1964年 東京オリンピック

---------- 1964 年 海外 ----------4 月 インドのネルー元首相が死亡。
5 月 パレスチナ解放機構 = PLO が発足(パレスチナ難民を保護し、まとめる役目を果たすため)
8 月 ベトナムと中国との国境で「トンキン湾事件」が起きる
ベトナムのトンキン湾に停泊中のアメリカ海軍の船が北ベトナムから攻撃され
たので、アメリカ軍は報復攻撃に入る口実になった。しかしこれは自作自演のも
のだったことが今はわかっている。やることがせこい。
トンキン湾
10 月 16 日 中国が原爆実験に成功。27 日にはミサイル打ち上げ・爆発でも成功する。
オリンピックで沸く日本に対する嫌がらせもあったはずだ。中国は新疆の
タクラマカン砂漠で初の原爆実験に成功。アメリカ、ソ連、イギリス、フ
ランスに次ぐ 5 番目の核保有国になった。中国政府は声明で「大国による
核独占を破壊するため」とした。日本政府は抗議の談話を発表。各党も抗
議声明を出したが、日本共産党は「中国人民の自衛手段」との見解を明ら
かにした。どこの国の国民なのかわからない。しかし 60 年安保でつまづい
たとは言え、これにはどう対応したらいいのか。
10 月
ソ連の代表が交代する。
ケネディが死に、フルシチョフはキューバ危機の対応でつまづいた。つまり「雪
どけ」の終わりだ。最高指導者になったのは写真左のブレジネフという眉毛の
太い人。右は首相になるコスイギン。ずっと後ろ盾になってくれていたフルシ
チョフのために「スターリン批判」を承認していたが、フルシチョフが独裁的
な方向に行きだしたときに見限り、彼を追い落とす計画に加担した。しかし計
画者のそれぞれにあまり人望がなく、ブレジネフの他、2 人で政権をしばらく
担当した。この「3 人で受け持つこと」を、そりを引く 3 頭のトナカイにたとえ「トロイカ体制」ともい
う。なおソ連では「書記長」が一番偉い。会議を開くときの連絡役だったのが、いつの間にか重役にな
った。ブレジネフ書記長は、もろ「ロシア人=熊」のイメージだし、柔道部の顧問みたいだから「お前た
ちはたるんでる!」とでも言いそうだ。実際、彼は「タカ派」的に、
「スターリン批判」をやめさせ、周
辺の共産主義国の締め付けと介入をはかり、チェコ・スロバキアやアフガニスタン侵攻も決定する。お
そらくアメリカのベトナム参戦も察知していたのだろう。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1964 年 日本 ----------4 月 経済協力機構(=OECD)に日本が加盟
10 月 東海道新幹線開通「ひかり」が東京・新大阪間を 4 時間で走る。
今年の東京オリンピックのための突貫工事による開通で、オリンピックに観戦にきた人を、観光客と
して京都、大阪、奈良へ送るのが目的でもあった。当時は外国の方が通貨は高いので、日本に来やす
く(いわゆる円安効果)日本は観光などで儲かった。東京オリンピックの開会式のわずか 9 日前に首都高
速も開通した。しかしあれから改築されていないので、大地震が来たらどうなるか不安。
10 月 10 日 東京オリンピック開幕。24 日まで。
ポスターが意味深長でカッコよすぎる。ぬけがけして先を行く白人、追いかけるお
そらくは日本人である東洋人、最後だがゆっくりと力強くスタートする黒人、これ
は当時の世界を表している。製作者は亀倉雄策。1970 年の大阪の万国博覧会、1972
年の札幌オリンピックも手掛け、作品は多数。
と
も彼の作品だ。
ただ少し可哀そうなので「幻のオリンピック」だった 1940 年用のポスターも紹介し
ておこう。埴輪が凛々しくて、なんだか可愛い。
開催日は日本で一番晴れやすい「特異日」の 10 月 10 日。開会式場で、入場式を見た
人たちは「見上げると涙が出るぐらい青い空だった」と例外なく証言している。また
