聖書からのメッセージ 「愛と命」

聖書からのメッセージ
ヨハネによる福音書
「愛と命」
があります。愛は要求する。相手に求め
3 章 16 節∼21 節
るというのが、人間的な愛です。あの人
16 節に「神はそのひとり子を賜わった
からあれをして貰った、この人からこれ
ほどに、この世を愛して下さった。それ
をして貰った、この人からこんな風に…
は御子を信じる者がひとりも滅びないで、 と。だから、わたしは愛されていると思
う。言うならば、受けるばかりです。し
永遠の命を得るためである」。
て貰うこと、何か相手から貰うこと、こ
これは、繰り返し、聞き、読み、また
覚えている御言葉ではないかと思います。 れが愛だと考える。これは世間で言うと
ある人に言わせるならば、もし聖書にこ
ころの愛です。だから、男女が愛し合う、
の言葉がなかったら、聖書の意味がない
ラブストリーみたいなテレビドラマがあ
とまで言い切る方もおられるほどです。
りますが、相手に対して要求する。それ
この言葉は、本当に福音、良きおとずれ
が満たされた時が愛の頂点。ところが
です。ここで、神様は私たちを愛して下さ
段々と満たされなくなってくると破局に
っておられることを語っています。世の中
なる。これはもう、決まったパターンで
に、多くの神々がいると言われていますが、
すね。
人間を愛した神様はまずありません。勿論、
ところが神様が私たちに現して下さっ
愛をうたう神様は、ヒンズー教であるとか、
あるいはインドあたりの神様、人間の愛を
た愛は、一方的に与える愛なのです。こ
称える、ギリシャの神々にも見ることがで
れは全く方向が違います。このことを取
きます。アフロデティという愛の女神とか、
り違えないでいただきたい。そうしませ
そういう話しがあります。しかし、聖書で
んと、マラキ書にありますように、神様
言う神様の愛は、人間的な意味で優しいと
は私たちを愛して下さったというけれど
か、親切であるとか、男女関係の愛である
も、その愛はどこにあるのだと言うこと
とか、親子の愛であるとか、そういう次元
になります。神様が愛であるなら、なぜ
の愛とはたいへん違っています。神様が私
こんな悲惨な事件や事柄が起こるのだと、
たちを愛して下さるその愛は、目に見える
多くの人が考えます。それは、満たされ
形、あるいは快楽や欲望を満たしてくれる
ることが愛であると思っているからです。
ものとしての愛ではありません。神様の愛
この 16 節に、
「神はそのひとり子を賜わ
の特徴は、「捨てること」です。
ったほどに、この世を愛して下さった」。
その愛は「ひとり子を賜わったほどに」
と。以前、わたしはこの「ひとり子を賜
一方、人間的な愛は捨てないのです。
「受ける」愛なのです。かつて、有島武
わったほどに」と言う言葉は、愛の深さ
郎という小説家がいました。彼が書いた
を表わすレベル、一つの尺度として、
「こ
小説に『愛は惜しみなく奪う』というの
れほどに」という意味で理解していまし
た。そういう意味合いがあることも確か
1
ですが、もう一つは、
「ひとり子を賜わる
さを表わすために、比喩としてひとり子
ほどの愛」
。それは深さとか大きさとかい
を持ち出してきたのではありません。神
うスケール、規模を表わすと同時に、愛
様がひとり子を与えること自体が愛なの
の内実、性質を表わした言葉であろうと
です。
思います。
「ひとり子を賜わったほどに」、
言い換えると、神様が大変大きな犠牲を
ですからもう一つ読んでおきたいと思
払うということです。自分の愛している
いますが、ヨハネの第一の手紙4章7節
子供を惜しまないで捨て去る、このこと
∼12 節
自体が愛なのだと、語っている。私たち
は愛を考える時、やはり受けることを考
この御言葉もまた私たちがよく教えら
える。あるいは与えるにしても見返りを
れる御言葉の一つですが、
この 10 節に
