人吉高校定時制 人吉球磨学教科書 SAMPLE

ふるさとの地質のあらまし
人間が生活をいとなんでいる地表部は、特別な場合をのぞいて土
(砂や小石も含む)である。しかし土の上の厚さには限りがあり、
どこまでも掘り下げても土だということはない。山地では、岩体の
上にうっすらと土がかぶさっているだけで、場所によっては岩体が
む き 出 し に な っ て い る 。 平 坦 地 の 土 は 、山 地 よ り 厚 い の は 勿 論 だ が 、
それでも数100m程度掘り下げると岩盤に到達するのが普通であ
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る。この大地の土台をなしている堅い岩石のことを基盤岩と呼んで
いる。
郷土の基盤岩は、五木村から
球磨村にかけての北西部に分布
する三宝山層と呼ばれる岩石と、
南東部に分布する日向層と呼ば
れる岩石と、それらの中間部に
位置して最も広い分布を持つ四
万十層と呼ばれる岩石の3つで
ある。いずれも古代の海底に堆
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積した土砂が固結して出来た泥質岩や砂岩を主体とした地層であっ
て、三宝山層(約2億年前)が最も古く、四万十層(約1億年前)
がこれに次ぎ、日向層(約3千年前)が最も新しい。
人 吉 盆 地 は 、 四 万 十 層 や 日 向 層 が
断 層 に よ っ て 落 ち 込 ん で 出 来 た 陥 没
地 形 で あ り 、 断 層 を 成 因 と す る 典 型
的 な 断 層 盆 地 で あ る 。 人 吉 盆 地 が 断
層盆地であるとされる理由の一つは、
人 吉 盆 地 の 南 側 山 地 山 麓 部 に 断 層 の
存 在 を 地 形 的 に 指 示 す る 三 角 末 端 面
が連続して存在しており、盆地側がこの断層によって落ち込んだこ
とを物語っていることである。この断層は白髪岳断層と命名されて
おり、湯前町猪鹿倉から人吉市大畑町まで約20キロにわたって確
実に追跡することができる。
この盆地のくぼみを埋めているのが人吉層と呼ばれる半固結の岩
石 層( 地 層 )で あ る 。人 吉 層 の 最 も 厚 い 部 分 は 、市 街 地 附 近 で あ り 、
600m程度の厚さがあると考えられる。北方では山江養魚場、西
方では渡駅前、南方では古仏頂附近といった様に、あちこちでこれ
を見ることが出来る。この一番底
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の地層(基底層)の見える地点を
つなぐと、大きな半円形の線が描
ける。
このような形で堆積している人
吉層は、各地点から豊富に化石を
産出する。カワニナ、ドブ貝、水
草の他、淡水性のケイソウ類も多
い。これらの化石から、人吉層は
淡水湖の湖底に堆積した湖成層であることを示唆している。
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人吉湖の一生と球磨川の誕生
数百万年前(新生代第四紀頃)に出現した人吉盆地は、その後周
りの山々から水が流れ込み大きな湖となった。湖(人吉湖)の広さ
は東西約40km、南北約10kmに及ぶ大湖となり、周囲には広
葉樹が繁り、ケイ藻が繁殖し淡水貝が生息し琵琶湖に似た環境であ
ったという。当時、外部へは鹿児島県の大口方面にわずかに通じて
いたようである。
し た が っ て 、 人 吉 湖 は 盆 地
で 最 も 低 い 人 吉 を 中 心 と し た
周 辺 一 帯 に 限 ら れ て い て 、 盆
地 全 体 に 広 が る こ と は な か っ
た。当時、ほぼ人吉・佐敷・水俣・大口を結ぶ範囲の肥薩火山区と
呼ばれる地域では、火山活動が非常に活発であった。そのため狭い
湖水の流出路は、火山からの溶岩や火山灰によってしばしばふさが
れた。しかしその閉塞は徹底したものではなかったから、しだいに
人吉湖の水位は上がり湖水が障害物を越えて溢れ落ちるようになる
と、その侵食作用によって障害物は削り取られ、次第に水位が下が
