第3号 - 一泉同窓会

一 兵
号
(1)
笠 森 周 譲
二中十五回卒︶
明治四十一年頃の一中校歌は大場
氏作歌、大西氏作曲の ﹁雲に聾ゆる
白山の、高さ理想を心とし﹂ で始ま
し
り、﹁北斗の光仰ぎつ二 丈の林に分
け入りて﹂、﹁怒涛逆巻く越の海﹂、
﹁学びの海に船出して﹂、﹁翳す徽章
の桜花、文武の道を一途にゾ即ち白
山、北斗、北海の怒涛、桜花の校章
などの示すように、畳は白山連峰を
眺め、夜は北斗の閃光のもとに桜草
帽を冠って知徳体の道に遇進した頃
を顧みて、現代の若Aの奮起を希う
のみである。
次に現在の校歌を絡けば、﹁医王の
峰 ﹂ 、 ﹁ 加 賀 野 に 続 く 青 い ︷ 海l
﹂﹁
y森 深
き山科の里に泉湧く﹂、﹁若人左静け
き念ひ世のために﹂、﹁若人ら文化の〟
花を咲かせ行かむ﹂、など若人を達人
の境に導くを念願するものであって
今昔の感に堪えない。
金沢一中が本多の森から第一回卒
業生を出したのは明治二十七年で、
その後昭和二十三年三月学制改革に
よって泉丘高校と改名され、降って
昭和三十年二月に初代会長英安富氏
のもとに一泉同窓会が結成され、同
年十二月に第一号の一泉同窓会名簿
が発刊されたのであります。即ち関
学から現在まで約八十七年の光栄あ
る歴史を誇る泉丘高であり、一泉同
窓会である。
翼わくば校長、一泉同窓会長、会
員諸賢の協力によって﹁一泉﹂が愈
々隆盛に発展せむことを念願するも
のである。︵金沢大学名誉教授︶
人定
美孟夏臭 美しき孟菱ぞ
すればかなえられよう。総会は 〝一 最古の詩集である詩経の中にも散見
泉 〟 の 名 に ふ さ わ し く 、 各 期 の 同 窓 する。この桑畑は、時には男女逢引
生が参加するものであって、そこで
き
の
場となった。
培われ㌃タデのつなが/りこそが、同
云誰之思 ここに誰をか思ふや
薮の姿が巧みに描かれている。
桑の畑が、積極的な逢引きや、脅
れても仕方為りますまい﹄ と言い、
そのまま桑の寵を肩にして、さっさ
と家に帰ってtまうJという貞女羅
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トト卜1ハトー︰・りけー日.−、
期我乎桑中 我と桑中に期らんと
要我乎上宮 我を上宮に詔へ
である。﹁︵私が︶思っているのほ誰
か∵それは美しい義家の姉娘。私と
桑中で逢引きしようと、私を上宮︵地
珍しいことではなかったと思われる。
︵石川大学︶
帰ります。あなたもここに居続けら
桑をやらぬばなりません。私はもう
窓会の発展を促すのである。ヨコの
送俄乎摸之上奏 我を棋のぶまで
﹁一泉﹂第三号によせて
つながりだけでは同窓会という組織
は動かないパ 校舎改築も軌道にのっ
新校舎竣工の暁には、同窓会も九
、つ0
始まろテ守もている。こういう時こ
送りぬ
そ、若い力が必要とされるのであろ
詩経新風の ﹁桑中﹂という詩の二部
も・つきょう
同窓会の﹁タテ﹂のつながり
た今、言よいよ泉丘の新しい歴史が
迫に近い誘惑の舞台になったとい、ワ
ニとは、中国の古代社会においてほ
毎年十月、金沢で行なわれる一泉
一泉同窓会をより一層発展させて戴
や、旧師と大いに語り合ってほしい
と患う。先輩、後輩が一体となって、
を述べておきたい。
同窓会給金には、諸先輩はじめ、大
川 西 弘 晃
桑 の/ 畑 で
まことに慶ぼしいことと思う。/ただ、 き た い と 祈 念 す る も の で あ る 。
勢の同窓生が参集され、盛会であるか
いささか気にかかるのは、若い人達
の参加が少ないことであるヲ ﹁御年
配の方々や、偉い人達が多数おられ
るので、庄倒されるし、肩身の狭い
思いがする。十年たってから出席し
ようJという話を聞いたことがある。
中国は絹の国である。養蚕のため
に広く桑が栽培された。桑畑で桑を
〓中三十三回卒︶
摘む婦人の艶姿を詠んだ詩は、中国
しかし、これは狭い了見というもの
て、懐しい顔ぶればかりであること
ではないだろうか。気軽に参加でき
を望むのなら、同期の同窓会に出席
こ
㌧
J
﹃家にいる毒が飢えますから、早く
れ
五馬莫留連八 五馬留連す藩なか
み続けて● .
蚕飢妾欲去 蚕飢ゑて妾去らん
と欲す
りっぱな未がおります﹄ と言ちて拒
羅数を乗せて帰ろう守する。羅敷ほ
﹃あなたも奥様のあるお方、私にも
が桑を摘んでいると、その地方の太
守が五漁立ての馬車でやって来て、
また、唐の李白の﹁子好県歌﹂と
いう詩には、1由紗掛という秦氏の婦人
旗国な紅の記するためにも今年度の り へ 送 っ て く れ た J と い う 意 で あ る 。
とっては庚変な苦痛なのであるが、
お 断 り す る こ と も で き な い の で 、 こ 総会にノほ、若い人達が誘い合わせて
﹁当時は風紀か乱れ、人の妻妾をぬ
、こでは、同窓会について感じたこと 多数/出席されるようにお願いしたい す み 、 幽 遠 の 処 で 逢 引 さ し た い 七 い
ものである。そして、詠先輩の方々 う こ と が 、 こ の 詩 の 小 序 に 見 え て い
る。
と い う こ と は あ ま り 得 手 で な い 私 に な 伝 統 を 誇 る 同 窓 会 の 絆 を ま す ま す 名︶ で待ちうけ、私を港の川のほと
な と こ ろ 当 惑 し て い る 。 文 章 を 書 く 十年の歴史を刻むことになる。壮大
〝一泉″ に執筆を依頼され、正直
疋 田 仲 勝
泉丘教鏡
(2)
ある追跡調査
事克あるわけで、単発的な総会や懇
親会を幾ら派手にやっても要は基礎
︶
が住所になっているので、中野区役
で陸田姓を名乗る人に問合せのハガ
さらば学舎
嘉健児が馳雅や
君の姿が穀粒にある
我等が友を語る時 君の姿が其処にある
二、我等が霊を語る時
誇りて高き叢は
戯けく望む白山の 志の如く轡豊つ
一、風雪なんぞ幾星霜 泉野原の旗頭に
作詩・野本正作
所に調査を頼んだ処、大変親切な方
さらば学舎
平 石 英 雄
が一生懸命調べて下さった処、幸い
在東京 野本 正作
南 秀 男
古い資料が焼け残っていて、鱗町の
︵昭和二十九年季︶
〓中四十一回卒︶
出身でぁる事が判り、福田家へ養子
母校泉丘校舎が今般老朽化による
に行かれた万ですが旧姓も福田姓で、
〝一泉″ の同窓会眉名簿を、前回
その養母という方の名前が ﹁福田福 改 築 と の 話 を 聞 き 、 か つ て の 三 ヶ 年
の学舎に限りない愛着を覚えた一人
発行から十年経ったので新しく発刊
牒﹂という珍姓でした。無論明治以
です。
しょうと思うので手伝って欲しいと
前に生れた方ですが一体どう釘よみ
J小さい時からあの校舎に憧れてい
西多事務局長から頼まれたのは、確
そ し て 、 そ の 裏 付 け と な る の は 、 するんでしょテか。
た私には、金沢から離れて生活して
か昭和五十二年のノ秋だったと思いま 費 用 も 嵩 む け ど 不 断 に 出 来 る だ け 多
二、宮七回卒 陸田 駿氏︵死亡︶
す。
ぐめ金員と消息の調査で接触し合う
この方は長い間名簿上では不詳で、 いるせ・いか人一倍懐かしいも切があ
手伝い出して判った事ですが、一
どこまで遡っても手がかりがつかめ ります。その想いがこの詩を作らせ
ました。詩には全く素人ですが、私
ず、義正四年の名簿で初めて﹁大阪
の気持をその儀つづってみました。
軒の卒業生の内、特に明治、大正年
間に草葉された古い会員の方で消息
不明の方が余りにも多い事にまず驚
きました。
が出ていました。
作りを怠った花火線香の行事に終る
