平成 17 年度自転車補助事業 「中東における民主化の進展に関する調査」報告書 憲法に基づく中東主要国体制の比較 日本エネルギー経済研究所 中東研究センター 2006 年 3 月 はじめに 本稿は、日本自転車振興会の補助を受けて実施した「中東における民主化の 進展に関する調査」の一環として、共和制を採用する中東の 4 か国を対象に、 体制を規定する憲法典を基盤にその制度的な民主化の度合いを比較するととも に、今後の政治面における民主化に向けた展望を分析したものである。米国の 民主化圧力を受ける中での各国の取り組みは、他の中東諸国の対応を考える上 でも参考となるであろう。 本稿で取り上げたのはイラン、シリア、エジプト、レバノンの 4 か国だが、 イスラーム共和制という独自の体制をとるイラン、ヘゲモニー政党の支配下に あるシリア、ヘゲモニー政党から一党優位体制への移行過程にあるエジプト、 すでに分極的多党制下にあるといってよいレバノンと、各国が置かれた環境は それぞれに異なっている。そうした違いの実相を明らかにし、同時にそうした 違いをもたらした要因を様々な角度から分析することで、中東の民主化問題に 関し新鮮で有益な視点が呈示しえたのではあるまいか。 現状で国政上の選挙は実施されているにもかかわらず、イランやシリアの民 主化は「合法的に」実現しうる状態にはなく、エジプトやレバノンではそうし た国よりは民主化が進展しているがゆえの困難が予想される。社会科学の成果 を十分に活用した上での本稿の結論を土台として、今後我々は中東諸国の民主 化という問題を一層掘り下げて分析していくことが必要となってこよう。 なお本稿の執筆には、当研究所客員研究員小副川琢(おそえがわ・たく)が 当たった。会員各位の参考に供しうれば幸甚である。 平成 18 年 3 月 財団法人日本エネルギー経済研究所 理 事 長 内 藤 正 久 目次 1.序 ............................................................... 1 2.分析枠組み ......................................................3 3.イラン・イスラーム共和国 ......................................7 ① はじめに .........................................................7 ② 大統領選出規定と大統領選挙 .......................................7 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 ..................................10 ④ 「民主化」への展望 ..............................................12 4.シリア・アラブ共和国 .........................................15 ① はじめに ........................................................15 ② 大統領選出規定と大統領選挙 ......................................15 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 ..................................17 ④ 「民主化」への展望 ..............................................19 5.エジプト・アラブ共和国 .......................................23 ① はじめに ........................................................23 ② 大統領選出規定と大統領選挙 ......................................23 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 ..................................25 ④ 「民主化」の実態と更なる「民主化」への展望 ......................27 6.レバノン共和国 ................................................29 ① はじめに ........................................................29 ② 大統領選出規定と大統領選挙 ......................................29 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 ..................................31 ④「民主化」の実態 ..................................................37 7.結語 ............................................................39 表 1.大統領制の比較 .................................................41 表 2.議会制の比較 ...................................................42 引用資料 1.日本語文献・論文・リポート .......................................43 2.外国語文献・論文 .................................................44 3.その他資料(新聞、雑誌、インターネット資料など) .................44 1 1. 序 1.序 2001 年に成立した米ブッシュ政権は特に「9.11」以降、「独裁体制」や「権 威主義体制」が幅を利かせていると見なしている中東地域に対する「民主化」 圧力を高めてきている。事実、「民主化」を一つの口実として米国はイラクのサ ッダーム・フセイン「独裁」政権に対する戦争を開始し、イラクの政情が未だ に落ち着きを見せていない中、今度はイランやシリアなどの「ごろつき国家」 だけではなく、親米国エジプトなどにも「民主化」圧力を強めているのである。 このように米政権による「民主化」圧力に晒されている中東であるが、各国 の政治体制を規定する憲法はどの程度「非民主的」なものなのであろうか。本 報告においては中東各国の憲法の条項を概観しつつ、最近の政治情勢の動向を 述べることで、「制度」と「実態」の両面から中東諸国における政治体制を見て いくことにしたい。その上で、米国からの圧力に呼応する形で、中東の一部の 国々が取ってきた「民主化」ヘ向けたアプローチにも触れることにする。 なお、中東地域はアラブ連盟加盟の 20 ヶ国・機構に加え、アフガニスタン、 イラン、トルコ、イスラエルから成る広大な地域を包摂しており、限られた紙 幅の中で全 24 ヶ国の政治体制を論ずるのは不可能である。そこで、中東各国の 政治体制を「王制」、「首長制」、「共和制」と大まかに分類し、形式上は民主主 義と最も親和的といえる「共和制」を取っている国家の中から、米国による「民 主化」圧力との関係から昨今注目を集めてきているイラン、シリア、エジプト、 レバノンの 4 ヶ国を取り上げて考察を進めていくことにしたい。 –1– 2. 分析枠組み 2 2.分析枠組み 中東各国の具体的な分析に入る前に、各国の政治体制を比較する際の分析枠 組みを考えてみたい。本報告では既述のように、「民主化」といった問題をも含 めて考察していくのであり、政治体制の「民主化」を取り扱ってきた政治学理 論が参考になると考えられる。 今や古典的な「民主化」の理論と言えるサミュエル・ハンチントンの『第三 の波』においては、「候補者が自由に票を競い合い、しかも実際にすべての成人 が投票する資格を有している公平で公正な定例の選挙によって、その最も有力 な決定作成者集団が選出される 20 世紀の政治システムを、民主主義的なもの」 〔ハンチントン、1995:7〕と定義している。「民主主義」に関するこの手続き 的な要素は、ハンチントン自身が指摘するように〔ハンチントン、1995:7〕、 ロバート・ダールが言うところの「ポリアーキー」を考える際に必要な 2 つの 要素と結びついている。ダールは「ポリアーキー」を、「公的異議申立ての自由」 と、「選挙に参加し公職に就く権利」(その核としての「普通選挙制度」)がほぼ 完全に保障されている政治体制として想定しているのであり、この 2 つの要素 が実現している程度から後述するように現実の政治体制を 4 種類に分類してい くのである〔ダール、1981:10‐14〕。なお、「公的異議申立ての自由」とは具 体的に、「政治論争や選挙キャンペーンに必要な言論、出版、集会、結社という 市民的、政治的自由の存在を含んでいる」〔ハンチントン、1995:7〕とされて おり、故に「ポリアーキー」は「市民的・政治的自由」と「普通選挙制度」が 高度に実現された結果として、〔ダール、1981:13〕が言うところの「完全では ないかもしれないが比較的民主化された体制」である。そこで、中東諸国体制 の比較を行う本報告においては、「民主化」の到達点(ゴール)を「ポリアーキ ー」と設定し、「市民的・政治的自由」と「普通選挙制度」の観点からイラン、 シリア、レバノン、エジプトの憲法規定と現在の政治体制に関する考察を進め ていくことにする。 ここで、考えてみなければならないことが二点ほどある。一つは、ゴールと しての「ポリアーキー」を設定したならば、スタート地点としての現在の上記 –3– 4 ヶ国の政治体制を規定しなければならないということである。そこで、再び ダールの議論に依拠しながらこの問題を考えていきたい。ダールは「市民的・ 政治的自由」と「普通選挙制度」の実現の程度が共に低い「閉鎖的抑圧体制」、 「市民的・政治的自由」はかなり実現されているが「普通選挙制度」の実現の 度合いが低い「競争的寡頭制」、「市民的・政治的自由」の実現の度合いは低い が「普通選挙制度」はかなりの程度実現されている「包括的抑圧体制」、そして 「市民的・政治的自由」と「普通選挙制度」が共にかなりの程度実現されてい る「ポリアーキー」、という 4 種類の政治体制を分類している〔ダール、1981: 11‐12〕。こうした分類から、本稿で取り上げる 4 ヶ国の政治体制を考えてみる と、全ての国で「普通選挙制度」が保障され、また政党が認められている。そ こで、各国で現実に見られる政党制をジョヴァンニ・サルトーリの分類に位置 付けることで 1 、立法府における「民主化」を考える指標としたい。 しかしながら、各国の実態を取り上げる箇所で詳述するように、「市民的・政 治的自由」についてはイラン、シリアにおいて大きな規制が加えられてきてお り、故に両国は「包括的抑圧体制」に当てはまると考えられよう。エジプトで はかなり緩和される傾向も生じているが、選挙期における野党候補者における 妨害や、野党指導者に対する投獄も未だに行われており、「包括的抑圧体制」か ら「ポリアーキー」に至る径路上に位置していると考えられよう。