2014 年 10 月 29 日(水)開催

2014 年 10 月 29 日(水)開催
「サンガの集い」釈 徹宗先生ご講演録
お寺とお坊さんについて考える‐場と関係性‐
未来の住職塾の発足の当初からずっと応援をしております。松本さんの構想の段階から話
を聞いていましたので、コンセプトや運営姿勢はよく知っています。けっこう地道に広報
活動をしているんですよ。
今日の皆さんの中でも、やはり「リクツはわかっても、実行するのは難しい」という意見
が複数でました。なるほどだからこういう終了後のフォローアップの取り組みが大切なん
だろうなと、あらためて感じました。
私自身も何か新しいことをやるときには、「モデルと出会う」ということと、「同じ方向の
志を持つ人と出会う」ということ。その二つが揃わねば、なかなかできないと実感してい
ます。
そのあたりを含め、とにかく今日は雑多なことを申しますが、皆さん各自でうまく話を拾
っていただければ幸いです。
さて、今日は「お寺とお坊さんについて考える‐場と関係性‐」というタイトルにしまし
た。この「場と関係性」は、ジョン・ネルソン氏というアメリカの文化人類学者とのやり
とり出てきた言葉です。初めてネルソン先生と会ったときに、彼は「日本のお寺に行って
も、仏教は分からないですよね」って言ったんですよ。ちょっと、かちんときて、「日本各
地の一般的な末寺には行きましたか?もしかしたら観光寺院ばかり行ってるんじゃないで
すか」と嫌味を言ってやったんですよね。
それからしばらくしてネルソン先生にまた会ったとき、彼は「各地の末寺に行きました。
やっぱりすぐには仏教がわかるという感じではありませんでした。でも日本のお寺が仏教
の重要なところを体現しているのはわかってきました。それあ『場と関係性』ですね」と
言うんですよ。うまいこと言うなと思って、それ以来、ときどきこの言葉を使っておりま
す。
まずは、「現代人の宗教への態度」の特徴についてお話しをします。
1970年代の頃に、社会学で「セキュラリゼーション(世俗化)」という理論が使われて
いました。社会の制度やサービスが成熟していくと、宗教が表舞台から撤退していくとい
う理論ですね。ところが、そのような理論に反して、80年代くらいから現代人は宗教を
求め始めるのです。これを「宗教回帰現象」と呼びます。この頃人々が足を運んだのは、
伝統的な教団よりも、どちらかというと小さなサークルみたいな集いでした。瞑想や神秘
体験が求められる傾向が強くなりました。臨死体験なども盛んに取沙汰されます。これら
はアメリカのニューエイジムーブメントの影響が強かったんですね。オカルトがブームと
なり、一方ではトランスパーソナル心理学のような取り組みもあった。
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
やがて、アメリカのほうではこういった動きは沈静化してしまいました。その後、保守の
リバイバルが起こり、エバンジェリカルズ(福音主義者)が台頭します。
日本ではこのニューエイジムーブメントが精神世界ブームなどとも呼ばれ、その後もなが
く続きます。それが90年代のカルト事件の続発で、この流れがぺしゃっとつぶれるんで
すね。世界各地でカルト事件が起こり、とどめは95年のオウム真理教事件です。そこで
現代人は潮が引くように宗教から撤退するのです。
しかし、現代人が宗教を求める気持ちはずっと底流していたようで、2010年くらいか
ら、伝統仏教が注目されるようになるんです。今、ちょうど松本さんが各方面で活躍して
いるような状況へとつながるんですね。「伝統仏教ならカルトじゃないから安心」みたいな
ところもあるんでしょう。また、東日本大震災後のような不安状態におかれると、人間と
いうのは伝統的な知恵に耳を傾けようとすることになるんでしょう。
つまり、今、伝統仏教が好意的に受け止められている状況だというわけです。ところが、
皆さん思い出してください。大震災の前年、2010年は伝統仏教バッシングの年だった
んですよ。お葬式に平均200万円以上もかかる。こんなバカな国は他にない。いったい
誰が悪いんだ。坊さんやろ、寺やろ、と。大バッシングでした。ところが2011年に大
震災がおこって、手のひらを返したように伝統仏教を褒めるようになった。どうしてコロ
ッと評価が変わったか。それはこのときに、伝統仏教教団やお坊さんたちが公共性を発揮