で実業﹂と青いでありますが、名前
事が多く、決してより強固な会の発 は 駿 と 云 う 字 に な っ て い ま す 。 大 阪
展には仲々結びつかないという事はl の 古 い 住 所 を 色 々 た ぐ っ た り 、 割 合
多 く も な い 経 験 か ら も 我 々 な り に 答 珍らしい姓なので全国の電話番号簿
キを出しましたが不発。主にこの姓
は広島に多い様です。最終的には、
これは前から薄々気づいていた事
それ以来私達は、自分の仕事の余
暇を殆んど先輩会員の消息の追跡調
ですが、前任の担当者が余り熱心で
伝統のあざ一中の南も誠に立派を方
査に費して参りました。昨年秋の同
なかったのかも知れませんが、古い
々を調査も充分せずに、以前の名簿
厚生省の人口動態の資料を集めてい
る部門で、九十九才以上の現存の方
の 書 き 写 し で 不 詳 と し て 放 置 さ れ て 窓会各期役日月会の席上でその成果の
一、第二回卒福田十太郎氏︵死亡︶
があったら文書車てみたいですぬ。
まあSF小説もどきの様ですから。
数にありますが、もし再度凄く機会
新しき芽ぞ吹き出し 弥栄て華や咲すらん
残せし君が票に続ける心伝い来て
四、さらば我等が学舎よ さらば我等が故郷よ
理想の空に舞い立ちて 若く様を魂を
い る 事 を 心 か ら 残 念 な 事 だ と 思 い ま 数 字 的 な 発 表 を 致 し ま し た が 、 こ こ の名簿の中に見当らない事が判り、
たと、姦称の代るともいかで忘るることあらん
した。
ではその調査の過程でのエピソード 同 氏 は 一 〇 〇 才 を 超 え て い ら れ る の
三、形あるものは崩れゆく はかなき革か嘆けども
〝一泉〟 の同学の士としての絆を
を二、二二披露致します。
で遂に死亡としました。
見よ背くめる嘉熟知が雄々しくあれと指し示す
この様な迂余曲折の調査は今迄無
より強固にする手段、つまり会の目
ておらず、この方面からの調査は不
調でした。前回名簿で東京都中野区
的とする会員相互の親睦と有形無形
この方は、一中の明治大正期に多
の協力を図り、会の発展を期する道は、 い東京帝大卒の二人ですが、東大は
何故か名簿が各学部共余り整備され
唯一つ立派な会員名簿の完成にあか
た。
事が私達のかねての持論でありまし
(岳)
同\窓の随想
澄言転軍事十㌧、∵∴吉二十亘が牢軽震過
問題について論じあった。私は変遷
の多い生活を余儀なくされ、何もか
も四散したが、彼の手紙だけは百通
ほどでもとに残っている。時々ひっ
ぼり出して読んでいるが、二人の青
春の流れが実によくうかがえてほん
一たばの手紙は宝である。
とうになつかしい。私にとってこの
最近は電話のなが話ですべてまに
あってい各から、手紙を書く青年が
そんな青年たちに日記 ︵大学ノート
すくなくなったと聞く。しかし私は
︹︶
城跡、ふしぎの鬼燐ありて、俗に
う本に
高雄山 ︵高尾山とも︶ 富樫政親が
堀麦水の ﹁加越能三州奇談﹂ と云
〓中三十三回卒︶
山 森 青 現
高尾︶の 陰火
ということがない。
︵石川郷土史学会々日月︶
ば後世を益することにはならない。
た。彼は三年の時首席だった。四年
の時、青山学院へ転じ〓南、東大医
私は若い時から物を書く習慣がつい
学部へ進んだ。ノこの時代に彼と毎日 たおかげで、今でも毎日雑文を書く。
の よ う に 文 通 し て い た 。 お も に 思 想 だから七十四歳になっても退屈する
長享二年五月甘六日に、鞍嶽より
光物出で西海の波に沈み、其速鳴
動する事明る二十七針の朝迄やま
ざりけり。是今云う坊主火ならば、
富樫滅亡前より在りし陰火にして、
政親存命中よりの事なり。
と述べている。此の高尾山坊主火と
云うのは、金沢郊外地黄煎町から高
尾辺に起る現象で、古老の口からも
泉丘校舎めがけて接近して来た。漸
︵先生一人、小便一人︶ 冬吹雪のあ
る日であった。大きな雪の一かたま
りに似た、一つの大きい火の玉が、
か、昭和二十三年の春頃であったろ
うか、未だ学校に当直の在った頃、
坊主火といふ。猟人古狸の大入道
屡々語り伝えらるる話である。筆者
と な り L を 得 て 、 後 此 火 な し と の 研究室は泉丘図書館書庫、高尾山と
咄人口にありと雉、今も猶此辺り、 は呂と鼻の間直面している。
海辺迄燐火飛ぶ事絶えず。其何た
昭和二十二年の暮方であったろう
こ
田良見氏は是を反駁し
て化する者か﹂ と述べているが、/森 向って左窓であったと云う。
︵石川郷土史学会員︶
見 た る も の は 此 無 き と て 、 世 に 是 矢田四如軒著異本 ﹁吉野拾景遊覧図
を坊主火と号す。 †
記﹂ にも地黄煎町より高尾に至る陰
とある。古来沢山の人が此の坊主火 火一件が述べられてある。
を目撃している。富田景周の ﹁三州
前記火の玉の当って砕けた窓は、
志﹂ には、﹁富樫政親の亡魂怨結し
泉丘校正面玄関、現在学務員仮室の
間近く行ゆえに、追かけて見れば は腰を抜かして、其場に倒れ伏した
消 て 見 へ ず 。 し ば ら く 先 へ 行 て 叉 と云う。
現るるなり。政に間近く火の形を
以上は垣田先生聞書きであるが、
帰る也。其道筋を行く事空を飛ず、 て 窓 硝 子 に 当 っ て 一 大 音 響 と 共 に 砕
山の高低に従って、火も上下して けた。垣田生知先生 ︵小松明峰高校
往来する也ウニ尚尾山にて見る時は 長︶ は是を目撃された。叉給仕某氏
か卯辰の方に当りたる茶磨山の後
へ落る也。晩方叉現れて高雄山へ
頁﹁高尾の陰火﹂ の項に
毎夜、戊之上刻の比より出で、温
だが、私は家を転々とかわる貧乏人 書 く く せ が で き る 。 物 が 書 け る と い
るを知ることなし。
のせがれだったに﹁もかかわらず、ウ う こ と は 一 生 の 徳 で あ る 。 郷 土 史 の とある。叉 ﹁加賀志徴下編﹂ 二五五
マ が あ っ て 親 友 の つ き あ い を し て い 研究にしても記録にのこしておかぬ
親友の岡本啓とは小学校が同窓でV で︶ をつけて、なんでも思っている
大正八年に金沢一中へいっしょに入 ことを書くくせをつけ、友人にはせ
学した竹馬の友である。彼は金沢市
っせと手紙を書くことをすゝめる。
そうすることによってしぜんと物を
内でもよくはやる小児科医院の長男
〓中三十一回率︶
北村魚泡洞 ︵三郎︶
手紙のすゝめ
(4)
学 歴 主 義
浦 茂
二年三十四回卒︶
昨秋アフリカのケニヤで英人教授
とサファリーカーで大草嫁の動物を
見に行ったとき学校の話が出た。よ
くいわれる人物評価の一つの甘皮と
J
の封建時代が悪いので孔孟老の格言
で良いものは何千年たっても良い。
温故知新や徳不孤は今も生きている
と。中国の大人振りにはっと胸を打
たれた。 ︵元航空幕僚長︶
〓中三十五回卒︶
大 森 玄 衆
金石往還と毛ックリ
して、日本のどこの学校を出たか、
アメリカのあなたには何ができるか、
英国のどういう教養を身につけてい
︺
記念祭に先輩
杉森久美氏を迎えて
った。当時の金石は木材の集散港で
もあり、浜はプーンと木の香の匂が
漂っていたものだった。その匂の中
で畳の梅ぼし弁当をひろげ、濡れた
催された。記念祭のテーマを﹁新
泉丘高校にて第32回創立記念祭が
昨秋九月二十二日から三日間、
六尺樺を焼けた砂の中にまぶして乾
かして帰途についた。
金沢の町はずれから金石までほ一
泉丘高校生を前にして一時間余の
卒︶を招き、講堂をうめつくした
里の道程で途中ずうっと松並木がつ
時代への序章﹂とし記念祭の各種