この「包括 的抑圧体制」から「ポリアーキー」に至るプロセスは、「市民的・政治的自由」 の拡大を伴うが、この径路は「少数の比較的同質なエリートの間ではなく、社 1 サルトーリは世界各国に存在する政党制の実態を分類する為の類型として、①一党制、 ②ヘゲモニー政党制、③一党優位政党制、④二党制、⑤穏健な多党制(限定的多党制)、⑥ 分極的多党制(極端な多党制)、⑦原始化政党制、に分類している。ここでは、本論との関 係から②、③、⑥、⑦の政党制について簡単に説明し、彼の政党制に関する詳細な議論に ついては〔サルトーリ、2000〕を参照して頂きたい。 ・「ヘゲモニー政党制」: 「支配政党」以外の政党も存在することが許されるが、それが衛 星政党」としての地位を超えたり「支配政党」に挑むことは許されていないシステム。 ・「一党優位政党制」 :平等な地位を持つ複数政党の間で政権獲得をめぐって競合が展開さ れるが、1 つの政党が長期間に渡り圧倒的な力を持っているシステム。 ・「分極的多党制」:政党の数が 6 から 8 存在し、政党間のイデオロギー距離が大きく、 かなり大きな「反体制政党」が 2 つ以上存在するシステム。 ・「原子化政党制」 :他に抜きん出た政党がないまま、多数の群小政党が乱立しているシス テム。 –4– 会諸階層と、政治思想をたとえ全部でなくともほとんど反映する広範な代表者 間で、相互安全保障の体系を創出することを必要としている」〔ダール、1981: 46〕。従って、参加するアクターの利害の多様性を考慮しつつ、アクター相互間 の利害を調整して安全を保障する政治体制の構築が国家指導者には求められて おり、この径路で「民主化」が成功するには大変な困難が伴うとダールは指摘 している 2 。他方で、シリア軍・情報機関撤退後のレバノンの政治体制は、「ポ リアーキー」に近いレベル(「準ポリアーキー」)にあると判断出来よう 3 。 もう一つ考えてみなければならないのは、本報告で取り上げる 4 ヶ国におい ては国会議員選挙が行われて議会が機能しているとは言っても、議会の権限が 強いとは必ずしも言い切れず、大統領は「名目的な」存在ではなくて実際に政 治的影響力を行使している。立法権と行政権との関係で言えば、行政権が実質 的には国家の政策を圧倒的に方向付けていて、立法権はその影響下に置かれて いる国家も存在する。そこで、「市民的・政治的自由」と「普通選挙制度」の観 点から議会選挙のプロセスを論ずるだけで、ある国家の政治体制を捉えるなら ば不十分であると言え、大統領の座に就く者の選出過程と実際の権力行使をも 視野に入れる必要があると思われる。従って、4 ヶ国それぞれの行政権と立法 権を司る者の選出過程及び権限について、憲法で規定されている制度的概要と 実態を述べていくことにする。 2 なお、ダールは「市民的、政治的自由」の実現が「普通選挙制度」の実現より先行する 場合に比べて、「普通選挙制度」の実現が「市民的、政治的自由」の実現に先行する場合の 方が、「ポリアーキー」に至る過程に多くの危険が伴うと指摘している。詳しくは〔ダール、 1981:43‐59〕を参照のこと。 3 シリア政府は同国の軍や情報機関がレバノンから 4 月 26 日までに完全撤退したとの立 場を取っているが、情報機関が残留しているとの懸念はアメリカやレバノン内の「反シリ ア陣営」から度々発せられてきているばかりか、国連サイドでも未だに払拭されていない。 –5– 3. イラン・イスラーム共和国 3 3.イラン・イスラーム共和国 ① はじめに 1979 年 2 月のイスラーム革命によりイランでは王制が廃止され、同年 12 月 にイラン・イスラーム共和国憲法が制定された。その後、憲法改正が 1989 年 7 月に行われ、同月末の国民投票で承認されるに至った。以後は今日に至るまで 憲法改正は行われていないので、日本イラン協会が編纂した「イラン・イスラ ーム共和国憲法」の 1989 年 7 月改正版を元に以下の記述や引用を進めていくこ とにする。 ② 大統領選出規定と大統領選挙 1989 年にルーホッラー・ムーサヴィー・ホメイニー師が死去し、セイエド・ アリー・ハーメネイー師が最高指導者となり、その後今日に至るまでその地位 にある。この最高指導者に次ぐ最高の公的地位にあるのが大統領とされ、「最高 指導者が直接関与する事項を除き、大統領は憲法を施行し、行政府の長として の責任を有する」(第 113 条)と規定されている 4 。具体的には、大統領は内閣 の首班であり(第 134 条)、複数の副大統領を任命する(第 130 条)と共に、大 臣を指名して(第 133 条)、その職務を監督しなければならない(第 134 条)こ とになっている。また、国会の承認を得た後に外交上の条約、協定、議定書、 協約の調印を行う(第 125 条)ことになっている。 このように内政・外交を司る大統領職に就くためには、宗教的かつ政治的に 傑出したイラン国籍を有する生粋のイラン人であることが要求されている(第 115 条)。なお、その任期は再選が次期一回のみ認められた 4 年であり、国民投 票で選出されることになっている(第 114 条) 。また、「大統領は投票者の絶対 多数を得て選出される。しかし、第一回投票において、候補者の何れもが絶対 多数票を獲得出来なかった場合には、次週の金曜日に第二回の投票が行われる。 第二回目の投票では、第一回投票において多数票をえた二名の候補者のみが参 加する」(第 117 条)と規定されている。 –7– ところで、上記の大統領の選出・権限に関する規定は全て憲法の第 9 章に記 載されているものであり、これだけを見ると非常に「民主的」なプロセスを経 て大統領が選出され、西欧諸国と同様な国家権力の行使を行うように思える。 しかしながら、大統領立候補者になるためには「憲法擁護評議会」による資格 審査を受けなければならないと規定されており(第 110 条 9 項)、有権者には「イ スラーム共和制」を強く擁護する「保守派」の牙城と言われている「憲法擁護 評議会」が認めた価値から逸脱しない人物の中での選択を求めているのが実態 である。確かに、「現実派」や「改革派」候補者の大統領選挙への立候補も後述 するように認められているが、「憲法擁護評議会」の資格審査がある限り、「イ スラーム共和制」そのものを否定する人物が大統領立候補者になるのは不可能 であると言え、有権者の選択の幅を狭めていることは事実であろう。 それでは、ここ最近の大統領選出過程を見てみることにする。1997 年 5 月の 大統領選挙においては、238 名が立候補の届出をしたが、「憲法擁護評議会」の 審査を通過したのは 4 名のみであった。その中には大統領に当選したモハンマ ド・ハータミーがいたが、選挙前の予測では「保守派」の有力メンバーであり、 かつ議会議長のナーテグ・ヌーリーが勝利するとされていた。事実、ヌーリー は最高指導者ハーメネイー師や「憲法擁護評議会」、「専門家会議」、「革命防衛 隊」の幹部、「殉教者財団」、「被抑圧者財団」、バーザールの同盟組織である「イ スラーム連合協会」、「ゴム神学校教師協会」など、政府、財団、商業組織、宗 教界にまたがる「保守派」のネットワークから強力に支援されていた。他方で ハータミーは無所属で立候補したのであるが、有権者の圧倒的多数は体制を支 えて組織性を有する「保守派」に対する拒絶反応から、リベラルな性格が顕著 なハータミーを支援したのである〔吉村、2005:270‐271〕5 。その結果、イラ ンの有権者約 3650 万人の約 80%に当たる約 2914 万人が投票したこの選挙にお いて、ハータミーは約 69%の票を獲得し、得票率約 25%であった次点のヌーリ ーを約 1300 万票引き離して当選したのである〔吉村、2005:270〕。 最高指導者の職務及び権限については第 110 条を参照のこと。 ハータミーは選挙期間中、「イスラーム体制下での社会的自由、政治的寛容、女性の権利 と法の統治」を強力に主張した〔吉村、2005:271〕。 4 5 –8– ハータミーは大統領就任後、政治的自由化、経済復興、イスラーム的価値と 諸制度の維持という順で政策遂行のプライオリティを設定し、この逆を主張す る「保守派」に対する「改革派」のレッテルを貼られることになった〔吉村、 2005:275〕。その後、「保守派」は 1998 年から「改革派」に対して打撃を与え 始めたが、「改革派」の勢いが止むことはなかった。2001 年 6 月に行われた大 統領選挙においても、ハータミーは「改革路線」を支持する世論の支持を得て、 次点の「保守派」候補であったアフマド・タヴァッコリー(約 439 万票)を大 きく引き離す 2165 万票以上(得票率約 77%)の圧倒的な支持を得て再選され たのであった〔吉村、2005:279〕。 再選されたハータミーは引き続き「改革路線」を進めていったが、「保守派」 の巻き返しに遭うようになっていった。特に「9.11」以降、ハータミーが政治 的自由を主張すると、「保守派」から米国と結託している言動として非難される ようになった〔吉村、2005:293〕。 このような中で 2005 年に大統領選挙が行われ、1014 名の立候補届出者の中 から「憲法擁護評議会」の審査を通過した 6 人の候補者に、大統領候補者資格 が正式に認められた。すなわち、「保守派」からはマフムード・アフマディネジ ャード(テヘラン市長)、アリー・ラーリジャーニー(前国営放送総裁)、モハ ンマド・バーゲル・ガーリバーフ(元「革命防衛隊」空軍司令官・前「警察庁」 長官)、モフセン・レザーイー(元「革命防衛隊」総司令官)の 4 人が、「改革 派」からはメフディー・キャッルビー(元国会議長)が、「現実派」からはアリ ー・アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー(元大統領)が立候補する ことになったのである。その後、モスタファー・モイーン(元高等教育相)と モフセン・メフルアリーザーデ(副大統領)の 2 名の「改革派」候補者に対し て、ハーメネイーからの支持により大統領候補者資格が追認されたが、投票日 直前になってレザーイー候補が立候補辞退を表明するに至ったのである〔吉村、 2005:295‐296〕。 結局、「保守派」から 3 名、「改革派」から 3 名、 「現実派」から 1 名の計 7 名が立候補した今回の大統領選挙では、第一回目の投票で投票総数の過半数を 得られた候補者が存在しなかったため、上位 2 名の決選投票が行われることに –9– なった。すなわち、約 21%の得票率(約 616 万票)を獲得したラフサンジャー ニーと、約 19.5%の得票率(約 571 万票)を獲得したアフマデネジャードが決 選投票に進み、最終的にアフマデネジャードが約 1725 万票(得票率約 61%) を獲得し、ラフサンジャーニーの約 1005 万票(得票率約 36%)を大きく引き 離して大統領に当選したのであった〔吉村、2005:295‐299〕。このように決選 投票でアフマデネジャードが勝利した背景について〔田中、2005:26〕は、ア フマディネジャードが「汚職と腐敗の追放を掲げ、私利私欲を追求してきたと 批判されている元大統領とその一族にメスを入れる意欲を見せることで輝い た」こと、及び決選投票において「保守派」を構成する諸勢力が再結束したこ とを指摘している。 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 イランの国会(正式名称は「イスラーム議会」)は一院制議会で定数は 290 であり、「憲法の規定する範囲内においてあらゆる問題に関わる法律を制定す る」権能が認められている(第 71 条)。しかしながら、国会で可決された議決 事項はイスラームの戒律や憲法に抵触しないかどうか、「憲法擁護協議会」の立 法審査を受けることが規定されており(第 94 条)、その立法権はイスラーム的 な見地からの制度上の制約を受けていると言える。