「わ
期待する。ある意味では双方向的、やり
たしたちが神を愛したのではなく、神が
取りをする形での愛というものを考える。 わたしたちを愛して下さって、わたした
ところが、神様の私たちに対する愛は一
ちの罪のためにあがないの供え物として、
方的です。私たちから何かを求めるわけ
御子をおつかわしになった。ここに愛が
ではない。私たちに対して神様が与えて
ある」とあります。今申し上げたように
下さった愛です。その与えて下さったも
「ひとり子を賜わったほどに」
、ここに神
のは、
「ひとり子」です。そのひとり子は、
様の愛の姿があるのです。ひとり子を賜
神様にとってかけがえのない、命のよう
わるというのは、どこに賜わったかとい
なものです。言い換えると、命を捨てて
うと、ここにありますように「罪のため
下さった、そこに愛があるのです。
にあがないの供え物として」、罪人であっ
て神様の恵みを受ける資格のなかった私
イエス様が私たちのために命を捨てて
たちのために、あがないの供え物として
下さったと言いますが、それは取りも直
ひとり子を敢えて送り出して下さる、そ
さず、天地万物の創造者でいらっしゃる
こに神様の愛があるのです。そしてその
神様が命を捨てて下さったことなのです。 愛によって、私たちを生きる者として下
さった。
イエス様が十字架におかかりになって命
を捨てて下さった時、神様も死んで下さ
ったのです。それほどに私たちのことを
9 節に「神はそのひとり子を世につかわ
愛しておられる。それがこの 16 節「ひと
し、彼によってわたしたちを生きるよう
り子を賜わったほどに」という言葉の深
にして下さった」
。イエス様によって、私
さ、意味するところです。神様は私たち
たちが新しい命に生きるようになる。イ
にひとり子を賜わる愛を与えて下さった。 エス様が命を捨てて下さったのは、その
命を、かけがえのないものを、私たちに
命を私たちの内に注いで下さるためなの
注いで下さった。そのこと自体が愛なの
です。神様が私たちの内に命を与えて下
です。愛という物体があって、その大き
さる、これが罪の贖いの供え物となって
2
下さったイエス様の御目的です。かつて、
に向かっている様子を呈しています。日
私たちは神様を離れて罪を犯し、敵対し
本の社会が、様々な犯罪、凶悪な事件や、
て、恵みを受けることができない、神様
事柄に覆われてきました。この一年、新
の祝福がない悲惨な生活の中に置かれて
聞紙上をにぎわした事件や事柄を考えて
いました。ところが、まだ神様を知らな
みて下さい。福岡県での殺人や強盗やい
かった私たちに対して、ローマ人への手
ろんな犯罪と言われるものの数は、恐ら
紙の 5 章にあるように、
「敵対していた時」、 く史上最高ではないかと思われます。ま
「不信心な者」であった時、何にも知ら
た、全国的に見てもそうですね。次から
なかった時に、既に神様は私たちのため
次へといろんな問題や事件が起こってき
にひとり子を世に遣わして下さった。そ
ます。聖書には、世の終わりの時は愛が
れは罪と咎に死んでいた私たちを、今度
冷えて、全てのものが相対立して争うこ
は新しい命に生きるようにするためなの
とになると書いてある。最近の奈良の女
です。
児誘拐殺人事件もそうですし、あるいは
水戸の方で起こった親を鉄アレイで殴り
今、私たちはイエス様を信じて、新し
殺した事件もそうですし、佐世保で起こ
い生涯に変えられて、生きる者となりま
った小学生が小学生を殺す事件もそうで
した。神様の愛は私たちに命を与えて下
す。私はそれを見ていると、戦後の混乱
さる愛なのです。しかもその命は、他所
の中、物が不足して一日一日を必死に生
から持って来る命ではなくて、神様ご自
きていた時代、その時代の方がはるかに
身を私たちの内に注いで下さった。これ
良かった。こんな問題が起こってくると