したからです。つまり、現代人・現代社会が宗教者に何を求めているかと言えば、公共性
なんですね。それは間違いないでしょう。
では、今まで伝統教団に公共性がなかったかというと、そういうわけでもありません。む
しろ精一杯やってきた面もある。でも、それは「メンバーシップ内の公共性」が主となっ
ていました。つまり、檀家さんや信徒さんに対しての公共性。それはけっこうがんばって
取り組んできたのですが、現代人・現代社会が求める公共性は不特定の人や別の信仰をも
っている人などに対するものなんですね。
さてそんな中、現代人の宗教への態度ですが、ひとつの特徴として「道具化」を挙げるこ
とができます。
ひとつの体系をずっと歩み続けるというのではないんですね。かつて、お説教やご法話は、
長年聞き続けることを前提としていました。でも、これからは一回である程度完結したコ
ンテンツを提供することが求められるようになります。これもある意味、道具化的な態度
でしょう。ひとつの道をこつこつと歩くのではなくて、今、自分の苦しみに合った宗教情
報を手に入れたい、ということです。道具箱から道具を取り出すように、自分の抱えてい
る苦悩に合うものを求める態度です。
さらに「無地域化」を挙げることができます。かつては地域の宗教性というものがあり、
寺と檀家は土地でつながっていました。土地でつながったり、死者でつながったりしてい
ましたね。お墓とかお骨とか。あるいは儀礼でつながったり。大阪なんかは毎月の月参り
でつながっているんですから。月参りさぼったら簡単にお寺を変えられてしまうという恐
ろしい土地です。
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
ところが、次第にそういう地縁・血縁によるつながりではなくなっています。たとえば、
ネット上の情報で十分という人だっている。いわば宗教の情報化、消費財化です。
これらを合わせて、「宗教の個人化」と言えるかもしれません。何かの宗派に所属するとい
うことにはあまり興味がない。親鸞には興味があるけど、真宗の門徒になる気はない。現
代人の宗教への態度はそういう傾向が強くなっています。
前置きが長くなりました。それではお手元の資料にそってお話を続けていきます。まず、
[1]の「お坊さんの方向性」を見てください。
先ほども言ったように、別の道を歩んでいる人とどのように共感していくか、がひとつの
ポイントとなっています。その意味では、対話能力が不可欠です。どこの教団でも伝道に
ついてはいろいろと取り組んでいますが、とりあえず「伝道のコミュニケーション」と「対
話のコミュニケーション」を分けて考えたほうがいいんじゃないでしょうか。そもそも「伝
道コミュニケーション」はほっといても発達するんですが、「対話コミュニケーション」は
意識的に取り組まないとなかなか発達しないんですよ。
以前、ウチのお寺にも「ものみの塔」の人たちが何度か来ました。私は「私は私の信心が
あるので、あなたたちの伝道の話を聞く気はないんですが、せっかく来たんですから宗教
間の対話しましょう」ともちかけたんですよ。そしたら全然できないんです。伝道に関し
ては立て板に水のようにすらすら話すんですが、対話のコミュニケーションができない。
でも、我々もそういうところがあるはずです。そこで意識的に対話コミュニケーションを
成熟する取り組みが必要です。どこまで相手の宗教を尊重して対話するか、この感性を養
わねばならない。
これから国内のイスラムの人がますます多くなる。その人たちの宗教性をどう尊重するの
か。まずは他宗教を学ばなければならないでしょう。でも、学んだからといって対話能力
が上がるかといえばそういうわけでもありません。以前、アブグレイブ刑務所でムスリム
にブタを食べさせたり、犬のかっこうをさせたりする虐待が起こりました。こういうふう
に、知識があるからできる虐待というのもあります。他の人権と同様、宗教的人格権を尊
重しなければなりません。また、以前、新型インフルエンザをブタインフルエンザと呼ん
だ時期がありました。それをうけて、エジプト政府が国内のブタを全部殺処分にすると発
表したんですよ。イスラムの国にブタはいらない、という理由でした。でもエジプトはな
にもムスリムだけが暮らしているわけじゃないですからね。そういう政策は、自分たちの
宗教的人格権の拡大解釈です。
つまり、どこまでが侵害の領域で、どこまでが過剰な主張であるのか、この線引きはかな
