩あるいは鹿
教的な活動など統治関連の行為に加えて、地
児島県が過去になした統治のゆえに、鹿児島
中海貿易の仲介のような海運事業や外国船に
の人々に対して強い反発心を抱いているよう
対する海賊行為など多面的な事業に従事して
に見える。ところが、マルタにはこの種の「法
いたようである。複雑な性格を併せもつ聖ヨ
則」が当てはまらない。マルタの歴史を少し
ハネ騎士団ではあるが、その時々の栄枯盛衰
ひも解くだけで、外部勢力に自己の重要性を
を表す個々の歴史的な出来事から離れ、基礎
認めさせ、自国・地域の開発に巻き込んでい
となる人口データなどから読み取るかぎり、
く国民のしたたかさが浮かび上がってくる。
マルタの収奪よりも発展に対する貢献が大で
公用語に英語を組み入れる事例のごとく、
あったと評価してよいように思われる。騎士
現在のマルタへとつながる繁栄――その少な
団の統治時代に、マルタは何度か飢饉や伝染
くない部分は、外部勢力をうまく取り込む態
病の流行などに見舞われつつも、騎士団が追
度決定によりもたらされたように見える。
放された 1798 年の島嶼人口は、8 万 4000 人
もっとも、その態度決定は、人々に恒常的な
へと、5 倍以上も増えていた。その少なくな
豊かさと平穏さを約束するどころか、しばし
い部分を島外からの流入者が占めたといわれ
ば、古くから居住する住民に甚大な犠牲を強
ている。
いた。そうした痛みを伴おうとも、マルタは
人口というマルタの基礎受容力にかかわる
長期的な発展のために外部勢力のもつパワー
指標とは異なる側面での騎士団の貢献は、と
を賢く利活用してきた。具体例を追加すれば、
りわけ現代まで保存されている建築群、美術
第二次世界大戦においてドイツは、イギリス
や工芸品など貴重な文化遺産に見いだせる。
の統治に入っていたマルタを北アフリカ戦線
マルタに芸術性の高い文化を呼び込み、根付
の補給基地にしようとして、イタリアの南部
かせることができたのは、統治団のメンバー
離島であるシシリア島から連日のごとく猛爆
である騎士たちがヨーロッパの出身地に領土
19
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
択を何度もくぐり抜けてきたマルタの歴史に
照らして、現在の発展計画をいま一度位置づ
けてみよう。統治にインパクトをもつ外部の
勢力といかなる関係を取り結ぶかは、マルタ
の発展を決定的に左右する。その決定に際し
て、国論を分裂させれば社会の中に大きなし
こりを残す。マルタの人々にはこれらの教訓
がしみ込んでいる。したがって、発展計画の
作成プロセスからは、政府や有力な諸団体が
教訓を踏まえて慎重に合意の手順を踏んでい
る様子が見えてくる。他方、歴史的な試練の
中で、外部の勢力に自己を高く売り込む才を
身に付けてきた。この面で、マルタの政府は、
現在における最善の政策選択を考え抜き、
「持
続的な発展戦略」の構想・計画に到達したと
いえるのではなかろうか。
島嶼を取り巻く自然および経済社会という
客観条件の視点に立つかぎり、現実乖離して
マルタの歴史的建造物(マルタ大学の小島嶼国研究所)
いるように見える発展計画は、歴史の教訓に
基づいて熟慮されたマルタの選択表明の文書
を所有していたからである。自己の領地から
であった。作成された文書には、自己の発展
収められる資金でもって各地から著名な文化
と合致させる方向で、外部の勢力、あるいは
人を招き、彼らを芸術活動に従事させた成果
上位の政治組織を取り込んでいくマルタの伝
が、さまざまな遺産として受け継がれてきた
統がきっちり受け継がれている。いいかえれ
のである9)。
ば、「持続的な発展戦略」は、歴史を生きる
聖ヨハネ騎士団が追放された後、1814 年
政治選択として見れば、マルタの経路依存型
のパリ条約によりイギリスがマルタの統治者
発展の歩みに沿う戦略構想といえる。私はこ
となった。ここでも、類似の展開を見ること
れまで、自然環境の条件、経済や文化の特質
ができる。その条約会議において、マルタは
を組み込んだ構想のみを経路依存型の発展だ
イギリスの統治に入ることを自ら希望したと
と思い込んでいた。しかしながら、それは目
される。地中海の海上支配権を握っていた統
に見える世界だけを構成要因と見なす一面的
治国イギリスは、通過する全ての海上船舶を
な発想にすぎない。今回のマルタ調査により、
いったんマルタの港に停泊させる方針を立て、 人々の態度決定という領域にあっても経路依
マルタの海運業の発展に大きく寄与した。ま
存的発展が存在することを学べたように思う。
た、クリミア戦争、第一次大戦に際して、イ
ここから一歩先に論を進めるのを許してもら
ギリスは多数の傷ついた兵士をマルタの病院
えれば、さらに、その態度決定に磨きをかけ、
に送り、マルタそのものが「地中海の看護婦」
成熟した政策戦略づくりの才とすることに
と呼ばれるほどに医療機関を発展させた10)。
よって、マルタは島嶼の自然制約が許容する
島民の生存そのものを危うくする厳しい試
レベルをはるかに超える定住人口、ツーリス
ト数を受容できているように思う。
練、あるいは国論を二分するような苦渋の選
20
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
いま一度、私たちのプロジェクト対象の奄
タは繰り返しもっと深刻な態度決定の場面を
美に話題を転じよう。奄美も歴史上で幾たの
くぐり抜けている。とすれば、これこそマル
試練を経験している。地域はその経験から少
タに特有の発展戦略――経路依存型発展に他
なくない教訓をも導き出していることであろ
ならないと納得したわけである。
う。けれども、外からは、
貴重な教訓を島嶼の
目下、私たちは大学としては成功先例をも
住民が広く共有する機会、あるいは、その知
たないプロジェクト−調査研究型と事業型を
恵を土台にして政府に対し自分たちを高く売
統合したプロジェクト−に挑戦している。こ
り込む能力を、明瞭に見いだせないのではな
のプロジェクトがある程度目に見える成果に
かろうか。外の世界に開かれた状態で、長期
たどり着くには、外部資金の獲得が必要とな
的に発展を引き出していく選択にとっては、
る。奄美の方々はそれに向けて群島内の合意
外界の動静を冷静に読み取り域内に分かりや
を得ていく局面において、本レポートのマル
すく伝える、逆に、域内の声を外界向けに翻
タを参考にしてくれるであろうか。私たちは、
訳する拠点の形成が重要なコーナーストーン
マルタ大学の小島嶼国研究所の役割を果たせ
となる。その点で、奄美に研究機能を備えた
るであろうか。マルタに学ぶことは容易でな
高等教育機関が存在していない事情は、マル
さそうである。
タの例に照らしても賢明な態度決定の成熟を
阻害するマイナス要因だと考えられる。
《注》
Ⅳ
おわりに
1)佐藤幸男氏によれば、マルタの教会は大小
合わせて 365、モスクが 1 カ所だそうであ
ブローデルの大著『地中海』には、マルタ
が 93 回も登場するという。専門家にとって
る。佐藤幸男「マルタ留学体験記
②」『書
それほど馴染み深く、厚い研究蓄積のあるマ
斎の窓』2001 年 11 月号、49 ページ。
2)人口 3 万人のゴゾ島には、1992 年からマ
ルタにたった数日間滞在しただけで、訪問記
を書く。多くの研究者は、こんな無謀な企て
ルタ大学のゴゾセンターが設置されている。
に手を染めない。私の場合は、目下、奄美の
Maurice N. Cauchi : THE UNIVERSITY
プロジェクト構想に頭を悩ませている。その
GOZO CENTRE FROM VISION TO RE-
状況下にある者の目で見て、客観条件に重な
ALITY,Malta,2002.
3)National Commission for Sustainable De-
る部分の少ないマルタが自然環境の保全を上
位目標に設定する事実は、意外性に起因する
velopment :
A Sustainable Development
驚きとともに、作成の意図解明の意欲を引き
for the Maltese Islands 2006−2016, Third
起こした。
Draft, 2006.以下で、この計画書に言及す
る際は、本文中にページ数のみを記す方式
全体の編成などは、いかにもこじつけ的な
を用いる。
臭いが濃い記述。しかしながら、注意してみ
ると、あちこちにマルタの実情を踏まえた具
4)計画書は、他にも、例えば環境に優しいエ
体的な要求もちりばめられている。なぜ発展
ネルギーの利用拡大や家計による乗用車制
計画書をこうしたスタイルで作成するのか。
限と公共バスの利用策にも言及してい
実は、新しく EU 加盟する他の国々と競争し
る。)
て、EU から資金を獲得するための高度な戦
5)今回訪問したマルタもカナリア諸島も、違
略ではないのかというのが、推理から導かれ
法移民で悩んでいるが、基本的にはヨー
る結論である。しかも、歴史を遡れば、マル
ロッパ大陸に向かう人々の通過点と位置づ
21
奄美ニューズレター
けられる。
「不法移民対策
№ 29
2006 年 12 月号
、
EU 不協和音」
、 9)Merieca,S.『マルタの聖ヨハネ騎士団』
2005 年。
『日本経済新聞』2006 年 10 月 17 日号。
6)鹿児島大学研究プロジェクトの事業内容お
10)ナルニ−テルニ出版(上田早智子訳)
『マ
よび自然環境、社会環境との結びつきにつ
ルタとその島々』2000 年改訂版、1999 年。
いての詳しい説明は、山田誠「奄美の研究
イ ノ ベ ー シ ョ ン と 包 括 連 携 協 定」
『AMAMI News Letter』No.27、2006 年 6
参考文献
月号を参照のこと。
経済産業省「EU 環境政策最新動向調査」2006
7)EU の環境政策を概観するのは容易ではな
年 3 月(<http://www.meti.go.jp/policy/recy-
い。環境保全は、各国の利害が複雑に絡ん
cle/main/data/research/h17fy/170930‐1‐1_
でいるため、一般的拘束力を有する「規則」
jetro.html)。
として定められているものは少ない。各国
Maurice N. Cauchi: THE UNIVERSITY
に実現内容の決定が委ねられている「指
GOZO CENTRE FROM VISION TO REAL-
令」タイプが多い。EU 環境政策の基本を
ITY,Malta,2002.
定めるものは環境行動計画であるが、計画
Merieca,S.
『マルタの聖ヨハネ騎士団』、2005
を構成する 200 本余の諸規制も大部分は指
年。
令である。2002 年から始まっている第 6
ナルニ−テルニ出版(上田早智子訳)『マル
次環境行動計画の 4 大優先領域は、
タとその島々』2000 年改訂版、1999 年。
・気候変動への取り組み
National Commission for Sustainable Devel-
・自然と生物多様性
opment : A Sustainable Development for the
・環境と健康
Maltese Islands 2006‐2016, Third Draft, 2006.
