ノーザンダンサー物語 第2部 永遠なる存在 後編 ノーザンダンサー 最後のレース 1964年5月4日 メリーランド州バルチモア、ピムリコ競馬場 ピムリコ競馬場にノーザンダンサーが到着したのは昼頃。新しい馬房に入れられると、彼はす ぐに食べ物を催促し始めた。14 時間にわたる輸送で少し疲れていたにも関らず、その旺盛な 食欲は衰えをしらないようだった。 多くのファンは、ケンタッキーダービーの結果を見た後も、この小柄なカナダ馬がカリフォルニ ア・チャンピオンよりも優れているとは信じられなかったようだ。米3冠レース第2弾のプリークネ スSでもやはりヒルライズが本命視されていた。 このようにファンには相変わらず無視されていたノーザンダンサーであるが、米国務省やペン タゴン(国防省)はそうではなかった。スポーツライターのレッド・スミスの言葉を借りれば、ノー ザンダンサーが原因で、軍関係者は「ホワイトハウスを焼いたことでイギリス軍が全米の建築 家から感謝の念を勝ち取った1814年の米英戦争以来、初めてのアメリカ国内への外国軍隊 の進攻」を心配しなければならないはめとなったのだった。 ことの起こりは、ピムリコ競馬場のジョー・ヒッキー広報担当理事が「プリークネスフェスティバ ルの式典行進にカナダ総督近衛騎兵連隊も参加してほしい」とオンタリオジョッキークラブに 相談したこと。彼は以前、クィーンズプレートの日に行われるランドー式馬車での王室(または その代理人の)パレードに同部隊が参加しているのを見たことがあった。 総督近衛騎兵連隊はカナダ軍でも最古の部隊として知られている。その軍隊としての役割 は戦車や爆撃機などの近代兵器の登場により事実上終了していたが、それでも一個中隊が 式典用に残されていた。ボランティアとして集められる隊員は、肉屋やパン屋、弁護士などさま ざまな職業の者たちからなっており、馬の方も必要に応じてポニー・クラブから借りる体制が取 られていた。したがって、1812年の米英戦争のときには正式に参戦した名誉ある部隊ではあっ たが、現在は何らの軍事的脅威ともなりえない存在だった。しかし、「カナダから総督近衛騎兵 連隊がやってくる」とピムリコ競馬場側が誇らしげに発表すると、とたんに米加条約における武 装軍隊の国境越えを禁止する条項との抵触を指摘する声があがったのだった。 騎兵連隊の装備には、武器としては使い物にはならないもののピカピカに磨きあげられた剣 や、槍、大きな銀斧も含まれていた。そして条約においては、これらを備えた騎兵連隊は立派 な軍隊ということになってしまうのだ。時代は変ったが、条約はそのままだったのである。そこで 「イギリス軍がまた攻めてきた」というような騒ぎが起こらないように、あわてて国務省やペンタ ゴン、駐米カナダ大使館などへの根回しが行われたのだった。その結果、現在の両国の間に おける友好関係が確認され、5人のメンバーからなる近衛騎兵連隊とポニーたちは無事に一 時滞在許可を受け取ったのだった。 1964年5月 16 日 ピムリコ競馬場 「ノーザンダンサーはダービーでそのすべての強さとスタミナを使い果たしてしまった。次はヒ ルライズには勝てないだろう」 それが「オールド・ヒル・トップ」周辺の一致した見方であった(オールド・ヒル・トップは、ピムリ コ競馬場の別称)。プリークネス当日の朝のオッズでも、ヒルライズが2・4倍の本命に推され、 ノーザンダンサーは続く2番人気(3倍)。以下、ザスカンドレル(5倍)、クアドラングル、ローマン ブラザー(ともに9倍)となる。短距離馬ビッグピートは 21 倍の大穴と見られていた。ヒルライズ の倍率はその後も下がり続け、出走各馬がコースに姿をあらわすまでには1・8倍になった。 確かにこの日のヒルライズの出来は素晴らしく、ダービーの雪辱を晴らすだろうことは間違い ないように思われた。本馬場入場の際も、その上品な顔立ちを高く掲げ、誇らしげに行進する 姿はひときわ目立つものだった。馬体にうっすらとにじむ汗は、漆黒の毛色にさらなる深みを与 えていた。 一方の雄、ノーザンダンサーの方は、頭を低く下げ、その周囲をうろついているようにしか見え なかった。 それでもひとたび発走ベルがなれば、ダンサーは弾けるようにゲートを跳び出して行く。3番手 に控えさせるため、鞍上のハータックが手綱を引っ張らなくてはならなかったほどの勢いだ。 このレースでは積極的に前に行こうとする馬はいなかった。人気薄のビッグピートが先頭に立 ちはしたが、「前半はスタミナ温存」というのが各騎手の作戦だった。テンの2ハロンは 25 秒2と いうスローな流れ。やがてノーザンダンサー、クアドラングル、ヒルライズの3頭がペースを早め ていき、まったく横一線の先頭集団を形成する。さらに半マイルのポールまでには、ダンサーが 一歩抜け出す格好となった。 最終コーナーでは、ダンサーをつかまえに行こうとしたヒルライズだったが、この馬にもう余力 は残っていなかった。1マイルの標識(残り300㍍)のところでは2頭の差は逆に3馬身へと開い たのである。 ダンサーはそのまま稲妻のようにゴールを通過した。まったくの楽勝だった。そこから2馬身半 遅れて、ヒルライズとザスカンドレルがもつれるようにゴールした。結局、ヒルライズはザスカンド レルにもクビ差交わされる3着に終わったのだった。 優勝トロフィを受け取るため、E・P・テイラーが内馬場へ向かったその瞬間、カナダ総督近衛 騎兵連隊の5人のメンバーがトラックにあらわれ、テイラーを護衛するかのようにその後ろに整 列した。そして、テイラーは大観衆にむけトロフィーを高く高く掲げた。 その後、ダンサーが自分の馬房に戻った頃には、この馬をめぐる新たな問題が巻き起こって いた(ダンサー自身は、何か食べるものを探していたに違いない)。 というのは、ピムリコ・メンバーズ・クラブで行われた祝賀パーティの席上でのこと。ルーロは最 後の一冠となるベルモントSにダンサーを出走させる意志はないと明言したのである。テイラー が驚いたのは言うまでもない。発言の内容それ自体も衝撃的だったが、テイラーにひと言も相 談することなく、いきなり公衆の面前で発表するなどまったく信じられないことだった。 ノーザンダンサーには「距離の壁」がある、そうルーロは説明した。