り難しいのです。この線引きがわかるためには、宗教的センスが必要なんですよ。宗教的
センスを磨くというのがこれからのお坊さんの課題だと思っております。
次に[2]として、仏教が提示するもの、とあります。仏教が目指すのはどういう場なので
しょうか。仏教は現代人や現代社会に何を提示するのでしょうか。このキモの部分を意識
することが大切です。
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
私たちは、いつも「役に立つとか立たないとか」「損とか得とか」「敵とか味方とか」、二項
対立の構図で暮らしています。お寺は、その二項対立をいったんカッコに入れる場を目指
さなければならないのではないでしょうか。これは社会制度やサービスとはことなる、お
寺という場の特性であるはずです。
別の言い方をすれば、「自分というもの」のバリアをはずす場ということでしょう。私たち
はいつも「自分というもの」を守るためにのバリアを張って暮らしています。無防備にな
ると、いろんなものが侵入してきて、傷つくことになりますからね。バリアを張って暮ら
しているわけです。でもいつもバリア張っていると、心が錆びてきます。だからこそ、い
かにバリアを降ろすことができる場をクリエイトするか。その辺りに仏教ならではの場の
特性があるに違いありません。
時間の都合で、[3]や[4]を飛ばします。「4方向の取り組み」というところを見てくださ
い。
ここに集まっている人たちの強みは、伝統教団であるというところにあります。伝統教団
の強みというのは、裾野が広いところです。裾野が豊かなんですよ。山は高ければ高いほ
ど、裾野が広くなります。ずっと長い間やってきただけあって、裾野にいろんな花が咲い
ているんですね。伝統教団が生み出してきたさまざまな文化や芸術や芸能など、そういう
ところに注目したいと思います。大雑把な話ですが、三重の同心円で説明しますと、真ん
中に仏教のコア部分がある。その周りには、仏教のコア部分を汲み上げるポンプみたいな
装置がある。これが宗派です。そしてその外側には、宗派が生み出してきた文化なんかが
あるんですね。おもしろいのは、二重目の円の境界と三重目とはピッタリあってないんで
すよ。つまり宗派と、そこから派生する文化とはちょっとずれていたりする。だから、三
重目とうまくリンクすれば、宗派の境界が変化するんですね。それもあって、ここに注目
することをお勧めしています。
たとえば真宗だったら、御斎文化なんかもおもしろいです。真宗の食文化です。とにかく、
各宗派が生み出しているものがたくさんある。伝統教団だから生み出してきたものにアク
セスしていきましょう。
さてそこで、これからのお寺やお坊さんの取り組みを、4方向で考えてみます。ひとつは、
内向きの方向性。ふたつは外向きの方向性。3つは草の根的取り組み、4つは宗派マター。
最初の、内向きの方向性は「内向きのバインド」と表現してみました。これまでやってき
たように、同じ道を歩む人同士のバインドへの取り組みですね。ポイントは、「帰属意識」
です。
日本は宗派仏教の形態になっています。禅なら禅の宗派、念仏は念仏の宗派、密教は密教
の宗派、法華経は法華経の宗派などと、それぞれ特化しているのは日本仏教の特徴です。
これにはいいところも悪いところもあります。
宗派仏教の特性として「明確な帰属意識」があります。この帰属意識ってのがバカになら
ない。明確な帰属意識は我々の生きる力を根源的に支えてくれたりするんです。
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
心理学に帰属理論っていうのがあります。たとえば、高速道路が渋滞していると、いらい
らしたりしますでしょ。そこに「事故渋滞2キロ」などと表示が出ると、ちょっとストレ
スが低減します。我々の心のメカニズムは、原因がどこかに着地しなければ、不安になる
んですね。なんだかわけがよく分からないような事件が起こったりしますと、犯人の生い
立ちから性格分析からさまざまに報道して、とにかく理屈をつけようとします。原因が特
定できなければ、社会も不安になるんですね。そういう「どこに原因を帰属させるか」を
考えるのが帰属理論です。
大別すると帰属には2種類ありまして、「内的帰属」と「外的帰属」です。内的帰属という