・資源の持続意可能な利用と廃棄物管理、
佐藤幸男「国際学とマルタ−マルタ大学留学
である。
体験記−①、②、③」有斐閣『書斎の窓』2001
これらの重点項目中でどのような優先度
年 10 月、11 月、12 月号。
を設定するかは各国に任されている。法的
山田誠「奄美の研究イノベーションと包括連
な枠組みはそうだとしても、廃棄物管理は、 携協定」『AMAMI News Letter』No.27、2006
これまでの種々の取り組みにもかかわらず
年 6 月号。
量的な削減が実現していないとして、すで
に短期間での厳しい数値目標が設定されて
いる。各国の担当者が頭を痛めているのは、
本文中のアイスランドと同じだと思われる。
EU の環境政策の立ち入った紹介について
は、経済産業省「EU 環境政策最新動向調
査」2006 年 3 月を参照のこと。
8)これらは、2006 年 9 月にフィンランドに
ある国立エネルギー研究機関 VTT、国際
的なエネルギー事業を展開している Fortum 社でのインタビュー、およびアイスラ
ンドの首都レイキャビック市役所における
インタビューで得た情報である。
22
奄美ニューズレター
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■研究調査レビュー
ブルターニュ民謡から見た奄美民謡
梁川
英俊(鹿児島大学法文学部)
はじめに
派ブリトン語は、ここでブルトン語という独
奄美シマウタがブームである。その背景に
自の言語に発展し、いまなおこの地方の西半
あるのが、メジャーデビューした元ちとせを
分に残る。こうした独自性を背景に、この地
はじめとする若手の唄者たちの活躍であるこ
方は 1532 年にフランスに併合されるまで「ブ
とは言うまでもない。しかしより広い視野で
ルターニュ公国」として半独立国の地位を
見れば、このブームを準備したのは 90 年代
保った。
から本格化する世界的なワールドミュージッ
ブルターニュの音楽が人々に知られるよう
クの流行であったとも言える。それは第三世
になったのは、19 世紀のことである。きっ
界を含む広い地域の音楽を紹介し、シマウタ
かけとなったのは、フィニステール県出身の
が違和感なく受容されるための土壌をつくっ
貴族、テオドール・エルサール・ド・ラヴィ
た。このことは朝崎郁恵の CD がワールド
ルマルケ子爵
ミュージックのチャートで一位になったとい
ザズ・ブレイス(ブルターニュ民謡)』とい
う事実からも明らかだろう。世界にはシマウ
う歌集だった。ブルターニュで収集された民
タのように、少数言語で歌われる民謡が数多
謡を、ブルトン語の原文にフランス語の対訳
くある。そのなかには国境を越える聴衆を獲
を付して出版したこの書物は、かの大作家
得しているものも少なくない。そして、そう
ジョルジュ・サンドから「ホメロスに匹敵す
した民謡の多くは現在その伝承にまつわるさ
る」と絶賛され、フランスのみならずヨーロッ
まざまな共通の問題を抱えている。したがっ
パ各国で大きな評判となった。
が 1839 年に出版した『バル
て、世界の民謡の状況を知ることは、奄美民
19 世紀のブルターニュで歌は至るところ
謡のありようを考えることと無関係ではあり
で歌われていた。とりわけ乞食、屑屋、織工、
得ない。ここではこの数年筆者が研究対象と
粉屋、仕立屋、木靴屋など、ブルターニュ各
しているフランス・ブルターニュ地方の民謡
地を転々とする下層民は、行く先々で歌を仕
を取り上げ、奄美民謡と若干の比較を試みて
入れて人々に伝えて歩いた。乞食が施しの返
みたい。
礼に歌を唄うことも少なくなかったという。
この地方にはまた「歌の瓦版」とでも呼ぶべ
貴人起源説
き刷り物があり、民衆に深く浸透していた。
ブルターニュ地方はフランス北西部の半島
大方が一枚もので、歌詞だけが印刷されてい
地帯に位置する。この地方はさまざまに個性
たが、ときに楽譜が印刷されていることも
的なフランスの地方のなかでも、その独自性
あった。内容はさまざまだったが、なかには
において際立っている。その起源には 4−5
火事の発生やコレラの流行を題材にした歌も
世紀にかけてブリテン島から渡来した移住民
あり、メディアが限られていたこの時代には
の存在がある。彼らはこの地方にラテン文化
人々にニュースを伝える役割を担ってもい
とは異なる文化をもたらした。とくに言語で
た。こうした刷り物は、祭りなど人が多く集
ある。渡来民が話していた島嶼ケルト語の一
まる場所で行商人によって売られ、彼らはし
23
奄美ニューズレター
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2006 年 12 月号
ズ・ブレイス』こそは、その歌による証明に
ばしば自ら歌って手本を示したという。
ほかならなかったのである。
ところで、ラヴィルマルケが『バルザズ・
ブレイス』で作ろうとしたのは単なる民謡集
ところで、こうした歌の貴人起源説とも言
ではなかった。そこにはいまひとつの目的が
うべきものは、また奄美民謡においても見出
あった。それは民衆のなかに古代ケルトの名
すことができる。まずは奄美民謡に関する最
残を伝える古歌を探すことだった。その背景
古の研究のひとつである茂野幽考の『奄美大
にあったのは、当時ヨーロッパに広がってい
島民俗誌』を紐解こう。この書物のなかで、
たケルト・ブームである。18 世紀中葉にス
著者は民謡を「吾々の祖先が、過去数世紀の
コットランドのマクファーソンが「ケルトの
間に、其生活を歌った、生きた考證資料」と
古詩」と銘打って発表した『オシアン』は、
定義した後、こう語っている。
その怪しげな出自にもかかわらずゲーテやナ
「萬葉や、琉球のおもろが、国文学ならば、
ポレオンなどヨーロッパ中の人々を熱狂さ
奄美大島の歌謡も古文学である。しからば、
せ、農村や荒野という「辺境」の風景を流行
古文学としての大島民謡の価値を問はれるな
の先端に押し出した。こうした風潮のなか
ら、私は、大島の歌謡は叙事詩として、万葉
で、フランスでケルトの面影を色濃く残す土
以上の雅趣と情味があると、答えるに躊躇し
地として注目を集めたのがブルターニュだっ
ない」。
た。それまで「遅れた地域」と蔑まれていた
「其歌詞の中には古事記や万葉其他の国文
この地方は、一転して「高貴な民族」ケルト
学に綴られた、古代和詞と、其脱落音や訛音
人の生粋の末裔として脚光を浴びることに
語が、其歌の基調となっている点からして、
なったのである。ラヴィルマルケは誇らしげ
大島民謡は古文学として、また古代和詞の研
にこう語る。
究資料として、貴重な資料である」。
「フランスの先端に荒々しい未開の国があ
奄美民謡が万葉や古今和歌集に匹敵、ない
る。鬱蒼たる緑の森に覆われ、厚い茂みに包
しはそれを凌ぐ古文学であり、そこには奈
まれ、玲瓏とした谷が刻み、そこここに見渡
良・平安時代の古語が数多く残っているとい
すかぎりの荒野が広がる。その彼方、視界の
う考えは、その後の茂野の著書にも繰り返し
果てにはモンターニュ・ノワールの山並みが
現れる彼の基本的な主張である。たとえば、
霧に霞み、山嶺には十字架や鐘楼や巨石が点
後年出版される『奄美民謡註解』のなかで、
在する(……)。絶えず嵐が荒れ狂う海が、
彼は「奄美万葉」という言い方をしてさえい
飛沫をあげて押し寄せる(……)。「新世界」
る。もっとも、奄美の歌を古典文学という意
のように汚れを知らぬその土地の上に、やは
識で見ていたのはひとり茂野のみにとどまら
り汚れを知らぬ民族が住んでいる。過去の遺
ない。同様の意識は、彼より三十歳以上も年
物のような民族、古代ヨーロッパの名残をそ
上の都成植義の『奄美史談附南島語及文学』
のままにとどめる民族だ。長い髪と古い習慣
にも見られるから、あるいはかなり以前から
と古い言語とドルイドの文明を残す民族(…
それは島の知識人の常識だったのかもしれな
…)。この国こそ(……)われわれの故郷、
い。そして、その主張は以後も多くの研究家
ブルターニュなのだ」。
に継承されていくことになる。たとえば、昭
辺境であることはもはや恥ではない。それ
和八年に刊行され、いまなお奄美民謡のバイ
は逆に自らのケルト性の純なることを示す
ブルとされる文英吉の『奄美大島民謡大観』
「高貴性」の証しなのである。そしてケルト
もそのひとつである。しかも、文はそこで奄
の名残を伝える歌を多く収録した『バルザ
美の歌の起源には平家落人の影響があるとい
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奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
う、いまひとつの説を主張してもいたのであ
によって国内植民地のように扱われ搾取の対
る。
象となる。以来この地方は、不当な税金に対
「斯くの如く平家の人々は島民から敬慕さ
して民衆が蜂起した「赤帽子の乱」や、革命
れつつ初めて我が島人に手習学問を教へた
後の大規模な非キリスト教化政策に端を発す
が、更に資盛公初め行盛有盛公等皆名だたる
る「ふくろう党の反乱」など、中央支配に抵
歌道の達人であったから、生まれながらにし
抗する数々の反乱の舞台となってきた。ラ
て野の詩人であった純朴な島人等を相手にそ
ヴィルマルケはブルターニュの歴史をこう語
の云はうやうなき胸中を得意の歌にやり又大
る。
「フランスに隷従させられ、自由を奪われ
いにその教化に努めたであらうことも想像に
たわれわれが、独自のナションを形成するこ
難くない。
さなきだに島建て当時から犇々と迫る孤島
とを止めたいま、われわれにとって正確な意
感の寂しさに育くまれ物の哀れに生きてきた
味でナショナルな文学はもはやない。重要な
島人等である平家落人等の主観を織り交ぜた
出来事については、いまなおそれを語る歌が
哀切極まりなき芸術がそこに勃然として興っ
あり、その記憶を伝えるために、われわれの
たであろうことも極めて自然の趨勢であった
歴史はなお民衆によって謡われる歌という表
と云はねばならぬ」。
現を失っていないのだ。しかしわれわれは、
平資盛、行盛、有盛の三公が来島し、それ
もはやわれわれの先祖のように、新しい歌を
ぞれ居城を構えたという伝説は、奄美ではか
つくることはほとんどない。バルドたちの竪
なり昔から流布されて広く知られていた。し
琴は打ち砕かれ、歌は散り散りになり見失わ
かしそれを民謡に結びつけ、ほかならぬ彼ら
れてしまった。そして、いまやわれわれは、
が歌の教化に努めたとしたのは文の創見で
山々の上や辺鄙な片田舎でしかそうした歌に
あった。とはいえ、平家の落人が実際に奄美
出会うことはない。(……)わが祖国よ、お
に来たのかということについて定説はなく、
まえはもはや自由ではない。とまれ、われわ
ましてやその民謡との関連となるとさらに根
れは足枷を嵌められたおまえを讚えよう。わ
拠がなかった。が、文はこの双方の事実性を
れわれの命、二十の世紀にわたってわれわれ
信じて疑わない。貴人起源説はブルターニュ
がおまえの大義のために流してきた血は、い
と同様、奄美においてもなかなか根強いもの
まなおおまえのものだ。(……)。フランスは
だったのである。しかも、この二つの地域に
われわれのおまえへの愛を嗤うだろう(…
おいて注目すべきは、それが「抑圧史観」と
…)。しかしわれわれはフランスの腹から生
裏表の関係になっていることである。
まれたのか。フランスの乳を呑んだのか」。
かくてブルターニュの苦難の歴史は、その
抑圧史観
ままこの地方の歌の歴史ともなる。実際、
『バ
すでに述べたように、ブルターニュは 1532
ルザズ・ブレイス』に収められた歌には、反
年にフランスに併合されるまで、ブルター
フランス的な内容をもつものが少なくなかっ
ニュ公国という半独立国だった。しかも併合
た。つまりこの歌集は、それ自体がこの土地
時のブルターニュは、その豊かさで名高かっ
のフランスへの抵抗の生きた記録だったので
たスペインの植民地の名を借りて「ブルター
ある。
ニュはフランスのペルーである」と言われる
一方、奄美にとって抑圧者となるのは薩摩
ほど恵まれた地域であった。しかし 17 世紀
藩である。文英吉は『奄美大島民謡大観』の
末を境にして、ブルターニュはフランス政府
なかで次のように言う。
25
奄美ニューズレター
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「慶長十四年我が奄美大島史の舞台が一変し
時代は幕末の四十年間にすぎず、それを二百
て島津の圧制下に置き換えられることになっ
数十年間の薩摩支配時代全体に拡張して語る
てから廃藩置県に至る迄二百六十年、この時
のは明らかに誇張なのである。たとえば、奄
代こそは我が民族が精神的に物質的に癒すべ
美民謡研究家の小川学夫は奄美民謡の本質が
からざる傷手を受けた最も呪はれた民族受難
悲哀性にあるとする考えに再考を促し、「『奄
の時代であり、悲痛、暗黒な民族性と人生観
美民謡の悲しい響き=薩摩圧政』という図式
の持ち主たらしむる迄にその運命を打ちのめ
はもしかしたら島の近代知識人が生んだ幻想
された最悪の時代であった。
の最たるものではないか」と問いかける。小
極端なる搾取と過酷なる圧迫とに如何に島
川の説に賛同する研究者も少なくないが、し
民は泣かされたことか。
(……)実に二百六
かしこの圧政説がいまなお島の「常識」の一
十年の永い間奄美大島には太陽の光を失ひさ
部であることは確認しておかねばなるまい。
ながらの生き地獄が展出されたのであった。
一方、ブルターニュにおいても、
『バルザ
素より芸術的天分には恵まれている民族であ
ズ・ブレイス』に収録された反フランス的な
る。流属時代とは別な意味に於て非常に歌の
歌の大半は、いまでは著者の捏造であること
勃興した時代である。明治以来殆んど一つの
が明らかになっている。しかし、だからといっ
歌謡を生み出し得ない吾々である。然るに薩
てブルトン人から反フランス的な志向が消え