すなわち、2400㍍のベルモ ントは長すぎるというわけだ。 けれども、その翌日、テイラーはルーロと話し合い、とにかくダンサーをニューヨークへ連れて 行くと決定した。ベルモントへの出走は、ダンサーの体調の如何によってのみ判断されることと なった。 ルーロの爆弾発言は、周囲にさまざまな憶測をもたらすことになった。トロントスター紙のミル ト・ダンネルは次のように記している。 「テイラー氏は、先日イギリスを訪問した際に、女王とランチをともにした。(中略)女王は、ノー ザンダンサーのダービー制覇についての祝いの言葉を与えた。(中略)あるアメリカ人記者に 聞いたところでは、女王はテイラーに3冠を狙えと言ったそうだ。したがって、ベルモント出走は 至上命令なのだ」 また、これまでダンサーの実力を疑ってきた人々もようやくその強さを認め始めたようだった。 「ノーザンダンサーは、その強さを頑固として認めようとしなかった連中に、自らはヒルライズを はじめとするすべての4歳馬の頂点に君臨する存在だと認めさせた」(ワシントン・スター紙ジョ ー・ケリー) 「ノーザンダンサーはすごい馬なのだ」とダンサーではなくヒルライズを選んだシューメーカー も語っている。「単純にいえば、彼こそが強い馬だった。それだけのことだ」 クアドラングルの主戦ブラリオ・バエザ騎手はプリークネスについてこう語った。 「我々はみなひとつの大きな問題を抱えていた。あのカナダの馬にとうていかなわないというこ とだ。あの馬だけは手の打ちようがない。それを除けば、私の馬は完璧だった」 バルティモア・サン紙のビル・ボニフェイスはこう書いた。 「ノーザンダンサーが本当にカナダへ帰るのなら、クラシック級の4歳馬を抱えている東海岸 のオーナーたちや調教師たちはどれほど喜ぶことだろう」 1964年5月 18 日 プリークネスの翌々日の月曜日、ダンサーはベルモントパークを目指し出発した。この年のベ ルモントSは、ベルモント競馬場のグランドスタンドが改修中だったために、アケダクトで行われ ることになっていた(古いスタンドは火災の危険があるため1962年に閉鎖されていた。新スタン ドの建設が終了したのは1968年)。だが、ルーロは東海岸地区での調教基地としてベルモント パークに厩舎施設を持っていたため、ダンサーがベルモントへ向かったわけである。 ダンサーの調教は毎日続けられており、調子はまさに絶好調だった。「ルーロも次第に自分は 間違っていたのではないかと思うようになった。この小柄で頑丈なカナダ産馬はベルモントの2 400㍍を現実に走りきってくれるに違いない……」(ジョー・ヒルッチ著『グランド・セニョール』) ベルモントSは米3冠レースの中でも最も過酷なレースである。わずか7週間のうちに行われる 3冠戦線の最後に位置し、しかも最長の距離で争われるのだ。ここではスタミナが最も重要な 要素となる。また、3冠すべてに出走し、これを闘い抜く余力を残すなど並みの馬にできることで はない。 この年までの 45 年間で3冠に輝いた馬はわずかに8頭しかいない。しかも1948年のサイテー ション以降、3冠馬は出ていなかった。1963年にはシャトーゲイがダービー、プリークネスを連勝 し3冠に王手をかけたが、ベルモントでは2着に泣いた。1961年は、人気者ケーリーバックがやは りダービー、プリークネスを連勝したが、最後で7着に敗れ、「ベルモントの歴史に残る敗戦」と 言われた。 そして、今度はノーザンダンサーがこの偉業に挑む番だった。 1964年6月6日 ニューヨーク州ジャマイカ、アケダクト競馬場 アケダクトの上空には、巨大なスタンドを覆い隠すかのように灰色の雲が垂れこめていた。天 気予報は雨になるだろうと告げていたが、それでも今年のベルモントをノーザンダンサーが走 る姿を、そして競馬の歴史にその名を刻みつける瞬間を何とか目撃したいと願う大勢のファン が集まっていた。もちろんダンサーは本命だった。最終オッズは1・8倍。誰もがダンサーの勝利 を願っていたのだ。 しかしダンサーは勝てなかった。 彼のトレードマークともいうべき直線での燃えるような伸び脚は見られず、これまでに何度も 置き去りにしてきた馬たちに先着を許す3着に敗れたのである。このレースでルーロが与えた 作戦は「先行馬をマークする位置を進め」というものだった。だが、ペースは極端に遅く、ハータ ックは行きたがるダンサーを抑えるため手綱を思いっきり引っ張り続けた。先行馬たちの跳ね 上げる泥をまともにかぶってしまったダンサーは、レースの終了後も2時間にわたって唾液と咳 が止まらないほどだった。 大勢の者たちは、期待外れの結果を見て「やはりダンサーには無理なレースだった」と結論し た。たとえば、ニューヨークのスポーツ・インクワイアラー紙には「ノーザンダンサー伸びず」との 大見出しが躍ることとなったし、またデイリー・レーシング・フォームのチャールズ・ハットンも「こ の土曜のレースを見る限り、ノーザンダンサーという馬は距離が持たないようだ」と書いた。 一方では、E・P・テイラーをはじめとする別の見解もあった。すなわち、ビル・ハータックがペー ス判断を誤まり、ダンサーを我慢させ過ぎたのが敗因だとの見方である。これについては、先行 馬の後ろに控えろというルーロの指示が悪かったという者もいれば、「ルーロとハータックは、こ の馬の力をもっと素直に信じるべきだった」と指摘する声もあった。 結局、本当のところは誰にも分からないだろう。だが、この時点で確かなことがひとつだけあっ た。ダンサーの腱は、もう一戦したら引退しなければならないほど悪化してしまっていたのであ る。 1964年6月 14 日 オンタリオ州トロント、ウッドバイン競馬場 ビル・ブレバードにつきそわれ、ニューヨークから到着したノーザンダンサーを待っていたのは、 厩務員や調教師たち、記者、競馬場の職員らの熱狂的な歓迎であった。 無敵のヒーローを故郷に迎えたトロント市民の興奮は相当なものであったが、それでも歓迎 式はアラン・ランパート市長が当初考えていた計画と比べればまったく地味なものに落ち着い た。というのも、市の金融街ベイ・ストリートで盛大なパレードを行ないたいというのが市長の希 望だったからである。だがテイラーは、ダンサーのような「キレやすい」タイプの馬をパレードに出 したりしたら何が起こるか分からないと、これを断った。