づ き 、 と こ ろ ど こ ろ に モ ッ ク リ が 清 行事や団体展に取り入れて開催さ
例な地下水を涌き出していた。私ら
れた。その第一日の記念式典の記
ほ袴ばきの姿で蝉の声を開きながら
念講演令に杉森久英氏︵一中3
この街道を歩き、モックリの渦の中
に顔を突込んで鼻の頭まで浸してホ
れたのは大分あとのことで、その当
へソクリから出してくれた祖母だっ
くれ、たまには何銭かの小づかいを
消し鉄筋の建物が金石往還に立ち並
た。
モックリも松並木もすっかり姿を
時の泳法はもっぱら観海流で五十町
るか、フランスのどんな資格を持っ
一中に入学した一年生の夏は、七 ッ と 一 息 つ い た 。
講演会が催された。往時の一中生
ているか、ドイツの何を創造できる
私の母の里はこの往還の中程、今
の気慨を中心としての学校生活を
月
の
終
り
の
休
暇
に
入
る
な
り
か
ゝ
空
一
週
か と い う よ う に 各 国 臭 っ て い る 。 教 間、金石海浜での水泳訓練が必修課
主題としての講演に若い後輩に大
の松村町にあった。途中で疲れた私
授 日 く 、 地 球 は 狭 く な り 人 物 評 価 も 目 に な っ て い た 。 ク ロ ー ル や バ ヤ クは こ の 祖 母 の 家 に よ く 寄 っ た 。 モ ッ きな感銘を与えた。
WOユd wide senceを問う時代になっ
ストロークなどの競泳がもてはやさ クリに冷したソーメンや瓜を出して
たと。南太平洋の新興独立国やアフ
リカの発展途上国を訪ねて、国際化
の 波 に も ま れ な が ら 次 代 の 教 育 に 力 から三豊半、、五里と遠泳が主体とな
を 注 い で い る 実 体 に 触 れ て 、 日 本 の っていた。
学歴主義は時代遅れの感を深くした。
旗を立て太鼓をのせた小船を先頭
昨年八月、日中友好書道使節団の
副団長で書家二・三人、新聞社など六
達の頭がケシ粒のように見えかくれ
太鼓の音が聞え、一列に並んだ生徒
ていった。諸行無常、五経皆空の言
を数えた級友も半数近い人が他界し
に遠くの沖合から ﹁ドン、ドン﹂ と ぶ よ ヶ に な っ た 。 入 学 当 時 、 二 〇 〇
人と北京・西安・上海・蘇州で古代
で海まで走るのに一苦労したものだ
文化の研修と書道の交流を行った。
葉をしみ七み味わいながら、生きな
する日もあった。
がらえた七〇年の人生をふり返り、
私は一中時代にも習った孔孟老子か
海浜は今と違って大変広いものだ
ら格言名句を数十準備して行ったが、
ふり返り、歩いているこの頃である。
っ
た
。
桜
草
の
マ
ー
ク
の
入
っ
た
テ
ン
ト
︵五智大乗院住職︶
孔孟老が批判の対象になっていると
から波打ち際までは五十メ壬トルも
開 い て は た と 困 っ た 。 と こ ろ が 政 府 あっ美ろうか、焼けた砂の上を裸足
の文物局や美術協会の代表は、当時
(5)
6回
故 郷 金 沢
斎 藤 章 夫
〓中三十六回卒︶
今年の冬は、何十年振りの ﹁豪雪
﹁商店街﹂ であるが、狭いその家並
楽しい。東京及びその周辺にも三十
い貴重を歴史の一束ではなかったろ
み込んだ壊しいYそうしてすぼらし
史と伝統精神を若き青春の胸奥に刻
里と、勉学を共にした旧きよき友だ
悠久の流れの中にあって⋮⋮嘗て
ち と の 交 わ り は 、 い つ 思 い だ し て も 私達が若躍として文武/の道に十そし
んだ金沢一中生活時代こそ、その歴
たわれわれ小学生たちは眼の高さに
は完全に雪に埋まり、マントを被っ
なった石置き板葺きの庇の長い二階
人近い同窓がまだ ﹁健在﹂ である。
年に二回の集りを、ここ数年実現し
ているが、二十人近くが必ず集って
の雨戸を左右に見ながら足を滑らし
すべらし登校を急いだ。その雪の上
その若き日常に光輝ある歴史と赫
、つか。
桜草の黒帽で通学せし懐しい五年間
常に自信と誇りを感じっゝ楓爽たる
々たる伝統/ 更に粛然たる校風に
かれも半世紀前の面影はすでになか
ったが、ものの数秒で鮮やかに昔が
年繰りあげ金沢で催したせき誰れも
を ヨ タ ヨ タ 映 っ て く る 槙 を よ け る の くる。三年静に〝卒業五十年〟を一
が精いっぱいだったものだ。
それから後、それほどひどい大雪
建ってきた。今年はこ勿三月二十九、
た。
もう六十年にもなる小学生の頃、
三社から長土塀小学校に通っていた
に 赴 い た 折 、 う か っ に も 雪 の こ と が ながら、終りたら、その足で金沢へ
五年前の二月、たまたま仕事で当地
に浮んでくる。一
その金沢を離れて五十年になるが、
念頭になかった。ところが、わざわ
が久潤を叙したあと、手にした紙包
ざ駅喪に迎えに来てくれた旧友M君
のよしみは深さを増し、ゆかしさを
こうした機会を経る毎に益々同期
何と美しいことだろう。
です。何とすぼらしいことだろう、
しんともの思いにふけっているよう
ことだ。
友は今涙をたゝえて静かに、それら
あと数日に迫る 〝出逢い″を夢見 の あ り し 日 の 懐 し い 思 い 出 を 、 し ん
往く心算の僕には、桜はまだ早いだ
ろうが、心のはずむ今日この頃であ
る。 ︵文一総合出版顧問︶
◎写真左方は兄玄彦氏〓中出身︶
に支えられて同期の各位は悔いのな
加えてゆくことです。このふれあい
〓中三十七回卒︶
闇
。
凹
から叫び続けたい。
人生こゝに生甲斐ありと私は心の奥
い天寿を全うされることでしょう。
〝おまえ、金沢に釆たら、これが無
いと歩けぬぞ″と言いつつ⋮⋮。思
わず、目頭がジーンとなった。 〝友
とは有難いものだ。〟自分の不用意
を施ヒるよりも、一瞬 〝これが、金
沢をんだ〟とつくづく思い知らされ
それにしても、旧きつながりの故
た。
、.︶
普 神 益 雄
関東三七会新年会感想
をとりだし、僕に手渡してくれた。
みを徐ろに紐といて目新しいゴム長
ながら、一九、二人と取消しのある
冬、やはりひどい大雪に見舞われた
ことを思いだした。現在では、跡か
とが、﹁金沢﹂を思うにつけ先ず頭
たもなく変貌してしまった長土塀の
れから後広坂通りの四高へ通う長町
三十日、土産博靖君の肝入りで愛知
気だよ〟 と言うと 〝畜生/″ という
を偲びつゝ今は唯感慨無量⋮⋮。
声がピーンと受話券にはね返って来
の用水に沿う道筋がいつも雪でぬか
県﹁明治村﹂ で大会を開くがすでに
或は鬱蒼たる本多の森に抱かれた
る み 、 冷 た く 重 く 足 に ま つ わ っ た こ 二十数人が集まることになっている。 古 色 蒼 然 た る 校 舎 ⋮ ⋮ 無 限 の 身 吟 か
ただ残念ながら、折角出席を約束し
しさを感じたありし日の母校を偲び
つゝ中村幹事以下十一名の同期の老
し て い る も の な ん て 、 ほ ん の 序 の 口 の記憶はなかったが、冬が来るたび
だ ヨ ″ と 言 い 、 僕 が 〝 東 京 は い い 天 に、本多町にあった ﹁一中﹂ へ、そ
話したところ 〝新潮やテレビで報道
だと開いて、きっそく故里の友に電
(6)
ふ る さ と
加 藤 俊 男
〓中三十九回率︶
地球儀を見る。﹁あった、あったL
小さく細長く赤い色の8本列島、斯
んを小さな国にハッキリした春夏秋
冬の四季がある。而も冬には日本海
、︺
いる。三八豪雪や五六豪雪は全く嫌
になるが、少量の降雪は美味しい魚
等があるので待ち遠しい程だ。特に
︺
北陸敬遠会館となっている。またタ
クシト一台しか通れなかった本多町
の道路を隔てて運動場があったヵ 去