摩時代百年から二百年に於て如何に多くの歌
るわけではないし、民謡がその象徴と見なさ
曲が生まれ出たことよ。
(……)薩摩時代の
れることはいまなお珍しくない。もちろん、
悲痛深刻な民心の反映、即ちその時代の苦難
それがどこまで本気で信じられているかはま
の空気をシンボルしたのが我が民謡の持つ全
た別の問題だが、奄美であれブルターニュで
階調と云っても過言でない位である」。
あれ、一度沁み込んだ抑圧史観は簡単に消え
去るものではないということだけは付け加え
さらに茂野幽考は『奄美民謡註解』でこう
ておく必要があろう。
言う。
「奄美大島の島々に住む二十万余の島の人
民謡ブームの背景
達は、其昔慶長十四年から明治四年の廃藩置
県に至る、二世紀半の間、血も涙もない、薩
さて、ブルターニュ民謡が世の中に知られ
摩藩の代官政治の下に在って、奴隷生活をつ
るようになったのは 19 世紀であることはす
づけ苦しみの限りを嘗めつくして、不幸な厭
でに述べた。しかしそれはあくまでもブル
世的宿命的人生を送って来た、世にも哀れな
ターニュ以外の土地で、とりわけパリで知ら
一つの民族が、永い間南海の孤島に閉じ籠っ
れるようになったということで、この出来事
て、只日日の生計の苦しみと、山に毒蛇、海
をきっかけにブルターニュで以前にも増して
に暴風、恁うした自然的恐異に、おののきな
民謡が盛んになったというわけではない。た
がら、果敢ない人生を見つめ其悲しみを慰め
しかに、ラヴィルマルケの影響で民謡の収集
るものは、酒と蛇皮線と恋と歌であった」。
は盛んになった。しかし民謡そのものは、実
際にはその後の社会構造の変化によって徐々
奄美民謡特有の哀感を薩摩の圧政と結びつ
に生活の場から姿を消していくのである。
ける説は、おそらくシマウタにまつわる学説
のなかでもっとも人口に膾炙しているものの
農村文化の後退が進んだ 20 世紀初め、フ
ひとつだろう。しかしながら、近年この圧政
ランスの都市住民のあいだで農民フォークロ
説は旗色が悪い。史実によれば、薩摩藩が島
アのブームが起きる。ブルターニュでもそれ
民を搾取したと伝えられる過酷な砂糖地獄の
に乗じてフォークロアを呼び物とする祭りの
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奄美ニューズレター
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創設が相次いだ。それは観光ブームの到来と
奄美民謡においてスティーヴェルと似たよ
ともにその数を増し、ブルターニュ各地には
うな役割を果たしたのは、やはり元ちとせだ
伝統的な歌や踊りの保存を目的とする「ケル
ろう。瀬戸内町喜徳の出身で中学生の頃から
ト・サークル」と呼ばれるグループが現れは
本格的にシマウタを習い、96 年に弱冠 17 歳
じめる。もっとも、民謡の伝承という点でさ
で奄美民謡大賞を受賞して将来を嘱望された
らに重要なのは 1950 年代の「フェス・ノス」
彼女は、知られるように 2002 年にメジャー
の復興だろう。ブルトン語で「夜祭り」を意
デビューするや、その独特の歌声で大きな話
味するこのフェス・ノスは、かつて厳しい農
題になった。曲はスティーヴェルのように民
作業が終わった後の農民たちの気晴らしとし
謡をアレンジしたものではなかったが、シマ
て、ブルターニュ中部で盛んに行われていた
ウタ特有の裏声を多用したその歌唱は、彼女
祭りだった。「カン・ア・ディスカン(歌と
の基礎にある奄美民謡の魅力や独自性をア
返し歌)
」という民謡に合わせて人々がガボッ
ピールするに十分なものだった。それまで沖
トを踊るこの祭りは、農作業の機械化によっ
縄民謡の陰に隠れていまひとつその個性を認
て衰退したが、それまで踊りの輪のなかにい
知されなかった奄美民謡は、彼女の活躍に
た歌手をマイクの前に立たせることで新しく
よってその存在を大きくクローズアップされ
蘇ったのである。踊りの場所も野外からダン
たと言っていい。
スホールや公民館などの室内に移り、かくて
もっとも、元の登場はそれ自体がシマウタ
新生フェス・ノスは地域の交流に最適の娯楽
の変化の証しだった。知られるように、シマ
として 60 年代を通じてブルターニュの各地
ウタはもともと労働や歌遊びなどを伝承の場
に広まることになった。
としながら、文字通り島の生活の一部として
しかし今日のブルターニュ民謡の人気を決
歌い継がれてきたものであった。しかし 1960
定的なものにしたのは、なんといってもアラ
年代を境として、そうした伝統的な伝承形式
ン・スティーヴェルの活躍だろう。1944 年
は衰退を余儀なくされる。生活様式の変化や
にブルトン人の息子としてパリで生まれ、10
娯楽の多様化によって、いつしか歌は生活の
歳にして父の制作したケルティック・ハープ
場から切り離されて一部の歌の上手な人のも
を弾きこなしたスティーヴェルは、1970 年
のとなり、伝承の場も教室に限られるように
にブルターニュの民謡や舞曲を現代風にアレ
なっていった。こうした動きをさらに加速さ
ンジしたアルバムをヒットさせ、70 年代前
せたのが、レコードやコンクールの登場だっ
半を通じて破竹の活躍を見せる。街のカフェ
た。かつては集落(シマ)ごとに歌詞や節回
やジュークボックスからはブルトン語で歌う
しが異なっていたというシマウタは、南政五
彼の歌声が流れ、ブルターニュ民謡はフラン
郎や武下和平らのレコードを多くの人が模倣
ス中に知られることになった。この出来事が
することで均質化し、次第に全島を対象とす
ブルターニュの人々にもたらした影響は大き
る「島唄」へと変わる。その一方で、全国的
かった。とくに若者たちに与えた影響は目覚
な民謡大会で優勝する唄者の出現は、また島
ましく、彼らが祖先の文化に目を向け、ブル
民の誇りともなった。瀬戸内のシマウタ教室
トン人としての誇りを抱かせるきっかけと
で学び、島の民謡コンクールで優勝した元ち
なった。そして、この<スティーヴェル革命
とせの背景にあったのは、こうした様変わり
>は伝統的なブルターニュ民謡そのものを、
したシマウタ界の状況だったのである。
さらにはそれを歌う歌手たちを表舞台に登場
させることになったのである。
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奄美ニューズレター
№ 29
民謡の現在
2006 年 12 月号
リでも「ケルトの夜」を始めとする、ブルター
では、この二つの地域で民謡はいまどのよ
ニュを中心としたケルト圏のミュージシャン
うな状態にあるのだろうか。まずはスティー
による大規模なコンサートが少なくない。こ
ヴェル以後のブルターニュから見よう。彼の
のように地理的にはフランスの一地域であり
活躍はブルターニュに幾つかの具体的な成果
ながら、音楽的には他国の諸地域とつながっ
をもたらした。まず 1971 年にロリアンで始
ているというのも、ブルターニュ音楽の特徴
まった「インターケルト・フェスティヴァ
のひとつだろう。そして現在のブルターニュ
ル」である。この音楽祭は順調に発展し、今
民謡は、こうした大きな流れの一部として考
日では世界屈指のケルト音楽の祭典として知
えなければならないのである。
られている。いまひとつは翌 1972 年に設立
一方、奄美の音楽状況も元ちとせの活躍を
された「ダステュム」である。ブルターニュ
きっかけとして大きく動き始めている。彼女
の口頭伝承の収集を目的として設立されたこ
がデビューした 2002 年には東京で「奄美フェ
の組織は、いまやブルターニュ全県に支部を
スティヴァル」が開催され、以後毎年恒例と
もち、口承文化の振興と保存に努めている。
なって現在も続いている。ライブハウス規模
これまでに音源として集められた歌や民話は
のコンサートや沖縄の音楽とのコラボレー
三万以上、録音の総時間は六千時間を越え
ションも含めれば、ここ数年の本土での奄美
る。78 年には機関紙『ミュジック・ブルト
関係のイベントはかなりの数に上るだろう。
ンヌ』も創刊し、民謡のみにとどまらずブル
奄美でもライブハウス「アシビ」を中心に活
ターニュの口承文化を語る際には欠かすこと
動が盛り上がり、2006 年には本土のミュー
のできない存在である。さらに 1973 年に始
ジシャンも参加して「けぃんむんマンディ」
まった「カン・アル・ボブル(民衆の歌)」
という大規模な音楽イベントが開催された。
も忘れてはならない。これまでにヤン・ファ
こうした動きは伝統的な民謡の世界にも如
ンシュ・ケメネールやアニー・エブレル、デ
実に反映されている。元のデビューした 2002
ネス・プリジャンなどの名歌手を輩出したこ
年を境として、島の民謡教室はもとより本土
の民謡コンクールは、いまなおブルターニュ
のシマウタ教室でも生徒の増加が目立つとい
の歌手の登竜門として多くの才能を発掘して
う。たとえば、最近メジャーデビューした中
いる。
孝介も元の活躍をきっかけにシマウタを始め
ブルターニュでは民謡の他にも、
「バガド」
た一人である。これまで生徒といえば奄美出
と呼ばれる楽団による伝統的な木管楽器の演
身者に限られていた首都圏のシマウタ教室で
奏や、伝統音楽をベースにしたロックやジャ
は、奄美と縁もゆかりもない若者がシマウタ
ズも盛んである。加えて民謡とジャズ、バガ
を始めるケースも珍しくないらしい。本土在
ドとロックなど他ジャンルとのセッションも
住の奄美出身者が周囲を気にして、布団を被
活発に行われている。さらに特筆すべきは、
り雨戸を閉めてシマウタを聴いていた時代と
アイルランドを始めとするケルト圏の地域と
比べれば、まさに隔世の感がある。
の交流である。こうした地域のミュージシャ
もっともこうした状況を喜んでばかりもい
ンとともに録音され、1990 年代後半に大き
られない。若い唄者が民謡をロック風にアレ
なセールスを記録したダン・アル・ブラース
ンジしたり、他ジャンルとセッションしたり
の CD『ケルトの遺産』はその象徴だろう。
する風潮を「歌が荒れる」と危惧する人は少
ロリアンにおける「インターケルト・フェス
なくない。彼らの間に広がるメジャー志向も
ティヴァル」はもちろんのこと、最近ではパ
「歌は商売にするものではない」と説いてき
28
奄美ニューズレター
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た年輩唄者の眉をひそめさせる。加えて、彼
でも、ブルターニュの例は多少なりとも参考
らのシマグチに関する知識不足を憂い、奄美
になるかもしれない。
民謡の基礎にある歌掛けの衰退を嘆く声も聞
最後にひとつ。ブルターニュでは「ケルト
こえてくる。伝統的なシマウタを継承しつ
音楽」が世界的なブームになって以来、音楽
つ、いかにして新しい世代を取り込んで裾野
の商業化を嘆く声が多い。高名な民謡歌手が
を広げていくか。奄美民謡はいま新たな局面
「売れない」というただそれだけの理由で、
を迎えているのかもしれない。
レコード会社から CD の制作を断られる例も
あると聞く。民謡がブームになるのはかまわ
おわりに
ない。しかし民謡に市場原理は馴染まない。
これだけは奄美が同じ轍を踏まないよう祈り
以上、奄美民謡とブルターニュ民謡を比較
たい。
対照させながら論じてきた。もちろん、三百
万人が住むフランス本土の半島と人口十万に
<参考文献>
満たない日本の離島を同列に論じるわけには
いかないし、歴史や文化の違いについてはも
茂野幽考『奄美大島民俗誌』復刻版、歴史
とより指摘するまでもない。にもかかわら
図書社、1978 年(初版、岡書院、1927 年)
ず、マイナー文化をいかにして存続させるか
同
という共通の問題について、奄美がブルター
年
ニュから参考にし得ることは少なくないだろ
文英吉『奄美大島民謡大観』復刻版、私家
う。
版、1983 年(初版、南島文化研究社、1933
『奄美民謡註解』
、奄美社、1966
年)
たとえば、「ダステュム」である。同様の
組織を奄美民謡についても創れないものか、
小川学夫「奄美における近代知識人の民謡
と考えるのは筆者だけではあるまい。過去に
観」『奄 美 文 化 を 考 え る』
、海 風 社、1990
収集された音資料を体系的に集めて、
「ダス
年
テュム」がそうしているように、デジタル化
中原ゆかり「奄美の島歌」『アジア遊学』
してインターネットで発信することができれ
53、勉誠出版、2003 年
ば、研究者や愛好家のみならず唄者にとって
『島唄の風景』、南日本新聞、2003 年
も益するところは大きいだろう。
「ラウンドテーブル<ボーダーを越えるシ
加えて、
ことばの問題がある。ブルターニュ
マウタ―奄美・沖縄・東京>」『口承文藝
民謡が歌われるブルトン語は、近年話者の減
研究』第 28 号、日本口承文藝学会、2005
少が著しいマイナー言語であり、現在その消
年
滅を避けるために言語復興運動が盛んであ
『しまうたの未来』
、南太平洋海域調査研
る。とくに民謡歌手にはブルトン語のネイ
究報告
ティブが多く、ブルトン語教材の録音などさ
ンター、2006 年
まざまな形でこの復興運動を支えている。少
GOURVIL Francis, Théodore−Claude−Henri
数言語で歌われる民謡の場合、その言語の話
Hersart de la Villemarqué et le <<Barzaz−
者の減少はそのまま歌の存続に響く。幸い最
Breiz>>, Oberthur, 1960.
近は奄美でもシマウタとシマグチの問題がパ
GUÉNÉGOU Yann, <<Dastum : la mémoire du
ラレルに語られる機会が増えているが、シマ
futur>>, Armor, 34−35, octobre 2002.
ウタの注目度に比べてシマグチのそれがあま
Musique bretonne, Le Casse−Marée/ArMen,
りにも小さいという印象は否めない。この点
1996.