市長は代わりに「1964年6月8日をノー ザンダンサー・デーとする」と発表し、市のホールでダンサーの名誉を称える歓迎式を開催し たのだった。この歓迎式では、ノーザンダンサーに「名誉市民の鍵」が授与された。この「鍵」は 人間用とは違い、ニンジンで作られた特注品であり、テイラーがダンサーの代理人としてこれを 受け取った。このニンジンの鍵は冷蔵庫で保管され、ダンサーがウッドバインに到着すると、改 めて本人に授与されることとなった。ダンサーがこれをあっという間に平らげてしまったのはいう までもないだろう。 ウィンドフィールズのオフィスには、カナダ全土、アメリカ、そしてバハマから山のようなファンレ ターが殺到した。これに対応するという大仕事を引き受けたのはテイラーのアシスタントを務め ていたベス・ヘリオットだった。もちろんテイラー夫妻も協力し、これらの手紙や「写真を送ってほ しい」という要望のすべてに返事が出されたのだった。 「僕は8歳です。もうすぐ4年生になります。ノーザンダンサーが大好きです。新聞などに載っ ているノーザンダンサーの写真はぜんぶ大事に取ってあります。けれど、どれもあまりよく写って いません。ノーザンダンサーのカッコいい写真を送ってくれませんか」(ケンタッキーのファン) 「わたしは 12 歳の女の子です。ノーザンダンサーのことがほんとうに好きです。ベッドルームに ノーザンダンサーの写真を飾りたいので、1枚送って下さい。お願いします。(追伸)こんな手紙 を書くなんてバカみたいと、お母さんは言っています」(トロントのファン) ニューブランズウィック州のサイン・コレクターからは「ダンサーの足型を送って欲しい」という 手紙が届き、また別の者は「蹄鉄を下さい」と書き送ってきた。さらに「次のダンサーのレースに 賭けて下さい」と2ドル札を送ってくるファンも少なくなかった(お金は当然、返送された)。 ブリティッシュコロンビアに住む女性は、ダンサーのために四つ葉のクローバーを送ってくれた し、中には、将来のダンサーの子供とユタ州の油田の使用権を交換して欲しいと申し出る者ま でいた。数多くのファンが、ダンサーを描いた絵やイラスト、詩やエッセイ、バースデーカードを送 ってくれたのだった(ベルモントの後には激励の手紙も来た)。 そうした中に、ブラントフォード盲学校に通う少年からの「ノーザンダンサーに会いに行っても いいですか。触れてもいいですか」と書かれた手紙もあった。ウィニフレッド・テイラー(テイラー 夫人)はすぐに「喜んで紹介します」との返事を出した。 このウィニフレッドとノーザンダンサーの絆は特別なものだった。生れたばかりの頃から自分に 寄せられてきたウィニフレッドの愛情をダンサーは理解し、そして自分もウィニフレッドを好まし く感じている、誰の目にもそう見えた(後の話とはなるが、彼女が種牡馬となったダンサーをメリ ーランドに訪ねたときのエピソードがある。「馬房から出しましょうか」との牧場スタッフの言葉に も関らず、ウィニフレッドは「わたしの方が行くわ」と馬房の中に入って行った。すると、すぐにダ ンサーは彼女の手をくわえ、ウィニフレッドをエスコートするように馬房の中を歩き回り始めたの だった。それを見たスタッフは当然青くなった。ダンサーがその気になれば、彼女の手首など一 瞬で噛み砕かれてしまうのである。だが当のウィニフレッドの様子は、あわてることもなく落ち着 いたものだった。そして最後には、ダンサーも彼女をきちんと馬房の外まで送ってくれ、ウィニフ レッドもダンサーにお礼を言ったのだった)。 さて、ウィニフレッドと目の見えない 13 歳の少年がウッドバインに着いたのは、ノーザンダンサ ーが馬房で休んでいるときのこと。とつぜんの聞き慣れた声に耳をピンと立てたダンサーは、ナ イロン製の覆いの上まで首を伸ばして、厩舎の並びを見渡し始めた。声の主はもちろんウィニ フレッドだった。彼女は3つほど先の馬房のところでホレイショ・ルーロと話していた。それを見た ダンサーは首を下げ、低くいなないた。 ルーロは、手紙での約束にしたがうこと、少年をダンサーに会わせることは危険じゃないかと 心配していた。というのは、彼自身、向かってくるダンサーから逃げ出してきたばかりだったから だ。逃げなければどうなっていたかは明白だ。 しかし、ウィニフレッドが近づいて行ったときのダンサーはまったく落ち着いたまま、彼女へ向 かって静かに首を低く伸ばすのだった。そして、彼女が自分を撫ぜながら、少年のことや手紙の ことなどを話す間も、まるで違う馬にでもなったようにおとなしく聞いていた。やがてウィニフレッ ドは、やさしく、ゆっくりと少年の手をダンサーの鼻先に触れさせる。そして、ダンサーは少年が 自分に触れている間、ずっと年老いた馬車馬のように静かに立っていた。 ノーザンダンサーは、カナダ中に住むあらゆる人々を感動させた。ブリティッシュコロンビア州 のきこりたち、アルバータ州で働く牧童、プレーリー地区に暮らす農民たち、ベイ・ストリートの株 式ブローカー、ケベック人のパン屋、沿海諸州の漁師たち・・男であるか女であるかを問わず、 大人から子供に至るまで、あらゆるカナダ人にとってノーザンダンサーは共通の絆となった。 だが、私たちがこのようにノーザンダンサーへの賞賛においてひとつに結びついていたことも、 カナダの文化においては馬というものがその分かちがたい一部になっていることを考えれば、別 に驚くべきことでもないのである。 カナダにおける競馬は、セントローレンス川から五大湖周辺にかけて建設された小規模のイ ギリス人駐留地で行われたコンテストを、その発祥としている。 ナイアガラで知られるフォートジョージ近辺の草原は、そのままでも完璧な芝コースとして使え た。そして 18 世紀末までには、3日間の開催が社交上の大イベントとして行われるようになっ た。競馬開催の打上げの日には、派手なディナーや賑々しいパーティが行われ、人々は夜が 明けるまでダンスに興じた。 また当然ながら、軍の将軍から田舎の医者にいたるまで、あらゆる人々が馬を移動手段とし て利用していた。そうした状況の中では、レース自体がもともと2頭の馬がいれば成立するもの であるから、昔は自然発生的にレースが行われることも多かったのである。