クマによるとこの世界は……

クマによるとこの世界は……
〈やみくろ〉と市場経済 「ナチュラルウーマン」の性は?
その他のエッセイ
まえがき
まえがき
こんにちは、本橋牛乳です。
えーと、この本は、主に﹁トーキングヘッズ叢書﹂に書いたエッセイとごく一部の書評を中心にまとめた
もので、およそ20年間に書かれたものが収録されています。まあ、20年もやっていれば、このぐらいの
分量の文章は書くものだなあっていうところですね。ほかにもいろいろあるのですが、今回はまあ、このぐ
らいで、といったところです。
サブタイトルはとても長いものになってしまいました。﹃〝︿やみくろ﹀と市場経済〟〝﹁ナチュラルウーマ
ン﹂の性は?〟その他のエッセイ﹄というものです。サブタイトルにした二つのエッセイはどちらも、ぼく
の中ではとりわけ思い入れのあるものであると同時に、ネットの中でもアクセスの多かったものということ
になります。
実は自分の書いた文章の多くは、自分のホームページでも公開していますし、本書に収録したものの半分
以上はネットで読めます。ネットでは、検索エンジンを使えばいろいろな情報が手に入ります。そんな形
で、自分の文章の情報も利用してもらえればいいという考えです。そういう意味では、この本はホームペー
ジの延長だともいえます。ただし、〝︿やみくろ﹀と市場経済〟はまだ掲載誌である﹁トーキングヘッズ叢
書﹂の在庫があるので、ネットでの公開はしていないのですが、それでも反応はありました。
こうした一連の文章を、まとまった形で読んでもらうには、本にしておいた方がいいかなあっていうの
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が、そもそもの発想です。一冊にまとまった文章として読んでもらえれば、ぼく自身がこの20年間に考え
てきたことの、少なくともある部分は受け止めてもらえると思います。それに、たぶん、多少は楽しい読書
になるのではないかということも、著者としてだけではなく、編集者としてもちょっとだけ思っています。
本書は5つの部分で構成されています。Ⅰは、おもに政治と文学に関係したエッセイを収めました。核と
なる〝︿やみくろ﹀と市場経済〟は、それ以前からポリティカルフィクションとしての村上春樹の小説がず
うっと気になっていて、それがどうにか40歳を前にして形になったというものです。政治といっても、永
田町がすべてではありません。﹁個人的なことは政治的なことである﹂というフェミニストの名言にもある
ように、それは網の目のようにぼくたちにからみついていきます。そうしたコンテクストからまとめてみま
した。
Ⅱはフェミニズムに関連したエッセイをまとめてみました。もともと、上野千鶴子やウーマンリブの影響
を受けたことから、フェミニズムには興味があった、というか自身を何らかの形でフェミニストだとは思っ
ています。でも、それはそう単純なことではないし、アンビバレンツな思いもあります。とはいえ、実はそ
の上野のことやウーマンリブのことは、いまだにうまくまとめられずにいます。今回はむしろ、プリミティ
ブなぼくの想いの部分ということにしておいて下さい。
Ⅲはその他の文学に関連したエッセイをまとめました。といっても、いきなりタミヤのプラスチックモデ
ルの、それもミニチュアミリタリーシリーズから始まってしまうあたり、まあ、何というか、そんなことで
す。ドイツ、フランス、イギリス、アフリカ文学という感じで、さらに江戸時代に行ったりして。人があま
り読まない小説を読んでいるんじゃないかっていう気もしてきます。
ⅣはSF関連です。そもそも、SF、それもニューウェーブと呼ばれた60年代のイギリスのSFが好き
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まえがき
でした。それから、サイバーパンクとフェミニズムSFですね。昔はSFについて、たくさん書いたような
気がするんだけれど、あまり古いものもなあっていうところで、今回はこのぐらいにしてみました。そうい
えば、
﹁リンジー・アベラードの4つの分裂したロマンス﹂はSFマガジン評論コンテストに応募したので
すが、そのときの選者のコメント﹁恋愛観が純粋すぎる﹂っていうのは、まあ、これは評者の責任ではなく
ぼくの責任なんですが、さすがに評される側としても、なかなか苦笑するしかなかったという思い出があり
ます。
Ⅴは本当にその他のエッセイです。でも、単に残り物というだけではないんです。実はⅠからⅣまで分け
