第21号(06/18)「スポーツの力」

№21
平成22年6月18日
【発行】
豊橋市立岩西小学校 校長室
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勝ったから言うわけではありませんが、試合開始前
さて、小学校5年生から大学4年までの12年間、
のセレモニーを見て「今日は何だかやってくれそう」
ひたすらサッカーを続けていたことは、先日の朝会で
だと思っていました。いつもは国歌「君が代」が流れ
子どもたちに話したとおりです。わたしの現役時代は、
ても、歌っていない選手が多かったのに、あの日はお
メキシコ五輪で日本が銅メダルを獲得した後、そして
そらく大きな声で歌っていたからです(「おそらく」と書い
Jリーグが誕生するまでの狭間の期間で、サッカーが
たのは、テレビの音声では歌声が聞けなかったからです。選手の口の
マイナースポーツだったころです。
大きさや表情でそう感じました)。しかも、全員が肩を組んで。
当然、ワールドカップは開催されていましたが、日
後の報道で知ったのですが、
「全員肩を組んで国歌を歌
本が本大会に出場するなんてことは、夢のまた夢。別
おう」と提案したのは、闘莉王だったそうですね。セ
世界の話でした。日本が出場しないワールドカップを
レモニーの光景を見ていて、選手の一体感やこの試合
メディアが注目するはずもなく、テレビ中継はほんの
に懸ける熱い想いが伝わってきました。
数試合、それも深夜に申し訳程度に流されていました。
それにしても、スポーツのもつ力を改めて感じさせ
1982年のスペイン大会の優勝候補筆頭は、ジー
てくれました。地球の裏側で行われているイベントに、
コ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ
日本国中がこんなにも注目し、熱狂し、そして歓喜で
のいわゆる黄金の中盤(カルテット)を擁するブラジ
きるものが、スポーツ以外にあるでしょうか。若者が
ルでした(優勝国はイタリアでしたが)。ジーコは現役
集まるスポーツバーやパブリック・ヴューイング会場
時代、
「白いペレ」と呼ばれ、世界で絶大なる人気を誇
は悲鳴にも似た歓声が沸き起こり、熱気で溢れかえっ
っていました。このとき、後に日本でプレーするなん
ていました。選手の家族や関係者に至っては、涙した
てことは、夢にも思いませんでした。さらに日本代表
り祈ったり。はたまた、経済効果もかなり期待される
の監督まで務めるとは……。期間は長くありませんで
そうで、テレビやビデオの売り上げが伸びているとい
したが、ファルカンも日本代表監督を務めたことがあ
う業界関係者の声もあるほどです。かくいうわたしは、
ります。トニーニョ・セレーゾは、鹿島アントラーズ
本田選手が得点したのが深夜11時半過ぎだというの
の監督を務めました。日本サッカー界の不遇な時代を
に、気がつけば「やったああああああーっ!」と絶叫
知る者にとってこれらのことは、岩西小学校のバスケ
していました。
部監督に、マイケル・ジョーダンが就任するのと同じ
日本のみならず、おそらく、どの出場国でも同じよ
うな状況が生まれているはずです。試合結果に対する
「一喜一憂」は、いずこも同じですね。
くらいとんでもないことだったのです。
日本代表にとって、出場することが目標だったワー
ルドカップは、いつしか、いかにして勝利を収めるか
半月ほど前の中日新聞のコラム「中日春秋」に、
「岡
が目標となりました。南アフリカ大会で4大会連続出
田ジャパンは、期待されていないからこそ期待できる」
場しているので、常連国のような錯覚に陥りますが、
とありました。まだ1戦が終わっただけですが、その
それまでの道のりはまさに茨の道でした。ワールドカ
とおりになりそうだと感じてしまうのですから、人の
ップ初出場までの道のりを紐解き、簡単にまとめてみ
心理というのは現金なものです。
ましたので、ご一読ください(裏面)
。
今後予定されているオランダ戦、デンマーク戦がま
すます楽しみになってきました。
さあ、オランダ戦との決戦はいよいよ明晩。よい結
果を期待しつつ、テレビ観戦しましょう。
メキシコの青い空
1985年10月26日
「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」
元NHKアナウンサー山本浩氏の名調子で始まった W 杯メキシコ大会アジア最終予選・日本対韓国。それまでW
杯出場は、夢のまた夢。しかし、この試合は、勝てば W 杯初出場を決めることができる重要な一戦だった。元横浜
マリノス木村和司の、伝説となった 27m のフリーキックで1点をあげたものの、結局1対2の惜敗。メキシコの
青い空は遙か彼方に遠のいてしまった。
ちなみに、W 杯メキシコ大会は、マラドーナの「神の手ゴール」や「5人抜きゴール」で有名な大会で、後に「マ
ラドーナのための大会」と呼ばれるようになった。
この敗戦をきっかけにして、日本がW杯に出場するためには、それまで実業団チームだった日本のサッカーを、
プロ化するしかないと結論づけられ、Jリーグ発足に向けて動き出していった。
開会宣言(初代Jリーグチェアマン
川渕三郎)
1993年
5月15日
開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、
Jリーグは今日ここに、大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。
1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。
ドーハの悲劇
1993年10月28日
夢は、ロスタイムの中に散った。日本サッカー界の悲願であるW杯出場の道が、
最後の最後に断たれた。カズ(三浦和良=26、川崎)中山雅史(26=磐田)の
ゴールで2対1とイラクをリードして迎えたロスタイム。まさかの同点ゴールを
喫して引き分けた。日本は、勝ち点を7に伸ばしたサウジアラビア、同6点の韓
国には得失点差で抜かれ、94 年米国W杯出場を逃した。日本サッカー界が待ち
望んだ新しい歴史の扉を開くことは出来なかった。
マイアミの奇跡
1996年
7月22日
アトランタオリンピック予選リーグ。何度もあった決定的なピンチを、GK川口がゴール前に立ちはだかり、身
体を投げ出して好セーブを連発。ロベルト・カルロスの強烈なFKも身をていしてキャッチ。緊迫した展開にケリ
をつけたのは、路木龍次の左サイドからのクロス。処理を焦ったブラジルのアウダイールとGKジダが接触し、ボ
ールはゴール前へ。走り込んだ伊東輝悦がプッシュし、1対0。歴史的な金星を挙げた。このときのブラジルのメ
ンバーにはロナウドもおり、その衝撃は全世界に走った。しかし、惜しくも日本は決勝トーナメント進出を逃した。
ジョホールバルの歓喜
1997年11月16日
決戦地はマレーシア・ジョホールバル。90分間でも決着がつかず、延長戦へ。そして、
中田英寿が放ったシュートをキーパーがはじき、それに反応した岡野雅之が、身体を投げ出
してスライディングシュート。日本のW杯初出場は「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる、
ゴールデン・ゴールによってもたらされた。ここに、長年挑戦し続けたワールドカップ本大
会出場(フランス大会)という夢が現実となった。このときの代表メンバーは、カズ、ロペ
ス、中田英寿、井原正巳、川口能活、秋田豊など。