ヒトはどのように葬られたのか 間 田 笑 子 「今昔物語集」の中には、しばしば死体を道端に遺棄する場面が出てくる。このこと について、私たちの間に意見の食い違いが生じたことがあった。 「いくら古代の人間だからと言って、人間の情として、肉親の遺体を道端や山中に捨 てることなどできるはずはない」、「いや、これは歴史の資料が示していることなのだか ら、実際にあったことなのかもしれない」などなど、私たちの議論は延々と続いた。 そこで、ヒトはどのように葬られてきたのかを調べてみることにした。 何冊か埋葬についての本、インターネットのホームページを読んでみたが、その中の 一冊に大変ショッキングで、興味深い本があったので、この本の記述を中心に葬礼につ いて書いてみようと思う。 まず驚いたのは、冒頭に出てきた次の様な記述である。 「ヒトはヒトを食べている」 食人種の話かと思いきや、落ち着いて読んでみると、その意味合いは次のようなこと であった。 つまり、地球は一つの閉鎖系であるので、その中に存在する物質は、どのような形で 使われても全質量は変わらない。したがって、死体は一度植物や動物の肥料や餌になる か、それとも、もっと効率的に処理されて利用されなければならない。そうして得られ た食料でヒトは子供を産み、その生命系が続いていくというのである。 死体、処理、再利用、このサイクルがなければ、人類は生き続けることができない。 直接死体を食べるわけではないが、結果としてはそのようになってしまっているという ことなのだ。 なるほど、これは納得!「人は土に還る」と、昔から言われてきたことと符合する。 しかし、このことと埋葬することには、どのような関係があるのだろう。まさか、古 代のヒトに地球の全質量という概念があったとは思えない。 そこで、まずヒトはいつごろから「死」を認識していたかという、この問題から話を 始めなくてはならないだろう。 ヒトとチンパンジーの違いは「死」についての感覚の違いだという。ヒトは「死」を 「認識」するが、チンパンジーは「死」を「知覚」するだけである。チンパンジーが「死」 を過去と現在の記憶としてとどめているのに対して、ヒトは自分自身が「死」を記憶し ていることを知っていて、さらに未来の「死」をも認識することができるのである。 たとえば、猿がいつまでも亡くなった我が子を抱き続ける光景を見ることがあるが、 この猿には「死」という認識がなくて、死体が腐り始めてやっと我が子を手放すことが -1- できるといえば、分かりやすいだろうか。 ヒトには自意識、時間の観念があって、未来の時間や、死の観念を持っているという ことなのだ。抽象意識の概念があるということなのだろうか。 人類史上、はじめてヒトの埋葬をし、墓を作ったのは、旧人ネアンデルタール人とい うことだ。ネアンデルタール人の後期から新人クロマニョン人にかけて、彼らの旧跡か ら墓や屈葬のあとが見つかっている。ヒトは旧人の時代から「死」を認識していたのだ。 では、なぜヒトは埋葬するのだろうか。墓を作ったり埋葬したりすることに、どんな 意味を見つけていたのだろう。しかも、全世界のあらゆる人種が、さまざまなやりかた で。 葬礼には 1.水葬 2.風葬 3.土葬 4.火葬 の四つの方法がある。(これらは社会がもつ 死生観によって決まる) これら四つの葬礼は、日本ではどのように行われてきたのだろうか。 1. 水葬 沖縄の一部では死者を磯の海中に漬けておき、魚などが食べた後、波に洗われてきれ いな白骨になってから回収し、岸壁に掘った納骨所に埋葬したという。 2. 風葬 平安時代までは土葬が行われる一方、庶民を中心にして風葬がかなり行われていた。 死体は寺の周囲や河原などに捨てられた。「餓鬼草子」などにみられるように九相の過程 を経て、犬やカラスに食われながら散骨し風化崩壊する。鎌倉時代には一種の死体置き 場、または共同墓地的な場所も作られていたようだ。庶民が墓を持つようになるのは江 戸中期頃である。九相については、後ほど述べる。 3. 土葬 最も古い基本的な葬礼は土葬である。土葬には「仰臥葬」 (伸展葬ともいう)と「屈葬」 がある。 日本では縄文時代から土葬が行なわれていたようである。また、後には唐の制度を取 り入れたことによって大宝律令(701 ∼)で土葬が定められたとある。 