超優良企業”劇団四季”の経営に迫る

1P
劇団とは芸術である前にビジネス
2006・ 9・25 501号 超優良企業”劇団四季”の経営に迫る
財部誠一今週のひとりごと
私はいぜんから「劇団四季」を経営という視点でとりあげたら、
さぞや面白いものが出来るに違いないと思っていました。しかし
“劇団四季”を分析するためには「経営」がわかるだけでは不十
分で、やはり「演劇」についてもそれ相応の知識をもって取材に
のぞまないと面白みが半減してしまいます。そこで今回、BS日
テレの「財部ビジネス研究所」では、内田裕子をレポーターにこ
のテーマにのぞみました。内田は経済ジャーリストとして勉強中
ですが、その出身は玉川大学の演劇専攻で、自ら舞台に立ってき
ました。内田にとってこれいじょうのはまり役はありません。面
白いテレビ番組ができあがりましたが、テレビだけではもったい
ないので、内田が2週続けて優良企業“劇団四季”の秘密に迫り
ます。
(財部誠一)
※HARVEYROADWEEKLYは転載・転送はご遠慮いただいております。
◆浅利慶太(あさりけいた)氏
学生時代に演劇を専攻していた私が、劇団四季を久しぶ
りに意識するようになったのは、師匠・財部誠一の講演会
1933年、東京生まれ。慶應義塾
に同行するようになってからだ。地方へ出かけるた
大学仏文科在学中の53年、日下
びに見かける同劇団のミュージカルのポスター。最初は
武史、藤野節子、吉井澄雄らと
「キャッツか、懐かしいな」とか「オペラ座の怪人はここ 劇団四季を結成。以来、西欧古
でもやっているんだ」なんて思う程度で、あまり気にもか 典劇、現代劇、創作劇からミュ
けなかった。しかし、日本中のあちこちで「劇団四季」の ージカル、オペラにいたる幅広
存在を発見していくうちに、ひとつの疑問がわいてきた。 い舞台作品の演出、制作活動を
「どうやったら日本各地で数種類のミュージカルを同時期 展開している。『キャッツ』以
にやれるんだろう」素朴な疑問。この劇団って、もしかし 降 ロ ン グ ラ ン 公 演 を 定 着 さ せ 、
たら想像以上にすごい組織なんじゃないか。そう思うと、 新劇場の開場、長野オリンピッ
いったいどんな仕組みになっているのか気になってしかた ク開閉会式総合プロデューサー
を担当。海外では、ベルリン・ド
なくなった。
イツ・オペラ、英国ロイヤルシェ
「もっと知りたい」
そんな問題意識から、今回、BS日テレ「財部ビジネス研 イクスピア劇団ほかの日本初公
演、劇団四季海外公演のプロデ
究所」で、劇団四季への取材が始まった。
舞台役者で食べていくのは大変なこと。これは今も昔も ュ ー ス な ど に 携 わ る 。 近 年 は 、
スカラ座、ザルツブルク音楽祭
変わらない。
「お金というのは魂を売った分だけ手に入れることができ に招かれて演出。
るんだよ」
賞暦:ドイツ連邦共和国功労勲
そう私に教えてくれた人がいる。好きなことをして、自分
章、文化庁芸術大賞、芸術選奨
も楽しくて、みんなも幸せにして、身も心もキレイなまま
文部大臣賞、菊池寛賞、伊アッ
で大金持ちになる。そんな都合のいいことはめったに起こ
ビアッティ賞、中国政府友諠賞
るものじゃないよ、というわけだ。
ほか受賞多数。
なるほど。舞台役者が貧しいのは当然ということね、な
どとその時は、軽く聞き流したけれど、その言葉はじっと
りと私のなかに残っていた。それからというもの、お金持
ちを見ると、つい「この人はどれだけ魂を売ったのだろう
か」と見てしまう自分がいた。
「うん、確かにこの人、魂売ってるわ」という人もいるし、
ごくまれだが「この人は見事な生きざまによって報酬を得
ている人だ」と感じる人もいる。だから前者タイプの資産
家が人生の終わりが見えてきたところで、多額の寄付をし
たりするのを見ると「ああこの人は、売り渡した魂を買い
戻しているのだなあ」などとシビアに見てしまったりする。
2P
世の中は甘くはない。楽しくて、華やかで、
かつ、魂も売らずに多額の報酬を得られる職業
などあるはずがない。そんな奇跡を引き起こす
職業があるとすれば、それは芸術とスポーツだ。
「神に選ばれた人」
芸術の世界でもスポーツの世界でも、そうとし
か言いようがない、輝くような才能に恵まれた
人がいる。この世界で評価されるのはそのよう
なごくわずかな天才だけ。彼らは凡人たちを非
日常の世界に導き、喜びや希望を与えてくれる。
そしてその対価として多額の報酬を受け取って
いる。その陰には考えられないほどの努力や、
天才ゆえの孤独など、試練があってのことだが、
そういったことも無意識に日常の中にさらりと
昇華しながら、平然と生きているのもまた、天
才の特徴のひとつともいえる。
舞台俳優という職業もそうだ。
自分でないほかの人物となって、舞台上で生
きてみせることで、観客に喜びを与える仕事。
自分も楽しい、みんなも楽しい。そんな素敵な
職業だからこそあこがれる人も多いが、ほとん
どの人は夢かなわず、挫折していく。
「舞台役者=貧乏」
その数式を誰もが疑わない。
楽しいことを好きなようにやって、そうかん
たんに経済的に豊かになれてたまるか。そんな
皮肉が多くのサラリーマンから聞こえてきそう
だが、実際、舞台役者は貧乏である。
舞台出演だけで生計を立てることができてい
る人はほとんどいない。
そこに、NOを突きつけた人間がいた。