オリンピックのためにカラーテレビを購入した人も多かった。バレーボールでは女子
チームが金メダルを獲得したので「東洋の魔女」と呼ばれ、監督を務めた人の著作名
「俺についてこい」が有名になり、流行語になる。マラソンではエチオピアの「走る
つぶらやこうきち
哲人」と呼ばれた王者アベベ選手が金メダル、日本の円谷幸吉選手が銅メダルを獲得
した(銀はイギリスのヒートリー選手)。円谷選手はプレッシ
ャーに耐えきれなかったのか、次のメキシコ五輪直前に自殺
しているのが本当に残念。東京オリンピックは「テレビで見
る人」を意識して「オリンピックを 10 倍楽しむ方法」を工
夫した。現在、競技前には「この選手の自己ベストは~」とか「予選では~」と
情報が与えられ、終了と同時に「世界記録は~」「日本記録は~」とアナウンス
されるのが「標準装備」になっているが、それを始めたのが、この東京オリンピ
ックだった。他に競技種類を示したり、観光客向けの
などの「ピクト
グラム」も工夫した、などいっぱいある。日本はおそらく無意識だったと思いた
いが、国を挙げて新幹線や高速道路を作り、国民がテレビを販売・購入するなど、
オリンピックは経済効果が非常に高いことが各国にわかってしまった。現在のオ
リンピックが利権まみれになるヒントをあげてしまったのではないか? がこの
東京オリンピックの「失敗」だったかも。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1964 年 日本 ----------11 月 佐藤栄作内閣成立
池田首相は病気治療のため、24 日の東京オリンピック閉幕を見届け、その
後、辞任を表明した。自民党総裁選を制したのは佐藤栄作(右)だった。岸信
介(左)の実弟で、佐藤家の三男だった。優秀な兄と比べられコンプレックス
を持っていたが、それでも同じ東大卒。鉄道省(今の国土交通省)で役人をした
後、政界入りした。池田が病気辞任して、弟 佐藤栄作に政権が回ったのは、
病気辞任した石橋湛山と実兄 岸信介の関係と重なり、多くの政界関係者に
「実力だけではなく、運を味方にした者が総理になれる」ということを改め
て確認させた。佐藤はその他の実力者が病死した幸運もあり、1972 年まで、
7 年半内閣を維持する戦後初の長期政権になった。
「人事の佐藤」と呼ばれ、
癖の多い議員たちをうまく使い、兄 岸信介の倍以上の期間、総理を務めた。
1965 年 日韓基本条約、1968 年 小笠原諸島返還、1972 年 沖縄返還など功
績は多い。1974 年にはノーベル平和賞を受賞。彼の政権担当時代は「昭和
元禄」と呼ばれた。多くの自民党 政権担当者は彼を目標にしているが、今
のところ、連続で 3 年以上の長期政権を維持できたのは中曽根康弘と小泉純
一郎だけだ(吉田茂は合計で 4 年半だが連続ではない)。
作家 三島由紀夫は著作「文化防衛論」の中で
・1960 年代の高度成長期は「昭和元禄」と呼ばれていたけれど、近松も西鶴も芭蕉もいない「昭和元禄」には、
これまでの日本人にあった何かが欠けている。
・文化を人間主義的な成果で判断しようとし、日本文化における「菊」の部分だけを尊重し「刀」が破棄する
占領政策がとられた。
・威嚇的でない茶道や華道を禁止せずに、歌舞伎の復讐劇やチャンバラ映画を禁止した(後に復活)のはそう
いう理由からである。
・そもそも日本文化においては「菊」と「刀」は別々の文化ではない。
・当時禁止されなかったのは、私にいわせると「博物館的な死んだ文化」である。
と徹底的に批判している。筆者は「いわゆる保守派とはなんだろうか」の疑問から、保守を名乗る人たちが好
きな三島の作品を読んでみた。趣向が違うのか、そんなに深く共鳴はできなかったが、
「文」と「武」のバラン
スが取れていなかったこの時期は、なんだか危険で頼りにならないから、感想は全く同じだ。
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