って再びもとの状態に戻るのだった。したがって人吉湖は、人吉付
近の限られた範囲内で水位を上下させ、すなわち湖面の拡大縮小を
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くり返していた。
そのうちに、肥薩火山の活動が激烈になり、大口への流路には火
山噴出物が次々に積み重なって遂に高い山になってしまった。これ
で人吉盆地から外部への出口は完全になくなり、それ以後人吉湖は
水位を上げ拡大を続けることになった。
もし、この人吉湖を現代に出現させたとしたら、日本一の琵琶湖
には及ばないにしても、これに準ずる日本第二の大湖となるのであ
る。緑したたる周囲の連山にかこまれ、満々たる水をたたえた人吉
湖の景観はまことにすばらしく、おそらくさかさ富士ならぬさかさ
市房の姿を写し出していたことだろう。
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やがて350mほどの水位に達した人吉湖は、人吉盆地を取り囲
む山々の連なりの中で最も低いところであった球磨村の一勝地大坂
間の鞍部から遂に溢れ出たのである。
猛烈な勢いで流れ出す湖水は、みるみるうちに大坂間の鞍部を切り
崩 し て し ま い 、 人
吉 盆 地 と 八 代 海 を
つなぐ新しい水路、
球磨川が誕生した。
現 在 、 人 吉 盆 地
か ら 西 進 し て き た
球 磨 川 は 、 大 坂 間
に達すると突然方向を直角に変えて北上するという異常な流路変換
を見せる。これは、人吉盆地が出来た初めのころ、大坂間の鞍部か
ら人吉湖に流れ込んでいた古一勝地川と、同じく大坂間の鞍部から
八代海に流れ込んでいた古八代川との谷筋を、新しく出来た球磨川
がそのままたどって流れているからなのである。球磨川は無関係の
2つの川をつないで出来た大変珍しい川であるといえる。
球磨川のすがた
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球 磨 川 は 、 熊 本 ・ 宮 崎 の 県 境 に 位 置 す る
銚 子 笠 ( 1 , 4 8 9 m ) に 源 を 発 し 、 市 房
ダ ム を 経 て 、 多 く の 支 流 を 併 せ な が ら 西 に
向 き を 変 え る 。 球 磨 郡 相 良 村 で 最 大 支 流 の
川 辺 川 を 、 人 吉 市 街 部 で 胸 川 、 山 田 川 を 併
せて人吉盆地を貫流、狭窄部を下る急流となって向きを北に変え、
標高700~800m級の山々の山脚をたたき削るようにして流れ
る。やがて八代平野に出て、前川、南川を分派し八代海に注ぐ。
流路は円形を呈し、熊本県内で最大、九州で長さ3番目の大河川
で あ る 。九 州 2 0 の 一 級 水 系 の 中 で 最 も 雨 の 多 い 地 域 と し て 知 ら れ 、
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雨期の球磨川は「恐ろしい川」と恐れられ、そのため川をなだめる
ための努力がこれまでなされてきた。
カルスト地形
石灰岩を主体とした地層は、大気中の
炭酸ガスを溶かした雨水によって溶かさ
れさまざまな地形を生む。それらをカル
スト地形という。ドリ-ネ、鍾乳洞など
球磨川流域には珍しいカルスト地形が広がっている。
鍾乳洞が語るもの
石灰岩が地下水によって浸食され洞穴ができる。これを鍾乳洞と
いう。鍾乳洞がある箇所はかつて河底であったという節もある。ち
なみに球磨川流域には、数多くの鍾乳洞が点在するが、これによっ
て昔の球磨川がどこの高さをながれていたかがわかる。有名な球泉
洞。遠い昔、球磨川はあの高さを流れていた。その後球磨川はどん
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どん山を浸食して現在の高さに至っている。球磨川の浸食力のすご
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さをかいま見る思いがする。
(出典:相良村誌自然編・ふるさとの自然・すきです球磨川)