が神様からの愛です。神様の愛が何であ
は想像することもできませんでした。ま
るかを知って、確信を持ってください。
た、次から次へと天災と言われる災害も、
私たちは神様の愛を受け、命を戴かなけ
地震もあります、台風の被害もあります。
れば、死んだ者であったのです。エペソ
また、世界的に見ると戦争は絶えません。
人への手紙にありますように、私たちは
ことに最近のイスラムと西洋世界との対
生まれながらに怒りの子、神様からの怒
立の様子を見ていますと、これはいよい
りを受け、亡ぼされるべき者であった。
よ悪くなるなという予感がひしひしとし
罪と咎に死んでいた私たち、そういう私
ます。イラク問題は泥沼化するでしょう。
たちをもう一度生きることができるよう
表面的には落ち着くか知れませんが、テ
に、ひとり子をこの世に遣わして下さっ
ロリストたちは広がっていくでしょうし、
た。神様が私たちを愛して下さったが故
テロが頻発し、日常茶飯事になってくる
に、私たちは生かされているのです。
と思います。
私は近頃そのことを深く深く味わされ
こういう時代の中にあって、生きるこ
ます。と言いますのは、今私たちの住ん
とは、生活状態とか、社会状況とか、政
でいる世の中が、どんどんと悲惨な破局
治であるとか、あるいは経済であるとか、
3
そういうものが整ったから、人が生きる
生きることは、肉体が生きるのではなく
ものでないことをしみじみと思います。
て、キリストによって、神様の御愛に励
そこは神なき世界といいますか、これが
まされ、導かれ、支えられて、神様のも
人間のすることかと思うような…、逆に
のとなりきって生きること、これが私た
言うと、人間だからそうするんだとしか
ちの新しい命なのです。イエス様が私た
言いようがありません。神様を恐れなく
ちの命となって、私たちの内に宿り、神
なった、神様を離れてしまった多くの人
様が私たちと共にいて下さるということ
の心が死んだ状態だから、罪と咎とに死
を信じて、感謝して生きる者と変えられ
んでいるが故に、生きることができなく
る。これがイエス様によって、生きるこ
なってしまった。これは正に目の前に見
とです。
ている神なき罪の世界の姿です。私たち
も例外ではなかったのです。同じ罪と咎
もう一度初めのヨハネの手紙 3 章 16 節
とに死んで、悲惨な、そういう状況の中
に「神はそのひとり子を賜わったほどに、
に生きなければならなかったのですが、
この世を愛して下さった」。「この世」と
今こうして平穏に一日を過ごすことがで
は、私たち一人一人のことです。先だっ
きるのは、奇跡です。自分を守るために
て、高校生にお話をさせていただいた時
何かをしているわけではないけれども、
に、このお言葉で「この世を愛して下さ
今日も天変地変にも遭わない、人災と言
ったというのは、あなたのことであり、
いますか、犯罪にも巻き込まれない、あ
私たち一人一人のことですよ」と話した
るいはいろんな事故から守られて、一日
のです。後で感想文を書いてくれた中に、
を過ごすことができるのは、ただイエス
「今までこのお話は聞いてはいたけれど、
様の十字架の恵みにより、神様の一方的
この世が私のことだとは、初めて教えら
な憐れみの中に置かれているからです。
れて嬉しい」という感想を書いてくれて、
「なるほど、この世というのは世間一般
であって、私とは関係がない」と思って
今お読みいたしましたように、9 節以下
いたのかなと、思いました。
に「神はそのひとり子を世につかわし、
彼によってわたしたちを生きるようにし
私たち一人一人に、ひとり子を賜わっ
て下さった」。イエス様を信じて初めて、
人は生きるものと変えられる。生きると
た愛を注いで下さる。ひとり子を与えて
いうのは、ただどこにも病気がなく肉体
下さった神様の愛によって、生かされて
が健康であるとか、生活が保たれている
