当時の宗教界は、 ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ

当時の宗教界は、
ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道い
ま盛んなり。
と親鸞が『教行信証』の後序で述べ、慈円が、
念仏宗を立て専宗念仏と号す。(略)このことただ繁昌に世に繁昌強く起こ
りつつ
と『愚管抄』にいっているごとく、法然の専修念仏は興隆をみていた。これは旧仏
教から見ると放置しておけない問題であった。そこで北嶺の念仏停止の決議に答
えた『七箇条の起請文』に発展していくことになるが、専修念仏の勢いというも
のは大きな流れとなって止まることがなかった。
南都北嶺は朝廷に迫って法然教団を弾圧した。
しかし、朝廷の中にも兼実のように法然に帰依している公家は多くいたし、幕
府の要人にも法然門下は幾人もいた。それよりか、朝廷も幕府も専修念仏が邪教
とは思ってもいない。弾圧の対象にならない。そこで南都北嶺の働きかけには言
を左右にして取り合わなかった。
※
当時は後鳥羽上皇の院政の時代である。
後鳥羽院は治承4年高倉天皇の第4子として生まれた。後白河院の孫である。
親鸞より8つ年下である。寿永2年(1183)に平家が安徳を抱いて西に下ったので、
籤(くじ)によって後鳥羽が天子として選ばれ、5歳で即位した。その即位式には
「三種の神器」なしという前代未聞のものとなった。8歳の兄安徳天皇が持ち去っ
ていたからである。安徳が壇ノ浦で滅んだ時、「三種の神器」も海中に沈んだが、
後に宝剣以外は戻ってくる。安徳が壇ノ浦で入水するまでの3年間は『平家物語』
が記すように、「京、田舎に二人の王はましましけれ」という、南北朝時代のよう
に2人の天子が我が国にいるという異常な時代であった。
11歳の時、7つ年上の兼実の娘任子を女御(のち中宮)とし、建久9年19歳の時、
土御門天皇に譲位し院政を開始した。後鳥羽院が院政を始めたのは頼朝が亡く
なる1年前からで、その後20年間後鳥羽院は自由奔放の生活をしていた。この院
政は歴代天皇の中でもとりわけ多芸多能の人で、また性格的に男性的であった。
大変豪快で刀剣刀術を好み、ある時などは宮中に侵入した名のある盗賊を自分
で指揮して捕らえたほどの武人である。そればかりか、蹴鞠、囲碁、双六、相撲、流
鏑馬、水泳、競馬と何でもござれで、特に『新古今集』を撰した当代きっての歌人
でもある。また遊興の人で、離宮をあちこちに建て、当時流行の熊野詣を生涯に2
8回も行ったほどである。歌人の藤原定家も、その著『明月記』によると、後鳥羽院
のお供で宿泊や食事の準備などで、下級貴族とはいえ、あたかも庶務係か独楽
鼠の如く動き回っている。(新妻久郎)