てみましたが、はっきりと分けられるものではありません。文章はある意味ではすべて政治的だし、フェ
ミニズムというのはぼくの考えの基盤の一つでもあります。SF というのがあることで、文学とサブカル
年 間 も コ ラ ム を 連 載 し て い る の で す が、 今 回 は あ
チャーがぼくの中で結びついてもいます。そうした意味では、その他のエッセイもまた、ⅠからⅣのエッセ
イに何らかの形で呼応しています。﹁月刊ビミー﹂には
えて一つだけ入れたというのも、そういう選択があったからです。また、環境ジャーナリストの肩書きでメ
ルマガに書いた文章を収録したのも同じ考えからです。マンガに映画に音楽に山登りとなかなか忙しいので
すが、まあそんなもんです。
本書をまとめるにあたっては、やはり﹁トーキングヘッズ叢書﹂の編集部の鈴木孝さんといわためぐみさ
ん、そしてその前身の﹁トーキングヘッズ﹂の永田弘太郎さんには、文章を書く機会を与えてくれたことに
感謝しなくてはいけませんね。もちろん、SFのファンジンである﹁フェリシア﹂﹁FU M
―O ﹂の駒田と
額賀さん、﹁TAKIOS﹂の樫村、﹁マガジン﹂の河西さん、環境省の広報室の方々などなど、感謝すべき
人はたくさんいます。とりわけ駒田には、この本の表紙も描いてもらいました。本当に感謝感謝です。なか
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なかいい表紙で気に入っています。︵彼のイラストは、 http://homepage1.nifty.com/kareido_on_web/
で見
ることができます。︶
そ れ か ら、 こ の 本 に 収 録 さ れ て い な い、 た く さ ん の 文 章 に つ い て は、 http://homepage3.nifty.com/
のページで読めます。エッセイの他、書評や﹁月刊ビミー﹂に連載中のエッセイ、原稿料を
tenshinokuma
もらって書いているレポート記事、小説、夢日記などいろいろと入っていますので、本書を気に入ったら、
覗いてみて下さい。
とまあ、そんなところです。
2005年4月8日
花祭りの日
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目次
目次
まえがき ⋮⋮
911と村上春樹 ⋮⋮
―
57
59
12
Ⅰ
済
︿やみくろ﹀と市場経
村上春樹著﹁アフターダーク﹂書評 ⋮⋮
―藤周作 ⋮⋮
﹁白い人﹂から﹁スキャンダル﹂へ 遠
政治的正しさと居心地の悪さ ⋮⋮
ム ⋮⋮
極東リアリズ
25
近くて遠いマジックリアリズム│黄泥街 ⋮⋮
あまりに宮下あきら的な小泉政権 ⋮⋮
⋮⋮
宮下あきら著﹁民明書房大全﹂書評
消費されない幻想の少女 ⋮⋮
Ⅱ
7
30
松浦理英子をめぐって ⋮⋮
﹁ナチュラルウーマン﹂の性は? ―
⋮⋮
松村栄子著﹁詩人の夢﹂書評
ニコルソン・ベイカー著﹁フェルマータ﹂書評 ⋮⋮
70
62
53
37
28
3
79
82
中上健次への返信c /w 売春のボディ・ポリティクス ⋮⋮
悪意の爪を立てることで、愛情は確実な存在となる ⋮⋮
85
111
99
レベッカ・ブラウン著﹁体の贈り物﹂書評 ⋮⋮
⋮⋮
レイ・チョウ著﹁女性と中国のモダニティ﹂書評
トリン・T・ミンハ著﹁女性・ネイティヴ・他者﹂書評 ⋮⋮
106
109
棚沢直子編﹁女たちのフランス思想﹂書評 ⋮⋮
干刈あがた追悼 ⋮⋮
一方的な約束 ――
山川健一﹁ティガーの朝食﹂⋮⋮
うすっぺらで大切なロックンロールと家族 ――
ニンギョウトシテノワタシ ⋮⋮
台所のジェンダー ⋮⋮
Ⅲ
⋮⋮
ジャーマングレイの肖像 ⋮⋮
カフカ的アフリカと新しい神話 ⋮⋮
⋮⋮
フェミニズムと多重人格
江戸の最低な奴ら⋮八笑人と七偏人
異邦人のフランス ⋮⋮
116
166
122
134
156
146
131
174
113
119
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目次
英国の頑固で偏屈な作家たちについての考察 ⋮⋮
⋮⋮
湯治場でチュツオーラを考える
だ ――
吉本ばなな﹁TUGUMI﹂ ⋮⋮
性格の悪い女の子は嫌い
ふたりの真面目な女性の夫 ⋮⋮
Ⅳ
リンジー・アベラードの四つの分裂したロマンス
⋮⋮
ルーディ・ラッカーって何だろう
⋮⋮
性描写から考えたティプトリーの性 ⋮⋮
愛しき我がセックス ――