土葬では死者を極度に恐れて、屈葬のうえ、石まで抱かせていた。なぜこのようなこ とをしたのだろうか。その原因は、死体の死後硬直にあると思う。 「死」について、古代のヒトはいつの時点で死と感じていたのだろうか。たとえば、 現代でもしばしば問題になっている脳死などもその一つだったにちがいない。脳死の場 合、ヒトは亡くなっても体はまだ暖かく心臓も動いている。何らかの原因で亡くなれば 心臓が止まり、そのうち内蔵の機能も止まり、皮膚の色も変わっていく。体も冷たくこ -2- わばっていく。ヒトの体は徐々に死に向かっていくのである。 ところが、亡くなったと思った死体が何時間か後に急に動き出す。死後硬直がとけた のである。それを見た人々は腰をぬかしたに違いない。きっと悪霊がとりついたものと 思ったことだろう。そこでからだを曲げ、石を抱かせて二度と生き返らぬよう祈ったに 違いない。 日本には、平安時代から江戸時代にかけて、仏教思想による死体の変化過程を記述描 写した作品が数多くある。(餓鬼草子など)なかでも鎌倉中期の「九相詩絵巻」という絵 、 巻は特に有名である。(なぜ詩なのか分からなかったが、おそらく、いにしえの人は死を もファンタジーとして捉えていたのではなかろうか)その名称、順序、意味などが「大 智度論」(鳩摩羅什訳・般若心経)や「大乗義章」(随の慧遠訳・一種の仏教百科事典) などの教典によってすこしずつ違うが、この絵巻は、ヒトが死んで徐々に土に戻ってい く様子を九相に分けて描いたものである。死体は不浄なものであるという仏教思想から、 現世における人間の迷い対する戒めとして描かれている。 「大乗義章」に近い一休禅師(1394 ∼ 1481)の考え方では、次の十相に分けられる。 生前相、新死相、肪脹相、血塗相、方乱相、噉食相、青痣相、白骨相、骨散相、古墳 相である。死体の様子は読んで字のごとしである。 しかも、その死体が小野小町風の美人に描かれているのがおもしろい。釈迦が「女の腹 の中は汚物であふれている」と言われたそうだが、その言葉どおりだ。 また、屈葬にはヒトが産まれたときと同じ形にしてやることにより、母胎への回帰、 再生を願う気持ちと、スペースの節約という面もあったらしい。再生を願うという気持 ちがやがて副葬品という産物を生み出し、墓はだんだん巨大化していった。しかし墓を 作るには、人手も多くいることなので、土葬出来ないものたちもいて、死体捨て場に死 体を捨てざるを得なかった。当然その死体は犬や狼などに食い散らされるわけで、そう させないために、人々は夜を徹して見張っていたという。これが後世の通夜のはじまり だともいう。 4. 火葬 墓があまりに巨大化し、人手も多くかかることから、朝廷では大化改新(645 ∼)で 簡素令を出したので、このことが火葬につながった。だが当初はあまり普及しなかった ようだ。なぜなら、火葬には大量の薪と臭気が伴ったからである。文献上、初めて火葬 の記述が見えるのは「続日本紀」(697 ∼ 791 編纂)である。700 年、僧道昭(629 ∼ 700) が火葬にされたことが記されている。「弟子ら遺教を奉じて栗原に火葬す。天下の火葬こ れより始まるなり」とある。しかし、実は、火葬はすでに六世紀ころから行われていた らしいことが、古墳の発掘から分かっている。 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住み果つるならひならば、 いかに物のあはれもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ」」(吉田兼好 1283 ∼ 1352 -3- あだしの 以降)にも書かれているように、十四世紀頃化野と鳥部山は火葬場として本格的に機能 していた。しかし、火葬場がどこにでもあるわけではないので、一方では土葬も平行し て行われていたようだ。(実際庶民に火葬が普及したのは、明治以降であるという) 本来の仏教では死体を残さないはずだが、例外もある。それは入定ミイラである。即 身仏、入定仏ともよばれるこのミイラは、あの造賀上人(917 ∼ 1003)が 1003 年に入定し たという。このことは、弥勒信仰に由来している。肉体を残しておいて、56 億 7 千万年 後に弥勒菩薩を手伝って、衆生を済度することに励むためだという。