29
No.44、鹿児島大学多島圏研究セ
奄美ニューズレター
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■しまゆむた
奄美の民俗文化研究の課題覚書
本田
Ⅰ
碩孝(徳之島郷土研究会会長)
はじめに
筆者は先学諸氏の業績に学びながら奄美を中
奄美諸島(以下全体をさす場合奄美とす
心とした民話の採録を試みており、多くの
る)に関する研究の成果は諸分野にわたり多
方々から御教示をいただいている者である。
くの蓄積がある。平成 6 年発行文献目録だけ
奄美での分布、変容、分類上孤立伝承話の記
でも 300 頁近くもあり「目録を数えてみます
録の可能性、生活史との関係、資料の整備等々
と、約 6 千項目、まことに奄美は資料の山、
から必要だと考えるからである。鹿児島県下
宝庫の感がします」(注 1)。民話(注 2)に関
では奄美は民話集も多く発刊されおり、伝承
しても民話集、研究書を数えると 30 冊ほど
も豊であると思うが、奄美に限定してみると
発刊されているほどである。1 郡でこれだけ
資料の収集、整備はまだまだ必要であるとい
あればすばらしいものであり、民話を中心に
う立場である。民俗文化資料の一部は関係者
した民俗文化に関心を持つ者にとって喜ばし
の御指導、御協力を得て公刊する機会にめぐ
いことである。有馬英子著『かごしま・民話
まれている(注 4)。学ばせていただいてい
の世界』(春苑堂出版 2003 年)でも奄美での
る者として奄美の民俗文化研究について課題
採録体験から紹介している。
になること、疑問に思うこと等がある。フィー
名瀬市にある鹿児島県立図書館奄美分館に
ルドの重点にしている徳之島が中心になると
は奄美関係資料目録が発刊され数万点あると
思うが、若干の提示をさせていただきたい。
聞いたこともあるが、鹿児島県立図書館本館
注
や鹿児島大学図書館には奄美という地域の研
1)奄美文庫 3『奄美関係資料目録』
一俊著
究資料が十分に備えられているとは思われな
奄美財団
入佐
1994 年
い。収集には困難な状況があるとは思うが奄
2)民話についての考え方はいろいろ提示さ
美は日本民俗文化研究で大きな位置を占める
れているが、神話、伝説、昔話、世間話な
琉球文化圏に入り、特別な地域である以上
ど民間説話の総称とする。民話集・研究書
(「沖縄で奄美を考える会」の存在など)、資
名など一部省略。
3)『日本民俗学概論』福田アジオ
料の収集にも努力を期待したいものである
吉川弘文館
宮田登
(注 3)。因みに鹿児島大学図書館本館で奄
編
昭和 58 年
美の項目が約 120、徳之島に限定してみると
『ヤマト・琉球民俗の比較研究』下野敏見
30 ほどのようである。また、民俗文化さら
著
に民話という分野に関する資料はもっと少な
『ヤマト文化と琉球文化』下野敏見著
い感じを持つのは筆者だけではないだろう。
PHP 研究所
法政大学出版局 1989
1986
何十万点もある資料でもある地域に限定する
4)奄美民話集 1∼6(一部本名後記)他
と乏しさを感じる状況にあるのは否めない。
阿久根市「尾崎の民話」、民俗誌等々
いつでも資料を見る機会を得ることは離島の
「徳之島の民俗文化研究課題覚書」として
多い鹿児島県では地理的、時間的、金銭的な
『民俗文化研究』現在第 7 号同研究所、
制約を受けているのが現状である。
『徳之島郷土研究会報』現在第 27 号、
『鹿
30
奄美ニューズレター
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2)『神なき時代の民俗学』小松和彦著
児島民俗』誌現在第 130 号、
『鹿児島民具』
りか書房
現在第 18 号(題名は省略)
せ
2002 年
3)民謡に関して小川学夫著『奄美民謡誌』
Ⅱ
奄美における「民俗」とは
『歌謡の民俗―奄美の歌掛けー』等々の資
料や酒井正子著『奄美歌掛けのディアロー
民話の採録をしていて「民俗文化」とは何
グ』他論文等々での資料。明治大学、法政
だろうと思うことがある。
奄美で個人の民話集は 5 冊発刊されている
大学の調査実習報告書等々。県教委奄美地
が、その中 3 冊は筆者の編著による(後出)。
区民俗文化財緊急調査報告書 1(徳重重成
その過程で民話も当然民俗文化に入ると思う
分担執筆)等々(略記)
4)『徳之島の昔話』
が、筆者にとって「民俗とは、人が自然に向
社
かい合い、技術を駆使し、ことばを練り上げ
1972
田畑英勝
367 頁
『徳之島の昔話』 前田長英
て思想へと高めていく『生きていく方法』
」
(平成 5)年
であるからである(注 1)。
丸井工文
著作社
1994
338 頁
南島叢書 3 奄美諸島『徳之島の昔話』福田
学びの中で出会い、納得したのが次のとら
え方である。「『民俗』とは客観的存在ではな
晃
岩瀬博
松山光秀
徳富重成
同朋社
いのだ。昔はそれはどこにもなかったし、ど
2004(昭 59)年
こにでもあったものである。つまり、民俗学
『徳之島民話集』水野修
者が民俗的考察の対象として選びだしたもの
1976
が『民俗』なのであった」
(注 2)。具体的例
『徳之島むんがたり集』①
で示すと筆者の出身地徳之島の井之川(第 46
風出版
代横綱朝潮太郎出身地)は民俗文化のフィー
『徳之島伝説めぐり』付録母間騒動始末記
ルドとしても徳之島では注目され、若干の記
徳之島 2 大祭り
録が残されている集落だと思うが(注 3)、
修
450 頁
西日本新聞社
368 頁(下記は本書再録が多い)
水野修編
潮
2002 年(再話集)
潮風出版
むんがたり第②集
水野
156 頁(再話集)
5)奄美民話集 3『池水ツル嫗昔話集』拙編
徳之島の民話集既刊 5 冊(注 4)に関しては
語り手・民話がほとんど記録されていなかっ
郷土文化研究会 1988
332 頁
たのである。筆者は自分の伝承体験と採録者
奄美民話集 5『保マツ嫗昔話集』本田碩孝
としての視点から井之川のインテンシブな調
郷土文化研究会
査を目指し、少しずつ採録を重ねている。民
奄美民話集 6『本田メト嫗の昔語り』本田
俗文化に関して個人の語りを 3 冊出版する機
碩孝
1992 年
郷土文化研究会
219 頁
1998 年
368 頁
会に恵まれたほど豊かに伝承されていた(注
Ⅲ「奄美の民俗文化」研究の課題
5)。まさに小松和彦氏の述べるとおりで採録
1 民俗語彙から
者が記録する機会に恵まれなかったのである
と思った。
「徳之島は不思議な島である」(『徳之島の民
注
謡』久保けんお著
1)現代民俗学の視点 3 第 3 巻
『民俗の思想』
年)という琉球旋法の境界からみた指摘に納
NHK 鹿児島放送局
1966
宮田登編、朝倉書店、1998 年
得しての学びの旅である。その不思議に思う
『国立歴史民俗博物館研究報告』第 132 集
語彙をいくつか紹介したい。
民俗学における現代文化研究所収「<生き
(1)アムトゥガミ
る方法>の民俗学へ」島村恭則著
「アムトゥという場所に宿るカミ」である
国立歴
と沖縄研究の視点から渡邊欣雄氏の指摘があ
史民俗博物館 2006 年
31
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
子が分かる。
る。筆者もそう思うが、火の玉が A アムトゥ
から B アムトゥに通う。カミの通り道は今
(2)イビガナシ
でも塞いでいない等々の伝承や昭和 18 年の
大火の前にアムトゥの木が枯れたとか(井上
イビガナシは、井之川でウキボジガナシと
カナ嫗の体験)、火事当日に風向を変えるよ
いう漂流神との複合が考えられる。徳之島で
うに祈願したら変わったなどの(何人もの)
は現時点で 4 集落にしか分布していない。
伝承に出会うと不思議感がつのる。250 戸は
大島本島での記録に、
どの全家庭にはまつられずアムトゥ 12 カ所
しまぬいべがなし
(ジガミ 100 カ所)ほどフージュウガン(大
なぬかななゆる
しままもてたぼれ
いわておせろ
(共通語訳)
きな集落中祈願・直試訳)の時に集落代表(区
長)がアムトゥを祀っている家に米とサケィ
郷土の守護神よ
(焼酎)を配達して頼む。12 カ所にはアム
七日七夜を
郷土を守り給われ
斎って上げましょう
トゥと通称しない他の信仰対象が祀られてい
注書きによると、「いべ」は斎(いみべ)
る場所(テラ・イビガナシ)もある(注 1)。
の訛りで鎮守の森のようなもの。
「いべがな
伊仙町上面縄では、ある一族の信仰対象の
し」でそこの主神の意。「おせろ」は奉る、
ようであり、詳しく報告されているが(注
差し上げるの意。(注 1)
2)、井之川では集落の祈願などの信仰対象に
とある。「いみべ」は「いんべ」とあり、斎
なっている。集落神→分散し一族神→現在の
部であり、「鎮守の森のようなもの」という
集落神への変化の可能性もあるが、課題であ
意味は『広辞苑』では見つけきれない。
奄美大島龍郷の八月踊り歌などで島建ガナ
る。
シ(尊称)などの伝承(1980 年村田権熊氏御
松山光秀氏は『徳之島の民俗 1 シマのここ
教示)がある。
ろ』(未来社 2004 年)では徳和瀬では垣根を
「屋敷の東南の角・・ところには少しアム
井之川でイビガナシとして祭っているの
トゥ(植木)を残したほうがよい(212 頁)
」
は、ウキボジガナシが乗って来たと言う民話
と述べている。井之川のアムトゥと関係があ
のある直径 80 cm ほどの赤味がかった石で
りそうである。垣根のような囲いなどのこと
ある。ウキボジガナシは洞穴に入り、そのま
をアムチと言う言葉が徳之島の数集落で聞け
まいなくなったという伝承が残る。徳之島の
るが、アムトゥとの関係はどうなのか。
伝承を訪ねると「イビ」になるとは、使いに
外に山下欣一氏の若干の報告があるが徳之島
やって帰りが期待される時刻になっても帰ら
や他の島々での調査が十分なされていないよ
ない状態をさす(現在では「鉄砲弾なてぃ・
うに思う(注 3)。
なった」が使われる)ことや同じ状態を「ギィ
注
キンチケィ=ギィキィというヒバリに似た小
1)松原武実「井之川のアムトとジガミ」『南
鳥の使い」とも徳之島のいくつかの集落で伝
日本文化』第 34 号 2002 年
承される。天に使いにやったのに帰ってこな
増田勝機氏、徳富重成氏の報告もある
い。今でも上ったり、下りたりしていると言
う。『古事記』の「きぎすの使い」の古形で
2)徳吉ゆい「上面縄の信仰」
『シマ』第 3
はないかと思うほどである。
号琉球大学民俗学実習調査報告書 00 年
3)崎田光演「アムトゥとアムトゥ神」(『奄
奄美での他の島々ではどうなのだろうかと
美沖縄民間文芸学』第 6 号同学会 2006 年)
思う。山下欣一氏は「聖地」(注 2)で「イベ
には文献と採録から沖縄県も含む奄美の様
ガナシとアモトガナシ」を取り上げている。
32
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
瀬戸内町須子茂の「ミヤ」に立つイベガナシ
すでに研究報告もあるが、思いつくままを
は八月十五夜、旧暦九月九日に相撲が行なわ
記して現在の課題としたい(詳しくは省略)。
れるときは「縄を張りめぐらし、さわらない
注
ようにしておく。
」さわると怪我をするとさ
1)治井秋喜『徳之島郷土研究会報』24
れる。また「ネリヤから来臨された神が滞在
2)『奄美の生活とむかし話』長田須磨著
小峰書店 1984 年所収。伝承者名無し)
される」と言う。
「鎮守の森のようなもの」
とは違う印象である。
瀬戸内町油井では「ミヤ」のガジマルの下
3 むかし語り
に 4 個の石がある。
「聖地としての信仰は薄
れている」と山下氏は述べるが「鎮守の森」
奄美諸島ばかりでなく鹿児島県下の昔話を
的であるように思う。後の事例は徳之島の徳
集成したのは稲田浩二、小澤俊夫責任編集『日
和瀬や井之川について記している。
本昔話通観』25(1980 年版)である。それ以
後も昔話の採録は続いており、成果も発刊さ
「鎮守の森」的であれば、ノロ信仰などに
れている。
よって呼称が変わったかもしれないが、筆者
は徳之島のアムトゥガナシは同族的信仰対象
伝説については『日本伝説大系』
(みずう
から集落的信仰対象に変わってきたのではな
み書房、後記)で本土と奄美は別々に集成さ
いかと思っている。聖地は他の島々、シマジ
れている。奄美は『南島篇』に沖縄県の分と
マにもあるはずであり、アムトゥという民俗
ともに分類されている。
昔話は、『日本昔話通観』25 鹿児島の分類
語彙の記録などはどうなのか課題である。
注
法である「むかし語り」「笑い 話」「動 物 昔
田畑英勝・
話」だけでも議論があるだろうし、それぞれ
角川書店 1979 年
の項目、一つひとつの話型でも研究の蓄積が
1)『南島歌謡大成』Ⅴ奄美篇
亀井勝信・外間守善
325 頁
大島
あるのもあり、地方における者には全業績を
「あらしゃげ」元歌
なかなか閲覧できない状況である。ここでは
2)『沖縄・奄美の民間信仰』湧上元雄と共
著
明玄書房
1974 年
奄美での採録状況を管見の範囲で述べるもの
74 頁∼
であり、この通観の分類に従いたい。
むかし語りは、目次番号 1∼308 迄あり、
(3)その他
その中 孤 立 伝 承 話 は 244∼308 迄 65 話 で あ
①クドゥキ(口説)が徳之島では 15 曲ほど
る。65 話中 41 話(63%)が奄 美 で の 採 録 で あ
記録されている。
②ナガレ歌が大島で 70 曲ほど記録。
る。これだけでも奄美の伝承の豊かさがうか
③ハブの民話(報恩、徳之島シュンカネィ節
がえる。話型を市町村別(採録時の呼称を使
う)に瞥見したい。
由来)(注 1)徳之島で記録。
④クロウサギの民話を知らない。
与論町「女中と火霊」「力持ちと幽霊」
⑤県鳥であるルリカケスの民話を 1 話しかし
知名町「馬の卵」「夫婦玉」「継子の汐汲み」
和泊町「馬の皮占い」「歳の夜の御器」「桃太
らない「ルリカケスの恩返し」(注 2)
郎」
⑥為朝伝説では子供が瀬戸内町の実久三次郎
伊仙町「兄と弟」「夫無情」
だけしか知られていない不思議。
⑦線刻画があるのは徳之島だけ(5 ヶ所ほど)
。
徳 之 島 町「犬 の 眉 毛」「う な り 神 の 由 来」
「コーイどんと鬼娘」「飛び船」「鳴る瓶」
⑧牛の民話が「牛喰れ按司」など徳之島にあ
「日招き女」
るが、「もの言う牛」は徳之島にない。
33
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
(1)大和村(3)
瀬戸内町「月の子」
⑤――のみの運(1)喜界町(1)
宇検村「女は豚」「金持ちの鼠と貧乏人の鼠」
「蛙報恩」「ケンムン婿入り」「小指太郎と
⑥――夫婦の運(1)徳之島町(1)
鬼」「鶏の呪言」「貧乏神」「本妻と妾」
⑦――水の運(1)天城町(1)
大和村「鬼の家」「兄弟と虎」「兄弟と椎の実
分布状況をみると採録の必要性があきらか
取り」「猿女房」「猫の鼠退治」「猫のねた
である。筆者も若干の報告をしている(注
み」「若殿と炭焼き娘」
1)。
「のみの運」徳之島(1)宇検村(1)住用村
名瀬市「三人兄弟の梅とり」「虎報恩」「娘と
(1)龍郷町(1)
残り茶」
喜界町「隠れ里訪問」「亀報恩」「枯 骨 の 不
の採録体験から大島本島、徳之島での分布が
運」「三人兄弟の嫁求め」「爺の小箱」「継
明らかになった。他の島々での採録が課題。
子と白鳥」(注 1)
注
1)奄美諸島の運定め話―虻と手斧型―『鹿
(注)本来、むかし語りの内容の紹介をしな
ければいけないと思うが紙数の都合で難しい
児島民俗』第 57 号
1982 年
ので関心のある方は紹介書での確認をお願い
奄美諸島の運定め話『南島
したい。
化』南島史学会
その歴史と文
1982 年
奄美民話集 4『奄美民話ノート』に再録。
最初に「運定め話」が掲載されている。下
もう少し話型をみよう。
記のように本土でも奄美でも採録されている
が、少し詳しくみると①∼⑦で分布にかなり
蛇婿入り 9 話型 …………(本土 22:奄美 15)