なお、行政権との関係で言 えば、「大統領は内閣組閣後、行政権行使前に、議会による内閣への信任投票を 得なければならない」(第 87 条)と規定されており、内閣発足には議会の信任 が必要とされるのである。 国会議員の任期は 4 年であり、国民の直接投票を経て選出されるが、大統領 選挙と同じように「憲法擁護協議会」による立候補者の資格審査が行われる。 2000 年の 2 月と 5 月に行われた第 6 回総選挙においては、6851 人の立候補届出 者のうち、「改革派」を中心に全体で約 10%の候補者が立候補を認められない ことになった。しかしながら、「改革派」は第 1 ラウンドで 166 議席を占め、第 2 ラウンドでも順調にその勢いを伸ばした結果、約 200 議席を獲得する快挙と なった。また、国民の間に広がっていた「改革」志向の流れの中で、テヘラン 選挙区で「保守派」支持に回ったと見なされたラフサンジャーニーが、「憲法擁 – 10 – 護協議会」の順位繰り上げで辛くも当選する事態が生じたのであった〔吉村、 2005:278‐279〕。 2004 年の第 7 回総選挙においても、2 月と 5 月に投票が行われた。この選挙 はハータミーが掲げる「改革」に対する国民の最終審判と位置付けられたが、 有権者数約 4635 万人の内、投票に参加したのは約 2348 万人(投票率は約 50%) であった。この投票率は革命後最低であったが、その背景には「憲法擁護評議 会」を通じた「改革派」立候補者の大量排除と共に、「改革派」陣営内の分裂や 「改革派」支持者の離反、有権者全般の関心の低下、「保守派」陣営の組織的な キャンペーンなどがあった。結局、このような要因が作用して、「保守派」が約 200 議席占める結果に終わり〔田中、2004:13〕、政権末期を迎えていたハータ ミーには更なる逆風をもたらすことになったのである。 さて、これまでは「改革派」と「保守派」を軸にイランの国会議員選挙を見 てきた。最後に、サルトーリの分類からイランの政党制を考えていくことにす るが、同国においては「改革派」や「保守派」、「現実派」それぞれの中にかな りの数の政党(総計 100 以上の登録政党)が存在しているが、実際の国会審議 においては複数の政党から構成され、またイシュー毎に結びつきを変える「派 閥」の役割が非常に大きいのが実情であり、ニュースなどでも通常は「派閥」 の名前が使われているようである 6 。そこで、存在感のあまり高くない政党や可 変的な「派閥」よりも、かなりの異論があるのは承知の上で「保守派」や「改 革派」、「現実派」をここでは便宜的に「政党」として扱い、サルトーリの分類 にイランのケースを当てはめることにする。 2000 年の第 6 回総選挙では「改革派」が約 200 議席、2004 年の第 7 回総選挙 では「保守派」が約 200 議席しめているが、これは「保守派」、「改革派」や「現 実派」を基盤とする複数「政党」の間で競合が展開された結果であると考えら れ、「一党優位制」に当てはまると考えられる 7 。しかしながら他方で、4 年と 6 この点に関して、(財)日本エネルギー経済研究所・中東研究センターの坂梨祥研究員か らご指摘頂いたことに御礼申し上げたい。 7 実際は「憲法擁護評議会」の影響力との関係から、 「保守派」が「改革派」や「現実派」 に比べて優位な地位にあり、この三者がサルトーリの「一党優位制」が想定する平等な「政 党」の地位にあるわけではない。しかしながら、この三者は政権獲得に向けて競合してい – 11 – いう短期間に「政権交代」が行われたと解釈可能であり、その意味で 1 つの政 党が長期にわたって圧倒的な力を持っているとされる「一党優位制」の要件を イランは満たしていない。以上のことから、イランの状況はかなりの留保があ ることを認めた上で、敢えてサルトーリの分類に当てはめるならば「一党優位 制」に相当すると言えよう。 ④ 「民主化」への展望 これまで述べてきたように、大統領選挙、国会議員選挙共に「憲法擁護評議 会」の資格審査を通過した候補者のみが立候補可能な状態である。この結果、 「憲法擁護評議会」で力を持つとされる「保守派」が、自らの意向に添わない 候補者を国政の場に送り込むことを不可能にさせていると見なすことが可能で ある。 他方で、1997 年と 2001 年の大統領選挙や、2000 年の国会議員選挙の事例か ら分かるように、有権者が「保守派」の意向と異なる選択をし、「改革派」を後 押しして勝利させたことはあった。この意味で大統領と国会議員の選出過程で 民意が全く反映されないとは言えないのであり、「保守派」から「改革派」への 「政権交代」がなされたとも言えよう。しかしながら、この「政権交代」は「憲 法擁護評議会」の認める枠内、すなわち「イスラーム共和制」を前提として行 われたものであり、選挙を通じて「イスラーム共和制」を転換するような選択 肢は有権者に与えられていないのである。従って、「憲法擁護評議会」の審査は 制度上もまた実態上も、大統領選挙及び国会議員選挙における「入り口」の段 階で有権者の選択肢を狭めているのであり、イランにおける「市民的・政治的 自由」は「憲法擁護評議会」の規定が憲法に存在すると共に、同評議会が実際 に影響力を保ち続けていることから考えて、制約を受けていると考えられよう。 ここで、「市民的・政治的自由」にとって重要なマス・メディアの役割に関す る規定を考えてみたい。第 24 条においては、「イスラーム教の基盤または公共 の権益を傷つけない限り、出版及び新聞雑誌による問題の解説は自由である」 るので、この点からも「ヘゲモニー政党制」よりも「一党優位制」にイランの状況は当て はまると考えられるのである。 – 12 – と規定されている。また、第 12 章はマス・メディアに関する独立した章であり、 その中の唯一の条項である第 175 条においては、「イラン・イスラーム共和国の マス・メディア(ラジオ及びテレビジョン)においては、イスラーム教の基準 と国益を遵守し、表現と思想伝達の自由が守られなければならない」と規定さ れている。従って、イランにおいてはイスラーム的な価値観と相容れない表現 の自由は制度上許可されていないと言えるのであり、マス・メディアの観点か らも「市民的・政治的自由」は、こと「イスラーム共和制」に関する限り制約 を受けることになっているのである。 それでは、「イスラーム共和制」という現体制の基本的統治原則が改変される 可能性はあるのであろうか。第 177 条において憲法の見直し及び手続き方法が 規定されているが、「体制のイスラーム教化に関する基本原則並びに、イスラー ム教の基準及びイラン・イスラーム共和国に対する信念とその目標に基づくす べての法律規則の制定、政権の共和国体制、国及び信徒の指導体制並びに、世 論及びイランの国境による国家統治方式は不変不易である」との留保が規定さ れている。従って、合法的な方法で現在の「イスラーム共和制」を改変する道 筋は閉ざされている状態であり、イランにおける「市民的・政治的自由」は全 般として「民主化」圧力の中で今後拡大されるかもしれないが、「イスラーム共 和制」が持続する限り、「市民的・政治的自由」はイスラームの見地からの制約 を受け続けるであろう。 – 13 – 4. シリア・アラブ共和国 4 4.シリア・アラブ共和国 ① はじめに シリアでは 1963 年の「バアス革命」以来、今日に至るまで「バアス党」政権 が続いている。その中で、1970 年 11 月 13 日に当時国防大臣(兼空軍司令官) であったハーフィズ・アサドが無血クーデタを引き起こし、全権を掌握した。 アサドは 11 月 21 日に首相(兼国防大臣)に就任し、翌 1971 年 2 月には「バア ス革命」以来閉鎖されていた国会(正式名称は「人民議会」)を召集し、恒久憲 法の起草を委託した。その後、3 月 12 日にアサドは 9 年振りの国政選挙を実施 し、99.2%の信任を得て大統領に就任するに至った〔青山、2000:56〕。 他方で、恒久憲法は 1973 年 3 月 12 日の国民投票を経て、翌 13 日に公布され、 部分的な改正を経ながらも今日に至るまで効力を持ち続けている。本報告では、 日本国際問題研究所が平成 12 年度に実施した外務省委託研究「中東基礎資料調 査-主要中東諸国の憲法-」の報告書に所収されている、シリア・アラブ共和 国憲法の日本語訳(第 3 章、宇野昌樹訳)を元に、以下の記述や引用を進めて いくことにする。 ② 大統領選出規定と大統領選挙 大統領は「憲法が規定する範囲内で国民のため行政権を行使する」(第 93 条 2 項)と規定され、そのために「政府閣僚と協議しながら国家の基本政策を立 案し、その履行を監督する」(第 94 条)ことになっている。具体的には、諸々 の法令、決定、命令を発布し(第 99 条)、宣戦布告、国民総動員、和平締結を 行う(第 100 条)などの権能を持っている。また、第 95 条により大統領は副大 統領や首相、副首相、大臣、次官を任免する権限を持っており、更には「自ら を議長とする閣議を召集できる」(第 97 条)のである。なお、大統領は「全軍 の最高司令官である」(第 103 条)と規定されている。 このように内政と外交、更には軍事を司っている大統領職に就くための規定 としては第一に、「大統領候補者は、シリア国籍を持ち、それに相応しい政治家 としての資質を持った、34 歳以上の成人でなければならない」(第 83 条)を挙 – 15 – げることが出来る。また、第 3 条 1 項で大統領の宗教はイスラームと規定され ている。そこで、この条件を持つ大統領候補者を「バアス党シリア地域指導部」 が推挙し、その推挙に基づき国会が指名した候補者 1 名に対する国民投票が行 われ、全投票数の絶対過半数を得票すれば大統領に選出されることになってい る(第 84 条)。なお、大統領の任期は第 85 条の規定により、7 年間である。 それでは、このような大統領選出に関する憲法の条項は実際どのように運営 されているのであろうか。ハーフィズ・アサド大統領(以下、アサドと記載) は 2000 年 6 月に 69 歳で死去するまで約 30 年間大統領を務めてきたのであるが、 その間に行われた国民投票では圧倒的な多数を得て再選されてきた。しかしな がら、アサド政権には発足当時、宗派に起因する弱点があったのである。それ は、同大統領がシリア社会で多数を占めるスンニー派から異端視されてきてい るアラウィー派に属するという点である。 さて、アサドは前述したように政権掌握後に恒久憲法の起草を委託したので あるが、1973 年初頭に国家宗教としてのイスラームへの言及を排除した憲法草 案が明らかになるつれ、シリアの諸都市ではスンニー派主導の反乱が始まった。 そこで、第 3 条 1 項の規定が憲法に挿入されることになったと見なされている のであるが、引き続きスンニー派の多くはアラウィー派の大統領を長とするア サド政権の正当制に疑問を投げかけていた。このようにアサド政権の正当制が 問われている状況の中で、当時レバノンの「シーア派高等評議会」議長であっ たムーサ・サドルが、アラウィー派はシーア派の中に含まれる一派であるとす るファトワを同年に発し、アサドを助けたのである〔Ajami, 1986: 174〕。 アサド政権はその後もスンニー派、特に「ムスリム同胞団」による武装反乱 に対処しなければならなかったが 8 、他方でスンニー派のブルジョワジーを味方 につけたりして政権基盤を拡大すると共に、軍や情報機関の要職にはアラウィ ー派の人物を登用することで政権を盤石なものにしていったのである。 