つまり自分の馬が一 番だと思う者同士が賭け金を出し合い、勝った者がすべてを取ったわけだ。そうした場合には 街のメインストリートが直線コースに早変わりしたというから、歩行者にはまったく迷惑な話だっ た。結局、公共の安全を優先するということで「レースは街のはずれで行なうこと」という決定が なされた。こうした街はずれのレース場所に、やがては観戦用の小さなスタンドが立てられるこ とになり、これがカナダ最初の競馬場となった。 初期の競馬はこのように地方紳士たちの娯楽と見なされていたので、ルールらしいルールもカ ナダではほとんど作られなかった。したがって、ターフクラブ委員会もプロのギャンブラーたちの 不正に対抗するだけの力を持っていなかった。 ここではインチキが日常茶飯事であった。レース中にいつの間にか鞍の中から無くなったハン デ鉛が、レース後の検量までには忽然ともとの場所に帰っている、そんな話もよくあることだった。 馬のすり替えも公然となされた。ときには毛色さえ違う馬が使われたというからめちゃくちゃであ る。さらに、レース委員に十分な謝礼がなされた場合には、なぜか最初にゴールした馬とは違う 馬が一着になったことさえあった。 カナダ競馬において最も格式の高いレースとされているのはクィーンズプレートである。これは 毎年開催されるレースとしては北米最古のものだ。その第一回が行われたのは1836年、セント ローレンス川沿いのトロワリヴィエールという小さな村でのこと。英国王室がレース・スポンサー となったので、当時の英国国王ウィリアムⅥ世にちなんでキングズプレートと名付けられた。 1859年、トロントターフクラブはウィリアムⅥ世の後を継いで英国国王となったビクトリア女王 に対し、「カナダウェスト(オンタリオ)の競馬に前王同様の名誉を賜りたい」との請願を行なっ た。ビクトリア女王はこれを認め、年間100ギニーの賞金を与えることとした。翌年の6月 27 日 には、トロントの北西7㌔ほどのところにあるカールトンの競馬場でクィーンズプレートとして最初 の競走が開催された。このレースを見るため、4千人もの人々が、あるいは馬車に乗って、あるい は徒歩で、ほこりっぽく曲がりくねった道を押し掛けたのだった。 トロントターフクラブの会長を務めていたカジミール・グロウスキー大佐がスタートを告げるピ ストルを撃つと、8頭の馬たちが元気に飛び出していった。このレースは1マイルの距離でのヒー ト競走として行われたので、同じ馬が2回勝って初めて優勝したことになる。その最初のヒート では、馬群が審判台を過ぎたあたりで、パリスという馬に騎乗したネルソン・リトルフィールド騎 手が落馬し、一瞬、死んだかのように動かなくなり、観客たちをぞっとさせた。しかしリングフィー ルドはやがて立ち上がり、安心した観客たちは再びレースに集中したのだった。この最初のヒー トでは、ボブマーシャルが本命のドンジュアンを半馬身ほどの差で下した。2回目のヒートが行 われたのは 15 分の休憩の後。このときは、落馬の痛みも引いたように見えるリングフィールド 騎手がドンジュアンに騎乗。この乗り替わりが効を奏したか、今度はドンジュアンがボブマーシャ ルに数馬身差をつけて勝った。そして、最後のヒートでも、リングフィールドとドンジュアンのコン ビは、再びボブマーシャルを下し、第一回クィーンズプレート馬の栄光に輝いたのだった。 その後 20 年にわたり、クィーンズプレートはオンタリオ州のあちこちの村や街で開催されたが、 何らかの事件が起きないことの方が珍しかった。ハミルトンで開催されたときには、観客席で喧 嘩を始めた消防士たちが審判台を超えコースにまで出てくるというハプニングがあった。これに 参加していたひとりが走ってきた馬に蹴られ乱闘は一時中断したが、また再開され、しばらく続 いたという。その2年後には、やはりコースに出てきたならず者たちを騎兵隊が放り出すまでの 間、レースの出走が遅れるという事態が発生している。 グロウスキーを初めとするターフクラブの理事たちは王室の名に恥じない厳格なレースとする ための努力を続けてはいたが、一方のならず者たちはクィーンズプレートを大いに飲み、大いに 賭け、そして大いに喧嘩する絶好の機会と考えていたようだ。 トロント・デイリー・リーダー紙は、1861年のクィーンズプレートの様子をこう伝えている。 「スタンドの外では、一見して普通の観客にしか見えないイカサマ師たちが、何も知らない観 客や大金を懐にひと勝負に訪れた遊び人たちをカモにしていた。サイコロが人気のゲームとな っていたようだ」 1881年、当時副官に昇進していたグロウスキー、ウッドバイン競馬場のオーナーである元酒 場経営者のジョセフ・ダガン、トロントの郵便局長を務めていたT・C・パティソンらが協力して、 オンタリオジョッキークラブを設立した。同クラブの使命は「すべての悪しき慣習を厳正に排除 し、馬主、調教師、騎手、そして賭けを行なう市民を対象とした一個の規律を打ち立てること」 だった。 その2年後、グロウスキーはカナダ総督のローン公爵とその妻ルイーズ王女(ビクトリア女王 の娘)をクィーンズプレートに招待した。イギリスに帰国した公爵は、女王に対し、クィーンズプ レートの開催地を一ヵ所に定めるべきだと進言しているが、これは間違いなくグロウスキーの入 れ知恵だろう。ビクトリア女王もこれを認め、その後現在にいたるまでクィーンズプレートはオン タリオジョッキークラブの監視の下、トロントで行われることとなったのである。 1964年6月 20 日 ウッドバイン競馬場 第105回クィーンズプレートに出走するため、ノーザンダンサーが装鞍所に続く通路に姿を見 せると、大勢の観客たちはこの馬をひとめ見ようとフェンスにしがみついた。この日のウッドバイ ン競馬場には、これまで一度も競馬場を訪れたことも、それどころか競馬に賭けたことすらない 多くの人々がノーザンダンサーを応援するためにやって来ていた。 コースに登場したダンサーを紹介するダリル・ウエルズ・アナウンサーの声も「そして、ゼッケ ン2番のノーザン……」の後は、観客たちの賞賛の叫び声に消され聞こえないほどだった。 牡馬6頭、牝馬1頭の計7頭がノーザンダンサーに挑戦せんとばかりに出走していたが、ファン は最終オッズ1・15 倍の大本命にダンサーを支持した。