をして屠られるのを聞いたが ﹁元金
沢一中の運動場の跡﹂ の言葉の無か
三本の相と桧の木
山 瀬、芳 男
〓中三十九回宰︶
ったのは残念で淋しい気がした。
私達は疇和七年金沢一中を卒業し
た。この同窓を名づけて七桜会とい
る日観光会館へ行きました折、こゝ
が元ガス、水道局の跡である七の話
ぞれ腐きが豊かで昌に心に楽しませ
てくれる。亦食べ物も四季それぞれ
﹁本多の森に一本咲ける桜こそ
鍋物の好きな私は退屈しない。兼六
公園や尾山神社等四季を通じてそれ
に旬を感じ生きている喜びがしみじ
み味える本当に良い郷土だと思って
う。卒業して今年は足掛五十年を迎
える。 ﹁ああなんと五十年たったの
か﹂感無量のものがある。光陰矢の
町の通りの真申に今も尚残っている の 森 を 偲 ぶ こ と に し て い る 。 そ し て
三 本 の 栂 と 松 の 木 の 姿 で あ る 。 こ れ かつての桜草健児の青春を蘇、えらせ、
後登泉丘高校を訪れ厳霜碑にぬかづ
即ち往時の︸中健児の学び舎、金沢
第一中学校の唯Jのおもかげである。 き 、 い ま は 亡 き 学 友 七 〇 余 名 の 冥 福
一 新 し た 姿 は 往 時 を 知 る 者 に と っ て 如し。
乗か六月十四日 ︵百万石まつり︶
ほおどろくべき変化である8 然しな
が ら 、 何 と な く 他 都 市 に 感 ず る こ と に同期生大会を開き、全国各地に活
の 出 来 な い お っ と り と し た 面 影 を 含 躍する学友数十名が懐かしいこの三
ん だ 風 情 が 残 っ て い る 。 そ れ は 本 多 本の栂と松の木の下に参集し、本多
われらが母校のしるし⋮⋮﹂兼六園
側に雪が降るが太平洋側は兼んど晴
いる。孝が経るに従って奥深く執着
下広坂の一角に立ち懐しい本多町の
天 で 雪 が 降 ら な い 。 勿 論 山 脈 の せ い を感じる。先月金沢に尾山三十三ケ
だろうが不思議な気もする。
寺 の あ る こ と を 開 い た 。 一 度 ゆ っ く通りを眺めると、道幅が三倍以上に
私は大正二年金沢市小椋町に生れ
り 訪 ね た い と 患 っ て い る 。 大 体 の 調 拡張きれ近代建造物が群居し、/面目
た 。 浅 ノ 川 蝉 で 当 時 は 川 も キ レ イ で べだが
宝憶寺︵率町︶
雨宝院︵千日町︶
少林寺︵野町︶
鮒を始め種々め小魚が居て夏等−日
西養寺︵東山町︶
去属勝寺︵長江町︶
永久寺︵東山町︶
宝泉寺︵東山町︶
寿経寺︵東山町︶
囁婁寺︵宝町︶
法然寺︵菊川町︶
妙慶寺︵野町︶
崇禅寺︵瓢箪町︶
木は静かに眺めていた。この木はた
しか校門を入って教官室横の土塀の
学 期 末 に な る と 成 績 順 位 が 額 入 り で を心から祈り、併せて更に若き青春
教官室の窓の下に掲示された。一二喜 に戻り、余せ再出発の門出にしたい
一 憂 こ も ご も の 若 き 青 春 の 姿 を こ の と考えている。
同窓会も後輩泉丘と共に名称もー
久昌寺︵堀川町︶
高源院︵宝町︶
泉同窓会と称し一丸となって団結し
宝集寺︵寺町︶
献珠寺︵宝町︶
成学寺︵野町︶
紙陀寺︵十一崖︶
極楽寺︵寺町︶
雲龍寺︵東兼六︶
安住寺︵旧寺町︶
伏見寺︵寺町︶
岩倉寺︵石引町︶
波着寺︵石引町︶
︵大日サイジング会長︶
西芳寺︵寺町︶
千手院︵野町︶
ている。
際にあった木だと思う。
三本の栂と松の木よ、どうか一中、
旧一中の校門は現在の自衛隊地方
連絡部 ︵検察庁本多町分庁︶ のとこ 泉丘健児の活躍を末永く見守って欲
しいと思うのは、唯若き日へのノス
ろ、校舎跡は社会福祉会館、社会教
育 セ ン タ ‡ 等 に 一 変 し 、 本 多 邸 跡 は タルジアのみであろうか。
観音院︵東山町︶
源法院︵尾張町︶
小林寺︵野町︶
中、川で遊んでいた。其のせいか今で 長谷院︵本多町︶
も 魚 取 り が 好 き だ ゎ 戦 争 中 足 掛 け 四 瑞光寺︵本多町︶
棟缶寺︵石引町︶
年赤道直下南洋群鳥の守備に行った
がヾ 四季があると云う事を殆んど感 竜国寺︵東山町︶
じない。
戦後二年ばかり大阪所長として郷
里を離れたが其の他は金沢に暮して
(7)
_.き「い
今年の雑感
本 多 政 ︼
〓中四十四回卒︶
今年は吾々の四四桜会も卒業儀四
させて頂きます。前田利常会が加賀
漆文化史上に果されました事蹟ほ、
いることも、遠州と利常会とのつな
がりが単に茶道においてのみではな
マレーシア赴任期間は一九七七年
︵泉丘十回卒︶
宮 田.欣 一
私 と 子 供
かったことを示しているようです。
二言で申せば、宮廷文化の導入とい
うことでありましょう。そして、こ
︵藩老本多蔵品館々長︶
のことが後の加賀文化の方向づけを
なしたと言っても過言ではありませ
ていたことは申すまでもありません
が、このような傾向を更に洗練し、
十四年月とてこ′れを記念して匹四プ ん。勿論、利常会が、武家でありな
ラス四四で八八年記念全国大会が、久 がち、公卿的な世界を求められた背
景には、寛永期の幕藩関係が影響し
万ぶりで当地で行をわれます。太麿
に楽しみを事です。又初夏の城下町
金沢を舞台に、華やかに繰り広げら
れる百万石まつりは六月十三日より 高められた利常会にとりまして、小 二月二日から山九八〇年三月二二日
十 五 日 ま で の 三 日 間 で 、 こ と し は 三 堀 遠 州 の 指 導 と 助 言 は な く て は な ら までの約三年間であった。外国生活
十 回 に 当 り ま す の で 従 来 の 行 事 の ほ ぬ も の で あ っ た と 思 わ れ ま す 。 小 堀 に於ける不安の最大のものは私の場
合も同様、子供の教育に関してであ
った。しかし、幸いな事に、先に赴
任していた上司の御子息が、小学二
年から現地の学校へ入学しており、
その二年間の経験の全てを前知識と
か に 県 の 代 表 的 な 太 鼓 な ど を 集 め た 遠州は利常会より十四歳年長で、幕
﹃ 石 川 県 の ま つ り ﹄ を 新 た に 企 画 さ 好の作事奉行として建築、作庭に非
れ、同まつりに花を添える市民参加 凡な腕をふるう一方、茶道に平安王
か ら 県 民 参 加 へ と 飛 躍 さ れ る 年 に な 朝風の書、和歌、禅を加味し、日本
的な伝統文化の上に ﹁椅麗さび﹂ と
ります。私の家と関係が深い旧加賀
感じ入らざるを得なかった。
の箱書には、遠州の筆になるものが
大変に多いのだそうです。加能郷土
年生︶。長女は三才であった為、一年
後にキリスト系幼稚園に入園した。
私が赴任するや、長男は現地の中
国人系小学校に入学した ︵小学校一
ざ我身にさしせまれば、学校教育が
子供の将来に与える影響はやはり大
きいのだと観念的に、本能的にも、
辞葉に見える小堀新十郎︵遠州の婿︶
を利常公が二千着の高禄で召出して
︵︶
マレーシアの日本人学校は、主都ク
アラルンプルと北部中心都市イポの
みにしかなく、私の赴任先ジョホ‡
ル州バトパハではこの恩恵には浴さ
ない。
中国系小学校では、先ず字を覚え
ること、書けることが教育の第一歩
でどんな難しい字も書けなくてほ話
しにもならない。科学、社会といえ
ども、始めは字の勉強である。子供
のどのノートを見ても練習をした漢
字で埋っている。新中国の新字でな
いので、私はある程度意味が分かる。
長男の場合、学校の授業はマンダリ
ン、休憩では友人達と福建語、家で
は日本語、私の知人がくれば、︸殻
に英語と少なくとも四ケ寓語を使い
分けていた。長女は幼稚園で英語文