そんなのいやだ。舞台で食べていきたいんだ、
それにはどうしたらいいのか、と真剣に考えた
人間がいた。劇団四季代表、浅利慶太氏だった。
劇団四季は、営業利益255億円をたたき出す、
超優良企業に成長した。数十億の新稽古場もキ
ャッシュで支払った。むろん無借金経営である。
なぜ、それが可能になったのか取材した。
「芝居で食べていきたかった」
劇団四季の創立は1953年。慶応と東大の
仏文科の学生を中心にして集まった。
当時の演劇活動というと、思想的、政治的な
意味合いが強く、劇団四季もそういった数ある
「新劇団」のひとつだった。フランスの戯曲を
中心に上演し、学生劇団でありながら旗揚げ公
演から大入りで、10万円の粗利益を出したと
記録されているから、最初から集団として今に
いたる素地があったのだろうが、劇団四季をこ
こまで導いた、代表の浅利慶太は大叔父が二代
目市川左団次、父、浅利鶴雄は築地小劇場の創
立にも参加した舞台人で、松竹で社長秘書も務
めた経歴がある。叔父は田辺製薬の社長であっ
た。そういった環境で育ったということも当然
影響しているだろう。
その後、劇団四季は着実に観客を獲得してい
ったが、俳優の懐は別で、やはり貧乏生活は変
わらなかった。一部の団員のTV出演料や先に
社会人になった団員の給料をみなで分け合って
生活する共産社会のようなスタイルをとってい
た時期もあった。しかし、そんなものが長く続
くはずもない。芸術と経済問題の狭間で分裂の
危機が訪れる。どうしても芝居を続けたいとい
う一心で浅利慶太氏が劇団改革に取り組んだの
が59年。どうやったら芝居で食べていく事が
できるのか、考え抜いて60年に有限会社劇団
四季を設立。月給制の試みはこの時期から始ま
った。
なんとか協力者を得ようと奔走していた浅利
氏は、人気作家であった友人の石原慎太郎の紹
介で、東急グループの五島昇社長に会うことに
なる。渋谷の映画館を改装して劇場にしてほし
いという提案をぶつけてみた。それには乗って
もらえなかったが、五島氏の口利きで日比谷に
新しくできる日生劇場の開設にかかわることに
なる。戦後初めての本格的劇場建設だった。浅
利氏は日生劇場の制作および、営業担当取締役
に就任したのだった。
ここが劇団四季、浅利氏の人生の大きな転機
であったことは間違いない。この日生劇場での
経験を浅利氏は次のように語った。
「28歳から日生劇場の経営をやらせていただ
きました。日生劇場というとお役がみんな、金
融機関の方です。数字でしかものが通じない、
言葉が通じないという世界で育てられました。
そのなかで芸術的な仕事をしてきました。だ
から体の半分以上はビジネスの人間であると
いう意識があります」
63年に日生劇場はオープンする。そこか
ら10年間、浅利氏は日生劇場の経営に関わ
るのだが、日本生命という一流企業の経営の
触れた浅利氏個人は、ここで、同人的劇団を
企業に成長させていくマネジメント力を身に
つけ、劇団四季は日生劇場という一流の劇場
を第一の常打ち劇場とすることができ、劇団
のステータスを確立することができた。
60年代、左翼思想、前衛的、観念的に傾
斜していた当時の新劇界。わからないことが
高尚だとする、自己満足で清貧を気取る新劇
団に向かい、フランスの演出家の言葉を引用
しながら、浅利氏は次のように主張した。
「演劇は先ず一つの事業、繁昌する一つの商
業的な企業であらねばならぬ。しかるのちに
初めて演劇は芸術の領域に自己の地位を確保
することを許容される。当たりのない劇芸術
はない。観客が耳を傾け、生命を与えない限
り、価値ある脚本は存在しないのだ。(芸術
性と商業性、現実的なものと精神的なものと
いう)二つの目標を同時に結びつけなければ
ならぬ恐るべき二者選一、それは演劇の地位
をあらゆる追従とあらゆる妥協、時としては
流行との妥協の面の上に置くのである」
そして、フランスの戯曲や硬派な作品を趣
向していた劇団四季は、子供ミュージカルを
手がけるようになっていく。
「とにかく、食べていきたかったんですね、
芝居で。それには独りよがりは駄目なんです
よ。払ってくれる人、食べさせてくれる人を
納得させないと。お帰りになる時にお客様が
観てよかったと言って頂けるような舞台を作
るということでしょう。」(浅利氏)
ここから、ウエストサイドストーリー、キ
ャッツと、劇団四季の経営を不動のモノとす
るミュージカル作品に出会う事になっていく。
(つづく) (内田裕子)
◆四季株式会社概要
・劇団創立:1953年
・有限会社劇団四季設立:1960年
・四季株式会社設立:1967年
・資本金:4億9725万円
・社員: 208名(平均年齢31.5歳)
・営業利益:255億円
・専用劇場:9つ
【東京 浜松町】
JR東日本アートセンター
四季劇場(春)・(秋)
【東京 浜松町】
JR東日本アートセンター
自由劇場
【東京 汐留】
電通四季劇場(海)
【東京 大崎】
キャッツ・シアター
【名古屋東山線・鶴舞線
伏見駅近く】
新名古屋ミュージカル劇場
【京都 JR京都駅ビル内】
京都劇場
【大阪 梅田】
大阪四季劇場
【福岡 博多】
福岡シティ劇場 ・年間観劇者数:310万人
・年間ステージ数:約3000回
・人気作品公演回数:
(2006年7月30日現在)
「キャッツ」 6378回
「ライオンキング」5000回
「オペラ座の怪人」3962回