ジェフ・ヌーン ⋮⋮
方法としてのドラッグとファンタジー ――
⋮⋮
エイズ時代のバラード
│
J ・G・バラード著﹁女たちのやさしさ﹂書評 ⋮⋮
M・ムアコック﹁
ペーパーバックをいかにして読むか ――
239
198
231
﹂⋮⋮
Breakfast in the ruin
242
184
246
TWO
SIDES
, るいはありふれた吸血鬼の話 ⋮⋮
OF VAMPIRESあ
9
249
228
210
192
220
201
映画﹁バーバレラ﹂⋮⋮
モダンが終わる頃
からっぽのP・K・ディック ⋮⋮
253
234
Ⅴ
﹁新世紀エヴァンゲリオン﹂をめぐって ⋮⋮
林静一﹁p H4.5グッピーは死なない﹂⋮⋮
コミックの歴史改変の中で ――
花輪和一 ⋮⋮
禁断の銃へのエロス ――
ホラーな絵本 ⋮⋮
⋮⋮
みんなみんな、イギリスだった
アレックス・コックス ⋮⋮
パンクもいつかは大人になる ――
275
この女優のこの一本が好き。⋮⋮
偏愛的フランス映画と女優 ――
⋮⋮
北方領土はいらない
⋮⋮
京都から遠く離れて
自分の中の自然⋮山に登る、そして降りる ⋮⋮
296
282
290
320
279
﹂のアナーキーさがある限り、ぼくたちは大丈夫かもしれない ⋮⋮
PIECE
﹁ ONE
日本的存在 ⋮⋮
ゴジラ ――
268
309 307
クマに会いたい ⋮⋮
⋮⋮
Tokyo
Children ―― ASWAD
マカセナサイ
at Tsubakihouse
324
298
285
322
表紙
駒田佳信
266
10
Ⅰ
︿やみくろ﹀と市場経済
911 と村上春樹
―
村上春樹の好きな作家に、スティーブン・キングがいる。ということは別にしても、村上はしばしば、ホ
ラー小説というスタイルを借りることがある。もっともわかりやすい例を挙げれば、短編集﹁レキシントン
の幽霊﹂にそのいくつかが収められている。
ホラー小説って、ぞくぞくするほどの恐怖を描いた、ファンタジックな面を含む小説だとすれば、村上の
長編のいくつか︵あるいは大半︶はそれに相当する。たとえば、﹁ダンス・ダンス・ダンス﹂はどうだろう
か。ドルフィン・ホテルの 階、羊男がひっそりと住むフロアや、何より五反田君という人物そのものが恐
︿やみくろ﹀は本当に、地底深くから現実に現れることがある。それが1995 年のオウム真理教による
姿だろう。
くろ﹀を抱えていたし、﹁ねじまき鳥クロニクル﹂で語られるノモンハン事件もまた、︿やみくろ﹀の一つの
村上はインタビューなどでしばしば︿やみくろ﹀に言及する。それは、人間の内部のとても深い場所にお
ける、どうしようもない暗黒、とでも表現すればいいんだろうか。五反田君は明らかに自分の内部に︿やみ
ジを利かせて増幅されてゆく。
こうしたぞくぞくするほどの恐怖って、現実の壁1枚むこう側に、ひっそりと存在する恐怖ともいえる。
それは半ばアレゴリーであり、半ば本当に現実だったりする。それはしばしば、ささいな出来事がレバレッ
怖を与える。あるいは、﹁ねじまき鳥クロニクル﹂における、井戸はどうだろうか。
13
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Ⅰ
﹁地下鉄サリン事件﹂であり、その直前の﹁阪神大震災﹂だった。それゆえ、村上は前者に対するノンフィ
クション、後者に対する短編集を書いている。
では、2001年の﹁911﹂はどうだろうか。その一方で、エンロンという巨大なエネルギー企業の破
綻も大きなインパクトをもたらした。後者の場合、市場経済という魔物によって起きたともいえる。911
すら市場に無縁ではない。むしろ、市場経済の魔物もまた、︿やみくろ﹀の一つの姿なのではないか。それ
は、政治ともつながる。そして、村上春樹の小説のポリティカル・フィクションとしての側面につながる、
そんな環ができる気がする。
これから、︿やみくろ﹀をめぐって、ひとまわりしてみたい。
影との戦い
︿やみくろ﹀に似たものを、ぼくたちはあるファンタジーの中に見つけることができる。それがアーシュ
ラ・K・ル=グインによる﹁ゲド戦記﹂の最初の本﹁影との戦い﹂に描かれた死の国の影だ。ゲドは自ら招
いた魔法により、影を呼び出してしまう。そして、この影を倒すために追ってゆく。最後は影を退治するの
だが、ゲドはこの戦いによって、回復不可能な傷を負ってしまう。ゲドはこの傷とともに生きていくことに
なる。
このあと、ゲドは﹁さいはての島へ﹂で、より強大な︿やみくろ﹀と戦い、平和を取り戻す。そして4作