偏りが見られる。
難題婿 12 話型 ………………………(13:16)
「運定め話」57 話 ……(本土 23:奄美 34)
大歳の客 5 話型 ………………………(11:18)
①――水の神 …………………………(16:2)
天道さん強い綱 3 話型 ………………(13:10)
②――男女の運 ………………………(2:1
5)
姉は鬼 4 話型 …………………………(10:14)
③――圧死の運 ………………………(0:9)
姥捨て山 9 話型 ………………………(11:8)
④――寿命延ばし ……………………(1:5)
天人女房 6 話型 ………………………(3:1
8)
⑤――のみの運 ………………………(3:1)
話型によってそれ程本土と奄美の記録話数
⑥――夫婦の運 ………………………(2:1)
に偏りがみられないのもあり民話伝承の面白
⑦――水の運 …………………………(0:1)
さを感じさせる。不思議である。
話型によっても採録のされ方にかなりの特
4 笑い話
徴が指摘できる。
奄 美 で 採 録 さ れ た 34 話 の 分 布 状 況 を み
笑い話は、309∼538(形式譚 13 話型 26 話
る。(括弧内は類話と参考話の採録話數)。
を含む)迄あり、その中孤立伝承話は 449∼
①――水の神(2)参考話、大和村(2)
525 迄 77 話。77 話 中 16 話(21%)が 奄 美 で の
②――男 女 の 運(15)徳 之 島 町
(2)伊 仙 町
採録である。奄美での笑い話の伝承は、むか
(3)喜界町(1)知名町(2)和泊町(2)
し語り孤立伝承話で述べた豊かさに較べると
参 考 話、宇 検 村(2)大 和 村
(1)与 論 町
記録が少ないことがうかがえる。これが採録
(1)和泊町(1)
者の姿勢により採録されなかっただけなのか
③――圧死の運(9)住用村(2)宇検村(1)
は課題である。孤立伝承話の話型を市町村に
喜界町(1)瀬戸内町(4)徳之島町(1)
見てみよう。
④――寿命延ばし(5)喜界町(1)徳之島町
和泊町「鼻の穴は下向き」
34
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
徳之島町「三尺わらじ」「二度のおどし」「墓
奄美大島
場の草」
瀬戸内町
宇検村「牛の金玉二つ」「下女 と 魚」
「松 山
1980 年発行稲田、小澤編著には「ひなた
山系話」は掲載されていないようである。
鏡」
大和村「女の知恵」「坊主売り」「嫁の出口」
「六助と狐」
大和村
名瀬市「老人は茶の実」
①
奄美大島「おじさんに習え」
言葉のごまかしー 309 鴨の大根。
喜界島「頭の池」「欲ばり損」
(大和村津名久『福島ナヲマツ昔話集』
住用村「のど焼き山」
有馬英子編著 1973 年)
日当山(鶴の吸物)
殿様が知恵のある男と何人かの客を呼び、
孤立伝承話以外の分布状況をみる。
言葉のごまかし 28 話型 …(本土 49:奄美 7)
知恵のある男だけに鶴の吸物と称して大根汁
和尚と小僧 17 話型 …………………(55:13)
を食べさせる。男は「鶴が毎晩来るので撃ち
物の名忘れ 3 話型 ……………………(26:8)
にこい」と殿様を案内し、大根畑に連れて行
勘違い 8 話型 …………………………(11:1)
く。殿様が「大根ではないか」と言うと、「殿
ほら話 3 話型 …………………………(6:5)
様の家で食べた鶴はあれだった」と言った。
難題婿 7 話型 …………………………(27:14)
②
話型により本土と奄美での伝承に偏りがあ
日当山(月見)
るようだ。
「日当山の話」は、鹿児島県を代
言葉のごまかしー 310 紙袋の米
表する笑い話であり、注目している話である
(大和村津名久『福島ナヲマツ昔話集』
が、奄美ではどのような伝承にあるか少し詳
有馬英子編著 1973 年)
しく見よう。奄美での変容などの関係でひな
トクダウービ(徳田太兵衛)が「寝転んで
たやま等のかな文字を使う。
「大島のひなた
月をみることができる」と言うので、殿が見
やま」という人もおられる(中条森雄氏
に行くと天井がない家である。殿が「家を建
検村
宇
てる金をやるから紙袋を持ってくるように」
1980 年代に御教示)
と言うと、大きな紙袋を持ってきて金倉の上
奄美における「ひなた山」系話
にかぶせる。殿は倉をやった。
はじめに
③
ここでは、鹿児島本土ではかなり知られて
上真綿と上馬わた(梗概)
いる「日当山侏儒どん話」と関係のある「奄
言葉のごまかしー 324 じょうまわた
美諸島におけるひなた山系話」の状況につい
文
て管見の範囲で述べるものである。本土系の
宇検村のある男に役所から「じょうまわた
話だろうと思うので奄美への伝播状況の把握
を上納せよ」命令がきたので、男は馬を殺し
をめざしている。なお、
「日当山侏儒どん話」
て持って行った。「『上馬わたを納めよ』い言
の規準は検討が必要であると思うが、稲田、
われますので、命から二番目の愛馬を殺し、
小澤も伊地知信一郎著『日当山侏儒どん』
わた(腹)を持ってきました」と言うと、「上
(1973 年)の報告を資料目録にしているので
馬わたではなく上真綿だ」と言う。男が「上
1980 年時点の稲田、小澤編書をもとにした
真綿を上納しますので、馬を弁償してくれ」
い。奄美でどのような話が記録されているか
と言うと、「まちがいは両方の責任、半分け
紹介しよう。
だ」と上真綿の上納は免除される。男は役に
35
英吉『奄美大島物語』1957 自刊
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
たたないやせ馬のわたを持って行ったので、
なくて葺き替えができるもんですか」と。仕
大もうけした。
(場所不明、宇検村に入れた)
方なしに一俵くれる約束をした。また庭石を
付けようとされ、二俵取られてしまった。応
喜界島
兵衛は旦那をだまして、立派な葺き替えをす
①
ることが出来たという事である。
片荷
言葉のごまかしー 309 鴨の大根
喜界町志戸桶
郎
浜畑行英
『鹿児島県喜界島昔話集』新
話記録 12
三省堂
②
(梗概)岩倉市
ひなた山
物の忘れー 354 団子婿
日本昔
富実禎(『喜界島昔話集』岩倉市郎採録)
1974 年
旦那が応兵衛をワヤク(からかう事)して
ひなた山という馬鹿な子供が、よそへ遊び
やろうと「雁が沢山取れたんで今晩雁開きす
に行って、いっぱいおいしい餅を食べた。初
るから是非くるように」と使いを遣った。応
めて食べたので、「何と言うのか」と聞いた。
兵衛は珍しい御馳走だと行った。一向にそれ
「これはムッチーという物だ」と教えられ
らしい気配がないが黙っていた。旦那は大根
た。ひなた山は、母にもムッチーを造らせよ
の煮たのをウンと出して、
「雁開きじゃ」と
うと、名を忘れないように「ムッチームッチー
言って食わした。応兵衛は「御馳走です」と
ムッチー」と言いながら家へ帰った。とちゅ
知らんふりして食べた。
うの溝を飛び越える時に「ヒットコサ」と掛
二、三日して応兵衛は、畑の竿に大根を沢
け声をだしたら、
「ヒットコサヒットコサヒッ
山ぶらさげておき、旦那の所へ行き、「旦那
トコサ」と言って家へ帰ってきた。母さん
様鉄砲を貸してください」と。旦那「どうし
「ヒットコサと言うおいしい物を造ってく
たのか」
。応兵衛「畑に雁が沢山います」と
れ」と言ったが、母はわからなかった。
言う。旦那が驚いて、自分が狩をしたいもの
だから鉄砲を担いで飛んで行ったら、大根
③
賭け話し
だった。
(話者なし)
(『喜界島昔話集』)
ある雨の日に、応兵衛が旦那の所に来て、
二人の話上手がかけ話をした。一人が「五
「旦那様旦那様、私の家は雨が降れば客が多
万の屋敷に八万の家作れ」と言うと、もう一
くて座る所もありません」と言う。旦那は、
人が「ゴマをまいた畑の中に蜂に巣を作らせ
「それは面白い俺も行ってみよう」
。家の中
ばよい」と答えた。次にもう一人が「高みか
は大変な雨漏りで座る所もない。旦那「これ
ら岩を落さば受け止めるか」と聞いたら、「ク
では暮らしもならんから、葺き替えしらんば
モの巣に引っ掛ければ受け止める」と答え、
いかん」。「味噌がないから葺き替えできませ
勝負なしになった。
ん」。「味噌甕を一本くれるから、明日取りに
来い」。応兵衛は喜んで翌日馬をひいて行っ
徳之島
た。旦那は味噌甕を一本くれた。応兵衛は、
①
馬の片方に付け、片方に庭石を付けようとし
物の忘れーあいさつ失敗
た。旦那が、「それだけはやめてくれ」と言っ
太良才真
金見(梗概)『徳之島の昔話』
て、もう一本の味噌甕をくれたので、二本貰っ
田畑英勝
1972 年
て帰って行った。
妻はたましきき夫はふれぃむんであった。
日当山
応兵衛がなかなか葺き替えをしない。旦那
親の家が新築された。妻は「いい気張りをな
が「どうしてしないのか」と聞くと、「米が
さいました。本当にきれいな家が出来ました
36
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
ね」と挨拶せよと教えた。外も教えたとおり
バタしていたところで、耳たぶを打たれた。
にして誉められた。数日後、牛が駄目になっ
家に帰って、「親の言うとおりにしたら打た
た。妻が、「この度は大変な損をなさいまし
れた」と言ったら、
「火が燃えている時には
たね。死んだ牛は仕方がないから肉の部分だ
水をかけて消すものだ」と教えた。火が燃え
けは切って売るようになさい」と、口上を教
ている時は水をかけるといいと思って歩いて
えてそのとおりにして「これはいいたましき
いたら、鍛冶屋が道端で火を燃やしながら鍬
きだと」と誉められた。ある日、運悪く妻の
作りをしていた。水をかけたら、鍛冶屋はカ
母親がなくなってしまった。妻は口上を教え
ンカンに怒って頭を割ったというが。
る暇もなかった。夫は前のように言えばほめ
られるだろうと、牛が死んだときのように挨
③
拶した。このふれぃむんはそこにいた人達み
言葉のごまかしー 329 はだかがえる
徳之島町金見元田永里『徳之島の昔話』
んなにさんざんたたかれ家から追い出された
そうな。ちょう
漁師の争い
田畑英勝 1972 年
うがさ。
老若の漁師がひとつのミノの所有で言い争
②日当山
廣田勝重
徳之島町花徳
いになった。勝負で決着をつけることにな
(梗
り、若者は刀を持って舟に乗り、老人は「は
概)田畑英勝『徳之島の昔話』1972 年
日当山が生まれて十三になったので、六尺
だかがえるという刀を持っているから」と、
褌を作ってやった。褌をしめて山へ薪拾いに
何も持たず舟に乗って出かけた。老人が「舟
行った。歩きにくくなったので褌はとってか
をつけるからお前はオモテ碇を瀬におろして
くし、行った。帰りに隠した褌が探しても見
こい。自分はトモ碇をおろすから」と言って
えない。ひょっと下の方を見ると墓に白い旗
若者をおろし、その間に老人は碇綱を切り、
がバタバタしている。褌を盗んで下げてある
若者をおいて帰ってきた。「はだかがえると
と走ってとろうとすると、葬式しているとこ
言う刀を持っている」と言ったのは、裸になっ
ろだった。「葬式旗をぬすむか」と旗竿で尻
て帰ってくるという意味だった。
をたたかれた。家に帰って叩かれた話しをし
たら、葬式をしているところでは「気の毒な
沖永良部
ことでしたね」とくやみを言わなければいけ
言葉のごまかしー鴨は大根
ない。「人がたくさん集まっているところは
和泊町内城・男
くやみをいうのか」と言った。
話』1940 年。
岩倉市郎『沖永 良 部 昔
ある日、遊び歩いていると、沢山の人が集
殿様が追田卯平に「鷹をふるまう」と言っ
まっていた。こういう所だと、表の方から入っ
て高菜を食べさせる。何日かして卯平が「原
て「本当に気の毒なことでしたね」と。「嫁
に鷹が四、五日前からおりているから撃ちに
をもらってめでためでたと喜んでいる所だ」
いきましょう」と誘うので、殿様が鉄砲を持っ
と、げんこつをかまされた。家に走って帰り、
ていくと、「以前にごちそうになった鷹がそ
あいさつすると、
「げんこつをかまされた」
こにおります。肥しをたくさん入れておきま
と。「人が歌ったり、踊ったりしている所で
した」と言った。
は一緒に歌ったり、踊ったりするものだ」と。
教えられたとおり思って行きよったら人々が
ひなた山系話が見つけ出せなかった文献
バタバタしている。「結構なことだと」と言っ
沖永良部
『おきのえらぶ昔話』著者岩倉市郎
て盛んに踊ったりしたら、火事の消火にバタ
37
財団法
奄美ニューズレター
人民俗学研究所編
№ 29
古今書院
『沖永良部昔話集』関
國昔話資料集成 39
児島市)中奄美 0 話
1955 年
敬吾編
鹿児島
岩崎美術社
319
全
南日本新聞開発センター編
言葉のごまかしー五万の屋敷
1 話中
奄美 1 話(喜界島)
1984 年
320
『知名町瀬利覚に伝わる昔ばなし』著者宗岡
里吉
2006 年 12 月号
言葉のごまかしー刺身にならぬ魚
1 話(志布志町)中奄美 0 話
1983 年
321
言葉のごまかしー三割負ける
1話
(隼人町朝日)中奄美 0 話
与論
『与論島の民俗語彙と昔話』栄
322
喜久元著
奄美社
1 話(隼人町朝日)中奄美 0 話
1971 年
323
『与論島民話集』町田原長採話
与論島民俗文化資料館
『与論のしまがたり』菊
324
千代著
1話
言葉のごまかしーじょうまわた
1話
中奄美 1 話(奄美大島)
1985 年
325
稲田、小澤編著にある「ひなた山系話」を
言葉のごまかしー島くらべ
1話
(長島町城川内)中奄美 0 話
1 話は見つけた文献(本文後記)
『郷土研究』第 2 号
言葉のごまかしーじゅうごんだ
(川辺町田部田)中奄美 0 話
1979 年
はる書房
言葉のごまかしー四斗樽に五斗入る
山一郎
326
1976 年
言葉のごまかしー尻をかぐ
「与論島民話話型一覧」『南島文化』創刊号
(薩摩地方)中奄美 0 話
沖縄国際大学南島文化研究所
327
(1979 年)
1話
言葉のごまかしー種はまぜらん
1話
(大口)中奄美 0 話
鹿児島県下における「ひなた山」系話の分類
309
言葉のごまかしー鴨は大根
328
言葉のごまかしーはしごはだいだい
1 話(隼人町東郷)中奄美 0 話
22 話中奄
美 3 話(喜界志戸桶、大和村津名久、沖永
329
良部和泊町内城、)
中奄美 1 話(徳之島町金見)
310
言葉のごまかしー紙袋の込め
330
6 話中
331
言葉のごまかしーすりこぎで家建て
332
言葉のごまかしー鉄積みは三味線
言葉のごまかしー石負い
333
1 話(志布
334
言葉のごまかしー一寸坊と六部
言葉のごまかしーうしてこい
335
1 話(大
言葉のごまかしー牛八匹
336
1話
言葉のごまかしー黒い輪の絵
言葉のごまかしー闇夜の黒砂糖
1話
言葉のごまかしーこの道は産
言葉のごまかしー指 1 本に隠れる田
337∼352「和尚と小僧」話部分を省略してあ
1話
る。
(隼人町朝日)中奄美 0 話
318
言葉のごまかしー山の男女 1 話(鹿児
1 話(川辺町君野)中奄美 0 話
(志布志町)中奄美 0 話
317
1話
(隼人町朝日)中奄美 0 話
口市春村)中奄美 0 話
316
言葉のごまかしー役立つもの
島市)中奄美 0 話
1 話(菱刈町)中奄美 0 話
315
言葉のごまかしーめじろ 1 話(鹿児島
(鹿児島市鼓川町)中奄美 0 話
志町)中奄美 0 話
314
言葉のごまかしーまたからするな
市)中奄美 0 話
2 話(隼人町東郷、鹿児島市)中奄美 0 話
313
言葉のごまかしー節穴をいきとおる
1 話(隼人町東郷)中奄美 0 話
2 話(国分市台明寺、同)中奄美 0 話
312
1話
1 話(鹿児島市)中奄美 0 話
奄美 1 話(大和村津名久、福島ナヲマツ)
311
言葉のごまかしーはだかがえる
353
1 話(鹿
38
ふとんは櫓
21 話中奄美 1 話(大和村
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