は福建で、家では日本語、福建、潮
︵日本硬質陶器︶
心事であり、マレーシアへ赴任した
時以上の心配事である。︵
一年生に入学した長女、これからど
う変わるかが、私達夫婦の一番の関
藩主前田家の御当、まを御招きしての 評 さ れ る 茶 道 芸 術 を 完 成 さ れ ま し た 。 し て 出 向 \ い た 為 、 そ れ 程 の 心 配 を し 州 、 マ レ ー や イ ン ド の 友 達 と は も っ
彼の王朝文化への憧憬を思えば、利
た由でもない。叉、日本の現学校教 ぱら英語であった。語の不自由さが
加賀八家旧誼会も、今年は五周年を
記念して新たに前田家御三家を加え 常会と遠州との結びつきは必然と言 育の河谷を知り、マレーシアのそれ な く な っ た の が 長 男 で 一 年 程 た っ て
ら れ て の 百 万 石 前 夜 の 会 も 行 な わ れ えます。〟 遠州と利常公との書簡 ︵石 と 比 べ 、 そ れ が 良 い の 惑 い の と 批 判 か ら で 、 こ の 頃 か ら 内 容 に 入 っ て い
検 討 し た 由 で も な い 。 と は 言 え 、 い けたのであろうか、学校の成績も伸
ます。私が只今会長をして屠ります、 川県美術館発行﹁前田利常展﹂ 図録
び始めた。
三年間慣れた学校を後に、日本に
帰国、小学四年に入学した長男、又
による。︶を見ますと、茶道の作法に
北信越の博物館協議会の大会が当番
県 に あ た り ま す の で 盛 大 に 当 県 で 行 関してのみならず、近況や鑑定につ
ないます。又本館に於いても六月十 いてもふれられており、興味が尽き
三 日 よ り 二 十 六 日 ま で 、 北 陸 地 方 で ません。叉利常会の収集された茶器
は初めての前田利常と小堀遠州展が
開かれ遠州流の全国茶会の大会が当
地で開催されます。三代前田利常公
と小堀遠州とにつきまして少々ふれ
へし
Jr
本部・支部だより
五十五年慶一泉同窓会総会開く
秋晴れの十月十五月一泉同窓会定
期総会を開催、恒例により母校々庭
の厳霜碑前に於いて宮会長、学校側
下その資料の整備にあたっている﹂
との報告があり、懇親会に移った。
︺
このあと午後六時より金沢ニュー
グランドホテルに会場を移し、稔会
︺
を催した。
昨年は雨の多い年であった。うら
らかな秋晴れの頃といった日は極め
東海支部だより
入り出演もあり、盛んを総会風景の
狸に散会した。
された。乾盃の音頭は平取博富山医
科薬科大学長︵34期︶がとり、宴会
は賑やかに校歌、応援歌の他、飛び
八回桜美展に対する同窓会員の協力
に謝意を述べ、今後の後援方を懇請
尚、旧師の宮沢外与治氏から去る
十月九日から開かれた絵の同窓会第
宮太郎会長の挨拶につづき大高校
長から﹁ことしの創立記念無には杉
森久某氏︵3 6回卒︶′をお招きして講
演を行った﹂等の学校の近況を報告
し、﹁母校改築の状況に付き来る十
月二十九日にはその起工式も予定さ
か ら 大 高 校 長 と 共 に 同 窓 会 貝 が 集 り れ、四年計画の三十一億円の計画で
本 校 出 身 の 物 故 者 の 慰 霊 翠 を 執 行 し 完成後は五階建の県下高校では最大
た。司祭には看浦神社の長谷宮司が
の規模の校舎となり、様式も一中、
あ た り 、 長 ら く 同 窓 会 の 世 話 を し て 泉丘高の歴史と伝統を表象する型式
き た 西 井 謙 次 氏 ら 物 故 者 に 黙 藤 を 棒 がをとり入れ、画一的な学校建築を避
げてめい福を祈った。
けた設計である﹂など校舎改築の報
告があった。
様子
腰痛にて病床
にあり
夜の会合には
体力的に自信
仝 上
がない
大正1
2年
奥様御病気の
︵東海一泉同窓会々長前田秀之︶
ご様子
大正13年 山 科 清 栄
角永 清
歩行困難のご
て少なく、毎日雨の日が続きます。
尚、会員諸兄の近況を御報告し、
〝 今 日 も 名 古 屋 は 雨 だ っ た 〟 そ ん な 一泉会の発展隆盛を祝って筆を掴く
九 月 二 十 七 日 五 時 東 海 支 部 給 金 が 開 卒業年次氏名
近 況
か れ た 。 本 部 よ り 小 川 副 会 長 も 出 席 大正9年高橋貞一
され、母校の近況のお話しに花を咲
重子、加藤操子、高木祝子、尾田栄
子、篠原 博、仕道悟志、魚住隆彰
大正1
0年中田義雄
か せ 、 た の し い 一 日 を 過 し 、 来 年 を大正10年米原佐市
的し乍ら散会したのが八時。
当日の出席者は次の通り。
小川忠男 ︵本部より︶、前田秀之、
湯谷外書男、佐久間文雄、越田章二、
新家 厚、越村書郎、檎本勇次、今
西多事務局長から ﹁来る五十八年
以上
井圃男、沖野永保、伊佐 務、横山
一雄、松原正一、宮島 宏、青木八
の創立九十周年を迎えるに当り、目
l′
出席者のうち女性十五名、学生七
吾々幹事としては、十何年振りか
関西一兵同窓会顕未記
名 は 、 と 角 一 寸 固 く な り 勝 ち な こ ので開いた同意会にしては、充分満足
吾 冬 幹 事 の 隠 み は ど う し た ら 多 ↑ 種 の 会 合 に 華 や か さ と 、 若 さ を フ ン 出来たと言い切れない迄も、正直言
旧校舎の思い出が皆様にあり、今の
で現在の倍以上の規模どなる。五十
東京を中心に関東在住の会員にて
結成の関東一泉同窓会が十一月七日
関東一泉同窓会が盛大に
歌、応援歌、山中節等々、奇声蛮声
美声入りみだれてまことに、賑やか
な事でした。
午後六時から東京・明治神宮外苑の
に ほ 驚 き ま し た 。 あ た か も キ ラ 星 の 日本青年館で秋の総会を開催した。
如く大勢な云々、と言う文面を見て、 本部同窓会より宮太郎会長、大高彰
給 金 を 開 い て 良 か っ た と 喜 ん で み た 八校長、西多事務局長が加わり、一旧
り 、 く す ぐ っ た い 思 い を し て 見 た り金沢﹁中、泉丘高校卒の会員二百余
︵︶
築のユ事概況の報告があり﹁捻工費
き続き宮会長、大高校長より校舎改
し た が 、 ま て よ 、 之 は 一 中 卒 の 面 々 名が一堂に集った。
の 頭 の 状 態 を 皮 肉 っ て い る の で は な 北山雅義氏︵5 5期︶の司会で開会。
い か 、 光 頭 あ り 、 白 髪 あ り 、 ま さ に 鏑木政岐会長がまず開会の挨拶、引
キラ星であると考えるに至って、ガ
ク然とした次第です。
︵︶
∼
宴席は巌ったが八時すぎ再会を戯し
て散会した。
った女性会員を混じえての母校校歌、
応援団歌が次から次へと飛び出し、
普喪にて乾盃、懇親会に移った。当
日、多忙な日程の中を参加した坂本
代議士のスピーチ、華やかに着飾ぎ
これより役員改選に移り、瓜生順良
氏を副会長に承認、瓜生新副会長の
、叉、西多事務局長より母校同窓会
の最近の活動状況の報告があった。
内に母校を訪門されるように﹂と母
八年度の90同年までに完成したい。
五階建て、エレベーター付きの校舎
三十数億円、県立高校では初めての
の 同 窓 生 を 集 め る か 、 ど う し た ら 出 ダ ン に 盛 り 込 ん で く れ て ま こ と に 結って愁眉を開いたと言うのが今の実
席者に喜んで貰、㌃るか等であった。
構でした。
感です。
校の近況報告があった。
取締役社長泉2期︶
副会長織田潔氏︵㈱デサント
取締役社長47期︶
副会長森澤正夫氏︵大阪機工㈱
専務取締役41期︶
会長八十鳥健二氏︵竹中工務店
た事を御報告して、駄文を終ります。