この結果、シリア史上初めてと言えるほど政情は安定化したのであるが、他 方でレイモンド・ヒンネブッシュが「大統領君主制」〔Hinnebusch, 2001〕と主 その代表例が 1982 年 2 月の中部における都市ハマーで発生した反乱であり、政権側が 徹底した弾圧を行った結果、シリア国内における「ムスリム同胞団」は壊滅状態となった。 8 – 16 – 張するほどに、アサド自身の手に権力が集中するようになっていったのである。 この結果、「アサド=国家」と言える状態が出現し、アサドの健康問題がシリア 情勢の動向と結びつくと共に、後継者不在という問題をもたらしたのであった。 特に、アサドが 1983 年末に心臓発作で 1 ヶ月間執務不能となって以降、後継者 問題は深刻になったが、1990 年代始めに長男バースィル・アサドを次期後継者 に擁立するまで具体的な対策は講じられなかったのである〔青山、2000:57〕。 その後、バースィルが 1994 年 1 月に不慮の事故死を遂げると、今度は次男の バッシャール・アサドが次期後継者として擁立されるに至った。バッシャール の後継者としての権力基盤固めは 1999 年初頭の頃から本格化していったが、ア サドはバッシャールの権力基盤が確立しようとしていた、まさにその時死去し た。つまり、アサドはバッシャールへの権力委譲を完了させないままにこの世 を去ったのであるが、権力委譲プロセスはアサドの「側近」たちによって遂行 されることになったのである〔青山、2000:57‐58〕。 ところで、このプロセスでなされた最大の「見世物」が第 83 条の改正である。 アサドが死去した 6 月 10 日の夕方、アブドゥル・カーディル・カッドゥーラ国 会議長が臨時の議会を召集し、バッシャールを大統領に就任させるために第 83 条の改正を提案した。というのも、大統領に就任するための年齢要件は 40 歳以 上とされており、このままでは当時 34 歳であったバッシャールが大統領に就任 することは年齢的に不可能であったので、大統領資格年齢が 34 歳に引き下げら れたのである。その後は第 84 条の規定に従い、同日夜には「バース党シリア地 域指導部」が緊急会議を開催し、バッシャールを大統領候補として推挙する決 定が下され、6 月 25 日から 27 日にかけて開催された国会においてバッシャー ルに対する国民投票が行われることが決定された。国民投票は 7 月 10 日に行わ れ、バッシャールは 97.29%の票を得て大統領に就任したのである〔青山、 2000:58‐59〕。 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 憲法第 8 条で国家、社会の指導的党であると「バアス党」が位置付けられて いるシリアにおいては、国政における「バアス党」の役割は非常に大きい。大 – 17 – 統領選出過程においては前述したように、候補者は「バアス党シリア地域指導 部」の推挙を第一に得る必要がある。また、行政や軍の権力中枢を握っている のは党幹部であるという実態がある。 こうした中にあって、立法府にあたる国会(正式名称は「人民議会」)におい ても「バアス党」が支配的な位置を占めてきており、シリアの政党制の実態は サルトーリの言う「ヘゲモニー政党制」に当てはまると考えられる。つまり、 「ヘゲモニー政党」である「バアス党」以外の政党も存在することは許される が、それらは「衛星政党」としての地位を超えたり、「ヘゲモニー政党」に挑戦 することは出来ず、実際のところ政権交代は起こり得ないシステムとなってい るのである。このようなシリアの現況は、前述の憲法第 8 条の規定と共に、後 述するように政権側が第 8 条の規定を根拠にして、選挙の際に数々の「不正行 為」を行った結果なのである。 以上のことから、シリアにおいては行政や軍と共に、立法の分野においても 「バアス党」の優位が保たれてきているのであるが、その議会は制度的に脆弱 な構造を持っている。第 71 条では国会の権限として、大統領の任命や法改正の 承認、政府の政策の討議、予算及び開発計画案の承認、対外関係に関する条約 その他の承認、恩赦の承認、議員の辞職に対する同意・拒否、内閣や大臣への 不信任が挙げられている。 しかしながら、第 111 条の 1 項と 2 項において、大統領は議会が閉会してい るとき、或いは開会していても「国益や国家の安全保障を守るために必要とさ れれば」、立法権を掌ることが出来ると規定されているのである。こうして発布 された全ての法律は、「人民議会の次ぎの会期中に議会へ付託される旨規定さ れている」が、そこで出席議員 3 分の 2 以上の多数決によって「破棄ないし修 正しなかった場合は、法的に承認されたと見なし、これについて採決する必要 はないものとする」(第 111 条 3 項)と規定されているのである。従って、「ヘ ゲモニー政党制」である現状からして、大統領によって制定された法律を、議 会が拒否することは実際上不可能と言えるであろう。 このように「競争」がなく、かつ大統領に対して弱い地位にあるシリアの国 会を構成する議員はどのように選出されているのであろうか。1990 年 4 月 12 – 18 – 日の第 4 立法令修正条項により改正された選挙法第 15 条によると、15 選挙区 でそれぞれ 5 名から 32 名の代表者を選出する大選挙区連記投票制により、定数 250 名の議員が選出されることになっている〔青山、2003:57〕。なお、第 51 条の規定により、議員の任期は 4 年である。以下、2003 年 3 月 2 日から 3 日に かけて行われた第 8 期人民議会選挙を事例に、国会議員の選出過程の実態を説 明したい。 シリアの選挙法第 2 条は秘密・直接投票を規定しているが、実際は投票結果 の改ざんなどが行われているようであり、その結果「バアス党」率いる「進歩 国民戦線」の議会における優位をもたらしてきている 9 。エヤール・ジッセール は「進歩国民戦線」に属する議員が議会で 60%占めていると主張しているが 〔Zisser, 2001: 27〕、2003 年の選挙では「バアス党」単独で過半数の 135 議 席を、「進歩国民戦線」全体で 3 分の 2 以上の 167 議席を確保しているのである 〔青山、2003:59〕。なお、残り 83 議席は無所属議員とされているのであるが、 100 倍を超える競争率の中で当選を勝ち取る為には、当局の協力が得られる(最 低限、嫌がらせを受けない)必要があるとされている。 従って、シリアの国会議員選挙は政権の政治的思惑に沿って恣意的に操作さ れるため、国民の意思や利益が反映される仕組みにはなっていないと言える。 この選挙に対して内務省は 63.45%という投票率を公表しているが、実際の投 票率は 10%にも満たないと指摘している反政府系消息筋もあるようであり〔青 山、2003:58〕、選挙に対する政権の恣意的操作を考えれば起こり得る話であろ う。 ④ 「民主化」への展望 これまで述べてきたように、シリアにおいては大統領選挙、国会議員選挙共 に「バアス党」の存在を抜きにしては語れない状況である。これには前述した ように、第 8 条で同党の指導的立場が規定されているからであるが、ここでシ 9 「進歩国民戦線」は「ヘゲモニー政党」である「バアス党」の下に、 「衛星政党」である ナセル主義や共産主義、アラブ社会主義を奉じる諸政党から成り立っている〔Hinnebusch, 2001: 66〕。 – 19 – リアにおける「市民的・政治的自由」の問題を憲法の規定に沿って考えていく ことにしたい。 「自由」に関して言えば、それは神聖な権利と規定され、国家は国民の個人 的自由を保護し、その尊厳や安全を守ると規定されている(第 25 条)。また、 全ての国民に対して、政治や経済、社会、文化に関する諸活動に参加する権利 が認められていると共に(第 26 条)、報道、印刷、出版の自由が保障されてい る(第 38 条)。更には、キリスト教徒といった宗教的少数派も存在している中 で、信仰の自由の保障と、国家による全ての宗教の尊重も規定されているので ある(第 35 条)。 このように、憲法の規定を見る限りでは西欧諸国と遜色のない「市民的・政 治的自由」がシリアに存在しているように思えるが、その実態は全く正反対で ある。これには、イスラエルと法的には戦争状態にあるシリアにおいて、1963 年から今日に至るまで国家非常事態法が適用され続けていることが影響してい る。この国家非常事態法に関しては、恣意的な逮捕を国家の緊急時に制限する ような緩和措置が取られることが、2005 年 6 月 6 日から 9 日にかけて開催され た「バアス党シリア地域指導部」第 10 回大会で決定された〔“Syrian Baath Congress Wraps up”, Middle East Online, 9 June 2005〕。しかしながら、大 統領に非常事態を解除する権限が与えられている(第 101 条)にも拘らず、撤 廃には至らなかったのである。 この第 10 回大会においては、他にも「民主化」と関係する動きが見られた。 その一つが、「進歩国民戦線」傘下にある「衛星政党」以外の政党結成の権利が 認められたことであった。しかしながら、民族、宗教、地域に基づく政党の結 成は禁止されるとの留保事項が付随しており、「クルド政党」や「イスラーム政 党」は引き続き非合法化とされたのである〔“Syrian Baath Congress Wraps up”, Middle East Online, 9 June 2005〕。 この背景には 2004 年 3 月以来、シリア東部カミシリーでクルド人による政府 に対する抗議活動が活発化していたことや、2005 年 5 月にシリア国内において 「ムスリム同胞団」の活動が目立った事件が発生したことなど、政権側がクル ド人や「ムスリム同胞団」の動きに警戒を強めていた背景があった。この結果、 – 20 – この大会ではマス・メディアの活動に対する自由の拡大なども決定されたが 10 、 国家非常事態法の撤廃には至らず、政党結成権利も上記の留保事項が付随する など、「民主化」の動きは欧米諸国から見た場合に全く不満足な結果に終わった のである。 その後今日に至るまで、イラク問題やレバノン問題と共に、シリアの政治体 制は「非民主的」であるとして、引き続き欧米による対シリア・バッシングを 構成する一要因となってきている。シリアの場合、繰り返しになるが「バアス 党」の指導的立場が憲法に規定されており、政治体制を変革する場合にはまず この第 8 条の改正から着手しなければならない。 しかしながら、憲法改正の提案には国会議員 3 分の 2 以上の賛成が必要であ り(第 149 条)、「ヘゲモニー政党制」という状況から考えると、現実には起こ りそうもない。また、国家非常事態法の緩和は対イスラエル和平と結びついて おり、和平交渉再開の見通しは見えていない状態である。従って、国内の「反 体制派」が最近動きを活発化させてきているとは言え、政権打倒に充分な力を 今後蓄えるならば当局から直ぐに弾圧される可能性は残っている 11 。このよう なシリアを取り巻く内外情勢を考慮するならば、同国の「民主化」がシリア内 部から、しかも合法的に達成される可能性は極めて小さいと言えよう。 第 10 回大会で決定された事項の詳細に関しては、〔“Baath Party Amends Emergency Law and Embarks on Modest Policy Change”, The Daily Star, 10 June 2005〕を参照の こと。 