生きる。自分の力で生きるのではなく、
から生きているのではありません。そう
イエス様が私たちを生かして下さってい
考える限り、世の中の悲惨な結果が常に
る。イエス様が私たちを絶えず生きる者
ついてきます。そのことだけが生きる事
として下さる。ですからイザヤ書 43 章 1
だと思っているから、争いがあり、憎し
節「ヤコブよ、あなたを創造された主は
みがあり、対立があるのです。しかし、
こう言われる。イスラエルよ、あなたを
4
造られた主はいまこう言われる、
『恐れる
子を惜しいことした」とは言わない。ど
な、わたしはあなたをあがなった。わた
んな欠陥があっても、名を呼んで間違い
しはあなたの名を呼んだ、あなたはわた
なく、私を買ったのですから。だから、
しのものだ』」。ここに「わたしはあなた
ここの「わたしはあなたの名を呼んだ」
をあがなった」、「あなた」と一人の人の
というのは実に、いい御言葉ですよ、深
ことを言っています。これを読んでいる
い意味です。そればかりではなく、
「あな
皆さん一人一人、「私のこと」です。「わ
たはわたしのものだ」。他人のものでも、
たしはあなたをあがなった」。買い取って
誰のものでもない。神様のものだという
下さった。そして「わたしはあなたの名
のです。私たちを神様のものとするため
を呼んだ」
。名を呼ぶということは、私た
に、ひとり子を与えて下さった。神様が、
ち一人一人のすべてを知った上で、贖っ
私たちにかけがえのない命を与えて下さ
て下さった。これは大切です。というの
ったのは、私たちが神とともに生きるも
は、わけも分からず、私を買って下さっ
のとなるためです。私たちのこの地上の
て、後になって「しまった、こんな買い
生活が楽になるようにとか、恵まれるよ
物をするんじゃなかった」と悔やまれた
うにとか、思いや願いが叶うような生き
ら困りますから。私たちは、文句を言わ
方をするために贖われたのではありませ
れても責任を取れません。スーパーに行
ん。私たちに神様の命を吹き入れて、生
って、買い物をする時に、りんご一つを
きるようにしてくださったのです。
買うにしても、しっかりと眺めて、傷が
ないかと確かめて、買って帰るでしょう。
ですから 2 節に「あなたが水の中を過
家へ戻って、テーブルに出して見たら、
ぎるとき、わたしはあなたと共におる。
「しまった、ここが虫に喰われていた。
川の中を過ぎるとき、水はあなたの上に
気づかなかった」という時に、自分の責
あふれることがない。あなたが火の中を
任ですから、誰を責めることもできませ
行くとき、焼かれることもなく、炎もあ
ん。別にりんごが悪いわけではない。り
なたに燃えつくことがない」。「わたしは
んごが「ここが虫に喰われていますが、
あなたと共におる」というのです。マタ
あなた、良いですか」とは言いません。
イによる福音書に、ヨセフさんの記事が
買う人がよく見て自己責任で買うのです。 あります。クリスマスの主役はマリアさ
んが中心のようですが、ヨセフさんもい
神様は、私たち、一人一人を自己責任
ました。で、ヨセフさんも同じ様に悩ん
で買って下さったのです。ここにありま
だのです。離縁しようと思いました。そ
すように「名を呼んだ」というのは、言
の時、やはり御使いが来て、ヨセフにそ
い換えると全部を知り尽くした上で買っ
んなに恐れなくてよろしい、彼女を妻と
たのです。だから、芯が腐っていようと、
して迎えなさいと勧めます。そして最後
どこが腐っていようと、神様は文句の言
に、その子は「インマヌエル」と唱えら
いようがない。
「こんな者のためにひとり
れるであろう。その意味は「神われらと
5
宿って下さる。イエス様が私たちの内に
共にいます」という意味だというのです。
住んで下さる。共にいるというのは、私
神様が私たちと共にいらっしゃるとい
たちの内に宿って住んで下さるのです。