373「鼻 き き 男」8 話(下 甑 手 打 2 話)中 奄
津名久)
18 話中奄美 4 話
美 6 話(瀬戸内町蘇刈、奄美大島、伊仙町
(奄美大島、宇検村生勝、喜界町浦原、大
上面縄、宇検村生勝、知名町具志検、徳之
和村国直)
島町)
354
355
物の名忘れー団子婿
物の名忘れー買い物の名
374「グッチグヮチ」7 話(4 話)中奄美 3 話
4 話(川辺、
(徳之島町山、喜界町浦原、宇検村生勝)
国分 2 話、薩摩)中奄美 0 話
375「狐にだまされる話―馬の尻のぞき」5
356「あいさつ失敗」12 話中奄美 4 話(奄美
話中奄美 1 話(徳之島町花徳)
大島、喜界、徳之島金見、名瀬市柳町)
376「狐にだまされる話―馬の糞団子」1 話
357「勘違いーか が り 火」3 話(国 分 2 話、
(鹿児島市吉野)中奄美 0 話
有明町蓬原)中奄美 0 話
377「狐にだまされる話―山伏狐」1 話(有
358「勘違いー大縄小縄」2 話(長島町平尾
明町蓬原)中奄美 0 話
茅屋、菱刈町南浦)中奄美 0 話
378「しり」嫌 い 7 話(国 分、溝 辺、菱 刈、
359「勘違いーつーがんの皮」2 話(鹿児島
鹿児島犬迫、野尻、川辺、薩摩)中奄美 0
市)中奄美 1 話
379
360「勘違いー上と下」1 話(鹿児島市)中
茶の実
7 話(川 辺、菱 刈、大 口、十
島、鹿児島市、国分、薩摩)中奄美 0 話
奄美 0 話
422
361「勘違いーぜんとり」1 話(川辺町野間)
石を背中へ(原題・日当山侏儒―石を
動かす)3 話(川辺町、隼人町、薩摩暢)
中奄美 0 話
中奄美 0 話
362「勘違いーたかを出せ」1 話(大浦町久
423
志地)中奄美 0 話
馬の尻に短冊(原題・穴かくしの話)
363「勘違いー中途で待て」1 話(鹿児島市)
『日本昔話通観
中奄美 0 話
鹿児島』に収録されなく
て伝承分布していることが明らか話
364「勘違いーめじい付け」1 話(国分市清
瀬戸内町
水)中奄美 0 話
①ヒニャタヤマと雀
365「ほら話ーほら吹き息子」4 話(長島町、
勝俊一(嘉鉄)(梗概)
中甑)中奄美 2 話(喜界町、龍郷町嘉渡)
日当山は結婚したが夫婦の交わりがない。
366「ほら話ーほらくらべ」4 話(中甑)中
奄美 3 話(徳之島町、喜界町、大和村)
日当山が縁側にいると雀が二羽飛んできて交
367「ほら話ーほら吹き」2 話(国分市府中、
尾をした。「夫婦はあんなにしないといけな
いのだ」と言って夫婦の交わりをしたそう
里村)中奄美 0 話
な。
368「難題話ー難題問答」9 話中奄美 4 話(喜
②ヒニャタヤマと嫁
界町、徳・金見、大和・津名久 2 話)
岡本善正(篠川)(梗概)
369「難題話ー妻の援助」1 話中奄美 1 話(喜
日当山は結婚しても夫婦の交わり方を知ら
界町、原題ブンブン太鼓)
ない。親が心配して妻に「日当山はとんじゃ
370「難題話ー灰縄」1 話(国分市重久)中
くのないやつだから、気をきかせてくれ、縁
奄美 0 話
371「すいかのはらわた」8 話(菱刈、大口、
側に知らないふりして腰巻の裾を開けて、
国分 2、鹿市 2、薩摩、有明)中奄 0 話
眠ってみせなさい」と教えた。すると、日当
372「旅 学 問」8 話(川 辺、姶 良、国 分、有
山は帰ってくるなり妻を見て、
「おっ母、妻
が大変だ」「どうして」「あれは大斧の傷か、
明、志布志 3 話)中奄 1 話(喜界町)
39
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
小斧の傷か」「それはどうして」と言うと、
「あ
会(2 号より『やどり』に 書 名 変 更
瀬戸
あ、股が切り裂かれている」と。
内郷土研究会)の創刊号に掲載。一部書き
「日当、日当、物食うことばかりしないで、
直す。
働け」「はい、働きますよ」と言った。「偉い
稲田、小澤では「物の名忘れー 354 団子婿」
である。
人ほど、大食いはしない」と言って、一膳、
一椀の飯を食べて、働かされたそうな。
④ヒナタヤマと瓶尻
日当山というのは、足りない人のことかね。
天井にカメを乗せてあった。それを降ろす
ことになった。主人は天井に上り、下にはヒ
働かせると強かったそうである。
ナヤマにカメをつかんでもらおうと待たせ
稲田、小澤では「段々の教訓―434 下の口
た。主人は、カメを持って慎重におろして、
を養え」に入るだろう。
ヒナタヤマに、
「くちとぅ
①②南島昔話叢書 1『瀬戸内町の昔話』登
山修編著
同朋舎出版
まり
ひっかめぃ
よ(カメの口と尻をつかまえろよ)
」
1983 年より
③日当山と団子
と言って、手をはなしたら、カメはガチャー
むかし、ヨウガマという男がしんせきの家
ン。
ヒナタヤマは、主人の言ったとおり、自分
でスィンダグ(注 1)のごちそうになった。
とてもおいしかったので、ヨウガマも妻に
の口と尻をしっかりつかまえていた。(注 1)
作ってもらおうと思った。道を歩きながら、
注
忘れないように、
「スィンダグ、スィンダグ、
1)『やどり』第 4 号、瀬戸内郷土研究会
スィンダグ、・・」
1971 年
13 頁。話者の記録なし。
と言いながら歩いていた。とちゅうまでくる
稲田、小澤では「狐狸にだまされた話―381
瓶の尻」。
と飛び越えなければならない溝あった。調子
をつけて、
「ヒッタンコラサ」と、飛び越え
た。あとは、家に着くまで、
徳之島
「ヒッタンコラサ、ヒッタンコラサ、ヒッタ
③しなた山
ンコラサ、・・」に変ってしまった。家に帰
前田長英
りつくと妻に向かって、
「ヒッタンコラサを
作社(梗概)
『徳之 島 の 昔 話』1994 年
著
作れ」と言っても通じない。何回言っても分
母とグチとガタの三人家族がいた。浜下り
からないので、しびれを切らして、
「そんな
の前日、母はガタにご飯炊きを頼んでグチと
にわからないのか。」
祭り小屋建てに行った。火加減についてもく
とキセルでゴツーン。妻は痛くてたまらず、
わしく話しておいた。ガタは、母の教えどお
「あれー、スィンダグができた。
」ヨウガマ
り、はじめ少しずつ炊き、だんだん火勢を強
は、「それ!それ!そのスィンダグを作れ。」
くした。釜が「グチ・ガタ・グチ・ガタ」と
と平気で言った。
(岩井梅子さんよりの聞書
言う。母は「グツグツと言う」と教えたが、
きを元に)
「グチ・ガタ・グチ・ガタ」と音も大きく鳴
注
りだした。「この釜はけしからん。兄さんと
1)スィンダグは、ソテツの幹から取り出し
私の名を呼んで馬鹿にしている」と怒って、
た澱粉を原料にして、砂糖などをまぜてむ
釜を持ち上げたたきつけたら熱湯が足先にか
してつくった団子。ソテツからとった粉を
かり赤くはれた。母とグチが帰ると、ガタは
スィンということもある。
「釜にやられた」と足を見せて泣いた。
ある時、母親が病気になった。グチは看病
2)拙編 1970 年『ふるさと』瀬戸内を知る
40
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
あることを指摘しておきたい。
したが、ガタは庭先で遊んでいた。グチは母
が心配で「ガタ、お医者様をおともしてきて
④日当山
くれ」。ガタ
「お医者様はどこにいるんだね」。
井之川
奄 美 民 話 集 3『池 水 ツ ル 嫗 昔 話
集』拙編(郷土文化研究会 1988 年)
グチ「まっすぐ行った突き当りがお医者様の
家だ。真っ黒い着物を着ている。いいか、失
昔は、天井に油カメなどあげておくもの
礼があってはいけないから、お医者様の前に
だった。カメをおろそうと橋をかけてあがっ
出たらていねいにおいでくださるように言う
た。「尻をつかめよ」「はーい」「尻をつかん
のだよ」。ガタ「わかった」と出かけた。松
だか」「はい、つかまえたよ」。そしたら、自
の大木の枝にカラスがとまっていた。
「これ
分の尻をつかまえていたって。カメは、落し
がお医者様にちがいない」と、独り言をいい
てうちわってしまった。
ながら、深かぶかと頭を下げてお願いした。
池水ツル嫗の「ひなた山」の考え方は、「焼
カラスは動きません。ガタは大声で「お医者
キシナタ」というように、悪い者、言うこと
様!」と叫んだ。びっくりしたカラスは「あ
をまともに聞かない者よ。足りない者ではな
ほうあほう」と鳴いて飛び去った。
く、焼いた青木の丸棒(焼キシナタグイ)と
似た人をいう。
グチが代わって医者をともして来て見せ
稲田、小澤「狐狸にだまされた話―381 瓶
た。熱は下がったが元気がでない。昔は薬用
の尻」
糖を瓶にいれ、天井の隅に隠してあった。グ
チは「ガタ、天井から味噌瓶をおろすから、
お前は下で受けとってくれ」と言って、天井
与論
に上がった。グチは瓶を下ろそうと「ガタ、
①ミニタヤマの話<一つ覚え>(原話『郷
いま瓶をおろすから、お前はしっかりマイ
土研究』第 2 号
山一郎
1976 年)
「与論島
(尻)を持て」と言うと、「よしわかった」
民話話型一覧」
『南島文化』創刊号沖縄国際
とガタは威勢よく答えた。結果、ガタは自分
大学南島文化研究所(1979 年)より
昔、ミニタヤマという馬鹿な人がいた。あ
の尻をしっかりつかまえ、瓶は割ってしまっ
る日、高倉から瓶を降ろす手伝いだった。父
た。
この話は、稲田、小澤の分類からすると複
親が、縄でしばった瓶を降ろしながら、「瓶
合しているようである。採集の体験からも複
の首と尻をつかまえたら合図しろ」と言っ
合を感じる。稲田、小澤では「難題話―グッ
た。ミニタヤマは自分の首と尻をつかまえて
チグヮチ」
・「狐狸にだまされた話―瓶の尻」
合図したので、瓶は地面に落ちて割れてし
話も入っている。
まった。
前田長英氏は、話のはじめに次のように述
やがて、ミニタヤマは、一番賢い嫁をもらっ
べている(梗概)。日当山と書いて島では「し
た。ある日、親の牛が死んだので、どうした
なた山」と発音する。
(一)頑固者のわから
らよいか尋ねられると、ミニタヤマは「肉は
ず屋を評していう場合と、
(二)うすのろで
売って金にかえ、骨は親戚中に配れ」と嫁に
おめでたい人間をさして言う場合がある。上
教えられたとおり答えて感心された。それか
記は(二)の場合の話である。
ら、親戚の婆さんが死んで、どうしたらよい
南島昔話叢書 3『徳之島の昔話』(1984 年
か尋ねられた。嫁に聞こうとするがいないの
福田
徳富重成
で、前と同じように「肉は売って金にかえ、
同朋舎出版)
「ぐつがたの話」が笑
骨は親戚中に配れ」と言ったのでひどい目に
編著者
晃
岩瀬
博
松山光秀
あった。
話に入っている。話者は長英氏の兄満広氏で
41
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
喜界島「烏とケラ」
「太陽と月」「たばこの起
稲田、小澤「狐狸にだまされた話―381 瓶
こり」「ミヤ草のいわれ」
の尻」と 356「物の忘れー 356 あいさつ失敗」
これを見る限りでは一話も孤立伝承話もな
が複合して「ひなた山系話」として伝承され
い市町村がある。分布の視点からは伝承され
ている。
ていると思う。
おわりにかえて
「火種の起こり」は、①「ミロクとシャカ
紙 数 の 都 合 も あ り、『奄 美・笠 利 町 昔 話
が世の中を争う。勝負を枕元に置いた花が早
集』、南島昔話叢書『徳之島の昔話』『瀬戸内
く咲いた方で決める。シャカが咲いている花
の昔話』など所収の話の紹介は、別の機会に
を取り替える。」
②「ミロクはすべての生き物の目を閉じさ
譲りたい。
本土での日当山話の知恵有り殿的よりも愚
せ火種を隠す。バッタは目が横についており
か者話の方に傾斜している印象が強いが詳し
火の種を石と木に隠すのを見てシャカに教え
い分析などは今後の課題である。
「ヒニャタ
る」
ヤマと雀」
「ヒニャタヤマと嫁」などはおお
住用村①の部分を吉永イクマツ嫗は「泥棒の
らかな性・性教育の話になっているが、本土
始り」の話として伝承している。
ではあまり採録の体験も少ないし、話が 2 話
龍郷町②の部分を村田仲秀翁はアブが教えた
記録されているだけだ(日本昔話通観 25)。
と伝承している。
他の動物昔話を概観すると本土と奄美に
奄美での分布なども課題である。
偏って採録されている話がある。
5 動物昔話
「猿と蟹の餅争い」 ……(本土32:奄美0)
『日本昔話通観』鹿児島篇をもとに奄美の
「猿蟹合戦―仇討ち型―尻挾み型」(4:4)
民話収録の課題について若干延べたい。目次
「ほととぎず兄弟」 …………………(23:0)
項目 621 の中、動物昔話は 539∼621 迄 83 項
「かちかち山」 ………………………(9:0)
目 215 話である。122(57%)話が本土 93(43%)
「ケシコー・クロシコー」 …………(9:0)
話が奄美の話である。そのうち 46 話型は「孤
雀孝行 ………………………………(5:1
2)
立伝承話」である。奄美の 25 話型を分布が
奄美だけで採録されている話と分布
わかるように市町村であげる。
「サクチの腹打ち」…………(大・住・瀬)
与論町「いるかのいわれ」「火種の起こり」
「猿の起こり」………………(大・笠・大)
和泊町「たことえびの丈くらべ」
「豚の起こ
「ネバリのいわれ」…………(名・宇・喜)
「犬の足」……………………(宇・瀬・笠)
り」
天城町「くいなの起こり」「ハブの首」
「蚕のおこり」……………………(宇・名)
伊仙町「息子とかまきり」
「ガヤユムィ鳥は智恵者」………(大・和)
徳之島町「オーラノ鬼退治」「のみとしらみ」
「ケンムンと川貝の競走」………(宇・徳)
瀬戸内町「ケンムンのいわれ」「みみずと土」
「豚とかたつむりの競走」………(知・喜)
等々は採録數も多くて 3 話であり、奄美での
「家人とケッケマッケ」
分布の偏りもみえる。採録されていない島々
宇検村「烏の雲あて」
「クッカルのいわれ」
での状況が課題である。
「鼠と猪」「鳩巣作り」「蛇と蛙」
大和村「猿のやけど」「鳥の歌くらべ」「ふく
ろうの起こり」
笠利町「オットンビッキャのいわれ」
42
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
牛に関して
(徳富重成「燃ゆる闘牛の島・牛慰み祭りと
①異国船と牛
フォーラム」資料より)
④のシマクサラシについては、研究されて
1848(弘化五年申)亀津村(現徳之島町)
いる。その由来話は「後生の牛―賭け型(原
へ異国船一艘みえていた。
題・もの言う牛の話)」として沖縄県では『日
1849(嘉永二年辰)異国船四艘みえた。面
縄湊(現伊仙町)へ乗入れ、上陸。
本昔話通観
沖縄』26 で記録されている。
「牛を欲しいというふうに、両指をもって牛
県下では奄美で「151 もの言う牛」として 5
の角のようにしたので、牛はないと答えた」
話記録されているが(名瀬・喜界・知名・大
「牛はたくさんいるじゃないかと手様したの
和・宇検)、牛の飼養が多く、闘牛も残る徳
で、右牛をくれたら、私どもの首が切られる
之島では記録されてないのが課題である。
と手様」「野牛をくれと、・・」「野牛を二疋
ケンムンを動物に分類するのは課題があるか
つかめてやった、これはわが国にもたくさん
も知れないが、島人の認識には動物的なもの
いると手様で答え大した喜びもせず、野牛の
である。
おかえしとして、・・」
注
1)『日本昔話通観』25 鹿児島 稲田浩二・
1853(嘉永六年丑)四月十九日以来、「ア
メリカ船五艘、那覇川沖へ来着、一か月ばか
小澤俊夫責任編集
同朋舎
1980 年
り滞留、外に六艘の渡来を待って、都合十一
なお、拙編の奄美民話集 1『住用村和瀬の
隻で、和好交易を願うため江戸に行くとのこ
民話』(1979 年)、同 2『吉永イクマツ嫗昔話
とで、・・(ペルリ艦隊のこと)」。
集』(1984 年)を始め、その後の南島昔話叢
書奄美 諸 島 3 冊(徳 之 島・瀬 戸 内 町・大 和
(『天城町誌』1978 年より)
村)、笠利町の昔話集等々の話型は発刊時代
転記の文書があるのだろうと思うが?