そして、ダンサーに賭けられた何千枚 もの馬券はレース後も決して換金されず、この日の記念としていつまでも保管されることになる のだった。 スタート直後、8頭の馬たちが最初の直線を通過したときのダンサーの位置は最後方から2 頭目。ビル・ハータックに手綱をがっちりと抑えられ、併走する紅一点のカナダオークス馬レイタ ーメルのため内ラチ沿いに押つけられていた。これを見た観客たちは、いっせいに立ち上がる。 「このクィーンズプレートもベルモントの繰り返しとなってしまうのだろうか。あるいは、もっとひどい 結果に終わるのか」 第一コーナーに差しかかるところでも、ダンサーは絶望的なまでの最後方を走っている。「こん なふうに負けてしまう馬ではないはずだ。恐ろしいまでに何かが間違っているのだ」 このファンにとっては心臓が止まるような瞬間について、レース後にハータックが説明したとこ ろによると、ノーザンダンサーは思いっきり引っ張っているときでさえ、全力で走る他馬よりも早 かったという。「いったん馬群の一番後ろまで下げて、そこから抜けだそうと思った。けれどもノー ザンダンサーはスピードを落としてくれなかった。仕方がないので、少しでも隙間ができたら突 っ込もうと思った」 だが、ダンサーの右側には数十センチだけ前に出るようにしてレイターメルが走っており、その 内側もリターントリップが地響きを立てながら走っていた。隙間など開きようがなかった。 結局、空間を作り出したのはダンサー自身の力であった。ハータックが手綱を緩めると、ダン サーはレイターメルとリターントリップとの間をこじ開けるように割り、後はオールシーズン、ピア ロウを軽々と交わし、トップルーラ、グランギャルソン、ラングクレストを一気に抜き去り先頭に 出た。 観客たちは、気が狂ったように叫び続ける。「カモン・ダンサー! カモン・ダンサー」 その声はダンサーが後続に7馬身半をつけてゴールインするまで止むことはなかった。 2着には、もう一頭のニーアクティック産駒ラングクレストが入り、3歳時のカップアンドソーサ ーSではダンサーを負かしたこともあるグランギャルソンはさらに5馬身離された3着に終わった。 ノーザンダンサーは、このクィーンズプレートを自らのスピリットで勝ったのだった。彼はわずか1 ヵ月半の間に4つのクラシックレースを走った。そしてベルモントで傷めた左前脚は、もう我慢で きないほどに悪化していた。ダンサーはクィーンズプレートを3本の脚で走り、そして勝ってのだ った。 だが、これがダンサーにとって最後のレースとなった。 アスリート・オブ・ザ・イヤー、そして世紀の大種牡馬へ 1964年 10 月 27 日 オンタリオ州オシャワ、ナショナルスタッドファーム ガタガタと音を立てながら入り口の石柱の角をすり抜け、トレーラー式馬運車がナショナルス タッドファームの敷地へと入って行く。ノーザンダンサーは、その荷台の上で踏ん張るようにして 突っ立っていた。空気は冷たく澄みわたり、牧場通路の両脇に植えられた樫や楓はまるで万華 鏡のような鮮やかな色に紅葉していた。その横の小放牧場では、馬たちがものうげに草を食ん でいる。乗馬区域の向こうに広がる森の中を流れる川では、鮭たちが急流に逆らいながら流れ をのぼっていく、そんな季節だった。 馬運車は種牡馬厩舎の大きな建物の前まで来るとスピードを落とした。それをハリー・グリー ンが出迎えた。専用の広々とした馬房にノーザンダンサーを案内してやるため、ここで待ってい たのである。ダンサーはついに故郷へ帰ってきたのだった。 ノーザンダンサーの左前脚の腱の状態は、相当に深刻なものだった。これ以上、レースを重ね たとしたら取り返しのつかないところまで悪化したかもしれない。ダンサーの場合、痛みを気力 でねじ伏せて走るタイプの馬なので、特に危険は多い。 屈腱炎は通常、全力疾走の結果として生じることが多い。したがって、さまざまな種類の馬の 中でも、サラブレッドがもっともこれにかかりやすい。だが全力疾走を開始したばかりのときやレ ース中など、馬自身の状態が最高となっている間は炎症は発生しない。けれども疲労は確実 に蓄積されていくのである。そして筋肉が緊張を失った瞬間から、こうした疲労がすべて腱にか かることとなる。しかし腱は弾力性を欠いているため、これに対処しきれず、炎症という形であら われるわけだ。最初の症状としては軽い腫れが見られる程度に過ぎないが、これはさまざまな 問題をもたらす前兆なのである。もし治療しても腫れがひかないような場合には、一切の運動 をあきらめなくてはならない。最悪の場合、腱の断裂につながるからだ。 ベルモントSの様子を撮影したフィルムを見ると、ノーザンダンサーが屈腱炎の「火種」をいつ、 どのようにして抱えこむこととなったかがよく分かる。 まず気がつくのは、ハータックががっちりと手綱を抑えてダンサーを行かせようとしなかったこと。 これはダンサーのような狂暴な気性の馬にとっては、相当にエネルギーを消耗させるものなの だ。さらに2番手集団のトップという位置取りのおかげで、先行馬の跳ね上げる泥や土をまとも にかぶることとなった。これもかなりダンサーを怒らせたはずだ。 いつものように先頭に立つかわりに先行馬の後ろにつくこととなったこのレースの序盤で、ダン サーは首を曲げるようにして走っている。その間、ダンサーとハータックはずっと喧嘩していたの であり、そのため多くのスタミナが消耗されることとなった。だからこそ、ゴーサインが出たときに も、いつもの爆発的な加速力を発揮することができなかったのである。そして、このときの無理 がその後の屈腱炎の発端となった。 ベルモントSを勝てなかったこと自体は、そう大きな意味を持つことではない。確かにノーザン ダンサーのファンはがっかりしただろうし、もし3冠馬になっていたとしたなら種牡馬としての価値 も大きく上がったかも知れない。だが、本当に問題なのは2400㍍の距離で勝てなかったという 点にこそあるのだ。これを見た生産者たちの多くは、「ノーザンダンサーという馬は2400㍍を走 るスタミナがない」あるいは「気性的に長距離は持たない」と考え、その産駒についても「素晴ら しいスプリンターにはなるだろうが、長い距離はもたない」と結論した。