ラジオから我が耳に届いた青山和子さんの「愛と死を見つめて」

ラジオから我が耳に届いた青山和子さんの「愛と死を見つめて」
私はどちらかというとラジオ派に属する。毎日、朝・昼・夕と食事つくりしながら食台に
置いてあるラジオでNHK第一放送を聞き流している。2月10日の夜8時過ぎに耳に届
いたのは、懐かしき青山和子さんの「愛と死をみ
つめて」の主題歌である。「♪まこ 甘えてばかり
で ごめんネ」こんなフレーズで、国民的大ヒッ
トとなった「愛と死をみつめて」を青山和子さん
が歌ったのは1964年。東海道新幹線開業、東
京オリンピック開催、日本武道館開館などがこの
年で、日本は高度成長時代まっただ中だった。
https://www.youtube.com/watch?v=22jQWbqr0IA
★この実話が世に知れわたったのはもう50年以
上のことである。実話の中の主人公河野實さんが
私の母校である中央大学3年の時に、河野實さん
(マコ、1941 年 8 月 8 日 - )と、軟骨肉腫に冒され 21 年の生涯を閉じた大島みち子さ
ん(ミコ、1942 年 2 月 3 日 - 1963 年 8 月 7 日)との、3 年間に及ぶ文通(約400通も
の文通)を書籍化して「愛と死を見つめて」を 1963 年(昭和 38 年)12 月 25 日大和書房
より刊行された。本書は 160 万部を売り上げる大ヒットを記録。また、1964 年年間ベス
トセラーの総合 1 位を記録した。この純愛の実話が当時の世間に大きな反響を呼び起こし
て、ラジオドラマ・テレビドラマ・レコード・映画化されたことは言うまでもない。
★実話の内容は、兵庫県立西脇高等学校に通うミコ(大島みち子)は、顔に軟骨肉腫がで
きる難病に冒されていた。阪大病院に入院した際、同じ病棟で長野県出身の浪人生マコ
(河野実)と出会い、互いに 18 歳のタイガース・ファン同士で意気投合し、文通を始め
る。その後ミコが同志社大学、マコが東京の中央大学へ進学してからも文通は途切れず、
ミコの病気が再発して再入院した後も、マコは夏休みに大阪駅ホームのビール売りのアル
バイトを続けてミコを励ます。夏休みが終わって、東京に戻ったマコとの文通が闘病生活
の大きな支えになっていく。マコはその後もアルバイトをして長距離電話で励ましたり、
旅費を工面して阪大病院を訪れるなどし、2 人の愛は深まるばかり。しかしミコは手術で
顔の半分を失い、さらに病気は悪化していく。そして、マコの 22 歳の誕生日の前日に、
自らのメモリアルデーを刻んで、この世を去って逝く。
★私が最初にこの実話に触れたのは 1964 年(昭和 39 年)1 月 14 日、ニッポン放送「ラ
ジオドラマ『健康な日を 3 日』」で山本学と北沢典子が主役を演じた放送である。母校の
中央大学の学生ということで親近感を持って聞いていた。やがて日本中を巻き込んだ大反
響となったのは、1964 年(昭和 39 年)4 月 12 日と 4 月 19 日、山本学と大空真弓が主役
で前・後編に分けて TBS 系「東芝日曜劇場」枠で放送された。1 話完結を基本としていた
同枠始まって以来の 2 回に分けての放送であったという。これが引き金となって大島みち
子・河野実著 『愛と死をみつめて』150万部という大ヒットのベストセラ-のとなっ
た。TV ドラマでの主題歌「愛と死のテーマ」(歌: 青山和子)はレコード大賞を受賞して
70万枚の記録を作った。顔の半分を切り取るという大手術をしながらも、愛のために生
き続けた大島みち子の生き様をテレビドラマで見た多くの視聴者の涙と感動を誘ったこと
は言うまでもない。この純愛物語が日本中に大反響を呼んだのである。
★私も涙を流して見ていたことは言うまでもないが、私も当時(23歳)、専門学校のク
ラスメートの黒沢美智子さんが脳腫瘍で東邦医大に入院していたので年末にお見舞いに行
き、私が冬山合宿に参加している間に彼女は旅立ってしまい下山し帰京してからそのこと
を知り、悲嘆にくれた思い出があるから、なおさら真剣に見ていた。その思い出も遠い昔
となってしまった。あえて実名にしたのは彼女のことを忘れないためでもあり、偲ぶこと
が供養になると思っているからでもある。
★映画は一本も見ていないが、日活の浜田光男さんと吉永小百合さ
んが主演で映画「愛と死をみつめて」は、1964 年に公開されてい
る。これがまたヒットした映画になった。観客動員数 1000 万人以
上。動員数のトップだ。全ての分野で記録を塗り替えたと言われ、
日本中の人が涙して感動したことは言うまでもない。今回、偶然に
もNHK第一放送で青山和子さんの「愛と死を見つめて」の主題歌
を聞き、50年前の思い出を蘇らせてくれたことに感謝!
(郷土の会 岡村)