のは、自分に原因を帰属させるということです。なにか失敗すると、自分の能力とか判断
とか性格とかに原因を帰属させる。一方、外的帰属は環境や社会のせいにするとか、自分
以外のものに原因を帰属させるというものです。
この帰属というのが適切だと、私たちは不安を低減して暮らすことができます。でも、帰
属ミス、帰属のエラーばかりしていると、社会適応が難しくなります。
さて、問題はこの次です。実は帰属理論で有名なハロルト・ケリーという人が、「内的・外
的のほかに、第3の帰属があるんだ」と言います。
そしてそれは「宗教的帰属」です。そしてケリーは、最も生きることを支えてくれるのが
これだと言うんです。そういう意味では、宗派仏教の帰属意識というのはあなどれないの
です。もちろん、帰属意識が起こす具合悪い面もあるんですけど、少なくともしっかりと
した帰属の足場があるということは重要です。また、同じ帰属意識をもつ者同士のバイン
ドも大きい。
それと「内向きの方向性」の大きな要素としてエトスがあります。宗教を支える柱に「教
え」がありますよね。でも宗教はそれだけじゃ成り立たない。宗教的情念とか、宗教的感
情みたいなものがある。「教え」と「情」です。
うちのお檀家さんに東本さんというおばちゃんがいてはるんですよ。若いときからずっと
お説教を聞いていて、立派なお同行です。私がまだ学生の頃ですから、東本さんは五十何
歳くらいだったでしょうか、1番下のお子さんが末期がんで亡くなりまして。その後、数
か月してから、東本さんのお宅へ月参りに行ったときのことです。いつも私の後ろにすわ
って、一緒に勤行されるのですが、後ろで「しかし、あかんなぁ」って言うのが聞こえた
んですよ。それで、勤行が終わってから「さっき、あかんとか言ってましたけど、なんの
ことですか?」と聞くと、「いくらお説教聞いても、自分などはまるでダメなんだ」って言
うんですよ。自分は何十年もお説教を聞いてきた。そしていくどとなく、「仏さまにお願い
ごとするのは間違っている」って教えてもらったっていうんですね。まあ、それはそうな
んですよ。自分の都合を仏さまに押し付けるようなものですからね。
「そう聞いてきたのに、
いざ末の息子が末期がんだと聞いたら、毎日毎日、朝に晩に、なんとか助けてくれってお
願いした。だから、私などは、いくら仏法を聞いてもダメなんだ」という話だったんです
よ。
しかし、私はこの話を聞いて、感動しました。少なくとも、ダメだとは思いませんでした。
東本さんは、ずっと聞いてたからこそ、「あれほど聞いてきても、いざ自分のこととなった
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
ら『そうはいかない自分』が見えた」わけです。仏法を聞いてなければ、お願いごとをす
ることがダメかどうかも考えないでしょう。「教え」と「情」とが、同時に働いたからこそ
見える光景があるのです。
とまあ、「教え」と「情」の二つについては、けっこう皆さん気がつくのですが、私はもう
ひとつあると思います。それは「習慣」です。「教え」(ロゴス)と「情」(パトス)と「習
慣」(エートス)、この3つが宗教の屋台骨を支えていると思うのです。どれが欠けても生
き生きとしたダイナミックな宗教にはならない。
たとえば、三重県にはお葬式にお赤飯をたくところがあります。真宗の熱心な地域には、
たまにあるんです。お葬式は悲しい時ではなく、浄土へ往生したお祝いの時だというリク
ツですね。しかし、この地域のユニークなところは、赤飯と一緒に辛いからし汁をつくる。
いかに往生の教えをいただいていても、実際に愛する人を失った悲しみはいかんともしが
たい。だから、からし汁が辛いという体で泣く。これを知って、なんと人間の機微がわか
った習慣なんだろうと敬服しました。往生のお祝いだからとお赤飯炊くというのはロゴス
の領域です。でも、からし汁で泣くのはパトス。ロゴスとパトスがひとつとなって、お葬
式にお赤飯とからし汁をつくるエトスが生まれた。見事です。
エトスというのはけっこう当事者は気づかないんですよね。私などが見ると、すごいと思
うことも、その地域の人はたいして意識もせずに前例踏襲的にやっているだけだったりし
ます。だから、その地その地のエトスについて、住職が着目して、説明していかねば簡単
になくなってしまいます。なにしろ現代人は意味のないことをやるのがすごく苦手になっ
ていますから。住職自身がきちんと解読して、意味づけをしていかないと、ただのめんど