つまりダンサーは、その競 走馬としてのスタートのとき同様に、種牡馬としても専門家たちに能力を疑われながら出発す ることとなったのである。 それでも、テイラーはダンサーの引退を最後まで迷っていた。ケンタッキーダービー馬には、ワ シントンDCインターナショナルの出走権が自動的に与えられるからだ。第 13 回ワシントンDC は、ローレル競馬場で 11 月 11 日に予定されていた。当時の北米ではもっとも権威あるレース だ。というのは、欧州やイギリスの馬が北米の馬と対戦する機会は、これとカナディアン・インタ ーナショナル(現在はロスマンズ・インターナショナル)のみに限られていたからだ。そして、この 年にも、英ダービー馬サンタクロースや仏ダービー馬ルファビュリューなど、各国のチャンピオ ンホースたちが招待されていた。 もしダンサーがこのレースに出走し、世界のベストホースたちを打ち負かしたなら、もう誰もこの 馬の能力を疑う者はいないだろう。そうテイラーは考えていた。だが結局は、そのために左前脚 を壊すリスクを冒しても仕方ないとの結論に達したのである。 1964年 11 月6日、彼は正式にノーザンダンサーの引退を発表した。初年度種付料は1万ド ル(出生条件)と決められた。 すぐにアメリカの大手牧場から「シンジケートを組みたい」「アメリカの大牧場で供用した方が よい」など多くのオファーが届くこととなったが、テイラーはすべてを断っている。そのときに作ら れた断り状は、テイラーの気持ちをよく表わしている。 「この馬(ノーザンダンサー)にお寄せいただいた大きな関心と、シンジケートを組むか、貴殿に この馬をお譲りする際には、条件をすべて私にお任せ下さるとのお言葉には心から感謝申し上 げます。 今回の結論に到達するまでに、私が真剣に悩んだことはご理解いただけると思います。もちろ ん金銭的なことが問題なのではありません。単純に申し上げますと、私はこの馬をそばに置い ておきたいのです。そしてカナダにいる大勢のファンは、もし私がこの馬を別の場所に送ること を決めたとしたら、決して許してはくれないでしょう。以上、なにとぞご理解いただけますようお 願いいたします」 公式な引退の発表がなされる前に、すでにダンサーへの申込みはほぼ一杯になっていた。テ イラーは自らが所有する中から最良の繁殖牝馬 10 頭をダンサーにつけるつもりでいたし、北 米を代表するような牧場からも多くの申込みがきていた。地域別に見ると、最も多かったのはケ ンタッキーの牧場。たとえばクレイボーンファーム、グリンツリースタッド、ハーミテイジファーム、 ジョナベルファーム、マンチェスターファーム、スペンドスリフトなどがそうである。メリーランド州 からはリチャード・C・デュポン夫人やハリー・ラブがその繁殖牝馬を送ってくることになっていた。 また、ペンシルバニア州のヒュージ・グラント、ヴァージニア州のニドリースタッド、ニューステッド ファーム、ケズィックステーブルもダンサーの種付権を予約していた。もちろんマックスベル、ビ ル・ビースレイ、ラーキン・マロニー、ジョージ・ガーディナーらカナダの生産者もダンサーの種を 求めた。 気楽な第二の生活にすっかり慣れたノーザンダンサーは、若干だが体重も増やしていた。彼 がこれまで送ってきたジプシーのような生活・・馬運車に揺られ続ける長旅、見知らぬ競馬場 の風景、朝の調教、興奮のレース、叫び声をあげる観客たち・・、そうしたすべてはもう過去のも のであった。かわりに、食べること、寝ること、馬房の中をうろつくこと、そして厩舎の西側にある専 用の放牧場を見回ること、それらで埋め尽くされた新たな生活が始まっていた。 1964年 11 月 14 日 この日、ノーザンダンサーはディリーレーシングフォーム紙選出委員による満場一致の支持で、 カナダ最優秀4歳馬・年度代表馬に選出された。だが、委員たちはダンサーにこれらの名誉を 与えるために、まず選考基準の改定から始めなくてはならなかった。 年度代表馬の表彰が始まったのは1951年のこと。このとき設けられた選考対象基準は「カナ ダ産馬であること」「ベストレースをカナダ国内で走ったこと」のふたつだけであった。これは当 時のカナダ競馬の状況をよく反映したものだ。ヴィクトリアパークやウィンドフィールズ、ニーア クティック、ナタルマといったテイラーの馬たちを例外とすれば、その頃のカナダ産馬がアメリカ に乗り込んでレースに出ることはほとんどなかったからだ。 だが、これではノーザンダンサーを年度代表馬に選出できないことになる。したがって、最もふ さわしい馬に最高の栄誉を与えるという目的の下に、これまでの基準から「ベストレース」の規 定が削除されたのだった。さらに、「最優秀4歳馬」「最優秀3歳馬」「最優秀古馬」の3つの顕 彰カテゴリーがこの年から導入された。 最優秀古馬に選出されたのは、ダンサーとよく似た血統の、だがまったく異なる運命を歩むこ とになったイーディという馬だった。その父はエンパイアディ。そう、カナダに着いたときに船から 降りることを強硬に拒み、最後にはハリー・グリーンに助けだされたあのレディアンジェラの仔馬 である。 この年、5歳となっていたイーディは1200㍍から1700㍍のレースで勝利をあげ、また2000㍍ のレースでも入着する活躍を見せている。しかし、これらの活躍に対しイーディに与えられたも のは、ファンの声援だけだった。以前に2500ドルのクレーミングレースで低迷していた頃に、オ ーナーになった誰かによって去勢されてしまっていたからである。 1964年 12 月3日 この日、テイラー夫妻は、最優秀4歳馬の表彰を受けるためサラブレッド競馬協会のパーティ に出席した。 カナダでは年度代表馬の栄誉にも輝いたノーザンダンサーだったが、アメリカにおいては4歳 馬部門のみの受賞であった。全米の関係者がこの年の年度代表馬に選んだのは、名馬ケルソ。 8歳になっていた同馬は獲得賞金レコードも樹立しており、これで5年連続での受賞だった。 さらに年末には、これまでの歴史でいかなる名馬にも与えられたことのない賞がノーザンダン サーに与えられることとなった。 カナダの主要なスポーツジャーナリストたちは、30 名にものぼるれっきとした「人間様」の候補 をしりぞけ、ノーザンダンサーを「アスリート・オブ・ザ・イヤー(年度代表スポーツ選手)」に選ん だのだ。 