11 2005 年 10 月 16 日に、自由主義やアラブ民族主義、マルキシズムの志向を持ち、シリ ア国内に拠点を持つ 5 つの「反体制組織」が、広範な政治参加と更なる政治的自由を求め てダマスカス宣言を読み上げた〔“Opposition Groups Issue ‘Damascus Declaration’ for a Regime Change”, Naharnet Newsdesk, 19 October 2005〕。しかしながらその後も、政権 は「反体制組織」に属するメンバーの拘禁などをしばしば行ってきているのである。 10 – 21 – 5. エジプト・アラブ共和国 5 5.エジプト・アラブ共和国 ① はじめに エジプトでは 2005 年に大統領選挙に関する憲法規定の改正が行われたが、 1971 年 9 月に制定され、その後 1980 年に一部改正及び補足が行われた憲法が 基本的には通用している。本報告では、日本国際問題研究所が平成 12 年度に実 施した外務省委託研究「中東基礎資料調査-主要中東諸国の憲法-」に所収さ れている、エジプト・アラブ共和国憲法の日本語訳(第 3 章、池田美佐子訳) を元に、以下の記述や引用を行うことにし、2005 年の改正に関しては該当する 箇所で触れることにしたい。 ② 大統領選出規定と大統領選挙 国家元首である大統領には、「人民主権の確認、憲法と法の支配の尊重、国家 統一、社会主義的成果の維持に努める。国家行為における役割の遂行を保障す るような各権力機関の権限の範囲に留意する」(第 73 条)との一般的な規定が 適用される。その上で、大統領は副大統領(第 139 条)や首相、副首相、大臣、 次官を任免し(第 141 条)、法律の施行に際して「修正、妨害、履行の免除がで きないような規則を公布」し(第 144 条)、「条約を締結し、適切な説明を付し て人民議会に通告する」(第 151 条)権限を持っている。なお、大統領は国会(正 式名称は人民議会)によって採択された法律案を拒否することが出来るが、「議 会が議員の 3 分の 2 以上の多数で再度可決した場合は、その法律案は法律とみ なされ、公布される」(第 113 条)のである。 このような権限を持つ大統領の候補者資格は、「エジプト人の両親をもつエ ジプト人で、市民的および政治的権利を享有し、かつ太陽暦で 40 歳以上の者と する」(第 75 条)と規定されている。上記の資格を持つ候補者に対する大統領 選出の規定は、「人民議会は、共和国大統領を指名する。この指名は、国民投票 に付される。人民議会での共和国大統領の指名は、少なくとも議員の 3 分の 1 の提議により、議員の 3 分の 2 以上の投票を得た候補者が国民投票に付される」 (第 76 条)となっていた。なお、大統領の任期は 6 年間と規定されている(第 – 23 – 77 条)。 ここで、第 76 条の規定に関して過去形の記述で書いたことについて説明して おきたい。フスニー・ムバーラク大統領は 2005 年 2 月、議会で予め選出された 1 人の候補者に対して国民が信任投票するという方式を、複数候補者に対する 国民の直接投票で選出する方式に変更するとの提案を行った。この背景には、 ムバーラクの長期政権(1981 年に大統領就任)に対する国民の不満や、米国に よるエジプトの「民主化」に対する期待の表明があったのである。 そこで、内外の圧力からエジプトにおける「民主化」が進むとの期待が高ま ったが、政府が起草した憲法改正案は与党「国民民主党」に有利な内容である ことが分かるにつれ、「ムスリム同胞団」や「キファーヤ運動」12 、その他の「世 俗的な」野党勢力から成る「民主化勢力」は抜本的な改正を要求して街頭デモ を多数組織した。しかしながら、国会の議席の 90%を与党「国民民主党」が占 めている状況である中で、憲法改正のプロセスは「〔人民議会〕議員の 3 分の 2 以上が改正について賛成した場合、改正条項は国民に提示され、国民投票に付 される」(第 189 条)との規定に則り、着々と進められていったのである。結局、 第 76 条の改正案は 5 月 10 日に国会を難なく通過し 13 、25 日の国民投票におい て賛成票が全体の 82.8%(投票率 53.6%)を占めた結果、改正案は承認された のであった〔横田、2005:47〕。 国民投票終了後、「民主化勢力」は投票に際して不正があったとして批判を行 うと共に、野党・無所属候補者に対して多くの制約がある第 76 条の改正に対し て激しい批判を行った。問題とされたのは、大統領選挙への立候補に必要な推 薦人数の規定である。第一に、公認政党から立候補する場合には、その政党が 国会(全 454 議席)において 5%以上の議席を有する必要が規定されているが、 最大の公認野党である「新ワフド党」の議席数は当時 7 議席に過ぎず、この規 定を満たしていなかったのである。第二に、独立候補として立候補する場合に 「キファーヤ運動」は 2004 年末にムバーラクの大統領再選キャンペーンが開始される 中で左派運動家を中心に組織された。「ムバーラクはもう十分(キファーヤ)」とメンバー が街頭デモに際して唱えるスローガンが名称の由来となっている〔横田、2005:41‐42〕。 13 全 454 議席の国会において、404 人の議員が賛成に回った〔“Egypt Parliament Approves Key Election Reform”, Middle East Online, 10 May 2005〕。 12 – 24 – は、国会議員 65 名以上の推薦が必要とされているが、国会議席の約 90%を与 党「国民民主党」が占めていた状況では、独立候補として立候補するのも非常 に困難な状況である。この規定は非合法状態における「ムスリム同胞団」を対 象としたものであるが、同胞団系議員の国会における議席数は当時 16 議席に過 ぎず、仮に全ての野党の協力が得られたとしても、多く見積もって 40 名程度の 推薦に留まることが予想されていたのである〔横田、2005:47‐48〕。 結局、野党や無所属に対する厳しい規定にも拘らず、9 月 7 日に実施された 大統領選挙には 10 人が立候補した。選挙管理委員会は現職のムバーラクが 88.6%、「アル・ガッド党」のアイマン・ヌール党首が 7.6%、「新ワフド党」 にヌアマン・グムア党首が 2.9%の票をそれぞれ獲得したとの結果発表を行っ た〔毎日新聞、2005 年 9 月 10 日〕。従って、複数候補が認められた大統領選挙 ではあったが、ムバーラク政権が継続することに終わった選挙結果となった。 なお、与党「国民民主党」関係者による有権者の買収や警察も関与した有権者 に対する脅迫行為、国内NGOによる選挙監視委員の投票所への立ち入りは政府に よって認められたものの、投票所職員による立ち入りの妨害など、多くの「不 正行為」が報告されている 14 。 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 立法権を行使する国会は第 86 条で、「国の一般政策、経済社会開発の一般計 画、および国家の一般予算を承認」すると共に、行政の任務を監視する権能を 持っていると規定されている。また、大統領と並んで国会議員は法律を提案す る権利を有している規定されている(第 109 条)。国会の選出議員数は少なくと も 350 名であり、大統領は 10 名を限度として国会の議員を指名することが出来 るのである(第 87 条)。なお、現在の国会の総議員数は 454 名であり、その内 の 444 名が選挙を経て選出されている。 国会議員の任期に関しては 5 年と規定されており(第 92 条)、21 世紀に入っ てからは 2000 年と 2005 年に国会議員選挙が行われてきた。2000 年選挙におい ては、与党「国民民主党」が大量の無所属候補を当選後に同党へ入党させた結 – 25 – 果、議会において約 90%に相当する 404 議席を占める結果となった 15 。なお、 1990 年選挙後の議会では「国民民主党」が約 86%に相当する 385 議席を、1995 年選挙後の議会では同党が約 94%に相当する 417 議席を独占した〔伊能、2001: 38‐40〕。 この結果、2005 年に選挙が行われるまでのエジプトの政党制の実態は、「国 民民主党」以外の野党が「衛星政党」の地位に留まり、「支配政党」に挑むこと は出来ないシステムであったのであり、故にサルトーリの言う「ヘゲモニー政 党制」に相当していたと言えよう。なお、選挙方法に関しては第 87 条に秘密・ 直接選挙と規定されており、政党同士の競争を阻害するような制度上の規定は 存在していない。従って、上記の政権側の行動側に加え、選挙毎に繰り返し行 われてきた政権側の数々の「不正行為」が「ヘゲモニー政党制」を出現させた と言えよう。 11 月 9 日から開始された 2005 年の国会議員選挙は、ムバーラクが任命する 10 議席を除いた 444 人分の議席を 3 ラウンドに分けて選挙戦が行われた。米国 による「民主化」圧力の中で、ムバーラク政権は当初「ムスリム同胞団」に対 して寛容な態度を取った。しかしながら、同胞団系候補(「ムスリム同胞団」は 政党として認められていないので、これまでの選挙と同様に「無所属」で立候 補)が第 1 ラウンドで 34 議席、第 2 ラウンドで 42 議席獲得した結果〔三井、 2005②〕、政権側は同胞団に対する圧力を強めた。その結果、同胞団は第 3 ラウ ンドで 12 議席を獲得したのみであり、最終的に「国民民主党」が全議席数の 75%に相当する 311 議席(無所属で立候補し、当選後に同党に加わった者を含 む数字)を占め、「ムスリム同胞団」は 88 議席を占めるに至った〔“Egypt’s Parliament Sworn in”, Middle East Online,13 December 2005〕。 結果として、与党「国民民主党」の力は衰え、「ムスリム同胞団」は改選前の 15 議席から大躍進したと言える。また、第 76 条の改正条項に関して既述した ように、無所属候補に対する国会議員の推薦人の規定から見ると、88 議席を国 会で占めた同胞団は無所属系候補を擁立することも一見可能であるように見え 14 15 「不正行為」の詳細に関しては〔三井、2005①〕を参照のこと。 2000 年選挙に関する詳細は、〔鈴木、2001〕を参照のこと。 – 26 – る状態である(実際は後述するように「地方評議会」の議員推薦の問題があり、 現在のところは難しい)。2005 年の国会選挙以前における政権交代が全く視野 に入っていなかった状態から考えると、現在の「ムスリム同胞団」は「衛星政 党」としての地位を超え、「国民民主党」と平等な地位を持つ政党同士として競 合している状態に少し近づいたように思われる。「国民民主党」が長期にわたっ て圧倒的な力を持ってきている状態は変わらないが、「ムスリム同胞団」の躍進 を考えると、現在のエジプトは「ヘゲモニー政党制」から「一党優位制」に近 づいていると言えよう。 ④ 「民主化」の実態と更なる「民主化」への展望 エジプトの憲法においては言論の自由は保障され(第 47 条)、また出版、印 刷、発行、その他の情報伝達の自由も保障されている(第 48 条)。しかしなが ら、1981 年以来施行されてきている国家非常事態法が憲法よりも優位に立つこ とがしばしば発生し、野党指導者に対する恣意的な逮捕・投獄が行われてきて いる。事実、2005 年 12 月 5 日には「アル・ガッド党」のヌール党首が再度逮捕 された 16 。また、現在に至るまで「ムスリム同胞団」に対するムバーラク政権 側の弾圧は続いており、2006 年 3 月 3 日には同胞団における有力メンバーら 8 人が逮捕されたのである〔“Egypt Jails Brotherhood Leader”, Aljazeera. Net, 4 March 2006〕。 