徳之島の牛に関しての民話など
のずれかで利用されていない。また、通観 25
②
鹿児島発刊後、26 年も経過しており、その
牛盗(ヌスド)み按司と塩漬溜
後の状況について改訂の必要性を感じる。
伊仙町馬根の南東にある按司屋敷の表側に
塩漬溜(シュチケィグムイ)がある。
6 奄美の伝説
③牛神信仰
はじめに
天城町(天城・兼久・瀬滝・西阿木名)
、
民話のなかで伝説と歴史とのかかわりあい
伊仙町犬田布などで祀られている。
④シマクサラシ
が一番わかりやすいように思う。奄美に伝わ
悪疫が村落に入ってくるのを防ぐために行
る伝説についてすでに先学によって次のよう
なわれた年中行事。旧暦の 2・3 月を中心に
に分類されている(注 1)。これをもとに奄
年 2・3 回行なわれた。村落で牛一頭を屠し
美諸島の伝説と歴史について考えてみたい。
て骨片を左縄で括り村落の入り口に吊るし
地域別に編集された分類の仕方で、奄美(行
た。肉は各戸に配分して食した。
(動物儀礼・
政上では鹿児島県大島郡)は南島編に分けら
共食儀礼)
れている。奄美以外の離島や鹿児島本土は南
⑤赤牛洞
九州(第十四巻)南九州編(熊本・宮崎・鹿
アーブシャエー・亀津南区
児島)に含まれて 1 冊になっている。ここに、
⑥牛の角
すでに奄美諸島の歴史的特異性が見られるよ
平成元年 6 月、亀津小敷地内出土。牛科の
うに思う。南九州扁では、分類の仕方も文化
叙事伝説では、国土創造(阿蘇の大鯰)で 1
角芯。現生和牛と大差なし。
43
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
話、他は神、仏、巨人、始祖、英雄、精霊(河
サーカ>」(与論町立長・与論島・住用村
童、狐、妖怪・猫)、長 者、渡 来 人、名 人、
山間)(16)
「稲の始まり」(瀬戸内町於斉・
沈鐘。自然説明伝説では、木、石、岩、水、
古仁屋・蘇刈・諸鈍・於斉・嘉徳・節子・
塚、山、祠堂等々である。南島扁とは表記の
久慈・蘇刈・伊須・網野子・嘉鉄・篠川・
仕方が違い、話数は 79 話である。南島の 190
花 天・薩 川・池 地・請 阿 室・竜 郷 町 竜
話を採用しているのと比べると奄美・沖縄の
郷)、
「鶴の穂落とし田」(竜郷戸口・大勝・
伝承の豊かさが理解できるように思う。南島
秋名・大和村今里)
扁はどのように分類され、話型が記されてい
6
神の争い(沖縄県だけ)
るかみてみよう。
7
祭事の起源(沖縄県だけ)
注
8
神 の 子・神 の 嫁・・(17)
「太 陽 の 下 し
1)日本伝説大系(全 15 巻別巻 1 みずうみ
子」(喜界町志戸桶・奄美大島・笠利町節
書房)。第十五巻南島(奄美・沖縄)1989
田・用安・宇宿・名瀬市・大和村大棚・住
南島扁・・伝説の分類と奄美の採用話型
用村役勝・瀬戸内町節子・嘉徳・網野子・
次のように伝説を分類している(一部工
徳之島町母間、参考バサンナガレ名瀬市)、
夫)。
(18)
「雨気岳(あみき)ガナシの子」(徳之
文化叙事伝説(・・以後は奄美の分だけを
島町山 4 話・瀬戸内町勝浦)(19)
「天女の
書抜き、採録地を記す。括弧内は通し順番)
子」(喜界町浦原・蒲生・天城町兼久・伊
1
仙町伊仙・参考瀬戸内町薩川)
宇 宙 の 起 源・・(1)
「月 と 太 陽」
(喜 界
町)、(2)
「月食と鬼」(住用村山間)
2
国土の起源・・(3)
「流れる島」
(名瀬市
9
島の終末・・(20)
「美人の出ない村」。
10
英雄の事業・・(21)
「運天港と牧港の名
小湊 2 話・喜界町手久津久 2 話・瀬戸内町
の由来」の類話、(22)
「行盛の最期」、(23)
節子・笠利町屋仁・節田・用安・竜郷町戸
「百合若大臣」類話。(24)世の主がなし、
口・竜郷・住用村市・宇検村久志)
(25)
「茶 上 兼 の 最 期」
、(26)
「真 千 鎌 の 横
3
神々の島建・・(4)
「昔世の始まり」(喜
死」、(27)
「与論のアアジンケエ」、(28)
「坊
界町)、(5)
「秋名のシマダテ」(竜郷町秋名
主ガナシ」、(29)
「美女は王様のぼり」、(30)
2 話・与論町)、(6)
「世の始まり」(住用村
「オ ア ム シ ャ レ」
、(31)
「イ ナ デ ィ オ ン
山間)、(7)
「島建加那志」(瀬戸内町節子 4
ノー」。
話・嘉徳 2 話・於 斉)
、(8)
「世 し た て た ん
11
話」(伊仙)、(9)
「世の始まり」(徳之島 町
人 間 と 精 霊・・(32)
「ケ ン ム ン の 始 ま
り」
花徳)、(10)
「島建国建」
(和泊町出 花・沖
永良部島)
、(11)
「島の始まりの話」
(与論
自然説明伝説
島麦屋西区・東区・茶花 2 話)
4
1
人類の起源・・(12)
「島建て加那志」
(手
動植物の由来・・(33)
「永久山の祭り」
(上面 縄、面 縄)
、(34)
「島 く さ ら し」
(上
久津久 7 話)、(13)
「ヲナリとヰヒ リ」(瀬
面縄)
戸内町阿多地・蘇刈・清水・諸鈍・阿鉄・
2
石・岩 の 由 来・・(35)
「力 石」(喜 界 伊
池 地・名 瀬 市 小 湊・笠 利 町 宇 宿 2 話・用
砂・荒木)、(36)
「志戸桶のビンドゥン様」
安)、(14)
「小島の暗河(くらごう)
」(徳之
(志戸 桶 2 話)
、(37)
「キ ョ ラ 石」
(名 瀬 市
島町亀津・亀徳・伊仙町小島・検福・瀬戸
芦花部・平)、(38)
「腰掛石」(徳之島町)、
内町蘇刈)
(39)
「舟ン帆岩(ふうでい)」(塩道)、(40)
5
文化の起源・・(15)
「火種子<ミルクと
「イブィガナシ」
(徳之島町亀徳・徳之島
44
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
がある。昔、大猪に追われてこの岩に登った。
町井之川)
3 橋・泉・水の 由 来・・(41)
「犬 が 見 つ け
諸田池の辺に犬を見つけ、呼んだらその犬が
た井戸」類話(徳和瀬)、(42)
「狩俣の池」
登ってきて助かったのが石の呼び名の由来だ
(小野津)、(43)
「徳和瀬のイビガナシ」(徳
と言う。筆者など登頂の度に乗って諸田池を
和瀬)、(44)
「福川の主」(徳之島)、(45)
「赤
眺め、この民話を思い出し納得するものだっ
椀が浮かぶ泉川」
(瀬利覚)
、(46)
「ありも
た。まさに石の由来話である。
んごもり」
(山間)、(47)
「石橋川の水争い」
(42)
「狩俣の池」(小野津)は、源為朝伝説
(沖之永良部島)、(48)
「鹿浦川の松淵(ま
で、沖の船から放った雁股の矢がささった所
つぶき)
」(伊仙町阿三 2 話・阿権・伊仙)
から泉が湧き出たという。大島本島の実久三
坂・山・洞・田 の 由 来・・(49)
「手 々 の
次郎は為朝の落とし子という伝承があるが、
シバ祭り」
(徳之島町)
、(50)
「マツバンの
為朝本人の伝承がないのが不思議である。徳
山」(亀津・伊仙町佐弁)、(51)
「平家丘(ム
之島の犬田布嶽の頂上には為朝の腰掛石とい
イ)」
(長嶺)、(52)
「平家もり」
(小野津)
、
う伝承がある。為朝伝説は 12 世紀の話であ
(53)
「ウニガマ」(塩道)、(54)
「後生が道の
り、カムィヤキ古窯跡群の時代と同じ世紀で
洞穴」(蘇刈 3 話・久根津 2 話・網野子・
あるのも何かを感じさせる。源氏は薩摩を統
阿木名・与路・西古見・阿鉄)
、(55)
「ウフ
治した島津家との関係があると言われてい
ランシューのムヤ」
(早町)
、(56)
「ティル
る。
4
平家伝説も大島本島を中心に伝承が豊であ
コ ン ム ィ」(請 阿 室・油 井・嘉 鉄)、(57)
「アーニマガヤ」(知名町)
、(58)
「アマム
る。『海原の平家伝説』(高橋一郎著
ブックイの洞穴」
(瀬利覚)
、(59)
「ピンギ
房)として 1 冊にまとめられているほどであ
ヤ マ」(与 論 町)、(60)
「七 城」(志 戸 桶)、
る。徳之島の阿権には平(たいら姓)があり、
(61)
「ハナウミーダー」(花良治)
一族は平家の落人だと井之川などでは伝承さ
5
第一書
れている。
祠堂・墓の由来・・(62)
「無名寺」(与論
町)、(63)
「喜 念 権 現」(喜 念)、(64)
「検 福
7 現代民話
穴八幡」(検福 2 話)、(65)
「シンコーボ ー
の 墓」(花 良 治・城 久 2 話・中 里 2 話)
、
『現代民話考』松谷みよ子(立風書房→ち
(66)
「フ ァ ム ィ ン カ ー」
(小 野 津)、(67)
くま文庫)シリーズ(1 河童・天狗・神かく
「アーヤマト甕壷」(瀬利覚)
し∼12 写真の怪・文明開化等々)は、一部
おわりにかえて
を『民話の手帖』に掲載されたときから学ば
上記分類において、井之川のイビガナシは
せていただいていた。なかなか採録ができず
2 石・岩の由来(40)
「イブィガナシ」(徳之島
にいたけれども、その機会は意外に身近に
町亀徳・徳之島町井之川)になっているが、
あった。
信仰対象であって、
「石・岩の由来」とは筆
本土の民話採録の機会が少ないと残念に
者には考えられない。イビガナシから 200 m
思っていたが、鹿児島大学生(118 人登録 105
ほど離れた海岸にショウジ石と呼ばれる船を
人前後の出席者)に尋ねてみた。不思議な話
ひっくり返したような岩などは「昔、船が遭
として書いてもらったミニレポートは筆者に
難して石になった」と幼い頃に聞いており、
とってワクワクさせるほどであった。
「怖い
形からも本当だと思っていた。
話」として体験したり、話し会ったりしてい
た。
本などには取り上げられていないが、井之
「消えた乗客」
(『消えたヒッチハイカー』
川岳山頂に犬呼び石(インユビ石)という岩
45
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
ジャン・アロルド・ブルンヴァン著大月隆寛
に祀るようになったのか、正確な数等々機会
他訳新宿書房)「トイレの花子さん」「コック
あるごとに尋ねているが、人々によって受け
リさん」
「学校の七不思議」「口裂け女」「動
止め方も違っている。
「あの場所にもあった」
く時計」
「ピアスの白い糸」「金縛り」「幽霊
とかの話しもある。「あそこのアムトゥは怖
話(関係本を 5 冊ほど紹介)
」等々の話につ
い」という。
「なぜ」の問いに「怖いアムトゥ
いてである(『鹿児島民俗』第 130 号へ一部
だ」としか伝承していない。
掲載 2006 年 10 月刊。一部はテキスト『学生
一人一人の民俗文化現象(物、場所、カミ
の奄美・自分史』2 に掲載)
。これらの話が
等々)に対する物語は違うのだろうか。これ
民俗文化とは関係がないと思っていたとか、
らはシマの人々の心意形成、人格形成には筆
同じ年齢に近い人々が同じような体験や伝承
者の体験からも大きな影響を与えていると考
をしていることに驚いたとかの感想などが
えられる(筆者は小松和彦氏の言う内在的歴
あった。
史になるなあと思う)
。
これらが奄美ではどのような体験、伝承を
民話について笑い話を主にしての覚書を若
しているだろうか泉和子著「学校の怖いハナ
干のべた。筆者は『住用村和瀬の民話』(郷
シ――名瀬市立名瀬小学校」
(注 1)は奄美の
土文化研究会、1979 年)で 1 集落での奄美
小学校六年生で調査した報告としては最初で
における民話の実態を報告した。27 戸の小
あるように思う。筆者は小学校教員として県
集落でも 100 種類ほどの民話の記録ができた
下 8 校(管理職 4 校)で務める体験をさせて
からである。それ以後は、個人の民話集を 4
もらったが、低学年への影響などを考えて調
人ほど公にしても、奄美の各集落ごとの民話
査する勇気がなかったことを告白しておく。
集が発刊されるまでは実態があきらかになっ
その点では敬服している。著者自身の学校で
たとは言えないと思っている。『徳之島の昔
の怖い話を二宮金次郎に関して以外にも知り
話』(田畑英勝、丸井工文社、1972 年)記録
たいと思った。比較の視点から、あるいは、