この年はちょうどオリンピックイヤーにあたることもあり、その候補には多くの忘れがたいスポー ツマンたちが名を連ねていた。たとえば、以下のような者たちだ。 陸上のビル・クローザーズ、ハリー・ジェローム。ボート競技の金メダリスト、ロジャー・ジャクソ ン、ジョージ・ハンガーフォード。柔道の銀メダリスト、ダグ・ロジャース。世界一に輝いたカナダ・ ボブスレーチーム。ジーン・ビリーヴォー、チャーリー・ホッジ、スタン・ミキタ、ゴーディ・ホーらの ホッケー選手。トム・ブラウン、トミー・グランドらのサッカー選手。ボクシングのジョージ・チュヴァ ロ。そして、ロン・ターコット騎手。 これらの名スポーツマンたちを押しのけ、ノーザンダンサーに素晴らしき名誉が与えられたこと はすべてのカナダ国民を喜ばしたわけではない。たとえば、ビル・クローザーズのファンだった モントリオールのラジオ局CFCFのラス・テイラーは、この名誉を「馬ちくしょう」にかっさらわれた ことに激怒したという。だが、ほとんどの者はこの決定を好意的に受け入れたのであり、牧場にノ ーザンダンサーを見に出かけるのが流行となったほどだった。週末ごとにあまりに多くのファン が押し掛けたため、ウィンドフィールズでは混雑と混乱を避ける目的で、見学を一時中止とし なければならないこともしばしばだった。 1965年2月 ナショナルスタッドファーム 冷たく灰色の雲に閉ざされた朝の空気の中で、ノーザンダンサーはハリー・グリーンがいつ自 分を外へ出してくれるか、落ち着かない様子で待ちわびていた。 ナショナルスタッドへ戻ってきてからのダンサーの毎日は、まるでハンで押したようにまったく 変わらないものだった。ちょうど6時半には、助手とともにハリーが種牡馬厩舎へと姿を見せる。 そしてダンサーや他の種牡馬たちにカイバを与え、それから放牧場に馬たちを出してやるとい う手順だ。 だがこの日のダンサーは外へ出してもらえなかった。 現役時代には食べることに異様なほどの執着を見せたダンサーだが、引退後は外へ出ること、 自由に歩き回ることにその対象が変っていた。たとえどんなに雪が深かろうとも、寒さが厳しか ろうとも、ダンサーの望みはただひとつ、外へ出ることだけだった。したがって、この日のダンサー は、いつも通りに外へ出してもらえなかったことで落ち着きを失い、そして怒っていた。 午前 10 時頃になって、やっとハリー・グリーンがダンサーの前に姿を現した。するとダンサー は後ろ脚で立ち上がり、右脚の蹄で床を激しく叩いてから、柵越しにハリーをにらみつけた。 注意深く近づいたハリーは、ダンサーの信頼を何とか取り戻すと、頭絡に引き綱を付け、広い 通路へとダンサーを導き出した。外では凍えるような風が吹きつけていたが、ダンサーはさも嬉 しげにそこらを跳ね回った。しかし、この日の行き先はいつもの放牧場ではなく、屋内馬場ヘと 続く通路だった。ついにダンサーにとって初めての種付が行われようとしていたのであった。 ダンサーの最初の相手に選ばれたのはフレミングページだったが、それにはじゅうぶんな理由 があった。第一に、フレミングページはカナダ産牝馬としては過去最高といってもよい成績を残 した競走馬だった(迷信家のために言い添えるなら、フレミングページはその母フレアリングトッ プにとっての7番仔にあたり、また父ブルページにとっては第7世代の産駒だった)。 フレミングページは2歳のときフランク・シーアマンにいったん売却されたのだが、球節に軽い 炎症があったために返却され、テイラーが自分の所有馬として走らせることとした馬だった。も しシーアマンがフレミングページの球節にクレームをつけなかったとしたら、サラブレッドの歴史 自体が変わっていたことだろう。というのも、シーアマンがフレミングページのオーナーとなってい たら、いやテイラー以外の誰がオーナーになっていたとしても、この馬をアメリカで走らせること はなかっただろうし、したがってこの馬が競走馬としていかに優れた能力の持ち主であるかが 証明されることもなかったろう。当時のカナダ人馬主たちは、国内の競馬だけで完全に満足し ていた。彼らにとって、競馬は厳しいビジネスの世界をひとときだけ忘れることのできるレクリエ ーションでしかなかったのである。彼らは自分の愛馬が競馬場を走る姿を楽しむ一方で、わざ わざ外国にまで遠征させることについてはその必要をまったく感じていなかった。しかし、テイラ ーは違った。彼にはカナダ馬の優秀さを証明するという使命があった。 また、小さな厩舎の持ち主であるシーアマンがフレミングページのオーナーになっていたら、ノ ーザンダンサーに交配させることもしなかったろう。したがってフレミングページがニジンスキー の母となり、またザミンストレルの祖母となることもなかったわけだ。現実には、これらの名馬の 存在があったからこそ、ノーザンダンサー産駒に爆発的なまでの人気が集まったのである。 フレミングページはいわゆる「遅咲き」の馬だった。デビューも3歳の9月と遅く、その年にはほ んの数戦しかしていない。だが4歳を迎えると、その伸びやかなストライドで自分の存在を強く アピールする活躍を重ねることになった。まずアメリカに遠征した彼女は、3年連続でチャンピ オンホースに選ばれることになるサケイダという牝馬と死闘を繰り返した。このサケイダという馬 はタフな牝馬で、生涯で合計 41 戦もしているが、着を外したことはわずかに4回だけ。結局、 牝馬の獲得賞金世界レコードとなる 80 万ドル近くを稼ぎだしている。フレミングページはその サケイダとオークスプレップS、ケンタッキーオークスで対戦し、それぞれ4着、2着と好走してい る。その後はカナダに戻り、カナディアンオークスを快勝。さらに一週間後には牡馬相手のクィ ーンズプレートにも勝ち、その実力とスタミナとをカナダの競馬ファンに見せつけたのだった。 優秀な競走成績と同じく重要なことは、フレミングページがノーザンダンサーよりも 10 ㌢近く も身長の高い大型馬だったことである。この頃までにはダンサーの競走能力は疑うべくもないも のとなっていたが、それでも小柄な馬格は相変わらず問題視されていた。ダンサーのような小 柄な馬を欲しがる者は誰もいなかったのである。