このように政権側が野党に対する圧力を維持・更には強化してきているのは、 ダールが主張するように「民主化」が進むプロセスにおいて「市民的・政治的 自由」が拡大してきている中で、特に、「ムスリム同胞団」の議会・在野双方に おける影響力の増大が政権側の危機感を強めているのである。その最たる例と して、2011 年に予定されている大統領選挙に関連して、政権側は 2 月 14 日に 本年 4 月に予定されていた地方評議会議員選挙の実施を 2 年間延期することを ヌールは 2005 年 1 月に逮捕され、同年 3 月に米国のエジプト政府に対する圧力が奏効 して釈放された。2004 年に「アル・ガッド党」を公認政党として申請する際に、新制書類 を偽造したと当局から見なされていることが彼の逮捕理由であるが、ヌールはその容疑を 否定し、12 月に逮捕された際にはハンストを行い病院に担ぎ込まれた〔“Egypt’s Nour Taken to Hospital”, Aljazeera. Net, 17 December 2005〕。 16 – 27 – 決定した。というのも、憲法第 76 条の改正条項では無所属候補の立候補には地 方評議会議員 140 名の推薦が必要であると規定されており、「ムスリム同胞団」 が優勢な今の状態で選挙を行えば、現在の与党系優位が崩れて同胞団系の議員 が多数地方評議会に当選し、「ムスリム同胞団」を含む無所属候補が 140 名の推 薦を得ることが可能になると見込まれているからである〔“Egypt Votes to Delay Poll by Two Years”, Aljazeera. Net,15 February 2006〕。 従って、エジプトにおいて今後「民主化」が進展していくかどうかは未知数 であり、政権側が「ムスリム同胞団」に対して強圧的な態度を取り続けていく ならば、同胞団側の反発と政権側の強硬策の応酬が続き、「民主化」プロセスが 後退する可能性もあると思われる。 – 28 – 6. レバノン共和国 6 6.レバノン共和国 ① はじめに 1990 年にレバノン内戦が終結すると、政治指導者たちは内戦の教訓を生かす 形での憲法の改正論議を行った。その結果、翌年 9 月に憲法改正が行われ、内 戦前からの大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニー派イスラーム教徒、 国会議長はシーア派イスラーム教徒からそれぞれ選出されるルールは温存され たが、この「トロイカ」内部の勢力関係の変更がなされた。すなわち、大統領 の権限が弱められ、首相と国会議長の権限が強められたのである。 その後今日に至るまで、大統領選出の規定に関する例外的な改正が行われた 他は、改正が行われていない。本報告においては、日本国際問題研究所が平成 12 年度に実施した外務省委託研究「中東基礎資料調査-主要中東諸国の憲法 -」に所収されている、レバノン共和国憲法の日本語訳(第 9 章、アダル・ラ ジャ訳)を元に、以下の記述や引用を行うことにする。 ② 大統領選出規定と大統領選挙 大統領は国家の長であり、また軍の最高司令官であると規定されている(第 49 条)。また、大統領は「国会が法案を可決した後に、それを憲法に定められ る期間内に公布し、その公示を求める」が、その法律を修正することは出来な い(第 50 条)。この点に関連して第 51 条において、大統領は「最終的に可決さ れた法律を、政府に送付された 1 ヶ月以内に公布し、その公示を求める」と規 定されている。 内閣との関係で言えば、大統領の役割は「必要に応じて内閣を主宰する」(第 53 条 1 項)、「国会議長との協議によって、国会での諮問とその公式の結果に基 づき、首相を任命する」(第 53 条 2 項)、「首相との同意に基づいて、組閣時に おける大臣任用の法令、大臣の辞任を承認する法令、およびその罷免の法令を 公布する」(第 53 条 4 項)、「内閣から提出された法案を国会に送付する」(第 53 条 6 項)と規定されている。この結果、内戦前のように首相を自由に任命す ることは出来なくなったが、組閣の際に「拒否権」を行使することで、自らの – 29 – 組閣人事に関する意向を首相が配慮するように求めることは出来るのである。 また、大統領は「首相との同意の下で、国際条約について交渉する」(第 52 条) ことが出来るのである。 このように、その権限は内戦前と比べると弱められたとは言え、レバノン政 治において未だに大きなウエイトを占めている大統領に就任する為には、国会 における投票プロセスを経る必要がある。すなわち、大統領は「国会における 秘密投票により、第 1 回投票で 3 分の 2 以上の多数によって選出される。その 後の投票では、絶対多数によって選出される」と規定されており、こうして選 出された大統領の任期は 6 年で、再選は禁止とされる(第 49 条)。また、大統 領候補者に関しては「国会議員の被選挙権の要件を満たさない場合、および候 補者たりうる資質がない場合には、共和国大統領に選出されることはない。裁 判官、第 1 級公務員、行政機関・公共機関・すべての公職においてそれに相当 する者を、在職中に、もしくは辞職・実質的な離職・定年退職から 2 年以内に、 大統領に選出することはできない」(第 49 条)と規定されているのである。以 上のことから、大統領選出の過程は制度上「民主的」であると言えよう。 内戦終結後のレバノンにおいて、この第 49 条の規定が問題となったのが 1995 年 10 月と 1998 年 10 月、2004 年 9 月であり、何れもレバノンがシリアの実効 的「支配」の下に置かれていた時であった。1995 年に関しては、1989 年から大 統領を務めてきたイリヤース・ハラーウィー大統領の任期が切れ、後継者問題 が浮上した時であった。ハーフィズ・アサド大統領はハラーウィーのシリアへ の忠誠と従順を評価していたので、レバノンの国会議員に「圧力」をかけて第 49 条に対する「例外的かつ一時的な」改正を行わせ、ハラーウィーの再選を可 能とさせたのである〔“Constitutional Coup”, Middle East International, 3 November 1995: 12‐13〕 17 。 なお、憲法の改正に関して「国会は、通常国会において、議員 10 人の提案に なお、汎アラブの週刊誌『アル・ワサト』が 1995 年 5 月に、レバノン人 800 名を対象 に行った調査がMiddle East Mirrorに掲載されている。それによると、調査に応じた 70% 以上のレバノン人が憲法を改正してのハラーウィーの任期延長に反対の意を表明していた 〔“Opposition Poll Shows Most Lebanese against Extending Hrawi’s Term”, Middle East Mirror, 11 May 1995: 22〕。 17 – 30 – より、法定総議員の 3 分の 2 以上の多数によって、憲法改正の提案が可能であ る」(第 77 条)とされ、その上で「国会へ憲法改正に関する法案が提出された 場合には、国会は、法定総議員数の 3 分の 2 以上の多数が出席しなければ、こ れを審議し、票決に付すことは出来ない。票決は、法定総議員数の 3 分の 2 以 上の多数により決する」(第 79 条)と規定されている。 同 49 条に対する「例外的かつ一時的な」改正の 2 番目のケースである 1998 年 10 月においては、ラッフード将軍を大統領に選出するために、国会はシリア の意向に従う形で憲法改正を行ったのである。また、これまでのところ最後の ケースとなっている 2004 年 9 月のケースは 1995 年 10 月の場合と同じく、大統 領の任期切れが迫る中で、シリアとの関係を重視するラッフードの任期を延長 させるために、シリアが国会議員に「圧力」をかけて憲法改正を行ったと見な されている。こうして、ラッフードの任期が 1 回限り 3 年間延長されることに なって今日に至っているのであり、大統領選出過程の実態はシリアの「圧力」 により「非民主的」なものとなってしまったのであった。 ③ 国会議員選出規定と国会議員選挙 レバノンの国会は宗派制度に拘束されない法律が施行されるまで、イスラー ム教徒とキリスト教徒が平等な議席数を保持し、イスラーム教とキリスト教そ れぞれの宗派に属する議員が地域毎の人口比に基づいた比例代表的によって選 出されると規定されている(第 24 条)。また、「国会は毎年 2 回通常国会を召集」 し、「第 1 回目の通常議会は 3 月 15 日以降の最初の火曜日に開会し、5 月末日 に閉会する。第 2 回目の通常議会は 10 月 15 日以降の最初の火曜日に開会し、 まず予算の審議と承認が行われ、その年の末日まで継続する」(第 32 条)。なお、 法案審議に関する票決は投票の過半数で決するとされ、可否同数の場合にはそ の議案は否決されることになっている(第 34 条)。 ここで第 24 条に立ち返り、その規定内容に関して具体的に説明したい。最初 に議席数に関して述べると、レバノンでは 1990 年 9 月の憲法改正が行われるま で、国会におけるキリスト教徒対イスラーム教徒の議席数は 6 対 5(総議席数 は 99)であった。しかしながら、このようなキリスト教徒とイスラーム教徒の – 31 – 間に存在する政治的不平等はレバノン内戦を引き起こす一要因となったのであ る。そこで、レバノン内戦終結の道筋をつけた 1989 年のターイフ合意において 議席配分の平等が規定され、冒頭のような第 24 条の改正に繋がっていったので あった。結果として、総議席数が 128 となり、以下の表が示すような形で宗派 別に議席が配分されている〔Baaklini et al., 1999: 97〕。 キリスト教諸派(計 64 議席) マロン派 34 ギリシャ正教 14 ギリシャ・カトリック 8 アルメニア正教 5 アルメニア・カトリック 1 アングリカン 1 その他 1 イスラーム諸派(計 64 議席) シーア派 27 スンニー派 27 ドルーズ派 8 アラウィー派 2 ところで、第 24 条では国会議員が地域毎の人口比に基づいて比例代表的に選 出されると規定されているが、レバノンでは実際どのような選挙区割りがなさ れ、どのような投票行動や選挙活動がなされているのであろうか。以下、ラッ フード大統領の任期延長がなされた後の政治過程に触れながら、2005 年の国会 議員選挙を事例に考察していくことにしたい。 2004 年 9 月にラッフード大統領の任期延長が決定されると、抗議する形で当 時のラフィーク・ハリーリー首相率いる内閣の閣僚 4 人が辞任した。そこでハ リーリーは新内閣の組閣に取り掛かったが、組閣に対してラッフードと合意出 来ず自らも辞任するに至った。と言うのも、前述したように第 53 条 4 項におい て、組閣に際し大統領の承認が必要とされているからである。この結果、ウマ ル・カラーミー首相が率い、その陣容から「親シリア」の志向が強い内閣が組 – 32 – 閣されると、「反シリア陣営」はメディアを使って「反シリア・キャンペーン」 を活発化させ、12 月には「ル・ブリストル会合派」を形成するに至ったのであ る 18 。 「ル・ブリストル会合派」は当初、ワリード・ジュンブラート議員率いる「進 歩社会主義者党」、マロン派のナスルッラーフ・ブトゥルス・スファイル総大司 教と緊密な関係を持っているブトルス・ハルブ議員を中心とする「クルナート・ シャフワーン会合」、ナスィーブ・ラッフード議員を中心とする「民主刷新運動」 などから成っていた。