(註、広辞苑では新 潟県西生寺の弘智(1282 ∼ 1363)のミイラが古いとある) ところが、ここで興味深い事実がある。土葬と火葬を両方行う「両墓制」である。こ れは多く東南アジアでみられる。日本では縄文時代にすでに一部みられるが、古墳時代 から中世にかけては広く行われていたらしい。まず土葬を行った後、死体を掘り出して ふたたび火葬にするというものだ。土葬した墓はイケ墓、ウメ墓ともステ墓ともよばれ、 墓というよりむしろ死体遺棄葬場ともいえるものだった。その後の墓はマイリ墓、キヨ 墓とよばれ、石碑、卵塔などを建てて、死霊の祭場としている。このことは死体に対す る尊重、保存の気持ちが薄く、むしろ穢れとして畏れる気持ちがあったということだろ うか。その一方、霊に対する儀礼はきっちり行われていた。 死者の肉体と霊魂は、容易に分離するということなのだろうか。 このことは、死を瞬間的なものと捉えないで、生きてもいないが、死んでもいないと いう、その「あいだの期間」、つまり肉体が腐敗し崩れ落ちる期間を待って、死者があの 世に行く時間を持たせたということなのだろう。どうも、わたしたちはなかなかあの世 には行けないらしい。三途の川を渡ったり、閻魔様のお裁きを受けたり… また、日本人が肉体を軽視して、生命への執着が比較的薄いという説がある。それは 植物的死生観に基づくものだという。 古代日本人は、人間の存在を植物になぞらえていた。その例として、目→芽、鼻→花、 唇→唇(花弁)、歯→葉、歯茎→茎、頬→穂、身→実などという言葉があげられる。(折 口信夫「原始信仰」、折口信夫全集、中央公論社、1956 年) また、南宋の歴史家、裴松之(はいしょうし・372∼451)が、倭人の風俗について「魏志 (倭人伝)に曰く、其の俗正歳を知らず。但但春耕秋収を記して年紀となすのみ」と書 いているように、古代の日本人は、人間の生活時間を植物(稲)の生長にあわせていた のだろうか。 稲の一生は、「発芽→生長→枯死→籾(タネ)」であるが、このサイクルがほぼ永遠に 続いていく。人間の一生は「誕生→結婚→死亡」である。しかし、日本人はさらに「祖 霊」という観念を付け加えて、「誕生→結婚→死亡→祖霊」とし、稲と同じように人間の サイクルも永遠に続くと考えた。このように考えてみると、古代日本人の死生観が、自 然と共にあったということがよく理解できるのではなかろうか。だから、肉体は滅びて も霊は残ると考えて、死体を遺棄することに何の抵抗も感じなかったのであろう。しか -4- も、仏教の普及が一層死穢への恐怖に拍車をかけたことと思われる。 以上葬礼について述べてきたが、平安時代の葬儀はどのように行われていたのか調べ てみた。その形式が現代の葬儀とほとんど同じなのに驚いた。簡単に紹介しよう。 病人がいよいよ臨終を迎える時は、僧侶がよばれ、往生のために臨終の念仏を唱えさ せる。阿弥陀仏像の後ろに座らせ、阿弥陀仏の左手から垂れ下がる五色の幡の端を病人 に持たせる。こうして極楽往生を願ったわけだ。あの道長も最期の時はそうしたと聞く。 死が訪れると死者は沐浴され、白い単衣を着せて北枕に寝かされる。陰陽師が葬儀の 日取りや葬儀場、入出棺の日時や方向などを決定する。納棺の際は個人の用いた品々を 入れる。出棺は夜行われるが、京の洛中で火葬することは禁じられていた。東の鳥部野、 北の蓮台野、西の化野が三大火葬地といわれた。遺骸がはかない煙となって空にのぼっ ていく光景は、万葉以来、多くの歌に詠まれている。 余談だが、柿本人麻呂が葬儀儀礼集団のスター的存在であったということを聞いたこ とがある。人麻呂といえば、百人一首でもよく知られた万葉歌人である。「淡海の海夕波 千鳥汝が鳴けばこころもしのにいにしへ思ほゆ」や、「東の野にかぎろひの立つみえてか へりみすれば月かたぶきぬ」などの歌がよく知られているが、その人麻呂には死を悼ん きのへ あらきのみや で詠んだ歌が多いという。たとえば、「高市皇子の城上の殯 宮のときに柿本人麻呂の作 る歌」として、長歌のあとの反歌に「ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らず恋 ひわたるかも」(万葉集 2・200)がある。 