五五年十二計記高岡︵4
4期卒︶
それは今後又行われるであろう給金
司会は泉は潮草打や野俊彦氏にお
空自だった関西一泉同窓会の会長、
に 影 響 す る 事 で あ る の で 実 の 所 非 常 顔 示 し て 給 金 の 宴 が は じ ま り ま し た 。 副会長に左記の諸氏が選任されまlし
\
なこやかなうちにむ格調高い?再興
第一回の総会になりました。
当日は態々金沢より大高校長、竹
田、小川両副会長にお越し頂き、叉
謝しています。
後日、私の手許に届いた女性から
の礼状に、一中卒の万々の立派なの
唱師の後藤垂郎先生が見えられて錦
が終った後は、ガザ′/\、チビ′/\−
上 華 を そ え て 頂 き ま し た 事 を 太 変 感 ワイくーと二時間半の宴が続く。校
長の御挨拶に続いて﹂ 小川氏の音頭
による三サ七拍子の全員柏手、林屋
清三郎氏︵36期︶の音頭による乾盃
に心配したわけですが、事にも長岡 因 み に 中 華 氏 は 同 期 卒 の 元 地 弁 護 士
に半ば脅迫きれて、引き受けざる㌢
寛厚氏、洩井悦郎氏、元地健氏、岡
谷雄二氏、/池田成東氏等の智恵者の
得なかったらしいが、それにしては、
お蔭をもって十二甘二十入日に会員 守 こ と に 堂 々 た る 各 司 会 振 り を 発 揮
一〇二名、来賓四名のご出席を得て
し
て
下をって感謝tています。
脅鴇副会長、小川副会長、大高校
(10)
●
同窓の集い
金 沢 − 中 三 十 六 期 生 の 集 い
、 ﹁ 明 治 村 L に 遊 ぶ
昨 年 1 0 月 揚 河 原 温 泉 ︵ 神 奈 川 県 ︶
の 集 り で の 申 合 せ で 、 3 月 2 9 ・ 3 0 日
︺
山温泉﹁寿亭﹂で恩師斉藤大六先生及
十月九、十日両日に亘り三重県湯の
日時 五十五年十月二十五日︵土︶ ◇十桜会〓中4
2回︶舎画大会
場所 伊東温泉 龍石 〓泊︶
第42回〓中昭和1
0年率︶全国同
会する者、北陸地区から十九名、関 窓会は約40名の参加者により、5
5年
西、中国、中京地区六名、開東地区
十五名の合計四十名。卒業以来四十
六年振りに顔を合せる者もあり、宴 び会員の夫人万をもお迎えして盛大
会 に 引 続 き 各 自 の 部 屋 で 夜 の 更 け る に催されました。
バスで近くのユニークを池田美術館
を見学、更に十邑峠で素晴らしい富
まで、しみじみとした歓談が絶えな
かった。翌朝同期生会今後の運営方
法に就いて協議をした後、マイクロ
士山の姿に驚嘆しっつ三時過ぎ小田
に わ た り 本 年 度 春 の 全 国 大 会 を 愛 知
﹁ 入 鹿 荘 ﹂ で 開 催 。 集 ま る 〝 古 稀 ″
県 犬 山 市 ﹁ 明 治 村 ﹂ 近 傍 の 入 鹿 池 畔
の 群 れ 、 漁 初 部 名 の と こ ろ 直 前 体 調
同期は ﹁十桜会﹂ の名称で毎年石
川、関西、関東の三地区持ち廻りで
級会を開いて屠り、来年の十月は既
念 撮 影 後 、 土 屋 君 の 案 内 で 村 内進
五午
十、 林 屋 清 次 郎 。 中 部 = 上 原 誠
在消息を完全に把握されている百十
名と恩師並びに物故会員の御遺族の
を記念して、大々的に記念会誌を刊
行することも決定されています。現
叉はコピーして通信集を毎年全員に
配布しているが、来年は入学50年目
︵牧沢記︶
藩 の ゆ え 脱 落 者 若 干 、 結 局 2 2 名 が 犬
原駅
漫
歩
、
快
適
の
橡
み
の
う
ち
2
時
過
ぎ
散で、次の大会での再会を的し、
山 駅 頭 に 参 集 。 ﹁ 明 治 村 ﹂ 所 長会
土。
屋次 回 は 金 沢 地 区 の 諸 君 が 幹 東
事や
と西にと別れを告げた。
博 靖 君 の 手 厚 い も て な し の 捜 、な
第り
一用 月 下 旬 開 催 の 予 定 。
夜 は ま ず 安 藤 鶴 来 作 、 五 新 平 之 助 監
当
日
の
参 集 者 。 関 東 = 伊 藤 素 衛 、
督 、 竹 田 人 形 座 演 出 、 の ﹁ 明 治浦
村井
は忠
る雄 、 大 沢 錠 二 、 斎 藤 李 夫 、 田
あ き L ︵ 二 巻 ︶ と い う 明 治 晩 期畑
の喜
東作
京、 土 屋 博 靖 ︵ 李 道 ︶ 、 釣 谷 武 、
下 町 情 緒 を 描 く 操 り 人 形 劇 画 を村
各上
自︵ 中 川 ︶ 四 郎 、 西 川 宗 保 、 西 出
感 慨 を 籠 め つ つ 観 賞 、 終 っ て 一次
車郎
時。 北 陸 = 大 弥 久 幸 、 太 田 兵 書 、
代 の 懐 旧 談 を 肴 に 美 酒 四 升 、 ビ笹
‡井
ル︵
、額 谷 ︶ 富 雄 、 中 田 孝 治 、 本 保
数 棟 の 明 治 を 代 表 す る 遺 構 を 見︵
学斎
、藤 季 夫 記 ︶
と り わ け 立 ち 入 り 禁 止 の ﹁ 坐 漁◇
荘一
﹂ 中14期 全 国 大 会 関 東 大 会
方々よりも寄稿を戴くことになって
に熱海の ﹁起票閣﹂ と決っています。
同窓生の消息をそのままオフセット
邸 内 や 日 本 庭 園 な ど 印 象 深 か っ金
た沢
。を 中 心 と し て 開 催 し て い た 従
こ の 間 、 山 あ り 谷 あ り 坂 あ り で来
、の
中全 国 大 会 と は ガ ラ リ と 趣 向 を 変
ウ イ ス キ ー を 満 喫1、時1過 ぎ 務 藩 。
斉 弘 、 和 泉 三 郎 、 島 知 一 。 関 西 1 − 耕
食 を は さ む 延 々 五 時 間 余 。 桜 のえ
曹て
い、 今 回 は 杉 田 君 等 関 東 在 住 同 期
いるので、一泉同窓会の皆様の御力
添えをも期待しています。︵古沢 記︶
翌 朝 8 時 半 出 発 、 明 治 村 正 門 前納
で喜
記三 太 、 田 中 ︵ 高 柳 ︶ 重 雄 、 村 本
ま だ 硬 い 頃 と は い え 全 員 や や 汗生
ばの
み肝 入 り で 、 左 の 如 く 関 束 大 会 を
つ つ 足 を 棒 に し て の 談 笑 懐 旧 の開
散い
策た 。
(11)
卒業生一同これを祝って、有志クラ
史跡﹂にオープンしたが、四十六回
寓際ホテルがこのたび金沢﹁高尾城
期友の内閲二着がオーナーの金沢
クラス会
直前の校内を巡視し、40数年前に移
校教頭の同期生垣田君の案内で改築
し、慰霊祭を執行した。その後、母
めるた初出席同期生全員菊花を献花
碑前に今は亡き同窓生4 7名の霊を慰
昭和55年9月14日午後、母校厳霜
何窓会盛大に開催さる
◇第47期︵昭和15年卒︶40周年記念
同窓会はパッと花が咲いたようであ
は尽きないようであり∵秋の夜長の
を圭なった者たちの40年の歴史の話
から平和へ、そして経済大国の一翼
亜年ぶりに逢えた学友の姿は、J戟皐
校歌、応援団歌を合唱した。本当に
前の若き日に帰り、声高らかに一ノ中
窓会となり、65名の出席者は予蘭年
先生を中心に、かつてない盛大な同
として二十三名の盛会をみせた。と
ウェア・デサント社長織田氏を始め
目下売り出し中のスキー、スポ‡ツ
二氏と東京より中村氏の参加を得、
あったが、遠く金沢より普神・鍔の
当日は都合にて十四名の欠席者が
に於て開催した。
大阪在住の一中56期・泉2期の同
窓会を去る十月二十六日料亭﹁豆狸﹂
◇T申56期・泉丘2期生鱒大阪大会
雷.1︰㌧し■︻.1,.!1﹁.h L P.■h H﹂
ス会を同所で開催した。
築した真新しい新校舎の姿を思いお
った。︵大蔵記︶
◇−中46期報