うのが、イエス・キリストの称号、名前。
ですから、寝ても覚めても、お風呂に入
名前は体を表わすと言われるように、イ
っていても、トイレにいようと、台所に
ンマヌエルと言うのは、神われらと共に
いようと、居間にいようと、寝そべって
います。イエス様が私たちの内に宿って、
いようと、立っていようと、どこに行っ
神の命が注がれることにより、私たちが
ても、いるのです。日本の神様は神無月
神と共に生きる者とされる。これが、ヨ
でどこかに集まって、1ヶ月間は休業に
セフさんを通して語られた福音です。2
なるそうですが、まことの神様はそうで
節に「あなたが水の中を過ぎるとき、わ
はありません。「共に」というのは命と
たしはあなたと共におる」。これが、イ
なって、私たちの内に住んで下さり、私
エス様が私たちの命となって下さった御
たちを生かして下さっている。これが、
目的であり、また私たちに対する恵みで
神様が私たちを愛して下さったあかしで
す。神様がいつも私たちと共にいる。し
す。神様の愛はイコール命なのだと知っ
かもその先のところを読みますと、3 節以
ておきたい。神様が私を愛して下さった、
下に「わたしはあなたの神、主である、
それは私に命を与えておられることだと。
イスラエルの聖者、あなたの救主である。
わたしはエジプトを与えてあなたのあが
神様の命によって生きるとは、どうす
ないしろとし、エチオピヤとセバとをあ
ることかなと思いますが、それはいつも
なたの代りとする。4 あなたはわが目に
神様が私たちを支え導いて下さるという
尊く、重んぜられるもの、わたしはあな
ことを信じることです。朝起きて何かを
たを愛するがゆえに、あなたの代りに人
するにしても、神様が私にさせて下さっ
を与え、あなたの命の代りに民を与える。
ていらっしゃるのだと信じて、感謝する。
5
恐れるな、わたしはあなたと共におる」。 神様が導いて下さっていらっしゃるのだ
と絶えず自覚すること。ある方が「先生、
この 5 節にも、もう一度繰り返して、
今度は失敗しました。これが良いと思っ
「恐れるな、わたしはあなたと共におる」。 て私はしたんですが、どうもいけなかっ
共におると言うのです。まるでご主人と
たみたいです」、「でも、神様がそのこ
一緒にいるとか、奥さんと一緒にいると
とをあなたに教えて下さったんだから、
か、家族や子供さんたちと一緒に生活を
感謝じゃないですか」、「いや、これに
しているかのように、私の外側にあって
はですね、原因があるんです」、「何で
身近にいて下さるのだと思いがちです。
すか」、「私がお祈りしないでしたから
だから、お祈りする時、外側にいらっし
ですよ」、「そうですか、お祈りしない
ゃる方に向かって祈っているように思い
時は神様がいないんですか」と私は聞い
ます。ところが、共におるというのは、
てみました。あなたがお祈りをしようと
イエス様によって、神様が私たちの内に
6
しまいと、「私はあなたと共におる」。
ても、神様が全てご存知だという所に絶
これは失敗だったと言う、その失敗を作
えず立ち返るのです。
ったのは神様で、あなたがそこで、「こ
神様は、一瞬でも私たちから目を離し
こにも神様が、私の命となって生かして、
このことをさせて下さったが、うまく行
ていません。うまくことがいった時は、
かなかったのも、神様が恵んで下さった
神様がそれを許して下さる、できなかっ
ことなのだ」と信じる時、「神われらと
た時は、神様がとどめていらっしゃる。
共にいます」と言えるのです。
徹頭徹尾、この一点に徹底する。これが
神様の愛に生かされていくことです。だ
お祈りしたとか、しないとか、そんな
から、人が何と言おうと、あるいは自分
ことだったら、お祈りしている間だけ命
が心にあれがいい、これが悪いと、いろ
があって、お祈りを止めると…。四六時
んなことで心が縛られて、身動きならな
中、お祈りしていなければならない。い