くさい習慣になって、やがては消滅します。今、住職は各地のエトスについて再解読せね
ばならない時期をむかえています。
二番目の「外向きの方向性」「外向きの共感」は、先ほどもいったように、別の道を歩む人
の共感。別の道を歩んでいても共感できますんでね。そうでないと、なかなか公共性は発
揮できない。
三番目が「草の根の方向性」です。ボトムアップといいますか。皆さんが先ほどやってお
られたワークショップのような形態ですね。これから有効なスタイルだと思います。ある
いは、カフェ型のスタイルですね。もう今は、有名講師を呼んで文化会館に2000人集
めても、新しい可能性が展開する気はしません。もちろん、そういう企画もメンバーシッ
プ的には大事ではあるんですけど。そういうのだけじゃなくて、草の根的スタイルのほう
に何かこれからの可能性あるような気がするんです。たとえば、Facebook で何月何日どこ
どこで「仏教カフェ」します、と告知すると5~6人ほど集まったりします。この5~6
人は、お寺に来ないけど、仏教に興味がある人なんですね。
この前、岐阜県の美濃四十八座に呼ばれて行ってきました。何ヵ寺か集まって、一年で四
十八回の法座をやっている。何か所かのお寺で開かれるので、参加者もこれまでご縁のな
かったお寺にも足を運ぶ。いわば、昔の「講」と同じような形態です。地縁・血縁はない
けど、法座の縁がつながる。同じ志をもつお寺が連携すれば、こういうやり方も可能とい
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
うわけです。
さて、四番目として「宗派マター」というのを挙げております。宗派規模の取り組みでな
ければ動かせない案件もあります。宗派単位だからこそできる取り組みをやらないと、末
寺が宗派に属している価値は次第になくなっていくでしょうね。これから単立寺院が増え
ていくんじゃないでしょうか。
たとえば、これからお寺の統廃合が進んでいきます。江戸時代は16万か寺あった寺院が、
今は半分以下。それでもすごい数ですが。そして、これからもっと短い期間でさらに半減
するかもしれない。そこで、宗派がお寺の統廃合をデザインする、などといった事態が起
こるかもしれません。住職がいないお寺も増え続けていますので、ひとりの僧侶が3つの
お寺の住職を兼務するなどということも、しばしばみられます。各地域にある中本山や別
院などが、うまくコーディネートする役目を果たさねばならない場合もあると思いますね。
浄土真宗本願寺派でユニークな方式があるんですよ。鹿児島市内にある浄土真宗のお寺2
8か寺は、鹿児島別院が住職を派遣しているそうです。各住職は別院から給料がもらえる
ので、わずかな軒数しか檀家さんがない小さな寺院でも、やっていける。こういうスタイ
ルにも何か有効なヒントがあるように思います。そしてやはりこういう取り組みは宗派単
位でやらねばならないでしょう。あるいは社会問題に対する発言なども、宗派規模だから
できるものもあります。
とまあ、この四方向をそれぞれ特性別に取り組むという四方向理論ってのを考えてみまし
た。それを念頭においてもらったところで、少し具体的事例についてお話をします。私自
身、具体的なモデルと出会うことで動き始めることができた、という経験がありますので、
さまざまな事例を提示することの重要性をよく知っています。とにかく自分の経験から言
いますと、事例・モデルの出会いと、人との出会い。この二つがそろわないと、新しい取
り組みを始めるのはなかなか困難です。ですから、よく「お坊さんこそお寺へ行こう」な
どと提言しています。なにしろ一口にお寺といっても、かなり事情は異なります。都市型
寺院と村落型寺院では、かなり違いますよね。また住職や寺族の特性など、さまざまな要
因がからみあいますので、同じ宗派でもお寺によってずいぶん相違点があります。では順
に写真を見ていただきましょう。
これは韓国の病院です。特徴的な取り組みをやっているのでご紹介します。韓国では、国
立・公立の病院においても、各宗教の部屋があるんですよ。仏教徒の部屋、クリスチャン
の部屋、クリスチャンの部屋はカトリックとプロテスタントに分かれています。儒教徒の
部屋がある病院もあって。この写真はソウル大学の仏間ですね。そして、カトリックの部
屋。この写真は、アサンという地域にある病院です。廊下に沿って、仏教徒の部屋、クリ