オーブンの﹁金沢国際ホテルLで
当日の出帝者三十八名。遠く東京−
こし感無量のものがあった。
中西知事、江川市長、ノ宮金沢商工会
尚、同ホテルの披露パーティには、
期友一同心から祈った次第である。
ティーの場として同ホテルの発展を
につつまれた金沢の新しいコミュニ
より連絡や激励の言葉かあり入自然
青梅洪治、太田充実、寺内良雄各署
東京の村井叉兵衛、金沢の石野竜山、
事業に幸あれと心をこめて乾杯した。
を行うこととし、夫々その専門のテ
今年からは順次、同期生による卓話
やかな歓談の狸に進められた。尚、
にかえった気持ちとなり、終始をご
合わせるこの同窓会は往時の中学生
集った同期生は三十名。久々に顔を
山中グランドホテルにて開催された。
去る九月二十七、八日の両目に亘り
金沢ノ一中第5 3回生の本年度秋期同
窓会が同軌跡織田広君の世話に依り
◇金沢l中53期秋の大会
答本懐吾 友栄 享 村上了太
山田武司 鍔 弘子 普 神 貴 行
中 村 外 喜 子 長井金二
山崎順正
犀川 久
津田 聾
竹田静司
くに当日は大阪・八尾市在住の恩師
方面や、富山よりも親友はせ参じ、
議所会頭︵51回︶、米谷北国銀行頭
′
︺
略川授則
北川時男
新矢睦夫
塚本靖彦
当日の参加者
織 田 潔 亀田 広
松波郁代
田尻満穂
田口裕子
坪野正文
北村正夫
忘れ歓談した。︵略川記︶
長井先生を招待し、夜の更けるのを
取︵50回︶などの出席祝辞があり、
ーマで持ち廻ることとした。
へ
電力事情について
日本の交通
五十歳の健康管理
ついて
日本の食料事情に
森、島崎国会議員も出宿され、約五
︵︶
関東、関西からは夫人同伴、母同
伴の出帝者もあり、上田先生、後藤
四位例 華氏
ひ き 続 き ス カ イ ホ テ ル 1 8 階 ト ッ プ 堀 比呂志氏
・オブ・カナザワで40同年記念同窓
永井 浩氏
会を開催した。
石川 弘氏
講師は次の通り
︵太田記︶
声をはなったものである。
参列者一同、特長を各所にもった近
代的国際ホテルの素晴しさに感嘆の
百名の出帝者で会場は溢れるばかり。
クラスメート内田君の人生第二の大
(12)
はじめて開く関西八兵舎
山本他計志
泉丘三十一年度︵豪八回︶卒業の
関西地区在住者四十七名で、名称を
﹁関西八泉会Lj名づけて同窓会を
結成。今後これを発展させてゆくべ
く去る二月十五日、大阪城を眼下に
展望する大阪OMMビル2 0階の﹁東
天紅﹂を会場として盛会の十ちに発
足した。
司会を矢原藩司君がつとめ、卒業
後二十五年振りに合わす顔は、最初
は名前と顔が⊥致せず互に話をかわ
す中にそこは同期生阿志のこと、時
間を経るにつれ共に童心にかえり、
再会の歓談は尽きることなく、叉互
に遠く郷里金沢の地を離れで関西に
住む同期生ばかりであり、その心情
は互に理解出来、有意義な同窓会と
なった。
今後この八泉会がいよいよ発展す
ることを各自喜び合い、同窓会終了
後も離れがたく二次会、三次会と大
阪の街を右左右左賑やかにこの一日
を楽しんだ。尚、幹事には山本と藤
井幾久子君︵旧姓多々︶を選出し、
次回の八泉会は十月頃、会場を京都
嵐山として再会することを金男一致
で決議した。
末文になりましたが、この会の発
(13)
今の大学入試が詰め込みだの、公
るが、私の場合20年過ぎた今、受験
勉強できたことに感謝している。歴
史の本を読むときに受験の為日本史
の教科書を何度も読み返した、その
ことが歴史を体系的なものととらえ
理解に役立っている。
10年前東京より金沢にUターンし
て凄たが、郷里に戻って急に郷土の
ことが知りたくなり色々な人のお話
を闘いたりしてきた。
一中の先輩には郷土史関係に精通
した人が多く、昨年亡くなられた大
群彦太郎さんもその一人である。大
鋸さんが戟前から集めた郷土関係の
資料は今、県の郷土資料館で整理し
ているが何しろトラック三台分あっ
たとい、つ。
善麻雀大会を行い、つづいて午後六
郷土史家というと何か近寄りがた
足の因となった泉八期生の名簿完成
時より静観会に移る。まず平素の仕 い 気 が す る が 案 外 身 近 な 存 在 で あ る
の大任にあたられた金沢の福田大陸
事を離れてと大垣秀邦会長の挨拶に と思う。その土地に生まれ育った者
君等に対し、関西八泉会全員が感謝
始 ま り 入 野 宏 昭 幹 事 の 司 会 で 宴 会 が は他県の転入者、旅行客からみれば
の意を表します。
進み、和やかな談笑の狸に再会を的 郷 土 史 家 で あ り 叉 人 生 経 験 を 重 ね て
いくと誰もが古老になり書物に書い
して散会す。
<V︼泉管和会同窓会
ていないことを知るようになり、す
石川県管工事組合に所属する旧金
なわち郷土史家となる。
郷
土
を
知
る
沢一中現泉丘高校出身者にて組織す
泉丘高校は創立90周年を迎えるが、
飯 倉 亨 明治・大正・昭和と時代と共に大き
る一泉管和合同窓会では、本年度大
︵泉丘十三回卒︶
く歩んできた。数多くの卒業生が各
会を昨年十月四日国鉄共済会﹁犀川
々が信ずる道で活躍している。時代
荘﹂ で開催した。会則の第一条に明
がどう変ろうとその時代に生きてい
る。真実はただ一つ、そのかくされ
ているものを世代から世代へ、先輩
から後輩へと伝えていきたいものだ。
記してある﹃本会は旧金沢0中、現
⑧丘高校卒業生で⑳工事業に従事し
ている者が仕事を離れて㊨やかに集
う ⑳ と す る ﹄ の 趣 旨 に の っ と リ 、 親 平な選抜でないのと色々\な意見があ
第8回桜美展開く
伸びやかに競う⋮⋮絵の同窓会。
々と来場し、旧師宮沢外与治先生を
現したものである。この体操を指導
人間国宝に隅谷正峰民
三日、優れた芸能、工芸技術を重要
国の文化財保護審議会が去る臥月
今後の参考になればと思い発表しま
無形文化財に潜定し、そめ技術の保
持者を﹁人間国宝﹂ に認定する答申
たパ 石川県では、人間国宝は八人目
という栄ある認定で、生存者で県内
を行った。その中に日本刀の刀匠、
松任市在住の隅谷正峰氏が加えられ
した﹂ と話している。′
した野村教諭は ﹁木アレイ運動は学
中心に和やかな談笑が毎日続いて小
さな同窓会風景がみられた。
校体育の歴史上非常に′貴重な体操で
︵桜美食事務局 斉藤弥膏︶
﹁木アレイしでか明治の体操″復活
校舎改築5 8年度尭戒へ/起工式
年 ご と に 好 評 を 得 て い る 桜 美 会 美 術 一 母校泉丘高校で昨年十一月金沢で
開かれた第13回石川県創作ダンス発 泉 丘 高 校 の 改 築 工 事 計 画 も 決 定 し 、
\展が今年も﹁大和文化ホール﹂を会
に行われた。現在一部取壊し作業と
とも言うべき﹁正宗賞﹂を三度も受
五回の草葉で、鎌倉期の備前伝の伝
承に努め、もっとむ気鋭の刀匠とし
て好られており、刀剣界最高の栄誉
在住は隅谷氏ただ一人である。
隅各氏は昭和十三年、一中第四十
共に第一期工事の特別教室棟の建設
場 守 し て 十 月 九 日 よ り 十 四 日 迄 盛 会 表会で明治、大正期の金沢一中等で
十月二十九日秋雨の降る中に起工式
に 開 催 さ れ た 。 こ の 一 年 間 、 会 員 の 広く普及していた木アレイ ︵唖鈴︶ を 挙 行 し た 。 当 日 は 中 西 県 知 事 を は
努力の作品育数十点が展示された。
を使う ﹁唖鈴体操﹂ と ﹁アンビール じ め 矢 田 県 議 、 同 窓 会 、 P T A の 役
名誉会員、特別金員の鏑木勢岐、井
口政雄、原田太乙、黒田桜の同、杉
村卜貝の各氏の他、西出太三、堀義