くなり易いのですが、その度毎に「そう
っときでも切れたら、薬がきれたみたい
だ、私が生きているではなく、イエス様
に弱ってしまう。そうじゃないです。イ
が私と共にいて下さる。私の命はイエス
エス様が私たちと共にいるっていうのは、 様なんだから、あれも良かった、これも
私たちの生活のすべてが、生きているこ
良かった。全てが良い」と。ところが、
と自体が、神様の手の中にあるのです。
自分のお思い通りにいかない、自分の願
だから、良いとか悪いとか、自分が勝手
い通りにいかないと言ってつぶやく。あ
に決めるけれども、そうではない。「私
るいは考えもしなかったことに出会った
は、これが良いと思ったのだけれども、
時に、「どうして!何で!」と。
神様の願っていることではなかったので
す」と素直になればいいのです。「しま
あのマリアさんは、「恵まれた女よ」
った、あの時あの人に頼んでおけば良か
と言われた時に、「何で!どうして!」
った。私が悪かった」と悔やみますが、
と言ったのです。恵まれるとはこういう
神様が、しないでよろしいということな
ことだと思っていたら、自分の考えと違
のだから、「はい」とそこで神様を認め
うものがポーンと来たから、これは違う、
ることが、神われらと共にいます」生活
そんなはずじゃないと思う。そこで、こ
です。
れもまた、神様の愛の中にあって、主が
「よし」とおっしゃっていることですと
自分で生きているのではなくて、イエ
受け止めるまでに、マリアさんは苦しみ
ス様が私たちの内に宿って下さって、私
ましたね。しかし、ついにマリアさんも
たちを生かして下さっていることを認め
「私は主のはしためです」と、本当に主
ていくこと、これが神様の愛になるので
に仕えている者、神様によって生かされ
す。いつも、どんな時でも神様の手の中
ている自分であること、神様の手の中に
にあって、生かされているのだから、失
あることを認めた時、主のなさることを
敗したと思うこと、成功したことについ
素直に受け入れることができたのです。
7
ですから初めに戻り、ヨハネによる福
世間でも“子を持って知る親の恩”と
音書 3 章 16 節に「神はそのひとり子を賜
いう言葉があります。子供の頃は、親の
わったほどに、この世を愛して下さった」。 愛がなかなか分からない。親がどんなに
「愛して下さった」というのを、「私に
自分を愛してくれているか分からない。
命を与えて下さった」と言い換えてもい
中高生、大学生くらいになると、まるで
いですね。その続きに、「それは御子を
自分ひとりで生きてきたような大きな顔
信じる者がひとりも滅びないで、永遠の
をして、「くそばばあ」とか何とか悪態
命を得るためである」と。やがて命を得
をつき、親を非難し、文句を言います。
るじゃなく、既に命を戴いて生かされて
しかし、やがてそういう子供たちも結婚
いる。それを信じて生きる時に永遠の命
して、家庭を持ち、子供を育て、生活し
が具体化します。地上の生涯が終わって、
始めると、どんなに自分が愛されていた
神様の所に帰る時、文字通り永遠の命が
かが初めて分かる。親と同じ立場に立っ
具体化するのです。今、私たちはこの地
て、自分がやってみる。その時初めて親
上にあって、まだその結果を目にするこ
の愛を自分のものにするのです。これは
とは出来ないけれども、神様が私の命と
大切なことですが、イエス様の愛を知り
なって下さったと信じて歩んでいく時に、 たいと思うならば、神様が愛して、その
その通りに永遠の御国の命に加えられま
命を与えて下さったように、今度は私た
す。これが神様の私たちに対する愛です
ちが命を捨ててみる。そうした時に初め
ね。
て神様の愛は完成するのです。ただ一方
的に神様が私を愛して下さり、ひとり子
その愛を体験する道があります。ヨハ
を賜わって命を与えられ、イエス様によ