そこでフレミングページをダンサーに付けるこ とで、産駒が馬体的には母親似に出ることを期待したわけだ。 ノーザンダンサーがフレミングページの存在に気付いたのは、屋内馬場へと続く通路の中ほ どだった。彼女はすでにじゅうぶんに発情していたのである。ダンサーの方も屋内馬場に到着 する頃にはハリーが抑えきれないほどに興奮していたが、ここでひとつ当然の問題があった。何 とか使命を果たすべくフレミングページに挑んだダンサーだが、いかんせん身長差がありすぎ た。うまくできないダンサーにフレミングページの方はうんざりしてきたようで、嫌がってその肋 骨を蹴飛ばし始めたのだった。 「だが、我々は非常に科学的な解決法を見つけた」とウィンドフィールズのピーター・プールは 笑いながら語っている。プールは、ダートになっていた屋内馬場の床にフレミングページを立た せるための浅い穴をスタッフに掘らせることとしたのである。それからコンクリートを流し込み、ア スファルトで表面を覆い、すべらないようにと毛布をかぶせた。こうしてノーザンダンサーはやっ とフレミングページを相手に種付けを済ませたのだったが、このときの種は残念ながら死産(双 子)に終わった。 ダンサーはすぐに「種牡馬の仕事」に夢中になったようだ。ウィンドフィールズには100頭を超 える牝馬がいたが、そのすべてに種付けしろと言われても、よろこんで励んだことだろう。だが、 ダンサーにとっては悔しいことに、そこには彼以外にも父ニーアクティックを含む8頭の種牡馬 がいたのである。 牝馬への強い関心は、ダンサーが現役だった頃から見られていた。調教のときにも、近くに牝 馬がいるだけで集中を欠くありさまだったのである。それでなくとも、狂暴で何をしでかすか分か らない気性だったため、ルーロはテイラーに「ダンサーを去勢したい」と提案することとなった。そ うすれば、いまより落ち着きが出て扱いやすくなり、牝馬よりも調教やレースに専念してくれるだ ろうというわけだ。 だが、テイラーの答は当然ながら「ノー」だった。彼には数年前にルーロの申し出にしたがって ローマンフレアという馬を去勢したことがあるが、後になってそれを悔んでいた。 テイラーが2歳だったローマンフレアを購入したのは1961年のこと。リボーを父とし、当時成功 していた種牡馬ナンタラーを兄に持つ同馬を、テイラーは将来の種牡馬候補として手に入れ たのだった。 ローマンフレアもやはり気性の非常に荒い馬で、そのため調教を行なうのも困難なほどであっ た。ノーザンダンサー同様、近くに牝馬がいると、すぐにそちらに気が取られてしまうのだ。この 馬の競走能力をフルに発揮させるためには騙馬にするしかない、そうルーロはテイラーを説得 し、去勢を行なうことになった。しかし結局ローマンフレアは1500ドル・ランクのクレーミング・ホ ースで終わってしまったのだった。 種牡馬になるような馬、それも特に繁殖能力が強い馬の場合は、ただ調教を行なうのが困 難なだけでなく、危険な馬であることも多い。種としての生存メカニズムが、優れた遺伝子を持 つ種牡馬たちをより闘争的で、より狂暴な存在としているのだと思う。 野生馬の群れを観察すると、ひとつのグループに種牡馬は一頭しか存在を許さない。強さと スタミナとに最も優れた牡馬だけが、群れのボスたる種牡馬となれるのであり、その後もボスの 座を守るための闘いは続いていく。理屈としては、これにより強さとスタミナとが次の世代へと継 承されることになるわけだ。 こうしたボス馬は常に若駒たちの挑戦にさらされることとなる。若い牡馬たちは生まれてから一 年ほどして独力で暮らせるようになると、群れを離れて他の牡馬たちに合流する。そこで若駒 たちは、いつかボス馬から群れを奪い取る日のため、まるで若きボクサーのように闘いの訓練を 積み重ねるのだ。 ノーザンダンサーに話を戻すと、そのようなダンサーであるから、他の種牡馬が種付のために 自分の馬房の前を通り過ぎたりしたときには、これはもう烈火の如く怒り狂った。後ろ立ちし、跳 ね上がり、大声でいななき、そして馬房中を蹴りまわったのである。水桶もその被害にあったし、 飼葉桶にいたっては壊されてしまったほどだ。問題は、ダンサーが牧場内のすべての牝馬を自 分の群れの一部であり、その種付も当然自分が行なうものだと考えていたことにある。だから、 他の馬が種付場に向かうのを見て激怒したのだった。 ダンサーを放牧場に出すなどの試みもなされたが、これも解決策とはならなかった。泡汗を吹 き出すまで走り回り、そのまま放っておけば脚がおかしくなる危険さえあったからだ。 こうした状況の際の最終手段として牧場スタッフが考えたのは、ダンサーを馬房に繋いでしま うことだった。そのために金属チェーンが用いられた。いちばん強い麻紐でさえも、ダンサーにか かれば食いちぎられてしまうからだ。彼らはチェーンの一方を馬房の入り口の鉄の棒にまきつけ、 もう一方をダンサーの頭絡のリングに引っ掛けることとした。 ハリー・グリーンやピーター・プール、そしてその他のスタッフたちは「これならうまく行くだろう」 と考え、他の仕事に向かうために解散した。 だが彼らが馬屋を離れてから何秒もしないうちに、ダンサーの馬房の方からものすごい音が聞 こえてきた。あわてて戻ってきた彼らの目の前にあったのは、逆さまにチェーンにぶら下がるノー ザンダンサーの姿だった。ダンサーはチェーンがあろうとなかろうとそんなことは関係なく、たと え何が邪魔しようと絶対に種付場に行くつもりで、馬房の仕切りを乗り越えようとしたらしかった。 スタッフがチェーンを外してやると、ダンサーは大きな音を立てて地面に落ちたのだった。 そのような騒動はあったものの、この年にダンサーは合計 35 頭の繁殖牝馬との交配を行なう ため、種付場への道を踊るようにして進むことになった。獣医の検査の結果、そのうち 26 頭が 受胎していることが分かった。そして翌年のナショナルスタッドでは、ダンサーの子供たち 10 頭 が元気に遊びまわる姿を見られることとなった。他の牧場でも、11 頭のダンサー産駒が誕生し ている。 ノーザンダンサーの新たな伝説が始まろうとしていたのである。
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