賞している。
\ ∼ . ・・ ・ ←
予定。
昭和五十八年度完成を目指して建設
べ一万七千年万㍍で現校舎の二倍強
・コーラス演習﹂を披露した。同校 員 、 大 高 校 長 以 下 職 員 関 係 者 が 集 り 、
生が演じた木アレイ運動は他校が新 神明宮の宮司の司祭の許に厳しゅく
雄、隅谷正峯、中村秀雄氏等の作品
中である。新校舎は鉄筋五階建て延
しいスタイルの現代的なダンスを発
表した同大会では異彩を放った。
鰊喪牽牽婆薄幸字音
さぐ:■、1−、■ ■二1 \ −、
今回使用された木アレイは約百年
前のもので、明治、大正期の金沢一
車で体操用具として用いられた。同
時代の卒業生には懐かしいものであ
る。一個の重さは三石グラム。泉丘
高校の体育教諭が倉庫の片すみに眠
が出品され、会場は連月大好評を受
っていた木アレイを見つけ、明治時
け た 。 と く に 一 泉 同 窓 会 の 会 員 が 次 代の資料にもとづき当時の体操を再
yJh
∵∵∴ ふ、、汀∵∴∴+二 でノ 写
(15)
/同窓先輩よりの著書寄贈
昨年に引き続き∵先輩各位から、
その著書の寄贈が同窓会本部に相つ
ぎ、そのご厚意に深く感謝している。
これ等の貴重を本は広く同窓、後輩
に公開し∵将来にそなえることとし
たい。
∵′寄贈をいただいた方々は次の通り。
0栗田添星氏二大正十三年率︶
茶室考︵村松書館発行︶
酒井宗雅茶会記︵村松書館儲行︶
九
〇片瀬貴文民︵略和二十三年季︶
新幹儀の計画と設計︵山海堂発布︶
〇堀義雄氏︵昭和十年卒︶/
子どもの造る彫刻︵明治図書出版駄︶
0田川釆男氏︵昭和五年宰︶
琵琶随想︵北国出版社︶
0浦茂釘︵昭和二年草︶
読章ニュース
0郡谷敏郎氏︵昭和十五香草︶
平凡社カラー新書﹁聖域行シリ‡ズ
・ビザンチンの光だ・ネパール
の生神様・スリランカの三宝・
トルコの施舞教団・イスタンブ
ールの案内・インドの黄金寺院
誌≡享三重享
︶
石川県庁l泉同窓会の名簿が尭成
かねてから整備を望まれていた石
川県庁の一泉同窓会の名簿がこの程
立派に出来上った。
特別会貝として矢田富雄県議〓
中36回︶以下六名の県会議員を加、え、
旧一中出身者三十八名、︶一高出身者
一八名、泉丘出身者二六二名、泉丘
通信出身者七名、計三三一名の会員
となった。
今後、こ胡会員で県庁一泉同窓会
の、団結をかため﹂ 発展を期すること
◇松任l泉同窓会結成される
となったっ
、松任市在住者か市内に勤蘭する金
沢一中∵泉重商鮫を卒業した人で組
級する松任一泉同窓会結成絶食は、
篭
著
書
!
蔓
十六8牛後六時から同市民文化会館
各期同窓会開催について
で約百人が集まって開かれた。会則
最近、各卒業期ごとに催す同窓
などを決めた後、新しい役員を選任、
会がとくに頻繁に行われ、同期ご
最後に懇親会を開き、お互いの親善
との親睦を深めている。又、職場
を深め合った。
を中心とtて一泉会結成も近次目
立 っ て 増 え て き ま し た 。 こ れ 等 同 役眉は次の皆さん。
▽会長 林繁夫▽副会長 金谷与
窓会開催の様子は是非当本部宛に
平、木村源治、本家京子▽幹事 室
お報らせいただき、このノ機関誌一
賀喬、藤原弘、大谷渉、金森義、小
泉に掲載し、広く皆様に報道した
川潔、福住孝、錦谷輝子、油省三、
い、と思います。皆様のこの団結が
山田健夫、宮村栄一▽事務局.青木
桂生、倉田栄、平野悦雅▽監事 板
尾達雄、春秋賛▽顧問 米永末吾、
結城与久、大岸嘉次郎、本保斉弘、
三須外男
いよいよ一泉同窓会の基盤逐結束
することになり、今後の発展に期
待できることと考えます。是非ご
一報下さるこ.とをお願いします。
■h■」■∨■h■n一㌧■h■■■■l
47期卒郡谷敏郎君
新刊書を同窓会へ
郡谷敏郎君は東亜同文書院を卒業
後、′朝日新聞記者となり、﹁朝日ジャ
ーナル﹂﹁アサヒグラフ﹂等を経て、
現在朝日新聞出版局編集委員、平凡
社カラ‡新書﹁聖域行シリーズ﹂⋮
①ビザンチンの光だ②ネパールの
生神様︵クマリ︶③スリランカの
三宝h④トルコの施舞教団⑤イス
タンブールの案内⑥インドの黄金
寺院を一泉同窓会へ寄贈した。その
他紀行ビザンチン史、沖縄工芸の魅
力、歴史の町並等の著書が既に出版
されている。︵大蔵記︶
(16)
昭和五十五年度同窓会費納入の期︵昭和五十六年三月未現在︶
泉 第
1310 8 7 2 56555452504948474645444241403938373534333231272522
回
◇ご寄附
鏑木政岐
高島弥生
菅田直茂
藤田誠一
〃2 8
一中2
3回
紙安栄次郎
木下久雄
以上の名期から五十五年度の同窓会
費の納入をいただきました。未納の
J/ ガ ガ ガ
吉田憲司
広瀬靖久
福田雅章
山崎 茂
半田正雄
野市他作
︵五十六年三月現在︶
竹田長松
加藤俊男
山瀬芳男
期におかれては早急に納入をお願い
申します。
会員の住所、勤務先等に変更の
ある際は、是非本部宛にご連絡
〒淵金沢市泉野出町三−一〇−一〇
下さい。
一泉同窓会事務局
電話︵〇七六二︶⑫〇二一一
共通l次三年目の金大合格者
泉丘、トップの育三十名
㊨②@⑧⑧
ヨタヨタした足どりで ﹁一泉﹂ の
第三号が発行の運びにこぎつけまし
た。出来るだけ各期の皆様の動向を
お報らせしょうと努力し、又母校の
近況も併せ報じたいと念じましたが、
ご覧の通りの編集内容となりました。
次回の発行からは、新たに一泉編集
重点を設けて、より充実した内容と
皆様からのご寄稿と、各期で催さ
れた同窓会の記事を是非お寄せ下さ
い。 ︵事務局 西多記︶
し皆様よりのご意見等を取り入れた
ことしの金沢大学の合格者の石川 も の と し た い と 存 じ ま す 。
県内勢は、昨年より棉i減り全体に
占める割合は三二・九%となった。
左は県内の出身校別の表である。
′︶
小堀 宏
牧沢善二
井口鉄男
吉村正信
石崎婚三
太田定夫
大蔵書夫
太田七郎
オ藤弥富
浅香正男
寺窪三郎
矢来 正∼
川北 篤
普神貴行
森 敬
水谷 昭
福田太睦
杉野芳宏
本野雅隆
委員 西井謙次
小島栄作
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
22171615
石川県内の出身高校別合格者数
56 55 54 ノ
5 6 年 度 学 部 別 内 訳
年 度 年 度 年 度
来 学 教 育 法 学 詔∬斉 理 学
金 沢 泉
金 沢 二
小
七
金 沢 桜
金
大
羽
星
金 沢 銀
金
沢
大
聖
門
飯
寺
宇
出
輪
小 ;
陵明
合
医 学
薬 学
丘
13 0 1 26 9 5 14 27 15 14 1 3 9 水
8 9 9 9 6 9 6 40 4 ユ1 7 松
78 75 7 9 1 3 1 4 7 4 3 尾
51 〃
6 0 2 8 2 2 1 ′5 5 5 丘
45 3 7 31 〆
1 20 1 3 3 付
28 28 1 9 4′
4 4 14 咋
2 6 16 18 1 −1 2 2 1 3 稜
28 33 21 8 1 1 丘
16 26 16 1 9 西
8 −
4 5 4 寺
7 10 11 2 1 1 前
5 3 2 2 1 田
4 7 7 ㌧
1 2 / 1
井
3 4 4 1 1 津
2 1 1 1
島
1 6 9 1
峰
l V l
計
5 14 5 42 4 16 3 2
18 5 3 1 4 3 4 0 3 1 工 学
8 3 5 2 2 1 1 1 1 30
18
23
11
15
1
6
9
/6
4
3
1
1
24 12 8