スチャンの部屋、と並んでいます。
朝と夕方にはきちんと勤行があります。常駐の尼僧さんがおられ、法話をしています。ま
た、患者さんの話を聞いたり、患者さんの家族の話を聞いたりしている。ときには患者さ
んの部屋に行くこともあるそうです。
考えてみますと、日本の病院って、家族の居場所ってありませんよね。でも韓国の病院で
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
は、こういう宗教ごとの部屋でお祈りしたり、話を聞いてもらったりしている。いい取り
組みだと思います。
次の写真は、NPO 法人・寺子屋「轍」の活動です。この NPO の主催者は、中学・高校と不登
校だった男の子です。ちょっとした縁で、ここ應典院の「小僧インターン」になって、そ
の後、大学の受験資格を取得して大学生となり、今はこの「轍」の活動をしています。彼
を子供の頃から知っているのですが、頭もいいし、活発だし、社交的なのに、なぜか不登
校になったんですね。本人に話を聞いてみると、「学校に行っても真面目な話をできる人が
いない。ずっと相手に合わせて軽いノリの話ばかりしていて、疲れ果てた」というのが不
登校の理由でした。それで應典院で小僧をしてみたらどうだと勧めたんです。
「轍」は普段、京都で子供たちをサポートしているのですが、東日本大震災の際には東北
へ行きました。各地のお寺の本堂を借りて、寺子屋活動をしたんです。ありがたいことに
多くのお寺が協力してくれました。現在、「轍」が引き上げた後も、活動が続いているお寺
もあるそうです。
これは大阪府柏原市の「ドレミファごんちゃん」という活動の写真です。この地域は昔な
がらの古い地域の人と新しい人が混在しているそうです。そこでお寺が空き家を使って「子
育て支援」を始めました。これが好評でして。今は柏原市が協力を申し出て、公的な活動
にまで展開しています。地域の事情を詳細に把握しているお寺ならではの取り組みです。
こちらは生前個人慕「自然(じねん)」の写真です。應典院の親寺である大蓮寺さんの墓地
の一角にあります。このつい立ての向こうに納骨できるようになっていて、その前には下
草を張ったスペースがあり、そのどこか好きなところに墓石を置く。そんなスタイルにな
っています。この方式だと、わずかな土地にたくさんの人のお墓ができるんですね。しか
もかなり安価で。
生前個人墓ですから、ひとりひとり自分のお墓を購入することになります。単身暮らしが
多い都市部ではぴったりの方式です。今は「お墓はほしいと思うけど、自分が死んだらそ
のお墓の面倒を見てくれる人がいない」という人が少なくない。ところが、「自然」の人た
ちは、単にお墓を購入するだけでなく、「自然」というお墓購入者のグループに入ることと
なるんです。「自然」の人たちは、きちんと帰敬式も受ける。そして、みんなで法話を聞い
たり、旅行したり、会食したりしている。これぞ「お墓コミュニティ」ですよ。お墓のあ
り方を少し工夫することで、とても宗教的なコミュニティへとつなげることができる事例
です。この「自然」の人たちが、みんなで法要を勤める。血縁の人がいなくても、お墓コ
ミュニティの人たちが供養を続ける。
次に、私が住職をしております如来寺の裏の民家でやっているグループホーム・むつみ庵
をご紹介します。むつみ庵は村落型寺院ならではの事例です。
如来寺は、周囲はみんな檀家さんという「ムラ」の形態を基盤とした寺院です。ですから、
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
應典院のような都市型寺院のモデルを如来寺へと持ち込んでもうまく機能しない。逆に如
来寺のやり方を應典院でやることも難しいでしょう。つまり先ほども言いました、各寺院
に合ったモデルと出会う、ということです。
如来寺の裏に植木屋のおじいちゃんとおばあちゃんが暮らしておられました。お二人とも
お亡くなりになられ、空き家になったんですね。お子さんもおられるけど、もうそれぞれ
別の都市で暮らしている。広い庭もあるし、認知症高齢者のグループホームにしたらいい
んじゃないかということになりました。現在7名の認知症の方が暮らしておられます。
空き家というのは、どんな地域にもあります。もともとその地域にある家を使う。そこが
決定的に重要です。ご近所付き合いの延長線上で始められますからね。