の昔話がどのように変容しているのか、伝承
児童・生徒の心の動きの実態を把握するため
されているのかも課題である。奄美での採録
にも奄美での多くの学校の実態があきらかに
のために民話について若干の課題を提示した
なればと願うものである。教育関係者の注目
が、今後、広げ、深めていかなければならな
を期待したい。二宮金次郎の背負う薪の数、
いと思っている。
コックリさん、七不思議、トイレの花子さん
等々鹿児島大学生の伝承と共通している点で
あり本土と共通点がある。
注
1)
『奄美学
その地平と彼方』「奄美学」刊行
委員会編、南方新社
Ⅳ
2005 年
おわりに
徳之島井之川を中心にシマジマ、島々とう
民俗世界でのささやかな体験からして、身近
な伝承が数多くあると思う。課題にしている
アムトゥガナシ(ガナシ=尊称)をどうして
祀るようになったのか。どうして現在の場所
46
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
■島嶼スケッチ
YS−11 搭乗体験記
二宮
忠信(九州電力鹿児島支店)
1996 年の 8 月初旬に初めて YS−11 に搭乗
YS は着陸したので、これから搭乗出来ると
して沖永良部に向かった。その日は満席で 26
思っていたら、「運用時間切れの為に欠航で
A の座席窓側に座った。沖永良部まで 1 時間
す」とアナウンスがあった。乗務員は黒い鞄
40 分。窓から見える景色にワクワクした。
をいつも持っている訳が理解出来た。沖永良
沖永良部空港に降り立ち初めて島の空港ター
部空港の運用時間は、年度の上半期が 8 : 30
ミナルをくぐり短い滑走路を眺めた。
∼18 : 30(4/1−9/30) 下半期が、8 : 30∼17 :
島の空港には管制塔らしく見えるものがあ
30(10/1−3/31)この時間帯は島ではまだ明る
るが管制官はいない。鹿児島空港からリモー
い時間であるから、もう少し延長しては良い
トコントロールで管制している。現在は光
ではないかと思う。
ファイバーで結ばれておりリモートカメラで
YS の フ ラ イ ト コ ー ス が 楽 し み で も あ っ
鹿児島空港の管制タワーで見ることも可能だ
た。鹿児島空港を離陸したら桜島や開聞岳を
そうだ。
左に眺めながら沖永良部空港に向かう時に島
鹿児島空港から沖永良部に向かう時に前線
影があちこちに見える度に機内の窓からカメ
を迂回するかのように YS は飛び続けたが途
ラに収めた。窓から見える雲の様子も楽しみ
中からものすごい揺れが始まり「これ以上は
であった。プロペラ機であるから古いイメー
無理ですから本機は鹿児島空港に引き返しま
ジの代名詞で、独特のエンジン音はロールス
す」と機長からアナウンスがあり鹿児島空港
ロ イ ス 社 製 の タ ー ボ プ ロ ッ プ エ ン ジ ン。
に着陸した。有視界飛行の滑走路であるか
ジェットエンジンのエネルギーをプロペラの
ら、遠くに島影がクリアに見えたらホットす
回転に使うエンジンである。耐空証明の取得
るのは私だけではない。これまでの体験では
に困難が予想されたため自国での開発を諦め
47
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
た。方式としては、当時主流になりつつあっ
月 31 日までであった。取り付け義務のない
た。ロールスロイス社製のダート 10 を採用、
自衛隊はまだ現役で運行されている。海外で
プロペラはダウティロートル社製の 4 枚羽を
はまだ多くの YS が飛び続けている。
採用している。スーパー YS と言われる航空
YS−11 のプロペラの回転のイメージを出
自衛隊の YS は 3 枚羽で電子偵察機として現
す為にはシャッタースピードは 250 分の 1 で
在も飛んでいる。海上自衛隊鹿屋航空基地等
それ以上あげるとプロペラは止まってしま
の航空祭でも機体を見ることが出来る。エア
う。
コンの効き具合が悪く、高度を上げても冷た
沖 永 良 部 の 滑 走 路 は 1200 メ ー ト ル か ら
くならないことが多い。そこで少しでも暑さ
1350 メートルに変更された。着陸帯も変更
を和らげてもらおう、と登場するのが団扇。
されて 1470 メートルに。YS−11 の飛び始め
東 亜 国 内 航 空 の YS−11 の 塗 装 に「か い も
た 1960 年代の仕様からの変更である。YS の
ん」「さつま」の愛称が書かれている。そし
タラップも当時の空港事情を反映して設計さ
てファイナルフライトをしたのが愛称は「と
れたのであろうと推察する。今は行きつけの
く の し ま」で あ っ た。空 中 衝 突 警 報 装 置
飲み屋が閉店して行くところがなくなった心
(TCAD)の装備の取り付け義務が 2006 年 12
境である。
▼コックピットから見た沖永良部空港の滑走路
48
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
■島嶼スケッチ
奄美サテライト教室情報
奄美サテライト教室は、奄美にいながら、
開講記念講演会(演題「奄美方言からみた奄
鹿児島大学大学院人文社会科学研究科の正規
美の文化」)が開催されました。講演会には、
の授業が受講できる教室です。本研究科で
町長さんをはじめ多くの皆さんがご出席くだ
は、平成 19 年度 4 月より、奄美大島に続き、
さり、徳之島の皆さんの鹿児島大学及び奄美
徳之島にもサテライト教室を開設することを
サテライト教室への期待の高さを感じまし
計画しています。今回は、徳之島で開講され
た。
た大学院の公開講座と奄美市及び徳之島町で
開催された平成 19 年度奄美サテライト教室
の説明会についてご報告します。
<公開講座日程・講師>
10 月 14 日 桑原季雄(人間環境文化論専攻)
オリエンテーション
西村 明(人間環境文化論専攻)
「戦死者慰霊をかんがえる」
10 月 15 日 平井一臣(法学専攻)
「地域から考える政治の世界」
10 月 21 日 山本一哉(経済社会システム専攻)
「グローバル化と日本経済」
10 月 22 日 落合美貴子(臨床心理学専攻)
「子どものこころと育て方
−臨床心理学による子育て再考−」
11 月 25 日 原口 泉(国際総合文化論専攻)
「海が結ぶ近世社会−琉球・奄美・薩摩−」
■徳之島公開講座「文系大学院へのいざな
い」
10 月 14 日(土)∼11 月 25 日(土)に か
けて、徳之島町生涯学習センターを会場に、
大学院の公開講座「文系大学院へのいざな
い」が開催されました。今回の公開講座では、
人文社会科学研究科の 5 名の講師による計
15 コマの講義が開講されました。受講者は 16
名で、最終講義終了後、全員に修了証書が授
与されました。
また、公開講座の開講に先立ち、平成 18
年 9 月 3 日(日)、木部暢子研究科長による
■奄美サテライト教室説明会
平成 18 年 11 月 24、25 日に、奄美大島会
場と徳之島会場で、平成 19 年度の奄美サテ
ライト教室受講希望者の皆さんを対象とした
説明会を開催しました。
<奄美大島会場>
奄美サテライト奄美大島教室は平成 16 年
4 月に開設され、平成 18 年度は 3 名の正規
大学院と 6 名の科目等履修生が学んでいま
す。奄美大島での説明会は、11 月 24 日(金)
徳之島町生涯学習センター
18 : 30 より、奄美市中央公民館金久分館 3 階
49
奄美ニューズレター
№ 29
2006 年 12 月号
また徳之島では、天城町ケーブルテレビ「ユ
で開催され、約 10 名の皆さんが参加されま
イの里テレビ」のご協力で、奄美サテライト
した。
教室の PR 番組を 撮 影・放 映 し て 頂 き ま し
た。
最後に、今回の公開講座及び奄美サテライ
ト教室説明会の開催にご協力頂きました多く
の皆様に厚くお礼申し上げます。
(編集担当山本)
天城町ケーブルテレビ(ユイの里テレビ)スタジオ
サテライト奄美大島教室
<徳之島会場>
−奄美サテライト教室についての
公開講座「文系大学院へのいざない」の最
問い合わせ先−
終 日 の 11 月 25 日(土)17 時 よ り、徳 之 島
生涯学習センターで奄美サテライト説明会を
鹿児島大学法文学部大学院係
開催しました。説明会には公開講座受講生の
〒890−0065
方々を含めて約 20 名もの皆さんが参加され
鹿児島市郡元 1−21−30
電話(099)285−7504
ました。
問い合わせは、9 時∼17 時まで
(土・日・祝日を除く)
人文社会科学研究科ホームページ
http://www.leh.kagoshima−u.ac.jp/hss/
徳之島説明会の模様
50
奄美ニューズレター
№ 29
■梁川
■ちーびし
①生年・出身地、②所属、③専門領域、
④研究業績、⑤奄美と関係した活動
の順番で掲載しております。
行博(ながた
ゆきひろ)
① 1939 年
②鹿児島大学長
③生殖生理学、婦人科内分泌学、不妊症学
④『中高年女性医学入門』(企画・編集 永田行
博)
、医薬ジャーナ ル 社(2003)、第 5 章「出生
前診断 G 着床前診断」『新女性体系 28 遺伝の
基 礎 と 臨 床』中 山 書 店、p.345(2000)、
「『受 精
卵の着床前診断』に関する報告」
『鹿児島大学
医学雑誌』52(3)、p.53(2000)など
■木部暢子(きべ
■本田
のぶこ)
ひろたか)
開催(現在第 28 号を編集中)
■二宮
誠(やまだ
碩孝(ほんだ
① 1943 年・鹿児島県
②徳之島郷土研究会会長・鹿児島大学共通教育非
常勤講師(「奄美の民俗文化」担当)
③民俗学、教育学
④『ふるさとの歩み』編著、知覧町松ヶ浦校区義
校会、2004 年
「徳之島の民話的世界−徳之島町井之川の事
例」『奄 美 沖 縄 民 間 文 芸 学』第 5 号(2005
年)、第 6 号(2006 年)
⑤『徳之島郷土研究会報』編集・発行、研究会の
① 1955 年・福岡県
②法文学部長
③言語文化論
④『鹿児島県のことば』明治書院 1997 年
『西南部九州二型アクセントの研究』勉誠出版
2000 年
「島が残した古態」大修館書店『月刊言語』33−1、
2004 年
■山田
ひでとし)
① 1959 年・東京都
②鹿児島大学法文学部人文学科ヨーロッパ・アメ
リカ総合文化講座教授
③民族学
④ Merlin dans l’imaginaire breton depuis le XIX e
siécle, IRIS , Centre de recherche sur l’imaginaire−
Université Grenoble 3 2001 年
「ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生
(一)∼(四)」『鹿児島大学法文学部紀要 人文
学科論集』第 54 号∼第 57 号、2001 年−2004 年
『しまうたの未来』
、南太平洋海域調査研究報
告 No.44、鹿児島大学多島圏研究センター、
2006 年
⑥ 2005 年度「多島域フォーラム」シンポジウ
ム「しまうたの未来」コーディネーター
○執筆者紹介
■永田
英俊(やながわ
2006 年 12 月号
忠信(にのみや
ただのぶ)
① 1950 年・鹿児島県
②九州電力鹿児島支店
④⑤沖永良部郷土研究会会員
1996 年から現在まで沖永良部を中心に島の
暮らしの撮影を続行中
朝日新聞に読者の写真で投稿多数。
奨励賞 3 回 2 回以上は受賞者はいない。
まこと)
① 1946 年・香川県
②鹿児島大学法文学部経済情報学科地域計画講座
教授・全学プロジェクト「奄美の『島』コスモ
ス創出事業」代表
③経済政策、地方財政、地域政策比較
④⑤鹿児島大学プロジェクト「島嶼圏開発のグラ
ンドデザイン」の研究代表者として、編著『奄
美の多層圏域と離島政策』九州大学出版会(2005
年)を刊行した。
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