目の﹁帰還﹂でようやく、自らを回復することになる。
ル=グインもまた、村上が好きな作家の一人だし、﹁ゲド戦記﹂との類似点を見出すことのできる﹁空飛
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び猫﹂サーガを村上が訳したということも、偶然ではない、と思う。
年代の学生運動による傷だという指摘もある。だが、︿やみくろ﹀は過去のものではない。
村上が︿やみくろ﹀を意識しはじめたのはいつなのかわからない。だが、﹁世界の終りとハードボイルド・
ワンダーランド﹂ですでに、影によって回復不可能な傷を負った主人公が登場する。それを、村上が過ごし
た 年代から
70 70
年代から 年代に青春期を過ごした人々を全共闘世代という。彼らは敗北したとも言われている。そ
の尻尾は 年代にも残っていた。そこでしばしば使われた﹁権力﹂という言葉は、当時は特定の人々や企
60 60
た。
年代当時のマンガには、﹁闇の総理﹂とかそんなものがしばしば登場していた。例えば、本宮ひろ志
業がいるものだと考えられていた。たしかに、そうした中枢に近い人間はいる。だが、本質はシステムだっ
80
徴的なのは、 年代に連載を再開させたとき、明確な敵を失っていたことだった。それを読んだ、ぼくの大
﹁サイボーグ009﹂ではブラックゴーストという絶対的な悪の組織が登場する。﹁サイボーグ009﹂が象
の﹁大ぼら一代﹂、池上遼一の﹁男組﹂など。あるいは、現在、テレビアニメとして復活した石森章太郎の
70
こうしたテイストは、ぼくが知る限りでは、ジョナサン・キャロルの﹁我らが影の声﹂などのダーク・ファ
な空気が覆っている。ほんとうに、読み進みながら、何か歯車が狂っている感触を味わさせてくれるのだ。
ぼくとしては、﹁ダンス・ダンス・ダンス﹂は村上のもっともぞっとする、ホラー・テイストにあふれた
作品だと感じている。﹁風の歌を聴け﹂から続くストーリーであるにもかかわらず、この作品全体を不気味
のでもある。
︿やみくろ﹀とよん
村 上 は 人 の 心 の 奥 深 く、 絶 対 的 な 暗 黒 の 中 に 存 在 し、 と き に 地 表 に 現 れ る 存 在 を、
だ。それは、性悪説などではなく、人間が人間として生きる上で、疲れのようにゆっくりと成長していくも
学にいたある民青の活動家は﹁もう光線銃じゃ世界を救えないんだよな﹂って、笑ってたっけな。
80
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Ⅰ
ンタジーに近い。キャロルの場合も、主人公はうまくやっているし、物理的に不思議なことが何もないのだ
けど、だからこそ、何かがおかしいということを表現していく。まさに、ささいなことをレバレッジとして
恐怖を増幅させていくのだけど、﹁ダンス・ダンス・ダンス﹂の﹁ぼく﹂もまたそうした恐怖にはまってい
くわけだ。
﹁ダンス・ダンス・ダンス﹂の2つの恐怖を語っておく。まず、小説は﹁ぼく﹂が女性に逃げられたとこ
ろから︵まったく、いつものように、かもしれないけど︶始まる。これを安易ということもできるけれど、
﹁でもその方が、喪失感がクリアだよね﹂。本質は、﹁ぼく﹂が﹁とりたてて変な人間でもないのに﹂
、逃げら
れるほど疲れているということ、傷ついているということ。﹁ぼく﹂は回復のために、いるかホテルをめざ
す。そこで知ったことというのは、﹁これ以上良くはならないし、元にもどることはできないけれど、せい
ぜいこれ以上悪くしないことはできる﹂ということだった。回復不能という事実はそれはそれで恐怖だ。も
う一つは、具体的な殺人事件という形をとる。それが、身近な人間の犯行という。そうした行動をとらせる
だけの︿やみくろ﹀を人間が抱えていること、そこから超自然的な力で助けを求める声が聞えることが、恐
怖を増幅させる。
アメリカでは、村上の作品を優れたポリティカル・フィクションだと評する批評家もいるという。圧倒的
な、しかし目に見えない力の前に屈する人間の姿、ということだろうか。﹁ダンス・ダンス・ダンス﹂の世
界が、とても気が滅入るようなものであるにもかかわらず、しかも個人的な恐怖であるにもかかわらず、い
くら﹁ノルウェイの森﹂の後に書かれた作品とはいえ、多くの人が共鳴する、というのは、それなりに社会
的現象であったはずだ。
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