ウチの檀家さんには高齢者施設を運営している人もいるし、医療関係者もいる。だから、
檀家さんに協力してもらうことで、シロウトでも始めることができました。むつみ庵には
いくつか特徴があるのですが、ひとつは「古民家改修型であること」、ふたつ目に「檀家制
度を活用」を挙げることができます。家のテーマは「地域に支えられる里家」です。写真
を見てください。田舎の家、って感じでしょう。スタッフの9割は檀家さんでして、ご近
所の方たちです。むつみ庵で 13 名~16 名のスタッフを雇用していますので、地域雇用にも
ひと役かっております。介護保険制度があるので、真面目にやっていれば、しっかりお給
料も払えます。オススメです。やはり、「お寺が主体でやっている」という安心感は、なか
なかのものがあります。
「そんなに悪いことせんやろう」といった感じです(笑)。さらに、
檀家さんが主要スタッフなので、ほぼ同じ顔ぶれで運営していけます。介護の施設はよく
スタッフが変わるんですが、地域の人たちがやっていますからね、スタッフがあまり変わ
らないというのは、認知症の方たちにとって意外と重要です。つまり、日本仏教をダメに
した諸悪の根源のように言われた寺檀制度ですけど、これだけ地域コミュニティが崩れた
社会になってくると、使えるポテンシャルです。
現在のむつみ庵は、活動に共感した若い人たちが来てくれるようになって、ちょうど世代
交代中の観もありますが、みなさんお寺のことも手伝ってくれるのでありがたいです。
もう時間がなくなってしまいました。簡単にまとめます。
やはりポイントは「自分に合ったモデル」と「人との出会い」だと思います。そのために
は、あまり興味のない分野にも関わる、という態度が重要です。いろんなところに首つっ
こんだりする、興味がなくても巻き込まれてみる、という態度が必要でしょう。まずはそ
こからです。これを私、「縁起の実践」と呼んでいます。もちろん縁起というのは、この世
界のあり方を理解するためのひとつの立場、仏教の立ち位置なのですが、それを積極的に
解釈して、関わる態度を「縁起の実践」などと名づけたわけです。
そして、それだけじゃダメでして、もうひとつ、仏教を学ぶ者としては、その活動にしが
みつかない・こだわらないという態度も必要だと思います。これを「空の実践」と名づけ
ました。これは『維摩経』という経典かヒントを得たんですが。「縁起の実践」と「空の実
践」、この二つを意識していただくというのはいかがでしょうか。
仏教は最初期から、フェアとシェアを目指してきた宗教です。私たちの社会は、これから
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved
本格的に近代成熟社会へと突入していきます。社会も私たち同様、加齢していくんですね。
もう日本はハイパーアクティブな成長期を過ぎて成熟期に入っています。そこでの指針は
なにか、それは社会的公正性を担保することと、分かち合うことです。つまりフェア&シ
ェアです。
近代成長期を経て、現代人はすっかり消費者体質となっているようです。本来、消費者体
質へのカウンターとなるべきはずの医療や教育や宗教の領域にまで消費者体質が侵入して
いる。それはかなり具合が悪いと思います。本格的な成熟社会では、そこをなんとか転換
していかねばならない。実際、フェア&シェアの社会の方がピンチに強いんですよ。東日
本大震災でもそうでしたね。大震災後、私は CNN の取材を受けたのですが、「なぜ日本人は
こんな状況でも秩序が壊滅しないのか」と尋ねられました。向こうとしては「日本人が仏
教徒だから」と言わせたかったみたいですが(笑)。やはり、ここ 50~60 年をかけて、日
本の社会が社会的公正性を目指してきた結果だと思いますよ。多くの日本人が社会のフェ
アネスに対してある程度の信頼がある。世界には「社会は公正である」とはまったく信じ
られない社会は少なくない。そういう社会は、ピンチになると出口に殺到して、秩序が壊
滅する。実はみんなが順序よく並んでいれば、全員が助かるんですね。それを頭では理解
できても、行動できない。社会的公正性を信用できないからです。
これからの社会の方向性を提示していくという意味でも、消費者体質を改善という意味で
も、寺院が関われる面があるように思います。
Copyrights 2014 一般社団法人お寺の未来 All Rights Reserved