これに対して、ナビーフ・ビッリー国会議長率いる「ア マル」や、ハサン・ナスルッラーフ率いる「ヒズブッラー」などから成る「ア イン・アッ=ティーナ国民会合派」が形成され、シリアとの連帯・関係強化を 主張した。〔青山、2005:12〕 19 。 「ル・ブリストル会合派」と「アイン・アッ=ティーナ国民会合派」が各々 の政治的立場を主張し続けていた中で、2005 年 2 月 14 日にハリーリー爆殺事 件が発生した。事件後、「ル・ブリストル会合派」にはハリーリーの次男サアド ッディーン・ハリーリーが率いることになった「ムスタクバル潮流」と、ミシ ェル・アウン元司令官率いる「自由国民潮流」が合流し、爆殺事件の真相解明 や同事件に関与していると見なされる治安関係者の解任、シリア軍の完全撤退、 カラーミー内閣の辞任などを求めて「アイン・アッ=ティーナ国民会合派」と 対立した。 「ル・ブリストル会合派」がベイルート市内の「殉教者広場」で連日のよう に数十万人規模のデモを行った結果、2 月 28 日にはカラーミー内閣が辞任し、 アサド大統領は 3 月 5 日に駐留シリア軍の二段階撤退を表明し、事実 8 日から 撤退が開始されることになった。しかしながら、アメリカやフランス、「ル・ブ リストル会合派」はシリアの段階的な撤退プランを評価せず、12 日にアサドは テルジェ・ロイド・ラーセン国連特使との会談で、シリア軍と同国の情報機関 12 月半ばに初めてベイルートのル・ブリストル・ホテルに会し、その後も同ホテルで会 合を重ねたのでこのような名称が付けられた。 19 ベイルートのアイン・アッ=ティーナにあるビッリーの邸宅で会合を重ねたことからこ のような名称が付けられた。 18 – 33 – 員を完全撤退させることを確約した〔小副川、2005:22〕 20 。 シリアが国際的な圧力に晒されていた中で、「アイン・アッ=ティーナ国民会 合派」は 8 日に、「ル・ブリストル会合派」は 14 日にそれぞれベイルートで大 規模集会を開き、その勢力を誇示した。カラーミー内閣が総辞職したり復帰し たり、また爆弾テロ事件が発生するなど、政治的に不安定な時期が続く中で両 派の争いが更にエスカレートしていくことが危惧された。しかしながら、4 月 27 日にナジーブ・ミーカーティー内閣が発足するとレバノン情勢は徐々に落ち 着きを取り戻していったのである。こうした中でミーカーティー内閣にとって 最大の課題は、議会の任期切れ(5 月 31 日)前の選挙実施を求める国際社会の 圧力を前に、選挙法の問題を解決することであった。 そこでミーカーティー内閣は投票開始日を 5 月 27 日と決定し、それまでに選 挙法の改正が実現しない場合は 2000 年選挙法で実施するとの声明を出した。こ の 2000 年選挙法はシリアの実効的「支配」下で制定され、 「親シリア」の政治 家に有利になるようなゲリマンダリングが行われた結果、郡(一部は地区)の 寄せ集めで選挙区が構成されている。レバノン全土を 14 の選挙区に分け、その 内訳はベイルート県に 3 区、レバノン山地県に 4 区、北部県に 2 区、ナバティ ーヤ県と南部県から成る「大南部地方」に 2 区、ビカーア県に 3 区である。 この選挙法を巡る議論の過程で、「ル・ブリストル会合派」と「アイン・アッ =ティーナ国民会合派」という 2005 年初頭からのレバノン政治を彩ってきた対 立軸が揺らぐこととなった。この背景には、同内閣成立に前後してハリーリー 爆殺事件に関与していると見なされている治安関係者が辞任し、またシリア軍 の完全撤退とカラーミー内閣の辞任が既に生じていたので、「ル・ブリストル会 合派」と「アイン・アッ=ティーナ国民会合派」の対立点がほぼ解消されてい たことがあった。その結果、投票開始日までの選挙法改正が国会で可決される のが難しい状況となる中で、「ル・ブリストル会合派」の中から「アイン・アッ =ティーナ国民会合派」と連携する動きが出てきたのである。 同特使は国連安保理決議 1559 号の履行状況を監視する任務に就いており、これまでに 報告書を 2 回(2005 年 4 月 26 日と 10 月 25 日)コフィ・アナン国連事務総長に提出して いる。 20 – 34 – この背景にあったのが 2000 年選挙法に対する認識の相違であり、 「ムスタク バル潮流」や「進歩社会主義者党」は 2000 年選挙法の下である程度の勝利を収 めることが出来ていたので、「アマル」や「ヒズブッラー」ほどではないにして も 2000 年選挙法に対して肯定的であった。これに対して、 「クルナト・シャフ ワーン会合」や「民主刷新運動」、「自由国民潮流」などに所属するキリスト教 徒政治家たちは、1 月 25 日にスライマーン・フランジーヤ内務大臣(当時)が 内閣に提出した基本的には郡(一部においては複数の郡や地区を合体)を選挙 区とする選挙法案(全 26 区)を評価していた 21 。しかしながら、レバノンの政 治を特徴付ける「候補者リスト」(以下、「リスト」と標記)作成の過程で「ク ルナト・シャフワーン会合」や「民主刷新運動」は、「ムスタクバル潮流」や「進 歩社会主義者党」と連携することになったのである。 ここで「リスト」について簡単に説明すると、第 24 条の規定に沿ってレバノ ンでは宗派別人口の分布に応じて選挙区毎に議員の宗派が定められており、複 数の宗派の議席から成る選挙区において有権者は各宗派の議席分の投票数を持 っている。例えば、2000 年選挙法におけるベイルート県第 1 区の議席数は 6 で、 宗派別の割り当てはスンニー派が 2、マロン派が1、ギリシャ・カトリックが 1、ギリシャ正教が1、プロテスタントが 1 となっており、投票者は全部で 6 票投じることになる。そこで、立候補者は当選するために自らの帰属宗派以外 の宗派からの票も必要とするので、各政治勢力は他宗派からの票を期待して立 候補者同士を組ませ、その結果出来上がる複数の宗派出身の立候補者たちから 成る「リスト」への投票を有権者に呼びかけることになるのである〔小副川、 2005:23〕。 結局、選挙戦においては「ル・ブリストル会合派」の中の「ムスタクバル潮 流」や「進歩社会主義者党」、「クルナト・シャフワーン会合」、「民主刷新運動」 は、最大宗派であるシーア派からの票を期待し 22 、「アマル」や「ヒズブッラー」 この選挙法の詳細に関しては〔“Interior Minister Releases Draft Electoral Law”, The Daily Star, 26 January 2005〕を参照のこと。 22 レバノンでは公式の人口統計が存在しないため、2005年2月27・28日発行のLe Monde に 掲載されたデータを紹介したい。それによると、レバノンの全人口は420万人とされ、その 中でシーア派は単一の宗派としては最大の32パーセント(約135万人)を占めているとされる。 21 – 35 – などの「アイン・アッ=ティーナ国民会合派」と連携した。他方で、「国民自由 潮流」はミッシェル・ムッルやスライマーン・フランジーヤ、シリア民族社会 党といった「親シリア」の人物、政党と連携した。 この結果、同一「リスト」に「反シリア」、「親シリア」の立候補者が記載さ れるケースが多数発生したので、一般に「リスト」を選択する有権者に対して、 ここ数年の政情を考えれば当然の争点になっていたはずの、今後のシリアとの 関係のあり方(以下、「シリア問題」と標記)を問わない選挙となってしまった のである。従って、確かに各政治組織の獲得議席数からは欧米メディアが主張 するように「反シリア連合」の勝利と見なされるかもしれないが、この数字を 持って有権者の「反シリア」、「親シリア」の度合いを測ることは難しい選挙に なったと言えよう。なお、主要政治勢力の獲得議席数は以下の通りであり、「ム スタクバル・ブロック」(「ムスタクバル潮流」を中心とする会派)が 36、「民 主会合ブロック」(「進歩社会主義者党」を中心とする会派)が 15、「クルナト・ シャフワーン会合」が 5、「民主刷新運動」が 1、「開発・解放ブロック」(「ア マル」を中心とする会派)が 15、「抵抗への忠誠ブロック」(「ヒズブッラー」 を中心とする会派)が 14、「変化・改革ブロック」(「自由国民潮流」を中心と する会派)が 21 の議席をそれぞれ獲得した 23 。 それでは最後に、このような議席配分となったレバノンの事例とサルトーリ の理論との連関について考察してみたい。レバノンでは会派や政党の数を全て 含めると 10 を超え、政党の数だけ見ると、6 から 8 の「分極的多党制」には当 てはまらず「原子化政党制」に当てはまるように思われる。しかしながら、「原 子化政党制」は他に抜きん出た政党がないまま多数の群小政党が乱立している ことを特色としており、レバノンでは「ムスタクバル潮流」のように全議席数 の約 36%の議席を占めている会派も存在している。また、レバノンの議会政治 動向は議席数を既述した 7 つの会派や政党を軸に動いており、これら会派や政 党が掲げる主張には差が大きいのが実情である。更には、かなり大きな「反体 制政党」も 2 つ以上(「アマル」や「ヒズブッラー」、「自由国民潮流」)存在し 各政治勢力の議席数に関しては、The Daily Starの選挙特集や、アジア経済研究所(日 本貿易振興機構)地域研究センター研究員の青山弘之氏からの示唆・情報を参照した。 23 – 36 – ている。このような政治的傾向・特色は「分極的多党制」に当てはまるのであ り、従って全ての会派や政党ではなくて現実に軸となっている会派や政党の数 をここでは採用するという留保条件をつけると、レバノンは「分極的多党制」 に相当すると言えよう。 ④ 「民主化」の実態 シリアの明白なプレゼンスがない状態で行われた 2005 年のレバノン国会議 員選挙に対して、欧米諸国は「民主化」された選挙として賞賛の言葉を与えた。 確かに、シリア「支配」下の過去 3 回の選挙(1992、1996、2000 年)と比べる と、言論の自由が保障された意味で「民主化」が進み、「自由な」雰囲気でこの 選挙戦が行われたのは事実である。しかしながら、選挙過程の実態はシリア「支 配」下で行われた選挙の時と同じように 24 、各政治勢力が議席数拡大を目論ん で「反シリア」、「親シリア」の枠を超えて「リスト」を作成した為に、レバノ ン国家の方向性を定める重要な争点である「シリア問題」を有権者に問わない 選挙になってしまったのである。従って、今日に至るまでレバノン国民がどの ような対シリア関係を望んでいるのか、各政治勢力の獲得議席数から推し量る ことが難しい状況となってしまい、「シリア問題」は今日に至るまでレバノンの 国論を二分する問題となってきたのである 25 。 さて、シリア「支配」を脱したレバノンでは確かに「市民的・政治的自由」 が増しており、また憲法第 13 条では「思想及び著作の自由、出版の自由、集会 の自由、結社の自由はすべて法律の定めるところにより保護される」と規定さ れている。しかしながら、ラッフード大統領に対する批判は未だにタブーとさ れており、第 13 条の規定と矛盾する法律が存在しているのである。事実、2 月 24 内戦終結後のレバノンでは、1992、1996、2000 年に選挙が行われ、シリアが「リスト」 の作成に介入を行ってきた。この 3 回の選挙に関する包括的な分析は〔Khazen, 2000〕が 詳しいが、著者の「反シリア」的な志向を反映して、レバノンの立候補者たちが議席獲得 を目論んでシリアと「協力」した点に触れていない点には問題があろう。 25 「シリア問題」を含め、レバノンが抱えるイシューを話し合う「国民対話会合」が 3 月 2 日から開始された。