そのころ、奈良県葛城市柿本(現在地)に、貴人の柩を飛鳥の地から運び出しながら、 挽歌を歌う仕事に従事する一族がいたという。それが柿本氏で、この一族は孝昭天皇(記 おおかすが わ に 紀の伝承上の天皇))の後裔で、大春日氏や和珥氏と一族とも同祖だともいわれている。 これらの一族は神事、芸能に携わっていたが、人麻呂はその中でも傑出した歌作りの名 人だったという。 そこから人麻呂の神格化がなされたらしい。他説には政争に巻き込まれ、石見の国で 刑死した彼の怨念を鎮めるために、神社に祀られたともいわれている。今も柿本の地に 柿本神社がある。 怨念を抱いたまま亡くなった人物の神格化については、また別の機会に調べてみたい と思う。 話が横道へずれてしまった。本題へもどろう。 火葬が終わると、酒や水などで火を消し、供膳の儀がある。骨を拾い集めて壺に納め、 墓所に行く。墓所は火葬地ではなく、従来の土葬地で行った。これは両墓制の名残で、 骨に執着はなく、むしろ追善供養を熱心に行ったようだ。死穢をきらう仏教の思想が行 き渡っていたためであるらしい。 その後の服喪、法要は、初七日、三十五日、四十九日、一周忌、三回忌を行うところ まで現代の私たちと変わるところがない。 だが、これはあくまで貴族の世界の話であって、庶民の葬儀についてはいろいろ文献 -5- を探したが、残念ながら、死体を捨てたとあるのみで、詳しく書いた物は見つけられな かった。おそらく、余裕のある者は土葬なり、火葬なりを執り行ったことと思われるが、 「今昔」のなかで、貧しい庶民が「葬して」というのは、泣き泣き死体を死体置き場に 置いてくることではなかったろうか。 また、大飢饉、疫病の流行などが、一層拍車をかけたものと思われる。 決して情のない行為ではなかったであろう。 ヒトはなぜ埋葬するのか。ヒトが死ぬということは、とりもなおさず新しい生命も誕 生するということなのだ。つまり、生命の交換である。 ヒトは最初は一つの集落で暮らしていたが、やがて山や海の向こうにまた別のヒトの 集落があることを知る。続いて物や人の交換が始まる。もちろん戦争もあったが、婚姻 もあっただろう。 すでにヒトは、ネアンデルタール人の頃からヒトは死ぬという認識はもっていた。し かし、女性のお腹を通して、新しい生命が誕生することも分かっていたはずだ。誕生と 死、つまりヒトとヒトの交換ということを知ったのだ。そしてそのことは、知らないあ ちら側の世界の誰かが、古い生命と新しい生命を交換してくれているのではないかとい う思いにまで至ったのではなかろうか。 埋葬は、あちら側の誰かに死者を送ったことを伝え、新しい生命をこちら側に送って くれるようお願いする儀式なのだ。 その「誰か」をヒトは「魂」とよび、「神」とよんでいるのではなかろうか。 ところで、私はここ一、二年のうちに大事な人を多く失った。特に父が亡くなったの は大きな衝撃だった。まるでエスカレーターで運ばれるように、ありきたりの葬儀が行 われた。家族にとって、悲しむ時間などない慌ただしい葬儀であった。しかし、お骨と なった父を見たとき、その頭蓋骨の形にはっきりと生前の父の姿を見たような気がした。 たとえ、どのような姿であれ、私は父に愛情を抱いている。そして懐かしむ気持ちは 今も消えることはない。葬儀法がどうであれ、肉親に対する愛情は、ずっと消えること はないのだ。その気持ちは、死体を捨てた庶民にもきっとあったにちがいない。 平成二十一年一月 -6- 参考・引用文献 「平安時代の儀礼と歳事」 山中 裕・鈴木 一雄編 「脳と墓」 養老 孟司・斎藤 「今昔物語集」 池上 洵一編 「日本人の死生観と仏教」 http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/ronbun1.htm 磐根著 至文堂 平成3年 弘文堂 平成4年 岩波文庫 平成13年 「 柿 本 人 麻 呂 」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91 %82 「小野小町九相図」京都市左京区安楽寺所蔵 とみ新蔵ブログ http://hiratomi.exblog.jp/4036054/ -7-
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