ネの第一の手紙 4 章 11 節に「愛する者た
って生かされていると思います。そこま
ちよ。神がこのようにわたしたちを愛し
では行くのですが、次に行かないから、
て下さったのであるから、わたしたちも
神様の愛が完結しない。「私たちもまた
互に愛し合うべきである」。神様が私た
互に愛し合うべきである」というのは、
ちを愛して私たちに命まで与えて下さっ
人のために何かしなさいというのではな
た。そして私たちが生かされている。主
く、そうすることによってしか、神様の
の命を、神様の命を実感する秘訣がある。
命を体験できないからです。イエス様か
それは、「わたしたちも互に愛し合う」
ら愛されて、イエス様が私の命となって、
ということです。私たちもお互いに愛を
水の中、火の中、どんなところへ行くに
注いでいく。言い換えると、命をかけて
も、神様は共にいて下さり、私を愛して
他の人に、身近な人に、周囲の人に、そ
下さっているということを信じて…と。
の命を与えるのです。私たちが命を捨て
そこまではまだ半分です。今度は、だか
てかかる時、キリストの愛を、命を体験
らこそ、私もイエス様の愛にならって、
することができます。
神様が命を与えて下さったように、今こ
8
の人にと、神様が求められるところで主
て下さった」。私たちに生きる喜びを与
に従って、「はい」と自分の命を捨てる。
えて下さった。生きる命を与えて下さっ
た。その命を自分の手で握ることができ
マリアさんが受胎告知を受けて、「わ
るように、今度はその命を注いで、主が
たしは主のはしためです。お言葉通りこ
求めて下さるところに従うのです。「そ
の身に成りますように」と言ったでしょ
れじゃ、これからあの人のため、この人
う。その続きを読みますと、あの有名な
のため、何かやってやろう」と、世のた
マリアの賛歌に入ります。「どうしてこ
め、人のために、役に立つことが目的で
んなことがあり得ましょう。わたしは嫌
はない。結果的にそうなるかも知れない
です」と言ったマリアさんが、今度は、
けれど、神様が私に求めていることだか
「わたしは何と世界一幸せな女でしょ
ら…と。神様が皆さんに託していらっし
う」と言って、喜びに輝いている。主が
ゃる、負うべき重荷があるならば、主の
受けよとおっしゃったその苦しみ、困難
愛に生かされた私だから大丈夫ですと、
と思われる十字架の道を、彼女が選び取
負っていく時に、事実、主が命であると
った瞬間に、神様の大きな愛が彼女の中
いう事を体験するのです。その時私たち
に具体化したのです。
の内に、あのマリアさんのように、喜び
が感謝賛美が湧いてくるのです。これが
だから、イエス様によって生かされて、
私たちの神様の愛を知るただ一つの道、
日々感謝しているならば、さらにそこか
命にいたる道です。ですから、「ひとり
ら、主がわたしに求め給うことは何でし
子を賜わったほどに、わたしを愛して下
ょうか、主の御心に従います。それが嫌
さった」ことを感謝するならば、それを
なことかも知れない、あるいは辛いこと
自分の手で、触って体験することができ
かも知れない、あるいは犠牲や損失を蒙
る一歩を、踏み出したいと思います。
るかも知れない。しかし、イエス様、あ
なたは私の命ですから、その命を注いで
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
「はい」と従って、互いに愛し合う道を
選び取っていく時、神様の愛は私たちの
内に、喜びとなり、感謝となって溢れて
くるのです。その時、初めて神様の愛を、
命を、自分のものとするのです。そうな
るまでは、まだ中途半端といいますか、
まだ半ばです。この地上にある時に、イ
エス様の愛、命、それを体験するために、
「互に愛し合うべきである」。
ヨハネの福音書 3 章 16 節「神はそのひ
とり子を賜わったほどに、この世を愛し
9