その結果、シリアと外交関係を樹立することや、 「シャブア農場」を 含めた両国間の国境確定を行うことが、3 月 14 日の会合で合意されるに至った〔“Leaders Agrees Shebaa Farms is Lebanese Territory”, The Daily Star, 15 March 2006〕。 – 37 – 28 日には 24 日発行の週刊誌『ムスタクバル』においてラッフードを批判した として、同誌のトフィーク・ハッダーブ編集長と記事を執筆したファリース・ ハーシャーンが出版法第 23 条と 26 条、及び刑法第 219 条に基づいて告訴され たのであった〔“Government Case Targets Journalists”, The Daily Star, 4 March 2006〕。従って、レバノンは確かにシリア「支配」の下に置かれていた時 よりも「民主化」が進み、制度と実態の乖離は小さくなっていると言えるが、 ラッフード大統領批判に関連してこのような事件が発生している限り、「ポリ アーキー」の段階には到達しておらず、「準ポリアーキー」に当てはまると言え よう。 – 38 – 7. 結語 7 7.結語 本報告で取り上げてきた 4 ヶ国は、ダールによる政治体制の分類との関係で 言えば「包括的抑圧体制」に属する国(イラン、シリア)、「包括的抑圧体制」 から「ポリアーキー」に至る径路上に位置する国(エジプト)、そして「準ポリ アーキー」に位置する国(レバノン)と分けることが出来る。そこで、このよ うな位置付けを前提として改めて、「民主化」の観点から各国の状況をまとめて みたい。 イランにおいては政治過程に対する「憲法擁護評議会」の権限が大きく、国 民は「イスラーム共和制」の枠組みの中での「保守派」や「改革派」を軸とし た「政権交代」で自らの意思を表明する状態に置かれてきている。また、「イス ラーム共和制」の下でイスラーム的な価値観と相容れない表現の自由は制度上 の制約を受けていると共に、この「イスラーム共和制」という基本統治原則を 改変することは憲法上想定されていない状況にある。従って、国民が「イスラ ーム共和制」以外の政治体制を取る選択肢を制度上持っていない中で、「市民 的・政治的自由」が高度に保障された「ポリアーキー」に至る「民主化」が「合 法的に」なされる可能性は極めて低いと思われる。 シリアにおいては「バアス党」の指導的役割が憲法で規定されており、この 制度を変えない限り「民主化」は進展しない状態である。しかしながら、国会 は「バアス党」主導の「進歩国民戦線」が憲法改正の提案に必要な 3 分の 2 以 上の議席を押さえている状態であり、「バアス党」の指導的役割を放棄するよう な改正提案がなされる可能性は極めて低いと思われる。また、「バアス党」から 選出されている大統領が、こうした憲法改正に賛同する可能性は極めて低いで あろう。従って、イランと同様にシリアにおいても、「包括的抑圧体制」から「ポ リアーキー」に向かう「民主化」が、「合法的に」なされる可能性はかなり低い であろう。 エジプトは、米政権の圧力から「民主化」へ向けて動き始めたが、「ムスリム 同胞団」の思いがけない躍進により、「民主化」プロセスが後退気味である。ま た、憲法上の大統領選出規定も改正されたが、「民主化」の観点からは不十分な – 39 – ままに留まっている。「包括的抑圧体制」から「ポリアーキー」へ至るプロセス には大きな困難が伴うとダールによって指摘されているように、政権側が自ら の権力維持に危機感を強めると「民主化」は後退する危険性を持っている。現 在のエジプト、特にムバーラク政権の対応はこの状態に当てはまっていると言 え、同国の「民主化」は先行き不透明である。 最後にレバノンに関しては、シリアのプレゼンスがない状態の下で議会選挙 が昨年に行われ、「民主化」された選挙として持てはやされたが、その実態は民 意を問わない選挙となってしまった。また、シリアの実効的「支配」下に置か れていた時と比べると、表現の自由などは保障されるようになってきているが、 ラッフード大統領に対する批判は未だに「タブー」とされており、その「市民 的・政治的自由」には現実に制約が残っている。従って、憲法で規定されてい る表現の自由が高度に保障されているとは言い難い状況であり、レバノンにお ける「民主化」の実態は「ポリアーキー」にかなり近づいているものの、その 中身には問題があると言わざるを得ない状態である。 以上述べてきたように、本報告で取り上げた 4 ヶ国はそれぞれ「民主化」に 伴う問題を抱えており、これからも眼が離せない状態である。各国の今後の動 向を見守る必要性を指摘すると共に、本報告が執筆時点の中東における「民主 化」を考える一材料になることを願っている。なお、憲法に基づいて対象国の 大統領制や議会制に関して筆者が作成した一覧表を以下に付記したので、参考 になれば幸いである。 – 40 – 表 1.大統領制の比較 イラン 国民による選 直接投票(「憲 挙 法擁護評議 会」が立候補 者を事前審 査) 任期 4 年(再選 1 回 のみ可) 閣僚の任免 あり(任命に は議会の承 認) 議会の召集権 なし 議会への法案 なし 提出権 シリア 国会による指 名後、信任投 票 議会に対する なし(「憲法擁 拒否権 護評議会にあ り」) 議会解散権 なし 立法権 エジプト 直接投票(野 党や無所属候 補に対する厳 しい推薦人規 定) 7 年(再選可) 6 年(再選可) あり あり あり あり あり あり あり(議会は 3 分の 2 可決で 優越権) あり あり(議会は 3 分の 2 可決で 優越権) あり(必要な 場合や国民投 票後) なし あり(議会の 閉会中、国家 的要請に応じ て) 議会における あり(議員 3 なし(大逆罪 不信任決議 分の 2 以上の の 規 定 は あ 票決) り) 出所:各国の憲法などをもとに筆者作成 – 41 – レバノン 国会において 選出 6 年(本来は再 選不可) あり あり なし(内閣提 出法案を議会 に送付) なし(可決さ れた法案の修 正は不可) あり(予算審 議に対する故 意の遅延や、 憲法改正審議 に必要な場 合) なし あり(議会の 閉会中に緊急 事態が生じた 場合) なし(大逆罪 なし(一般の の 規 定 は あ 違法行為、重 り) 大なる反逆行 為、違憲行為 の規定はあ り) 表 2.議会制の比較 イラン 国会議員の任 4 年 期 シリア 4年 国会における 一党優位制に ヘゲモニー政 政党制(サル ほぼ相当(留 党制 トーリの分類 保条件あり) から) 出所:各国の憲法などをもとに筆者作成 – 42 – エジプト 5年 ヘゲモニー政 党制から一党 優位制に近づ きつつある状 態 レバノン 憲法上の規定 はないが、実 際は約 4 年毎 に選挙 分極的多党制 にほぼ相当 (留保条件あ り) 引用資料 1.日本語文献・論文・リポート ・ 青山弘之、2000、「現地報告 果たし得ぬ“遺言”-ハーフィズ・アル =アサド大統領が『次世代』に課した難題」、アジア経済研究所編、『現代の中 東』、No.29、54~59 ページ。 ・ 青山弘之、2003、「権威主義体制家の“民主化”プロセス」、アジア経 済研究所編、『現代の中東』、No.35、56~68 ページ。 ・ 青山弘之、2005、「総選挙で露呈した非民主的なレバノンの政治体制」、 時事通信社編、『世界週報』、6 月 21 日、10~13 ページ。 ・ 伊能武次、2001、『エジプト-転換期の国家と社会』、朔北社。 ・ 小副川琢、2005、「シリア軍撤退後のレバノン」、日本アラブ協会編、 『季刊アラブ』、No.114、22~23 ページ。 ・ サルトーリ、ジョバンニ、2000、『現代政党学-政党システム論の分析 枠組み』(岡沢憲芙、川野秀之訳)、早稲田大学出版部。 ・ 鈴木恵美、2001、「2000 年エジプト人民議会選挙-無所属候補当選現象 にみる与党・国民民主党批判」、アジア経済研究所編、『現代の中東』、No.31、 38~55 ページ。 ・ ダール、ロバート、A.、1981、『ポリアーキー』(高畠通敏、前田脩訳)、 三一書房。 ・ 田中浩一郎、2004、「イラン総選挙と『トカゲの尻尾切り』」、日本アラ ブ協会編、『季刊アラブ』、No.109、13~15 ページ。 ・ 田中浩一郎、2005、「強権体制を目指すイラン新大統領」、日本アラブ 協会編、『季刊アラブ』、No.114、26~28 ページ。 ・ ハンチントン、サミュエル、1995、『第三の波-20 世紀後半の民主化』 (坪郷實、中道寿一、薮野祐三訳)、三嶺書房。 ・ 三井修、2005①、「エジプト大統領選挙終了-不正行為はあったの か?」、日本エネルギー経済研究所・中東研究センター、『中東研ニューズリ ポート』、9 月 9 日。 – 43 – ・ 三井修、2005②、「エジプト議会選挙でイスラム勢力が躍進(中間報 告)」、日本エネルギー経済研究所・中東研究センター、『中東研ニューズリポ ート』、11 月 29 日。 ・ 横田貴之、2005、「エジプトにおける民主化運動-ムスリム同胞団とキ ファーヤ運動を中心に-」、中東調査会編、 『中東研究』、No.489、37~52 ペ ージ。 ・ 吉村慎太郎、2005、『イラン・イスラーム体制とは何か-革命・戦争・ 改革の歴史から』、書肆心水。 2.外国語文献・論文 ・ Ajami, Fouad, 1986, The Vanised Imam: Musa al-Sadr and the Shia of Lebanon, London: I.B.Tauris. ・ Baaklini Abdo, Gulian Denoeux, and Robert Springborg, 1999, Legislative Politics in the Arab World: The Resurgence of Democracy, London and Boulder, CO: Lynne Rienner. ・ Hinnebusch, Raymond A., 2001, Syria: Revolution from Above, London and New York: Routledge. ・ Khazen, Farid El., 2000, Intihabat Lubnani ma baada al-Harbi, 1992, 1996, 2000: Dimqratiyat bila Kiyari (Lebanese Elections after the War: 1992, 1996, and 2000: Democracy without Choice), Beirut: Dar an-Nahar. ・ Zisser, Eyal, 2001, Asad’s Legacy: Syria in Transition, London: Hurst & Company. 3.その他資料(新聞、雑誌、インターネット資料など) ・ 毎日新聞。 ・ Aljazeera. Net, www.english.aljazeera.com. ・ Le Monde. ・ Middle East International. ・ Middle East Mirror. – 44 – ・ Middle East Online, www.middle-east-online.com. ・ Naharnet Newsdesk, www.naharnet.com. ・ The Daily Star, www.dailystar.com.lb. – 45 –
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